the crystal world

なろうサイトから転載です

1.死骸


ーーーパキン

一人の少女が歩いている。淡い金の髪を軽く揺らし、春空の様な瞳で森を見渡しながら。彼女が歩く度に、足下から弾けるような震えが伝わってくる。今の季節は、森の至る所隈無くこのしずやかな喧騒に満ちている。頭上は更に賑やかで、細かな光の粒子が細雨の様に降ってくるのだった。

枝から剥がれた落葉は煌めく結晶となって砕け散り、同様に、倒れ伏した獣も硬質な物質に成り果てた。

これ全て、死骸という結晶だ。
何より美しく、儚い死。

死骸は何十年間もの年月を掛けて地面に積もり、やがて透明に光り輝く大地を作り出した。この地層は後に結晶層と呼ばれるが、その層は非常に厚い。今尚厚みを増している。その事に気付いたその時、初めて人間は『死』というものの膨大さを知った。そして恐れ、魅入った。

例に漏れずこの少女スーも、いや、常人のそれ以上に彼女は死骸という結晶に魅入られてしまっていた。

「すごい」

頭上に広がる光の乱舞に思わず声が漏れる。反面、少しばかり彼女は不満気であった。

「こんなに落ちてるってのに、見つからないんだからなぁ…」

枝葉の隙まで睨めつけるも成果は出ない。木の根草の根掻き分けて、勝手知ったる森を行く。スーがその様な探索を開始したのはもう数時間も前であり、気付くと太陽は南中している。それでも見つからない。段々と足は重くなり、苛立ちばかりが募っていった。

彼女の探し物は並大抵には見つからない。それこそ、砂漠の中から砂金一粒を見つけ出す様な所業に等しい。ただただ焦りが勝つばかりの中、それでもスーは諦めずにいた。諦めなければ、きっといつか、と。

「秋の今頃なら、一つくらいはあるはずだ」

胸に下がる首飾りを握り締め、精神を落ち着けていく。すると、スーの感覚は森の隅々まで行き届く様に広がっていった。森のさやけき音が鼓膜を揺らし、しっとりとした空気が肌を撫でていく。その閑けさの中には、無数に息づく生き物の存在があり、スーの感覚は驚くことにその殆ど全てを自身の感覚の中に置いていた。

うるさくて、しずかな風景の中、微弱に波打つ何かがある。無機物と有機物の間。凡そ、自然でないものが感覚を揺らしている。

スーは笑った。歓喜が身の内に迸った。

「あった!」

スーは髪を振り乱し、駆けていく。複雑に張り出す木の根には一切足を取られないのが見事なものだ。項辺りがピリピリして、耳鳴りが凱歌を奏でる。きっと、あっちに在る、そんな感覚に引っ張られて進むと、それらはより強く高く訴え掛けてくる様になる。漸く辿り着いた所では、はっきりと痛いくらいだった。

今までと大して変わりない森の景色を前にして、彼女は笑っていた。頬を可憐に上気させ、夢見る様にある茂みを見つめている。

「見つけた」

茂みに向かって一向猛進すると、少女は分厚い靴底で地面を削り始めた。積もったばかりの上層は脆過ぎて、掘った側から穴に戻ろうとしてしまうのを掌で掬い取る。そうやって暫く作業を続けていたところである。

「うぎぇあっ!?」

「うわ、人間か疑うレベルの悲鳴」

スーは何とも申し開き出来ない悲鳴と共に、茂みを転がっていった。ドコドコと胸を叩く音がとにかくみっともない。スーは暫く時間を待ってから起き上がると、直ぐ様怒鳴りつけた。

「アマーン!いきなり私に触るな!」

怒鳴られたアマーンはやれやれと首を振る。暗に呆れを向けてくる彼の目は、スーの怒りを煽り立てた。

「スーを呼んでも反応しないんだもの。というか、砂遊びに夢中になってる君こそ悪いんじゃない」

「砂遊びじゃないし!歴とした石探しだ」

「犬か豚みたいだね」

「お前喧嘩売ってるだろ!」

買う気満々のスーを無視して、アマーンは悠々とその横を通り過ぎる。

「待てよコラ」

「君が何の無謀を起こしたか知らないけどさ。僕を巻き込まないで欲しいね。あぁ、溜息が出るよ。さよなら、僕の幸せ」

スーが掘ったそこそこ深い穴を見下ろして、アマーンは溜息を落とした。朝から森に繰り出そうとするスーに連れ出されてしまったのが運の尽き。その結果が今の面倒である。彼が嘆くのはそういう理由だった。

