ストロベリーショートケーキ

 渕田君に別れを告げた。彼が私でないどこか他の女の子と会っていることには気づいていたのに、許していた。渕田君のことが好きだったから。でも、駄目だった。初めはそれでもいいからと黙っていたのに結局私が折れた。私にもう気はないのに突き放さない渕田君も、気づいているのに、涼しい顔して気をつけてねとか、おかえり、なんて言っている自分も、ぬるくてぬめぬめで、気持ち悪かったから。
 渕田君は、うん、とだけ言って、次の日にはきっちり自分の荷物をまとめて部屋から出て行った。もともと少なかった彼の荷物がなくなったことで生活に不便はなかったけれど、渕田君しか使わなかったもの、例えばシェーバーホルダーの跡が洗面台の鏡に残っていたり、ふたつあったものがひとつになっているのを見つけた時、私は洟をすすらなければならなかった。
 ただひとつだけ、渕田君は忘れ物をしていった。冷蔵庫の上段の奥に、それはあった。イチゴのショートケーキ。間違いなく、渕田君の買ったもの。二つ入りのコンビニで売っている、安いショートケーキだ。ひとつはなくなっていた。
 だって私はコンビニで売っているショートケーキなんて、買わない。ちゃんとしたパティスリーの、お洒落で美味しいケーキでなければ嫌だからだ。渕田君の前ではちゃんとしていたかったから、料理も頑張って勉強した。バレンタインにはガトーショコラを焼いたし、クリスマスにはシュトーレンを焼いた。渕田君は食に無頓着な人だったのかもしれない。私がどんなに手間暇のかかった料理やお菓子を作っても、残しはしなかったけれど、美味しいとか、また作ってよなんては、言ってくれなかったから。冷蔵庫の奥に忘れ去られたそれを、私は食べてみることにした。ひとつだけ残されたイチゴのショートケーキは、甘くて懐かしい味がした。ふと、付き合いはじめた頃のことを思い出した。

「死ぬ前に、千沙は何が食べたい?」

 私の部屋で、二人でテレビを見ていたときのことだったと思う。渕田君は何の前触れもなく、突然そんなことをつぶやいた。私はなんと答えたのだったか、よく思い出せない。多分、お寿司とか、ハンバーグとか、そんな当たり障りのないものを答えたような気がする。死ぬ前に食べたいものなんて、その時にならないとわからないから。渕田君は?と私が聞き返すと、彼はすぐに答えた。

「イチゴのショートケーキ」

 随分可愛いものが好きだよね、渕田君は。と私は言った。渕田君はそれに対しては何も言わなかった。渕田君がそれほどまでに好きだったイチゴのショートケーキを、もし私がバレンタインやクリスマスに作ってあげていたら、今も別れずにいただろうかと考えながら、二口目を食べた。きっとそうだとしても、私と渕田君は別れていたと思う。渕田君が死の瀬戸際にも食べたかったイチゴのショートケーキを、何故作ってあげなかったんだろう。私がシュトーレンを焼いたクリスマス、街でたくさん見かけたはずの、赤い苺と真っ白い生クリーム。どうして今の今まで、そのことを忘れていたんだろう。三口目を食べて、私は少し泣いた。渕田君のことを、私は本当に好きだったのだろうか。一緒にいたときはあんなに好きだったのに、別れを告げたあの瞬間から、私はなんだか興ざめしてしまったみたいだ。忘れ去られたイチゴのショートケーキだけが、渕田君の存在を証明してくれている。私はまたこのイチゴのショートケーキを食べたいと思うだろうか。最後に残したイチゴは、思ったよりも甘くておいしかった。

ストロベリーショートケーキ

ストロベリーショートケーキ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-10

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