【続章】 橙色のミムラスを、笑わない君に。  ~ 青の行方 ~ 

【続章】 橙色のミムラスを、笑わない君に。 ~ 青の行方 ~ 

■第1話 吸い込まれるように消えた華奢な背中

 
 
 
  『お、お兄ちゃんが・・・ 

   事故にあって・・・ 意識不明の重体、だって・・・。』
 
 
 
ジングルベルが遠く鳴り響くクリスマスカラーの夜の街に、シオリの青ざめた顔が
浮かび上がる。 呼吸は浅く息苦しそうに顔を歪め、コートの胸元をぎゅっと握り
しめるもガタガタと震えるその凍えた手には思うように力が入らない。
 
 
シオリはほのかに舞う淡雪ですっかり冷えたアスファルトの上に、腰が抜けたように
へたり込んだ。 真っ白なコクーンコートの裾が溶けた雪に汚れて滲む。
 
 
ショウタもシオリのその一言に呆然と立ち竦むも、慌ててシオリの横に跪き肩を抱いて
立ち上がらせる。 急速にスピードを増す心臓に呼吸困難になりそうになりつつも頭の
どこかでは冷静でいなくてはと自分をいなす。 自分がシオリを支えなくては、と・・・。
 
 
 
 『病院行くんだろ・・・? ・・・俺・・・ 送ろうか??』
 
 
 
シオリを覗き込むも、いまだ呆然自失の状態のその顔。
ゆっくりとシオリはショウタに目線を上げると、ゆっくりゆっくり瞬きをする。
 
 
そして、ぽつり。
 
 
 
 『ううん・・・ いい・・・。

  タクシーに乗って来るように、言われた・・・ から・・・。』
 
 
 
そう言って更に青ざめてゆく顔は俯いて、ただ足元をじっと見つめている。
 
 
『ちょっと、ココで待ってて! 動くなよっ!!』 ショウタは叫ぶように言うと
慌てて公園を飛び出し、車道へと駆けた。

クリスマス・イヴの街は混んでいて車の走行量も多く、どこもかしこも渋滞している。
一般車のヘッドライトが煌々と眩しい車道に、遠く、タクシーの行灯がチラリ見えた。
 
 
千切れんばかりに手を挙げ、タクシー運転手に向かって乗車アピールするショウタ。

中々進まないその渋滞に痺れを切らし、タクシーの元まで駆け寄るも既に乗客ありの
賃走中のサイン。
慌ててあたりを見渡し、目を凝らして他のタクシーを必死に探す。
 
 
焦る気持ちとは裏腹に、浮かれる聖夜の街はショウタの元へとタクシーを導いてはくれない。
この後、数台見付けたタクシーも全て乗客ありだった。
 
 
苦い顔で唇を噛み締め、ショウタがシオリをひとり残した公園へと駆け戻る。

イルミネーションが目映いそこでひとり、心細げに小さく小さくうずくまり肩を震わせる
シオリにショウタの胸が張り裂けそうに痛みだす。
 
 
 
 『ごめん・・・ タクシー、全然つかまんねぇ・・・

  あのさ ・・・少し、がんばって走れる・・・? 』
 
 
 
しゃがみ込んでシオリの肩に手を置くと、顔を上げたシオリは目に溢れるほど雫を
たたえて目も鼻も頬も真っ赤に染め、泣き暮れている。
 
 
 
 
  (チャリの方が、ぜったい早い・・・。)
 
 
 
 
『車じゃダメだ・・・。』 ショウタは自分に言い聞かせるように小さく呟くと
シオリの手を乱暴ににぎって走り出した。

駆けて駆けて駆けて、肺が爆発しそうに苦しいけれど、1分でも早くシオリを病院へ
届けてあげたい。
走りながらたまに振り返ってシオリの様子を確認するも、覚束ない足元でよろけながら
俯いている姿にその表情を見ることは出来なかった。
 
 
 
 
実家の八百安の前までダッシュでやって来たふたり。

ショウタは実家裏の物置前から慌てて自転車を引っ張りだすと、サドルに跨って
『乗って!!』 シオリに後部荷台を示す。
 
 
呆けたままなんの反応もせず、ヨロヨロと荷台に横座りしたシオリ。

『掴まって!!』 ショウタの切羽詰まった声色に、シオリは力無くなんとか背中から
抱き付き腰に手をまわして掴まった。
 
 
ショウタの腰にまわすシオリの手が、震えている。
ダウンジャケットの大きな背中に顔をうずめ、泣きじゃくっているのが伝わる。
 
 
 
 『ごめん・・・ ちょっと立ち漕ぎするから!!』
 
 
 
ショウタはペダルを踏み込む足に更に力を込めると、太ももとふくらはぎの筋肉が
緊張して硬く引き攣った。 体を左右に揺らしながら猛スピードで夜の住宅街を走る自転車。
サイクルライトの心許ない灯りも、暗い夜道に左右に揺れ照らす。
 
 
一気に駆け抜けたショウタの自転車は、静まり返った総合病院の前で急停車した。

慌てて自転車のサドルから下りると、急激にかかった負荷のため両足がガクガクと
震え思うように歩けない。 自転車を漕ぎ続けたショウタの呼吸は荒く乱れ苦しげに
体を屈め息をつく。 そしてよろけながらもシオリの腕を掴み、ショウタは救急出入口の
灯りへ向けて尚も駆けた。
 
 
窓口の小さな窓奥の職員にシオリを差し向ける。

促されるまま暗い院内の廊下に吸い込まれるように消えて行ったシオリの華奢な背中。
まるでシオリが別世界にでも連れ去られてしまいそうで、何故だか急に怖くなり
ショウタは振り返らないその背中へと叫んだ。
 
 
 
 『連絡して!! 何時でもいいから!!! 起きて待ってるから!!!』
 
 
 
ショウタの叫声が、静まり返った病院の冷たい空気に反響して虚しく落ちた。
 
 
 

■第2話 今夜がクリスマスでなければ

 
 
 
職員に連れられシオリは手術室前までやって来た。
 
 
薄暗い中 ”手術中 ”の赤色ランプが煌々と灯り、嫌味なほど磨き上げられた床に映る。
引っ切り無しに入れ替わり立ち代り出入りする看護師の姿が、ひっ迫感を煽る。

廊下の両脇に置かれた長椅子に、シオリの父であり病院長のソウイチロウと
母マチコの姿。 その向かいの長椅子には従兄弟のコウと、コウの両親もいた。
コウの父コウジロウはソウイチロウの実弟で、副院長でもあった。
 
 
顔面蒼白で駆けて来たシオリを目に、母マチコが泣きはらした顔を更に歪めて抱き付く。
マチコの背中に両手をまわして顔をうずめ、シオリも声を詰まらせむせび泣いた。
 
 
 
 
今夜、兄ユズルは、仕事を終え自宅に帰る途中ケーキ屋へ注文していたクリスマス
ケーキを受け取る為、いつもと違うルートを車で走行していたようだ。

渋滞するクリスマスカラー一色の街で、信号待ちで停まったユズルの車。
目に入った黄色信号にこのまま進もうと思えば進めたのだが、横断歩道に立つ
初々しいカップルの姿に思わず妹シオリを思い出し、ゆっくりブレーキを踏み込み停まった。

そこへもの凄い勢いで交差点に進入してきた飲酒運転の若者の車がノーブレーキで
突っ込み、ユズルの体はいとも簡単にフロントガラスと運転席の間に無情にも挟まれ潰された。
 
 
 
 
今夜がクリスマスでなければ、ユズルはケーキ屋がある別ルートを通らなかった。

カップルに微笑まなければ、黄色信号で律儀に停まることもなかった。

信号で停まり車道の先頭にいなければ、車に激突されることもなかったのだ。
 
 
 
 
助手席前のフロントガラスには、物凄い衝撃で叩き付けられたケーキの箱とつぶれて
飛び散った生クリーム。 母想いのユズルが買ったのであろう、ポインセチアが目映い
陶器鉢は粉々に砕け、花は根っこが剥き出しになり鮮血を浴びてくったり撚れている。

作動したエアバッグにより壊れたクラクションが延々警音を鳴らし続け、煌めく聖夜の
街に響くクリスマスソングに不快に混じる。 車内に散ったユズルの血色は大通りの
メインとなっている巨大クリスマスツリーを派手に装飾する無数のリボンの赤より
皮肉にも鮮やかだった。
 
 
 
 『私が・・・

  私が、ユズルに・・・ ケーキを受け取るの頼んでなければ・・・。』
 
 
 
本来は母マチコがケーキ屋に受け取りに行くはずが、たまたま予定より早く帰れる
ことになったユズルが代わりに店へ寄ってくれていたのだった。

顔を両手で覆い再び泣きじゃくる母マチコ。 その悲鳴のような泣き声が暗い廊下に木霊する。
 
 
 
『お前のせいじゃないだろ。』 父ソウイチロウが、マチコの肩へ手を置きなだめる。

それでも尚も首を横に振り自分を責め続ける半狂乱のマチコ。
シオリはそんな母に抱き付く腕に更に力を込めた。 母まで壊れてしまいそうで
怖くて怖くて仕方がない。

ぎゅっと目をつぶり、小さく呟いた。
 
 
 
 『大丈夫・・・ 

  絶対に大丈夫だよ・・・

  お兄ちゃんみたいな人、神様が見殺しにするはずない・・・。』
 
 
 
やっと喉から発した声は、その言葉とは裏腹に震えて心許なくて不安に満ちたものだった。
 
 
 

■第3話 傍にいたいのに

 
 
 
シオリを病院へ送り届けた後、ショウタは暫くその場から動けずに病院の救急出入口の
段差に腰掛けて呆然と佇んでいた。
 
 
ふと寂しげに見上げた冬の寒空は、上空の空気の流れの強さで星がキラキラと瞬き
明るい一等星が多くて星空の印象がより強い。

不安ばかりどんどん膨らんでゆくショウタには、ただただ哀しく映る満天の星。 
 
 
 
自転車を猛烈に漕いだ足はいまだガクガクと震えている。 乱れた呼吸がやっと鎮まるも
取り乱し泣きじゃくるシオリの小さな背中を思い出して、再び胸は痛みを甦らす。

勿論ユズルも心配だったが、シオリのことがどうしてもどうしても頭を離れない。
 
 
 
 
  (ダイジョウブなのかな・・・。)
 
 
 
 
頬に刺さるような冷たい夜風に、首元に巻かれたマフラーをそっと口許まで引き上げる。

大きく息を吸うと、ほんのりシオリのやさしい香りがかすめた。
胸が締め付けられぎゅっと強く目をつぶり、更に更に大きく息を吸う。
 
 
 
 
  シオリのことが、心配で心配で仕方がない。

  傍にいたい。

  許されるなら、求められるのならば、シオリの傍にいたいのに。
 
 
 
 
  (俺に・・・ なんか出来ること、ないかな・・・。)
 
 
 
 
それから暫く、ショウタは自宅に帰らずに病院の前にいた。

もし万が一シオリからメールでも来たら、”まだ病院前にいるから ”とすぐ飛んで
行けるように。 シオリを励ませるように、抱き留められるように。

ただじっと救急出入口の段差に腰を下ろし、背中を丸めて首をもたげていた。
それはまるで途方に暮れる迷子のこどものように。
不安で、怖くて、寂しくて。
これからどうしていいのか分からなくて、その場から動けない。
 
 
しかし、時計の針が深夜12時を過ぎ、ショウタの体が芯から冷えて凍え始めたとき
諦めたように静かに立ちあがり自転車のサドルに跨った。
 
 
何度も何度も確認したケータイ。

母親から帰りが遅いことを心配する電話が1本入ったが、それ以外はショウタの
ケータイを震わせるものは無かった。
 
 
ゆっくりペダルを踏み込み、病院の敷地を出たあたりでもう一度止まり振り返った。

暗い冬の夜空の下そびえ立つその巨大な建物が、シオリを飲み込んでしまいそうで
言葉に表せないモヤモヤしたものが胸に渦巻き不安で仕方がなかった。
 
 
 
自転車のハンドルをにぎる大きなはずの手が、まるでこどものそれのように心細く震えた。
 
 
 

■第4話 やさしい一言

 
 
 
それは深夜2時をまわった頃だった。
 
 
ショウタはベッドの枕元にケータイを置き、体は横にしつつも全く眠れずにいた。

目を瞑るも寝返りばかり繰り返し、その口からは自分でも気付かぬうちに溜息が零れる。
ケータイを掴み画面に触れるとその灯りに暗い室内がぼんやり光り、日付と時間以外
なにも表示がない画面が浮かんだ。
物哀しげに目を伏せて、再び枕元にケータイを置いた。
 
 
その瞬間、ショウタの耳にメール着信のメロディが響いた。
 
 
 
 
   From:ホヅミ シオリ

   T  o:明るく元気なストーカー

   S u b:

   本  文:もう寝たよね・・・?
 
 
            シオリ
 
 
 
ショウタは目を見開き勢いよくガバっと布団を蹴り起き上がると、慌ててシオリへ電話する。
震える指先が、シオリの番号を思うように指定できずに気ばかり急いて歯がゆい。
 
 
 『もしもし? ホヅミさん??』
 
 
 
 
 
シオリは、こんな深夜にメールすることを散々躊躇った。

病院からシオリひとりが自宅に戻ると、暗くて寂しいその空間にいつものそれとなにも
変わらないはずなのになんだか心細くて仕方がない。 小さな物音にもビクっと体を
強張らせシオリは泣きそうな顔を向けた。
 
 
本当は電話で話して声が聴きたかったのだけれど、寝ているところを起こしてしまったら
申し訳ない。 でも、どうしてもどうしてもショウタと言葉を交わしたかった。

もし寝ていてメールに気付かなければそれでもいいと、半ば諦め気味に送信したメール。
 
 
しかしすぐさまシオリのケータイを響かせたのは、メールではなく電話着信の
メロディだった。
 
 
 
 『・・・ヤ、ヤスムラ君・・・?』
 
 
 『ダイジョウブ??』
 
 
 
電話向こうのショウタの声は、寝ていたところを起こされた寝惚けた感じは全くない。

シオリの呼び掛けに語尾が被る勢いで発せられた心配するその一言に、きっと起きていて
くれたのだと思うと、シオリの胸に熱いものが込み上げる。
 
 
 
 
  (ヤスムラ君・・・。)
 
 
 
 
ショウタの耳に、電話越しにシオリが涙を堪える息が届く。
シオリは必死にその気配を隠そうと息を凝らしているけれど、ショウタは気付かないはずもない。

どうしようもなく胸が痛んで、シオリの迷惑になるかもしれないという可能性も考えず
咄嗟に震える喉の奥から言葉が出てしまった。
 
 
 
 『もう、家・・・? 

  あのさ・・・ もう少し起きてる? 今から、会いに行っていい・・・?』
 
 
 
『ぇ・・・。』 シオリは思ってもいなかったその一言に、驚き声を失う。

慌てて壁に掛かる時計に目を遣る。 今、時計の針はもう深夜2時をすぎていて、
当たり前に外は真っ暗で物音ひとつしない寒々しい世界なのだ。
 
 
 
 『家だけど・・・

  でもこんな遅いし、寒いし・・・ ヤスムラ君、大変でしょ・・・?』
 
 
 
シオリもショウタに会いたくて会いたくて仕方がなかった。
声が聴けただけで充分満足だったはずなのに、そんなやさしい一言につい甘えて
しまいそうになる。
 
 
すると、
 
 
 
 『行く!! 俺が、ホヅミさんに会いたいから・・・

  ・・・だから、今からチャリかっ飛ばして、行くから!!』
 
 
 
そう言うとプツリと切れた電話。
シオリの耳の奥にツーツーと通話が終わった機械音が鳴り続けている。
 
 
物音ひとつしない部屋でひとり、ゆっくり耳からケータイを離して通話終了のボタンを押した。

そして震える両手でケータイを包み、胸にぎゅっと押し付ける。
そっとつぶった目からは雫が伝い艶々の頬をカーブを描いて零れ、ショウタの声が
たった今まで響いていた左耳は真っ赤に染まっていた。
 
 
 
シオリはパジャマの上にコートを羽織ると、手袋をはめマフラーをして静まり返った
自宅の玄関をそっと抜け出した。
 
 
 

■第5話 夜中でも朝でも、いつでも

 
 
 
まるで時間が止まっているかのような無音の深夜の世界に、自転車のタイヤが軋む音が
遠く向こうから鳴り響く。 それに併せてサイクルライトが左右に揺れ、アスファルトを
ゆらゆらと不安定に照らすのがシオリの目に入った。
 
 
シオリの吐く息が顔の前で白く浮かんでは消える。 どんどん気温は下がってきていた。
冷えた頬も鼻も真っ赤になり、チリチリと刺すような痛みを感じる。

玄関の段差に腰掛けて小さく丸まりショウタを待っていたシオリが、弾かれたように
立ちあがり自転車の元へと慌てて駆け寄った。
 
 
 
 『なんで外で待ってんだよ・・・

  家の中にいれば良かったのに。 ケータイ鳴らすんだからさ・・・。』
 
 
 
眉根をひそめシオリの冷えた頬に手をあてるそんなショウタも、慌てて家を飛び出して
来たため手袋をするのを忘れ、氷のように冷え切ったハンドルにその手は真っ赤に
かじかんでいた。

また猛スピードで自転車を立ち漕ぎしたのだろう。 すっかり息が上がり苦しそうに
肩で息をして顔を歪めながらも、シオリの心配ばかりするそのあたたかい下がり眉。
 
 
そっと目を上げ、その大きな凍えた手を両手で包んだシオリ。

手袋越しではショウタの手をちゃんとあたためる事が出来ているのか分からなくて
シオリは手袋をはずすと、真っ白く細いその手でもう一度ショウタを包み込んだ。
 
 
 
 『ごめんね・・・。』
 
 
 
あまりにその不器用なやさしい手が硬く冷え切っていて、シオリの胸は容赦なく痛む。

大きくてゴツゴツした指の関節、短く切った爪、筋張った手の甲全てが愛おしすぎて
どう両手で懸命に包み込んでも、シオリの小さなそれではどこかもどかしい。
 
 
ショウタに一歩近付くと、ダウンジャケットの胸におでこを付けて体を寄せた。
 
 
 
 『なんで謝んのー・・・?

  俺が会いたいから、無理やり押しかけただけでしょー・・・。』
 
 
 
そう呟く自分の息がシオリに白く吹き掛かり、こんな凍てつくような深夜にシオリを
誘い出している事に不安が募る。

ショウタはダウンジャケットのチャックを下ろして胸を開き、細いシオリの体ごと
ダウンで包み込むと互いの体温がより近く感じられて、嬉しくてあたたかくてなんだか
泣きそうになってしまう。
 
 
大切そうにシオリ手編みのマフラーを巻く、ショウタの首あたりに顔をうずめ
シオリが小さく呟く。

首筋にほのかに感じるシオリの熱い息に、クラクラと眩暈がして暴走しそうになるけれど
まるで気にしてなどいない風に、なんとかショウタは平静を装う。
 
 
 
 『お兄ちゃん、ね・・・

  まだ、意識不明で・・・ 私だけ一旦戻って来たんだけど・・・
 
 
  明日の終業式、休むと思う・・・

  そのまま冬休みに入ることになりそう・・・。』
 
 
 
『そっか・・・。』 ”明日 ”と言いながらも、もう日付は12月25日になっていて
それは2学期の終業式の日だった。

『冬休み中は・・・? どうするの・・・?』 全く先行きが見えない感じに不安を
隠せない。 シオリが心配で仕方がなくて、訊いていいのものか分からないまま、
どうしても我慢出来ずに訊いてしまう。
 
 
 
 『・・・わかんないよ。』
 
 
 
涙声でそれは返された。

シオリの胸にも、今は不安しかない。
兄ユズルのことを考えると、なにも喉を通らないし呑気に眠りになどつけそうにない。
 
 
 
 『もし・・・ もし、俺に出来ることあったら

  なんでも言って? もし・・・ 今みたいに、会いたくなったり・・・

  話したくなったりしたら、すぐ、俺・・・ 飛んでくるから・・・

  ほんと、まじで・・・ 夜中でも朝でも、いつでも・・・

  ・・・飛んでくるから・・・。』
 
 
 
そのやさしすぎる声色に、シオリは涙が堪えられなくなっていた。

震える胸で思い切りショウタに抱き付くと、熱をもった熱いその首筋に更に強く顔を
うずめて小さく小さく呟いた。
 
 
 
 『傍にいてね・・・。』
 
 
 
熱い息が冷たい外気に触れた途端白く変化して、ふたりを隔てて流れて消えた。
 
 
 

■第6話 最後のページと同じ顔

 
 
 
奇跡的に一命はとりとめたものの、皆の願い虚しくいまだ意識が戻らないユズル。
 
 
殺気立つような物々しい空気が漂う集中治療室に横たわるその痛々しい姿は
無数の装置やコードに繋がれ、24時間モニタリングをする医療機器の電子音が
冷酷なまでに無情に響き渡り不安ばかりを煽る。
 
 
2学期の終業式を欠席し、そのまま冬休みに突入していたシオリ。

毎日毎日、朝から晩まで病院に通い詰めていた。
ユズルが最優先で心配なのは勿論だが、憔悴しきった母マチコが今にも倒れそうな
面持ちでなにも食べず眠らず病室から一歩も離れようとしない。

日に日に小さくなってゆくように見えるその母の背中を目に、自分がしっかりしなければと
いう思いは、シオリが思うよりずっと心労を増長させていた。
 
 
次第に、疲れきってゆく心と体。

なんてことない事に苛立ち、怯え、そして哀しくなり沈んでゆく。
八つ当たりと自己嫌悪を繰り返し、更に荒廃しクタクタになっていった。

そんなシオリを癒してくれるのは、やわらかいベッドでも、あたたかい風呂でもなく
ただひとり、ショウタだけだった。
 
 
 
毎晩、ショウタはシオリが病院から戻る10時頃になると、寒く暗い夜道を自転車を
立ち漕ぎし白い息を吐いてシオリに会いにやって来た。

何度、『ケータイ鳴らしたら家から出て来て』 と言っても、シオリはショウタが
やって来るのを待ちきれず、ひとり、外の玄関先の段差に腰掛けて待つ。
 
 
今夜も暗い住宅街をゆらゆらと照らす心許ないサイクルライトの灯りが見えると
嬉しそうに立ちあがり自転車の元へと慌てて駆け寄った。

まるでこの瞬間だけのために今日一日やり過ごしたかのように微笑むその顔は
どこか哀しげでショウタの胸を締め付けた。
 
 
 
 『だーかーら・・・ 風邪ひくから、中で待ってろって・・・。』
 
 
 
ショウタのデフォルトの下がり眉が、更に更に困り果てて情けなく下がる。

氷のように冷えた自転車のハンドルを握っていた手袋をはずし、そっとシオリの頬に
手を当てると、その陶器のように滑らかなすべすべの頬はやはり痛々しいほど冷え切っていた。
 
 
頬にじんわり伝わるショウタの大きくてあたたかい手のぬくもりに、シオリはそっと
それに手を重ねて潤んだ目でまっすぐ見つめる。

そして、『ごめんね・・・。』 今夜もまた、ショウタに一言謝った。
 
 
 
 『それ、毎晩ゆってっから!』
 
 
 
ショウタがどこか哀しそうに小さく笑う。
 
 
 
 『俺がホヅミさんに会いたいから勝手に来てるだけだって、

  何百回いえば分かってくれんの~ぉ・・・?』
 
 
 
やさしくてあたたかいその笑顔に、みるみるシオリの目には涙が込み上げる。
俯いてコクリ。ひとつ頷いて、真っ白い手の甲でその雫を拭った。
 
 
 
 
自転車を押して歩き、ふたりはシオリの自宅近くの公園へ向かう。

夜の暗い公園はすっかり葉が落ちた枯れ木が立ち並び、年季の入った少しくたびれた
木製ベンチが物悲しさを助長している。 公園入口に自転車を停めて、寂しげにぼんやり
あかりが灯る自販機でホット缶コーヒーを2本買うと、ふたりはいつも座るベンチに
寄り添って腰掛ける。
 
 
ショウタはダウンジャケットのポケットに手を突っ込むと、今夜もそれを手に取り
シオリへと差し出した。
 
 
『ありがとう・・・。』 シオリが両手で大切そうに包むそれは、ツヤツヤに輝く
萌葱色の青りんご。 あまり食欲が無いシオリも、この青りんごだけは必ず毎日食べていた。

酸っぱくて甘くて、やさしくて。 胸の奥がキュンと面映くなる。

ショウタの想いの結晶のように思えて、それを食べるとなんだか元気になれるそんな
気がしていた。
 
 
すると、
 
 
 
 『あ! そうだ・・・ コレ。』
 
 
 
そう言って、ショウタは他方のポケットに手を突っ込みなにか掴み取り出した。

その手の平の中には、長方形の暗記カードがあった。 英単語などの暗記用に用いる
端がカードリングで束ねられたそれ。
 
 
『ん?』 小首を傾げ受け取る。 ショウタから暗記カードなんか渡されるなんて。
勉強の心配をしてくれているのかと不思議そうにゆっくり表紙をめくると、そこには
下手くそな絵が目に飛び込んで来た。
 
 
『ぇ・・・。』 シオリが目を見開き、次々とページをめくる。
 
 
すると、カタカタとぎこちなく動く、大好きなパラパラ漫画がそこにあった。

新作のそれは、相変わらずハの字の困り眉のシオリが描かれているが、いつもの黒髪
ストレートではなく頭の天辺にグルグル巻きのなにかが乗っている。 きっとお団子ヘアを
描いたつもりなのだろう。

のちに登場したショウタは首元にマフラーを巻く姿。 情けない下がり眉で朗らかに
笑いその手には花を持っている。
 
 
 
 『これ・・・ ミムラス・・・?』
 
 
 
シオリが微笑みながらページを指差すと、『そうそう!』 と照れくさそうにショウタが笑った。
 
 
結構な枚数が描かれているそれ。 ゆうに100枚はあるだろう。
ふと何気なくショウタの右手に目を落とすと、中指にはペンだこが出来ていた。

大きな背中を丸め、懸命にこの小さな長方形の紙面にパラパラ漫画を描くショウタの
姿を想像する。 何枚も何枚も、シオリを笑わせるために何枚も・・・。
 
 
 
ページを最後までめくると、肩をすくめ嬉しそうにやわらかく目を細めたシオリ。

そっと身を乗り出すとショウタの腕を掴んで支えにして、その泣きたくなるほど
あたたかい頬に小さく小さくキスをした。
 
 
 
   最後のページに描かれていたもの。
 
 
 
シオリから頬にキスをされるショウタの似顔絵が、照れくさそうに頬をゆるめ
赤く染めて朗らかに微笑んでいた。
 
 
 

■第7話 やっと、ちゃんと笑った

 
 
 
暗記カードを大切そうにその手に包み微笑むシオリの横顔を見つめながら、
ショウタは哀しげに目を落とす。
 
 
 
 
  (痩せたなぁ・・・。)
 
 
 
 
元々細く華奢なシオリが増々痩せて心細いそれになってゆくのが、たまらなく心配で
底知れない不安が募る。 消えてなくなってしまいそうで怖くて仕方なくて、ずっと手を
にぎって離さずにいたい。 常に温度を通して確かめていたい。
 
 
『ちゃんと食べてる?』 という質問はもうクドいくらい重ねていた。 
その度に『食欲がない』 という返事は散々聞いた。

答えは分かっていても、どうしてもまた訊いてしまいそうになる。
 
 
 
 『ぁ。 あのさ・・・

  俺、な~んか腹へっちゃってんだよねぇー・・・

  ・・・マック付き合ってくんない?』
 
 
 
ショウタはダウンジャケットの厚みで膨らんだ腹を片手で押さえると、下がり眉の顔を
向けシオリを覗き込む。

『今から・・・?』 もう夜の10時過ぎなのに、こんな時間に食べる気なのかと
怪訝な顔を向けるシオリ。 ショウタは夕飯だってちゃんと食べたはずなのに。

『チャリで飛ばせば駅前のマックまで10分だから!』 半ば強引にシオリを自転車の
荷台に座らせると、ショウタはペダルを踏み込んだ。
 
 
 
 
 
24時間営業の駅前のマックは、こんな時間でもそこそこ客の姿は見て取れた。
 
 
レジカウンター前に立ち、バーガーのセットひとつとシオリが好きなホットカフェラテを
注文するショウタ。 空腹ではないシオリも、久々来たこの店に以前来た時のことを
思い出しどこか嬉しそうにショウタの隣に立つ。

この時間はテーブル席も空いていたけれど、前に草野球の帰りに初めてふたりで並んで
座った窓際カウンター席に再び腰掛けた。
 
 
カウンターに肘をつきバーガーの紙包みを半分めくって剥がし、大口開けてガブリと
豪快に齧り付いたショウタ。 ご機嫌な様子でチラリとシオリに目を遣る。

シオリはホットカフェラテの紙コップを両手に包みながら、美味しそうに嬉しそうに
もぐもぐ咀嚼するその横顔を盗み見て肩をすくめ微笑む。
 
 
すると、『はい、ひとくち。』 シオリの手から紙コップを奪って強引にバーガーを
そのピンク色の薄い唇に押し付けたショウタ。

有無を言わせぬその行動に、シオリは戸惑いながらも思わず口を開けてひとくち齧り付く。
 
 
 
 
  (よしっ!! 食った食った・・・。)
 
 
 
 
『美味しい?』 嬉々とした表情でシオリを見つめ、その問いの返事も待たずに今度は
ポテトを2本掴んで、まだバーガーを咀嚼中のシオリの口に押し込める。

その後も無理やり押し付けられた二口目のバーガーに、どこか困った顔を向け喉が
詰まりそうになって喉元をトントンと小さな拳で叩くシオリに、ショウタは自分の
コーラを差し出した。 さすがにちょっと乱暴だったかと、シオリの小さな背中を
やさしく撫でたショウタ。
 
 
シオリは、唐突に口に突っ込まれた食べ物をやっとゴクンと飲み込んだ。
少し苦しげに咳払いをするその顔は、前髪の隙間から困り眉が覗いている。
 
 
すると、ショウタがこの上なく嬉しそうに顔を綻ばせ、まっすぐシオリを見つめる。
 
 
そっと指を伸ばしてシオリの口横に振れると、そのゴツイ指先にはまたしても
マヨネーズが付いていた。 ショウタは今回は躊躇する隙を作らず、そのまま指を
パクっと口に咥えてそのマヨネーズを舐めた。
 
 
 
 『あああ!! バカっ!!!』
 
 
 
ショウタの手を止めるのが一歩遅れたシオリ。 真っ赤になって隣に座るショウタの
太ももを両手をグーにしてポコポコ殴り続ける。
 
 
 
 『ほっんとに、もう・・・

  ・・・バカなんじゃないの? もおおおおおお!!!』
 
 
 
シオリの照れくさそうに困り顔で口を尖らせる様子に、目をキラキラさせて夏休みの
こどものような顔を作りケラケラ愉しそうに笑い続けるショウタ。

そんなショウタにつられて、シオリも思わず呆れ果てて声を上げて笑ってしまった。
 
 
 
頬をピンク色に染めハの字に眉を下げ、眩しそうに目を細めてシオリが笑っている。
まるで、そこだけ陽の光が差しているかのように目映く感じた。
 
 
 
 
  (ぁ・・・ やっと、ちゃんと笑った・・・。)
 
 
 
 
なんだか泣き出しそうな情けない顔で、ショウタは殴られ続ける太ももの上のシオリの
小さな拳を包んだ。 いまだジタバタと動くその華奢な白いシオリの手をぎゅっと握る。
 
 
すると、ショウタは残っているバーガーにおもむろに大口で齧り付き、口横に思い切り
マヨネーズを付けた。

そして、チラチラとシオリに目で合図する。

ジロリ。そのわざと自分でマヨネーズを付けた悪戯っ子みたいなショウタを一瞥すると
シオリは一言呟いた。  『・・・ダサいわよ。』

トレーの上にあった紙ナプキンを掴み、ショウタの手に乱暴に押し付けそっぽを向いて
目の前の窓ガラスの向こうを見る。
 
 
それでも尚、シオリに向けてマヨネーズが付いた口を突き出し差し向けるショウタ。

無視しているつもりだったのが、しっかりガラス窓に映るその滑稽な姿に我慢しきれず
吹き出して肩を震わせ笑ったシオリ。 観念したように眉根をひそめて紙ナプキンを
1枚掴むとまるでこどものようなキラキラした顔を向けるショウタの口横のマヨネーズを
呆れながらやさしく拭った。
 
 
 
 『あれ? マヨネーズ付いてた??』
 
 
 
分かり易くとぼけるショウタに、呆れながらも愛おしい気持ちが抑えられないシオリだった。
 
 
 

■第8話 冷たくあざけるその声色

 
 
 
それから数日経つも、いまだ意識が戻らない集中治療室のユズル。
家族の疲労もピークに達し、皆一様に口を閉ざし空元気さえ見せることが出来なくなっていた。
 
 
そんな中、病院の院長室にホヅミ一族の面々が集合していた。

院長の、シオリ父ソウイチロウ。
母マチコ、そして副院長でもあるコウの父コウジロウ、そしてコウの母キョウコ。
コウの姿もそこには在ったが、シオリは何故かその場には呼ばれていなかった。
 
 
 
 『もし、万が一のことがあった時のことを、話し合っておかないと・・・。』
 
 
 
高級感漂う牛皮ソファーに深く腰を掛け、渋い顔を向けながら口火を切ったソウイチロウに
母マチコが信じられないといった顔を向け、目を見張って噛み付く。
 
 
 
 『万が一ってなんですかっ??

  ユズルが・・・ ユズルが、どうにかなるとでも言うつもり・・・?』
 
 
 
その目に涙をたたえて、マチコは口許に手を当て涙声を堪える。

『酷すぎるわ・・・。』 ぽろぽろと涙が零れる瞳は、夫ソウイチロウをまるで
憎むかのように眇める。
 
 
その場の緊張感走る空気に、一同が黙り込んで俯いた。
マチコのすすり泣く声だけが、静まり返った室内にソウイチロウを責めるように響き渡る。
 
 
コウの母キョウコがマチコの隣に移動して座り、その震える肩を抱く。

キョウコの目にも涙が滲み、息子を想う気持ちが痛いほど分かる同じ母親として
苦しく痛む胸を堪え切れない。
 
 
 
 『父親としてこんな事を言い出している訳じゃない・・・
 
 
  この病院に責任がある病院長として、

  先のことを考えておかなければならないんだ・・・。』
 
 
 
ソウイチロウの顔にも苦渋が浮かぶ。 眉間にシワを寄せ、目の下にはありありと
黒いクマが表れ、あまり寝られていない事が分かる。

愛する大切な息子を父親として心配しないはずなどない。 しかし、ソウイチロウには
経営者として病院を守る義務があった。 患者や病院職員をしっかり守っていかなければ
ならない責任が。 常にその重責と闘っている事に専業主婦のマチコは気付いていない。
 
 
すると、コウの父・副院長のコウジロウが静かに口を開いた。
その声色は至極冷静で、甥っ子ユズルの哀しい現実もどこか他人事のように響く。
 
 
 
 『私達の代はいいとしても、ユズル君に次は任せようと思っていたのが

  もしかしたらそれが難しいかもしれない、となると・・・
 
 
  他に任せられるのは、やはり・・・。』
 
 
 
そう呟き、コウに目を向けるコウジロウ。
ソファーに浅く腰掛けるコウの隣に置いたトートバッグから医学書が覗いている。
 
 
 
 『コウが医者になるのは確実だし、まぁ、ベストなのは・・・。』
 
 
 
コウジロウがそっと、兄ソウイチロウに目線を戻した。
 
 
 
 『シオリも医大を目指してることだし、

  ベストなのは、コウとシオリで病院を守っていくというのが・・・。』
 
 
 
すると、母マチコが眉根をひそめて顔を歪める。
応接セットのテーブルに手をつき前のめりになって、ソウイチロウに訴えるように言う。
 
 
 
 『シオリには・・・
 
  あの子には・・・ あの子の好きなように生きてほしいわ!!』
 
 
 
 
 
  ”私の・・・ 将来の、相手の人って・・・ 医者じゃなきゃダメ・・・?”
 