「腐れ縁のよしみだろ。あ、それ、戻すなよ。まだ掘るから」

「面倒だから埋めないよ」

アマーンは肩を竦めつつ言って、さっさと穴の前から退いた。スーはすり抜けざまにアマーンの足を踏みつけようとしたが、逆に踏まれた。

「生命石だよね。君が探しているのって」

穴を掘るスーの横で、木の幹を椅子にしたアマーンは気持ち大きめに声を掛けた。今度は聞こえたようで、スーは「ん」とだけ寄越す。

「教会でもなきゃ、奇跡が起こらない限り見つけられないらしいけど」

教会は一体どういう発掘技術を持っているのか、それとも秘密の鉱山でも所有しているのか、とアマーンはスーに聞かせるでもなく、徒らに話し続けた。暇なら暇、面倒なら面倒で帰ってしまえばいいのだ。スーは彼の判りづらい律儀さが嫌いではなかった。

そして脛まで埋まる深さに至った時、ようやっとスーは手を止めた。見つめる先には、周囲の色とはかけ離れた物体が在る。

「生命石、緑の…あった」

微かに震える手で摘み上げると、それはほんのり温かい、生命石の特徴を有している。

気配を察し、アマーンはスーの頭越しに彼女の掌上を覗き込んだ。

光が差し込む角度によっては黄金にも輝く。子供の拳程の大きさの生命石は、神秘的な金緑色をしていた。

まさか、本当に見つけ出すとは。

アマーンの翠の瞳は生命石を凝視していた。


* * *


目的を達した二人は森から工房までの帰路を歩き始めた。じりじりと太陽が西にずれていく。何時間生命石を探していたのか。腕時計を覗き込んだアマーンは呆れ返った。二人して腹を鳴らすと、笑い合うでもなく無言で睨み合う。しかし、それも疲れたのかアマーンが先に折れた。

「沢山降ってるねぇ、死骸」

アマーンは死骸が眼に入らないよう、手で庇を作っている。スーの様にバイザーがあればいいが、強引に連れて来られた彼は、全く外出対策をしていなかったのだ。目に入ると痛い。

「まぁ、秋の終わりだしなぁ」

アマーンの呟きに、スーはしみじみとして頭上を見やる。木漏れ日に煌めく光の数は夥しい。この殆どが枯葉から出来た結晶の破片であるのだ。こうして見ている間にも、死骸はどんどん生み出されていく。

「この中に生命石が混じってたりしてね」

「無いだろ。そう滅多にあるものでもない」

スーは密かに感覚を探ってみてから言った。これだけ降っていても生命石は皆無だ。生命石は死骸と同じ様に形成されるのに、どうしてか稀に温度と色を持つ個体が生まれる。その確率が至極珍しいことであることは、このことから判るだろう。

ある日突如現れたという新種の鉱物。その美しさもさながら、その形成の過程すら人を驚かせた生命石。

ある人はそれを神の奇跡と叫んだ。ある人は躍起になってそれを研究した。ある人は大金を叩いてまでそれを収集した。

そしてその行き着く先であり、象徴であるのは、現在も権威を誇る教会である。教会が世界の九割の生命石を管理しているのだとまで噂されるが、それも強ち嘘ではないだろう。

生命石は他の鉱物と決して同じではない。鉱山と言うべきものは無く、世界中至る所で運さえあれば発掘される。人間が生命石の価値を覚えたばかりのかつては、密輸などの闇商売が多く横行していたという。生命石が見つかったと聞けば、ゴールドラッシュの如く人々がそこに押し寄せたらしい。しかし、その様なことが看過されて良い訳がない。そこで、教会がその全てを圧する代わりに力を得たのである。

教会はその権力を利用して、生命石の収集と管理に努めた。だから、今現在生命石を最も多く保有するのは教会であり、また発掘するのも教会である。

生命石在る所に教会在り。そんな言葉さえ在るくらいなのだから。

「スーはその生命石をどうするつもり?売れば儲かるよ。何せ教会外で発掘された生命石だし」

生命石の市場も勿論教会が独占している。その地位を獲得するために教会は様々な取り組みをしており、生命石を教会でしか売れない代わりに、売主には多額の金が入ってくるというのもその一つである。

