実年とメガネ

実年とメガネ

人間の魅力って歳を重ねるごとに増していくんだ
ほら、あの大木みたいにね


貴方を思う

実年とメガネ 1

いつもの日常

いつもの朝

いつもの空気

いつもの雑踏


同じ毎日の繰り返しのはずだった。


そう、貴方に恋をするまでは…



実年とメガネ




『8時45分発の上り電車にて人身事故が発生したため運行が遅れております。ご利用のお客様には大変ご迷惑をお掛けしております。なお、出発の確認ができ次第ご連絡致します。』


突然、由紀(ゆき)の真上からアナウンスが流れた。
寝ぼけた脳内を駆け巡る単調な駅員の声がした。


「え、遅れるの?」


由紀はワンテンポ遅れで自覚する。
今日は朝から寝坊してこの電車が会社につくギリギリいっぱいの電車だ。
いつもは何本か余裕をもち出発するのが習慣だったが、よりによって今日は出かけるのが遅れてしまった。
原因は、鍵をかけたかという確認恐怖。
かけたのはわかっているが万が一忘れていたらと思うと何も手に付かない性格の由紀。
これは昔からで最近になるとさらに酷くなる一方だった。


はぁ…


ため息が漏れる。
25歳の誕生日を迎えてからより一層拍車がかった気がする。

就職して7年。
事務の仕事にも慣れ、コピーの早さとコーヒーの美味しさには誰にも負けないと自負している。
毎日一番に出社し掃除と皆のコーヒーをいれ暖房を温める。
遅れてくる社員の電話応対も由紀の役目だ。
そんなに
多くない社員の中でひっそりと目立たないように生きてきた。

遅延とアナウンスされていたがどれほど遅れるのだろうか。

周りのサラリーマン達はせっせと会社へ電話を始めていた。


今、電話すると出るであろう社員は上司だろうか。
いつも由紀より少し後に出社し席に座ると同時に由紀が出すコーヒーを楽しみにしている一人だ。


鞄からスマホを探す。



___…あれっ?


ないっ、!



「スマホ…忘れた!?」



頭が真っ白になった。


そんな、!

冷や汗が出てきた。
鞄の内部まで探るがスマホは一向に出てこない。
探る手が震える。

今、車内に監禁状態になっている中で会社へ連絡が出来無いということは無断欠勤になるということ…
無遅刻無欠勤でここまできた由紀にとってまさに絶望的状況だ。



「ど、どうしよう…」



今頃、上司が出社し誰もいない室内に困惑していることだろう。
由紀のスマホあてに連絡もしているだろう。
無情に流れる留守番電話サービス。


あああああ、!!


叫び出したい気持ちを抑え、つり革にぶら下がる。


「あの、すみません。」


突然、背後から声がした。



「___!!はいっ、!?」


裏返った声が出た。
ビクッと肩を震わせて振り返る。

そこに立っていたのは、見知らぬオジサマだった。
スラリとした体にスーツ姿。
ロマンスグレーをかきあげ、メガネを光らせる。
ふわりと笑う。

由紀の反応にクスリと笑ってから、その人は自分の携帯を差し出した。



「もし、良かったら僕の携帯を使ってください。」


差し出されたガラケーを見つめる。



「___えっ?」


「いや、スマホがなくて会社に連絡ができないようでお困りみたいでしたので…」


少し控え目にもう一度携帯を差し出した。


「で、でも…、いいんですか?」



突然の事で呆然としてしまう。
由紀自身、男性と話すなんて職場以外で何年ぶりだろうか。
紳士的なオジサマに対する免疫などない。
変な汗が滲み出る。

いつまで経っても受け取らない由紀にオジサマはポツリと呟く。



「ガラケーは今どきの若者には物珍しいですか…」



「あ、いえっ!そういう訳では…」



我に返り、大きな手から携帯を
受け取る。
スリムなフォルムに何処か懐かしい感触。
待ち受けには何処か綺麗な夕日が設定されていた。


「お、お借りします。」



会釈してから手帳に記された会社へかける。



「あ、城之内(じょうのうち)さん??」



出てきたのは、城之内咲。
後輩だが年上の社員だった。


「電車が遅延していて、遅れます。上司に伝えてくれませんか?」


後輩なのに敬語を使ってしまう。
やはり年上というところにひっかかる。



「あぁ、そうなんだ。おっけー、任せて。」


おまけに、城之内は由紀に対してタメ口を使う。
これも、敬語になる要因だ。


城之内が出たという事は他の社員は殆ど出社したということか。
デシタル時計をみてまたひとつため息が漏れる。



「ありがとうございました。この御恩は忘れません!」



優しく見守っていたオジサマに深い礼をした。


「いえ、そんな大したことはしてないですよ。遅延、困りましたね。」



由紀にクスリと笑ってから頭を振る。
ふわりと香水の香りがした。
柑橘系の甘酸っぱい香り。


あぁ、睫毛長いな。


そんなことをボーッと考える。
何歳くらいなんだろう。


「あ、あの…」



「はい?」



「な、名前を…」


『大変長らくお待たせ致しました。只今より、発車致します。』



その時、由紀を遮るようにアナウンスが流れた。

オジサマはアナウンスの方向に視線を向けてから腕時計に視線を戻す。


一度、遮られた台詞をもう一度言う勇気は由紀にはなかった。
ただ、その横顔に見とれていた。



発車して暫くして目的駅につく。
おおよそ1時間の遅延だ。
扉が開くと一目散に流れ出る波と流れ込む人波でさながら濁流に飲み込まれる小枝の様にバランスを奪われる。

視界が傾いたその時…



「大丈夫ですか、?」



再び由紀の腕を掴む。
ロマンスグレーの髪が揺れた。



「あ、ありがとうございます。」



傾いた体勢を戻し掴まれた腕を見つめる。
その箇所だけ汗が滲み出るのが、分かった。
毛穴が広がる。
顔など見れずただ、ホームまで誘導するように伸ばされた腕を見つめることしかできなかった。



