シャングリラ─奔流─

シャングリラ─奔流─

三部構成の第一部、完結済みです。
2016年2月現在、第二部まで完結済み、第三部連載中。
自サイト「紺碧の空 http://konpekinosora.suichu-ka.com/index.html」より転載。

序章

 小さな港町の酒場には明かりが灯り、家々の煙突からは夕餉の支度の煙が上がる。

 海に大地に、そして全ての命あるものに、惜しみない慈愛を注ぐ父なる太陽の神(ヘウス)が雲たちを従えて引き上げると、かわりに姿を現すのは、プルシャンブルーのドレスに輝く星々を散りばめた月の女神(アイレ)
 月光に照らされた町の広場には、家路を急ぐ人があり、酒瓶を片手に談笑する若者があり、愛を語らう若い男女がいる。
 それぞれが、それぞれの時を過ごし、いつもと変らぬ情景がそこにある。
 石造りの長椅子に並んで腰をかけていた一対の男女の、男の方がふと広場の中央に目を奪われていた。
 男の視線の先にあるものに気がついて、女は不平を鳴らす。
 幾重にも重ねられた薄絹の足元まであるドレス。薄布で覆われた髪と顔。
 ゆったりとした袖口から伸びた腕や、裾からちらりと覗く足首はよく締まっており、肌は地上の真珠(アルベルム)よりも白い。
 光りを紡いだかのような金色の髪は艶やかで、薄布に半分覆われた顔は遠目に見ても相当整っていそうだった。

「ありゃ、月の女神(アイレ)の落とし子だ」

 ごくりと喉を鳴らした男の頬を、思い切りつねろうとした女は、どこからともなく流れてきた笛の音に手を止めた。
 優しく、穏やかな音色のなかにかすかな憂いを秘めて響くそれは、聞くだけで心が洗われるようだった。
 海からの湿った風に乗って流れてきた笛の音に合わせて、女が舞いはじめた。
 絹糸のごとく艶やかな髪が揺れ、白い月あかりを受けて光の粒を広がり散らす。幾重にもかさねられた薄絹の玉衣がなびき、白磁のように透った肌が露わになる。
 すっと伸びた四肢は楽にあわせてしなやかに、時に力強く動く。
 男をたしなめようとした女は、自分が何をしようとしたのか忘れた。否、その場に居合わせたほとんどの人間が呼吸をするのも忘れたかもしれない。
 家族の待つ我が家へ急いでいた男は足を止め、呆然と立ち尽くす。酒瓶を片手に悪態をついていた若い男たちは、口に含んだ麦酒(ファーガ)を飲み込むことさえ忘れた。
 薄布ごしに透かし見える、宝玉のような双眸は世のなにごとも映していないようなのに、時折投げかけられる意思のある流し目と、ほころぶ薄紅色の唇は見る人を惑わせ、恍惚とさせる。
 まるでそこだけが時が止まったようだった。
 いつしか出来上がった人垣に響くのは、澄んだ笛の音と、舞姫の衣に縫い付けられた硝子の鈴の鳴る音と、衣擦れのかすかな音だけ。
 楽が終わり舞姫がひざまずいて優美に一礼しても、誰一人として金縛りにあったように動けなかった。
 風の精霊(エアル)たちが舞姫の薄絹の衣をひるがえして抜けていく。
 静まり返った街道で、一人の男が気が狂ったように手を叩きはじめたのをきっかけに時が動き出して、夜空に割れんばかりの拍手と口笛が鳴り響いた。
 舞姫は人々の賞賛に何度も向きを変えて跪いて応える。

 小さな港町の夜に、拍手と口笛はいつまでも止まなかった。

第一章 風神の加護を

  Ⅰ

「ずいぶん不細工な顔だな、リド」
 セティは目の前の青年に茶化すように言った。
 面と向かって不細工と言われた青年─── リドルフ・クライン・アナリは、全く気にしたようすもなく、先ほどからそうしているように黙したまま、機械的な動作で料理を口に運んだ。
「この顔は生まれつきです」
 いつもと変わらぬ、涼やかなテノールで返された言葉にセティは苦笑した。こういう言い方をするときのリドルフはいけない。長いつきあいの中で、それは嫌というほどに学んでいる。
「いいかげんに機嫌を直してくれよ」
 セティも大皿に盛られた野菜の香草煮に手を伸ばした。木製の円卓に並べられた料理の大半は、菜食主義のリドルフのためにセティが注文した野菜や香草のみを使用したものである。
「機嫌が悪いのではありません。ただ、あなたの浅はかな行動を憂いているのです」
 セティは杯に並々と注がれた酒に口を付けた。変った香りのする酒は、舌先が痺れるほど強烈だった。
「協力してくれたのはリドだぞ」
「自身の浅慮も十分に悔いています」
 彼らしい、堅苦しいものいいにセティは思わず笑った。
 天然の繊維の色をそのまま使った飾り気のない麻の長衣に、剃髪した頭。神殿を出ても一向に俗気に染まる気配はなく、酒は飲まず、菜食を守り、朝、夕の祈りも欠かさない。
「とにかく」
 リドルフは手と口を布で拭って、ようやくその切れ長の空色の瞳をまっすぐにセティに向けた。
「あなたはなにもせずとも、十分に人目を惹くのです。もう少しそれを自覚していただけませんか?」
 円卓に肘をつき、片眉をひょいと上げて笑ったその仕草にどれほどの視線が集中しているのか、本当に認識しているのかと、リドルフには疑わしく思える。
 セティは美しすぎるのだ。
 無造作に流した肩甲骨をおおうほどの長さの金色の髪は絹糸のように艶やかで、鼻梁は通り、やや厚めの唇はきれいな薄紅色。どれほど高名な彫刻家であろうとも造り上げられぬだろう絶妙なバランスで組み立てられた面は、黙っていればまるで作りもののようで、気圧されるほどの硬質の美しさだが、その端正な顔には喜怒哀楽が人目をはばかることもなくはっきりと浮かぶため、生気に溢れているのが、また魅力だった。
「これでも、自覚しているつもりさ」
 その美貌に、さらなる魅力と妖しい美しさを与えるのはその瞳だ。
 セティは淡紫色にほんの一滴銀色を落としたような、稀有な瞳の色の持ち主であった。
 その幻想的な色の瞳は、陽光と月光の下では色が変わり、角度によって全く違う輝きを放つ。その瞳に魅了されぬものなど、この地上に存在するというのだろうか。
「そう神経質になることもない。ここは、国境の狭間の町だ。誰もあれの意味など知らない」
 セティは声を落とした。
「誰も、私とリドが、あの二人組みだとは思わない」
 リドルフが後ろの席に座る三人組みの若い男をちょっと見遣って、セティに視線を戻した。
 北方の大国ナディールと、今や南方の大国となったガイゼスの国境の狭間に位置するこの小さな港町、アイデンでは今、ある話題で持ちきりなのだ。この酒場でも客たちの話題といえばそればかりだ。
「あなたのような瞳を持つ人間は、そうはいません」
「思い込みは、そう簡単には破れないよ」
 町の人々が探しているのは二刻ほど前、どこからともなく現れて消えていった、舞を披露したこの世のものとは思えぬほど美しい女だ。
「だといいのですが」
 椅子のうえに片膝をたてて、酒をあおるこの青年と、先刻広場で人々を魅了した舞姫をつなげるのは、確かに難しい。
 口を開きかけたリドルフを制して、セティは言った。
「もうしないよ」
 セティにはさほど重大なこととは思えなかった。けれど、これ以上リドルフのお小言を聞くのは億劫だった。
「ただ、ちょっと、退屈だっただけさ」
 セティを見つめるリドルフの眼は、悪戯好きの我が子を見守る母親のようだった。
 食事を終えた二人は、宿までの港沿いの通りを歩いた。
 この町に着いてはじめの二、三日は海面に揺れるいびつな月を指して喜び、リドルフが止めるのも聞かずに、身を乗り出して海の水をすくって口に含んでみせたり、子供のようにはしゃいでいたセティも、さすがに十日が過ぎるとただ眺めているだけだった。
 彼らの生まれ育った故郷は遥か北で、山と谷に囲まれ、冬には雪も積もる。大陸中を行き来する商人でもなければ、そこに住む人間の多くは海を一度も見ることなく生涯を終える。むろん、十七歳のセティも二十四歳のリドルフも、海を目にしたのは初めてだったのだ。
「とうに陽は落ちたのに、暑いなあ」
 海には見慣れても、この湿気を多分に含んだ生ぬるい夜の空気には慣れない。
「ガイゼス王国へ入ればもっと暑くなるでしょうね。草木は枯れ、砂の大地があるというぐらいですから」
「いいな、砂の大地か。早く見てみたい」
 セティが倦んでいるのが、リドルフにはよく分かっていた。
 アイデンでの滞在は一月になろうとしていた。ガイゼスの国境は目と鼻の先だとういうのに、未だその地を踏めずにいる。
 ナディール王国からの完全な独立を目指し、今日のガイゼス王国の基礎というべき勢力が北の大国ナディールを相手に大戦を展開したのは、今から十八年ほど 前のことになる。
 およそ一年間の決して長くはないが、世界が滅びると言われたほど激烈な戦ののち、両国間で停戦条約が調印され、そのまま今日に至る。
 そういう背景があるのだから、戦時ではないとはいえ、当然、両国間の人の行き来は自由というわけにはいかないのだ。
「なあ、リド。私は何に見える?」
「何に、とはどういう意味ですか?」
「傭兵か? それとも商人か?」
 幾分酔いが回っているのか、ほのかに頬を上気させた、女神の化身のような青年を見つめて、リドルフは困ったように笑った。
「いいところ、大商人か貴族の子息でしょうね」
「それでは駄目じゃないか」
 セティは憤慨したようすだったが、リドルフとしてはそれでも譲歩した答えを口にしたつもりだった。
「やはり、密入国しかないかな」
 ガイゼス王国に入国するには、身分証を沿えて国境で審査を受けなければならなかった。リドルフは身分証を持っているが、提示するわけにはいかず、セティには身分証がない。
「なにか、もっと平和で合理的な方法があるはずです。もう少し、考えましょう」
「懐も大分暖かくなったことだしな」
 セティが芸人のような真似をしたのは、退屈していたのとは別の理由があった。
 路銀が底をつきかけていたのだ。すぐに金に換えられるものはいくらか持っていたが、ナディール通貨もガイゼス通貨も流通する、国境の狭間の町では換金の手間賃がかなり割高なのだ。
「セティは路銀の心配などしなくていいのです。仕事なら、私がしますから」 
 とは言ったものの、リドルフの笛の音に合わせたセティの舞いに人々が投げてよこした対価は、今の生活を二月ほど続けられるような額のものだった。リドルフが仕事をする必要は、当面はなさそうだった。
 並んで穏やかな海を眺めていたセティが唐突に振り返った。リドルフの反応はそれに一呼吸ほど遅れた。
「なにかご用ですか?」
 五人の中で一番先に口を開いたのは、リドルフだった。陽に焼けたうえに、酔っているのか赤黒い顔をした三人の男が、一斉に声を上げて笑った。
「坊主には用はねえ。俺たちが用があるのは、横のきれいなお嬢さんだ」
「確かに私は神に仕える者ですが、私の横に女人などおりません」
 真面目腐って答えたリドルフに、男たちはまた声を上げて笑った。
「坊主、怪我をしたくなければ引っ込んでな。俺は、このあたりじゃ、ちいと名が通っているもんだ。大人しくお嬢ちゃんさえ置いていってくれれば、いい」
 リドルフはちらりと傍らのセティを見た。憮然とした顔はしているが、まだ、剣の柄に手は伸びていない。リドルフはセティがどのくらいの酒を飲んでいたか、思い出そうとしていた。
「あなた方は勘違いをしています。この人は───」
「アニキ! こいつ、坊主のくせに剣なんか背負っていますぜ」
 リドルフは彼らにとって有益で、重大な事実を知らせようとした。しかしそれは、一番小柄で前歯の突き出した男によって阻止された。
「ほう、このあたりじゃ珍しい代物だな」
 リドルフが背負っている剣は、かなり大ぶりだった。鞘に納められているので定かではないが、抜けば長身のリドルフの身の丈と同じほどはありそうだ。
「北の国では、坊主がそんな物騒なものを振り回すのか。おもしれえ、お手並み拝見させてもらおう」
「これは、抜けません」
 リドルフの声は静かだった。
「格好つけてる場合じゃねえぞ」
「本当に、抜けないのです」
 リドルフは後ろ手に大剣の柄を掴んで、力を入れて引き抜く素振りを見せた。しかし、大剣はぴくりとも動かない。
 一見で神職者と分かるいでたちのリドルフが、背に抜けもしない大剣を背負っているその姿は異様といっても過言ではない。勢いをそがれたような格好になった男たちは、次に取るべき行動を迷い、沈黙した。
「そんなに刃を見たいなら、私が見せてやろう」
 絶世の美女が、口を開いた。若い男の声が、いくぶん暑さのやわらいだ夜気によく響いた。
「お、男…?」
「だれがお嬢さんだ。お前たちの目は節穴か」
 一歩前に出たセティの背丈は男たちよりは小さいが、女性にしてはやや高い。隣にいたリドルフが長身すぎたのだ。そのうえ、よく見れば、ほっそりとした体つきながらも肩や腕にはしっかりと筋肉がついており、剣も()いている。
「さっさと去れ。私は、機嫌が悪い」
 セティがゆったりとした動作で剣の柄に手をかけた瞬間、腕自慢をしていた真ん中の男の顔色が変わった。
「男には、用はない」
 二人の手下を伴って、踵を返した男の後ろ姿を見ながらリドルフが呟くように言った。
「それほど、酔ってはいなかったんですね」
「どういう意味だよ」
 セティがリドルフの癖を知るように、リドルフもセティの癖をよく知っている。酒を過ごしたセティが、何度騒ぎを起こしたことか。しかし、リドルフが口にしたのは全く別のことだった。
「先ほどの男、名が通っているというのはまんざら嘘でもなさそうですね」
「どうして、リドにそれが分かる?」
「あなたが発した気がどれほどのものか、肌で感じていたではありませんか」
 セティは短く笑った。
「おかげで無駄な血を流さずにすんだ。リドに叱られずにすんだな」
 無造作に衣の胸元を開いて、白い手であおぐそのさまに、近くにいた若い男たちがどよめきたつ。当のセティはきょとんとしたまま、その動作を続けていたが、後ろからリドルフに胸元を押さえられた。
「暑いんだ。衣が、くっつく」
「分かっていますよ」
 当然の権利で抗議するセティをあやしながら、リドルフはゆったりとした動作で、しかし有無を言わさずにセティを歩かせた。
 男たちの嫉妬と羨望に満ちたじっとりとした眼差しを、その広い背で受けて、通りを歩いていく。滞在している宿が遠くに見えてきたころ、リドルフは小声で言った。
「やはり、なるべく早く国境は越えたほうがいいでしょうね」
 セティは立ち止まり、怪訝な顔をしてリドルフの顔を見上げた。
「セティとあの舞姫が結び付けられるのは、時間の問題です」
「だから、皆が探しているのは、女だろ」
「確かにそうです」
 リドルフが空色の瞳をじっと向けてきた。
「けれど、黙って立っているあなたが、必ずしも男に見えるとは限りません」
 セティは十七歳の青年としては極端に小柄でもなく、華奢なわけでもない。一方リドルフは平均身長をはるかに上回る上背があり肩幅も広く、がっしりとした体付きをしている。そのせいか並ぶセティが実際よりもだいぶ華奢に見えることも多いようだった。
 自分が女に間違われるのはリドルフのせいだ、としばしばセティは責任転換してみせるのだが実際のところは体型というよりも、類稀な美貌と長い金色の髪が原因の多くを占めていることは間違いない。
「まあ、その時はその時だな」
 彼自身、旅の道中で起こった数々の「女と間違われた事件」を思い出したのか、セティは反論せずに、このうえなく魅力的な笑顔を浮かべただけだった。

   Ⅱ

 宿の前には栗色の髪をした太った女主人と、見慣れない小柄な少年らしき人影があった。
 「ああ、戻ってきた」
 女主人はセティとリドルフの姿を見ると指差した。
 少年はリドルフの前まで小走りにやってくると、優雅な仕草で一礼した。
「わたしはガイゼス王国の巡検史ハル・アレンと申します」
 端正な顔立ちだった。黒鳶色の瞳は黒目が大きく、睫毛が長い。逆三角形の顎は小さく、赤色人種にしては全体的に線が細い印象を受けるが、かなりの美少年である。
「突然お訪ねして申し訳ありません。町で耳にしたのですが、あなたはお医者さまでいらっしゃいますか?」
 言いながら、彼の視線はリドルフの肩ごしに突き出ている大剣の柄に釘付けだった。初対面の人間は、いつものことであるからリドルフは特に気にしたようすもなく律儀に答えた。
「いいえ、私は医者ではありません。アナリ神に仕えている者です」
 リドルフの返答に少年は明らかに落胆の色を見せた。
「けれど、法と薬草を使って病人や怪我人を診ることを生業としております」
「ああ!」
 ハルと名乗った少年は、歓喜の声を上げた。
「わたしの部下が道中で襲われて怪我をしたのです。なんとかこの町まで辿り着いたのですが、診ていただけないでしょうか?」
 リドルフは表情を変えずに一瞬困惑した。
 ナディール王国の階級制度に反発した人々が、各地で反乱を起こしたのは今から三十年あまり前のことになる。
 反発の意思は、やがてナディールからの独立というふうに明確に姿を変えた。有能な指導者と幾人かの勇将。潤沢とはいえないがそれなりの軍資金と食糧、それにいくばくかの運に恵まれた彼らは大陸随一の大国ナディールを相手取り、完勝というほどではないが、何とかその目的を果たした。
 以来、十七年───。ガイゼス王国は国内の物流を整備し、他国との交易を盛んに行い、痩せた土地にあって瞬く間にナディールに勝るとも劣らない富国に成長した。
 しかし、リドルフが返答を躊躇ったのは、自身とセティの郷国から独立した、敵国とも言える国の少年に頼まれたからではない。
 巡検使であり、ハル・アレンと名乗った目の前の少年は極めて簡素な旅人のなりをしているが、その仕草や立ち振る舞いには明らかに気品があった。また、外套からわずかにのぞく腰に下げた剣は、柄だけではなく鞘にも装飾が施され、とても一般市民が持ち歩くようなものではない。隠れて旅をしているわけではないが、リドルフは面倒を恐れて、他人に、特に高貴な人間とはなるべく深入りしないようにしている。
 無表情で振り返ったリドルフにセティは屈託なく答えた。
「いいじゃないか。せっかくリドを頼ってきてるんだから」
 リドルフが身分の高い人間や、そう推測される人間との関わりを避けているのは、全てセティのためだ。セティもそれを知っている。理解したうえでリドルフにこう言うのだ。
 リドルフは了承の意を少年に示した。
 ハルに案内されたところは、二人が宿泊しているところよりも数段豪華な宿の、一番大きな部屋だった。
 部屋は二間続きになっており、手前は簡素ながら応接間の役割をしているようで、長椅子と卓がしつらえてあり、奥の間は応接間よりも広く大きな寝台が二台置かれている。
「ハル様! ご無事でしたか」
 ハルの姿を認めた途端に叫んだのは、小柄なハルよりもさらに小柄な初老の女であった。
 きつく結んだ髪には白いものがずいぶん混ざり、手にはしみが浮き出ている。そのくせ動きは素早く、目には人を威圧するような鋭さがある。
「こちらは、クライン・リドルフ殿だ。お医者様ではないが、カイを診てくださるとおっしゃった」
「クラインですと?」
 クラインとは神に仕える男性の総称である。クライン・リドルフというような呼び方は神職者を敬う呼び方であり、俗人からはこう呼ばれることが多い。
「リドルフ・クライン・アナリです。アナリ神に仕えております」
 柔和な笑みを浮かべて差し出したリドルフの手を、老女は取らなかった。
「リドルフ殿はまやかしの術を使って、病や怪我を治すのかね?」
「メイラ! クライン・リドルフ殿に失礼ではないか」
 メイラと呼ばれた女を叱咤するハルに向かって、リドルフは穏やかな顔を向けた。
「いいえ、いいのです。ガイゼスの方にとって、私どものような存在は決して気持ちの良いものではないでしょうから」
 老女の挑むような視線を正面から浴びても、リドルフの表情も、声も憎らしいほどに平生となにひとつ変わらなかった。
「ハル様、わたくしが町中を駆け回ってもう一度医師を探して参ります。どうかリドルフ殿とそのお連れ様にはお引取りいただきますよう」
「メイラ…」
 嘆息したハルは奥の寝台に横たわっている怪我人とメイラとリドルフとを見比べて、うつむいた。メイラの姿勢は強固で、反論を許すふうではない。誰にとっても愉快でない空気が流れる部屋に、怪我人の鞴(ふいご)のように荒い息遣いだけが響いていた。
「あんたがリドを信用しないのは勝手だけど、一刻も早く処置しなければあの人は死ぬ。無意味なこだわりのために、助かるかもしれない命をみすみす捨てるのか?」
 両腕を頭の後ろで組んだ格好で放ったセティのぶっきらぼうな言葉が、沈黙を打ち破る。
「そんな下らないもののために、人の命は左右されていいのか?」
 ハルが、黒鳶色の大きな瞳をさらに大きく見開いて、息を呑み眼前の美しい青年を見つめた。セティの声には激しさも強さもなく、ただ当然のことを口にしたようすだった。
 下唇を噛んでうつむいたメイラが、一歩横に避けた。リドルフは黙って小さく頭を一つさげてから、彼女の脇を抜けて、怪我人が寝かされている寝台の側に立った。
「刃傷ですね。しかも、かなり深い」
 傷口を検めると、リドルフは淡々と言った。
「止血はどなたが施したのですか?」
「私だ」
 壁を睨んだまま、腕組みをしてメイラが言い捨てる。
「メイラには多少医術の心得があるのです」
「よく出来た方法です。失血量が少なくてすんでいます」
 リドルフは宿の女主人に頼み、熱い湯を用意させた。湯を運んできた彼女の神妙な顔付きは、室内に立ち込める血の臭いと、リドルフが取り出した見慣れない医術用具が理由だろうと、誰もが気に止めなかった。しかし、このときすでに彼らはいわれのない悪意と、利己的な算段の包囲網にいたことを、この後知ることになる。
 煮えたぎった湯のなかに放り込んでいた針を取り出し、リドルフは右腕の付け根から胸のところにかけて大きく開いた傷を、丁寧に縫いはじめた。
「リドルフ殿はどちらで医術を会得なさったのですか?」
 ハルは驚きを隠しきれなかった。彼の手付きは鮮やかで、傷口は見る間にきれいに塞がっていく。
「ナディールの王都、ハプラティシュのアナリ神殿には、各地からすぐれた神官が集います。中にはガイゼス王国で栄えている最新の技術を持つ者もいるのです」
 一般に、医術の水準は今やガイゼス王国が一番高いと言われている。しかし、北の国の人であるはずのリドルフのそれは、ハルとメイラの故国であるガイゼスの高等な医師の持つものと何ら変わりがなかったのである。
「傷口は縫合しましたが、問題は臓腑が負った傷です。それを癒す手伝いをするために法を使いますが、よろしいですか?」
 首が千切れるかと思うほどの勢いでそっぽを向いたメイラに、リドルフはわずかに苦笑して付け加えた。
「悪魔祓いのために法を使うわけではありません。この方に元々備わっている自ら傷を治そうとする力を、強くするために使うのです」
 相変わらずメイラはあらぬ方を見据えたままだったが、ハルが頷いたのをリドルフは最終的な意思決定とみなした。
 リドルフは縫合したばかりの傷口の上にそっと右手を置くと、目を閉じた。
 彼の口から紡がれる霊妙なマントラは優しく、穏やかに人の心に染みわたる。意識の朦朧としている怪我人やハル、セティはむろんのことメイラまでもが我を忘れて聞き惚れてしまう始末である。
 リドルフの手が返された。
 いつしかメイラとともに食い入るように見ていたハルは思わず目を細め、その後ろにいたセティも顔を背けた。メイラだけが同じようにそのさまをじっと見ていた。二人が再び視線を戻したときには、リドルフは傷口から手を離していた。
「彼は助かったのですか?」
 何事もなかったかのように怪我人の体の上に毛布をかけて、リドルフは使った針を再び消毒しはじめていた。
「いいえ、まだ分かりません。これから悪いものを体の外に出す薬草を煮出して、飲ませます。私ができるのはこれまでです。あとはこの方の体力と気力次第です」
 嘆息して目を伏せたハルの脇で、メイラが厳しい顔で先ほどよりは幾分穏やかに呼吸する怪我人を睨みつけていた。
「殿下をお守りする立場にありながら、これほど殿下のお心を痛ませるとはなんたる不届き者。目を覚まさなければ、不肖の弟子にこの師自らが引導を渡してくれましょう」
 彼女なりの気遣いに、リドルフは思わず目を細めた。
「カイは助かりますよね?」
 大きな黒鳶色の瞳を潤ませて顔を見上げるハルに、リドルフは麻袋から乾燥した薬草を取り出す手を止めた。
「人の命を見放すのも、繋ぎとめるのもすべてはオリス神の思し召し次第。私達にできるのは、良いほうに転ぶように手助けをすることだけです」
 ふいとセティは部屋を出て行ってしまった。

   Ⅲ

 ランプの炎が揺れ、仄明るく照らし出された壁にうつる影が乱れた。
 寝台の傍らに引き寄せた椅子に膝を揃えて座るハルは、前置きなく突然肩から掛けられた外套のあたたかさに驚きながら、外套を肩にかけた人物を見上げてていねいに礼を述べた。
「お休みにならないのですか? メイラ様ももう休まれたようですよ」
「メイラは襲撃にあった時、老体に鞭打って剣を振るい、賊を必死で追い払ってくれたのです。私は、皆に守られていただけで何もしなかった。せめて、カイの側についているくらいしか、できません」
 長椅子の上に横になったメイラの体は小さく、寝息に合わせて規則正しく上下する背中は丸かった。
「セティ殿はまだ外にいらっしゃるのですか?」
 セティが部屋を出て行ってから、もうずいぶんと経つ。しかし、リドルフはそれを気に揉むようすもない。
「何か、気分を損ねるようなことをしてしまったのでしょうか?」
「いいえ、そのようなことではありません。セティは人の生き死にに、立ち会うのが苦手なのです」
 ハルはわずかに苦笑した。
「ああ、それなら私もよく分かります。目の前で人が死ぬのは本当に辛いことです」
 ランプの灯りに照らされたハルの繊細な線を描く横顔は、翳っていた。
「幸いメイラは無傷でしたが、十数人の部下が瞬く間に倒れ、カイも私を庇って深手を負いました」
「十数人の部下の方が……」
「お二人は北から南へ旅をなさっているのですか?」
「ええ、そうです」
 リドルフはセティとともに二年ほど前に故郷を発ち、ようやく国境の境まで来たのだと言った。
「どちらに行かれるのですか? ガイゼスの領内でしたら、私はほとんど回ったことがありますが」
「目的地は分かりませんが、とりあいずは国境を越えて、ガイゼス王国に入るつもりです。ただ…」
 リドルフが淡い苦笑を浮かべた。
「入国手続きに、いくぶん、手間取いそうでして」
「クライン・リドルフ殿はアナリ神殿の神官でしょう? 手続きは簡単に済むかと思いますが」
「私は下位の神官ですし、あれの説明もいるでしょう」
 リドルフが目で示したのは、今は下ろして壁に立て掛けているが、平素は肌身離さず背負っている身の丈ほどもある大剣だ。アナリ神殿の神官にはおよそ似つかわしくない代物であるし、何よりも、このクライン・リドルフという青年僧には全く結びつかないものだった。
「それに、私だけのことではありませんので」
 身分証は、という問い掛けをハルは飲み込んだ。ナディールとガイゼスは確かに友好的な関係とはいえないが、今は戦時ではない。奴隷や犯罪者でもないかぎり、身分証を提示すれば多少時間がかかっても入国できる可能性のほうが高い。
 ナディールでは彼らのような白い肌の人間は奴隷である可能性は皆無といってよい。
 そして、ハルの目にはこのいかにも人が良さそうな、自らクラインと名乗る青年と、桁外れの美貌をもつ闊達な青年が、犯罪人であるとも到底思えなかった。しかし、これ以上訊いてはいけない気がした。なにか簡単には口外できぬ、事情がありそうだった。
 ハルは話題を変えた。
「王都に近づくにつれて治安はよくなりますが、ここ最近、頻繁に腕の立つ賊が出没するようです。私も巡検使として各地を回っておりますが、今回のような目に遭ったのははじめてなのです」
「お気持ち、お察しいたします」
 リドルフは寝台に横たわる青年の額ににじむ汗を拭った。ハルがカイと呼ぶ青年は、上背があり、逞しい体つきをしていた。赤褐色の肌といい、黒い髪といい、典型的なガイゼス人らしい容貌だった。
「道中で耳にしたのですが、ガイゼス王国では国王陛下のお体が優れないとか」
「ええ、そうなのです。陛下は一月ほど前より体調を崩されて、公務を休んでおられます。公式発表はされていないのですが、人の口に戸は立てられません」
 ハルは包み隠さず、祖国の重大な懸念を口にした。まだ出会ってからそれほど時は経っていないが、ハルはこの実直な異国の僧に対して好感を覚えていたのだ。
「賊が頻出するのは、そのあたりの事情にも関係あるのでしょうか?」
「どうでしょう。全く関係がないと断言するのは、いささか浅慮だとは思うのですが」
「町の方から伺ったのですが、南に行くにつれて賊は好んで小剣を使うそうですね。気温が高くなると、重量のある大振りの剣は体力を消耗してしまうからだとか」
「おっしゃるとおりです。相当の修練を積んだ正規軍や、良家の抱える私兵では、やはり威力の強い中剣や大剣を使うものが多いのですが、それ以外では体力の消耗を抑えるために短剣や小剣を使うのが一般的なのです」
 言いながら、ハルはある重大な事実に気がついた。信じられぬような思いで、額に玉のような汗を浮かべて眠るカイの姿を見る。
「クライン・リドルフ殿」
 ハルの声は顔と同じように強張っていた。
「はい」
「彼の、カイの傷はどうでしたか?」
 思考がまとまらず、うまく言葉にできないのがハルにはもどかしかった。
「カイの傷は小剣や短剣によるものでしょうか?」
「いいえ。傷口から察しますには、中剣かそれよりも少し大きな刃の剣で斬りつけられたものだと思います」
 ハルは記憶を辿りはじめていた。
 歓声と悲鳴。土煙から垣間見える剣戟。部下が次々と倒れていく中、メイラが孤剣を抜き、右に左になぎ払う。ハルも腰間の剣に手を伸ばし、抜き払った。剣。刃と刃が衝突して青い火花が散り、構えた両手は簡単に痺れた。眼前に迫った覆面の男、見上げるその視界に割って入ったカイの背中…。
「実は私とセティもこの町にたどり着く直前に、何度か賊と遭遇したのですが、いずれも小振りの剣を使っていました。ちょうど、セティやハル殿がお持ちのような」
 リドルフの視線の先には、壁に立てかけられたハルの剣があった。中剣よりも二回りほど小さい剣の柄にはセティの瞳にも似た大きな紫水晶がはめ込まれており、ランプの明かりをうけてきらめいていた。
「私達を襲ったのは本当に賊だったのでしょうか」
 ハルは独白しながら何か重苦しいものがのしかかってくるのを感じた。
 足音もなく、いつの間にか戻ってきた女神の化身かと思うほど美しい青年の姿に、ハルは少なからず驚いた。そして、彼が口にした言葉はそれ以上にハルを驚愕、というよりは慄然とさせた。
「囲まれたみたいだ」
「囲まれた───?!」
 ハルが上げた甲高い声に、別の間で休んでいたメイラが目を覚ます。リドルフは相変わらずゆったりとした動作で、寝台に横たわるカイの額の汗を拭った。
「宿の主人は買収されたようだ。主人も他の客もいない。ここはすでに、もぬけの空だ」
 冷静なセティの声とは対照的に、ハルの顔は蒼白といってもいいほど青ざめていた。
「ハル様、ご心配には及びませぬ。私が賊を追い払って参りますゆえ、ここから動きませんように」
 メイラが剣を佩きながら言う。
「賊なんかじゃない。かなりの手だれ揃いだし、宿の主人を買収するぐらいの金があれば、わざわざ襲撃など企てない」
 セティの言うことはもっともだった。そして、ハルは自身にのしかかってきた重いものが、決して杞憂ではないことをこのとき悟った。
「逃げる─── のは、無理だな。今、この人を動かすわけにはいかない」
 カイを見遣ったセティに、リドルフが小さく頷いた。
「宿への入り口は、正面と裏口の二つ。外へ出て囲まれるよりは、そこを塞いだ方が確実だ。正面は私が引き受けよう」
「お待ち下さい。狙われているのは、私たちです。お二人を巻き添えにするわけにはいきません」
「もう、巻き込まれているよ」
 セティの口調には嫌味が全くない。それどころか、口元に浮かべた笑みは不敵といってもよく、呆れるほどに魅惑的だった。
「それに、怪我人と年寄りと子供を放って逃げるなんて、リドが納得するはずもない」
 人のせいにするなと、空色の瞳が雄弁に語っていたが、実際にはリドルフは淡く口元に笑みを刻んだだけだった。
 そして、彼の言葉にもっとも分かりやすい反応を示したのは子供扱いされたハルではなく、老人と言われたメイラだ。日に焼けた浅黒い顔を赤くして、険しい顔でセティを睨みつける。当のセティは涼しい顔だった。
「リドは怪我人とその子を頼む。私が正面を引き受けよう。裏口は、婆さん」
 今にも噛み付きそうな様相をていしていたメイラが、その一言に毒気を抜かれたような顔で黙然とセティを見返した。神が手がけたかのような、寸分の狂いもなく整ったセティの顔には淡い微笑が浮かんでいた。身のこなし、まとう空気、そんなものだけで、セティはこの中で剣に長けているのは誰なのかをよく分かっていた。
「婆さんではない、メイラだ」
 セティは片眉を上げて、眼前に仁王立ちした小柄な体を見つめた。
「メイラ・ロト」
「メイラ・ロト様。それは、失礼した」
 胸に手を置き、膝を折って一礼したその仕草は、常人ならば鼻につくほどにわざとらしいものだったに違いない。けれど、セティがすると王侯貴族のように優雅に見えるから不思議なものだ。
「ふん。小童のお手並み拝見といこう」
 メイラとセティが連れ立って部屋を出て行く様をハルは半ば放心状態で見送った。リドルフは相変わらずゆったりとした動作で、眠るカイの額に手を当て、自分の外套を彼の体にかけた。
「リドルフ殿は、落ち着いておられるのですね。このような騒ぎに巻き込まれたというのに」
「セティがああ言うのなら、任せておくしかありません」
 ハルはリドルフの穏やかな声に、面食らった。
「セティ殿は、お強いのですか?」
「さあ、どうでしょう」
 リドルフが小首を傾げた。
「私には剣のことは、よく分かりません。でも───」
 ハルは壁に立てかけられたままのリドルフの大剣を、ちらりと見遣った。
「私が気がかりなのは、別のことです」

 部屋を出て正面入り口側と裏口側にメイラと別れたセティは、正面入り口の扉を閉め、柄にかけた姿勢でじっと耳をすました。
 セティの耳は襲撃者との距離をほぼ正確に測っていた。
 忍び寄る襲撃者から板一枚の簡素な扉までは、あと十歩ほどだろうか。
 セティは目を閉じて、さらに神経を研ぎ澄ませる。
 四歩、三歩、二、一……。
 その瞬間、六人の襲撃者たちには、光が走ったようにしか見えなかった。
 簡素な木戸に先頭の男の手が触れるか触れないかというところで、木戸が向こう側から勢いよく開いたのだ。予期せぬ事態に、頭巾に包まれた顔からわずかにのぞく目を大きく見開いて、そのまま前のめりに倒れた。
 驚愕に半歩ずつ退いた頭巾に顔を包んだ襲撃者たちが目にしたのは、淡雪のごとく白い頬に、紅い返り血を受けた目を疑うほどに美麗な存在。
「次は誰だ」
 浮かんだ不敵な笑みは、つくりもののように美しいその顔を、妖艶に彩った。
 セティは、長剣をかまえたまま呆気に取られている男の右腕を切り上げた。逞しい腕が半ば切断され、苦痛と憤怒に顔を歪め、男は地を転げた。
「不意打ちとは、卑怯ではないか」
 この世のものとは思えぬほど美しいその顔に、先刻のものとは異なる類いの微笑を浮かべて、セティは浴びせられた罵倒に応えた。
「子供と怪我人の一行を人数で囲むのは、卑怯とは言わないのか」
 これは戦の一騎打ちではない。名乗りを上げる必要などないし、それどころかセティに言わせれば倍以上の人数を相手にするのだから、先手を打つのは当然であった。もっとも、襲撃者たちにとっては、これほどまでに腕の立つ人間がいるのは計算違いであるはずだから、泣き言の一つも咆えたくなるのも、当然だった。
「小賢しいことを!」
 セティの動きには一切の無駄がなく、流れるようだった。
 強烈な一撃を逆らうでもなく、受け止めるでもなく、いとも簡単にいなし、手首を翻す。男の首筋に光が走ったのとほとんど同時に、紅い液体が吹き上がり、白い覆面を染める。
 セティの舞は、先刻町の人々をそうさせたように、まさに見惚れるほどに優美であった。しかし、それがただの舞ではなく、襲撃者たちを一振りごとに死後の世界へと誘う魔の剣舞であることは疑う余地もない。彼が金色の髪をなびかせるたびに、覆面の襲撃者たちは血飛沫を小さな港町の夜に撒き散らす。
 ほんのわずかな時のあいだに、残る一人以外を戦闘不能に追い込んだセティは、渾身の力をこめて打ち込まれてきた刃をひらりとかわし、その男の鼻先に切っ先を突きつけた。
「仲間を連れて引け。勝負はついている。私は無用な殺生は好まない」
 彼の言うことはまんざら嘘ではなかった。絶命しているのは、最初に斬り付けられた男だけで、それ以外は重傷で済んでいる。もっとも、早く処置をしなければ命に関わるものは多いだろうし、処置をしてももう二度と剣の柄は握れないものもいるだろうが。
 白い覆面の男は、セティの言うとおりにした。彼の忠告を素直に聞き入れたわけではないが、どう考えてもすでに勝算はなかった。一人で六人を相手どりながら、あのいかにも優しげな美青年には五人の命を奪わぬ余力すらあったのだ。それは恐るべき事実だった。
 動ける仲間たちを引きずって、男が去るのを見届けたのち、セティは宿の中に戻った。
 リドルフとハルが待つ二階へあがる階段で、セティは全身を返り血に染めたメイラと鉢合わせた。元気すぎる老女は息も上がっておらず、悪態をついた。
「小童に正面など譲ってやるんじゃなかったわい。役不足だ」
 メイラが相手にしたのは、セティが引き受けた半分の人数だった。宿の周囲には合計四つの骸が転がっている。
 セティが面食らったのは一瞬のことで、すぐに破顔した。
「腕前を拝見できなくて、残念だった」

   Ⅳ

 返り血に衣を紅く染めて戻ってきた二人に息を呑んだのはハルの方で、リドルフはなにも言わずに立ち上がると懐から布を取り出して、セティの白い頬にはねた人血を拭った。
「早く、血を落としていらっしゃい。染み付いてしまいますよ」
 その言葉でハルは彼らの身を汚しているのは、返り血なのだということに気がついて、安堵する。
 セティは至極素直にリドルフの言うことに従った。一人黙って今戻ったばかりの部屋をあとにするセティの後ろ姿と、それを見つめる感情が読みにくい空色の瞳の持ち主とを見比べて、ハルとメイラはなんとなく気圧されたようになり、なにも言えなかった。
「少しのあいだ、カイ殿を頼みます」
 そう二人に言い置いて、リドルフも部屋を出て行ってしまった。
 寝台に横たわるカイの呼吸は穏やかなものにかわり、眉間に深く刻まれていた皺は薄くなっていた。
 生温かい夜風にのって流れてきた、かすかな人の声に気がついてハルは開けっ放しの窓から顔を出した。虫除けの細かい網を片手で押し上げて、階下を見下ろせばその正体はすぐに分かった。
 リドルフがそれなりに手を入れられた中庭に四人の死者を並べ、マントラを唱えている。やはり、聞いているだけで、心穏やかになれるような声だった。同じ人間の口から紡がれるマントラによって、一人は命を繋ぎとめようとし、四人は送られようとしている。それはハルになにか不思議な思いを抱かせた。
「殿下、これは非常事態です。一刻も早くウルグリードに戻り、国王陛下にご報告なさいませ」
 聞きなれた老女の声に、ハルは現実に戻った。振り返ると、いつのまにか返り血を浴びた衣を改めたメイラが険しい顔で立っていた。
「それは、分かっているよ。けれど───」
 ここは国境の狭間の町、アイデンなのだ。ガイゼスの王都、ウルグリードまでは最短経路を進み、どんなに急いでも半月はかかる。その上、カイという怪我人を連れての旅ともなれば、倍近くはかかると思ったほうがいい。
「使者を出そうにも、人もいない」
 置かれた状況は、限りなく不透明であった。使者を出したところで、無事にウルグリードに辿りつけるかも分からない。襲撃者たちはここで自分たちを殲滅(せんめつ)させるつもりだったのだ。それほどの覚悟と用意が彼らにはあった。そして、それは成功する可能性が遥かに高かった。
 外からはまだリドルフのマントラが聞こえる。
 涼やかなテノール。それは驚くほどすんなりと、心の中に染み入ってくる。
 あのとき、偶然一軒の酒場で耳にした、白人の青年僧とその美しい連れの噂が結果としてカイだけではなく、ハルとメイラの命をも救った。一つ何かが違えば、ここで命を落としていた…。
 そう思うと途端に、得体の知れないひどく寒いものが体を包みこんで、ハルの思考を止めてしまう。
 重い空気のなかに戻ってきたのは、リドルフではなくセティの方だった。
 メイラと同じように衣は改めており、さらには血を洗い流してきたのか、金色の髪は毛先が濡れている。
「命を狙われる覚えは?」
 不躾と言ってよいほど、率直すぎるセティの問いに反応したのはやはりメイラであった。今にも噛み付きそうな従者を目でなだめて、ハルは肩をすくめた。
「ないといえばないのですが、それは自分が勝手に思っているだけなのでしょう」
 セティはハルのものの言い方に好感を覚えた。彼のつつましやかな人柄の全てがその言葉に表れているようだったのだ。そんな覚えなどない、と断言できてしまう人間のほうが、自分が意識しないところで、およそ人の恨みや妬みを買いそうなものである。
「何が起こっているのか、検討もつきません。情報も不足しています。今、我々にできることは一刻も早く王都、ウルグリードにこのことを伝えることでしょう」
 ハルは彼の従者と話していたことを、そのままセティに伝えた。
「どうやって?」
 間髪入れずに返された問いに、ハルは苦笑し、メイラは憮然とした。
 先刻出会ったばかりの異国の青年にすら、それが現実的にどれほど難しいことなのか分かっている。ハルは考えをまとめながら話しはじめた。
「まずはガイゼスに戻ります。国境には、警備隊もいますからそこから王都に使者を出すことにします。その後は───」
 言葉を、失った。
 国境には警備隊の駐屯地と小さな村があるだけで、そこで半月ものあいだ王都からの迎えを待つのはあまりにも心細い。彼らを狙っているのが賊ならば、それでもいいかもしれない。しかし、自分たちを取り巻いている状況は、それほど楽観できるようなものではなさそうなのだ。
「殿下、ラガシュに向かってはいかがですか? シノレ公ならば、必ずお力を貸して下さることでしょう」
 何やら思案していたようすのメイラが、ハルに進言した。
 ハルは逆三角形の華奢な顎に負けないくらい細い指をかけて、従兄上のところか、と小さく呟いて、また沈黙する。メイラの口から出た人物の名は、ハルにとって頼りになる人であったが、それまでの道のりを考えると慎重にならざるをえない。
 歩いて五日───。確かに、王都よりは近い。警備も万全だろう。けれど、ラガシュに行き着くまでに襲撃がないと、どうして思えるだろう。国境警備隊から兵を借りるにしても、そこまでの権限は巡検使には与えられていない。
 同じことを考えたのか、進言した張本人も壁をじっと睨んだまま沈黙する。
 二人のようすを見比べながら、彼なりに何やら思案していたらしいセティは突如その二人に向けて悪戯っ子のような笑みを浮かべた。
「私たちを、雇わないか?」
 唐突な申し出に、ハルはきょとんとして白皙の美青年を見つめた。
「巡検使殿が雇った傭兵ならば、国境で審査を受ける必要はないだろう?」
「あ……」
 ──── 入国手続きに、いくぶん、手間取いそうでして。
 淡い苦笑を浮かべて言った、リドルフの言葉をハルは思い出していた。
「私たちは国境を早く越えたい。あなたたちには向いたいところがあるが、護衛できる人間がいない。私は多少剣が遣えるし、リドルフは怪我人を診れる」
 どうだろう、というふうにセティは髪と同じ色の眉を器用に片方だけ上げて、右手を差し出した。
 ハルはメイラを顧みた。
 ハル自身に、素性の知れぬ異国の青年達を傭兵として雇うことに不思議と戸惑いはなかった。それどころか、願ってもいない申し出だと思った。彼らが、正規の入国手続きを踏めない理由は知らない。けれど、現実にリドルフはカイを治療し、セティは無関係のはずの自分たちのために剣をふるってくれた。それ以上、何があるというのだろうか。
「ありがたい、お言葉ですな」
 メイラの言葉にハルは喜んで、セティの手を取った。剣の柄を握るはずなのにセティの白い手は思いのほか柔らかく、温かかった。細められた今まで見たこもない、宝玉のような色彩の瞳は息を呑むほどに美しかった。
 出会いは唐突で、成り行きまかせで──── けれど必然だったのかもしれない。
 ハルにもセティにもこの瞬間、自分達の運命のダイスが予想もしていなかった方向に転がりはじめたことなど、むろん知る由もない。
「契約成立だ」
 それからの彼らの行動は実に迅速であった。
 死者の弔いをすませて戻ってきたリドルフに、セティは事の成り行きを伝えた。セティが決めたことには滅多に口を出さないリドルフは、ほんの一瞬思案するような表情を見せたが、意気揚々と語るセティに押されたような格好で、それを受け容れた。もっとも、自分達がこの町に留まるのはすでに状況が許さない、ということをリドルフはよく分かっていた。
セティは一旦、彼らが根城にしていた宿に大して多くもない荷物をとりに戻り、身支度を整えたハルとメイラ、そして広い背に軽々と怪我人のカイを背負ったリドルフと街道の入り口で合流した。
 夜が明けはじめていた。
明るくなれば、血に汚れた石畳や丁寧に弔われた四人の死者が明らかになり、この小さな港町は騒々しくなるに違いない。
「出発にはいい朝だ」
 一睡もしていないのが信じられないほど、爽やかな面持ちでセティが有明の空を手をかざして見ていた。
「私たちの国では、こんなときこう言うんだ」

風の神(フィース)の加護を!」

 声の持ち主を想像させる、セティの明朗な声に、ハルの透明感のある声が重なった。
 セティは意外そうな顔で繊細な顔立ちの美少年を見つめた。
「ガイゼスにも、その慣習は残っていますよ。もっとも、信仰心の篤い人間はほとんどいないですし、法力がある人間もいないんですけどね」
 元は同じ国、今や別の国の人となった、白い肌の青年と小麦色の肌の少年は、顔を見合わせて曖昧な笑みを交し合った。
 今日も暑くなりそうだった。

第二章 巡検使

   Ⅰ

 昼寝は怠惰である。
 北の国での常識は、暑い国に生まれ育った人間たちにとっては、とんだ無知と笑わざるをえない。
 気温が高い日中は、木陰や岩陰を見つけて入り、眠ってその暑さをやり過ごす。そして、陽が落ちて灼熱の大地が幾分冷めてから、また陽が高くなるまでのあいだだけ歩くのだ。
 無用な体力の消耗をさけるため、南国の人間たちは皆そうする。国籍も年齢もばらばらな一行も、むろんその例外ではなかった。
 ナディール人は暑さに弱いというのが、ガイゼスでは通説だ。
 しかし、彼らを見ているかぎり、その認識は改めざるをえないかもしれない。
「やあ、暑いなあ」
 一行でもっとも口数の多い青年は、日に何度もその言葉を口にしたが、それはちっとも嫌そうではなくて、それどころかむしろ愉しんでいるかのようだった。
 見慣れない植物を見つけては、指差してあれは何かとメイラとハルに問い、害のないものに関しては片端から触りに行く。抜けるような青空を仰いでは、口元をほころばせる。
「あまり、太陽(ヘウス)を見てはいけませんよ。瞳が焼けてしまいますよ」
 一方、保護者のように口うるさくセティに注意するリドルフの方も、暑さに辟易しているようすは全くない。
 それどころか、ハルとメイラの二人をなによりも驚かせたのはその、リドルフである。
 彼の治療により、通常では考えられないほどの回復をみせたものの、未だ体が完全でないカイを、リドルフは背負ったまま、平然と汗一つかかずに一行の最後尾を全く遅れることなくついてくるのだ。そのうえ、彼が飲む水の量は他の四人の半分以下であった。驚きを隠しきれずにハルが尋ねると、いろいろな修行を積んだので、とリドルフは穏やかな口調で答えたものだ。
 アイデンを発ってから三日が過ぎていた。
 ほとんど互いのことを知らぬまま、利害の一致と成り行きで行動を共にすることとなった五人だったが、それでも三日も寝食を共にしていればそれだけで何となくお互いのことが分かってくるものだから、不思議なものだ。
 セティは、神秘的で儚げなその浮世離れした容姿からは想像できないが、自由奔放、明朗闊達という言葉が服を着て歩いているようなものだった。
 雇用主であり、平穏無事に国境を渡らせてくれた恩人であるガイゼスの巡検使、ハル・アレンに向って言った言葉が以下のとおりだ。
「私と一つしか違わない? そんなに小さいのに?」
 次の瞬間、横合いから放たれたメイラの孤剣を彼は跳躍して身軽にかわした。そして額に青筋を立てて憤慨している巡検使の気の短い従者に向って、事もなげに言った。
「危ないだろう。私じゃなければ、貴重な戦力が一人死んでいた」
 日に何度か、セティとメイラのあいだにはこういうやり取りがある。
 もっともメイラは半分本気で、確かにセティが言うとおり彼が優れた身体能力を持っていなければ、命の一つや二つはとうに落としているはずだ。
 ハルの忠実な従者で剣技に長けていて、やや短気な老女メイラは、自ら道案内を買って出て、先頭を歩く。正確な年齢は分からないが、恐らくセティやハルよりも四十年以上は齢を重ねているはずの彼女は、信じがたいほどにとにかく元気だった。
 ぴったりと予定通りの距離を進むような歩調で進み、休憩の時間は稽古と称してセティと剣を交えたりもする。そして、セティが彼女の主であるハルにぞんざいな口を利くと、先のように鉄拳制裁を行使する。
 この時はセティとハルはひょんなことから年齢の話になり、自分よりもずっと年少だと思っていたハルが、実はセティよりも一歳年少の十六歳であるという事実を知って、その驚きを率直に口にしたのが原因だった。
「私は生まれつき体があまり強くないのです。いくら鍛えても腕は細く、小剣ですら満足に扱うことができません」
 確かに、セティが驚くのも無理はなかった。
 一般に赤色人種は白色人種に比べて、体格に恵まれている。それなのに、ハルの身の丈は白色人種の中でも決して大きくはないセティよりも頭一つ近く小さく、衣から伸びた腕や足は少女のようにか細い。
 実際一行のなかでもっとも体力がないのもハルで、進むにつれて息が上がり、ともすれば遅れがちになるところを、皆に迷惑をかけないように健気に何とかついてくる。
「セティ」
 たしなめるような口調でその名を呼ぶのは、リドルフである。
「あなたは少し無作法なところがあります。ハル殿と、メイラ様に謝罪なさい」
 品行方正、清廉潔白という言葉は間違いなく彼のために存在している。
 遅れがちになるハルを優しい目で見守り、自身もその背にカイという怪我人を背負っているくせに、ハルが限界を迎える直前になるとどうして分かるのか、何も言わず、歩調を緩める。ハルがそれに気づいて律儀に詫びると、彼はただ微笑んでそれに応えるのだ。
 そうして迎えた四日目の午後。
 何はともあれ、表面的には平穏にほぼ予定どおりの地点まで到達した一行は、太陽が中天にさしかかったのを見計らって、その日も手頃な岩陰を見つけ、仮眠をとることとなった。
 疲労を色濃く見せはじめたハルと、その従者のメイラが先に休む。
 交替の刻限になるとハルは仲の良い上下の瞼を無理やり引き離して起き上がり、北国生まれの二人組みに休むように勧めた。
「……… クライン・リドルフ殿は眠らないのですか?」
 ハルはふと妙なことに気がついた。外套を敷いたうえに横になったのはセティだけで、リドルフは自分の外套をセティの体にかけ、本人は胡坐の姿勢のままむき出しの岩のうえに座っている。
 リドルフはおだやかな口調で答えた。
「眠りますよ。セティが完全に眠ったら」
 リドルフの大きな外套に包まれたセティがわずかに、身動ぎした。
「この子は、そうでないとしっかり眠れないのです」
 こんなとき、ハルは何とも言えないような気持ちになる。
 当然といえばそれまでだが、彼らについて知っていることは、どれも表面的なものばかりなのだろう。
 金色の髪を慈しむように撫でて、空色の瞳を細めたリドルフの顔を見ていたら、なぜ、と口に出すよりも先に、なんとなく羨ましく思えてしまって、ハルは黙って頷いてみせた。
 干し肉と小麦を薄くのばして焼いたもの、それに水という簡単な食事を済ませた一行は、再び歩きはじめた。あと数刻も歩けば、目的地ラガシュに到達する。
 歩きはじめてすぐに異変を察知したのはセティ、それに一呼吸遅れてメイラとリドルフである。
 薄い膜のようにあまりにも頼りなく自分たちを包んでいた、平穏というものが破れたのだと悟っても彼らは驚愕も落胆もしなかった。
「リド」
「殿下」
 メイラとセティが同時に、呼ぶ。
 ハルが訝しがるようにリドルフの顔を見上げた。
 リドルフはこちらへ、とハルを促し、潅木(かんぼく)を背にして座らせる。器用に片手でカイの体を支えながら、自分の外套を脱ぎ、その上にそっと彼を横たえた。そして、歩いているあいだはセティに預けてある大剣を背負い直す。
「大丈夫です。何も心配することはありません」
 指で地面になにやら見慣れぬ文様を描きながら、リドルフはいつもと変わらぬ穏やかな口調でそう言った。
「ハル殿をお守りするために、私たちは雇われているのですから」
 襲撃者の人数は、一行の人数の倍には少し足りないほどだろうか。もっともこちらはその半分以上が非戦闘員であるから、セティとメイラが相手にする人数は単純に約四倍という計算になる。
「聞く耳はもっていないと思うが、一応言っておく。殺生はなるべくしたくない。命が惜しい者は退いてくれ」
 セティは言ってから、本当は意味合いが少し違う、と思った。自ら好んで人を殺めることはないが、身にかかる火の粉を振り払うためにはやむをえないとは思っている。しかし、殺生をすれば理由を問わずリドルフの小言は増える。だから、セティはなるべく人を殺めることは避けなければならないのだ。
 セティが悠長にも不毛なことを考えているあいだも、状況は当然なに一つ変わっていなかった。相変わらず八人の白覆面が、前に出たセティとメイラを半ば囲むような格好で立ちはだかっている。
 セティは小さくため息をついて、ちらりと後方を顧みた。
 潅木を背にしたリドルフが一つ頷く。どうやら準備は終わったらしい。
「確かに忠告はしたからな。不可抗力だ」
 後半の言葉は、リドルフへの宣言だったかもしれない。セティの口元に不敵な笑みが閃いたのが、開戦の合図となった。
 正面から白覆面が踊りかかる。メイラに一人、セティに二人だ。
 メイラが刃に独特な反りがある愛剣を抜く。金属と金属が触れる甲高い音が、澄んだ夜気に響いた。
 弾かれたのは、彼女よりも一回り大きい中剣を持った覆面の方だ。腕力は男の方が勝っているが、老女は正面から向かってくる力を逃すのが巧みだった。
 男の動きが止まったのは、ほんの一瞬だったかもしれない。
 しかし、彼女は一瞬の隙さえも見逃さず、がら空きになった男の腹部にめがけて孤剣を水平にないだ。
「やるなあ」
 一方のセティは、相手の剣先が自分の体に触れるか触れないかというところまで、柄に手をかけたままだった。
 抜き打ち。速い。
 一人を切り上げ、もう一人が剣を振り下ろす前に、切り下げる。
 メイラが剣を振るうのを、しっかりと視界の隅で確認しながらこの腕前である。セティが飛び退くのと同時に、二人は倒れた。
「余所見などするな。ここで小童に何かあっては残りの道中、殿下がお困りになる」
 悪態のなかに紛れ込ませた気遣いに、セティは思わず笑みをこぼした。
 打ち込まれてきた刃をきれいに受け流し、舞いを舞うかのように優美な動きでしなやかな体を反転させる。男が体勢を立て直す前に、彼の珍しい片刃の剣は覆面の背中を袈裟に切り下げていた。
「おかしい」
 口中で低く呟いたセティが、意識を違うところに向けたのは一瞬の半分にも満たない時間だったかもしれない。しかし、その間に覆面の一人がメイラの危険極まりない弧剣とセティの死の剣舞のあいだをすり抜けて、一目散に駆けていく。
 メイラが三人目の返り血を浴びながら叫んだ。
「何をやっている!」
「リドがいるから、大丈夫さ」
 怒鳴られたセティは悪びれたようすもなく、悠々と血に汚れた刃を懐から取り出した布で拭った。
「ハル殿、どうかここから動きませんように」
 神妙なリドルフの声に、ハルははたと気が付いた。セティとメイラの剣から奇跡的に逃れた白覆面が一人、こちらに向かっているではないか。
「じっとなさっていてください」
 リドルフの声は、ハルの耳を右から左へ抜けていった。
 それは、現実感が褪せて、ひどく、ひどくゆっくりと、ハルの目に映っていた。
 目前まで迫った男が、両手で構えた剣を振り上げる。白刃が青白い月の光を冷ややかに反射した。殿下、とメイラの緊迫した声が遠くで響く。その時――――。
発動(シュダイ)
 となりに座していたリドルフが静かに短いマントラを唱えた。
 土を踏んだような音。ハルに向けて振り下ろされた刃は、彼の華奢な体に届くことなく、乾いた鈍い音とともに見えない壁に阻まれた。
 驚いたのは、なにもハルだけではない。予想だにしない事態に、白覆面は口と目を大きく開いて、硬直する。
「ガッ……」
 不幸なことに彼は、自分の大手柄を阻止したものの正体も永遠に分からぬまま、絶命した。メイラが鋭く投げた短剣が、男の心の臓を貫いていた。
「殿下! お怪我はありませんか?」
 駆け寄ってきたメイラに、ハルが強張った笑みを浮かべて応える。
「大丈夫だ。リドルフ殿が守ってくださった」
 メイラはハルのすぐ足下に描かれた、不思議な文様の数々を見やって、わずかに眉をしかめた。リドルフはなにも言わずに苦笑するだけである。彼女の理解を得る日はまだまだ遠そうだった。
「婆さん! ハル! ちょっと」
 白覆面達の遺体の検分をしていたセティが、手招きをしていた。
 この期に及んでなお、殿下を呼び捨てにするとは云々と、呟きながらもハルに怪我がないことを確認したメイラが踵を返す。自分のことを敬愛をこめて婆さん、と呼ぶ白い肌をした美しい青年のことをメイラはすでに悪くは思っていなかった。
「土の壁」
 その背を見送りながらハルがぽつりと呟いた。リドルフが、空色の瞳をわずかに大きくしてハルの線の細い横顔を見る。
「あ、いや─── 私も行かなくては」
 視線に気が付いたハルは謝辞を言い、取り繕うように微笑んでからメイラの後を追う。リドルフはその後ろ姿をしばし見つめ、何かを確信したかのように一つ頷いた。
「どうかしましたか?」
 一体の遺体を取り囲むように屈みこんだ三人のあいだには、異様な空気が流れていた。そのせいで、最後に姿を現したリドルフの問いは、いささか間延びしたように聞こえたかもしれない。
 セティが困ったようにリドルフの顔を見上げて首を傾げた。どうやら、彼にも事態が呑み込めていないようだ。
 背をセティによって袈裟に切られたその男は、すでに絶命していた。ガイゼス特有の袖の短い衣の左肩のあたりに、布が重ねられて縫われているところがある。上の布が切れ、破けたその下に覗いていたのは、リドルフとセティには見覚えがない図柄の豪奢な刺繍であった。
「これは、どういうものなのですか?」
 緑の盾に金の王冠、盾のなかに勇壮な一匹の獅子が描かれた紋章───。
 リドルフの問いかけに、すぐに答えは返って来なかった。
 ハルの顔はひどく強張り、薄桃色の唇はわなないている。
「これは」
 彼が口を開いたのは、たっぷりと時間が経過してからだった。
「これは、王家の紋章です」
 メイラが唇を噛み、眉間の皺を濃くする。
「私の従兄である、ラガシュのシノレ公の」
 血の臭いをのせた生温かい風が、さわりと頬を撫でていく。
 ハルの短い黒髪が揺れ、月光を背に受けた四人の影が不気味に地面に伸びていた。
「と、いうことは――― ハルはガイゼスでかなり身分が高いということか」
 一瞬の間のあとに、一同の視線が一斉にセティに向く。セティは馬鹿に神妙な顔つきだ。
「だってそうだろう? 従兄が王族なんだから」
 この時のセティは一人だけ異邦人のようであった。同郷のリドルフがすぐ側にいたにもかかわらず、である。それは時が止まってしまったのではないかと危惧するほどに長く、微妙な沈黙だった。
 ややあって、メイラが呆れたように、というよりは不憫そうにセティを見つめる。それに続いてリドルフがため息をついた。
「なんだよ。二人とも」
 港町アイデンの風よりも多分に湿気を含んだ彼らの視線を受けて、さすがのセティもたじろいだ。ばつが悪そうに美しい金色の髪に覆われた頭に手を置き、無造作にかきまわす。
 ハルが、不意に笑い声を漏らした。
「殿下?」
 メイラの気遣わしげな視線にも気がつかずに、ハルは口を手で覆って笑い続けた。
 彼の従者は驚いたような顔を、リドルフは穏やかな微笑を、セティは憮然とした顔を彼に向ける。つい先刻までの重苦しい空気が嘘のようだった。
「ラガシュのシノレ公の亡き父君は、私の父の兄君にあたります」
 ようやく笑いを納めて言ったハルの表現は、いささか回りくどいものとなった。
「──── と、いうことは?」
 言いにくそうに視線を泳がせたハルの代わりに、メイラが胸をはって答えた。
「ハル・アレン殿下はガイゼス王国の第二王子にあらせられる」
「王子、さま…?」
 狼狽したセティが思わず見上げると、リドルフは淡い苦笑を浮かべてまた一つため息をついた。
「メイラ様が、ハル殿のことを殿下とお呼びしていたでしょう」
 リドルフの冷静な声は、セティの驚きに拍車をかけることとなった。
「リドは、知っていた───?」
「あるいは、そうでないかと思っていました。ただ、ハル殿が巡検使と名乗られたので」
「王子とは名ばかりで、私は一介の巡検使にすぎません。王宮で過ごすのは、年に一月ほどのあいだだけで、ほとんどはこうして国内を回っているのです」
「王子が巡検使、か」
 巡検使の仕事自体は全国の政情や民情の視察、災害の実態調査など立派なものだろう。ただ、国中を放浪するようなことになるため、あまり重要な役割を担う人間が就く職ではないようにセティには思われた。しかし、セティはその辺りの事情にあまり明るくない。
「正直を申しますと、私自身が何よりも王族扱いにはなれておりません。なので、変にお気を遣わないでいただけるとありがたいのですが」
「セティは高貴な方への口の利きかたを知りません。こちらこそ、ご無礼を働くことをお許し下さい」
 リドルフの返答に、ハルがいかにも嬉しそうに笑った。まだ幼さの残る顔だ。
「見当違いの疑念が解決されたところで、殿下。これはいかがいたしますか?」
 メイラの言葉にハルは真顔に戻った。
「襲撃者がこの紋章をつけている───。それは、事実をこのまま捉えるとするのなら、ハル殿を狙っているのはこれから我々が向おうとしている、その御方だということですか?」
 リドルフの言葉はあくまでも慎重だった。
「そういうことになります。紋章を掲げているのは、各将軍|麾下(きか)の正規軍であるという証なのです」
「紋章が偽物である可能性はありますか?」
 ハルとメイラが力なく首を横に振った。
 ガイゼスでは、個人や組織を特定する紋章の管理は国家機関で行われており、特に王家の紋章に関しては非常に取り扱いが厳しいのだと、ハルは事情を説明した。
 確かに、白い衣に刺繍された金色の糸も赤の糸も、色鮮やかで重厚な雰囲気を受ける。万が一にでもこれが偽物だとしたら、かなりの完成度だ。
「私は、違うと思う」
 一同の視線は再び、セティに集まった。
「太刀筋がばらばらだったんだ。それに、技量にも差がありすぎる」
 セティの発言は先刻とは異なり、鋭すぎるぐらいのものだった。そのため彼の言う意味を即座に理解したのは同じく剣を遣い、襲撃者と刃を交えたメイラだけだった。
 メイラは弾かれたようにセティのあくなく整った白い顔を見て、次に主の顔を見た。
「殿下、小童の言うとおりでございます。今回の襲撃はシノレ公の兵によるものではありません」
 ハルとリドルフがじっと老女の顔を見つめた。
「我が国ガイゼスは殿下もご存知のとおり、武力で栄えた国です。そのため、正規軍はよく修練を積んだ者ばかりです」
「つまり?」
「師範の元で、剣を学びます。そうすると、もちろん太刀筋は似たようなものになります」
 剣に疎い二人も、ようやくその意味を理解した。
 セティが顎に手をかけて、記憶を辿るように視線を虚空に置いた。
「私が相手をしたのは三人。一人目と二人目は、それなりには遣えるようだったが、構え方が全く違った。そして、三人目は柄を握る手もおぼつかないほどだった」
 セティはあのとき感じた違和感を忘れてはいなかった。正直すぎるくらいに真っ直ぐに打ち込まれてきた剣は、手応えがなさすぎたのである。あまりの稚拙さに拍子抜けしてしまい、それが原因で一人を取り逃がしたのだ。
「シノレ公は、三将軍きっての勇将です。それほどの方が指揮する兵が、あの程度であることは考えられません」
 メイラは、セティのように太刀筋の違いや技量の差までは認識していなかった。それだけ、ハルを守るということに必死だったのだ。しかし、手ごたえのなさは、無意識のうちにどこかで感じていた。
「確かに、もしもシノレという方が、本当にハル殿の命を狙っているとしたら、正規軍など動かさないでしょうね。自分が犯人であると、宣言するようなものですから」
 リドルフが言うことももっともであった。
「では一体、誰が私を。そして──── この紋章は」
 ハルの呟きは闇に溶けた。得体の知れない悪意にからみつかれたようで、ハルは背中が薄ら寒くなり、自分の体を自分で抱いて視線を落とした。視線のさきでは、ほつれた上布からのぞく豪奢な紋章が、不気味にその存在感を主張していた。
 しかし、今、巡検使殿の問いに毅然と答えられる者は残念ながら存在しなかった。
「殿下、まずはやはりラガシュに向い、シノレ公とお会いになるのがよいかと」
 メイラの提案はもっとも現実的で、建設的なものであった。得られた情報はまだ不十分すぎる。むろん、シノレ公の疑惑は完全に拭い去られたわけはなかったが、携行している糧食も水も残りわずかである。どちらにしても近場で調達しなければどこにも向えないのだ。
 メイラの提案に意を唱える者はいなかった。現実的にそうするしかないということは、誰もがよく分かっていた。
 口数も少なく、一行は残りの行程を進んだ。
 雲行きの怪しくなった彼らの道に唯一光が差したことといえば、重傷を負い、朦朧としたまま生死の淵を彷徨っていたカイが、リドルフの背のうえではっきりと覚醒し、二言、三言ではあるが話してみせたことだろうか。
「ラガシュだ」
 朝日を背に彼らの前にそびえたつのは、城塞都市、ラガシュの城壁であった。

   Ⅱ

 城塞都市、ラガシュ。
 北はナディール、東はアドリンドとの国境にほど近い場所に位置し、古くは大国ナディールの南方拠点として繁栄し、十八年前の世紀の独立戦争時にはガイゼスの攻守の要として両国の軍が激闘を繰り広げた。
 現在ではガイゼス国内においてももっとも精強を誇る軍が逗留し、現王アンキウスの甥であり、三将軍の一人であるシノレ・アンヴァーン公が治めている。
 一行が城壁の門をくぐったとき目にしたのは、夜明けとともに活気づきはじめた城下町であった。
 大通り沿いには小さな商店が軒を連ね、よく熟れた果実や新鮮な野菜、油漬や塩漬けに加工された魚などの食料品の他、ガイゼス人の日常着となる薄手の袖が短い衣、日光や砂埃から体を守るための外套など、実にさまざまなものが売られている。なかには簡単な食事を提供している店もあり、風に乗って流れてくる羊の肉を焼く香ばしい匂いが食欲をそそる。
 女たちが談笑しながら、昼食や夕食の材料を買い求め、男たちが本格的な食事の前に屋台で軽く腹ごしらえをし、子供たちは広場を走り回る。
「いい町だな」
 セティは呟いて目を細めた。
 多くの兵士が逗留し、戦時ともなれば最前線となる町だとは信じられない。
 眼前に広がっていたのは、ひどくありふれていて、けれど平穏で幸せに満ちた日常だった。
「ラガシュは、ガイゼスにおいても極めて治安のよい町です。シノレ公は非凡な武人であるとともに、優れた領主でもあるのです」
 同じように目を細めて、ハルもその光景を眺めた。
 大通りを真っ直ぐに進み、城門まで来るとメイラがハル・アレン王子の来訪を門番に告げた。セティやハルと同年ほどと思われる若い門番は慌ただしく城内に消えていった。
 ややあって、彼とともに姿を現したのは壮年の男である。
「殿下、お久しゅうございます」
 男は恭しく腰を屈めた。
「お元気そうで、何よりです。ランド殿」
 来訪の意図を告げるよりも早く、彼らは慌ただしく城内に招き入れられた。むろん、巡検使殿の従者と、得体の知れぬ二人のナディール人も例外ではない。
 客間に案内されると、すぐさま冷たい蜂蜜水が運ばれてくる。
 有難く蜂蜜水で喉を潤わせたハルは実に要領よく、手短に事情を説明した。
「将軍は外出しております。日が沈むころには戻りますので、まずは旅の疲れをお癒しください」
 食事と湯殿の用意をさせる、といってランドは部屋を後にした。
 これは、一行にとって大変ありがたい気遣いであった。この五日間は砂埃に吹きさらされっぱなしで、セティとメイラは夜半の戦闘で多少、返り血も浴びている。そのうえ、食事といえば干し肉と薄く焼いた固いパンだけである。当然、菜食主義のリドルフは水とパンしか口にしていない。
 客間で蜂蜜水を片手にしばし談笑していると、準備が整った旨を伝えにランドが再び姿を現した。
 お連れの方もどうぞ、といういかにも有能そうなシノレ公の片腕の言葉に甘え、リドルフとセティも別室で風呂に入り、砂と血の臭いを落とした。
「ガイゼスの男子は、こういう格好をするのか?」
 風呂を上がれば、ふたりにはしっかり着替えまで用意されていた。リドルフは僧衣があるので辞退したものの、好意に甘えて用意された衣に袖を通したセティは、その形と趣向に首をひねった。
「さあ、どうでしょう。何分、文化が違う国ですからね」
 答えながらリドルフは、脳裏にひらめいた懸念が杞憂に終わることを心から祈っていた。
 客間に戻ると、先に風呂に入って衣を改めたハルが、クッションのきいた長いすに座って、ぼんやりと外を眺めていた。彼が着ているふちを金糸と緑糸で縁取られた衣は、嫌味なく上品なものだった。
「ハル、ガイゼスの男子はこういうものを纏うのか?」
「え?」
 セティの訝しげな声に、ハル・アレン王子がはっとして振り返った。
「足元が心もとない気がするんだが」
 自分が着ているものと、ハルが着ているものを見比べてセティは首を傾げた。
 裾が膝丈までの長さの胸元が広めに開いたつくりの衣からは、セティの白すぎる肌が露出し、彼が動くたびにひらひらと裾がなびく。
 ガイゼスでもっとも一般的な女人の衣は、おどろくほどセティに似合っていた。
「あ── はい、ええと……」
 ハルは分かりやすく窮した。セティより一歩下がった位置のリドルフは苦笑を浮かべている。
「こういうものを着ることもありますが、それではセティ殿は何かと不便でしょう。もう少し動きやすいものを用意してもらいましょう」
 この世のものとは思えぬほどに美しいこの青年は、何よりも女に見紛われることを嫌うのだと、ハルはリドルフから聞いて知っていた。いささか不自然であったかもしれないが、ハルとしてはこういう具合にしか危機を切り抜けられなかった。
 セティとリドルフの横をすり抜けて、慌てて部屋を出て行く華奢な王子の体から、かすかに甘く、典雅な香りがふわりと舞ってすぐに消えた。
 身ぎれいにした一行は、カイを除いて食堂に案内された。未だ体が十分とは言えぬ彼は水で湿らせた布で体を拭いたあと、リドルフが煎じた薬湯を飲み、よく眠っている。
 石造りの城内は、大分太陽が高くなってきているにも関わらず、涼しく、快適であった。
 この五日間、炎天下の中でわずかにできた日陰に身を寄せ合って眠ってきた一行にとってはそれだけでも十分にありがたい。
「本来なら殿下にお出しできぬような、庶民の料理です。お口に合うとよいのですが」
 ランドの言葉は謙遜としかとれぬ。彼の合図で運ばれてきた料理は急ごしらえで用意されたとは思えぬほど、見事であった。
 焼いた羊肉の柘榴ソースかけ、トマトと野菜のシチュー、バターライス、オイル漬けの魚に香草をまぶして焼いたもの、もっちりとしたパン。薔薇水、チーズ、熟した果実。そして、よく冷やされた麦酒(ファーガ)
「どうぞ、ごゆるりと」
 ランドと侍女が下がったのを視界の隅で確認して、ハルを制して毒味をしようとしたメイラを、さらにリドルフが制した。
「私の体は毒に慣れています。多少ならば口に入っても問題ありませんし、何かが混じっていればすぐに分かります」
 毒味ならば任せろ、とリドルフは言っているのだ。しかし、メイラはそれを肯じられなかった。
「私たちは傭兵です。いくらでも替わりがいます。けれど、王子殿下の信頼のおける従者殿はメイラ様しかいません。違いますか?」
 この青年の言うことは、どうしてこうも簡単に人の心をほぐすのだろうか。まるで、そこを突けば崩れるというのが分かっているように、静かに心地よい声音でそれを言うのだ。
 メイラの良くも悪くも頑なな性格をよく知るハルは、彼女が黙したまま手にした匙を置いたのを、感嘆として見ていた。
 リドルフは全ての料理を少量ずつ口に入れ、慎重にそれを吟味した。そして、三人に向かって頷いてみせる。
「問題ありません」
 その言葉におおいに喜んだのはセティであった。異国の料理の数々を皿に取り分けて、口に運ぶ。すらりと均整の取れた細身の体からは想像もできないような量が、飲み込まれていった。しかしその動作は粗野というのには無縁で、どこか品があるのが妙だ。
「食欲がないのですか?」
 対照的に、一向に食の進まぬ華奢な巡検使に、リドルフは小皿に取り分けた料理を置いてやる。
「いいえ。そんなことはないのですが」
 律義に謝辞を述べて皿を受け取ったハルは力なく笑った。
「ただ、シノレ公の城でさえ料理の毒味をせねばならないということが、哀しいのです」
 このときリドルフは、ハル・アレンという人物の一端に触れた気がした。華奢なのはきっと姿形だけではない。それがガイゼスの王子という立場にある彼にとって、善いか悪いかは別として──。
「いざという時のために、今はしっかりお召し上がりください」
 優しいリドルフの言葉に背中を押されるようにして、ハルはぎこちなく笑って料理を口に入れた。
 食事を終え、さしあたっては焦眉の急もないと悟ると、満腹の彼らの体が欲したのは睡眠である。
 この五日間、硬い地面に外套を敷き炎天下のなか交代で短時間の睡眠を取ってきた彼らにとって、いかにも清潔そうな客間の寝台は天国に等しい。
 見張りに立つと言って聞かない老女と、彼女の主であるハル・アレン王子を奥の間の寝台に追いやり、セティとリドルフは二間続きの広い客室の、入り口側の部屋の長椅子にその身を落ち着けた。奥の部屋からはほどなくして、規則的な寝息が響きはじめた。
 暑さに弱いはずのナディール人の二人組みは、連日の炎天下での野宿にも大して疲れもせず、それどころか、入浴と満足な食事ですっかり体力を回復していた。
「リドは、ハルがガイゼスの王子だって分かっていたんだな」
 セティはいささか不満気な顔だった。姿勢よく長椅子に腰掛けたリドルフが困ったように小さく頷く。
「初めから分かっていたわけではありませんよ。途中から、予想が確信に変わったというだけのことです」
「どうして止めなかったんだ?」
「止める機会を逸したのです」
 リドルフの口調はいつもと変わらなかった。
「でも、これ以上の深入りは止した方がいいでしょう。今ならまだ、遅くない」
「ハルを、見捨てるっていうのか?」
 非難するようなセティの眼差しを、リドルフはやんわりと受け止めた。
「そうは言っていません。ただ、私たちが側にいることで、問題が余計に大きくなる可能性があるという意味です」
「問題が、余計に大きくなる可能性?」
 リドルフは頷く。
「あなたはハル殿が命を狙われる理由は何だと思いますか?」
 セティは形の良い口を尖らせて、眉間にしわを寄せる。
 命を狙われる理由など、怨恨、妬み……そのぐらいしかセティには浮かばない。しかし、それをハルに当てはめてみると、しっくりこないのが正直な感想だ。
 困惑するセティのようすを眺めて、リドルフは付け加えた。
「ハル殿がガイゼスの王子であるという事実を踏まえて」
 セティの脳裏にすぐさま閃くものがあった。
「……政争」
「国王が体調を崩されている今、ガイゼスの内情は安定しているとは言えません。詳しいことは分かりませんが、ハル殿は何らかの権力抗争に巻き込まれている可能性が高いのだと思います」
 セティは頬杖をついて、眉根を寄せた。
「加えてハル殿は王子という立場にありながら、巡検使という役に就いています。背景にはなにか複雑な事情があることも十分に考えられます」
 それは、セティも引っかかった点だった。しかもリドルフの口ぶりだと、どうやらセティが抱いた印象どおり、巡検使という職は王子が就くようなものではないようだ。
「そこに、あなたが関わっていると分かったら、ナディールの人間は穏やかではいられないでしょう」
「私はナディールの(まつりごと)には関係ない」
 セティはむっとして言い捨てた。
「直接は関係なくとも、与える影響力は強いのです。分かっているでしょう?」
 白い頬がみるみるうちに紅く染まり、セティは金色の髪を揺らして勢いよく立ち上がった。
「強いのは、影響力じゃない。利用価値だ!」
 リドルフは何も言わずに左手の人差し指を、唇の前に立てた。その仕草にセティもはっとして、奥の間を見遣る。穏やかな二種類の寝息は、変わらずに続いていた。
「私は、セティ・コヴェだ」
「知っていますよ」
 空色の瞳はいつもにもまして優しい。
「自分の道は、自分で拓くと決めたんだ」
 結ばれた口には頑強な意思がよく表れていた。
「私が共にいることで、問題が大きくなるのなら、私が問題そのものを切り捨ててやる」
 リドルフが眩しそうに眼を細めて、諦めたように笑った。
「私の主はあなたです。主が選んだ道を、私も進むだけです」
 セティはふいと横を向いて、元のように椅子に座った。
 それからセティはリドルフには一言も口を利かずに、部屋に運ばれていた麦酒(ファーガ)をしこたま飲み、そのまま長椅子に寝そべって寝息を立てはじめた。
 白い頬をほんのりと紅く染めて、すっかり寝入ってしまったセティの髪を撫でて、リドルフは思わず目を細める。
 セティは、元からあまり酒に強い体質ではない。
 確か、はじめて口にしたときは気分が悪くなり、ひどく嘔吐していた。それでも酒が与えてくれる、朦朧とした時間が好きで口にするのだろう。
 まるで幼子をあやすように髪を撫でてやると、セティは眠ったまま、にこと笑い、彼の体に対してはいささか小さい長椅子のうえで、器用に寝返りをうつ。
 どれほど悪態をついても、わがままを言ってもいい。こうやって、いつも、安穏な顔で眠ってくれるならば──。リドルフは、心からそう思うのだ。
 寝息の三重奏を聴きながら、リドルフは窓の外へと視線を動かした。
 乾燥した大地に、灼熱の太陽。旅のはじまりから遠く離れた、場所。
 雪というものがどんな感触だったのか、もう忘れてしまったような気がする。
「とうとう、こんなところまで来てしまいましたね」
 それは悲嘆でも歓喜でもなかった。ただ事実を口にしただけだった。
 リドルフの瞳は、それと同じ色の空をただ、映していた。