 
 
以前、シオリが泣き出しそうな顔を向け ”想う相手 ”を胸に秘めながら母マチコに
訊いたあの夜を思い出し、胸が締め付けられ苦しくてマチコは俯く。
 
 
最近の娘の様子に、母親として気が付かないはずがなかった。

恋をしているシオリがあまりにキレイでキラキラしていて、まるで自分のことの様に
マチコはそれをこっそり見つめ微笑み、心から応援していたのだ。
 
 
 
すると、すかさずコウが口を挟んだ。
 
 
 
 『俺はいいですよ・・・

  こどもの頃から、まぁ、冗談ぽくだったけど

  将来はふたりとも医者になって結婚する、みたいな空気は感じてたし。』
 
 
 
『で、でも・・・ シオリには・・・。』 すがるような目を向けるマチコへ、
コウは肩をすくめ小さく笑いながら言った。
 
 
 
 『おばさんが心配してるのって、

  もしかして、あの、八百屋の彼ですか・・・?』
 
 
 
父ソウイチロウには内緒にしておいた ”その存在 ”をコウは易々と公言した。
その瞬間、ソウイチロウの表情が一変しその場が凍りつく。
 
 
『なんの話だ?』 あからさまに怪訝な顔を作り、マチコに詰め寄るソウイチロウ。
俯いて口をつぐみ言いよどむマチコを横目に、コウがどこかそれを愉しむように言う。
 
 
 
 『シオリ・・・ 今、八百屋の同級生と付き合ってるんですよ。』
 
 
 
その一言に信じられないという呆れ顔を向けて、ソウイチロウは眉間にシワを寄せた。
コウジロウは口許に手を当てバカにしたように小さく笑い、慌てて声を殺す。

コウジロウを一瞥し不機嫌に小さく呟いたソウイチロウの一言は、あまりに冷たくて
あざける感じのそれだった。
 
 
 
 『なにを寝ぼけた事を・・・。』
 
 
 
 
 
自室でひとり、ベッドにうつ伏せになり暗記カードのパラパラ漫画をめくり微笑んで
ショウタを想うシオリは、まさか自分のいない所でそんな話がなされていたなんて
知る筈もなかった。
 
 
 

■第9話 胸騒ぎ

 
 
 
翌日、ユズルのベッド横に丸イスを置いて腰掛け見守るシオリの元へ、コウが姿を見せた。
 
 
まるでファッション雑誌から出て来たような、そのスタイル。 無地のカットソーの
上にテーラードジャケットを羽織り、スキニーパンツの脚は長くてモデルのようで。

どう見たってモテるだろうに、コウのそういう浮いた噂は聞いたことがなかった。
 
 
切れ長の涼しげな眼差しを向け、 『ユズル君、どう・・・?』 
疲れた顔を向けるシオリへ静かに問い掛けるコウ。
 
 
シオリは首を小さく横に振って、哀しげに目を伏せる。 その瞬間、形の良い薄い
ピンク色の唇がきゅっと噤まれた。

明らかにシオリの佇まいにも疲れの色が見えていた。 長い黒髪がしっとり垂れる
背中も肩も心細いほどに儚げで、少しでも乱暴に触れたら壊れてしまいそうだった。
 
 
すると、コウが 『ちょっとコーヒーでも飲みに行こう。』 とシオリの肩をそっと支えて
立ち上がらせると、院内に併設された簡素な喫茶コーナーへ促した。
 
 
 
 
 
病院1階の隅にあるその喫茶コーナーでは、数人の入院患者と見舞客がテーブル席に
向き合って楽しそうに談笑している。 15人も座ればいっぱいの狭いそこは、
メニューこそ多くはなかったが、唯一の病院食以外のものが口に出来る場所とあって
常に客がいてそこそこ活気がある。

コウはコーヒー、シオリはカフェラテを注文し、向かい合って座るとシオリがカップを
両手で包み込みながら、どこか遠くを見つめぽつりと呟いた。
 
 
 
 『お兄ちゃん・・・ どうなっちゃうんだろ・・・。』
 
 
 
その涙声は力無く足元に落ちる。

そっと俯いたシオリの瞬きに合わせて長いまつ毛がゆっくり上下し、つやつやの黒髪が
右胸にさらりと垂れ小さく揺れた。
内股のハの字になったニーハイブーツの爪先が、歯がゆく擦れ合いほんの少し汚れを付ける。
 
 
 
コウは、その儚くも目映いほど麗しいシオリの顔をまっすぐ見つめていた。
 
 
すると、コーヒーカップの取っ手を指先で弄びながら、まるでたった今思い出したかの
ようにどこか明るい表情を向け静かに言った。 それは朗報を伝えるような声色で。
 
 
 
 『家族会議開いたんだよ、昨日・・・。』
 
 
 
『・・・家族会議?』 シオリは足元に落としていた目線をコウへ向ける。
家族なはずの自分はそれに参加していない事に、なんだか異様に胸騒ぎがした。
 
 
 
 『この先の病院のことを考えたら、ユズル君の状況も状況だし・・・

  俺とシオリで病院を守っていくのがベストだって結論が出てたよ。』
 
 
 
『・・・え?』 言われた意味が分からず、訊き返すシオリ。
”俺とシオリ ”に違和感が拭い切れず、眉根をひそめてまっすぐコウを見る。
 
 
すると、ほんの少し口許を緩めたコウ。 目を細め色白の頬を緩めてどこか嬉しそうにさえ
感じる声色で、シオリへ弾むように言った。
 
 
 
 
 『ふたりで医者になって、結婚して、病院を守れって。 おじさんが・・・。』
 
 
 
 
そして、机下で組んでいたスラっと長い足を組み直し、少しシオリへと身を乗り出して
テーブルに頬杖をつき、まるで内緒話でもするかのように小声で続けた。

どこか愉しんでいるように聴こえる、それ。
 
 
 
 『おじさん、カンっカンだったよ・・・ 八百屋の彼のこと。
 
 
  だから、言ったろう~?

  シオリの相手は、医者じゃなきゃ認められない、ってさ・・・

  下手に期待させられちゃって・・・ カワイソ~ゥな青りんご君っ。』
 
 
 
他人の不幸を嘲笑うかのように、どこか清々しい顔をして背筋を伸ばすと
飄々とコーヒーカップに口を付けるその姿をシオリは呆然と見つめ、そして唇を
噛み締めて睨んだ。 膝の上で握りしめた拳は、力が入りすぎて指先が白くなり震える。
 
 
 
 
  (どうして・・・

   なんで、私の意見は無視なの・・・?

   そんな大事なこと、私に内緒で進めるなんて酷すぎる・・・。)
 
 
 
 
シオリは、咄嗟にショウタの顔を思い出していた。
朗らかに笑うショウタの底抜けに明るい、あのあたたかい笑顔を。

シオリに向ける笑顔も、笑い声も、大きな背中も、不器用な手も全部ぜんぶ・・・
絶対に手放さない、諦めたりなんかしない。
 
 
 
 
  (ぜったい・・・ ぜったい、そんなのイヤ・・・。)
 
 
 
 
うな垂れ俯き決して顔を上げようとしないシオリを、コウはどこか冷めた目で見ていた。
 
 
 

■第10話 少しずつ狂い始めた歯車

 
 
 
その夜、シオリがいつものように、ショウタと夜の公園でやさしい時間を過ごし
自宅へ戻るとそこには父ソウイチロウと母マチコの姿があった。
 
 
ここの所ずっと夜ひとりで病院から自宅へ戻り、誰の目も気にすることなくショウタとの
わずかな時間を大切にしてきたシオリは、居るはずもないと思っていた両親の姿に驚き
目を見張る。 咄嗟に、兄ユズルになにかあったのかと不安そうな顔を向けた。
 
 
すると、
 
 
 
 『こんな時間にどこに行ってたんだ?』
 
 
 
父ソウイチロウの低い声色に、問題点はシオリ自身なのだと瞬時に悟る。

一気に張り詰めるリビングの空気に、居心地の悪さが拭い切れない。
厳しく問いただすその父からバツが悪そうに思わず目を逸らし、口をつぐんだシオリ。
 
 
『八百屋の息子なんかと親しくしてると聞いたが。』 明らかに責めているその口調を
耳にシオリが顔を上げて目を眇める。 
 
 
 
 
  ( ”なんか ”って、なによ・・・。)
 
 
 
  『・・・だったら、なに?』
 
  
 
今までシオリは父親に反抗したことなど一度も無かった。

こどもの頃から厳しく育てられ口答えはおろか、父親に対してはあまり本音を言った
ことすらなかったのだ。
 
 
そのシオリの口調と声色に、慌てた母マチコが狼狽えてふたりの間に割って入るように
身を乗り出す。

はじめて見る娘のそんな反抗的な姿に、ソウイチロウが思い切り怪訝な顔を作り
口許を歪め目を眇めた。
 
 
 
 『お前は自分の立場が分かっているのか?』
 
  
 『・・・好きで病院の娘に生まれたんじゃないわ!』
 
 
 
ソウイチロウの言う ”八百屋 ”の意味を察し、シオリは苦い顔を向けて強く言い返す。

ふたりの間の張り詰めた不穏な空気に母マチコがひとり、オロオロと不安気に見つめるも
なにも出来ずに、再びソファーに座りただただ小さく背を丸めている。
 
 
 
 『ユズルがこうなった今、

  お前にも多少なりとも病院への責務が生じるくらい分かるだろ。』
 
 
  
 『そんなの分かんないよっ!

  医者にはなるよ・・・ がんばって勉強してゼッタイ医大には入る!
 
 
  でも・・・ 

  でも、なんで私の結婚まで左右されないといけないのっ??』
 
 
 
シオリはすがるような目で父を見るも、その厳しい顔は決して妥協するそれではない。

思わず母マチコへ助けを求めるように見つめるも、ただ哀しそうに目を逸らされた。
かばってはくれない弱い母に、失望しつつも心労を増やしている事にどこか心が痛む。
 
 
 
 『それに・・・

  私だって家族なのに・・・ どうして私は家族会議に呼ばれないの??
 
 
  私の将来のこと・・・

  どうして、私抜きで勝手に決められなきゃいけないの??』
 
 
 
涙に詰まりながら訴えても、父ソウイチロウにはシオリの切なる思いは伝わらない。
まるで ”親の言う通りにしていれば幸せになれる ”とでも言わんばかりに怒鳴られた。
 
 
 
 『お前はなにが不満なんだ?

  八百屋なんか、いっときの若気の至りだったと

  後になったら気が付くと言っているんだ!!』
 
 
 
”八百屋 ” ”八百屋 ”とソウイチロウの口から出る蔑むようなそれに、シオリは
我慢の限界とばかり、立ち上がって憎しみすら感じるような目を向け叫んだ。
 
 
 
 『八百屋の・・・ 八百屋のなにが悪いのよっ!!』
 
 
 
そして、リビングのドアを乱暴に音を立てて押し開けると、2階自室へと階段を駆け上がった。 

背中でソウイチロウの『まだ話は終わってないぞ』 という声が聴こえたが、それは
怒りと哀しみが混じるシオリの階段を踏み鳴らす大きな足音に呆気なくかき消され
リビングに響いて落ちた。
 
 
怒りに任せ荒々しく自室に飛び込み、ベッドに倒れ込み突っ伏したシオリ。
じわじわと悔し涙がその目に浮かび、唇を強く噛み締める。

すると枕元に置く情けない顔をしたくまのぬいぐるみが目に入った。 その殆ど無い
短い首には ”八百安”と描かれた手ぬぐいが大切そうに巻かれている。 あまりにやさしく
佇むそれに、どうしてもショウタに会いたくて会いたくて仕方がなくなった。

手を伸ばしぬいぐるみを引き寄せて潰れるくらい抱きしめると、その目からは堪え切れ
なくなった大粒の涙がつやつやの頬を転がり落ちる。
 
 
 
 
  (ヤスムラ君・・・。)
 
 
 
 
シオリは弾かれたように立ちあがると、ケータイだけその手に強く握りしめ部屋の
ドアを開け放った。 階段を慌てて駆け降りるとそのまま玄関へ向かいブーツに足を
突っ込み玄関ドアの内鍵を開けて、大きな音を響かせその硬く冷たい扉から逃げるように
飛び出した。
 
 
『シ、シオリ・・・?』 慌てて玄関へ駆け寄る母マチコの声が背中で聴こえた気が
したがシオリは一心不乱に深夜の住宅街へと駆け出し消えて行った。
 
 
 
 
 
 『もしもし・・・? どうしたの??』
 
 
こんな遅い時間に電話をしてきたシオリの涙声に、ショウタの胸に言い知れない不安が
よぎり心臓がバクバクと急速で打ち付ける。
 
 
 
ふたりの歯車は、少しずつ狂い始めていた。
 
 
 

■第11話 陽だまりのようなその空間

 
  
 
 『今から、行ってもいい・・・?』
 
 
電話向こうのシオリは泣きじゃくり、しゃくり上げて、言葉に詰まりながら必死に
呼吸を整えようとしている。

耳に聴こえる吐く息に、シオリが夜道を駆けている気配が伝わった。
 
 
 
 『え?? 今から・・・?

  なんかあったの?? てか・・・ それより今ドコ??

  こんな時間に危ないよ! すぐ行くから・・・

  どっか明るいトコで待ってろよ! 今、もう・・・ すぐ行くから!!』
 
 
 
自室でベッドにゴロンと寝転がりマンガを読んでいた部屋着スウェット姿のショウタが
慌てて体を起こした。 ケータイを耳に当てたまま部屋を飛び出し、玄関へ向かう。

古びた木造階段を2段飛ばしで駆け下りると、踏面がギシギシと軋む音が築40年の
だいぶガタがきている家中に響いた。

『電話切らないで、そのままにしてて!』 ショウタはそのまま玄関を駆け抜け、
暗く静まり返った商店街をシオリの家の方向へと全速力で駆ける。

ひと気のない夜の、商店と商店の間にぽつんと佇む弱々しい街灯の灯りが心細すぎて
灯りはともっているというのに寧ろその不安感をより煽る気がする。
 
 
こんな遅い時間にひとりでいるシオリに、何かあったらと思うと怖くて恐ろしくて
ショウタが握りしめ耳に当てるケータイがじっとりと手汗で湿ってゆく。
 
 
『今ね、コンビニに来た・・・。』 シオリがいまだ震える涙声で小さく電話向こうで
呟いたその一言に、ショウタの駆ける足は更にスピードを上げてアスファルトを蹴った。
 
 
やっと見えたそのコンビニは、真っ暗な冬空の下そこだけ嫌味なほどに煌々と明るく
今まで全速力で駆けていた物寂しげな街灯に照らされた夜道とは別世界のように感じる。

店内の雑誌コーナー前に、居場所無げに小さく身を潜めるように佇むシオリの姿が
目に入った。 ショウタの姿を探して、ガラス窓越しに不安気に外を覗いている。

ショウタは自動ドアにぶつかる勢いで慌てて飛び込むと、眉根をひそめてシオリに駆け寄る。
 
 
夜道を走り続けたショウタの肺は爆発しそうに苦しくて、膝に手をつき体を屈めて
ゼェゼェと荒い呼吸を繰り返す。 顔を歪めながらシオリへ目を遣ると、泣きはらした
赤い目でまっすぐ見つめられて、ショウタはなにも言えなくなってしまった。
 
 
本当は心配する気持ちに混じり、ほんの少し怒ってもいた。

こうやって無謀に夜道を駆けて来る前に一本連絡をくれれば、いくらでも迎えに行くのにと
いう思いが喉元まで込み上げるも、とにかく無事に会えた安心感で胸がいっぱいになる。
 
 
互い、繋げたままだったケータイを画面に指先で触れてそっと切った。
 
 
 
 『コートも着ないで、なにやってんだよ・・・。』
 
 
 
シオリの小刻みに震えるセーターの細い肩に手を置き、不安気に覗き込むショウタ。

ケータイだけ引っ掴み慌てて家を飛び出して来たシオリは、上着を羽織ることも忘れて
ショウタの元へ駆けて来ていた。
 
 
『ごめんね・・・。』 ショウタを見つめ更に涙をこぼすシオリ。

シオリを咎めるショウタもまた、くたびれたスウェット姿でダウンジャケットは着ていない。
シオリに貸す上着を自分も着ていないことに今気付いたショウタが、バツが悪そうに
顔をしかめ情けなく口をつぐんだ。
 
 
そして、
 
 
 
 『とにかく・・・ 寒いし、ウチ来て。』
 
 
 
小さく呟きコンビニレジ横のホット缶コーヒーを1本買うと、それをシオリの凍えた手へ
差し出して、もう一方の手を強くにぎり再び来た道を戻って行った。
 
 
 
 
 
『悪りぃ! ちょっとコタツ貸して!!』 八百屋裏の自宅玄関から居間へ上がり
こたつで背中を丸めテレビに見入っていた両親を追い出すようにショウタがまくる。

『遅くにすみません・・・。』 シオリの泣きはらした赤い目を見て、ショウタ母は
只事ではない感じを察し、事情は何も聞かずにそっと台所へ立ちヤカンにお湯を沸かし
熱いお茶を淹れる。
 
 
 
 『ほんとに・・・ 迷惑かけてごめんね・・・。』
 
 
 
すっかり見えてしまっている困り眉が哀しげに更に下がり、小さくすくめる肩がいまだ
寒さにカタカタ震えている。
腰から下はこたつの暖かさにほどかれてゆくが、上半身はまだ冷え切っていた。

お茶を淹れた湯呑を差し出すと、自分の着ていたちゃんちゃんこを脱ぎ、後ろから
シオリの肩にそっと羽織らせたショウタ母。 
そして、やさしく肩をなで微笑むとショウタ父とふたり居間を出て寝室へと静かに
消えて行った。
 
 
『とにかく、お茶でも飲んで・・・ あったまるから。』 ショウタのぬくもり溢れる
やさしい声色に再び涙が込み上げ、シオリは俯く。 泣いてばかりいたら更にショウタを
困らせてしまうのは分かっているのに、そのあたたかさと安心感に涙が止まらない。

冷え切った指先で涙を拭うと、両手で湯呑を包んでお茶の湯気に哀しげに目を細めた。
 
 
 
はじめて入ったショウタの実家。

庶民的で、まるで陽だまりのような温かみのあるその空間。 いまだブラウン管の
テレビの上にはショウタと妹の幼い頃の写真が立て掛けられ、壁にはショウタ父が
火災の消火活動に協力した際に貰った感謝状が誇らしげに飾られている。 

そして、そこかしこに飾られた植木鉢の花々。
シオリの大好きな橙色のミムラスも、溢れんばかりに電話台横に佇んでいた。
 
 
 
 『あったかいお家だね・・・。』
 
 
 
ここにいると、なんだか心がどんどん解きほぐされてゆく気がした。
トゲトゲになった自分が、まあるく、やさしく溶けてゆく。
 
 
『え?そう?? こたつだけだから寒くね??』 意味が通じていないショウタに
シオリはクククと肩をすくめて愛おしそうに小さく笑った。
 
 
 

■第12話 未来も、ずっと

 
 
 
熱いお茶の湯呑を両手に包んだまま、シオリはなにも言わない。
 
 
小さく吸って吐く互いの呼吸の音だけ響き、まつ毛が上下する瞬きの音すら聴こえ
そうな程ふたりがじっと佇む居間は静まり返っていた。
 
 
その切なげな横顔を、ショウタはただ黙って見守っていた。
シオリが口を開くまでは、シオリが話したくなるまでは、ただ黙って寄り添っていようと。
 
 
『妹さんがいるんだね・・・?』 テレビの上に飾られた写真立てにそっと目を遣り
シオリがやさしく顔を綻ばす。 『見てもいい?』 こたつから出てその写真立てを掴んだ。
 
 
家族旅行でも行った時の写真なのだろうか。 少しだけセピアに色褪せた、それ。

景色の良い場所で小学生くらいのショウタと、園児くらいに見える妹が満面の笑みで
ピースサインをしている。 野球帽を被り、Tシャツに半ズボン姿で体のサイズは
小さいけれど顔は今とまったく変わっていないショウタに、シオリが可笑しそうに
肩をすくめてクスクス笑った。
 
 
『なーに笑ってんだよ!失礼だなっ』 シオリが笑ったことが嬉しくて仕方ないショウタ。

もっともっと笑わせたくて、笑顔を見たくて、小学生当時の情けないエピソードを
自信満々に色々語りはじめる。
 
 
 
母親似の気の強い4才下の妹に、よく泣かされていた事。

真顔を向けているつもりなのに、小学校の担任に ”ニヤニヤするな ”とよく叱られた事。

一方的に好きな女子にしつこくバレンタインにチョコをねだって、更に嫌われた事。
 
 
 
ふたり、仲良くこたつに入り声を上げて笑い合っていた。

こたつの中で伸ばした互いの足先がたまにチョンと触れて、照れくさそうに慌てて離す。
壁に掛かった古い柱時計の時を刻む音が笑い声に混じり、花で溢れる狭い居間に響く。
しかしそれは、どこか現実逃避にも感じる物哀しげな笑い声だった。
 
 
シオリは体をよじらせて笑い続ける。 可笑しくて可笑しくて、止まらない。

愉しそうにケラケラ笑いながらも、幼いショウタの隣には自分がいない事にどこか
寂しさを隠せない。
小学生時代のショウタの隣にも、いつも自分がいたかった・・・
 
 
 
過去も、現在も、そして未来も。
 
ショウタと一緒がいい。 いつも、一緒がいい。
 
 
 
 
 
   未来も、ずっと。

   ショウタと一緒がいい、のに・・・
 
 
 
 
急に黙り込んで俯いたシオリがショウタをまっすぐ見つめて、ぽつり言った。
 
 
 
 
 『ねぇ・・・

  私と一緒に、逃げる気・・・ ある?』
 
 
 
 
訴えるような、すがるようなその視線。

今の今までケラケラ愉しそうに笑っていたその声色が、突然抑揚のないそれに変わり
ショウタは驚いて目を見張りシオリを見つめ返す。
 
 
 
 
 『ぜんぶ捨てて・・・ 逃げる気、ある・・・? 私と、一緒に・・・。』
 
 
 
 
『え・・・ どうゆう意味・・・?』 ショウタが途端に不安そうな顔を向けた。

シオリの顔は冗談を言っているようなそれには全く見えない。
思い詰めていて、哀しげで、今にもまた泣き出しそうで。 ショウタの体は得体の
知れない恐怖に縮み上がるような感覚を覚える。
 
 
なんて返していいのか分からず困惑顔を向け言いよどんだショウタへ、シオリはそっと
俯き再び湯呑をその手に包んで、肩をすくめ小さく笑った。
 
 
 
 『うそうそっ。 冗談だよ・・・。』
 
 
 
そう呟くシオリの瞳がまるでガラス玉のようで、感情が読めなくて、言い知れない不安と
胸騒ぎにショウタはただただ呆然とその人形のように美しい横顔を見つめていた。
 
 
 

■第13話 窓ガラス一枚挟んだ言葉

 
 
 
マナーモードにしていたシオリのケータイが狂ったように振動する。
 
 
母マチコからの、引っ切り無しに掛かってきていた心配しているであろう電話に
そろそろ限界かとシオリは静かに電話に出た。
 
 
 
 『ダイジョウブ・・・ 

  うん・・・ 分かった、もう帰る・・・

  うん・・・ タクシーに乗るよ・・・。』
 
 
 
電話向こうの母マチコは、オロオロと狼狽え泣いていた。

それでなくとも兄ユズルの事で心労は想像を超えるのに、更に追い打ちを掛けるように
気弱な母を心配させてしまった事に、シオリの胸もやり場のない八方塞がりに切なく痛む。
 
 
『お母さんから・・・?』 ショウタが壁に掛かった時計に目を遣ると、もう深夜1時半だった。
時間を気に掛けてあげられる余裕など全くないくらいシオリの様子は普通ではなくて、
ショウタはさぞかし心配していたであろうシオリ母を思う。

コクリ。小さく頷いて、シオリがそっとショウタを見つめる。
その救いを求めるような目の奥には、哀しく気鬱な色しか見えない。
 
 
 
 『あのさ・・・ ほんとに、なにがあったの・・・?

  ・・・なんか出来ることあったら、言って・・・?』
 
 
 
ショウタは自分の知らない所で起こっている ”なにか ”に恐怖しか無かった。
シオリをこんな風に塞ぎ込ませる、寒心に堪えない ”なにか ”が。

きっとそれは、シオリに関わることであり、自分にも少なからず影響があるはずなのに。
 
 
俯き眉根をひそめて、それ以上一切口を開かないシオリ。
口端に力が入っているのが頬の緊張具合で分かる。 長いまつ毛が微かに震える。
 
 
 
 
  (私が、絶対にお父さんを説得してみせる・・・

   ヤスムラ君と、離れたりなんかしない・・・。)
 
 
 
 
暫く黙って目を落としていたシオリが、顔を上げてまっすぐショウタを見つめた。
その目は先程までの哀しい色はない。 強い意志が宿り射るようなしっかりとしたそれ。
 
 
 
 『・・・ダイジョウブだよ・・・ 
 
 
  ダイジョウブ・・・ ごめんね、遅くに。

  ほんとにほんとに、ありがとう・・・
 
 
  お父さんとお母さんにも、くれぐれも宜しく言っておいて・・・。』
 
 
 
まるで自分に言い聞かせるように、説き伏せるかのようにそう言うと、呼んだタクシーの
到着の気配にシオリは静かにこたつを出て玄関へ向かう。

その細い背中を不安気に追いかけ、ショウタも玄関先でツッカケを履いて一緒に外に出た。
 
 
 
物音ひとつしない漆黒の闇の中に、タクシー停車のハザードランプがチカチカ浮かび
アスファルトに建物の壁に、その赤色が反射して光る。 
後部ドアが開いてシオリが静かに後部座席に乗り込んだ。
 
まだ交わしたい言葉があったのに、どこか冷たくバタンと閉まったドアの窓ガラスに
その大きな手をつき、ショウタは中のシオリに呼び掛けた。
 
 
 
 『ほんとに・・・ なんかあったら、すぐ言って?

  俺に出来ることあったら、なんでも、いつでも・・・。』
 
 
 
すがるように窓ガラスに貼り付き、いつまでも車から離れないショウタにシオリが
小さく微笑んで瞬きで頷いた。 その瞬間、エンジン音を立て静かに動き出したタクシー。

ショウタは暫く動けずにその場に佇み、赤く滲み小さくなってゆくタクシーの
テールランプをいつまでもいつまでも見つめていた。
 
 
 
窓ガラス一枚挟んだシオリの顔が頭から離れなかった。
動き出す直前に小さく呟いたその薄いピンク色の唇は、確かにこう動いた。
 
 
 
 
   ”私に、まかせて ”
 
 
 
 
『なにを任せるんだよ・・・。』 ショウタの胸を仄暗くするその疑問は、実に呆気なく
コウの来訪によりショウタの知るところとなるのは、その翌日の事だった。
 
 
 

■第14話 なにかが起こっている気配

 
 
 
シオリが突然深夜に訪ねて来た、その翌日。
 
 
まだ冬休み中のショウタは、母親に頼まれ半ば強制的に八百屋の店番をしていた。
 
 
逆さにした黄色いビールケースに浅く腰掛けて、寒そうにダウンジャケットのポケットに
手を突っ込み背中を丸めるショウタ。 午前中はまだ買い物客の姿は少なく疎らだった。

配達に向かうスクーターや段ボールを乗せた台車を押す姿など、どう見ても客より
商売人の方が多く通る店前の見慣れた風景。
店に立っていても立たなくても変わりない程のそれに、気怠そうに大口開けて欠伸をする。
 
 
突然吹き付けた冷たい冬風に、そっと首元のマフラーを口許まで引き上げたショウタ。

かすかにシオリの香りがかすめて、昨夜のこどもの様に泣きじゃくったり、かと思えば
感情が読み取れない表情をしたりする姿を思い出して再び不安と恐怖が胸に甦った。
 
 
なにかが起こっているのは確かなのに、それを知らされない事にジレンマを覚え
物憂げに溜息を落とす。 再び首をもたげ、眉根をひそめてそっと目を伏せた。
 
 
すると、ぼんやり俯いて足元の汚れたスニーカーに目を落としていたショウタに
ツヤツヤに磨かれた革靴が目に入った。 小さめのキャップトゥ、節度のある
クラシックなデザインながら、どっしりとした佇まいで一目で高級だと分かるそれ。
 
 
 
『すみません。』 呼び掛ける客の声が聴こえ、 

『ぁ、いらっしゃい・・・。』 慌てて目を上げた。
 
 
 
すると、そこにはいつかの雨の日にシオリを迎えに来た医大生の従兄弟が立っていた。
 
 
『ぁ・・・ どうも。』 驚きつつも小さく呟いて首を前にピョコっと出し会釈をし、
『あ、えーっと・・・ なんにしますか?』 今は店番中で、相手は買い物客だったと
気付きポケットから手を出して、色とりどりの野菜に目を向けるショウタ。
 
 
 
 『ごめん、買い物に来たんじゃないんだ・・・。』
 
 
 
そう目を細め微笑んで言うその姿は、すぐさま続ける。
 
 
 
 『ぁ・・・ 俺、名乗ってなかったよね?

  ・・・ホヅミ コウ。 シオリの従兄弟です。』
 
 
 
ショウタも慌てて『ぁ、あの・・・ ヤスムラです・・・。』 よく分からないまま返した。

すると、コウは再び頬に笑みを作って言った。
 
 
 
 『青りんご君に、ちょっと話があって来たんだ。』
 
 
 
 
  (・・・俺に、話???)
 
 
 
 
名乗ったにも関わらず ”青りんご君 ”と呼ぶその声色が、どこか馬鹿にしている感じが
して普段温厚なはずのショウタもなんとなく胸に引っ掛かる。
コウが頬に浮かべる微笑みも、自然に見えるように繕った感じが逆に不自然で気味が悪い。

それよりなにより、コウがショウタへなんの話があるというのだろう。
 
 
 
 『すいません・・・

  ちょっと母ちゃんに頼まれて今、店番してて・・・

  あと1時間くらいしたら母ちゃん戻るんで、それからでもいいですか?』
 
 
 
コウは左手首のコートをずり上げ、高級腕時計にそっと目を落とす。
大学生が付けられるようなものでは無いそれに、ブランド品に疎いショウタでさえもたじろぐ。
 
 
『じゃぁ、1時間後に駅前のコーヒー屋に来てもらってもいい?』 コウの切れ長の目が
ショウタを覗き込むように見る。 どこかシオリに似たその雰囲気にショウタは本当に
従兄弟なのだと心の中で再確認していた。
 
 
『分かりました。』 そう返して、去ってゆくコウの高級そうなコートの背中をじっと見ていた。
 
 
昨夜のシオリといい、コウといい、やはり確かに ”なにか ”が起こっている気配に
ショウタの胸は大きく跳ね打ち付けて、せわしない浅い呼吸に苦しげに目を眇めていた。
 
 
 

■第15話 インフルエンザ程度

 
 
 
駅前のコーヒー屋に、コウとショウタが向き合って座っていた。
 
 
 
冬休み中ということもあり、学生の姿が多く見て取れる店内。

騒がしい声から少し遠ざけるように奥の席に向かったコウ。 ショウタはコウとふたりと
いう不思議な状況が落ち着かなくて、出来れば向こうの騒がしい学生たちの方の席に
座っていたかった。
 
 
 
 『急に悪かったね・・・。』
 
 
 
その穏やかな声色は、相変わらず余裕を感じる。 余裕の中に、どうしても蔑んでいる
感じがするのはショウタの気のせいではないように思える。
 
 
『・・・話って、ナンですか?』 まだ向き合って座った直後なのに、ショウタは居心地の
悪さに耐えられず、早く事を済ませてしまいたくて先を急ぐ。

正直言ってドリンクなんか飲まなくてもいいから、1秒でも早くこの場から去りたかった。
 
 
すると、そんなショウタを見透かすようにコウは小さく笑う。

そして、それを逆なでするかのように静かにカップに口を付け、ひとくちコーヒーを
飲んでまっすぐショウタを見た。
 
 
 
 『この間ね、ホヅミ家の家族会議があったんだ・・・

  ユズル君がああなって、病院の今後のことを話し合ったんだけどね・・・。』
 
 
 
相槌を打ちながら、ショウタは何故病院の今後の話を自分が聞かされるのかを必死に
頭を回転させて考えていた。
 
 
 
 『病院を支えていく次世代は、俺とシオリだってことになって・・・。』
 
 
 
『はい・・・。』 医大生だというコウが医者になるのは間違いないのだろうし、
シオリも医大受験に向けて懸命に勉強しているのは知っていたショウタ。

”だから何? ”という気持ちが正直に顔に出てしまっていたのか、コウが口許を
緩めて更に笑う。
 
 
もうひとくち、ゆっくり流れるような所作でコーヒーカップに口を付けたコウ。
静かにカップをソーサーに置くと、カチリと小さく音が鳴った。
 
 
 
 『・・・でね、もうひとつ家族会議で決定したことがあるんだ。』
 
 
 
『はぁ。』 少し背中を丸めてカップを掴み、注文したシオリの好きなカフェラテに
口を付けたショウタの耳に、一拍置いて、それは嫌味なほど滑舌よくハッキリ響いた。
 
 
 
 
 
   『俺とシオリが結婚して、ふたりで病院を守っていくようにって

    シオリの父親でもある病院長から指示が下りたんだ・・・。』
 
 
 
 
 
 
   『え・・・・・・・。』 
 
 
 
 
 
 
ショウタはせわしなく瞬きをして、たった今聴こえたそれを咀嚼する。
なにかの聞き間違えかと、何度も何度も頭の中で、繰り返し繰り返し。
 
 
その信じきれていない様子に、コウが目を細めながら明るく続けた。 
それはまるでどこか愉しんでいるかのような声色で。
 
 
 
 
 
   『従兄弟同士の結婚は、法律で認められてるんだよ?』
 
 
 
 
 
   『け・・・ 結、婚・・・?』 
 
 
 
 
ショウタの大きなたくましいはずの手が、はじめは小刻みに、次第にブルブルと痙攣
するように震えだす。
コーヒーカップの取っ手を掴むのでさえ危なっかしくて、慌ててテーブルの上にそれを置いた。

そして口許に手をやり、一点を見つめて目を見開いたままなんの反応もしなくなった。
 
 
 
 『シオリには前々から言ってたんだよ。

  シオリの相手は医者じゃなきゃ認められない、ってさ~・・・

  青りんご君にヘタに期待させたら可哀相だって・・・
 
 
  あれだけ言ってたのにさぁ~

  結局、俺が思った通りになっちゃって・・・。』
 
 
 
ショウタのゴクリと息を呑む音がハッキリ響いた。

みるみる青ざめてゆくその顔をコウは片肘をついて覗き込むように見ると、
笑っているような声色で矢継ぎ早に畳み掛けた。
 
 
 
 『だから、君には申し訳ないけど・・・

  そうゆう事情だからキッパリ諦めてくれない? シオリのこと。』
 
 
 
いまだ、なにも反応しない俯いたままのショウタ。
 
 
『理解できたかなっ?』 まるで数学の方程式でも説明したかのような軽い口調に
ショウタが顔を上げ思い切り睨んだ。 怒りに震え歪んだ顔は真っ赤に染まっている。
 
 
 
 『・・・それは、俺とホヅミさんふたりの問題なんで。』
 
 
 
低く唸るような腹の底から出た声色に、コウは待ってましたとばかりに厭らしく
ギラギラと目を光らせて応戦する。
 
 
 
 『それは違うよ。

  これは病院の存続に関わる重大な問題だ・・・

  ふたりの ”恋愛ごっこ ”は、コッチとしては正直言って範疇に無い。』
 
 
 
『ごっこ・・・??』 あからさまに憤激を含んだショウタの愕然とするかの様な
その声色に、コウはクスクス笑う。 
 
 
 
 『ほら、よく言う ”風邪 ”みたいなもんだろ~?

