愛妻下

愛妻下

マンネリ夫婦に起きた細やかな奇跡。

愛妻下

紗千の朝は早い。
日の出前には起き掃除洗濯をする。
ご飯のスイッチを入れるのも起きてすぐの仕事だ。

夫はまだ寝室で夢の中。

昨晩も午前様で紗千の隣へ入ってきたのは、つい先程のことだ。
大きないびきをたてて眠っている日は目覚めがいいらしい。
それに呼気からアルコールが蒸発するのだと得意げに話す。

紗千の睡眠時間が削られるのは言うまでもない。


無口な夫と結婚して5年。
式は挙げていない。
世間で言う、ナシ婚。
経済的理由でもない。
強いて言うなれば、出会ってから変わらない日常の中で気付けば同居をし、その延長線上に結婚があっただけだ。
料理の次の工程に移行するように、婚姻に判を押していた。
それが当たり前であるかのように。

周りからは不思議がられる。
なぜまともに会話のない人と共に暮らすのかと。
経済的安定があるわけでも、引かれる魅力があるわけでもない。
愛しているとかお前しかいないとか、一般女性が欲しがる言葉を掛けてもらったこともない。


ただ毎日決まった時間に起き、決まった時間に出勤し、酩酊寸前状態で帰宅する。
休日は、ゲームか寝ている。
時々、ギャンブル
に無駄な投資をする。
紗千とデートをしたのはいつが最後だっただろうか。

セックスレスにも慣れてしまえばなんともない。
性欲など三大欲求のうち一番必要ない。
植物化してしまえば支障も無い。


世間一般から見れば、マンネリ夫婦なのかもしれない。



「はぁ…」



小さくため息をついてから、コーヒーを淹れた。

後、小一時もすれば起きてくるだろう。
朝のシャワーを浴び、新聞に目を通す。主に社会面を愛読するので折り畳む位置には気をつける。
シャツはアイロンが当たってすぐの暖かいうちに腕を通す。
靴下は月曜から日曜まで色分けされており、今日は木曜なので黄色。
因みに虹をイメージしているようだ。
テーブルにはスマホとトレイが並ぶ。朝は決まってコーヒーとトーストとウィンナー。トーストにはバターとガムシロップ。
これがいつものメニュー。


紗千は目を閉じていても作れるほど体がこの一連の動作を覚えている自信があった。


喧嘩はない。
というより、夫に逆らったことがないと言った方が正しい。
なんでも勝手に決めて進めてしまう夫なので異議申し立てする暇がない。
気づいた時には実行されている。

紗千の意思など聞いていないように振る舞う。
だから紗千も従うしかない。

夫と立てろと祖母から口煩く躾けられた。
今は平成だというのも聞かず。
夫を敬い、従い、慎め。
まるで新興宗教のように紗千を蝕んだ。
抗う事を諦めてからは人型ロボットのように何も感じない。
それが当たり前になった。空気になった。


「おはよう。」



メガネを拭きながら夫が顔を覗かせた。



「お早う。」


バスタオルを渡す。
アルコールが抜けない顔で酷く隈が目立つ。
覚束ない足取りでバスルームへ向かった。
ソンビのような背中を見つめる。

棚からビタミン剤を2粒出す。
二日酔いの日は必ず飲む。


カラスの行水で夫は少しばかり覚醒した顔で上がってきた。


「ん」


テーブルへ座りビタミン剤を無言で飲み干すと出された朝食を貪る。
その間に紗千はアイロンをあてお弁当にご飯をつめた。
いつもの光景。
後、30分もすれば一人の時間が来る。
ゆっくりとコーヒーを飲みのんびりできる。
紗千は脳内で反芻しながら作業に没頭する。


「今日は遅くなる。」


玄関で振り返ることなく夫が呟いた。


「はい。」



今日も、でしょ。
心の中で呟く。

バタリと扉が閉まった。


「はぁ…」



本日二回目のため息が漏れる。
今度のは安堵の方だ。
自分のペースで片付けをしながら、夫に出すインスタントコーヒーではなくドリップコーヒーを淹れる。
細やかな区別。
細やかな差福の時。