「売らない」

スーはキッパリハッキリ言い切った。

「えぇ、売らないの」

アマーンは小首を傾げる。さらりと栗色の髪が落ちた。唇は面白そうに弧を描いている。

「君ってやっぱり、面倒臭いなぁ」

まるでスーのやることが分かっているかの様だ。否、分かっているのだろう。スーとアマーンとは長い付き合いである。「ツー」と言えば拳が飛んでくる位には気が知れていた。

「私もやっと18歳だからな。夢を叶えに行っても良いだろう」

「どうだろうね」

肩を竦めて溜息を吐く彼は、スーより二年早く夢を叶える資格を得ている。ただし、叶えてはいないけれど。

「私はジュエリーマスターになるんだ」

スーは輝く瞳でそう語る。木漏れ日が彼女の顔に差している。アマーンはそれを少し眩しそうに見ていた。

「さぁ、そろそろ家だ」

スーの肩越しには大きな大きな壁が見えた。

2.斜陽

ペークシス27番街。

アメリカの管轄下にある保護区である。ぐるりを囲む巨大な壁は足元に大きな影を落とし、中に詰め込まれた家々を黒く染めている。多く在る家とは対照的に、人が住んでいる様子はあまり見受けられない。まるで、ぽっかり穴の空いた竹輪の様な街であった。

街の一角に、ある清々しい青屋根の建物が建っている。家屋と言うには大きく、施設と言うには小さい。白壁に張り付いているステンレスの表札には「マッカート宝飾工房」とあった。

「ただいまー!」

自動ドアが開くのも待ちきれずに飛び込んできたのは小柄な少女、スーだ。せっかちらしく足早に廊下を進んでいく。それをアマーンが長い足で追っていくというのが常の光景である。

「スーザン嬢、帰って来たんか」

階上でチェスに興じているらしい老人が、こちらを見下ろしている。

「ラノ爺ただいま!」

「ただいま帰りました」

細長く続く廊下で遭遇した人々に、二人は威勢良く声を掛けていく。

「ただいまカリン!テオ!」

「あらぁ、お帰りぃ」

「帰ったのだな」

洗濯物を抱えた女性はおっとりとスーに笑みを向けた。二人が帰って来たのを察したためか、一見煙草に見える菓子を咥えた男は態々部屋から出て来た。彼は何か用が有ってアマーンを呼び止めている。その間に、スーはとうとう最奥の扉に辿り着いた。

「ただいま、親父」

ドアをスライドすると共に声を掛けたところ、ややして応じる声が上がる。

「スーか。お帰りなさい」

真っ白な部屋は、天井からの灯りをよく反射して明るい。ただ、カーテンが閉ざされているのがどうにも陰鬱としている。部屋の中には少ない家具が整然と並び、部屋の主然としたベッドが中央に構えていた。

スーは軽やかな足取りでベッドの前に立つ。ベッドボードに背をもたせた父は、彼女を笑顔で迎えていた。

「森には何か在ったかい」

「在った在った!ほら、見てよ。綺麗だろ」

スーの指を解いて現れたのは、美しい緑色をした生命石であった。彼は些かに目を見開いた。

「これで出品、出来るよな」

興奮に彩られたスーの蒼い瞳に見つめられ、彼は笑顔を失くした。リチャードは彼女の言わんとすることを正しく察した。しかし、それは…。

「リチャードさん、ただいま帰りました、が…うーん、遅かったみたい」

暫くして入室してきたアマーンは微妙な表情を浮かべた。間が悪いことである。

「お帰りなさい、アマーン。君もスーと森に行って来たんだろう。動けぬ私に思い出話を聞かせてはくれないか」

「いえ、親子水入らずというのも」

「君も家族みたいなものじゃないか」

哀れな山羊は即刻退路を塞がれた。ここで否定するには、長くこの親子と付き合い過ぎた自覚が彼にはあった。

「巻き込まれるために来ましたし、いいんですけどね。でも、親子のデリケートな問題を絡めないで欲しいです」

「さっきまでの会話が聞こえてたみたいに言うね」

哀れと言うには図太い山羊だったかもしれない。これには縄を投げた当人も苦笑してしまう。肩を竦めて嘯きつつ、アマーンはスーの横に並び立った。

「君の言う通りに努めよう。スー……聞きなさい」

「何か動物の毛っぽいの入ってる!絶対土竜だ!」

リチャードの目が離れた途端にこれである。スーは目を輝かせて生命石の新たな発見に騒いでいた。どうどうとスーを落ち着かせる役をアマーンが出来るはずも無い。ようやくスーに話を聞いて貰える態勢になるまで、他ならぬリチャードが苦心した。