  高校時代の甘酸っぱい恋愛ごっこ。

  ぁ、”風邪 ”は失礼かな・・・? ”インフルエンザ ”くらいにしとく?

  甘~ぁい思い出は大切だから、しっかり胸に焼き付けときなよ・・・。』
 
 
 
そう言って、ケラケラと肩をすくめて笑うコウは、まるで作り物のようにキレイで
冷たい顔をしていた。 本当に同じ赤い血が通っている人間なのかと思うような
真っ白い能面のようなそれ。
 
 
ショウタはテーブルを叩きつけて勢いよく立ちあがった。 店内に響いていたはずの
BGMが一瞬止まったように思えるほど殴音だけそこに反響し、客が一斉にショウタの
方を固唾を呑んで見つめる。

全身から溢れ抑えきれない怒りにブルブル震える拳を握りしめ、コウを嫌忌の目で
睨みつけたショウタ。
 
 
『っざけんな。』 立ち去る前に吐いた最後の咆哮は、コウを更に面白がらせ悦ばせる
には充分すぎる程の憎悪のそれだった。
 
 
 
自動ドアを乱暴に出てゆくショウタのいきり立つ背中を見つめながら、コウはイスに
ゆったりと深く座り直し、すっかり冷えてしまったコーヒーカップをどこか愉しそうに
クルクルと指先で廻していた。
 
 
 

■第16話 ただならぬ様子

 
 
 
怒りと哀しみで気が狂いそうになりながら、コーヒー屋を飛び出したショウタは
すぐさま尻ポケットに突っ込んだケータイを乱暴に取り出しシオリへと電話を掛けた。
 
 
6コール目でやっと電話に出たシオリ。

この時間帯は病院に詰めているのが分かっているショウタは、いつもなにかあったら
メールをしてきていたのに。 シオリは不思議そうに通話ボタンを指でなぞる。
 
 
 
 『今から会えない・・・?』
 
 
 
その切羽詰まったような少し怖い真剣な声色が耳に低く響き、シオリはどこか身が竦む。

『まだ病院だよ・・・?』 恐る恐るそう返すも、『そっち行く!』 語尾が重なる勢いで
怒鳴るように返って来る返事。 
 
 
 
 『ねぇ・・・ ど、どうしたの?』
 
 
 
そんな怖いショウタははじめてでシオリは萎縮してしまっていた。
明らかに電話向こうのショウタは、いつもの朗らかな陽だまりのようなショウタではない。

『とにかく行くからっ!!』 そう言って、シオリの返答も待たずに乱暴に切れた電話。

シオリは耳から離したケータイをじっと見つめていた。 怖くて不安で、胸がざわざわ
ざわめいていた。
 
 
 
 
30分程してショウタが息を切らして駆けてやって来た。

集中治療室前の廊下のソファーに、どこか不安気に小さく腰掛けて待っていたシオリ。
廊下向こうからやって来るショウタの姿にシオリは立ちあがって駆け寄り、泣きそうな
面持ちで眉根をひそめて顔を覗き込む。
 
 
 
 『ねぇ・・・ どうしたの? なんか・・・ 怖いよ・・・。』
 
 
 
すると、ショウタは病院職員や患者がひっきりなしに通る廊下の真ん中でシオリを
思い切り強く抱きしめた。

華奢なシオリを壊してしまいそうな程の、息苦しいくらいのその腕の力。
全速力で駆けて来た為に激しく打ち付けるショウタの心臓の鼓動が、シオリのニット
越しの胸に伝わる。 
はじめてのショウタの荒々しく乱暴な行為に、シオリは背を反らせて戸惑い顔を歪める。
 
 
『い、痛いよ・・・。』 もがいてその腕から離れると、ショウタに羽交い絞めにされた
シオリの二の腕や背中がヒリヒリと熱を帯びたような痛みを生じた。

我に返ったようにハッとして、ショウタは泣きそうな顔を向けシオリをじっと見つめる。 
そのやさしい穏やかな垂れ目には、みるみる涙が溢れ今にも零れ落ちそうになってゆく。
 
 
そのただならぬ様子に、シオリは不安で仕方がなくて掴みかかるように腕を揺さぶる。

こんな泣きそうな顔をするショウタなど今まで見たことなくて、シオリの胸を容赦なく
えぐる切ない痛みに、思わずシオリの目にも涙が込み上げる。
 
 
 
 『ねぇ・・・ ほんとにどうしたのよ・・・?』
 
 
 
上目遣いで顔を覗き込むシオリに、口をぎゅっとつぐんで眉根をひそめるショウタ。
迷子になって途方に暮れる小さなこどものように、哀しそうに目を眇めるショウタが
小さく小さく口を開いた。
 
 
 
 『俺・・・ 話、聞い・・・』 
 
 
 
言い掛けた時、『シオリ?』 母マチコが自宅からユズルの着替えが入った紙袋を
持って廊下向こうからやって来た。

そして、シオリと向かい合って立ち竦むショウタの姿を目に、瞬時に ”その人 ”
だと気付き母マチコはシオリにゆっくり目線を向ける。
 
 
『ぁ、お母さん・・・ 彼、ヤスムラ君・・・。』 そう紹介すると、マチコはどこか
哀しそうな顔をしてやさしく微笑んだ。  『そう・・・ あなたが・・・。』
 
 
ショウタも慌てて90度直角に腰を折り頭を下げ、大仰に挨拶をした。

『はじめまして・・・ ヤスムラです・・・。』 そして上げたショウタの顔もまた
哀しげに歪み、涙が落ちそうだった目を慌てて手の甲で拭いマチコから逸らす。
 
 
 
廊下に佇むユズルにそっくりな穏やかな雰囲気の母マチコの、疲れ切ったような
これ以上の心労には耐えられないとでもいうような面持ちに、ショウタは不躾に病院へ
押しかけて来てしまった事を反省し、そして心の底から後悔していた。

シオリとちゃんと話したい気持ちは山々だったけれど、”今 ” ”この場所 ”では
無いのだと思い知らされる。 自分がここにいるのは ”場違い ”でしかないのだと。
 
 
 
 『ごめん、またにする・・・。』
 
 
 
そう小さく呟いてショウタは母マチコに深々と頭を下げると、弾かれたように再び
廊下を駆けて行ってしまった。 シオリが名前を呼び掛けるも、それに振り返ることもなく。
 
 
 
 『ヤスムラ君・・・。』
 
 
 
か細く喉を震わせたその名前が、患者や職員の声や行き交う足音で騒がしい病院廊下に
一瞬だけ響き、あっという間にかき消されてシオリの足元にしょぼくれて落ちた。
 
 
 
シオリは、どんどん遠く小さくなる振り返らないその背中を、ただまっすぐ見つめていた。
胸のざわつきが次第に大きくなり、息苦しくて目を伏せ胸元をぎゅっと握りしめた。
 
 
 

■第17話 理由

 
 
 
ショウタと入れ代わりに病院へコウがやって来た。
それは見事なタイミングで、まるで計ったかのようなそれだった。
 
 
どこか上機嫌な様子で、ユズルへの見舞いの百合の大きな花束を片手に佇むコウは
シオリの塞ぎ込んだような様子に小首を傾げる。

一瞬、目を上げその百合の花束を見つめるシオリ。

それはまるでコウ自身を誇示するかのように、大振りな白色の花びらでドギツイ程の
香りを廊下中に漂わせ、高級店のロゴが入ったセロファンで美しくラッピングされている。
 
 
『ん~?』 覗き込むようにコウが少し体を傾げるも、廊下の長椅子に哀しげな背中で
腰掛けるシオリは苦い顔をして更に顔を伏せ、警戒して一切目を向けない。
 
 
 
 『あれ~? 俺、嫌われるようなことしたかな~・・・?』
 
 
 
おどけた感じで目を細め、クスクス笑うコウ。

『仲良くしてかないと・・・ ”先 ”は永いんだからさぁ~・・・』 その嘲るような声色に
シオリが顔を上げ目を眇める。 その額には、乱れた前髪の奥にハの字の困り眉が
覗いていた。
 
 
すると、そっと指を伸ばしてその前髪を梳き、几帳面にまっすぐそれを均すコウ。 

まるでシオリの困り眉を恥ずかしいものだとでも思っているように、少し困った顔を向けて。
”完璧 ”でいてくれないと困るとでも言いたげな顔で。
 
 
 
そして、コウは愉しそうに口角を上げて言った。
 
 
 
 『ついさっき、俺が言っといてあげたよ~

  シオリから言い出すのツラいだろうと思ってさ~・・・』
 
 
 
『え?』 誰に何を言ったのか、シオリには言われてる意味が全く分からなかった。

しかし、コウのその声色に全身になにか嫌な予感が走る。
シオリはすがるような目を向けその ”答え ”を待つも、怖くてどこか聞きたくないと
いうのが本音だった。
 
 
 
 『だーかーらー・・・

  青りんご君、に・・・ ”俺たち ”のこと。
 
 
  俺もツラかったよ・・・ 彼の ”あんな ”顔・・・。』
 
 
 
コウの一言に、目を見開き息を呑むシオリ。

その意地の悪い嘲け愉しむ声色が、何度も何度も頭の中でリフレインする。
頭の天辺から足元まで槍に突き刺され磔にされたかのように、あまりの衝撃に一歩も
動けない。 たった一言の声も出ない。
 
 
ショウタが慌てて押しかけて来て、泣きそうな顔をしてシオリを痛いくらいに抱きしめた
理由がやっと分かった。 あの絶望したような哀しいショウタの表情の意味が。
 
 
 
 
  (ヤスムラ君・・・。)
 
 
 
 
弾かれたように廊下を駆け出したシオリ。

相変わらず混雑するそこにゆっくり歩行器を使い進む老人患者を避け、忙しそうに
早足で歩く看護師にぶつかりそうになりながら、全力で駆ける。
途中、磨き上げられた床に滑って転びそうになり、一瞬床に膝をついてしゃがみ込むも
体勢を持ちなおして更に駆ける。
 
 
 
 
  (待って、ヤスムラ君・・・。)
 
 
 
 
よりによってコウから聞かされた ”その話 ”に、ショウタがどれほど傷付き胸を
痛めたか想像するだけで、シオリの目には涙が込み上げ呼吸が苦しい。

ショウタの泣きそうな哀しい顔ばかり浮かぶ。 朗らかでやわらかい大好きなあの
笑顔がどんどんかすんで滲んでしまいそうで、ぎゅっと目をつぶりかぶりを振る。
 
 
慌てて病院正面玄関まで駆けて辺りを見回すも、もうショウタの姿はなかった。
自動ドアを飛び出し外に出てショウタが通るはずの道を遠く見つめるも、そこにもその姿は
見当たらない。
 
 
崩れるようにその場にしゃがみ込んだシオリ。

その目には涙が込み上げ、ぎゅっと強く目をつぶった瞬間それは透明な雫となって
アスファルトに落ちグレーの小さな粒のシミを付けた。
 
 
 
 『ごめんね・・・。』
 
 
 
シオリの胸を突き刺す悲痛な想いは、ぽろぽろと零れ落ちる雫と一緒に救いようが
ないくらいの哀しい色を含んで溢れた。
 
 
 
 
 
その時、集中治療室のコウは横たわるユズルの隣に立ち首を傾げて、その決して目を
開かない、いまだ意識不明の姿を感情がない目で冷酷に見下ろしていた。

そして、小さく口許を歪めそっと呟いた。 陶器のような嫌味なほど白い頬筋が微かに
上がる。 それは、愉しそうに上機嫌な声色で医療機器の電子音に混じって響いた。
 
 
 
 『面白くなってきたよ、ユズル君・・・。』
 
 
 

■第18話 頭の先から爪先まで

 
 
 
病院を飛び出し猛烈な勢いで駆けたショウタは、毎夜シオリとやさしい時間を過ごす
公園にやってきた。
 
 
昼間の時間帯のそこは若い母親に連れられた小さなこどもの姿が多く、愉しげに歓声を
上げながら駆け回ったり砂場で遊んだりしていて、微笑ましい反面どこか呑気に感じ
ショウタの心はささくれ立つ。
 
 
いつもふたりで寄り添い座るくたびれたベンチに、ひとり、ショウタが腰掛ける。

俯く頬に吹き付ける冬風がやけに冷たく感じる。 シオリとふたりで並んで座り
他愛ない話で笑い合う時には寒さなど感じないというのに。
 
 
背中を丸めてうな垂れ、シオリが突然夜中に飛び出してきた時のことを思い返していた。
訴えるような、すがるようなその視線を向けたあの夜のシオリを。
 
 
 
 
 
  ”ぜんぶ捨てて・・・ 逃げる気、ある・・・? 私と、一緒に・・・。”
 
 
 
 
そして、去り際に強い意志が宿りしっかりとした目で呟いた一言。
 
 
 
 
     ”私に、まかせて。”
 
 
 
 
シオリはなんとかしようと必死に悩んでいる。もがいている。

勿論不安だらけだけれど、どうしたらいいのかなんて全く分からなかったけれど
ショウタはシオリを信じていた。
他の誰かが言うことなんてどうでも良かった。 シオリだけを信じていた。
真っ赤に泣きはらした目で深夜に助けを求めるようにショウタの元へ駆けて来た
シオリだけを、心の底から。
 
 
 
 
  (どうしたらいい・・・?

   俺は、どうしたらいい・・・??

   ・・・俺に、なにが出来るだろう・・・。)
 
 
 
 
胸にこみ上げ吐き気がする程の焦燥感に、膝の上で握り締める拳がふるふると震え
落ち着くことなど出来そうにない脚が、せわしなく貧乏揺すりを繰り返した。
 
 
 
 
その頃シオリは病院廊下の長椅子に座り、首のネジが壊れた人形のようにうな垂れていた。

もたげた首の両サイドから長い黒髪がしっとりと胸に垂れ、爪先をじっと見つめる
その目はじわじわと滲み視界が歪んでゆく。
 
 
ちゃんと自分の口からショウタに話をしたかったのに、予想だにしない形で知らせて
しまったそれに、シオリの胸は容赦なく痛み震える。

ショウタがどれだけショックを受けたかは、病院に突然駆け込み不安でいっぱいの
泣き出しそうな哀しい目で、シオリを痛いくらいに抱きしめた腕の強さが物語っていた。
 
 
 
 
 
  (どうすればいいの・・・?)
 
 
 
 
ふたりは互いの胸の内ばかりを思い合い心配し、各々ひとりぼっちで悩み苦しんでいた。
 
 
 
 
 
その日の夜は、雨が降った。
冬の冷たい雨は、ショウタの自転車をシオリから意地悪く遠ざける。
 
 
そっとカーテンをめくり自室の窓から空を見上げ、激しく叩き付ける雨粒をじっと
見つめていたシオリ。 ショウタもまた、哀しげに窓から外を見つめていた。

会えない寂しさの反面、どこかホっとする気持ちが否めないふたりの目に雨の雫が映る。
 
 
 
『もしもし・・・?』 ショウタが意を決してシオリへと電話をした。

第一声で既に居心地が悪い ”間 ”が呼吸に混じり、互いに気まずそうに目を伏せて
いることが伝わる。
 
 
 
 『・・・雨、降っちゃったなぁ~・・・。』
 
 
 
ショウタはそのなんとも言えない嫌な空気を払うかのように、努めて明るい声色を
上げシオリへと話し掛ける。

『うん・・・。』 その返答する一言だけで、電話向こうのシオリが哀しげに細い背を
丸めているのが目に浮かんだ。

互い ”その件 ”は怖くて口に出せなくて、避けるように目を背け息をする。
これが悪い夢であってくれればと祈るように天を仰ぐ。
 
 
 
ジリジリと痛む、胸。
頭の先から爪先まで愛おしくて切なくて、本当は1秒だって離れたくなどないのに。
 
 
 
 『・・・やっぱ、今から行く。』
 
 
 
ショウタの声色が急におどけたそれから、真剣なものに変わった。

『雨じゃない・・・ 自転車乗れないでしょ・・・。』 堪え切れなくなったシオリが涙声で
囁くように喉の奥から絞り出す。 ケータイを口許から離し、手の甲で泣き声が洩れ
伝わってしまうのを必死に隠すと、その反動のように頬には次々と涙の雫が零れる。
 
 
 
 『走って行くっ!!』
 
 
 『いいよ、そんな・・・。』
 
 
 
すると、『行くからっ!!』 叫ぶように言って、ケータイは切れた。

シオリの耳に通話終了の機械音がツーツーといつまでも鳴り響く。
自室のラグにぺたんこ座りをして両手で顔を覆い、シオリが声を殺して泣いていた。
 
 
 
ベッド枕元に佇む情けない顔のくまのぬいぐるみが、少し傾いでそんなシオリを
やさしく見つめていた。
 
 
 

■第19話 ゼッタイ

 
 
 
ビニール傘を片手に、ショウタは雨が降りしきる夜の住宅街をシオリの元へと
息を切らして走る。
 
 
濡れたアスファルトを蹴り上げると、ジーンズのふくらはぎに濁った雨水の泥が
跳ねぽつぽつと汚れを付ける。

1秒でも早くシオリの元へ行きたいのに、片手に握る傘のせいで走りにくくて
ショウタはしかめ面をしながらも必死に腕を振り雨夜の中を駆けた。
 
 
シオリはいつもの様に既に玄関先に出て、寒空の下ショウタをひとり待っていた。

夜の雨空を見上げると、それは透明な矢のようにまっすぐ次々とシオリの赤い花柄の
傘を突き刺す。
傘の柄を両手で掴んで心細そうに佇むその足元もまた、アスファルトに跳ね返った
雨の雫で静かに濡らされてゆく。
 
 
もの凄い勢いで向こうから駆けて来る足音とビニール傘が目に入ると、シオリは慌てて
飛び出し駆け寄った。 そして、花柄の傘を放り出し思い切りショウタに抱き付いて
急いで走り続けたため呼吸が荒く激しく上下するその広い胸に顔をうずめる。
 
 
 
 『俺に・・・

  ・・・俺に、なんか出来ることない・・・?』
 
 
 
シオリの頭の上で、大好きなやわらかい声が響く。 それは、やさしすぎてあたたか
すぎて直接心臓まで響き、苦しい。

ショウタの背中にまわすシオリの白い手が、更にぎゅっと力を込める。 その腕の
強さで痛いくらいにショウタへの愛情が伝わる。 それに負けじと全身に想いを込め
抱きしめ返したショウタ。
 
 
 
 『ゼッタイ大丈夫だよ、俺たち・・・

  ゼッタイ、ずっと、一緒にいられる・・・ ゼッタイ大丈夫だ。』
 
 
 
ショウタが闇雲に繰り返す ”ゼッタイ ”が、シオリの胸にどこか重く圧し掛かる。

暫くただ黙ってショウタの胸に顔をうずめていたシオリ。
しかし、何度も何度も軽易に繰り返されるそれに、シオリは唇を噛み締めてショウタの
胸をどこか突き放すようにして体を離した。
 
 
 
 『どうして、そんな事わかるの・・・?

  もし・・・ もし、お兄ちゃんがこのままだったら・・・

  ・・・もしもの事があったら・・・ 私たち・・・。』
 
 
 
『ゼッタイ大丈夫だよっ!!』 まるで自分に言い聞かせているかのようなショウタの
その必死な ”ゼッタイ ”に、シオリが目を眇める。
 
 
 
 『ゼッタイ、ゼッタイ、って・・・

  医者でも、神様でもないのに・・・ ヤスムラ君になにが分かるのよ!!』
 
 
 
激しいはずの雨音が一瞬やんだかと思うほど、シオリのその一言だけ住宅街に鳴り響く。

ショウタをまるで責めるように吐き捨ててしまって、シオリは自分の声色にハッとした
顔を向けた。

完全に八つ当たりだった。 どうしようもないこの現状に、苛立ち不安と恐怖しかなくて
一番自分を想ってくれるその人に、一番寄り添っていたいその人に、否定的な態度と
言葉を向けてしまった自分に自己嫌悪に陥り、更に津波のように押し寄せる胸の痛みは
留まることを知らない。
 
 
 
 『・・・ごめん。』
 
 
 
絶望したように、シオリが細い肩を震わせながら泣き出した。

その白い両手で顔を覆い、何度も何度も ”ごめん ”と繰り返し、雨が打ち付ける足元から
決して顔を上げない。
 
 
すると、
 
 
 
 『・・・そのくらいでいいよ。』
 
 
 
ショウタが冷えたシオリの体をやさしく抱きしめて、小さく呟く。
大切に大切に包み込むように抱きすくめ、シオリの雨に濡れた頭に頬を寄せる。
 
 
 
 『八つ当たりするくらいでいいよ。

  ・・・ぶつけてよ。 ムリしないでさ・・・。』
 
 
 
そう言って、朗らかな笑顔を向けるショウタ。 思い切り頬を緩めシオリをまっすぐ
見つめる。 ひとつの翳りもない、シオリだけを想うその目で、まっすぐ。
 
 
 
 『私・・・ お父さんをどう説得したらいいか分かんないの・・・

  どうしたら分かってもらえるのか・・・
 
 
  でも、

  でも、時間かかっても・・・ 私・・・ ゼッタイ説得するから!
 
 
  だって・・・
 
  私たち、27の春に結婚するんでしょ・・・? するんだよね・・・?』
 
 
 
ふたり、息が止まるほど強く抱きしめ合っていた。

泣きじゃくるシオリを抱きすくめるショウタの目にも涙が滲み、あと少しで零れそうな
寸での所で堪え目を眇める。
 
 
 
 
  (ゼッタイに離れるもんか・・・。)
 
 
 
 
冬の夜の雨はいつまでも降り続き、抱きしめ合うふたりを傘の隙間から濡らしてゆく。
 
 
いくらふたり強く強く抱きしめ寄り添っても、無情にも雨の雫に少しずつ冷えてゆく
互いの体がまるでふたりの行く末を暗示するかのようだった。
 
 
 

■第20話 ふたりでいられる時間

 
 
 
せわしない毎日に追われ、曜日の感覚も時間の感覚もないまま時が過ぎてゆき
気が付くと新しい年はもうとっくに始まっていた。
 
 
結局は、 ”ふたり、ずっと一緒にいる ”為にはどうしたらいいかの答えなど
そう簡単に出るはずもなく、ただただ焦る気持ちばかりが募っていく。
 
 
明確な答えは出ないけれど、ふたり、少しでも一緒にいる時間を増やそうと躍起になった。

シオリは夜に病院から戻ると、自宅前まで迎えに来ているショウタの自転車に乗って
ショウタ実家へ毎晩のように通い詰めた。
 
 
あの夜以来こたつが大好きになったシオリは、あたたかな安らぐショウタの実家に
やたらと来たがった。

シオリはショウタの両親ともどんどん慣れ親しんでゆき、愉しそうに笑い合う3人の
姿を目に、ショウタが嬉しくないはずはない。
こんな時間が永遠に続けばいいのにと、ショウタは目を細めどこか物寂しげに眺めた。
 
 
花で溢れかえる狭い居間のこたつにふたり、身を寄せ合って座る。

少しも離れたくなくて互いの二の腕がくっ付く距離で並んで座り、ほんのわずかな
時間でさえも大切に愛おしそうに、色んな話をして笑い合った。
 
 
 
とある夜、こたつで日本茶の湯呑を白い手で包みながらシオリが言った。
 
 
 
 『私ね・・・

  取り敢えず、ゼッタイ医大には入らなきゃいけないから

  塾の時間を増やそうと思ってるんだ・・・。』
 
 
 
実は最近シオリは、ユズルの病室に籠る時間も参考書片手に常に医大受験に向けての
勉強をしていた。 本当ならば病院から戻った後の夜の時間帯も勉強しなければ
ならないのだけれど、どうしてもショウタとの時間を作りたかったシオリ。
 
 
冬休みはもうすぐ終わる。

そうなったら、日中に病院に通い詰めることは出来なくなる。 母マチコをひとりに
してしまうことに不安はあったが、通常の生活リズムに戻す頃にはしっかり受験対策を
構築し実践していかなければ、いくら成績優秀のシオリとはいえど目の前の壁は高かった。
 
 
 
 『時間を長くするってこと・・・?』
 
 
 
ショウタはそっと手を伸ばして、シオリが羽織っているショウタ母の袢纏の肩に手を
置き覗き込むように見つめる。
 
 
『ううん。』 シオリは首を2回横に振って、ショウタのその視線からバツが悪そうに
目を逸らした。
 
 
 
 『残念だけど・・・ 部活は、辞めようと思ってる・・・。』
 
 
 
『え・・・?』 あからさまに落胆する顔を向けてしまったショウタ。

週に2回のシオリとの書道部の時間は、いつしか大切な時間になっていた。
ふたり机を並べて座り、シオリがスっと背を伸ばして美しい横顔で筆を半紙に落とす
その姿を見るのが大好きだった。

書道になど全く興味が無かったショウタも、自分が好きな字を好きなように書いて
隣のシオリをクスクス笑わせるのが、堪らなく愛おしい時間だったのに。
 
 
そうやってどんどんふたりでいられる時間が奪われていくのかと思うと、ショウタの
胸には底の見えない恐怖とどうしようもない焦燥感が込み上げる。 
 
 
 
 
   奪われる。

   どんどんシオリが奪われてゆく。
 
 
 
 
俯いて一言も口をきかなくなったショウタを、シオリが哀しげに見つめそっと手を
伸ばして、駄々っ子のようにぎゅっと固く握りしめているその大きなゴツい手を
やさしく掴んだ。
 
 
『ごめんね・・・。』 小さく呟くその寂しげな声色。

シオリだってショウタとの部活の時間が大切じゃないはずがない。
本当はこのまま一緒に部活を続けたい。 でも、何かを得るためには何かを我慢しなければ
ならない事ぐらい痛いほど分かっていた。 そして、それはショウタにも分かっている事で。
 
 
 
 『何曜日が塾になるの・・・?』
 
 
 『・・・日曜以外は・・・。』
 
 
 
週に6日も塾に通って勉強をするという、ショウタにとっては考えられないその
スケジュールも、あと1年と少しで受験本番を迎える事を考えると決して常軌を
逸したものではなかった。
 
 
更に更にショウタがしょんぼりとうな垂れ、首が体にめり込んでしまったかのように
肩の間に頭が埋もれる。 

シオリはそっとこたつから出ると、その今にも泣き出しそうな大きな体をやさしく抱きしめた。
まるで幼いこどもをなだめる母親のようにその胸に抱き留め、ショウタの頭に頬を寄せる。
 
 
 
『ごめんね・・・。』 シオリが呟くその声がやさしすぎて、あたたかすぎて、
ショウタはぎゅっと目をつぶり唇を噛み締めて、その華奢な体に抱き付いた。
 
 
 

■第21話 薔薇の棘のように

 
 
 
ふたりでいられる時間は、少しずつ少しずつ目減りしていった。
 
 
毎晩シオリが病院から戻った後、ショウタの実家で過ごすほんのわずかな安らぐ時間
でさえ次第にシオリ父ソウイチロウによって阻まれ始めた。

シオリ母マチコはそれを知っていながらも、恋する娘の背中を影でこっそり応援し
見てぬ振りをして許してくれていた。

しかし、それが父ソウイチロウの知る所となったのは、従兄弟コウが何かしら関わって
いて影で動いたとしか思えなかった。
 
 
 
 『今夜もね・・・ 行けそうにないの・・・。』
 
 
 
シオリの沈んだ電話向こうの声に、『そっか・・・。』 ショウタもガッカリする声色を
隠せない。 もう何日シオリに会っていないだろう。 楽しいはずの冬休みはただただ
寂しい毎日の積み重ねになっていた。 これが学校がある日ならばクラスは違えど
毎日毎日シオリの顔を見ることが出来るというのに。
 
 
『ごめんね・・・。』 ふたり、途端に口をつぐみ互いの耳には小さく呼吸する息遣い
しか聴こえない。
 
 
 
息苦しいその沈黙に、慌ててショウタが明るい声を出す。
 
 
  
 『あ! あのさ・・・

  今日、あの・・・ 店番してたら、スゲェ変な客が来てさー・・・。』
 
 
 
自分までシオリの負担になってはいけないと、努めて明るく振る舞いシオリをなんとか
笑わせようと躍起になる。 大袈裟なほどのその声色と、あきらかに脚色した話に
シオリの胸は申し訳なさでやり切れない想いが募り、愛想笑いですらその頬には作れ
そうにない。 

そんな毎日毎日面白ろ可笑しい話などあるはずもないのに、ショウタは必死になって
電話向こうでシオリの笑いを誘う。
 
 
 
 『ヤスムラ君・・・

  いいから・・・ ほんと、いいから・・・ ダイジョウブだから・・・。』
 
 
 
思わずシオリが話の途中で口を挟み、それを遮った。

ショウタが哀しげに口をつぐむ。 ケータイを当てる耳に聴こえるのは呼吸の音のみ。
一瞬のどうしようもなく嫌な ”間 ”がふたりに訪れる。
 
 
 
 『ごめん・・・。』
 
 
 
ショウタが小さく口を開いた。
大きな背を丸めてしょんぼりしている不器用な姿が、シオリの目に浮かぶ。
 
 
シオリもまた、ショウタを傷つけてしまった事への自己嫌悪に陥って、
『ごめんね・・・。』 ショウタのそれと同じ声色で返した。 

そして互い、再びケータイを耳に当てたまま黙り込んだ。
 
 
 
 
   奪われる。

   どんどんシオリが奪われてゆく。
 
 
 
 
 『今から行くっ!!』

胸にこみ上げる吐きそうな程の不安と恐怖に、居ても立ってもいられず突然声を張った
ショウタ。 シオリがケータイを当てる耳に、ショウタが慌てて駆け出そうとしている息遣い
が聴こえる。
 
 
 
 『今夜はムリ・・・

  お父さんがもう家にいるから、出られないよ・・・。』
 
 
 『5分でもいいよ!!

  ・・・3分、でも・・・。』
 
 
 
階段を駆け下りている踏面が軋むような足音が聴こえ、シオリが涙声で必死に説き伏せる。
 
 
 
 『ムリ・・・

  ほんとにムリだから・・・ ごめんね・・・。』
 
 
 『じゃあ、一瞬でも!!!』
 
 
 
叫ぶように言ったショウタの声の向こう側に、シオリのすすり泣くような声が小さく
小さく響き、ショウタの足音が諦めたように哀しげにパッタリとやんだ。

まるで腰が抜けたようにストンと力無く階段の段差に腰を下ろして、頭を抱えるショウタ。

その顔は悲哀に歪み、きつく握り締めた拳がやり場のない思いに小刻みに震え太ももを
憎々しげに何度も打ち付ける。 シオリへぶつけられない空回りする想いを己の太ももに
何度も何度も。 太ももの痛みなんて胸のそれに比べればなんてことは無かった。
 
 
 
 『会いたいよ・・・

  なんで、会えないんだよ・・・。』
 
 
 
ショウタの落とした哀声は、シオリの胸にがんじがらめにからまり薔薇の棘のように
突き刺さった。
 
 
 

■第22話 満たされない心

 
 
 
ショウタは、不甲斐ないちっぽけな自分にどうしようもなく苛立っていた。
 
 
自分がシオリを支えて癒して笑わせなければならないのに、逆に負担になっている
かもしれないと思うと、次第に思い悩む時間が増えていった。
 
 
 
 
  (なにが出来る・・・?

   俺になんか出来ることないのか・・・?)
 
 
 
 
シオリもまた、ショウタに会えない寂しさと辛さを勉強に集中することで誤魔化そうと
必死になっていた。
 
 
 
 
  (ゼッタイ、なにがなんでも合格しなきゃ・・・。)
 
 
 
 
互いの顔には、満たされない心による疲れの色がありありと表れはじめていた。
 
 
やっと数日振りに会えた、とある夜。

シオリ父ソウイチロウが帰宅したらマズいので、ショウタの実家には行かずシオリの
家の前でこっそり隠れて立ち話をするふたり。  久々のふたりきりが嬉しいはずなのに
なんとなく互い余所余所しく感じ、どこか居心地の悪さを感じるのは立ち話だからと
いうだけではないだろう。
 
 
明らかにシオリの顔はやつれて元気がない。 顔色だって良くないし、なによりずっと
笑顔を見られていない事にショウタの心はチクチクと痛みを憶える。

シオリの事が心配で心配で仕方がなかった。
 
 
 
 『ちゃんと食って、寝てんの・・・?

  ・・・あんまりムリしすぎんなよ・・・。』
 
 
 
シオリの細い肩にやさしく手を置き、覗き込むように体を屈めてその顔をもっとよく
見ようとする。

しかし、ショウタのやわらかい声色も肩に置かれた手のぬくもりも、疲れているシオリ
にはどこか押しつけがましく感じてしまう。
 
 
『ダイジョウブだよ・・・。』 シオリはなんとか明るく返したつもりだったが、その返事で
すらショウタにとっては明らかに心細い、それ。
 
 
 
 『根つめ過ぎないようにしないと・・・

  先は長いんだしさ・・・

  ・・・体壊したら、それこそ大変なんだからさ・・・。』
 
 
 『・・・ほんとに、ダイジョウブだってば・・・。』
 
 
 
『いや、マジでちゃんと自分の体のこと考・・・』 ショウタが尚も言い掛けた時、それを
シオリが目を眇めて遮った。
 
 
 
 『今がんばんなくて、いつ頑張れって言うのよっ!!』 
 
 
 
暗い住宅街にシオリの苛立った声色が響き渡って消えた。

耳がキーンとするようなシオリのはじめてのそのトーン。 そして刹那、闇は無音になる。
ショウタはその声色に明らかにショックを受けた顔を向け、哀しげに目を伏せた。
シオリはブーツの足元に目を落とし、口をぎゅっとつぐんで決してショウタを見ない。
 
 
 
暫くの居心地が悪い ”間 ”が通り過ぎた後、静かに静かに口を開いたショウタ。
 
 
 
 
 『俺は・・・ 心配もしちゃいけないの・・・?』
 
 
 
 
ショウタのその声色は、悲哀とほんの少しの失望を含んでいた。

シオリを責めるような色を込めてしまった事に、ショウタ自身気が付いていたが
やり切れない思いに、自分でもどうしようも出来ないまま結局はシオリに当たってしまう。
 
 
暫くふたり、無言のまま立ち尽くしていた。

ジリジリと込み上げるような、苛立ちと哀しみ。 息苦しいほどの沈黙。
ふたりにまとわりつく険悪な空気に、いたたまれなくなったショウタがそれをなんとか
振り払おうと、なんとかシオリを笑わせようと、必死にどうすればいいか考えあぐねる。

手持無沙汰に指先に目を落とし意味も無く爪をはじき、明るい話題を探す目は落ち着き
なく空を彷徨っている。
 
 
その気配に、シオリは更に苛立った。
 
 
 
 
  (ダイジョウブだって言ってるのに・・・。)
 
 
 
 
『あ!あのさ、今日・・・』 言い掛けたショウタに、シオリが呟いた。
 
 
 
 『ごめん・・・ 今夜はもう帰るね・・・。』
 
 
 
その疲れ切った細い背中は一度も振り返ることなく、自宅の玄関の中へと消えて行った。

互い、モヤモヤした気持ちを抱えて苦しげに顔を歪めて俯いていた。
 
 
 

■第23話 心に灯った小さな火

 
 
 
ふたりの間に、少しずつ少しずつ、しかし確実にひずみが生じはじめていた。
 
 
3学期がはじまり、シオリは書道部を退部して日曜以外は塾に通う毎日をスタート
させていた。 少しでも一緒にいられる時間をつくりたいショウタは、すがるように
シオリに言う。
 
 
 
 『頼むから、毎日送らせて・・・

  行きも、帰りも・・・ ちょっとの時間も惜しいよ・・・。』
 
 
 
塾の行き帰りの短い時間でさえもシオリといられるのなら、労力は惜しまない気概の
ショウタ。 二の腕を掴まれ必死の形相でまっすぐ見つめられて、シオリはその
がむしゃらな想いに頷くしかない。

シオリの口からほんの少し溜息が落ちていた事など、無我夢中のショウタに気付ける
はずもなかった。
 
 
 
夜8時。 塾が終わりシオリが建物から外へ出ると、ショウタが肩をすくめ大切そうに
片時も離さないマフラーで口許を覆いながら、足踏みするように体を揺らして冬夜の
寒さを凌いでいる。
 
 
次々と塾終わりの姿が出て来るのを目に、キョロキョロとシオリを探すその大きな体。

そしてシオリをその目に捉えると、母親の帰りを待ちわびるこどものように慌てて
駆け寄り嬉しそうに頬を緩めて笑った。
 
 
 
 『お疲れっ! ダイジョウブ? 疲れてない??』
 
 
 
毎夜、言われるその言葉。

シオリはその疲れが滲み出かかった頬に精一杯笑みを作り、『ダイジョウブだよ。』 と返す。
上手に笑顔を作れているのか不安になり、もう一度無理やり頬筋を上げた。

すると、ショウタが向ける朗らかなあたたかいそのまっすぐな眼差しに、シオリはどこか
居心地の悪さを感じ、目を細め微笑むフリをしてそっと逸らした。
 
 
 
 『ヤスムラ君は・・・?
 