整理整頓された部屋を見渡しながら、ベランダを開けた。
初夏の風が流れる。
白いカーテンを波が揺蕩うように揺れた。


後、2時間もすればパートが始まる。
主婦のお決まりのような光景。
これで不倫でもしていれば、少し前まで流行ったドラマの様だ。

紗千には到底出来ない。
そんな世界はブラウン管の中だけで十分だ。


つけっぱなしのワイドショーには面白おかしく取り上げられる被害者と加害者。
連日報道されている連続殺人犯。
今季は猛暑になるという予報。
芸能人の密会デート。
主婦の節約レシピ。
下らない内容が垂れ流される。

こうして同じ様な日常をターンしながら老いていくのだろうか。
紗千はながしに立ちながら思った。



『ここで、番組の途中ですが緊急ニュースです!』



突然、画面が切り替わり深刻そうな面持ちのキャスターが映った。隣から素早く渡された原稿を読み上げる。



『今朝、8時半ごろ上り○○電車が脱線事故を起こしました。原因はまだ分かっていません。この事故により上下線ともにダイヤの大幅な乱れがあります。死傷者は10名、怪我人は50名以上。これから増えると予想されています。それでは現場近くの、___』



「え、」


それって、夫の通勤電車なのではないか。
脱線?
死傷者?

の中で反芻する。
鼓動が早くなり脂汗が吹き出た。
手足は震え何も考えられない。

さっきまで当たり前だった日常が音を立てて壊れた。

震える手で夫のスマホへかける。



「お願いっ…!」



祈るようにコール音を聞いた。


トゥルル、トゥルル、トゥルル、トゥルル、トゥルル、トゥルル、トゥルル、、、、、


繋がらない。
コール音が長引けば長引くほど嫌な予感は的中する。


『おかけになった番号は現在電波の届かない所にあるか電源が入っていません。番号をお確かめになってください。』


「う、うそっ…!」


電源が、入っていないなんて!
まさか、そんな。


切れた子機を片手に崩れ落ちる。
歯がガタガタ音を立てて止まらない。
夫が肉塊になっているビジョンが浮かぶ。



「そ、そんな、ことっ、!!」



必死に否定するが、繋がらない電話のように生きているシグナルが感じられなかった。



「お願いっ!!!」



再びコールする。


トゥルル、トゥルル、トゥルル、トゥルル、トゥルル、トゥルル、トゥルル、トゥルル、トゥルル、、、、、、



繋がらない。



『おかけになった番号は、現在電波の届かない___』



「いやー、!!」


叫んだ拍子に子機が飛んだ。
床でバウンドした。

どうしたらいいのだろう!

会社!
そうだ!会社に夫がいるか確かめればいい。

引き出しから手帳を引っ張りだす。
整理整頓された部屋がものの見事に荒れて行く。
まるで、日常が壊れたように。


『はい、○○商事です』


「あ、あの!岡田の妻です!」


『あぁ、奥さん。』


「あ、あの!夫は、夫は、出勤してますか?」



『それが、まだ出勤されていないんです。電話にも繋がらないみたいで、これからお宅へご連絡するところだったんです。』


呑気に話す社員に苛立ちが募る。

今まで夫に対して無関心だった紗千が嘘のよう。



「そんな、悠長なことっ!もしかしたら、あの列車に乗ってるかも知れないのに…!」



『列車、?』



どうやら脱線事故は知らないようだ。
事情を説明
し自分も落ち着かせる。
誰かに冷静に説明すると、今何が必要か分かる。


今度は受話器の向こう側が慌ただしくなった。
警察や消防から連絡があるまで待機することで終わった。

受話器を降ろした時には既にパートの開始時間は過ぎていた。
急いでパートへ電話をかけ休みを貰った。
次の出勤の目処は立っていない。


散らかった部屋を見つめる。
紗千の心を表している様だ。
片付ける気力もなく床へへたり込む。

ワイドショーでは脱線事故一色だ。
どんどん死傷者が増える。
夫の生存確率が尽きるようだ。
生きている心地すらしなかった。



病院から連絡があったのは、それからすぐのことだった。
夫は、定期入れを胸ポケットにしまっていたので身元がすぐにわれたということだ。


「い、生きているんですね!」


受話器の向こう側で深く頷くような相槌があった。

良かった!
命さえあれば、後はなんとでも生きられる。
紗千の中で天にも昇る思いだった。
これからのすべてを捧げてもいい。
退屈な平凡な日々こそ幸せなのだと、今回のことで気付かされた。