   Ⅲ

 陽が沈み、夜の帳がすっかり降りてもシノレはまだ戻らなかった。
 ランドの勧めで先に夕食を済ませ、ナディール人の二人組は城主の帰りを待たず、あてがわれた寝室で休むこととなった。一方のハルとメイラは、シノレ・ア ンヴァーン公の帰りをただひたすらに待ち続けた。昼間に十分な休養は取っていたし、ハルはこのまま眠れるような気分でもなかったのだ。
 戸を叩く音に気がついて、ハルは眺めていた書から顔を上げた。
 視線を交わし、メイラが立ち上がって薄く戸を開ける。
「将軍!」
 立派な体躯、束ねられた漆黒の髪と褐色の肌。ガイゼスきっての勇将に相応しく、その威風堂々とした姿はシノレ・アンヴァーンに違いない。
「壮健そうだな、メイラ」
 将軍自らのおとないに驚く王子の従者に、まるで親しい友人に向けるように言って笑う。
 切れ長の瞳は眼光が鋭く、一見人を圧するようにも思われるが、笑うと信じられないほどに優しい顔になる。こんなところが、国民に絶大な人気がある理由のひとつかもしれない。
「ハル・アレン公。ずいぶんとお待たせさせてしまい、申し訳ない」
「いいえ、とんでもありません。私が突然訪ねたのですから」
 ハルは背の高い従兄の彫りの深い顔を見上げた。
「ランドから、およそのことは聞きました。急いだのだが、ずいぶん待たせることになってしまって」
 その言葉は紛れもない真実だろう。恐らくシノレは城に戻り、すぐさまその足でハルの待つ客間を訪れたのだ。その証拠に彼は剣を佩き、外套を羽織ったままだった。
「すぐにでも詳しい話を聞きたい」
 私室で待つと言った従兄の広い背中を見送って、ハルは小さく一つため息をついた。
 城主の私室での会談に、さすがのメイラも同席するとは言い出せなかったが、彼女の複雑な心境はそのままよく表情に表れていた。
「殿下……」
「行ってくる」
 何とも形容しがたい心境は、ハルも同じであった。
 十以上も年の離れた従兄は王宮にいる誰よりもハルを可愛がり、気にかけてくれる。そんな人物と二人で話しをするというのに、懐に短剣をしのばせるかどうか一瞬迷う自分がいた。
「大丈夫だ」
 まるで自分に言い聞かせるかのように言って、ハルは部屋を出た。
 侍従に案内されて闇に沈んだ城内を歩く。男の持つランプだけが、ハルの足元を頼りなく照らしていた。
 シノレの私室に辿りつくまでのあいだ、ハルはなにも考えられなかった。と、いうよりはどこかに考えたところでどうしようもない、という思いがある。
 いつもそうだった。考えても選んでも、自分の意思とは無関係に事が起きるときは起きるし、それに抗うのは難しい。
 なにか大きな流れのようなものがあり、自分はただそれに流されていくことしかできない気がする。それは、達観といえるほど崇高なものとはほど遠く、諦めというものに近いのかもしれない。
 案内されたシノレの私室は城主の部屋とは思えぬほど、ひどく簡素なものだった。
 卓と長いす、奥には寝台。調度品に客間にあるような豪奢なものは何一つない。それが彼の清廉な人格をよく表しているようだった。
 平服に着替えたシノレはハルに長いすにかけるように勧めた。
「ハル殿がラガシュにおいでになるのは、いつぶりか?」
「確か、前にお会いしたのは半年ほど前だと思います」
「もうそんなに経ったのか」
 シノレは切れ長の瞳を大きくして、葡萄酒(シャルル)を注いだ杯をハルに手渡した。ハルはそれを受け取りながら答えた。
「ラガシュは豊かで、平和で── 民は皆満足して暮らしております。巡検使が視察に来る必要などないではありませぬか」
 それはどうかなと悪戯ぽく笑って、シノレは葡萄酒(シャルル)を飲んだ。
 ごく短い世間話を交わしたあと、ハルは改めて事情を説明した。ただし、このラガシュに着く直前にシノレの紋章をつけた人間に襲撃された、という事実は伏せて。
 シノレはただ黙って真剣な顔でハル・アレン王子の話を聞いた。一通り、従弟の話を聞いた彼が口にしたのは、一見関係なさそうな一言であった。
「最近トゥルファの叔父上にはお会いになられたか?」
 唐突な問いを怪訝に思いながらも、ハルは律儀に答えた。
「トゥルファは国境から王都に戻る途中に寄るつもりでした。なので、久しくお会いしていません」
 ラガシュが軍事拠点であるならば、トゥルファは商業拠点である。
 ガイゼスの一大貿易拠点である大都市トゥルファは、現王アンキウスの実弟、ロガンが治めている。他国との物流を一手に引き受けるその町は、ガイゼスの商業の生命線と言っても過言ではない。港に並ぶ帆船の姿は壮観で、見るものは必ずと言っていいほど圧倒される。
「私は今、トゥルファから戻ってきた」
「従兄上が…… トゥルファ、ですか?」
 ラガシュからはかなり遠い街である。城主であり、軍を束ねる立場にある三将軍の一人であるシノレ自らが行くのは、非常に珍しい。
「公務ではない。叔父上に内々に話したいことがあると呼ばれて、行ったのだ」
「内々に?」
 シノレは葡萄酒(シャルル)をまた一口飲んで、ハルの問いには答えずにやや不自然な話題転換をした。剛毅と形容されるこの英傑には相応しくない歯切れの悪さである。
「ウルグリードと連絡は取っておられるのか?」
「多くの部下を失いましたので、いつものようには……。此度の件に関しては非常事態ですので、国境から使者は出しましたが」
「しばらく連絡は控えたほうがよいかもしれぬ」
 視線を手元に落としてハルは、弾かれたように顔を上げた。シノレの漆黒の瞳がひどく真摯に向けられていた。
「今、なんとおっしゃったのですか?」
「連絡は控えた方がいいと。そう言ったのです」
「どういう意味でしょうか?」
 巡検使の役目は各地を視察し、その報告を国都に送ることだ。それではまるで仕事にならない。
「端的にお伝えしよう」
 何かを決めたかのように、シノレが手に持っていた杯を置き、一つ息を吸った。
「ハル殿のお命を狙っておいでなのは、王太子殿下だ」
「王太子……殿下」
 ハルには従兄が一息で言った言葉がよく咀嚼できなかった。
「ハル殿の、兄君だ」
「兄君……」
 口中で何度か繰り返して、ようやくハルはシノレの言った言葉の重大さを認識した。
 それに気がついたとき、危うく声を上げそうになって、両手で口を覆う。血の気の引いた、線の細い端正な顔をやや心配げに見遣って、シノレは話しはじめた。
「叔父上の話というのは、どうも、国王陛下のご病状が芳しくないらしい。というようなものだった」
 病床にあるガイゼス王国の現王、アンキウスは未だ壮年と呼ばれる年齢である。国王が公の場に姿を現す回数が減ったのは、二月ほど前のことになる。
 王の病状の詳細は国家機密とされ、それを知るのはごく一部の限られたものだけである。その中にはハルやシノレなど王家の一族ですら入っていない。
 国民の強い支持を受け、臣下からの信頼も篤いアンキウス王の病状が懸念されるのは当然であるが、王の容態に関し、周囲がこれほどまでに神経質になるのは他にも理由がある。
「陛下の治療を担う医師団の相談役には亡命したナディール人もいて、オリス神の祟りではないか、などと言っている輩もいるようだが……」
 ガイゼス王国は以前にも、有能な指導者の早世という悲劇に見舞われている。
 イミシュ・アンヴァーン。ガイゼス王国初代国王で四十二歳の若さで早世した、シノレの父にあたる人物である。
 ナディールの人種差別主義、不条理な特権階級制度に反感を募らせた下層階級の人々が決起したのは、今から三十年ほど前のことになる。
 決起といえども、力も武器もない人々の集まりである。町の役所に火を付けて一晩暴れただけで、それはいとも容易く鎮圧された。しかし、その一つの小さな反乱は、まるでナディール全土に鬱積していた不満に火をつけるかのようにしてたちまち燃え広がった。
 (くわ)(すき)を手にとって暴れまわる男たちは、火の神(アデン)の神官たちの法術によって身を焼かれ、国都ハプラティシュになだれ込む人間たちは、目に見えぬ壁に弾かれた。人知を超えた力を行使するナディール軍は決して数は多くないが、法力を持たぬ人間が立ち向かうにはあまりにも強大であった。
 白人どもに法力があるのなら、我らにあるのはこの腕である────。
 南方の小勢力の頭領であったイミシュ・アンヴァーンはそう高らかに宣言し、剣技に磨きをかけてそれを人に伝え、器用な手先を活かして武器の改良に労力を惜しまなかった。
 ナディール暦二二五年。イミシュが率いる軍勢と、国王軍の精鋭が衝突。
 イミシュの大剣がナディール軍の中将とも言える、火の神(アデン)神官長(クラメステル)の首を跳ね飛ばしたとき、ナディール国王は戦慄し、反乱勢力には希望の光が差し込んだ。以後十年に渡って続く、独立戦争の命運を占うような反乱軍の勝利であった。
 武勇と指導力とに優れたイミシュは私利私欲がなく、公正で理想主義者だった。
 先の戦い以来、彼の下には多くの人が集まるようになり、反乱軍は彼の下で統制されていった。
 イミシュは理想主義者であったが、戦においては至極現実的な考えの持ち主で周囲の人間たちの意見をよく聞き、自ら剣を取り、馬を駆り、いかなる時も先頭で闘った。
 身に着けていた甲冑が目の醒めるような青であったことから、ナディール軍からは畏敬の念を込めて、味方からは親愛を込めて、彼はいつしか「青い英雄」と呼ばれるようになった。
 漠然とした不満の噴出に、イミシュはナディール国家からの独立という明確な方向性をつけ、ナディール歴二三五年、ついにガイゼス王国を建国。
 翌、二三六年──。独立を肯んじないナディール側の大軍と、後日、神すらも眉を顰めると形容された凄惨な大戦に突入していくこととなった。
 ガイゼス国民は女子供も剣を取り、弓を持ち、全国民が総力を挙げて闘った。先頭に立つ国王イミシュをはじめ、優れた将であったアンキウスら王弟たちにも鼓舞され、独立という強い信念に支えられていた彼らは、人知を超えた法術という不思議な力を操るナディール軍に怯懦(きょうだ)することもなく果敢に戦った。
 ナディール暦二三七年。法力を有しないがために、ナディールの下層階級であり、奴隷であった赤色人種は、激闘の末、大国ナディールと対等の停戦条約を結ぶこととなり、ついにガイゼス王国の建国が公式にも認められることとなったのである。
 およそ一年間の激闘、通称「ヤルカドの会戦」とそののち締結された事実上ガイゼスの独立を認める条約は、ナディール国内だけではなく近隣諸国にも大きな衝撃を与えた。白色人種だけが使える法術によって他を圧倒するナディール軍が、法力を持たず、武器を操る赤色人種に事実上破れたのである。
 しかし、幸運は長く続かなかった。
 条約締結からわずか四年後、イミシュは原因不明の病に冒された。
 国内外から手段を問わず評判の医師たちが集められたが、全く治療の目処は立たない。国のただ一つの支柱が突然倒れたことに、臣下のみならず全国民が恐慌し、国内は恐慌状態になった。
 独立からまもなく、未だ壮年と形容するのも早い年齢であった国王の後継者は正式に決まっていなかったのである。
 高熱に喘ぎながらもイミシュは、自分が死んだ後は、息子のシノレではなく弟アンキウスに後を継ぐように言った。国の将来を憂いた国王は未だ若い王子が即位し、国が分裂、または混乱することを恐れたのである。
 臨終間際の兄王の言葉に神妙に頷いた王弟アンキウスの姿に安心したかのように、治療の甲斐なくイミシュは病床についてからわずか半月でこの世を去ることとなった。
 青い英雄王イミシュ・アンヴァーン、四十一歳の若さであった。
 遺言どおりイミシュに代わり、王位についたのは弟アンキウスである。
 青い英雄王の突然の崩御に国中に衝撃が走り、人々は悲嘆にくれていた。イミシュという存在は、ガイゼス国民すべての心の大きな支えであったのだ。
 アンキウスは即位以来、独立のために疲弊した国民の幸福度を上げるために、ただひたすら内政に力を注いだ。
 まず全国から有能な人材を発掘し、ひとりひとりと話してじっくりとその資質と人柄と見極めて有望な人材には、権限を持たせて仕事をさせ、権力の分散を図った。次には赤色人種の手先の器用さを活かし、産業と商業を活性化させ、他国との貿易も盛んに行った。その成果はめまぐるしく、ガイゼスはごく短い期間で大陸でも有数の富国に成長した。
 イミシュは英雄王と言われたが、その功績は軍事的なものが大半だった。
 一方、兄王が健在のときから内政面を陰ながら支えてきたアンキウスの政治的手腕は即位以降、遺憾なく発揮されることとなり、アンキウスはいつしか「微笑みの賢王」と呼ばれるようになっていたのである……。

 アンキウス王の病状が良くないことが国にとって大変な懸念であることは、ハルにもよく分かる。しかし、それと兄が自分の命を狙う関連が、彼には全く分からなかった。
「近頃、王都では噂が流れているらしいのだ」
 ハルはじっとシノレを見つめた。
「アンキウス王の次は、王太子殿下ではなく、ハル・アレン王子ではないかという」
「そんな……馬鹿な!」
 ハルはあまりの驚愕のため、今度こそ声を上げてしまう。
「国王陛下は未だご健在です。それに、私は、王位継承権を持たぬ身です。なぜ、そのようなことが──」
 ガイゼス王国はアンキウス王の手腕によって、経済的には瞬く間に発展したが、未だ歴史の浅い国である。その分、主軸が失われたときの衝撃は他国とは比べものにならないほど大きい。
 さらに、イミシュのときは正式な後継者が立てられていなかったこともあり、混乱は大きかった。その教訓を踏まえて、アンキウスは権力を分散化させるとともに、長子フェウス・アレンが十五歳になったとき王太子立式を行い、国内外に向けて跡継ぎを明確にしている。
「ハル殿に王位継承権がないというのは、周知の事実だ」
 王位継承順位はフェウス・アレン王子以下、十二位まで正式に定められ公表されているが、そのなかに第二王子であるハル・アレンの名はない。
「でしたら、なぜそのようなことが──」
「しかし、ハル殿が民によく慕われているというのも、また事実なのだ」
 ハル・アレン王子は、幼少のころから体が弱く病気がちで、本人が公言しているとおり、小剣すら満足に扱えない。ガイゼスの男子として最高の褒め言葉である 「勇猛」というのにはかけ離れているが、柔らかな物腰と穏やかな気性が父王アンキウスの素晴らしい性質をよく引き継いでいると評判だった。
 一方、ハルよりも三歳年長の王太子、フェウス・アレン王子は剣と槍の扱いが巧みでありながら、書や詩を読むのも好み、勇将でもあったアンキウスの一面をよく継いでいる、と言われている。ただ、若さ故か少々気性の激しいところがあり、そこが難点だとも言われているようだった。
「今は戦時ではない。より内政に向いた人間が、王として望まれるのは民の心情としては当然とも言える」
「そんな……」
 薄桃色のハルの唇が震える。
「兄上は一軍を率いる将です。それに引き換え、私はただの気ままな風来坊。なんの責任も負っていないからこそ、私は安穏としていられるのです」
 シノレは口許を僅かにほころばせた。こういうところが人に好かれるのだということに、この王子は自分で気づいていないのだ。
「現実味を帯びていなかった『王太子』というお立場が、陛下の病状が優れぬことによって、急に重くのしかかってきたのであろう。そこにハル殿を推す人間たちが王宮にもいるらしいことを知って、王太子殿下は疑心暗鬼になられたのだと思う」
「王宮にも―――?」
「叔父上の話だと、そういうことらしい」
 ハルの顔色はすでに蒼白に近い。彼が巡検使などという役に就くときに、真っ先に反対したのは他ならぬシノレだった。このいかにも優しげな王子は、王宮の奥で過ごすことが大半で、季節の変わり目には必ずと言ってよいほど、しばらく床に就いてしまうのだ。
「ハル殿、ご気分が悪いのではないか?」
「いいえ。ご心配には及びません」
 ハルは震える唇をかみ締めて答えた。切れた下唇から血が滲む。シノレはふっと顔を緩めると手を伸ばし、華奢な逆三角形の王子の顎に手をかけて、指先で唇に滲んだ血を拭ってやる。
「もう休まれよ。無理をされると、お体に差し支える」
「でも!」
 立ち上がったハルの小柄な体が、柔らかいものでも踏んだかのようにふらりと傾いた。シノレが素早く細い腕を掴んで支える。
「すぐに公の従者殿をお呼びしよう」
「でも……」
 言いかけたハルの言葉には先ほどよりも力がなかった。なんとか自分の力で体を支えようとしているが、それはひどく頼りなく、シノレが手を離せばすぐに崩れてしまいそうだ。
「ハル殿のお体のことは、私もよく知っている」
 シノレは優しい声で囁いて、軽々と抱き上げて長いすに従弟を横たえた。
 ハルは、それ以上は抵抗せずに遠ざかっていく従兄の足音をまるで現実のものではないように思いながら、ぼんやりと聞いていた。
 体がなにかひどく冷たいもの侵食されていくような気がする。それは非常に不快な感覚で好まざるものであるのに、それを拒絶する術を知らない。
 また、流れているのだ。
 ハルはそう思った。
 自分を取り囲むものがゆるゆると流れはじめている。それはもしかしたら激しい流れになるのかもしれない。その行く先になにがあるのかも分からない。
 体が侵食されていく。芯まで冷えていく────。いつだったか、前にもこんなことがあった。あれは、いつのことだっただろう。
 そこまで思い出しかけて、ハルは考えるのを止めた。
 考えるのは無意味なのだ。流されはじめたら、それに従うしかない。自分の力ではどうにもならない。抗えない。ただ、流れていくしかない。
 目蓋の裏によぎる、美しい金色の髪の女の姿。あれは、何だっただろう―――。
 両手で耳を塞いで、頭を振る。
 何も思い出したくないし、考えたくなかった。
 遠くで何種類かの足音が聞こえた。よく聞こえない。まるで水のなかに潜ったようだった。
 そこで、ハルの意識は途切れた。

 殿下が倒れた──。
 メイラが慌てふためいて部屋に飛び込んできたのは、明け方近くだった。
 ドアが開く前から気配を察知したセティは、眠ったふりをしたまま枕下に忍ばせていた短剣に手を伸ばし、一方のリドルフは彼の指示どおり寝台のうえでじっとしていた。
「なんだ、婆さんか」
 部屋に飛び込んできたのがメイラだと分かり、跳ね起きたセティは短剣を持ったまま拍子抜けした。
 ろくに事情も説明せずに、半ば引きずるようにしてリドルフを連れて行くその後ろ姿を見ていたら、自然とセティの口許はほころんでいた。
 おそらく城には医師も常駐しているだろう。たぶん、ガイゼス人の。
 それでもメイラはリドルフを呼びにきた。それが、セティにはなんとなく嬉しかったのだ。
 メイラに先導されてリドルフがシノレの私室にたどり着いたとき、ハルは蒼白な顔で質素な長いすに横たえられていた。すっかり意識はないようで、シノレが心配げに傍らに膝をつき様子を見ている。
 王子の従者に連れられてやってきた、僧衣姿の青年を見て、何か言いかけたシノレにリドルフは恭しく跪いて、しかし、はっきりと言い切った。
「今はどうぞお忘れ下さい。確かに私は法術も使いますが、医術にも心得がございます」
 シノレは思わず苦笑した。とはいってもそれは決して苦味の強いものではない。言葉を交わさぬとも、それだけで、この青年の人となりが推察できてしまったからだ。
 シノレは黙って立ち上がり、場所を青年僧のために開けた。リドルフはそれに軽く頭を下げてから跪き、ハルの顔を覗き込んだ。
「ハル殿、ハル殿」
 優しく頬に手を添えて名を呼ぶが、反応はない。力を失った細い腕がだらんと垂れる。
「殿下──」
 顔を覗き込んだメイラが絶句する。
 ガイゼス人であるハルは赤褐色の肌を持つ人種であるが、病弱なせいなのか、メイラやシノレに比べると肌の色が薄い。体のつくりも赤色人種とは思えないほど華奢で、血の気の引いた顔と、色を失った唇は見ているだけで痛々しい。
 リドルフは脈を測ろうとしてハルの手首をとり、僅かに眉を顰めて首を傾げた。
「ここではなく、部屋の方に」
 ハルが身に着けている衣を緩めようと手をかけたリドルフに、メイラが慌てて部屋に運ぶように言う。
「ここを使って構わない。私が部屋を出よう。もうじき、夜も明ける」
 二人に有無を言わさずに素早く部屋から出ていくシノレに、メイラは深く頭を垂れた。
「以前にも似たようなことはありましたか?」
「殿下は、お体があまり丈夫ではない。倒れられるのはそう珍しいことではない」
 空色の瞳に、わずかに哀あわれむような色を浮かべて、リドルフは診察を続ける。
 その様を息を呑んでメイラが見つめる。
「心配いりません」
 ごく短い診察の後、リドルフはメイラに向って微笑した。
「疲れと心労が重なったのでしょう。ゆっくり休めばすぐによくなります」
 安堵したメイラは、ハルを客間の寝台まで運ぶようにリドルフに頼んだ。大事がないと分かった以上、いつまでも城主の私室に滞在しているわけもいかない。
 すっかり脱力した王子の小さい体を毛布でくるみ、リドルフは壊れものでも扱うかのように抱きあげた。振動が伝わらないようにゆっくりと歩を進めながら、リドルフは前を歩く老女の名を静かに呼んだ。
「メイラ様」
「なんだ?」
 廊下の明かり取りからは、白みはじめた空が覗いていた。
「ハル殿はどうして、王子殿下なのですか?」
 メイラが足を止めて振りかえる。それは、まるで幽霊でも見るかのような顔つきだった。
 リドルフは腕に抱えたハルの青白い顔を、慈しむような優しい顔で見ていた。
「そういう星の下にお生まれになったのだ。私にはどうにもして差し上げられぬ」
 言い捨てて元のように前を向いて歩きはじめたメイラの背に向って、リドルフは悲しげに微笑んで小さく頷いた。
あてがわれた客室に戻り、ほどなくして意識を取り戻したハルに、リドルフは何種類かの薬草を合わせて煮出した薬湯を飲ませた。
「もう少しお休みください」
 夢とうつつをさ迷っているようなようすのハルは、心地よいテノールの響きに誘われるようにしてそのまま眠りに落ちていく。完全に夜は明けようとしていた。

 部屋を訪ねてきたランドにハルの容態が落ち着いたことを告げると、一行は朝餉に招待された。昨日晩餐に同席できなかったシノレの客人への心遣いだという。
 客人へのもてなしということなので、ハルの傍らから離れようとしないメイラを置いて、セティとリドルフの異国人二人組みが身支度を整えて、食事の間に向かった。
「やあ、これは美しいな」
 部屋に入るとすぐさま、大きな卓の向こうから、美丈夫がセティに向って人懐こい笑顔を投げかけた。
紺青に控えめに金糸で刺繍が入ったゆったりとした衣を着て、肩甲骨を覆うほどの漆黒の髪はきっちりと一つに束ねられている。
「従弟が世話になった。私はシノレ・アンヴァーンだ」
 立ち上がったシノレに、セティは慌てて膝を折った。
「セティ・コヴェと申します」
 シノレが目を見張る。
「や、これは── もしかして、きみは、男なのか?」
 率直すぎる問いに宝玉のような瞳を数度瞬かせ、セティの微笑が凍りつく。
動揺したのは、リドルフだ。セティは女に間違われることを嫌う。名高い三将軍の一人に、つかみ掛かったりしては洒落にならない。
 流れはじめた不穏な空気を打ち破ったのは、その空気を招いた張本人であるシノレの豪快な笑い声だった。
「これは、失礼。勿体ないとは思うが、安心したよ。きみのような美貌を持った女子がいては、災厄の種になりかねない」
 ぱんぱんと、二度セティの肩を叩き、シノレはまた笑う。毒気を抜かれたのか、ややあってからセティもつられたように笑った。
「先程は失礼いたしました。リドルフ・クライン・アナリと申します」
「アナリというと、大地の神(アナリ)だったかな」
「はい」
 質問の意図を探るようにリドルフがその顔を見上げれば、シノレはまた屈託なく笑う。
「幼い頃、大怪我をして、ナディール人の巫女(クラスティーヌ)に傷を治療してもらったことがある。そのせいか、私は、法術にたいしてあまり嫌悪感がない方なんだ」
 さらりと言ったシノレの言葉に、珍しくリドルフは驚きを隠し切れなかった。ガイゼスの要職に就いている人間の口から、こんな言葉を聞くとは思ってもみなかったのだ。
 咄嗟に返答できずにいるリドルフに追い打ちをかけるかのように、シノレは親しげに彼の肩を一つ叩き──
「まあ、こんなところに赴任しているから、大きな声では言えないがね」
 と、片目をつぶって付け加えた。
 身振りで二人に座るように指示して、シノレは自らも席につく。それを合図に、用意された料理が運ばれはじめた。
 ずらりと卓に並べられた料理の数々は朝食にしては、手がかけられすぎている。特に目立つのは野菜や木の実を使った料理と、豊富な果物である。この辺りの人間は羊や牛などの肉料理をよく食べるから、これは戒律によって菜食主義であるリドルフへの心づかいであろう。
「ハル殿の様子はどうだ?」
 薄く焼いたパンに、羊の肉のソーセージを乗せながら、シノレがリドルフに問う。
「ここのところの疲れと心労が重なったのだと思います。大事はございません」
「昔から体があまり良くないのだ。神経が繊細で、食も細い」
 シノレは言葉をきって、ひき肉がけバターライスをせっせと口に運んでいるセティを見て目を細めた。幻かと見紛うほどに美しい青年は、惚れ惚れするほど実に美味しそうに食事をする。
 ナディールの首都、ハプラティシュからもナディール人の商人などはよくこのラガシュにも訪れるが、大抵は暑さにやられて食欲を落とし、運のないものなどは命に関わるような大病を患うこともある。そのぐらい、この辺りから南の地域の気候は、北国の人間にとっては辛いものだが、この若い二人組みには無縁の話しのようだ。
「あの子に、セティ殿の半分でも活力があればいいのだが、そうもいかぬ」
 シノレの口調はまるで弟を案じる兄のようなものになっていた。
「だから私は巡検使など止したほうがいいと言ったのに」
「ハル様は自ら巡検使を志願なされたのですか?」
 リドルフは手にしていた杯を置き、シノレに問う。
「どうやら、王宮での暮らしには興味がないようなのだ」
 肩をすくめ、やや婉曲的にシノレはリドルフの問いを肯定してみせた。
「あいにくと私も王宮暮らしには興味がないが、ハル殿のような人には静かな暮らしがよく似合うように思えるのだがね」
 リドルフは柔らかい微笑をたたえたまま、シノレの後ろの壁にかけられている、紋章に視線を動かしてすぐに戻す。
 シノレの漆黒の瞳にこめられた感情と、言葉のうらにある彼の意図を読み取ろうとしたが、リドルフにはそれができなかった。相手が一枚上手なのか、それとも穿(うが)ちすぎなのか、今の段階ではそれすらも分からない。
 それから、シノレはハルのことは話題にしなかった。
 話題にのぼるのはたわいないことばかりで、リドルフとセティの故国のことや、この辺りの気候のこと。そして、セティの美しさなどだ。
 若い将軍は異国の話を聞きながら、まるで少年のようにいちいち驚いたり、目を輝かせたりする。宝玉をはめこんだような瞳や、絶妙なバランスで組み立てられたセティの美貌も率直すぎるほど素直に賞賛する。それは、二人にとって意外であったが、決して不快ではなかった。
「して、君たちはこれからどこに向かうのだ?」
 会食も終盤になり、一同が食後の果物に手をつけはじめたころ、シノレが言った。
 これまで主にシノレの質問に応えてきたリドルフが、黙って切れ長の瞳をセティに向ける。これは、彼らの主導権がリドルフではなく、年少の美貌の青年にある証拠であり、少なからずシノレを驚かせた。
「私たちはハル殿に雇われた身ですので、雇用主の指示なくしては動きようがありません」
 二人がガイゼスの巡検使と交わした契約は、「ハル・アレンの警護」であり、特に期間などの取り決めはない。
「それでは、ハル殿の回復を待つのだな?」
「そうするつもりです」
 セティの答えを、リドルフはただ黙って聞いていた。
「リドは――― リドルフは腕のいい医者でもありますから、遠からずハル殿は回復されると思うのですが」
「そのようだな。カイの回復具合には、私も正直を言って驚いた」
 シノレは別室で養生しているハルの腹心の部下である、カイも訪ねていた。随分回復しているが、塞がりかけた傷を見れば、彼が負った怪我の重大さはよく分かる。最先端の技術を持つといわれるこのガイゼスの医師でも、治療は難しかっただろう。
「セティ殿も、何か法術を使うのか?」
「いいえ、私が遣うのは剣です」
「ほう、珍しいな。北の人間が剣を使うか。しかも、セティ殿のような美しい人が」
 シノレの笑みは、種類の異なるものに変わった。
「ぜひ、お手並みを拝見したいものだ」
「私の剣は自己流ですので、披露できるようなものではありません」
「まあ、そうおっしゃるな。今日は修練場を視察することになっている。良ければ、一緒に行ってみないか? 帰りに町も案内しよう」
「──── 私たちはナディール人ですが」
 セティが窺うかがうような視線をシノレに向ける。
「君たちは、雇われたとはいえ大切な従弟を護ってくれたのだろう? と、いうことは私にとっては大事な客人だ。客人をもてなすのに、国籍が関係あるのかい?」
 あっけらかんと言い放った若い城主に、セティは好感を覚えずにはいられなかった。
 二人のやり取りをリドルフは淡い苦笑を浮かべて見守っていた。

   Ⅳ

 会食後、セティとリドルフは支度が整い次第、シノレの待つ裏門に向うことになった。
 リドルフは外出に関して消極的だったが、セティは大層楽しみにしていた。リドルフはそんなセティの顔を見れば、何も言えなくなってしまう。口出しをすれば機嫌を損ねるのは目に見えているし、何もひとりで行かせるわけではないのだ。
 しかし、あてがわれている客間に戻る前に、セティがさりげなくハルの部屋を訪ねよう、と言ったことがリドルフの思惑を大きく狂わせた。
 シノレに誘われて兵の修練場と町を見学してくるとメイラに告げると、彼女はリドルフだけはここに留まるように強く願った。今のところハルは穏やかに眠っているが、彼女は倒れた王子がひどく気にかかっていたのだ。リドルフがハルの容態は落ち着いているからとよく説明しても、実直な王子の従者殿は聞く耳をもたな い。
「私が一人で行ってくるから、リドはハルの側についていてやったらいい」
 不毛な押し問答をしばし見守り、ついに放たれたセティの一言に、リドルフは押し黙った。せっかくの城主の誘いを断るわけにもいかないが、セティを一人でいかせることは、リドルフにはそれ以上に容認できない。
「あの人、悪い人じゃないと思う。だから大丈夫だ」
 過度な心配や口出しを、セティはうっとうしがるようになっていた。特にここ最近はそういう傾向が強い。
 かと言って、まだ一人で行動させられるほどではないようにリドルフの目には見える。しかし、それを口に出して機嫌を損ねられて飛び出していかれては、適わない。
 表情を変えぬまま、ごくわずかな時間のあいだにリドルフの頭の中では、さまざまな考えと思いが錯綜した。
「アンヴァーン将軍には私の方から事情をご説明申し上げておきます。くれぐれも、気をつけて行ってきなさい」
 そうしてリドルフが出した結論に、セティは実に嬉しそうに笑った。
 かくしてセティはシノレとその部下五名と少し離れた場所にある、兵の修練場へ出かけることとなったわけである。

 左腰に剣を佩き、腰の後ろに短剣を帯びて大きな外套を羽織って姿を現したセティに、シノレは馬に乗れるかと訊いた。セティは首を横に振り、目を輝かせた。
「乗ったことがないのですが、乗りたいと思っていました」
 先ほど事情を説明しに来たリドルフが言った言葉を、シノレは思い出した。
 セティは田舎育ちで貴人に対する礼儀作法を知らないので、無作法があるかもしれない、と。
 シノレは特に構わなかった。確かに王家の血は引いているが、軍人として扱われることの方が多い。それに、奇蹟の結晶のように美しい面に浮かぶ、生気に溢れたさまざまな表情を追うのにいつの間にか夢中になっていて、セティの言葉遣いなど気にもかからない。
「こうするのですか?」
 自分の目の前で嬉々として乗馬の指南を受けるセティをみていたら、シノレは心底彼が男であることに安堵した。国籍も家柄も関係ない。彼がもし女人であったなら、どのような手を尽くしてもものにしたいと思っただろう。
 セティが魅力的なのは、造形によるものだけではないようだった。
 確かに姿形は完璧と言っても差し支えないが、整いすぎたものは逆に生々しさがなくなり、冷たく感じることがある。しかし、彼は綺麗な顔を驚くほどに惜しげもなくよく動かす。
「アンヴァーン将軍……?」
 白い面差にみとれていたシノレは、セティの言葉で我に返った。
「では、早速駆けてみよう」
 すでに灼熱が大地を支配しようといていた。
 周囲の景色はどれほど進んでも代わり映えせず、色彩に乏しい。けれど、その分だけ晴れ渡った青空が引き立ち、ひどく目に眩しいのだ。
 ごく短い時間でセティはよく馬を乗りこなせるようになっていた。彼の高いバランス感覚と身体能力にはシノレも瞠目するほどであった。
 シノレと並んでセティは駆けた。少し離れて後方からシノレの部下が五名ついてきている。
 日が高くなり気温が上がって来ている分だけ余計に、頬を叩く風が心地よく感じられる。
 セティとリドルフが一月ほど滞在していた国境の狭間の町よりも、南東に位置するラガシュ近辺は内陸になるせいか乾燥しており、日差しも強い。
 出かけに着せられたリドルフの身の丈にあった大きな外套とそのフードを、煩わしそうにしているセティにシノレが笑って言った。
「脱げばいい。肌は陽に当たるとだんだん強くなっていく」
「駄目だと、リドルフにきつく言われているのです」
 拗ねたような子供っぽい表情すらも、彼の顔をひどく魅力的に彩る。それを見ていたらシノレは、思わず口にせずにはいられなかった。
「きみにとって、リドルフ殿はなんだ?」
 それは、興味を越えて嫉妬にも似た感情だったかもしれない。
「なに、とおっしゃられても」
 シノレと並んで馬を小走りに駆けさせながら、セティは淡紫色の瞳を宙に泳がせる。そして少し考えたあと、はっきりとした口調で答えた。
「リドは私にとって師であり兄であり── 他の何にも代えがたい大切な友人です」
「そうか」
 真っ直ぐに前を見つめて答えたその姿を見て、シノレは今更ながら、となりにいる甘美な夢の住人のように美しい存在が、紛れもない生身の青年であることを改めて認識したのであった。
「どうした、アグラルブ」
 つと、歩みを止めた愛馬にシノレは訝しげに呼びかけた。そして、ほとんど同時に気がついた。丘の向こうから姿を現した、一団の存在に。
 後方からついてきていたシノレの部下五名が、事態を察知して素早く二人の前に馬を並べる。
「止まれ! 止まれ!」
 一番年長の男が声を張り上げた。
「ここは左将軍、シノレ・アンヴァーンの領地ぞ! 許可なく武装するとはどういう了見だ」
 詰問に答えはない。当然、言った本人もシノレ自身も答えを得られるとは思っていない。現れた一団が覆面で顔を隠している時点で、彼らのおおよその目的は分かる。
「昨日ハル殿には言いそびれてしまったのだが──」
 セティに向けたシノレの言葉に焦りは全くない。
「命を狙われているのは私もそうらしいのだ」
 それどころか、昨日は雨だったというような実に悠長な口調だった。
「警戒を怠っていたわけではないが、このあたりは私にとっては庭のようなものなのだ。まさかここで襲撃してくるとはな」
 どこか愚痴っぽくなったのは、自身の身の危険を感じたからではない。客人を危険な目に遭わせてしまったという自責の念からである。
 普段、シノレは修練場の視察に護衛の兵を連れて行くことはない。ラガシュ周辺はガイゼス国内でもかなり治安が良い一帯であるし、何しろシノレはそのガイゼスで三本の指に入るほどの技量の持ち主なのだから。それでも今回、部下の精鋭ばかりを伴ったのは、彼なりの客人に対する気遣いであった。
「客人を巻き込むのは非常に不本意なのだが、そうも言ってられそうにない」
「そのようですね」
 セティの返答は飄々としていた。
「一人で走れるか?」
 問われたセティは逡巡することもなく、あっさりと言ってのける。
「走れないことはないと思いますが、土地勘がないので目標を見失うと思います」
「馬上で剣を遣ったことは?」
 言ってすぐにシノレは愚問だと思った。この青年は馬に乗ったことがなかったのだ。セティの口許に不敵な笑みが閃く。
「せっかくの機会ですので、試してみたいと思います」
 悠然と前に馬を進めたシノレは、束ねた漆黒の髪を風になびかせながら二十人ほどの一団を見据えた。
「念のため、誰の差し金かだけ聞いておこう。殺してしまえば、永遠に聞けぬからな」
 やはり、答えはない。かわりに返ってきたのは、陽光を反射した白刃のきらめきだけである。
「このシノレの首、たやすくはやらぬぞ」
 口許に好戦的な笑みを刻み、シノレは長大な剣をゆったりと構えた。
 亡き父が「青い英雄王」と呼ばれた由縁である、青い甲冑をシノレは引き継いでいた。偉大な父を象徴するそれを身につけるのは、国王からも勇将と賞賛されるシノレであってもやはり畏怖の念を禁じえない。
 四年前に左将軍の位についてからは、特別なときにだけ何度か着用して、そのたびに国民を沸かせた。だが、今、彼が身につけているのは乾燥した大地と同色の、地味なものである。
 しかし、その姿は青い英雄王の息子として全く恥じぬものであった。
 三人の部下はセティの護衛のために下がらせ、自らは二人の部下を率いて、臆することなく敵中央を堂々と駆けていく。
 遠目で見ると、シノレの動作は一見、無造作で緩慢にも見える。しかし、向き合った人間達には到底そうは思えなかった。
 並みの男では長時間構えることすら困難であろう重量のある長大な剣を、シノレはまるで自分の腕のように軽々と操る。馬で駆け抜けるその一瞬のうちに、間合いを読み、完璧に計算されたタイミングで刃を一閃させるのだ。
 彼の長剣が描く軌跡のあとには、悲鳴があがり、血の雨が降り注ぐ。
 敏捷でありながら、重い一撃は覆面に覆われた頭を跳ね飛ばし、胴を半ば両断する。
「こちらへ」
 シノレが一団を割っては反転するという、かく乱攻撃をしているあいだ、セティはシノレの部下に促されるがまま馬を走らせた。囲まれないように進路をとる若い男は、シノレが信頼を寄せるに相応しいと思えた。ただ、セティの馬を操る技量はさすがにそれには応えられなかった。
 セティが囲まれた人数はそれほど多くはなかった。シノレの作戦が、やはり効いているのだ。
 目の前で自分を護るようにして男と斬り結んでいた、シノレの部下の一人が倒れたとき、セティはほとんど無意識に剣を鞘走らせていた。
 地上であれば彼の抜き打ちをかわせるものは、ごくわずかであろう。事実、馬上から放たれた一太刀を、対峙する男は追えなかった。しかし、今、セティの剣が切ったのは宙だけであった。
 馬上では長さのある武器を使用するのが一般的である。そうしなければ間合いが狭くなり、圧倒的に不利だからだ。しかし、セティが使う剣は、通常使われているものよりも、さらに刀身が短いのだ。
 セティの斬撃を免れた男が返してきたのは、十分に力を乗せられた重い一撃である。
 金属と金属がぶつかりあい、火花が散る。
 地に足がついていたなら、セティはこうして相手の剣をまともに受けることは少なかった。軽捷な身のこなしを存分に発揮し、ひらりと身をかわす。彼の剣技が舞踏のようだと言われる由縁である。しかし、今彼がいるのは馬上であり、馬は自分の体のようにしなやかには動いてくれない。
 第一閃は両手で柄を持ち、なんとか受けた。しかし、大男の力をまともに受け止めた手は痺れ、握り締めた手のなかで、柄が滑った。
 完全に形勢不利で受けた第二閃目で、やけに澄んだ音を立てて、細身の剣は主の手のなかから空しく飛び、地面に突き刺ささる。
 そのとき、セティがかぶっていた外套のフードがはらりと脱げた。
「なっ……」
 実用性のみを重視して作られた飾り気のない外套の下からあらわれたのは、女神と見紛うほどに美しい造形である。
 長い睫毛に覆われた幻想的な淡紫色の双眸に、通った鼻筋── 地上の真珠(アルベルム)のように白い頬は、上気してほんのり紅く染まっていた。
 浮世ばなれした、あまりの美しさに男は一瞬我を忘れた。しかし、セティはその空白のときを見逃さなかった。
 ごく軽い動作で後ろ腰に帯びていた短剣を抜いて、放る。
 放たれた短剣はその何気ない動作とは裏腹に、鋭い直線を描いて寸分の狂いなく男の覆面の下の右眼に突き刺さった。
「ぎゃあああ」
 覆面の右半分を紅く染めて馬から転げ落ちた男に目もくれず、セティは鞍上から手を伸ばし、地面に突き立った愛剣を引き抜こうとする。
 馬から決して降りてはいけない。
 彼の部下を通して、シノレから与えられた唯一の助言を、セティは忠実に守ろうとしていた。下馬すればどういうことになるか。それは乗馬の経験のない人間でも、人並みの想像力があればなんとなくは分かる。
「セティ殿!」
 地面に突き立った愛剣の柄に手が触れるか触れないかというところで、セティの耳は新たな馬蹄の響きと、シノレの緊迫した声を聞いた。
 陽光を浴びて眩い銀白色の光を放っていた、柄にはめこまれた月長石が、あらわれた馬影に覆われた。
 わずかな迷いもなかった。
 耳と目で得たわずかな情報からセティは事態を察知し、動いていた。
 片方の足を勢いよく鐙から外し、くるりと体を反転させてその足で側方からあらわれた馬の腹を蹴る。
 鐙にかけたままの足と、馬の腹を蹴った足とでほんの一瞬だけ体を支え、愛剣の柄を握る。
 不意に横腹を蹴られた馬が動転して、旗手の制御もきかずに駆け出すと同時に、反動を利用して、もとのように鐙に足をかける。
「なんという身のこなしだ」
 右と左に覆面を切り払い、客人の危機にかけつけたシノレは、眼前で彼が行った軽業に舌を巻いた。物心つくまえから馬に乗っているが、同じことができるかと問われれば、いささか自信がない。それ以上に、あの局面でああも簡単に思い切れるかどうか、それも分からない。
 もはや、現場は混戦状態と化していた。
 相手は半数以下に減っているが、五人いた部下も、剣をふるっているのは、三人しか確認できない。
「なるほどね」
 二人の覆面に左右を囲まれたセティの呟きは、側で肩を並べて剣をふるうシノレの耳にも届かずに、血の匂いが立ちこめはじめた熱い空気に溶けた。
 セティは向き直り、左の男の方へ馬を寄せた。
 攻撃は前と斜め後方から、同時に放たれた。
 斜め右後方から繰り出された一撃を、後ろ手でかまえた愛剣で弾く。
 正面から放たれた剣は、顎をわずかにひいて避ける。それでも切っ先は頬をかすめ、淡雪のように白い頬に美しい紅い線を描く。
「セティ殿!」
 自らも二人と切り結びながら、視界の隅でそれを見ていたシノレは慄然とした。
 しかし、次の瞬間、シノレは別の意味で背筋が冷たくなった。
 間合いを詰めたセティの剣が、白光と化して男の首を走った。赤い噴水を吹き上げて、男がどうと音をたてて地に倒れる。
 左頬から血を流したセティの顔は、冷たい微笑が張り付いていた。
 まるで気おされたかのように、一呼吸おくれてもう一人の男がふるった刃はセティの左胸を薄く切った。裂けた外套と衣のすきまから白い肌が覗く。
 セティは相手の刃が自分の体を切るのと同時に、馬を進め、逆手に剣をふるった。
 ほとばしる紅い液体。セティの一撃はまたしても首の太い血管を切断していた。
「セティ殿」
 シノレが一人の首を斬りとばしたとき、戦闘はようやく終焉を迎えようとしていた。残りの手負った数名が、ばらばらと無秩序に逃げ去っていく。
 振り返ったセティの姿を見て、シノレは思わず息を呑んだ。
 左の目尻から頬の中ほどまでが切れ、白い頬を赤く汚していた。流れる血は顎を伝い、外套の襟に染みをつくっている。
「顔に傷が」
「かすり傷です。ご心配には及びません」
「しかし」
「故意に、斬らせたのです」
「故意に?」
 シノレは一瞬セティの言った意味がよく分からなかった。
「そうしなければ、私の剣は短くて届かなかったので」
 セティは傷口に自分の白い指をあてた。指先はすぐさま紅く染まり、血が滴りおちる。かすり傷というには、深すぎる。
「少し、斬らせすぎたようです」
 自分の顔に傷がついたことなど一片も気にしたようすもなく、セティは肩をすくめて笑ってみせた。


 気温が一番高くなる時間だった。
 このころになると、町は急に静かになりはじめる。
 仕事に汗を流していた男たちも、市で買い物をしながら談笑していた女たちも、皆直射日光をさけて、昼寝をして休むのだ。
 しかし、リドルフは休むわけでもなく、客間で一人、異国の書物に目を落としていた。
 セティがシノレと出かけていってからほどなくして、ハルは一度目を醒ました。
 顔色はずいぶんよくなり、多少は食事も口にいれた。メイラとリドルフに心配をかけたことを律儀に詫びて、それから少し、独りになりたいと言った。具合が悪くなったらすぐに知らせるようにとだけ伝え、リドルフはメイラと部屋を後にして、メイラにも休むように言った。彼女はハルにつきっきりで、昨夜から一睡もしていなかったのだ。
 それから、セティと自分のためにあてがわれた客間に戻ると、リドルフは手持ち無沙汰を紛らわすために書棚にあった書物を手に取ったのだった。
 異国といえども、つい十数年前までは同じ国である。当然、言語や文字は同じものを用いているから書を読むのには苦労しない。しかし、根本的な考え方が全く違う国なので、新たな発見に驚きが尽きることはない。
 こんな、静かな時間は本当に久しぶりだった。
 書見に没頭すれば、寝食も忘れてしまうリドルフのことである。本来ならばこのような時間は至福のときであるだが、今の彼にはとてもそうは思えなかった。
 何頁か読み終わるごとに、席をたち、窓から景色を眺めてみる。
 風通しが良いように、広く窓をとった石造りの住宅。背の低い、不恰好な植物。色彩の乏しい情景──。
 眼下に広がる異国の風景は、どれもリドルフの心のなかには入ってこない。
 やはり、傍を離れるべきではなかったのではないか、という思いが過ぎる。
 シノレ・アンヴァーンという人物は、その一端に触れたかぎりではリドルフにも悪い人間のようには思えなかった。しかし、道中でシノレの紋章をつけた一団に襲撃されたというのも、また事実の一つだ。しかも、その点に関しては新たな情報もないし、なんら解決もされていない。
 しかし、それ以上に問題なのはセティ自身だ。彼にはひとりで行動させるには不安な要素が、いくつもある。そのいずれかでも露呈すれば、場合によっては取り返しのつかないことになる可能性もある。
 セティは旅に出てから、二年半が経っている。しかし、逆を返せばまだたった二年半しか経っていないのだ。
 そこまで考えて、急に頭は冷める。自分は考えすぎているのだ、という思いに駆られる。
 第一、セティは剣の達人で物理的攻撃から身を守るということに関してはリドルフよりもはるかに長けているし、セティはシノレのことを悪い人間ではないと思う、と言った。そのセティの勘が外れたことなどないのだ。
 しかし、胸に巣食うこの漠然とした陰のようなものは何なのだろうか。リドルフは、空色の瞳を伏せて何度目かも分からないため息をついた。
 胸騒ぎが、現実にかわったのは太陽が中天をすぎたころであった。
 なにやら城内が騒がしい。
 扉の向こうの廊下を、何人もの人々が行ったり来たりしているのである。異変に気がついたリドルフが、様子を伺うおうと扉に近づいたとき、慌ただしく向こう側からその扉が叩かれた。
「アンヴァーン将軍……」
 扉の向こうに佇む、美丈夫の姿を見た途端、リドルフは心がさざめきたつのを感じた。
「リドルフ殿、申し訳ない」
 外套を羽織ったままのシノレの体からはわずかに血の臭いがした。
「セティ殿が怪我をされた」
 リドルフは切れ長の瞳を大きく見開いて、息を呑む。
「事情は後ほど詳しくご説明させていただくが、とにかく今は、セティ殿を診ていただけないだろうか」
「セティは─── セティは、無事なのですか?」
「私の言い方がいけなかった」
 シノレはなだめるようにリドルフの肩に手を置いた。
「怪我は命に関わるようなものではないのだが」
「命に……関わるようなものではない」
 その言葉の意味をかみ締めるようにリドルフは呟き、一つ安堵のため息を漏らす。
「ただ、顔に傷がついてしまって」
「顔、ですか?」
「本人は故意に斬らせたと言っている」
 色の薄い眉根を寄せて沈黙したリドルフに、シノレは言いにくそうにつけくわえた。
「私も側で見ていたが、確かにそう見えないこともなかった。避けようと思えば避けられたはずなのだ。セティ殿ほどの腕前があれば」
 あのとき、セティが浮かべた冷たい微笑について、シノレは触れなかった。
 シノレに案内され、リドルフが通された部屋は城内の医務室だった。あてがわれている客間の半分ほどの広さで、室内には薬棚に整然と並べられた薬剤の独特の匂いが立ち込めていた。
 人によっては不快に感じるであろう癖のあるその匂いが、かえってリドルフを落ち着かせた。
 人の気配にも気がつかないかのように、後ろ向きに長いすに腰掛けたセティはぼんやりと窓の外を眺めていた。
「セティ」
 びくり、と肩を震わせ、ややあってから振り向いたセティの左頬には、血の滲んだ布が貼られていた。
「たいしたこと、ないんだ。アンヴァーン将軍が大げさに」
 言い訳をするようなセティの言葉など、聞こえなかったようにリドルフは険しい顔のまま大股で近づき、正面に屈みこんだ。
「切っ先がちょっとかすっただけなんだ」
 リドルフは何も言わず、セティの左の目尻から頬にかけての傷を覆う布に指をかけた。
 露わになった傷口にわずかに眉を顰める。
 上質の絹織物のような白い頬を抉る傷口のふちに、赤黒く変色した血がこびりついていた。さらに奥には白い頬と対照的な赤い肉が覗いている。
 セティは不世出の美貌の持ち主だった。そのため、傷がつけばひどく凄惨に見える。命に別状はないと言いながら、あれほどまでシノレが切迫した様子だったのはそのためかもしれない。
 しかし、リドルフが嘆息したのはセティの美しい顔に傷がついたからではなかった。あとほんのわずかでもずれていたら、剣先はセティの瞳を抉っていたのだ。
「胸にも傷を──」
 切れた外套と衣のすきまから覗く、白い皮膚に走った赤い線に手を当てて、リドルフは調べた。左胸の傷は外套と衣のうえから受けたせいか、顔の傷に比べると大分浅くすんでおり、かすり傷といってもよさそうだ。
 リドルフは立ち上がると、セティの顔の傷に指先で触れた。
 その途端、それまでおとなしくしていたセティが嫌がるように、ふいと横を向く。
 リドルフはなにも言わなかった。
 なにも言わず、反対の手をセティの顎にかけて、やや強引にもとのように前を向かせ、傷に指を添える。
「このままでいい」
 リドルフがしようとしていることに気がついたセティは、それでもなお首を振って顎にかけられた手から逃れようとする。しかし、リドルフはそれを許さない。
「放っておいても、このくらい自然に治る」
「このままでは、傷跡が残ります」
「傷跡ぐらい、どうってことない」
 顎にかけられた手を振り払って、セティは言い捨てた。
「─── わざと、斬らせたのですか?」
 弾かれたように顔を上げたセティは、何か言おうと口を開きかけた。まるで心を射抜くかのようなリドルフの瞳を直視できず、視線を落とす。いつもは太陽(ヘウス)の光を宿しているかのようにきらめく瞳が、急速に翳った。
「なぜ、そんなことをしたんです?」
 リドルフの口調は(いさ)めるというよりは、率直に疑問を尋ねるようなものだった。
「剣が届かなかったからさ」
「本当に?」
「他になにがあると言うんだ」
 リドルフは納得したわけではなかったが、それ以上の詮索を止めた。と、いうよりは突き詰めたところでセティ自身がその答えを認識しているとは、リドルフには思えなかった。
「傷は消します」
「リドルフ」
 うんざりしたようなセティをじっと見つめ、リドルフは言った。
「あなたの顔に傷を残すわけには、いかないのです。分かっているでしょう?」
 リドルフの声に激しさはなかった。それでも、セティは気圧されたようにおとなしくなる。
 リドルフは指先で傷を覆い、マントラを唱えはじめた。
 唇から紡がれるマントラは、いつもより低く、どこかもの悲しい。他のだれが聞いてもその違いは分からないかもしれない。しかし、セティにだけは分かった。
 空を、一羽の鳥が飛んでいった。
 低い声で詠唱されるマントラが佳境に入ったとき、それまでされるままにしていたセティが、ぽつりと呟いた。
「リドのそういうところが嫌だ」
 リドルフはセティの傷口にあてた指先に力と意識を集中させていた。一刻も早く傷を塞ごうとしていた。しかし、それが一層セティを苛立たせたのかもしれない。
 心の奥底でくすぶっていたなにかに油を注いだかのように、セティは一気に爆発した。
「そんなに一生懸命力を使うな!」
 リドルフの手を乱暴に振り払い、セティは立ち上がって叫んだ。あまりの勢いに、リドルフはよろめき、近くにあった卓に手をついた。卓に置かれていた硝子の杯が転げ落ち、ばらばらに砕けた薄紫色の破片が飛び散った。
「リドの手は! 力は! 本当はこんなことに使うためのものじゃないだろ! 私のためなんかに── 顔の傷を消すためなんかに、使うな!」
 口から出た声と言葉の激しさに驚いたのは、言った本人のセティだった。肩で荒く息をつきながら、狼狽したように視線をリドルフから逸らす。
 一方のリドルフは、振り払われた手に驚きもせず、突如激昂したセティに戸惑うでもなく、じっと空色の瞳でセティを見つめた。
「私は、あなたのそういうところが好きですよ」
 返されてきた思いがけない言葉に、セティは潤んだ瞳をリドルフに向けた。
「あなたと旅に出られて、本当に良かった」
 リドルフは穏やかに微笑した。
「………私が、セティスだからか」
 眩いほどに快活な光に満ちた淡紫色の瞳が揺らぐのは、こんなときもそうだ。
 こういう眼を向けてくるときのセティに、なんと応えたらいいのか、リドルフはいつも分からない。呻くような声に、痛いほどに込められた得体の知れない暗い感情を、リドルフは本人よりもよく分かっていたかもしれない。
「あなたがセティス様でも、セティでも、それはどちらでも変わりません」
「変わらない……?」
「あなたという存在が、私には大事なのです」
 たしかめるような眼差しを向けるセティに、リドルフは柔らかく、けれど哀しげに微笑した。
「さあ、まだ途中ですよ」
 リドルフは今度はそっと顎に手をかけた。セティは拒絶こそしなかったが、その瞳は翳ったままだった。

 日が暮れても、城内は相変わらず慌ただしかった。
 それも当然である。国民の絶大な支持と人気を得る左将軍、シノレ・アンヴァーン公が領内で襲撃にあったのである。むろん、無用な混乱を避けるため領民たちにはその情報は伝えられなかったが、城内はそういうわけにはいかない。シノレが伴っていた部下も二名は命を落としていたし、襲撃者に関する情報収集も行わなければならなかった。
 傷を負ったのが嘘のように、セティの顔と胸はリドルフによってきれいに治り、事情を知るものは心から安堵し、リドルフの力に改めて畏敬の念を覚えた。あの美しい顔に傷跡が残ることなど、誰もが生理的に受け容れられないことは確かだった。
「やはり眠れないのですか?」
 人の動く気配に、リドルフは目を醒ました。どうやら、いつの間にか眠っていたようだった。
 酒を飲みたがるセティをリドルフは怪我をしたばかりだから、とやんわりと止めた。眠れないのなら薬を用意すると言えば、それなら要らないとセティは不貞腐れて寝台に入った。その傍らで書物を開いていたはずなのに、あろうことかリドルフは椅子に座ったままうたた寝をしていたのだ。
 あれからどのくらい時が経ったのか分からない。灯していたランプは消え、青白い月の光が、大きな窓から差し込んでいる。
「ちょっと、出てくる」
「それなら私も―――」
「リドは寝ていろ。法力を消耗したんだから、疲れているんだ」
 セティの声からは、昼間の刺々しさは消えていた。
「今日は、悪かった」
 薄暗いなかで真っ直ぐに眼を向けて、セティは拍子抜けするほど素直に詫びた。リドルフは穏やかに微笑してそれに応えた。
「少し外の風に当たりに行くだけだ。城から出たりしない。もう、心配はかけないよ」
 リドルフは、黙って頷いた。
 セティは部屋を出て、廊下を歩いた。ところどころに灯されたあかりは、暗く、頼りない。
 食事に招かれる部屋に行く途中にある、中庭に通じる道をセティは覚えていた。
 中庭に出ようとしたとき、薄明かりのなかに小さな人物がぽつんと独りで座っていることに気がついた。
 寝巻き姿のままの、ハルである。その姿を認めた途端、セティは引き返そうかと思った。人に会いたい気分ではなかった。しかし──
 憂鬱そうな顔。衣から伸びた細い手足。そよとでも風が吹けば消し飛んでしまいそうなほど、はかないその姿。
 視線の先で、ハルが嘆息してうつむいた。
 その仕草をとらえた瞬間、セティの足は勝手に中庭の方へと進んでいた。
「もう具合はいいのか?」
「セティ殿……」
 突如頭上から降ってきた声に、ハルは慌てて顔をあげた。
「はい、もう良くなりました。ご心配をおかけしました」
 取り繕うように浮かべた微笑みは、やはりつつけば崩れてしまいそうなほど儚げなものだった。
「ちょっと、風に当たりたくなったんだ。隣りに座ってもいいか?」
 ハルは頷いて横にずれた。セティが人一人分の空間をあけて、ハルの隣りに腰掛ける。
 よく手入れされた庭には、白い花が一面に咲いていた。月光に照らされたそれは青白く闇に浮かび上がり、えも言われぬほどに幻想的だ。
「あれは、なんという花なんだ?」
「ああ、あれは──」
 ハルはセティに言われてはじめて、庭が白い花に埋め尽くされているのに気がついたようだった。
「アルベルムという花です。この時季に、ほんの一夜か二夜しか開かないという珍しい花なのですよ」
「ああ、あれがアルベルムか」
 口許を綻ばせたセティに、ハルは不思議そうに顔を向ける。
「南に進むにつれて、私のことをアルベルムに例える人間が多かった。私はアルベルムというものを知らなかったから、不思議だったのさ」
「そうでしたか」
「北では、白いものは雪にたとえることが多いんだ。ガイゼスでは、アルベルムに例えるんだな」
「セティ殿が、アルベルムに例えられるのは、きっと肌の白さだけではありませんよ。アルベルムはガイゼス人にとっては特別なものですから」
「特別なもの?」
 ハルは一つ頷いた。
「アルベルムという名は、地上の真珠(アルベルム)という意味なのです」
 美しく高潔な純白色の花弁と、優美な香り。暑さが和らぐ夜のあいだ、しかもほんのひとときだけ咲くという、アルベルムから作られる香は、まさにその名のごとく高価なのだという。
「高潔で優美──。セティ殿は、人の目にはまさにアルベルムのように映るのでしょう」
 それから二人は石造りの長いすに並んで腰掛けたまま、言葉も交わさずにしばらくぼんやりとアルベルムを眺めた。ときおり吹く弱い風が、セティの金色の長い髪とハルの短い黒い髪を揺らし、雅な香りがふわりと舞う。
 セティは芳しいアルベルムの香りを、どこかで嗅いだ香りだと思ったが思い出せなかった。
「お二人は、これからどちらに向かうのですか?」
 ハルが気を遣うように訊いた。
「まだ決めていない。というか、決めかねている」
「決めかねている?」
「探しているものがある。でも、それがどこにあるのか、分からない」
 セティは放り出していた長い脚を、椅子の下で交差させる。行儀が悪いはずなのに、この青年がすると妙にさまになるから不思議なものだ。
「では、それを探すために、旅をしているのですね」
「そうなのかな」
 不意にセティが笑う。その笑みはどこか自嘲気味だったかもしれない。
「口実かもしれない。本当は、ただ、自分がしたいようにしているだけさ」
 ハルは弾かれたように顔を上げた。セティの淡紫色の瞳は月光を受けているせいか、今まで見たこともないような複雑な色を成していた。
「私はそれでも── セティ殿が羨ましい。羨む資格など、私にはないと分かっているのに」
「資格がない? どういう意味だ?」
 今までも、羨ましいと言われたことがないわけではなかった。行き先も決めず、その日暮らしの生活は、はたから見ると気ままで魅力的に映るようだった。
「自分を通すためには、なにかと戦わなくてはいけないでしょう? きっと、捨てなければならないものもあるでしょう」
 セティは美しい眼を見開いてハルを見つめた。
「なにも犠牲にせずに、自分の思うまま生きられる人などいません。けれど、私にはそんな勇気がないのです。だから、私のように覚悟を決めることの出来ない人間に、セティ殿を羨む資格などありません」
 うつむいたまま、けれどはっきりとした口調でそう言ったハルの端正な顔を、セティはじっと凝視した。線の細い少年の姿が、セティにはこれまでと少し違って見えた。
「セティ殿……?」
 ハルは不思議そうに小首を傾げて、小さく何度か名を呼んだ。それから、ようやくセティは動きはじめた。
「ハルは、これからどうするんだ?」
「どうしたらいいのでしょうね。考えなくてはいけないのですが」
 ハルはため息をついた。
「私の命を欲している人がいるのなら、望みどおり差し上げてもいい。そんな風に思ってしまう自分も、いるのです」
 セティは黙然と、ハルを見た。アルベルムの香りが漂っていた。
「──剣を持つとき、相手がどんなに格上だとしても、負けるかもしれない。と思ってはいけないんだ。そう思ったとき、もうその瞬間に勝負はついてしまう」
「では、私はもう死んでいるのと同じですね」
 ハルは苦笑して力なく首を振った。
「ハルが死ねば、悲しむ人がいるだろう?」
「どうでしょうね。私は、元よりこの世に生を受ける必要がなかった人間ですから」
 この少年はそんな破滅的な言葉すらも、躊躇うことなくいつもと同じ調子でさらりと口にする。それは、彼が慰めの言葉を欲して言っているのではなく、心底そう思っているという証拠でもあった。
「生きている価値がない人間なんて、存在しない」
 一陣の風が吹き抜けて、セティの金色の髪を揺らす。
「命の重さに優劣などない」
 ハルは思わず目を細めた。セティの美しい淡紫色の瞳に活力と生気がみなぎっていた。
「術がないのなら、私が剣を教えてやる。支えてくれる友人がないのなら、私が一人目の友人になろう」
 この時のセティは実際、なぜ自分がこんなことを言ったのか、よく分からなかった。むせかえるようなアルベルムの香りに惑わされているのかもしれなかった。
「だから、闘わないか」
「たたかう…?」
 まるで知らない魔法の呪文を唱えるかのように、ハルは口中でその音をなぞる。
「そうさ。命を狙われているのなら、その相手と闘えばいい」
「闘うなど── 私には難しい。私に抗うことは許されていません」
 震える唇で呟くように言って、うつむいたハルの顔は絶望というものを実際に知っているかのように暗かった。セティはそれをじっと見ながら訊いた。
「ハルは、オリスに命を狙われているのか?」
 訝しげな黒鳶色の瞳を向けられて、セティは穏やかに微笑んで、そうか、ガイゼス人だったなと、呟いて言い直す。
「私達の国では、オリスは運命を司る神と言われていて、絶対に逆らえないもののたとえになるんだ。ハルの国にも、そういうものがあるだろう?」
 問われて、ハルは曖昧に頷いた。
 赤色人種には法力のある人間はいない。そのせいか、ガイゼスでは神を崇める風習は薄い。しかし、大なり小なり法力を有し、特に才に恵まれた人間は法術を操ることさえもできる白色人種が主たる隣国では当然、神は崇敬の対象である。特に、オリス神は世界の創造主であり、特別な神として認識されていると聞く。ガイゼスでそれに値するような存在は、ハルには思いつかなかった。
「私は、オリスに命を狙われていたとしても闘うよ」
 ハルは潤んだ黒目がちな大きな瞳を、さらに見開いた。
「生きている意味なんて、生を終えるときになって後付に付くものだ。あらかじめ決まっているわけでも、誰かに決められるわけでもない」
 セティが笑う。
「そうじゃないと、あまりにも悲しいだろう?」
 その瞬間、アルベルムの肌と宝玉の瞳をもつ、月光に照らされた美しい造形が、ハルにはまるで神か女神のように映っていたのかもしれない。
「私は……ずっと、ずっと、流されて生きてきたように思います。そうすることしかできないと思ってきたから」
 ハルは、言葉を切って唾を飲み込んだ。黒鳶色の瞳を落ち着きなく彷徨わせながらも、必死になにかを伝えようとしていた。セティはそれを、ただじっと待った。
「闘うなどということは、もちろん── それどころか、抗うことすらも考えられませんでした。自分でなにかを選んではいけないのだと、そう思っていて」
 セティは色の薄い眉を寄せて、かすかに首を傾げた。温和で思慮深いこの少年がこれほどまでに自分を否定せねばならない理由が分からなかった。
「それを許されない人間など、いないよ。すべての人に、その権利があるんだ」
 喜ばしい神託でも受けたかのように、ハルの顔から急速に憂いが消えていく。
「──── ほんとうに、友人に、なってくれるのですか?」
「ハルさえよければ」
「剣を、教えてくれるのですか?」
「遣う覚悟があるのなら、いくらでも」
 不思議そうに小首を傾げたハルに、セティは言葉を付け足した。
「剣を遣うということは、究極的にいえば、自分の手で人の命を扱うということだ。それがたとえ不可抗力であったとしても、奪った命は二度と戻らない」
「それも含めて、闘う、という意味なのですね」
 神妙な顔で呟いたハルが、セティにはひどく好ましいものに思われて、思わず目を細めた。
「アイデンの宿で、瀕死のカイを目の前にしてメイラに向って言った言葉を、覚えていらっしゃいますか?」
 記憶の糸を手繰り寄せてみたものの、何のことを指されているのかセティには全く見当がつかない。セティの心境を察したハルは、また、眩しそうに目を細めてほほえんだ。
「そんなもののために、人の命は左右されていいのか? と。セティ殿はそうおっしゃったのです。きっと、セティ殿にとっては当然の感覚、ごく普通のことなのでしょう。だから、いちいち覚えてもいない。けれど、私にとってはとても衝撃的だったのです」
「ああ、あのことか」
 大方のガイゼス人がそうであるように、法術を使うリドルフに対して、メイラは非好意的な感情を露わにした。法力の有無によって差別し、法力のない人間を 迫害してきたナディールと、迫害されてきた人々が中心になり、独立したガイゼスとの歴史を考えればメイラの行動は当然であった。それがガイゼス人としての誇りであり、意地でもあるからだ。しかし、瀕死の人間を前にしたとき、生きている人間の意地などというものはセティには、ひどく無価値なもののように思えた。だから、思ったままを口にした。
「本当なら、私が言わなくてはいけない言葉でした。大切な部下の命がかかっているのだから、そんなことは関係ないと――。けれど、私の口はくっついてしまったように動かなかったのです。大事なことを言いたいときは、いつもそうなのです」
 ハルの目が見えないものを追うように、どこか遠くを見た。
「あのときも、私は言えなかった」
 長い睫毛に囲まれた黒鳶色に瞳に浮かんでいるのは、アイデンでのあの出来事でも、ましてや目の前で咲き誇るアルベルムでもないようだった。
「今度、そういうときがきたときは、堂々とそう言える人間になりたいのです。私は、セティ殿のように、なりたい」
 はじめて真っ直ぐに向けられた、切々とした濃色の瞳と目が合った途端、なぜかセティは後ろ暗い気がして、視線をそらしたい衝動に駆られた。
「私と友人になってくれますか?」
 心の奥底にある得体のしれない感情を追いやって、セティは立ち上がり、手を差し出した。
「契約成立だな」
 セティの手をしっかりと握って、ハルが引き上げられるようにして立ち上がる。
 ハルの小麦色の手は少女のように華奢で柔らかかった。握り返しては壊れてしまうのではないかと、セティが危惧を覚えるほどに。それでも、しっかりと握ってくるハルに応えるように、セティもほんの少しだけ力をこめて握り返す。
 一面に純白の花が咲く城の中庭で、月明りの下二人だけでしめやかに交わされた新たな契約は、ハルとセティの心をなにか温かいもので満たした。

   Ⅴ

「メイラ、これより私はセティ殿とともにトゥルファに向かう」

「リド、これからハルと一緒にトゥルファという街に向うぞ」

 早朝。夜風に当たると言って部屋を出たきり、一向に帰ってこない主に気を揉んでいたメイラとリドルフは、同時刻、別室にて意気揚々と戻ってきたそれぞれの主から唐突に進路を告げられることとなった。彼らの心境はほぼ似たようなものであったが、その後取った行動は違った。
 部屋を出て行くとき、この世の終わりかと思うほどに沈んだ表情であった王子の顔に生気が戻ったことにメイラは驚き、けれど素直に喜んで主の決定を二つ返事で受けた。
 しかし、一方のリドルフはメイラと同様に主の瞳に快活な光が戻ったことは素直に喜んだが、彼の宣言に対しては難色を示したのであった。
 守護者としてはこれ以上ガイゼスの王子と行動をともにすることは、やはり賛成しかねるのだ。それが、セティとハルの双方のためであることは間違いないことであるし、それはセティ自身もよく理解していた。
 リドルフの反応を半ば予想していたセティは、淀みなく事のいきさつをしはじめた。
 ハルがシノレから聞いた話、セティ自身がシノレと接して感じたこと。そしてやはり、なによりも情報が不足していること。そのため、トゥルファという街を治めているハルの叔父である人物に会い、さらに判断材料を増やすことが先決だと二人で相談して決めたこと。
 そして─── ハルと友人になったこと。
「友人が命を狙われているんだ。それを、阻止したいと思うのは、当然だろう?」
 許可を得ようと必死に言い募るセティの姿に、リドルフは頬を緩める。
「セティは、よほどハル殿のことが好きなんですね」
 リドルフの口調は穏やかだった。
「ああ、私はハルが好きだ」
 屈託なく、即答したセティにリドルフは思わず目を細めずにはいられなかった。それから、小さく一つため息をついてみせたが、それは決して深刻なものではない。
「分かりました。あなたの友人はあなたが守るのですよ」
 その言葉に飛び上がって喜んだセティは、満面の笑みを向けてハルに伝えてくると言い残し、部屋を飛び出していった。リドルフは表情にこそ苦笑を浮かべて、けれど内心ではある種の期待を抱き、その背中を見送った。
 セティからリドルフの了承を得たことを聞いたハルは、シノレを訪ねていた。
 昨晩から不眠で執務室にこもり、片腕であるランドらと今回の襲撃について調査と事後処理に追われていたシノレは、いかにも申し訳なさそうに訪ねてきた従弟を煙たがるようなようすは微塵もなく、むしろ歓迎した。
「お体の具合はもう良いのか?」
「ご心配をおかけいたしました。おかげさまで、もうすっかり良くなりました」
 さらにハルは昨日の出来事を同行したセティから聞いたことを伝え、シノレの身に大事がなかったことに安堵したと、付け加える。
「とんだことに巻き込んでしまい、セティ殿には大変申し訳ないことをした。リドルフ殿のおかげで、傷が消えたから良かったようなものの、あの顔に傷跡を残すようなことになっては、私はすべてのナディール国民から恨まれることになっただろうな」
 冗談っぽく笑ってみせたものの、それはシノレの本心に違いなかった。
 一方、セティが傷を受けたことを知らされていなかったハルは、何のことやら分からず不思議そうにシノレを見るばかりである。
「襲われた際、セティ殿は将軍とともに襲撃者を撃退して下さったのです。そのとき、あの美しいお顔に傷を受けられてしまったのですが、リドルフ殿が不思議な力できれいに消して下さったのでございます」
 ていねいに説明するランドの言葉はハルを少なからず驚かせた。夜明けまでセティと二人で話していたというのに、彼はそんなことを一言も言わなかったのだ。
「倒れられた殿下を気遣って、きっと、セティ殿もリドルフ殿も知らせなかったのでしょう」
 顔を曇らせて視線を落としてしまったハルを慰めるように、ランドはそう付け加えた。
 セティの顔を知るものなら大抵がそうであるように、ハルもまた例外ではなかった。あの月の女神(アイレ)のように美しい顔に傷がつくことなど、想像しただけで胸が締め付けられる。
 しかしそれ以上に、大きな見返りを求めず自分たちを手助けしてくれ、さらには、友人になろうといってくれたセティが血を流したことに、ハルは大きな衝撃を受けていた。もしかすると、自分は大変なことにあの人を巻き込もうとしているのではないか。
「ハル殿? なにか話があったのではないのか?」
 ハルは一つ息を吐き出して、両の手を握りしめた。明け方、中庭でセティと交わした契約という名の約束を思い出していた。
 ランドが席を外したのち、ハルは静かに、けれどはっきりとした声で、叔父であり領主であるロガンから直接話しを聞くために、セティらとトゥルファに向うこと、そして、体が完全でないカイの身をここで預かって欲しいという旨を伝えた。
 いつもは控えめで、悪い表現をすれば気弱にさえ見える王子の顔が、どこか活き活きとしているのにシノレは驚き、そして喜んだが、実際に浮かべたのは複雑な表情であった。
「カイのことはもちろん引き受けるつもりだが、この先も、セティ殿とリドルフ殿と四人で行動されるおつもりか? かりに叔父上の話が真実だとすれば、メイラとセティ殿の腕をもってしても、たった四人ではあまりにも心もとない」
 昨日の襲撃の首謀者をシノレは未だ掴んでいなかったが、領内で二十名ほどの人数に襲われたのだ。
「さすがにこの城内まで手が回ることはないとは思うが、不審な者が紛れ込んでいないか、今調べているところではある。もう少し、ここに滞在されてようすをうかがってはどうだろう」
「これ以上、ご迷惑をおかけするわけにも参りません。もしも、私の命を欲しているのが、王太子殿下だとすれば、長くラガシュに滞在すれば、従兄上のお立場を悪くすることになります」
 これは、あらかじめセティと考えて用意した返答であった。セティもまた、シノレ・アンヴァーン公に接して彼に対する疑念は薄いと読んでいたが、ラガシュまでの道中彼の紋章をつけた一団に襲撃を受けている以上、完全に警戒を解くことは現段階では危険であると判断したのだ。
「では逆に、セティ殿とリドルフ殿は信頼してもよい人物なのか? ハル殿はお二人の素性をご存知なのか?」
「それは──」
 ハルは言葉を失った。
 彼らが有害な存在でないという、確たるものがあるわけではなかった。シノレの言うとおり、ハルは彼らの素性など一片も知らない。リドルフは大地の神(アナリ)に仕えていると公言しているが、アナリ神殿の神官にはあるまじき身の丈ほどもある大剣を背負っているし、セティにいたっては「セティ・コヴェ」という名しか知らない。けれど、淡紫色と空色の瞳の奥に、不誠実なものが棲んでいるとは思えないのだ。はじめて彼らに会ったときから今日まで、その思いは変わらない。理性では測りきれないところで、彼らは大丈夫なのだと、そう言っている。
「万が一、裏切られるようなことがあったとしても、後悔はありません。むしろ、兄上に命を差し上げるくらいならば、セティの剣に胸を一突きされたほうが、私にはよほど清清しいように思えるのです。この国の未来のためにも」
 穏やかな声音のなかに、どこか凛としたものを秘めたいかにもハル・アレン王子らしい考えに、シノレは肘掛けに肘をついたまま口許をほころばせた。
「気分を害されたなら許されよ。私も、セティ殿やリドルフ殿に、いかがわしい思惑があるなど、ゆめゆめ思えぬのです。ただ、ハル殿はこのガイゼスの第二王子にあらせられる。行動を決めるのに、慎重すぎるということはない」
「それでは」
「丈夫で良い馬を、四頭用意しましょう。トゥルファは、徒歩では遠すぎる」
 喜色を滲ませて、謝辞を述べたハルに釘を刺すようにシノレは声を落として言葉を続けた。
「十分な用心を怠らぬよう。ともかく、ハル殿や私が真剣に命を狙われているということは、事実のようなのだ。先の襲撃について調査をしているうちに、興味深いことも分かってきている」
「興味深いこと、でございますか?」
「我が国にはずいぶんな数の傭兵が入ってきているようです。これは、我が国の現状をふまえれば、見過ごすわけにはいかぬでしょう」
 傭兵というのは鼻が利く。戦争の臭いをかぎつけて、どこからともなく集まるのだ。しかし、現在ガイゼスが戦時とは程遠いことを、巡検使であるハルはよく知っている。北に国境を接するナディールとは十七年前の停戦条約が今のところはまだ効力を失っておらず、西に国境を接するアドリンドとの関係は友好とまではいえなくても、問題はない。地域によって多少の差はあるものの、国民には暴発するほどの不満が鬱積しているようすも見られない。水面下の動きはハルもシノレも掴みきれていないが、表向き、ガイゼスは平穏なのだ。
「先の襲撃の一団の統率力は弱く、技量にもばらつきが目立った。今回の件に関して実行役を、彼らが担っていると考えるのは自然です」
「それと、ナディールの神官もいつもより多く入ってきているようです」
「ナディールの神官……」
 ハルの脳裏に浮かんだのは、いつも穏やかな表情を絶やさぬ、切れ長の空色の瞳を持つ背の高い青年の姿であった。シノレはそれを見透かしたかのように、言葉を続けた。
「ナディールの神官は、リドルフ殿のようなお人ばかりではありませぬ。今回の件に関与しているか、どうかは分からぬが」
 出発を明朝の夜明けと決めて、ハルは頭を下げてシノレ・アンヴァーン公の執務室を辞した。
 一同はハル・アレン王子にあてがわれている客間に集まり、彼がシノレ・アンヴァーン公よりもたらされた情報を共有し、それを元に改めて考察することになった。
 王子の話を一通り聞き終えたあと、彼らは無言であった。
 特別に有益な情報があったわけでも、衝撃的な情報があったわけでもない。油断がならない状況であることを再認識しただけである。ただ、一点を除いて。
「ナディールの神官が多数入国していることは、どういう関係が……?」
 答えを求めるように、メイラは剃髪したナディール人の神官を見た。長いすのうえで胡坐をかき、腕組みをした行儀の悪い白皙の美青年の視線も受けて、リドルフは慎重に言葉を選びながら話しはじめた。
「どの神殿の神官かにもよるかと思います。ナディールの神官は、所属している神殿によって役割が違いますから」
「どのように、異なるのですか?」
 屈託のない王子の問いに、リドルフは遠慮がちにメイラを見る。視線を逸らすかと思われた老女は苦虫を噛み潰したような顔で、静かに言った。
「殿下の御身に関わるやもしれん話しだ。説明してもらおう」
 整った顔をくしゃくしゃにして吹き出したセティの頭を、メイラがぽかりと拳骨で殴る。その力が思いの他強かったようで、殴られた本人は目に涙すら滲ませて抗議したが、メイラは腕を組んだままそっぽを向き、相手にしない。そのようすにハルとリドルフも頬を緩ませた。
 いくぶん緊張感の薄れた雰囲気のなか、リドルフは穏やかな口調で説明をはじめた。
 ナディールでは、大地(アナリ)(シルヴァ)(アデン)(フィース)の神がおり、その神々の上に全知全能といわれ、神々を統率する神である、空の神(オリス)がいること。
 大地の神(アナリ)水の女神(シルヴァ)は、生命を育む神とされ、その二神に仕える神官や巫女(クラスティーヌ)は国内で医療や福祉、公衆衛生などを中心とした内政に関わっていること。
 火の神(アデン)風の神(フィース)に仕える神官や巫女(クラスティーヌ)は主に軍務や外交を担い、外政全般に関わっていること──。そして、空の神(オリス)は特別な存在であり、運命を司るといわれており、俗世とは一線を置き、主に祭事を取り仕切っていること……。
 リドルフの話した内容はハルも書物で学んだことのある内容ではあったが、ナディール人の、しかも神官の口から実際にそれを聞くと現実味が感じられて不思議なものだった。
 そして、ふとハルはあることが気になった。
「そういえば── セティ殿は、法術は使わないのですか?」
「“殿”は、もう要らない」
 苦笑しながら訂正されて、ハルは思わず口を覆って、それから言い直した。
「セティは法術は使わないのですか?」
「私は、法術は使わないよ」
 これまで行動を共にしてきたが、彼が披露したのは、惚れ惚れとするほど優美で苛烈な剣舞だけで、術者の片鱗を見せたことはない。薄々ハルとメイラはそれに気がついていたが、改めてセティの口から聞くと、多少の違和感を覚えずにはいられなかった。なにしろ、白い肌と淡色の髪と目を持つ青年の外見は、造形こそ浮世離れしているものの、生粋のナディール人のそれであるには違いない。
「もしも、入ってきているのがフィースやアデンの神職者なのだとしたら、もちろん外交に関わることでしょう」
「では、アナリやシルヴァの神職者ならば?」
 アナリやシルヴァの神官や巫女(クラスティーヌ)はあまり国外に出ることはないが、珍しい薬剤の原料の調達や、医術の習得のために国を出ることはある、とリドルフは前置きする。
「それでも、通常より有意に入国数が多いのだとしたら、何か特別な事情があるのかもしれません」
 リドルフが自分に送った視線の意味を、セティはおよそ正確に理解していた。
「もしかして── 陛下の病状が思わしくないことにも関係があるのだろうか……」
 ハルは、国王の治療を担っている医師団の相談役にナディール人がいる、とシノレが言っていたことを思い出した。そして、カイを治療してくれたリドルフの素晴らしい力を思い出した。
「ナディールの神職者の方に、治療の打診を……?」
 華奢な顎に指をかけて独白するように呟いたハルの言葉に反応したのは、メイラだった。
「我が国の長である国王陛下の行く末を、ナディールの方にお任せするなどということが、どうしてありましょうか」
 ハルが困ったように視線を泳がせたので、リドルフは自分に矛先を向けるべく助け舟を出した。
「可能性はなくはないかもしれません。人は為す術を見失ったとき、何か見えないものにすがりたくなるのでしょう。それは、きっと国家も人種も関係ありません」
 案の定、メイラは眉を跳ね上げてリドルフに食ってかかる。
「ガイゼス人は神など信じない」
「私も、本当は神など信じてはいません」
 間髪いれずに重ねられた穏やかな同意に、メイラとハルが唖然とした。セティは怪訝そうにリドルフの顔を見る。
「ただ、その神の力を借りて法術を使うことができてしまうので── その存在を否定することができないだけです」
 リドルフの声音も表情もいつもと何ら変わらなかった。それが一層、ガイゼス人たちに言葉を失わせた。いささか奇妙なものになった空気を払い、会話を総括したのはセティだった。
「いずれにせよ、今の段階では真実は何も分からないということだな」