  ダイジョウブ? ちゃんとご飯食べて来たの?

  寒かったでしょ? ダイジョウブ・・・?』
 
 
 
互い、口癖のように ”ダイジョウブ? ”と相手を気遣う言葉が出る。

その言葉が互いをツタのようにがんじがらめに縛ってゆく事にも気付かず、
ただまっすぐ相手を想う気持ちから毎夜毎夜、それを繰り返していた。
 
 
 
 
シオリはショウタに自転車で自宅まで送ってもらい、自室に戻ると疲れ果てたように
ベッドにドサっと腰を下ろし脱力する。

ふと視界に入った枕元に大切に置いてあるくまのぬいぐるみを胸元にぎゅっと抱えた。
大切な大切なそれを、強くつぶれるほど抱きしめる。

そして、くまのわきの下に手を入れ腕を伸ばすと、そっと目の高さに上げまっすぐ
正面から見つめてみた。
 
 
すると、その情けないやわらかい顔をしたくまは1点の曇りもない瞳でシオリを見つめる。

それはショウタと同じ瞳だった。
ただひたすらにシオリの事だけを想ってくれる朗らかな笑顔にしか見えなくて、
思わずシオリは目を逸らし、くまの顔を下向きにうつ伏せにしてベッドに置いた。

そのあたたかい視線が、やさしい視線が、その想いに思うように応えられないシオリを
まるで責めているかのように胸を射抜く。 
 
 
 
 『苦しいよ・・・。』
 
 
 
どうしようもない胸の内を表すかのように、ぽつりひとりごちたシオリの決して
ショウタに言えない想いは、壁掛け時計の秒針がカチカチと進む音と混ざり、
哀しげに一瞬だけ響いて消えた。
 
 
 
 
その頃、ショウタは自室でひとり、ぼんやりと窓辺のミムラスを見つめていた。

シオリにクリスマスに半分鉢分けしたその残りの橙色は、ショウタの過保護にも
思える溢れる程の愛情を受けて元気に咲き誇っている。
 
 
 
 
   ”あの花は、ミムラス。

       ちなみに、花言葉は・・・ 笑顔を見せて ”
 
 
 
 
はじめてシオリに橙色の名前を告げた日のことを思い返していた。
 
 
そして全ての運命を変えたあのクリスマスに、シオリが目の高さにその小さな鉢を掲げ
溢れるほどに咲き誇る橙色の香りをかぎ、嬉しくてどうしようもないといった顔を
向けた夜のことも。


『 ”笑顔を見せて ” ・・・。』 ぼんやりとなにか考えながら、ぽつり呟く。
 
 
シオリの笑顔がどんどん目減りしてゆく事への心配と不安が、常にショウタの胸を
締め付けていた。 シオリの笑顔を見たい、シオリを笑顔にしたい。 他の誰でもなく
自分がシオリをいつもいつも笑わせて、そして一緒に笑いたいのだ。
 
 
 
 『傍にいられなきゃ、見れないよな・・・。』
 
 
 
すると、ショウタの心にひとつ、小さな火が灯ったように光った。
それはどんどん勢いを増して眩しいくらいの炎になる。

ショウタは弾かれたように自室を飛び出し、1階の居間でこたつに入りながら
サスペンスドラマに見入っている両親の元まで駆けた。
 
 
 
 『あのさ・・・ 俺・・・。』
 
 
 

■第24話 完璧な案

 
 
 
 『あのさ・・・ 俺・・・。』
 
 
突然荒々しく音を立て、居間の引き戸をこじ開けて飛び込んできたガタイのいい
息子の姿に両親ともに驚き仰け反った。

こたつテーブルの上の湯呑茶碗が、ビクっと跳ね上がった膝の衝撃を受け傾げかかる。
 
 
 
 『なんなの・・・? びっくりさせないでよ・・・。』
 
 
 
母が心臓のあたりを押さえながら目を白黒させ、どもりながら返す。
舌打ちでも出そうなくらい息子を眇めると、再びテレビのサスペンスドラマに戻ろうとした。
 
 
すると、ショウタは細い垂れ目を最大限見開き、頬を高揚させて言った。
 
 
 
 『俺が・・・

  俺がさ、医大行きたいっつったら・・・ どうする??』
 
 
 
その息子の一言に、呆然とかたまった両親。

呆けたままゆっくり父と母は互いに目を見合わせる。
こどもの頃から勉強嫌いで万年赤点のくせに、どの口がそんな事言い出したのかと
ふたり同時になんの冗談かとショウタに半笑いで呆れたような視線を送る。
 
 
しかし、ショウタの顔は冗談を言っているそれではなく真剣そのものだった。
 
 
『どう? なぁ、どう思う??』 身を乗り出さんばかりに再度言い寄るその姿に
瞬時にシオリが関わっていると気付く。 突然夜中に泣きながら訪ねて来たシオリが
このショウタの発言の発端なのだろうと。

相変わらずの向こう見ずな言動と呆れながらも、そこまで必死に初恋の人を想う息子が
なんだか誇らしく思えて、ショウタ母はぐっと胸にこみ上げる熱いものに目を細める。
 
 
すると、母はふくよかな腹をせり出し豪快に笑いながら言った。
 
 
 
 『そんなもん、受かってから言いなっ!

  万が一・・・ いや、兆が一にでも合格したら、

  そりゃあ親として、全力で支えてやるよっ!!

  ・・・ねぇ?父ちゃん。』
 
 
 
そう言い切って、ショウタ父に目配せする。

男らしい程のその力強い母の声色に、隣で細い背中を丸め湯呑を両手に包み佇む父親も
やわらかく朗らかに微笑む。
ふたり、目を見合わせ可笑しそうにクククと笑い合って。
 
 
 
 『俺・・・ ゼッタイ、医者になるからっ!!!』
 
 
 
キツく握った拳を揺さぶって叫ぶように言うと、『まじで、ほんとアリガトウ!』 
両親に泣きそうな目を向け、再び騒々しく階段を駆け上がり2階の自室へと戻って
行ったショウタ。

父と母、もう一度目を合わせて、その落ち着きなくやかましい息子の大きな背中を
呆れ果てたようにゲラゲラと声を上げ肩を震わせ笑った。
 
 
 
 
  (そうだ、俺が医者になれば・・・

   それで、全部・・・ すべての問題がカイケツだ・・・。)
 
 
 
 
  ”シオリには前々から言ってたんだよ。

   シオリの相手は医者じゃなきゃ認められない、ってさ~・・・”
 
 
 
いつかのコウの嫌味な一言を思い出していた。
あの言葉がすべての突破口になるなんて、思ってもいなかったショウタ。
 
 
 
 『俺が医者になればいいだけの話じゃん・・・

  こんなカンタンな事、なんで今まで気付かなかったかなぁ・・・。』
 
 
 
今すぐにでもこの ”完璧な案 ”をシオリに報せたに行きたくて、ショウタの脚は
落ち着きのない貧乏揺すりがカタカタと止まらない。
 
 
 
 
  (電話とかじゃなく、直接言ってビックリさせたいよなぁ~・・・。)
 
 
 
 
その顔はニヤニヤと嬉しくて仕方ないといった感じで。
まるでもう医者になれたような気で。
 
 
それが ”カンタン ”でも ”完璧な案 ”でも無いという現実に気付くのは、
あまりに呆気ない程すぐの事だった。
 
 
 

■第25話 そのお気楽な姿

 
 
 
翌日の昼休み。
 
 
ショウタとふたりで昼ごはんを食べようと、書道部の部室ドアに手をかけたシオリを
待ってましたとばかりに出迎え、肩を掴んでぐわんぐわんと揺さぶったショウタ。

シオリの背中に垂れる漆黒の長い髪が、美しい清流のようにたゆたい揺れる。
 
 
 
 『ど、どうしたの・・・?』
 
 
 
顔が触れ合いそうなくらいその身を乗り出すショウタとの距離に、シオリがたじろぎ
さっぱり事態が把握できないまま尚も揺さぶられながら、困ったような呆れているような
顔を向ける。
 
 
すると、ショウタは揺さぶっていた手を止めその細い両肩をしっかり掴んだまま、
まるで夏休みの小学生のように目をキラキラと輝かせて言った。
 
 
 
 『完っっっ璧な案を思いついたんだっ!!!』
 
 
 
『ん?』 シオリは小首を傾げ見つめ返す。

目の前の大きな図体をした小学生は、実家の居間に飾られている家族旅行写真の
幼いショウタとなにも変わらない、純粋で屈託のない笑みを顔いっぱいに作って。
 
 
 
 『もう、なんにも心配しなくていーからっ!!

  俺・・・ すっっっげぇイイ案、思い付いたから・・・

  これで全てカイケツだからっ! なんっにも心配いらないからっ!』
 
 
 
その自信満々な顔と声色に、シオリはその案を聞く前からぷっと吹き出して笑ってしまった。
忘れかけていたショウタらしいその言動が、胸の奥のやわらかい部分をやさしく掴む。

最近は哀しい事ばかり起こった為に落ち込み沈んでばかりで、本来ショウタの持つ
周りを巻き込むほどの爆発的な明るさと眩しさが風前の灯火のように消えかかって
いた事に今更ながら気付き、シオリはそっと目を伏せる。
 
 
『・・・どんな?』 目を細め、愛おしそうに頬を緩めシオリが先を促した。
目の前のその人を、好きで好きで仕方がないという気持ちを込めまっすぐ見つめて。
 
 
すると、シオリの耳に響いたそれは重く鈍くずっしりとその細い両肩に圧し掛かった。
 
 
 
 
 
  『俺、医者になるっ!!!』
 
 
 
 
シオリの微笑んでいた白い頬が、潮が引いてゆくように一気に真顔に戻った。
能面のように表情がなくなり、目を落とし真一文字に口をつぐんで一言も口をきかない。
 
 
弾けんばかりの笑顔をその頬に作るショウタは、自分が想像していた反応がシオリから
返って来ない事に、不思議そうに体を屈めてその俯く白い顔を覗き込む。

聴こえなかったのかと、もう一度、得意満面に繰り返した。
 
 
 
 『ほら! 俺が医者になれば、一緒にもいられるし問題カイケツだろ?

  俺、ホヅミサンと同じ医大にするからっ!
 
 
  ・・・つか、どこの医大目指してんだっけ・・・? 』 
 
 
 
仰け反るほど胸を張って言い切る、その ”超 ”が付くほどのお気楽な姿。

安直で楽天的で、細かいプロセスなど何も考えていないショウタに
シオリは鳥肌が立つほど腹立ち、唇を噛み締めて唸るように呟いた。
 
 
 
 『そうゆう冗談やめてよ・・・

  いくらナンでも、デリカシー無いよ・・・

  ・・・ぜんぜん笑えない。 ひどいよ、ヤスムラ君・・・。』
 
 
 
『・・・え??』 シオリの、ふつふつと湧く怒りをなんとか抑えようとしている
ようなその震える声色に、その反応が理解できないとでもいう様にショウタが
目を見張り絶句する。 

怒られる理由なんて皆目見当つかなかったし、シオリを喜ばせられると思って
昨夜から寝られないくらいにこの話をするのを愉しみにしていたのに。
 
 
 
 『ヤスムラ君、勉強得意だった・・・?

  そんな簡単に医大に合格できるとでも思ってるの・・・?』
 
 
 
呆れてものが言えないといった風に顔を歪め、睨むシオリ。
一直線前髪の奥のわずかに覗く困り眉なはずのそれが、今日は憤って雄々しい。
 
 
『それはダイジョウブ! ”為せば成る ”でしょ!!』 腸が煮えくり返る程の呑気さに
シオリはふたり分の弁当箱が乗った机を、握りしめた拳で乱暴に打ち付けた。
 
 
 
 『それに・・・

  医大に通うのに、いくらお金かかるか分かってるの・・・?

  ご両親にムリさせるの? 平気なの? 

  ちゃんと色々考えて言ってよ!! 呑気にも程があるわ!!』
 
 
 
そう怒鳴り言い捨てると、シオリはまだ手を付けていない弁当箱を再びハンカチで
包み引っ掴んで、猛然たる形相で部室を飛び出して行った。
 
 
力任せにピシャリと閉められた引き戸が軋む音だけ静まり返った部室内に響き
そこにひとり取り残されたショウタは、憤慨する黒髪の背中を何も出来ず何も
言い返せずにただただ見送った。
 
 
 
思ってもいなかったこの展開に、呆然とひとり、立ち竦んでいた。
 
 
 

■第26話 新たな杞憂

 
 
 
ショウタの ”思い込んだらまっしぐら ”な気質は、そう易々と変わりはしない。
それは例えシオリをどれだけ怒らせたとしても、同じだった。
 
 
ショウタの頭の中にはもう、医者になることしか無かった。
 
 
 
  医大に入れさえすれば、シオリと一緒にいられる。

  医者になれさえすれば、シオリと結婚できる。
 
 
 
あまりに短絡的なその思考回路は、ショウタを暴走させるには充分の威力を備えていた。
他の案なんて見つかる気配はなかったし、なにをどう考えてもやはり ”完璧 ”なのだ。
 
 
 
 『まずは、勉強だな・・・。』
 
 
 
午後の授業中、今まで殆どちゃんと読んだこともなかった教科書を開く。

今どこまで教科書が進んでいるのかも知らないショウタは、隣席の机に広がる教科書を
思い切り体を傾げて覗き込み、ページ数を読み取る。

そして、ペラペラとめくったそれに真剣に目を落としてみた。
 
 
 
 
  (・・・・・・・・・・。)
 
 
 
 
これが日本語なのかどうかも怪しく思える程に、全く意味が分からないし理解
など出来ない。

『ダメだこりゃ・・・ 中学からはじめた方がいいな。』 ぽつりひとりごちるとその
授業にはアッサリ匙を投げ教科書をパタリ閉じると、次に考えなければならない
事項に思いを巡らす。

右手に握るシャープペンシルの頭で、固い髪の毛がツンツンと跳ねた己の頭を
ボリボリ掻いて、ショウタは小さくひとりごちる。
 
 
 
 『次は・・・ 金の問題、か・・・。』
 
 
 
今までも散々見てきた、母親の電卓をたたいて溜息をつく疲れた背中。
 
 
祖父の代から営んでいる八百屋は、郊外に出来た大型スーパーの影響で増々経営は
厳しい状態だった。 家族4人、なんとかギリギリのところで生活出来ているのだ。

医大に通うのにどれだけのお金が掛かるのかすら知らなかったが、今の状態では無理
だという事だけはお気楽なショウタにも分かっていた。
 
 
『バイトっきゃないな・・・。』 そう小さく呟くと、目の前に広げた板書を書き写す事も
しない真っ新なノートに ”バイト ”と汚い字で3文字書き、丸で囲った。

ショウタは背中を丸めて覆いかぶさるようにノートに顔を近付けると、そのページに
タイムテーブルの升目を書き、学校にいる時間とシオリを送迎する時間帯をシャープ
ペンシルで雑に黒く塗りつぶす。

すると白く残った時間帯は、朝の8時以前と、シオリを塾に迎えに行くまでの夕方の数時間。
そして、シオリを自宅まで送り届けた後の夜9時以降が浮かび上がる。
 
 
 
 『早朝に新聞配達して、夜に勉強したら、イケんじゃね・・・??』
 
 
 
馬鹿が付くほど短絡的なその頭は睡眠時間のことなどスッカリ忘れ、それがどれだけ
無謀な計画かも気付かずにひとり納得してニヤニヤと顔を綻ばせる。

今すぐにでも実行に移したいせっかちな脚が、狭い机の下のスペースでカタカタと
貧乏揺すりを繰り返していた。
 
 
 
 
 
その頃シオリは2-Cの教室で、イライラする気持ちを抑え切れずに午後の授業を
受けていた。

全く集中など出来ないその授業。 黒板から目を逸らし机に片肘を付いて落ち着きなく
かぶりを振ったり、ぐったりうな垂れたりを繰り返し溜息ばかりが零れる。

シオリもまたノートに板書を写す事もせず、シャープペンシルを握るイラつく右手は
コツコツと無数の黒点を白ページに付けていた。
 
 
ショウタの性格は、去年の春先の ”突拍子もない告白 ”で嫌というほど経験済みな
シオリ。 言い出したら絶対にやめない事は分かっていた。

誰になにを言われようが、自分が信じた道をただひたすらに突っ走る猪突猛進を絵に
描いたような人間だという事を。
 
 
ただただ、不安しかなかった。 怖くて仕方がなかった。

きっとショウタのことだから限界など全く考えず、遮二無二ばく進するはずだ。
それが誰でもないシオリが関わっているとなれば尚更、その熱意も使命感も天井なしに
急上昇してゆくのは目に見えている。
 
 
 
 
  自分のせいでショウタに無理をさせてしまう。

  ショウタの両親にまで負担をかけてしまう。
 
 
 
 
  (どうしよう・・・。)
 
 
 
イライラが憂鬱に変わる頃、終業を報せるチャイムが鳴り響き、シオリの胸に新たな
杞憂がひとつ生まれ心をざわつかせていた。
 
 
 

■第27話 爆発的な行動力

 
 
 
ショウタの爆発的な行動力は、自分が信じてやまない ”完璧な案 ”を実行する為に
とてつもないスピードでその足を動かした。
 
 
不機嫌なまま口をきかないシオリを、あの手この手で機嫌をとりながら塾まで送った後
まずは近所の新聞屋に飛び込んで、見知った店主に頼み込み早朝の新聞配達のバイトを
早速決めた。 

いつから始めるか訊かれ、即座に 『今日! ぁ・・・ 明日っ!』 と答えたショウタ。 
ヤル気みなぎるその顔に、店主は可笑しそうにゲラゲラ笑った。
 
 
そして新聞屋から自宅へ戻ると、慌てて押入れの奥から中学時代の教科書が入った
段ボールを引っ張りだした。 捨てるつもりでまとめていて、しかし捨てる行為自体
面倒になり結局そのまま放置していた、それ。

まるで新品のようなめくり跡ひとつ、マーカーひとつ付いていない教科書。

それらを自室の机の上にドサっと積むと、既にそこに散乱していた漫画本やらゲーム
ソフトが雪崩れて足元にバラバラと落ちた。 足の小指に漫画本の角がクリーンヒットし
『痛ってぇ!!』 しかめっ面をして片頬を歪めながらも、目の前の窓辺にやさしく
咲き誇る橙色のミムラスにニヤっと笑い掛けた。
 
 
 
すると、階下から 『ショウタァァアアアア! 晩ごはんっ!!』 母のがなり立てる声が
地響きのように鳴った。

『メシか・・・。』 腕組みをしぽつり呟いて、ショウタはなにか考え込んだ。

そして急いで1階の居間に下りると、台所の食器棚からお盆を取り出し自分の分の
夕飯の器を乗せると、慌てて再び自室に戻って行こうとする。
 
 
その後ろ姿に、首を傾げる母と妹。
 
 
 
 『ここで食べないの?』
 
 
 
『部屋で食う。 俺には勉強があるからさっ!』 どこか誇らしげに嬉しそうに
ショウタがその口許をニヤリと歪めると、まるでスキップでもするかのように軽快に
階段を上がって行った。
 
 
『ベンキョー??』 一切の事情を知らない妹が、片目を眇めて顔を歪めた。
 
 
 
 
自室に戻って机上右半分に夕飯のお盆を置き、左半分に中学教科書を広げるショウタ。

意気揚々と得意顔でそれに目を落とした瞬間、中学の勉強なんて楽勝だろうと高を
括っていた顔が一瞬で青ざめる事となる。
 
 
 
 『・・・・・・・・・。』
 
 
 
ぐったりと頭を抱え込んだその手は、夕飯を食べる為の箸を掴んだままで静止する。
まるで電池が切れたかのように1ミリも微動だにしない、その丸まった大きな背中。
 
 
気が付くと眉根をひそめ不安顔で教科書を睨んだまま結構な時間が過ぎていて、
夕飯はすっかり冷めて硬くなり、ふと壁掛け時計に目を向けるともうシオリを塾まで
迎えに行く時間が迫っていた。
 
 
 
 『やべぇな、こりゃ・・・。』
 
 
 
さすがのショウタも、ほんの少し焦り出していた。
 
 
 

■第28話 家族の支え

 
 
 
それからというもの、毎晩9時から明け方まで勉強をして早朝4時には新聞配達の
バイトに向かう日々を送っていたショウタ。
 
 
ベッドに横になる余裕すらなく、勉強机に突っ伏していつの間にか堕ちるように
居眠りをし早朝にケータイのアラームがけたたましく鳴り響くと、慌てて起き上がり
顔も洗わずにダウンジャケットを着込みマフラーを巻き直して、家を飛び出して行った。

しかし、ショウタの顔は希望に満ち溢れ、まっすぐに信じるシオリとの未来に向けて
胸の高鳴りは止むことを知らず、イキイキとして目は輝いていた。
 
 
 
 
  (俺のガンバリ次第で、ホヅミさんとずっと一緒にいられるんだ・・・。)
 
 
 
 
とある夜のこと。

特に不得意な中学数学の教科書と睨めっこして、自分でも気付かずにブツブツと
延々文句を呟いていた時、部屋のドアが乱暴に1度ドンっと蹴られた衝撃に驚いて
そちらを凝視したショウタ。
 
 
すると、『入るよ』 の一言もなく隣の部屋の妹ナオが、怒り狂ったような赤い顔を
向け怒り肩で風を切って部屋に進入してきた。
 
 
 
 『な、なに・・・?』
 
 
  
母親似のキツい性格の妹ナオ。 こどもの頃はよく殴られ蹴られ、泣かされていた
ショウタは4才年上のくせにいまだに子供の頃のトラウマか、妹ナオの苛立つ表情を
見ると体が竦み固まる。 小柄な獅子のような妹の顔色をオドオドしつつ窺う。
 
 
 
  チッ。
 
 
ナオは顎を上げて目を眇めると、ショウタに向けてわざと大きく舌打ちをした。
 
 
『な、なんでしょうか・・・?』 大きな体を小さく萎めて、ショウタが心細そうに
いつにも増して情けない顔を向け上目遣いする。
 
 
すると、
 
 
 
 『うっっっさいんだよぉぉおおお!

  毎っ晩、毎晩、”数学ムズい、ムズい ”ってさぁー・・・
 
 
  隣のあたしの部屋に丸聴こえだっつーのっ!!!』
 
 
 
ナオがドスの効いた低い濁声で、コメカミに血管を浮き上がらせながらまくし立てる。

築40年のだいぶガタがきている家は、容易に部屋の音を隣へ漏らし伝えてしまい
毎夜毎夜、勉強しながら呟くショウタの、心の声のはずがしっかり漏れていた
ネガティブな独り言が隣のナオの部屋に聴こえていて、相当な迷惑を被っていたのだった。
 
 
また拳で殴られでもするのかと両腕でその身をかばい、殴られる覚悟をもって頬と
腹に力を込めるショウタ。 ナオが怒った時はいつも条件反射のようにこの体勢を取る。

バスケ部に在籍するナオは程よく筋肉のつき引き締まった無駄のない体で、ショウタに
向け大袈裟にファイティングポーズをとり、フットワーク軽く間合いを詰める。
 
 
しかし、構えた拳をそっと下ろすとナオは不機嫌そうにぽつりと呟いた。
 
 
 
 『中学数学教えてやるよっ!

  ・・・感謝しろ、このタコっ!!』
 
 
 
ナオは母からショウタが必死に勉強しバイトに通う理由を聞き、今まではただの
脳天気で考えなしなしょうもないアホだと思っていたショウタを少しだけ見直していた。

兄の恋愛沙汰なんて気持ち悪くて鬱陶しいはずなのに、何故か今回ばかりはナオの
鉄の心を突き動かしたのだった。
 
 
 
 『・・・え? まじで??』
 
 
 
ナオの拳から身を守るように体の前面で構えていたその腕を下ろし、驚きパチパチと
せわしなく瞬きをするショウタ。 すると油断したその一瞬の隙に、ナオのパンチが
腹に一発軽く入った。
 
 
 
 『まぁ、どーーーーーう考えてもムリだと思うけどね~・・・。』
 
 
 
呆れたようにかすかに頬を緩めるナオのその顔が母のそれとそっくりで、ショウタは
殴られた腹をかばい苦い顔をしながらもほんの少し口許を緩めた。
 
 
 
 
妹ナオは毎晩ショウタを乱暴に小突きながらも、飽きもせず数学を教えた。

母は必死に勉強するショウタへ夜食を作って運び、叱咤激励した。

口数の多くない父は仕事を張り切り、学費を捻出しようと必死になっていた。
 
 
 
ショウタはそんなあたたかい家族の支えに応えようと、どんどん無理をしていった。
ヤル気と比例して勉強時間はどんどん増加し、それに反比例して睡眠時間は激減した。
 
 
 
いくら若いとはいえ無理がたたりそれが顕著に体に現れたのは、それから数週間後の
ことだった。
 
 
 

■第29話 逆光で翳った笑顔

 
 
 
 『ヤスムラー・・・

  あんた、どうしたの・・・? 寝不足??』
 
 
 
マヒロが机に突っ伏すショウタの横に立ち、体を屈めて覗き込むように見つめる。
耳にかけていたショートボブのサラサラの髪の毛が、体の傾げに合わせて垂れ揺れた。
 
 
最近のショウタは授業中に居眠りばかりを繰り返し、明らかに顔色も悪い。
ガッチリしていたはずの体がどことなく痩せて骨ばった気がしてならない。

なんだか心許なく見える背中に手をあてようと寸前まで伸ばし、突然シオリの顔が
浮かんでその手を引き戻したマヒロ。
 
 
ふと、突っ伏すショウタの上半身の隙間から見えた教科書に目を向けた。

その表紙には ”中学数学 ”と見えた気がして、不思議そうに首を傾げ更に顔を
近付けてもう一度覗き込んだ。 すると、やはりそこには中学の数学教科書が。
 
 
 
 
  (なんで中学のなんか・・・?)
 
 
 
 
思い切り怪訝な表情を向け、一瞬頭に浮かんだそれにまさかとでも言いたげに少し
からかい気味に半笑いで言う。
 
 
 
 『なーに、中学の教科書なんか勉強しちゃって・・・

  あんた、ホヅミさん追っかけて医大でも受験するつもり~・・・?』
 
 
 
すると、そのどこかやつれた顔をのっそり上げたショウタ。

耳に聴こえた ”ホヅミさん ”という固有名詞に嬉しくて反応したかのように、
にこやかに思い切り口角を上げ笑った。
 
 
 
 『んっ! 俺、医者になんだー!!』
 
 
 
信じられないその馬鹿馬鹿しい一言にマヒロが絶句し、目を眇めてぎゅっと唇を
噛み締めた。 無性に腹が立って仕方がない。 何故そこまでする必要があるのか
全く理解できなくて、マヒロはその呑気な情けない顔を睨むように見つめた。
 
 
『それ、ホヅミさん知ってんの・・・?』 責めるような声色で問うと、ショウタは
困り果てたように眉根をひそめて、再び机に突っ伏し更に情けなく小さく笑う。
 
 
 
 『ゆったけど・・・ むっちゃくちゃ怒られた・・・

  ・・・だから、こっそり勉強してんだよねぇ~・・・。』
 
 
 
えへへと笑うその底抜けにやさしい善人顔に、マヒロは怒りしかなかった。
煮えくり返るようなそれは、ショウタから次第にシオリへと矛先が変わる。
 
 
 
 
  (ヤスムラの性格ならガムシャラに暴走する事ぐらい分かんないわけ・・・?)
 
 
 
 
『バっカじゃないのっ?!』 目の前にはいない相手にそう低く吐き捨て自席に戻ると
イライラが治まらず机の上に置く力が入り過ぎ指先が白くなった拳がふるふると震えた。
 
 
 
 
 
部室でショウタとシオリ、ふたりきりで昼ごはんを食べる昼休み。

相変わらずひとつの机にふたり分の弁当箱を置いて、仲良くおかずをシェアしながら
やさしい時間を過ごしていた。
 
 
ショウタはシオリに激怒されて以来、医大受験の話題は一切口にしなくなっていた。
しかしそれは、また怒られるからという理由ではなく、いかにもショウタらしいもので。
 
 
 
 
  (合格してビックリさせちゃおう~・・・)
 
 
 
 
やはり根っからの楽天家なショウタは、シオリの驚く顔が見たい喜ばせたいという一心で
勉強を頑張っていることもバイトの件もシオリには内緒にしていた。
内緒にしているつもりでいた。

しかし、そんな情報は簡単にシオリの耳には届いていた。
 
 
 
 
  ”あのヤスムラが中学の教科書なんか持参して猛勉強してるらしい ”
 
 
 
そして、加えて ”ホヅミを追っかけて医大行きたいらしい ”との噂も。
 
 
弁当をつつきながら、明るく朗らかな顔を必死に作っているショウタ。
いつも通りに微笑みかけたいのに、体に常につきまとう倦怠感になんだか巧く笑えない。
 
 
疲れた顔をしてどんどん頬がこけ不健康になってゆく容姿に、誰よりショウタを想う
シオリが気付かないはずなど無かった。
 
 
 
 『ねぇ・・・ ちゃんと食べてる? 寝てる?』
 
 
 
不安で仕方がなくて哀しそうに目を向けるも、ショウタはそれを避けるかのように
いつも話をすり替え、シオリを笑わせようと必死に明るい話題をはじめる。

『ねぇ・・・ ヤスムラ君・・・。』 心配で泣きそうな顔を向けるシオリだって
毎日毎日勉強に追われ、疲れ果てて元気など無かった。

それでも自分も疲れている事など忘れる程、ショウタが気懸りで胸が締めつけられる。
 
 
ショウタはそんな憂慮してやまない顔を向けるシオリを見つめ返すと、頬にいっぱい
満面の笑みをたたえてニヤっと笑う。 なんとかシオリを笑わせたい、そんな哀しい
顔をして見つめないでほしい。
 
 
 
 『俺のことはいーんだってば!

  ホヅミさんはどうなの~・・・?

  ダイジョウブ? ちゃんと食って、ちゃんと寝なきゃダメだよ~?』
 
 
 
春の朗らかな陽だまりのようなショウタの笑顔が、窓から差し込む日差しに逆光に
なってシオリには眩しくてよく見えなかった。 
 
 
 
  真っ黒に翳って、本当にその顔は笑っているのかさえ。

  本当は泣いていたとしても、それに気付けないくらいに。
 
 
 
 
シオリにあたたかい笑顔を向けたはずのショウタは、その日の午後に遂に倒れた。

マヒロがシオリの元へ乱暴に押し掛けて来て、低く唸るように言う。
 
 
 
 『ちょっと話あるんだけど、いい・・・?』
 
 
 

■第30話 奇跡でも起きれば

 
 
 
ショウタが倒れた日の放課後、マヒロは2-Cのシオリを訪ねやって来た。

その顔は怒っているような哀しんでいるような、しかしどこか無表情にも見える。
 
 
 
 『ヤスムラ、倒れたよ。』
 
 
 
『え・・・。』 クラスが違うシオリの元へはまだ届いていなかったその情報に絶句する。

本来ならば一番最初に聞かされて当然なはずが、第三者を通じて聞かされなければ
ならない事実に、シオリもこの時ばかりは同じクラスだったならと感じずにはいられない。
 
 
そのイライラした感じを隠しもしない第一声で、マヒロがシオリを責め立てようと
切り出した事は瞬時に分かった。
 
 
 
 『あのバカが医大行くのなんか、ムリに決まってるの分かるよね?』
 
 
 
浴びせられる険のある矢継ぎ早な口調に、シオリは俯いて顔を上げない。

まるでシオリが医大に誘って無理を強いているとでも思っているような、そのマヒロ
の一方的な口調。 ストレートな言葉が、やわらかい部分にグサグサと突き刺さる。
 
 
しかしシオリには反論する気もなかった。 ショウタの思い込んだらまっしぐらな
性格は止められないという気持ちと、どこか心の奥底では本当に一緒に医大に行けた
ならという夢のような未来図を、一瞬でも描いていなかったかといえば嘘になる。
 
 
睨むようにまっすぐ見つめるマヒロの視線が痛くて、シオリはそっと視線をはずした。

シオリを追い掛け医大なんかを目指し、ショウタが無理をして倒れたことは紛れもない
事実なのだ。 すべては自分が発端なのだという事は痛いほど分かっていた。
 
 
シオリが、唇を噛み締めて小さく小さく呟いた。
 
 
 
 『・・・ちゃんと、私からもう一回ゆうから・・・。』
 
 
 
 
 
その頃、ショウタは学校まで迎えに来た父に連れられ自宅へ帰っていた。

病院で診察を受けた結果は、過労と睡眠不足。
深夜までの勉強と早朝のバイトは、いくら10代の血気盛んな肢体をもいとも簡単に
打ちのめす。 病院で点滴を打って少し休んだ後は、自宅へ戻って静養していた。
 
 
 
眠るショウタの横に立ち、母ミヨコがその寝顔をそっと見つめる。

毎晩毎晩遅くまで勉強机に向かい、ベッドに横になることもせず机に突っ伏して泥の
様に眠るその必死な息子の背中にそっと毛布をかけて、哀しげに微笑んでいた母ミヨコ。

いつも夜食を作って持って行くと、窓辺に置く愛情をたっぷり注いだミムラスに
ニヤっと笑いかけながら、室内だというのにマフラーを首元にぐるぐるに巻き付け
懸命に教科書を睨むその姿に、ミヨコの胸はどうしようもなく痛んだ。
 
 
 
 
  (奇跡でも起きないもんだろうか・・・。)
 
 
 
 
どうしてもショウタを医大へ行かせてやりたいという想いが募っていた。

どうしてもショウタの淡い初恋を実らせてあげたいという想いが。
 
 
 
金銭的な問題なら、なにをどうしてでも工面しようと思っていた。
色んな知人に知恵を借り、自治体の奨学金制度などしっかり調べてもいた。

しかし肝心な受験に関しては代わってあげる事も力になる事も出来やしない。
 
 
 
 
  (塾にでも通わせるか・・・ 家庭教師がいいか・・・。)
 
 
 
 
血色悪い寝顔を向け眠るショウタの横にひざまずき、母ミヨコは少しこけた息子の
頬にそっと手を当てて哀しげに目を伏せた。
 
 
 
すると、その時。
 
 
『ごめんください!!』 久しぶりに聴いた、階下から懸命に叫ぶ息子を心配して
やまないその慌てたような可愛い声に、ミヨコは目を細めて小さく微笑んだ。
 
 
 

■第31話 天邪鬼な神様

 
 
 
 『シオリちゃん・・・

  あのバカの見舞いに来てくれたの・・・?』
 
 
1階の玄関先。 

半畳ほどの狭い空間だがきれいに靴が並び、靴箱に柄を引っ掛けて傘が立て掛け
られている。 そんな中ショウタの汚れたスニーカーだけが、片足ひっくり返った
ままになっていて、なんだかくたびれた感じを醸し出す。 
 
 
母ミヨコが嬉しそうにでもどこか哀しそうに、慌てて走ってやって来たため息を
切らし苦しそうに肩を上下させるシオリを見つめた。
 
 
『おばさん・・・ ヤスムラ君は・・・?』 もう既に泣き出しそうな顔を向けている
シオリの細い肩に、ミヨコはやさしく手を置きそっと撫でる。
 
 
 
 『ダイジョウブだよ・・・ あんのバカ、大袈裟なんだよ!

