かんざし
※暴力的、性的描写があります。
静かな夜になる筈だった。突然、豪華な邸の敷地内に怒号と叫び声が響いた。
男は庭の花を踏み散らして走る。外れた鎧がずるずる音を立てて引き摺られる。はだけた袍、乱れる息。額に黄色の布が巻かれた若い男は、恐怖に顔を強張らせながら逃げ惑っていた。
男は突如首根っこを掴まれ、宙に持ち上げられた。男を掴んだは、彼よりも大きい偉丈夫。長い髯がゆらりと揺れる。
一瞬の出来事だった。男は偉丈夫の持つ偃月刀に一刀両断された。血しぶきが飛ぶ。偉丈夫は男を地面に放り捨てた。彼はこの世で一番穢らわしいものを見るかのように、斃れた男の骸を睨みつける。
この偉丈夫の名は関羽。字を雲長。義兄弟の劉備、張飛と共に黄巾党討伐の義勇兵に加わって間も無い彼は、豪族の邸に押し入った黄巾賊を討ち払う為、手持ちの兵を進めた。
しかし、時すでに遅し。邸の主も家人も、そのほとんどが殺されていた。
残党はいないかと、関羽は邸の一室に踏み込む。瞬間、鼻をつく異様な臭い。
床に転がる女の骸を見つけた。美しい衣を纏っていたろうに、衣は破り捨てられ、その白く華奢な裸体をあらわにしていた。未熟な乳房に生え揃わぬ陰毛、うら若き乙女だった。
臭いの正体が分かった。これは、体液と死臭が混ざったものだ。床に散らばる穢れもの。関羽はこの室内で何が行われていたかを知り、眉根を寄せた。
多くの男に嬲られ無惨に捨てられた女の瞳は、暗い天井を映していた。
乱れた髪に飾られた簪は上等なものだ。恐らく、ここの主の娘だろう。可哀想に。大切に育てられた箱入り娘が、斯様な憂き目に遭い短き生涯を終えるとは。関羽は深く息を吐くと、己が羽織っていた外套を娘の青白い肌に被せた。
「賊を全て討ち払いました。その数合わせて五十程です」
部下がやってきて報告した。関羽は彼を横目で見遣る。
「被害は?」
「我が軍は死者八、負傷は十一。邸の者は厠に隠れた侍女が四人だけ難を逃れましたが、後は全滅です」
「皆に伝えよ。賊は焼き払え。邸の主や家人は手厚く葬るように。四人の侍女には、女人の骸を清めるように命じろ。その後、彼女等は近くの豪族に引き取らせる」
「かしこまりました」
よく訓練された部下は拱手すると、疾風の如く走り去っていった。
せめて九泉へは、清らかな躰で旅立ちなさい。関羽はしゃがむと、娘の瞼をそっと閉ざした。
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それから長い年月が流れた。関羽は主君劉備達の留守を任され、荊州の地を治めていた。虎視眈々とこの地を狙う者達に、彼は睨みを利かせていた。
ここのところ、民の間である噂が立ち上っていた。八人の仙女が地上に舞い降り『この地は災いのもととなる。天に還せ』と訴えているそうだ。
何者かが仙女と偽り、好き勝手にほざいているのだろう。関羽は噂を信じてはいなかった。しかし噂が広まる事で、荊州の人民や豪族の間に己への不信感がつのっていくのではないかと危惧していた。
関羽はただちにその仙女とやらを城に呼び寄せた。
仙女らしき女達八人は艶やかな衣を身に纏い、正面に座す関羽の前で頭を垂れた。
「おぬし等は仙女と聞くが、まことか?」
「はい、わたくし達は天より遣わされた仙女でございます」
「証拠を見せてみよ」
関羽が命ずると、女達はばさりと長い袖を翻して、木彫りの鳥達を取り出す。彼女達のうち二人は琴を弾き始めた。
仙女の舞が始まる。優雅で艶やかなその姿に、周りに居た武将達はうっとりとため息をついた。彼女達はそれぞれ持っていた木彫りの鳥を袖で覆う。袖を退けると、たちまち本物の鳥達が飛び出した。
木彫りの鳥が本物に変わった。周りの者達は感嘆の声をあげるが、関羽だけは眉一つ動かさずに肘をついていた。