 夕方、シノレはハル・アレン王子とその一行のために晩餐を供した。
 晩餐にはハル、セティ、メイラ、リドルフの他、ランドらも同席し、楽士や踊り子なども招かれ、贅を尽くした料理と酒が振舞われた。
 ハル・アレン王子ら一行の前途は明るいとは、到底言えない。当人はもちろん、同席したすべての人間がそれを認識していた。
 しかし、意外なことにハル・アレン王子は明るく、中でも異国の白皙の美青年と楽しげに談笑している姿が同席者たちの心を和ませた。
 明け方。鉛色の雲が垂れ込めた空のしたに集まったのは、たった四名のハル・アレン王子ら一行と、見送りにやってきたシノレ・アンヴァーン公と、ランド、そして王子が信頼を寄せる第二王子付きの近衛兵長であり、ラガシュで傷が癒えるまで静養することとなったカイの三名だけである。
 旅支度をととのえて、大剣を背負って姿を現したリドルフに、シノレとランドは例に違わず驚き、何ともいえぬ表情を浮かべる。それに対してリドルフはいつもと同じ言葉を穏やかな声音で口にしただけである。
 ハルはわざわざ見送りのために、城壁の門近くまで出向いてくれた彼らと和やかに談笑していたが、ふとした拍子に目を細めて、遥か彼方の地平線を追うように遠くをみるその表情はいささか固い。それでも誰かに声をかけられれば、微笑して律義に謝辞を述べる。
「やあ、いい朝だな」
 場違いなほどにのんびりとした声を響かせたのは、有明の空のような幻想的な瞳をもつ、美貌の青年である。
 ハルは、その声に相応しく微塵も緊張感のない表情を浮かべたセティを仰ぎ見て、破顔した。今にもはちきれんばかりに雨雲が重く垂れ込めた空は、ひどく不吉なもののように思えてならなかったが、セティが言うならばきっとそうなのだろうと、素直にそう思えたのだ。
風の神(フィース)の加護を!」
 旅人へのはなむけの言葉に送られて、一行は色彩の乏しい世界へと駆け出した。

第三章 魑魅魍魎

   Ⅰ

 白い手をかざして、セティは丘陵から乾燥した大地を見渡した。
 神秘的な色彩の瞳に映るのは、抜けるように高く澄んだエジプシャンブルーの空と、わずかな潅木(かんぼく)、そして見渡す限りの、荒涼とした黄土色の大地。大地が色彩に乏しい分だけ、空の色がよく映えるのだ。
 ラガシュを出て、四日が経っていた。
 シノレが彼らのために用意した馬は、それぞれが名馬と評されてもおかしくはない良馬であった。セティとリドルフにあてがわれた馬は大変穏やかな気性で、初心者である乗り手をさりげなく気遣うようにして駆り、メイラにあてがわれた馬は気性はやや荒いものの駿馬で、十八年前のヤルカドの会戦では騎兵隊として戦場に出たという彼女はそれを巧みに操っていたし、ハルは名馬のおかげというよりは乗馬が非常に上手かった。
 ハルの乗馬の腕前に不躾なほど率直に驚きを口にしたセティの頭を、例によってメイラがぽかりと殴り、リドルフが苦笑する。
 温和でやさしげで── ともすれば頼りなく見えるハルではあるが、彼は巡検使であり、このガイゼスの王子でもあるのだ。剣は不得手でも乗馬はたしなみの一つとして、当然身に付いている。
 一行はラガシュを出て以来、道中の村や町で宿を取りながら順当に進んできた。野営を避けるために、日中の酷暑の時間帯も馬を走らせたこともあった。
 野営を避けるのは、もちろん襲撃に備えるためである。
 広大な大地では身を隠すことも出来ず、そのような環境で大人数に囲まれるようなことが起これば、いかにセティとメイラが剣の達人であってもあまりにも形勢が不利だった。しかし、ラガシュ近郊でシノレ・アンヴァーン公を狙った襲撃の規模を考えれば、有り得ないことでもなかった。
 この日、彼らは太陽が高いあいだ岩陰で暑さをしのぐべく、休憩を取っていた。
 先を急ぐのにこしたことはないが、次に宿を取る予定の町は目前であるし、これまでの強行旅程は彼らの体力を多少なりとも消耗させていた。このまま何事も起こらずにトゥルファに到達できると考えるのは楽観というものであり、来るべきときに備えて気力と体力を充足させる必要があると彼らは考えたのだ。
「ハル、そろそろやろうか」
「はい」
 暑さが和らいだのを見計らって、昼寝と食事で気力と体力とを充足させたハルとセティは、鞘を抜き払った各々の剣を手にとった。ラガシュを出て以来、日課となっている剣の稽古の時間である。
 ハルの剣は一般的な中剣よりも一回り小さく、刃も細い。一際目を引くのは、柄にはめこまれた上等な紫水晶である。セティの瞳にも似たそれを引立たせるように柄には厭味ない程度に細かい装飾が施され、一目で保持者の身分の高さをうかがわせる。
 いわゆる飾りの剣の意味合いが強いそれを実戦で使用できるかどうか相談されたとき、ハルの美しい師は手渡された見事な剣を一通り見て、ふむ、と小さく頷いた。それから、おもむろに地面にあった小石をつまみあげて放ると、剣を一閃させた。
「切れ味は悪くないし、装飾も邪魔というほどでもない。十分使えるさ」
 眼前で起こったことを上手く飲み込めず、口を開けたままのハルをよそに、二つに割れて地面に落ちた小石をセティは見直すことすらしなかった。
 剣を教えるといったはずなのに、この四日間でセティがハルにさせていることは、ただ鞘を払った剣で対峙することだけだった。向かい合う。それだけのはずなのに、ハルには長い時間セティと向き合っていることができない。
 セティの剣は、このあたりではあまり目にしないものだった。
 刀身はハルのものと同じで一般的なものよりも短く、柄頭には月長石がはめこまれている。そして、なによりも珍しいのは、刃が片刃であることだ。
 柄に目立った装飾は月長石以外にはないが、細めの刃の幅といい美しい曲線を描く切っ先といい、彼の剣は飾り気こそさほどないが、どこか気圧されるような独特の雰囲気があるのだ。しかし、ハルが長い時間対峙していられない理由はそれではない。
 しっかりと両手で柄を握り締めて正眼に構えるハルとは対照的に、片手で無造作に柄を握るセティの剣の切っ先がわずかに上向いた。
 その瞬間、じっとりと変な汗が滲んでくるのをハルは感じる。
 だんだん呼吸が苦しくなって、肩で息をする。それでも続けていると、耳鳴りのようなものがしてくる。
「今日はここまでにしよう」
 笑ってセティが剣を鞘にしまうと、返事をするよりも早く、ハルは柄を握ったまま力なくその場に座り込んでしまう。これが、四日間続いているのだ。
「昨日よりも長かったですね」
 少し離れた場所で二人を見守っていたリドルフは、整理していた薬草をしまいながら、同じように二人のようすを険しい表情で見つめていたメイラに向かって言った。
「こんなときにあのような稽古など、意味がない」
 メイラの視線の先では、座り込んでしまったハルの傍らに屈み込んだセティが、ハルの肩に手を置いて笑っている。
「ラガシュを出てからのハル様は、良いお顔をされていると思います。私には剣のことはよく分かりませんので、ご本人が楽しまれているのなら、それで良いように思えてしまいますが」
「まあ……な」
 ハルが活き活きとしているのは、これまでずっと側で仕えてきたメイラが一番よく分かっている。
 自分の命を狙っているのが、兄である王太子殿下であるという話を聞いたハルが受けた衝撃は量りしれない。メイラはこのままハルが死んでしまうのではないかと、危惧を覚えたほどだ。
 ハル・アレン王子は誰かに求められたことに関しては快く応じる反面、自分で何かを求めるということを、ほとんどしない少年だった。だからこそ、メイラは目を覚ました彼がどういう結論を出すのか、気が気ではなかった。
 あの夜、少し夜風に当たってくるといって部屋を出た小柄な王子の背中には、絵に描いたような憂鬱が確かに乗っていた。それが、夜明けとともに戻ってきた王子の背にはそれがなく、瞳には見たことがないような快活な光が宿っていた。話を聴くうちに、それを与えた人物がセティ・コヴェと名乗る美しい異国の青年であることを知り、なぜかメイラはやけにしっくりと合点がいったものだ。
 談笑しながらリドルフとメイラの元へ戻ってきたセティとハルも外套を羽織り、水や食料を詰め込んだ荷物を背負った。太陽は大分傾き、移動に適した時間帯が再び訪れていた。
 馬をつないでおいた潅木の方へ移動しはじめた一行の最後尾で、ふとリドルフが足をとめた。眉を寄せ、怪訝な顔で後ろを振り返る。
火の精霊(ラマン)……?」
 リドルフが漏らした低い呟きは風に運ばれて、ハルと並んで先頭を歩いていたセティの耳に届けた。セティが振り向く。
「セティ!」
 振り向いたセティの顔が凍りつくのと、リドルフが声を上げたのはほとんど同時だった。
 それから二人が取った行動は実に的確だった。
 セティが傍らのハルの頭を右手で押さえ、左手でメイラを抱え、自分の体を覆いかぶせるようにして地に伏せる。
 セティの身体の下で、メイラとハルが聞いたのは珍しく切迫したリドルフの言葉だった。
 もしも二人が法術に造詣が深ければ、リドルフの口から鋭く発せられた聞き慣れない言葉が、緊急時に使われるマントラだと分かったかもしれない。
 しかし、セティの腕の下でそれを聞いたガイゼス人には、当然というべきか、単なる無秩序な音の羅列のようにしか聞こえなかった。
 次の瞬間、熱気の塊のようなものが地面に伏した体の上を抜けていくのを、セティの腕の下にいたハルは感じた。
 阿吽の呼吸というのは、まさにこのことを言うのだろう。
 リドルフが再度その名を呼び終えるよりも早く、セティは左右のハルとメイラの腕をつかんで跳ね起き、そのままリドルフが急遽地面に描いたいびつな円のなかにハルとメイラを先に押し込んで、最後に自分も入った。
 状況が全く分からず狼狽する二人に向かってセティは、必要最低限の情報だけを与えた。
「誰かが法術を使ってきている。リドに任せれば、大丈夫だ」
 実際、このときのセティは、もう一歩踏み込んだ段階まで状況を把握していた。しかし、混乱を避けるためには伝えるものはそれで十分だった。
 一方、リドルフは半跏趺坐(はんかふざ)の姿勢のまま目をつむり、低い声でマントラを唱えていた。
 それを耳で確認しながら、セティは険しい表情で虚空に視線を泳がせる。ハルもまた、どこか恍惚としたような顔で上空を見上げている。メイラだけが、いかめしい顔でじっと地面をにらみ付けていた。
「熱……」
 どれほどの時間がたっただろうか。不意にメイラが低い声で呟いた。酷暑の時間は過ぎたはずなのに、深い横皺が刻まれた額には、汗が滲んでいる。
火の精霊(ラマン)が取り囲んでいます。防御陣は完成しているので入ってくることはありませんが、熱までは私の力では遮断できないのです」
 リドルフが息を吐き、振り向いた。その表情は平時に戻っていた。
「あまり動かない方がいいぞ。陣から出たとたん、火の精霊(ラマン)に焼かれる」
 額に滲む汗を拭おうとしたメイラは、セティのことばに打たれたように姿勢を正し、気味悪そうに周囲を見回して肩をすくめた。
 彼らの会話にも参加せず、ぼんやりとまだ上空を眺めていたハルは、前触れなく頬に触れてきたた温かいものに驚いた。
「セ、セティ…?!」
 目の前を見ると、正視するのがはばかれるほどに美しい造形があり、長い睫毛に覆われた幻想的な色の瞳がじっと向けられていた。
「じっとしていろよ」
 セティは白い指先で先ほど地面に伏したときについた、ハルの頬についた土を払っていた。
「少し、すれてしまったな」
 地面にこすれて少し赤くなった部分を覗き込むように、さらにセティが近付いた。息がかかるほどの、距離だ。一瞬にして頬を紅く染めて座ったまま後退しようとしたハルを、後ろにいたリドルフがやんわりと抱きとめた。
「まだ動くと危ないですからね」
 振り向いて、リドルフに早口に、けれど律義に詫びてハルはうつむいてしまう。
「何を照れているんだ。男同士だろう」
「同性でも、至近距離であなたの顔を見るのは照れくさいものですよ」
 不服そうなセティにとりなすようにリドルフが穏やかに笑い、同意を求めるとハルは慌てて頷いた。
 状況自体はきわめて憂慮すべきものであったが、リドルフの法術によってさしあたり生命の危機から逃れた一行は、こんな調子で特に緊張感のある会話を交わすわけでもなく、見渡す限りの荒地の真ん中に身を寄せあい、額に汗を滲ませながらそのまま一刻ほどの時間をやり過ごした。
「精霊が去ったようです。もう大丈夫でしょう」
 周囲を見渡してリドルフは防御陣を解き、それを証明するように立ち上がった。それに続いてすぐさまセティが立上がり、手足を存分に伸ばす。さらにハルが続いた。三人が立ち上がっても、メイラだけが立ち上がろうとしない。
「メイラ、もう終わったようだ」
 ハルが屈み込んで、肩に手を置くとようやくメイラは立ち上がった。
 周囲を探索していたセティが何かに気付いて駆け出した。それに、リドルフ、ハルとメイラが続く。
「馬が……」
 目の前では、木に繋いでいたシノレより賜わった、四頭の名馬が見るも無惨な姿になり果てていた。
「迂闊でしたね。襲撃者の本来の目的はこちらだったのかもしれません」
 呆然と立ち尽くす三人をよそに、リドルフが冷静に呟いた。

 不幸な四頭の馬はていねいに弔われた。
 その作業に一番意欲的であったのはハルで、身の安全のために一刻も早くその場を離れようというセティとメイラの意見を珍しく頑なに拒否して、リドルフの協力のもと土葬した。
次の町までは馬の足ならば目前であったが、徒歩ともなれば歩きどおしても夜明けまでかかる。
 不幸中の幸いというべきは、日中十分な休息を取っていたことと、食料と水が無事だったことである。有効な移動手段を失った精神的な打撃は小さくなかったが、体力が充実し、飲食が保証されているかぎり、人はそこまで悲観的にはならないものである。
 一行は先の襲撃について意見交換しながら地道に目的地に向けて歩を進めた。
「まさか、法術での襲撃を企てるとは──。術者を雇い入れたのでしょうか」
 これがハルの発言であったからこそ、メイラは声に出しては反論しなかった。その代わり、苦虫を噛み潰したような顔で沈黙する。
「そういえば、ずいぶん傭兵が入ってきていると、アンヴァーン将軍が言っていたんだものな」
 剣や槍などの腕ではなく、法術を売りにする傭兵というものもいる。法力を持って生まれるのは白色人種か白色人種の血が入った人間だけだ。しかも、実際に法術を使えるようになるには生まれつき一定水準以上の法力を有するだけでなく、様々な知識を得て研鑽を積まなければならない。このような背景から、法術を売りにする傭兵というのは絶対数が少ない。そのため、どこの国でも歓迎され重用されるのが常だった──例外を除いて。
「目的が何であれ、法術を使う傭兵を雇い入れるなど、ガイゼス人としての誇りを投げ打つようなものだ」
 考えたくない、とメイラが苦々しく呟く。例外は、もちろん法力至上主義のナディールから武力によって独立を果たしたガイゼスに他ならない。
「私も傭兵ではないと思います。あれは、明らかに傭兵程度が扱える術ではありません」
 法術の原初であるナディールという国家も暗愚ではない。たとえ白色人種であっても、神職者となれるほどの才に恵まれる者は、全人口の一割程度しかない貴重な存在だ。そのため、一定水準の術者やそれに成り得る人材には見合った社会的地位や待遇を与え、国外への流出を防いでいる。そして、その政策は大方成功していた。一般に、傭兵という立場に身を落としている術者はナディール本国で神殿に所属している術者に比べて程度が低いのだ。
「なぜ、そのようなことがお分かりなのですか?」
 不思議そうな顔のハルに、少し微笑んでリドルフは付け加えた。
「術者の姿が見えなかったのですよ」
「術者の……姿が?」
 頷いて、リドルフは説明をする。
「法術というものは、それぞれの神の僕である精霊を御することによって成り立ちます。高い技量と強い法力を持っている術者ほど、多くの精霊を広範囲で自在に操ることができるのです。このあたりは、見通しがよく、身を隠すところが極端に少ない。けれど、術が終わった直後、少なくとも見える範囲に術者の姿はなかったのです」
 無残な姿に変わり果てた馬達を一番早くに見つけたのは、周囲に注意を払っていたセティであった。彼の行動にはもしかするとそんな意味も含まれていたのかもしれない。
「では、先刻殿下を襲ったのがナディール人の神官だとすると、奴等(しゃつら)の目的はなんだというのだ。殿下を害する利がどこにあるのだ」
 国境の狭間の町、アイデンからラガシュに向かう途中も、彼らは似たような会話を交わしていた。そして、そのときと同じく、メイラの問いに答えられるものはなかった。
「もしも、私の命を狙っているのが兄上だとしても、そのような高等な術者をナディールから雇い入れることが可能だとは思えないですし、兄上の心情的にもそのようなことができるとも思えません」
「そのとおりです。王太子殿下は、我が国の将でもあります。たとえ私欲のためといえども、ガイゼス人としての誇りを失うようなことはないでしょう」
 ハルはメイラを見て、一つ頷いた。
「しかし、私ごときを葬ったところで、外交になんらかの影響があるとも思えない──。先の襲撃は、ほんとうに私を狙ったものだったのでしょうか」
 セティが、地面の小石を蹴る。小石は乾燥した大地のうえを勢いよく転がっていった。リドルフはセティに視線を送ったが、淡紫色の瞳はリドルフの方を向かなかった。
「なにかを判断するには、やはり情報が足りなすぎます。とにかく、トゥルファという町に無事に辿り着くことが先決なのでしょう」
 リドルフの言葉こそが、現段階では至極建設的で現実的であった。
 その後も彼らは、足だけは動かしながら活発に会話を交わした。
 話しながら歩くのは、余分に体力を消耗することにつながるから、徒歩の旅人たちは普通あまりそれをしない。
 先の襲撃では、わざわざ彼らの機動力を削いだぐらいであるから、次の町に着くまでに再度なにかがあると考えるのが当然であり、体力は温存しておいた方がいい。しかし、今、彼らにとって重要なのは体力を温存することよりも、精神的衝撃を回復させることであった。 
 法術が身近な存在である白色人種でナディール人のセティや、神職者であり自身も法術を使うリドルフは別として、ハルとメイラに関しては、得体の知れぬものの攻撃といいう点においては、やはり剣や槍での襲撃より衝撃が大きかった。
「精霊というのは、どういう存在なのですか?」
 ハルがリドルフを見上げて訊いた。
「簡単にいうと、万物に宿っている霊のようなものです。彼らに意思や感情はないと言われており、支配する各々の神の意向や法力を持つ術者によって動きます」
 法術というものを積極的に理解しようとする姿勢は、もはやハルだけのものではなかった。嫌悪感を露骨に示していたメイラも、リドルフに何度か助けられたせいか、積極的に質問をすることはしないものの、二人のやり取りには真摯に耳を傾けている。
「精霊は、光の玉や粒のような状態で存在しています。これが、術者に操られ、使われている法術の種類によっては実体化したように見えることがあります。いずれも、法力がある人間ではないと見えないのですが」
「実体化、ですか?」
「私の目には、先ほど無数の火の玉が飛んできたように見えました」
「それは、法力がある人間にしか見えないということですか?」
 リドルフは、頷く。
「強い法力がある術者は、法力がない人間にも見えるように、実際に精霊を実体化させて見えるようにすることもできます。けれど、通常は法力がある人間以外には精霊は見えないのです」
 ハルは虚空に視線を泳がせて、口を閉ざした。

 一行は、それから払暁(ふつぎょう)までただの一度も休憩をとらずに歩き続けた。
 そして、第二撃はあまりにも意表をついた形で訪れた。
 目的の町まで辿り着いた彼らを迎えたのは、日常の活気とは別種のものに支配された町の姿であった。
 町の入り口で足を止め、一同は辺りを見回した。日の出とともに町が動きはじめるのはこの辺りでは当然のことではあるが、それにしても人が出すぎているし、どの顔も一様に険しく、余裕がない。
「もし」
 メイラが慌ただしく街道を行き来する若い男の一人に声をかけ、何かあったのかと訊く。
 呼び止められた男はあからさまに迷惑そうな顔を浮かべたが、声をかけてきたのが老女であることに気がつき、面倒そうながら答えを返してくれた。
「町にある井戸が、今朝、急に枯れちまったんだ」
 男は言い捨てると、そのまま駆け去った。一同が、顔を見合わせる。
「この町には火の精霊(ラマン)が異常に集まっています」
 リドルフが色の薄い眉をひそめ、声を落とした。
「術がかけられているのでしょう」
「そんな……。町の人々はなにも関係ないではありませんか」
 ハルの唇は色を失い、かすかに震えていた。
「井戸を枯らすなど、そんなことができるのか」
「術を使っているのが、並みの術者ではないという証拠です」
「だったら、早くその術とやらを何とかしてくれ」
「できません」
 メイラは眉を跳ね上げて手を伸ばし、リドルフの胸倉を掴んだ。
「私の力ではできないのです」
 リドルフもセティも水源が失われるということがどういうことなのか、理解しているつもりである。しかし、それは決して実感が伴っているものではなかった。
 焼け付くような暑さに支配される土地にとって、井戸が枯れるということがどれほどの深刻な事態であるかは、水と緑に恵まれた国土に生まれ育ったナディール人の想像を遥かに絶する。水源が永遠に失われれば、乾燥した大地に囲まれた町が辿るのは滅びの道以外にない。
火の精霊(ラマン)を打ち払うには、対極である水の女神(シルヴァ)の僕である精霊、とくにこの場合、泉の精霊(イネヌ)を使役しなければなりません。私には、その類の力がないのです」
 胸倉を掴むメイラの手にそっと手を重ね、リドルフはあくまでも穏やかに言った。
「完全に井戸が枯れたわけじゃない。一時的に抑えられているだけだ。術さえ解ければすぐに元のようになる。とにかく──」
 セティは周囲を見回して肩をすくめた。
「どこか、人目につきにくいところで対策を練ろう」
 先ほどからこちらを盗み見ては、何かを囁き合う人の姿がかなり見られる。セティとリドルフにしてみれば、それは決して珍しいことではなかった。何せ、セティは稀代の美青年だ。しかし、今の彼らが感じているのは決して友好的ではない感情であった。
 非常事態に町中が殺気立っている。ただでさえ余所者には非好意的な感情が先走るだろう。さらにその余所者が白い肌の持ち主であれば、行き場のない感情のはけ口にされかねない。リドルフはセティに外套のフードを被せ、まるでそれらから守るかのようにしてセティの前に立っていた。
「とりあいず、宿に入りましょう。こちらです」
 ハルはやはり感受性が強い少年だった。唐突なセティの発言を訝しがるメイラを促して、先に立って移動をはじめる。異国の友人が感じている居心地の悪さとその理由を、彼の一言からかなり正確に把握していた。
 町に一軒しかない宿は、ほとんど無人に等しかった。宿泊の手続きを取る際も、主人は上の空で好きにしてくれ、と言わんばかりである。
「私たちがこの町に立ち寄ったからだというのか。 私たちが去れば、町の人々は元の暮らしに戻れるのだろうか──」
 外套を脱ぐよりもはやく、たまりかねたかのようにハルが言った。
「殿下、この町で水を調達せずに次の町に辿り着くのは難しゅうございます」
「たとえ次の町に着けたとしても、そこで同じことが起こればそれまでだ」
 セティの言うとおりであった。トゥルファまではあと二つ、村と町を経由しなければならないのだ。
「術を解くのが無理ならば、術者を探し出して解かせるか、術者を葬るしかない」
 淡紫色の瞳はじっと一点を見据えていた。
 四人は二手に分かれ、疲労した身体に鞭打ってすぐさま行動を開始した。
 ハルとメイラは宿を出て町の様子をうかがいながら不審者の情報がないか調べ、ナディール人の二人は町人を下手に刺激しないよう、人目を避けて室内からリドルフの法術によって術者の捜索と捕捉を試みることにした。
「ずいぶん大掛かりそうな術だな」
 二人きりになった部屋で、セティは腕組みをして壁にもたれた。視線の先ではリドルフが粉末状の薬草を指先につけて、ひたむきに床へ文様を描いている。
「一刻も早く、術者の正体をつきとめて目的を把握する必要があります」
 リドルフが描いているのは神霊文字(サイラッド)と呼ばれるものだ。知識のあるものなら、それを見るだけでどのような類の法術を、どれほどの規模で使おうとしているのかが分かる。
「狙いがガイゼス人のハル様だとすれば、仕掛けがいささか大仰すぎる気がします」
 セティは薔薇色の唇に皮肉げな笑みを刻んだ。
「ガイゼス人を法術で殺めるなら見習い(クラム)で十分、か」
 答えずにリドルフは文様を描き続けた。まだ途中のそれは、すでにかなり複雑な様相を(てい)していた。
 セティは壁にもたれたまま、逆三角形の顎に指をかけてしばしその作業を見つめる。今更ながら、これほど複雑な術式を迷うこともなくすらすらと描き続けるリドルフに、感嘆の意を覚えた。
 無論、神霊文字(サイラッド)を規定の形に描くだけでは術は完成しない。対応するマントラを唱え、さらに法術の水準に伴った法力がなければ発動することはできないのだが、リドルフには当然それだけの力も技量もある。彼は本当はこんなところで自分と二人で旅をするような人物ではなく、故国にとっては、まさに才能と勤勉さを合わせ持つ逸材であるのだ。
 ぼんやりとそんなことを考えていると、不意にある考えがセティの脳内に浮かんだ。
「───私か。狙いは」
 リドルフが手を止めた。一瞬の沈黙でセティは全てを悟ったような気がした。リドルフもその可能性を考えていたに違いない。だからこそ、これだけの法術を使って術者の正体を突き止めようとしているのだ。しかし、実際に彼が口にしたことは違った。
「あなたを崇めることはあれど、どうして疎むことなどあるというのでしょう」
弑逆(しいぎゃく)だって世では珍しいことではないんだろ? 現にハルだって命を兄君に狙われているのかもしれない」
 リドルフはまた手を動かしはじめた。
「いずれにしても、まずは術者の正体を突き止めることが先決ですね」

 ハルとメイラは町にある三つの井戸を実際に回り、そして呆然とした。昨晩まで清水で満たされていたという井戸の底は乾くどころか、虚しくひび割れていた。聞いてはいたものの、実際に目の当たりにすると事態の深刻さが急激に実感を伴って襲ってくる。
 井戸の状態を確認した後、町人を掴まえて不審者を見ていないか尋ねて回ったものの動転している者が多く、うまく問答にならない。
 それどころか日が高くなり、気温の上昇に比例して人々の苛立ちと焦燥は膨れ上がり、町を包む空気はより重苦しく刺々しいものに変化しはじめていた。
 ハルは改めて、セティとリドルフを宿に残してきたことに安堵した。
 この有様ではナディール人というだけで吊し上げにあいかねない。もっとも、黙ってそうされる二人ではないだろうが、自分たちを取り囲む状況を考えれば、無用な摩擦は避けた方が良い。それこそが刺客たちの思う壺かもしれないのだ。
 日差しが強くなってきたため、ハルとメイラは木陰に入って休憩することにした。いつもは口やかましいメイラも言葉少なに、ぼんやりと空を眺めている。
 疲れているのだろう、と、ハルは思った。
 当たり前だ。夜通し歩き続けたことはもちろん、特にメイラは襲撃に備えて気を張ってきたはずなのだ。宿を取る予定だったこの町に着いたとき、とりあいず休めると安堵したに違いない。そこでのこの事態である。体力的には当然、それ以上に精神的打撃も大きい。ましてや普段は微塵も感じさせないが、メイラは、ハルよりも倍以上の(よわい)を重ねているのだから。
大地の神(アナリ)と対極にあるのが、風の神(フィース)。そして、火の神(アデン)と対極にあるのが水の女神(シルヴァ)。四神の上に君臨するのが、空の神(オリス)……」
 ハルは石をとり、地面に書きながら小声で唱える。ハルのしていることに気が付いたメイラが嘆息を漏らした。
「殿下は、このガイゼスの王子にあらせられます。そのようなものに熱心になる必要などありますまい」
「分かっているよ」
 ハルはじっと地面を見つめたままだった。
「この国の人間だからこそ、この町に起きていることを真剣に何とかしたいと思う。リドルフ殿やセティに頼ってばかりではなくて。そのためにはこのような知識も必要だろう?」
「殿下……」
「私は、もう一度井戸を見てくる。メイラはそこで休んでいてくれ」
 小動物のような俊敏な動きで木陰から飛び出したハルを、咄嗟にメイラは追えなかった。
 一番町外れにある井戸が視界に入ったとき、ハルは足元がふらついた。慌てて手をついて、体を支える。手をついた地面が熱かった。
 額に汗が滲み、流れている。無造作にそれをぐいと腕で拭う。
 気温がかなり上がってきていた。体力を消耗した体には、その暑さがことさらに堪える。
 両手についた土を払いながらハルはゆったりとした歩調で、井戸に近づいた。(へり)に手をかけて、底を覗き込む。昨日までは清水に満たされていたというのが嘘のように、先ほども確認したとおり、底はひび割れていた。それでも、底から流れてくるひんやりとした空気がほんの少しだけ気持ちを安らがせる。
 ──── 通常は法力がある人間以外には精霊は見えないのです。
 ハルはリドルフの言葉を思い出していた。
 今、視界には無数の青っぽい光の球が見えている。
 昨夜もそうだった。リドルフに見えていたように、ハルにも生きもののように宙を舞う火の玉が、確かに見えていた。今日や昨日のことだけではない。ハルの目には、赤色人種には見えないものがいつも映っている。
 法力と呼ばれているものが自分に備わっているのではないかとは、以前から思っていた。その予感が確信に変りはじめたのは、やはり、セティとリドルフの二人に出会ってからだった。
 一度目は、アイデンで瀕死のカイを治療するためにリドルフが法を使ったときだ。
 あのとき、ハルの目にはリドルフの手から優しい光が注がれているように見えた。
 二度目は、アイデンからラガシュに向かう道中で数名の刺客に襲われたとき。
 まさに自分の体を斬りつけようとしていた白刃を遮ったのは、土の壁のように見えた。
 メイラには見えず、自分の目には映っているものが精霊というものだということを知ったのは、昨日リドルフが説いてくれたからだった。
 法力があるとすれば、それは当然とも言えた。ハルにはそうあるべき素地があるのだから。
 ただ、口に出してみたことがないのは、ガイゼスの王子という立場があるからだった。法力があるかもしれないと、口に出したところでだれも喜ばないし、何にもならない。
水の女神(シルヴァ)…… 泉の精霊(イネヌ)……」
 覚えたばかりの言葉を口にしてみる。水の女神(シルヴァ)の僕である泉の精霊(イネヌ)を使役して、術を解くのだとリドルフはそう言った。そして、自分にはその類の力がないのだとも。
泉の精霊(イネヌ)……」
 眼前で弱々しく瞬いていた球形の光の集まりが、ぴくりと反応した。もう一度呟いてみる。すると、やはり反応する。ハルは目をしばたかせ、それからひとつ息を吐いて呼吸を整え、意を決して口を開いた。
泉の精霊(イネヌ)──── 私の声が届くのなら、聞いて欲しい」
 ゆらゆらと揺れていた光の群れが止まり、じっとこちらを見ているような気がした。
「乾燥した大地の民である我々に慈愛に満ちた恩恵を施して下さり、感謝しています。人は水がないと生きていけません。国が富み、日々の営みを続けていけるのは、あなた達のおかげです」
 一旦言葉を切って、ハルは唾を飲む。口の中が乾いているのはきっと、水を飲んでいないせいではない。
「このままでは町は干上がり、滅びてしまいます。だから、どうか……どうか、力を貸していただきたいのです」
 光の球が左右に揺れた。
「私にできることがあれば、何でもします。だから、お願いです」
 こんなことに意味があるとは思わなかった。しかし、こうすることしかできなかった。
 ハルの話にまるでじっと耳を傾けるかのように静止していた光の球たちが、小刻みに振動しはじめた。
「どうか、力を貸してほしいのです」
 光の球の振動は少しずつ速くなりはじめていた。そして、ハルが再び口を開こうとしたそのとき、なにかに突き上げられるようにして視界のなかで青い光が炸裂した。

 セティが視線を動かしたのと、リドルフのマントラが途切れたのは同時だった。
 顔を見合わせる。口を開いたのは、リドルフの方だ。
泉の精霊(イネヌ)が動きはじめましたね」
 リドルフが探るように目を細めた。
火の精霊(ラマン)を押し返そうとしています」
「近くに水の女神(シルヴァ)巫女(クラスティーヌ)がいるということか?」
 泉の精霊(イネヌ)を使役できるのは、水の女神(シルヴァ)に仕える巫女(クラスティーヌ)である。しかも、町全体に作用するような、これほど強い術を押し返そうとしているのだから、セティの考えは当然と言える。しかしリドルフはわずかに首を傾げた。
「動き方がおかしいと思いませんか? 精霊たちの動きが統率されていません」
 セティは視線を虚空に泳がせて、じっと意識を傾ける。確かに、術者に御されて動いているにしては、その動きは不揃いだった。
「だとしたら、何だって言うんだ」
 次にリドルフが吐き出した言葉の意味を、セティは咄嗟に理解できなかった。
「ハル様かもしれません」
 宝玉の瞳が振り返ってリドルフを見たのは、とっぷりと時間が経過してからだった。
「今、なんて言った?」
「ハル様かもしれませんと、そう言ったのです」
 セティの脳内は激しく混乱した。すでに聞きなれた固有名詞のはずが、うまくその人物と結びつかない。いつもの三倍以上の時間を要して何とか結びつけても、その瞬間には平生と全く変らぬようすの目前の男の正気を疑った。
「ハルはガイゼス人で、しかも王子だ」
 今更口に出す必要もないほどの事実である。リドルフは困ったような顔をして、それでもはっきりと言い切った。
「けれど、ハル様は法力をお持ちです」
「ハルが、法力だって?」
「ハル様の目には精霊が見えています。アイデンでカイ殿に私が力を注ぎ込んだときも、眩しそうにされていましたし、道中で張った大地の神(アナリ)の防御陣も、しっかり見えていました。土の壁と、確かにそうおっしゃったのです。それに、昨晩も」
 セティは火の精霊(ラマン)を使った昨晩の急襲を思い出していた。セティの目には上空に無数の火の玉が飛んでいるのが見えていた。そして、ハルも同じように空を見上げていた。だから、頬に触れたときあれほど驚いたのだった。しかし、それでもセティはリドルフの言うことが信じられなかった。
「まさか、そんなこと。ガイゼスは法術を使えない人々が、決起して興した国だ。その国の王子が、赤色人種が法力を持っているなんて──」
「確かに、常識的に考えればその通りです。しかし、ハル様が法力を持っているのは間違いないと思います」
 金色の髪をかき回して困惑するように顎に手をやったセティに、リドルフは穏やかに続けた。
「世に絶対ということなど、ありませんよ。なにせ、あなたが剣で人を斬っているくらいなのですから。ナディールではそのようなこと誰も信じますまい」
 セティはリドルフの顔を一旦見上げ、形容するのが困難なほどに、さまざまな感情をないまぜにしたような複雑な表情を浮かべた。
「背景には、私たちが考えている以上に複雑なものがあるのかもしれません。私には何故ハル様が王子殿下なのか、どうしても分からないのです」
「どういう意味だ?」
「言葉通りの意味です」
 リドルフの口ぶりは謎かけのようであり、真実をそのまま述べているようでもあった。ただでさえ、顔に感情の表れにくいこの男の真意を見抜こうなど、セティができることではなかった。いや、四六時中一緒にいるセティですら不可能なのである。
「とにかく、ハル様を探しましょう。もしも、本当に術を解いているのがハル様だとすれば、危険です」
「危ない?」
「ハル様は決してお体が丈夫な方ではありません」
 法力には限りがあり、それは体力や気力とも相関性がある。
 しかし、ハルは体が細く、ラガシュでも倒れたばかりだ。しかも夜通し歩き続けたうえ、全く休養を取っていないのである。
 言葉の意味を悟ったセティは眉を跳ね上げて、無造作に愛剣の鞘をつかんで部屋を飛び出した。
 金色の長い髪を揺らして街道を疾駆する青年に目を留める者はなく、あれほど張り詰めていた空気が嘘のように、町は歓喜に満ちていた。確認しなくともそれだけで井戸が元のように満たされたのだと分かる。
 息をわずかに乱して町外れの井戸にセティが辿り着いたとき、すぐ脇の木陰にいたメイラが大きな声で彼を呼んだ。傍らには横になった人影がある。その瞬間、セティはリドルフの推測がおよそ正しかったのだということを悟った。
 メイラの脇に横たえられていたハルの顔は蒼白に近く、意識がない。法力を極限まで使った人間の症状によく似ていた。
「これは──」
 やはりセティと同じことを考えているのだろう。一呼吸遅れて到着したリドルフが、ハルの顔を見た途端小さく息をのむ。
「私が気づいたときには、すでに井戸の側に倒れられていたのだ。この暑さのなか、無理をされたものだから……」
 苦々しげに呟くメイラには曖昧に頷いて、セティはリドルフに目配せをする。メイラはハルが法術を使ったことに気がついていないようだった。
「とにかく、宿に運ぼう」
 疑問や確認したいことは多々あった。しかし、今は何よりもハルに処置をすることが先決だった。上限を超えて法力を使った人間は命を削ることになる。最悪の場合は死に至ることもあるのだ。
 ハルの華奢な体に手を伸ばそうとしたセティを、リドルフがやんわりと制して、代わりにその体を抱き上げた。セティはちょっと意外に思ったが何も言わなかった。
 メイラは倒れたハルの容態について、それほど深刻に考えていないようだった。疲れと暑さが原因と思ったようだし、リドルフの腕はすでに彼女の信頼を得ていた。しかし、穏やかさの失せたリドルフの表情と慌しく動くセティの姿が、メイラに不穏な事態であることを突きつける。
「殿下のご様子はどうなのだ?」
 処置の間は部屋を出ているように言われ、大人しくその指示に従っていたメイラは、復旧したばかりの井戸へ行き、清水に満たされた(つる)のついた桶を提げて戻ってきたセティに詰め寄った。
「リドが、何とかする」
 そう言ったセティの顔に、笑みはなかった。メイラは大きく息を吐いて、力なくうなだれた。
 セティが部屋に戻ったとき、リドルフは右手をハルの肩口に置いてマントラを唱えていた。もうしばらくそうしている。しかし、ハルの顔は蒼白から変わりない。
大地の神(アナリ)の法ではだめかもしれません。こういうときは、水の女神(シルヴァ)の法の方が効きがいい」
 セティはハルに視線を落としたまま、無意識に自分の頬を指でなぞっていた。
 つい数日前、美しい顔には到底そぐわぬ傷を負ったその場所に、今は痕すら残っていない。人はリドルフが法術できれいに治したのだと思っている。しかし、セティはそれが厳密な意味ではリドルフが治したのではないことを知っていた。
 リドルフが注ぐ力は、人が元から持っている自ら治そうとする力を活性化させるものなのだ。だから、怪我を負った人間にはよく効くが、病に冒された人間やハルのように憔悴しきっている人間にはあまり効きが良くない。体力的な問題だけではなく、気持ちの面でも強い人間にはよく効くが、ハルはそういう類の人間でもない。リドルフが優れた術者であっても劇的な効果を発揮できないのは、仕方のないことだった。
「─── どう、思われますか?」
 投げかけられた問いは、神に裁定を仰ぐかのようだった。セティにはリドルフがよほど切羽詰っているのだということが、よく分かった。リドルフがこの種の質問をすることなど、普段であれば有り得ない。
 セティは答えずに水に満たされた桶に手を突っ込んだ。感覚がなくなるまで冷えた手をハルの額に乗せる。リドルフの視線を感じながら黙然とその動作を二度ほど続けて、とうとう口を開こうとしたその時、宝玉の瞳をあらぬ方を向けて大きくする。
泉の精霊(イネヌ)……?」
 リドルフはセティの視線の先を追い、目を細めた。
 セティが手を突っ込んでいた水桶から無数の青い光の粒子が舞い上がり、ハルの体を包み込む。
 光がその強さを増し、二人は思わず目を瞑った。
 セティとリドルフが再び目を開けたとき、光は姿を消していた。
「今のは……一体」
 何をしたのだ、というリドルフの問い詰めるような視線にセティは慌てて言った。
「違う、私の術じゃない。私は何もしていない」
「それでは──」
「見ろ、顔色が良くなっている」
 セティに言われ、リドルフがハルに視線を落とすと頬には朱が差しはじめていた。その手首を慌てて取れば、弱くなっていた拍動も回復している。
水の女神(シルヴァ)が加護を与えたのかもな」
「そのようなことが、有り得るというのですか?」
 珍しくはっきりと驚くリドルフに、セティは事もなげに言う。
「さあ? でも、実際に月の女神(アイレ)は私には滅法甘いし、有り得なくはないだろう?」
 あなたは特別だ、と言ってリドルフは首を捻った。
「神が直接加護を与えるなど、聞いたこともありません」
 自分で言ってから何かに気づいたようにリドルフはセティに訊いた。
「もしかして、あなたの友人だからですか?」
「違うだろう」
 セティは笑い飛ばす。
水の女神(シルヴァ)には、ハルが好ましい存在なのかもしれない」
 穏やかな寝息を立てて眠るハルを見つめ、安堵したように微笑むセティを見て、リドルフはそれ以上何も言わなかった。

 セティは宿の主に借りた浅い桶によく冷えた水を張り、寝台の傍に引き寄せた卓にそれを置いて団扇を扇ぎ、眠るハルに風を送った。
 こうすると、ほどよく冷えた風が当たり心地よいのだと、先ほど水を汲みに行った時に上機嫌の女性が教えてくれたのだった。
 休むようにと勧めるリドルフとメイラを先に休ませて、セティはその作業を続けた。
 メイラは体力的、精神的疲労から目が落ち窪んで頬がこけていたし、リドルフは表向きには変わりないが、昨晩から立て続けに法を使っているために、いくらか消耗していると思われた。
「元気なのは私だけだ。リドの好きな合理的な判断だろ?」
 得意げにそう言ったセティに、リドルフは苦笑してそれを受け容れた。セティの判断に従ったというよりは、ハルが目を覚ました時、詳しい事情を聞くにはセティが適任だと考えたのだった。
 ハルが目を覚ましたのは、セティが桶の水を変えるために、三度ほど宿と井戸を往復してからだった。
「気がついたな」
 濃い睫毛を震わせて覗いた黒鳶色の瞳に、セティが笑いかける。左右に一度さ迷ってからその目は団扇を持ったセティの姿を捉えた。
「……黄泉の国かと思いました。あなたの顔は寝起きに見るには、肝によくない」
「冗談が言えるぐらいだ。もうすっかり良いんだな」
「私はまた倒れたのですか?」
「そうだよ。法力を使いすぎたんだ」
 ハルの視線がまた宙をさまよった。
「ハルが泉の精霊(イネヌ)に力を貸して火の精霊(ラマン)を押し返したんだろう? 覚えていないのか?」
「よく……分からないのです」
「分からない?」
 ハルは頷いた。
「井戸の奥底に光の球がたくさんあって、何となくそれが泉の精霊(イネヌ)のような気がして、話しかけました。そうしたら、その内に光が炸裂して──」
 セティは素っ頓狂な声を上げた。
「話しかける? 神霊文字(サイラッド)は? マントラは?」
「サイラッド…… マントラ? 何のことですか?」
 逆に遠慮がちに尋ねられてセティは拍子抜けした。
「ハルは法術を使えるわけではないのか?」
 少し戸惑って、それでもはっきりとした口調でハルは肯定した。
「どうしてガイゼス人が、しかも王子が法力を持っているんだ?」
 思わず口をついて出てしまった率直すぎる疑問を、セティはすぐさま後悔することになった。
「それは」
 苦しげに眉を寄せて返答に詰まるその様を見ていたら、セティはひどい罪悪感に襲われた。
 こんなふうに人と関わったことがないから、こういうときにどうしたらいいのか分からない。こんなとき、自分の不躾さが歯がゆく思えてならない。きっと、リドルフならばもっとうまい具合に言うに違いないのだ。
「私の、私の母は──」
 セティは白い手でやんわりとハルの口を塞いだ。とにかく、ハルのこんな顔を見るのはたまらなく嫌だった。
「言わなくていい。私が悪かった」
 黒鳶色の瞳には困惑の色が揺れ、その奥底には深い哀しみがたゆたっているようだった。
「もしも、いつか、ハルが話したいときがきたら、その時に聞くよ」

   Ⅱ

 ────トゥルファ。
 その名の由来が「集まる」という言葉である通り、ガイゼス国内のものはもとより大陸中の人と物が集まるその都市は、ここからさらに南の内陸に位置するガイゼスの王都、ウルグリードよりも華やかでどこか浮ついた風情だった。
 元来ガイゼスの国土は恵まれているとは言い難い。
 その大半が乾燥した大地であるため、一部の地域を除いて農耕は困難で、大半は過酷な環境にも強い家畜を飼育して生計を立てている。
 ナディールの国土の一部であったころから、この辺りは主に最下層の人々や貧しい人々が暮らしていた土地であった。そのような性質をもつ土地に起こした国をここまで豊かな国に仕立て上げたのは、やはり現王アンキウスの手腕が大きい。
 アンキウスが目をつけたのは、赤色人種特有の指先の器用さであった。産出される鉱石や岩塩にさらに一段階手を加えて、より利便性、芸術性の高い武具や、精巧な細工を施した宝飾品などに加工して輸出をはじめた。それらは珍重され、瞬く間に大きな需要を創出した。そこでアンキウスは職人の育成に力を入れて供給量を増やすと同時に、交易に使う帆船の精度と質を上げ、より遠くの国とも行き来を可能にした。こうしてガイゼスはごく短期間で大ナディールにも引けを取らない富国と変貌を遂げたのである。
 そんなガイゼスの経済の最重要拠点であるトゥルファの街は、この時代には珍しい眠らない都市であった。
 夜明けから正午前までは大通りには市が立つ。新鮮な果物や野菜はむろん、獲れたばかりの活きのよい魚、遠い大陸から運ばれてきた塩漬にされた珍しい魚、獣肉。絹織物や麻織物。銀細工や、宝飾類。香に薬…。大陸中のありとあらゆるものが集まり、このトゥルファで手に入らぬものなどなかった。
 日が暮れると、歓楽街の酒場や娼館には次々と灯りがともる。アンキウス王はトゥルファに限っては、外国人が商売することにも寛大であった。多種多様な人間が訪れ、滞在する街である。そのため食事や酒を供する店の趣向もさまざまで、眠らない街トゥルファに行けば大陸中の珍味と美女を味わえると言われるほどであった。
 十日ほど前に大都市トゥルファに入ったハル・アレン王子ら一行は、住宅街の一角の借家を拠点にして活動していた。
 当初の予定ではトゥルファに入り次第、都督でありハルの実の叔父であるロガン・タナトを訪ねるつもりであった。しかし、問題点を整理するうちにそれが最も有効な選択肢であるとはいい難いという結論に達したのである。
 彼らが速やかに確認したい点は以下の二点であった。
 まずは、ハルの命を狙っているのが王太子であるという情報の真偽について。
 次に、ナディールから入国している神官の目的と、道中の法術による襲撃の関連性についてである。
 これらを解決するには、より広い視野で情報を収集する必要があった。トゥルファは前述したとおり、大陸中の人と物が出入りを繰り返す交易都市である。それは同時に、情報伝達手段が発達していないこの時代において、多くの情報が、しかも最新の情報が集まるということを意味していた。そのため、一行は街でさまざまな角度から情報収集したのち、ロガンの元を訪ねるという方法が最も有効であると判断したのだった。
 かくして、あの法術での襲撃の以後、トゥルファに到達する直前に一度だけ例の覆面集団に襲われたものの、セティとメイラの剣技により難なく打ち払った一行は無事に街に入った。そして、相談したとおり住宅街の一角に家を借り、市民に混じっての生活をはじめたのである。
「退屈だな」
 窓辺に引き寄せた椅子に座り、腕組みをしたうえに頭を乗せた格好のセティが呟いた。時刻は夕暮れ。窓の外の空は茜色に染まりはじめていた。
「もうすぐ二人とも帰ってきますよ」
 笑いを含んだ声で、ハルが答えた。もう何日も同じ問答を繰り返していた。
 情報を収集するにあたり、もっとも有効なのは市民生活に溶け込むことである。そのため、メイラとリドルフはすぐさま仕事をはじめることにした。メイラは知り合いが料理店を経営しているらしく、そこで掃除婦として働きはじめ、リドルフは知識と技能を生かし、街の薬草屋の一角を間借りして医者の仕事をはじめた。
 当初は、ハルとセティも仕事をするつもりであった。しかし、メイラとリドルフの強い反対により二人は断念せざるをえなかった。
 ハルは命を狙われている身であり、街の中とはいえども不測の事態が起こらないとは言い切れない。しかも、王子である彼の顔を知るものはこの大都市は決して少なくない。彼の存在が明らかになれば混乱が起こることも十分考えられた。
 そして、セティはとにかく目立ちすぎる。さまざまな人種がこの街には滞在しているため金髪白皙はさほど珍しくないが、彼ほどの美貌を持つものはやはりいない。幾度かの襲撃により、セティの顔はすでに刺客にも割れていると考えるのが自然であり、人々の噂の糧になりやすいセティの美貌が災厄を招く危険性は高かった。
 自由奔放そうに見えて意外と論理的思考の持ち主でもあるセティは、すんなりとリドルフの言葉に納得はした。しかし、納得したうえでなお、それをこの好奇心旺盛な青年が面白くないと思うのは当然であった。
 街を行き交う異国の人々に、ガイゼスが誇る最先端の技術が集約された港に並ぶ交易船──。
 セティはあいにく異国の美女にこそ興味はなかったが、大陸中の珍味の数々には大いに興味があった。それらがすぐ目と鼻のさきに存在しているというのに、室内から出られないもどかしさ。セティは日がな一日こうやって窓辺に座り、不満を鬱積させながら窓の外を眺めているばかりだった。
 メイラが先に戻り、少し遅れてリドルフが帰ってきた。
 二人は各々すぐに食べられるようなものを買って戻ってくる。それらをメイラが実に手早く温めなおしたり、盛り付けたりして、それから夕食となる。
 この日の食卓に並んだのは、羊肉をひいて練り固めたものを串に刺して焼いたもの、ムール貝のなかにバターライスを詰めたもの、野菜をトマトで煮込んだものなど、ガイゼスで一般的な料理と、野菜と一緒に焼いた芋や、燻した赤身の魚、芋と牛肉と玉ねぎを炒めたものなどの、ナディールで一般的な料理だった。
「何か新しい情報は?」
 ほおばったムール貝を飲み込んで、セティが二人に問いかける。食卓には常にナディール料理とガイゼス料理が並んでいるが、セティはどうもガイゼスの料理を好んでいるらしかった。一方のハルは、りドルフが買ってきた燻された赤身の魚に舌鼓を打っている。
 ナディール人のセティはガイゼスの料理を好み、ガイゼス人のハルはナディールの料理をよく好んだ。最初はもの珍しいからそうなのかとメイラとリドルフは思っていたが、実に、毎日彼らはそうであった。
「陛下のご病状が芳しくないというのは、真実らしい」
 メイラが豆のスープを運んでいた匙を置いた。ハルの視線を受けて、言い直す。
「ウルグリードに滞在し、国王陛下を実際に診たという医師がそう言っていたのです。残念ながら、信憑性が高い話だと思います」
 メイラが働いているのは、トゥルファでも有数の高級な料理店で、社会的地位のある人物が会合や面談に頻繁に使う店であった。
「それに、王太子殿下はナディールとの再戦に意欲的らしいとの話も耳にしました。街では、万が一国王陛下が崩御されるようなことになれば、近い未来に再戦という可能性もあると、口々に噂されています」
 ナディール調に記せば、神々も眉を顰めるほどに凄惨な戦いは、決して終息しているわけではなかった。あくまでも停戦条約が締結され、十七年の間それが破棄されていないだけだ。
 「微笑みの賢王」の異名を持つ、アンキウス王は再戦に否定的な穏健派の代名詞でもある。そのため、皮肉にも十七年の時は戦争に必要な国力を養うのに十分な期間でもあった。現実に、トゥルファはこんなにも富んでいるのだ。
 リドルフが布で口元を拭って、手を置いた。
「最近、ナディールの方にも再戦を強く望む過激派が出現したようです。どうやら、穏健派との主導権争いが激化しているようだと、ナディール人の商人が言っていました」
「どちらの形勢が有利なのだ?」
「詳細はまだ分からないのですが、ただ、すぐにでも出兵という段階ではないようです」
「ふむ」
 この場にいる人間で、メイラとリドルフはあの歴史に残る「ヤルカドの会戦」を実際に知っている。メイラはそのとき壮年と形容される年齢で、自ら馬を駆り、兵を率いてナディール軍と闘った。リドルフは五つか六つぐらいで、直接戦闘には参加していないが、記憶にはしっかり残っている。
 逆に、若い二人は戦争を知らない。ハルは戦後の条約締結の年の生まれで、一歳年長のセティは大戦中の生まれである。たった十八年前に実際に戦争があったというのに、ふたりは書物でしかそれを知らなかった。
 それまで黙然と料理を口に運んでいたセティが不意に口を開いた。
「どうして戦争をする必要があるんだ? ガイゼスもナディールも十分に富み、人々は平和な暮らしをしているんだろう? それ以外に何を求めるっていうんだ」
 リドルフが、その邪気のなさを愛でるかのように目を細めた。けれど、口元に浮かべたのはどこか哀しげな笑みだった。
「人というものは愚かな生きものなのです」
 いかにも僧らしい物言いだった。しかし、それにしても哀しすぎる言葉だとハルは思った。
「私は───」
 低く押し殺したメイラの声だった。
「白人どもが我々にした仕打ちを忘れてはいない」
 言い捨てると憤然と席を立ち、ハルの静止の声も聞かずに部屋を出ていってしまう。その後ろ姿を呆然と見つめるセティと、静かに見送るリドルフに向かってハルが申し訳なさそうに言った。
「決してお二人のことを言っているわけでは」
「もちろん、分かっていますよ」
 リドルフが穏やかに微笑むと、ハルも安心したように頬を緩めて席についた。金縛りから開放されて、再び硬いパンをかじりはじめたセティも、メイラの剣幕に驚くだけで気分を害したようすはない。
 ハルは改めてメイラが姿を消した少し開いたままの扉を見遣り、うつむいて小さくため息をついた。


 黄昏の空に浮かぶ月を、メイラはぼんやりと見上げた。
 茜色に染まった水面がさざなみ立ち、潮のかおりを含んだ風が頬をなでる。メイラは足をとめてしばしその空気に浸った。
 何がどうということではない。ただ、肌で感じる海の気配がどこか懐かしいような、切ないような思いを呼びおこす。
 ここ何日かのあいだにすっかり見慣れた街道を進みながら、今日は何を買って帰ろうか考えてみる。きっと、家ではどこかあどけなさを残した顔に、控えめな微笑を浮かべた大事な主と、腹を空かせた仏頂面の金色の髪をした青年が待っている。それを想像して、ゆるみかけた目元がふっと厳しいものに戻る。どうやって昨日のことを切り出そうか──。
 今朝はリドルフやセティとは顔が合わせにくくて、いつもより大分早く仕事に出てきてしまった。親子はおろか、孫ほどに年の離れた彼らにあのような言葉を吐き出してしまった自分を恥じていた。あの後、ハルはどれほど気まずい思いをしただろうか。
 それなのに、夜半に部屋を訪れた王子は差し入れだと笑って、友に対する非礼を咎めることもせずに、葡萄酒(シャルル)を置いて出ていった。こんな従者がどこにいるというのだろう。主人の面に泥を塗ったあげく、気まで遣わせてしまったのだ。
 かつてのナディールの上流階級への嫌悪と憎悪は、忘れようにも忘れられるものではない。けれど、あの大戦時に少年であったリドルフや、ましてや戦時中の生まれであるセティのどこに非があるというのだろう。彼らはむしろ被害者であるはずだ。理性では分かっているのに、心の奥底にある黒い何かが猛ってしまう。
 すべてはこの夕暮れに染まる街の風景と、海風のせいかもしれなかった。
 遠い昔、いつも夕暮れのなか帰路を急いでいた。自分の帰りを待ちわびる愛しい存在がいたからだった。
 傭兵を生業にしていた夫は、ひと稼ぎしてくると言って遠い国の戦に行ったきり、帰ってこなかった。幼い息子を残して。
 当時のナディールでは、法力を持たぬ赤褐色の肌と黒い髪と瞳を持つ人びとは、ダラメンという蔑称で呼ばれ、奴隷になるか、そうでなければ過酷で貧しい土地に身を寄せあって細々と暮らしていた。
 ダラメンとは「無能」を意味する言葉で、法力至上主義のナディールでは、法力を持たぬ人間は人間ではなかった。貴人や有力者が多く住む北の地域、特に王都近辺ではダラメンは、売買や進物の対象にもなっていた。
 メイラが生活していたのはダラメンばかりの小さな集落で、奴隷のような扱いはなかったが、白人の多くが住まわぬような過酷な気候の、痩せた土地である。当然、生活は苦しかった。
 息子を育てるためには何でもした。普通の仕事よりは剣の腕を生かした方が金になったから、用心棒や私兵はむろん、ときには報酬に魅せられて危ない橋も渡ったこともあった。
 息子が一人で留守番をさせられるような年齢になってからは、あまり村からは遠く離れず、日暮れまでに終わるような仕事を選んだ。父親がいない分、不憫な思いもさせたし、苦労もかけた。けれど、正義感が強くて優しいよく出来た息子に育ってくれた。貧しくても、幸せだった。
 息子は十六歳になっていた。
 各地で叛乱、独立運動が盛んになりはじめていた。住んでいた村は特別に虐げられていたわけではなかったせいか、運動に加わったり協力する者も少なく、どこか人ごとのように安穏としていた。
「メイラ様」
 すでに聞き慣れた穏やかな声音に、現実に引き戻された。
 顔を上げた。すると、柔和な微笑をたたえた背の高い白色人種の青年の姿があった。
「同じ時刻に終わるのは、珍しいですね」
 リドルフは普段と全く変わらぬ調子だった。予期せぬ場所で出会ってしまったのと、感慨にふけっていたのとで、昨晩のことを切り出す機会を逸してしまったメイラは、曖昧な返事を返して居心地悪く感じながらも、なんとなくリドルフと並んで歩きはじめた。
 ゆったりとした調子で歩くリドルフがしばらくして足を止めたのは、ガイゼス風の家庭料理の惣菜を売る屋台だった。女主人に注文をはじめたリドルフの横で、メイラは雑踏を忙しく行き交う人々を眺めていた。
 仕事を終えて家路を急ぐ男の姿が目立つ。
 本当は、一際数が多いわけではなく、無意識に目をとめてしまうだけなのかもしれない。息子は生きていれば、あのぐらいの歳だ。
 メイラの中では息子は永遠に今のハルと同じ、十六歳だった。
 慎ましやかに助け合いながらひっそりと営んでいたダラメンの小さな村は、叛乱軍への見せしめのために軍が派遣され、柳の枝が折れるよりもたやすく滅んだ。
 剣を使う兵士が相手ならば、そう簡単には落ちなかったかもしれない。ダラメンには巧みに剣を操るものが多いのだ。特に、息子は剣の名手との誉れが高かった。しかし、そんなことは悲しいほどに無意味だった。
 小さな村の周りに法術で結界とやらが張られ、水では消えぬ炎が放たれたのだ。半球形の目に見えぬ壁に囲まれた空間からは一筋の煙も漏れなかった。全てが焼き尽くされるまで。
 近くの街まで仕事に出ていたメイラは、知らせを聞いてすべてを放り出し、無我夢中で駆け戻った。村に着いたときには全てが終わったあとだった。眼前に広がっていたのは、薄く立ち昇る煙と、現実とは思えぬほどのおぞましい光景だった。
 土さえも焼けて色が変った村であったその場所を呆然と彷徨いながら、探していた。探しながら、心のどこかで見つからなければいい、分からなければいい、と思っていた。しかし、現実は残酷だった。
 息子は一月後には妻になるはずだった少女と、義父になるはずだったその父を両腕で庇うようにしたままの格好で果てていた。目の前にあったのは、人の形をした黒い塊だった。それでも、身元が分かったのは、婚約の祝いにと三日前に母が息子へと送った剣があったからだった。柄頭に小さな紅玉がはめこまれた、ダラメンには上等すぎる剣は、無遠慮にその存在を主張していた。
「高貴なお坊様のお口に、こんなのが合うのかい?」
 出来たての惣菜を包みながら、赤色人種の女将が皮肉を込めてリドルフに問いかけた。メイラはその声にはっとして再び我に返る。
メイラの視線の先でリドルフはこだわりなく笑って、坊主でも美味しいものは分かる、と気の利いた世辞を返す。予期せぬ反応に女将はちょっと驚いて、それから豪快に笑った。
 リドルフは代金と引き換えに、惣菜の包みを受け取ってメイラに向かって微笑んだ。包みには世辞の報酬である、女将のおまけも入っている。
「お待たせいたしました」
 リドルフの手に握られた包みの入った袋をメイラは凝視した。これまで彼はナディール料理を買ってくることが多かったのだ。
「セティはガイゼス料理がよほど気に入っているようなので。てっきり食べ慣れた北の料理の方が良いだろうと思っていたのですが」
 視線の意味に気づいたらしく、リドルフは困ったように笑う。
 逆にハルは、魚や野菜が中心の北の料理を好んでいた。しかし、メイラは絶対にナディール料理を買うことはしなかった。
「リドルフ殿は菜食だから、ガイゼス料理は得意でないだろう」
 ガイゼス料理は肉料理が多いし、そうでなくても無骨なものが多い。優雅なナディール人の口に合うとはメイラにも思えなかった。
「いえ── 私は元々南部の産なので、ガイゼス料理にも親しみを感じます」
「南部……? どのあたりだ?」
「アドリンドとの国境近くの、ラントという小さな村でした」
 さらりと吐き出された言葉にメイラは耳を疑った。
「ラントとは、まさか」
「そうです。あの、ラントです」
 あの大戦を経験したものならば、「ラントの悲劇」を知らぬ者は少ない。大戦中に決行されたガイゼス軍のその作戦は、後々あの大戦が神々もが眉を顰める─── と言われるようになったきっかけでもあるのだ。
 山麓の小さな里、ラントは古くから優れた術者を輩出するので有名な村だった。高位の神官などはこの村の出身者が非常に多いのだ。白い肌と色素のうすい髪と目を持つすべての人間は、少なからず法力というものを持って生まれる。とりわけ、ラントには術者として高い才を持つ人間が多く生まれるようだった。
 ナディール政府はこの山麓の小さな村を重要視し、特に子どもたちには高度な教育を受けられるよう配慮していた。定期的に火の神(アデン)風の神(フィース)大地の神(アナリ)水の女神(シルヴァ)の神官や巫女(クラスティーヌ)たちを派遣し、国の未来を担う逸材の発掘に余念がなかった。
 ガイゼス軍にとっては、強力な法術を使う術者こそが難敵であった。そのため、秀でた術者を根絶するため、その芽から摘むべくラント殲滅作戦に打って出たのだった。
「生き残りがいたとは」
「私一人です。村の人たちは皆、あの夜に死にました」
 ガイゼス軍の攻撃は凄惨を極めた。四方から村人の十倍もの兵数で囲い、一気に攻め入ったのだ。抵抗の意思すらない老人の首を刎ね、我が子を胸に抱いて逃げ惑う女を、背中から赤子もろとも串刺しにした。百余の村人誰一人にも法術をつかう暇を与えず、一つの体に何本もの剣と槍を突き刺した。容赦ないガイゼス軍の攻撃に、大地は朱に染まったという。
「それは─── さぞかしガイゼス人が憎いだろう」
 メイラは目を閉じた。あの作戦は、ガイゼス陣営にいたメイラですら、後に話を聞いたとき、なんともいえぬ後味の悪さを覚えたし、現在ではガイゼス人でもあれは人として恥ずべきことであると言う者もいる。
「いいえ、そんなことはありません」
「なぜだ」
 青年の表情は相変わらず穏やかだった。
「ナディールも、戦時中は惨いことを散々しています。ナディール人もガイゼス人も─── 皆が皆、それぞれが抱えていたもののために、ただきっと必死で、それだけだったのですから」
 リドルフは目を閉じて一つ息を吐き出した。
 ふたたび目を開いた青年が、メイラには不可思議な生きもののように思えた。しかし、それ以上に不憫にも思われた。
 きっと、頭が良過ぎるのだ。この青年は。
 それは真実には違いないのかもしれない。しかし、人の感情というものはときに正しさを受け容れられないものであり、それが当然なのだ。自分から大切なものを奪った相手を、もっと単純に憎悪できたならどれほど楽だろう。
 簡単に行き着いた境地だとは思われない。しかし、この青年はそこに辿りつかざるを得なかったのだろう。
 しかし、そんな思いに反してメイラの口から出たのは、さらにリドルフを試すような挑戦的な言葉だった。
「ラントの作戦に、目の前の私が参加していたと言っても、憎くないか」
 十八年前のそのとき、メイラは作戦には参加しなかった。一隊の指揮を執っていた人間によく知っていた者はいたが、メイラには命令が出なかった。しかしそれは単なる偶然であり、命令が出れば間違いなくメイラは「ラントの悲劇」に参加していたはずだ。
「実際に手を下した人に、罪などありません」
 澄んだ藍玉のような瞳には微塵の揺らぎもなかった。
「立派だな」
 心から出たことばだった。しかし、リドルフの面に浮かんだのは、さまざまな感情をないまぜにしたものを覆い隠すような、複雑な笑みだった。
「そのように大層なものではありません」
 メイラは前にリドルフが、神を信じないと言っていたことを思い出した。
 神職者であり、実際に神の力を借りて法術を使うくせに神が信じられない───。なにをそのような戯言をと思ったが、それも当然なのかもしれなかった。背景を知れば、年齢にそぐわぬ落ち着きも、癪にさわるほどの冷静さも分かるような気がする。リドルフはひどく苦しんだのだろうし、もしかすると今もまだ苦しんでいるのかもしれない。
 戦争とは、そういうものだった。
 叛乱が激化する前、ナディール軍は見せしめのために非力で罪のないダラメンの多くの集落を焼いた。メイラの集落のように。
 そして、後に青い英雄王と呼ばれるようになるイミシュのもとに統率されていったガイゼス軍は、ラントのような優れた術者を輩出する村や神殿が集中する地方都市を急襲し、虐殺した。
 戦場に出た人間のほとんどが被害者であると同時に、加害者であった。
 息子を失って以来、メイラ自身も憎悪と復讐の鬼となって反乱運動に積極的に加わり、剣を振るい、馬を駆り、多くの白色人種の首を刎ねた。
 ヤルカドの会戦では多くの部下を率いて、先鋒を務めた。殺した者の中には、もちろん家族がいた人間もいただろう。そして、ラントの作戦に出た知人は、そのヤルカドの会戦で死んだ。
 昨晩のセティの言葉を思い出した。
 あまりにも無垢すぎて、齢を重ねた人間には青臭くさえ思われる言葉だった。けれど、戦後生まれの人間が皆、彼のように思えるなら、それはもしかすると素晴らしいことなのかもしれない。
「私は、ナディール料理を買って帰る」
 法術を憎いと思う気持ちは、変らない。リドルフのように思い定めることも、到底できそうにない。でも、それはそれでもいいのだろう、と思う。
「ハル様は北の料理がお好きらしいから」

   Ⅲ

 トゥルファ最大の露天市場は今日も、人と物とで溢れていた。
 近くで採れたばかりの色とりどりの果物を扱う露店の主人は、客の気配を察して作業を中断し、向き直った。そして思わず言葉を失った。
 二人組みのうちの一人は、すらりとした長身の女だった。
 白地に藍色の糸で刺繍を施された、光をとおすほどの厚さの布でゆったりと頭部をおおい、肩のところで洒落た細工のピンで留めている。露出は控えめだが、ガウンから伸びた金の腕輪を重ねた手首や、足元までの腰衣からちらりと覗く足首は細すぎることなくよく引き締まっていて、その中を見たいという欲望をかき立てる。北の生まれらしく、肌が上質の絹織物のようにきめ細やかで透るように白かった。
 いでたちからすると、旅の舞踏手というところだろうか。
 顔を動かすたびに薄布のなかで大きめの耳飾りが揺れる。しかし、それが邪魔に思えるほど美しくて魅惑的な顔立ちだった。
 高価な宝石のような淡紫色の瞳が涼やかで幻想的なのに対し、紅を差した肉感的な厚めの唇が妙に生々しく、愛嬌と色気を漂わせる。その不均衡さが彼女の魅力をより一層引き立てていた。
 舞踏手らしき女が、傍らの少女の耳元に唇をよせて何か囁いた。
 なんと言ったのかは、分からない。しかし、少女は小首を傾げて柔らかく微笑んだ。その何気ない動作がひどく胸をざわつかせる。
 もう一人の少女が身に着けている袖と丈の短い上衣には、裾に緑色の糸で刺繍がされていた。上衣の刺繍と同色の膝丈の腰衣をはき、もう一人の女とは対照的に細い腕と足を露出していた。艶やかな黒髪はまとめて、花をさしている。
 こちらは楽士なのか、細い腰に巻いた帯に彼女の雰囲気によく似合う華奢なつくりの銀の笛を差していた。肌の色は赤色人種にしてはやや薄めだが、おそらく南の生まれだろう。長い睫に覆われた黒鳶色の黒目がちな瞳はどこか潤みがちで、楚々たる美少女だった。
 呆気に取られていた店の主人は、我に返って二人の美女にいそいそと声をかけた。
 系統の異なる美女たちは愛想よく微笑んで応えてみせたものの、その途端に深入りを拒むようにすっと立ち去ってしまう。
 彼女たちが姿を消したあとも、店主はしばし恍惚としていた。あまりに短い間の出来事で、二人の美しい女は幻かと思われた。
 露店をひやかしながら二人はのんびりとした歩調で通りを進んでいた。
 歩きながら背の高い女が傍らの少女にまた囁く。
「逆に目立ってるような気がするのは、気のせいか?」
 若い男の声だ。
「そんな気はしますね」
 答えた黒髪の少女の声は、長身の女に較べると高い。
 二人の姿は確かに人目をひいていた。道行く人の半分くらいはその美貌に気がつき、すれ違ってから振り返る。育ちの良さそうな若い男などは控えめに視線を注ぐ程度だが、なかには無遠慮に見つめてくるものもいる。
 そのさまを見ながら、彼女たちの後方を少し離れて歩く老女がため息をつく。
 そう、二人の美女は旅の芸人に扮したハルとセティであり、彼らを離れた場所から見守っているのはメイラに他ならない。
 事の発端は二日前の夜、いつもの食事の席でセティが発した一言だった。
「このままでは、退屈すぎて腐ってしまう」
 ハルとセティの二人が軟禁生活を送るようになってから、半月近くが経とうとしていた。夕刻、メイラとリドルフが戻り、食事を終えると二人は毎日続けている剣の稽古のため外に出る。出るとは言っても、所詮リドルフとメイラの目の届く範囲で、拠点にしている借家の半径二十カベール(約十メートル)からは一歩たりとも出ていない。
 そうしなければならない理由も十分に心得ているため、セティはよく忍耐していたのだが、元来彼は好奇心旺盛でじっとしていられない性分なのだ。そろそろ虫が騒ぎ出すのも当然であった。
 彼の発言に対し、ハルとメイラは明確な返答をさけつつ、リドルフへと視線を滑らせた。この青年の保護者が誰であるか、よく知っている。
「どうぞ、ハル様」
 保護者はそしらぬ顔で、ハルがすっかり気に入ったナディール料理を取り分けて渡してくれる。ハルは受け取りながらも、ちらりとセティを盗み見た。彼の反応が大層気に入らなかったらしく、食事中にも関わらず卓のうえに行儀悪く肘をつき、訴えるような眼差しでリドルフを見ていた。
 刺さるような視線を受けても、リドルフは全く動じなかった。
 何食わぬ顔で料理を口に運び、ハルやメイラに話題を振る。ガイゼス人の二人組みはリドルフと会話をしながらも、時おり仏頂面の青年に視線を泳がせる。彼があまり気が長いほうではないのは、もう知っている。
「だめです。あなただけの問題ではありませんから」
 まさにセティが爆発するのではないかと思われたその寸前、リドルフはぴしゃりと言い切った。
「今、刺客は恐らくハル様を見失っています。わざわざ居場所を教える必要はありません」
 不服そうに口を尖らせたものの、セティは反論できなかった。
 リドルフが言うことは正しい。退屈とは平穏の裏返しである。トゥルファに入ってからはまだ一度も物理的な襲撃も法術での襲撃もない。
「セティ、あなたは人の目を引きすぎるのです。もう少しそれを自覚していただけませんか?」
 郷里を発ってから、幾度となくリドルフがセティに言ってきた言葉である。
「この街は特に人が多いのですから」
 セティはリドルフが言外にほのめかした意味をよく汲み取っていた。つまり、この街にはナディール人も多いということを言いたいのだ。
「だったら変装すればいい」
「変装?」
「私やハルだって分からなければいいのさ。情報収集するにしても、二人よりは四人の方が効率がいいに決まっている。それに、私やハルでないと得られないものもあるかもしれない」
 セティの言うことは確かに的を射てはいるが、リドルフは相変わらず渋い顔だ。もっとも渋い顔だと分かるのはセティだけで、ハルとメイラにはリドルフの変化は分からないのだが。
「ハルだって、いい加減退屈だろう?」
 セティの勢いに気圧されてうっかり頷いてしまったハルは、多くの人々を魅了してやまないその淡紫色の瞳が得意げに細められたのを見て、しまったとばかりにメイラとリドルフに視線を泳がせた。
 こうして、それからさらに一悶着はあったものの、最終的にはメイラの「私が後ろから付いていくから」との言葉にリドルフが折れる形となった。
 メイラ自身もハルの身の安全を考えれば家に閉じ込めておきたい、というのが本音ではあるが、やはりそろそろ気分転換は必要だと考えたのだ。あまり内にばかりこもって、神経質になりすぎてもいけない。目に見えぬ敵との戦いは長期戦になりそうなのだ。英気も養っておかねばならないだろうし、自分がついていけばある程度の安心もできる。
 リドルフも自分が同行できるならば、そこまで頑なにならなかったかもしれない。
 しかし、彼の場合はメイラと違ってそれが難しい。リドルフは白色人種であるのに赤色人種を凌ぐほどの長身の持ち主だ。しかも、剃髪した頭に僧衣では一見でナディール人の神職者だと分かり、どうしても目を引いてしまう。さらには、ここ数日のあいだに彼の医者としての腕はすっかり評判になってしまい、今や借りている薬草屋の一角では捌(さば)ききれないほど患者が押し寄せているのだ。
 そうと決まったからには、セティやハルはもちろん、リドルフとメイラも真剣に彼らの変装について考えた。
 顔はもちろんのこと、セティの場合は髪も肌もなるべく露出しないほうがいい。しかし、トゥルファは熱帯に近い気候である。人々は薄着で過ごしているのが常で、あまりに着込んでいては不自然で、逆に人目を引きかねない。しかも、男が顔を隠すという習慣はどこの国にもなく、それだけで異様だ。
 問題はまだある。セティは典型的な北の国の容貌で、ハルはやや肌の色は薄いが一見して南の国の生まれと分かる容姿である。大体にして、商いをするもの同士か旅芸人の一座でもない限り、ガイゼス人とナディール人の組み合わせで行動していること自体が珍しい。
 かくしてさまざまな意見を出し合い、真剣に討論した結果「旅の女芸人」というところに落ち着いた。
 翌日、メイラは雇われている高級料理店に出入りしている芸人の一座から、セティとハルの背丈に合いそうな衣装やそれに合う装飾品などの小物類を借り、化粧を施して、苦心のすえに出来上がった二人の変装は完璧であった。だれも二人がセティ・コヴェという青年とハル・アレン王子であるとは分からないだろう。どこからどう見ても、「旅の女芸人」には違いない。
 しかし、彼らは二人の身元を隠すということに熱心になりすぎて、重大なところで失念していたのだ。目立たないようにするという大前提を…。

 気温が高くなってきたため、セティとハルは立ち並ぶ露店の一つで飲み物を買って、休憩することにした。
 二人が買ったのは、薔薇水に少し甘みをつけたものだ。暑いとき、男は冷やした麦酒(ファーガ)で喉を潤すが、女性や子どもは薔薇水をよく飲む。ちなみに、同じ製法で薔薇のかわりにアルベルムを使用したアルベルム水もあるが、こちらは超がつくほどの高級品で気軽に露店などで手に入る代物ではない。それを聞いたセティはたいそう残念がった。
「アルベルム水を、飲みたいのですか?」
 セティの反応があまりにも意外で、ハルは思わず問いかけた。彼の美しい容貌には高級品がよく似合いそうだが、彼自身がそういう類いのものに興味があるとは思えない。確かに、食べるのは好きらしいのだが、それほど食通という訳でもなさそうなのだ。
「飲みたい? いや、そうじゃないな」
 快活なこの青年には珍しい、歯切れの悪いものいいだった。
「なんとなく── あの香りは気になるんだ。好き、なのかな」
 腕組みをしながら首を傾げたセティの言葉が、ハルにはなぜか嬉しかった。
 二人は木陰に腰を下ろした。火照った手のなかで、井戸でよく冷やされた杯に入った冷たい薔薇水がひんやりとして心地よい。
 人目がないのをいいことに、セティは腰衣とガウンをはだけて足を出し、胡坐(あぐら)をかく。はたから見れば、あられもないような姿に違いない。いつものセティらしい仕草だが、今、彼は目を疑うほどの美女の姿なのである。捲り上げた腰衣とガウンからすんなり伸びた白い手脚はあまりにも(なまめ)かしい。
 二人の大分後ろで同じく日陰に腰を下ろしたメイラのため息が、ここまで聞こえてきそうだった。
「ハルは女装が似合うな」
 薔薇水の入った杯を手の中でもてあそびながら、セティが悪戯っ子のような顔つきで茶化す。大陸中で一、二を争うだろう女装が映える男に、そんなことを言われるのは心外だとハルは思ったが、口にしたのは別のことだった。
「ガイゼスの男子にとっては、女のようだと言われるのが最大の侮辱なのですよ」
 薔薇水を飲もうとしていたセティが一瞬の半分だけ固まって、慌ててハルに向き直る。
「それは悪かった! そういうつもりで言ったんじゃない」
「いいのです。本当のことなのですから」
 ハルは笑って薔薇水を飲み、それから自分の横顔を凝視するセティの意図に気づいて言葉を付け加えた。
「卑屈になっているわけではありません。実際、そうなのですから、仕方ないのです」
 杯を地面に置き、大きく伸びをしたハルの腕は確かに少女のものと大差ない。それどころか、市で働いている少女たちよりもか細いかもしれない。
「率直な感想を言っただけだ。侮辱などではなくて、本当にハルは綺麗だと思うよ」
「男に向かっていう台詞ではありませんよ」
 熱くなった頬を悟られないように、ハルは視線を逸らして笑う。
「それもそうだ。私も、綺麗と言われるのはあまり好きじゃない」
 セティはすぐさまそれを認め、晴れやかに笑った。
「トゥルファは面白い町だな。見たことのないものばかりだ」
「ナディールにはあまり外国のものはないのですか?」
「交易に頼らなくても国が富んでいるし、自国のものこそ最上と考えているところがあるからな」
 木陰の下で交わす会話はたわいないことばかりだった。
 ハルは受け答えしながら、いつの間にかセティの表情を追うのに夢中になっていた。口を開けて豪快に笑い、こぼれ落ちるのではないかと思うほどに美しいその瞳を大きくする。つくりもののように完璧に整った造形が本当に人間らしくよく動く。それがなんと魅力的に彼の顔を彩るのだろう。
 そしてハルは新たな発見をした。
 淡い紫色の瞳は明るい陽光の下では色味が失せて、銀色のヴェールをかけたかのようにきらめき、逆に青味が強い虹彩の外側はそれが引き立つのだ。
 それは筆舌に尽くしがたい美しさであった。大陸中で珍重される、ガイゼスで産出するさまざまな宝石を見たこともあるが、セティの瞳の前ではどれもが玩具のように見えるだろう。
「ハル? もう飲み終わったのか?」
 気がつくとセティが至近距離でハルの手に持った杯の中身を見ていた。息がかかるほどの距離の近さに動揺して、ハルは杯を手の中で滑らせた。
「驚きすぎだよ」
 セティはさもおかしそうに笑って、ハルの手から落ちた杯をしっかりと空中で受け止めていた。誰にでも出来ることではないが、ハルの剣の師は空中に舞う小石を両断するほどの腕前である。このぐらい訳もないはずだ。
「さあ、次は帆船を見に行く約束だ。案内してくれよ」
「暑くないですか? もう少し過ごしやすくなってからでも」
 気温は一番高い時を少し過ぎたぐらいだ。街には人気がまだ少ない。セティは北国の生まれで、しかも、変装のためにいつもよりも厚着なのだ。
「私は大丈夫だ。ハルは、辛いか?」
「いいえ、私も大丈夫です」
「では、すぐに行こう」
 子どものようなセティの表情と、すぐに移動しようとするせっかちな仕草にハルは思わず笑った。
「そんなに急がなくても、船は逃げませんよ」
 セティが振り向いた。
「いつ死ぬか分からないだろう?」
「え────?」
「死ぬときに後悔はしたくない」
 セティの顔に浮かんでいたのは、はっとするほどに真摯なものだった。
「命を狙われているんだ。いつ何があるか分からないじゃないか」
 そう笑った顔はいつもの、太陽のような笑みだった。