  ただの寝不足っ! 寝不足~!

  いっぱい寝て、たらふく食べたらすぐ元気になるから~!』
 
 
 『そんなに遅くまで勉強してるの・・・?』 
 
 
 
シオリはミヨコが言う ”ダイジョウブ ”も素直に聞き入れる事など出来ず、
心配する哀しげな目は相変わらずミヨコに刺すように向く。
 
 
 
 『あー・・・ まぁ、新聞配達がキテるんだろねぇ・・・

  でもダイジョウブだよ! 若いんだし、すぐ元に戻るから。』
 
 
 
『新聞配達・・・ してるの・・・?』 シオリが目を見張り、顔が一気に青ざめる。

医大受験に向けて勉強をしているのは知っていたが、新聞配達のバイトをしている
なんて全く知らなかったシオリ。
 
 
 
 
   (なんで新聞配達なんか・・・。)
 
 
 
 
  ”医大に通うのに、いくらお金かかるか分かってるの・・・?

   ご両親にムリさせるの? 平気なの? ”
 
 
 
 
   (・・・わ、私が・・・・・・。)
 
 
 
あの日、自分が言った一言がショウタをここまで無理させたという事実を知り絶句する。

ショックを受けたように立ち竦み、一言も口をきかなくなったシオリ。
眉根をひそめ口をぎゅっとつぐんで、その顔は土砂降りの雨が降る直前の空のように
哀しく暗く曇って今にも泣き出しそうな不安定なそれ。
 
 
俯いたまま黙りつづけるシオリを、母ミヨコは覗き込むように見つめた。
 
 
 
 『バイトの事は知らなかったんだね・・・ 

  ・・・ごめんね、余計な心配させたね。』
 
 
 
ショウタが内緒にしていた事をうっかり伝えてしまった事に、バツが悪そうにミヨコは
顔をしかめる。 内緒にしていたショウタの気持ちも、知らされていなかったシオリの
気持ちも痛いほど分かる。 ふたりの気持ちを思い、申し訳ないことをしたと胸が
締め付けられ痛んだ。
 
 
首をもたげうな垂れていたシオリが、ガバっと顔を上げ必死の形相でミヨコの二の腕に
掴みかかった。 肉付きのいいミヨコの二の腕に、シオリの細い指が食い込むほど強く。
勢いよく上げた顔と連動して、艶のある長い黒髪が流れる水のように揺れた。
 
 
 
 『お願い・・・

  おばさん、お願い・・・ ヤスムラ君をやめさせて・・・
 
 
  このままじゃ、ヤスムラ君・・・ ほんとに倒れちゃうよ・・・

  ほんとに、病気になっちゃう・・・ 

  私のせいで・・・ ヤスムラ君が・・・。』
 
 
 
ボロボロとその大きな美しい瞳から涙の雫が零れ落ちる。
顔をくしゃくしゃに歪めて、目も鼻も頬も真っ赤にして、シオリが泣きじゃくる。

長い髪の毛が涙で濡れた顔に貼り付き、いつも美しくたゆたっているロングヘアが
乱れているというのに、なりふり構わずかぶりを振るようにミヨコへ詰め寄った。
 
 
ミヨコを掴むその手は、華奢で細いそれの何処からそんな力が出ているのかと思う程
きつく痛いくらいで、そのまっすぐ過ぎる気持ちに恰幅のいいミヨコも少したじろぐ。

そっとシオリの震える強張った手を握り両手で包むと、諭すようにミヨコは言った。
 
 
 
 『あのバカはね、ああ見えてもの凄い頑固だから、

  きっと、まわりが何を言おうが考えは曲げないよ・・・
 
 
  ショウタが、自分で、とことん納得するまでは

  止まらないし、どうにもならないんだ・・・。』
 
 
 
『でも・・・ それじゃ・・・。』 尚も身を乗り出し懇願するような目を向けるシオリ。

濡れた瞳から溢れる雫は、アゴを伝って白く細い喉まで哀しい涙跡をつけてゆく。
 
 
 
ミヨコはシオリの細い体をやさしく抱きしめた。 懸命に息子を想ってくれる心根の
やさしいシオリのことが、ミヨコも大好きだった。 この子がお嫁に来てくれたら
どんなに幸福だろうと、決して口には出来ないがずっと思っていたのだった。
 
 
ミヨコにあたたかくやさしく抱きしめられたシオリの華奢な肩は、小さく小さく震え
はじめた。 そして、喉の奥から絞り出したように小さく呟く。 それは痛いほど
哀しい色を含んだ声で。
 
 
 
 『ごめんなさい・・・

  私のせいなの・・・ 私が悪いの・・・

  私のせいで、ヤスムラ君はこんなムリしてるの・・・
 
 
  ・・・私のせいで・・・。』
 
 
 
ミヨコのやわらかいふくよかな胸に顔をうずめて、シオリが再び泣きじゃくる。

しゃくり上げ涙に詰まりながらも全ての事情を話したシオリへ、ミヨコがあたたかく
やわらかい目を向けた。
 
 
 
 『シオリちゃん・・・?

  シオリちゃんは、なあんにも悪くないんだよ。 謝る必要なんてない・・・
 
 
  それに、これだけはちゃんと分かってほしいな・・・

  シオリちゃんのお父さんも悪くない。経営者としての責任があるんだもの。

  勿論、お兄さんも悪くない。 従兄弟の彼だって・・・。
 
   
  ただね、神様が意地悪なだけ。

  ・・・神様が、天邪鬼なだけなんだよ・・・。』
 
 
 
ミヨコのシャツの胸元がシオリの涙でしっとりと湿り、津波のように押し寄せる
遣り切れない想いも呆気なくシャツを貫通し、ミヨコの心臓を突き刺した。
 
 
 

■第32話 深夜の電話

 
 
 
倒れた翌日、普段通りに学校に現れたショウタ。
病院での点滴とたっぷりとった睡眠のお陰か、その顔は本当に元気になっている様に見える。
 
 
シオリが朝登校すると、いつもと同じ萌葱色の青りんごが机に乗っているのが目に入り
それを引っ掴むと慌ててショウタのクラスまで駆けて行く。

教室へと向かうせわしない生徒の波を廊下を逆行してかき分け進むと、2-A教室の
戸口に抱き付くようにして掴まり、爪先立ちをしてホームルームがはじまる前の騒々しい
室内を見澄ます。
 
 
『ヤスムラ君!!』 しかめ面で口をぎゅっと結び教室戸口に佇み睨むシオリに、
ショウタは振り返り脳天気にえへへと笑う。 しかしその笑顔はいつものそれより
どこか翳っているように見えた。
 
 
 
 『ごめんごめん! 寝たら治ったから、マジでもうぜんっぜん平気っ!!』 
 
 
 
そう悪びれもせず呑気に口許を緩めるショウタを、シオリはただまっすぐ見つめた。
哀しそうな今にも泣き出しそうな顔をして、ただまっすぐ。
 
 
『なんて顔してんだよ~!』 ケラケラ笑うショウタは、バツが悪そうにわずかに
目線を逸らす。 本来なら1秒だってシオリから逸らしたくなど無いその垂れ目は
シオリのそんな顔を見ていられなくて、自分の不甲斐なさが情けなくて、どうも
思うように上手にその頬に笑みを作れない。
 
 
その瞬間教室に鳴り響いたホームルームが始まるチャイムに、ショウタは瞬時に
反応するとシオリの背中をやさしく押して、 『ほらっ! 戻って戻って!』 
教室戸口まで付き添い進み、廊下へと促す。 

廊下の真ん中でいまだ不安気に振り返り、ショウタをじっと見つめるシオリに、
大きな手を振り微笑んで見送った。
 
 
 
 
 
ショウタはさすがに焦り始めていた。

全く追い付く気配のない勉強。 今この高2の3学期で、中学勉強をしているなんて
普通のそこら辺の大学を受験するのですら難しい。
 
 
バイトならいくらでも出来る気がしていた。 体を動かして働くのなら、いくらでも。

しかし、今まで全くやってこなかった勉強の分野はぐうの音も出ない程にショウタを
追い詰める。 焦る気持ちと裏腹に進まない勉強。 新聞配達をしながら睡眠時間を
削っての勉強は呆気なくショウタの体に支障をきたす。 自分の体がこんなにもヤワ
だった事にはじめて気付いた。 体力も気力も無限だと信じて疑いもしなかったのに。

やってもやっても追い付かず、頭に入らない、覚えられない、時間なんか全然足りない。
 
 
 
 
  (どうしよう・・・

   マズい、さすがにこのままじゃマズい・・・

   俺が医者にならなきゃホヅミさんと一緒にいられないのに・・・
 
    
   どうしよう・・・ どうしたらいい・・・。)
 
 
 
 
 
そして、とある夜。

勉強机に向かい、頭を抱え背中を丸めるショウタ。
焦る気持ちから、いつもの癖の貧乏揺すりもあまりにイライラしたそれ。

力が入り過ぎた強く握るシャープペンシルの芯がポキっと折れ、勢い余ってノートに
かなりの筆圧の黒点が付いたその瞬間、ショウタの中でなにかがプツリと切れる音がした。
 
 
 
 
   ”ねぇ・・・ 

    私と一緒に、逃げる気・・・ ある?”
 
 
いつかの夜に、シオリが呟いた言葉がショウタの脳裏に浮かんでいた。
 
 
 
 
深夜、いまだ勉強机に向かい参考書の問題を解いていたシオリ。
背筋を伸ばし美しい横顔で真剣にシャープペンシルを握っている。

すると、サイドボードの上の充電中のケータイが、突如けたたましく鳴った。
 
 
『ん?』 こんな時間に部屋中に響くそのメロディに、シオリは慌ててケータイを
掴んで画面の表示を見ると、そこにはショウタからの電話着信の合図。
 
 
 
 『もしもし・・・?』
 
 
 
この静まり返った深夜にメールではなく電話が来たことに、どこか胸がざわつく。

シオリの呼びかけにもショウタは暫し無言で、ケータイを当てる耳には気持ち悪い程に
落ち着き払った静かな呼吸音のみが響いている。
 
 
『ヤスムラ君・・・? どうしたの?』 尚も呼び掛けると、ショウタはやっと静かに
口を開いた。 それは、いつものショウタの声色とは全く違う別人のようなそれで。
 
 
 
 『逃げよう・・・

  ・・・ふたりで、遠くに逃げよう・・・。』
 
 
 

■第33話 闇雲に踏み込むペダル

 
 
 
 『逃げよう・・・

  ・・・ふたりで、遠くに逃げよう・・・。』
 
 
シオリの耳に響いたその一言は、本来なら一笑に付して終わりなはずだった。

こんな深夜に、しかも懸命に勉強中のシオリがくだらない冗談に付き合っている
暇など無いのだ。
 
 
 
  ”なに言ってるの ”、と。

  ”冗談はやめてよ ”、と。
 
 
 
しかし、まるでその言葉を待っていたかのように、シオリはシャープペンシルを机に
投げ出し放ると、慌ててコートを着込んでケータイだけを引っ掴み自室のドアを飛び出した。 

こんな時間に階段を乱暴に駆け下りる足音が壁に床に反響し、両親に聞こえてしまうのも
気に掛けず、無我夢中なシオリは玄関ドアの向こうに佇むショウタの元へと一心不乱に駆ける。
 
 
厳重に鍵が掛かった重厚な玄関ドアを荒々しく開け飛び出すと、ぽつりライトを灯し
自転車のハンドルを掴んだままその横に佇むショウタの胸に飛び込み抱き付いた。 

もの凄い勢いで飛び込んで来たシオリの体を強く抱き留め、ショウタが呟く。
 
 
 
 『とにかく・・・ チャリ乗って。』
 
 
 
ショウタが慌てて自転車のサドルに跨ると、シオリも後ろの荷台に横座りしてダウン
ジャケットの大きな背中に抱き付くように腕をまわし掴まった。

物音ひとつしない漆黒の住宅街に、自転車のサイクルライトと等間隔に並ぶ街灯だけが
ぼんやり灯る。 どちらのそれも心許ない小さなあかりで、余計にふたりの不安を煽る。
 
 
しかし ”シオリ ”が原動力となる自転車は、ショウタの筋肉がつき引き締まった脚に
”どこか ”を求めて闇雲にペダルを踏み込ませた。 

ふたり分の重さをその脚に感じ、圧倒的な不安とわずかながらの希望の、ちぐはぐな
思いが胸に迫り上げる。 
 
 
 
 
  (ふたりなら・・・ ふたりでいられるなら・・・。)
 
 
 
 
タイヤは軋む音を立ててアスファルトの上を高速回転し、ふたりをどんどん無情な
”現実 ”から遠ざけてくれているように思えていた。
 
 
 
このまま本当にふたりで、誰も知らない ”どこか ”へ行けるんじゃないかと。

その時のふたりはまるで夢物語のように、出来っこないそれを信じようと必死だった。
 
 
 

■第34話 夢の生活

 
 
 
車も殆ど通らない深夜の時間帯の国道脇を、ショウタはシオリを後ろに乗せたまま
自転車のペダルを必死に高速で踏み込み続けた。 力強く踏み進む自転車はその勢いで
規則的に左右に傾ぎ、後部荷台のシオリは必死にその大きな背中にしがみ付いている。

それはまるで何かに追われているかのように、どこか怯えながら、たまに後ろを振り
返りながら。
 
 
ショウタの腰にまわすシオリの細い手は手袋を持つのを忘れた為、冷たい夜風に
すっかり凍え赤くなっているのが、信号待ちで脚を止め肩を上下に息があがった
ショウタの目に映る。

そんなショウタも慌てて家を飛び出してきた為、自転車のハンドルを握る手はシオリと
同じく真っ赤だった。 ゴツイ指の節々が痛々しいほどで。
 
 
 
  こんな寒空の下、手袋さえも持っていないちっぽけで無力な自分たち・・・
 
 
 
なにも言わずシオリの細い手を掴むと、ショウタは自分のダウンジャケットのポケットに
片方ずつその凍えた手を突っ込ませた。 すると途端にぬくもりに包まれるシオリの手。

シオリもなにも言わず、ただそのあたたかさに目を伏せてやさしく大きなダウンの
背中にぴったり寄り添った。 ふたり、なにも喋らず自転車の揺れに身を任せていた。
 
 
 
 
隣街の駅までやってきた自転車。

まだまだ夜は明ける気配まで遠く、更に暗さを増すその星ひとつない冷淡にも感じる
夜空にふたりは気付かぬうちに、目を落とし同時に小さく溜息を落とす。
 
 
駅前の陰になった場所にあるさびれたベンチに、隠れるように腰掛けたふたり。

ベンチ横にひっそり寂しげに佇む自販機でホットコーヒーを2本買うと、ショウタは
ぴったり寄り添い座るシオリの凍えた白い手にそれを渡す。

ふたり並んでゆっくりそれを傾けてひとくち飲むと、喉が小さく上下した。 
缶コーヒーの飲み口から唇を離すと、その瞬間だけあたたまった息が白く流れてかすめ
呆気なく冷えて消えた。
 
 
 
 『さてとっ!

  ・・・んじゃぁ~・・・ これからどうするか考えよっか?』
 
 
 
ショウタがおどけた明るい声を上げて、体を前傾しシオリをやさしく覗き込む。

シオリはクスクスと肩をすくめて笑い、愉しそうに目を細めた。
そっとショウタの大きな肩に寄り掛かり、どこを見るでもなく遠くを見つめる。
 
 
 
 『私たちの ”夢の生活 ”が、はじまるんだねっ!』
 
 
 
シオリが上げた久しぶりに聴くそんな明るい弾んだ声色に、ショウタは涙が込み上げ
鼻の奥がツンとする痛みに、そっと顔を伏せて切なげにぎゅっと目をつぶった。
 
 
 

■第35話 まばゆい感触

 
 
 
 『歳ごまかせばさ~、取り敢えずバイトとか出来んじゃん?』
 
 
ショウタが口を開いた。 その底抜けに明るい声色には細かい事など何も気にしない
相変わらず根拠のない自信に満ちあふれたそれ。
 
 
『住む所はどうするの~?』 シオリが目を細め、やわらかく頬を緩める。
ベンチの座面に手を置き肩をすくめて前傾し、その愛しいお気楽顔を覗き見ながら。
 
 
『ん~・・・。』 早速口ごもって黙ったショウタ。

情けない下がり眉の眉尻が更に急降下で下がる。 答えを待つシオリにじっと見つめられて
照れくさそうに自分自身に呆れたように、降参とばかり『えへへ』とはにかんだ。

そんなショウタに、シオリが可笑しそうにクスクス笑う。
 
 
 
 『部屋借りるにも、いろいろ身分証明とか必要なんじゃない?

  高校生だってバレたら、きっと部屋は借りられないよ~・・・』
 
 
 
シオリもまた明るく呑気な声色でどこか他人事の様にそう言うと、ショウタは丸めて
いた背をぐっと反らし胸を張ると、得意満面に告げる。

『ん~・・・ その問題は、後で考えようっ!!』 そして、ニヤっと口角を上げた。
 
 
 
 
 
どこまでも続く、遠く遥かなる闇の先。
この闇を辿っていけば確実に誰も知らないどこかへ行けるのに。

片方だけシオリと繋いだ手に他方の手もそっと添えて、その華奢で心許ないシオリの
それを包む。 誰にもとられないように守ると、シオリもまた他方の手を重ねた。
 
 
ベンチに背をのけ反らせ、星ひとつない真っ暗な夜空を見上げながらショウタは言う。
 
 
 
 『俺がさ~、バイトから帰ったらさ~

  ホヅミさんが、エプロンして玄関まで出て来てさ~・・・

  ”おかえり ”ってゆってくれんでしょ・・・?
 
 
  いや~、まじでそれスゲェなぁ・・・ 幸せだなぁ~・・・。』
 
 
 
遠くを見るような目でうっとりと、ショウタが嬉しくて仕方ないという表情を作る。

その脳裏には花柄エプロン姿のシオリが、作りかけの味噌汁のおたま片手に嬉しそうに
玄関にパタパタと駆け寄る愛らしい姿がしっかり描かれているようで。
 
 
 
 『 ”おかえりのチュウ ”するねっ!』
 
 
 
小首を傾げ微笑むシオリに、ショウタは反らしていた背をガバっとシオリへ乗り出す
ように近付け、『まままままじで??』 目を見開き、ランランと輝かせる。
 
 
その反応に、クスクス笑うシオリ。 『すげぇー・・・ やべぇー・・・』 と延々
繰り返しているショウタが愛おしくて愛おしくて絡めて繋ぐその手に更に力を込めた。
 
 
すると、ショウタはどんな想像をしているのか、ニヤけて頬筋をふるふると痙攣する
ように震わせながら、シオリを横目でチラチラ見て遠慮がちに呟く。
 
 
 
 『あ、あのー・・・ 

  きっとさ、ほら・・・ 金無いから、広い部屋借りられないからさー・・・

  タブン、タブンだけどー・・・ 

  ベ、ベッドは・・・ ひとつしか、置けないじゃん・・・?』
 
 
 
どこかいやらしく緩んでゆくそのだらしない口許を、シオリは呆れたようにひとつ
溜息をつきジロリと眇める。

ショウタがニヤける理由など簡単に想像はついていた。 
 
 
 
 『じゃ、私がベッドに寝るから、

  ヤスムラ君は、床にお布団敷いて寝てね。』
 
 
 
わざとシレっと言い切ったシオリ。 どこか涼しい面持ちで真っ暗な夜空を見上げる。

その澄ました横顔を、『えええー・・・。』 眉根を寄せて明らかに不満気に凝視する
ショウタ。 口を尖らせるだけ尖らせ、自分の妄想とは対極の反応に、おもちゃ屋前で
駄々を捏ねるこどものように、今にも手足をジタバタとバタつかせそうな勢い。

貫通するほど至近距離で射るように見られて、我慢も限界とばかりシオリは思わず
声を上げて吹き出し笑った。
 
 
 
 『私だって離れるのはイヤだよ・・・

  ・・・ふたりで、くっ付いて寝ようね・・・。』
 
 
 
そう照れくさそうに呟いてそっと目を向けると、ショウタが眉を下げ泣き出しそうな
情けない顔をしてまっすぐシオリを見つめる。
 
 
 
やさしくあたたかい想いが溢れる互いの視線が絡み合った。
 
 
 
するとどちらからともなく静かに目を閉じ、ふたりの凍えて冷えた唇はやさしく重なり合い
その眩暈がする程まばゆい感触に、一刻だけ現実を忘れることが出来た。
 
 
 

■第36話 溢れ出る涙

 
 
 
まだ明けない夜空の下ふたりは身を寄せ合ってベンチに座り、ふたりではじめる
”夢の生活 ”の話をいつまでもいつまでも続けていた。
 
 
それを想像している間はただひたすら愉しくて幸せで、その ”夢 ”をずっと見て
いたくなる。 
その、ただの ”夢 ”を永遠に。 ”夢 ”と分かっていて尚、永遠に。
 
 
クスクスと愉しそうに笑い続けていたシオリが、チラリとショウタを横目で見ると
ふと頭をよぎった一言を口に出す。
 
 
 
 『ねぇ・・・ 私たちっていつまで経っても苗字呼びだね?』
 
 
 
シオリは、ショウタに強く握られる手を小さくトントンとそのジーンズの脚に打ち付けて
ショウタに合図を送るように悪戯な視線を流す。

『そう言えばそうだな・・・ ”シオリ ”って呼んだほうがいい?』 ショウタが
朗らかに笑みを作って覗き込む。 付き合っているのだから本来ならば下の名前で
恋人同士らしく呼んでもいいはずだが、いまだにふたりは苗字で呼び合っていた。
 
 
 
 『ヤスムラ君は・・・? ”ショウタ ”って呼ばれたい?』
 
 
 
ふたり見つめ合って、その目の奥の真意をはかる。

そして、同時にぷっと笑い合った。 今現在、未成年のふたりが深夜に家を飛び出し
駆け落ちしようと年齢詐称の計画まで立てているというのに、こんな非常時に呑気に
”呼び名 ”の事なんか考えている状況に吹き出して笑う。
 
 
ショウタがまっすぐ向いたまま、ポツリと呟いた。
それは、まるで自分で自分に言い聞かせるように、噛み締めるように。
 
 
 
 『ホヅミさんがホヅミさんでいる間は・・・

  ・・・27才の春までは、このまま苗字で呼ぶよ。』
 
 
 
『・・・うん。』 やさしくコクリと頷くシオリも全く同じことを考えていた。
 
そんな未来が待っているのだとしたらどんなに幸せだろう。 シオリがヤスムラ姓に
なる事と、ホヅミ姓のままでいる可能性、どちらが高いパーセンテージを含んでいる
のか考えかけて思わずまた現実に引っ張られそうになり、慌ててまた夢の続きを描こうと
躍起になる。
 
 
 
一瞬感じたシオリのどこか沈んだ気配に、ショウタは努めて明るい話題を探した。
 
 
 
 『そういえばさ・・・ ホヅミさんってどんな子供だったの~?』
 
 
 
急に訊かれたこども時代エピソードに、咄嗟にショウタの実家に飾ってある小学生時代の
家族旅行写真の野球帽少年を思い出し、笑いそうになるシオリ。

ニヤニヤする頬を鎮めながら、目を細めてそっと思い出に浸るように話し始めた。
 
 
 
 『こどもの頃は、いっつも病院が遊び場だったなぁ・・・
 
 
  ウチの病院、すごく長く勤めてくれてる人ばかりだから、

  みんな親戚のおじさん・おばさんみたいな感じで・・・

  ・・・すっごく可愛がってもらってたんだぁ・・・。』
 
 
 
シオリが嬉しそうに話すその横顔を、ショウタは無言でまっすぐ見つめていた。
 
 
 
 『入院中の同い年くらいの子と仲良くなってね、

  看護師さん達の休憩室で隠れんぼしたり・・・

  院長室に忍び込んで、お父さんの偉そうな皮のイスにこっそり座る

  っていう度胸試ししたり・・・。』
 
 
 
クスクスと思い出し笑いをして肩をすくめるシオリ。
暫くひとりで愉しそうに笑い続け、小さくひとつ溜息をつくように漏れた一言。
 
 
 
 『楽しかったなぁ・・・。』
 
 
 
その瞬間、首を反らして真っ暗な空を見上げたシオリの瞳から、希望の光が失われた
ような気がした。 笑っていたはずのその瞳の奥が悲哀の色に変わったような。
 
 
そして、それはゆっくりと。 しかし、確かな決意を含んで発せられた。
 
 
 
 『私・・・ 病院が大好きなの・・・

  こどもの頃から、ずっと・・・ ウチの、病院が・・・。』
 
 
 
それはまるで、今夜家を飛び出しはしたものの本当は既に覚悟を決めていたような声色で。
 
 
そう呟いた途端、シオリの目から大粒の涙がぽろぽろと零れ落ちた。
その溢れ出る涙を、ショウタは何も出来ないまま息を止めて見つめていた。
 
 
 

■第37話 決心

 
 
 
『私・・・。』 言い掛けたシオリを、ショウタが慌てて耳を塞いで遮る。
 
 
 
 『やだっ!! やめて、頼むから・・・ 聞きたくない・・・。』
 
 
 
シオリがこれから告げようとしている ”その気配 ”に、ショウタは目をぎゅっと
つぶり眉根を寄せ頭を抱え込むようにして、耳を塞ぎ背を丸める。 
 
 
 
 『やだ・・・ やだ、ゼッタイやだ・・・ やだ・・・。』
 
 
 
『ヤスムラ君・・・ お願い、聞いて・・・。』 シオリがショウタの太ももに
手を置き身を乗り出して顔を覗き込む。 しかしショウタは俯いて首を横に振り続ける。
 
 
『ヤスムラ君・・・。』 訴えるようにショウタを揺さぶるも、唇を噛みしめ顔を
しかめてショウタは小さく小さく体を屈め、頭をすっぽり抱え込みガムシャラに抵抗する。
 
 
 
 『聞きたくない・・・ やだ、やだよ・・・ ゼッタイやだ・・・。』
 
 
 
何度も何度も繰り返し繰り返し、ショウタは壊れてしまったかのように呟き続ける。
 
 
 
 『だって・・・

  ・・・だって、考えてみて・・・?
 
 
  ヤスムラ君の商店街のおじさん・おばさんがどうなっても、

  自分のことだけ考えられる・・・?
 
 
  私ひとりの勝手な都合で、たくさんの大切な人達が

  もしかしたら・・・ 生活が危うくなったりしたら・・・
 
 
  それでも自分たちだけ、幸せに笑ってられる・・・?』
 
 
 
ショウタは更に背を丸め、何度も何度も首を横に振る。

そして、うわ言のように繰り返す。 『やだよ・・・ ゼッタイやだ・・・。』
 
 
 
シオリはショウタが強く耳を覆うその大きな手に、そっと冷えた白い手を重ねた。

その手もショウタに負けじと小刻みに震えている。
相当な時間をかけて考え抜いた覚悟だという事が伝わるも、どうしてもどうしても
ショウタにその決断は受け入れられない。 シオリと離れるなんて選択肢はあり得ない。
 
 
しかし、シオリの手の温度が冷たすぎて痛いほどで、刹那に ”それ ”をもう決心
しているのだと悟る。
 
 
触れ合っているというのに、ふたりの手と手があたたかくなる事はなかった。
むしろ、どんどん冷えて凍える互いのそれ。
 
 
 
ゆっくり静かに伏せていた目を上げ、シオリを見つめたショウタ。

その誰より愛おしい前髪奥のハの字の困り眉は、白い頬に幾筋もの涙の跡をつけ
あまりに哀しげに微笑んでいた。 
あまりに、寂しげに。 あまりに、美しいシオリのその笑顔。
 
 
 
 『・・・ありがとう。 ・・・ごめんね。』
 
 
 
ショウタは呆然と瞬きもせず、息が止まるほど美しいシオリを見つめていた。 
 
 
 
 
 
夜が明けると、ふたりは駆け寄って来た警官にあまりに呆気なく保護され、迎えに来た
両家の親にこっ酷く叱られ無情な現実の世界へ連れ戻された。

家出騒動以来、増々シオリは父ソウイチロウから厳重に見張られ、塾の行き帰りも
コウが出向くようになった。 ショウタとなるべくふたりにしないよう警戒され、
ふたりでいられる時間なんか無くなった。
 
 
学校と塾以外は、次第に自室から殆ど出て来なくなったシオリ。
ショウタを忘れようとするかのように、医大合格に向けての勉強にだけ一心不乱になった。
 
 
 
 
  (ヤスムラ君のことは考えない・・・ 考えない・・・。)
 
 
 
 
その想いとは裏腹に、シオリの勉強机にはひたすら参考書に向かうシオリを見守るかの
ように情けない顔のくまのぬいぐるみが佇み、橙色のミムラスの鉢が窓辺を彩っていた。
 
 
 

■第38話 余所余所しい態度

 
 
 
相変わらず、シオリの机の上には青りんごがひとつ置いてある。
 
 
シオリの塾の送り迎えですらコウに遮られるようになってもまだ、ショウタは決して
諦めようとはしなかった。 唯一、誰にも邪魔されずにシオリとふたりでいられる
昼休みだけが日々の愉しみになり、昼休みにシオリに会うことだけを目的に学校に
行っているようなものだった。
 
 
しかし、あの夜に ”決心 ”をしたシオリはそんなショウタを遠ざけた。
 
 
昼休み。 ショウタは部室でひとり、いつもの机の上にドデカ弁当箱を乗せたまま
シオリを待つ。

早く来ないかとソワソワして待つ。 その姿が現れるであろう戸口に目を遣り、
せわしなく腕時計に目を落とす。
早く顔を見たい、早く話がしたい。 シオリの傍にいられるだけでショウタには充分だった。
 
 
しかし愛しいその姿はいつまで経っても現れなかった。 最初はなにか忙しくて遅れて
いるのかと思っていた。 部室の戸口から廊下を遠く見澄ましシオリを探す。

昼休みが終わるギリギリまで待っても来ないのが分かると、慌てて弁当をその口に
かき込んで早食いし、咀嚼もおざなりに飲み込んだ。
 
 
不思議に思い10分の休憩時間にシオリの2-Cを訪ねるも、その艶めくロングの
黒髪姿はない。 休憩時間が終わり始業のチャイムが鳴り響くと、キョロキョロと
尚も必死にシオリを探しつつショウタは自分の教室に戻って行った。

その寂しげな大きい背中が廊下に消えたのを確認すると、教室の隅に隠れていたシオリが
哀しげに目を伏せ自席に着き、首をもたげて小さく溜息を落としていた。
 
 
『ホヅミさんて休み?』 次の休憩時間にも訪ねて来たショウタが2-Cのクラスメイトに
尋ねている声に、シオリが息を殺して素早く隠れる。 

『さっきまで居たけど。』 という返事に再び首を傾げながらあたりを見回すショウタ。
まるで親とはぐれた迷子のように、必死になってショウタのその情けない垂れ目は
シオリの姿だけを求め彷徨う。 

そして教室にそれがない事を確認すると、他を探そうとたった10分の短い休憩
時間なのも構わず再び慌てて廊下へ駆け出した。
 
 
 
 
その日の放課後、シオリは大慌てで帰り支度をしショウタに見つかる前に教室のドアを
飛び出そうとしたところ、一瞬早く飛び込んで来たショウタにそれを遮られた。
 
 
きっと終業のチャイムが鳴った途端に飛び出して来たのだろう。 
中途半端にカバンが開いて、中の傾いだドデカ弁当箱が覗いてしまっている。
 
 
腕を伸ばし戸口を遮って、ショウタは囁くように言った。
 
 
 
 『・・・やっと会えた・・・。』
 
 
 
心の底から嬉しそうに待ち侘びたように、やさしいあたたかい声色で。
 
 
しかしショウタの顔を見るなり、シオリは哀しそうにぎゅっと口をつぐんで目を逸らした。
 
 
 
 決して自分を見てくれない、その大好きな大きな瞳。

 決して名前を呼んでくれない、その大好きなまあるい声。
 
 
 
やっと顔を見られたことに弾けるような眩しい笑顔を向けたショウタが、そんなシオリの
余所余所しい態度に、今日一日その姿を見掛けなかった理由がよぎり瞬時にあの夜の
言葉が甦る。
 
 
 
 
   ” ・・・ありがとう。 ・・・ごめんね。”
 
 
 
あれは、本気だったのだと。 悪い夢でも、なんでもないのだと・・・

顔を見合わせればシオリだってやはり傍にいたいと思い直すはずだと、根拠のない自信と
期待をしていたショウタのぬるい考えを、完全に打ちのめす。
 
 
いまだ俯き決してショウタを見ないシオリへ、 『ちゃんと話し合・・・』 
苦しげに言い掛けたショウタの横を擦り抜け、シオリは無言で廊下を進む。

無視をするように、ひとりショウタを戸口に残して小走りで靴箱へと駆けてゆくその
背中をダッシュで追いかけると、後ろから乱暴にシオリのブレザーの腕を掴んで
ショウタは引き留めた。 
 
 
 
 『なんでだよ・・・?』 
 
 
 
放課後の明るい喧騒が響き渡る廊下の真ん中で、ショウタの切ない呟きが小さく足元に落ちた。
 
 
 

■第39話 壊してしまいたくなる衝動

 
 
 
 『だから・・・ 言ったじゃない・・・。』
 
 
決してショウタをその目に見ようとしない俯く白い顔は、必死にその声色に感情を
表さないように冷然と返す。 本当は苦しくて遣り切れなくて涙が溢れそうだけれど
喉の奥に力を入れて、込み上げるそれを抑える。
 
 
ショウタが悲痛な面持ちでかぶりを振り、腕を掴む手を緩めた一瞬の隙にシオリは
再び廊下を駆け出した。 階段を駆け上がり闇雲に走るその足はシオリ自身どこに
向かっているのか分からない。
 
 
 
ただ、ショウタから逃げたかった。

ショウタの近くにいるのがツラかった。

ショウタにまっすぐ見つめられるのが苦しかった。

本当は、全てなにもかも投げ出してずっとショウタの傍にいたいという気持ちを
口に出してしまいそうで怖かった。
 
 
 
気が付けば、ひと気のない理科室がある西棟に駆け込んでいた。

相変わらず静まり返ったそこには、シオリの靴底が床面を蹴り上げるゴムが擦れる
音と必死に涙を堪える苦しげな呼吸音のみ響き渡る。
 
 
 
 
  ”ヤスムラ ショウタ! 2年A組 出席番号18番 実家は八百・・・ ”
 
 
 
 
ショウタのやわらかいけれど強引な勢いに気圧され、ここの廊下でよく立ち話をした
事を思い出しあの頃の想いに胸が締め付けられ思わず立ち止まる。 
 
 
 
 
  ”好きだから!