「では、僕はこれで」



ホームに降り立つとゆっくりと腕を離し、振り返りざまに手を降った。



「あ、」



呼び止めるより先に人混みに消える。
お名前だけでも…

まるで、巷の
メロドラマみたいな台詞を呟く。
そんな自分に少し驚いた。


あんな王子様みたいな人、いるんだな。


握られた腕を触りながら、むせ返る人に紛れた。

2

日向(ひなた)さん、遅かったね」



由紀が会社の扉を開けたと同時に上司が顔を覗かせた。


「すみません。」


駅を出てから競歩並の早さで歩いたがやはりいつもより一時間半ほど遅刻した。
肩で息をしながら額の汗を拭う。
真冬の風が流れる汗を乾かせ体温を同時に奪った。



「日向さんの携帯に掛けたけど留守番電話で心配したよ。」


遅延申告書を渡しながら呟く。


「日向のコーヒー早く飲みたいよ。城之内のは不味くて飲めない」



デスク越しに顔を覗かせたのは、同期の久保田(くぼた)だ。
営業職のエースで皆がアクセクアポを取る中今月のノルマを悠々達成し手持ち無沙汰に由紀の仕事を手伝ったりする。
面倒見はいいが、歯に着せぬ態度と言葉がたまに傷だ。



「久保田さんにはいっっしょう、コーヒー淹れませんから!」



城之内は長いネイルを見つめながら不貞腐れて頬を膨らませた。
彼女は後輩というのに由紀より男性社員と仲が良い。
昨年、社員として入社した。
由紀より5つ年上でシングルマザーという噂まである。
しかし真実は語ろう
としない。



「今、コーヒー淹れます。」



城之内の視線を背中に浴びながら、給湯室へ足早に向かった。


「皆の分も頼むよ。」



上司の声がした。



淹れたてのコーヒーの香りが室内に充満した。

トレイに社員分のコーヒーを乗せウエイトレスさながら慣れた手つきで配布する。

城之内にはカフェオレ、砂糖は多め。
散らかったデスクへ置くとギロリと睨まれた。



「日向さんはドリンク担当だから、敵わないよ」



1口含んでからにまりと微笑む。
塗り重ねられたファンデがビビ割れた。



「あ、ありがとうございます。」



皮肉な台詞にも言い返す勇気などなく会釈で交わす。



「当たり前だろ。城之内のコーヒーと一緒にすんなよ。」



砂糖は少なめ、ミルクなし。
久保田は味わうように目を閉じ深い深呼吸をした。

他の社員も各々配られたコーヒーを飲み改めていつもの朝を実感する。
由紀の淹れるコーヒーから仕事が始まるように。



「さて、日向さんも来たことだし、久保田くん。新しい部長も遅延しているんだっけ?」



「そう聞いてますよ。」


新しい部長?


「あぁ、日向さんは知らないか。」



「前の部長、急遽移動になったって」


城之内が得意げに話す。


「不倫らしいよ。」



小声で言っているが、皆にも聞こえるボリュームだ。
しかし、暗黙の了解のように誰一人賛同しなかった。



「はぁ…」


由紀だけが頷く。


「あ、来ましたよ!」



誰かが言った。


扉が開く。
颯爽と入ってきたのは、びしっときめたスーツに身を包み、ロマンスグレーを揺らした長身の男だった。


「あ、」



思わず、ドキリと心臓が鼓動する。


まさか、そんな。


呆気に取られていると、上司の隣へたった男はぐるりと周りを見渡した後ふわりと笑った。
由紀にはまだ気付いていないようだ。


「えー、部長が移動になり今日から新しく来たのが北神(きたがみ)部長です」


「北神(かおる)といいます。皆さん、よろしくお願いますね。」



短い挨拶が終わりそそくさとデスクへ移動する。



「課長凄い気使ってるな」



遠目で見ていた久保田が呟いた。

確かに、北神部長の周りをせっせと飛び回る姿は働き蜂のようだ。



「ゴマすりしてんのね」


城之内もネイルを見つめながら興味無さそうにいう。


「それより、北神部長だっけ?思ってたよりオジサンでショック。若いイケメンなら良かったのに、あれじゃ…」



言葉を濁らすように吐き捨てた。



「そういえば、日向も遅延だったんだろ?同じ電車とかだったりしたか?」



「え、?あ、いや。」



突然振られて何故か否定
してしまった。
由紀自身、まだ鼓動が収まらない。
本当に、メロドラマみたいなことが起こっている現実に驚いていた。


「日向さん。北神部長にコーヒーお淹れして」



課長の声がした。



「は、はいっ、!」



一段と鼓動は増す。

給湯室へ向かい、はたと気付く。
コーヒーと言われたが、砂糖、ミルクは入れるのか?
ブラックなのか?

聞きそびれてしまった。


普通は砂糖ミルクは一対一。
しかし、あの年齢になるとブラックを好むことも多々ある。
砂糖は糖尿病で取れないとか、コーヒーフレッシュは油の塊だから嫌だとか。
しかしながら、甘党もいるのも事実。
営業職の部長ともなれば頭を使う仕事だから脳に糖分だって必要だし。