 港に並ぶ帆船に、セティは目を輝かせて感嘆の声を漏らした。
 防腐処理のために真っ黒にタールを塗りこんだ船体に、対照的な白い帆。張られた帆には太陽をかたどったガイゼスの国章が堂々と描かれ、雲一つない空によく映えている。船尾楼でくつろぐ船員たちの姿が、その大きさを如実にあらわしていた。
 幸運なことに今日は、交易のために出ていた船の多くが戻ってくる日だったらしく、港に揃う最新鋭の船が並ぶそのさまは壮観と形容する以外にない。
 生まれて初めて見る巨大な動く建造物を前に、セティは口を開けたまま船体を見上げ、眩しそうに目を細める。小走りに移動しては、また歓声を上げる。それはまるで幼子のようだった。苦笑しながら後を追っていたハルがある重大な事実に気がついたのは、大分陽が傾いてきたころだった。
 ハルがそっとセティのガウンの袖を引いた。
「セティ、メイラの姿が見えません」
「えっ?」
 セティはさりげなく、しかし素早く周囲を見渡した。それは、帆船の前で歓声を上げていた人物とは別人のような鋭敏な動作だった。
「見失ったのでしょうか」
「そうかもしれない。とりあいず、戻ろう」
 セティは即決すると、いつまでも離れようとしなかった帆船の前からすぐに移動をはじめた。
「全く、あの婆さんは」
 悪態をつきながらもセティの顔はどこか神妙だ。口に出す言葉とは裏腹に、彼はメイラには一目置いている。武芸に長け、人一倍責任感が強い老女が自分たちの、否、ハルの姿を見失うなど考えられないことだった。
 地理に詳しいハルが先導する。セティは半歩だけそれに遅れて進みながら考えていた。もしも、ハルを狙う者がいて、この状況でなにができるのか。自分の命を狙う者がいたとして、どうやって接触してくるだろうか。
 あともう少しで、人通りが増えはじめた広場を抜けるというところだった。二人の行く手を黄色っぽい肌をした二人の男が阻んだ。
「芸人か?」
 ガイゼス人でもナディール人でもない。どこか遠い大陸の人間だ。訛りのあるナディール語が特徴的だった。
「何か見せてくれないか?」
 ハルはすぐ後ろのセティをちょっと顧みて、それから口を開いた。
「急いでおります。ご容赦下さいませ」
 膝を折ったハルの口から出た言葉は、完全に女の口調だった。
 しかし、相手は精一杯の誠意が通じるような輩ではなかった。懐に手を差し入れると、無造作に小銭を掴み出し、ハルに向かって投げ付けた。
「そうお高くとまるような生業でもないだろ」
「お許しください」
 胸に手を置いてふたたび膝を折ったハルに、男達はいやらしい笑いを浴びせた。まくれあがった唇の下から黄ばんだ歯が覗いていた。
 セティの白い頬が紅潮し、えもいわれぬ美しい色に染まる。
 いつもの彼ならば尋常ならざる早さの抜き打ちで、鼻先を削ぎ落とすぐらいのことはしてのけたかもしれない。しかし、それをすれば大事になることをセティはよく心得ていた。
 まずは見極めることが最重要課題である。ただ単に声をかけてきた街のごろつきなのか、そうでないのか。
「あっ───」
 セティが逡巡しているあいだに男の一人がハルの腕を掴み、乱暴に引き寄せた。ハルの口から吐息のような声が漏れた。太い指が無遠慮に細い腕に食い込み、ハルは顔を歪める。
 セティは周囲を素早く見回した。騒動に気がついて幾人かは気遣わしそうにこちらを盗み見てはいるが、見るからに素行が悪そうな二人組から彼らを助け出そうという勇気のある人間はなく、メイラの姿もやはり、ない。
 下品な笑いを浮かべる男に腰を抱えられながら、さらには顎にも手をかけられ、ハルは無理に顔を上げさせられていた。それがガイゼスの男子にとってどれほどの恥辱か、セティにも容易に想像できた。
「離して…… 離してください」
 ハルは必死に逃れようとしているが、力が及ばないのは歴然としている。しっかりと細い腰に回された男の腕はハルの腿ほどもあり、顎にからみついた太い指は倍ほどもありそうだった。紅を差したハルの唇に、粗野な男の唇が今にも重ねられそうだった。
 セティは咄嗟に懐に手を差し入れた。変装のために愛剣は置いてきているが、短剣ぐらいはもちろん身に着けている。そして、セティにはその短剣一本でこの場を治めるぐらいの腕に覚えはあった。ただ、事後処理がいささか面倒になるぐらいだ。
 セティが今まさに短剣を引き抜こうとしたそのとき、どこからか笛の音が流れてきた。
 ハルを抱き寄せていた男も、セティに近づこうとしていたもう一人の男も音色の出所を探るように、動きをとめて耳を澄ました。その瞬間、セティの脳裏にある考えがひらめいた。
 再び男達と目が合った瞬間、セティは嫣然(えんぜん)と微笑んだ。
 白い手首に重ねた金の腕輪が鳴る。足元まで覆う深い切れ目の入った腰衣が揺れ、覗いた白磁のような足がしなやかに宙を舞う。
 二人の男は呆然、というよりは恍惚として眼前の舞踏手をただ追っていた。事態の成り行きを不安そうに見守っていた人間も、忙しなく行き交っていた通行人たちも足をとめ、ただただ美しい舞踏手の舞に見入っていた。
 それどころか、すでに力の抜けた男の腕のなかで、ハルまでもが、軽やかに踊るセティの姿に恍惚としていた。笛の音と衣擦れの音だけが響く。
 静まり返ったその空間は、まるで異世界のようだった。
 短い曲が終わるとセティは跪いたまま顔を上げ、上目遣いに無頼漢たちを見て、また艶(あで)やかに笑った。
「行くぞ」
 未だ夢から覚めやらぬようすの男の腕の中で、呆然としたままのハルの耳元で囁き、セティはハルの腕をひいて滑るような足取りで人垣を抜けていく。
「お見事な舞でした」
 人垣を抜けると、背の低い一人の白色人種の男が声をかけてきた。
 右手には笛を持ち、つばの広い帽子の下で、碧眼が愛想よく笑っていた。セティは軽く目礼するとそのまま通りすぎようとした。
「まさか、かのようなところで、拝見できるとは思っておりませんでした」
 セティは一瞬だけ足をとめたが、何も答えずにまた足早に歩きはじめた。
「関わらない方がいい」
 小声で囁いたセティの声は低かった。
「あの男はナディールの神官だ」

 生活している二階建ての借家の近くまで戻ると、リドルフとはぐれたメイラの二人に鉢合わせた。
「あっ───」
 セティとハルの二人が声を上げたのと、彼らが呼ばれたのはほとんど同時であった。
 かくして一同は家に入り、慌ただしく各々の状況説明が交わされることになった。
「老婆が離してくれなくて」
 メイラが二人を見失ったのは港に向かう途中でのことだったらしい。
 老婆がぶつかってきて荷物をばらまき、メイラは手早くそれを拾って別れようとした。しかし、老婆はメイラが生き別れた娘に似ていると言い出し、離さない。セティとハルは視界のなかでどんどん小さくなってゆく。慌てたメイラは何度違うと言っても聞かない老婆を引き離そうとするが、今度は乱暴をする、と、泣きはじめる始末。周囲の訝しげな視線もあり、強行突破できぬうちにすっかり二人の姿を見失ってしまった。さらには、ぶつかった拍子に足を挫いて歩けないという老婆を背負い、街のはずれにある家まで送ってやることになってしまった…。
 自責の念から、すっかり小さくなってメイラはそう事情を説明した。
 なにせ、大都市での出来事である。一旦見失ってしまったセティとハルの姿を見つけるのは容易ではない。メイラは下手に探し回るよりも家に戻った方が得策と考えた。戻るとちょうどリドルフが仕事から帰ったところで、手早く経緯を説明し、二人でセティとハルを探しに行こうというところに、彼らが戻ってきたという次第だったようだ。
 セティははぐれていた間にあった出来事をかいつまんで話したが、ハルがならず者たちに抱えられて口付けまでされそうになったことは伏せた。ハル・アレン王子にとってそれは大変不名誉な出来事であっただろうし、知れば、この実直な従者は責任を取って自裁するという性格ではないが、報復ぐらいには行きそうだった。
「笛を吹いた人物は、ナディール人だった。しかも、恐らく神官だ」
「と、いうと道中での襲撃にも関わっていた人物だろうか」
「分からない」
「でも、それならばなぜ殿下と小童を助けるようなことをしたのか」
 一同は沈黙した。
「かのようなところで拝見できるとは、思っておりませんでした──。確か、あの人はそう言いましたね」
 視線を落とし、卓の一点を見つめたままハルが呟いた。メイラが白くなった太い眉を寄せた。
「小童、お前は─── 何者なんだ?」
 射るような視線に込められていたのは、わずかな不安。王子にとって、有害な存在であって欲しくない。メイラの目はそう語っているようだった。
「私はセティ・コヴェだ」
 リドルフが静かにセティを見つめていた。
「国を、何もかもを捨てて出てきた。だから、それ以上の説明のしようがない」
 二階建ての質素な借家の前の通りを、家族連れが歩いていった。窓越しにそれを目で追って、セティがどこか力なく笑う。
 その瞬間、ハルはセティが郷里に残してきたであろう家族に思いを馳せたのだろうかと思った。しかし、そうだとすればどこか違和感が拭えない表情だった。懐かしんでいるわけでも、感傷に浸っているわけでもない。ハルにはセティの顔が不思議なものを眺めているような、そんな表情に見えた。
「素晴らしい舞いでした。まるで心が震えるような」
 問いを重ねようとしたメイラを手で制し、ハルは言った。
「また、見せてくれますか?」
 穏やかな黒鳶色の瞳が笑っていた。
「音がなければ踊れないよ」
「私も、たしなみ程度なら笛を吹きます。とても、あの舞に相応しいような音色ではないでしょうが」
 セティが虚をつかれたように、宝玉の瞳を数度瞬かせた。そして、それからいつものように白い歯を覗かせて晴れやかに笑った。
「ハルが奏でるのなら、きっといい音色だ。そうに、決まっている」
 メイラが即席でこしらえた簡単なガイゼス風の夕食を済ませたあと、今日はハルとセティも剣の稽古は控えて、早めに休むことになった。二つの寝室はそれぞれハルとメイラ、セティとリドルフの組み合わせで使っている。
 寝台に寝転がって天井を見つめていたセティは、視界の隅で長身の影が入ってきたのを捉えると、体を起こした。
「ああするしか、なかったんだ。剣を使えばもっと大事になるし、厄介なことになると思った」
 言い訳するように言うセティの言葉を、リドルフは黙って聞いていた。そして、小さく頷く。これはリドルフもまた、彼の判断を支持している証拠である。セティは安堵したように一つ息を吐いた。
「接触してきた男は、本当に神官だったのですか?」
「体に火の神(アデン)の僕の精霊が纏わりついていた。あれは、火の神(アデン)の神官だと思う」
「かのようなところで拝見できるとは思っていなかったと、そう言ったのですね。顔に見覚えは?」
 セティは首を横に振る。
「高位の神官でなければ、あなたの舞を見る機会などないはずです。あなたに見覚えがないのなら、方便というところかもしれません」
「彼らの目的はなんだ? 襲撃の狙いはハルか、それとも私か?」
「分かりません」
「リド」
 セティはいずまいを正した。
「リドは、本当に何も知らないんだな? 私に隠していることはないのか」
 挑むような淡紫色の瞳をリドルフは真っ向から受け止め、静かに頷いた。全てを飲み込む湖面のような目だ。そして、その目が嘘偽りを言わないことをセティは知っている。
「明日、大地の神(アナリ)の神官と会うことになっています。そこで聞いてみるつもりです」
 セティが露骨に嫌そうな顔をした。
「まだ見張りがついてきているのか」
「見張りなどではありません」
 リドルフは困ったように笑う。
「何度も言わせるな。私は戻るつもりなんてない」
「それは分かっています。それでも、陛下や大神官(クラヴァン)たちはあなたの出奔に心を痛めておいでなのです。せめて── あなたがどうしているのかぐらいは、知っておきたいのですよ」
 セティはため息とともにうつむいて、それから無造作に金色の髪をかきむしった。
「では──── リドの父君に伝えてくれ。私は元気にやっている、と」
「父に……ですか?」
「私はあの方だけは好きだ」
「分かりました。そう伝えるように言いましょう」

   Ⅳ

 セティは寝室の寝台のうえに座り、窓の桟に額をつけて虫除けの網を上げてぽっかりを開けた窓から外を眺めていた。無意識に吐き出されたため息が思いのほか酒臭くて、思わず苦笑する。
 昨夜、大地の神(アナリ)神殿の神官に会うといっていたリドルフは、朝食もとらずいつもより大分早く出ていった。
 昨晩の深酒の余韻を大いに残している自分の姿と、さらにはリドルフの出かけに交わした会話とを思い出すとあまりにも情けなくていたたまれなくて── セティはまた一つ酒臭い息を吐き出す。
「セティ、あなたに花の精霊(ネビネ)をつけておきます。何かあれば、すぐに私に知らせるようにしてあります」
 出かける支度をしていたリドルフが、ふと思い出したようにそう言った。セティは一瞥して、けれど、返事をしなかった。リドルフはやんわりと苦笑した。
「ずいぶん、機嫌が悪いのですね」
「別に悪くない」
「そうですか?」
「早く行かないと遅れるぞ」
 リドルフは小さくため息をつき、慣れた動作で大剣を背負う。視界の隅でそれを捉えたセティは、くるりと向き直ってじっと視線を注いだ。
「それ、持っていくのか?」
「何かあるといけませんから」
「何かあったら、本当に使うのか?」
「はい」
 リドルフの表情はあくまでも穏やかだ。
「手を血に汚すのか」
「それで済むのなら、いくらでも」
「そんなことを言うな。そんなこと、リドの口から聞きたくない」
 セティは厚めの唇をへの字に曲げて、今にも泣き出すのでないかというほどに顔を歪めた。
「セティ」
 リドルフが大剣を背負ったまま歩み寄り、そして、ぽんぽんとあやすようにセティの金色の頭を二度やさしく叩く。
「あなたがやきもきしたり、気に病んだりする必要はなにもないのですよ。私は自分の意思であなたと一緒にいるのです」
 頭に手を置いたままかがみこんで、視線の高さを合わせるリドルフに、セティはもう子どもじゃない、と反論するつもりだった。しかし、鼻の奥がつんとして喉になにかが詰まったように何も言えなくなってしまう。
 そうしていると、リドルフは目を細めてまた頭を撫でて、それからいつものようにゆったりとした歩調で部屋を出ていった。
 セティが抱えているもやもやしたものの正体が、リドルフにはセティ自身よりもよく分かっているようだった。苛立ちも、突発的な激情もリドルフはいつも受け止めてくれる。
 穏やかなテノールの声音が、澄んだ空色の瞳が、ていねいに紡がれる言葉が、心のなかの硬くなったところを優しくときほぐしてくれる。
 リドルフはまるで幼子にするように、優しい目をして頭を撫でてくれることがある。そして、その置かれた手の重みになぜか安堵してしまう自分がいる。そんなことではいけないと分かっているのに、不意にそれに身を委ねてしまうときがある。
 郷里を発ってからもうずいぶんと経つような気がする。
 北から南に旅をつづけ、国境の町で偶然にハルと出会い、ついにはガイゼスに入国した。
 何者かがついてきているのは、薄々気が付いていた。
 いつもは決して側を離れようとしないリドルフが、たまにふらりといなくなることがあるのだ。
 それは決まってセティが深酒をした晩で、気がついたのは偶然だった。
 気分が悪くなって目を覚ましたら、傍らにいるはずのリドルフの姿がなかった。国の人間と会っているのだと気付いたとき、胸の奥が冷えた。
 そして、真っ暗な部屋で一人きりなのだと認識した途端、酔いは一気に冷めた。明け方リドルフが息を殺して扉を開けて戻ってくるまで、まどろむことさえできなかった。
 リドルフは、決して国に帰れとは言わない。ただ、黙って行く先について来てくれる。
 否やを唱えるのはセティの身が危険があると考えられるときだけで、それ以外は全て好きなようにさせてくれる。
 なぜ、そこまでしてくれるのだろうか───。
 リドルフは本来、王都を離れて良いような立場の人間ではない。
 彼が都を出て同行するのは、リドルフ本人にとっても、大地の神(アナリ)神殿にとっても不利益の方が大きかったはずだ。しかも、決して人を殺めてはならない大地の神(アナリ)の神官なのに、あのようなものまで背負わせる羽目になった。
 自分の意思で行動をともにしているのだと、リドルフは事ある毎に、何度も繰り返して言ってくれる。嘘は決して言わないと、旅に出た最初の日に約束もしてくれた。
 それでも、やはり、こうやって国の人間と連絡を取ることは欠かさない。
 大地の神(アナリ)化身のごとく懐の深いリドルフの心の底が、全く見えない。
 やはり、義務なのか。リドルフにとってはこれも全て務めなのか。
 そうやって、どんなに考えても答えに辿り着くことのない堂々巡りを繰り返し、どうしようもないほど心が冷え切っていってしまう────。
 階下で物音と人の話し声がして、セティは耳を澄ませた。窓から下を見れば、大荷物を背負ったメイラが姿を現し、大通りに向かって歩いていった。どうやら仕事に出る時間らしい。
 メイラがハルに忠義を尽くしている理由はなんだろうと、ふと考えた。
 彼女はいざというときにはためらいもなく命を投げ出して、ハルを守ろうとするだろう。それは、やはりハルがメイラの主だからだろうか。人は立場や身分のために、命を投げ出すことなど厭わないのだろうか。それらを度外視した心のありさまはどこに、どのようにしてあるのだろうか。
 ハルならばどう考えるだろう。聞いてみたい、とセティは思った。
 思い浮かべたその少年が予期せず眼下に姿を現したことに驚き、もたれていた頭を上げた。
 前の通りに出たハルは左右をちょっと見た。昨日の今日である。セティとハルの二人は外出をまたしばらく避けると昨夜話し合って決めたばかりで、ハルの気質でそれを無視するとは思えない。目を凝らしていたセティは、ハルが手に見慣れないものを持っているのに気がついた。
「笛……?」
 昨日彼が変装のために腰に差していた、華奢なつくりの笛である。確か、メイラは大きな袋を持っていた。中身は昨日の変装のために店に出入りしている芸人たちから借りた道具一式だろう。入れ忘れたのだろうか。
 なにかを発見したらしいハルは右手に走り出した。見つけたのはメイラの背中だろう。彼女は出たばかりだ。すぐに追いつける。
 そう考えて再びセティが壁にもたれかかろうとしたそのとき、信じられない光景が目に飛び込んできた。
 影のようにどこからか姿を現した三人の人影が、ハルを囲んだ。
 セティの目はその中の一人が、外套の下に見覚えのある衣服をまとっていることを見逃さなかった。
「ハル!」
 セティは考えるよりも早く叫び、絡み付いてくる憂鬱を振り払い、飛び起きた。
 愛剣の納められた鞘を引っつかんで、脱兎のごとく家を飛び出す。すでに、ハルの姿はない。
 二股の道の前でどちらに進むか一瞬の半分だけ迷って、表通りに続く道とは反対側を選んでセティは駆けはじめた。
 路地に入ってすぐに、頬がひりつくような感覚に襲われた。
 剣。右手は無意識に柄を握り、鞘走らせていた。
「グッ……」
 攻撃自体は、相手の方が一呼吸早かった。しかし、セティの抜き打ちの速さが尋常でなかったというだけのことだ。
 血飛沫を上げて倒れる男を視界の隅で確認しながら、セティは舌打ちした。自分を囲む刺客の存在にではない。加減をする余裕がなく、一撃で絶命させてしまったことにだ。
 これだけの大都市である。法制は整備されているだろうし、治安も悪くない。いくら路地の奥といえども、人が死んでいればそのままで済むとは思えない。
 しかし、未だ手加減する余裕はなかった。左右に一人、正面にもう一人。狭い路地は、軽捷(けいしょう)な身のこなしを売りにするセティにとっては、有難くない状況だった。
「法術大国ナディールは、誇りを捨ててまで私の命を欲するか!」
 挑発と己を鼓舞する意味とを含めてセティは声高々に叫んだ。
 ナディールに、剣を使う者は少ない。武器を用いるのは無能な証拠であり、野蛮であるという考えが根強いのだ。しかし、返って来たのは奇妙な違和感であった。
 返答はなかった。ただ、一瞬の間がセティに全てを悟らせた。
 右と左に男を斬り伏せて、セティは眉根を寄せた。
「ナディール側の刺客ではないのか?」
 セティの独白のような問いには答えずに、気合の声を発しながら正面の男が上段から切り下げてくる。
 セティは両手で剣の柄を握り、珍しく真正面からそれを受けた。
 金属と金属がぶつかる甲高い音が晴れた空に鳴る。痺れた手に眉をしかめ、それから力任せに刃を薙(な)いだ。いつもとは違う軌道を描いて走った刃は、それでも男を絶命させるだけの力があった。
 セティは刃についた血も拭わぬまま、路地を進みはじめた。手がまだ痺れていた。
 ハルを連れ去ったのは、見覚えのある衣服── 火の神(アデン)の法衣を纏った人間だった。しかし、今斬った人間達の狙いは恐らく、自分ではなかった。
 行き止まりで地面に描かれた神霊文字(サイラッド)を見て、セティは小さくため息をついた。
 ─── 黒髪の少女の身が気にかかるなら、南東の高台にひとりでおいでください。
 神霊文字(サイラッド)。それは、法術を使うために使用する文字で、法術に関する知識を持つナディール人だけが解する文字である。これは、明らかに自分に宛てられた伝言だ。
「何がどうなっているんだ」
 セティは頭を振り、目を閉じた。


 リドルフが指定された店についたのは、ちょうど夜が明けたころだった。
 繁華街の中心の路地にある小さな店は朝昼は飯屋として、夜は酒場として一昼夜開けている。この時代、他の都市ではそのような店は非常に稀だが、このトゥルファという街には何軒かそういう店があった。そして、いずれも繁盛している。
 この日も夜明け間もないというのに、大して広くもない店内に客が二組あり、いずれも朝食も真っ最中であった。
 リドルフは、一番奥の椅子に座っている剃髪した男を見つけると静かに歩みよった。男は僧衣こそ纏っていないが、どこか周囲の空気に溶け込みきれていなかった。
「久しいな」
 たたずむ長身の青年の姿に気がつくと、男は翡翠のような目を細めて人懐こく笑う。
「少しも変らない。その背中の物騒なものを除けば」
 男は親しげに笑い、僚友に向けて座るように言った。
(けい)の方から進んで接触してくるなど、趣向が変わったな。良い話を聞かせてもらえるのか?」
 リドルフは首を振り、これまでどおり、なるべくお傍を離れることは控えたい、と前置きして口を開いた。
「今日は、どうしても直接確認しなくてはならないことがあったのです。しかも、卿がわざわざ王都から来ていると、聞いていたので」
 リドルフは大剣を背から下ろすと壁に立てかけて、男─── カトラスの向かいに座った。
注文を聞きにきた黒髪を三つ編みにした店員に薔薇水を注文して、挨拶もそこそこにリドルフはすぐに本題に入った。
「ナディールではなにが起きているのですか?」
「なにが、とは?」
「国境を越えてから、二度ほど火の精霊(ラマン)を使った襲撃を受けました」
 リドルフは談笑する客を一瞥した。赤色人種にしては肌の色が明るく、白色人種にしては浅黒い男達だった。いずれにせよナディール人でもガイゼス人でもないのは明らかだ。しかし、リドルフは声を落とした。
「術の種類、精度、規模から推察すると、恐れ多くもセティス様の御身を狙ったものだと思います。さらに、昨日はお忍びで外出中のセティス様に、火の神(アデン)の神官らしき人間が接触してきています」
 薔薇水が運ばれ、リドルフはいったん言葉を切った。
「何故、このようなことが起きているのですか?」
「卿もそのようなこわい顔をするのだな」
 黙然と見つめ返す色素の薄い青い目が話しをはぐらかすな、と言っているようだった。カトラスは肩をすくめた。
「国が乱れている」
 リドルフはじっと言葉の続きを待っていた。
「それに尽きる」
 卓のうえに置かれていた汗のかいた杯を持ち、カトラスは少し口に含んだ。口に含んだ瞬間、眉をひそめ、大きく喉を鳴らしてなんとか飲み込む。そして、気味悪そうに杯のなかを覗き込んだ。生まれも育ちも北の貴族階級出身のリドルフの僚友には、南国の飲食物は嗜好に合わないようだった。
火の神(アデン)神殿と風の神(フィース)神殿は、ガイゼスとの再戦を強く望んでいる」
 ナディールでは宗教と政治は分離されていない。むしろ、神殿の長である大神官(クラヴァン)や、次席である神官長(クラメステル)をはじめ、高位の神官達は政治家としての側面があり、実際に大きな権限を持っている。これは、法術が国の要であるから、法術の扱いに長けた彼らがそうなるのは必然ともいえる。
「特に今はイスファーン台下の発言力が強い」
「確か、先に火の神(アデン)大神官(クラヴァン)に就任したお方ですね。現大神官(クラヴァン)の中でも、強い力をお持ちだとか」
 カトラスは神妙に頷いた。
「イスファーン台下と近い法力を持っているのは、我らの大神官(クラヴァン)だけだ。ネトル様だけが、高らかに再戦に反対の意を唱えている」
「そもそも、アデンとフィースはなぜ、再戦を望んでいるのですか?」
 セティが言ったように、ナディールもガイゼスも十分に富んでいる。ナディールはガイゼスが独立する以前に比べると国土は縮小したが、経済や軍事にそこまでの痛手はないはずだ。
「翳りは見えるものの、未だ大陸一と言われる国の威厳を回復したいというのが建前だ」
「本音はなんです?」
 カトラスは声を落とした。
「軍部は── アデンとフィースは、国政の主導権を握りたがっている。ゆくゆくは、国家の転覆も考えているやもしれん」
 リドルフは目を伏せて、頭を振る。
「なんと、愚かしい」
「国の均衡が崩れているのだ。女王陛下の力は秀抜しておらず、イスファーン台下の力は強すぎる」
 ナディールは一応君主制を敷いているが、君主の意思は絶対ではない。国の大事を決めるときには火の神(アデン)風の神(フィース)水の女神(シルヴァ)大地の神(アナリ)の四神殿の主席神官である大神官(クラヴァン)たちが集まり、意見を交換する。
 水の女神(シルヴァ)大地の神(アナリ)神殿は主に内政に関わる事柄を担っており、火の神(アデン)風の神(フィース)神殿は外政に関わる事柄を担っている。
 当然、最終的な判断は王が下す。ただ、他国と違うのは、どの懸案に関しても発言力と影響力が強いのは、より優秀な神職者を多く抱え、資金に富み、民の人気と支持を得ている神殿の長たる大神官(クラヴァン)だ。
 以前は王家の人間の法力は圧倒的に強かった。しかし、現王だけに限らず、近年はその傾向が変わってきてしまっている。それが古来から続く国の体制には合っていないのだ。カトラスの言う、均衡が崩れているという意味はリドルフにもよく分かった。
「女王陛下は、猊下(げいか)がお戻りになることを強く望まれている」
「セティス様は、(まつりごと)に直接関わる御方ではありません」
 ナディール人ならば誰でも知っていることを、あえてリドルフは口に出した。
「関わらなくとも、その存在こそが重要なのだ。国におわすだけで、全ての勢力に対し牽制になる。いざというときには、オリスの神託があるのだから」
 リドルフは小さくため息をついた。
「だから、セティス様の存在がイスファーン台下には疎ましいのですね」
「台下の指示か定かではないが、軍部には邪魔者を排除しようという過激な動きもある」
「術の水準からすると、動いているのはかなり高位の神官です。上層部が絡んでいると考えて間違いないと思います」
「リドルフ」
 意を決したかのように、カトラスが名を呼んだ。
猊下(げいか)を、すぐに国にお連れ戻しできないだろうか」
 リドルフは黙然と眼前の同輩を見つめた。薔薇水が入った手付かずの杯が汗をかき、流れた水滴が木製の卓をぬらす。
「国の分裂はもはや楽観できるような段階にない。ネトル様ひとりでは、イスファーン台下を抑えきれない。それどころか、このままではネトル様暗殺の危惧すらある」
 カトラスのいうことは、妄想でも誇張でもないとリドルフは思った。十分に考えられることである。何しろ彼らはあの、セティを亡き者にすることすらも考えているのだ。
「そもそも我がアナリは、卿が都に不在であること自体がすでに痛手だ。ネトル様も口には出されないが、そう感じておられるはずだ」
 カトラスは卓に手をついて、前のめりになって続ける。
「それに、猊下(げいか)が都におわせば、オリスの神託さえあれば─── 国は一つにまとまる。彼らも猊下(げいか)に手を出すなど、畏れ多いことをできるのも国外にいるうちだけだ」
 無表情に聞くリドルフに、カトラスが熱っぽく説く。リドルフの声音はいつもと変わらぬ冷静なものだった。
「セティス様には帰郷されるご意思がありません」
「リドルフ!」
 カトラスは今度は諌めるようにその名を呼んだ。
「このままでは、猊下(げいか)のお命だって危ういのだぞ。本当に火の神(アデン)の上層部が動いているのだとすれば、いかに(けい)が卓越した術者と言えども、お守りし続けるのは難しい。アナリの力は本来、争いに向くものではない」
「確かに、おっしゃるとおりです。しかし、あの御方にとってはご自身の身の安全など問題ではないのです。問題は、まだ別のところにあります。無理にお連れ戻しすれば───」
 以前の二の舞になるだけだ、とリドルフは低く呟いた。
「しかし、事は我らの大神官(クラヴァン)のお命にも関わることなのだぞ。卿が不在のこの状況で、ネトル様に万が一のことがあってみろ。アナリは一気に傾き、アデンが一層力を強める」
 カトラスは話しながら、恐ろしいことに思いが至ったようにはっとした。
「それに── もし卿が随行している間に猊下(げいか)の御身に大事があれば、卿の責任が問われることは免れない。アデンとフィースに卿を排除する絶好の口実を与えることになり、それもまたアナリを弱体化させることにつながる」
「分かっています」
 リドルフはかすかに笑みを浮かべた。
「それでも、私はセティス様のお好きにさせて差し上げたいのです。そのお心が満たされるまで」
 静かに返された答えが、カトラスには常軌を逸しているとしか思えなかった。そして、動揺のあまり震える唇で呟いてしまった言葉を、次の瞬間ひどく後悔することになる。
「もうあまり時間もないというのに―――」
 深く考えて口に出したことではなかった。しかし、カトラスは肌を射るような視線に気がつき、自身の失言を認識した。平生は穏やかな男だけに、その凄みといったら尋常ではない。まるで冬の凍てついた湖面のようだ。
「卿は猊下(げいか)のこととなると、まるで人が変わるな」
 リドルフは再び開きかけた口を閉ざし、視線を虚空に泳がせた。
 それをカトラスも目で追う。二人の視線の先には、小さな球形の光が落ち着きのない動きで飛び回っていた。むろん、これは法力がある人間にだけ見える精霊で、恐らく、この場にいる他の人間にはそれは見えない。
「セティス様が……?」
 やってきたのは、リドルフがセティに付けていた花の精霊(ネビネ)であった。
猊下(げいか)の御身に何かあったのか?」
 カトラスがリドルフの呟きを拾い上げて、色めきだつ。
「セティス様のご友人が何者かに連れ去られたようです。セティス様は単身でそれを追っていると」
「ご友人?」
「セティス様にとって、大事な方です」
 壁に立てかけていた大剣を背負い、その存在を確かめるようにリドルフは一度柄を握った。そのさまを、カトラスが奇妙なものでも見るようなようすで見つめている。
「刃物がいっとう似合わぬ男がそのようなものを背負う様は、まさに異様だな」
 皮肉げな笑いに、リドルフは返事をしない。出口に向かって歩き出し、そして、なにかを思い出したように振り返った。
「元気でやっている、と」
 カトラスが訝しげに眉を寄せる。
「そう、ネトル様にお伝え下さい。セティス様からの伝言です」
「クラメステル・リドルフ!」
 カトラスの口から咄嗟に出たかつての呼び名に、リドルフは振り返らなかった。


 汗が流れている。
 背に張りついた衣が気持ち悪い。
 ぼんやりとした視界に黄土色の石の壁と、虫除けの網ごしに覗く青空を捉えた瞬間、生きているのだと、ハルはそう思った。
 意識がはっきりしてきたのに比例して鮮明になってきた鳩尾あたりの鈍い痛みと、後ろ手にまわされた両の手首に食い込む鋭い痛みがそれを否が応にも実感させてくれる。確かに、自分はまだ生きているのだ。
 自分がなぜこのような状況に置かれているのか、記憶の糸をたぐってみる。
 朝はいつもとあまり変わらなかった。
 ただ、リドルフは用事があると言っていつもよりも早く出て行き、セティはいつまでも階下に降りてこなかった。出かけのリドルフに尋ねると、ご機嫌斜めのようだと冗談めかして笑われたものの、あながち冗談とも思われなかった。セティは何事にも率直だ。きっと、降りて来たくないから降りてこないのだろうと思った。
 それから、メイラがいつもの時間に出かけていった。見送った直後に、昨日自分が腰に差していた借物の笛が、卓のうえにぽつんと置かれているのに気がついた。束の間だけ逡巡した。そして、結局メイラを追って一人で通りに出た。メイラの背中は大分小さくなっていたが、それでもまだ見える範囲だった。少し駆けて声を上げれば間に合う。そう、思ったのに――――。
 人型をした黒い塊が両脇から飛び出してきて、声を上げる間もなかった。鳩尾のあたりに衝撃を感じた瞬間、やられた、と思った。薄れ行く意識のなかで小さなメイラの背中を見て、セティの声を聞いたような気がした。意識が途切れる寸前に強く思ったのは、恐怖よりも後悔だった。
 ハルはもう一度、今、視界に入るものを確認しようとした。
 重い鳩尾の痛みと、後ろ手に縛められた縄のせいで起き上がるのは困難だった。床に転がされたままの体勢で首を巡らせると、目に入ったのはやはり黄土色の壁と、開け閉めしやすいように工夫された虫除け網付きの窓だけだ。それ以外のものは何もないが、それはここがガイゼス国内の一般的な住宅であることを端的に示していた。そして、この暑さ──。恐らく時間は太陽が中天にかかるか、それを少しすぎたころだろう。
 さらに踏み込んで状況を分析しようとしていたハルの思考を中断させるように、一人の男が現れた。
「気がつきましたか」
 その容貌があまりにも意外で、ハルは咄嗟に口を利けなかった。
 綺麗な発音のナディール語を発した小柄な男は、白皙で深い海のような色の目をしていた。背丈はリドルフよりもずっと低く、セティよりもまだ低い。顎先あたりで直線に切り揃えられた髪は赤味を帯びた金髪だった。どこかで見たことがあるような気がした。しかし、混乱した頭ではうまく思い出せなかった。
 男は手にしていた水差しと杯を床におき、よいしょ、と掛け声を出しながら苦労してハルの体を起こした。
「水を飲みますか?」
 ていねいな言葉と柔和な表情。しかし、その色素の薄い瞳に込められた真意を察するのは難しい。ハルの身近にいる白色人種といえば、体全体で感情を表現するような青年と、凪いだ大海のような懐の深い青年だけである。あまりにも数が少なすぎるし、彼らは標本として適切だとは言い難い。
「警戒することはありません。毒など入っていませんよ。あなたには多大な利用価値があるし、ダラメンといえども女性を騙して毒を飲ませるなど私の美学に反する」
 ハルの頭は混乱を極めた。てっきり、自分が攫われたのは自分の命を狙う者にだと思った。しかし、現れた男はナディール人で、ダラメンという蔑称で呼び、しかも、女として扱っている。自分がこのガイゼスの王子だということは知らないのか───。それとも、知らないふりをしているだけなのか。
 「喉が渇いたら言ってください。外はずいぶん暑い。大事な人質に具合が悪くなられては困ります」
 視線を逸らさず、一言も口を利かないハルに、男は薄く笑ってふいと部屋を出ていった。
 自分がどういう状況にあるのかハルには全く検討がつかなくなっていた。相手も狙いも分からない。だから、この場を優位にすすめるべき言葉が全く見当たらなかった。一体、どうしたらよいというのだろうか────。
 思考を整理する(いとま)も与えられぬまま、先程の男と入れ替わるようにして今度は二人の男がやってきた。やはり、二人とも白色人種だった。一人は痩身の男。もう一人はかなり大柄な男だ。
「やあ、これはきれいな顔立ちだな」
 大柄な方の男が近づいてきて、素っ頓狂な声を上げた。屈み込み、顎に手をかけて不躾にハルの顔を覗き込む。
「ふうん」
 ハルは思わず目を逸らした。なにかを考えるよりも早く、生理的な嫌悪感が先立った。卑俗な笑いは、昨日の無頼漢(ぶらいかん)たちを彷彿とさせた。
猊下(げいか)はこういう女が好みなのか。意外だな」
 ゲイカ────。耳慣れない言葉だった。しかし、ハルにはこの件に関する大事な手がかりのように思われた。
「まあ、悪くはないが、さすがにあの御方に有色人種は不釣合いすぎる」
 男は琥珀色の目を細め、失笑する。
 ハルは思考能力が失われていく自分を叱咤しつつ、「ゲイカ」という言葉の意味を必死に思い起こそうとしていた。しかし、それは次の瞬間、ぞっとするような恐怖に呆気なく中断させられる。
「ただ、猊下(げいか)の女を抱いてみるってのは、いろんな意味で魅惑的だな」
 なあ、と大柄の男が同意を求めると、壁にもたれていた痩身の男が素っ気なく短い返事をした。
 自分がどういう顔をしているのか分からない。けれど、ひどい顔なのだろうと思う。目の前の男は、それをも楽しんでいるようだった。
 自分は、ガイゼスの王子だ。
 喉まで出かかったその言葉を、ハルはあらんかぎりの理性で抑え込んだ。
 それを明かすことは、目の前の恐怖を打開することにはなるかもしれない。しかし、それを宣言すれば、事態は今以上にこじれて複雑になってしまいそうな気がした。
 こんなときセティならばどうするだろうか。
 奔放で快活な青年が、実は頭の回転が速く、的確な判断力を備えていることをハルは間近で目にして知っていた。そして、状況を己で変えられるだけの力を持っていることも。
 この世のものとは思われぬほどに美しい容貌をした、屈託がなくて、潔くて、ちょっぴり子供っぽい青年。────セティ。
 その人物を思い出した途端、頭は余計に冷静ではなくなった。こめかみの辺りが熱くなってきて、なぜか涙がこぼれそうになる。
「やめておいた方がいいと思います」
 壁にもたれていた男が、淡々と言った。
猊下(げいか)はまだご存命です。お怒りになれば、何をされるか分からない」
 顎にかけられていた手がびくりと震え、男は手を離し、気味悪がるように肩をすくめた。
そして、もう一人の男と並んで壁にもたれた。
 額に滲んだ汗がこめかみを流れていった。
 ハルは息を吐いて、それから目を固く瞑った。
 本当ならば、耳も塞ぎたいくらいだったが、後ろ手に縛り上げられているのでそれは叶わない。状況を把握するために積極的に情報を取り入れることも、置かれている状況を考えることも止めた。
 何も見ず、何も聞かない。そうしなければ、大事ななにかが崩れてしまいそうで、最早、ハルはそうすることでしか自分を保っていられそうになかった。
 ほどなくして先ほどの男が戻ってきた。
 じっと目を瞑って微動だにしないハルを不思議そうに見遣ったものの、部屋にいた二人の男にハルを抱えるように指示をする。
 歩くたびに鳩尾が痛んだが、ハルはもうそれを気にすることもなかった。
 目蓋の裏が白くなり、容赦のない日差しが肌を刺したのも束の間のことで、すぐにハルは粗末な輿(こし)のようなものに押しこまれた。どこに連れて行こうというのだろうか。
 最早、死への恐怖は少しもなかった。いっそのこと一突きのもと死なせてくれたのなら、どれほど楽だろう。あるのは、もっとおぞましいものへの恐怖だ。その恐怖に浸食されてしまわぬように出来ることといえば、自分はこのガイゼスの王子だと己に言い聞かせることぐらいであった。
 輿が止まり、ハルはまた両脇を抱えられて歩かされた。
 潮のにおいをのせた風が頬をなぶり、髪を巻き上げる。あまりの強風に思わず薄く目を開ける。
 目を開けると、飛びこんできたのは、陽光を紡いだような美しい髪をした青年の姿だった。
 雲ひとつない抜けるような青い空に白磁の肌をさらし、陽光に当たると白銀に輝く宝玉の瞳は怒気をはらみ、射るようにハルの両脇を抱えるものと、そしてもう一人の男を見詰めている。
「お前、やはり昨日の」
 背の小さい男が笑って優雅に一礼した。
「こういうやり方は許さない。私に用事があるのなら、どうして直接言わない」
「直接に貴方様と相見(あいまみ)えられるほど胎の据わった人間は、我がナディールにはおりますまい」
「だったら周りを巻きこんでもいいというのか。この外道め」
 慇懃な男の態度にもセティは全く態度を軟化させる様子はない。柳眉を逆立て、腕組みをしたまま吐き捨てる。
「かなりご立腹だな。お美しいお顔が台無しだ」
 ハルを抱える左側の大柄な男は、呟いた言葉の軽薄さとは裏腹に、神妙な顔つきをしていた。ハルの腕を持つ手にもじっとりと汗が滲んでいる。右側にいる痩身の男は相変らずの無表情で、それどころか、どこか飄々(ひょうひょう)としていた。
 二人に両脇を抱えられたハルはセティと碧眼の男のやりとりをじっと見ていた。
 体が食い破られるような恐怖は、もうない。
 それはセティの姿を見た瞬間に氷が溶けるようにして消えた。
 状況は相変らず不透明であり、思わしくない。しかし、セティが現れた。それだけで理性らしいものが戻ってきて、ハルの思考回路は再び状況を理解するべく動きはじめていた。
「取引をしたいのだろう。さっさと条件をいえ」
 まるでセティその言葉を待っていたかのように、小柄な男が指示を出す。右側にいた痩身の男の方が懐から小刀を出し、ハルの細い首筋に突きつけた。セティが眉を寄せてその様を凝視する。
「慣れないことをするもんじゃない」
「ここはガイゼス王国。その国の流儀に従おうというところです。いくら我らが剣に不得手といえども、この距離で両手を縛り上げた少女を殺めるくらいはわけがありません。貴方様に法術で仕掛けるよりも、よほど容易い」
 セティは鼻で笑って、腕を組みなおした。
「なにと引き換えだ」
「セティス様のお命と」
 間髪を入れぬ答え。その瞬間、まとっていた烈火のような怒気を収め、セティの口元が歪んだ弧を描いた。
「なんだ、そんなものでいいのか」
 ハルの頭の中を、その言葉が意味を成さない音のようにして通り抜けていく。
 反芻(はんすう)しようとする頭を止めてしまったのは、セティの歪んだ冷たい笑みだ。ただならぬ陰気を漂わせるあんな表情は、未だかつて見たこともない。
 セティはハルのことなど気にする様子もなく、それどころか、その存在すら忘れてしまったかのように、腕組みをしたまま悠然と地面と空中との境目の限界に移動する。
 再びセティが向き直ると、足元の小石が頼りない音を立てて、遥か下のうねりをあげる青い海へと飲み込まれていった。
「ハルを放すのが先だ。そうしたら、私はここから飛び下りよう」
「貴方様が飛び下りるのが先です。それを見届けたら、必ず」
「まあ、それでもいいか」
 セティはあまりにも呆気なく了承した。
「セティ……」
 乾ききった喉から絞り出した声は潮風に溶けて、セティの耳には届かない。彼の顔には奇妙に歪んだ笑みが張り付いたままだ。
 心臓が破裂しそうなほど早く、激しく、脈を打っている。耳なりがしていた。
 セティはちらりとも視線を合わせず、くるりと身を反転させて背を向けた。絹糸のような髪が風に巻き上げられて白いうなじが露わになる。
 髪が落ちる一瞬の間に、そこに刻まれた藍色の文様が目に入った。
 セティはいつも髪を自然に流したままで、結ったりはしない。あんな場所に文様が彫られていることなど、知らなかった。セティがあんなふうにして、いびつな表情を浮かべることなど、知らなかった。
 結局、彼のことなどなにも知らないのだ────。
 セティが空を仰ぎ、両手を広げた。
 その顔はどこか満足げで、まるで天界に帰ろうとする神の落し子のようだった。
 不意にハルの脳裏にある情景がひらめいた。
 長い金色の髪。細い体をした後ろ姿の女性。それは、今のようによく晴れた日だった。忘れようにも忘れられぬ、脳髄に深く刻み込まれたあの日。
 あのときも、心臓は外に音が聞こえるのではないかと思えるほど、激しく打っていた。喉は干上がり、全身が汗にまみれていた。
 その名を呼びたかった。叫びたかった。けれど、できなかった。
 自分はまた、できないのだろうか。
 汗のにおいに混じって、かすかなアルベルムの香りが立ち昇ってくる。いつものようにして朝、練り香をつけたことを思い出した。
 その香りに誘われてラガシュの夜、むせかえるようなアルベルムの香りに包まれて、彼の手を握ったことを思い出した。
 その瞬間、ここ最近のあいだに手に入れた、大事な記憶の欠片が引きずり出されるようにして溢れ、そして飛散する。セティが宙に向けて踏み出そうと足を上げた────
「セティ!!」
 有らん限りの力を込めてその名を呼んでいた。
 首筋に突き付けられた刃が食い込み、生温い液体が伝わったが、そんなことは少しもハルの気を引かなかった。
 その絶叫にも似た声は、セティを雷のように打った。
 今まさに宙への一歩を踏み出そうとしていたセティは目を見開き、息を吸い、足を宙の半歩手前でつき、際どいところで体の均衡を立て直す。
 ハルの右腕を抱えていた大柄の男が舌打ちして後ろ手に縛めた縄をぐい、と引っ張った。
「そこまでです。ダイラム卿」
 そのとき、大きくはないのによく通る、凛とした声が響いた。
「これは、リドルフ卿」
 ダイラムと呼ばれた小柄な男が目を細め、苦い呟きをもらす。
「全く間の悪い男だな」
 リドルフはよほど急いできたらしく、珍しく肩を大きく上下させて呼吸を乱していた。
「あなたの部下が手をかけているのは、ガイゼス王国の第二王子、ハル・アレン殿下です。それを承知のうえで、このような凶行に及びますか」
「王子……?」
「ナディール人のあなたが殿下に危害を加えるようなことがあれば、ガイゼスという国が黙っていないでしょう。開戦は望むところかもしれません。しかし、今のナディールの状況では、あなたの主も困るのではないですか?」
 いつもよりも少々早口ではあるが、その声音も表情もリドルフは平生とほとんど変わらなかった。ダイラムと呼ばれた小柄な男はじっと首筋から血を流しているハルを見た。
「殿下を開放し、国にお戻りを。さもなくば───」
 ダイラムはリドルフが背中ごしに、握ったものを見て面白そうに笑う。
「卿にそれが抜けるか」
「使うつもりがなければ、このようなもの背負ってはいません」
 大剣の柄に手をかけた普段は穏やかな空色の瞳が、冷やかな光を放った。
「その人を解放して差し上げろ」
 すぐさま指示には従わず、物言いたげな二人の部下に向かって、ダイラムは苦笑した。
「リドルフ卿のいうことが真実かどうかの問題ではない。オリスが相手では、あまりにも分が悪いからね。それだけのことさ」
 右側にいた痩身の男が黙ってハルの両手を縛めている縄を切り、両手でハルの肩を押した。その勢いでハルは数歩よろめいて、セティの手前五カベール(約ニ・五メートル)ほどの位置で膝を着いた。
「また、お目にかかることもあるでしょう」
 長い髪をなびかせたまま、放心したようなセティに向けて慇懃に一礼するとダイラムは二人の部下を連れて踵を返した。すれ違いざまにリドルフに向けても笑いかけたが、リドルフが反応を示した要因はダイラムではなかった。
「シュレバ……」
 切れ長の瞳を大きくして吐息を漏らすように呟く。痩身の男がリドルフを一瞬だけ見た。しかし、その顔は無表情だった。
 三人の姿が見えなくなると、リドルフはすぐさまハルに駆け寄った。
「ハル様、お怪我は」
「大したことはありません」
 ハルは切れた首筋を押さえながらも、毅然として答えた。縛められた手首は紫色の痣になっていた。
「リドルフ殿、それよりもセティを─── セティの様子がおかしいのです」
 ハルの視線の先で、セティは未だ呆然自失としたまま立ち尽くしていた。ぞっとするような歪んだ笑みはなかったが、そのかわり表情の失せた顔は陶器の面のようだった。
 リドルフは頷くと静かにセティに歩み寄った。そして、いきなり白い頬を引っ叩いた。
「リド───」
「一体なにを考えているんです」
 リドルフの顔も、声もさきほどとは比べものにならないほど険しい。
「自分の命を、そんなふうに扱って」
 セティは打たれた頬を押さえることもなく、無表情に呟いた。
「ここで、死んでもいいと思った」
 うつむいたのに合わせて、金色の髪がさらさらと流れる。
「それで、ハルが助かるのなら、それでもよかった」
「何と言う無責任な言い草ですか」
 リドルフの声は、厳しいままだった。
「前に言ったはずです。あなたの友人は、あなたが守りなさいと」

   Ⅴ

 鏡のように磨き上げられた上等な大理石の卓のうえに、無数の紙片が散乱している。
 この時代、紙は日常品であるとは言えない。文字を記すのにもっとも一般的なのは羊皮紙である。しかし、瞬く間に文明都市へと変貌を遂げた眠らない街トゥルファでは紙はそれほど珍しいものでもない。外交官や大商人が宿泊するような宿の部屋には書きつけのための紙が必ず備え付けられているし、商人達が取引の際に交わす書類も紙が使われるのが常である。
 椅子にのけぞるような格好で腕を組み、思案していたダイラムは部下に呼ばれてつぶっていた目を開けた。
「指示どおりにできましたが、本当にこれでいいんですか?」
 床に描かれた規則的な神霊文字(サイラッド)を一瞥すると、ダイラムは紺色の瞳を細める。
「それでいい、そのまま送っておくれ」
 笑みになにか含むものを感じ取った部下は、訝しげに上司を見遣った。
「なにか?」
「いいや、完璧な仕事だよ。フォンは、外見からはちょっと想像できないぐらい本当に几帳面に術式を守るな、と思ってね」
 フォンと呼ばれた大柄な男は肩をすくめ、さらに指先で文様の一部に神霊文字(サイラッド)を書き足した。
「ダイラム様ほどではありませんよ」
「なんだ、お前まで私のことを子どものようだとでも言いたいのか?」
 ダイラムは憤然と立ち上がって、腕を組んでフォンを見上げた。白色人種の男性の平均的な身長を大幅に下回り、しかも童顔のダイラムは実年齢よりも相当若く見られることが多い。
「そういう意味ではありません。お優しげな容貌とは裏腹に、肝が据わっていらっしゃるということを言いたいのです」
 上官の心証を損ねるわけにはいかない。慌てて釈明しながらフォンがダイラムの顔を見れば、まさに悪戯子のように笑っていた。憤然として見せたのは、ただの演技だったようだ。彼には人をからかって楽しむような癖がある。フォンは小さくため息をついて、聞いた。
「こんな報告書を送ったら、お頭さまがお怒りになるとは思わないんですか?」
「お怒りになどならないさ。この仕事がどれほど難しいかはあの方が一番よく分かっていらっしゃる」
「それは、そうでしょうけど」
 風の精霊(エアル)を自在に操る通信役であるフォンが、ダイラムから指示された本国への報告内容は、失敗を簡潔に告げる内容であった。一切の経過説明も状況説明も、なにもない。失敗したという事実それのみである。
「この仕事に過程など無意味なんだ。完了しないかぎり、それは何もなかったのと変わらない。そうだろう?」
 あっけらかんとそう言われれば返す言葉もない。フォンは諦めたように、短くマントラを唱えて術を完成させた。これで今回の件に関する報告は、明日の夜にはナディールの首都ハプラティシュに届くはずだ。
「それにしても、どうしてセティス様はガイゼスの王子と行動を共にしていたのか……」
 ダイラムは元のように椅子に腰掛けた。
「あの女は本当に王子なのですか?」
「情報を集めさせているが、可能性は高いだろうな。端正な顔立ちに、少女のように華奢な体──。第二王子の姿とあまりにも当てはまる」
「女のようにしか見えませんが」
「確かに、ね。でも最初に見たのが女の姿だったし、先入観というものは恐ろしいからね」
 ダイラムは苦笑した。整っているというよりは、愛嬌のある顔立ちは人好きされやすい。
 部下に対しても必要以上に立場を誇示することはなく、気取らない口調で話すため、彼に好意を覚えるものは多い。しかし自分より年少のこの男が機知に富み、また、信じられないような冷血な部分を備えていることをフォンはよく知っている。そうでなければ、国の行く先を左右するような、(オリス)に逆らうような仕事の指揮を任せられるはずがないのだ。
猊下(げいか)がどういう目的で王子と行動をともにしているか、よく調べる必要があるな。それがはっきりとするまでは手が出しにくい」
「─── 面倒なことになりましたね」
「フォンは、猊下(げいか)をはじめて間近で目にしてどう思った?」
 唐突に話題を転換されて、己の頭を切り替えるのにフォンはほんの少しの時間を要した。ダイラムのこういうところにはすでに慣れている。
「美しさは話以上ですね。とても、この世のものとは思えません」
「確かにね。でも、それだけ?」
「怖い。そう思いました」
 ダイラムは満足げに微笑んだ。
「正直でけっこう。ナディール人ならば誰でも、セティス様は崇敬と同時に畏怖の対象にもなるものさ」
「ダイラム様も?」
「例外というものは何事にも存在するものさ」
 やや婉曲的に否定をして、ダイラムは手にしていたペンを器用に回転させて柄の先で自分のこめかみを軽く二度突いた。
「だからこそ、私にはクラメステル・アナリが猊下(げいか)と一緒に出奔したことも、ガイゼスの王子と行動を共にしている理由も分からない」
「どういう意味で……?」
 ダイラムは口元だけで笑うと、ペンの柄を訝しがる目の前の部下に向けた。
「フォン、陛下やネトル台下が秘密裏にリドルフ卿と接触した形跡がないか、精霊たちに調べさせてくれ。この街には、ずいぶん大地の神(アナリ)の神官が入っているようだからね」
「はい」
「あまり派手には動かすなよ。リドルフ卿と猊下(げいか)、それにカトラス卿あたりはすぐに気がつく。今、捕まるのは得策とはいえない」
「承知」
 フォンが部屋を出て行ったのと入れ替わりに、もう一人の部下をダイラムは呼んだ。
 彼が携えてきた情報の書かれた紙片に一通り目を通し、労をねぎらうとダイラムは椅子にかけるように言う。
「さて─── シュレバは、大地の神(アナリ)の元神官長(クラメステル)リドルフと面識があったのかい?」
「なぜですか?」
「リドルフ卿があんなに驚いた顔をするのは、珍しいと思ってね」
 しかも、あんな状況だったのに、とダイラムは付け加え、にやりと笑う。
「別に興味本位で詮索したいわけじゃない。はじめに伝えたように、我々のような生業のものに素姓など無意味な情報だからね。ただ──」
 ダイラムはペンを卓のうえに置いた。紙片がかさりと音をたてる。
「リドルフ卿の存在は我々にとって、大きな障害になっている。十分に手ごわい相手だったのに、国を出るときにあんな物騒なものまで背負ってしまっている。それに、今日という好機をものにできなかったことによって、より一層猊下(げいか)のお側を離れなくなるだろう」
 ダイラムが片眉をあげて歎息を漏らすと、シュレバは視線を落とした。
「もしも何か我々にとって優位になるような情報があれば、知りたい。それだけだ」
 シュレバの翡翠のような目は鏡面のように磨かれた大理石の卓の一点に注がれていた。ダイラムは小首を傾げ、部下が口を開くのを待った。
「あの人は……ずっと以前から優れた術者で、完璧な人でした。私が知っているのは、それだけです」
「そうか、分かった」
 ダイラムはまたペンを取り、器用に手のなかで回転させる。
「下がっていいよ。今日はもうお前も部屋に戻っておやすみ」
 感情の欠落したような顔のまま戸口で一礼をして、踵を返した青年を見送り、ダイラムはまた椅子にのけぞった。椅子は、職人の手作業による細かい細工がほどこされた見事なものだった。
「クラメステル・アナリ、ガイゼスの第二王子……」
 持っていた筆の柄でこん、と大理石の卓を一つ叩く。
「さて、どうしたものか」


 はっきりとした強い清潔感ある匂いのなかに、どこか優しさをも秘めた独特の香りが部屋を満たしていた。
 ハルは寝台に横になったまま、この香りにいつの間にか安堵を覚えるようになった自分に気がついた。リドルフが使うこの薬草の匂いは、彼の体にも染み付いている。
 薬を入れた乳鉢を手にした優しい目をした青年が視界に現れた。
 いつものように穏やかな声音で失礼、と断ってから、そっと首筋を覆っていた布をはがす。丹念に傷口をあらためると安堵したように小さく息を吐いた。
「出血量のわりには傷は浅くすんでいます。不幸中の幸いでした」
 ハルの細い首に斜めに走った傷口は、見事に首の太い血管を横断していたのだ。あともうほんのわずかでも深く刃が食い込めば、大惨事は免れなかった。
「薬を塗ります。少ししみますよ」
 構えてはいたものの、練薬をつけたリドルフの指先が傷に触れると、ハルはわずかに眉をしかめた。
「すぐに済みますから、もう少しだけご辛抱を」
 青色の瞳がやさしく微笑む。穏やかなテノールの声音は心地よく響き、落ち着かない心をなだめていく。ガイゼス人であるハルには神というものの観念が薄いが、もしも存在するとしたらこういうものだろうと、屈託なくそう思えてしまう。
 リドルフは南東の高台からずっとハルを背負い、そしてセティの手を引いてきた。
 解放された直後は気分が高揚していたせいか、不思議と首も腹も痛みは感じなかったが、体に力が入らず、思ったように動かなかった。首からの出血が続いていた。昔から侍医に血が人より少ないから気をつけるようにと言われていたのを思い出した。
 拠点にしている借家に着くと、いつの間にかリドルフが手回しをしたらしく、メイラが待機していた。
 メイラはハルの首筋にとめられた血の滲む布と、紫色に変わった手首を見て顔色を失った。そして、リドルフに手を引かれ、木偶のように歩くセティの姿に眉を顰めた。
 いつも使っている寝室の寝台にハルを下ろして寝かせると、リドルフはセティを彼が使っている寝室に連れていった。気が強く、快活なはずの青年はされるがままだった。
 一度にいろいろなことが起こりすぎて、なにがなんだか分からない。
 しかし、閉じた目蓋の裏に一番に浮かんでくるのは、セティの歪んだ笑いだ。あれは、一体なんだったのだろうか───。
「ハル様?」
 気がつくと、いつのまにかリドルフが遠慮がちに顔を覗いていた。ハルがはっとして視線を合わせると、よく澄んだ青い瞳がまるで心を見透かしたようにまた穏やかに微笑む。
「何から伺えばよいのか、頭のなかをうまく整理できないのです」
 寝台のうえに体を起こそうとするハルを、リドルフは止めなかった。それどころか逆に薬の入った器を置き、背と寝台の前板のあいだにケットをまるめたものを差し込み、体を起こしやすいように気遣ってくれる。
「何からお話するべきなのか、私も迷っています」
 その瞬間、ハルは大きな安堵のようなものに包まれたような気がした。聞いても良いのだろう。
「セティがああいう顔をすることを、私は知りませんでした」
 心によどんでいたものをハルが吐露すると、リドルフは面食らったような顔をした。しかし、それは一瞬のことで、すぐにいつものように穏やかな表情を浮かべた。
「がっかりしましたか?」
 ハルが慌てて首を振る。
「そんなことは─── ただ、悲しくなりました。私はセティの友人だと思っていました。それなのに、彼のことは何も知らないのだと、あらためて痛感して」
 長い睫を伏せる。
「独りよがりで自己満足的な感情かもしれません。でも、私はいつも私を支えてくれる大事な友人のことをもっと知りたいし、そうすることによって、与えてもらうばかりではなくて、逆に何かを提供したいと、そう思うのです」
「それは、独善でもなんでもありませんよ。とても、自然で健全な感情です」
 ハルの視界の隅でリドルフがこのうえなく優しく微笑し、それから少しいずまいを正した。
「人には誰にでも陽の部分と陰の部分があります」
「はい」
「陽は光。光が強ければ強いほど、陰もまた、深くなるのが条理というものです。そして、セティはとても強い陽の部分を持っています」
 ハルは師傅の教えを聞くように素直に頷いた。
「セティは周囲に陽の部分だけを強く求められすぎてきたのです。そして、その期待にも十分応えてきました。ただ、あの子は陽の部分だけを求められるあまりに、陰の部分は己でも認識できないくらいに深くなってしまいました」
「陰の部分……」
「そして、今やそれは時にセティ自身を飲み込もうとすることさえあります」
 リドルフは今度は哀しげに笑った。
「セティの陰はすべてを拒絶します」
「リドルフ殿も?」
 静かに頷くリドルフが、ハルには信じられなかった。傍目に見てもリドルフはセティをひどく大事にしているし、セティもまた彼をよく信頼しているように思える。それなのにそのリドルフですら、陰の部分というものには手をつけられないというのだろうか。
「けれどハル様は、セティのそこの部分に触れられるかもしれません」
 思いもよらぬ言葉がリドルフの口から飛びだしてきて、ハルは驚愕をこえて狼狽した。
「私にそのような大それたことは──」
「あのとき、ハル様がセティを呼んでくれなければ、あの子は間違いなくそのまま飛び降りていたでしょう」
「あの場には、リドルフ殿がいらしたではないですか」
「いいえ」
 リドルフはまた哀しげに、というよりは苦しげに首を振った。
「あれは私では駄目なのです。ああいうときのセティに私の声は届きません。誰の声も響かない。けれど、ハル様の声は確かにセティを打ちました」
 無我夢中でただその名を呼んでいた。驚くほど大きな声が、腹の底から沸いてきて、思い返せばどうしてそんなことができたのか、自分でも分からなかった。
「でも── 今、その理由が分かったような気がします」
「理由……ですか?」
「セティがどういう人間でどうして命を狙われたのか、ハル様は当然それを第一に気にされているだろうと、私は思っていました」
 ハルは口を片手で覆い、赤面してうつむいた。今更ながら自分の着眼点がひどく的外れだったように思われて気恥ずかしかった。そうだった。確認しなければいけないことは他にも多々あった。それなのに口を開いてみれば、真っ先に飛び出したものはそれだった。
「けれど、ハル様が一番に目を向けてくださっていたのは、セティの本質的な部分でした」
 リドルフの笑みはいつものものとは種類が少し違っていて、ハルはリドルフのこういう顔もはじめて見た気がした。
「セティが国でどういう立場で、何故命を狙われたのかは私の口からはお話しいたしません。それをすれば、友人に勝手なことをするなと、きっとセティに叱られるでしょう」
 リドルフの目が真っ直ぐにハルを見つめた。
「ハル様」
「はい」
「これからもどうかセティの友人でいてやって下さい。ハル様のような友人ができて、セティは本当に幸せなのです」


 黒。真っ暗な世界。
 自分の両の手のひらさえも確認できぬ、不確かで得体のしれない世界。
 どこに向いているのかも分からない。それどころか、天と地の境すらもおぼろげな空間をあてもなくさまよう。
 どのくらい時間が経ったのだろうか。どのくらい進んだのだろうか。
 いつまで経っても、どれだけ歩いてもなにも変わらない。なにも見えない。
 早歩きになり、小走りになり、そして全力で駆ける。
 息が切れ、汗が流れ、足がもつれてきてもなにも世界に少しの変化もない。けれど、駆けることもやめられない。諦めてしまえば楽になれるのに、それもできない。
 前触れもなく鋭い痛みが胸をつらぬく
 つんのめり、そして─── 倒れた。
 腹から、腿から、頬から伝わる、ぞっとするほどに冷たい感触。からだのなかから、なにか大事なものが抜けていく。
 このままではいけない。このままでは終われない。立ち上がらなければいけない。
 しかし、起きあがろうとしても、足にも腕にも力が入らない。そのうちに意識が曖昧になってきて、目蓋が重くなってくる……。

 セティは飛び起きた。
 右手で胸を掻きむしる。全身が汗にまみれていた。
 肩を上下させて呼吸をしていると、衣擦れのかすかな音とともに人の気配を感じた。
「目が覚めたか」
「……婆さん」
 メイラは汲んできたばかりらしい清水を杯にそそぎ、セティに差し向けた。セティはそれを受けとると一息に飲み干した。その動作を二度ほどつづけ、無造作に手の甲で口元を拭い、眼前の老婆を見つめた。
「そこに着替えがある。ひどく汗をかいていたから、着替えたほうがいい。腹は、空いているか?」
 矢継ぎ早に尋ねられ、気圧されたセティが曖昧に頷くと、メイラがいつもどおりの厳しい顔で言った。
「何かもってこよう」
 寝台のわきに水差しと杯をおき、メイラが立ちあがった。出ていこうとしたその小さな背中をセティが呼びとめる。
「どうして、婆さんが」
「殿下はリドルフ殿に任せたほうがいい。(わっぱ)を見ているぐらいなら私でもできるだろ」
 メイラがセティの顔を見て、そっけなく付け加えた。
「殿下は軽傷だ」
 階段を降りていく律動的な足音を聞きながら、セティは大きく息を吐き出した。
 吐き出された息にはかすかに酒の臭いが残っていた。
 嫌な夢を見ていた。三、四年前から毎晩のように見るようになったあの夢を、故郷から出て見たことはあまりない。
 家に着くなり、珍しくリドルフのほうから酒を勧められた。言われるがまま、葡萄酒(シャルル)をあおり、寝台に横になった。飲み慣れた葡萄酒(シャルル)の香りのなかに、いつもと違う匂いが混ざっていた。なにが入れられているのかは、すぐに気がついた。その心遣いが癪にさわるようで、でも、ありがたいような気もした。どちらにしても不満も謝辞も口に出す気力すらなくて、誘われるままに眠りに落ちた。
 ハルを助けにいったはずだった。
 馬鹿に丁寧な応対の昨日の男と、後ろ手に縛り上げられた格好で両脇を固められたハルの姿を見た瞬間、体中の血が沸騰するような感覚に陥った。
 しかし、途中から記憶が曖昧ではっきりしない。潮のにおいのする強い風、うねりを上げる海。背の低い白皙の男。そして、自分の名を呼ぶ声──。自分は一体どうしたのだったか。気づいたときには、リドルフが物凄く怒った顔をして、頬を殴られていた。
 セティは肺腑を空にするほど大きく息を吐き、一つ頭を振ると勢いよく反動をつけて立ち上がった。汗で背に張り付いた衣が気持ち悪かった。
 きちんと畳まれた着替えの脇には、体を拭くために濡らして固く絞られた布もあった。上衣を脱ぎ捨てて体を拭き、着替えた。洗濯したてらしいそれは陰気のかけらもない太陽の匂いがして、セティはなんだかいたたまれない気がした。今更ながら、リドルフに叩かれた頬がじんじんと痛んでいるような気がした。
「ちゃんと着替えたな」
 戻ってきたメイラは手に盆を持ち、そのうえに置かれた器からは湯気が立っていた。なんともいえぬ食欲をそそる匂いが部屋に広がる。
「好き嫌いなどないだろう。大食らいのくせにどうした」
 いつまでも手をつけようとせず、腿のうえに手を揃えてうつむいたままのセティの顔をメイラが覗き込む。
「リドルフ殿は、口の中は切れていないと言っていたが、どこか他に痛むのか?」
「婆さん」
 ぎゅっとセティは拳を握った。
「私のせいでハルを危険な目に遭わせて、しかも、怪我までさせた」
「ああ─── 大体の話はリドルフ殿から聞いた」
 メイラはセティの斜め横に腰掛けた。
「けれど、どうしてそれが小童のせいということになるんだ?」
 セティが弾かれたように顔を上げる。
「だって、ハルは、私と取引するために人質として攫われたんだ。私のせいじゃないか」
「では、殿下をお守りするためにアイデンの町の側で多くの部下が死んだのは、殿下のせいか? カイが瀕死の重傷を負ったのも殿下のせいか?」
「それとこれとは違う」
「なにも違わない。それと同じことだ」
 メイラはふっと顔をゆるめた。
「だいたいにして、小僧が責任などということを考えること自体が小賢しい。そういうことは大人が考えるものだ」
「婆さん……」
「分かったらさっさと飯を食い、その似合わない鬱陶しい顔をなんとかしろ」
 ぶっきらぼうに言い捨てて、いつもようにふいと横を向くメイラにセティは少しだけ救われた気がした。それは詭弁に違いなかった。それでも、セティはメイラがそう言ってくれたことが嬉しかった。目が覚めて、側にいてくれたのがリドルフではなくメイラで、よかったと思った。リドルフだったなら、いつものように甘えて心にもない言葉を浴びせてしまいそうだった。
 器に入っていたのは米を色とりどりの野菜と何かのスープで一緒に炊いた料理だった。匙さじをとり、口に入れると優しい味が口中に広がる。
「うまいな」
「そうだろう。それは、私の得意料理だ」
「ふうん」
「剣の試合に負けた夜、息子によく食べさせた」
 息子がいたのか──。そう言おうと思った。しかし、メイラの目が見たことがないくらいに穏やかで、優しくて、遠くを見ているような気がしてその言葉を飲み込んだ。
 ガイゼスで食べたどの料理よりも、故国で食べたどの料理よりも、メイラの手料理は体にしみわたるようで、ひどく美味かった。
「婆さんの息子はきっと幸せだな」


 いくらか熱の和らいだ橙色の光が差し込みはじめていた。
 賑やかだった港には人影がまばらになり、かわりに灯りの点りはじめた繁華街が賑やかになりはじめる。湿気を含んだ生ぬるい海風を浴びながら飲む、冷えた麦酒(ファーガ)が仕事を終えた体に染みる時間だ。
 居住区の一角にあるこの小さな借家でも、いつもなら一同が会して夕食を取りはじめる時間である。しかし、今、食卓についているのは剃髪した頭に切れ長の空色の瞳をした青年と、美しいブロンドの髪を自然に流したままの稀代の美青年の二人だけであり、彼らの前にも夕食はなく、あるのはすでに中身が温くなった杯だけだった。
「婆さん、遅いな」
 ふう、とため息をつくその何気ない仕草さえも悩ましげに見せてしまうのは、彼の美貌が成せる技にちがいない。しかし、傍らのリドルフはそんな様子を見遣って、慈母のような表情を浮かべるだけであった。
 メイラは先ほど、街の様子を確認しに出て行った。
 彼女の心のこもった料理をたいらげたセティは、人心地つくと同時に、ハルを追う間に覆面に襲われて四人を切ったことを思い出した。
 トゥルファは多くの人種が滞在する一大貿易都市である。当然、それに見合うように治安機構は整備され、正確に機能している。路地で人が死んでいれば、騒ぎになっていないはずがなかった。
 騒ぎになっているようならば、役人の手が伸びる前にトゥルファの都督であり、ハルの実の叔父にあたるロガン公のもとに駆け込んだうえで、事情を説明するのが得策であると思われた。拘留されてから、彼らの身元を明かせば事態は余計に混迷するに違いない。しかし、逆に騒ぎになっていなければ、それはそれで憂慮すべき事態でもある。一味を差し向けたのが、トゥルファの保安機構をも操作できる権力のある人物である、ということを証明するようなことであるからだ。
 今から二刻程前に階下に降りてきたセティは、いつも皆で食事をする広間にリドルフの姿しかないことを認めるとばつが悪そうに頭をかき、それでも無言で卓をかこむ椅子に腰をかけた。リドルフも何も言わずに二つの杯を取り出し、一つをセティの前に、もう一つをその隣の空の椅子の前に置いてそこに自分も座った。
「心配かけて、悪かったな」
 薔薇水を半分ほど減らしてから、セティが呟くように言った。
 リドルフはおもむろに手をのばすとセティの顎に手をかけ、親指で唇のはしを軽く押す。
「やはり、切れていないですね」
 セティが彼の突発的な行動の意味を理解したのは、そう言ってリドルフがいつものように穏やかに微笑んでからだった。先制攻撃を受けて内心動揺したセティは、手を振り払い、腕組みをして横を向く。
「リドの生易しい張り手で切るほど、やわじゃない」
 すべてを見透かしたように空色の瞳を細めてリドルフはそうですか、と応えた。
「ハルの様子は……どうだ?」
「怪我自体は重傷のものはありません。ただ、熱が出てきたので、薬を飲ませました。今は眠っています」
「そうか」
 うつむいてそれっきりセティは何も言わなくなった。リドルフもまた何も言わなかった。
 メイラが戻ってきたのは、街が宵闇に包まれはじめたころだった。
 セティが四人を斬ったはずの路地に遺体はなかった。それどころか、血に汚れたはずの地面や壁まできれいに洗い流されて乾いており、周囲の住民に尋ねても役人がきた形跡は全くないという。まるで、そこで騒ぎがあったことなど夢か幻のようだというのだ。
 一応メイラはセティにその場所を再度確認した。しかし、それは彼の言うことを疑ってのことではない。彼女はセティのことを小童扱いしてはいるが、実のところ彼女のなかで青年の評価は決して低くない。彼が場所を勘違いした可能性など、ほとんど考えていないのだ。
「ということは、全ては迅速に処理されたということでしょうか」
「黒幕が本当に王太子殿下なら、そのぐらい造作もないだろうな。さて―――」
 メイラはいったん言葉を切って、それからリドルフとセティの真正面に座り、続けた。
「早急に動く必要はなくなったところで、詳しい話を聞かせてもらおうか」
 息を詰めてセティがリドルフを見る。リドルフは金色の頭をひとつ優しく叩き、それからメイラに向き直った。
「私は今日、郷里の人間と会って話をしてきました」
 リドルフの声音は、平生と何ひとつ変わらない。
「そこで、セティの命を狙うものがいることを知りました」
「小童の命……」
「あまり詳しくお話しないほうが、メイラ様とハル様のためにもよろしいとは思うのですが、これだけはお伝えします」
 リドルフは息を吸い、はっきりと言った。
「セティはナディールで非常に大きな影響力を持つ立場の人間です」
 メイラが目を見開き、セティの端麗な面を注視する。セティは視線を落とし、卓の一点を見つめていた。
「セティは二年ほど前に、国を出奔しました。むろん、その時から命を狙われていたわけではありません。彼は本来、崇敬されるべき対象であり、決して忌まれる対象ではありません。しかし、王都を離れているあいだに情勢が変わり、セティを疎んじる勢力が現れたようです」
 セティもはじめて知る内容である。今日、リドルフは大地の神(アナリ)の神官に会い、それを確認してきたのだろう、と思った。
「道中での法術を使った襲撃は、いずれもハル様ではなくセティを狙ったものでした。そして、今日の一件も、セティを亡きものにするためにハル様を巻き込むような形でした」
 リドルフが立ち上がり、深々と頭を下げる。
「これはすべて、彼の守護として、従者として同行している私の浅慮と力不足によるものです。殿下を巻き込み、危険な目に遭わせたことを心よりお詫び申し上げる所存です」
「リド!」
 セティが椅子を揺らして立ち上がる。
「どうしてリドがそんなことを言うんだ。悪いのは私で──」
「セティ」
 リドルフが穏やかな瞳で見つめた。
「部屋に戻っていなさい。私は、メイラ様とこれからのことを相談しなければなりません」
「これからの、こと?」
「ガイゼス王国の王子殿下を、ナディールの人間が危険な目に遭わせたのです。簡単にすまされることではありません。これは、外交問題に発展してもおかしくないことなのですよ」
 言葉なくうつむいたセティに、メイラが続けた。
「大人同士の話だ。小僧は引っ込んでいろ」
 セティは言いかけた言葉を飲み込み、しばし目を瞑り、そして手のひらを固く握って踵を返した。勢いよく階段を駆け上がる音がリドルフとメイラの二人きりになった空間に響く。その音を止むのを待って、メイラが苦笑した。
「厳しいことをいう」
「甘やかすばかりではいけませんので」
 目尻の皺をさらに深く刻んだメイラに、リドルフは改めて向き直った。
「此度のことは、なんとお詫び申し上げてよいのか─── いえ、お詫びなどで済まないことは重々承知しております。しかし、どうしてもお伝えしたいのは、セティにやましいものは少しもないということです」
 空色の澄んだ瞳が真っ直ぐにメイラに向いていた。
「何もかもを捨てて国を出たというのは、真実です。彼に政治的な意図などは全くありません。下心があって王子殿下に近づいたのではなく、ただ、純粋にハル様のお人柄に惹かれてのことです」
「そんなことは、とうに分かっている」
 メイラは手振りでリドルフに座るように言う。
「そうでなければ、殿下がああいう表情をお見せになるはずもない。おいたわしいほどに、神経の細やかなお方なのだ」
 リドルフは頷いた。ハルの人柄は、ここしばらくのあいだ寝食をともにしてきたリドルフにも分かってきている。
「それに、セティ殿に嫌な気がないのは、剣を交えた私にもよく分かる」
 メイラが顔をゆるめる。
「巻き込んだのは、お互いさまだ。ハル様は王太子殿下にお命を狙われているかもしれぬ。我国のお家騒動にナディールで政治的に影響力のある御仁が関わっているとなれば、貴国の重臣たちも心穏やかではいられぬでしょう。余計な猜疑をかけられるやもしれぬ」
 リドルフは肯定も否定もしなかった。それこそが、なるべく他人との接触を、特に身分や社会的地位の高そうな人間と極力関わらないようにしてきた理由であった。すべてはあらぬ疑いや不埒な思惑からセティを守るためにしてきたことだ。
「アイデンでお二人に会わなければ、殿下はそこで終わりだったいう気もする」
 セティの剣技とリドルフの法術がなければ、現実にラガシュまで到達することは難しかった。しかし、それ以上に彼の存在がなくては、ラガシュでシノレから話を聞いたハルが、剣を持ち、立ち上がることもきっとできなかった。それは、この七年間ずっと側に仕えているメイラが一番よく分かっていた。
「リドルフ殿、これは難しい申し出だと私もよく承知している。それでも、聞いていただきたい」
「なんでしょうか」
「セティ殿に当面、国にお戻りになる予定がないのなら、もう少しだけ殿下の道行きにお付き合いいただけないだろうか。そのためならば、私はセティ殿と殿下の身の安全のために、卑小の身ながら尽力したいと思っているのです」
 卓のうえに組んだメイラの皺だらけの手が、震えた。
「今の殿下には、どうしてもセティ殿が必要なのです。そうでなければ、殿下のお心はしおれてしまう」
 リドルフはアイデンの町での、あの夜のことを思い出していた。
 一見して身分の高い人間だと分かる、小柄な少年の頼みをセティは容易く受け容れた。自分が置かれている状況も、リドルフが危惧していることも全てを承知の上で。あのときから、ダイスは投げられたのだ。転がり続けるダイスを止めることは不自然だ。
「私も同じことを申し上げようと思っておりました」
「同じこと?」
「今のセティにはハル様が絶対的に必要です。今日、私はそれを確信しました」
「では」
「私も力を尽くします。だから、もう少しだけ、セティをハル様のお側にいさせて欲しいのです」