   これから少しずつ俺のこと知ってもらえればいいと思ってるから!”
 
 
 
 
  ”俺がさ~・・・

   すんげー がんばってがんばってさ~

   ホヅミさんの気持ちを変える可能性だってゼロじゃないじゃんっ?”
  
 
 
 
いつもいつもショウタがバカが付くほど呑気にお気楽に、そして陽だまりみたいに
笑っていた。 土足でシオリの心に踏み込んで、あたたかい陽を照らし気が付けば
橙色のミムラスを咲かせていた。
 
 
すると、大きな足音と共にショウタがもの凄い勢いで追いかけて来た。

そして廊下に俯き立ち竦むシオリをその目に捉えると、勢いもそのまま思い切り
後ろから抱きしめる。
 
 
 
 『なんで・・・ なんでだよ、やだよ・・・。』
 
 
 
ショウタの熱い息をシオリは耳元に感じていた。
すがるように呟き抱きすくめるその腕は、シオリを押し潰してしまいそうに力が強い。
 
 
 
 『ごめんね・・・ 今まで、ほんとありがとう・・・。』
 
 
 
愛しくて仕方がないやわらかく低いショウタの声色に、シオリは冷静を装うのも限界
だった。 思わず漏れた諦めたような涙声に、ショウタが爆発する。
 
 
 
 『 ”ありがとう ”ってナンだよ? 

  なに、想い出みたいな言い方してんの?

  進行形だろ!! なに終わらしてんだよ・・・ やだよ・・・

  ・・・ゼッタイやだ!! なんで離れなきゃいけないんだよ・・・。』
 
 
 
シオリの背中から離れ向き合うと、その細い両肩を掴んで顔を覗き込むショウタ。
情けない下がり眉が更に下がって、その顔は哀しげに悔しげに今にも泣き出しそうで。
 
 
 
 『・・・ホヅミさんは、それでもいいの・・・?』
 
 
 
シオリの瞳に今にも溢れそうな涙を目に、ショウタが懇願するように肩を揺さぶる。
乱暴に揺らされ、とうとうその透明の雫がツヤツヤの白い頬にカーブを描き伝い流れた。
 
 
 
 
  (誰にも渡さない・・・ 離すもんか・・・。)
 
 
 
 
  誰かにとられるくらいなら、いっそのこと壊してしまいたくなる衝動。
 
 
 
突如、ショウタの心にそれが湧き上がったその時・・・
 
 
シオリの細い手首を激しく掴み、その華奢な体ごと廊下の壁に押し付けるとショウタは
無理やり唇を押し付けた。 その軽い体は容易にショウタの思うまま、ざらつく壁材に
押し遣られ、ブレザーが擦れる感覚を背中に伝える。

その突然の衝撃に驚き目を見張るシオリ。 唇にかかるショウタの荒く熱い息。
乱暴に掴まれた手首が圧迫されジリジリと熱をもち痛み、はじめて感じる ”恐怖 ”
に身が竦んで動けない。
 
 
『ぃ、いや!!!』 わずかな唇の隙間から拒絶をするも、再び強引に唇を塞ぐショウタ。

激しくぶつかった際に唇が少し切れたのか、鉄のような血の味が微かに口内に広がり
無理やり押し入ってきた熱い舌先のぬめった感触に、シオリは怯えて仰け反り必死に
顔を避けようとする。
 
 
激しくもがいてショウタの腕から逃れようとするも、シオリの細い体は ”男の顔 ”を
したショウタには敵わない。

怖くて恐ろしくてガタガタと震えショウタに涙で潤む怯えた目を向けると、そのシオリの
顔に呆然自失状態だったショウタの手から力が抜ける。 シオリは一気に腰が抜けた
ように床にしゃがみ込んだ。
 
 
 
 『こ・・・怖いよ・・・ やだ・・・

  やだよ、やめてよ・・・ ヤスムラ君、怖い・・・ 怖いよ・・・。』
 
 
 
ガクガク震えながら泣きじゃくるシオリ。 乱暴に掴まれた手首はショウタの握る指の
跡が真っ赤になって痛々しく残り、シオリはそれをかばう様に胸に抱える。

”怖い ”と延々繰り返し怯えて泣き続けるシオリを、呆然と見つめるショウタ。
我に返ったように自分がしてしまった最低な行動に恐怖すら覚え、ショウタもまた
目を見張りガタガタと震えた。
 
 
『ごめん・・・。』 ショウタのそれは涙声となってか細く床に落ち、後悔しかない
その瞳から透明な雫が滴り落ちる。 廊下の床材に小さな粒がぽつぽつと広がり、
シオリのすすり泣きが響く中、その雫を踏みつけてショウタは逃げるように走り去った。
 
 
 
 
  (やだ・・・ ゼッタイ離れたくない・・・ 離れたくない・・・。)
 
 
 
 
陽だまりのように笑っていたショウタから、徐々に笑顔が消えていった。
 
 
 

■第40話 哀しい重み

 
 
 
シオリに乱暴なことをしてしまったその日以来、ショウタは合わせる顔がなくて
まるでシオリから隠れるように身を潜めていた。
 
 
嫌われたかもしれないという恐怖と、なんであんな事をしてしまったのだろうという
後悔に苛まれ、ちゃんと謝らなければならないのにシオリの顔など見られない。

廊下ですれ違う時も、シオリは足を止めショウタに哀しげに目線を向けるもその情け
ない下がり眉は咄嗟に顔を伏せ口をつぐみ、決してシオリを見ようとはしなかった。
 
 
しかし、絶対に諦めないという気持ちは変わらなかった。 むしろ余計に気持ちは
高まっていた。
それを表すかのように、毎朝毎朝、青りんごだけはシオリの机の上に置きに行った。
その存在でまるで ”諦めない自分 ”を誇示しているかのように。
 
 
もう昼休みですらシオリと一緒にいられなくなったショウタは、再び狂ったように
勉強をしていた。 哀しさ、寂しさ、怒り、苦しみ、全てをぶつけるかのように
その大きな背中を丸め教科書を睨み付ける。 
 
 
シオリが来ない部室にひとり、教科書を広げ勉強をしながら食べる昼食。
自分の咀嚼する音とシャープペンシルが文字を記す擦れた音だけが物哀しげに響く。
 
 
 
 
  ”コレ、ちょうだい?” 
 
 
シオリが箸を伸ばして、ショウタの弁当のおかずを摘みもぐもぐ食べ、
『美味しい。』 と嬉しそうに頬を緩ませて笑った顔を思い出す。
 
 
 
ふたりで笑い合って食べたあの時間は夢だったのではないかと思う程、ひとりのそれは
虚しくて寂しい。 シオリがいなくては何を食べたって美味しくなどない。 
ただ数回咀嚼してただ飲み込み胃に落とすという行為でしかなかった。 どんなに味の
濃い玉子焼きも、全く味気なく感じた。
 
 
 
時間が足りない。

勉強してもしても、追い付く気配など微塵もない。
 
 
 
思わず舌打ちをし、イライラする握り締めた拳で乱暴に机を叩きつけた。

破裂するような大きな音が静まり返った部室に木霊する。
弁当箱と箸が小さく跳ねあがり、ペットボトルのお茶がボコンと音を立てて倒れ零れた。
その弾みで箸が1本ポトリと床に落ち、コロコロと転がって埃にまみれる。
 
 
『くそっ・・・。』 ショウタの目に涙が滲んでいた。
 
 
シオリの為なら、シオリと一緒にいられるなら勉強だって苦痛ではないショウタ。
決して得意ではないけれど好きではないけれど、シオリの為なら頑張れる。

しかし考えたくはないけれど、少しずつ少しずつ無理かもしれないという思いが頭を
かすめはじめていた。 確実にチクタクと迫りくる制限時間が、考えなしな甘い考えを
これでもかというくらいに無残にも打ちのめす。

馬鹿が付くほど楽天的なショウタも、今更ながらそれに気付いた。
 
 
 
 
  (どうしたらいい・・・?

   どうしたらホヅミさんと一緒にいられる・・・?)
 
 
 
周りの第三者にも分かるほど、次第にショウタの顔から朗らかな笑顔が消えていった。
時折見せる笑顔は、まるで泣いているようなそれに見えた。
 
 
 
 
机の上に寂しそうにポツンと置かれている青りんごを両手で包み、シオリは必死に
涙を堪える。 あんなに眩しく輝いていた萌葱色が、今はまるで泣き出しそうなそれ。
 
 
 
 
  (私のせいで、ヤスムラ君から笑顔が消えちゃう・・・。)
 
 
 
 
目も鼻も唇も頬も手も声も、全部全部好きなのに。大好きなのに。

自分はいつもいつもショウタにしてもらうばかりで、何も返してあげられない。
それだけではなく、今現在、ショウタから笑顔をさえ奪おうとしているのは誰でも
ない自分なのだと、シオリはどんどん自分を責めはじめた。
 
 
シオリの心も、もう限界だった。
ショウタがシオリのために頑張れば頑張るほど、シオリの心は哀しい悲鳴をあげた。
 
 
 
ショウタのあたたか過ぎるまっすぐな想いは、次第に次第に哀しい重みを生じはじめていた。
 
 
 

■第41話 嘲笑うかのような悪戯な声色

 
 
 
塾が終わって建物から出て来るシオリを、コウは相変わらずモデルのような佇まいで
静かに待っていた。
 
 
背中を丸め気怠げにしているというのに、キャメル色のチェスターコートとニット姿が
まるで住宅街の建物に不釣り合いで、やたらと目立って仕方がないそれ。

女生徒がその姿をチラチラと盗み見し、なにやらヒソヒソ話をしている。
明らかにその声色は黄色いそれで、コウへの賛辞だということは言わずもがなだったが
そんなの聴き慣れているとでもいうように、照れもニコリともせず無表情なコウは
そちらへ目もくれない。
 
 
『お待たせ。』 抑揚ない声色でやっとやって来たシオリが俯きがちに近寄ると、
その無表情はパッと瞬時に明るい表情を向け、小さく微笑んだ。
 
 
そして、シオリの顔をそっと覗き込む。
 
 
 
 『疲れた顔してんなぁ・・・

  ちょっと寄り道でもして、甘いものでも食べて帰ろうか・・・?』
 
 
 
やさしく微笑んでシオリの背中に手をまわすも、俯くその顔は黒髪で表情を隠し
背中の手を嫌がるように小さく体をよじると、首を横に振り一瞬の考える隙もなく呟く。
 
 
 
 『疲れてるから帰ってひとりになりたい。』
 
 
 
その硬い頑なな声色に瞬時にコウの顔から微笑みが消えた。 『・・・そう。』

そして、能面のような美しい感情のない顔に戻るとゆっくりと瞬きをして心の中に
込み上げるどうしようもないイライラをなんとか鎮めようと必死になっていた。
 
 
 
 
シオリの自宅に帰ると、コウはいつものようにリビングでシオリ母マチコとお茶を
飲んでいた。 楽しく盛り上がる話題などあるはずもなく、ふたりの間の重い空気に
息が詰まりそうになる。 つけっ放しのテレビの音声が無ければ1秒だってその場に
いられない程の、その空気。
 
 
 
 『・・・シオリにお茶渡してくるね。』
 
 
 
そう言うと、シオリが愛用するピンク色の湯呑にお茶を入れ、シオリの部屋がある
2階へ上がったコウ。 そのスっと背筋が伸びたキレイな背中を母マチコが目で追った。
 
 
ドア前で立ち止まり、少し聞き耳を立てて中の様子を伺う。 静かなシオリの部屋。

静かにノックを2回して『入るよ。』 と声を掛けドアを開けるも、黒髪が美しく
たゆたうその背中は勉強机に向かったまま振り返りもしない。
 
 
 
 『シオリー・・・ お茶淹れてきたよ、

  ・・・ちょっと休憩したら・・・?』
 
 
 
まっすぐシオリの元まで進み勉強机に湯呑を置くと、コウの目はくまのぬいぐるみを捉えた。 

首に手ぬぐいを巻かれたそれは、まるで勉強するシオリを応援するかのように
やさしく勉強机上に佇み見守っている。 そのぬいぐるみのあたたかい眼差しに、
瞬時にそれの ”出所 ”が分かったコウ。 心の中に蠢くイライラが再びどうしようも
なく燃え上がる。
 
 
まっすぐ参考書に目を落とす、美しい真っ白な百合のようなその横顔をじっと見つめた。

長いまつ毛、スっと通った鼻筋、透明感のある色白の頬。 まるでおとぎ話に出てくる
お姫様のような、目を見張る程キレイなその横顔。
 
 
 
 
  (シオリ、大きくなったらコウちゃんのお嫁さんになるっ!!)
 
 
 
遠い記憶がコウの脳裏をかすめ流れた。
 
 
 
すると、コウは机に片手を付き体を屈める。
斜め後ろからそっと顔を寄せ、シオリの薄く形の良い唇になんの脈絡もなく突然キスをした。
 
 
驚いてビクっと跳ね、慌ててコウを押し退けるシオリの手が湯呑にぶつかり熱いお茶が
机にこぼれてノートを濡らす。 そこに懸命に書いた文字が滲んでかすんだ。
 
 
 
 『・・・青りんご君とキスぐらいはしてるんだろ~?』
 
 
 
まるで嘲笑うかのような悪戯なその声色に、シオリは憎しみが滲むような目で睨んだ。
その忌々しい唇の感触を手の甲で何度も何度も、口許が赤くなる程にぬぐう。

こすり過ぎて痛々しく赤いシオリの口許のやわらかい肌を、コウは睨むように目を
細めてじっと見ていた。 
 
 
 
 
  (コウちゃん! ねぇ、聞いてコウちゃん!!

   ちゃんと聞いてるぅ~? ・・・あのね、シオリね・・・。)
 
 
 
 
思い返すといつも自分の後を追い掛けて来たあの日の幼い少女は、今、こんなにも
美しく成長し、そして吐き気がする程しょうもない八百屋なんかをひたむきに想っている。
 
 
ふと、机の上の開きかけの暗記カードに目を止めたコウ。

そこには英単語ではなく、下手くそな絵がチラリ覗いている。
無言で手に取ってめくると現れた ”それ ”に、『純愛だねぇ~』 馬鹿にしたように
口許に手をやって大袈裟に肩をすくめ笑った。
 
 
『触らないでっ!!』 怒りを爆発させたようにそれを奪い返すと、シオリは大切そうに
守るように両手で包んでぎゅっと胸に押し付ける。
 
 
泣き出しそうに ”その人を想う ”その顔を、無表情で見下ろしていたコウ。
するとゾっとするほど感情が無い声色で、呟いた。
 
 
 
 『軽く触れるキスだけじゃ、青りんご君の年頃は ”おさまらない ”と思うなぁ~
 
 
  ”最初で最後の想い出 ”にさぁ~、1回ぐらい抱かせてやれば~・・・?

  俺もシオリの ”はじめて ”を奪うのは、さすがに気が引けるしね。
 
 
  青りんご君のぬくもりでも後生大事に抱えたまま、

  せいぜい、病院のために身を捧げるんだね~・・・。』
 
 
 
 
シオリの目に悔し涙が滲み零れ落ちそうになるのを、コウは目を眇めて見ていた。
 
 
 

■第42話 木っ端微塵に傷付ける覚悟

 
 
 
マヒロが再びシオリの元へやって来た。

その足取りは異様に思えるほど静かなもので、胸にこみ上げる怒りを必死に堪えている
感じが滲み出ている。
 
 
最初睨むように眇めていたマヒロの目は、次第に懇願するようなそれに変わる。

健康的に日焼けしたその頬が、そっと口許から覗く八重歯が、遣り切れない感じで
引きつり歪んでゆく。
 
 
 
 『また倒れたよ、あいつ・・・
 
 
  ねぇ・・・ ヤスムラのこと・・・

  一瞬でも本気だったんだよね・・・?

  ちゃんとあいつのこと、好きだったんだよね・・・?
 
 
  なら、ちゃんと傷つけてあげてよ!

  ちゃんと木っ端微塵に、ちゃんとあいつが諦めつくくらいに傷付けて、

  ちゃんとフってあげてよ!!
 
 
  もう・・・ 見てらんないよ、あいつが気の毒で・・・。』
 
 
 
まくし立てながらも所々言葉に詰まるマヒロに、シオリが俯き唇を噛み締めた。

マヒロの苦しそうに歪めた頬には涙の雫が伝っている。 その表情にショウタを
想う気持ちがありありと滲んでいた。 必死にショウタを心配し腹を立てそして
心の底から哀しんでいるその姿。 握り締めた拳が力が入り過ぎて小さく震えている。
 
 
 
 
 
   好きな人が苦しむ姿を見るのは、

   自分が苦しむより、ずっとずっとツラい・・・
 
 
 
 
  ( ”好きだった ”って、過去形に映ってるんだ・・・。)
 
 
 
進行形だという事は自分の胸にのみ秘め続けなければいけない、その想い。
誰にも知られてはいけない。
ショウタにだけは気付かれてはいけない。
 
 
ショウタの笑顔を取り戻すためには、自分が傍にいてはいけない・・・
 
 
 
 
  ”ちゃんと諦めつくくらいに傷付けて、フってあげてよ!!”
 
 
  ”最初で最後の想い出 ”に、1回ぐらい抱かせてやれば~・・・?”
 
 
 
頭の中を駆け巡るその言葉。
 
 
 
  (ヤスムラ君の笑顔を取り戻すためには・・・。)
 
 
 
シオリは弾かれたように駆け出していた。
午後の授業も放り出して学校を飛び出すと、シオリの脚はショウタが静養する実家へ向かう。
 
 
肺が爆発しそうに苦しいけれど、決して足を止めずに走り続けてやって来た八百安の
店先にはショウタ母ミヨコが、いつもの前掛けをして恰幅の良い腹を迫り出しツヤツヤの
野菜を並べている。
 
 
『あら!シオリちゃん。』 シオリの姿を目に、ミヨコから掛けられた声にも殆ど
反応せずにシオリは一瞬だけ目を向けると 『お邪魔します。』 と低く呟いて勝手に
裏口玄関に入って行った。
 
どこか様子がおかしなシオリに、母ミヨコはなんだか嫌な予感を感じ目を凝らして
その華奢な背中を見送る。 店先に並べられたカゴに山に積まれたツヤツヤの青りんごが
触れてもいないのに雪崩れて足元に転がり落ち、目映く輝くそれが汚れた。
 
 
玄関先でキレイに手入れされ磨かれたローファーを脱ぎ、一旦しゃがんで靴を揃えると
シオリは覚悟を決めたようにひとつ息を付き、振り返ってショウタ自室に向け階段を
静かに上がった。
 
 
 
 とん とん とん とん・・・
 
 
 
シオリの濃紺ハイソックスの足が、静かに階段の踏面を一歩また一歩と進む。
古い階段はシオリの小さな重みを受け、軋む音をその壁に天井にどこか哀しく響かせる。
 
 
ドアの前で留まると、震える小さな手をそっと胸にあててシオリは深呼吸した。

目をつぶり鼻から深く息を吸うと、”今からしようとしている事 ”に不安しかない
その小さな胸がコトリ コトリと急速に痛いくらいに心臓の音を立てる。
 
 
そして、俯いていた顔を静かに上げると、シオリは拳をつくってドアを2回ノックした。
 
 
『んぁ~?』 扉の奥から疲れたような沈んだ声が返事をする。
大好きなやさしいあたたかいはずのショウタの声は、あまりに心細く弱々しくシオリの
耳に届き、体調の悪さは顔を見なくても容易に伝わる。
 
 
 
静かにドアノブを回し、シオリが部屋へと足を踏み入れた。

その顔は、”木っ端微塵に傷付ける ”ための覚悟をした至極冷静なものだった。
 
 
 

■第43話 間違っていると感じる感触

 
 
 
母親が来たとばかり思い気怠く横たわったままのショウタの目に、静かにドアを開け
入って来るシオリの姿が見え、ショウタは慌ててベッドに横になっていた上半身を起こした。

熱をもつ額に貼った冷えピタが、ぺろんと剥がれて顔にかかり手で払う。
 
 
  
 『ど、どうしたの・・・? まだガッコあるでしょ・・・?』
 
 
 
壁掛け時計に目をやり今は午後の授業中なはずのシオリに、ショウタは咄嗟に眉根を
ひそめ申し訳なさそうな所在無げな顔を向ける。
 
 
 
 『別に、あの・・・ ただの寝不足だから・・・

  ごめん! 見舞いなんか、もう、ぜんっぜん良かったのに・・・
 
 
  ・・・ごめん、まじで・・・ ごめん・・・。』
 
 
 
何度も何度も ”ごめん ”と謝る、そのやつれた顔。
シオリはなにも言わず、ただまっすぐ瞬きもせずにショウタを見つめていた。
 
 
乱暴にキスをしてしまって以来、自己嫌悪に陥りまともに見られなかったシオリの顔。
好きで好きで仕方がないその愛しいシオリは、どこかいつもと様子が違う。
 
 
『・・・ホヅミさん・・・?』 顔色を伺うように覗き込むと、シオリは一旦俯き
ひとつ息をつくと、再び顔を上げてまっすぐショウタを見つめた。
 
 
そしてブレザーのボタンを全てはずすとそれを肩から脱ぎ、襟元のグリーン基調の
リボンタイもはずして乱雑に床に落とす。

散らかったショウタの部屋の、そこかしこに放置された漫画本やゲームソフトの上に
シオリの制服が覆いかぶさる小さい音を立てた。
 
 
その指先はゆっくりと白いシャツのボタンを、ひとつずつひとつずつはずしてゆく。
 
 
 
 『ちょ・・・ な、なにしてんの・・・?』
 
 
 
目を見張りそれを呆然と見ているショウタ。
ゴクリと息を呑む音が、シオリの耳にも分かる程ハッキリ響いた。
 
 
シオリの白シャツのボタンが上から4番目あたりまではずされ、肌蹴たところで
シャツの奥にある透き通るような真っ白な肌が覗き見えた。

薄桃色のレースに包まれた小振りだが柔らかそうなふくらみが目に入り、慌てて目を
逸らすショウタ。
パチパチとせわしなく瞬きを繰り返すその目は、それを見てはいけないと分かりつつ
見たくて見たくて仕方ない衝動とせめぎ合う。

ジリジリと体の芯が熱くなる。 頬も耳も首も、そのふくらみの残像に熱を帯びる。
 
 
すると、尚も無言なままのシオリが近寄り、ベッドの上に膝立ちになってショウタと
向き合った。 慌ててショウタは顎を上げ至近距離のふくらみを視界からはずす。
 
 
シオリは胸のふくらみを押し付けるようにショウタのTシャツの胸に抱き付き、
目をつぶって顔を傾けると、乾燥してざらつくショウタの唇におもむろに自分のそれを重ねた。 

瞬時に口内に感じる蕩けるほどに熱を持った舌先の感触。 それは先日ショウタが乱暴に
重ねたそれより濃厚な味がした。
 
 
その時、今まで幸福以外のなにものでもなかったはずの唇が重なるその感触が、
なぜかショウタには直感的に間違っていると感じた。 虚しさだけが込み上げるその
絡み合う粘膜の温度。
 
 
 
 『こうゆう事、したいんでしょ・・・?』
 
 
 
そっと濡れた唇を離し、シオリが瞬きもせず小さく呟いた。
 
 
 

■第44話 怒鳴るようなすがるような

 
 
 
仄暗い虚ろな目で、シオリがショウタを射抜くように見つめる。
 
 
そして、震える指先で薄桃色のブラジャーの肩紐を細い肩からはずそうとした
シオリの手首をショウタが慌てて掴んで、それをやめさせた。
 
 
 
 『ちょ・・・ ま、待った!! ・・・ま、まじで、どうしたの?

  な、なんか・・・ 変だよ、ホヅミさん・・・ どうしたんだよ?』
 
 
 
真っ赤な顔をして、必死にシオリのふくらみから目を逸らそうとするショウタ。
華奢な手首を掴んだその大きいはずの手は、小さく小さく震えている。
 
 
シオリは感情のない声色で呟く。
その顔は、一時停止ボタンを押したかのように唇以外は静止して静まり返って。
 
 
 
 
 『こうゆう事させてあげるから、もういい加減あきらめてくれない・・・?』
 
 
 
 
『・・・ぇ?』 耳に聴こえた信じられないその一言に、ショウタが言葉を失う。
 
 
目を見張り瞬きも忘れて、たった今シオリの口から出たそれに呆然と固まる。

純粋でやさしいシオリの口から出るとは思えない、そのむごたらしい言葉。
なにかの聞き間違えではないかと、何度も何度も他の意味を必死に探る。
 
 
真意をはかろうとそっとシオリの顔を覗くも、まるで感情のない人形のようなそれ。
あの冷酷なコウをふと思い出すような、真っ白く美しく哀しい能面のようで。
 
 
頬をピクリとも動かさない無表情なシオリの顔を目に、ショウタが首をもたげうな垂れた。

失望したように背中を丸め、何度も何度もかぶりを振る。
いまだ布団に入ったままの脚の上で握り締めた拳が、ショックで小刻みにふるふると
震えている。
 
 
 
 『そりゃあさ・・・こうゆう事、したいよ・・・
 
 
  本音を言えば、ぶっちゃければ・・・ したい

  したくて、したくて、堪んない・・・ 

  ホヅミさんに触ってみたい、けど・・・
 
 
  でも・・・ こんなの違うだろっ!

  なに、想い出作りみたいな言い方してんだよっ!
 
 
  進行形だろ・・・
 
 
  これから・・・ もっと、ずっとずっと一緒にいて、

  いっぱい手ぇつないで・・・

  いっぱいキスもして・・・

  そんで、抱き合うんじゃないの・・・?

  ふたりの気持ちが重なって、そん時に抱き合うんじゃないの・・・? 
 
 
  なぁ・・・? そうゆうもんだろ・・・?』
 
 
 
ショウタの怒鳴るようなすがるようなその声色に、シオリは泣き出しそうになるのを
必死に堪えていた。 顔を背け決してショウタとは目を合わせない。 喉の奥にぐっと
力を入れて呼吸を止めると、漏れそうになる嗚咽に体が震えた。
 
 
 
 
  (泣いちゃダメ・・・ ぜったい、ここで泣いちゃダメ・・・。)
 
 
 
 
すると、シオリはゆっくりと静かに顔をあげ口を開いた。
 
 
 
 『もう、ほんとに終わらせたいの。』
 
 
 
凍りつくように冷たいその切り捨てるような声色に、 『・・・やだよぉ・・・。』 
ショウタは何度も何度も首を横に振って、シオリの言葉を拒絶する。

噛み締めすぎた唇が痛いほどだったが、食いしばる力は抑えることが出来ない。
 
 
慌ててシオリの小さな手を、その大きな不器用な両手で包み込む。 

まるで思い直してくれとでもいう様に、ふたりの間にあった気持ちを思い出してくれと
でもいう様に、その手の平の温度を伝えようと必死に。
 
 
『・・・もう、ムリ・・・。』 横を向いて吐き捨てるように呟いたシオリ。
 
 
その大好きなあたたかい大きな手を、汚いものにでも触れられたかの様に振り払った。
心の底から疲れたような低い声色に、ショウタが震えながら涙声で訊いた。
 
 
 
 
 『もう・・・ 俺のこと、嫌いになったの・・・?』
 
 
 

■第45話 絶望という名の透明な雫

 
 
 
 『もう・・・ 俺のこと、嫌いになったの・・・?』
 
 
見栄もプライドもなにも関係ない、ただただ目の前にいるたったひとりの愛おしい人
への純粋すぎるショウタの問い掛け。 シオリの胸は切り裂かれ、バラバラになった
ような激しい痛みを生じる。
 
 
 
 
 (ダメ・・・ 泣かない、泣かない・・・。)
 
 
 
 
一度でも瞬きをしたら涙の雫が零れ落ちそうで、シオリは頑なに目を見開いたまま
低く続ける。
 
 
 
 『嫌いには、なってない・・・
 
 
  でも、今のこの状況が大変すぎて、忙しすぎて、

  ヤスムラ君のこと考えてる時間がないの・・・
 
 
  ・・・嫌いではないけど、正直、

  もう、好きかどうかも分からなくなってきたの・・・。』
 
 
 
ショウタは慌てて身を乗り出しシオリの二の腕を掴むと、懇願するように言う。
シオリに直に伝わる必死すぎるその腕の力。 乱暴に揺さぶられ黒髪が波を打つ。
 
 
 
 『邪魔しないから!

  じゃあ、俺からは連絡しないから! 

  俺からは、電話もメールもしないよ・・・
 
 
  ホヅミさんが、会いたくなった時に・・・ 

  ちょっとでも、気が向いた時に・・・

  暇になっ・・・』
 
 
 
 
『暇な時間なんて無いっ!!!』 ショウタのすがるような哀願も、途中で遮り
シオリの怒号のような甲高い声が部屋中に響いた。
 
 
 
 『暇な時間なんて・・・

  ヤスムラ君と呑気に会ってる時間なんて1秒だってないっ!
 
 
  私は医者にならなきゃいけないの。

  今は医大に合格することだけ考えなきゃいけないの。
 
 
  こうやって馬鹿みたいに無理して、倒れられて・・・

  お見舞いに来る時間さえ勿体ないっ! 迷惑なのっ!!
 
 
  勉強の邪魔なのっ!! 

  もう、ほんとに・・・ 迷惑だからやめてほしいのっ!!!』
 
 
 
 
その時。 
 
 
 
     シオリの耳に、人が絶望するときの音が聴こえた。
 
 
 
 
シオリを繋ぎ止めようと細い二の腕を必死に掴んでいたショウタの大きな手が
ダラリ、力無く垂れる。

ショウタの瞳から、絶望という名の透明な雫がぽとりぽとりと伝っては落ちた。
 
 
 
    『ただ・・・ 傍にいるだけでも・・・ ダメ、なの・・・?』
 
 
 
最後の最後に、ショウタが喉の奥から絞り出すように呟いた。
それは、シオリの胸の奥の奥、一番やわらかい部分を突き刺しえぐった。
 
 
 
いつもいつもシオリに向かって笑っていたショウタ。

時に、春の陽だまりみたいに。 時に、真夏の太陽みたいに。
シオリに向けてやわらかいあたたかい眼差しで、笑っている顔以外思い出せない程
いつもいつも笑っていたショウタが、今、泣いている。

人はこんなに哀しい顔が出来るのかと思う程に、涙の粒がそのやさしい目から次々と伝う。
 
 
 
 『・・・今まで、ほんとに・・・ ありがとう・・・。』
 
 
 
そう背中で呟くと、床に落ちたブレザーを乱暴に羽織ってシオリは部屋を飛び出して行った。
 
 
本当は ”さよなら ”と言わなければいけなかった。

きちんと終わらせるには、その一言が必要だった。
分かっているのに、言わなければいけなかったのに、どうしてもどうしてもその最後の
一言が言えなかった。
 
 
 
 
  さよならの一言は、どうしても。

  言えなかった。
 
 
  ・・・言えなかった・・・。
 
 
 
 
大きな音を立ててシオリが階段を駆け下りてゆくのが聴こえる。
それを呆然とショウタはただただ聴いていた。
 
 
 
一歩も動くことが出来ずに、ただただシオリが永遠に遠くへ行ってしまう音を聴いていた。
 
 
 

■第46話 悲鳴のような泣き声

 
 
 
ただならぬ様子で大きな音を立て、玄関を飛び出して行ったシオリの後ろ姿に
店先に立っていた母ミヨコは無意識のうちに咄嗟にその背中を追い掛けた。
 
 
元々細いシオリの背中が更に弱々しく消えてなくなりそうで。 長い黒髪が乱暴に
揺れ背中で暴れる。

足がもつれよろけて転びそうになりながらも、その哀しいほど磨き上げられた
ローファーは必死に駆けてゆく。
 
 
 
  まるで少しでも遠くへ行こうとするかのように。

  少しでもショウタから離れようとするかのように。
 
 
 
眩暈でもして立ち眩むように不安定に走りながら角を曲がると、電柱に抱き付くように
突進ししゃがみ込んだシオリ。 凄い勢いで地面についた白い膝がアスファルトの
小さな砂利に擦れて血が滲んでいる。
 
 
 
 『シオリちゃん!!!』
 
 
 
太った重い体で懸命に追いかけるミヨコ。

普段走ったりしない運動不足のその体も膝も、一気に掛かった負荷に悲鳴を上げる。
ミヨコがシオリの横にしゃがみ込む。 ゼェゼェと苦しそうに肩で息をつき顔を歪め
そっとその顔を覗き込みながら細い肩を抱いた。
 
 
すると、シオリは顔をくしゃくしゃに歪めて泣いている。

真っ白で美麗なその顔が見る影もないほどに、頬は痙攣し苦しそうにしゃくり上げて。
大きな瞳から溢れ、頬を伝い、顎から零れ落ちる大粒の雫たち。
次々とアスファルトに零れ落ち地面の色を濃くする透明な雫が、まるで夕立のようで。
 
 
 
 『私・・・
 
 
  ヤスムラ君を・・・ 泣かせちゃった・・・

  傷つけちゃった・・・ 酷いこと言って傷つけちゃった、私・・・
 
 
  ヤスムラ君を・・・ 傷つけちゃった・・・
 
 
  離れたくないよぉ・・・

  ほんとは、ヤスムラ君と・・・ ずっと、一緒にいたいよ・・・
 
 
  ・・・ヤスムラ君が・・・ 

  ヤスムラ君が・・・ 大好き、なのに・・・。』
 
 
 
悲鳴のような泣き声を上げるシオリ。

電柱の脇にしゃがみ込みふたり、ぴったり体を寄せ合う。 ミヨコはシオリを強く
その胸に抱きしめてやさしくやさしく頭を撫でる。 それはまるで母娘のようで、
シオリもまたミヨコにしがみ付くように、震えながら強く強く抱き付いた。
 
 
ミヨコのまるい肉付きいい頬にも堪え切れずに涙が伝っていた。
 
 
 
 『アンタが、ツラい役をかって出てくれたんだね・・・

  ごめんね、シオリちゃん・・・
 
 
  やさしい子・・・
 
 
  なんてやさしい子なんだろうね、

  ・・・ごめんね、ありがとね・・・。』
 
 
 
シオリが更に声を上げて泣きじゃくる。

呼吸困難でも起こしそうなくらい胸を上下させて全身で泣くその華奢な体を、
ミヨコはもう一度ぎゅっと抱きしめる。
 
 
 
 『ごめんね、シオリちゃん・・・

  アレは、ほんとどうしようもない馬鹿だから・・・

  馬鹿だけど・・・ おばちゃんにとっては自慢の息子なんだよ・・・
 
 
  あの馬鹿があんなに真剣にシオリちゃんの為に頑張る姿を見たら

  どうしてもね、応援したいと思っちゃったんだ・・・

  シオリちゃんと一緒にいさせてあげたい、って・・・
 
 
  おばちゃんも、少しけしかけたような節もあるかもしれない・・・
  
  
  許してね・・・

  大馬鹿息子の初恋を応援したくなっちゃったんだ・・・。』
 
 
 
ミヨコの胸に顔をうずめて、こどものように声をあげ泣き続けるシオリ。
 
 
 
 『でも、ちゃんと分かってるよシオリちゃん・・・

  アンタも一生懸命ショウタを想ってくれてるって。 ありがとね・・・。』
 
 
 
シオリが静かに静かに顔を上げた。

そして、涙でぐっしょり濡れた頬を向けて、しゃくり上げながら涙で詰まりながら
ミヨコに呟いた。
 
 
 
 『ヤスムラ君には、ちゃんと、笑っててほしいの・・・

  ・・・笑ってる顔が、大好きだから・・・。』
 
 
 
すると、ミヨコは目を細めやさしく小さくコクリと頷き、どこか自信満々に言った。
 
 
 
 『神様が天邪鬼なだけだよ・・・

  今はそっぽ向いてても、また必ず振り返るからね・・・。』
 
 
 
それはショウタの、根拠のない自信に満ちた発言をする時の顔と同じそれだった。
 
 
 

■第47話 水をあげるタイミング

 
 
 
呆然と自室の天井を見上げているショウタ。
 
 
まるで夢の中のように、たった今起こった出来事がぼんやりとかすんで全く現実味がない。

床に体育座りをしてベッドのふちに背をもたれ寄り掛かり、首を反らしてただただ
天井を見つめていた。 古びた天井の継ぎ目をただじっと見つめていた。
 
 
規則的に配置されているはずのその継ぎ目が、少しずつ少しずつ歪んでゆく。
ショウタの目に滲みあふれ出る涙が、それを歪めてゆく。

目尻から目頭から伝い流れる雫は、ショウタの部屋着のTシャツに次々と哀しいシミを
広げた。 薄いグレーのTシャツが涙色のそれになるほど、その目からはまるで呼吸を
するように当たり前のように自然に流れ出す。
 
 
なにも考えられなかった。
これからどうすればいいのか、どう笑えばいいのか、どう息をすればいいのか。

世界中の色が消え失せ、世界中の音が無くなったような感覚。
 
 
 
  たったひとつの目映い光を失った。

  もう、なにをどうしたらいいのか、わからない・・・
 
 
 
 
次々とシオリの顔が浮かぶ。

はじめて大笑いする顔を見せた夕暮れの放課後のバス停。
 
 
 
  ”別に明日だっていいじゃない、こんなの・・・

   わざわざ・・・ バス、追い掛け、なくて、も・・・。”

 
 
無理やりうちわで前髪を扇いで、怒った顔。
 
 
 
  ”おでこ出すのキライなんだから・・・ 二度としないで!”
 