まやかしだ、彼は気づいていた。本物の鳥は懐や袖に隠していたのだろう。手先が器用だからこそ成せる技だ。彼女達の正体は芸妓だろうか。誰の差し金か。きっと関羽の統治をよしとしない地元豪族の誰かだろう。
「将軍、あなたに命じます。この地を明け渡し、天に還してください。荊州は争いの絶えない地。民の心は一向に安まりません」
彼女達の一人が、関羽に訴えた。
「天に還す? この地は劉皇叔の地だ。天に渡す義理はない」
関羽は眉を吊り上げて立ち上がった。
この詐欺師達を今すぐ追っ払ってやりたいが、無理に追っ払えば悪評が立つだろう。彼はそう思いなおして、右手に掴みかけた刀の柄を離した。
「では、こうしよう。わしは今、新たな城を築こうと考えておる。わしが西南、おぬし等は西北の城を築く。わしよりも先におぬし等が城を築き上げたら、この地から退こう。どうだ、仙女のおぬし等にとっては築城など容易い事だろう」
競争を持ちかけられて、仙女は嫌そうに眉をひそめる。関羽は豪快に笑った。
「天の遣いともあろうおぬし等が、一介の武人に過ぎぬわしに負ける訳が無かろう、なぁ?」
「分かりました。受けて立ちましょう」
顔を真っ青にさせて、女達が答えた。
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勝負は最初から決まっていたようなものだった。八人の偽仙女に築城など果たせる筈もなく、早々に何処かに逃げていった。
「まやかしで民の心を操れど、わしだけは思い通りにいかんぞ」
勝利の報告を受けて、関羽は愉快そうに笑った。目の前にそびえる築いたばかりの城は、黄昏の大地に長い影を落とした。
しばらく城を眺めた後、関羽は自身の寝床に戻った。油の灯りの下で張飛からの竹簡を読む。そこには、関羽が仙女と競争すると聞いて心配した事、勝ったと聞いて安心した事が書いてあった。土を担いで手伝いに駆け付けようかと思っていた、とも書かれていた。義弟らしいと、関羽は顔を綻ばせる。
便りを読みながら思いにふけるうちに、日はとっぷり暮れて、空には月が顔を出していた。
突然、風に吹かれて灯火が消える。
「こんばんは」
女の声。関羽が振り向くと、窓際に一人の若い女。簪に反射した月光が、チカチカと関羽の目を眩ませる。
「何者だ」
「かつて、一度お会いした事がございます」
はて、会った事があると? 関羽は首をひねった。すると女は少し悲しそうに眉を下げて「覚えておられないのも仕方ありません」と言った。
「して、なんの用だ。荊州を渡せと言うならば、答えは決まっておる。この地は決して渡しはせぬぞ」
関羽はこの謎の女を警戒し、脇の刀に手を掛けたまま立ち上がった。女は彼に近寄ると、ひらりと跪く。
「ご恩をお返ししたくて、参りました」
「恩だと?」
「これを」
彼女は結わえた髪を解いて簪を抜いた。銀色に輝く豪華な簪だった。それを、関羽に差し出す。
「わたくしはただの非力な女。貴方様を宿業の濁流から救う力はございません。しかし一寸ばかし天に近い身故、ささやかな願いは叶える事が出来ます。この簪に願いを込めました。どうぞお持ちください。きっと、貴方様を護り導くでしょう」
ぬばたまの女の瞳が、ゆらゆらと揺れる。彼女の肩に掛かる外套に見覚えがある気がして、関羽は眉を上げた。
「わしには必要ない」
「しかし、このままでは……」
女は今にも泣きそうな顔で訴えようとする。が、それ以上話そうとすると喉が詰まるようだ。声が出なくて苦しげに喉に手を当てる。女は諦めて、力無く項垂れた。簪が音を立てて床に落ちる。
関羽は簪を拾い上げる。ひんやりと冷たい。この簪、見た事があるぞ。
ようやく思い出した。昔、哀れな娘の亡骸に外套を掛けてやった。あの時の娘か。
「おぬし、まさか」
顔を上げるが、彼女の姿は跡形も無く消えていた。残された簪は、関羽の武骨な手の上で煌めきを見せた。
この簪、どうしたものか。関羽は途方に暮れた。