そう考えると安易にこちらの早合点で作るのはまずい。
まず相手に聞かないといけない。


カップを思ったままあれこれ考えていると、



「日向さん!早くね!」



上司に急かされた。


「あ、申し訳ありません。」



扉を開けると、課長の姿はなく資料に目を通していた。
一瞥した北神と目が合う。
彫りの深い綺麗な二重だ。



「ありがとうございます。」


にこりと笑い資料に目を落とす。



「あ、砂糖とミルクはお好で入れてください。」


悩んだ挙句添えることにした。



「では、失礼します。」


「ちょっと、待ってください。」


「はい?」



呼び止められた背中が熱くなる。



「えっと、自己紹介がまだなので…」


「あ、失礼しました!事務員の日向由紀と申します。今朝は、ありがとうございました!」



深々と礼をする由紀にクスリと笑ってから頭を振る。



「いえ、まさかまた会えるとは思っていなかったので驚いていますよ。これから、よろしくお願いますね。」



「は、はい。」


ぎこちなく笑う。
由紀はどう対応したら良いか分からなかった。
戸惑う由紀をしりめにコーヒーに口を付けてから、小さく頷く。



「コーヒーはブラック派です。」



にこりと微笑む。
由紀はその姿に見とれていた。


いつもの日常が少しだけ変わった気がした。

3

北神が移動になってから1ヶ月が過ぎた。
繁忙期ということもあり、歓迎会なども行われないまま日常が過ぎていく。
ただひとつ変わったのは、由紀にとってコーヒーを淹れることが楽しくなったということ。
毎朝、一番に出社し北神に出すブラックを淹れることから始まる。

それまでインスタントにしていたコーヒーも挽きたてに変えたのは言うまでもない。

長い指先で資料を捲る姿に見とれてしまう。

目が合うとふわりと笑う。
眼鏡の隙間から見える瞳が優しい。



「日向さんが淹れるコーヒーは美味しいですよ。」



書類から顔を上げ微笑む。
鼓動が早くなった。


「あ、ありがとうございます。」



緩む顔を見られない様にお盆で隠した。
まるで、学生時代に戻った様に心は躍っていた。
初恋をした甘酸っぱい気持が蘇る。
他愛の無い会話でもいい。少しでも同じ空気を吸いたいと思う。
会話の糸口を見つけられないまま見つめてしまう。



「そんなに、見つめられると、恥ずかしいですよ?」


熱い視線に気付いたのか、北神は眼鏡を上げた。



「す、すみません!北神さん、眼鏡似合うなと思って…」


苦し紛れに答えた。
薄いフレームの眼鏡は、シャープな顔立ちの北神によく似合っていた。



「ふふ、ただの老眼鏡ですよ。」



いたずらっぽく笑った。
白い八重歯が光る。



「おーい、日向さん!会議始まるからコーヒー6つお願いね!」



現実に引き戻すように課長の声が響く。
夢から覚めた。



「は、はいっ!」


喝を入れる様に返事する。
このままでは、仕事が手を付かない。
長年真面目一筋として勤務してきたんだ。
なのに、最近と来たらなんだ。
ヘラヘラしてしまう。年頃の娘みたいに…

気合を入れろ、由紀。

お盆を頭に叩き部屋を出た。



その様子を微笑ましく見守る北神だった。

その日の午後。
遅めのランチを城之内とする。
コンビニで買ったサンドイッチとカフェオレに対して、手作り弁当の由紀を見て1口頂戴と、言うのが日課だった。


「そうそう、日向さんって今日暇?」



由紀の弁当から唐揚げを摘み上げた。
長いネイルに摘まれた唐揚げは、UFOキャッチャーの様に見えた。
落ちることなく城之内の口へとゴールインする。
器用に使う物だと感心した。



「今日ですか?特に無いですが…」



城之内が由紀のスケジュールを聞く時には決まって残業をしてほしい時だった。
こないだは、隣の部署の新人の歓迎会に呼ばれたといって残業を頼まれた。
その前は、好きなアイドルのコンサート…
その前は、高校の同窓会…
その前は、合コン…
その度に、貸しを作ってきた。
一体今どれほどの貸しが出来ているか正確には分からないが、豪華ディナーをご馳走されるほどはあるかも知れない。

次は、どんな言い訳が待っているか憂鬱になった。



「実は、今日北神さんを誘って女子会するの。ほら、歓迎会とか無かったでしょ?日向さん、仕事早いからあたしのと変
わってくれない?」



「えっ…」



女子会?
北神さんを呼ぶ?
胸が収縮する。



「勿論、日向さんもすぐに合流してよね!」



フォローするように付け加えた。
つまり、参加条件は城之内の仕事を変わること。



「い、いいですよ…」


北神さんと、少しでも接点が欲しい。
今はお茶くみと上司だから…


「さすが!じゃあ、よろしくね!また貸し作ちゃった。」



悪びれた様子もなく席を立った。
残された由紀は冷たくなったご飯を食べる。

今まで人と関わることを避けてきた。
無駄な争いに巻き込まれたくないと思い逃げてきた。
人が絡まれば問題が起きる。
だから、イエスマンになる方が楽と思えた。
しかし、こんなに辛い日が来るとは予想していなかった。
折角、好きな人と仕事以外で話せる機会だったのに…

仕事を押し付けられるなんて。
いや、正確には断る勇気がないなんて。



「はぁ…」



ため息が漏れる。
北神さん、来るのかな。
そもそも女子会が開かれていることにも今日初めて知った。
今までもあったのだろうか。

誘われていないという事は、女子としてカウントされていない事にも絶望した。


「絶対に、終わらせて合流してやるっ!」



由紀にはそれだけの自信があった。
事務作業は得意だ。
決まったことを淡々とこなすのは好きだ。
どうせ、城之内が面倒くさそうなファイル整理などだろう。
早く済ませて、合流出来ないと思っている城之内達を見返してやるのだ。
闘志が燃えた。


「う、うそっ、…」



皆が帰宅準備をする中、城之内から頼まれた仕事に呆然とする。
ファイル整理は想定内だったが…


「ちょっと、溜まっちゃって…。後、明日の会議の資料作成もお願いね!」



テキパキと帰宅準備をする城之内がいう。
うず高く積み上げられたファイルは雪崩の様に、崩れる。
それに、会議の資料作成だなんて…
一縷の望みが消え失せた。
初めから由紀は今回の女子会にもカウントされていなかったのだ。