 セティは階段を駆け上がったそのままの勢いで部屋に入り、寝台に力なく倒れこんだ。
 決して上等ではないが小まめに洗濯された、清潔な寝具の上に絹糸のような髪が扇状に広がる。
 ──── これは、外交問題に発展してもおかしくないことなのですよ。
 頭の中でリドルフの言葉がぐるぐると回っている。
 少し考えれば思い行き着きそうなものなのに、どうして今まで思い当たらなかったのだろうか。一瞬、らしくないとも思ったが、すぐに自分はこの程度なのだと思い直した。
 リドルフが大人だと感じるのはこういうときだ。
 悠然というよりは超然としていて、うろたえたり、動揺するところなど見たこともない。
 いつでも物事を客観的に捉え、冷静に対処していく。今の自分の年齢のころも知っているが、それでも今の自分とは全く違ったような気がする。
 ああ、でも、そのリドルフに殴られたのだ。
 しかも、よく考えてみれば、誰かに殴られたこと自体はじめてだった。
 不意に笑いがこみ上げてきてセティは声を押し殺して、一人、笑ってみた。殴られた理由はいまいち理解できていないが、リドルフに殴られたのだと思ったらなんだか不思議と悪くない気分だった。
 ひとしきり笑ってから、寝台のうえを転がって脚を床に落としたまま斜めに大の字になる。
 今夜は新月のようで部屋に差し込む明かりは弱い。
 いつもは不快に思えた生ぬるい潮風が肌をなでても、今はそれがいとおしく感じる。
 薄暗い部屋で黄土色の天井を見ながら、脈絡なく浮かんでは消える雑多な思考にしばしのあいだ身を任せた。そうやって逃避をしてみても、やはり目を逸らすことが出来ない問題が頭をもたげてきて、セティは否が応にもそれと正対しなければいけなくなる。
 これから、どうなるのだろうか。
 リドルフはメイラとこれからのことを話し合うと言った。国の人間から、自分の命を狙っているものがいることを聞いたとも言った。メイラは難しい顔をして腕組みしていた。リドルフはメイラに何と言うのだろうか。メイラは何と答えるのだろうか。
 やはり、国に戻らなければいけなくなるのだろうか。都に戻るということはハルとは別れなければいけないということか。
 ハルと別れる───。考えがそこに到達した瞬間、セティは固まった。
 心のなかを突如、まるで郷里の冬の夜のような寒々しい風が吹き抜けて行く。目の前の情景がたちまち色あせていく。驚くほど衝撃を受けている自分が意外すぎて、またそれに戸惑う。一体どうしてしまったというのか。
「セティ」
 自分の中に没入していたセティは、遠慮がちに自分の名を呼ぶ少し高い声に、大いに驚いて跳ね起きた。
「ハル」
 戸口に立つ寝巻き姿の黒髪の少年が、はにかむように笑った。
「下に降りようと思ったら、姿が見えたので」
「ふらふら歩いたりして大丈夫なのか? 怪我は、痛まないのか?」
 大股に、ハルに近づいた。
「熱は?」
 セティはやおら屈みこむと、自然な動作で自分の額をハルの額につける。万人を恍惚とさせ、歎息させる類稀な美貌を至近距離で見せつけられたハルは慌てて顎をひいた。
「もう下がりました!」
 うつむいたハルに今度は手を伸ばして、セティは額に触れた。
「まだ熱い。まだ、下がってないな」
 セティはハルの腕を引くと、いや、とかあの、とか何度も言いかけたハルをものともせず、自分が寝転がっていた寝台に寝かせた。ていねいに肩が隠れるようにケットをかけて、優しく見つめる。
「セティ」
 寝台の縁に腰掛けたまま、ぽんぽんと律動的にケットの上を叩いていると、ハルが意を決したように名を呼んだ。
「なんだ」
「助けにきてくれて、ありがとう」
 淡い月明かりに照らされながら、セティは力なく笑った。
「あれは私のせいだったんだ。それに、私は─── きちんと助けられなかった」
「いいえ。私は、セティの姿を見たとき、涙が出るほどほっとしたのです」
 情けない話ですが、とハルが苦笑する。
「来てくれて、本当に嬉しかった」
 屈託のない瞳がセティにはひどく眩しかった。薄闇のなかで漆黒に見える、真っ直ぐに向けられたこの瞳から目を逸らしてはいけない、そう思った。
「ハル」
 無垢な瞳が不思議そうに見つめていた。
「私は……私は、ナディールで────」
 意を決して紡ぎはじめた言葉はそこで呆気なく止められた。口を、柔らかい、小さな手のひらに覆われたのだ。
「言わなくていいのです」
 体を起こしたハルがセティの口を手で覆ったまま言う。
「あなたは私の失いがたい大事な友人です。それだけが、私にとって唯一で、絶対の事実です」
 澄んだ瞳が視界のなかで笑った。
 それを認めた瞬間、セティは心に広がっていた暗雲が音をたてて引いていくのを感じた。それどころか、なにか優しい光のようなものに心が満たされていく。未だかつてこのような感情を覚えたことがあっただろうか。誰かの言葉に、これほどまでに心が震わされるようなことがあっただろうか。
 メイラとリドルフが何を話しているかなど、もうどうでもよかった。二人の下した決断が何であろうと、明日の朝一番にすることはもう決めた。そうだ、自分はセティス・クラヴァン・オリスではなく、セティ・コヴェだった!
 セティはハルの細い、紫色に変色した手首をやんわりと取った。
「どこかで聞いた科白(せりふ)だな」
 あ、とハルが口を覆って赤面する。
「でも、もっと、ずっと上出来だ」
 セティは顔をくしゃりと歪ませて、弾けるように笑った。

   ⅵ

 スカーレットにカーマイン、ローズピンク、ジョンブリアン……。
 南国に相応しい極彩色の花々にいろどられた広大な庭の中央には、正方形に切られた白亜の石版が三枚分ほどの幅をとって、ゆうゆうとゆるやかな曲線を描いている。
 隙間なく埋められた石版で形作られる通路のさきに見えるのは、同じく白亜の亭ちんである。作りこそこぢんまりとしているが、それがただの(ちん)でないことは遠目にも明らかだ。
 寄棟作りの建物は四方が吹きさらしにされておらず、透明で流動的な壁のようなものに覆われている。その正体は、屋根から流れ落ちつづける水である。四方を水の壁に覆われた亭(ちん)のなかの空気は澄み、たいそう爽快らしい。
 今、トゥルファではガイゼスの技術力の集大成とも言えるこのあずまやが、貴人や有力者お金持ちのあいだでは流行りらしい。
 ガイゼスの最重要商業都市トゥルファは、国境の狭間の港町アイデンよりもずっと南、ラガシュよりもまだ南東に位置し、空気は湿り気を帯びて気温もかなり上がる。高温多湿のこの大都市では商談や会談のときにいかに快適な環境を作りだせるか、というのがその人物の力量を示す一つの目安でもあるらしいのだ。
「陽にあたりすぎてはいけませんよ。あなたの肌に南の日差しはきつすぎるのですから」
 白皙の美青年はずいぶん前から窓辺に張りついたままだった。風通りのよいように大きく取られた窓には色彩の美しい、上品な紗がかけられているが、青年はその紗を押し上げてじっと外を見ていた。
「分かっているよ」
 保護者役のこの男のお小言を聞くのにはもう慣れていた。それでも、セティは日よけの紗をおろし、窓辺から離れた。ちょうど外を見るのにも飽いていたところだったのだ。
 ハル王子ら一行は、この街で最大の権力と富を有しているはずの人物であり、彼の叔父でもあるトゥルファ都督ロガン・タナトの屋敷の一室にいた。
 昨夜遅くまで今後の行動と対策について、具体的に煮詰めていたメイラとリドルフの二人は、話がおおよそまとまったところで区切りを付けて、寝室にいるはずの二人の様子を見るために階段を上がった。
 どちらの部屋にも灯りはなく、弱い月明かりが差し込んでいるだけだ。
 まずメイラが王子が眠っているはずの部屋を覗くと、寝台のうえに人影がなく、驚いた。そのまま慌ててリドルフが様子を見に行ったもう一つの寝室に行くと、リドルフは薄闇で微笑んで唇の前で人差し指を立て、寝台を示した。
 二人の目の前で、一つの寝台をハルとセティが仲良く分け合って眠っていた。
 向かいあい、額をつけるような格好で眠る二人は、眉毛が下がり安穏とした表情をしていた。それは、まるで幼児の昼寝のように和やかな光景であった。
「朝までこのままにしておきましょう。二人とも、せっかく気持ち良さそうに眠っていますから」
 リドルフは二人の肩まで隠れるようにケットをかけ直してやり、それから複雑な表情を浮かべるメイラに向き直った。
「大丈夫です。セティは何も気づいておりませんので」
 いつもと変わらぬ穏やかな口調に、メイラはあやうくその言葉を聞き逃すところだった。戸口に向かって歩きだしたリドルフを慌てて追うと、空色の瞳が微笑んでいた。
 不意に、メイラはラガシュの城でハルを横抱きにしたリドルフが言った言葉を思い出した。
 そうして結局、小さくため息をつき、肩をすくめてみせてメイラはリドルフと一緒に部屋を出たのであった。
 寝乱れた姿のままのセティが血相変えて階段を下りてきたのは、夜も完全に明けきってすでに街が活発に動いている時間である。
 食堂にいたのは、昨日と同じくリドルフ一人であった。実は、このときメイラはこの借家を引き払うべく外出していたのだが、セティがそれを知るよしもない。
「よく眠れましたか?」
 またしても温和な微笑という先制攻撃を受けたセティは、不本意ながら出鼻を挫かれたような格好となった。
「ハル様は?」
「あ、いや──。まだ寝ていた」
 何ごともなかったかのようにおっとりと質問され、セティは糸口をつかめずリドルフのペースに引き込まれてしまう。
「それは珍しい。よほどセティの横が心地良かったのですね」
 ばつが悪そうに、セティは乱暴に自分の頭をかいた。介抱するつもりが、いつのまにかハルの横で眠っていたらしい。
「でも、そろそろ起こして差し上げてください。朝食を終えたらすぐに出かけなければなりませんから」
「リド! 私は──」
「トゥルファの都督殿の邸宅へ」
 セティとリドルフの言葉は全く同時であった。よく聞き取れなかったセティが思わず固まる。
「今、なんて?」
 二つの杯にオレンジを絞った汁を入れながら言った、リドルフの声音はいつもと少しも変わらない。
「セティも身支度を整えていらっしゃい。王子殿下に同行するのですから、そんな身なりではいけませんよ」
 このとき、昨晩固めた決心は全く不必要なものであったことをセティはようやく確信した。リドルフとメイラがその結論に達した過程に全く興味がなかったといえば、嘘になる。しかし、それ以上にせっかくうまくいっていることに水を差したくないという思いの方がセティの中で先立った。
「ハルを起こしてくる!」
 今降りてきたばかりの階段を騒々しく上がっていく青年の足音を背景音に聞きながら、作業を続けるリドルフは口元をほころばせたのであった。
 これが今日の朝のことで、結局屋敷についたのはちょうど昼ごろであった。そして、今は西日が差し込みはじめる時刻である。
「一体いつまで待たされるんだ」
 窓辺から離れたセティは硝子製の杯を持ち上げて、すでに何杯目かのオレンジ水を飲んだ。
「来客中とのことでしたから、ハル様との面談もまだかもしれませんね」
 書物に目を落としたままのリドルフをちらりと見遣り、セティは大きく伸びて、やたらとすわり心地のよい長いすに行儀悪くのけぞった。
 邸宅に着くなり、家令にハルが訪問とその意図を告げると一行はすぐさま客間に案内された。ただし、ラガシュを訪れたときとは違い、王子とその従者とナディール人の二人は別室に通された。
 彼らが案内された客間からは、よく手入れされた先の美しい庭と紺青の海が望め、さぞ高名な名工がてがけたであろう上品な調度品と、大陸中の珍しい工芸品の数々とがうまく調和した洗練された一室であった。さらには、よく冷やされた無花果(いちじく)や石榴(ざくろ)、オレンジなどといった果物や、ナツメヤシのあんが入った焼き菓子などが供され、飲みものはぬるくなるころには新しいものが運ばれてくる。
 ナディール人の二人への応対は行き届いており、決してないがしろにされたようなものではなかった。しかし、それでもセティがハルとメイラと別室に通されたことが面白くないと思うのは当然で、待機時間が長くなるにつれて、じっとしていられない性分の彼がじりじりするのは仕方のないことであった。
「大丈夫かな、ハル」
 思わず漏れたような呟きに、リドルフは書から顔を上げた。
「お心を強く乱されるようなことが、知らされなければよいのですが」
 唇をへの字に歪めて、セティが息を吐く。
「こればかりは私たちはもちろん、メイラ様でさえもお供できませんからね」


 セティがくすぶっていた同時刻、別室でハル・アレン王子は同じような景色を眺めながら頬杖をつき、ひとりため息を漏らしていた。
 彼のため息の理由は、彼の二人の友人が懸念していることとおおよそ一致している。しかし、それとは別に余人には決して言えぬ理由もあった。
 ハルはロガン・タナトという人が苦手だった。
 青い英雄王と謳われた前王イミシュと、微笑みの賢王と称される現王アンキウスの二人の兄を持つ、歳の離れた末弟ロガンが、トゥルファの都督という地位を手にしたのは決して兄達の威光をかさにきてのことではない。
 十八年前のヤルカドの会戦当時、青年であったロガンも二人の兄とともに兵を率いて戦場を駆け回ったが、名だたる戦果の大半は二人の兄と他の勇将のもので、それよりも、彼は終戦後の国の建て直しと繁栄優れた手腕を発揮し、一躍その名を有名にしたのだ。
 ガイゼスの国民は、それぞれに母の違う優越した三兄弟を、勇将イミシュ、賢将アンキウス、知将ロガン、と敬愛と親愛を込めて呼ぶことがある。彼ら三人がいたから今日のガイゼスがあると言っても過言ではないのだ。
 そんな名実ともにガイゼスを代表するような人物である叔父、ロガン・タナトに対してハルが好意的ではない感情、というべきか一抹の違和感のようなものを覚えることに気がついたのはもう随分前のことになる。
 具体的になにが、と言われれば言葉にするのは難しい。それは、理由なくセティとリドルフを信頼できる感覚と近いものなのだ。
 それは、ちょっとした仕草や言葉、もう少し具体的に突き詰めれば、友人だと伝えたナディール人の二人とはこうやって別室に通されるようなことかもしれない。
 ナディール人に対する感情が、大戦前生まれの人間と、自分のような戦後生まれの人間が違うのは当然のことなのだと理解はしている。それでもなお失望にも似た感情を覚えるのだ。
 そもそもハル・アレンという少年が、誰かに対してこういう感情を覚えること自体が珍しいことであり、それについて、なによりも本人が一番驚き、戸惑っていた。この感情をどう処理していいのか、もう随分前から考えあぐねているのだから。
 物思いにふけっていたハルは、家令が遠慮がちにかける声にようやく気がついた。
 別の客人が辞し、ようやくロガンの手が空いたとのことである。
 部屋を出る際に、ハルはもう一度窓から外を見遣った。斜陽が目に眩しかった。
 案内されたのは広大な邸宅の離れにある一室である。そこは、主が私的な客人と会うときに使われる部屋であり、何度かハルも足を踏み入れたことがある。
 家令がハルの訪問を告げ、扉を開けた。部屋に入ると肘掛のついた椅子にゆったりと腰掛けた、この邸宅の主の姿があった。
「ご無沙汰しております。閣下」
 跪いて型通りの礼をほどこす。
「堅苦しい挨拶はいい。よく、来てくれた」
 公人としてはハルは巡検使であり、このガイゼス王国の第二王子である。しかし、この部屋に招かれた時点で、トゥルファの都督は巡検使に面会しようとして いるのではなく、私人として甥に会おうとしているのだとハルは察した。しかし、それをあえて巡検使として参上させたその感情を噛み砕くことは、今のハルには難しい。
 親しげに腕を取り、ハルを立ち上がらせると、ロガンは眉をひそめた。
「その傷は、いかがされたのだ?」
 訝しげな視線の終着地に気がついて、思わず右手で首筋を隠す。
「先日、襲撃を受けた際に浅手を負いました」
 それは真実に他ならない。ただし、襲撃者の狙いは自分ではなかったのだが。
 こういう事態を予期していたのか、リドルフは出かけに法術を施してくれた。そのおかげで首の傷も手首の痣も大分薄くなっていたが、完全に癒えるには至っていない。
「医者には診せたのか? 知人に良い腕の者がいる。すぐに呼ばせよう」
「私に同行してくれている一人が、人を診ることを生業としておりますので」
「ナディール人の僧、か」
 家令から彼の同行者については聞いているらしく、ロガンは複雑な感情を口元にひらめかせ、それきりその話題には触れなかった。
 飲みものだけを運ばせて人払いすると、前置きも省いてロガンはハルに話を促した。
 アイデンの町の近くで大規模な襲撃に遭い、部下のほとんどを失ったこと。ラガシュへの道中でまた襲撃を受けたこと。ラガシュの領内でセティとシノレが襲われたこと。そして、ラガシュでシノレから聞いた内容───。
 ハルはこれまでのことを順序だてて、主観を交えずに伝えた。ただし、法術による攻撃、そして先の誘拐事件はセティ絡みのものであることが明白になったのでそれは伏せて。
「実はこのトゥルファの街でも、私の友人が一人で街を散策しているときに、路地裏で襲われました」
「神官殿が?」
「いいえ、もう一人の友人です」
「ああ─── 稀代の美青年だという」
 主人にそれを伝えたのは女性の家令であった。つくりもののように美しい白皙の王子の友人の存在を、彼女が熱心に伝えたのは不謹慎ながらも仕方のないことであったかもしれない。
「幸い彼は剣の達人ですので大事には至らなかったのですが、度々仕掛けてくる輩と目的は同じと考えてよさそうなのです」
 ハルを救出しようとしていたセティが単独で何者かに襲われたという事実をハルが知ったのは、つい先頃のことである。
 この屋敷をおとなう前に四人で並んで軽い昼食を取っているときに、セティ本人の口からそれを聞いた。確たる証拠があるわけではないが、セティがガイゼス側の刺客であると推測したことも。メイラやリドルフがそうであるように、ハルもまたセティの感覚を信用していた。
「ロガン様」
 持ち上げた瑠璃色の杯を手にしたまま、ロガンがハルを見る。
「一体この国でなにが起こっているのでしょう。私ごときの命がなぜ欲されているのでしょうか。ロガン様がご存知のことを私にお教えいただけないでしょうか」
 不穏な沈黙。
 ロガンは持ち上げた杯を口につけずに卓に戻した。そして、それから静かに口を開いた。
「シノレは、王太子殿下がハル殿を害そうとしていると、私がそう言ったと言ったのだな」
「はい」
 ロガンは苦い笑いを口元に浮かべた。
「とんだ道化師だ」
 ハルは瞬間、我が耳を疑った。ゆっくりとひとつ息を吸ってから押し殺したような声で問う。
「どういう意味でございましょう?」
「シノレがハル殿に言った内容は全てが事実ではない。確かに、国王の病は篤い。しかし、王太子殿下が実の弟君であるハル殿のお命を狙っているなどと、そのような嘆かわしい話を私はしていない」
「それでは───」
 なんとか紡いだ言葉はひどく震え、以後の言葉をハルはつなげない。
「対立しているのは、シノレと、王太子殿下フェウス様だ」
 自分の顔から音をたてて血の気が引いていくのを感じた。固く目を瞑り、うな垂れる。
「国王の病は、公表されているよりもずっと篤い。近臣たちのなかでは当然、それどころか近頃は王都やこのトゥルファの民にすら、次の王という話が囁かれている」
 うな垂れたままのハルの言葉はほとんど呟きに近かった。
「……陛下は憂慮すべき事態に備え、王位継承順位を制定なされました。たとえ、万が一のことがあろうとも、私たちはそれに従うのが道理」
「道理がとおる世界ならば、この世に不幸は存在し得ないということになる」
 ロガンは平然と言い返して、今度こそ杯に口をつけて中身を飲む。うつむいていたハルは頭の片隅からある重大な事実を引っ張りだし、顔を上げた。
「シノレ・アンヴァーン公は自ら王位継承権第一位をご辞退された身のはずです」
 現在の王位継承権は、一位がアンキウスの長子であるフェウス・アレン、二位が先王の長子であるシノレ・アンヴァーン、三位が王弟ロガン・タナト、そして四位がアンキウスの末子で未だ幼いシェオン・アレンで、以下十二位まで定められている。
 当初、アンキウス王は先王の長子であり、文武ともに秀で人望も厚いシノレを第一位にするつもりであった。しかし、その旨をシノレに告げると彼は恬淡(てんたん)として「私は王の器にございません」と言ってのけ、太子の座を辞退したというのは国民なら誰でも知る有名な話だ。
「それが、国民の支持を得るための入念な演技だとすれば?」
 一般に、シノレが王太子の座を辞退した理由は、アンキウスの子らとその周囲の人間たちへの配慮だと言われている。
 有能で公正なアンキウスは、王位の無条件世襲を是としなかった。国を治めるのに相応しい器のものがそうすべきであると。そうして、近臣たちの意見も取り 入れ熟慮した結果が、前王の長子シノレ・アンヴァーンを王太子とするものであった。しかし、それに納得しないのがフェウスの母たる王妃や、その周囲の人間たちである。シノレは彼らの心情を配慮し、余計な混乱が起こるのを回避しようとしたためにこのような選択をしたというのが、今も人々の口に語られている真実である。
 もっとも、シノレ自身がそれを公言したことはなく、真偽のほどは彼の胸の内のみぞ知るところなのだが。
「しかし、シノレ・アンヴァーン公がそのような」
 ハルは声を大にして反論することができなかった。この一件を介し、シノレの清廉な人柄は国中に広がることとなり、彼の人気が今や不動のものになったのはまぎれようもない事実である。
「この国にいるほとんどの人間が、今、彼が虎視眈々と王位を狙っているのだと言われても、あのシノレがと考えるだろう。それどころか、逆に喜んでそれを支持するものの方が多いかも知れぬ。それこそが、シノレの狙いだ。私が先頃シノレをわざわざラガシュから呼んだのは、この国の未来を憂慮するものの一人として、血の繋がりのある叔父として、シノレに忠告するためだ」
 この後に及んでもなお、ハルにはロガンのいうことがどこか絵空事のように思えてならなかった。ほんとうに、あのシノレがそんなことを考えるのだろうか。しかし、ハルはあることを思い出した。
 ラガシュの道中での襲撃。重ねられた布の下にあった、緑の盾と金の王冠のなかに描かれた勇壮な一匹の獅子の紋章───。大きな目を見開き、唇をわななかせて視線を泳がせたハルに、ロガンは続ける。
「そして、ハル殿が王位継承権を有さぬことを残念に思う者が、国民に多いのも事実。隠れた支持を誇り、有力な対抗馬になり得るハル殿のお命を狙っているのがシノレか、フェウス様か─── はたまた双方なのか、私には分からぬ。しかし、二人にとってハル殿が疎ましい存在であることは間違いないであろう」
「私は法によって、王位継承権を持たぬ身です。私のような風来坊が、どうして玉座などというものに縁がありましょうか」
「ガイゼスは、神が作った国ではない。民が力を合わせて興した国だ。当然、民の意思は王の選出にも大きく関わってくる」
 ロガンはいったん言葉を切って、一層神妙な顔をつくった。
「繰り返すが、国王の病状はすでに楽観できる段階にない。争いは今は水面下で起きているが、国王の崩御とともに露呈し、激化するのは必至。さらには具合の悪いことに、ナディールには再戦への動きがあるとも言う」
 ロガンの言葉はもはやハルには遠かった。
「事はもはや国の存亡にすら関わることなのだ」
 一旦ロガンの私室を辞して客間に戻ったハルは、着替えて今度は広間に向かった。
 トゥルファを訪れたときには毎度行われる、ロガン夫妻と従兄弟たち、それに大都市トゥルファの中枢を担う国の重臣たちとの会食に出るためにだ。
 正装とまではいかないが、上等な服に着替え身支度を整える王子を手伝いながら、メイラはロガンとの面談の内容を問わなかった。というよりは、聞けなかったのである。
 さほど長くないロガンとの面談を終えて戻ってきたハルの顔は青く、表情にはどこか鬼気迫るようなものさえ感じられた。
 新鮮な白身魚の姿焼き、羊肉のトマト煮、ナッツ入りのピラフなど典型的なガイゼス料理の他、長い大理石の卓にはあまり見かけない料理も多く並ぶ。貿易都市ならではの遠い大陸から運ばれてきた珍味の数々は、ロガンの粋な計らいだ。
 恒例の会食に招かれた人びとは大抵が親しげに巡検使に話しかける。
 彼の柔らかな物腰と、慎み深く穏やかな人柄は立場や年齢、性別などに関わらず人好きされやすいのだ。
 国中を巡る忙しい巡検使は旅の疲れなど微塵も見せず、柔和な表情で、各地域の情勢を尋ねるロガンの片腕ともいえる重臣たちにひとつひとつ丁寧に答え、それが一区切りつけば、ここから遠い王都や国境近くの話を聞きたいとせがむ従姉弟たちにも話してきかせてやる。
 会食はおおよそ常どおり、華麗で和やかであった。
 ただし、主賓ともいえるハル・アレンが用意された贅を尽くした料理のほとんど手を付けなかったことを除いて。
 それにいち早く気がついたのは、ロガンの妻クューエである。しかし、この華奢な王子が元来食が細く、体があまり丈夫でないのは皆が知るところであった。旅の疲れもあり食欲がないのかもしれない。夫人は自分のなかでそう結論づけてそれほど取り沙汰しなかったものの、代わりにそのことをそっと夫に耳打ちした。巡検使の気分が優れない理由をこの場でただ一人明確に知るロガンは、彼が早く休めるように取り計らってやることにした。
 かくして、まだ話を聞き足りないようすの各人にていねいに詫びて、巡検使は宴席の途中で席を立ち、早々に部屋に引き上げることになったのである。
 手にランプを持った案内人を帰し、ハルは静かな吹き抜けの回廊をひとりで黙々と進む。
 広大な中庭に添うように造られた通路には、壁にごく短い間隔で燭台が取り付けられているので月のない夜でも足元を不安に思うことはない。むしろ、瑠璃色の硝子の覆いのなかで揺れる明かりが一際美しい。
 日中に比べると気温は下がるので焼け付くような暑さは感じないが、それでもトゥルファの湿気を含んだ空気は生ぬるく、じっとりと絡みつく。
 ハルは歩きながら、立ち襟につくられた膝丈までの上衣の襟元を片手でゆるめ、二度ほど張りついた衣服を引っ張ったり戻したりを繰り返した。
 決して行儀のよいものではないが、所作そのものは傍から見ればたいそう優雅に映ったに違いない。ハル・アレンという少年はそういう少年だった。
 しかし、今、彼のなかに自分が客観的にどう見えるかなど考える余裕はない。ただ、頭のなかに渦巻いている情報と思考の整理とに忙しかった。
「兄上……従兄上……国王陛下…」
 父王アンキウスの病状が大分悪く、ラガシュの城主で従兄のシノレが王位を狙っていて、王太子であるフェウスと対立していて───。
 自分は王位継承権を持っていないのに、いつのまにか同じ舞台にあげられていて、襲撃の首謀者はフェウスかシノレか分からず、両者かもしれなくて。
 ラガシュの道中で、シノレの紋章をつけた一味に襲われて、シノレはフェウスが首謀者だとロガンに聞いたと言っていて、でもそれは真実ではなくて、シノレはラガシュでセティとともに襲撃を受けていて……?
 ──── セティ。
 はたと、ハルは足を止めた。足が石畳のうえで小石を踏み、じゃり、と耳障りな音がした。
「ハル!」
 耳に届いたその声が現実のものかどうか咄嗟に判断できず、ハルは硬直したまま目を瞬かせる。
「ハ─── ぶっ!!」
 語尾の乱れた二度目の呼び声に、ハルはこれが現実であることを確信した。
 弾かれたように顔をあげて声が聞こえた方向にじっと目をこらしてみる。
 頼りになるのは点々と灯る回廊の壁に取り付けられた灯りだけで、歩くのと違ってそれだけではその人物をこの広大な庭から探すのは難儀だった。
 それでもじっと目をこらすと、極彩色の花々が見事な均衡で植えられた花壇のはるか向こうに、ぼんやりと照らされた二つの影を見つけることができた。この距離でその姿を見つけられたのは、彼らがガイゼス人に比べると全体的にずっと色素が薄いからである。
 ハルは回廊を飛び出して庭のなかを猛然と駆け出していた。
「申し訳ありません、ハル様」
 上等な服に身を包み、大きく肩を上下させるハルの目の前にいたのは、出会ったときから代わり映えしない質素な僧衣に身を包んだ長身の青年と、彼の大きな手で口を塞がれ、恨めしそうな目で肩越しにその犯人を見る、トゥルファの庶民のような服装のセティだ。
「ご迷惑になるから部屋で大人しくしているように言ったのですが、ちょっと目を離した隙に」
 と、リドルフ。いつもと変わらぬ、聞きようによっては間延びしてさえ思われる、ゆったりとした口調だ。
「ひゃっへ、ひゃひゅら、ほりょひ……」
 と、セティ。全力で抗議しているようだが、なにせ口を塞がれたままであるから、その効果は半減以下である。
「何を言っているか分かりませんよ」
 真顔で言うリドルフにセティは憤然と彼の手を払う。
「リドがいつまでも手をどけないからだろ!」
「大きな声を出しては駄目ですって」
「だから──── ○×$б▲!!」
 柳眉を吊り上げて声を張り上げたセティの口を、リドルフはまた平然として塞いだ。睨みつける稀代の美青年に対し、長身の青年僧は相変わらずの涼しい顔だ。
 ふたたび実力行使しようとしたセティは、くすくすという笑い声に気がついて正面を見た。ハルが袖口を口元にあてて笑っていた。
「なんだよ、ハルまで笑うのか」
 拗ねてふいと横を見ようとしたセティは、次の瞬間、視界のすみにあまりにも意外すぎるものを捉えて向き直った。
「ハル……?」
「あれ? すみません。どうしたんだろう―――」
 つい、一呼吸前までは笑っていたはずのハルが泣いていた。
 黒鳶色の大きな瞳から、大粒の涙をこぼして。
 慌てて頬を拭うものの、涙は拭ったそばから溢れてきてとめどなく流れる。
 ついには拭うことも諦めて両手で顔を覆い、小刻みに肩を震わせて本格的に泣きはじめてしまったハルに、セティは大きく目を見開いたまま咄嗟にどうしていいかも分からない。
 動いたのはリドルフである。
 音もなくハルに近づくと、自然な動作で包み込むように彼の華奢な体を抱き、ぽんぽんとまるで子どもをあやすようにやさしく背をたたく。
「声を我慢する必要はありませんよ」
 リドルフが例の声音で囁くと、彼の腕のなかでハルが微かに頷いた。
 それからリドルフの広い胸に顔を埋めてむせび泣く、小さな少年の背をリドルフはずっと、しばらく叩いていた。セティはそれをただ見ていることしかできなかった。

 そうして、どのくらいの時間が過ぎただろう。
 あいかわらず中庭に人影はなく、風もない静止したような空間で色彩も鮮やかに咲き誇る花々だけが、じっと彼らを見つめているようであった。
 金縛り状態から解放されたセティはうろうろと歩き回り、所在なさげに無意味な行動に勤しんでいた。それに気がついたリドルフは、小声で彼を呼び、メイラのところに行っているように言う。
 セティはつかのま逡巡した。しかし、リドルフの腕のなかで未だしゃっくりを上げて泣き続けるハルの姿を見て、小さくため息をつき、それから頷いた。
「婆さんに心配するなって言ってくる」
 内心の複雑な思いをぶっきらぼうな言葉に込めて、セティが踵を返した。
 セティが姿を消すとそこは、ほとんど完全な静寂に変わる。
 リドルフは何も言わない。その大きな体で外界から守るようにハルを包み、律動的に軽く背をたたく。しゃっくりがひどくなれば、優しく背をさする。それだけなのだ。
 結局ハルが顔を上げたのは、セティが行って、さらにしばらくしてからだった。
「すみません、リドルフ殿」
 リドルフは庭園に点在する長いすのひとつにハルを座らせて、隣に自分も腰かける。
「なにを謝る必要がありますか?」
「急にこんな風に泣いたりしたら……驚かれるでしょう」
「そんなことはありませんよ。誰にでも泣きたいときぐらいあるものです」
「でも、私は泣いていてはいけないのです。考えなければいけないことも、しなければならないこともたくさんあります。それに、ガイゼスの男子たるもの人前で涙など見せてはいけないのです」
 膝のうえに揃えた手をぎゅっと握るハルに、リドルフは空色の目を細めた。
「男にだって、泣きたいときぐらいあります」
 次の瞬間、リドルフが口にしたことをハルはすぐには理解できなかった。
「ましてや、ハル様はそうではないのですから、ね」
 時間が止まってしまったような錯覚。
 しかし、ハルのかわりに鳴きはじめた虫たちの声がそうではないことを証明している。硬直から解放されてハルがリドルフを見上げると、いつもと同じ穏やかな微笑がそこにあった。
「……いつから気がついていたのですか?」
「確信したのは、ラガシュで倒れられたときです」
「ということは、薄々気がついていらしたのですね」
「職業柄、人を診ることが多いものですから」
 男と女では骨格そのものが違うのだ。医術の心得があり、数え切れないほどの傷病人を診てきたリドルフならば、当然すぐに気がつくことだ。そして、言われてハルもすぐに思い出した。いつからかリドルフが「ハル殿」ではなく、「ハル様」と呼ぶようになっていたことを。いつもさりげなく気遣っていてくれたことを。
「セティも知っていますか?」
「いいえ、気づいていないと思います。そういうことに聡い子ではありませんから」
「言わないのでほしいのです!」
 首が千切れんばかりの勢いで顔を上げたハルに、リドルフは面食らったように切れ長の瞳を大きくする。
「せっかく……せっかく、友人になってくれたのに───。女だと分かったら、嫌われてしまうかもしれない」
 切なげに眉を寄せ、乾きかけていた黒目がちな瞳にはまた涙がたまりはじめていた。
「ハル様がそうおっしゃるのなら、セティには言いませんよ」
 リドルフの大きな手が膝のうえで震えるハルの拳を包む。
「でも、彼にとってハル様が男性か女性かなど関係ないことだと思います。セティには王子殿下でもなく、巡検使殿でもなくて、ただ、ハル様が、大事なのですから」
 嬉しいような、けれど戸惑うような複雑な表情を浮かべてハルは視線を落とす。
「どういうご事情から王子殿下にならなくてはならなかったのか、私は伺いません。状況が状況ですから、私たちは互いに知りすぎない方がよいこともあると思います。でも、一つだけよろしいですか」
「はい」
「あまりご無理をなされませんように。女性でありながら男性として振舞い続けるのは知らぬうちに心に負荷をかけるものです。そして、それはもちろん、お体にもよくありません」
「負荷……?」
「いくら男のふりをしていても、どれだけ周囲に男扱いをされていても、ハル様が女性であるということは事実です。抑圧し、制御するばかりではなくて、時には心を解放してあげることも必要です」
 不意に脳裏に蘇る、あの身の毛もよだつような恐怖と嫌悪感。
 ──── 猊下(げいか)の女を抱いてみるってのは、魅惑的だな。
 その言葉がもたらした絶対的な恐ろしさは、筆舌に尽くしがたいものだった。
 全身に怒気をみなぎらせ、一人で助けに来てくれたセティの姿を見たときの安堵感は忘れられそうにないものだった。
 あれは、確かに、普段閉じ込めている女としての自分の心の叫びではなかったのか。あのとき、自分は女なのだと嫌というほどに思い知らされたような気もする。
 筋肉のつかない腕。細い腰。ガイゼスの男子とはかけ離れた容貌。それでも、先入観という強力な魔法の力を借りて、そう見えるように振舞ってきた。それ以外の道が選べず、ただ、それが求められていたから。
「もっと私たちを利用してください。セティと私は、幸運にも不幸にも異国の人間なのですから」
 昼すぎに別々になった一同が顔を揃えたのは、結局、夜も更けて広い邸宅がすっかり寝静まったころだった。
 リドルフと連れ立って部屋に戻ってきたハルはすっかり泣き腫らした目で笑って、ありありと顔に心配の色を浮かべるセティとメイラに詫びた。その表情には屈託のようなものはなく、それどころかどこか晴れやかにさえ見えて、待機していた二人はさしあたり安堵して、深くは問わなかった。
 すっかり落ち着いた様子のハルがロガン・タナトから聞いたことを率直に彼らに伝えると、二人の青年と老女は三者三様の反応をしてみせた。
 眉間に皺を寄せて天井を睨むメイラ、椅子のうえであぐらをかいたまま首をひねるセティ、そして、姿勢よく腰かけたまま微動だにしないリドルフ。
 少しの沈黙の後にうなるように呟いたのはメイラだ。
「将軍がそのようなお人だとは……」
 彼女の顔が、これほどまでに年齢相応に見えたことはないかもしれない。疑念と、落胆と困惑。さまざまな思いがないまぜになっているようすが、よく表れていた。
「私にも、従兄上がそのようなしたたかなお人だとは、到底思えない。けれど、ロガン様のおっしゃることは、ある一面では理にかなっている」
 己の評価を高めるためにいったん身を引き、時を得て行動を起こす。たしかにそれは効果的なやりかたかもしれない。
「アンヴァーン将軍の才覚は王位継承順位が制定されるとき、すでに周囲に認知されていたのですよね? ならば、みすみすそれを逃し、大きな労力を使い混乱を招いてまで、今あえて王位を狙う利点はあるのでしょうか」
 リドルフの的を射た疑問に答えるのはメイラである。
「制定時にシノレ公が太子として正式に認められれば、その時点でのフェウス様との対立は避けようもなかった。表沙汰にはならなかったが、それほどまでに状況は緊迫していたのだ。しかし、その当時シノレ公はまだ将軍としての地位を確立しておらず、誉れ高い先王のお子とはいえ早くに父君と母君を亡くし、その基盤は磐石なものとはいえなかったからな」
「対立するには後ろ盾が十分ではなかった。ということですね」
「すべてを穿(うが)った見方をした場合の話ですが」
 神妙な面持ちのハルの言葉に一同は再び沈黙の海に沈む。
 一つの事実は角度を変えて見れば、それはいくとおりもの真実になり得る。
 ましてや目の前で起こっていない、過去のことは挙げはじめればきりがなく、推察の域を出ないまま混迷していく。思考の迷路に迷い込みかけたところを立ち止まってみせたのは、やはりというべきかリドルフである。
「もう少し、今までの情報を整理してみましょう」
 リドルフはそう言うと、部屋に備え付けられている書付のための紙とペンを取り、流麗な文字をつづりはじめた。
「まずこれまでに受けた襲撃についてですが、回数は全部で五回」
 一度目は国境の狭間の町、アイデン付近で。このときハルは多くの部下を失い、重症人であるカイを治療できる人間を探している最中で偶然にセティとリドルフに出会った。
 二度目はアイデンの町の宿。宿の主人が買収され、周囲を取り囲むという規模の大きなものだった。
 三度目はラガシュへ向かう道中。このとき、一味の死体からシノレの紋章が見つかった。
 四度目はラガシュの領内で。これは、シノレに同行したセティが受けた。
「先の法術による二度の襲撃と昨日のハル様が拉致された件は、こちら絡みのものなので省きます」
 そして、五度目はハルを追う途中にセティが単独で受けた。
 こうして見ると、実に彼ら四人は五度もの物理的襲撃と、二度の法術による襲撃を受けていることになる。改めてその事実を確認すると、一同は歎息するとと に感嘆する。一人も欠けることなく、よくもここまで辿りつけたものである。彼らが常人であったなら、とうにこの世の住人ではなくなっているだろう。
「次に、得られた情報ですが」
 リドルフは別の紙片に情報源ごとに分けて、これまでに得られたことを書き出す。
 ラガシュではシノレから国王の病状がよくないこと、そしてハルを狙う襲撃の首謀者が王太子であると、彼がロガンから聞いたということを伝えられた。
 トゥルファの街では、国王の病状が芳しくないこと、そして王太子がナディールとの再戦に意欲的であるとの噂が聞かれた。
 そして、ロガンからはシノレと王太子が対立していること、やはり、国王の病状が深刻なものであること。そして、ハルが次代の王として有力視されていること……。
 実に手際よくまとめられたものを見ながら、一様に険しい顔で再び押し黙る。
 すべてに一致しているのは、国王の病状の深刻さと同時に、次代の王ということの真実味だ。
 しかし、それは憂慮すべき事態がすぐそこまで迫っているという危機感が明確になるだけで、問題の解決には意味をなさない。
 一番着目すべき点は、シノレがハルに伝えた内容と、ロガンがハルに伝えた内容である。
 どちらが正しいのか、それともどちらも正しいのか──。それとも、どちらも間違いなのか。正解を求めるには判断する材料がやはり足りない。
「─── で、結局、一番得をするのはだれだ?」
 この沈黙を打ち破ったのは、それまで一言も発していなかったセティである。一同の視線が集まる。
「襲撃の規模ややり口から言って、相当の権力者が首謀者であることは間違いないだろう? 首謀者が一番得をするしくみになっていないと不自然だ」
 リドルフがまるで聡明な弟子を愛でるように目を細める。メイラとハルは驚いたようなようすで、理路整然と話しはじめたセティを見つめていた。
「王太子と王位継承権第二位のシノレ様が争い、継承権はないが、有力候補と目されているハルが倒れたとき、玉座に座るのはだれだ?」
 はっとしてメイラとハルが顔を見合わせる。
「ロガン・タナト…… このトゥルファの都督閣下です」
「ふうん」
 軽く頷くとセティは胡座を解いて足を投げ出した。椅子の座部に両手をついて前のめりにハルの顔をじっと覗く。
「王になるのはこの豊かな街の長でいることよりも、魅力的なことか?」
 ハルは瞬きを数度繰り返す。そして、生真面目に答えた。
「価値観の問題なのかもしれません。私には、どちらも魅力的とはとても思えませんけれど」
 メイラとリドルフが顔を見合わせて口元をほころばせる。
 室内にたちこめていた胸焼けがするような緊迫感は、今の一瞬ですっかり緩んでいた。邪気のないふたりのやり取りには、どうも空気を清浄化するような不思議な力があるらしい。
 それぞれ手付かずだった飲みものに手を伸ばし、一呼吸置くと今度はリドルフが穏やかに口を開く。
「セティの言うことは単純なようでいて、実は真理をついているかもしれませんよ」
 単純という語句に多少のひっかかりは覚えたものの、ここではセティも話の腰を折るような真似はしない。
「彼も私も事件の背景や、関わっていらっしゃる方々の人柄などは、ハル様を除いてはよく知りませんから、逆に惑わされる要素が薄いのかもしれません。どんなにこんがらかっているようなことでも、紐解いていけば利益を得る人間がいて、その人物こそが裏で糸をひいている可能性は高いのだと思います」
「王太子殿下、シノレ公が倒れれば、次に民衆の注目が集まるのはハル殿下かもしれない。しかし、その殿下も亡きものにしてしまえば、玉座に座るのはロガン公、か」
 腕を組みなおしたメイラが厳めしい顔で独白するように呟く。
「そもそも、ロガン…様っていうのは――――」
 そのとき、セティの言葉のつづきは前触れもなく訪れた騒々しい足音と、戸外からの切羽詰った声にかき消された。
「殿下! 殿下! お逃げくださいませ!」
 終着地に向けて今まさに急進しようとしていた彼らの思考は、戸を叩く音と甲高い女性の声によってあえなく中断されてしまう。
 剣を使う二人は、すぐに握れる場所においてあった各々の愛剣に反射的に手を伸ばし、引き寄せる。鞘を握ったまま立ち上がり、音もなく戸に近づくと一瞬だけ視線を交わす。結局、取っ手に手をかけたのはメイラであった。
「何事か」
 薄く開けた戸の隙間から覗いたのは、ゆるやかに髪を纏め、夜着にガウンを羽織った女だった。恐らく使用人のひとりだろう。老女が放つ圧力に気圧されたように慌てて膝を折る。
「東の客間より、不審火でございます」
 彼女が言うには、火が出た部屋はここからずいぶん離れているらしい。家人が総出で消火につとめているが、火の回る早さが尋常ではなく、この部屋にも危険が及ぶ可能性も否めない。万が一に備えて大事な客人であるハル・アレン王子ら一行をただちに避難させるようにと、家令に言われてきたのだと言う。
 咄嗟に返答に迷ったメイラが室内に視線を送ると、リドルフが小さく頭を振ってみせた。
「行ってよいぞ」
 王子ら一行を安全な場所まで導くという指示をまっとうしようとしていた女は、メイラの言葉に困惑したようすであったが、眼光鋭く老女は有無を言わさず女を帰してしまい、薄く開けた戸をふたたび閉める。
「襲撃か?」
 端的なメイラの問いの答えたのはリドルフだ。
「恐らく法術によるものです」
 壁に立て掛けておいた大剣を背負いながらリドルフはさらに説明する。
「ただの火事にしては、精霊達の動きが統制されすぎています。しかも、法力がある人間にも直前まで気づかないようにした巧妙な手法です。私が迂闊でした」
 法術や法力などといった単語が飛び出してきても、メイラは以前のように強い嫌悪感や恐怖を裏返したような拒否反応を示すことをしなくなっていた。それは、リドルフという存在のせいもあるが、なによりも今の彼女には主たるハルと、セティという異国の美しい青年を守るという強い決意があるためであったかもしれない。
「まさか、トゥルファの都督閣下のお屋敷に直接手出しするとは──」
 それでもその事実に直面して、ぞっとせずにいられないのは、なにもメイラだけではない。
 ナディール人がトゥルファの都督の屋敷に手を出すということは、それが明らかになった場合、ガイゼスという国に宣戦布告することと大差ない。一歩間違えば、ナディールとガイゼスという国すらも巻き込み兼ねないのだ。それは、セティの立場というものがそういうもので、この十七歳の美しい青年がそうまでして 命を狙われているということ示している。
 それまで静観していたセティがふとなにかに気がついたように鼻をひくつかせる。無言で戸口まで近づくと素早い動作で固く閉ざされたばかりの戸を開けた。
 たちまち室内に流れ込む煙。廊下から響く慌ただしい足音、飛び交う怒号と悲鳴───。
 遠いと言われていた炎はほんのいっときのあいだに勢力を広げ、すぐ側まで迫ってきていた。この異様な状況が法術ではなくてなんだというのだろう。
「リド」
 戸をしめたセティが、青年僧の名を呼んだ。
 その声が激しい感情が込められたものであることに、リドルフはすぐに気がついた。しかし、返すのは平素と変わらぬ短い返事だ。
「はい」
「陣を張って、ハルと婆さんについていてくれ」
 リドルフは静かに向き直る。
「どうするつもりですか?」
「身に振りかかる火の粉は振り払わせてもらう」
「セティ」
 諌めるように名を呼んだところで、彼の宝玉の瞳のなかの烈火は、少しも揺るがない。
「こういうやり方は許さないと、言ったんだ」
 独白のような言葉の意味をすぐに理解したのは、昨日、彼が同じ言葉を口にしたその場に居合わせたハルだけである。ハルとリドルフが同時に口を開こうとしたそのとき、一同は目をみはった。
 誰の言葉を聞くよりも早く、セティはぱっと扉を開けて煙が充満しはじめた廊下に飛び出し、駆け出していってしまう。
「セティ!」
 これにはさすがのリドルフも動揺した。しかし、素早く後ろ手に閉められてしまった扉に阻まれて切羽詰った呼び声もセティには届かない。
 すぐさま後を追おうとしたのはハルで、次にメイラだ。そして、その二人を遮ったのは意外なことにリドルフであった。
「今は外の方が危険です。この部屋に火の精霊(ラマン)(ラマン)が入り込まないように術をかけます」
「追わなくていいのか!」
 掴みかかるように問うメイラに、リドルフは珍しく誰の目にも明らかに複雑そうな表情を浮かべた。
「よくはないのですが」
 それがあまりにも意外で、メイラは思いのほか冷静になった。
「追ったところで、私にできることはありませんので。セティの言うとおり、私にできるのはここに精霊を侵入させないぐらいです」
「でも、小童は術を使えないのだろう?」
 造形は甚だ非凡ではあるが、典型的なナディール人の容貌をしたセティは驚くべきことに剣の達人で、法術を使ってみせたことは一度もない。以前、それを問うたときも彼はあっけらかんとしていたはずだ。
「そうではないのですが」
「あのとき、確かセティは”使えない”ではなく、”使わない”─── そう言いましたね」
 控えめながらはっきりとした声でそう言ったハルに、リドルフははっとさせられる。この少女の洞察力と思慮深さはやはり並ではない。と、いうよりは感受性の強さだろうか。
「その通りです」
 観念したようにリドルフは話した。
「セティには強い法力があり、彼は法術を使うことができます。そして、それは、襲撃者を退けるぐらい、造作もないようなものです」
 メイラは思い出した。
 昨日、リドルフはセティのことを非常に大きな影響力を持つ立場と言った。ナディールが法術の有る無しがすべてを左右するような国であることは、骨身に染みてよく分かっている。それは、もう、悲しいほどに。
 そんな国で、強い影響力を持つ人物が相当の力を有しているのは言うまでもなく当然だ。
「セティが炎に包まれることを懸念しているわけではありません。ただ──、他のことがいろいろと、心配なのです」
 曖昧な言葉と淡い苦笑にぼやかされた真意を、このときのハルとメイラはよく理解できなかった。しかし、それは二人の想像よりも遥かに深く、重いものであったことを知るのはずいぶん後のことになる。
 リドルフはそれ以上を語ろうとせず、法術の準備にとりかかりはじめた。
 いつも身に付けている薬草の入った小袋から、粉末状にしたいくつかの種類の薬草をとりだして器にうつす。その粉を指先につけて、戸口や壁のうえを規則的な動作でなぞっていく。それが神霊文字(サイラッド)と呼ばれるものであることを、ハルもメイラももう分かっていた。
 手伝いを申し出たメイラは彼に指示されたとおり、いくつかの種類を混ぜた香を部屋に備え付けてある香炉にくべて焚き、ハルは神霊文字(サイラッド)を綴り続けるリドルフの傍らを、薬草の入った器を手にしてついていく。
「暑いな」
 南国の美しい景色が手書きでつけられた白磁の香炉の前で、メイラが額ににじむ汗を拭う。それは、以前にも体験したことのある不自然な暑さであった。
「熱まで遮断できればいいのですが」
 申し訳なさそうに答えながらも鮮やかな手つきで文様を描き続けるリドルフの顔を、ハルが両手で器を持ったまま上目遣いに見上げていた。
「ハル様がなにかする必要はありませんよ」
 その視線の意図を正確に感じ取ったリドルフは手を止めて、メイラには聞こえないような小声で囁いた。ハルは心を見透かされて驚いたが、優しい空色の瞳と目が合うと力なく笑ってみせた。
 このトゥルファにたどり着く前、火の精霊(ラマン)に抑えこめられていた泉の精霊(イネヌ)を開放したのは、知識がないながらもハルであった。疲労した体で結果的に大きな法力を使うことになったハルはその後倒れ、危険な状態に陥ったのだった。
 この一件でどうやら自分には法力というものが備わっているらしいこと、それはリドルフの持つものとは種類が異なるらしいことを自覚したハルは、何か自分にできることがないかと思ったのだが…。
 室内の温度はかなり高くなりはじめていた。
 メイラやハルは当然、いつも涼しげなリドルフの額にさえも汗が滲みはじめている。
 それでも部屋の中央はまだましで、リドルフはハルとメイラをそこに座らせて、彼はマントラを唱えながら手早く残りを書き終えた。
 準備を終えたリドルフも二人の側に結跏趺坐(けっかふざ)の体勢で座り、半眼で朗々とマントラを唱えはじめる。
「あ──」
 ハルが漏らしたのは吐息にも近いものであった。しかし、それを目敏く拾いあげたメイラが彼の視線を追うと、部屋に二つある大きな窓の外に炎が踊っていた。
 リドルフがちらりと視線を走らせる。
 窓の向こうで炎はまるで生きもののように体をくねらせて、硝子のない窓から侵入しようとしていた。マントラを唱える声が、いっそう大きくなる。
 壁際にあった硝子製のランプが音を立てて弾け飛ぶ。
 暗闇に沈んだ室内で炎の赤さがリドルフの額に玉のように滲む汗を浮かび上がらせる。
 不意にマントラが途切れた。ハルとメイラがはっとリドルフを見上げた。
「はじまりましたね」
 口元が綻んでいた。
「はじまった?」
「セティの法術です」
 むっとするような奇妙な静寂。
 いつの間にか足音も、人の声もなにも聞こえなくなっていた。しかし、それが安堵のときとは違い、嵐の前の静けさであることを数々の修羅場をくぐりぬけてきたメイラは直感的に察していた。
 だしぬけに部屋が昼の明るさに照らされる。
 反射的に身をすくめたハルを覆いかぶさるようにしてメイラが庇う。
 腹の底から響く、地を揺るがすかのようなおどろおどろしい音。
「雷……?」
 光と音の正体をハルが知ったのは、頭上のメイラの呟きであった。
「心配ありません。稲妻が私たちを傷つけるようなことはありません」
 ハルがメイラの小柄な体のしたから見上げると、いつものようにリドルフが涼しい顔をしていた。
「稲妻と雨雲は、セティが呼んだのです」


「壮観だねぇ」
 口元に笑みを刻み、ダイラムは呟いた。
「なあ、そうは思わないか? フォン」
 傍らに直立していた男は返事を出来なかった。
 眼前に広がっている光景は、壮観というよりは壮絶と言ったほうが相応しい。
 計ったかのように邸宅の周辺だけを覆う黒雲、闇夜を切り裂く無数の稲妻──。ここから目視する分には確認できないが、膨れ上がった黒雲はたぶん、激しい雨も降らせているだろう。先ほどから風の精霊(エアル)たちが慌しく動きはじめ、湿気を運んでいる。
 フォンにとって法術というものはごく日常的であり身近なものであった。
 ガイゼス人達が非現実的と表現する現象は、飽きるほど目にしてきた。特に、この組織に入り、ダイラムという男の下で仕事をするようになってからは。それ でも、眼前の光景はまるで別世界に迷い込んでしまったのではないかと疑わしく思えるほどに、一種、異様ともいえる光景であった。
「これが―――、セティス様の術ですか?」
 フォンが咄嗟になにも言えなかったのは、これほどの術をはじめて現実に目にして圧倒されたのと他に理由がある。
 術を仕掛けたシュレバと、彼についていた幾人かの部下の消息がきがかりだったこと。そして、何よりもダイラムの目が笑っていなかったからであった。
「間違いないね。この世であんなことができるのは、セティス・クラヴァン・オリスだけだ」
 どこか人を食ったような愛想のいい口調は、相変わらずだ。しかしやはり、彼の海の底を彷彿とさせる瞳は全く笑っていない。
「悪ふざけがすぎたかな」
「予想に反した、手厳しい反撃ですね」
 今回の襲撃は綿密に練られた計画ではなかった。
 きっかけはダイラムが今日の昼に言った、「もう少しだけ揺すってみよう」という軽い思いつきだった。
 セティス・クラヴァン・オリスは出奔してから術を使った形跡がない。
 本人に使う意思がないのか、側にいる人物が使わせないようにしているのか定かではないが、とにかく、国を出てから一度もないのだ。
 一度目に術をしかけたとき、対応したのはリドルフの方だった。
 土の精霊(ケイス)を使って防御陣を張ってきたが、術の精度や術者の法力の強さを抜きにして、そもそも本質的な性質から土の精霊(ケイス)火の精霊(ラマン)に対する耐性はそれほどなく、法術を操るものにはそれが苦肉の策であることがすぐに分かる。リドルフという優れた術者だからこそできるようなもので、本来ならば火の神(アデン)の術に大地の神(アナリ)の術で対抗するというのは難しい。しかし、結局セティスは術を使うこともせず、リドルフだけの力で強引に乗り切った。
 二度目に仕掛けたときは、よく分からない力に押し返された。術というほどに洗練されてはおらず、不規則で、そのくせ強烈な力だった。あれが何だったのか今も明らかにはできていない。ただ、リドルフに水の女神(シルヴァ)系統の術を使う力はないし、同じ理由でセティスでもないことは確かだった。
 そして、彼は昨日も術を使おうとはしなかった。あれほどまでの激しい怒りを露わにしながら。
 もしかすると、すでに使えないのかもしれない。ダイラムはそう言った。
 その仮説が事実だとすれば、セティスをこの世から消すことはこれまでの計画よりもずっと容易い。
 それを確認するための、軽い揺さぶりだったはずなのだが……。
「まさか雷神(ジュダー)ジュダーを呼ぶとはね。やはりセティス様は、セティス様以外の何者でもないということかな」
「昨日もかなりご立腹のご様子でしたからね」
「さしずめ逆鱗に触れた、というところか─── シュレバから連絡は?」
「ありません」
 ダイラムは小首を傾げた。
「死んだかな?」
 言葉の重みとは裏腹に口調はまるで、明日は雨かどうか問うような気軽さだ。
「微妙なところでしょうね。うまく逃れていればいいですが」
「この程度の成果のために、シュレバを失うのは痛い損失だよ」
「成果、ですか?」
「軽微なものだけれどね。皆無というわけではないさ」
 セティスの状態を確認するついでに、ガイゼスの王子と引き離せればいい。ダイラムはそう考えていた。
 彼らの関係性は精霊を使って調べさせたが、結局よく分からなかった。
 女王や大地の神(アナリ)大神官(クラヴァン)などといった人物がセティスに接触した形跡はなく、政治的意図が絡んでいる可能性は低そうだった。事の前後を見る分には成り行きのようにも思われる。しかし、それにしては行動を共にしている期間が長い。
 とにかく、一緒にいると手出しがしにくいのは事実で、できれば早急に引き離したかった。ガイゼスの王子を巻き添えにして目的を達成すれば、昨日リドルフが言ったように外交問題に発展することは避けられない。
 ガイゼスとの再戦はもちろんあの方の視野にはある。
 戦時になれば軍部── すなわち、火の神(アデン)神殿と風の神(フィース)神殿の力が強くなる。
 しかし、それにはもう少し国の情勢が落ち着いてからではないとまずいのだ。今のように分裂したままガイゼスと対して万が一敗れるようなことがあれば、目も当てられない。この状態で戦時に突入するということは、まさに大きな賭けであり、今はまだ避けたい状況だった。
 それに比べて、ガイゼスの要人の屋敷に手を出すことにはあまり躊躇いはなかった。
 法力がある人間にしか、火事の真相は分からない。セティスやリドルフにも直前まで気が付けないように少々細工も指示してある。
 むしろ、異様な事態が起これば、真っ先に槍玉に挙げられるのは身近なナディール人であるセティスとリドルフだろう。
 ガイゼス人の法術に対する嫌悪感は根強い。そこを刺激し、利用すれば、うまい具合に王子とセティスを引き離せる。そしてこれは、セティスのおかげで容易に実現できそうだった。
 これだけの異常事態を引き起こしたのである。ガイゼス人が不審に思わないわけはない。
 セティス・クラヴァン・オリスといえども、所詮は世間知らずに神殿の奥で育った十七歳の青年である。そのあたりの、微妙な感覚は理解できていないだろう。あとは、リドルフがいかにして事態を収拾させるのか、お手並み拝見といったところだろうか。
「いずれにせよ、迂闊に手を出すと痛い目を見ることはよく分かった。あの方にも報告して、策を練り直す必要があるな」
 ダイラムがため息をついてから、数刻後。一時、見せかけの平穏に包まれていた彼らの陣営に、歓迎すべき事象が起きた。
 実動隊を指揮していたシュレバが戻って来たのである。
 頭から爪先までぐっしょりと濡れ、熱帯に近い気候の一帯にあって、なおかつ火の精霊(ラマン)を自在に操る術者であるはずなのに、唇を紫色にして、震えて戻ってきた部下へのダイラムの一声は次のとおりである。
「ガイゼスで凍え死んだとあっては、笑えない冗談だね」
 頭を垂れたまま微動だにしないシュレバにダイラムは悪戯っぽく目を細める。
雷神(ジュダー)の雨は冷たかったかい? 珍しい経験ができたな」
 痩せた体を包む、雨水を吸ってずいぶん重くなった法衣と、同じように濡れた茶色みがかった金色の髪から水滴が伝わり、床に染みを広げる。
「報告はあとで聞く。浴場もそろそろ開く時間だ。まずはゆっくり風呂でも入って体を温めておいで」
 一呼吸分の躊躇いの後、短い返事をしてダイラムともフォンとも視線も合わせずに出て行こうとしたその背中を、ダイラムが呼び止めた。
「シュレバ」
 青い瞳が氷にも似た冷ややかさと鋭さを帯びたようにも見えた。
「何人残った?」
 臆したようすもなくその目を真っ直ぐに見つめ返して、シュレバが答える。
「二人です」
「まだ使えるか?」
「難しいと思います。あの術をまのあたりにしたことにより、改めて猊下(げいか)に畏怖したようです」
「そうか。それは、処分しておいておくれ」
 ダイラムの薄い唇からさらりと吐き出された言葉に、シュレバもフォンも別に驚きもしない。この組織に入るということは、そういうことだ。
 いつも通りの短い返事に満足したように、ダイラムが目を細める。
「ああ、早く風呂に入るんだよ。風邪をひくといけないからね」
 一礼して辞していったシュレバの背を見送り、フォンがどこか皮肉っぽい光を浮かべてダイラムを見た。
「ずいぶんと、シュレバにはお優しいことで」
「私はシュレバが可愛くてね。あの子は価値が高い」
 愛嬌よく片目でまばたきして見せた男に、フォンは苦笑いする。つい先ほどあっけらかんと彼の生死を尋ねたのは、どこの誰だっただろうか。
「もちろん、フォンも大事だよ」
「それはどうも」
 世辞だか嘘だか真実だか分からない言葉にかき乱されるような無垢な心は、あいにくと持ち合わせていない。そもそも、尋常ではなく頭の切れるこの男の言うことを真に受けていては、体が持たない。
 フォンは、ダイラムと知り合ってすぐの頃は言葉の裏にある真意を量ろうとしたこともあった。しかし、今はそれも無駄だということが分かっている。この愛嬌のある笑みと軽い口調には、嘘と真実、建前と本音がほとんど同じ領域に存在しているのだから。
 フォンの視線のさきで底の読めない青い目が笑っていた。


 この世の終末かと思えるほどの激しい雷のあとに訪れたのは、これまた尋常でない大雨だった。それは、壁の塗料を洗い流し、天井に穴を開けるのではないかと思えるほどに。
 このような有様がセティの法術だということは、ハルにもメイラにも到底信じられなかった。
 むろん、リドルフが性質の悪い冗談をいうような人物でないことは、重々承知している。しかし、それでもなお、信じられないのだ。いや、信じたくないのかもしれない。
 雨は天の恵み。雷は天の怒り。
 古来より、人びとはそれを信じてきた。国民の多くが法力を有さず、五大神の信仰が薄いガイゼスにあってもその概念に大差ない。
 ひとりの人の意思が、力が、このような仕儀を引き起こすことなどあってはならないのだ。もしも、現実にそのようなことが有り得るとしたら、それは人々が信じる世界の基盤のようなものを根底から覆すようなことになってしまう。
「?」
 ハルが自分の頭に落ちてきた冷たいものに気がついて上を見上げると、天井の優美な壁紙に雨が滲みて、ひどく芸術的な模様を描いていた。
 これが一般的な邸宅で、平時の話であったならハルは特別驚かなかったかもしれない。トゥルファの家は、日中の暑さに対応するために風通しがよいように造られているため、耐水性が弱いのは珍しいことでもない。
 しかし、ここは贅を尽くしたトゥルファの都督閣下の邸宅であり、ガイゼスが誇る最先端の技術の集大成なのだ。しかも、リドルフの術がかけられたこの部屋は荒れ狂う炎の侵入さえも許さなかった。その部屋の天井が、雨漏りしているのである。
「さすがに雨粒までは、御しきれないのだと思います」
 リドルフは神妙な面持ちながらも、侵入してくる雨粒には別に驚きもせず、当然だと言わんばかりである。
「私が張った陣では、とてもセティの術に対することはできません。少し冷えると思いますがじきに外も落ち着きます。少しだけ、ご辛抱を」
 いかにも申し訳なさそうなその仕草が、常から青年に影のようについているリドルフの言葉が、これが本当にセティという一人の青年が引き起こした事態であることを、妙に生々しく実感させる。
 リドルフが言ったように、あれほど激しかった雨はそれからほどなくして収まった。
 頃合を見計らって、リドルフが先頭に立ち部屋と外界とをつなぐ扉に手をかける。
 短い廊下を抜け、中庭に出た一同の眼前に広がっていたのは、想像を絶する信じがたい光景であった。
「これは───」
 メイラが絶句するのも無理はない。
 部屋の外の世界はこの一時であまりにも様変わりしすぎていた。
 薄く煙が上がる焼け焦げて倒れた梁や柱、そのうえにやはり焼け落ちた壁などが幾重にも折り重なり、溝には激しい雨の名残を思わせる大小の水溜りが出来ている。
 焼けてしまったのは主に居住を目的としてつくられていた空間で、それとは対象的に貯蔵を目的として造られた場所は石造りのため、変色してはいるが、かなりの部分が残っている。さすがは、快適さのなかに耐震と耐火性を兼ね備えたガイゼスの都督閣下の屋敷であるというべきか。
 そして、なにより無残な姿になれ果てていたのは、あの見事な庭であった。
 目にも鮮やかに咲き誇っていた南国の大輪の花々はなぎ倒され、焼かれ、炎と雨に蹂躙され尽くされていた。
「ハル! 婆さん!」
 呆気にとられ、言葉を失っていた二人を呼んだ若い男の声の正体が、彼女たちにはすぐに分かった。メイラのことを敬愛と親しみを込めて堂々と婆さんと呼ぶのは、この世に今のところ一人しかいない。
「セティ!」
 駆け寄ってきた青年の高価な絹糸のような髪が損なわれたようすも、濡れたようすもない。むろん、稀代の芸術家が手がけた陶器の面には、すす一つついていない。あれほどの炎と雷雨の乱舞のなかにあって、彼の周囲だけは別世界であったかのようだった。
 一同が再会を喜び合おうとしたそのとき、別の方向からハルを呼ぶ男の声がした。
「ハル殿」
 夜着に上着を羽織った格好のこの屋敷の主だった。
 背後には似たような格好の夫人と、ハルの従姉弟たち、さらには家人の姿もある。女性と子どもは皆一様に放心したような、くたびれたような顔をしている。
 メイラがさっと跪いたのに倣おうとしたリドルフがふと横を見ると、セティが現れた壮年の男をじっと見ていた。まるで、なにかを量ろうとするかのように。
「セティ」
 小声で喚起するように呼ぶと、セティははっとしてぎこちない動作で跪く。
「ご無事であったか。安全な場所にご案内しようと人をやったはずだったのだが──」
 ロガンの視線がハルの肩越しに動いた。このあたりで唯一きれいに残ったままの、彼らがいた客間がそこにある。
「お気遣いは確かにいただきました。ですが、私の気分が悪く、部屋から動けなかったものですから、友人たちがここで守ってくれたのです」
 咄嗟の機転を利かせた返答に驚いたのは、何よりもハル自身である。これから起こるだろう事態を、無意識のうちに恐れていたのかもしれない。
「法術とやらか」
 ロガンの表情が苦虫でも噛み潰したようなものに変化した。
 それを目で確認したのは、唯一立ち上がっているハルだけであったが、短い言葉に込められた感情がとうてい好意的でないことは、地に視線を落としている三人にもその声音から十分すぎるほどに伝わってくる。
「いくら水をかけても消えぬ炎が、突如現れた雷雨にかき消された」
 ハルの隣で跪いていたメイラを家人に指示して立ち上がらせ、ロガンは冷たい視線を濡れた地面に膝をついたままのナディール人の二人に注ぐ。
「お坊、これはどういうことか説明していただけぬか」
「閣下」
 訴えるようにハルが叔父を見上げる。甥の視線も意に介せず、石像のような厳しい顔のまま腕組みをしてロガンは二人の青年を見下ろしていた。
 リドルフが少し顔を上げた。
 突如矛先を向けられたのにも関わらず、その眼には毛ほどの動揺もなく、凪いだ南の海のようだ。
「恐れながら申し上げます。私が使った法術は殿下をお守りするためだけのものです」
 淀みなく答えると、リドルフは再び頭を垂れた。身に付けている、飾り気のない長衣の裾に泥水が滲みて、茶色く色が変わっていた。
「火と雨には一切関知しないと言うか」
「はい」
 短く、堂々としたリドルフの返事にロガンの背後の人垣がざわついた。
 ロガンは剃髪した青年の頭を一瞥し、その隣で同じく頭を垂れたまま微動だにしない青年に目を向ける。口を開きかけたとき、絶好の間合いで再び青年僧が静かに、しかし、凛として言い切った。
「私の連れは田舎の生まれで、法術というものについて疎うございます。ご下問には私がお答えさせていただきます」
 不機嫌そうに眉を顰めたロガンに、ハルがたまりかねたように一歩進み出る。
「閣下、二人は私の大事な友人です。炎から力を尽くし、私を守ってくれたのです。このガイゼスにやましい感情など、どうして持っているというのでしょう。どうかハル・アレンの顔に免じて、このようなことはお止めください」
 両の手を握り締め、険しい表情を浮かべたハルをロガンは珍しいものを見るようにして眺めた。
 ロガンだけではない。背後にいた人間たちも、驚いたように彼とロガンとを見比べていた。優しげで、どこまでも慎ましやかなこの少年が、言葉遣いこそていねいであるものの、こうして語気を荒くしたようすを誰も見たことがないのだ。
「ハル殿」
「はい」
 父王に少しも似ない顔に、嘲りの色が浮かんでいる。
「貴殿はこのガイゼスの王子なのだ。立場というものを考えられよ」
「どういう意味でございましょう?」
「友人はお選びになった方がいい。我が国にはいまだナディール人に反感を覚える者も多い。国民感情を逆撫でにするようなことを、王族がするべきではない」
「そのようなこと──」
「……セティ?」
 低い呟きはリドルフのものだった。
 この空気のなか、あり得ない頃合で発せられたそれに、ただならぬ気配を感じ、ハルは思わず振り返った。
 おかしなことが起こっていた。
 リドルフのとなりで跪き、同じように頭を垂れていたはずのセティが、崩れたように傾いてリドルフの左肩にもたれかかっている。
「セティ、セティ」
 向き直り、力を失った体を支えてリドルフが頬を叩きながらその名を呼ぶ。そのたびに、長い髪のあいだから覗く白い面が、人形のように頼りなく揺れている。
 それを見た瞬間、立場も状況もすべてを放り投げてハルはセティに駆け寄った。濡れた地面のうえに座り込み、放り出された白い手を取って必死に名を呼ぶ。
 目を閉じて脱力したその姿は整いすぎる顔立ちが災いして、ほんとうに陶器の人形のようだった。いつもは小童呼ばわりしているメイラも顔色を失い、肩に手を置いて揺すりながらその名を呼ぶ。
 リドルフがセティの体を横抱きに抱き上げようとしたそのとき、ハルの小麦色の手のなかで白い手がぴくりと動き、長い金色の睫が震えた。
「セティ!」
 薄く覗いた淡紫色の瞳は、焦点が合っていない。
 大儀そうに眉を寄せ、地面に両膝をついて、まるで泥酔しているかの動きでふらりと体を起こす。
 ハルが、メイラが、そしてリドルフが、目と口を開けたまま息を呑んだ。
「だめだ、眠い……」
 かくんと首が折れ、均衡を失った体がふたたびリドルフに向かって倒れる。
 両手を差し出し、しっかりと抱きとめたリドルフが勢いあまって尻もちをつく。ハルの頬に、泥水が一つはねた。
 一瞬の沈黙の後、音がたつほどの勢いで三人が一斉に顔を覗き込むと、セティはすうすうと穏やかな寝息を立て、安穏とした表情ですっかり寝入っていた。
 思わぬ展開にハルとメイラはただただ呆気にとられ、目をしばたたかせるばかりである。
 そんな中、ただひとりリドルフだけが、まるで宝物にでも触れるようにそっと金色の髪に手を置き、そして肺腑を空にするような深いため息をついて、心底安堵したかのように目をつむった。
「一体、何事か」
 苛立ちを隠さぬその声に、リドルフがぱっと目を開く。
 腕のなかにある脱力した青年の体を機敏な動作で抱き上げると同時に立ち上がり、姿勢よく一礼した。
「連れの気分が悪いようなので、寝かせて参ります。ご命令があれば、改めて出頭いたします」
 その表情も、声音も平素と全く違いがない。ロガンは鼻白んだようすで、軽く手を振る。
「いや、もういい。こういう状況だ。家人のなかには気が昂ぶっている者も多い。あまり、刺激したくないのでな」
 言外に、これ以上ナディール人の顔は見たくないという意図がありありと滲んでいた。ハルは頬にはねた泥水を乱暴に手の甲で拭って立ち上がった。
「私もお暇致します」
 ロガンが呆れたように鋭くハルの名を呼び、近寄る。
「人が必要なら、兵の用意をしよう。なにも好き好んでナディール人と行動することはあるまい」
「人が必要なのではありません」
「私の言う意味がお分かりにならないというのか」
 ハルがふっと頬を緩めて、澄んだ瞳を真っ直ぐに向けた。
「我が国の民に、肌や瞳の色が違うというだけで─── そのようなばかげた理由で、人に向かって石を投げるような心の貧しい人間がこの国にはいないことを、私は信じております」
 ざわついていた人垣が、波を打ったようにしんと静まる。
 なぎ倒された極彩色の大輪の花の陰で難を逃れた、白い小さな花の花弁から雫がぽたりと落ちた。
 顔を赤黒く染め、わなわなと震えるロガンの姿は、言うなり踵を返したハルの目には映らない。
「メイラ」
「は」
 忠誠を示すように老女が頭を下げて答える。
「リドルフ殿」
「はい」
 穏やかな空色の目が微笑んでいた。
「行きましょう」
 ハルを先頭にして粛々と、そして堂々と歩く。
 彼らを呼び止めるものは誰ひとりいなかった。
 夜が完全に明けていた。
 ロガン邸の門扉もとうに見えなくなったころ、黙々と先頭に立ったまま歩を進めていたハルが突然足を止める。
「殿下、いかがされましたか?」
「……言ってしまった」
「は? 何のことでございましょう?」
 メイラが怪訝な表情で、ハルの顔を覗き込む。
「叔父上に、あんなことを言ってしまった!」
 ハルは両手で自分の頭を抱え込んだ。
「慣れないことはするものじゃないな。体がすっかり震えてしまって、どうにもならない」
 無意味にメイラの肩をつかんだり、離したりして、それから、落ち着きなく右左に行ったり来たりを繰り返す。
「まるで、どこかの誰かのような勇ましさでしたよ」
 リドルフが横目で自分の背中を示し、赤ん坊のようにすやすやと眠る大きな荷物を背負い直す。
「やれやれ、とんだ悪影響だこと」
 盛大なため息と憎まれ口とは裏腹に、メイラの顔に浮かんでいるのは満足げな笑みだ。
 はたと動きをとめたハルは、やがて、抜けるような青空よりもずっと晴れやかに、そして、実に嬉しそうに笑った。

終章 王都

   Ⅰ

 土煙。
 や、という気合いの声に、悲鳴。
 刃と刃のかちあう、澄んだ音。
 力は受け止めず横に流す。
 師にくどいほど刷り込まれたその言葉を口中で呟きながら、柄を両手で握って刃を横になぐ。
 言われたとおりできた。
 あとは、そのまま素早く手首をひるがえして切り上げるだけだ。ただ、ひたすらに相手の首筋を狙って。
 目論みは半分だけ成功した。
 刃が描いた軌道はほぼ思い通りだったが、はじまりの思い切りと早さが足りない。いつも師が見せてくれる、白光のような太刀筋とはかけ離れたものだった。
 渾身の力をこめてふるった刃は空を切り、勢いあまって体勢を崩す。
 がら空きになった胴を目掛けて相手の剣がせまってくる。
「伏せろ!」
 体勢が崩れた勢いをそのままに、ほとんど反射的にその声に従った。
 口のなかに広がる土の味と、鉄臭い味。太陽の熱を吸った地面が、熱かった。
 他には一切の感触も、音も、なにもない。
 もしやこれが死というものなのだろうか。
 そうだとしたら、死とはひどく穏やかで、優しすぎる。恐れることなど全くないものではないのか。
 ぼんやりとそんなことを考えていたら目の前が翳かげった。
「終わったぞ」
 地に伏したまま顔だけを上げてみると、そこにあったのは神かと見紛うほどに幻想的な美しい顔だ。その顔に浮かんでいるのは、怒りと呆れ、そして安堵をないまぜにしたようなもの。
 ふと視線をずらすと、彼のすぐ横に先ほどまで剣を交えていた覆面の男の姿があった。背には剣が深々と突き刺さり、すでに絶命しているようだ。突き立った剣の柄にはめこまれた月長石が、高くなりはじめた太陽の光を反射して目に眩しかった。
 腕をとり、立ち上がらせてくれるその人物に小さく謝辞を述べると、彼は不機嫌そうに形よく整った金色の眉を片方上げた。
「また、ためらっただろう」
「……そうなのでしょうか」
「稽古のときには、もっと早く振れている」
「すいません」
 消え入るような小さな声で答えると、頭上からため息が降り注ぐ。
 こうして何度ため息をつかせたのだろうか。思い返しているうちにだんだんと、申し訳なくて、情けなくて、いたたまれないような気になってくる。
 所有者の意思を無視して勝手に潤みはじめた瞳から、今まさに涙がこぼれ落ちようとしたそのとき、すっと白い手が伸びてきて、慣れた手つきで頬についた土をやさしく払ってくれる。
「まあ、ハルらしいといえばそうだけどな」
 険の消えたものいいにはっとして顔を上げると、世にも美しい造形が、人であることを証明するように笑っていた。その笑みが、目が合った途端にぎょっとして凍りつく。
 どうやら顔を上げた拍子に涙が転がったらしい。怒ったように、うろたえるように、それから憮然としたように─── ごく短いあいだにその美しい顔を七変化させて、結局、白い指先でついでに涙も拭ってくれる。
「こんなことぐらいで、男が泣くなよ」
「すいません」
「また私が婆さんに叱られ……」
 言葉がそこで止まる。
 凍りついた視線のさきを追うと、眉を吊り上げた老女がいた。彼の懸念は正しかったらしい。
「こら、小童! また殿下を泣かせたな!」
「人聞きの悪いことを言うな。いつ私がハルを泣かせたっていうんだ」
「問答無用! 殿下を泣かせる者は成敗してくれる」
「わっ、待てって!」
 首を引いた美貌の持ち主は無意識に腰間に手を伸ばすが、そこにぶら下がっているのは鞘だけである。とびのいて、全く加減のない太刀をかわし、同時に懐から短剣を抜き、次の一撃は短い刃で受け止める。老女とは思えぬほどの力に押され、形よい鼻先で刃がこすれてぎりぎりと鳴る。両手で短剣の柄を握る美貌の青年は、口と眉をヘの字にして、全く情けない顔だ。
「仲間割れ反対!」
 切実な絶叫が木霊する。じゃれあいなどという暢気(のんき)なものとはかけ離れたこのやりとりが、彼らにとっては意思伝達の一環で、しかもこれが倍以上の人数を相手にした直後の出来事であるから、感嘆を禁じえない。二人はまったくもって元気で明るいのだ。
 思わず笑いをもらすとふわりと優しい匂いが香り、別の方向からぬっと影が現れた。
「どうしました?」
 空色の瞳の持ち主が、とんとんと自分の唇の脇を示す。
 言われて拭うと、手に紅いものがついていた。
「あ、伏したときに口のなかを少し切ったようです」
 たいしたことないと付け加えると、その人物は慈母のように微笑んで、少し離れた場所で未だ不毛な追いかけっこを続けている二人を呆れたように眺め、軽く片手をあげて、呼びかけた。
「休憩にしましょう」
 体を大きく後ろに反らせて孤剣に空を切らせた美青年が、そのまま地に片手をついて体を跳ね上げる。軽業師のようにきれいに着地してみせると、憮然としていながらもどこか楽しそうな顔の老女に向かって片目を瞑ってみせた。それが終わりの合図で、駆け戻ってきた彼は敵の骸むくろに突き立てたままの愛剣を引き抜き、疲れなど感じさせぬ軽い足取りで荷物の置いてある岩陰へ向かったのだった。