 
 
捻挫をしたシオリを自転車で送った時、はじめて貰ったたった2行のメール。
 
 
 
  ”今日はほんとにありがとう。

   嬉しかった。 ホヅミ ”
 
 
 
修学旅行の夜、はじめてしっかり繋ぎ合った手と手も抱き締めた華奢な体も、
震えながらキスをしたクリスマスイヴも、全部全部、夢だったかのようで・・・。
  
 
 
 
 
その時、ドアを2回ノックする音が聴こえ 『ショウタ・・・?』 それと同時に
母ミヨコがドアノブを回し開けて部屋に入って来た。
 
 
本来なら泣いている姿など親に絶対に見られたくない年頃なはずのショウタは、
自分の頬に流れつづける涙をぬぐう気力すら残っていなかった。

ミヨコに視線を送ることもせず、ただそのまま天井を見つめ続け次々溢れだす雫に
Tシャツの色を哀しく変えてゆく。
 
 
ショウタのそんな姿に、ミヨコの胸は張り裂けそうに痛みを生じる。

一気に涙が込み上げ、その痛みを代わってやれるものなら代わりたいと心の底から思う。
そして、シオリがしゃくり上げ泣きじゃくる姿をふっと思った。
 
 
 
 
  (こんなに想い合ってるってゆうのに・・・。)
 
 
 
 
息子のことが心配で心配で部屋に来たはいいが、なんて言葉を掛けてやったらいいものか
ミヨコは考えあぐねていた。 
 
 
ふと、ショウタの勉強机に置かれた窓辺に佇むミムラスの鉢に目をやったミヨコ。
 
 
ショウタが闇雲に水をやりすぎたミムラスは根腐れをして枯れかけていた。

近付いてそっと花びらに触れると、それは本来の鮮やかな橙色が朽ち果てて
まるで疲れ果てたように萎れ茶色く変色している。
 
 
 
 『水を与えるばかりじゃ、殺してしまうこともあるんだよ・・・。』
 
 
 
ミヨコが変色した哀しい花びらを見つめながら、小さく呟いた。
 
 
 
 『与えすぎることが、負担になることだってあるんだ・・・。』
 
 
 
ショウタはいまだ呆然と天井を向いたまま微動だにしない。
 
 
『あんた、花育てるの初めてだもんね・・・。』 そのミヨコの一言にショウタの
瞳から再びとめどなく涙が伝いはじめた。

ショウタは必死に喉に力を込めて堪えるも、嗚咽は哀しく小さく響きしゃくり上げ
鼻をすする気配に、ミヨコは背中を向けたまま泣き出しそうに目を伏せた。
 
 
ショウタのすすり泣く声が響く。
大きな図体をした息子が、まるで幼いこどもの様に膝を抱え小さく震えて泣いている。
 
 
 
 『少しだけ、手を離しなさい・・・

  花はまた、きっと咲かせることが出来るから。
 
 
  ・・・タイミング、だよ。 水をあげるタイミングが大切なんだ。

  今は少し離れて、見守りなさい・・・。』
 
 
 
 
 
そして、春。
ふたりは3年に進級し、再びクラスは別々になり完全に離れ離れになった。
 
 
シオリの部屋の窓辺に置いたミムラスも、ショウタのそれと共鳴するかのように枯れた。
 
 
 

■第48話 忘れるその時まで

 
 
 
高校3年に進級し、邪念を振り払うかのように更に勉強に没頭するシオリ。
 
 
もう迷いは無かった。
自分が迷っていては、ショウタをあれ程までに傷つけた意味が無くなってしまう。

あの日の、絶望し呆然と涙を流すショウタの顔ばかりが浮かび、何度も何度もかぶりを
振って泣きそうになる震える胸を鎮め、映像を頭から追い出す。
医大に合格する事だけを考え、朝から晩まで狂ったように勉強した。
 
 
ショウタもまた、シオリのことを考えなくていいように無理やり忙しい日々を送っていた。

新聞配達のバイトは辞めずにそのまま続けていた。 
少しでも時間が出来ると、すぐシオリのことを考え眠れなくなってしまう。
少しでも気を抜くと、シオリがハの字の困り眉で眩しそうに目を細め笑う顔ばかり
想ってしまう。
 
 
ガムシャラに体を動かすことで、疲れを誘い眠ろうと必死だった。

シオリのことを考えない様、シオリの笑った顔を思い出さない様それだけに毎日
必死になった。 新聞配達も件数を増やし、無駄に自転車で激走し、八百屋の手伝いをし
シオリのことで溢れかえる頭の中をなんとかしようと必死になった。
 
 
それでもやはり、完全にシオリを締め出すことなど出来なかった。
 
 
駅前に立つと、あのクリスマスの夜、信号向かいに佇むお団子姿のシオリを思い出した。
マックのカウンターでふたり並んで食べたハンバーガー。 指でぬぐったシオリの
口許に付いたマヨネーズ。 からかわれながら一緒に歩いた商店街。 毎晩のように
行った夜の公園の古びたベンチ。 自転車を押して帰った通学路。 はじめてキスを
したモミの木・・・ 
 
 
想い出に押しつぶされそうになった。
いっそのこと、押しつぶされてぺしゃんこに消えてなくなった方が楽だとさえ思えた。
 
 
 
 
 『ねぇ、いつまでそうやってるつもり・・・?』
 
 
ふいに背後から掛けられたその一言に、ショウタは力無く振り返ろうとしたその時。
 
 
誰もいない放課後の教室で3年でも同じクラスになった腐れ縁のマヒロが、ショウタの
覇気がない萎んだ背中に後ろから抱き付き呟いた。
 
 
 
 『あたしなら・・・ 悲しませないのに・・・。』
 
 
 
突然背中に感じたマヒロの体温に一瞬ショウタの体は驚き小さく跳ねるも、すぐさま
再び気怠く心許ないそれへと戻ってゆく。

まるでそれは ”お前じゃない ”とでも言われているようで、マヒロは目を眇め唇を
噛み締める。
 
 
 
 『もう、向こうはヤスムラのことなんか忘れて前に進んでるよっ!!』
 
 
 
怒鳴るように張った声が、放課後の静かな教室内に木霊した。
廊下向こうで愉しそうな笑い声が響き、少しだけ開けた窓からは野球部の掛け声が
爽やかに洩れ聴こえる。

春のやわらかな午後の日差しがしっとりと差し込む床に、ショウタの諦めたような小さく
物悲しい笑い声が乾いて落ちる。 『ァハハ・・・。』
 
 
マヒロがショウタの正面に立ち、その大きな両肩をガッチリと手で掴んで揺さぶった。
それはまるで駄々を捏ねるこどもの様に、伝わらない想いにイラつくように乱暴に。
 
 
 
 『もう、ホヅミさんのことは忘れなよ・・・。』
 
 
 
何度も何度も大きく揺さぶるマヒロの手が、次第に小さく震えはじめた。
そして一歩近付くとショウタの胸におでこを寄せて、すすり泣く。
 
 
 
 『・・・あたしじゃ・・・ ダメ・・・?』
 
 
 
自分の胸に体を寄せるマヒロの感触と体温。

マヒロの震える肩に連動して揺れるショートカットの前下がりなサイドの毛先を
ショウタはどこか他人事のように、ただぼんやりと見ていた。
 
 
ふんわりかすめたマヒロの爽やかな柑橘系のシャンプーのにおい。
痩せているがスポーツをして適度に引き締まったその肩、腕。
健康的にほんのり日焼けした肌の色。
少しハスキーな声。
 
 
 
  違う。 

  全部、全部、シオリとは違う。
 
 
 
シオリの甘くやさしいにおい。
華奢でやわらかい体。
透き通るような色白の肌。
まあるい声色。
 
 
 
 
  (ホヅミさんじゃない・・・ ホヅミさん、じゃ・・・。)
 
 
 
 
ショウタが、生気が失われたような抑揚ない声色で小さくぽつり呟いた。
 
 
 
 『・・・じゃぁ、どうやったら忘れられんのか教えてくれよ・・・。』
 
 
 
そう言いながらも、どこか自分で言ったその一言になんだか笑いが込み上げそうだった。
 
 
忘れられるはずがない。
シオリを忘れるなんて出来るはずがない。
 
 
 
  だって心の奥底では、シオリを忘れたいなんて思ってないのだから・・・
 
 
 
 
  (いつかもっともっと時間が経って、歳をとって、

   忘れるその時までは、忘れないでいていいのかな・・・
 
 
   ・・・このまま、好きなままでいてもいいのかな・・・。)
 
 
 

■第49話 ガンバレ!

 
 
 
新春。 時は流れ、シオリの受験が近付いてきていた。
 
 
なにも変わらないいつも通りのはずの通学路も、どこかピリリと張りつめて感じる。

すっかり葉が落ちて朽葉色一色の街路樹に、うっすら粉雪が積もっている。
アスファルトも薄い白色で覆われ、無数のブーツの靴底が校舎に向けて跡を残す。
真っ白なマフラーを口許まで上げて通学路をひとり進むシオリ。 外気の冷たさに
頬にチリチリと痛みを感じる。 吐く息がマフラーを通して白くかすめる。
 
 
ひたすら勉強に没頭する日々の中で、シオリには気付いた事がひとつあった。
 
 
ショウタと離れれば離れるほど、シオリもまたショウタを想った。
忘れようと思えば思う程、ショウタがやさしく朗らかに笑う顔ばかり思い出す。
 
 
 
 
  (無理に忘れようとするのは、もうやめよう・・・。)
 
 
 
ショウタがいない毎日に涙を堪えつつも、ショウタを忘れてしまうことの方がもっと
怖かった。 心すべてを満たすショウタを否定したら生きていけない気がしていた。
 
 
 
 
ショウタへの想いを力に変えたシオリは、遂に受験前日を迎えていた。

あれから必死に勉強に打ち込んできた。
ショウタへの苛辣な言動を決して無駄にしない事だけ考えてきた。

自信はあった。
自信ないなんて例え謙遜だとしても口にしてはいけないと、自分に言い聞かせていた。
 
 
 
しかしやはり不安と緊張の面持ちで、教室に足を踏み入れた受験前日のその朝。
 
 
 
 
  シオリの目に、それが映った。
 
 
 
 
教室の戸口で、立ち竦むシオリ。

まるで時間が止まったかのように微動だにせず、息を止め呆然と窓際の自席の机を
遠く見つめている。
一気にその瞳には涙が込み上げ、急激に打ち付ける心臓が息苦しいほど強く速い。
 
 
どきん どきん どきん どきん ・・・

自分の心臓の音がすぐ耳元で響いて聴こえる。
 
 
一歩また一歩とゆっくり自席に近付き、机の前に立ち尽くした。

そして、白く細い震える指先で静かに静かにそれを包んだ。
窓から差し込むやわらかい朝の日差しに照らされ、眩しく光り輝いている。
 
 
 
1年ぶりの、それ。

あの頃は毎朝毎朝、それがひとつだけ机の上に置かれていた。
たったひとつだけ、照れくさそうに。 でもどこか堂々と、自信に満ちて朗らかに。

当たり前だとすら感じていた、その甘酸っぱい味と香り。
ずっとずっと永遠にその甘酸っぱさに包まれて生きてゆけると思っていた。
この甘酸っぱさに目を細め微笑んで、時に呆れて時に怒ってそれでもずっと永遠に。
 
 
 
透明な袋に入ったそれを見つめると、裏側になにかが描いてあるのが目に入る。
 
 
 
 『・・・・・・・・・。』
 
 
 
咄嗟にシオリが机の横にしゃがみ込み、小さく小さく背中を丸めて泣き出した。

堪え切れそうにない嗚咽を、両手で口許を覆い必死に息を止めて鎮める。
その反動で肩は余計に震え、それに連動して長い黒髪も小さく揺れたゆたう。
 
 
 
 
  (ヤスムラ君・・・・・・・・・。)
 
 
 
 
シオリの震える手の平には、透明な袋に入った萌葱色の青りんごが大切に大切に
包まれていた。 胸に押し付けてぎゅっと強く強く抱きしめる。

袋に黒マジックペンで描かれた、それ。
 
 
 
 
      (*´▽`*)Ф~
       ガンバレ!
  
 
 
 
『ゼッタイ、合格するからね・・・。』 シオリの涙が強い決意に変わっていた。
 
 
 

■第50話 最後の迷惑

 
 
 
3月 卒業式。
 
 
晴れ渡った青空に筋のような雲が流れかすむ。

校門の脇に立て掛けられた ”卒業証書授与式 ”の看板を目にするも、まだ現実味がなくて
本当に今日でこの学び舎を去るのかなんだか不思議な気持ちで卒業生の面々は門を通っていた。
 
 
卒業生の胸にそっと飾られた赤い花の胸章が、穏やかな風流るる教室に鮮やかに映える。
みな一様に、今日という日をどこか晴れやかにどこか寂しげに微笑んでいた。
 
 
式がはじまるまでの、高校生活最後の教室での短いのんびりした時間。
シオリは窓際の自席でひとり、俯いてただぼんやりとしていた。
 
 
高校3年間を思い返していた。

ひとり俯きがちだったシオリは、高校2年のある日を境によく笑う様になり、
そしてとある日を境にその笑顔は再び消えた。

まるで夢のようだった、あの笑い合った日々。
 
 
笑い合ったその相手の姿は、今日でもう、見れなくなる。

彼の横顔を、背中を、走る姿を、おどける姿を、シオリの名を叫ぶ声を。
廊下で、昇降口で、グラウンドで、体育館で、音楽室で、美術室で、駐輪場で。
もう、あたたかくやさしい彼をこっそり見つめることすら出来なくなる。
 
 
シオリはブレザーのポケットにいつも忍ばせている暗記カードをそっと取り出した。

何枚も何枚も懸命に描いてくれたそのパラパラ漫画は、めくりすぎてその跡が残り
ページ角が少しよれてくたびれている。
 
 
 
  一生、このパラパラ漫画は離さない・・・
 
 
 
震える両手でぎゅっと包むと、シオリは顔を伏せそっと目を閉じた。
頭の動きに合わせ長い黒髪が胸に落ち、涙が滲む目元も哀しげに歪む白い頬も包み隠す。
 
 
その時、
 
 
 
 『ホヅミさん・・・・・・・・・・。』
 
 
 
耳に聴こえたような気がする遠慮がちなその声色に、一瞬体がビクッと跳ねる。
しかし、そんなの空耳だと諦めたように小さく笑いかぶりを振ったシオリ。
 
 
すると、もう一度。  『ホヅミさぁあん・・・・・・・。』
 
 
ガバっと顔を上げ、教室の戸口に目線を走らせるとそこには、あの頃よくシオリの
名を大声で叫んで、呆れ困らせた情けない下がり眉が佇んでいた。
 
 
思わずイスから立ち上がりショウタの元へ駆け出すシオリ。

勢いよく立ち上がった際に後ろに倒れたイスが、大きな音を立てて転がるもそれを
直しもせず一直線に駆け寄り、シオリは懐かしくすら感じるやさしい顔を射るように
見つめる。 話したいことは溢れる程あるのに、その臆病な喉の奥からは一言も
発することが出来ない。
 
 
すると、ショウタはバツが悪そうに申し訳なさそうに、背中を丸めぽつり呟いた。
 
 
 
 『ごめん・・・

  ぁ、あのさ。 これでほんとに最後にするから・・・

  ほんとにほんとに、迷惑かけんのはこれで最後だから・・・
 
 
  ・・・卒業式の後、少しだけ時間つくってくれない・・・?』
 
 
 
 
 
  ”勉強の邪魔なのっ!! 

   もう、ほんとに・・・ 迷惑だからやめてほしいの・・・。”
 
 
 
ショウタが口にした ”迷惑 ”という一言に、あの日、思い切りショウタを傷つけた
自分の言葉を思い出す。 今でも胸をえぐる非情で冷酷な自らのあの声、言葉。
 
 
コクリと無言で一度だけ頷いて、シオリは目を伏せた。

『ごめんな。』 と呟いて踵を返し廊下に消えたショウタの背中を、そこから一歩も
動くことが出来ずにじっと見つめていた。
これで最後になるであろう大好きなショウタのやさしい背中を、ひとり、瞬きもせずに。
 
 
 
『 ”最後 ”・・・。』 シオリは涙声でひとりごちた。
 
 
 

■第51話 小さな小さな想い

 
 
 
卒業式は滞りなく終了し、涙で赤い目元をし片手に賞状筒を握った生徒が次々と
昇降口を抜け歩き出す。

まだ余韻が残っている ”仰げば尊し ”が、耳に心にじんわり反響し感慨深い。
 
 
愉しそうに数人でおどけて笑い合う姿や、仲良くしっかり手を繋ぎ寄り添う姿。
みなその胸に、溢れんばかりの希望とほんの少しの不安を抱え、校舎から巣立ってゆく。
 
 
 
そんな風景を、シオリは書道部部室の窓からひとり眺めていた。

卒業式後、ショウタを待って部室にやってきたシオリ。 墨汁のにおいとカビ臭さが
相変わらずの、そこ。 ここに足を踏み入れたのは1年ぶりだった。 校舎のどこに
行ってもあの頃のショウタとの想い出に胸は張り裂けそうな痛みを憶えた。
 
 
すると、ショウタが少し遅れてやって来た。

引き戸が静かに遠慮がちにスライドされる擦れた音が、静まり返った部室内に響く。
慌てて振り返り、戸口を見つめる窓辺のシオリ。 無意識のうちにぎゅっと口をつぐむ。

逢いたくて逢いたくて仕方がなかったはずのふたりは、目が合った瞬間どこか居場所
無げに同時に哀しげに目を逸らした。
瞬時にピリリと張りつめる音がする。 互いに緊張しているのが、その一瞬の空気で伝わる。
 
 
 
 『ほんと、ごめんな・・・。』
 
 
 
第一声、ショウタはまた謝った。
 
また ”迷惑 ”というワードがその口から出るのではと、シオリは慌てて首を横に振り
『ダ、ダイジョウブ・・・。』 と即座に早口で続けた。
 
 
”迷惑 ”という言葉は聞きたくなかった。

ショウタを迷惑だなんて思ったことなど、今の今まで一度だって無いのだから。
そう思わせ続けていることが辛くて苦しくて、気を緩めると涙が毀れそうになる。
 
 
それでも尚、申し訳なさそうに眉尻を下げるショウタは、ひとつ小さく息をつくと
やわらかくやさしい声色で、言った。
 
 
 
 『合格・・・ おめでとう・・・。』
 
 
 
シオリは見事、医大に合格しこの春からコウと同じ大学に通うことが決まっていた。

風の噂でシオリの合格を耳にするも、本当ならばシオリの元へ飛んで行ってそれを
一番に喜びたかったショウタだが、もうそんな事は許されないし迷惑をかけるだけだと
諦めていた。 

やっと伝えられた、たかが数秒で言い終るその一言になんだか胸は歯がゆく痛む。
 
 
『ありがと・・・。』 ショウタの哀しい声がシオリの胸に響いて苦しい。

本当は一番に合格を知らせたかった相手が、人伝てで聞いたそれを今この最後の最後、
卒業というタイミングでしかその一言を交わせなかったという現状に、切なくて一気に
涙が込み上げる。 胸を上下させて深く息をし、なんとか溢れ出そうな涙を鎮めるシオリ。
 
 
 
 
  (泣きたくない・・・ ヤスムラ君を困らせちゃう・・・。)
 
 
 
 
零れそうな涙をぐっと堪えてシオリは足元に落としていた目線をそっと上げると、
ショウタが手の平を差し出している。

大好きな、大きくてやさしい、ショウタの手。
 
 
 
 『ごめん、まじで・・・ ぁ、あのさ・・・。』
 
 
 
しずしずと申し訳なさそうに広げるそこには、小さな小さな白い包みが乗っていた。

チラリ見えた右手のゴツい中指には、相変わらずあの日のペンだこがそのままに。
必死にパラパラ漫画を描いて出来たそれが、今も残っていることに再び涙が込み上げる。
 
 
 
 『あの・・・ 要らなかったら、捨てていーから・・・。』
 
 
 
差し出されたそれを、中々掴めずに呆然と見つめ続けているシオリ。

すると、体の横で垂れたままのその白い手首を遠慮がちにショウタはやさしく掴むと
それをそっと渡した。
1年ぶりに小さく触れたショウタの指先の温度があたたかすぎて、シオリは涙を
堪えるのも限界だった。 小さく肩が震え、その顔は悲哀に歪み唇を噛み締める。
 
 
 
シオリの手の平に、小さな小さな ”想い ”が形となって現れていた。
 
 
 

■第52話 いつも笑っててほしいから

 
 
 
ショウタは、微笑んでいた。

あの、大好きな朗らかな、バカがつくほど呑気なやさしい顔で。
あたたかいやわらかい笑顔で、シオリに微笑んでいた。
 
 
 
 『ホヅミさん・・・
 
 
  ちゃんと食って、ちゃんと寝て、

  で。 あんまりガンバリすぎんなよ・・・

  また怒られるかもしんないけど、でも・・・

  あんま、ムリしないでほしい・・・
 
 
  そんで・・・ そんでさ・・・
 
 
  ちゃんと、いっぱい・・・ 笑えよ・・・。』
 
 
 
シオリの瞳から限界とばかり、大粒の雫が次々とこぼれ落ちる。
両手で顔を覆い、漏れる嗚咽を必死に堪えるもその反動で肩は切なく震えた。
 
 
 
 『ホヅミさん、

  笑った顔、むっちゃくちゃ可愛いからさ・・・

  まじで、あの・・・

  困ったハの字の眉毛で、笑う顔・・・ すげえ可愛いから・・・
 
 
  ホヅミさんには・・・
 
  ・・・いっつも、

  笑ってて・・・ ほしい、から・・・。』
 
 
 
その瞬間、ショウタもまた涙声で詰まり慌てて顔を背けた。

壁掛け時計の秒針が進む音しか響いていない静まり返った部室内に、ショウタの
涙を堪える荒い呼吸と、シオリの哀しい小さな嗚咽が耳に痛い。
 
 
 
そして、肩で息をして震えながら最後の最後に囁くようにそれは発せられた。
 
 
 
 
   『・・・元気でな。』
 
 
 
 
その後はスローモーションのようだった。

部室の引き戸が大きな音を立てて開けられると、弾かれるようにショウタが
廊下へ駆けてゆく。
その大好きな不器用な背中は、一度もシオリを振り返ることがなかった。
廊下向こうにどんどん小さく、あっという間に消えてゆくブレザーの背中。

ショウタの止まらない涙で小刻みに震える肩と、遣り切れない想いに強く握り
締めた拳がやけにシオリの脳裏に焼き付いた。
 
 
 
 
  (ヤスムラ君が・・・ 行っちゃった・・・

   ・・・もう、ほんとに・・・ 逢えなくなるんだ・・・。)
 
 
 
 
シオリは腰が抜けへたり込むように汚れた床にぺたんと座る。

もう誰もいない、部室。
シオリひとりぼっちの、部室。
卒業式の今日は、もちろん、部活動の音も響いてはいない。
 
 
無音の部室に、シオリのすすり泣く声だけが反響した。
 
 
 
 『どうやって・・・

  どうやって笑えってゆうのよ・・・
 
 
  ヤスムラ君が・・・ ヤスムラ君がいないのに・・・

  ・・・どうやって笑えばいいのよぉ・・・。』
 
 
 
両手で顔を覆い肩を上下して、その泣き声は小さく次第に大きく響きしゃくり上げる。
 
 
泣き続けるシオリのその手の中に、ショウタから渡された包みがあった。
頬から伝う雫で、その包みも少し濡れてよれてしまっている。

そっと震える指先でテープで留めてある袋の口を剥がし、中を覗いた。
 
 
 
  そこに、あったもの・・・
 
 
 
シオリが悲鳴のような泣き声を上げて、天井を見上げこどものように泣きじゃくった。
 
 

■第53話 ふたりを分かつ窓

 
 
 
それは高校2年の夏休みのこと。
 
 
 
ショウタの草野球の試合にシオリを誘い、試合後にはじめてふたりで昼下がりの
デートをした日のことだった。

マックでお昼ご飯を食べながらふたり腹を抱えて笑い合い、その後は夕方まで
ブラブラと駅前をのんびり歩いていた。
 
 
何を買うでもなく入ったデパートの一角のコーナーで足を止めたショウタ。
ひらひらと手をこまねきシオリへ合図をし、指をさして不思議そうに首を傾げている。
 
 
 
 『なにこれ?? こんな小さいの誰がすんの??』
 
 
 
ショウタが指差す先には、ショーケースに入ったベビーリングが誕生石ごとに並べられ
飾られていた。

最初はこどものオモチャだと思ったショウタだが、それにしたって小さい。
こどもの指だって入るサイズではないそれに、 『あー・・・ ただの見本か。』 
結構なボリュームでひとりごち、奥に佇む店員が困り顔で苦笑いを浮かべている。
 
 
シオリは可笑しそうにクスクス笑いながら、
 
 
 
 『ベビーリングってゆうんだよ

  生まれてきた赤ちゃんに ”お守り ”として贈るの。』
 
 
 
すると、ショウタとシオリふたりの姿に店員がその頬に嫌味なほどの営業スマイルを
つくり近寄って来た。 鼻にかかった甘ったるい猫なで声で店員は言う。
 
 
 
 『 ”幸福が訪れ、身を守ってくれる ”誕生石と組み合わせて、

   ”一生幸せになって欲しい ”っていう願いを込めて

   パートナーに贈るお客様も多いんですよ~・・・。』
 
 
 
 
それをなにも言わず、ショーケースに貼り付いてじっと見つめていたあの日のショウタを
静まり返った部室でひとり、シオリは思い出していた。
 
 
 
 
シオリの手に渡された小さな包みの中、そこには11月のシオリの誕生石が埋め込まれた
小さな小さなベビーリングが無造作にそこにあった。

青い誕生石が煌めく、それが。
リングケースに入れるでもなく、小さな紙袋に呆れるほど無造作に、飾らずに。
 
 
 
 
    ”一生幸せになって欲しい ”
 
 
 
 
あの日の店員の説明を思い出す。
シオリの瞳からは、止めどなく涙が流れる。
 
 
何故かあの時違和感を憶えた、それ。

まるで、遠く離れて幸福を願うようなその言い回し。
一緒に幸福になるのではなく、ひとり離れてそっとそれを願うような。
まるで、ショウタとシオリが ”こうなる事 ”を分かっていたかのような。
 
 
小さな小さなそれを宝物のように握り締め胸に強く抱いて、シオリは泣きじゃくる。

ショウタと笑い合った日々が走馬灯のようによぎり、胸をえぐるような激しい痛みに
息が出来ない。 苦しくて苦しくて、ショウタへの溢れる程の想いに押し潰されそうになる。
 
 
すると、弾かれたように慌ててシオリは立ち上がった。
 
 
 
 
  (ヤスムラ君と・・・ ずっと、一緒にいたいよぉ・・・。)
 
 
 
 
部室の窓辺に駆け寄り、その涙で滲む目は右へ左へショウタの姿を必死に探す。
窓ガラスに手を付き爪先立ちになって、卒業式終わりの生徒が行く通学路を必死に。
 
 
すると、ひとり踵を擦ってトボトボと歩く愛おしい背中が校舎脇の道に見えた。
 
 
 
 『ヤスムラ君っ!!!』
 
 
 
思わず大声で呼びかけたシオリ。

時計の秒針が進む音しか響いてない部室に、シオリが呼ぶ名が木霊する。
慌てて窓を開けようと鍵に指をかけるが、冬の寒さで凍った窓のその鍵は
ピクリとも動かない。
 
 
空回りする、焦る指先。
力を入れれば入れるほど鍵に掛けた指は滑り、ただ埃の色だけその指に濃くしてゆく。
 
 
他の窓を開けようとひとつ隣にずれるも、それも同じように鍵が開く気配はない。
 
 
 
 『行かないでっ!!! ヤスムラ君っ!!!』
 
 
 
拳で窓枠を乱暴に打ち付け、シオリが泣きながら必死にショウタの名を呼ぶ。
何度も何度も必死に、愛おしいショウタの名を叫ぶ。
 
 
 
 『行かないで・・・ 置いてかないで・・・

  私をひとりにしないで・・・
 
 
  私も・・・ ヤスムラ君と一緒にそっちに行きたいよ・・・。』
 
 
 
乱暴に鍵を開けようと掛けた指先は、爪が割れて少し血が滲んでいた。
窓を打ち付け続けたシオリのその白いはずの手も、痛々しく真っ赤になっている。
 
  
 
 
しかし、その窓は最後まで開かなかった。

ショウタとシオリを分かつその窓は、結局、固く閉ざしたまま決して開くことはなかった。
 
 
 
 
  ショウタという眩しい光を完全に失って、

               シオリの世界もまた色を失くした。
 
 
 
 
そして、ふたりは各々の道へ進んだ。
 
 
 

■第54話 縛るための輝く輪

 
 
 
そして、時は流れ。

シオリは医大を卒業し、研修医として病院で目まぐるしい日々を送っていた。
 
 
 
寝る時間もない程に慌ただしい毎日の中で、それでもシオリはまっすぐ前を向いていた。

あの頃の背中にたゆたっていた長い黒髪は顎のラインまで短く切り、凛とした空気を
まとう。 少し痩せたその頬は相変わらずツヤツヤで、透き通るように白くて美しさに
磨きがかかったように見えたが、その前髪だけはあの頃と同じ几帳面に一直線に揃え
られていた。
 
 
白衣姿のシオリがせわしなく病院廊下を駆ける。 白衣の裾は翻り、ひっきりなしに
病院職員やら患者やら行き交う廊下に靴底が擦れる音を立てて、首から提げたネック
ストラップの院内連絡用の携帯電話が、胸ポケットの中で窮屈そうにしている。
 
 
すると、後ろからふいに声を掛けられた。

『シオリ先生~・・・』  その声に小さく溜息を落とし、渋々足を止めた。
シオリが気怠く振り返ると、外科医のコウが廊下の真ん中で嬉しそうに目を細めて
腕組みをしている。
 
 
まるで医療ドラマから飛び出して来た俳優のような、白衣をまとう長身のコウの
目映い姿に入院患者のほか外来患者や見舞い客も、うっとり目を輝かせ遠く眺める。

看護師たちの間でも、コウに関する噂話をする黄色い声色が連日のように詰所で聞こえ
看護師長が何度それを呆れ顔で注意したことだろう。
コウが外来担当する日の外科患者が以前より増えたという噂は、あながちただの噂では
ないのだろう。
 
 
そんな熱視線など一切無視して、コウはシオリだけをまっすぐ見ている。
 
 
 
 『そんな駆けずり回ってたら転んでケガするよ~・・・。』
 
 
 
上機嫌に微笑んで、走った為にすっかり乱れてしまっているシオリの前髪にそっと
指を伸ばす。 少し背を屈めてその顔を覗き込むように、愛おしそうに。
 
 
そして、おでこに覗いている困ったハの字の眉を隠すように、前髪を梳いた。
 
 
 
 『美人が台無しだろ・・・。』
 
 
 
まるで完璧な自分の隣に立つシオリにも、完璧でいてくれないと困るとでも言いたげに
コウはやれやれと呆れたような笑顔を向ける。
 
 
シオリは哀しげにそっと目を伏せた。

微かにおでこに触れたコウの短く爪を切り揃えられた美しい指先は、あまりに
冷たくてどこか身が竦む。
 
 
 
 
  ”その、情けないまゆ毛見えてたほうがゼッタイかわいいってのー!”
 
 
 
      (彼は、可愛いって言ってくれたのに・・・。)
 
 
 
 
ショウタのゴツい指先のぬくもりを思い出していた。

一瞬おでこに触れられただけで、頬まで熱くなる程にあたたかかったそれ。
一気に心臓まで伝うその歯がゆい熱を、今でもはっきり覚えている。
 
 
途端にぎゅっと口をつぐみ沈んだ表情をつくったシオリを、コウが冷静に見つめた。
 
 
いつまで経ってもシオリは自分に心を開かない。

あのしょうもない八百屋から離れて何年も経つというのに、シオリはあの頃となにも
変わらずに自宅の自室には情けない顔のぬいぐるみを飾り、今だって白衣のポケットに
擦り切れた暗記カードを大切そうに忍ばせている。 薄汚れたセンスの欠片も無い
幼稚園児が描いたような、それを。

疲れた時、落ち込んだ時には必ずそれをめくってひとり哀しげに微笑む姿を、コウは
煮えたぎるような腹立たしさを堪えてずっと見ていた。
 
 
 
 
  (一日でも早く、俺のものにしなきゃ・・・。)
 
 
 
 
 『婚約指輪、どうしよっか・・・?