立ち尽くす由紀を尻目に早々と退社してしまった。



「北神さーんッ!今日、空いてますか?」



パソコンを閉じた北神に詰め寄る城之内。
距離が短い。



「今日、ですか?予定はないですよ。」



「よかった!北神さんの歓迎会も兼ねて皆で女子会するんです!ぜひ、来てくださいよぉー」



「そうなんですか、では、少しだけ参加します。」



「やった!」



二人の会話が痛いほど聞こえる。
聞きたくないと思ってしまうのに…

ファイルを持つ手が震えた。



「日向、お前は参加しないのか?」



「えっ…?」


久保田がデスクから顔を覗かせた。
由紀の前にある大量のファイルに目をやる。



「う、うん。これ、頼まれちゃったから…」



「城之内のやつ!自分が参加したいからって、」



由紀を覗きこんだ。
久保田はいつも由紀を気遣ってくれた。
由紀の変わりに意見してくれたことも何度もある。
由紀にとって兄的存在だ。



「大丈夫だよ。」


「大丈夫じゃないだろ?こんな量、流石に日向だって終らないよ。俺も手伝うぞ!」



腕を捲り頷いた。
その時___


「おーい、久保田!課長が呼んでるぞ!」



「こんな時になんだよ…」



ガラス扉へ吸われた久保田。
暫くして、戻って来た久保田の顔色が冴えなかった。
バツが悪そうに俯く。



「これから、課長と重要取引先に行かないといけなくなった、ついてねぇーな。」



「私は大丈夫だから…久保田君がそう思ってるだけで嬉しかったよ。ありがとう!」



出来るだけ明るく振る舞う。
可哀想なイジメられっ子と思われたくなかった。



「俺は…お前と一緒に居たかった。」



独り言の様に、呟く。

「えっ…何か言った?」


「いいや!、早く終ったら連絡するから!無理すんなよ!いいな!」



出早く支度をして久保田は出て行った。
小さくなる背中を見つめていた。



静まり返った社内。
フロアには誰もおらず暗い廊下が伸びる。
日中は煩い社内も今は死んだようだ。

あれから黙々とファイル整理をしているがまだ半分くらい残っている。
女子会に参加する事がなくなった今は開き直って誰が見ても由紀が作成したと分かるほど丁寧な会議資料を作ることに専念した。
細やかな仕返しだ。
後は、黙々とファイルをパソコンに打ち込んで行くだけだ。単純作業だが、数が膨大過ぎて終わらない。
時計はいつもの退社時刻から2時間過ぎていた。


今頃、女子会も中盤戦だろうか。
そろそろお開きか二次会に行くか選択している頃だろう。


「はぁ…行きたかったなぁー」



本日何度目かのため息をついた。
もう無駄だと分かっているのだが、やはり悔やまれる。こんなチャンス滅多になかったのに…
パソコンを打つ手を止めた。

ふと、北神のデスクに目をやる。
出来た会議資料を北神のデスクへ置きに行った。
綺麗に整頓されたデスクはゴミひとつ無かった。
そっと、椅子に手を掛ける。
レザーが柔らかく手に吸い付く。

いつも北神さんはここに座ってパソコンを打って資料に目を通す。
悪いと思いつつ椅子に腰掛ける。

肌にフイットにする。
北神の香りがした。甘くほのかにバニラが漂う。



「北神さん、いつも何処見てるんだろう…」


視線の先が気になる。
ガラスの向こうに見えたのは...


「あの、デスクって…私?まさかね。」



___バタン、!



「、っ!」


突然、暗闇から音がする。
心臓が突き上げられるほど驚いた。


___ダン、ダン


足音が近付いてる?
逃げ場を失って咄嗟に机の下に隠れた。
誰だろうこんな時間に…
警備の人かな?

でも、こんな所に隠れてる方が怪しいような気もする。



___パチンッ



電気がついた。

えっ…ここに来たの?
ど、どうしよう…

4

息を凝らせて一点を見つめた。
鼓動すら聞こえてしまいそうな程速くなる。
全身の毛穴が開く様に、緊張する。


「あぁ、僕ですが、オフィスに有りましたよ。」



頭上から声がした。


___北神さん!



どうやら、通話中の様だ。
デスクの上を探る雑音が聞こえる。
何やら忘れ物をしたらしい。

ホッと胸を撫で下ろした。
しかし、この状況はまずい。
出るタイミングを完全に失ってしまった。
明らかに今度は由紀が不審者になってしまった。



「あぁ、はい…、いや、僕はこのまま帰らせて貰います。明日の打ち合わせについて練りたいからね。はい、お疲れ様でした。城之内さん達も飲み過ぎないでくださいね。では…」



電話を切った北神はそのまま、あろう事か椅子に腰掛けた。
由紀の目の前に北神の足が近付く。


___う、うそッ!や、やばい…!


足を組み替える。
横切る右足。

デスクの下は思った以上に広く、由紀が四つん這いになって奥まで詰めてもスペースが空いていた。
しかし、これ以上北神が足を投げ出したりでもしたら由紀の顔面を蹴り上げることは間違いない。

そして、覗き込んだ北神と目があって…


___お、終った…


完全に危機的状況下になってしまった。


まさか、足元に部下が潜んでいるとは思わないだろう。
何と思うだろうか。
静まり返った社内でデスクの下に潜む部下。
どう考えても、変態だ。

今度は、冷や汗が滴り落ちる。
視線に入る北神の足首。
ハイブランドの靴下のマークが目に入った。


___あぁ、神様、仏様。た、助けて…!


涙まで出てきた。
どこまでついてないんだろうか。


「あ!北神さん!」



___っ!久保田君?


遠くから久保田の声がした。
息を切らしている様だ。



「あぁ、どうしたんですか?」



「日向、見ましたか?」



___!


汗が止まらない。



「日向さんですか?見てないですよ?もう退社したのではないですか?」


冷静に答える北神。
足はピクリともしない。



「そうなんですかね…、あいつ、メールの返信もないし電話にも出ないんですよ。」



ポケットの中の携帯を見る事は出来ないがきっと夥しい着歴があるに違いない。
久保田は昔から世話焼きな反面お節介な所もある。
勝手迷惑だと他の社員は言っていた。
まさに、今の状況がそうだ。
もし、捜索するなど言い出したら厄介だ。