 トゥルファを発ってから、半月あまりが過ぎようとしていた。
 ハルの明確な意思表示により、ロガン公の屋敷を辞去した一行は、街で宿をとり三日ほどの時をそこで過ごした。
 二日間はとりあいず何事もなくすぎていった。
 それは、単純にセティが目を覚まさず、身動きできなかったからでもある。
 ロガン邸で異様な眠気を示したセティは、実に昏々と眠り続けた。その表情はたいそう穏やかであったが、さすがに異常を感じたハルがリドルフに尋ねたところ、法術を使った反動だという。
 そう言われてメイラは納得したような、しきれないような複雑な顔をしたが、ハルはすぐに合点がいった。彼女自身がトゥルファに向かう途中の町で無意識ながら、たぶんそれに近い状態に陥ったことがあったのだ。
 いつ目覚めるのかというメイラの率直な問いに、リドルフはいつもの冷静な顔にわずかな懸念のようなものを滲ませ、分からないと首を振った。何も問題がなければ法力が充足すれば自然に目を覚ますはずなのだが……と、言いよどんで。
 実際、不穏な状態はそれからさほど長くは続かなかった。セティは周囲の心配をよそに二日目の夜に実にあっさりと目を覚ましたのである。
 どちらかと言うと目を覚ました後の方がメイラとハルを驚愕させた。とにかく食べるのだ。
 その外見にはそぐわないのだが、彼は元来大食漢といっても差し支えない。ところが覚醒したセティは空白の二日間の分を取り戻さんばかりの勢いで、食べる。リドルフによればそれも法術を使った反動のひとつらしいのだが、それは、感嘆を通りこして完全に手が止まってしまっているハルのために、恐ろしいほどの速さで消えていく卓上の料理をメイラが慌てて取り分けるような事態だったのだ。
 そうしてセティの食欲が満たされてから、ようやく今後について具体的に話を詰める作業がはじまった。
 行き先は大陸の南端に位置する王都ウルグリードと決まっている。
 このような状況になった以上、あとは王太子本人や王がいるその地に戻り、真相を明らかにする以外に選択肢はもはやなかった。場合によってはハル自身の手で、親族のだれかを糾弾するような事態も避けられないかもしれない。それを思うと誰もが彼の心の内を慮って憂鬱な気分にならざるをえないのだが、さしあたり彼らが考えなければならなかったのは、王都まで無事に辿りつくことである。
 トゥルファからウルグリードまでは大まかに二通りの経路がある。ひとつは、砂漠地帯を避けて進む迂回経路。もうひとつは、砂漠地帯を横断して進む最短経路だ。
 通常ならば当然、砂漠地帯を迂回して進む。旅人や商人のために宿場も給水施設も整備されているから危険も少ない。
 しかし、考察を重ねたうえ、最終的に彼らが選んだのはリスクが高い砂漠を横断する経路であった。
「それにしても、よくも飽きずに仕掛けてくることよ」
 岩陰に腰を下ろし、メイラが片目を細めて血を拭った愛剣の刃を陽光にかざす。強い熱を帯びはじめた光が、細かな刃こぼれと刀身の曇りを浮かび上がらせる。
 そのとなりでセティも同じような仕草をしてみせる。傍らのメイラには細造りの剣はあれだけの人間を切り払ったのが信じられないほど一点の曇りもなく、白い光を反射しているように見えた。しかし、宝玉のような目にはそうは映らなかったらしい。
「全くだよ」
 剣を置き、ため息交じりの返答をすると、セティは少ない荷物のなかから手のひらほどの大きさの、使い込まれた砥石を取り出したのだった。
 彼らがあえて危険の多い、砂漠地帯の横断経路を選んだのは、二つの目的があった。
 ひとつは、単純に襲撃の回数を減らすことである。
 ハル・アレン王子の目的地は襲撃者たちも予測していると思った方がよかった。一行の人数は四人で、しかも一般的には気温の変動に耐性の低いと言われるナディール人を二人含んでいる。剣技と法術に長けた二人はあいにくとその点に関しても常人ではなかったが、彼らがそこまでの情報をつかんでいるとは考えがたい。客観的に見れば、砂漠を横断するのにはあまりにも心もとない人数と構成である。敵は一同が迂回経路を進んでくると考えるに違いない。それならば、横断経路を選べば少しは襲撃の数を減らすことができるかもしれない。
 そして、ふたつめの目的は、周囲の人間を巻き添えにしないことである。
 ラガシュからトゥルファの道中では、宿をとる町に術がかけられ、井戸が枯れるという事件が起きた。また、先日はトゥルファの都督の邸宅を半焼させるような事態にもなった。自分たちが狙われるのは、仕方ない。仕方ないというのはいささか投げやりにも思われるが、自分の意思とは無関係のところでそういう状況になってしまった以上どうにもならない。周囲がそれに巻き込まれるのは、当然彼らの責任ではないが、若く、少々不器用に思えるほどに真っ直ぐすぎる二人がそうも簡単に割り切れないことを、リドルフもメイラも心得ている。
 また、周囲が巻き添えになる襲撃といえば、セティを狙った法術によるものの方が規模が大きくなるが、法術の襲撃には砂漠横断経路の方が対処しやすいというのが、法力を持つリドルフとセティの共通した意見でもある。
 彼らは万物に宿っている精霊と呼ばれるものの動き方などから、術を感知するらしいのだが、砂漠のように限られた物質しかないところの方が、近くに存在する精霊の種類も少なく、周囲に起こる異変をより早く察知しやすいというのだ。
 さらに大地の神(アナリ)の術を使うリドルフは、砂や岩といったものに宿る精霊はもっとも扱いやすく、法術を仕掛けられた場合、より迅速に有効な対処ができるらしい。
「これで、迂回する方を選んでいたらえらいことになっていた」
 正対すれば気後れしそうなほどの眼差しで刃を砥石のうえで滑らせていたメイラが、低い声で誰ともなく呟く。
 砥石のうえで己の愛剣を数度だけ滑らせたセティが、刃をふたたび日にかざし、目を細めた。
「砥石が足りなかったかもしれないな」
 厚めの唇がゆるやかに笑みの形を描くのを横目で見て、メイラは呆れた。全く容貌にそぐわぬ豪胆な人物である。
 王都まであと一日というところまで迫った彼らは、その選択の正しさを今まさに確信している。
 砂漠を横断しているあいだ一行が物理的襲撃を受けることはなかった。さらに幸いなことに、超自然的襲撃も一度もない。
 おかげでセティは、はじめて目にした砂の大地の雄大さと星の美しさに大いに喜び、ハルは剣の稽古に専念することができた。彼らが歩んでいる道は本来、薄氷のように心もとなく、霧に包まれた山道のように険しいものであるはずなのに、それを忘れてしまうぐらに平穏で楽しい一時を過ごしてしまったのである。
 物理的襲撃が起こりはじめたのは、迂回経路と横断経路の合流地点を過ぎたあたりからであった。しかも、進路の前方からではなく、後方からの襲撃である。それは、まさに彼らが迂回経路で待ち構えていたことを証明するものであった。
 進路を前から塞がれると、いちいち敵を殲滅していかなければ前に進めないが、後方からの攻撃は前方からのそれに比べて、まだあしらいやすい。剣においては二枚看板であるセティとメイラが適度に撃退しては前に進むということを繰り返してきた。
 今や襲撃は日に日に回数を増し、さらにその規模も拡大してきている。それは同時にハル・アレン王子の王都帰還を何としても阻止しようという見えざる敵の意思の表れである。
「まあ、ハルにもちょうどいい実戦経験だ」
 研ぎ終えた愛剣の仕上がりに満足そうに目を細めたセティは、傍らの老女がじろりとにらんだのに気がつかず、かわりにリドルフが淡い苦笑を浮かべるのであった。
 数日前からは、セティの提案で戦闘にハルも加わりはじめている。
 しかしそのハルは、せっせと刃の手入れをするメイラとセティの脇で、所在なさげに膝を抱えて座っているだけで、二人のように腰に下げた剣を手入れすることはない。
 ラガシュを出て以来、約束どおりハルに剣を教えてきたセティは、その腕を実戦に出ても問題ないものと評した。セティが使う剣は、多くのガイゼス人たちが使う手法とは全く異なり、動きに無駄がなく、それほど力がないものや体力のない人間でも十分にものにできるものであった。優秀な師のもとで、生来勤勉な性分のハルの上達は驚くほど早く、メイラの目にさえもそれは明らかだった。
 しかし、未だハルの剣は未だ一滴の血も吸っていない。だから当然、研ぎなおす必要などもない。
 メイラはハルが巧く剣を操れるようになるよりも、リドルフの守護の中で彼とともに後方で控えてくれていた方が、よほど心穏やかであるのだが、セティがそれを許さないし、何よりもハル自身がそれを望んでいない。おかげで、ここ数日のメイラは体力以上に神経をすり減らさなければいけないのであるが…。
 目的地であるガイゼスの王都、ウルグリードを目前に控えたこの日、一行は久々に半日ほどのゆっくりとした休息をとることになった。
 先を急ぐのに越したことはないが、連戦によっていくぶん体力は消耗してきている。それを証明するように昨日の戦闘では、メイラはらしくもなく左腕に浅手を受けていた。もっとも名医でもあるリドルフがすぐに治療を施し、先の戦闘でも彼女は常と変わらぬ動きを披露してそれが心配のないものであることは実証してみせたのたが、連戦が体力と集中力の双方を磨耗させていることは疑いようもない。
 目的地到達を目前にして逸る気を抑え、休息を提案したのは一行の衛生面に関し全権を委ねられているリドルフだ。
 朝の戦闘のせいか気の高ぶりを引きずり、日中は睡眠を取らず会話を交わしながら、荷物を運ぶために一頭だけ連れているラダに秣まぐさを食はませたり、各々剣の手入れや薬草の整理などに時間をあてる。
 ちなみに、ラダというのは馬と駱駝らくだ双方の良いところを集めたような動物で、トゥルファより以南では荷物を運ばせることは無論、移動手段としてもよく使われるらしい。
 話すのはたわいもないことばかりで、深刻なものは全く話題に上らない。神経が細やかなため、ともすれば沈みがちなハルを気遣ってかそれとも無意識か、自然に一同のなかでは会話の舵取り役になっているセティがそういう方向にさせないのだ。これには、ハルだけでなくメイラもおおいに救われている。ただでさえ、到底楽観できぬような状況である。だからといって、気分もそれに合わせていては、敵にやられる前に神経が衰弱して自滅してしまうというものだ。
 携行食での味気ない食事の後、交替で睡眠を貪りはじめたのは、空に星の神(シャイラ)月の女神(アイレ)が現れたころだ。
 トゥルファを発って以来、剣と法術のバランスを考えて露営での仮眠はリドルフとメイラ、セティとハルの組み合わせで交替しながら取っている。
 先に休んでいたセティとハルが交替の時刻に目を覚ますと、思わずぶるりと身震いするほど肌寒かった。
 この周辺は砂漠地帯に比べればまだましだが、それでも朝夕で寒暖の差がかなり大きい。そのために火番は起きている人間の大事な役目でもある。
 外套(がいとう)にすっぽりと身を包み、立ち襟に口元を埋め、火にあたりながらも小さくなって震えるハルに、セティは無言で自分の外套を脱ぎ、華奢な肩にかけてやる。
「大丈夫です」
「そんなに震えて言われても説得力がない」
 慌てて返そうとしたハルに、セティは片方だけ口の端を上げて笑う。外套のしたのセティの服装はハルよりもずっと薄着であるのに、セティは寒さに震えるようすもなく岩のうえに腰掛けてのんびりと小枝で火のなかをかき回していた。
 うかがうような、気遣うような視線に気がついてセティはさらりと言った。
「冬のハプラティシュに比べれば楽園だよ」
 ハプラティシュは、ナディールの王都であり、国都である。
 大陸の遥か北に位置するその都市は、冬のあいだ雪というものに覆われるのだという。ハルは雪を見たことがなかった。
「セティの故郷はどんなところですか?」
 自分のものよりも意外と大きい外套を素直に羽織ったハルが、それを胸の前で押えながらセティのすぐとなりに腰かけると、彼は満足そうに目を細めた。
「どんなところ? ナディールの国都で王都で──」
 セティは首を傾げ、腕を組んでうなる。書物で知った見知らぬ都市のように、表面的な情報を口にする。それはどれもハルが知っている程度のことで、とてもその地で生まれ育った人間の話す内容とは思えなった。
 訝しげな視線に気づいたのか、セティは薄く笑った。
「実際のところは私もよく知らないんだよ。あまり出歩いたことがなかったから」
 その言葉と表情で、セティがどういう立場の人間であるかハルは強烈に思い知らされた気がした。セティが漂いはじめた微妙な空気を変えるように明るく問いかけた。
「ハルは? ハルの故郷はどんなところだ?」
 懐かしい情景が色鮮やかにハルの脳裏に浮かんだ。もうそれは、頭の片隅にしまいこんだ古い記憶であるはずなのに。
 気がついたら、唇が勝手に言葉を紡いでいた。
「……水と緑が豊かな、平和なところでしたよ」
「水と緑? ウルグリードが?」
 セティがあげた素っ頓狂な声に、ハルははっとする。
「あ、あ、ええと、私が産まれたのは実は、アドリンドなのです。八歳までアドリンドで過ごしていて、ウルグリードに移ったのは九歳のときで──。なので、私にとって故郷というと、どちらかというとアドリンドの方がしっくりくるのです」
「ふうん」
 アドリンドはガイゼスとナディールのちょうど中間ぐらいに位置する、西方の小さな国である。
 大戦時には、戦乱を避けておおくのガイゼス人やナディール人が流れ込んでいたという事実もある。ガイゼスの王子たるハルが身の安全のためにアドリンドで過ごしていたとしても、少しもおかしい話ではなかった。
「そうだったのか」
「ウルグリードも、静かな街ですよ。トゥルファよりもずっと規模は小さいですし、雰囲気はラガシュに近いかもしれません」
 とりなすように早口に続けたハルに、セティは神妙な顔を向けた。
「父君の御容態も心配だな」
 一瞬の間。呆けたように開いたままの黒鳶色の瞳を見つめ、セティが首を傾げて、小さくその名を呼ぶ。
「そうですよね―――。そうでした」
 独白のように呟いて、ハルはまた間を埋めるように曖昧な笑みを向ける。そして、訝しげに首を傾げたままのセティに、
「父という言葉に、国王陛下がうまく結びつかなかったのです」
 と、釈明をする。
 ハルには、生い立ちや家族のことなど、込み入ったことをセティに話すことに、躊躇いはなかった。むしろ、距離が近づいたような気がして嬉しくさえ思えた。ただ、彼が反応を迷うように神妙な顔をつくったので、それが申し訳ないような気がして、咄嗟に会話の方向を変えることにした。
「セティの父君はどういう方ですか?」
「私か? 私に父母はない」
 ハルは瞬時に自分の迂闊さを呪った。急せいて舵取りをしたその方向を、間違えたのだ。
 しかし、当のセティの方はというと、先ほどまで浮かべていた表情とは打って変わって、からりとした顔をしている。
「いないというのは少し違うな。存在してはいるけれど、私にとって彼らは父母ではないと言った方がいいか。私は生まれてすぐに俗世から離れて神殿に入っているから」
 一向に屈託のようなものを表さないセティのその裏にある感情が推し量れなくて、今度はハルが戸惑う番だった。自分から振った手前なにか返さなければと思い、目まぐるしく思考を巡らせてみるのだが、結局どうしたらよいのか分からず、言葉なくうつむくしかできない。
「悪かったな。父君のこと─── きっと、無神経な聞き方をした」
 それを横目で見遣って、ぽつりとセティが呟いた。
「私は家族というものを頭では理解しているつもりでも、やっぱり感覚的には理解しきれていないんだ。ましてやハルは王族だし、そんな簡単な話ではないよな」
 どうやら、セティはハルがうつむいた理由を勘違いしたらしい。ハルは慌てて顔を上げた。
「いいえ、私の方こそ」
 すいません。と消え入るような声で続けると、セティは指先で鼻をかいて照れくさそうに笑う。
「いや、そういうことを尋ねられるのは、実はちょっと嬉しい。国にいたときは考えられないし、友人っていうのはきっと、こういう感じだろう?」
 同じことを考えていたのだと分かって、嬉しかった。けれど、実際にハルが出来たことは小さく頷くことだけで、セティはそれを見てまた笑った。
 夜闇に橙色の炎が浮かんでいる。
 時折セティは、昼間四人で集めたよく乾いた小枝をくべて、炎のなかをかきまぜる。そのたびに火の粉が舞い、それを避けるようによく整った顔を少し歪める。
 炎の赤いひかりに照らされたその顔は、明るい陽の下で見るよりも壮絶に美しく見えて、少し前までなら気圧されていたかもしれない。けれど、今は違う。
 こうしてセティと膝を並べて座るのは、もう何度目かも分からない。トゥルファからここまでの道程は、大半が野営だった。リドルフとメイラが休んでいるあいだ、二人でさまざまな話をした。たわいもないことが多かったかもしれない。それでも今はそれが揺るぎがたい信頼の土台のようなものになっている。
「聞いてもいいですか?」
「何なりと」
 胸に手を置いて、まるで貴公子がするように頭を下げるその冗談めかした仕草が、容姿には似合うのに、セティには似合わない。
「セティはなぜ剣を使うのですか?」
「それはまた、ずいぶん唐突な質問だな」
 肩をすくめて見せながらも、セティの目は真摯(しんし)だった。きちんと答えてくれようとしているのだ。
「法術で人を殺めるのは、好かない。殺めなければならないのなら、剣の方がずっといい」
 ちょっと遠い目をするセティに、ハルはトゥルファでの凄まじい雷雨を思い出していた。
 具体的にどの神殿の、どの位であるかは知らないが、彼がどうやら高位の神官であるらしいことは、なんとなく知っている。
 そしてそれは同時に、本来ならば剣などというものに縁遠いような人物であることを意味する。ましてやナディールでは、武具を使うこと自体が野蛮で下品であるという価値観がはびこっているのだ。そんな国の、高貴な人間が剣をとり、手を血に汚している。
「刃は骨を断つ感触、肉を切るおぞましい感触が手に残る。それに、血の臭いも──。命を奪ったというその感触が重たいほどにのしかかる。人を殺めたのだと、恐ろしいほどに実感できる。それに比べて法術は残酷で優しすぎる。術者には命を奪ったという実感がまるでないから」
 セティらしい潔い答えだった。それは、眩しすぎて直視できないほどに。こういう人だから、惹かれて止まないのだとハルは納得すると同時に、どこか卑屈な思いにも駆られる。
「……誰かを殺めないと、人は生きていけないのでしょうか」
 人を殺めてまで、自分に生きる価値があるのだろうか。
 自分は必要のなかった人間なのだという思いがハルはどうしても拭い去れない。
 自分の存在意義は自分でつかむのだと、命の重さに優劣などないのだと、両眼に眩いばかりの生気と活力とをたたえて晴れやかに笑ったセティの顔は、胸に深く刻まれている。
 しかし、八年前のよく晴れたあの日の出来事は、まるで昨日のことのように鮮明に脳裏に焼きついており、己を嘲笑いつづけるのだ。
 お前は生まれてきてはいけなかったんだよ、と。
 それを断ち切るように、剣を振るってみる。それでも、どうしてもあの光景が頭をかすめ、身を縛り、手足を竦ませる。
「ほんとうは、そうじゃないといいんだろうな」
 それは慰めのようにも聞こえたし、彼の本音のようにも聞こえた。
「でも、そういう立場に生まれてしまった以上、それから逃げてはいけないんだとも思う。自分がやらなければ、代わりに誰かがやることになるし、その代わりの人間が傷つくことにもなるだろう?」
 アイデンの町の側ではじめて襲撃を受けたとき、たくさんの人間が自分を守って死んだ。そして、昨日メイラも浅手とはいえ、確かに傷を受けたのだった。
「迷いながらでもいいんだ。大事なのは、剣を投げないことだって、私は思う」
「セティも、迷っているのですか?」
 ほんの一瞬、面食らったような顔をして、それからセティは長い足を投げ出して、炎を見つめたまま自嘲するように笑った。
「そうだな。私も、きっと迷っている。迷いながら、でも、剣を振っている。ただ───」
 向き直り真っ直ぐに向けられた宝玉の瞳に、負の感情はなかった。
「ハルが剣を振れなかったら、私が代わりにその相手を殺す」
「なぜですか?」
「なぜって、簡単なことさ」
 その口調は、どうしてそんなことが分からないのかと、さも言わんばかりだ。
「ハルが死ぬのが嫌だからだよ」
 まるで頭を殴られたような衝撃だった。
 胸の前で握っていた手のなかから外套がするりと抜けて、ちょうど運悪く吹いた突風に大きく煽られ、宙になびく。
 素早い反応と動作で今にも飛びかけていた外套の裾をつかみ、元のように肩にかけてくれながらセティが顔を覗き込んだ。
「ハル?」
「まだ聞いてもいいですか?」
 ハルが頬を紅潮させて身を乗り出すと、セティは驚いた顔をして気圧されたように頷いた。
「人を斬るとき、なにを思っていますか」
「また難しいことを聞くな」
 セティは苦笑して、それでもやっぱり真剣に答えようとする。
「何も考えていない。斬らなきゃ、斬られる。それだけだ」
「斬られるのが、嫌…?」
 他の人間に言えば一笑に付されるような問いだとは、十分わかっている。それでもハルはセティに聞いてみたいと思ったし、聞いて良いのだとも思った。
 しかし、返ってきたのは思いもよらぬ言葉だった。
「─── 嫌だと思えるときとそう思えないときがある」
 しばしの沈黙の後、抑揚なく一息で告げられた答え。その瞬間、ハルはさっと音をたてて心が冷えていくような気がした。
 セティの端正な顔には一切の感情が失せていた。
 しかし、誰よりもそれに驚いたのは言った本人だったかもしれない。
 ハルが聞き直すよりも早く、セティ自身がはっとして決まり悪そうに口を手のひらで覆う。
 そのとき、ハルの脳裏にあのときセティが浮かべたいびつな表情と、とリドルフの言葉がひらめいた。
 セティの陰の部分はすべて拒絶する、と───。
 これだ。これは陰の部分だ。ハルは、ほとんど直感的にそう思った。
 その瞬間、一切の自分のことを、忘れた。
「なぜ、嫌だと思えるときとそうでないときがあるのですか?」
 気ばかりが急いて、もつれる舌を叱咤しながら動かしてハルは訊いた。
「なぜ……?」
 セティはぼんやりと繰り返して、それから口元を覆ったまま苦しげに眉を寄せる。
 炎のなかでまた木のはぜる音がして、火の粉が舞う。
 つい先ほどまで強い意志と活力とを宿してきらめいていた瞳が急速にかげり、頼りなさそうにふらふらと宙を泳ぐ。それは、まるで、迷子になった幼子のように。ハルは思わず息を呑む。
「そんなこと、深く考えたことがないから分からないよ」
 セティがとってつけたような明るい声で言って、大げさに肩をすくめてみせた。その瞬間、瞳にもいつもの光が戻ってきた。
 陰がまた影をひそめた。
 手をのばせばつかめそうな位置に、確かにそれはあったのに。
 ハルは悔しくてならなかった。

   Ⅱ

 出発は東雲(しののめ)というのが、ガイゼスでは常識である。
 旅人達は南に進むにつれてそれを頑なに守る。否、守らざるを得ないというべきか。
 太陽が一番高い時間帯には、ときに己の体温と外気が等しくなることもある。出発の刻を誤れば命に関わるようなことにもなりかねない。
 十分に休息した一行も例にもれず、明け方に出発した。
 先頭はメイラ、次にハルとセティ、そして最後尾をリドルフがラダを引きながら歩く。
 このままいけば昼前にはウルグリードに着く。むろんそれは、何事もなければという大前提が守られたうえでの話ではあるが。
 この日、彼らは珍しく口数が少なかった。
 誰もが何事もなくこのまま辿り着けることを願い、そして、それが実現しないことをどこかで覚悟している。ここ数日の襲撃の執拗さを思えば、それは当然だった。
 二言、三言で終わる短い会話を交わしながらも、五感は絶えず四方に向けて張り巡らせている。わずかな異変も見逃すまいとばかりに。
 何も起こらない。行程を順調に消化していくにつれて、メイラは違和感を覚えはじめていた。表向きの平穏。しかし、これが嵐の前の独特の緊迫感を孕んだ偽りであることを、その人生の大半を戦に身を投じてきたメイラはひしひしと感じていた。
「おかしい」
 ついに口をついて出た彼女の独白に答えるものはない。しかし、実戦経験の浅いハルも鋭い感受性の持ち主であるせいか、無意識のうちにそれを感じていたし、セティとリドルフは精霊たちが落ち着きなく飛び回っているのを目で追っていた。
 目に見えて状況に変化が現われたのは、それからさらに一刻ほど進んでからである。
 一行でいちばん視力のよいハルが、空気を漏らすようにわずかに声を上げて立ち止まった。
 それを問いただす者もない。
 何が起きているのかは、そのときすでに全員が気付いていた。
「形振りかまっていられないってやつか」
 セティが呆れたように呟いたが、その表情には珍しくゆとりはない。
「これはもう、襲撃ではない」
 険しい表情で前方を睨み据えたメイラが、ごくりと喉を鳴らす。
「戦だ」
 遥か前方、地平線かと思われたのは人と馬とラダの列だった。
 陽のひかりを白く反射する刀槍は無数。その人数が一行の何倍になるのか、目で見る限りではもはや確認もできない。
 嘆いている暇はない。状況を認識するとほぼ同時に、どう対処するべきかセティとリドルフは目まぐるしく思考を巡らせはじめていた。
 セティの頭のなかにはふたつの選択肢が浮かび、リドルフにはもっと多数の選択肢が浮かぶ。しかし、各々異なる理由で二人ともそのうちのどれを取るべきか決めかねていた。
 一方、ハルはあまりの衝撃に全く思考能力を奪われてしまい、少し伸びた黒髪を風の思うさまになぶらせて呆然と立ち尽くしていた。
 誰も言葉を発しない。
 ただ、地面を踏みしめ、土煙をあげながら近づいてくる一団を見据えている。
 最初に行動を起こしたのはメイラであった。
 彼女はラダの背に積んでいた荷物を無造作に掴むと、おもむろに地面に放り出していく。訝しげな一同の視線も無視して、すべての荷物を下ろしてしまったところで、静かに口を開いた。
「セティ」
 メイラはいつも名など呼ばない。セティが敬愛を込めて婆さんと呼ぶのに対し、親しみを込めて小童と呼ぶ。だから、いつもと違う呼び方になにか覚悟のようなものがちらついているような気がして、セティは嫌だと思った。
「殿下とともに駆けろ」
「なっ───」
 突拍子もない指示に絶句する。
「ラダは二人ぐらい乗せても早く駆けられる。それに、殿下はラダの扱いも巧みでいらっしゃる。障害物はお主が斬り捨てればいい。必ず王都に辿り着ける」
「そんなこと!」
「これは戦だ。戦は目的を達成するための手段にすぎん。彼奴(きゃつら)の目的は、殿下のお命。すなわち、殿下が王都にたどり着けば、この戦は勝ちだ」
 返す言葉を必死に模索するセティとハルのその脇で、リドルフは薄い唇で思わず笑みを描いていた。
 状況に対応するべく、頭に浮かんだいくつもの選択肢のなかで、真っ先にとりたいと考えた選択。しかし、猛反発するだろう二人を、このわずかな時のあいだに納得させる術が見出だせず、迂闊に口に出せなかった。しかし、メイラがそれを実現するための道筋を見事なまでに鮮やかに示してくれたのだ。
「ハル様」
 いつもならば聞くだけで安堵するような優しい声音が、ほだされてしまいそうな気がして、今のハルは嫌だと思った。
「セティを頼みます。彼を、王都まで連れて行ってください」
「リド! お前まで──」
 言葉を失ったハルのかわりに、セティが声を上げる。リドルフはそんなセティのことなどきれいに無視をして屈みこみ、ハルを澄んだ瞳で見上げた。
「ハル様にお頼みするしかないのです」
「リドルフ殿は……?」
 空色の瞳がちょっと微笑んだ。
「私はここでメイラ様とともに、少しでも追撃が減るように食い止めましょう」
「法術で?」
 リドルフの操る術は、人を傷つけるような類のものではないことをハルは知っている。彼の力は人を守り、そして癒すようなものなのだ。
「ハル様のお立場を悪くするようなことは、決していたしません」
 リドルフが暗に示したのは、トゥルファのロガン邸でのことだろう。すぐさまそれに気付いた聡いハルは勢いよく首を振る。
「そんなことを心配しているのではありません。私の立場など、どうでもいいのです」
 ハルの清廉さを愛でるように目を細めた空色の瞳の持ち主の名を、セティが鋭く呼ぶ。次に彼が口にするだろう言葉を知っていて、まるで牽制するかのように。
 しかし、リドルフはためらうことなく、その先を口にした。
「私も少しだけ剣を使うことができます」
「剣……」
 軽く背中を見遣ってリドルフの言う意味が、ハルにはうまくしみてこなかった。
 彼が背負っているものは確かに知っている。しかし、いちいち訝しがる初対面の人間に嫌な顔一つせず、静かに、同じ説明を繰り返すさまを幾度となく見てきたのだ。
 これは抜けないのだと。
 だからその広い背中に当然のように収まっているそれが、ハルにはいつの間にか飾りもののように思えてしまっていた。それよりもなによりも、リドルフというその人にそんな物騒なものは、あまりにも似合わなかったから。
「駄目だ!」
 間に分け入ったセティが、リドルフの胸倉をつかみ上げる。
 あまりの剣幕に、ハルはよろめくようにして一歩下がった。
「リドにそんなもの使わせない」
 柳眉を吊り上げて威勢よく言い捨てたくせに、ハルにはよく整ったその横顔は今にも泣き出しそうに見えた。喉元を締め上げられたリドルフは気にしたようすもなく、やんわりと大きな手を重ねてゆっくり言葉を運ぶ。
「私はずっと機を待っていたのです」
 セティがこぼれ落ちそうなほどに目を見開き、薄紅色の唇をわななかせる。
「だって、それを使ったら神殿に戻れないんだぞ」
 声が震えていた。
「そういう可能性も考えたうえで都を出たのです」
「私は──── リドには、いつかその時が来たら、都に帰って欲しいとそう思って……」
「行動を別にするつもりはないと、何度も言ったでしょう。嘘も言わないと約束もしました。それなのに、あなたはいつまでもそれを認めようとしてくれません」
 胸ぐらをつかむ強張った白い指をやさしくほどいて、リドルフはセティの肩越しにメイラへと視線を送った。
「セティ」
 ふたたび名を呼ばれて振り向くと、気位の高い老女が頭を下げていた。
「時間がない。殿下を頼む。お主にしか頼めないのだ」
「婆さん」
「ハル様、お願いです。セティを王都まで連れていってやってください」
 それぞれに大事な友人の大事な従者に懇願され、ふたりはおおいに困惑した。
 どうしたらいいのか判断を乞うように上目遣いでハルにまで見上げられて、セティは厚めの唇を歪め、忙しなく視線を巡らせる。もう、馬影はすぐ側まで迫ってきている。考えていられるときは、あまりない。
「ああ、もう! 分かったよ!」
 セティは両手で乱暴に頭をかき回して叫んだ。
「ハルと一緒に王都を目指す。邪魔者は私がぶった切る。それでいいんだろ!」
 髪を乱したまま、リドルフとメイラの二人をかわるがわるに睨みつける。
「その代わり、死ぬのは許さない。婆さんも、リドも─── 絶対だ」
 メイラとリドルフが同じように口元を綻ばせて頷いた。
「ハル!」
「はい」
 セティはそのままの勢いでハルの方に向き直る。そして、あっと息を呑んだ。
 ハルの華奢な体が小刻みに震えていた。それでも、耐えるように両手を握り締め、黒鳶色の瞳を真っ直ぐにセティに向けてくる。
 己のなかのいろいろなものと、闘おうとしている。
 セティにはそれが痛いほど分かった。その瞬間、自分でも奇妙なほど瞬時に平静を取り戻した。
「ラダを走らせることだけに集中すればいい。それ以外はすべて私に任せろ」
「はい」
「王都に着いたら、援軍を寄越せばいい。婆さんもリドも常人じゃない」
 いつものように軽い調子で言って笑ってみせると、ハルも無理に少しだけ笑って応えた。その仕草が健気で、どうしようもなく胸を打つ。
 思わずセティは手を伸ばし、ハルの頭を抱え込んで安心させるようにその黒髪を撫でる。不安定なときの自分にリドルフがそうしてくれるように。
「這ってでも王都に辿り着くぞ」
 セティの宣言とともに慌しくかつ手短に、メイラが中心となって実に要領よく作戦会議がなされた。そして、所定の位置についたのと同時に一同は敵の一団と対峙することとなった。
 遠目にも明らかだった敵の多さは、間近になると圧倒的なまでにその存在感を示す。
 メイラはこれを戦だと言った。こうして対すると、その意味がよく分かる。
 これから起ころうとしているのは、襲撃ではなく、確かにそれに違いない。
 風に大きくなびく金色の髪を片手でおさえながら、セティは敵の真価を見定めるように淡紫色の目を細める。
 ざっと見たところ敵の七割ほどが徒歩(かち)、残りの三割程度がラダか馬に乗った騎馬だ。見慣れた白覆面をつけているのはその騎馬の数名だけで、それ以外は素顔を晒している。
 携えている獲物は個々によって違う。徒歩の者はどちらかというと、中剣や小剣に分類されるような間合いの短い武器が多い。逆に、騎馬は当然だが、長剣や槍といった馬上で扱うことを前提とした間合いの長い武器で揃えてある。技量も、手合わせしてみなければ確信はできないが、徒歩よりは騎馬の覆面の方が手強そうだ。漠然とセティはそんな予感がした。
 いずれにしても、苦戦を強いられることは間違いない。一頭のラダに騎乗して、突破を試みる方も、残って徒歩を相手にする方もどちらもだ。
 騎馬はいかにも馬上での戦いに慣れていそうだし、徒歩は人数が多すぎる。
 セティは、おもむろに自分の胸元をつかむと、上衣についていた革紐を勢いよく引き抜いた。
 これはトゥルファの街で買ったガイゼス風の衣で、風通しのよいように袖口と胸元がゆったりと出来ていて、胸元は革紐で開き具合を調節するような意匠にできている。
 引き抜いた革紐をくわえ、風になびく長い金髪を無造作にまとめると、それで器用にひとくくりにする。いつも髪を下ろしているせいか少しも陽に焼けていないうなじは、他のところに比べても格別に白い。今、露わになったその場所に、紺青の何かをかたどったような文様が映えていたが、彼の後方には人がなく、誰もそれを目にすることはない。
 一頭しかないラダに、一組しかない(くら)(あぶみ)。鞍に座り、鐙に足をかけているのは後方に座るセティで、前のハルは手綱だけを握り、裸馬の状態で跨っている。
 以前、ラガシュからトゥルファに向かうまで馬で旅をした。そのときにハルが馬を操るところをはじめてセティは目にしたが、確かにそれは見事だった。しかし、鞍も鐙もあっての話しである。一頭のラダにふたりで騎乗すると決めたとき、当然のように鞍と鐙を譲り、手馴れた動作で軽やかに裸馬の状態のラダに跨ったハルは少し意外で、別人のようにも見えた。
 そのハルは、今、セティの目の前で小刻みに震えていた。メイラの布袋を裂いて作った、急ごしらえの紐で互いの体を結び付けているせいか、それがよく分かる。
 体を結びつけているのは、ふたりが離れ離れに落馬しないためである。ハルは、まだうまく剣が遣えないし、セティはラダを操れない。
 王都まで駆けに駆ける。進路上に入る障害は排除する。自分にできることはそれしかないのだ。セティはそう思った。
 ハルが意を決したように口を開いた。
「そなたらの意図するところは分かっている」
 王子らしく威厳を装ったものいいとは裏腹に、いかにも優しげな声は細かった。それでも、しんとして風の音しかしないこの場ではよくひびく。
「しかし、賢王たる父の名においてアンキウスが次子、ハル・アレンはいかなる不条理にも決して屈せぬ。刃には刃で応ずる」
 か細く震えた口上は、それでもしっかりと敵の指揮官には届いたようだった。
 返答は行動をもって示された。
 中央の覆面をつけた騎馬が左手を上げると、一団が各々の武器を構える。このときセティは今まで相手にしてきたいかにも傭兵の寄せ集めらしい一団とは、おもむきが異なることを知った。指揮系統や軍律のようなものもしっかりしているらしい。
 ラダの斜め前に立つメイラが鞘から刃を抜き払う。そして、リドルフも、ごく自然な動作で肩越しに大剣の柄を握った。
 いつもと変わらない、悠然とした立ち姿。
 大地の神(アナリ)に仕える者であることを示す、飾り気のない質素な長衣の裾を風が翻して抜けていく。
 聞きなれた優しい声で唱えられた短いマントラが、セティにはひどく乾いて聞こえたような気がした。
 視線のさきで、リドルフが握った柄に力を込めて引き上げようとする。
 ほんとうに抜けるのか──。いっそのこと、抜けなければいい。セティの淡い期待はたった一呼吸のあいだに、無残に打ち破られた。
 鞘から漏れ出す白く、眩い光。姿を現しはじめる刃。ナディール人はこの光を崇め、喜ぶ。しかし、セティにとってそれは馴染み深く、同時に不愉快なものでしかない。
 だれも言葉は発しない。メイラも、敵も──。しかし、驚愕と動揺。他のいろいろなものがないまぜになって、さざめき立った空気は肌で感じる。
 抜けないはずの大剣。しかし、今、リドルフが鞘から抜き、両手で水平に構えたその剣は、誰もが見たこともないほどに長大であった。
 敵の指揮官が手を振り下ろす。
 (とき)のこえを上げて、雪崩れるように一段目の兵が押し寄せる。
 リドルフが水平に構えた大剣を一閃させた。
 まるで空気を押しつぶすような、不快なにぶい音。
 宙を舞う物体。
 その正体をすぐさま認識した人間がこの場にどれだけいただろうか。
 重々しい音を立てて、その物体が地に沈む。
 静寂。ハルが息を呑むのが、後ろにいたセティにも分かった。
 僧衣をまだらに人血で染めたリドルフの周囲には、胴と下肢を両断された無残な骸が五体、転がっていた。
 いつもと変わらぬ穏やかな顔に、絶望のように深紅の液体がべっとりと塗りまわされていた。
「殿下!」
 メイラの絶叫に、ひとときのあいだ静止していた時間が動きはじめた。
 ハルがラダの腹を腿でしめあげた途端、放たれた矢のように二人を乗せたラダが駆け出す。セティの視界のなかで、半身を鮮血に染めたリドルフの姿は流れ、瞬く間に消えていった。


 大地が朱に染まっていく。
 その人生の大半を戦に費やしてきたメイラにとって、それは別に珍しくもなんともない光景だった。
 凄惨な死体に身が震えることもなければ、鼻につく人血や体液の臭いに眉を顰めることもない。
 戦というのはこういうものだという、ただ一つの悟りに似た、それよりももっと哀しいものだけがある。
 メイラは神を信じない。
 そして、傍らで修羅のごとく大剣を振り回す青年もそうだと言った。
 しかし、メイラは神の存在を今なら信じられると思った。ただし、人びとに恩恵を授ける慈悲深い神ではなく、破滅の神ならば───。
 青年が大剣を一閃させるたび幾人かの胴と下肢が分かれ、また、首と胴が離れる。人血が雨のように降り注ぎ、人を構成していたものが、まるでからくりの部品のように、大地に飛散している。
 平素は慈母のような青年が操るそれは、とてもまっとうな代物だとは思えなかった。
 ナディール人に比べてずっと武具の扱いが巧みなガイゼス人にも、あれほどの大剣をかのように容易く振り回せる人間はいない。メイラの知るなかでは、三将軍の一人であるシノレ・アンヴァーンが雄大な長剣を惚れ惚れするほど巧みに操るが、それでもリドルフが振り回しているものとは大きさが比にならない。
 それにあの威力。青年は、恐らく剣の素人だ。柄の握り方はおぼつかず、振り方もどこかぎこちない。返り血を避けることも知らないのだ。だというのに、彼は一振りで肉や臓物はおろか、骨も断つ。しかも、それはどれほど斬っても全く威力が衰えないのだ。
 あれも、法術の一種なのだろうか。そうだとすれば、恐ろしいのを通り越して、おぞましささえ感じる。
 普通、混戦になるようなときは敵の骨を断つような戦い方は控える。
 身に付けている剣術にもよるが、骨を断てばどのような名剣であろうとも刃こぼれしやすくなる。肉や臓物もそうだ。滅多やたらに斬れば脂が付着して、切れ味が鈍くなる。だからこそメイラは眉間や首筋、顎など一撃で致命傷を与えられるようなところを狙って仕掛ける。長期戦に備え、刃を温存するのだ。
 しかし、リドルフにはそれがない。胴を両断し、首を跳ね飛ばしつづけている。それは、メイラの常識ではとても理解のしようがない。
 右側から跳ね上げられた刃は、無意識に上に払っていた。
 柄を鳩尾に叩き込むとほとんど同時に、手首を翻し、首筋を切りつける。
 血飛沫を上げながら倒れていく敵を、視界の隅にも留めず、新たな敵と切り結びながら、ふと、自分が奇妙なほど冷静であることに気付く。
 どうやら、今、自分がいる場所は死地であるらしい。
 自覚した途端、我知らず口元に笑みが浮かぶ。
 兵は死地にあってこそその力を発揮する。しかし、将は死地ではより冷静でなければならない。それでなければ、多くの兵を無駄死にさせることになる。
 長年将として陣頭に立ってきたメイラには、そうなるように体に染み付いてしまっている。
 刃を一閃する。腹部を切られた男が、鮮血と異臭を撒き散らしながら倒れた。
 二人を乗せたラダが駆け出していって、どれほどの時が経ったのか分からない。
 敵が減っているのかどうかも分からない。
 こうしていると、普段はあまり考えることのない老いというものに気付く。
 充足した気とは裏腹に息は上がり、体の動きがわずかずつではあるが鈍くなってきている。そのうえ、一昨日受けた左腕の傷が開き、痛みはじめていた。
 大した傷ではなかった。そのうえ、リドルフがよく効く薬も塗りこんでくれていた。若い頃ならば、この程度の傷など一晩で塞がった。
 年齢を重ねるにつれて、ここぞというときに出る力は、若い頃に較べずっと強くなったような気がする。たとえば、一対一の立ち合いならばあのセティとすら互角に遣り合える自信がある。しかし、力を継続することはやはり難しくなった。
 (すね)に熱い感覚が走った。斬られたらしいと、瞬時に悟る。
 意思に反してがくんと落ちた右ひざ。肉迫する刃。こんなところで終焉を迎えるのか。戦に塗れてきた人生の終わりにしては、あまりにも呆気ない──。
 その瞬間、目の前の男が二つに分かれて吹っ飛んだ。
「メイラ様!」
 リドルフの大剣だ。
「大丈夫ですか」
 平素は涼しい顔しか見せない青年の息は、大分上がっていた。
 全身を朱に染めたその表情は、よく分からない。しかし、どこか間延びしたような口調も、静かな声音もなにも変わらない。どうやら、鬼神が乗り移ったのではないらしい。
「浅手だ。問題ない」
「しかし」
 周囲を警戒し、荒い息をつきながら言う。この青年も、辛いのだ。そう思ったらなぜか、気弱になっていた心が持ち直す。
「終わったら、治療してもらおう」
 リドルフが、かすかに笑って頷いたような気がした。
 地を踏みしめる。傷の痛みは感じなかった。ただ、熱いような感覚だけがある。
 相変わらず四方を取り囲む人間の壁は厚い。ただし、リドルフの大剣の威力を恐れてか、慎重に間合いをとってくる者が増えてきている。逃げ出した者もかなりいるのかもしれない。
 リドルフと背中合わせに立つ。
 メイラは眼前のふたりの男を切り上げ、切り下げた。
 いささか切れ味の鈍ってきた刃を叩きつけるように振るう。
 もはや剣技もなにもない。倒れる前に一人でも多くの人間を斬る。そうすれば、ハルとセティが逃げおおせる確率がわずかずつ上がる。
 今はそれだけだ、メイラはそう思った。


 景色が流れていく。
 空も大地もすべてが流れていく。
 埃っぽいにおいのする乾いた風が頬を叩いていなければ、これが現実であることを忘れてしまいそうな気さえして、セティは腰に下げている愛剣の柄に手を伸ばし、その感触をそっと確かめた。
 ハルのラダを操る腕は驚嘆に値すべきものであった。
 鞍も(あぶみ)もないというのに、手綱と(もも)の力加減だけで御しているらしく、ふたりを乗せたラダは一心不乱に一つの方角に向かって駆けている。土地勘のないセティには確信できているわけではないが、恐らく、目的地であるウルグリードに向かって。
 リドルフの壮絶で凄惨な一撃により気勢を殺がれた敵の追撃は、二人の出発よりもしばし遅れてはじまった。そのわずかな時間に、ふたりを乗せたラダは、その距離をめいっぱい稼いだ。
 ここまでは、全てが即席で立てた作戦どおりである。
 後は追いついてきた敵を、切り払えばいい。それだけだ。
 力いっぱい駆けるラダの躍動を感じるのに、馬蹄のひびきも確かに耳に届いているというのに、瞳のうえを流れていく景色を追っているうちに違うものが見えてきてしまいそうで、それを振り払うように、セティは首を巡らせて後方を確認した。
 二騎が並行してついてきていた。
 それは少しずつではあるが確実に、その距離を詰めてきている。
 いかにハルが優れた騎手であっても、一頭のラダにふたりで騎乗しているという不利は埋められない。
 駿馬を駆る覆面が、右に並んだ。
 セティが柄に手をかける。
 言葉を交わさぬともハルはセティの意図を察したらしく、引き離そうとはせずに逆に歩を緩め、ラダを敵に寄せていく。
 槍。突き出された穂先がハルの体にとどく前に、セティは掬い上げるようにして槍の柄を両断する。宙に舞った穂先が地に落ちるよりも早く、返す刃で相手の眉間を一文字に切りつける。覆面が切れ、鮮血が噴きだした。
 ラダが駆けながら跳ねるように、複雑に動き、向きを変えた。
 セティは体を反転させ、反射的に刃を振るう。
 敵。今度は左だ。
 ラダは動いて欲しい方向に動き、地上のときとほとんど同じ動作でセティは相手の攻撃をいなした。
 ほんの一瞬。敵の注意が、ラダを操るハルに向いたところをセティは見逃さなかった。
 腰の後ろに差していた短剣を引き抜き、放る。
「グッ───」
 予定どおりの鋭い軌道を描いて飛んだそれは、覆面の顎下に深々と突き刺さった。
 落馬した覆面に戦闘能力がないことを確認すると、ラダはまた元の方向を向いて、わきめも振らず駆け出す。
 一頭のラダのうえにふたり。しかも、互いの体は離れぬように、急ごしらえの紐で結ばれている。むろん、剣を振るえるぐらいのゆとりはつけてあるが、ひとり、地に足をつけて剣を振るうのとではその不自由さは比較にならない。
 それでも、以前ラガシュでシノレとともに馬上で剣を遣ったときよりも、いくらかやりやすい。それは、ハルのおかげに他ならない。
 ハルはセティの剣の弟子である。だからこそ、そういうときにセティがどう動くのかよく知っているのだ。それを踏まえ、ラダを動かしている。セティは一度、剣を鞘に納めた。
 新たな馬蹄のひびきが聞こえたのは、少し経ってからだった。
 横目でセティが後方を確認する。また二騎。
 距離を詰めてくる馬影に、ハルが迷うような素振りを見せたので、セティは声を上げた。
「一騎ずつ、仕留める」
 頷いてハルはラダの腹を腿で締めあげた。
 右に、左に蛇行しながら駆けてゆく。敵の一騎だけが突出した状態になったところで、ラダは後方に向き直った。
 セティが鞘に収めた剣の柄を握り、気を漲みなぎらせる。両刃の剣を遣うガイゼス人はあまりしない、抜刀の構えだ。一撃で仕留めたかった。それほど時はかけていられない。手間取れば、後続に追いつかれ、囲まれてしまう。
 馳せ違う。セティの尋常ならざる速さの抜き打ちは、間合いの不利をものともせず、相手の戟が届くよりも先に覆面の首を鮮やかに真一文字に切り裂いた。
 二騎目。
 振り下ろされた長剣を、セティは両手で柄を握って受け止めた。
 重い一撃。刃と刃が激しくぶつかり合う。セティの持つ剣がそのあたりによく転がっているようなものならば、刃ごと両断されていてもおかしくない。それほどの技量と力だ。
 これまでの相手とは少し、違う。手強い。直感的にセティはそう思った。
 刃をはね退け、体勢を整えようとするがその(いとま)は与えらなかった。
 間髪入れぬ第二閃。セティは両手で愛剣の柄を握り締めて、なんとか受け止める。
 その瞬間、なぜか、頭の隅に追いやっていた思い出したくもないあの光景がまた閃きかけて、セティは苛立って叫んだ。
「くそっ!」
 それは、輪郭と色彩がはっきりと形になる前に消散した。
 こんなことをしていてはいけない。
 頭のどこかでそれはしっかり分かっていた。ナディール人の体のつくりはどれほど鍛えようとも、しなやかにこそはなれ、屈強には決してなれない。長剣とまともに打ち合うような力と力の押し合いなどしていては全く勝ち目がない。それは分かりすぎるほどに分かっている。
 今は目の前の敵を倒すことがすべてなのだ。
 それも叫びたいほどに分かっているのに、どこか自分を制御しきれない。
 刃と刃がぶつかり、青い火花が散るのと同じに、今度こそ鮮明に、血に塗れたリドルフの姿が瞳の裏に浮かんで、すぐに消えた。
 筋骨逞しい男の腕力に押され、愛剣の刃がぎりぎりと悲鳴を上げる。
 意思とは裏腹になぜか思考は散漫で、脳裏に刻み込まれた場面がとりとめもなく再生されていく。
 ハルを頼むといって、頭を下げたメイラの姿が浮かび、消えた。
 歯を食いしばり、あらんかぎりの力で刃を押し返す。
 頭のなかで、一番奥底にしっかりと封印したはずの記憶の破片が瞬く。
 高台にあるひときわ壮麗な神殿の奥の間。暗闇。天蓋のついた寝台の厚い上掛けの中。
 歯を食いしばって震えながら、独り、毎夜のように闘った。どうしたら打ち勝てるのか分からなかった。
 刃を力任せに押しのけ、頭のなかにあるものを断ち切るように刃を一閃させる。
 遮二無二振るった刃は、己を嘲笑うかのように空しく宙を切り裂き、かわりに敵の長剣の切っ先が顎を掠めた。
 まだ残っている冷静な自分が大した傷ではないと、認識していた。
 しかし、傷口から血が滲んでくるように、乱れた心にじんわりとなにか不穏なものが滲んでくる。
 ──── 死ねる。今なら、死ねる。間違いなく。
 浸食してきたのはあまりにも禍々しい思いだ。しかし、それは甘美な歓迎すべき誘いのようにも思えた。
 また、刃。
 避けようと思えば、いなそうと思えば、そう出来たかもしれない。しかし、気がついたときには、それをまともに受けていた。
 幾度も長剣を受け、すっかり痺れた手はもはや力が入らず、握っていた柄が手のなかで滑った。
 遮るものがなくなり、鼻先に迫る氷刀。
 頭蓋から両断されるのだ。そう、思った。悪くない。誰のものとも分からぬほど、無残な(むくろ)になって死ぬのもいい。唐突にはっきりと頭をもたげた破滅的な願望に、セティは身を任せようとした───。
 ヒュッという、空気を裂くような微かな音。
 紗でもかけたかのような視界と、ぼんやりとした曖昧な意識のなかで、それだけが奇妙に鮮明だった。
 次に響いたのは甲高い音。聞き慣れたものに似ているが、少し違う。
 揺れる黒髪。
 典雅な香り。かすかに甘い花の香り。
 ハルが、剣を抜き、打ちかかっていた。
 それを認識したとき、遠のいていた世界が急速に色と形を成して、戻ってくる。
 気がついたときには己の手をすり抜け、今まさに地に向けて落ちかけていた愛剣を掴んでいた。
 白刃を握り締めた手の平は切れ、乾いた地面にあかい花弁のように血が散った。
 刃を弾かれ、落馬しかかっているハルの背を目がけて、男が長剣を振り下ろそうとしていた。
 刃を握った剣を一度軽く放り、道化師のようにして宙で柄に持ち直す。
 アルベルムの香り。あの日、むせかえるようなこの匂いに包まれて、契約という名の約束をした。
 なぜ、あんなことを言ったのか自分で分からなかった。
 ただ、漠然と予覚のようなものを感じた。今もそれは変わらない。それどころか、それは少しずつ、けれど確実に、確信へと変貌を遂げているような気がする。
 まだここで終われない。
 その先にあるものを知りたい。見てみたい。
 そうしたら、なにか大事なものを掴めそうな気がする。今ここで、ハルを失うわけにはいかない───。
 手首を翻し、渾身の力を込めて切り上げた。
 ただ、ひたすらに刃が届くことを祈った。
 自分がこういうふうに祈ることができるのだと、はじめて知った。
「グッ」
 祈りは確かに届いた。刃は敵の首の太い血管を切り、男は長剣を握ったまま血しぶきを上げて、大きく後ろに仰け反った。そしてそのまま落馬し、大地に血を吸わせ、もう動かなかった。
 セティは無傷のほうの左手で、自分とハルを繋いでいる即席の紐を引っ張り上げた。
 何とか元の場所に戻ったハルが振り向き、口を開こうとしたとき、視線がセティのさらに後方に動き、凍りつく。セティはハルの視線を追った。二人の目は迫り来る新たな一団を捉えた。
「駆けよう」
「はい」
 短くそれだけのやりとりを交わして、ハルはふたたびラダを走らせる。
 セティは愛剣を鞘に収め、自分の衣の袖を破り、右の手のひらをそれで固く縛った。
 思いのほか深く切れているらしく、布はすぐに赤く染まった。不思議なものでそれを目で確認したら、熱を持ったように痛みはじめた。その痛みが今はちょうどいい。セティはそう思った。
 これがあれば、正気でいられる。そんな気がした。
「あとどれぐらいだ!」
「もう、わずかです」
 馬蹄のひびきに負けぬようにセティが声を張り上げると、ハルも同じようにして答えてくる。
 後方の一団は少しずつ距離を詰めてきていた。
 セティが視線を前方に戻すと、石造りの壁のようなものが見えた。
「あれです! あれがウルグリードの城壁です!」
 ハルが叫び、目前までそれが迫ったそのとき。
 何の前触れもなく、ラダが前足を折った。
「えっ───」
 呆けたような、歎息するようなハルの声。
 次の瞬間セティは腕を伸ばし、からめるように前のハルを抱きとって、鐙から外した足でラダの体を蹴った。


 十九年前。
 およそ十五年間の紛争を経て、内外へ向けて独立国家として宣言を果たしたガイゼス王国の王都、ウルグリード──。
 現王アンキウスの兄であり、人望に厚い左将軍シノレ・アンヴァーンの実父でもある先王イミシュがこの地に王都をかまえたのは、天険の地であるがためであると言われている。
 大陸の南端に位置するその街は、日中は灼熱と形容しても差し支えないほどに気温が上がり、逆に日が沈むと肌寒さを感じるほどに気温が下がる。北に進めば荒涼とした砂の大地が悠々と横たわり、南には容易には足も踏み入れられぬ険しい山々がそびえたつ。
 よって、街全体が堅牢な壁に囲まれているのは、敵の来襲に備えるためというよりは、ときおり起こる砂嵐から街を守るためである。ただ結果として王宮は二重の壁に囲まれていることには違いなく、大陸で超越した力を持つナディール軍であっても、このウルグリードを陥落させるのはかなり骨を折ることになりそうであった。
 ガイゼス国内では、夜明けとともに人びとは活動し、太陽が高い時間は仕事の手を止め、休息をする。そして暑さが和らぎはじめたころから日没までまた働くというのが常であるが、日中の気温がほとんど人の体温を超えるウルグリードでは国内の他の地域よりもそれが徹底されている。
 太陽が中天にさしかかり、平素ならば街が静まり返る時間帯である。しかし、この日ばかりはそうはいかず、騒然としていた。
 全国の巡視に出ていた巡検使であり、第二王子であるハル・アレンが帰還したのだ。しかも、それは甚だ異例の帰還であった。
 街を囲む堅牢な石壁に二箇所ある出入り口の一方の門でいつものように警備していた兵は、驚くべきような光景を目にした。
 猛然と姿を現した二人乗りのラダ。その勢いはまさに門を蹴破るのではないかと思われるほどだった。
 その勢いに圧倒されつつも毅然と静止の命令を送ろうとしたとき、ラダは突然前足を折り、大きくバランスを崩した。
 乗っていたふたりが地に投げ出され、ラダの巨体に潰されるかと思われたそのとき───
 後ろに乗っていた金髪が、前の黒髪をからめるように抱き取り、俊敏な動きでラダの体を蹴って、宙に跳んだ。黒髪を体全体で庇うように抱きしめたまま落下し、激しく地を転がる。
 呆気にとられ、目と口を大きく開いたままの三人の兵の前で、ふたりが止まったのは結局、およそ五十カベール(約二十五メートル)ほども転がってからのことであった。
「──── ってぇ」
 門兵のひとりが駆け寄り、声をかけると反応したのは金髪の方である。
 若い男の声だった。このとき、門兵は白皙の長い金髪の持ち主が青年であることを知った。
 金髪の、いかにもナディール人らしい容貌の青年は片腕にまだしっかりと黒髪を抱えたままごろりと仰向けになり、額に手を当てた。
 抱えられた黒髪の方は、外套に身を包んだ体はいかにも華奢そうであるが、どうやら少年らしかった。こちらは何が起こったのか把握できぬようすで、放心したように金髪の胸のうえでじっとしている。
 ふたたび門兵が声をかけると、今度は勢いよく黒髪の少年の方が立ち上がろうとして、ぐいとなにかの力で下に引かれた。その正体はふたりを繋ぐ頑丈な紐のようなもので、転がった拍子に絡んだのか、ふたりの体はほとんど離れられないぐらいであった。
 気付いた金髪が、仰向きに倒れこんだまま器用に腰の剣を抜き、紐を切断する。その柄は、血に塗れていた。
「巡検使ハル・アレンだ」
 金髪の青年に気を取られていた門兵に向かって、立ち上がった黒髪の少年が袖の下に隠された腕輪を示した。
 それにははっきりと王家の紋章が刻み込まれており、このときようやく門兵は、黒髪の少年の正体が現王アンキウスの次子、ハル・アレン王子であることを知った。
 慌てて跪いた兵に、巡検使は道中で賊に襲われ、部下と友が応戦していること。ただちに援軍を要請する旨を毅然と伝えた。そして、懐から短刀を取り出すと、おもむろに自身の黒髪を一房切って渡し、兵に王宮に走るように言う。これは、緊急を意味するときに示すガイゼスの慣わしであった。
 それからハル・アレン王子とその友人と紹介された白皙の美貌の青年は、別の兵に案内され、とりあいず城壁近くの兵の駐屯所の一室で待機することとなった。
 さして広くもない、簡素な部屋にふたり。少し人心地がついたハルは、そこでようやくセティの姿をまともに見ることができた。
 名高い人形師が丹精こめて仕上げた傑作のような青年は、土と、血と汗で、ぼろぼろだった。
 逆三角形の顎には刀傷を負い、左の目尻と額の真ん中には擦り傷が出来て赤くなっていた。知らぬ間にひとつに結わえていた髪はひどく乱れ、絹糸のような髪をまとめていた革紐はすでに落ちかけている。着ていたはずの外套はなく、衣は片袖が引きちぎられていた。よく見れば、腕や肩にも擦り傷や小さな切り傷のようなものを無数に負っている。
 ふと、ハルは自分の外套にところどころ血が滲んでいるのに気がついた。
 自分のものではないと、すぐに分かった。
 視線のさきで、白い手に固く巻きつけられた布が完全に血の色に染まっていた。
 ラダが潰れたとき、ハルは何も考えられず、なにもできなかった。それどころか、咄嗟に何が起こったのかすらよく分からなかった。気付いたときにはセティの胸のうえにいた。
 セティが守ってくれたのだということだけは、よく分かった。ラダから投げ出され、ひどく地に叩きつけられたはずなのに、ハルは痛みも衝撃もなにも覚えていなかったのだから。
「痛みませんか?」
 何を言われたのか一瞬分からなかったのかもしれない。そんな表情だった。一呼吸分の間のあとに、セティはいや、と短く答えた。
 会話は続かない。傷ついた手のひらを隠すように指を組み、地べたに胡座をかいて座ったままじっと視線を一点に注いでいるセティのとなりに、ハルも座った。
 途中、王宮から援軍が派遣された旨の報告と迎えがきたが、ハルはすぐに帰してしまった。メイラとリドルフが戻るまでは、ここから動きたくなかった。
 運ばれた飲みものに手をつけることもせず、ふたりは石像のようにじっとしたまま動かない。
 傷だらけのセティの姿に見かねて、傷の手当を、と何度か駐屯所の兵が声をかけてきたが、セティは誰も体に触らせようとしなかった。目に見える傷だけでも無数にある。手のひらの傷はかなり深そうだ。それに、セティはハルを庇って地面に叩きつけられ、転がったのだ。目に見えぬ傷も負っていてもおかしくはない。実際、セティは起き上がるときにも大きく顔を歪め、よろめいた。肩を貸そうとする兵の申し出を断り、この部屋までは自力で歩いたが、足をひきずるようなその仕草はいつもの軽捷さとはかけ離れていた。
 さすがに心配したハルも手当てを受けるように勧めたが、セティは頑として頷かない。横になっていることすら、よしとしない。
 彼が傷に触れさせるのはきっとリドルフだけなのだろう。もしかすると、それは願掛けのようなものなのかもしれない。そう、思った。
 外から賑やかな家族連れの声が聞こえた。いつの間にか、西日が差し込むような時間になっていた。
 不意に、ハルは気がついた。
 となりでセティが震えていた。
 相変わらず乱れたままの髪のあいだから、いつか見たうなじに彫られた紺青の美しい文様がのぞいていた。前にそれを見たのはいつだったか。
「セティ?」
 小さく呼ぶと、わずかに顔を上げる。金色の髪がさらりと揺れ、あらわになったその顔はすっかり血の気がひいていた。
「リドに────」
 震える唇をおさえるように、一度噛み締める。
「リドに、あんなものを背負わせたのは、私のせいなんだ」
 セティは唐突に、ぽつりぽつりと話しはじめた。
 リドルフのあの大剣は法術の一種であること。
 セティを守るためにだけ使うと神に誓約を立てた特別な術で、強力な反面、使い方を誤ると命に関わりかねないということ。
 そして、人を殺めたリドルフはもう生命を尊ぶ神である、大地の神(アナリ)の神官として認められないということ──。
 いつもならば歯切れよく、順序だてて話すセティの言葉が、今は滅裂でひどく頼りない。元より宗教も価値観もなにもかもが違う。だから、そのすべてを理解できたというのには足りなかったかもしれない。けれどハルは、先ほどリドルフの胸倉をつかんだセティの顔を思い出していた。それが、すべてのような気がした。
「だから、私はあんなもの嫌だって言ったんだ。守ってなんてくれなくていい。ただ、一緒にいてくれればそれだけで十分だった。それなのに────」
 セティは顔を歪めた。
「リド……」
 切なげに眉を寄せて、堪え切れないように声を漏らす。
「リドが死んだら、どうしよう」
 絞り出したような悲痛な声。口に出してしまって、それはさらに重く彼自身にのしかかったのかもしれない。
 宝玉の瞳から、大粒の涙がこぼれた。宝石のかけらのようにはらはらと落ち、宝玉の持ち主の震えるひざを濡らす。
 ハルは、セティが泣いていることに少しも驚かなかった。
 ぼろぼろと小さな子どものように涙をこぼし、泣きじゃくるセティにかける言葉も捜さず、かわりにしたことは腕を伸ばしてやさしく青年を抱きしめることだった。
「羊肉の柘榴ソースがけに、バターライス、ムール貝の詰め焼き…」
 鼻先をくすぐる細い金色の髪は、太陽と土と、わずかな血の匂いがした。
「今晩は、おいしいものを食べましょう。四人の好きなものを、卓いっぱいに並べて――――」
 辺りにはうっすらと宵闇がただよいはじめていた。
 薄暗くなってきた部屋のなかで、ハルはセティを抱えたままじっとしていた。
 セティもまた、ハルの細いからだに腕を回したまま、じっとしていた。
 泣くことを止めて、しばらくしてからセティは呟くように掠れた声で尋ねた。
「婆さんの、好きなものって何だったかな」
 羊肉の岩塩焼き――― ハルがそう答えると、セティはふっと笑って「いい年のくせして、なあ」と呆れたように漏らして、ハルの体に回した腕に力を込めた。
 それ以上、セティは何も言わなかった。しかし、それだけで、彼の優しい思いがとくとくと伝わってくるような気がして、ハルは胸がいっぱいになってしまう。
 それから、会話は交わしていない。
 ハルは自分がセティを抱きしめているのか、逆にセティに抱きしめられているのか、もう分からなくなっていた。
 どちらでもいいような気がする。互いに言葉を交わすこともせず、けれど離れることもせず、ただじっとそうしていた。
 現実世界から切り離されてしまったかのような、ふたりきりの空間に変化が投じられたのはすっかり日も暮れたころだった。
 遠慮がちに叩かれた戸にハルがひとつ唾を飲み込んで返事をすると、待ち望んでいた報告が戸の向こうからなされた。
「メイラ・ロト様と、ご友人殿が戻られました」
 同時に弾かれたように顔を上げ、顔を見合わせる。からだを離し、けれど手は互いの腕をつかんだままに、ハルは入室を了承する旨の声をあげた。
 姿を現したのは兵ひとりきりであった。
「メイラとリドルフ殿はどうした」
 王子然とした毅然としたものいいとは対照的に、声は震えていた。
「お二人とも、別室で休まれておりますので、ご案内致します」
 静かな廊下に、セティの足をひきずる音が響いていた。
 立ち上がることさえもかなり辛そうだった彼に、兵は人手を用意しようとしたが頑なにセティはそれを突っぱねた。危なげな足取りで歩くその姿を見ていられず、ハルが手を差し出すとそれだけは受け容れた。
 案内する兵の話によると、メイラは程度のほどが分からないが負傷しているらしく、リドルフに関しては全く詳しいことが分からないらしい。
 王宮より緊急に派遣された小隊が目にしたものは、目も覆いたくなるほどの惨状であったという。そのためふたりを発見するまでにかなりの時を要し、情報も錯綜しているようだ。
 生きているのは確かだ。しかし、安堵できるほどの確実なものは何もなかった。それがセティの気を逸らせるようで、時おりバランスを崩し、転倒しそうになる彼を支えながらハルは歩いた。
 駐屯所はそう広くない。しかし、その部屋までの道程はふたりには永遠のようにも思われた。
 ひとつの部屋の前で兵は足を止めた。扉を開き、脇に控える。
「リド――― !」
 視界にその姿が入った瞬間、セティは不自由な半身をひきずりながら飛び込んだ。
 寝台の脇に崩れるように膝をつき、掛けられたケットから出たリドルフの手を握る。
 ひときわ大きな寝台に寝かされたリドルフの顔は青く、見るものに深い慈愛を与えるようなやさしい空色のひとみは見えず、静かに瞑られていた。
「これは、どういうことだ」
 低い声で、誰へともなく問うたハルには、リドルフが呼吸しているのかどうかすら、定かでない。それ程までにリドルフはあまりにも静かに横たわっていた。
「大きな傷などはありません。私共には体力が尽きたようにも見えますが、それにしては、衰弱しすぎているようにも思われます。分かりかねる、というのが正直なところでございます」
 いつの間にか姿を現していたガイゼス人の医者の言葉は耳を通り抜けていった。よろめくようにリドルフと、その手を握ってすがりつくセティに近づく。
 力のない手をとり、セティは必死にその名を呼んでいた。
「リド…… リド!」
 静かに閉じられていた目蓋が震え、皺が寄る。
「ずいぶんぼろぼろになりましたね」
 薄く覗いた空色のひとみが、その手を握る人物を認識するとやさしく微笑んだ。
「遅くなってしまって、すいませんでした」
 セティはぱっと握っていた手を離して睨み付けた。
「心配するのはリドのやることだろ! 私にそんなことさせるな!」
 高圧的に言い放ったくせに、次の瞬間セティはリドルフにしがみつき、ケットに顔を埋めて肩を震わせた。両肘で体重を支え、半身起こしかけたままの体勢で リドルフは困惑したようにその様を見つめていた。よほど驚いたのか、珍しくかなり表情に表れている。そして、しばらく迷ってからそっと乱れた金髪に覆われた頭に手をおいて、撫でた。セティは固くケットを握りしめて、一層肩を震わせた。
「私はメイラの様子を見てきます」
 ハルが微笑むと、リドルフは苦笑して応えた。それを見た途端、清々しいような気分になってハルは部屋を出た。
 部屋に着くまでのあいだに、同行する医者からメイラの詳しいようすを聞くことができた。刀傷による出血から危険な状態にあったらしいこと。それを、リドルフが応急処置したらしいこと。その処置が非常に優れており、発見されたときにはメイラは逆に意識を取り戻していたこと―――。
 並んだ質素な寝台の一番奥に、小さな体が横たえられていた。
 話はすでに聞いた。しかし、その姿を実際に見た瞬間、張り詰めていたなにかが音を立てて切れたような気がした。
「このような体勢で、ご無礼をお許しください。殿下」
 いつも以上に臣下然としたメイラの物言いは、思わず涙ぐんだハルを叱咤するかのようだ。一度軽く天井を仰ぎ、唇を小さく噛む。意識して悠然とした態度で歩みより、静かに口を開く。
「構わない。よく、戻ってきてくれた」
 言葉を吐き出した瞬間、乾きかけた黒鳶色の瞳はふたたび潤み、今にも涙がこぼれそうだった。メイラは案内の兵と医者が出ていくのを横目で確認してから、目尻の皺を濃くして微笑んだ。
「王子たるお人が、臣下ひとりのためになど泣いてはいけませぬぞ」
 王子たるお人が泣くな。おどおどするな───。
 右も左も分からぬまま、王宮に入った九歳のころから幾度となくそう言われてきた。
 しかし、それを言うときのメイラの眼はいつも、このうえなく優しいのだ。
「うん。分かっているよ」
 メイラと、リドルフが戻ってきてくれた。そして、セティはまさにその身を呈して自分を守ってくれた。また、四人揃うことができた。
 次こそは自分の番だ。ハルはそう思った。

   Ⅲ

 手から、するりと抜けて杯が落ちた。
 軽やかな音とともに薄藍色の破片が飛び散り、少し遅れてなかに入っていた冷えた琥珀色の液体が白い床をじわりじわりと浸食していく。
 沈黙。
 頭を垂れたままの男の強張った顔にようやく気がついて、ロガンは口元に薄い笑みを浮かべた。
「経緯は分かった。また連絡すると主には伝えろ。下がっていい」
 垂れた頭をさらに一度深く下げて、男は闇に溶けるように姿を消した。
 ロガンは私室の大きな窓にもたれたまま、床にぶちまけられた冷えた麦酒(ファーガ)と、砕けた薄藍色の破片を見つめていた。ふと、屈みこんでいちばん大きい砕けた杯の破片を拾う。いびつに砕けた断面に指先が触れ、血が滲んだ。
 ハル・アレン王子、無傷にて王都帰還。
 急使によりもたらされたその知らせは、あまりにも想定外のことで、まるで現実味がなかった。
 どこで計算を誤ったのだろか ―――。頭に浮かぶのはそれだけだった。
 思いどおりに事が運ばないことは、今まであまりなかった。
 あらゆる可能性を把握し、起こるであろう事象を想定する。それに対する問題点と解決策を用意する。それだけで、ものごとというものは大方が思いどおりに進む。これまでの経験が、万事はそういうものだという揺るぎない確信へとなっていた。
 武芸に秀で、人を魅了するような圧倒的な存在感を持っていたのは、長兄だった。
 深い洞察力と天才的とも言われる人を見る目を持ち、民の心を掴んで離さないのは、次兄だった。
 勇将と謳われた長兄、イミシュ。賢将と愛される次兄、アンキウス。
 年の離れたふたりの兄とは比較されることはあまりなかった。彼らと比較するのは酷であるという理由で。
 天稟で二人に勝っているようなところは、何もなかった。それは周囲に気づかれるよりも早く、大分早い段階で自覚した。だからこそ、二人の兄達よりもずっと学業に励んだ。
 そうしてようやく、知将という称号を手に入れたのだ。
 切れた指先を口に含む。鉄臭い匂いが広がった。
 ランプのあかりに反射して、無残に砕けた薄藍色の元杯であったがらくたがきらめいた。
 不意に脳裏に同じ色の瞳がちらつく。
 まるで底の見えない湖面のような瞳をした穏やかな男と、連れの美しい青年。
 不確定要素は確かにあった。あのときに、気がついていた。しかし、それがどれほどの影響を与えるかは、それほど気にしていなかった。
 唐突に、腹の底から途方もない苛立ちのようなものが膨らんできて、ロガンはそれに抗うことなく杯の破片を思い切り壁に叩きつけた。
 何事もなかったように立ち上がる。どす黒い苛立ちは嘘のように消え失せていた。
 使用人にある人物を呼ばせる。ほどなくして部屋を訪れた男に、ロガンは端的に用件を伝えた。
「リドルフ・クライン・アナリとセティ・コヴェという二人のナディール人について詳細に調べ上げろ。急ぎだ」



 大きくとられた窓にかけられた紗が、巻き上げられてふわりと舞う。
 同時に室内を駆け抜ける心地よい風が、手にしていた書物の頁をめくり、リドルフは片手でそれをおさえた。
 外から、子どもの歓声が聞こえる。
 少年の声に少女の声も混ざっている。視線をあげたリドルフの前で、窓の外を金色の筋が流れていった。陽光を紡いだような髪に、いくらか強くなりはじめた太陽(ヘウス)のひかりが反射しているようだ。
 リドルフが手にしていた書物をかたわらの机にそっと置き、立ち上がりかけたそのとき。
「リドルフ様、ご昼食の支度ができました」
 扉のない、窓と同じように薄織りの紗がかけられただけの部屋の入り口に、老女が立っていた。
 彼女は老女と形容してもおかしくない年齢であるはずである。しかし、その背はきれいに伸び、老いを醜く感じさせないどころか美しくさえ感じさせる。さすがは、ガイゼス王国の巡検使であり、第二王子であるハル・アレンの邸宅の家令であるというべきか。
「セティ様はいずこでございますか?」
 少し微笑んで、リドルフは黙ったまま視線を窓の外に動かす。老女もそれに倣うように視線を滑らせて、そのさまを見ると小さく息を飲んで、それから、リドルフが浮かべたものよりもさらに穏やかに微笑んだ。
「まあ―――。セティ様は本当に、子どもたちに人気者で」
「金髪に紫眼という容姿も、彼らにはそれほど隔たりは感じさせないようです」
 白磁の肌と金色の髪を隠すことなく陽にさらすセティのまわりに、黒髪に赤銅色の肌の子ども達がまとわりついていた。
 少女が作ったらしい花冠を頭にのせ、片腕に小柄な少年をぶら下げ、上衣の裾をまた別の少年に引っ張られている。子どもたちのはしゃいだ甲高い声が、晴れ渡った空によく響いていた。
「セティ、食事のようですよ」
 リドルフが呼ぶと、セティはじっとりとした上目遣いで見上げる子ども達を見て、それからなんともいえぬ複雑な表情をリドルフに向けて見せた。
「今日は天気もようございます。木陰に何か敷いて食事の用意をさせましょう。子ども達も一緒に」
 家令の老女の言葉に、セティと子ども達の顔が途端に明るくなる。
「良いのですか? 巡検使殿の邸宅でそのようなこと」
 ハルの立場を慮って耳打ちするリドルフに、背筋の伸びた老女の家令はいっそう目尻の皺を濃くする。
「いいのです。御屋形様もきっと、そうおっしゃいます」
 こうして、邸宅内はにわかに慌しくなった。
 家人総出で、中庭にて急遽開かれることになった昼食会の支度にとりかかる。
 総出といっても、留守がちな巡検使にかわり、管理を任されている老女アリアとその夫。それに、急遽雇われた料理人と下女の四人である。今や大国と評してもおかしくないほどの発展を遂げたガイゼス王国の第二王子にして、巡検使ハル・アレンの邸宅の家人総数にしてはいささか拍子抜けしてしまうかもしれない。
 王宮にほど近いその場所に、巡検史に与えられた官舎はあった。
 もともと高官たちに与えられる官舎が集中する閑静な一帯ではあるが、巡検使の官舎は大きな通りから外れた最奥に位置している。
 しかも、その佇まいは庶民の住むものよりは多少大きい程度で、お世辞にも豪奢とはいえない。
 その静かな家屋がにわかに慌しくなったのは、これより十日ほど前のことである。
 王宮より遣わされた大きな輿(こし)がふたつ。それに、本来ならば輿に乗って現われるべき人物が、逆に徒歩で現われた。この家の主たる、ハル・アレン王子である。
 王子は管理人の老夫婦に、彼の忠臣であり夫婦の友人でもあるメイラ・ロトが負傷したこと、白い肌の友人を二人連れていることを手短に告げると、いかにも申し訳なさそうに老夫婦に頭を下げた。
「急ですまないが、客間を整えてくれないか」
 すっかり日も暮れ、寝巻きに着替えようさえしていた老夫婦は、王子のその言葉にすぐさまに行動を起こした。
 怪我はないものの、大分憔悴したようすの主を慌しく家のなかへ入れ、まずは座らせた。すぐさま客間に向かい、ランプに灯りをともし、寝具を整える。準備はそれだけで完了した。
 あまりにも早い支度に、主は少し驚いたようだった。
 巡検使の官舎といえども、彼が王都に戻るのは年に一度、しかも一月ほどの短いあいだだけである。しかも、その間は巡検使としてではなく王子として王宮に留まるのが常だ。よって、この官舎を利用することはほとんどないのだが、老夫婦たちはいつ何があっても良いように主の部屋は当然、客間の掃除も欠かしたことはなかったのだ。
 備えられている二つの客間の広い方へは、王子の白い肌の友人二人が運ばれた。
 ひとりは長身で剃髪した青年。もうひとりは、長い金色の髪に白磁の肌を持つ青年──。
 長身の青年の方は、充分に寝そべることができる広い輿のなかで半身を起こし、青白い顔で半眼を瞑ったまま、金髪の青年をしっかりと抱えていた。金髪の青年の方は全身傷だらけで、怪我のために出てきた熱がかなり高いらしく、ほとんど意識がないくせにぎゅっと長身の青年の衣をつかんで離さず、寝台に運ぶのに苦労した。
 アリアの古い友人で、王子の忠臣であるメイラは傷を負っていて自力で歩くことはこそ出来ないものの意識はしっかりしており、実際にその姿を見たアリアが拍子抜けしたぐらいであった。後から聞いたところによると、一時は出血量の多さから生死のふちをさまよったらしいが、医術の心得を持つ、長身の青年に戦場で応急処置を受けて辛くも救われたとのことだった。あれほどまでに白い肌の人間達を毛嫌いしていたメイラ本人の口からそう聞いて、アリアは彼女の変化をすぐに感じた。メイラの表情には少しも屈託のようなものがなく、あまりも自然だった。
 巡検使の屋敷の中庭はそう広くはないが、よく手入れが行き届いている。
 トゥルファ都督ロガン・タナトの邸宅のような見事な庭ではないが、こじんまりとした空間には小花が咲き、緑もある。乾燥が強いウルグリードでこの環境を維持するには相当の手間暇がかかるというものだ。
 庭にひとつだけある木の陰に敷物をひき、四角い木卓が備えられた。そこに、アリアの夫がどこからか調達してきたらしい、折りたたみ式の庇(ひさし)を差し向ける。
 料理人は仕上げた料理を、小麦を薄く伸ばし焼いたパンに挟んだり、運びやすいように深い器に盛り付けなおしたりと、野外でも食べやすいように工夫する。
「やあ、これはいいな」
 率先して準備を手伝っていたセティが、出来上がってきたその空間を見て白い歯を覗かせる。
 その様に、アリアはまた目尻の皺を深くした。
 巡検使の屋敷に運ばれた怪我人たちで最も重傷だったのは、セティ・コヴェと名乗った目の覚めるような美貌の青年、その人であったかもしれない。
 目に見える傷と見えぬ傷を全身に負っていた。ひとつひとつは命に関わるような深刻なものはなかったが、右手の掌に負った刃傷と、王子を庇って落馬した際に強打した左半身はきちんとした手当てが必要だった。
 傷を負ってから、半日以上手当てをしなかったことがよくなかった。怪我によって、熱が高く出たのだ。王子から伝え聞いたところによると、リドルフという同郷の青年以外に体を診せることを拒絶したようだった。
 その話を聞いたアリアは、嫌悪こそしなかったが、少しの落胆のようなものを覚えた。ハル・アレン王子のようにできた人の友人も、所詮はやはりナディール人なのだと思った。
 しかし、それはどうやら違ったようだ。
 近くの孤児院から集まってきた黒髪に赤銅色の肌の子ども達を両手にぶら下げ、白い歯を見せて笑うこの青年のどこに、そんなわだかまりがあるというのだろう。
「これは私が持つよ」
 アリアが両手に抱えていた布の山がひょいと手の中から消えた。
「滅相もございません。御屋形様のご友人にそのようなことをさせては、恐れおおうございます。それに、セティ様はまだ傷が癒えてないではございませぬか」
「体はもうすっかりいいよ」
 その言葉のとおり、青年はほんの数日にあいだに劇的に回復した。それは、ガイゼス人の常識ではとうてい説明しきれない状態だった。
 全身に負っていた刃傷や擦り傷が、ある日を境に突然消えていくのだ。
 どうやらリドルフという青年の不思議な力によるものらしい。ナディール人が法術と呼ばれる不思議な力を使うことはよく知っている。かつてはダラメンという蔑称で呼ばれ、同じ国で生活していたとき、アリア自身それは何度も目の当たりにしたことがあった。
 金髪の美貌の青年の傷が消えたのと引き換えに、澄んだ青い瞳をした青年はしばらく死んだように眠った。どうやら、不思議な力を使った反動のようなものらしかった。
 そんな話を、誰よりも不思議な力を── ナディール人を毛嫌いしていた旧友のメイラから聞かされるのだから、アリアは言い表しようのない複雑な気持ちであった。
「まだ手の傷は癒えていないではありませぬか」
「これは、大したことないんだ」
 よく整った顔に、少し困ったような、照れ隠しのような甘い笑みを浮かべ、包帯の巻かれた右手をひらひらと振ってみせる。
 その右手の包帯だけはどれだけ日が経っても、なぜかそのままだった。まるで、その傷にだけなにか特別な意味があるかのように。
「ハルは、今日も遅いのかな」
「今日の夕餉はお二人とともにされると、朝に仰いました」
「そうか」
 薔薇色の厚めの唇がうれしそうにほころぶ。
 現王の次子にして、巡検使ハル・アレンを呼び捨てにする白色人種の美青年を、本来は咎めるべきであるかもしれない。ここは、ガイゼスの王都ウルグリードであり、王子はこの家の主だ。しかし、アリアには咎めるどころか、この青年に対して一切の負の感情のようなものを持つことができなかった。
 青年は奪った布を抱え軽やかな足取りで歩いていくと、卓のうえに広げた。晴れた空に白い大判の布が広がり、わあっと子どもたちが歓声を上げた。