会話などなくてもいい。
ただ、生きていてくれればそれでいい。
何度も何度も、流れる涙を拭きながら手早く支度をする。


手短のバックへ慣れた手つきで入れていく。
ゲームでも持って行こうか。
きっと長い入院生活の中で必要になるかもしれない。
そんなことを考えながら病院へ急ぐ。


受付で名前を伝えるとすぐに担当医と話ができた。


『ご主人様は運良く骨折だけですみました。1両目にいたのに奇跡としか言えません。意識も回復し会話もできますよ。』



中年の医師はカルテを見ながら呟いた。

早く夫へ会いたい。
こんな気持ちになったのは、いつぶりだろうか。
出会った頃は毎日こんな気持ちだった。
しかし
、繰り返される日々にいつしか大切な気持ちまで削り取られてしまったのだろうか。

病室まではエレベーターを待つのさえもどかしく思い階段を駆け上がる。
息を止めた状態で駆け上ったが疲れはしなかった。
それどころか、頭の中では天国にも昇る気持ちで一杯だった。
明日は必ず来ると思っていた自分への後悔。
そして、太陽が登る事への感謝。
命の大切さ。
その全てが、幸せだった。

長い廊下を思わず、走りたい気持ちで歩く。

後、もう少し。
後、もう少し。

焦る気持ちを抑えるのが大変だった。



早く夫に会いたい。

扉を前にして、深呼吸をした。
ノブをゆっくりと回す。

光がパーッとさし、紗千を包んだ。
とてもとても暖かい光だった。


病室に寝ていたのは、夫ではなく紗千が静かに横たわっている。
側で見守る夫。



「紗千さん、点滴を交換しますね。」



看護師がカーテンを開ける。
昼下がりの太陽が部屋全体を暖めた。
小春日和が部屋を照らす。



「よろしくお願います。」


夫は小さく会釈し握った手をそっと離した。


「紗千さん、脱線事故にあってからかれこれ3年が経つんですね。今日、ニュースで言っていました。沢山の方が亡くなったって…」



点滴を替えながら看護師が話す。



「そうですね。妻は1両目にいたのに奇跡的に生きているんです。こんな形でも…」


意識が戻らない紗千を見つめた。
人工呼吸器に繋がった紗千。
眠っているように穏やかな表情だ。



「旦那様はずっと側におられるんですね。」


「ええ、あの事故以来仕事も辞めて在宅にしました。妻と…紗千と少しでもこうして居たいんです。きっと、いつか目覚めることがあるかも知れないなんて思っているんですよ。」



「そうですか。あの時は、紗千さんは仕事へ?」


「はい、僕達は世間一般とは逆で紗千が働き、僕が主夫をしていました。仕事がら結婚しても辞めたくないと言っていたので、最近では会話もなく紗千が何を考えているかさえ分かりませんでした。でも僕は、紗千をずっと支えようと思っていたんです。それが…っ」


込上げる涙。悔やんでも悔やみ切れない。
どうしてもっと会話をしなかった。
どうしてもっと愛してると伝えなかった。
自分は紗千にどう映っていたのだろうか。
考えれば考える程やりきれない気持で一杯になる。

流れる涙を拭くのは辞めた。
もう、枯れ果てたと思っていた涙腺がまた緩みだす。



「あ、今…」


不意に看護師が手を止めて、紗千を覗き込む。



「今、確かに紗千さん。笑いました。」


振り返ると、穏やかに微笑んでいる紗千がいた。
今にも目を覚ましそうな…
脳死だとは思えない。



「きっと、いい夢でも見ているんでしょうね。」




そっと手を握る。
幸せであって欲しい。夢の中では…




END

愛妻下


読んで下さりありがとうございました。
初めて書きた小説だったので、ファンタジーの様な、不思議な世界観を表現してみたかったのです。

愛妻下

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-16

CC BY-NC-ND
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CC BY-NC-ND