「そうですか、ここに日向さんが作った会議資料も有りますし、後は、僕に任せて久保田君は帰りなさい。」



「で、でも!もし事故に遭っていたら…!」


「久保田君。落ち着いて下さい。もしかしたら、コンビニに寄ってるかも知れません。携帯だって置き忘れてる可能性もある。」


あくまで冷静な北神。
久保田の暴走を止めて欲しい。


「僕はこのまま、明日の打ち合わせの準備をします。もし、姿が見えなかったらその時は上司の僕が然るべき処置を取ります。」



「は、はい…分かりました。よろしくお願いします。お疲れ様でした。」


上司の、という言葉が良かったのか久保田は大人しく帰って行った。

何とか地獄絵図は回避したのかも知れない。
しかし、そろそろ四つん這いになっている膝が痛い。
まるで、組体操のピラミッドの土台の様に、硬いカーペットの後がくっきり付いていることだろう。
くわえて、埃っぽいのかくしゃみまで込み上げてくる始末。
そろそろ、出ないと体力的に限界だった。



「___さて、日向さん。いつまで、そこにいるつもりですか?」


___ダン、ッ!



「いたッ!」


突然の事で驚き、頭を強打してしまった。
鈍い音が響く。
脳内がシェイクされた。
視界がスパークする。一瞬に真っ白になった視界の中で頭部が熱を帯びた。



「大丈夫ですか?」



北神が起ち上がる。
徐ろに差し出された手を掴んだ。

蛍光灯が眩しかった。



「驚かすつもりはなかったんですが…」



「い、いえ。私こそ、も、申し訳ありませんでした!」



頭を抑えながら必死に謝る。
まさか、バレていたんて…
どう言い訳をしたらいいのだろう。
そもそもいつから気付いていたのか。


「どうして、机の下に?」



「し、資料を置いた時に音がして、びっくりしたら何故か怖くなって、気付いたら机の下にいたんです…」



苦し紛れの言い訳だ。
顔も見れない。
一目散に消えて無くなりたいと本気で思う。



「ふふ、可愛らしいですね。で、僕が座ってしまって更に焦ったんですね。」



「___はい…」


消え入りそうな声で答える。


「由紀さん、僕を見てください。」


急に名前で呼ばれた。
反射的に顔を上げる。

そこには、いつもと変わらない優しい眼差しの北神がいた。
由紀と目が合うふわりと笑う。



「僕は、責めたりしていないんですよ。」



そっと、近付く。



「あ、あの…いつから気付いていたんですか…?」



腕を伸ばせば届く距離まで近寄られ気まずくなった。
話題を変えようとする。



「ん?そうですね。椅子に座ってから書類を見た時でしょうか。社内には人が居る気配がするのに誰も居ない。その時、久保田君が来て連絡がつかないと慌てて分かりました。連絡出来ない状況なんだと、ね。」



じわりじわりと近付く。


「あ、そうなんですね…流石です。」


後退りしても腰には机が当たった。
そっと、髪に触れる北神。



「しかし、感心しませんよ?上司の足元に隠れるなんて…」



長い指が髪を巻き付ける。
強い眼差しが外せない。


「も、申し訳ありませんでした…」



赤面してしまって、また俯く。



「お仕置きが、必要ですね。」


「えっ…」



いたずらっぽい笑みを浮かべた。
由紀に覆い被るように倒れ込む。


___ダン、っ…!



机の上に寝かせられ、腕を掴まれてしまった。
逃げようともがくが片腕で掴まれ、もう片方は腰を引き避ける。
一瞬の事でパニックになる。
パクパク、まるで金魚の様な由紀の頬に触れる。
暖かい呼気が吹きかけられる。
口から心臓が出そうな程苦しい。


「き、き、北神さんっ…、よ、酔ってますよねっ、?」



「さぁ…どうでしょう。」



長い睫毛が揺れる。
レンズ越しの瞳が鋭い。
呼気からはアルコールの臭いはしなかった。

唇が触れそうになる。
由紀は目を閉じた。


「ふふ、今日はこれくらいにしておきましょう。」



フッと体を、離す。
呪縛から開放された様に、体は軽くなる。
逆に心は重くなった。
少し、期待している自分が恥ずかしい。
北神はきっと酔っている。そして、冗談だ。
なのに、何を期待してしまったのか…