 書き上げた書面の一番下に署名をすると、ハルはペンを置いて息を吐き出した。
 卓のうえに無造作に置かれたそのペンには、熟練した職人によって手彫りの細工がびっしり施されている。目を閉じて天井を仰ぐ。ふと、いつの間にか熱気をはらんだ空気が満ちていることに気がついた。
 全国の巡視から帰還して、十日。
 はじめの三日間は休養という形で官舎にこもっていた。休養が必要だったのはハル自身ではない。彼の友人と忠臣だ。
 意識はしっかりしていたものの、多量の失血をしたメイラは自由には動けなかった。セティは高い熱にうなされ、しばらくのあいだほとんど意識がなかった。リドルフは法力が回復するたびにその全てをセティに注ぎ、死んだように眠っていた。
 ハルにできることといえば、彼らの部屋を覗き回復を祈ることだけだった。自分の無力があまりにも悲しくて情けなくて、腹立たしかった。
 彼らが傷つかねばならない理由などなかった。
 リドルフが背中の大剣を抜かなければならない理由などなかった。
 セティがリドルフの無事を思って泣かなければいけない理由など、どこにもなかった。
 ただ、自分を見放せばそれで済んだのだ。
 それでも、彼らの頭のなかにその選択肢は少しも存在していなかった。少し前までの自分ならば、彼らのその行為をどこかで重荷に感じ、困惑したかもしれない。歪めて受け取って、勝手に自分の殻に閉じこもったかもしれない。でも、今は違う。
 申し訳ないと思う。いたたまれなくも思う。けれど、それ以上に思うのはこうまでしてくれた彼らに、どうしたら報いることができるのか───。
 自分が生きていていいのかどうかは、やはりまだ分からない。
 決して見失ってはいけないものを失ってしまったことは、そう簡単には取り戻せない。それでも、メイラが、セティが、リドルフが、自分の命と他の大事なものを賭してまで、この命を守ってくれた。そして、そうまでして守られた命を粗末に扱うことはできない。それだけは確かなのだ。
 あの日、セティと約束した。闘うのだと。
 剣は、少し使えるようになった。それでも、自分が振るう刃はまだ人の命を吸っていない。そうできるようになるには、まだ技量以外の何かが足りないのだと思う。しかし、剣を振るうだけが戦いでもない。その思いで、三人の様子が落ち着いてからは終日執務室にこもって今回の一連の件の報告書を書き上げた。
 兄であり王太子のフェウス。従兄のシノレ、叔父のロガン───。誰が敵で、誰が味方なのか分からない。そもそも何が起こっているのかすら、まだよく分からない。腹の内の探りあいは好きになれないし、不得手な方だ。しかし、そうはもう言っていられない。
 補佐官が王宮に向かうための輿の準備ができたことを告げた。書き上げた分厚い報告書を一度机のうえで揃えてハルは立ち上がった。
 ガイゼスは一応王政を敷いてはいるが、諸外国に比べずっと分権化が進んでいる。
 これは、過去に指導者を突然失い、大変な混乱を来したという苦い教訓から現王アンキウスが進め、実現した政策のひとつである。おかげで現在王は床についてはいるが、内務も外務も滞りなく回っている。
 それでも、王都を包む空気がどこか沈んで見えるのは仕方のないことなのかもしれない。人の歩みほどの速さでゆったりと流れるウルグリードの街を眺めながらハルはそう思った。
 文官が王宮に出向くとき輿を使うのは常であるが、いつもならばハルは所属する内務省の建物から王宮に移動するときに、輿を使うようなことはしない。
 内務省から王宮の距離はそう遠くないし、それ以上に輿に乗ること自体を好まないのだ。
 しかし、今は状況が状況である。彼の守護においてその全ての責を負うメイラは護衛の人数をいつもの倍に増やし、たとえ近くであっても身ひとつの移動を決して許さなかった。
 植物のつるを乾燥させたもので綴じた報告書の束を両手で握り締め、ハルはいつまでたってもいまいち見慣れることのない、国都の街並みを漫然と眺めた。
 合図で輿が止まり、ゆっくりと地面に下ろされる。
 幾重にも重ねられた上質の紗の下から這い出て仰ぎ見た王宮は、記憶にある姿と何も変わらなかった。
 剣を預け、メイラだけを伴って向かったのは、右宰相の執務室である。床に伏している王に代わりすべての内務においての最終的な決定権を持つ人物で、内務省調査局所属の巡検使ハル・アレンにとっては最高上司でもある。
 事前に届け出ていた面談の日時は了承されていたが、先客が長引いていて目処が立たないということなので、秘書官に報告書を預けて辞去することにする。今日の主目的は報告書を提出することであり、詳細について話すのは報告書に目を通してもらってからの方が都合は良かった。
 次に向かったのは、外務の最高責任者である左宰相の元だった。
 あの日、門兵に渡したハルの髪と救援の要請はただちに左宰相の元に届けられた。本来兵を動かすには複雑な手続きが要る。ただ、ある一定以上の位に就く者は緊急時のみ、手続きを省いて出動を要請することができる。ハルはあのとき、王子としてそれを使ったのだ。
「ハル・アレン殿下ご来訪でございます」
 取次ぎの秘書官が促したのに従って、ハルは薄織りの紗をくぐって部屋に入った。ウルグリードの建物内は役所や王宮なども、極力風のとおりを遮断しないような作りになっている。扉がついている部屋は話が外に漏れてはまずいようなやりとりをする場所だけだ。
 ひざまずき、頭を垂れたまま先般の件についてていねいに謝辞を述べたハルの手をとり、左宰相は立ち上がらせた。
「よくご無事で戻られました。殿下の御髪(みぐし)が届けられたときは、肝を冷やしましたぞ」
 本来、外務の最高責任者である左宰相は内務省調査局の末席にある巡検使よりもずっと上の位に当たる。しかし、今、左宰相はハルを巡検使としてではなく、第二王子として扱っていた。
 左宰相─── グージル・ラビスタは王子を乾燥させた丈夫な植物の茎を編みこんで作られた椅子に案内し、座らせた。
「都へ帰着する間際だけでなく、巡視中にも執拗に襲撃を受け、部下の大半を失ったとか。話は多少私の耳に入っています」
 王都に戻ってみてはじめて分かったことがある。
 国境の狭間の町アイデンでセティとリドルフと出会い、国境の検閲所を通ってからラガシュに向かった。そのときハルは国境警備隊に使者を依頼し、国境周辺とアイデンの町での受けた襲撃について王都に報告を送った。しかし、その使者は王都には着いていなかった。ハル・アレン巡検使ら一行の消息は、ラガシュに着くまでは一旦途絶えていたのだ。
 グージルは改めて無事を喜び、わずかに首を捻った。
「それにしても─── 賊がめっきり増えたとも治安が乱れているという報告も、まだどこからも入っていないのです」
 口調こそ変わらなかったが、グージルは今度は左宰相として巡検使に問いかけていた。
「巡視中に殿下がお気づきになられたことは、何かございますか?」
「我がガイゼスは、国土の隅まで治安もよく、民は皆穏やかに日々を営んでいます。その点において、閣下が危惧されるようなことは何もないと思います」
 グージルは口元に淡い苦笑をたたえた。ハルの言わんとしていることが、よく分かっている。
「では、その点以外では?」
「もっと、そう─── 国の根底のようなところで、なにかが起きようとしているのだと思います」
 国の根底、と低くハルの言葉を繰り返し、宙に視線を向けた左宰相に思い当たることがあるのかないのかハルには量れなかった。それも当然かもしれない。長く政の中枢を担ってきたグージルは老練な軍人であり政治家だ。それに、ハルはそのような駆け引きをするのには純粋すぎた。
 不穏というほどではないが、微妙な空気を払うようにグージルは柔和な表情を浮かべ言った。
「先の襲撃に関しては今、早急に調べを進めています。何か分かり次第またお呼びいたします」
 ハルはふたたび謝辞を述べ、左宰相の執務室を辞去した。
 控えの間で待機していたメイラを連れ、建物を出て石畳の回廊を門に向けて進む。中庭を囲むようにして作られた各部屋を結ぶのは、張り出したひさしのある回廊である。そのつくりは焼失したトゥルファのロガン・タナト邸に酷似している。ただし、その敷地はずっと広大で、逆に装飾は質素ではあるが───。
 これは季節と昼夜を問わず気温の高い地域の多いガイゼスにおいて、有力者の邸宅の一般的な建築法である。植物や噴水などを配した中庭を抜けて入る風は、特段に涼しく快適なのだ。むろん、広い敷地が必要になるし、庭を維持するのには手間と金がかかるため庶民はこうはいかない。
 回廊をさらに奥に進むと、大広間があり、それを抜けると王家の人間の居住空間となる。ハルが寝食を過ごしていたのは、そこからもっと奥にある別棟の静かな建物であった。侍女もごく限られた者だけで、メイラが護衛と兼任して身の回りのことも世話を焼いてくれていた。
 今も王都に滞留している間は、王子としてそこで過ごすことが多い。しかし、今回はセティとリドルフを連れていることもあるし、状況が状況である。王宮の方が安全が確保できない可能性もあるため、官舎に滞在しているのだ。
 正門が見えてきたとき、進行方向からの人影の正体に先に気がついたのはメイラだった。囁くように低い声でハルを呼び、注意を喚起する。
「兄上……」
 吐息を漏らすようにハルが呟いたとき、王太子フェウス・アレンもこちらに気がついたようだった。ハルは動揺と緊張をひた隠してフェウスに近づいた。
「そういえば、戻っていたのだったな」
 先に口を開いたのはフェウスだった。
「無事で何よりだ」
 口元だけで微笑んだその顔の裏にある感情が何か、ハルには分からなかった。形どおりの挨拶を済ませると、いつ戻ったのかと問われ、ハルは十日前に、と応える。
「それにしても─── 部下の大半を失ったというのに、女連れで戻るとはお前にも意外な一面があったのだな」
「おんな……?」
 噂は聞いている、とフェウスは嘲るように笑った。
「ナディールの女を囲うとは、やはりお前も父上の子だな」
「フェウス様───!」
 たまりかねて声を上げたメイラをじろりと一瞥する。王太子に睨まれた老女は唇をかみ締め、再び頭をたれた。
「そろそろ髪を染め直した方がよいのではないか?」
 フェウスはハルの薄い肩に手をおき、腰を屈めて耳元で囁いた。
「忌まわしいナディールの血が、日に透けて見えているぞ」
 兄の肌よりも薄い色をしたハルの頬が、さっと上気する。
「王族の恥を民に晒すな。身の程をわきまえよ。お前は私の代わりに用意されただけの予備にすぎないのだから」
 フェウスは冷ややかに言い置くと、そのまま石畳の回廊を奥へと消えていった。

 Ⅳ

「ハルを攫った奴等のことは、何か分かったのか?」
 セティが唐突にそうリドルフに問いかけたのは、雨催いの午後であった。朝は快晴であったのに、珍しく昼前から急に鉛色の雲が空を覆いはじめていた。
 こんな天気である。セティは昼食の後、手持ち無沙汰を紛らわすように長いすに寝そべって書を開いていた。
 真意を推し量るように沈黙したリドルフに向かって、呆れたようにセティは笑う。
「どうせ、調べさせたんだろう?」
 以前のように、セティが眠っているあいだに外出することはなくなった。しかし、リドルフが法術を使って国の人間たちとやりとりをしていることを、セティは知っていた。
「調べるも何も─── 私は彼を知っています」
「知っている?」
 思いもよらぬ言葉に、セティは飛び起きた。
「彼の名は、ダイラム・クライン・アデン。その力量はアデンの神官長(クラメステル)に勝るとも言われています。それも、ただの神官ではありません」
「ただの神官ではないって、どういう意味だ」
「籍を置いているのが、特殊な仕事をするところです。要するに、諜報機関のような」
「そんな組織があったのか。私は知らないぞ」
 リドルフはちょっと言いにくそうに口を開いた。
「非公式の組織ですが、火の神(アデン)神殿直轄の組織です。四神殿の神官で、ある程度の位の者なら皆暗黙の了解のように知っています」
「なぜ、私は知らないんだ」
「彼らが── フラマーメルがする仕事は決してきれいなものではありません。なので、代々四神殿の神官達はオリス神殿の耳には入らないようにしているのです」
「ふうん」
 リドルフの言う、「きれいなものではない仕事」が想像できないわけではなかった。しかし、セティは肘をついて、無邪気な仕草で小首を傾げた。
「なぜリドがそんな奴と知り合いなんだ?」
「彼は私と同郷なのです」
「同郷というと、ラントの……」
 リドルフの浮かべた微笑が、いくらか哀しげに映ったのは気のせいだっただろうか。セティは思わず、最後まで言葉を紡ぐのを止めた。
「それと、もう一人見知った顔がいました」
「シュレバ・クライン・アナリ。彼は、私の養父であるネトル様の、行方をくらませた実子です」
 飛び起きた拍子に、セティが手持ち無沙汰に開いていた書物が長いすから転げ落ちた。
「ネトル様の実子? ネトル様にはリド以外にも子息がいたのか」
「私が養子に入ったばかりのころは、本当の兄のように慕ってくれていたのですが、数年前、突然行方をくらましてしまって。まさか─── フラマーメルの一員になっているとは」
「ネトル様には知らせたのか?」
「アナリの神官を通じて伝えたのですが、放っておけと、そう言われました」
「ネトル様は知っていたのか…?」
「分かりません。ただ、猊下(げいか)の御身を害そうとする一味に加担しているような者を息子に持った覚えはないと」
 不意にセティの顔が曇った。瞬間、少し表現が直接的すぎたかもしれないとリドルフは後悔する。しかし、セティの顔を曇らせた原因はリドルフが思うところと違うようであった。
「家族って、一体なんなんだ?」
 暗に指したのはハルのことだろう。今回の一連の襲撃を含めた数ヶ月間の巡視の報告書を書き上げて提出したハルは、宰相からの呼び出し待ちだった。ハルの命を狙っているのは、彼の叔父か、従兄か兄か、はたまた全てである可能性もある。生殺しのような状態のなか、ハルは健気に毎朝出仕していた。
「やっぱり、私にはよく分からないよ」
 うつむいたのに合わせて、金色の髪が流れる。髪の間から垣間見える端正な横顔は、困惑するというよりは泣き出しそうだった。いつもならリドルフはセティの問いにはていねいに付き合うのだが、今回ばかりは哀しげに笑ってとりなすように話題を変えた。
「探しものの情報を手に入れましたよ」
「探し物……?」
「アドリンドのジュデという村に、”神の涙”と呼ばれている財宝があるそうです。なんでも、不老不死を人に与えるのだとか」
「神の涙、か」
 セティは口元を歪め、皮肉気に笑った。
「どこかで聞いたことのある名に似ている。あんまり縁起のよい名じゃない」
 ほんの少し苦い笑みを浮かべ、それから遠慮がちにリドルフが問う。
「これから、どうするのですか? いつまでガイゼスに滞在するつもりです?」
 セティとリドルフは巡検使の警護を請け負い、ガイゼスに入国した。しかし、それはもはや表向きにすぎない。
「いつまでも、ここにいるわけには」
「分かっている」
 強い調子でリドルフの言葉を遮ったセティは、一つ息を吐いて、少し柔らかい口調で言い直した。
「分かっているよ。あと少し、もう少しだけ───」
 セティは薄紅色の唇をきゅっと結んだ。
「そうしたら、行こう。アドリンドへ」
 昼すぎからふくれあがった雨雲は、ハルが官舎に戻ってきたころには小雨をぱらつかせはじめていた。
 安全対策上、仕方なく役所の行き帰りも輿を利用しているため、ハル自身は濡れていないが、彼を乗せる輿を担ぐ下男たちは濡れた髪を額に張り付かせていた。熱帯に近い気候といえども、濡れたままにしておくのは決して心地の良いものではない。帰宅するやいなや、ハルはアリアに髪や顔を拭くための布と温かい飲み物を用意するように申し付けて、下男たちに振舞った。
 思いもよらぬ王子の心遣いに、恐縮しつつも感激する下男たちが退散するのと引き換えに、官舎の門扉を叩いたのは意外な客人であった。
「カイ───!」
 着替えもそこそこに、客間を訪れたハルはその人物の顔を見て思わず声を上げた。
 よく陽に焼けた青年は椅子から転げるように降り、床に額をこすりつけるようにして頭を下げた。
「殿下、申し訳ございませんでした。本来殿下をお守りする立場の私が、役目を全うできなかったばかりか、治療していただき挙句に養生までさせていただいて───」
 最後は消え入るような声だった。ラガシュで別れたときよりも幾分伸びた髪は、シノレ・アンヴァーンのようにひとつに束ねられていた。
「私を護って傷を負ったのだから当然のことだ」
 ハルは跪いてカイの手を取り、立ち上がらせた。
「殿下……」
「そんなことより、よく戻ってきてくれた。傷は、もう良いのか?」
 言葉に詰まった青年は、はいとだけしっかり答えた。ハルはそれを受けて嬉しそうに微笑む。
 カイは国境近くで受けた一度目の襲撃の際にハルを守って瀕死の重傷を負った。そのカイを診てくれる人間を探しているときに出会ったのがリドルフとセティだ。こうして思い返してみると、つい数ヶ月前のことだというのに、ずいぶんと懐かしく感じられるのだから不思議なものだ。
「アンヴァーン将軍より、文をお預かりして参りました。殿下に直接お渡しするように仰せつかっております」
「文……?」
 カイが懐から大事そう取り出したのは、皮製の筒だった。中を取り出すと、巻かれた上質な紙の端がシノレ・アンヴァーンの紋章で封緘(ふうかん)されている。その紋章を見つめ、ハルの表情は無意識に強張った。
 ラガシュに向かう途中であった襲撃── その中にはこの紋章を付けた衣を着たものがいたのだ。そして、その真相は今も何も分かっていない。
 文の納められた筒をぎゅっとにぎりしめたまま、眉間に皺を寄せる主をカイは不安そうに見ていた。その視線に気づいたハルは慌てて笑顔をつくる。
「ちょうどよいところに来てくれた。一緒に夕餉でもどうだ」
主からの突然の誘いに飛び上がり、そんな、殿下とひとつの卓で食事など云々と口ごもり、ふたたび平伏したカイに、ハルはしばし目を瞬かせ、何かに気づいたようにあっと声を上げた。
「そうだったな。今日戻ったばかりなら、父君も母君もカイの帰りを楽しみにしているはずだ。そなたの命の恩人であるリドルフ殿も滞在しているから、つい───」
 気が回らなくてすまない、と逆に申し訳なさそうに、うつむいてしまった主に向けてカイは大慌てで頭を振る。まったくこの主は思慮深く、謙虚すぎるのだ。
「喜んでご一緒させていただきます」
 カイの返事にハルは嬉しそうに微笑んで、届けられたシノレの文を懐にしまい、連れ立って客間を後にした。
 いつもよりひとり増えた食事の席は、急遽、宴へと変えられた。
 酒が振舞われ、すでに仕込まれていた食材は手早く華やかな料理へと変えられる。王子に友人と紹介された命の恩人達が白皙のナディール人であったことに、カイははじめ驚き、少なからず困惑した。カイはガイゼスにおいてごく一般的な家庭の育ちである。若い彼自身が直接的にナディール人に憎悪を抱くような経験はしていなかったが、当然あまり好意的な感情は持ち合わせていない。
 そして、紹介された二人のナディール人は、典型的な白色人種の容貌をしていたし、一人はまるで現実感がないほどに、とにかく美しかった。ただ、言葉を交わすうちにリドルフの穏やかで清廉な人柄と、つくりもののように美しいくせに飾らず、屈託のない美青年にいつの間にか引き込まれるようにして馴染んでしまう。しかも、セティは剣を使うというから、あっという間に意気投合してしまった。彼らに関わったガイゼス人の多くがそうであったように、カイもまた例外ではなかった。
 ささやかな宴はこうして、終始なごやかなようすで幕を閉じた。
 宴の余韻も消え失せ、静寂が幅をきかせはじめた深夜。内湯で湯浴みをすませたハルは、濡れた髪に寝間着姿でひとり、自室に向かう吹き抜けの廊下に立ち尽くしていた。
 カイの手によって届けられたシノレからの文のことを考えていた。
 宴が終わったあと、ひとり自室で開いてみた。中身は、想像と全く違っていた。それはひどく儀礼的で、拍子抜けするほどに内容のないものだった。
「ハル? どうした」
 思考のふちに沈んでいたハルは、後ろから掛けられた声に振り返った。同じく、濡れた髪に寝間着姿のセティだった。やはり湯浴みをすませたばかりらしく、絹糸のような金色の髪は無造作にまとめられ、しずくを落としていた。
 うす明かりのなかで見るセティの瞳は、とんでもなく美しく、何度見てもやはり惹きこまれてしまう。そうして、逸らすことなどできなくなってしまうのだ。観念したように少し笑って、ハルは口をひらいた。
「カイがシノレ・アンヴァーン公から託された文を運んできたのです」
 その瞬間、セティの顔色が変わった。
「なんて、書いてあったんだ?」
 ハルはすぐそばの自室にセティを招き入れ、文棚の引き出しにしまっていた文を開いてみせる。
「ラガシュの近況と、王都帰還の祝いです」
「何だそれは」
「形式的な挨拶のようなものです。巡視から王都に戻ると、いろいろな方からこうした文をいただくのが、習わしのなのです」
 薄い紫の瞳がつづられた文字を順に追う。最後まで読み終えたあとセティは眉を寄せた。シノレ・アンヴァーン将軍に相応しい悠々とした字は美しかったが、ハルの言うとおり内容は空虚で何事も告げていなかった。
「ほんとうに中身のない文だ」
 嘆息したセティに、ハルも苦笑を浮かべて頷く。
「私の腹心の部下であるカイに直接運ばせたものですから、なにか特別な意味があると思ったのですが」
 しかもこの文は、何者かによって開封された場合すぐに分かるように皮製の筒に納められ、わざわざ封緘までされていたことをハルは付け加えた。
「この時分に、アンヴァーン将軍がハルに確実に届くようにした文だろう? そう考えるのが自然だよ」
 セティは地べたにどっかと腰を下ろすと、長い脚を組む。そして文を両手で持って一文字、一文字を確かめるようにして読みなおす。それはまるで剣の対峙をしているかのように真剣だった。
「うん?」
 何度か読み返したのち、セティは鼻にかかったような甘い声を漏らし、目をとろんとさせた。
「なんか、良い香りがするな」
 形のよい鼻を手に持った紙に近づけてひくつかせる。
「香り……?」
 ハルも同じようにして顔を近づける。しかし、セティのいう「良い香り」は感じられなかった。
「これ、あの花の香りじゃないかな?」
 ハルはその瞬間はっとした。
「アルベルム?」
 ハルはもう一度鼻先を近づけてみる。確かに、湯あがりにつけなおした自分のアルベルムの練り香とは別の、アルベルムの香りがした。
「な、するだろう?」
 セティは嬉しそうだった。
「確かにします」
「アンヴァーン将軍は雅な御人なんだな」
 セティの言葉にハルは答えなかった。考え込むように瞬きを繰り返し、首を捻る。そして、何か思い立ったように失礼、と断ってセティの手から文を奪い、つづられた文字を凝視する。
「ハル? どうした?」
「シノレ・アンヴァーン公は、普段こういうことをしません。何らかの意図があってそうしたのだと思います」
 ハルの視線は真剣そのものだった。文から目をそらさず、一文字一文字を指でなぞりながら、何かを考えていた。セティはじっとそれを見ている。
 そして、幾度かそれを繰り返し、しばらくしてあっと小さく声を上げる。
「どうした」
「や─── まさか、そんな……」
「ハル?」
 ハルの唇はわなないていた。
「何か分かったのか?」
 自分を落ち着かせるように一つ息を吐いて、ハルは重たそうに口を開く。
「各行の、はじめから一文字目と、うしろから二文字目だけをつなげて読んでみてください」
 怪訝な顔をしながらも、セティはハルの横から文を覗き込み、文字を指でなぞっていく。
「ろ、が、ん、に……」
 そこまで言って、セティも思わず大きな声を上げた。そして、慌てて手のひらで口を塞ぐ。
「ロガンに気をつけろ───」
 二人は顔を見合わせた。
「偶然か?」
 ハルは力なく首を振った。
「分かりません。もちろん、そうであれば良いのですが」
「どうして、一文字目と二文字目なんだ?」
「アルベルムは、限られた時季に一夜かニ夜しか開かない花です」
 月あかりのしたで咲き誇る、大輪の白い花々の前で契約という名の約束をした。そのときにもハルはそれを教えてくれた。
「だから、漠然と一とニが何かのてがかりになっているのでは、と考えました。幾通りか試してみると、この組み合わせだけが意味のある文になったのです」
 セティは口を一文字に結び、腕を組む。
「アルベルムはガイゼスでは身分の高い女性(にょしょう)が使う香です。武人で、男であるシノレ・アンヴァーン公はアルベルムの香など決して使いません。明らかに意図があって、吹き付けたものです」
 ふうん、と呟いてからセティは何か思い当たったように、美しい瞳をくるんと動かした。
「あれ? じゃあ、ハルの使っている香はアルベルムの香じゃないのか? てっきりそうだと思っていた」
意表をつかれた屈託のない問いに、ハルはぎょっとして固まった。セティはそんなハルの様子に気づいているのかいないのか─── 淡紫色の瞳をハルに向けたまま、無邪気な仕草で首を傾げる。濡れた金色の髪が揺れて毛先からしずくがおちた。
「セティ、こちらにお邪魔していたのですか」
 穏やかな声音が響いた。
「いつまで経っても戻ってこないので、心配したのですよ」
 我が子を慈しむように空色の瞳が細められる。リドルフだった。
「それよりも大変なことになったんだ」
「大変なこと、ですか?」
 リドルフはハルに入室の許可を目で求め、ひとつ頭を下げて部屋に入る。勢いよくこれまでの顛末を話しはじめたセティの言葉を、リドルフはうなずきながら聞いていた。
「メイラ様にも相談してみた方がいいかもしれませんね。ハル様?」
 急に水を向けられたハルは、目を大きく開いたまま返事に戸惑う。
「あ……そ、そうですね。メイラを呼んできます」
 また空色の瞳を細めてリドルフはくすりと笑った。

 それから数日間、ハルは表向き穏やかな日々を過ごした。巡視に関する報告書を提出してしまえば、王都滞在中の巡検使の仕事など大して中身もない雑用のようなものばかりだ。体面を保つため一応出仕はするが、実際はその必要もないくらいである。そんな事情で、昼前に出仕してきっちり夕暮れ前に戻っては官舎でナディール人の友人らと食事をしながら歓談するという生活を送っていたのだが、今日のハルは東雲(しののめ)とともに出かけた。左右ふたりの宰相から出頭命令があったのだ。
 先に左宰相の執務室を訪れたハルは緊張の色を隠さず、控えの間に()いていた剣を預け部屋に入った。
「巡検使ハル・アレン参りました」
 簡単な挨拶を済ませるとグージル・ラビスタはすぐに本題に入った。
「帰途間際、殿下が都の近くで受けた襲撃について、調査がまとまりましたので今日はご報告しようと思い、お呼びしました」
 お伝えしにくいことではあるのですが、と前置きをしてグージルは口を開く。
「結論から申し上げますと、首謀者、目的について確たるものは何も得られませんでした」
 思わずハルは嘆息を漏らしてしまう。これまでに類を見ないほどの規模の襲撃であったのだ。何か決定的な証拠のようなものが出てくることを、やはり、どこかで期待していた。
「残された一味の遺体を詳細に検分したところ、明らかになったのは、彼らが寄せ集められた傭兵であるということだけです」
「寄せ集めの傭兵……」
 ハルは逆三角形の顎に手を置いて、首を傾げた。
「彼らのなかには、確かに軍令のようなものが存在し、機能していました。大多数が傭兵であったとしても、指揮をしている人間はそうでなかったと思うのですが」
 王族でありながら軍事にはほど遠い内政の人であるハル・アレン王子の口から、軍令などという言葉が出てきたことに、グージルはやや驚いたようすだった。
「それを確認するために、メイラ・ロトとクライン・リドルフ殿の応戦から逃れた生存者を探したのですが、発見できなかったのです」
 訝しげな表情のハルに向かって、左宰相は声を落とし続けた。
「すべて何者かによって殺害されていたのです」
 ぼんやりと繰り返してから、その事実のおぞましさを認識しハルは息を呑む。
 およそ信じがたいことであった。メイラとリドルフが、自分とセティのために一体どれほどの人数を削いだのかは正確には分からない。しかし、あの日対峙した一団は、遠目には山のように見えたほどだったのだ。残党がそれほど少数だとはとても思えない。その全てが殺害されていたのだとすれば─── その光景を想像しただけで背中がうすら寒くなる。
 これは短期的な調査の結果であり、以後も調べは続けると前置きしたうえでグージルはさらに続けた。
「これは私の憶測にすぎないのですが、聞いていただけますか」
「はい」
「殿下は何かをご存知なのではないでしょうか?」
 危うく腰を浮かせてしまいそうなほどの動揺をひた隠し、ハルは努めて冷静に返す。
「何かを知っているとは、どういう意味でございましょう?」
「私はいつも殿下の巡視報告を拝見しているわけではありません。しかし、殿下のお人柄はよく存じ上げているつもりです」
 グージルの目は微笑んでいるようにも見えた。
「殿下が書かれた報告書にしては、語気が荒いと申し上げますか─── そのような印象を受けるのです」
 ハルはグージルの言葉を聞きながら、この場で何を口に出すのが最良であるのかを必死に考えていた。
 シノレの紋章をつけた一味に襲撃されたこと、ラガシュで聞いた話。トゥルファで聞いた話。そして、シノレからの文に書かれていた内容──。
 考えているうちに唐突に心のなかに不吉な思いが芽生えた。
 もし、本当に王太子である兄フェウスかシノレが自分の命を欲しているとして、その事実をグージルが容認、もしくは賛同しているのだとしたら…?
 シノレは左将軍、フェウスは王都を守護する上将軍下の将だ。シノレの持っている裁量権は大きく、ラガシュ周辺は治外法権に近いが、それでも国全体の治安は治安維持省が担っており、最終的には左宰相が最高責任者だ。左宰相ならばどれほどの規模の襲撃であっても、その事実を有耶無耶にすることなど造作もないことだ。
「殿下」
 ハルはグージルの声にはっと我に返った。
「いかがなさいました」
 グージルの瞳は、相変わらず優しいように見える。
「私は────」
 頭の中をさまざまな思いがよぎる。悲観的な考えと、楽観的な思いが一瞬のうちに交錯する。それに事実と駆け引きが加わり、どろどろになって混ざり合い、形を失っていく。
「なにも…… なにも、分からないのです」
 事態の打開のための好機であるか、極めて危険な状態であるか、そのどちらかであることは間違いなかった。ただ、言葉として口から出せたのはたったそれだけだった。
 左宰相の部屋を辞したハルはその足で、右宰相の執務室を訪問した。
 巡視の報告書を提出したあとは、面談が行われるのが通例である。たとえ中身がなくとも。
 しかし、今回ばかりは何か違う話があるはずだと、期待した。左宰相との会談がうまくいかなかったからこそ、今度こそはと意気込んでもいた。
 その思惑はあっという間に崩れ去り、拍子抜けしてしまうくらいにあっさりと終わった。
 王宮から内務省にある自分の執務室に戻る最中、ハルは言いようのない暗い思いにとらわれていた。
 自分がひどく矮小な存在に思えてならなかった。
 真相をつきとめるのに闘うと決心したというのに、一体自分のしていることは何なのだろうか。剣の柄を握っておきながら刃を振るえない、それと何が違うというのだろうか。
 それどころか、今回の一連の事件は夢だったのではないかとすら思えてくる。
 全ては自作自演の妄想劇。そもそも、自分ごときを亡き者にしたところで、誰になんの得があるというのか。自分の存在意義を思い上がっているのではないか。
 沈んだ面持ちでハルが執務室に戻るやいなや、事務官が一束の書類を持って訪れた。
 それは、今回の巡視に伴い、殉死した兵の遺族へ送られる弔慰金支給の確認書類であった。すっかり出口の見えない暗い思考の迷宮に迷いこみかけていたハルは、その瞬間目が覚めたような気がした。
 自分を守るために、たくさんの兵が亡くなったのだ。これは紛れもない事実だ。
 存在意義云々は別として、たくさんの人間が自分を守るために命をかけたのだ。たとえ、それが彼らの役目であったとしても、それは事実に違いない。
 そういう立場に生まれた以上、逃げてはいけない。自分がやらなければ、代わりに誰かがやることになる。
 セティがいつだったか、そういう風に言ったのを思い出した。
 自分はまたそうやって逃げようとしているだけだ。他者の屍を足蹴にして。
 役目とは無縁であるセティとリドルフもまた、命を懸けて王都まで送り届けてくれたのではなかったか。
 書類を見つめていたハルは不意に顔を上げて事務官に訊いた。
「この弔慰金、私が遺族の元へ直接届けることは出来るか?」
 突然の申し出に事務官は驚いたように問い直す。
「殿下自らでございますか?」
「彼らは私の身を守り、命を落としたのだ。その労いと慰めを、私の口から直接ご遺族に伝えたい」

   Ⅴ

 海面にうつるいびつな形をした月がゆらゆらと揺れている。開け放たれた窓からぬるい風が入り、かけられた薄織りの布を遊ばせた。
 街外れの高台にあるこの料亭は、二階の特別室からの眺めが格別に美しいという。トゥルファの街を背景に海が一望できるのだ。
 しかし、今は何も目には入らない。ロガン・タナトは目の前の男が言った内容を、頭の中で何度も繰り返してみた。しかし、それは一向に現実味を帯びてこないのだ。
「詳細を聞かせてもらおう」
 胸中を察していたのか、それとも言っている本人も同じ思いであったのか―――。心なし強張った面持ちの男はひとつ唾を飲み込んで順を追って話しはじめた。
「まず、リドルフ・クライン・アナリという男についてです。出生は旧ラント村、俗名はリドルフ・コヴェ・アリム」
「コヴェ……?」
 低い声で呟いたロガンに、男は頷いた。
「コヴェ家はラント村に代々続いていた、優れた神官を輩出する家系です。家自体はラントの功績により断絶。それよりも前に出家し、神官になっていた人間も皆大戦で死んでいます。今生きている唯一のコヴェ家の血を引く人間は、リドルフ・クライン・アナリだけです」
 一夜で滅んだラント村の一件を、ガイゼスでは「ラントの功績」と言う。ガイゼスにとっては、強い法力を持つ優秀な神官を輩出するラント村の壊滅に成功したことは、独立戦争における最大の功績だったと言ってもいい。以来、ナディールの神官は層が薄くなったといわれている。
「リドルフ・クライン・アナリは由緒正しいコヴェ家の最後の血を引く者、ラントの功績の唯一の生き残りとして六歳のとき現大地の神(アナリ)神殿の大神官(クラヴァン)ネトルに養子として迎えられ、その後七歳でアナリ神殿に入り、若干十六歳でアナリ神殿の神官長(クラメステル)まで上り詰めています」
 ロガンは澄んだ空色の瞳をした青年僧の姿を思い出していた。ナディールの神官長(クラメステル)というと、ガイゼスでは各省の省長にあたるぐらいの高官である。そればかりかその養父は現大地の神(アナリ)神殿の長である大神官(クラヴァン)だという。これは、ナディールでは国王に次ぐ権力者の内のひとりだ。
 凛とした姿に、物怖じしない冷静さとしたたかさ。思い返せば、相応の育ちと立場に相応しい空気を確かに青年はまとっていた。
「リドルフ・クライン・アナリと名乗っているようですが、今もナディールの戸籍上はリドルフ・クラメステル・アナリとなっています。現在、アナリ神殿の神官長(クラメステル)はカトラス・クラデ・アナリという人間が代理で務めていますが、これは、リドルフ・クラメステル・アナリが二年程前より国都より姿を消したことと関係があるようです」
 一旦言葉を切って、男はごくりと喉を鳴らして唾を飲み込んだ。
「そして、セティ・コヴェについてです」
 ロガンはじっと男を見据えた。
「この名は、恐らく偽名です。コヴェ家については先ほど申し上げたとおりですが──」
 コヴェ姓はナディールでは特別な姓であり、同姓は非常に珍しいうえ、愛称も含め、セティという名の青年の存在は確認できないという。
「ナディールの王都、ハプラティシュに古くからある中流貴族の家の長子、俗名セティルナ・キル・ウェン・バル。それこそがセティ・コヴェの正体だと思われます」
 キル家は十数年前までナディールのごく一般的な中流貴族であった。しかし、十七年前のある出来事を境に、今では王族と変わらないほど厚遇されていた。
「キル家の現当主、サバスの長子セティルナは一歳のときにその才を認められ出家し、空の神(オリス)神殿に入っています。そして、十一歳のときにセティス・クラヴァン・オリスと名を改め、空の神(オリス)大神官(クラヴァン)に就任──。キル家は百数十年間も空位であった、ナディールの神職における最高位、クラヴァン・オリスを輩出したことにより、現在の地位を得たのです」
 男は手元の資料を見つめ、眼鏡をおしあげた。
「そして、セティス・クラヴァン・オリスが民の前から一切姿を現さなくなったのと同時期に、リドルフ・クラメステル・アナリも都から忽然と姿を消しています。元より、空の神(オリス)大神官(クラヴァン)は特別に神聖な存在とされ、民の前に姿を現すことは少ないようですが、年に一度の大神祭の場でそれが如実です」
 ナディールでは毎年、全ての神々を讃えるための大規模な祭事が執り行われる。そこでは全神殿の要職に就く神官達が一堂に会する。百数十年ものあいだ空位であった、空の神(オリス)大神官(クラヴァン)セティスも就任から三年前の大神祭までは毎年その姿を民に見せ、喝采を浴びていたという。しかし、一昨年、昨年は姿を現していないという。
「ナディール王室はセティス出奔の事実を伏せているようですが、神職者の間では様々な憶測や噂話が飛び交っているようです」
 ロガンは微動だにせず、じっと宙を睨んでいた。
「セティ・コヴェがクラヴァン・オリスであるという揺るがしがたい証拠は、なによりもその容貌です」
 男が畳み掛けるように続ける。
「陽光を紡いだごとく、艶やかな金色の髪。紫水晶よりも美しい稀有な瞳と、神の子に相応しい麗しい容貌。それが、人びとが口々に語る、オリスの大神官(クラヴァン)の姿なのです。かのような稀有な美貌を持つ青年は、他におりますまい」
 意を決したように男は視線を上げた。
「セティ・コヴェの真の名は、セティス・クラヴァン・オリス──。強大な法力を有し、最も神に近い存在として崇め奉られる、神職の最高位、空の神(オリス)大神官(クラヴァン)に相違ありません」
 細い声で最初と同じ言葉を言って、頭を垂れたその体が少し、震えていた。
「あの青年は巧みに剣を使う。高位の神官が剣を振るうなど、ナディールの常識では考えられぬことだ」
「私もそれは重々承知しております。無論、セティスが剣技に長けているという情報は確認できません。しかし、各方面から得られた情報を照合すると、その結論しか導き出せないのです」
 男はやはり震えていた。あらゆる意味で恐ろしいことを言っている。それが当人にもよく分かっているのだろう。
 政も商いも大切なのは情報だ。ロガンはそれをよく知っているから、広く、そして深く情報を入手するために常からいろいろな策を講じている。その中でも、 この男は建国のときから抱えている信頼のできる情報人のひとりだ。戦時には間諜のような仕事もよくしたし、それに助けられてきた。情報量とその正確さでは 右に出る者がいない。だからこそ、今回、ハル・アレンに付き纏っているナディール人の素性を調べさせたのだったが……。
 ロガンはふたたび口を開きかけて、そして、止めた。
 腑に落ちないところはある。信じがたいものもある。しかし、目の前でこの男が震えている。それが全てのような気がした。
「分かった。下がってよい」
 青ざめていた男の顔が、仄暗(ほのぐら)いランプのあかりのなかにあって、確かに明るくなったように見えた。床に手をついて深く一礼し、男が踵を返す。その背中に問いかけた。
「あの青年が空の神(オリス)大神官(クラヴァン)であると、確証になるようなものを所持している可能性はあるか」
「クラヴァン・オリスはうなじに空を表わした、紺青の彫りものがあるという話です。セティ・コヴェの襟首には必ずそれがあるでしょう」
 男はふたたび頭を下げて部屋を出ていった。
「紺青の彫りもの、か」
 生ぬるい風が入り、影が揺れた。



 朝の修練を終えたシノレ・アンヴァーンは、人払いをして城内の自室にこもった。内々の話をするときは、あえて日の高いあいだにする。夜、人払いをすればそれだけで、なにか人に聞かれては不都合な話しをしているのだと声を大にして言っているようなものだ。昼間なら、常から執務に集中したいときに人払いをすることは少なくないから、むやみやたらに勘繰られることもない。
「なにか新しいことは分かったか」
 部屋にはランドと二人だけだった。
「どの線も決定的なものまでは、たどり着けないといのが現状です」
 シノレは口元に苦い笑みを刻んで、息を吐く。
「さすがは叔父上であるというべきか───。囲っている情報屋の数も種類もまるで比にならぬだろう。我々の動きは筒抜けと考えた方がいいかも良いかもしれぬ」
 巡検使ハル・アレンより包みと文が届いたという知らせが入ったのは、十日ほど前のことになる。
 文には先の巡視で立ち寄った際の礼と、例の文の表向きの用件に対する儀礼的な返礼が、彼らしい繊細な文字で几帳面につづられていた。
 分からなかったのか───。シノレは軽い落胆のようなものを覚えながら、文を卓に置いた。ふと、一緒に届けられたという包みが目に入った。文には、王都で評判の菓子を送ると書かれていたはずだ。
 どこか釈然としないまま包みを開ける。中に入っていたのは、大きな円形の焼き菓子だ。砂糖と酒に漬けた果実や乾煎りした木の実などを混ぜ込んで焼き、日持ちするようによく考えられている。シノレはじっとそれを見つめた。
 ハルはこれまでも、何度か文と共に品物を送ってくることはあった。ただそれは、兵に振舞うための酒や木綿などの実用的なものだった。ハル・アレンは非常に感受性の鋭い人間だ。贈り物をするときは、贈られる側を第一に考え、決してひとりよがりになるようなことはないはずなのだが…。
 次の瞬間、シノレは焼き菓子を両手で持ち上げた。それは直感と言ってもよかったかもしれない。
 大きな菓子を真ん中から二つに割ると、中から出てきたのはもう一つの文であった。
「殿下もなかなか、おやりになりますな」
 傍らで見守っていたランドが、思わずといったようすで目を細めた。シノレも少しだけ頬を緩ませ、菓子から引き抜いた紙片についた屑を払って開いた。
 ラガシュまでの道中、シノレの紋章をつけた一味に襲撃されたこと。
 叔父ロガン・タナトから聞いた内容。
 襲撃の事実を公的な文書に上げ、調査をするように働きかけたが、なんら進展のないこと。
 結局なにが真実か分からないということ─── それらが淡々とつづられていた。
 シノレはハルからの文で、自身の紋章が不正に使われていたことをはじめて知った。
 紋章の取り扱いは厳重である。しかし、その後すぐさま調べても誰がどのようにして紋章を使ったのか、明らかにすることはできなかった。
 他の件についてもそうだ。いずれも関わっている人間を途中までは突き止めることはできても、大元は分からない。これが逆に、シノレに鼻を利かせることになった。こんなことをできるのは、尋常なく頭の切れる人間で、相応の権力を持っている人間に他ならない。このようなことが、十八歳の王太子ひとりでできるとはシノレには思えなかった。
「私の推測は大方正しいだろうな」
「やはり、閣下が……?」
 ランドは二人しかいない部屋であっても声をひそめた。
「私とハル殿とフェウス殿を対立させようとしているのは間違いないだろう。ただ、黒幕が叔父上お一人とも思えぬが」
 シノレは鋭い目を虚空に向けた。
「せめてもう一人、ある程度の権力を持つ協力者が王都にいなければ難しい。フェウス殿に不信感を植え付けるようなことができる者がいなければ…。叔父上がいくら優れた策士であっても、所詮その身があるのはトゥルファだ」
「王都に行かれますか?」
 シノレは頭を振った。
「叔父上は常人では考えつかぬほど頭が切れる。私ごときが行ったところで、尻尾を出さぬだろう。それどころか、返り討ちに合うやもしれぬ」
 剛毅と謳われる名将軍はらしくもなく小さくため息をついた。
「ロガン・タナト公を相手にするには、ハル様には荷が重うございましょう。ウルグリードには王太子殿下もいらっしゃいます」
 シノレは苦虫でも噛み潰したような顔になった。
「叔父上も困ったものだ。私やフェウス殿はともかく、王位継承権のないハル殿まで巻き込むとは」
「殿下は、民によく慕われております。王位継承権の認定を望む声が多うございますから」
 シノレは嘆息して、脱力したように椅子に身を預けた。
「酷な話よ。かのような生き方を強いられているだけで、十分すぎるほどだというのに」
「陛下もさぞ、不憫に思われていることでしょう」
「だからこそ、ハル殿は陛下に謁見する必要があるのだ。御身がどういう状態であろうとも、この話が耳に入れば陛下は黙ってはおられぬ」
 視界の隅に壁にかけてある先王であり、父の肖像画が入った。
「ハル殿はまるで奔流にもまれる流木のようだ。ガイゼス王国という名の大きな奔流に───」
 シノレが呟いた言葉は珍しく愚痴らしかった。
「父上が早死にしなければ、あるいは違ったかもしれぬな」



 色素の薄い瞳ならば、天を仰げば思わず目を細められずにはいられないほどの鮮やかな空が常であるものの、今日もガイゼスの王都を包む空は鉛色だった。
 珍しく数日にわたって乾燥した大地を潤わせた雨だけは今日になってようやく上がったが、太陽は変わらずの不機嫌でその姿を現さない。
 雨空が、人の心を憂鬱とまでは言わなくとも、どこかすっきりさせないのは水と緑の豊かなナディールでも同じだ。しかし、全体的に色彩の乏しいガイゼスでは、それはなおさらかもしれない。抜けるような青空だけが、まるで唯一絶対のように鮮やかで美しいのだから。
 この重たい鉛色の空は誰の前途を暗示したものであるのか─── そんなリドルフのどこか穿(うが)った思考を中断したのは、目の前に小気味よい音を立てて置かれたひとつの杯だった。
 謝辞を述べると、向かいに座った老女は色ちがいの杯に口をつけて視線を巡らせた。彼女の視線のさきには中庭で剣をかまえ、対峙するハルとセティの姿がある。
「精が出ますね」
 リドルフはメイラが入れてくれた冷たい薔薇水を一口飲み、穏やかに微笑んだ。その光景はこの旅の間にいつしか見慣れたものになっていた。こうして眺めていると思わず口元がほころんでしまう、そんな光景だ。もっとも、剣を教えている方も、教わっている方も真剣なのだが。
「いつ、発たれるのだ」
 メイラは庭の二人をじっと見つめたままリドルフに問いかけた。
 ハルが一歩踏み出した。無造作に握られていたセティの剣の切っ先が上向いたかと思うと、その瞬間、ハルの剣は弾かれて手のなかから消えていた。一瞬のできごとだった。
「もう少しだけ─── セティがそう言いました。なので、時機を見て発ちたいと考えているのですが」
 セティがハルの剣を拾い上げて渡す。笑顔のハルがそれを受け取っていた。思わず、といったようすでメイラの目尻の皺が濃く刻まれる。
「殿下は、誰にも剣を教わろうとはしなかったし、誰も教授しようともしなかった」
 メイラはそこでようやく視線をリドルフへ向けた。
「むろん、殿下自身も必要ないと思っていただろうし、周囲もそう思っていたのだが」
 目を伏せて、また薔薇水を口に含む。
「そして、私のような者とリドルフ殿のような人が、こうしてひとつの卓についている─── まことに人の定めとは不思議なものよ」
 苦笑のような複雑な表情を浮かべながらしみじみと言ったメイラに、リドルフも微笑んで頷いた。
「その身に起こることは、すべてその人間に必要なことなのだという教えがあります。こうしてハル様とセティが出会ったのも、メイラ様と私が出会ったのも全て必然であったのだと思います」
「そうかもしれぬな」
 メイラはちょっと遠い目をした。
「これから殿下の身に起こることもすべて必要なこと、か」
 シノレ・アンヴァーンがカイに託した文。ハルが読み解いたものが本当にシノレが言わんとしたことなのかどうかは、メイラにも分からなかった。それでも、ハルはシノレに洗いざらい伝えることを選び、返信を送った。このままでは良くも悪くも進展しないことは、ハル自身がいちばん感じていたのだ。
「そちらの方はどうなのだ」
「皮肉にも、ナディールの人間にとってはガイゼスの王子殿下のお屋敷は手出ししにくことでしょう」
 メイラはまたひとつ苦い笑いを浮かべた。リドルフの言う意味はよく分かっている。ハルにとって、白色人種を屋敷に留めていることは社会的には良くは思われない。
 そして、逆にナディールの要人らしいセティにとっても同じである。
「私は、正直に申し上げると分からないのですよ」
 らしくもなくメイラは弱気なものいいだった。
「ハル様はセティ殿と出会ってから、まるで息を吹き返したかのように変わられた。セティ殿以外にハル様の孤独に入り込める方はいなかった───。セティ殿がガイゼス人であったなら、どんなによかっただろうと思う。しかし、現実にセティ殿はナディールの御仁だ。それも……」
 高貴な人───。メイラはその言葉を飲み込んだ。
 庭ではセティがハルに寄り添うようにして剣の振り方を教えていた。二人の顔には屈託のようなものはまるでない。ハルがセティにだけ見せる表情だということは、いちばん側にいるメイラが誰よりもよく分かっている。
「私はどうするべきなのか、分からないのです」
 心を裸にして付き合える唯一の人。ハルにとってのセティがそうなのだ。
「私も同じ思いです」
 リドルフは切れ長の瞳を伏せて哀しげに笑った。
 セティにとってハルという存在はどうだろうか。もしかすると、彼自身がまだ掴めていないかもしれない。セティはハルに比べて自分自身の心を受け止めるのが下手だ。
「セティが望むなら、何としてでもハル様のお側にいさせてやりたいと思うのです。けれど、こればかりはセティの一存ではできないことです」
「リドルフ殿……」
「セティは────」
 リドルフは口元に哀しい笑みを刻んで、小さくため息をついた。
「いかようにも利用されてしまいます。本人の意思は置き去りにされたまま」
 何も知らぬまま出会い、国境近くからついには王都までこうして行動を共にしてきた。少しずつ互いの素性や状況が明らかになるにつれて、メイラとリドルフの立場からは二人を引き離すのが正しい選択だった。でも、それをできなかった。ふたりの道はメイラとリドルフが考えていたよりもずっと、重なりはじめていた。
 しかし、これ以上ふたりが道を共にすることはない。ハルの旅の終着地はこの王都ウルグリードなのだ。
「ただ、どのような結末になったとしても――― 私は力の限り、セティとハル様をお守りしようと思っています」

 ハルは自室に戻り、手早く体を拭いて汗を吸った衣を改めた。身だしなみを確認することもせず、そのまま早足に部屋を出る。
 剣の稽古の最中、アリアが遠慮がちに使者来訪の旨を伝えてきた。屋敷に使いの者が訪れるのは別に珍しいことではない。ただ、使者の主があまりにも意外な人物すぎた。
 アリアに告げられた使者の主は、まだ幼い第三王子シェオン・アレンの母で父王の唯一の側室オルファだった。つまり、ハルにとっては腹違いの弟の母だ。シェオンは幼いとはいえ王位継承権を持つ王子であり、公の場などで多少の交流はあったがその母と接する機会はこれまでほとんどなかった。
 一体そのオルファが、今この時分に自分に何の用があるというのか───。それが胸騒ぎの原因となって、ただハルの足をひたすらに応接間へと急かしていた。
 使者は客間で跪いて待っていた。それを見た瞬間、嫌な予感は一層強くなる。
「どうぞ、かけてください」
 平静を装ったハルの言葉を使者は固辞した。そのとき、予感は確信に変わった。オルファの使者は、巡検使に用があるのではなく王子に用があるのだ。
 仕方なくハルは使者の目の前の椅子にひとり腰をかけて用件を尋ねた。
「オルファ様より宮中晩餐会の招待状をお持ちいたしました」
「宮中晩餐会……?」
「殿下のご無事のお祝いと、お連れ様への礼を合わせてオルファ様の主催にございます」
 心の臓が波打っていて、気持ち悪かった。目の前がすうと暗くなっていきそうで、しばし目をつむり、呼吸を整えた。
「王子殿下」
 しばらくそうしていると、使者の男が気遣わしそうに声をかけてきた。第二王子が病弱であるのは周知の事実である。ハルは片手を上げて、静かに目を開いた。
「問題ありません。先刻まで剣の稽古をしていたので、少し、くらんだだけです」
 咄嗟に口をついて出た言い訳が、彼の存在を思い出させた。すると、心が芯が通ったように凛としてくるから不思議なものだ。
「私のような者ごときのためにそのような会を開いていただくのは、あまりにもおそれ多い。連れも、オルファ様のお心遣いは喜ぶでしょうが、ごく平凡な家の出であるゆえ、宮中晩餐会など萎縮してしまうでしょう」
 ハルは声を落として続ける。
「それに、陛下がこのようなときに宮中晩餐会など── 快く思わぬ者も、少なくないかもしれません。私共のために万が一にもオルファ様のお立場や心証が悪くなるようなことがあれば、それは心苦しいこと」
 宮中晩餐会を主催できるのは本来、王かその正室だけだ。王太子フェウスの母であった正妃は六年前に死去しているが、その後王はオルファを正妃にはしていないし、新たな妃を迎えることもしていない。つまり、空位のままである。側室であるオルファが宮中晩餐会を催すというのは、いささか出すぎているようにも思える。ハルはかなり婉曲的に柔らかく、それも示唆してみせる。
「そのように、オルファ様にお伝えしてもらえますか?」
「は、しかし────」
 王子の言わんとするところを感じ取ったのか、使者はかしこまりながらも付け加えた。
「開催にあたっては、右宰相デナン・ラグエル様の認も下りており、ご出席を予定されているとのことでございます」
「閣下が?」
「はい」
 使者の男は然りとさらに深く頭を下げた。
 そのとき、ハルはこれ以上この男と押し問答をしていても無駄だ。そう思った。何か大きな力が働いている。何か、得体の知れないものが自分だけでなくセティとリドルフさえも飲み込もうとしているのだ。
 使者を下がらせて、ハルは椅子に座り込んだまましばし呆然とした。脇にある小さな卓の上に置かれた、上等な紙で作られた三通の招待状が禍々しいものに見えてならなかった。
 招待状を開くと、そこに記されていたのは五日後の日付であった。
 なぜ、宮中晩餐会なのか───。私的な食事会でなく、公的な晩餐会にセティとリドルフを招くのには誰のどのような意図があるのか。しかも、これほど急に。
 もしかして、セティの素性が暴かれたのだろうか。
 詳しくは知らないが、彼が相当高位の神官であったらしいことは知っている。だとしたら、誰にどういう利点をもたらすのか。それとも、自分の側の問題ではなくて、彼の側の問題だろうか。いや、ナディール人がガイゼスの王宮にまで影響力を及ぼすなど、さすがに考えがたい。
 様々な情報と事実が複雑に絡み合いすぎていて、分からない。
 自分の両手では抱えきれないほどに、問題が大きくなっているのは分かる。ただ、頭のなかでけたたましく警告音が鳴っている。このままいけば、大変なことになる。それだけは間違いない。
 メイラを呼ぼうとして、ハルは止めた。
 一瞬、オルファと直接話そうと思った。しかし、晩餐会への出席を固辞するのは、自分の場合、ひとつの意思表示になってしまう。これまで、何でも受け容れてきた。求められるままにしてきた。頑なになればなるほどよほど都合の悪いことがあるのだと、誰もが穿ってみるだろう。このとき、ハルは自分が今までしてきたことを悔いた。
 手の中で質のよい紙につづられた招待状がかさりと音をたてた。
 今朝、シノレから届いた返信のことを思い出した。
 そこにはただ簡潔に綴られていた。今、起こっていることのすべてを国王陛下に直接に訴えてはどうか、と。
 簡潔ではあるが、意味深だった。
 病床にある国王アンキウスは離宮で静養中であり、左宰相と右宰相の二人以外の面会は許されていない。第三王子シェオンの母であり、唯一の側室であるオルファは無論、王太子であるフェウスもだ。このような状態で、王位継承権も持たないハルが面会するというのは現実味がないようにさえ思える。シノレも当然その状況は知っているはずだ。それでもなお、そう勧めてきたのだ。
 きっとシノレも、自分に伝えていないことを何かを知っている。
「五日後だなんて──」
 そのときは急に訪れた。別れを決断しなくてはいけなかった。彼らをこれ以上巻き込まないためには、それしかない。 分かっている。そうすべきなのは、これ以上ないというくらいに分かっている。それなのに、心はそれをひどく嫌がっていた。


「本当に庭が好きだな」
 突然頭上から降ってきた声に、ハルははっとして顔を上げた。
 室内着姿の金髪の青年が呆れたように笑っていた。返す言葉を選んでいるうちに、セティが長椅子の隣に空いた場所を指差し、無言でひょいと片眉をあげた。
「どうぞ」
 意味を理解したハルは慌てて長椅子の上を手で払い、少し横にずれる。セティは拳一つ分の間を空けて、隣に腰を下ろした。
「ラガシュでも夜中に庭にいたな。それに、トゥルファでも」
 おかしそうに笑ってセティがこちらを向いた。
 ハルはその顔に思わずくぎづけになってしまう。整いすぎているくらいの顔を、こうしてセティは惜しげもなく崩してみせる。はじめの頃は、それさえも驚いていちいち見とれてしまっていたのを思い出した。
「ハル?」
 不思議そうに小首を傾げたセティに気がついて、ハルは慌てて目をそらす。見慣れたはずの美貌にくぎづけになったのは、今日は少し雰囲気が違ったせいもあった。いつもは自然に流している髪を、今はぴったりと一つにまとめて結んでいる。そうしていると、意外すぎるくらいに男っぽく見えたのだ。
「外の方が好きなのです。外の方が、落ち着きます」
「私もそうだ。子どもの頃はこっそり神殿を抜け出して叱られたものだ」
 動揺を覆い隠すように早口になったその言葉を、セティは訝しく思わなかったようだ。
「抜け出したのですか?」
「うまく出来たときだけな。一回か、二回しかない。そのときにリドとも初めて会ったんだ」
 セティは懐かしそうに目を細めた。
「リドルフ殿も神殿を抜け出していたのですか?」
「いや、リドが所属する神殿の敷地に私が勝手に入ったんだ。だからリドは抜け出していたわけじゃないよ。あれは真面目な男だし、そんなことはしない」
 おかしそうに笑うセティのあらわになったうなじに彫られた刺青が、夜目にもよく映えていた。
「ガイゼスは緑が乏しいですから、寂しいでしょう」
「でも、トゥルファでは色とりどりの花々を見られたし、ラガシュではアルベルムを見られた」
 ラガシュから、トゥルファ。そして王都ウルグリードまで旅を共にした。つい最近のことであるはずなのに、遠い昔のことのようにも思えた。
「ここが一番粗末な庭ですね。ここには、愛でる花もありません」
「庭に出るのは花を愛でるためじゃないだろう」
「え?」
「ハルが庭にいるときは、何か考えているときだ。違うか?」
 セティは口の端をあげて笑った。どこか、不敵な笑みだった。
「あなたの前では、情けない姿ばかり晒しているようです」
 まあ常も褒められたものではないけれど─── と付け加え、つられるように力なく笑う。
「ラガシュでは、本当にあなたの言葉に救われました。ずっと、誰かに言って欲しかった言葉を、セティが与えてくれたのです」
「闘う理由は見つけられたのか?」
 セティは前を向いたまま尋ねた。あの晩に話したことをよく覚えているようだった。
「あなたやリドルフ殿が身をていして守ってくれました。お二人のような人が、私の命を守ってくれた。だから、今はそのことを誇りにして闘っています」
「そうか」
 セティが嬉しそうに目を細めたので、ハルも短く笑ってすぐに神妙な顔に戻す。
「明日、私は国王陛下に目通りを願い出るつもりです」
「父君に?」
 ハルは頷いた。
「従兄上が、国王陛下に拝謁し、すべてを打ち明けるよう勧めてくれました」
「アンヴァーン将軍を信じるのか?」
「従兄上を信じるというか、よく考えてみたのですが、それ以外に手の打ちようがないのです。巡検使という立場では動きようがないなら、後は王子としての立場を使うしかありません。もっとも───」
 力なく、ため息をつく。
「私に今も王子としての立場があれば、の話ですが」
 セティは眉をひそめた。
「ハルは巡検使だけど、王子でもあるだろう?」
 うつむいたままハルは自嘲するように口元を歪めた。
「私は、本来必要のなかった王子です。兄上の予備として急ごしらえに用意されただけですから」
「予備……? 急ごしらえ?」
「兄は以前、命が危ぶまれるほどの病を得たことがあります。そのときに、私はアドリンドから急遽呼ばれたのです。だから、兄が壮健で、しかも弟が生まれた今となっては、私が王子として存在する意義などありません」
 セティが怒ったような顔をして見ていた。
「前に言っていたな。自分はこの世に生を受ける必要がなかった人間だと。それが、その理由か?」
 ハルはあの日のことを思い出していた。セティは、話さなくて良いと言ってくれた。そして、いつか話したいときがきたら、聞いてくれるとも。
 ひとつに束ねた金色の髪の合間から覗く、白いうなじに刻まれた刺青がまた目に入った。
それが持つ意味をハルは知らない。ただ、彼の故郷での何かを示していることは間違いない。セティは決して人前では髪を上げたりしないのだから。
 セティはナディール人だった。
 それも、ただのナディール人では、ない。ここまで道を共にしてくれたことはおろか、出会ったことさえも本来なら奇跡に近かっただろう。別れは当然であり、必然だった。
「セティ」
 今まで誰にも話すことが出来なかった。あまりにも哀しくて、忌まわしくて―――― 言葉にするのを想うことさえも辛かった。
「聞いてくれますか? 今なら、話せそうな気がするのです」
 何を、とはセティは問わない。考えるように視線を逸らしたのはほんの一瞬で、ただ静かに頷いてみせてくれる。こんなに足りない言葉でさえ伝わっているのは、これまでセティが真摯に向き合ってくれてきた証拠だった。それだけで、信じられないくらいに嬉しくて涙が出そうだった。
「母は……」
 言えると思ったのに、うわずった声は、なかなか続きを紡げない。喉は渇いてはりつき、唇がひきつれでも起こしたように、うまく動かない。
「私の、母は────」
 セティは何も言わない。ただ、淡紫色の瞳がじっと向けられていた。それを見ると、やはり不思議と心が落ち着いた。
 世にも美しい色をした希少な宝石のような瞳。圧倒されて、直視するのも(はばか)られるほどだったそれが、今ではお守りのように、安堵と希望を与えてくれるものになっていた。出会ってから、今までのこの短い間に。
 仕切りなおすように震える唇を噛み締め、ひとつ息を吐く。それから、一息で言った。
「金色の長い髪をした人でした」

 月のない夜だった。
 ハルは視線を落としたまま淡々と話しはじめた。それは、感情の乱れを抑えるためだったかもしれない。
 アドリンドの山間の小さな村。
 さらにその外れにある、小さな家で母と二人で生活していたところから記憶は始まっていた。
 白い肌に金色の髪をしたハルの母は、完全な盲目ではなかったがそれに近いぐらい、目の悪い人だったという。物心ついた時すでに父の姿はなく、父のことを母が話すこともなかった。村人達が畑仕事や家事で作った些細な怪我や、軽い流行病のようなものを診ることで、ハルの母は生計を立てていたらしい。
 セティはそれを聞いてひとつ、思い当たることがあった。トゥルファへの道中で立ち寄った村での出来事だ。あそこで、セティは初めてハルが法力を持っていることを知った。ナディールで病や怪我の治療をすることができるのは、リドルフのような大地の神(アナリ)の神官か、水の女神(シルヴァ)巫女(クラスティーヌ)どちらか、だ。きっと、ハルの母は水の女神(シルヴァ)巫女(クラスティーヌ)だったのかもしれない。
「母は、多分、ナディール人だったと思います。ただ、セティやリドルフ殿のように、神殿や神のこと……故国のことは何も話しませんでした」
 そんなセティの考えていたことを見透かすように、ハルはそう付け足した。
 村には、黄色い肌をしたアドリンドの原住民はわずかで、現在のガイゼス人─── つまり、赤銅色の肌と黒髪を持つ人達が多くを占めていた。ハルの母のような白色人種の姿はなく、村人達と母との間には距離のようなものがあることを、幼心にも感じていたという。
「黄色い肌の人、赤銅色の肌の人、それに私と似たような小麦色の肌の人。村にはいろいろな姿の人がいて、確かに私の姿は母とは少し違っていましたが、私はそれをあまり不思議には思っていませんでした。私のような、中途半端な姿をした “合いの子”も、村では珍しいわけではなかったので」
 一日にひとりか二人診るぐらいで、暮らし向きは質素ではあるが、山奥の小さな村で二人きりの母子が生活していくことぐらいは出来た。ハルは朝と夜は目の悪い母の仕事や家事の手伝いをし、昼間は村の子ども達に混じって読み書きを習い、母子は穏やかに暮らしていたという。
 そんな平穏な暮らしに変化があったのはハルが八歳になったときだった。
 ガイゼスから一人の医者がやってきた。旅をして歩いているというその医者は、腕が良く、最新の技術と薬を持っていて、村の重病人達を次々と治してしまっ た。ハルは母の仕事がなくなることが少し心配だった。でも、それを言うと、母は、自分が治せない人が元気になるのは喜ばしいことだと笑ったという。
 ガイゼス人の医者は、それからしばらく村に留まっていた。気さくな若い男で、ハルも何度か言葉をかわしたりした。悪い人間でなかった。そうして、何度か顔を合わせている内に、胸中にある欲が芽生えたという。
「母の目が良くなれば。そう、思ったのです」
 小さな願い。子どもらしい、単純な発想。
「でも、それが、取り返しのつかないことになるなんて──── 私は思わなかったのです」
 ハルの母は金銭的なことの心配から最初は気が進まなかったらしい。結局、重い腰を上げてハルとともに旅の医者の元を尋ねたのは、息子の姿を一度で良いからこの目で見てみたい、という願いだったという。
 母の目の状態を慎重に確認し、視力を失うまでの経緯を仔細に聞いたあとでつけた医者の診断は、治療によって多少の視力の回復を望める、というものだった。
 医者は次の日もう一度来るように言い、その次の日からは毎日村外れにある母子の家までやってきて、薬を飲ませたり目に薬を点したりしたという。初めの日以来、母の目は厚い包帯で覆われていた。「十日たったら取っていい」という医者の言葉を喜び、信じ、その日を心待ちにしていた。
「約束の十日目の朝、私はとても興奮していました。村の美しい緑と水、私が書いた母の絵に文字の手習い帳……。母に見てもらいたいもの、一緒に見たいものを指折り数えていたら、前の晩は一睡もできないほどでした」
 懐かしむその目に、哀しみの色が滲みはじめていた。
「幾重にも巻かれた包帯が外され、ゆっくりと時をかけて開いた母の目は、木の葉のような美しい緑色でした。あんまり綺麗だったので、胸が高鳴ったのをよく覚えています」
 ハルはごくりと一つ喉を鳴らした。
「でも──── その美しい瞳は不思議そうに、私を見ていたのです」
 セティには、これからハルがどういうことを話そうとしているのか、想像もできなかった。
「私は、お母さん、と呼びました。そうしたら、母は、瞬きを繰り返しました」
 やっぱり見えないの? と、問いかけたハルに母はゆっくりと首を横に振ったという。
「それから、驚いたような、哀しむような……困ったような顔をして私を見たのです」
 セティには意味が分からなかった。
「なぜ?」
 状況を理解できないということではない。そんなことが起きる意味が分からないのだ。
「自分の子が、“合いの子”だとは思っていなかったのでしょう」
 自嘲するような薄い笑いは、さまざまな感情を覆い隠すようにして張り付いていた。セティは、ようやくハルの言わんとしていることの意味に気がついて、はっとした。
「だって、父君はガイゼスの王族だろう? 母君はそれを知らなかったと―――? ナディール人だと思っていたと?」
「分かりません」
「どうして? ちゃんと聞けばいい。もし、そうだったなら、それはハルの罪じゃないだろう? そうしたら―――」
 ハルがそんなに傷つかなくても済むかもしれないのに!
 憤然と立ち上がり、言おうと思った言葉は呆気なく遮られた。
「死んだのです」
「―――― え?」
 夜気が、ひやり、と頬を撫でていった。
「母は、その後すぐに死んだのです」
「亡く、なった?」
「崖下へその身を投げたのです」
 ぐにゃり、と顔を歪ませて目の前でハルが手で顔を覆った。
「私の目の前で」
 セティはその脇で力なく長いすにへたりこみ、うなだれた。眩暈のようなものがした。
 視界のなかに、居並ぶ青い血の管が透けて見える自分の足首と、それよりもずっと細い小麦色のハルの足首が目に入った。寝食を共にしてもう随分経つというのに、今になってはじめて肌の色が違うことに気がついた。今頃になって、自分の肌が白いことと、ハルの肌が小麦色であることを思い出した。肌の色の違いなど、セティにとってはその程度のことだった。
 その程度のことで、本当にハルの母は死んだのか。
 何とも言えぬ空虚な思いのつぎに、腹立たしさがやってきた。そんなことで、ハルは終生つきまとう憂鬱を得なくていけなかったのか―――。
 細い指のあいだから漏れるくぐもった嗚咽に、セティは顔を上げた。
 見るからに華奢な肩が小刻みに震えていた。小さな体をさらに小さくして、震えて泣いていた。
 セティは、それを見た瞬間、よく分からない衝動に駆られた。
 考えをまとめようとすることも、かける言葉を選ぶことも止めた。ただ、胸がしめつけられるように苦しくて、もう、いられなかった。
 気がついたときには両手でハルを引き寄せて抱いていた。見た目よりもずっと薄い肩だった。力を込めれば壊れてしまうのではないかと、危惧を覚えるほどに。
 左手を背に回し、右手で頭を包み、頬を寄せる。
 幼子のように小さい頭で、柔らかい髪からほんのり甘い匂いがした。強く印象に残っている好ましい香りだった。でもそれが、何の香りだったか咄嗟に思い出すことができなかった。
 拒絶はなかった。ハルは体を預け、胸にしがみつき、声を上げて泣いた。
 セティは震える細い体を抱きながら、いつかリドルフがこうやってハルにしていたのを不意に思い出した。どうして、そんなことを急に思い出したのか分からなかった。ただ、同時に覚えたことのない感情が頭をもたげてきて、秘かに困惑した。
 声がしゃっくりに変わり、それから短い呼吸に変わった。
 ぴたりと額をくっつけ、両手で胸にしがみついていたハルが顔を上げたのは、一体どれくらい時が経ってからだったのか、セティには分からなかった。
「すいません……」
 ハルの声は掠れていた。
「大丈夫か?」
 腕のなかで見上げる黒鳶色の瞳が、目蓋で頷く。ハルは体を離し、じっとセティを見つめた。それから、笑った。
「ありがとう、セティ」
 笑って応えようとしたセティは、次につづく言葉でそれを止めた。
「私はあなたに会えて本当に良かった」
 その語尾が含む微妙な意味合いに気づかないほど、セティは鈍くない。
「明日、ここを発ってください」
「明日───? 何故?」
「剣は、もう十分教えてもらいました。あとは…… あとは、私が自分で使うだけです」

   ⅵ

 まさか、人生でこんな事が起こるなど、夢にも思っていなかった。
 「マリグラスの試験」で、大地の神(アナリ)系統の力しか持っていないのが明らかになったとき、我が身を呪った。男子に生まれたのなら、やはり火の神(アデン)神官(クライン)だ。
 入殿試験に合格して出家し、まずは火の神(アデン)神殿の見習い(クラム)になる。それから法力の底上げのために修行し、数ある複雑な術式を覚えるために勉学に勤しむ。同期より早く見習い(クラム)を卒業し、神官(クライン)になる。さらに小師(クラミル)になり、中師(クラファ)になり──小師長(クラミルタ)中師長(クラファタ)などと、大それた地位は望まない。神官長(クラメステル)大神官(クラヴァン)などは、もはや現実味も感じられない。大師(クラデ)は無理だろうが、中師(クラファ)くらいになれれば大出世と考えていいだろう。いやいや、せめて小師(クラミル)くらいになれれば、両親も顔が立つ。そう、思っていた。
 しかし、現実はそう易しくない。
 実際に入れたのは、もちろん大地の神(アナリ)神殿だったし、それも際どい合格だった。入り口がそのような有様だったから、見習い(クラム)の期間は長く、卒業できたのは同期の中でも下から二番目だった。昇級試験は一向に合格できず、小師(クラミル)も今となっては夢だ。当然、一介の神官(クライン)でしかない。
 しかも、命じられたのはこんな辺境の地での勤めだ。これが厄介払いではなくて、何だというのだろう。出世街道などという道が、どこにあるのかさえも分からない。
 そんな腐りながら過ごしていた毎日に、変化は前兆なく訪れた。そう、まさか、人生でこんな事が起こるなど、夢にも思っていなかったのだ。
「顔を上げよ」
 ひれ伏した視界のすみにわずかに見える、白い足首とガイゼスの庶民が履くような質素なサンダル。手入れこそよくされているものの、履き古し、ところどころ擦り切れたそれさえも、その御方が身に着けているのだと思ったら神々しいように思える。
 対面することなどは無論、この狭い同じ空間で息をすることすら、終生有り得なかったはずの御人が、現実に目の前にいた。
 短いため息の後、同じ言葉が繰り返された。
 あまりにも畏れ多い。頭を少しだけ上げると、額に滲んでいた汗が顎を伝わり、床に染みをつくった。視界のすみに聖剣が納められているはずの鞘が現れる。書物に描かれたものしか見たことがない、それ。オリスの大神官(クラヴァン)だけが神霊文字(サイラッド)を描くために使う、各人に打たれる聖剣──。講義で習ったとおり、本当に()いているのだ。
「これ以上、私はどういう風に言えばいいんだ? クラメステル・アナリ?」
 声音は涼やかで穏やか。少々困惑したようすさえも耳に清らかに響く。
猊下(げいか)、私めにお任せください」
 大地の神(アナリ)神殿の次席神官たる神官長(クラメステル)であり、神殿の長である我らが大神官(クラヴァン)ネトルの子息は静かに、これから我らがすべきことを伝えはじめたのであった……。

 大地の神(アナリ)の僧衣に着替えたセティは、自分とリドルフの外套を身につけ、頭まですっぽりとフードを被ったふたりの遠くなっていく背中をすだれのかかった窓から見つめていた。
「ずいぶん、周到だな」
 大地の神(アナリ)(アナリ)の二人の神官の背中が見えなくなったのを見届けてから、セティはようやく窓から視線を外し、無駄のない動きで荷物を片付けている傍らの人物を、悪戯小僧の顔で見遣り、あえて僧位で呼んでやる。
「クラメステル・アナリ?」
「屋敷を出てもここではすぐに足がつきます。猊下(げいか)
 真顔でさらりと応酬され、セティは思わず苦虫を噛み潰したような顔になる。
「ウルグリードではナディール人は目立ちすぎます。人の口に戸は立てられませんから」
 リドルフは今度は微笑して言った。はて、彼は以前からこういう意地悪な男だっただろうか──と、セティは首をひねる。
「手段に否やは言わないと、約束したでしょう?」
 腕を上げるとずしりと重く垂れ下がる、長衣の袖を煩わしげに見て、それからため息をついた。頭をがりがりと掻いて、投げやりに何度も頷く。
 セティがリドルフに出立の旨を告げてきたのは、昨晩遅くのことであった。
 湯浴みの後なかなか部屋に戻ってこないセティにしびれを切らしたリドルフは、彼を探しに部屋を出た。そして、出てすぐの廊下に無表情で立ち尽くすセティを発見し、驚いて呼びかけた。幾度か名を呼んでもしばらく返事はなかった。肩に手をおかれて、ようやく目の前のリドルフの存在に気づいたようだった。何かあったのか、と問うたがそれに返ってきたのは、明朝出立する、とその一言だった。
 明らかに様子がおかしかった。
「今日発つのは構いませんが、ハル様にはお伝えしたのですか?」
「ハルに、言われたんだ」
 目線も合わせずに早足に部屋に入り、セティは荷造りをはじめようとする。リドルフはその背中を見ながら考えをめぐらせた。
 最も心配していたことが現実になったのかもしれない。否、恐らくそうなのだろう。そうでなければ、あのハルがこのような形でセティとの別れを決断するはずがない。だとすれば、リドルフがすぐにしなければいけないことは、セティを一刻も早くガイゼス国外に連れ出すことだ。もちろんそれはハルのためでもある。 ナディールに戻るのはセティが受け容れないだろうし、行き先はアドリンドでもどこでも構わない。
 セティはのろのろとおぼつかない手つきで荷造りを始めていた。心ここにあらずであるのは言わずもがな、だ。
 リドルフは、このまま黙っておこうと思った。
 他の誰が言ってもきかないだろうが、他ならぬハルに直接言われたのなら諦めがつくだろう。そう思った。の、だが───。
 その横顔は、いつもにも増して白かった。白いを通り越して、青みさえ帯びている。
不貞腐れているのでも、怒っているのでもなく、その顔に浮かんでいるのは濃い落胆の色だ。彼のこういう表情を、姿を、リドルフは初めて目にした。セティは傷ついているのだ。
「あなたらしくないと、私は思います」
 リドルフがそう言うと、ぼんやりとしていた淡紫色の目が意思を持ってじっと見つめてきた。
「ハル様が、あなたに理由なく唐突に別れを切り出すとは思えません。それは考えたのですか?」
「私は剣を教えるために必要だったんだ。ハルは─── 剣はもう十分教えてもらったから、とそう言った」
 端正なその顔と薄紅色の唇は色を失っていた。宝玉の瞳はかげり、潤んでいるのではと思わせるほどだった。その姿はリドルフにとっても想定外とも言える有様だった。ハルに別れを告げられたことが、こんなにもセティに痛手を負わせるのだ。
 リドルフは慎重に言葉を選んだ。
「トゥルファで捕らえられたハル様のために、あなたが解放と引き換えに死のうとしたことを覚えていますか?」
 セティは何のことか分かっていないようだった。記憶にはっきり残っていないのかもしれない。
「ハル様はあなたが眠っているあいだ、私にこう言ったのです。自分は、いつも自分のことを支えてくれる大事な友人のことをもっと知りたい。そして、与えてもらうばかりではなくて、逆になにかしたい、と」
 セティは手を止めて息を呑み、瞬きを繰り返した。
「それでも、あなたはただの剣の師ですか?」
「……どうすれば、いい?」
 どうして、こんなことを言い出してしまったのだろう、とリドルフは思った。
「考えがあります」
 確かに、セティを動揺させるようなことは極力避けなければならない。しかし、それ以上にこんな顔をさせておくのが嫌だった。それだけかもしれない。
「それにしても、入念すぎるんじゃないのか?」
 呆れたようなセティの声で、リドルフは我に返った。
 粗末な椅子にふんぞり返って座るセティは、指先で手のひらの大きさの羊皮紙をつまみ、ひらひらと振ってみせる。それは、ナディール人が身分を証明するために持つ身分証だった。ガイゼスには書類に氏名や身分、入国目的等を記入し、この身分証を提示したうえで審査を受けなければ入国できない。
「ハル様のためでもあるのですよ。あなたと私の存在が、障害になっているのかもしれないのです」
「素性が暴かれた、ということか?」
「可能性はあるかもしれません」
「だから、身分証も置いていかせたのか」
 身分証には名と、性別、年齢。それに所属する神殿の名と階級が書かれている。その上に留められた紙には、入国目的に「薬剤精製のための特殊鉱物入手」とあり、入国許可の判が押してあった。
「彼らは本当に、鉱物入手のために?」
 薬剤精製のための素材入手は普通、下位の神官の仕事ではない。しかし、身分証に書かれた名前は「スティール・クライン・アナリ」つまり、役職には就いておらず、階級の記載欄も空白であることから、まさに一介の神官であることを意味している。それに、彼の背格好と年齢はセティにかなり近かった。
 リドルフは返事をしなかった。
「何かあったときには身代わりにするつもりだったんだな」
 セティは苦々しく言い捨てて、ため息をついた。
「身代わりなど、そのような物騒なものではありません。念のため、ということですから」
 監視ではなく護衛。どんなに表現を変えたところで、国の人間が後をついてきているという事実を、セティは良く思わない。それは重々承知している。しかし、今日はいつもにも増して語気が荒い。リドルフは荷物を整理していた手を止めて、白い面差しに浮かぶ表情をそっとうかがった。遠くを見るその目は、目の前を映しているようではなかった。
空の神(オリス)(オリス)の力を使える私は、そんなに尊いか?」
 独白のように吐き出されたそれは、リドルフにとって少し意外だった。
 そう思っているのだろう、とは思っていた。ただ、こういうことをはっきりと口に出してみせたことはなかった。やはり、今日は少しいつもと違うようだった。
「リドもそう思っているのか?」
 急に水を向けられたリドルフは止めていた手を、自然を装って動かしはじめた。
「いえ、私は───」
「法力をもたぬガイゼス人は下賤か?」
「そうとも思いません」
「では、一般的なナディール人は? 神官(クライン)は? 巫女(クラスティーヌ)(クラスティーヌ)は? ─── どう思っている?」
 セティの顔は、真剣だった。
「立場や位によって多少の差はあると思いますが、その……」
「ナディール人は、今もガイゼス人を蔑みの目で見ている、と?」
「はい」
「何故?」
「停戦条約が締結され、正式にガイゼスが独立したのはたった十七年前のことです。かつては賤民として扱っていたことをその身で体験し、覚えているナディール人は多い。それに、教育もそのまま続けられています」
「教育? ナディールでは今もそのように教えているのか?」
 頷くと、セティはかなり驚いているようだった。
「生まれてきたまっさらな人間に色をつけるのは、親であり、周囲の人々であり、教育です。ナディールは、武力で独立したガイゼスを── 有色人種を、受け容れるつもりはないのです。今も、これからも」
 セティが嘆息して目を伏せた。
「私は純粋な白人で─── まさにナディール人のなかのナディール人だな」
 リドルフは訝しげにセティの横顔を見る。
「家門は貴族(サイエ)。しかも、法力至上主義のナディールにあって、位は神職の最高位だ」
 セティは自らを嘲るように口の端を歪めた。
「でも、私の目にガイゼス人はそういう風には映らない。法力の強い人間が偉くも思えない。オリスの力を操れることが、何ら尊いことには思えない」
「セティ」
「俗世で生活し、教育を受けていればそうなったはずなのに、ナディールで一番尊いはず人間が、オリスのクラヴァンが─── そうはなっていないなんて、皮肉なものだな」
 無粋な固い椅子に身を沈め、脚を放り出したその姿は貴人らしいとはとてもいえない。かといって、粗野というわけでもないのだ。やはり(かしず)かれて育った人間なのだと分かる。セティがあえて行儀を悪くしているのは知っている。洗練されたその所作を隠したいのだ。染み付いた品ある挙措。それもまた、教育の賜物であった。
 リドルフが口に出したのは、全く違うことだった。
「少し休んだら、街に出ましょうか」
「いいのか?」
 その顔に喜色が滲む。
「朝食もまだでしょう」