「あと一人は欲しいよね…」

そうリチャードがぼやく。その目は開かぬ扉を凝視している。いや、恐らくそろそろ…。

「ちわーす。帰ってきたんすけど」

「かかれ!!」

「うぎぇあ!?」

扉が開いた途端に病人とは思えぬ声でリチャードが号し、アマーンとスー両名が扉前の男に襲い掛かった。連携プレーの妙技であった。

「な、何…?って痛い痛い痛い!アマーンお前、指を捻るな!」

「え、僕は普通に持ってるだけですけど。もしかしてレンさんひ弱ですか?そんな熊みたいに大きな図体して」

「いや、極まってるからな!?」

アマーンは彼の親指の関節を完全に極めていた。

「アマーン、それどうやるんだ?」

「やめろ!!!」

好奇心は熊をも殺すらしい。ようやくレンが解放された時は、身も心もずたぼろであった。

「仕事疲れにこの仕打ち…。俺、泣いていいっすよね…」

四十路の大男の円らな瞳が泣き濡れる。この工房で誰よりも図体が大きく、また誰よりも繊細なのが、このレンドリアである。最近の悩みは息子に「もうすぐ熊さんは冬眠の時期だよね」と真顔で言われ、とうとう周人全てに熊扱いされるようになったことらしい。

男一人の啜り泣きをBGMにして、リチャードは明後日を眺めていた。どうしてこうなった。

「リチャードさん、気持ちは解りますが、そろそろ本題に入りません?」

「…あぁ、そうだったね。レンの泣き声が煩いものだから」

リチャードの表情が変わる。衰弱して尚鋭い眼光が、職人たちを射る。口元は少々引き攣っているが。その原因たちは未だ騒いでいる。

「リチャードさん、酷いっすよ!?」

「レン、泣くなよ。ほら、これで眼鏡を拭け」

「ありが…ん?心配してるのは眼鏡だけだろ、それ」

相変わらず煩い約二名だが、リチャードが咳払いをすると、やっと静かになった。

「スー、聞きなさい。お前に言っていなかったことがある」

「え、待って下さいっす。スーにはまだ早くないっすか」

レンは言わんとすることを即座に察したらしい。しかし、リチャードは首を振った。

「言うべきだろう。スーもこの工房の職人なのだから、甘やかすばかりではいけないよ」

言われてスーに目を移すと、彼女も真面目な話だと察し、固く表情を引き締めている。レンは口を噤むことにした。

「スー、君はもう18歳になったんだね。大きくなった」

そんな前置きから始めて、リチャードは深く息を吸った。部屋には静かでいて厳しい空気がキリキリと張り詰めている。

「今年から、教会の品評会に出る資格が君には有る事を、君なら知っているだろうね」

スーは頷く。毎年一度、教会は宝飾品評会を開いている。その品評会で最も美しい作品を作り上げた職人には、栄誉ある称号が贈られるのである。それこそが、スーのみならず全ての宝飾職人の夢であるジュエリーマスターという称号。名誉称号と侮るなかれ、教会に認められるということは宝飾業界から一目置かれることであり、その職人及び所属する工房は一躍して大きな利益を得る可能性が広がるのである。参加資格は宝飾に関する専門資格を有する18歳以上の職人。つまり、スーは今年からようやく品評会への切符を手にしたという訳だ。

だが、ここでその話題を切り出すことの意味とは。そのことを考えて、スーは青褪める。

「もしかして…私は今年、出られないのか?」

そんな理不尽なことが有っては堪らない。スーはひどく憤った。だが、不幸はそれだけでは無かったのである。

「この工房、マッカート工房が無くなってしまうからね」

スーは数瞬理解出来なかった。リチャードは冗談を言っているのか。そんな真実は認められる筈もないのだ。スーは唇が戦慄いて巧く言える様には思えないが、何とか言わねばという焦燥に駆られていた。