「き、北神さんっ…冗談は辞めてくださいよ、」



必死に笑みを作る。
心を見透かされた様で悔しい。



「ふふ、可愛らしいからつい。」



襟元を直し、眼鏡を上げた。



「さぁ、もう遅いです。家まで送りましょう。」


いつもの北神に戻っていた。
何事も無かったように…



「でも…まだ。」


「城之内さんには僕から言っておきます。自分の仕事を押し付けない様に、」


コートを羽織り由紀の背中を優しく押した。
全てお見通しと言わんばかりに頷く。



「僕も今日は帰ることにします。」



それ以上答えさせない様な雰囲気になり、由紀も軽く頷き身支度をした。

そっと、握られた腕を触る。
まだ熱かった。
ほんの一瞬だったが…
あの時由紀に勇気があれば何か変わっていたのだろうか。

由紀は斜め後ろから見える横顔を見つめていた。

5


翌日、いつも通りに出社した由紀はコーヒーを淹れる。
水面に映る由紀は何処かスッキリしない。

家まで送ってくれたが、部屋には上がろうとしなかった。



『ひとり暮らしの部屋に男性を招待するなんて、いけませんよ。』



諭す様に、頭を振る。
下心などなく純粋にもう少し一緒にいたいと思っただけだったが、誤解されてしまった。
下品な女と思われていないだろうか。



___はぁ…



ため息が、湯気に溶けていった。


「おはよう御座います。」


その時、北神が出社した。
いつもの様に、新聞を片手に軽やかな足取りだった。



「お、おはよう御座います。」



北神の顔を見る事ができない。
昨日と同じく二人きりの社内は朝の光を浴びてキラキラしている。
昨晩は一転、心臓が破裂しそうなほど緊迫感を帯びていたのが夢のようだ。



「コーヒーをどうぞ。」



素早く机に置く。
何処か、ぎこち無なさを感じる。



「き、昨日はわざわざ送って下さってありがとうございました。」



「いえ。気にしないで下さい。同じ電車ですし帰る方向が同じですから、」



事務的な回答。
心がチクリと痛くなる。
もう、それ以上話せなくなる。

昨日のあの行動はなんだったのか。
単に酔っていただけなのか。
それとも、深い理由でもあるのか。
家に、誘ったのが不愉快だったのか。

頭の中で負のスパイラルに陥る。



「そうですか。し、失礼します。」



何も聞けないまま部屋を出た。


___私、何してるんだろう。


泣きそうな程辛くなる。
たまらず給湯室へ逃げ込んだ。
狭い給湯室は淹れたてのコーヒーの香りが漂う。
深呼吸をしながら、他の社員が出社するのを待った。


「日向!お早う、昨日は心配したんだぞ!!」



突然、久保田が給湯室に顔を覗かせた。
久保田へ連絡を入れていないことに気がつく。
疲れた表情で隈が目立った。
連絡を待っていたのかと思うと罪悪感が押し寄せる。



「久保田君…ごめんね。心配掛けたみたいで…」



「無事なら良かったよ。俺、死んだかと思って今日は早く出社したんだぞ!」



勝手に殺すなと突っ込みたいが、久保田の表情は真剣だ。
猪突猛進の久保田には何を言っても怒られそうに思った。



「ごめんなさい。今度、ご飯奢るから許して。」



「本当か!?」



目の輝きが戻る。



「う、うん。そんな高い店は無理だけど…」



「やった!約束だぞ!」



無邪気にガッツポーズをする久保田を見ていると由紀まで元気になった。


___同期はいいな


固まっていた不安が少し解れた気がした。



「そう言えば、俺昨日ここに来た時日向居なかったよな。まだファイル整理途中で何処行ってたんだ?」



___、!



痛い所をつかれる。
まさか、上司の机の下とも言えない。



「えっと、トイレに行ってたの…」



苦しい言い訳。
久保田は一瞬、何かを言おうとしたが飲み込んだ。
すぐにいつもの笑顔になる。



「腹壊すなよ。」


由紀の肩を叩き出て行った。


続々と出社してくる社員達。
いつもの朝が来る。
余計な考えは頭の片隅へ追いやり雑務に耽った。
人数分のコーヒーを用意する。
何も一つ変わらない日常。



「ねぇ、聞いた?」


「何?」


「昨日の、北神部長の歓迎会のこと。」



___!



その時、他の女子社員達の声が聞こえた。
薄い壁の給湯室は廊下で話す声が丸聞こえなのだ。
コーヒーを注ぐ手を止めた。
音を出さない様に、壁際へ近寄る。
息を潜めた。



「あんた昨日行ったんだ。どうだったの?」


「それがさ、北神部長お酒一滴も飲まずであたしらばっかり飲んで大変だったの!せっかくシャンパン開けたのにさ!」



___素面だったの!?


持っていたティーカップを落としそうになる。
だったら、昨日の行動は一体…

混乱する頭を必死に戻し、会話に耳を傾ける。
罪悪感などなく、好奇心が支配する。



「そうだったんだ。大変だね。」


「しかもさ、経理のエース知ってる?」


「ああ、高橋さんでしょ?」



「そう、高橋さんが突然、来てね!北神部長とイチャつくの!あれは、絶対付き合ってるね!女の勘。」



___え…



頭が真っ白になった。
経理部の高橋佐和子と言えば、泣く子も黙るエース。
三十路前で部長からも一目置かれており中堅ながら困った事は高橋佐和子に聞けば何でも解決される。
スタイルもよくテニスが趣味で女子社員達からも人気だ。
特定の男性は作らないと噂だったのに…


___まさか、北神さんと…


手の震えは止まらない。
昨日の行動は、冗談?
それとも、遊び?気まぐれ?


意識が遠のいていく。

真っ白な壁が見える。
辺りは静まり返って、真空のようだ。



「ここは…」



覚醒していく。
最後の記憶は、給湯室で立ち聞きしてて…
北神さんと高橋さんが付き合ってるとか聞いて、

我に返り、起き上がる。


「日向さん、気が付いた?」



カーテンを開けて臨時看護婦が顔を覗かせた。



「私、…」


「日向さん、給湯室で倒れたのよ?覚えてない?コーヒー持ってたみたいで少し火傷してたのよ。体調でも悪いの?」



包帯を巻かれた手を見下ろす。
今は心にも包帯が欲しい。
噂話を鵜呑みにするのは良くないと分かっているが、火のない所に煙は立たない。
しかも、相手が高橋さんなら余計に気落ちする。
由紀には敵わないと思ってしまう。
容姿、知識、経験、才色兼備な高橋は誰もの憧れだ。
北神とも釣り合っていると思う。