 瀟洒(しょうしゃ)な客間の前室に設えた籐を編みこんだ椅子に行儀よく腰掛けているくせに、意識は彼方にあるのか熱のない視線をぼんやりと外を向けるその姿を、廊下を行く女官達はそっと盗み見ずにはいられない。
 いつもは巡検使らしい軽装が多いのに、今日は線の細い華奢な体は、足元までの長い上衣に包まれていた。中には詰襟の麻の白い襯衣(しんい)に、同素材の レメル(ズボン)。鈍色の上衣には袖口と裾に控え目に銀糸で刺繍が入っているのが品と趣味が良く、その人の人となりを思わせる。
 平素は短く揃えた髪をそのまま風になぶらせているが、それも今日は違った。巡視のあいだに少し伸びた髪をなでつけ、襟足を結んでいる。服装も髪型も正装といっていい。細面はいかにも繊細そうで、はかなげ。それを、憂いを秘めているという風に形容する人間もいる。
 あまり人目につくようなところには姿を現さない第二王子ではあるが、それでも、いつもならば女官達の視線に気づくと、はにかんだような不器用な笑みを向けて応えてくれる。しかし、黒目がちの黒鳶色の瞳は、今日はただ静かに窓の外に向けられたまま動かない。廊下から熱心に注がれる視線や繰り返される嘆息に 気づく余裕など今の彼にはないのだ。
 ハルが官舎から王宮に移ったのは、未だ夜明けの気配も遠い真夜中のことであった。
 長らく留守にしていた自室でメイラに手伝わせて身なりを整えたのち、未だ薄暗く、早朝の静寂に包まれた王宮の広大な中庭をひとり歩きながら考えをめぐらせた。
 自室のある離れとは正反対にあたる東の離れの奥の間で、父王は静養しているはずだった。
 病床の国王への拝謁が許されているのは内政の最高責任者である右宰相と、外政の最高責任者である左宰相のふたりだけである。ふたりは、それぞれ早朝の決まった刻限に拝謁し、短い会談のあと一日の執務に入る。ハルは夜中に王宮に入り、夜明けと同時にふたりを待ち伏せするつもりだった。
 そんなことをしたところで、父王への拝謁が叶うかどうか分からない。もしかしたらハルは知らないがそのためには正式な段取りのようなものがあって、それを無視した無知を笑われ るかもしれないし、非礼を咎められるかもしれない。兄のように、きちんと王族として相応しい地位につき、精力的に国と関わってきたのなら知っていることもあったかもしれないが、ハルはあまりにも物を知らなすぎた。そして、それをひとつずつ学ぶ暇(いとま)も今はない。
 身なりをあらためたのは、ハルが出来うる最大限の礼儀であり、意思表示だった。こんな格好が似合わないのは知っている。王子など名ばかりで、正装が必要な場になどほとんど出席したことがない。
 巡検使という閑職の代名詞のような役目が降ってきたときに、それに飛びついたのはもちろん逃避もあったが、卑屈な思いの方が強かっただろう。アンキウスの長子であるフェウスが健在であれば、わざわざアドリンドから白人との混血である子が呼ばれることもなかった。ましてや今は下に弟のシェオンもいる。巡検使になってくれ、というのは都を離れてくれ、という意味で、厄介払い以外の何ものでもないはずだ。
 朝靄のかかる中、直属の上司である右宰相の背中を見過ごして、次に現れた左宰相に思い切って声をかけた。
 未だ誰も出仕していないような時間に突然声をかけられて、しかもその人間が第二王子で、左宰相グージル・ラビスタは二重に驚いたようだった。そして、頭の先からつま先までその姿を見やって、さらに驚く。言葉は拙く、しかも、緊張でうまく言えなかった。それでも何かを感じてくれたらしいグージルは、非礼を咎めることもせず、意図を国王に伝えることだけはすると約束してくれ、定時の拝謁に向かった。ハルはそのまま国王が療養している離れの客間で待機することになったのだ。
 窓には離れの自室の窓から見える景色とよく似たものが広がっていた。
 一睡もしていないせいか熱にうかされたときのようなおかしな頭で、父王にもしも目通りが叶ったなら言わなければならない台詞を考え、何度も繰り返した。
 父とはまともに会話したことはおろか、正対したこともないかもしれない。それどころか、近い距離に立ったことすらもない。記憶のなかから父王の顔をひっぱりだそうとしても、紗でもかけたように目鼻ははっきりしない。恐らく、父も自分の顔など知らないだろうと思う。思い出はおろか、何一つ関わったという事実さえもないのだから。
 とにかく、必要なことを伝えられればいいのだ。そう自分に言い聞かせて、ハルはもし拝謁が叶ったのなら言うべき台詞を何度も頭のなかで繰り返した。そうしているうちに、いつしか違うことが頭に浮かびそうになって、慌てて頭(かぶり)を振り、忘れた。
 背後から左宰相の声がかかったとき、ハルの中では父王に伝えるべき台詞がよく整理され、完全な状態で自分の中に出来上がっていた。
「陛下が、すぐにお会いになりたいそうです」
 ハルは短く謝辞を述べて立ち上がった。
 東の離宮は、アンキウスの正妃であったフェウスの母、ファーレンが闘病生活の末に息を引き取った場所でもある。ハルが第二王子として王宮に招かれた頃、妃の病状はすでにあまり良くなかった。さらに、兄フェウスも病を得ていた。一時は命さえ危ぶまれるほどの重病を得ていたフェウスが快復し、足繁くこの場所に通う後姿を自室の窓からよく見ていた。別に見たくはないのに、何故か気になってその刻限が近づくと遠目にそっと盗見てしまうのだ。王が療養する寝室に 続く廊下を女官に先導されて歩きながら、ふとそんなことを思い出した。
 足を止めた女官が頭を下げ、静かに紗を持ち上げる。
 幾重にもなった紗をかいくぐり、うつむいたまま部屋に入る。視界のすみに曲線を描く寝台の脚が目に入った瞬間、そこに横たわっているはずの人物が目に入るよりも早くに、跪いて叩頭した。
 大きくとられた窓からは重ねられた上質な絹の紗ごしに、柔らかく調節された太陽のひかりが注いでいる。
 室内の空気はここが日中は人の体温を超えるほどの過酷な土地であることを思わせぬほどにひんやりとしており、薬らしい独特で複雑な芳香が漂っていた。
 跪き、深く頭を垂れたまま早鐘のように鳴り続ける胸に手をおき、口を開こうとしたそのとき────
「ハイアトゥールか」
 低く重厚な声は病人とは思えぬほどしっかりとしていた。
 いや、そんなことではに。今、一体、何と呼ばれただろうか。心の隅っこに追いやってしまって、当人さえももう忘れ去ってしまいそうだったほどに古い、その名。ガイゼスに来て以来呼ばれることなかった、本当の名。
 その瞬間、用意してきた台詞はすべて吹き飛んだ。真っ白になり、何も考えられなかった。ただ、どくどくと波打つ自分の胸の音しか聞こえない。
「もう少し、近くに」
 ハルはうつむいたまま、立ち上がった。寝台までは十カベール(約五メートル)ほどしかない。それなのに、石の床の上を進んでいるとは思えないほど、足元はおぼつかない。まるで毛足の長い絨毯を踏んでいるように体がふわふわとする。そればかりか、耳はきんとして視界は靄でもかけたかのように不確かだ。
 それでもハルは少しずつ寝台に向かって進んだ。まるで何か不思議な力に操られているかのようだった。
 視界に、寝台に横たわっているはずの父に掛けられたケットの裾が現れたところでハルは足をとめた。薄手でさらりとした肌触りが良い、上質なケットだった。贅沢をしないアリアが先日まで滞留していた暑さに弱い人種と言われる客人達のためにわざわざ用意していたのと同じものだ。
「よく来てくれた」
 手に、不思議な感触が触れた。それが父の手なのだと気がつくのに少し時間がかかった。ごつごつと骨ばっていて、かさかさの痩せた手だった。手を取るその動作があまりにも自然で、拒む暇などなかった。それ以前に、その動作があまりにも意外で、拒むなどということは思いつきもしなかった。
「すまない」
 手をとられたまま人形のように硬直していたら、信じられない言葉が降ってきた。
 思わず、顔を上げる。
 しっかりとした声とは裏腹に、生まれて初めて間近で見た父の顔は、ひどく痩せて頬が削げ、目は落ち窪み、土気色をしていた。
 頭から足元までを確認するように眺めた夜闇のような漆黒の目が哀しげに歪み、父王はもう一度謝罪を口にした。
 父にとられた左手を見ると、鉛色の生地に銀糸で刺繍が入った自分の上衣の袖があった。うつむいた顎に襯衣(しんい)の詰襟があたり、かさりと音を立てた。王子の正装を着用していたのを、ハルははじめて思い出した。
 改めて父の顔を見た。元から彫りの深い顔立ちなのだろうが、落ちくぼんだ目と削げた頬が痛々しく、具合が悪そうだった。黄みがかかった白目と、土気色の顔色が、王都で流れている噂は事実なのだと隠しようもなく表していた。
「わたし、は───」
 何を言おうとしているのかハル自身にも分からなかった。用意してきた台詞はどこかに落としてきてしまっていた。
「わたくしは、今回の巡視の旅で、良い友人を……得ることができました」
「友人……?」
「母と同じ金髪に白肌の─── 唯一無二の友です」
 震える唇が我知らず、ほころぶ。
「父上、どうかご養生ください」
 それだけ言うと、ハルは自分の左手を握っていた父の手に右手を重ね、そっと押し戻した。
 潤んだ目から涙がこぼれる前に踵を返し、足早に退室する。そして、駆けた。
 王の静養している離宮のなかを猛然と走る第二王子の姿に女官達が驚いて声をかけたが、それもハルの耳には届かなかった。駆けて、駆けて── 中庭の木の根元に倒れこむようにして突っ伏し、ただ咽び泣いた。
 膨れ上がった鉛色の雲から溢れたように降りはじめた煙雨が、震える肩を濡らした。無理に結わえた髪 がほどけて突っ伏したその横顔を隠し、王子のための上等な長衣が土に塗れていた。
 昨夜、同じように逃げ去るようにして踵(きびす)を返したその背中に、投げかけられた言葉を思い出した。
 彼に会って話をしたかった。
 あんな別れ方をしなければならなかったことが悲しくて、それ以上に、もう二度と会えないのだということが、どうしようもなく辛かった。

 内務省にある巡検使の執務室で留守を預かっていたメイラは、秘書官が取り次いできた場違いな来客の顔を見るなり嫌な予感がした。来客は王宮付の女官で、困惑したようすの彼女が遠慮がちに言うには王が静養している東の離宮そばの庭園で、メイラの主である第二王子が大変なことになっているという。そこまで聞くなり、メイラは内務省を飛び出した。
メイラが東の離宮のそばにある庭園に辿りついたとき、心配げな女官達に遠巻きに囲まれて、ハルは一際大きなオレンジの木の根元にうずくまっていた。どのくらいそうしていたのか、頭から足元までぐっしょりと濡れ、鉛色だったはずの上衣の裾と袖、さらには真っ白だったはずのレメル(ズボン)は泥で茶色く染まっていた。
 抱き抱えるようにして反対側の離れにある居室まで連れ帰り、涙と雨に濡れた顔と髪を拭き、泥に塗れた服を脱がせ、着替えさせた。子どものようにされるがままのハルの唇はすっかり色を失い、目蓋は腫れ上がって細い体は小刻みに震えていた。そのまま寝台に寝かせ、女官に厚い上掛けを用意させ、専属の侍医を呼んだ。
 子どもの頃から何度かこういうことがあった。体が丈夫でないくせに、庭で冷たい雨に打たれたまま部屋に戻ってこないのだ。それは、本人にその意図はなくともメイラにとっては自虐を武器にした抵抗のように思われた。子どもの頃から口数は多くなく、思いは全て胸の奥底にしまいこんで、しまいきれなくなるとふらりと居なくなった。初めのときはいちいち大騒ぎして兵を出してまで探せたが、だいたい数刻で戻ってくることが分かってからは探させるのもやめた。それから、二日か三日、ひどいときは四日から六日も熱を出して寝込む。これがいつもの流れだった。とはいうものの、さすがに人目も憚らず泣きじゃくったことなどは今までも一度もない。
 メイラの予想どおり熱を出したハルは今回は三日間寝込んだ。三日で済んだのがメイラには意外なくらいだった。早々に侍医に薬を用意させていたため大事には至らなかったのかもしれない。
 四日目の朝、いつもの時間に目覚めて支度をし、用意された朝食をほんの少しだけ口にして何食わぬ顔で出仕した。
 国王への拝謁が叶ったことは確からしいが、話した内容は無論、それどころか官舎を出てセティとリドルフと別れた理由も何も言わない。
 巡検使の執務室で飾り気のない椅子に身を沈め、書類や書物に目を通すこともせず、ただ生気の欠片も感じられないような顔で日がな一日壁を見て、無為に過ごしていた。あれほどまでに襲撃の首謀者を突き止めることに熱心だったのが嘘のようで、その姿はまるで気の抜けたファーガ(麦酒(ファーガ))のようだった。
 この日、帰りの輿の到着を告げられたというのに、ハルは三度目の呼びかけでようやく気が付いた。取り繕うような生ぬるい笑みをメイラに向け、のっそりと立ち上がって支度を整えはじめた。
 部屋を出てすぐの廊下で紙片と書物が散らばっていた。自室に籠もっていれば自分以外の人間の存在など忘れてしまったかのようであるのに、ハルはごく自然に屈みこんでそれらを集めて、その人物に渡す。
 その女は、それを自然に受け取ろうとして、ハルの顔を見て驚いたように膝をついた。
「これは、殿下の御前で大変失礼を」
「オーフェン殿」
 ハルもメイラもよく見知っている人物だった。サーシャ・オーフェン── 王太子フェウス付きの女官であり、戦士だ。ハルにとってのメイラに近い。
「ここは内務省ですよ。私は末席の巡検使です」
 かすかな苦い笑みを口元に浮かべ、ハルはサーシャの手を取り、立ち上がらせた。
 それから両手で揃えた書物と紙片を改めて差し出しながら、穏やかないつもの調子で兄に変わりはないかと当たり障りのない問いかけをした。かしこまったままのサーシャに愛想笑いをして、兄によろしく、とやはり儀礼的な短い挨拶を投げかけてハルはメイラに急かされるようにして輿に乗り込んだ。
 巡検使の執務室がある内務省から王宮までの道程はそう長くない。ウルグリードを南北東西に走る大動脈を使う必要もないから、輿はいたって静かに平穏に淡々と進む。ハルは、薄布ごしに流れる街にまた熱のない視線を向ける。
 輿が王宮の門にたどり着き、護衛の兵が跪いて薄布をたくし上げた。いつまで経ってもハルは出てこず、輿を運ぶ下男と兵達の間に妙な空気がはじめたのを見かねたメイラは、屈んで中を見た。
「殿下」
 相変わらず人形のような顔でぼんやりしているのだろう。メイラはそう思っていた。しかし、違った。呼びかけにハルはびくりと肩をすくませて、まるで幽霊でも見たかのような顔で応じたのだ。
 どうかしたのか、と問うと、何か言いかけ、そして口ごもる。それからまた取り繕うように笑って小さく首を横に振った。
 朝食はほとんど口にしなかったくせに、この日用意された夕食をハルはぺろりと平らげた。いつも王子の食が細いことを気にかけている給仕の女官が、嬉しそうにメイラにわざわざ報告してきたくらいの食いっぷりである。しかし、それはメイラにとって不信感を煽ることでしかなかった。
 足早に居室に向かったものの、ハルの姿はない。寝具を整えている部屋付きの女官に問えば、主は食後の散歩に出かけたという。間が悪いことは気にかかったが、彼は元来散歩が好きな性質である。特に官舎ではなく、王宮に滞在しているときは多くの時間を中庭で使っているはずだ。ましてや、思うところがあるとその閉塞感に耐えかねるのかその病はさらに悪化する。
 数日前に心を許した白人の友人と別れ、国王への拝謁もしたばかりである。それらの事情を考慮すれば、彼の行動はいつもと変わらないように思われた。夕食を平らげたことを除いては。
 最終的に、メイラはこのとき、ハルの姿が目の届くところにないことをさほど重大視しなかった。


 黄昏に染まる石造りの街は、整然としていて気高く美しい。傾いた太陽でさえ、その存在の偉大さを感じさせるのはナディールでは感じられない強い熱のせいかもしれない。
 南北と東西に走る大通りは二本ずつ。それらをつなぐように細かく道が碁盤の目のように整備されている。南北を走る大通りの両脇にはずらりと店が並び、東西を走る通りには庶民に食事を供するための店が並ぶ。大通りから外れた小道には、官僚や大商人が使うような格式の高い店が息を潜めるようにある。ナディールの王都、ハプラティシュの継ぎはぎされたような街づくりとは全く異なり、ウルグリードは緻密な都市計画に基づいていちから造られた新しい都市だ。
 ウルグリードの街はトゥルファよりもラガシュに近い。前にハルが言った意味の正しさをセティは最近になってようやく実感している。巡検使ハル・アレンの邸宅に滞在していた期間は二十日あまり。その間、セティとリドルフは敷地から一歩たりとも外へ出ることはなかった。しかし、四日前からは宿に滞在しているため、朝夕の食事は外出して街でとらなければならない。
 南北の大通りの両脇に並ぶ屋台からは肉い焼ける香ばしい香りや、香辛料の刺激的な香りが立ち上っている。羊の肉や牛の肉を串に刺して塩と香辛料をまぶして焼いたもの。蒸した豆を潰し、調味したものを薄焼きパンに乗せた「サク」と呼ばれるガイゼスの郷土料理。粥に雑穀と香辛料を混ぜて炊いたウルグリード の名物「ヤドラ」に、豆とトマトのシチュー…。この日もセティはお気に入りの屋台の羊肉の香辛料焼きを無事買い求めると、他の店で買った惣菜とともに 広場に並べられた大きな卓のうえに並べて夕飯をはじめた。
「兄さん、坊さんのくせにいい食いっぷりだな」
 少し離れた場所に座って遠巻きに見ていた男が、麦酒(ファーガ)(ファーガ)をあおって言った。一瞬、場の空気が凍りつく。その男の言葉には純粋な驚きというよりは、揶揄がこめられていた。豪快にかぶりついた羊肉を飲み込んだ大地の神(アナリ)神殿の僧衣姿のセティは、それに気づいたのか、気づかないのか飄々と応えてみせる。
「坊主だって、肉を食うときは食うさ。ガイゼスの料理はうまいからな」
 一瞬目を丸くして、それから、男は麦酒(ファーガ)の肴に買っただろう「サク」をセティに向かって放り投げる。セティが器用に受け取ると顎をしゃくり、肩をすくめて笑った。どうやらご馳走してやるということらしい。片手を上げて気さくに謝意を表すセティに、リドルフは苦笑するしかなかった。
 ひとつめの羊肉を平らげ、今度は見ず知らずのガイゼス人から貰った「サク」にかぶりついたセティは、呟いた。
「相変わらずの人気ものぶりだな」
 彼が言っているのは自身のことではない。セティが注意を向けているのは、後ろの卓に座る三人の男達の会話だ。
「そのようですね」
 規則正しい動作で静かに粥を口に運びながらリドルフが応える。
 彼らが街に出るようになって、知ったことがある。それは、ここ王都ウルグリードの民の次期王についての関心の高さだ。そして、第二王子にして王位継承権をもたぬハル・アレン王子の人気の高さ。
 官僚や役人等、社会的地位のある人間が出入りするような料亭ではむろん、庶民が食事をとる屋台、果ては市での女同士の立ち話でさえも次期王の話題がのぼる。これは、ナディール人には考えられないようなことでもあった。庶民と女王の距離はナディールでは遠い。王座に誰が付くか、そんなことに興味があるのは 国の中枢に関わる人間くらいのものだろう。ナディールでは、王が変わったところで庶民の生活はあまり変わらない。それは利点であり、欠点でもあるがいずれにせよ国が成熟しているというひとつの証ではある。ナディールには二百五十年の歴史があるが、ガイゼスはまだ建国から二十年にも満たないのだから。
「しかし、いささか情報が回るのが早すぎるように思います」
 リドルフが口にした懸念は、セティも今まさに考えていたことだった。
 ハル・アレン王子の慕われぶりは、セティとリドルフの想像を超えるものであった。巡検使という役目につき、王都にほとんどいないその王子が、表舞台に姿を現すことのない彼が、これほどまでに支持を得ているのは不思議なことでもある。
 しかも、昨日か一昨日くらいからはハル・アレン王子が王族のなかで唯一、父アンキウス王との面会を果たしたらしいとの情報まで流れはじめている。なかには、王直々に王座を譲る話まで出たのではないか、という事さえ人々の口に上りはじめている。
「何者かが意図的に流布しているのかもしれません」
 サクを平らげたセティは唇についた脂と豆を指先で拭った。同じことを考えていた。ハルはあの晩、父王に拝謁するといっていたから、第二王子が国王に謁見したというのはきっと事実だろう。しかし、これほどまでに短いあいだにその情報が民にまで伝わっているのはいささかおかしいように思えた。
「人気も?」
 リドルフは首を振った。
「王位継承権を持たない方の評判を上げたところで得をする人間はいません。ご本人に、玉座を望む気持ちがあれば別ですが」
 セティは思わず笑いをもらした。ハル・アレンという人物を良く知っているものならば、誰もがそうせずにはいられないだろう。
「それに、かの御仁にまつわる逸話はどれも具体的なものばかりです」
 物を拾ってもらった、丁寧な挨拶をされた── 人々から伝え聞く、ハルの話はそんな些細なことばかりだ。近頃では、先日の巡視の際に殉職した兵の遺族ひとりひとりに、慶弔金を直接届けに訪れ、王子自ら沈痛な面持ちで弔意を表したという話もあった。そんな些細な日常の積み重ねが、支持と人気につながっているようだった。
「王との謁見。その事実を流布することで利を得る者は誰だ」
 周囲に聞こえないように声を落とし、いかにも心配そうに漏らしたその様に、リドルフはふたたび苦い笑いを浮かべた。
「セティは、本当にかの御仁のことが気になるのですね」
 少しの屈託もなく頷いて見せてから、二つ目の骨付きの羊の肉に手を伸ばし豪快にかぶりつく。向けられている視線の種類に気づき、両手で肉を持ったままセティは上目遣いにリドルフを見た。
「どうしてですか? 何故、そんなに気になるのです?」
「なんだよ、急に」
 匙を置いて真っ直ぐに見つめてくる空色の瞳にセティはたじろいだ。
「そんなこと分からないよ」
 ぶっきらぼうに答えてみても、リドルフはじっと見つめるばかりで話を逸らすのを許す雰囲気ではない。気圧されたようにセティは手に持っていた肉を置き、ため息をつく。
「自分を見ているような気がする? ―――― いや、違うな。そうじゃない」
 視線を落としたままセティは首を傾げた。
「ハルは私とは違う。ハルの方が、ずっといい」
「ハル様の方が、ずっといい?」
 セティの答えはリドルフの予想と全く種類の異なるものだった。
「何ていうか、ハルは私と違っていい奴なのさ」
「いい奴? ですか?」
 ふんと鼻を鳴らし、セティはリドルフの差し出した懐紙をひったくって脂に濡れた唇と手を拭う。その視線が次の瞬間リドルフの肩ごしに一点に固まった。懐紙を唇に当てたまま硬直し、淡紫色の瞳は大きく見開かれていた。怪訝に思ったリドルフは振り返ってセティの視線の先を追ったが、その理由は見つけられない。
「ハルだ」
 リドルフが向き直るよりも早く、低い声でセティが呟いた。リドルフは目を凝らして見たが、視界に貴人が乗るような輿はない。
「一人で歩いている」
「まさか。ハル様のお立場ではこのような場所をこんな刻限に出歩いたりしません」
「いや、ハルだ。間違いない」
 断言すると、セティは懐紙をくしゃっと丸めて立ち上がる。席を離れようとするその手首をリドルフが鋭く掴み、引いた。動きそのものは何気ないものだったが、実際のそれはけっこうな力と絶妙な間合いであった。ほとんど席を離れかけていたセティは、ふたたび強制的に椅子に座らされるような格好になった。
「剣を教えたときにハルの動きをよく見ていた。あの歩き方、姿勢、間違いない」
 卓に肘をつき、前のめりになって早口でまくしたてるセティにリドルフは諭すように静かに言う。
「そうだとして、どうするつもりなのです?」
「後を追う。一人で行動しているなんて、おかしい」
「剣も持っていないのに?」
 セティははっとして、腰をまさぐる。そうである。大地の神(アナリ)(アナリ)の僧衣に着替えると、剣は佩(は)けない。身元を隠すために変装しているのに、僧衣に剣では逆に目立ってしまいかねない。だから、リドルフの大剣とともに宿に置いてきたのだ。
「でも、嫌な予感がする。見失いたくない。短剣なら持っているし、心配ならリドは一旦戻って剣を持ってきてくれ」
「セティ」
 咎められるのをかわすようにセティはにこりと笑い、リドルフの肩をひとつ叩く。
「大丈夫、後を追うだけだ。剣を使うとは限らない」
 それだけ言うと、セティは今度はひらりと立ち上がってそのまま夜闇に溶け込んだ。その背中が見えなくなる頃、リドルフはため息をついて立ち上がった。
 セティはハルらしき小柄な人物の背を見失うこともなく、軽やかな足取りで人の間を縫うように進んだ。外套のフードまでかぶって、顔を隠した小柄な人物は大通りを外れ、小道を進み、ある建物に入っていった。セティは確実にその人物がそこへ入っていたのを確認してから建物に近づき、ぐるりと見回した。
 平屋建てでそれほど大きな建物ではない。周囲はセティの背丈よりやや高い石塀で覆われている。風通しを第一に考えるガイゼスの建築様式には珍しかった。
 セティは周囲に人気がないのを小動物のような機敏な動作で確認し、塀に右手をかけ、乗り越えようとした。そのとき、やけに腕が重いことに気づいて、よう やく自分のいでたちを思い出した。大地の神(アナリ)(アナリ)の僧衣である長衣である。一瞬の逡巡ののちにその場で大胆に脱ぐ。下は、ガイゼスの庶民が着るような軽装だ。脱いだ長衣は器用に縦長にねじって大判の首巻きのようにして巻く。うなじにある刺青を隠すためと、脱ぎ捨てることによって自分の痕跡を残すのを防ぐためだった。
 そこまで準備をして、セティは自分が何か不穏なものを感じていることを自覚し、ひとつため息をついてから改めて塀に手をかけた。


 大通りから少し入ったところにある料亭は、想像よりもずっと小奇麗な佇まいだった。
 ハルは外套のフードをかぶったまま、入り口でどうおとないを入れようか迷った。しばしの逡巡ののち、結局何も言わずに引き戸に手をかけて、中に入る。
 着飾った妙齢の女が奥からしずしずと出てきて小首をかしげた。ハルは覚悟を決めてフードを脱いで顔を露わにする。女は嫣然と膝を折り、恭しくハルを中へと招き入れた。
 艶出しのニスが塗られた琥珀色の木材の床を女の後をついて歩きながら、ハルは夕刻のことを思い出していた。
 帰りの輿のなかで無意識に口元に手をあてたそのとき、上衣に縫い付けられた隠し物入れを肘がかすり、かさりと音を立てた。そのとき初めて何かそこに入っていることに気がついた。几帳面なハルは衣に縫い付けられた物入れのような不確かな場所に、なにかを入れたりする習慣はない。怪訝に思いつつ、そっと手を 差し入れると小さな紙片が指に触れた。
 見覚えのない字面は、ひとりで街外れの料亭に来るように簡潔に告げていた。巡検使という立場上さまざまな人物と書簡のやりとりをするが、この紙片に書かれている文字には少しも見覚えがなかった。一体いつからこの紙片はここにあったのだろうか。ここ数日は外界と自分を遮断したように過ごしていたため、全く見当もつかなかった。しかし、ハルの脳裏にふと思い浮かんだことがあった。
 なぜ、サーシャ・オーフェンは内務省などという彼女には縁遠い建物にいたのだろうか。
 彼女は将軍である兄同様に、軍に属している。彼女ほどの立場のものが雑用で内務省を訪れるとも思えない。
「兄上……?」
 間違いなく兄の字ではない。もちろん、署名もない。しかし、もしもこの紙片の本当の差出人が兄なのだとしたら、サーシャがあの場にいた理由はよく分かる。
 ハルは紙片を握り締め、思案した。当然行くべきではない。
 フェウス自分の命を欲している張本人であるかもしれないのだ。しかも、記されている料亭は、 料亭とは名ばかりでその実態は官僚が出入りしている高級娼館である。ひとりで出かけるには、危険すぎる場所だ。しかし、こんな手の込んだことまでして 接触してくるのには、内々の話があるに違いない。これは、今まで知れなかったことを知る機会であるかもしれない。この機会を逃して本当にいいのか───。 脳裏に病んだ父王の姿が浮かび、かけられた言葉を思い出した。
 号令が王宮への到着を知らせたとき、不思議とハルの胆は決まった。それはとても唐突で、けれど揺ぎなく、ハルにも自分の心のありようが奇妙に感じられるくらいだった。
 離れに戻ると一旦着替えてから食事の間に向かった。広い卓と居並ぶ椅子に囲まれていつもと変わらぬひとりきりの食事を終えると、早々に自室に引き上げる。もともと食事のとき以外の大半を中庭か自室で過ごす性質なので、誰も不審になど思わない。いつもと同じように中庭の散歩に出る旨を部屋付の女官に告げた。
 何食わぬ顔で食後の散歩に出かけたハルは、最北の裏門に向かう。裏門まで近づくと、ハルは身を潜めることもせずに堂々と警備の兵に近づいて微笑んだ。そして、労をねぎらい、内務省に呼ばれて急遽外出しなければならない旨を伝えた。供がいないことを指摘されたが、やんわり苦笑して供は連れていけない外出だと告げると、その苦笑を深読みしたのか兵はハルが拍子抜けするくらい簡単に門を開けた。当然である。第二王子は物静かで、控えめで─── 人を困らせる ような行動を取ることがないのだから。そうして難なく王宮から単身抜け出たハルは、上着を脱ぎ捨てて庶民が着るような外套を羽織り、すっぽりと頭までフードをかぶって夜のウルグリードの街へと一人で出た。
 ぼんやりと思惟にふけっていたハルは、女が足を止めたことに気がつかずそのまま背中にぶつかった。慌てて謝ると、女は驚いたような顔をし、次にその鈍臭さを馬鹿にしたような顔をして、最終的には作り笑いを浮かべ、恭しく膝を折った。どうやらここが目的地らしい。
 ハルは格子戸に手をかけて部屋に入った。
 むっとする人いきれ。続いて耳に飛び込んできたのは、女の嬌声。二間続きの部屋の奥、薄暗い部屋でうごめく人影。何が行われているかは一目瞭然だった。
 部屋の目の前まで案内されてきたくせに、部屋を間違えたような気になり、ハルは慌てて出ようとした。その背中に声がかかる。
「ハルか?」
 聞き覚えのある声だった。
「そうか、来たのか」
 独白のようなフェウスの声に嬌音がつづく。
「お済みになるまで外で待ちます」
 虚勢で彩って吐き出した言葉は、思いのほか上出来だった。引き戸を開けて部屋を出たハルは閉めたばかりの戸に背を預けたまま、早鐘のように打つ胸を押さえて息を吐いた。
「待たせたな」
 麻のレメル(ズボン)だけを履いて、上半身裸のままのフェウスが顔を出したのは、それからすぐのことだ。フェウスは襯衣(しんい)を羽織ると卓のうえに置いてあった硝子の瓶を無造作につかみ、中に入っていた葡萄酒(シャルル)(シャルル)を喉を鳴らして飲んだ。
「酒は?」
「いえ、わたくしは──」
「では、女か?」
 ハルが慌てて辞退すると、フェウスは鼻で笑った。
「さすがは清廉な第二王子様だな」
 襯衣の前合わせまで止めて、上着を羽織ったフェウスは脚の低い卓の前にどっかと腰を下ろした。ハルは卓を挟んでその向かいに所在なげに座る。
 フェウスはちらりと、背後の奥の間を見た。人影がある。まだ先ほどの遊女がそこにいるらしかった。大声でフェウスが女将を呼ぶ。奥の間の壁から人影が影のように出てきて、素早い動作で寝台に横たわったままの遊女を包んで消えていく。ハルはそれを兄の肩ごしに見て息を呑んだ。
「気を失っているだけだ。いつものことだ」
 ハルの思ったことを察知したのか、フェウスはそう言ってまた葡萄酒(シャルル)(シャルル)を飲んだ。ハルは思わずほっと胸をなでおろす。その様をフェウスが冷ややかな目で見ていた。
「遊女の心配をするなど余裕があるな」
 言われて、ハルははっとした。そういう風に思われているのだ。
「そういうつもりでは」
「単刀直入に言う。父上と何を話した」
「…… お見舞いの言葉を、申し上げました」
 フェウスは間髪いれずに鼻で笑った。
「それは、私も申し上げたいところだな。しかし、父上は王族の誰ともお会いにならない。謁見したのはそなただけだ」
「私は、王族として謁見したのではありません。巡検使として拝謁したのです]
「巡検使として?」
「私はこの国で起きていることを憂いています。それを申し上げるつもりだったのです」
「この国で起きていることとは、何だ」
「兄上もきっとご存知のことです」
 フェウスは葡萄酒(シャルル)をあおった。
「国を、乱そうとしている者がいるな」
 フェウスは手元の杯に視線を落としたまま言った。ハルにはそれが皮肉なのかどうか分からなかった。
「しかし、巡検使ごときがでしゃばることではあるまい。国には、宰相も将もいる」
 ハルはうつむいた。
「父上はなんと言った」
「それは―――― それは……」
 脳裏に夜闇のような漆黒のやさしい目が浮かんだ。ハルにとっては何とも表現しがたい特別な時間だった。しかし、会話らしい会話は何もしていない。何を話したか端的に説明しようとすれば、答えを用意するのは難しい。
 フェウスは口元を歪めて笑う。
「言えぬようなことか」
「いいえ、私からお見舞いの言葉を申し上げただけなのです。本当に。それ以外に、兄上がお気にかけるようなことは何も…… 何も、ありません」
 それは事実だった。事実を伝えているだけのはずなのに、それが良くない方向へ誘おうとしている。フェウスの表情を見れば明らかだ。しかし、言葉を重ねれば重ねるほど、事実が怪しいヴェールを纏い、ありもしないものを作り上げていく。ハルは焦りはじめていた。
 そうしてついに、口から出たのは決定的な言葉だった。
「私は、玉座など望んでいません。望んだこともありません」
どう転ぶかは分からない。しかし、ハルにはもうこれしか思いつかなかった。
「分かった」
 フェウスの口元が、冷たい笑みを刻む。
「ここで死ね」
「兄上」
 ハルは血の気が音を立ててひいたのが自分でも分かった。この瞬間、投げたダイスの目が最悪の結果を示したことを悟った。フェウスが立ち上がると、奥の間の物入れの中とハルが入ってきた入り口から覆面の男達が姿を現した。
「兄上、お待ちください。私の─── わたくしの話を聞いてください」
「私はずっとお前が目障りだったよ。忌まわしき白人の血を引く弟よ」
「兄上!」
 フェウスは振り返り、肩越しに冷ややかな視線を投げかけて姿を消してしまう。替わりに現れた四人の覆面男がじりっと歩を進める。携えた刃が、ランプの灯りを受けてきらめいた。
 まさか、これほどまでの展開が用意されているとはハルも思いもしなかった。想定していた中で最悪の、いや想定の上を行く事態である。そこまで考えてハルは違うな、と思った。よく考えてみれば幼い頃から事態はいつも自分の想像を超えたものが起こっていたではないか。
 本当に、ここで死ぬのだ。そう思った。
 さして意味のある生を送ってきたとは思っていないが、それでもそれは戦慄となって体中を駆け巡り、手足を竦ませた。手はなんとか腰間の剣に伸びているが、ひどく震えて柄を握ることすらもできない。背を気持ちの悪い汗が流れ、薄手の衣服が張り付いていた。
「死ね!」
 その瞬間、震える手を叱咤してハルは刃を抜いた。


 塀のうえに片手をかけて地面を蹴る。そんな単純な動作だけで、軽々と身の丈以上の高さのある塀に体を引き上げたセティは、音も立てずに塀の向こうに着地した。塀の中は庭園らしく、よく整備されてい る。さらには、身を隠すのに好都合な樹木や置物が多々あった。警戒しつつ周囲をぐるりと一周してみたものの、意外にもどうやらセティに害意を寄せる存在はなさそうである。
 ガイゼスの気候とそれに合わせた建築様式が救いになった。日中ひどい暑さになるガイゼスでは、日中に溜め込んだ熱を逃がすために雨が降らなければ夜でも雨戸を閉めることもない。万が一の場合の脱出口を確認してから、セティは平屋建ての建物の外壁にはりつき、簾(すだれ)がかかっただけの控えめな窓から一 室一室を注意深く覗き見て回り、ハルのいる場所をつきとめた。
 セティは息を潜め、成り行きを見守っていた。ハルも、ハルの正面に座る男も声を潜めて話しているから話の内容までは聞こえない。しかし、楽しい話をして いるのではないことだけは二人の表情から明らかだった。セティは無意識に懐に手を差し入れ、短剣の柄を握りながら状況を注視していた。
 ハルの甲高い叫び声で、会談の相手が兄であることは分かった。しかし、次の瞬間、目に映ったのは信じがたい光景だった。
 まるでその瞬間だけ、切り取られたようにゆっくりしていた。
 ハルに向けて振り下ろされた白刃がランプの明かりを受けてきらめいた。頭の中が焼け焦げたように何も考えられなかった。気づいたときにはもう、立ち上がり、窓の縁に片手をかけて体を跳ね上げていた。
 間に合わない。太い刀身が、震えるハルの細い剣を呆気なくはじき、そのまま持ち主の細い体を斜めに切りつけた。琥珀色の床に、赤い血が線を引く。前のめりにくずおれるハルの背中。そこに向けて振り下ろされたとどめの剣───。
 獣のような咆哮をあげ、セティは鋭く手首を返して短剣を投げた。それはもうほとんど反射のようなものだった。直線を描き跳んだ刃が、今まさにハルにとどめを与えようとしていた男の肩に深々と突き刺さる。男が呻き声をあげてひるんだ一瞬のすきに、跳ぶように数歩駆けて一気に間合いを詰める。ハルの手からこぼれた剣をすくうように拾い上げると、予備動作なしにそのまま逆手で切り上げた。返り血を避けるほどの余裕はない。鮮血が吹き上がり、セティは頭からそれを被った。
 金色の髪から滴り落ちる鮮血が、首に巻いた大地の神(アナリ)の僧衣を赤黒く染めた。
 鬼のような形相で残った三人の覆面男を睨みつける。
 セティは剣を構えなおし、間髪いれずに左の男を上段から切り下げる。速い。男は構えた剣で刃を受け止めることもできず、一直線に胸を切られてそのまま仰向きに倒れた。続いて横合いから突き出された次の刃は、体をわずかに開き最小限の動きでかわす。体を開いたその力はそのまま剣にのせて、反対側の覆面を水平にないだ。予期せぬ動作で腹を切られた男がたじろぐ。その隙にさらに一歩踏み込んでセティは胸に向かって鋭い突きをくりだす。
 ほんの一瞬のあいだに、セティは実に三人もの人間を切り伏せた。覆面の体に足を掛けて素早く刃を引き抜き、最後の覆面に正対する。男は息を呑んで逃げた。逃げた男を追おうともせず、セティは剣を投げ出した。
「ハル、ハル!」
 抱き起こし、頬を叩きながら何度もその名を呼ぶ。力を失った首が呼ぶたびに頼りなく揺れ、大きく裂けた衣から血が溢れていた。
「畜生!」
 叩きつけるように叫びながらも、セティは冷静に今なすべきことを考えていた。ハルのベルトをぶら下がっている鞘ごと外し、自分の腰に手早く巻きつける。放り出した剣を拾い上げて自分の腰に下げた鞘に戻した。セティは首に巻いていた僧衣をほどき、それでハルの体を覆って背負う。立ち上がったとき、 背負ったその体が思ったよりもずっと軽くて、勢い余ってよろめいた。
 戸口の方から人気が近づいてきたのを察知し、セティはハルを背負ったまま侵入してきた硝子のない窓の縁に足をかけ、跳んだ。脱出口として確認していた正門には幸いにもまだ人気がなく、足がもつれたがそのまま駆けた。大通りに向けて駆け戻りながら、虚空に目を向けて悲鳴のように声を上げた。
「リドに知らせてくれ! 早く!」
 セティの目にはリドルフが付けている花の精霊(ネビネ)が映っていた。生暖かい液体が溢れ、ハルの体を包んだ僧衣はおろか、セティの衣まで濡らす。
「だめだ……だめだ。これじゃ、もたない」
 四方を素早く見回して追う者がないことを確認すると、セティは街道のわきの潅木(かんぼく)の陰にハルの体を横たえた。大通りからはまだ外れているし、幸いにも夜も大分ふけてきている。人の目はない。
 ベルトを片手でまさぐるが、そこにいつもあるものの感触がない。自分のものではない。いつもベルトにぶら下げてある、リドルフに持たされている血止の薬の入った小袋も、剣と鞘とともに置いてきたのだ。舌打ちして、セティはハルの体を包んでいた大地の神(アナリ)の僧衣を広げて勢いよく縦に引きちぎった。
「しっかりしろ! ハル!」
 顔はすでに完全に血の気が失せ、唇は真っ青だった。こんな色をしていてはいけない。とにかく、出血を止めなければいけない。引きちぎった僧衣を適当な大きさにして厚く重ねる。大地の神(アナリ)の神官はナディールでは医者を兼ねる。その神官が着用する質素な僧衣は、大昔、ある神官が自分の衣で傷の応急処置をしたのがはじまりだという。こんなときに、そんなことを思い出した。
「なんだ……?」
 傷を圧迫しようと、斬られて大きく破れた上着の前合わせを開き、間着と下着の前合わせもといたそのとき、予期せぬものが目の前に現れた。セティは指の腹で下着の下に現れたそれをなぞる。ほとんど闇に近いほどに暗い中でのことであったし、それ以上に、動揺した頭ではそれが何か咄嗟に考えられなかった。
「布?」
 下着の下に現れたのは、さらしだった。胸から腰まで幾重にも固く巻き付けられている。胸の部分が大きく切れ、血の色に染まっていた。固く巻き付けられたさらしに手をかけてすぐに、セティはあっと短い声を上げてはだけさせた衣の前合わせを閉じた。
 頭がひどく混乱していた。ただ、ほんの一瞬だけ垣間見えたハルの胸元が、男のものでないくらいは分かった。
「なんだよ、もう──!」
 口を付いて出た苛立ちの言葉は、自分に向けられたものだった。
 大きく息をついてセティはハルの顔を見た。
 どうして今まで気がつかなかったのか───。なぜ、少しもそれを疑わなかったのだろうか。
 病弱だとはいえ、ハルは少年としてはあまりにも華奢すぎたではないか。泉の精霊(イネヌ)を従わせ、水の女神(シルヴァ)の加護を受けていたではないか。あれほど側にいて、あんな風に抱いたこともあったというのに、それでも気づかなかったなんて、鈍いにもほどがある。
 セティは音が鳴るほど強く自分の頬をひとつ叩き、意を決してさらしに手をかけた。今大事なことは、そんなことではない。引きちぎって厚く重ねた僧衣で胸元を斜めに走る傷口を圧迫し、たすきがけに硬く縛る。そのうえから冷たい夜気から守るように抱きしめた。急速に血を失ったせいか細い体が、冷たくなりはじめていた。
「死ぬな……死ぬなよ、ハル」
 柔らかい髪が鼻先をくすぐり、何日か前にもこうやって抱きしめたことを思い出していた。
「絶対死ぬな。ハル────」
 月明かりの下で笑った顔を思い出していた。
 闇の中、背後から近づいてきた足音にセティは身構えた。右手は腰に下げたハルの剣の柄にのび、ハルの体を抱える左手にぐっと力が入る。しかし、次の瞬間足音の正体に気づいてセティは緊張を緩めた。
「リド! ハルが……」
 背に大剣を背負い、右手にセティの剣が納まった鞘を手にしたリドルフは、セティの姿を確認するように目を凝らす。そして、その腕に抱えられた人物を見て片膝をついた。セティの手からハルの体を受け取ると、リドルフは躊躇なく傷口をあらためる。咄嗟にセティは顔を背けた。
「傷は縛った。でも、深い」
 リドルフはその様を見て、小さくため息をついた。
「ここではしっかりした治療ができません。ハル様の邸宅に向かいます。でも、まずは──── 少しでも出血を抑えなくては」
 このままでは屋敷までももたない、とはリドルフは言わない。しかし、セティにもそれが分かっていた。ハルの体は頼りないほどに細く、血が少ないのだ。リドルフはセティが縛った傷のうえに指先でいくつか神霊文字(サイラッド)を描き、目を瞑って早口に短いマントラを唱えた。緊急の怪我人や病人に向けて使う、高位の大地の神(アナリ)の神官だけが使える特別な術だとセティは知っていた。ナディールにいた頃にリドルフや、リドルフの養父であるアナリの大神官(クラヴァン)が使うところを何度も見たことがある。
 目を開けたリドルフは傷口をもう一度固く縛りなおし、ハルを横抱きに抱き上げた。早足に今来たばかりの街道を戻りはじめる。セティは自分の剣を持ってその後を小走りに追った。
 リドルフの白い横顔に普段と違うものは浮かんでいない。しかし、早足に歩を進めながら再びマントラを唱えはじめていた。それを見て、セティは意を決したように口を開いた。
「もしも……もしも、駄目なら、私が神霊文字(サイラッド)を引く」
 マントラが途切れ、リドルフの足が止まる。
「神託を使うというのですか? それは――――」
 セティはリドルフの言葉を遮った。
「こんなところでなんか死なせない。絶対に」
 リドルフは是も否も唱えず、マントラを再開し、前を向いて歩を進めた。
 つい数日前まで世話になっていた巡検使の官舎が目に入ると、セティは先に駆けておとないを入れる。夜の約束のない訪問者を警戒するように顔を出したアリアは、来客の正体と返り血を浴びたその姿に驚く。そして、リドルフの腕に抱えられた人物が大切な主であることを認識して、口元を覆って悲鳴を飲み込んだ。
 門から一番近くにあるアリア夫妻の部屋にハルを運びこんだリドルフは、ベルトから医療道具の入った小袋と薬の入った袋を外し、中身を出す。傷を縫合する際にリドルフが湯を必要とすることを知っているセティは、固まったままのアリアを促し厨(くりや)に向かう。セティが桶にはった湯を持って部屋に戻ったとき、リドルフは薬の調合を終えたところだった。
「飲ませてください」
 セティは渡された乳鉢を持つと自分の口に含み、それからハルの口の中へ流し込んだ。
「開きます」
 傷口を見たリドルフが一瞬息を呑んだのが、セティには背を向けていても気配で分かった。
 セティはハルの方は見ないようにしながら、リドルフが欲する種類の針を渡し、手元が見やすいように灯りの位置と向きを調整する。リドルフはいつも鮮やかな手つきで躊躇なく傷を縫合する。その手が時折止まるのが手元を見なくとも気配で分かる。
 使い終えた針を桶に流し、リドルフは手を洗った。調合した別の薬を傷口に塗り広げてアリアが用意した清潔な布を当てて、そのうえから違う布で袈裟に巻く。厚いケットでハルの華奢な肩がすっかり隠れるまで覆って、ようやく口を開いた。
「私は神託の祝詞を唱えられません」
 今更口にするほどもない事実だった。神託の祝詞はオリス(空神)の神官でなければ唱えられない。オリス系統の法力を持たない高位の神官ができるのは、オリスの神託に精霊たちが感化されて動かぬように管轄する精霊たちを抑えることだけである。
「神託は、祝詞がなくても私ひとりでも使えるはずだ」
「理論上はそう言われています。でもそれは、とうてい賛成できません」
 反論を視線で制して、リドルフは続ける。
「法力を私に分けてもらえませんか?」
 リドルフの口調はいつもと変わらないが、口にしたのはナディール人ならば誰しも絶句するようなとんでもないことだった。
「以前よりアナリの法の効き目が良くなっているように感じます。強力な力を一気に注ぐことができれば、乗り切れるかもしれません」
「法力を分けるって……馬鹿なことを言うな。私はオリス系統の法力しか持っていないんだぞ」
 それも、今更口に出す必要もないぐらいの事実である。しかし、リドルフは穏やかに続ける。
「四神殿の見習い(クラム)(クライム)が神官(クライン)の補佐に使うための、法力貸しの法(イデム)という初級の法があります。本来は同系統の法力の持ち主間で行うものですが、それを応用して、以前一度だけ水の女神(シルヴァ)の力を変換したことがあります。オリスの─── しかもあなたの力となると、規模というか次元が違いますが、それでも原理は同じです。だから、出来ないことはないと思いのです」
 セティは聞いたことがない法だった。空の神(オリス)大地の神(アナリ)水の女神(シルヴァ)風の神(フィース)火の神(アデン)の他の四神殿と共通の法を持たない。オリスの法は四神殿の法とは異なり、大量の法力をもって精霊ではなく神そのものを使役するため、四神殿とは術式で共通するところがない。
「私は使ったことがない。術式も知らない」
「今ここで伝えます。あなたが使う術の複雑さに較べれば、法力貸し借りの法はとても簡単な法です」
 オリスの法は使う神霊文字(サイラッド)の形状が四神殿とは異なるうえに、種類も多い。しかも、術式も複雑で難しい。ただでさえオリスの法力を持つ者は少ないのに、実際に法を使える者はさらに少ない。だからこそオリスの神官は貴重なのだ。
「ちょっと待て。本来、弱い法力を強い法力の持ち主に使うものなんだろう? ということは、私が量を間違えればリドが危ないんじゃないのか?」
 リドルフがわずかに顔に滲ませた感情は、それを肯定するものだった。
「私にまたハルとリドを天秤にかけさせるつもりか! 私は─── もう、あんな思いをするのは二度とごめんだ」
 セティは顔を歪めた。
「確かに、もともとは法力の弱い術者が強い術者を補佐するために行うものです。しかし、私が以前変換したことがあるのも、私よりも強い水の女神(シルヴァ)大巫女(クラスティン)の法力です」
「クラスティン・シルヴァと私の術の精度を比べるなんて愚かだ。私の法力は強すぎるし、法を使うことからも離れて長い。実際にこの前、トゥルファでだってやりすぎた。うまく制御できる自信がない」
「いいえ。確認されているオリスの法、三百七十の術式をすべて覚え、実際に使えるあなたには法力貸し借りの法など造作もないことです」
 セティは顔を歪めたまま首を横に振る。
「リドの命を脅かす危険がある以上、嫌だ。ありったけの法力を注ぎこめばいい神託の方がましだ」
「セティ、あなたは私とハル様を天秤にはかけられないと言ってくれる」
 リドルフは諭すように真っ直ぐにセティを見つめた。
「けれど、ハル様とあなたを天秤にかけるとしたら、私はやはりあなたに傾いてしまうのです。少しだけ。もしも、法力貸し借りの法(イデム)がうまくいかなければその時は、神託を使うことを止めません。だから、これが私が譲歩できる限界のところです」
 セティは横たわるハルの横顔を見やった。額には脂汗が滲み、荒い呼吸に華奢な肩が大きく上下していた。一呼吸後にも急変しそうな危うい状態だというのが、セティの目にも明らかだった。
「少しだけ、か」
 セティは思わず頬を崩した。
「術式とマントラを教えてくれ」
 アリアが出した使いから知らせを聞き、王宮から飛んできたメイラは部屋に入ろうとして、やめた。向こうから、聞きなれた優しい声に高い別の声が重なっているのに気づいた。
 セティのマントラはテノールよりもアルトに近かった。澄んで響くセティの声に、リドルフの落ち着いたテノールのマントラが重なる。二つの声は時に重なり、交わり、また離れてを繰り返し、まるで歌のようだった。それもただの歌ではない。聞く者の擦り切れた心を洗い、まっさらにしていくような清澄な歌だ。 気が付くと、メイラもアリアも涙くんでいた。
 二人が姿を現したのはそれからしばらくしてからだった。メイラがいることに驚きもせずにリドルフが静かに口を開いた。
「難しい局面は越えたと思います。あとは、意識さえ戻ってくれればもう心配は要りません」
 口調は穏やかないつものものと変わらないが、リドルフは心なしか顔色が悪く、気怠るそうだった。メイラは深々と頭を下げた。
 部屋では寝台ではハルが肩を上下させて眠っていた。顔は青いが、表情はそう悪くない。メイラの傍らでセティもその顔を神妙に見つめていた。
「怪我は?」
 セティは不思議そうに首を傾げ、それから何かに気づいたように慌てて首を横に振った。未だ返り血を流していないままだった。メイラは安堵したようにひとつ頷いた。
「殿下を斬った人間の顔は見たか?」
「直接手を下した者は、一人を除いて絶命させた。覆面をしていたし、手加減する余裕も顔をあらためる時間もなかった。でも、命じたのはハルの兄だ」
「王太子殿下だと?」
 メイラは白い眉をひそめた。
「斬られる直前に話を中断して席を立った男のことを、ハルが確かに兄上と呼んだ」
「そうか」
 ただ奔放なだけではなく、聡いところのある青年であることはすでにメイラも十分に知っている。メイラはセティの観察眼を少しも疑いはしなかった。
「黒髪で彫りが深い顔立ちの、背の高い若い男だった」
 セティが告げた男の容貌は一般的なガイゼス人のものとも言えるが、王太子の姿とも一致している。メイラは深くため息をつき、もう一度改めてセティに謝辞を述べた。それから、一度王宮に戻るからハルを頼むと言い置いて屋敷を出ていった。
「これから、どうなるんだ……?」
 独り言のように呟いて、隣にたたずむリドルフの横顔をセティは見上げた。
「休んだ方がいい。ひどい顔だ」
「あなたは大丈夫ですか?」
 両手を広げ、セティは大げさに肩をすくめてみせる。
「私は平気さ。使ったのはほんのわずかな量だ」
「セティ」
 こういう呼び方をするときのリドルフは、違う。それを長い付き合いの中でセティはよく知っている。
「ここまでが限界です。ハル様の容態が落ち着いたらすぐにガイゼスを出ましょう」
 セティは視線を逸らせた。
「ハル様は兄君である王太子殿下の手の者によって、斬られたのです。それを、あなたが助けた。これが何を意味するか、分かりますか?」
「だから、私は(まつりごと)には関係ない」
「それでもあなたは、対外的にはクラヴァン・オリスなのですよ」
 言い含めるようにリドルフは言った。
「もしも、誰かにあなたとハル様の関係を穿って見られたら、それは本当に恐ろしいことになります」
「私とハルの関係?」
 セティにはリドルフが言わんとしていることがよく分からなかった。
「どうも良くない方向に物事が進んでいるように思えます。これ以上ハル様のお側にいるのは、あなたばかりでなくハル様のためにもよくありません」
「……分かった」
 セティは頷いた。
「ハルの容態が落ち着いたら、今度こそガイゼスを出よう。だからまずは休んでくれ。今はリドが心配だ」
 素直な返答を深読みしたのか、説得を続けようとするリドルフを苦笑でかわして、アリアが用意した寝室に無理やり追いやるようにして休ませる。それから、すでに固まり始めていた返り血を庭で洗い流し、血の色に染まった服を脱いでアリアが用意してくれた新しい服に着替え、ひとりでハルの傍についた。
 額に脂汗を滲ませて眠るその顔は、改めて見ると少女にしか見えなかった。
 鼻筋も顎の線も繊細だし、首は細く、睫毛は長すぎる。肩は成長途中だと言い訳しても薄すぎて、どうしたって男には見えない。改めてよく見てみれば、どうして今まで少しも疑わなかったのか不思議なくらいだった。分からなかったのは、王子だという強烈な先入観があったのはもちろん、セティ自身が身近に女がほとんどいないという特殊な環境で育ったせいもあるかもしれない。
 壁に立てかけた、ハルの剣が収められた鞘が目に入った。主の命を辛うじてつないだ剣だ。セティは自分の剣以外をうまくは扱えない。セティの剣は、本来斬るための目的で打たれたものではく、刃は片刃、大きさも中剣と小剣の中間のような特殊なものだ。しかし、華奢なハルの体に合わせて打たれただろう剣はセティのそれと似通った大きさだったのだ。女の身であるハルのための剣である。軽くて小ぶりに出来ているのは今考えれば当然だった。
 血と薬の匂いに混じって、かすかにあの香りがした。
 ハルが声を上げて泣いた夜は思い出せなかったが、いつもハルから漂う香りはやはり間違いなくアルベルムの香りだった。希少な花の高潔で雅な香り。ハルは自分で、アルベルムの香は女性(にょしょう)が使うものだと言ったのではなかったか───。
 額に張り付いた髪を払い、汗を冷やした布で拭ってやる。内臓に負った傷はリドルフの処置と法によって大分癒えたはずだが、かなり熱が高くなっていた。 払った髪をよくよく見ると、真っ黒ではなかった。肌も日に焼けているせいで小麦色をしているが、きっと元の色はずっと薄い。それに、男のものとは思えないほどきめが細かく、触れば柔らかそうだ。
 ケットの上に脱力して仰向けに開いた手のひらには、たこがあった。剣を教えたときに出来たものだろう。細く、小さな手だった。恐る恐る自分の手を重ねてみると、目に見えていた以上にずっと小さくて、華奢ではっとした。その感触に何とも言われぬ気分に襲われ、深いため息をついた。
 なぜ、女のハルが王子にならなくてはいけなかったのだろうか。ハルは前にウルグリードに招かれたのは九歳のときだと言った。確か、母を亡くしたのは八歳のとき。母をあんな形で亡くしてすぐのハルは、一体どういう心境で王子となったのか。セティには想像がつかなかった。
 リドルフが言ったことをぼんやりと考えていた。一つのものごとについて様々な見方が即座にひらめく頭の良い男だった。リドルフの言うことは大抵正しい。考えられる最悪の状況からいつもセティを遠ざけようとするし、実際それに守られてきたのだろうと思う。けれど、目の前で眠る存在を見ていたらリドルフが考えているようなことなど、あり得ないような気がした。髪の毛一本にさえ欲を滲ませることのないハルを、一体だれが強欲に仕立て、周囲に信じさせられるというのだろう。
 それでも出発を決意したのは自分に問題があるからだった。ハルの人柄は良く知られているかもしれない。しかし、自分のことをよく知るものはリドルフ以外に誰もいないのだ。クラヴァン・オリスに人格があることなど誰も知らない。
 いつの間にか夜が明けようとしていた。
 手が握り返される感触に、うとうとしていたセティは飛び起きた。薄く開いた目蓋の合間から黒鳶色の瞳がこちらを見ている。
「気がついたのか」
 黒鳶色の瞳は焦点が合わないまま、頼りなく右と左を一度だけさまよってそれからすぐに閉じられた。セティは小さくため息をついて、また眠りに落ちたハル 額に手を置いた。熱はまだ相当高い。朦朧としているのかもしれない。ただ、先ほどまでと違うのは重ねていた手は弱々しいながらも握り返されている。セティ は無意識に口元を綻ばせ、それからまたため息をついた。
「傷跡まで消してやりたかった、な」
 一睡もしていなかったセティは、リドルフと交代で客間で少し眠ることにした。わずかにまどろんだくらいの感覚だったが、セティが目を覚ました時、すでに太陽は中天をすぎていた。セティがハルの部屋を訪ねると、リドルフがちょうどハルの手首をとっていた。
「まだ熱はありますが、容態は落ち着いています」
 リドルフは、血に汚れた僧衣からガイゼスの庶民が着るような衣に着替えていた。セティは夜が明ける前に着替えることができたが、上背のあるリドルフが着られるような衣がなかったため、彼はそのままの格好だった。市が開くと同時にアリアがリドルフのための衣を用意してくれたらしい。
「薬も七日分は調合してあります。あとは、問題ないでしょう」
 寝台の脇の小机に並べられた薬の袋は、どれも几帳面そうに口が結ばれていた。
「ハルの命が助かった。それで、満足すべきだな」
 セティはハルの顔を眺めながら自分に言い聞かせるように呟いた。
 夜明け前に王宮へ行くと言って出ていったメイラはまだ戻っていなかった。ハルの容態も落ち着いているのでセティとリドルフは一旦宿に戻ることにした。少しの金と金に替えられるもの、それにセティとリドルフの剣以外の荷物のすべてを置いてきてしまっている。アリアに一言告げて、二人は屋敷を出た。
 すでに傾きつつある太陽でさえも、力強い熱を放っていた。白人は体を病むといわれるほどの過酷なガイゼスの暑さも、もうすぐ離れなければなら ないのだと思うとセティには愛おしくさえ感じた。
 十分な前金を支払っていたためか、無事にそのままになっていた荷物を引き取って道中の屋台で簡単な食事をとり、二人は屋敷に戻った。
 戻って、すぐに異変を感じた。門も扉も開け放たれ、よく手入れされていた庭が多数の足跡で踏みにじられていた。
 セティとリドルフは顔を見合わせて、中に駆け込む。
 大声でアリアを呼びながら進むと、奥から結わえた髪を乱したアリアが出てきた。
「何があった」
「御屋形様が、御屋形様が……」
 セティは寝室に飛び込んだ。寝台に、ハルの姿はなかった。代わりに寝台の脇にメイラが呆然と座り込んでいた。
「婆さん、何があった。ハルは?!」
 返事はなかなか返ってこない。焦れるセティを制し、リドルフがメイラの背を抱くようにして立ち上がらせ、文机の小さないすに座らせた。そして、跪く。
「メイラ様、ハル様はどうなさったのですか?」
「…… 拘引(こういん)された」
「拘引? どういうことだ」
 メイラは呆然としたままで、それ以上を言えない。リドルフとメイラは向かい合う形で跪いた姿勢のまま、静かに口を開いた。
「メイラ様」
 リドルフの言い方はいつもと変わりない。
「ハル様はセティと共謀し国を貶めようとしている、と嫌疑をかけられた。違いますか?」
 その瞬間、顔色を変え、音が立つほどの勢いで突如立ち上がると、メイラは這いつくばって床に額をこすりつけた。
「本当に申し訳ない」
「セティの素性が暴かれたのですね?」
 メイラははっとして顔をあげ、唇をわななかせた。それから、うな垂れて観念したように口を開いた。
「殿下は……ナディールで女王よりも強い権力を持ち、神のごとく統率力を持つオリス神殿の最高位、セティス・クラヴァン・オリスに唆され、国を売り渡そうとしている──── と」
 リドルフは黙したまま肩越しにセティを振り返った。メイラは祈るようにしてセティを見上げた。
「確かに私の籍はオリス神殿、位は大神官(クラヴァン)だ」
 短いため息のあとに続いたセティの応答は低く、冷静だった。その瞬間、雷に打たれたように叩頭しようとしたメイラの腕をつかみ、リドルフが押し留める。顔色を失ったまま見上げたメイラに、リドルフはゆっくり首を横に振った。
「職責を放棄して国を出たんだ。私にはこれからも戻る気はない。しかも――― 」
 セティは壁にもたれて腕を組み、口の端を歪めて自嘲するように笑った。
「もともと私に国を売ったり買ったりするような裁量権などない。国を動かすどころか、自分の身のことさえも何一つ決められないようなざまさ」
 なだめるように、リドルフはその名を呼んだ。
「誰もが私にひれ伏しながら、どうやって利用しようか考えている。ナディールでオリスの大神官(クラヴァン)(クラヴァン)とはそういう存在だ」
 セティが歪んだ笑みを再び刻んだとき、メイラは数日前の鉛色の空の日にリドルフが悲しげにいった言葉を思い出した。
「もう、それは仕方のないことだと思っている。だけど──」
 セティは吐き捨てて、拳で壁を叩いた。
「どうして私じゃなくハルなんだ」
 一番近くにあった瑠璃色の覆いが被ったランプに歩み寄り、手に取る。何かを察知したリドルフが立ち上がるよりも早く、セティはランプを壁にたたきつけた。派手な音を立てて覆いがばらばらに砕け落ちる。
 次の瞬間、セティは火の灯ったままのランプの先端を躊躇なく自分の首筋に近づけた──
「セティ!」
 呆気にとられて動けないメイラをよそに、リドルフがセティに掴みかかって間一髪のところでランプを叩き落す。明かりがひとつ失われた部屋が影を濃くし、あたりに焦げた嫌な臭いが広がった。
「何をするんです」
「立場が駄目だと言うなら、ひとりの友人としてハルを助けに行く」
 とんでもないことを真顔で言ってのけた青年に、メイラはおろかリドルフまでも一瞬言葉を失った。
「私の身を証明するのは、この刺青だけだ。これさえなければ私はただのナディール人。法力を目視しないガイゼス人には私が誰だかなど分からない」
「それで… それで、自分の首を焼こうというのですか」
「私にとっては邪魔なだけのものだ。これがハルの身を貶めると言うなら、この際ちょうどいい」
 焼け縮れ、損なわれた絹糸のような髪を気にした様子もなく、セティはさらに平然と言い放つ。メイラはぽかんと口を開けたまま、目の前の十七歳の青年を見つめていた。リドルフはため息をつき力なく首をふる。
「リドは、やっぱりこれがないと困るんだろう? 分かってる」
 セティは白い面を紅潮させて吐き捨てる。
「セティ」
「私は、これがなければと心の底から何度願ったか分からない。窮屈な生活も、死ぬほどつまらない修行も学問も我慢する。いや、いいように利用されるのだって耐えよう。それでも──」
 厚い薄紅色の唇と固く握られた両手が震え、潤んだ淡紫色の目は視線を逸らした。
「命さえもオリスに握られているのだけは、やっぱり肯(がえ)んじられない」
「落ち着きなさい」
「自由を与えてくれて、感謝してる。それが例え見せかけの自由だったしても、私がこれまでその夢に心地良く浸っていられたのは、全部リドのおかげだ。そうだろう?」
「セティ、落ち着いて。私の話を聞きなさい」
「だから、ここから先は自分の手で夢を見るよ」
 セティの声が詰まり、かすれる。そのときリドルフは素早い動作でセティを抱きかかえた。
「私は、何があってもあなたと行動を別にするつもりはありません。そして、あなたの思いを無下にするつもりもありません」
 リドルフはゆっくりした口調でそう言って、幼子をあやすようにセティの背中を叩く。
「話を聞きなさいと言ったでしょう。何も私は、ハル様をここで見限りなさいなどと言おうとしているのではありません」
 セティは驚いて、体を離してリドルフの顔を見上げた。リドルフは穏やかに微笑んでいた。
「あなたの思いは分かっているつもりです。それに、昨日ひとりでも神託を使うのだと聞いたとき、それがどのくらいのものかもよく分かりました。私が今考えているのは、どうやってあなたの望むことを実現するかです」
「……本当に?」
「しかし、政争に巻き込まれ、国家反逆の罪を着せられたハル様が今後汚名を雪ぎ、故国に戻るのは容易ではありません。あなたはその道行きに最後までつきあう覚悟があるのですね? 今ここでハル様を救い出すというのは、そういうことです」
 リドルフは念を押すように繰り返した。
「これは、あなたの一時的な感情で起こすべき行動ではありません。本当にそれほどの覚悟があるのですね?」
 セティはメイラを見た。何とも言われぬ複雑な感情を滲ませた、険しい表情だった。セティは決意を示すかのようにメイラに向かって頷き、口を開いた。
「もちろんだ」
 リドルフは頷き、セティの肩をひとつ叩いてメイラに向き直る。
「メイラ様、セティはそういうつもりのようです。ハル・アレン王子殿下の御身、我々がお預かりしてもよろしいですか?」
「我が国の王子殿下をナディールの貴い方々にお預けするというのは、全く奇妙な話だと思う。しかし、殿下の命運は、アイデンで貴公らと縁を結べなければとうにつきていた。これも殿下のさだめなのだとも思う」
 メイラはセティとリドルフに向き直って深々と頭を下げた。
「心より、お願い申し上げる」
 セティは神妙な面持ちでそれを見ていた。
「ハル様が拘置されている場所は分かりますか?」
「恐らく、内務省法務局内の塔の牢獄だと」
 メイラはハルの机の引き出しから内務省の見取り図を取り出し、机に広げた。メイラによると、ナディールではあり得ないことであるが、ガイゼスでは罪を犯した人間は例え王族であっても庶民と同じ手順を踏んで然るべき裁きを公正に受けるという定めがある。しかし、定めはあるがまだ前例はない。よって、さすがに独房のない地下牢に他の囚人と第二王子を一緒に収監するとは考えられない、というのだ。
 リドルフは見取り図をざっと見て、さらにいくつか質問を重ね、それから何かを思案するように目を細め、指先で机をゆっくり三度だけ鳴らした。
「剣を使いましょう」
 リドルフの策はこういうことだった。
 法術を使ってハルを奪還すれば、ナディール人が関わっていると大々的に吹聴するようなことで、ハルが貶められた謀略が真実であると証明する手助けをすることになってしまう。だからあえて剣だけを使ってハルを助け出そうというのである。
「私が正面、一番目立つところで剣を振るいます。その間に、セティはこの道順で真っ直ぐにハル様が拘置されていると考えられるこの場所を目指します。できるかぎり、兵とは接触しないに越したことはありませんが、遭遇した場合は手段を選んではいられません」
 リドルフは長い指で見取り図をなぞった。
「セティ、いいですね。これは私とあなたの二人で、四百を数える間に終えます」
「四百の間に?」
「あなたが剣を振るい、その身を危険に冒してあいだ私の誓約法は発動しつづけます。しかし、許される時間は四百を数えるあいだだけです。それ以上は私の法力がもちません」
 リドルフは昨晩から今日未明にかけて、ハルの治療のために大量の法力を消耗したばかりだった。わずかな休息は得たが十分回復したとは到底言えない。むしろ、あんな代物をこの状態で四百を数える間も使えるというのがセティには信じられないくらいだった。
「誓約法を使わないで済む方法は?」
「ありません」
 間髪入れず返された言葉の言い様はまさに取り付く島もない。
「この方法が私が考え得る手段の中で最も成功する可能性が高く、危険が少ないものです」
「でも」
「目的というのは、必ずしも何一つ傷つけず、代償なく達成できるものではありません。何か大きなものを選ぼうとするのなら、なにかを失う覚悟も持ちなさい」
 尚も言い募ろうとするセティに、珍しくリドルフは異論は許さないとぴしゃりと言い切った。
「私はどうする?」
「メイラ様は、ハル様が本当にこの場所に拘置されているかどうかの確認と、逃亡の手配をお願いできますか?」
 予想外の返答にメイラも困惑の色を隠せない。
「しかし」
「ハル様だけではなく、メイラ様と家令殿とその御主人の出奔の手配も」
 リドルフが言おうとしていることに気づいたメイラははっとした。
「場所さえ確認できれば、我々は必ずハル様をお救いします。そうなれば、ハル様と関わりの深い人間に矛先が向くのは避けられません。ご自分のことでお三方に何かあれば、ハル様はその繊細なお心を強く痛めることになるでしょう」
 険しい顔をして腕組みをするメイラにリドルフは続けた。
「それに、ガイゼス人のメイラ様が故国で居場所を失うことは決してあってはなりません。これからの、ハル様のためにも」
 リドルフの言葉の真意が、セティにはよく分からなかった。しかし、メイラはうつむいて深く頷いた。
「セティ、いいですね。四百を数える間に必ずハル様をお連れするのですよ」
 リドルフはセティに向き直って、言い含めるように言った。
「……もしも、四百を数えるあいだにハルを助け出せなければ?」
「ハル様は無実の罪を着せられていわれのない裁きを受け、我々はガイゼスに捕まるでしょう」
 リドルフの返答は実にあっさりしたものだった。
「しかし、あなたの身に何かあればナディールという国が決して黙っていません。そのときは、誰かが描いた絵空事が現実になるかもしれません」
 セティはまた神妙な顔をしてうつむいた。リドルフはまたセティの肩をひとつ叩いて、メイラと逃亡に関する手筈の詳細を相談しはじめた。


 とんでもないことになった。
 霞む視界で石壁を見つめながら、熱でぼんやりした頭で思考をまとめようと何度挑戦してもハルの中に湧き上がってくるのはその思いだけだった。
 二ヶ月前、国境近くのアイゼンの街のそばで襲撃に合い、多くの護衛を失った。大怪我をしたカイを救い、宿での襲撃を撃退してくれたのがセティとリドルフだった。
 一度目はアイゼンの宿、二度目はラガシュの道中、三度目はトゥルファへの道中、そして、ウルグリードまでの道中、アルギット…。二人がいてくれなければ何度死んでいたか分からない。
 一度目はラガシュの城の庭、二度目はトゥルファのロガン邸の庭、三度目はウルグリードの官舎の庭。セティがいなければ何度心が折れていたか分からない。
 時に命まで賭してくれた彼らへの結末が、こんなことになってしまったのは何故なのか――――。
 彼らをこれ以上巻き込んではいけないと、別離を決意した。父に会ってすべてを話し、せめて彼らの身の安全だけは確保したいと思った。それなのに大事なことは一つも話せず、挙句の果てにはメイラにさえも相談せず一人で兄に会いに行って、斬られ、しかも拘引(こういん)された。
 クラヴァン・オリス。ナディールの神職の最高位。神々を統率する全知全能の神、オリスに一番近い人。それがセティだという。
 セティス・クラヴァン・オリスと共謀しているのか、と問われ、意味が分からなかった。クラヴァン・オリスという僧位がセティのことを指しているのだと理解するのにも時間が必要だった。どうやら高位の神官らしいことは知っていたが、それでも、ハルにとってのセティはセティで、それ以外の何者でもなかっ た。
 昨晩か、今日の朝か定かではないが、ぼんやりとした視界でセティの顔を見たような気がした。また会いたいと願うあまり、夢を見たのだと思った。それか、今際に幻を見たのだと。どうやらアルギットから助け出してくれたのはセティらしいので、恐らくあれは幻ではなく本物だったのだ。最後さえも、はっきり思い出せないのが残念でならない。
 どうして、自分はいつもこうなのだろう。
 意思とは裏腹に物事は勝手に進んでいく。自分は抗うどころか、逃げることもできず、ただそれに流されていくことしかできない。
 王子になどなりたくないと言いたかった。母に「私を置いていかないで」と言いたかった。でも、いずれも口に出すことさえもできなかった。そのうちに、何かを望んだり願うことすら自分には許されないのだと思って口を噤んだ。
 言われるがまま、求められるがままにしてきた。それではいけないと、真正面から言ってくれたのはセティだった。希望と闘う力を与えてくれたのが、セティだった。だから、自分の力で、行動で、セティを守りたかった。その結果、守るどころか窮地に追い込んだ。
「何か、考えなくては。なにが、できる……?」
 いくら己に問うてみてもこの身を囲むのは石畳と金属製の格子と、重々しい錠前のかかった格子扉だけ。記憶が正しければ、この牢獄の前の廊下の右と左の両方の突き当たりには大きな格子の嵌った窓があったはずだ。囚人が日中の暑さを乗り切るための配慮である。どちらからも日のひかりが差し込んでいないことを考えると、夜のようだ。それぐらいしか、今のハルが知れることはない。
 何をするどころか、傷が痛み、熱で頭が朦朧として体を支えていることさえもかなわない。力なく横たわり、ともすれば遠のいていきそうな意識の裾を懸命に掴んでいることしかできないのだ。その覆しようもない事実があまりにも悔しく、情けなくて視界が涙で歪む。
「何かできる。今度は、諦めない。絶対に」
 拳を握り、自己暗示をかけるように言葉を口に出す。手に力は入らず、吐き出された息は熱い。熱はまだかなりあるようだった。それでも、這うようにして進み、ハルは金属製の格子を両手で掴み、体を起こして息を大きく吸い込んだ。
「私は無実だ!」
 見張りの兵の姿さえも見えない、がらんどうに向かって叫んだ。兵がいるのは正面に真っ直ぐに伸びる通路の遥か先。声を上げると傷がひどく痛み、ハルは顔を歪めて胸を押さえた。
「ガイゼスは気高い志のもと建国されたのではなかったか! 既得権益の保守と差別に塗れた彼の大国から国を腐敗させる謀略だけを学んだか!」
 同じ台詞を幾度か繰り返したとき、鋭い痛みが胸に走った。うっと呻いて胸を見ると、白い間着に血が滲んでいた。じんわりと生暖かいものが衣を汚していくのが分かる。
「このような愚かな謀略にハル・アレンは決して屈せぬ!」
 それでも、声を上げた。上げ続けた。そのうちに、格子を握っていた手が意に反して勝手に開き、目蓋が下がってくる。視界がぼやけ、天と地の境があいまいになり、反転する。それが熱のせいなのか、血を流しすぎたせいなのかももうハルには分からなかった。
 緞帳が下りるように視界が暗くなっていく。まさに、幕が下りきろうとしたそのとき、前触れなく、黄金の波が視界いっぱいに広がった。
「ハル!」
 もう二度と聞くことのない声のはずだった。
「……セティ?」
 残されたわずかな気力を振り絞って顔と目蓋を上げてみれば、ガイゼスの兵装のセティが、そこにいた。遠のいていきかけていた意識が、急速に戻ってきた。
「助けにきた。逃げるぞ」
 セティは立ち上がり、剣を二閃させる。ハルの目の前で硬い金属製の格子がいとも簡単に斬れた。ふたたび屈みこんでハルの腕をとろうとするセティの腕を掴み、ハルは言った。
「そんなことをすれば、セティが────!」
 ハルの声は震えていた。
「時間がない」
 セティはあご下まで下げていた覆面を引き上げ、顔と髪を隠した。ハルを抱きかかえるようにして立ち上がらせようとしたとき、何かに気づいた。
「傷口が開いたのか」
 真っ白の間着に滲んだ血と、ハルの青い顔を見てセティは覆面の下で眉をひそめた。
 塔から下りる唯一の階段につづく一本道の奥から二人、見張りの兵士が現れた。セティは舌打ちしてハルを自分の背で隠すようにして庇い立ち、剣を振るった。それはハルが目視できないくらいの速さだった。二人の兵士は血を吹き上げて仰向きに倒れた。
「待って、待ってください。私を置いて逃げてください」
「何を言っている。今しがた自分は無実だと、屈しないと、叫んでいたのは誰だ」
「あれは方便です。あなたが無事ならば私の目的は果たせました。だから、私を置いていってください。私は、走れません。足でまといになる」
「だからって、ここでこのままむざむざ死ぬというのか! 走れないなら私が背負う」
 ハルは首を横に振った。そして、ゆっくり噛み締めるように言った。
「これが、ここが、私の運命です」
「運命?」
 せせら笑って、セティは吐き捨てた。
「そんなもの、私は信じない」
 セティは向き直った。
「いいか、よく聞け。私はハルを助けたいと思ったから、それを選んだんだ。でもそんなことはハルには関係ない」
「セティ……」
「だから、ハルはハルで自分で選べばいい。私のことも、過去もどうでもいい。今の自分の思いだけで選べばいい。ここで死ぬのか、生きるのか」
「選ぶ…?」
「さあ、選べ。時間はあまりやれない」
 セティは右手で剣の柄を握ったまま、左手を差し出した。覆面の隙間から、薄紫色のひとみが怖いくらいに真っ直ぐにハルに向けられていた。
 セティの背後の通路の先からまた複数の足音と喊声(かんせい)が聞こえた。セティもちらりと後方に視線をくれた。何人いるのか、正確にはハルには分からなかったが、少なくはない。しかし、セティは左手を差し出したまま、口中で数字を数えていた。
 ハルの中に、幼い頃アドリンドで母と過ごした記憶と、ガイゼスに王子として迎えられてからの記憶が蘇った。それから、あの刻み込まれた忌まわしい記憶。さらに、これまで彼らと過ごした数ヶ月間が走馬灯のように思い出され、それらが混ざり合い、弾けた。
 そのとき、ハルは手を伸ばし、差し出された白い手を固く握った。
 その瞬間セティが覆面の下にあの眩しいほどに晴れやかな笑みを浮かべたのが、見えなくてもハルには分かった。
 セティは力強く握り返した左手と、柄を握ったままの右手で抱きかかえるようにしてハルを立ち上がらせ、それから、背後の兵をちらりと見遣ってハルを背に庇いながらじりじりと通路を左手に後退した。降りるための階段は兵の後ろにしかなく、二人の先にあるのは格子のはまった大きな窓だけだ。
 セティとハルが一歩後退するたびに兵が一歩前に進み、間を詰めてくる。
「私を信じろ」
 呟いた瞬間、セティはハルの体を抱え踵を返し、すぐ後ろにまで迫っていた窓に向かって刃を二閃させた。やけにゆっくりしたハルの視界の中で、硬い金属製のはずの格子が再びいとも簡単に斬れた。その断面が高熱に当てられたかのようにどろどろに溶けているのをハルは場違いにも不思議だと思った。
 動揺した兵達の声を背に、流れるような動作で剣を鞘に戻したセティは両手でハルをしっかりと抱きかかえ、足元の石畳を蹴り、空中に躍り出た。セティに抱えられたハルの体はその力に逆らわず、同じように地上六十カベール(約三十メートル)の空中に飛び出した。
 ハルは兵の叫び声を聞いたような気もしたが、体を叩く風の音が鋭すぎてもうよく分からなかった。
 闇を切り裂き、二人は遥か下の地面向かって真っ直ぐに落ちていった。


シャングリラ─奔流─

シャングリラ第二部 雲間に続きます

シャングリラ─奔流─

不世出の美貌を持つ白皙の青年セティと、穏やかな空色の瞳に身の丈ほどもある大剣を背負った僧、リドルフは国境の狭間の町にいた。彼らを突然に訪ってきたのは国境の向こう側、ガイゼス王国の巡検使を名乗る細面の美少年、ハル。外見は当然、風俗や慣習、宗教も身分も違う異国人同士の彼らの出会いは成り行きで、唐突で――― けれど必然だった。「契約成立だ」そのとき、彼らの運命のダイスは投げられた。◆中世/シリアス/ハイファンタジー/成長/剣/魔法/群像劇

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • アクション
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-10-16

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  1. 序章
  2. 第一章 風神の加護を
  3. 第二章 巡検使
  4. 第三章 魑魅魍魎
  5. 終章 王都