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建安二十四年。吹きすさぶ乾いた風に身を震わせながら、若い兵卒は木片に小刀で文字を刻んでいた。
此処は麦城。物哀しく佇む城壁の上には、彼の他に疲れきった兵士達が数人項垂れていた。
「何を書いておる」
声の主に、兵卒は驚いて木片を落としてしまった。
「関将軍。これはその」
慌てる兵卒を尻目に、関羽は木片を拾い上げ、部下の刻んだ文字を読んだ。
「妻と子に宛てた文か」
「はい」
「一人娘が生まれたばかりなのだな」
「会った事はありませんが。何せ私の出征後に生まれた子でして」
ほう、会いたいだろう。関羽はそう尋ねると、涼しげな顔で若い兵卒を見下ろした。
兵卒は首を横に振る。
「いえ。関将軍の為ならばこの命、いつ捨てても惜しくありません。ですから、家族に宛てた遺書をしたためて冥土への旅支度をしておりました。私の亡骸から遺書を見つけた誰かが、家族の元に届けてくださればいいのですが」
見上げた若人だ。関羽は嬉しく思うと同時に、己の失態が為に散らせてしまう命を惜しく思った。
その時。
からんと、何かが落ちた。
見るとそこには銀色の簪。関羽は眉を顰める。これはあの女のものだ。捨てたと思っていたが、何故此処に在る?
丁度良い。関羽はそれを拾い上げ、木片と共に兵卒に渡した。
「これは?」
彼は関羽を見上げて首を傾げる。
「昔、仙女が置いていった簪だ。これを持っていれば、護られると」
迷信を信じる関羽ではなかったが、嘘も方便だと思って話した。
「おぬしが持っておれ」
「とんでもございません。こんな大切な物を」
兵卒は慌てて返そうとするが、関羽は静かにそれを制した。
「わしにはそのような物は必要ない。生き延びる道はいつも己が刃で切り拓いてきた。此度の窮地も、脱してみせよう」
分かっている。これで、終いだと。最早逃げ道はない事を。だが彼は至極晴れやかな顔をしていた。
「娘に会って来い。そしてこの簪を贈ってやれ」
「どういう事でしょうか」
「よいか。おぬし等は此処に留まり降伏の意を示せ。敵は降伏を信じるだろう。その隙に、わしはこの城から脱する」
違う。兵卒はハッと関羽を見上げた。この方は逃げおおせようとは思っていない。
「嫌です。私は関将軍と運命を共に!」
「ならぬ」
泣く彼をそのままに歩き出した関羽は、若者とその家族の未来を思い描いて、微かに笑みを漏らした。
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“これで、良いのですか?”
隙間風に、娘の声が聞こえたような気がした。
「おぬしが本当に恩を返したいのならば、あの男を護ってやれ」
関羽はそう言い放つと、長年使い込んできた偃月刀を携えて粗末な腰掛けから立ち上がった。
「父上」
関平が部屋に入ってきた。
「支度は整いました。参りましょう」
「平、心してゆくぞ」
「はい」
そう頷く息子と共に、関羽はのそりと外へ出て行く。
恐らくこれが、最後の足掻きとなろう。刃も振るえぬままに、あっけなく縛られるかもしれない。
惨めな最期と、後世の者共は嗤うだろうか。
それでもよい。わしはわしを生きたのだから。何を恥ず事があろう。
突如、肩に外套が掛けられた。背後を振り返っても誰もいない。此れは何十年も前に手放したもの。しかし、汚れひとつなく綺麗なままだった。
「参る」
果たして己に言い聞かせたのか、娘の亡霊に言ったのか。関羽自身にも分からない。
去りゆく背中に。
風はか細い声を上げて泣いた。
かんざし
麦城からの脱出をはかるも失敗し斬られた関羽ですが、その行動の解釈を勝手に変えて、拙い捏造をしてみました。
※「九人の仙女との築城競争」した民間伝承を参考に取り入れました。
※歴史を考察する目的で作られた話ではありません。勝手な解釈を入れています。
史実の人物とは一切関係ありません。