だが、彼女が何か言うより先に、状況は一変してしまった。視界が、身体が、大きく揺れる。途端、彼女の脳裏には、怒りさえ弾き飛ばす衝撃が撃ち込まれたのであった。

3.地震

スーの脳裏を貫いた衝撃は、彼女の身に変化を齎した。

からだの内側で熱が流れている。身体中の血液が、今の今まで凍りついていたのではないかと思う程に熱く巡っている。床がガタガタ言い出すと、身の内もゴウゴウ共鳴した。頭の中はそればかりだった。大きな揺れのせいで、まともに立ち上がれもしない。だというのに、スーは走り出そうとしていた。走り出さねばならなかった。

「生命石が…」

「まだ揺れてる」

一対の腕がスーの動きを阻害している。否、彼女を守っているのだ。しかし、彼女はそのことを理解出来ていなかった。その時の彼女は、獣の如く本能に迫っていたのである。走れ、走れ…彼女は我武者羅に腕を抜け出して、とうとう部屋の外へと飛び出してしまった。背後から上がる訴えは全く聞こえていない。

大地の揺れは続く。壁を支えにどうにか廊下を這い進むと、見るもの見るもの無残であった。酷い耳鳴りがしていたので、音など気にする余地も無かったが、もし聞こえていたなら目に見える以上に惨憺たるものだったろう。

スーが戸外にまろび出た時、ようやく揺れは収まってきた。分厚い靴底には幾つものガラス片がくっついていた。

「スー!何処に行くんだ」

後ろから追いかけていたのはアマーンだった。彼が全力で走れば、スーに追いつくことは難しくない。スーは腕を掴まれて初めて足を止めた。途端、ふらつく。

ーーーぐるぐるする。

視界も頭もぐるぐる揺れている。アマーンはスーの焦点が合わないのに気付いた。

「どうしたの。大丈夫?」

頬を叩くが、全く反応が返らない。虚ろな瞳は青空を映すばかりで、拙いと彼が思った時だった。スーがいきなりアマーンの腕を振り払ったのである。

「…ま…らな…」

「…何」

アマーンは聞き返そうとした。すると、その時ふとスーの瞳に正気が差し込んだ。地震の収束と同時だった。

「…あれ?アマーン」

「スー、頭大丈夫?」

「第一声!!」

スーの蹴りはするっと躱された。

「蹴らせろ暴言男!」

「反射で躱せるなんて、嫌なスキルが身に付いちゃってるな。スーのせいだよ」

「最初から当たった事無いぞ!」

「ノーコン」

アマーンはスーがぎゃーすか騒ぐだろうと思った。いつものように。だが、実際にはそうならなかった。スーは無言のまま、ふらっと一歩足を退けたのだ。心ここに在らずという表情である。アマーンは咄嗟に手を伸ばしたが、彼女自身に制される。

「来るな」

彼女は珍しく真面目な顔をしていた。アマーンは眉を寄せる。

「幾らお前だろうと、来ることは絶対許さない」

言って、スーは森の方に駆けて行ってしまった。後にはアマーンが残される。

「腐れ縁ね」

そう呟いたきり、彼は無言で踵を返した。


* * *


ーーー渦を巻いている。

森を再び歩いている。しかし、さっきまで見えていたものとは何処か違っていた。何処が違うのだろう。地震によって木々が倒れているから、ではない。獣の声が聞こえないからでもない。天災の爪痕が原因ではないのである。それはスー自身に少なからぬ変化があったからであった。

「感覚が強くなってる」

今なら砂粒程の大きさの生命石だとて見つけられる。森の全てを掌握しきった彼女の脳は、今きっと、辛うじて引っかかっていた人外の域を飛び越えた。

ーーーパキン

また、渦が蠢く。その真ん中を、くるりとターンする様に。そんなことが身に起こって尚、彼女を惹きつけて止まない物が、そこには在る。

「どうして今まで気付かなかったんだろ。こんな…大きな」

生命石。

スーはそこに向かっていた。渦に導かれる様にして歩くと、森の中のぽかりと空いた場所に出る。他より一段低く、低い丈の草ばかりが茂っている。そのため見晴らしは良好である。反応通りの巨大な生命石が有るならば、直ぐに見つかる筈だ。スーは辺りを見回した。

「無いし」

虚しい風が草叢を掻き分ける。障害物も何も無いのだ。さぞ良く吹くだろう。
ここではないのだろうか。スーは消沈して、足元に目を落とした。その時ふと、天啓を得た様に彼女は気付いた。