冴えない事務員とは訳が違う。


「はい…少し、」



憔悴している由紀を見て、気の毒に思ったのか看護婦は何処かに電話した。



「はい…今目が覚めたみたいで…、はい。傷は軽い火傷なので仕事には差し支えないですが…どこか体調が優れない
みたいです。はい…そうですね、はい。」


何度もお辞儀をしていた。
丸くくびれのない背中。ブラウスがピンと張っていた。



「部長が、今日は早退していいとのことですよ。」



「早退…、」



用済みと烙印を押された気がした。
今まで、無遅刻無欠勤の由紀からすれば、早退は汚点。
何があっても避けたかった。
しかし、部長から…
北神から早退を促されてしまった。


帰れ、帰れ、帰れ、帰れ…

脳内で響く。
音を立てて崩れた。粉砕された何かが心を抉る。



「わかりました。部長にお伝え下さい。」



火傷をした手などもはや痛みを感じない。
心も痛みを感じない。
何も感じない。

全ては由紀の妄想。
分かっている。理解しているのに、溢れる涙が止まらない。
視界が歪む。水中にいる様に視界がキラキラ光る。


荷物は看護婦に取りに行かせた。
泣き顔を見た看護婦は何かを察知したのか、何も言わず一人にしてくれた。

出勤する人混みとは反対方向に歩く。すれ違う雑踏はこれから始まる一日に気怠そうに向う。
でも何処か、有意義に見えた。
社会に居場所があるから、でも、由紀は

虚無感が漂う。

見上げた空に、晴れ晴れしい太陽。
皮肉に、おはようと語りかける。



帰宅してからの記憶がない。
散らかった部屋で由紀はただ呆然と座り込んでいた。
テーブルにはアルコール。
普段は飲まないので、帰りにスーパーに寄った。
籠いっぱいにアルコール飲料を買い漁る。
空っぽの心を少しでも満たしたいと思った。

空き缶が転がる。
ビールにワインに梅酒に日本酒…
胃の中でブレンドされて行く。
徐々に理性が途切れていくのが分かる。
麻痺するように不思議と悲しくない。
何をあんなに落ち込んでいたのだろうか。
所詮、仕事でしょ。

脱ぎ散らかした服を跨ぐ。
凄惨な現場の様に、荒れ放題の部屋。
気が付けば、夕刻。
今頃、皆は帰宅している頃だろう。
充実した日々を送り社会の一部として機能したことを喜ぶ。
仕事終わりのアルコールはあんなに清々しいというのに、今のアルコールは重々しく苦かった。


___私、何してるんだろう…



姿見鏡に映る由紀は、荒れていた。
眩暈がする。
そう言えば、アルコール以外何も口にしていないことに気がつく。
冷蔵庫を開けるが何も無い。
オレンジ灯だけが部屋を照らした。
調味料すら切れた冷蔵庫を見ていると、荒んだ由紀の精神状態を反映しているようだ。



「北神さん…」



不意に口ずさむ愛しい名前。
こんなにも、狂おしく思う。
振り回されているにも関わらず、頭から離れることは無い。
恋とは、苦しいものだと分かった。
片思い程、実らず理解されず苦難に満ちた苦行は無い。

頬を伝う涙。
拭う事もせず、アルコールを流し込む。
苦味が口中を支配した。
同時に意識に霧がかかる。
このまま、眠ってしまいたい。
そう思った。


___ピンポーンッ


刹那、呼び鈴が鳴った。
薄れゆく意識が戻っていく。



「こんな時に誰だろう…」



出て行くことに、躊躇した。
セールスなら構っている暇はない。


___ピンポーンッ…ピンポーンッ


まただ。
呼び鈴が鳴る度脳内で反響していく。
頭痛がする。
苛立ちすら覚え、由紀は立ち上がった。


「誰ですか?!」



語気を強めた。
普段の由紀なら絶対に考えられない行動。
アルコールは人を大胆にする。


「日向さん、北神です。体調は大丈夫ですか?」



___ッ?!



扉を隔て北神の声がする。
突然の事で混乱した。



「き、北神さん?!ど、どうして…!」



状況が把握出来ない。



「上司が早退した部下を訪ねるのは当たり前のことです。日向さんなら尚更ですよ。ご飯は食べましたか?差し入れを持って来ました。」



「北神さん…」



胸がいっぱいになる。
ノブを回そうと手を掛けた。


不意に、玄関の鏡に映る由紀と目があった。
目は充血し、髪は乱れ、呼気はアルコール臭く、服は汚れている。
こんな、姿を見せることは出来ない。
ノブ回す手を止めた。


「お気持ちはありがとう御座います。体調は大丈夫です。明日は通常通り出勤します。あの…寝起きなのでドアノブに掛けて貰っていいですか?」



寝起き、嘘をつく心が痛む。
ドアスコープに映る北神は、何かを言おうとしたが辞めてふわりと笑った。



「分かりました。ひと目見たかったですが、仕方ないですね。では、明日待っていますからね。」


軽く会釈をして踵を返した。
小さくなる背中。
見えなくなるまで見つめていた。

暫くしてから扉を開ける。
外の新鮮な空気が由紀の頬を撫でる。
ドアノブには沢山の袋が掛かっていた。
まるで由紀の冷蔵庫を哀れに思った様に、溢れんばかりの食材や飲み物があった。

涙が溢れる。
やはりどんな姿を晒してでも会うべきだった。
後悔が押し寄せる。


その時、突然の眩暈と吐き気に襲われた。
逆流する吐き気に倒れる。
体がアルコールを排除しようとしている様に、震える。
まるでスローモーションの様に、倒れる瞬間が見えた。空が高くコンクリートが近付く。
気が付けば、頬には冷たいコンクリートが密着していた。
立ち上がる気力すら由紀には残っていない。