  どうせなら、シオリが欲しいものにした方がいいだろ・・・?』
 
 
 
頬に上手に笑みをつくり、コウが明るくシオリを覗き込む。
 
 
 
 『カルティエでも、ティファニーでもシオリが好きなの買いに行こうよ。』
 
 
 
すると、シオリは数回首を横に振り抑揚ない声色で呟いた。

その目は決してコウを見ようとしない。 以前の様に ”コウちゃん ”とすら
呼ばなくなってもう何年経つのだろう。
 
 
 
 『 ”そんなの ”で縛らなくても、もう諦めてるから平気だよ。』
 
 
 
ひとこと呟いて、シオリは廊下の奥へ再び駆けて消えた。
冷たく硬い白衣の華奢な背中が、完全にコウを拒絶するように小さく遠ざかる。
 
 
コウはひとり、廊下の磨き上げられた床に目を落とし白衣の裾を握りしめていた。
シワひとつない美しい真っ新な白衣に握りジワがしっかりと刻まれる。
 
 
力が入り過ぎたその指は、真っ白になって震えていた。
 
 
 

■第55話 ふたりのベクトル

 
 
 
ショウタは高校を卒業し、家業の八百屋を手伝っていた。
 
 
高校時代にやっていた早朝の新聞配達はそのまま続け、バイトから戻ると八百屋を
手伝い夕方からは夜間の専門学校に通っていた。
新聞配達で貯めた貯金で勉強をするショウタは、次々と目指す資格を取得し今と
なっては高校時代のあの気怠く丸めた背中で勉強机に向かう顔とは別人のそれだった。
 
 
ショウタもまた、あの頃となにも変わらずにシオリを想い続けていた。
 
 
 
  もう、どのくらい逢っていないのだろう・・・

  もう、どのくらい声をきいていないのだろう・・・
 
 
 
シオリから高校2年のクリスマスに貰った手編みのマフラーは、四六時中首に巻き
すぎてもうボロボロにほつれかけていた。 まるでシオリが壊れてしまいそうに思え
慌てて大切に大切に畳んで、ベッドの枕元にそっと置いた。 眠る時はいつもそれに
顔をうずめて、もう香ったりしないシオリの甘いそれを思い出そうと深呼吸した。
 
 
シオリに鉢分けした窓辺のミムラスは、シオリにフラれた日に根腐れしたまま哀しく
茶色く萎れたままだった。 それでもシオリを想い続けるように、やさしくあたたかく
ショウタはそれを見守り続けていた。 枯れたからといって、呆気なく手放したり
出来なかった。
土が乾いた頃になるとほんの少しだけ水を与えた。 決して尽きることの無い愛情を
変わらずにミムラスに与え続けていた。
 
 
八百屋の配達に行く時に乗る原付きの鍵には、修学旅行でシオリとお揃いで買った
情けない顔の生物のキーホルダーがそのままに、哀しく寂しげに揺れていた。

キーホルダーよりも情けない顔で、ショウタはシオリがいない毎日を過ごしていた。
 
 
 
たまにシオリに逢いたくて逢いたくて仕方がなくなると、早朝の新聞配達の帰りに
病院前まで足を伸ばし、誰もいないそびえ立つ巨大な建物をそっと見つめた。

早朝のそこは、朝靄にかすみ静まり返ってショウタを嘲笑うかのように冷酷に
突き放す。 お前なんかが来る場所ではないとでも言っているみたいに思えた。
 
 
シオリの姿を早朝のそこに見つける事など出来はしないというのに、それでもそこを
見つめるだけで少しだけショウタの心は満たされた。 

シオリが普段いるであろう場所を見つめるだけで、それだけで。 
シオリと近い場所で同じ空気を吸えている、それだけで。
 
 
 
 
  でも、ほんとうは。 

  たった一目だけでもいいから、逢いたくて仕方がなかった。
 
 
 
  ただ、元気に頑張っている背中を一目だけでも。

  たとえ、シオリはショウタに気が付かなかったとしても。
 
 
 
 
   (ちゃんと、食ってんのかな・・・

    ちゃんと、寝てんのかな・・・

    ちゃんと、笑ってんのかな・・・。)
 
 
 
 
想うのはシオリのことばかりだった。
もう数年経ったというのに、考えるのはあの頃となにも変わらずシオリのことばかりだった。
 
 
ふたりのベクトルは今も変わらず切ないほど向き合っているというのに、硬く高い
無情な壁に遮られほんの一瞬ですら互いの姿を見ることなど出来ずにいた。
 
 
 

■第56話 王子様の想い出

 
 
 
コウは自宅の自室でひとり、そっと俯いてぼんやり考え事をしていた。
 
 
一人掛けのトップスキンレザーの高級バルセロナチェアーは、コウの体ごと包み
込むようなしなやかな座り心地。 オットマンにその長い足を伸ばし、リラックス
するその表情は、この自室にひとりでいる時しか見せることがない。
 
 
 
考えていたのは、幼少期の想い出。
 
 
ホヅミ家で長年使っている写真館に、ソウイチロウ一家とコウジロウ一家揃って
なにかの記念に家族写真を撮りに行ったその日。

幼いシオリははじめて着た貸衣装のドレスに喜び浮かれて、嬉しそうにクルクル回っている。

サーモンピンクがやわらかいフリルいっぱいのオーガンジードレスが、眩しい程の
シオリの笑顔にふわふわとまるで天使のように、古びた味わいあるスタジオに舞う。
 
 
長いドレスの裾を小さなその手でそっと掴み、頬を桜色に染めてにこやかに微笑むシオリ。

愉しそうにケラケラ笑う可愛いソプラノの声と、ドレスと同色のリボンが付いたこども用
エナメルパンプスの踵が立てる音が室内に響き渡る。
 
 
同じく貸衣装姿の幼いコウが、それを肩をすくめてクスクス笑って見ていた。

ブラックスーツの中はグレーのチェックベスト、光沢のあるネクタイとポケットチーフ。
まだ幼いこどもなはずのコウだが、この時から既に気品あるそれを醸し出していた。
 
 
写真館の主人が笑って言う。
 
 
 
 『コウ君とシオリちゃん、まるで王子様とお姫様だね~。

  ふたりお似合いだから、大人になったら結婚して大きなお城に住むといいよ。』
 
 
 
すると、”お姫様 ”というキーワードに反応したシオリが満面の笑みで言った。
 
 
 
 『うんっ! 

  シオリ、大人になったらコウちゃんのお嫁さんになるぅ~!』
 
 
 
コウが目を見張り、ピンク色の目映い天使を見つめる。 そして照れくさそうに
頬を赤らめ嬉しくて緩む口許を必死に隠してそっと目を逸らした。
 
 
シオリはまっすぐコウを見つめ、キラキラした笑顔を向けて言った。
 
 
 
 『コウちゃん、カッコイイ王子様みたいだから

  シオリも毎日ドレス着て、お姫様みたいになるねぇ~!』
 
 
 
 
 
 
『王子様・・・。』  コウがひとり、呟いた。
 
 
シオリが格好いい王子様が好きだと信じたから、常に格好よくあろうと努力し続けた。

勉強もして運動もして、スタイルも常に気を付け、その頬にはいつも微笑みを絶やさず
決して負の感情は表に出さず。
その甲斐あってかコウの周りには女の子がいつも寄って来た。
その群らがる様子を見るたびに ”間違ってない ”と確信していたコウ。
 
 
 
  ”シオリが求める王子様になれている ”、と。
 
 
 
しかし、気が付くとシオリの隣には無様でしょうもない八百屋が立っていた。
飽き飽きするほど情けない顔で笑う、それ。
ただ優しいというだけの、まるで潰れたカエルのような、それ。

顔も、スタイルも、成績も、家柄も、なにもかも自分の方が上なのに。
100人に聞いたら間違いなく99.9%の人は、自分を選ぶに違いないのに。
 
 
シオリにまで嫌悪感を抱くほど、ショウタの笑顔は癇に障った。

嫌で嫌で仕方なくて、なんとかしてあの底抜けに明るい笑顔を曇らせてやろうと
躍起になった。 心の底から愉しそうに笑う、あの太陽のような笑顔を・・・
 
 
 
 
とある日。
誰もいない病院の職員用休憩室でコウと鉢合わせたシオリ。
 
 
疲れた顔をしてソファーに体を沈め目を閉じていたコウが、ドアが開いた音に目を
遣るとドアノブに手を掛けたまま、嫌なものでも見てしまったかの様に咄嗟に目を
逸らしたシオリ。 

慌ててドアを閉じ部屋を出て行こうとするその華奢な肩を後ろから掴み引っ張ると
コウは無理やりソファーに押し倒して乱暴にキスをした。
 
 
 
 
  (なんで俺を見てくれないんだ・・・。)
 
 
 
 
コウの全体重をかけて手首を掴まれ、押し付けられる冷たい唇に必死にもがくシオリ。 
その目の奥には怒りが見える。 否、そこには憎しみがありありと。

しかし途端に抵抗しなくなったシオリを唇を重ねたまま見つめると、その顔は無表情で
その目は閉じようともせず、色の無い虚ろなそれになっていた。
 
 
呆れたように半笑いで頬を歪め唇を離すと、コウは言う。
 
 
 
 『青りんご君て、そんなにキス巧かったのぉ~・・・?

  凄っいヘタそうなのに・・・

  ただ触れるくらいしか出来なそうなイメージなのになぁ・・・。』
 
 
 
シオリが色の失せた瞳でコウを射るように睨み、軽蔑するように冷たく目を逸らす。
 
 
『まぁ、別にいいけど。』 コウは嘲笑うようにケタケタ笑った。
コウの乾いた笑い声だけが、その空間に痛いほど耳に響く。
 
 
 
 
  (俺のなにが悪いってゆうんだ・・・。)
 
 
 
 
どうしようもない怒りが湧き上がり、シオリを無茶苦茶に乱暴したくなる衝動にかられる。

そのシワひとつない白衣を剥ぎ取りシャツを引き裂いて、シオリが泣き叫ぶくらいに
自分という存在をその華奢な体に刻み込んでやりたくなる。 
ショウタのぬくもりなんか思い出せなくなるくらいに、強く。激しく。荒々しく。 
 
 
しかし、ギリギリのところでコウは留まった。
空回りする伝わらない想いに、胸は悲鳴を上げるように震える。

正直なところ、これ以上シオリに嫌われるのが怖かった。
ずっと想い続けているシオリに、これ以上軽蔑され憎まれるのがなにより怖かった。
 
 
 
『くそ・・・。』 コウが唇を噛み締めて、うな垂れた。
 
 
 

■第57話 既成事実

 
 
コウは勤務が休みのその日、上機嫌な面持ちで黒色のスーツ地テーラードジャケットを
上品に羽織った。 ほんの小さく鼻歌をうたい、グレーのVネックリブニットにそれを
合わせると、まるでファッション雑誌から抜け出してきたかのように秀麗な姿。

自宅自室の姿見鏡の前で自身の身なりを目視し、頬に笑みを浮かべて鏡の中の自分に
納得してひとつ満足気に頷いた。

ホワイトのスリムシルエットパンツの長脚は今にもスキップをしそうに軽やかだった。
 
 
 
それは、数日前のことだった。

病院の院長室に、院長のソウイチロウと副院長コウジロウが高級な革張りソファーに
背をそるように座っている。 余裕がありどっしり構えるソウイチロウと、いつもどこか
不機嫌そうに貧乏揺すりが絶えないコウジロウの姿。

そんな中、コウはひとり背筋をピンと伸ばしてふたりに向かいキレイな笑みを作って
言った。 膝の上でクロスに組んでいた指先をほどき、膝の上に置いて正しながら。
 
 
 
 『シオリとの結婚の件なんですけど。

  どうせなら、さっさと進めた方がいいと思うんですよね・・・
 
 
  でも、ほら。 

  ユズル君がまだあんな状態だから、結納なんて出来る訳ないし・・・
 
 
  だからその代わりに、ホヅミ家のみんなの前で婚約指輪を渡したいんです。

  指輪はもう注文してあって、数日後には出来上がる予定なんで。
 
 
  シオリにはサプライズで、みんなにここに集まってもらって、

  祝福されながら、”大事な約束 ”を交わそうと思うんです。』
 
 
 
ユズルがまっすぐ射るように、院長でありシオリの父ソウイチロウだけ見つめる。

全ての決定権はソウイチロウにあるのだ。
正直いってコウジロウは ”副院長 ”としてこの場に居てもらっているだけだった。
息子の将来を相談する ”父親 ”としてではなく、この案を遂行する為の大切な見届人
としてだけ。
 
 
院長ソウイチロウが首を縦に振れば、誰もそれには逆らえない。
 
 
 
  誰も・・・

  シオリでさえも・・・
 
 
 
コウは既成事実を作ろうと必死だった。

1日でも早く、シオリがもう何処にも逃げられないように囲い閉じ込めたい。
もう誰にもとられないように、誰にも微笑みかけないように。

青りんごの毒が、一日でも早くきれいサッパリ浄化されるように・・・
 
 
 
『いいんじゃないか。』 コウの父コウジロウが静かに口を開いた。

野心家のその目の奥は、将来コウが院長になるというそれだけが重要だとでも
言うように、然程興味なげに至極あっさりと快諾する。
 
 
その言葉に続き、
 
 
 
 『そうだな・・・ 

  シオリも無事医者になったことだし、そろそろ結婚話を進めるか・・・。』
 
 
 
ソウイチロウが、コウの説明に納得して首を縦に振る。
俯いたコウは目を細めてほくそ笑み、口許が緩んで震えていた。

またしてもシオリ抜きで、シオリに関わる大切な話がいとも簡単に進められていた。
 
 
 
 
 
コウのホワイトのスリムシルエットパンツの長脚は、今にもスキップをしそうに
軽やかに賑やかな商店街へと向かう。

惣菜の油っこいにおいやら、花の甘いにおいやら、魚の生臭さやら、多種入り混じった
それに嫌悪感剥き出しに顔をしかめる。 まるでジャケットににおいが染み付くのを
危惧するかのように、胸ポケットから香水の小瓶を出して嫌味っぽく振り掛ける。

完全に場違いに見える、そのファッション雑誌から抜け出したようないで立ち。
そんなコウに、次々と遠慮なく矢継ぎ早に声を掛けてくる店主たち。
 
 
 
 『そこのカッコイイお兄さんっ! 安くするよっ!!』 
 
 
 
耳障りでしかないしゃがれた声に、コウはあからさまに怪訝な顔を向けた。
 
 
 
 
  (俺が ”こんなトコ ”で買い物するわけないだろ・・・。)
 
 
 
 
まるで ”声を掛けるな ”とでもいうように眉ひとつ動かさず無視をして、
コウはまっすぐその目指す先へ足を進めた。
磨き上げられた高級な革靴が、コツリコツリと一歩ずつアスファルトを踏みしめる。
 
 
数年ぶりに訪れた、そこ。

以前来た時は、ユズルの事故後に彼に ”シオリとの結婚計画 ”を伝えに来たことを
思い出していた。
 
 
あの時の、雷に打たれたような衝撃を受け青ざめ打ちひしがれる顔。
今でも思い出すだけであの快感にも似た胸の高鳴りに、コウの整った美しい顔が
ニヤけて歪むほどで。
 
 
 
 
  (今度はどんな顔見せてくれんのかな・・・。)
 
 
 
 
コウの目に、彼を捉えた。

八百安の店先に、あの頃より更にガッチリして大人になったショウタが立っていた。
 
 
 

■第58話 青りんごの毒

 
 
 
 『久しぶりだね、青りんご君・・・。』
 
 
 
耳に聴こえた、人を小馬鹿にするようなその声色に、ショウタは一瞬固まりそして
ゆっくりゆっくり目線を移動した。
 
 
数年ぶりに見たコウの姿。

あの頃となにも変わっていない。
太りもせず痩せもせず、髪型ですら変わっていないように見える。 髪の毛1本も。

まるでコウの時間だけ止まっているかのように、気持ち悪いぐらい何も全く変わって
いないその秀麗な姿。
 
 
 
目線だけで会釈し、ショウタは瞬時に目を逸らした。

世界で一番会いたくない人間がなにやらニヤニヤと余裕を醸し出して不気味な笑みを
向ける、相変わらずファッションモデルのような場違いなその佇まい。

首に手ぬぐいをかけ少し汚れたパーカーの袖はまくり、”八百安 ”と書いた藍色の
前掛けをする若い八百屋を明らかに見下している様子は火を見るよりも明らかだった。
 
 
『なんか用ですか・・・?』 言葉など交わしたくも無かったが、ショウタは渋々
口を開いた。 既に整え終えたツヤツヤの野菜が入ったカゴを、手持無沙汰にもう
一度並べかえる。 右のカゴを左へ、左のカゴを右へと無意味な移動を繰り返す。
 
 
すると、吐き気がするほど上機嫌な眩しい頬笑みをつくってコウは言った。
その声色はまるでカラフルなスーパーボールが弾むように愉しげな、それ。
 
 
 
 『これからね、婚約指輪をとりに行くんだ。』
 
 
 
せわしなく野菜のカゴを掴んでいたショウタの手が、一瞬止まる。

俯いてゆっくりゆっくり呼吸をする。
カゴのヘリを掴む指先が小さく震えだして、一気に血の気が引いたように冷たくなる。
ショウタの頬筋が引き攣っているのを、コウは見逃さなかった。
 
 
 
 『シオリがさぁ~、

  ティファニーのハートシェイプがいいって我侭ゆうから

  何か月も前に特注したんだけどねぇ~・・・。』
 
 
 
ショウタの狼狽する様子に、コウの目の奥が嬉しくて仕方なくて嘲笑うように
鋭く厭らしく光っている。
 
 
 
 『青りんご君も、もちろん祝福してくれるよね~?

  シオリも君に祝福してほしいってさ。

  ・・・高校時代の ”友達 ”として。』
 
 
 
そう言うと、自分で自分の言葉に可笑しそうにケラケラ笑い出したコウ。
手を口許に当てて小首を傾げ目を細めて、愉しげに、嬉しげに、満足気に。

チラリとショウタへ目線を向けると、その顔は真っ赤になって足元を眇めている。
目を見開き唇を噛み締めて、頬筋は脳からの緊急信号に震えが止まらない。
 
 
 
 
  ( ”友達 ” ・・・。)
 
 
 
コウが嫌味ったらしく言ったその一言が、ショウタの頭をぐるぐると巡る。
 
 
 
 
  ( ”友達 ” ”友達 ” ”友達 ” ”友達 ” ・・・。)
 
 
 
 
シオリはもうすっかりあの頃の事なんか忘れて、前に進んでいるのだ。

医者になって多忙な日々を過ごしながら、エリート医師との将来をしっかり受け止め
過去の想い出はしっかり整理をつけている。
ショウタを ”高校時代の友達 ”とカテゴリー分け出来るほどに、キレイサッパリと。
 
 
今も変わらずに胸を締め付けるシオリのやわらかい笑顔と声が浮かんでは消えた。
 
 
 
   ”ねぇ、ヤスムラ君・・・。”
 
 
 
 
もう、この手は届かない・・・
 
 
 
立ち去り際に、コウは小さく小さく呟いた。
上機嫌な微笑み顔から一転、それは能面のような感情のないそれで。
 
 
 
 『・・・青りんごの毒は、もう消えて無くなったよ。』
 
 
 

■第59話 無数の窓に探すその姿

 
 
 
”Tiffany & Co.”と記された煌びやかなエントランスを通り、
コウは上品なスーツ姿の店員に声を掛ける。
 
 
『婚約指輪をお願いしていたホヅミです。』 低くやわらかな声色で頬に笑みを
たたえて、幸せそうに目を細めた。

『ホヅミ様、お待ちしておりました。』 店員はそう言うと、特別な来賓しか通さない
別室に促し、コウは満足気にその後に続く。
 
 
ゆったりとソファーに腰掛け、その長いスリムシルエットパンツの足を組むコウ。

腰が沈み過ぎない適度なバランスのクッション性があり、上等な牛皮のツヤがある
それはコウの気持ちを満足させるには充分の高級感が漂っていた。
 
 
すると、指紋ひとつ付いていない高級なガラステーブルの上に、待ちに待ったそれが現れた。

質の良いリングケースが開くとそこには、プラチナにセットされた完璧なプロポーションの
ハートシェイプダイヤモンドがあった。 フルサークルのバンドリングを組み合わせた
それは目映いほどに光輝き、重厚ながら透明感に溢れ、シオリにぴったりな気がした。
 
 
暫しそれをまっすぐ見つめているコウに、店員は言う。
 
 
 
 『こんな婚約指輪をプレゼントされるお相手の方って、

  どんな女性なんですか?

  きっと、ホヅミ様がこんなに素敵な方だから

  お相手もさぞかしキレイな人なんでしょうねぇ・・・。』
 
 
 
すると、指輪を見つめていた目線をそっと上げ、店員を見たコウ。
まるで愚問だとでも言うようなどこか白けた顔を一瞬向け、瞬時に微笑む。
 
 
 
 『えぇ・・・ お姫様みたいなんですよ、彼女・・・。』
 
 
 
そして、続けて小さく小さくひとりごちた。
その表情は真っ白で感情のない能面のようなそれで。
 
 
 
 『・・・今はまだ、毒で正気を失ってますけどね・・・。』
 
 
 
そのボソッと呟いた一言が聞き取れず、店員は『え?』 と聞き返した。
コウは首を横に振って再び上手に笑みを作ると、スッと背筋を伸ばして口許を緩めた。
 
 
 
 『俺が ”ちゃんと ”幸せにしてやらないといけないんです。』
 
 
 
手の平の上にある大袈裟なほどに輝く指輪を見つめ、少し乱暴にリングケースを
パチンと閉じコウは目を眇めていた。
 
 
 
 
 
ショウタはコウから言われた事が頭から離れず、仕事も手に付かなくなっていた。

店先に立っていても足元にばかり目を落とし、汚れたスニーカーの爪先は苦しい程の
胸のざわめきにせわしなく貧乏揺すりを繰り返す。
もう今更どうしようもないと頭では分かっているつもりでいても、その心は、足は、
それを受け入れられずにいる。 心の中で何度も何度もその愛しい名を叫ぶ。
 
 
 
 
  (ホヅミさん・・・ ホヅミさん・・・ ホヅミさん・・・。)
 
 
 
 
『ごめんっ! ちょっと出て来るっ!!』 店の奥で仕事をしていた母ミヨコに
そう叫ぶと、尻ポケットから原付きの鍵が付いたキーホルダーを取り出した。

大慌てでハンドルにぶら下げていたハーフヘルメットを被ると、エンジンを吹かせ
次第に客足が増え始めた商店街を少し強引に走り去る。 修学旅行で買った情けない
生き物のキーホルダーが、その勢いに乱暴に揺れている。

その息子の後ろ姿を、首を傾げミヨコが見送っていた。
 
 
ショウタの原付きは、シオリが働いている病院へと猛スピードで向かっていた。
哀しげに眇めるその目に、頬に、冷えた風が刺すように吹き付ける。

行ったところでもうどうしようもないのは分かっている。
逢える訳でもないし、言葉を交わせる訳でもない。
 
 
 
  でも、どうしても、この気持ちを抑えられなかった。
 
 
 
病院の前までやって来たショウタの原付き。

エンジンを止め慌ててサドルから下りると、無数の窓に必死にシオリの姿を探す。
芝生が敷きつめられた敷地内を駆け回り、焦る気持ちに足はもつれ転びそうに
なりながらもシオリがどこかにいないか一心不乱に。
 
 
病院の中には入れない。 
入ってはいけない。 
押し掛けてはいけない。

それは、シオリの ”迷惑 ”になるのだから。
 
 
しかし頭では分かっているつもりでいてもその目は、病室の窓に、廊下のそれに、
屋上に、その姿がないか探す。
哀しげに寂しげに、その情けない細い垂れ目でひたすらに、今でも変わらずに愛しく
想うその姿を血眼になって求め彷徨う。
 
 
 
 
  (ホヅミさん・・・ ホヅミさん、どこだ・・・。)
 
 
 
 
必死にその姿を探しながらも、遠いあの日にシオリから放たれた一言が甦った。

ショウタの胸の奥の一番やわらかい部分をえぐるあの痛みに、我に返ったように
足を止めた。 そして、泣き出しそうに顔を歪め目を伏せる。
 
 
 
 
  ”もう、ほんとに・・・ 迷惑だからやめてほしいの・・・。”
 
 
 
 
ぎゅっと強く握りしめた拳が、歯がゆく震える。
諦めたようにかぶりを振り、立ち竦みうな垂れた。
 
 
 
 
  (ただ・・・ 迷惑に、なるだけか・・・。)
 
 
 
 
そして、首をもたげたまま再びサドルに跨った。

ハンドルを握る震える手に力が入らない。 ゆっくりエンジンキーを回すと小さく
エンジン音を立てるそれ。 
静かに静かにショウタを乗せた原付きは元来た道へ戻って行った。
 
 
 
その時、病院の長い廊下を歩く白衣姿のシオリが、ふと窓の外に目を遣った。
その目に、情けなく心許ない大きな背中が原付きに乗って走り去るのが見えた。
 
なんとなくその背中が気になり、目を凝らす。
その首元には白い物が巻かれて見える。
 
 
 
 
  (・・・手ぬぐい・・・?)
 
 
 
 
目を見張り、慌ててシオリが窓に貼り付く。

磨き上げられた窓ガラスが指紋で汚れてしまうのも構わずに、手の平を強く押し
当ててその目はショウタかもしれないという可能性に、必死にその姿を目で追う。
 
 
慌てて窓を開けようと躍起になるも、事故防止のために開閉しない仕様になっているそれ。

指を引っ掛ける鍵すら無い。 小走りで窓を移動しながら必死にその背中を確かめようと
するも次第に小さく小さく遠ざかる原付きは、呆気なくシオリの視界から消えた。
 
 
『ヤスムラ君・・・?』 窓ガラスに押し当てていた白く細いシオリの手が、力が抜け
哀しげにズズズと下にさがって垂れた。

高校の卒業式の、決して開かなかったふたりを分かつ窓を思い出すシオリ。
またしても、窓は開くことはなかった。
 
 
 
シオリの指紋の跡が、まるでふたりの間の分厚い壁を象徴するかのように窓ガラスに
強くしっかりと残っていた。
 
 
 

■最終話 橙色のミムラスを、笑わない君に。 ~ 青の行方 ~

 
 
 
シオリが看護師の詰所にいたところ、けたたましく鳴った内線に出た看護師が
振り返って言った。
 
 
 
 『シオリ先生・・・ 院長が、院長室でお待ちだそうです。』
 
 
 
カルテを読み込んでいた手を止め、シオリが首を傾げる。
勤務中に父ソウイチロウから呼び出しが掛かるなんて、今までは殆ど無かった。

なんの用事なのだろうとどこか訝しがりながらも、言われるままに院長室まで
駆けた。 院長室がある3階の一角まで来ると、まるでそこは別世界のように
静まり返ってどこか冷たく寒々しく感じる。 シオリは身震いするように白衣の
襟元を正すと院長室前に立ち、小さく2回ノックをした。
 
 
『入りなさい。』 扉奥から聴こえた父の声に、『失礼します。』 とその中に
足を踏み入れたシオリ。

すると、目に入ったホヅミ家一同の面々。 父の他、母もコウもコウ父母もいる。
みな一様にどこか正装に見える服装で、ゆったりとソファーに体を沈めている。

母マチコだけがなんだか居た堪れないような面持ちで、背を丸めシオリから慌てて
目を逸らした。
 
 
『なにか・・・?』 言葉では言い表せない嫌な予感が、記憶が、シオリの胸に去来する。
それは数年前にシオリ抜きで今後の病院のことを会議した、あの事に他ならなかった。
 
 
すると、キレイな笑みをその頬に作り口角を上げてコウが言う。
そっと手を伸ばし、シオリを見つめるそのガラス細工のような目。
 
 
 
 『シオリ・・・ こっち来て。』
 
 
 
一同が腰掛けていたソファーから立ち上がり、コウとシオリを見守るかのように見つめる。
直感的になんだか嫌で嫌で仕方がないシオリ。
 
 
『な、なんなの・・・?』 その足は、その場から動けない。
コウの前には行くなと脳から信号が流れる。
 
 
すると、呆れたように小さく笑ってシオリの前までやって来たコウ。
 
 
 
 『なんだよ、どうしたんだよ・・・

  ・・・ほら、こっちおいでよ。 シオリ・・・。』
 
 
 
コウがそっと手を伸ばし、シオリの細く白い手首を握った。
その冷たい指先の感触に、ビクっと身を硬くし咄嗟にシオリはその手を振り払う。

慌てて後退りして目を見張り首を小さく小さく横に振り、助けを求めるように
シオリは父と母に目を向ける。 しかし、母マチコは哀しげに目を伏せたままで
シオリを見ようともしない。
 
 
そんなシオリの様子に、父ソウイチロウがほんの少しイライラした感じを醸し出した。
 
 
 
 『こんな事に手間を取らせるんじゃない。』
 
 
 
 
  ( ”こんな事 ”・・・?)
 
 
ソウイチロウの言葉にシオリは再びコウへ目を向ける。

すると、コウは白衣のポケットから高級そうなリングケースを取り出し、手の平に乗せて
シオリへとまっすぐ差し出した。
 
 
その顔は微笑んでいるように見えた。 否、その目の奥は嘲笑っているように。
咄嗟に ”その意味 ”が分かったシオリ。
 
 
 
 『いや・・・ いや!!

  お母さん・・・ 助けてよ、ヤだよぉ・・・。』
 
 
 
シオリが母マチコにすがるように駆け寄るも、決してシオリを見ないマチコ。
泣き出しそうな顔できゅっとつぐんだままだった唇が微かに動いた。
 
 
 
 『・・・ごめんね、シオリ・・・。』
 
 
 
母マチコの口から小さく小さく聴こえたそれに、弱々しく無力でちっぽけな母を
この時ばかりは恨みたくなった。

母のジャケットを強く掴んでいたシオリの指先から、その瞬間力が抜ける。
誰も助けてはくれないのだ、と。 その手は、ダラリ垂れて小さく揺れた。
 
 
 
もうこの件は随分前に諦めたつもりでいたシオリ。
あの日に、ショウタを完膚なきまでに傷付け打ちのめしたあの日に、自分の中でも
整理をつけたはずだった。
 
 
でも、つい先日ショウタかもしれない姿を見掛けてしまってから、再びあの頃の
ように胸は痛み切なく締め付けられていた。 ショウタのことばかり考えていた。
 
 
 
  結婚なんてしたくない。

  コウとなんて結婚したくなどない。
 
 
 
それはコウが云々ではなかった。 ショウタ以外の人なんてシオリには考えられ
なかった。 ショウタでなければ誰でも一緒だった。
 
 
 
  ショウタじゃないのなら・・・。
 
 
 
『いつまでお前はそうやってるつもりだっ!!』 父ソウイチロウの怒鳴るよう
な声が静まり返った院長室に木霊する。

やれやれといった風で呆れ笑いながらコウがシオリに近付き、もう一度シオリの
左手首を掴んだ。 今度の掴むそれは、決して逃れられないように強くキツく。 
シオリの華奢な真っ白い手首が鬱血して真っ赤になるほどで。
 
 
ゆっくり厳かにリングケースを開くと見えた、その豪華絢爛な仰々しい婚約指輪。
シオリには、おぞましく輝く拘束具にしか見えない。

シオリは手を引っ込めようと必死に力を入れ拒絶するも、コウのその細身の体の
何処から湧いて出るのかと思うほど、手首を掴むそれには抗うことがない。
 
 
 
コウが厭らしく頬を緩ませながら指輪を指先で掴み、シオリのいまだ拒む左手の薬指に
それをはめようとした。
 
 
 
 
 
   その瞬間のことだった。
 
 
 
 
ドア向こうの静かなはずの廊下に、バタバタと駆けまわる足音が響き近付く。
院長室のドアが乱暴にノックされ、返事も待たずにひとりの看護師長が飛び込んで来た。

『・・・なんだ、どうした?』 不躾なその様子に怪訝な顔を向けたソウイチロウ。
一同が一斉に動きを止めて、看護師長を見つめる。
 
 
すると、看護師長は震えながら言った。
 
 
 
 
 
   『ユ・・・ユズル先生が・・・

    ユズル先生の意識が・・・ 戻りました・・・。』
 
 
 
 
 
 
その時、カチリと小さく音がした。

ショウタとシオリ、完全に離れたと思ったふたりの歯車が、ほんの少し再び
噛み合った事に、この時のふたりはまだ気付けずにいた。
 
 
 
       【続章】 橙色のミムラスを、笑わない君に。 ~ 青の行方 ~
 
 
 
 
【最終章】 橙色のミムラスを、笑わない君に。 ~ 願いの終着点 ~ へ続く。  
 
 
 

【続章】 橙色のミムラスを、笑わない君に。 ~ 青の行方 ~ 

【続章】 橙色のミムラスを、笑わない君に。 ~ 青の行方 ~ 

クリスマス・イヴにようやく気持ちを確かめ合ったショウタとシオリ。 しかし、シオリの兄ユズルの事故により、ふたりの状況は一変する。 そのやさしくあたたかい想いは、次第に次第に重くなる・・・。 ショウタの為に別れる決意をするシオリと、決してシオリと別れないと言い張るショウタ。 強すぎる想いが互いを傷つけ、再びシオリからは笑顔が消える・・・。 【橙色のミムラスを、笑わない君に。】の続章。 ≪全60話≫

  • 小説
  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-14

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. ■第1話 吸い込まれるように消えた華奢な背中
  2. ■第2話 今夜がクリスマスでなければ
  3. ■第3話 傍にいたいのに
  4. ■第4話 やさしい一言
  5. ■第5話 夜中でも朝でも、いつでも
  6. ■第6話 最後のページと同じ顔
  7. ■第7話 やっと、ちゃんと笑った
  8. ■第8話 冷たくあざけるその声色
  9. ■第9話 胸騒ぎ
  10. ■第10話 少しずつ狂い始めた歯車
  11. ■第11話 陽だまりのようなその空間
  12. ■第12話 未来も、ずっと
  13. ■第13話 窓ガラス一枚挟んだ言葉
  14. ■第14話 なにかが起こっている気配
  15. ■第15話 インフルエンザ程度
  16. ■第16話 ただならぬ様子
  17. ■第17話 理由
  18. ■第18話 頭の先から爪先まで
  19. ■第19話 ゼッタイ
  20. ■第20話 ふたりでいられる時間
  21. ■第21話 薔薇の棘のように
  22. ■第22話 満たされない心
  23. ■第23話 心に灯った小さな火
  24. ■第24話 完璧な案
  25. ■第25話 そのお気楽な姿
  26. ■第26話 新たな杞憂
  27. ■第27話 爆発的な行動力
  28. ■第28話 家族の支え
  29. ■第29話 逆光で翳った笑顔
  30. ■第30話 奇跡でも起きれば
  31. ■第31話 天邪鬼な神様
  32. ■第32話 深夜の電話
  33. ■第33話 闇雲に踏み込むペダル
  34. ■第34話 夢の生活
  35. ■第35話 まばゆい感触
  36. ■第36話 溢れ出る涙
  37. ■第37話 決心
  38. ■第38話 余所余所しい態度
  39. ■第39話 壊してしまいたくなる衝動
  40. ■第40話 哀しい重み
  41. ■第41話 嘲笑うかのような悪戯な声色
  42. ■第42話 木っ端微塵に傷付ける覚悟
  43. ■第43話 間違っていると感じる感触
  44. ■第44話 怒鳴るようなすがるような
  45. ■第45話 絶望という名の透明な雫
  46. ■第46話 悲鳴のような泣き声
  47. ■第47話 水をあげるタイミング
  48. ■第48話 忘れるその時まで
  49. ■第49話 ガンバレ!
  50. ■第50話 最後の迷惑
  51. ■第51話 小さな小さな想い
  52. ■第52話 いつも笑っててほしいから
  53. ■第53話 ふたりを分かつ窓
  54. ■第54話 縛るための輝く輪
  55. ■第55話 ふたりのベクトル
  56. ■第56話 王子様の想い出
  57. ■第57話 既成事実
  58. ■第58話 青りんごの毒
  59. ■第59話 無数の窓に探すその姿
  60. ■最終話 橙色のミムラスを、笑わない君に。 ~ 青の行方 ~