「日向さん!」



薄れ抜く視界の中で、一本線に延びた廊下の先から走り寄る靴が見えた。
あの革靴は…いつかの机の下で見たのと同じだった。

そのまま、由紀の意識は闇に落ちた。


___トントン、トントンッ



優しい旋律で目が覚めた。
ぼんやりと浮かんだ視界に見えたのは、キッチンに立つ背中だった。
ワイシャツの袖を捲り、包丁でまな板を叩く音。
一定の乱れることが無い包丁捌き。
ずっと聞いていたい音色だ。
まるで子宮の中の胎児の様に、心地良い音色に聞き入っていた。


瞬きをする度覚醒していく。
由紀はいつもの寝室に寝ていた。



「私、…」



確か、廊下で倒れて、近付く革靴を見た所で意識が無くなったような…



___ッ、!!



「痛ッ、!!、」


勢い良く起き上がった由紀に、酷い頭痛が襲う。
こめかみが鋭利なナイフで刺される様に、痛い。
それに口中もパリパリに渇き舌が乾燥ヘチマの様だ。



「日向さん、気が付きましたか。」



キッチンから顔を覗かせたのは、北神だった。
ネクタイは外し、袖を捲った状態で現れる。
手には水が持たれていた。



「き、き、北神さん…?!」



困惑する脳内で考える。
声は裏返り顔は赤面した。
布団を思わず被る。


___北神さんが、私の部屋にッ、!!、



夢の様な現実。

何やら料理をしている。
しかし、北神が由紀の部屋にいるということは、この混沌とした部屋を見られたということ…


___お、終わった…



布団の中で肩を落とす由紀。
そんな様子を微笑ましく見ていた北神は、徐ろに、ベットサイドに腰を降ろす。


「急に倒れたので、心配しましたよ。日向さんを運ぶ際にお部屋にお邪魔させて貰いました。だいぶ、飲んだのですね?しかも、何も食べずに…。失礼ながらキッチンをお借りしお粥を作りました。さぁ、顔を出して…」


由紀は頭を振る。
こんな姿を見せることなど出来ない。
どの面を下げて会えばいいのだろう。
早退し寝起きと嘘までついて浴びる様に、酒を煽り倒れた女など…


その時、布団の上から由紀の頭を撫でた。
大きな掌に感じる温もり。
目尻が熱くなる。



「北神さん…色々、ありがとうございます。一つ、聞いてもいいですか?」



「はい?何でしょう。」



「こんなにも、よくして下さるのは…私が部下だからですか?」



勇気を出して問い掛ける。
こんな大胆な質問をするのは、まだアルコールが残っているからなのか由紀にも分からない。
ただ、布団越しならどんな解答にも耐える事ができると思った。



「答えたら、僕の顔を見てくれますか?」



暫く考えてから頷く。



「分かりました。ここまでするのは、部下だからと言うのは建前です。本当は、由紀さんに興味があるからですよ。」



「え…」



突然、呼ばれた名前。
胸が締め付けられそうになる。



「でも、北神さんには…高橋さんが、」


女子社員達の会話が走馬灯の様に、巡る。
二人は付き合っている。
ギュッと布団を握った。

「高橋くんが、?」


不思議そうな声がする。
首を傾げている姿が目に浮かんだ。



「高橋さんと…お付き合いしていますよね。」



生唾を飲んだ。
じんわりと汗が滲む。
布団の中は由紀の二酸化炭素が満ちており呼吸が苦しくなって来る。
しかし、この答えを聞くまでは是が非でも出ないつもりだ。


「はい。お付き合いしてます。」


___ッ!!



呼吸が止まる。


「正確には、お付き合いしていました。もう、昔のことですが…」



___昔ッ!?



ビクッとなる由紀を北神は悪戯っぽく笑う。
まるで、想像通りの反応を楽しむかのようだ。


「で、でも…こないだの歓迎会に来たって…絶対に付き合っているみたいだって…」



女子社員達の声がこだました。
これではまるで彼女ではないか。
嫉妬に狂った女の様だ。
語気が弱々しくなっていく。



「ふふ、確かにあの時は高橋くんが来ました。ただそれだけです。さぁ、顔を出してください。」



一気に布団を捲られた。



「あ、…!」



呆気無く、布団から出された由紀はライトに目が眩んだ。

髪が静電気で立ち上がる。
久々の酸素は胸いっぱいに染み込み、鼻から抜けた。
息継ぎをする様に深呼吸を繰り返した。



「水を飲んで…」



優しく差し出された水を飲む。
染み渡っていくのが分かった。乾いた大地に降り注ぐ雨の様に、生気が宿る。

北神は満足気に見つめたから、お粥をテーブルへ置いた。
温かい湯気が漂った。
卵粥は久々だ。きっと五臓六腑にしみわたることだろう。
北神が作ったとなれば尚更だ。

飛び付きたい気持ちを抑え、北神に向き直る。
まだ由紀には明快にしておかなければならない事柄があった。
グッと掌に力を込める。


「あの、私に興味が、あるといいましたが…それは…」


___好きという事ですか、?


最後まで聞く勇気は無かった。
俯いたまま、北神の答えを待つ。



「ふふ、こんなオジサンに興味を持たれて迷惑ですか?」



「そ、そんなことはッ!」



見上げた瞬間、北神と視線がぶつかる。
真剣な眼差しに目が外せない。
全てを見透かす様な、瞳。
時が止まった。


そっと、由紀の顎に手添えた。
くいっと上げる。
心臓が爆発しそうな程速まった。

唇が触れるか触れないかで、北神は離し由紀のおでこへキスをする。
柔らかい唇。
甘い薫りがした。



「今度、ご飯に行きませんか?」



耳元で囁かれる。
甘美な香りが鼻孔を刺激した。
一点を見つめ、硬直した由紀はただ何度も頷くしかできなかった。

ゆらり、ゆらり…
茶碗から漂う湯気を見つめていた。

実年とメガネ

実年とメガネ

恋をしたのは、お父さんより年上の上司でした。

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-10-16

CC BY-NC-ND
原著作者の表示・非営利・改変禁止の条件で、作品の利用を許可します。

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