「あ、そっか。埋まってるのか!」

道理で見当たらない筈である。寧ろ、埋まっていなければ既に見つけられていた筈である。

スーは早速地面に腰を下ろし、死骸を掻き出し掘り始めた。草を引き抜くと案外良く抜けた。しかも根まで綺麗に持ち上がってくる。死骸も柔らかく、崩す様に掘ることが出来た。おぉ、と感嘆しながら掘り進めて数時間。辺りにはとっぷりと夕闇が満ちている。

「何時まで掘れば良いんだよ!この馬鹿でかい穴!」

遂に、穴に腰まで入っての作業となっていた。当然スーは草臥れて、既に空っぽだった腹の虫は、もう諦めたのか鳴かなくなっていた。しかし、腹と背中はそろそろくっ付いてしまうかもしれない。

「お腹が空いて力が出ない〜…とか言ってられないんだよ。アマーン辺りに察されるのも嫌だし、今日中に見つけてしまわないと」

かと言って、素手での作業には限界がある。シャベルを持って来ればいいものを、彼女は愚かにも気付かなかったのである。急がば回れをしていたならば、彼女の作業はまだ順調だったに違いない。

暗闇のお陰でもう今日は何も出来そうに無い。手元が覚束なくなってから暫くして、スーはようやく諦めた。衣服はどろどろで、身体中がきしきし痛む。穴の底に寝転ぶと、穴の狭さで手足が巧く伸ばせなかった。

「そういえば、馬鹿って言った方が本当は馬鹿なんだっけ…。でも、馬鹿でかい穴って、別に頭が悪いとかいう意味じゃないよな。あ、私が頭が悪いのは事実だ。じゃあ、つまり私が馬鹿なのか」

成る程、あの言葉はそう意味だったのかーと一人納得して、穴の底から上を見上げる。穴の輪郭までぎっしりと星々が詰まっていて、スーは素直な驚きを覚えた。月の居ぬ間に夜空を席巻して瞬く綺羅星が、闇を美しく演出している。ともすれば、奥深い闇の色に胸をすくわれそうな心地がして、スーは目を閉じた。眼球の裏から頭の頂上までが夢現を彷徨い出す頃、最後にスーは呟く。

「シャベル…」

ガクッとした。何の徒労であったのか、とようやく気付く馬鹿である。

彼女は意識を眠りの中に手放した。

4.地下ラボ


ひとつ。

またひとつ、生命が消えて、生まれた。

こうしてみると、生命とは廻る円環の様な、生と死とは表裏一体のコインの様な。

なら、生命石とは何なのだろう。あれは、その摂理の中の異分子だ。

そして、それが全て解る自分もーーー

* * *

スーは目覚めて冷静になった。

「シャベル取りに帰ろう」

ズタボロの彼女を見た人は居ない。まだ夜も明けきらない早朝は、何もかもがしんとしていた。

工房裏の倉庫の中身は、地震のせいでごちゃ混ぜになってしまっていた。ゴミと化してしまった物も多いだろう。スーは足の踏み場も少ない倉庫から何とかシャベルを引き摺り出した。良し。呟いた彼女は、来た道を戻って行く。

次第に空が明るんできたので、何とは無しにスーが空を見上げると、月は白み、星はまだ消え残っている。すっきりと広がる空を遮る無機質な壁。赤黒い朝空に朝日は見られず、物足りない気分が心を吹き抜ける。この壁が無ければ、それはきっと美しい日の出が見えただろうに。

「今度また、壁の上に行こう」

そう決めて、スーは足を森まで運んでいった。耳鳴りが未だ叫びを上げている。まずはそちらに行かねばならないのであった。

さくりとシャベルを地面に突き入れる。引き抜くと、確かな手応えがあった。こんもりと盛られた分だけシャベルは重い。

「やっぱ道具使うと、よっ!楽だなぁ!今度生命石探すときは、あらよっ!道具持って行くかな!よっこらせー!」

しみじみと言う間に、よっこいしょー!とみるみる穴は掘れていく。見て呆れる様な大穴が完成したのは昼前だった。

ーーーガキッ

金属と金属がぶつかる音。

周りの死骸を刮ぎ取ると、正方形の鉄板がギラギラした顔を現していた。

「何だこれ…マンホールか?」

殴った様な跡が無数にある。まさか素手で頑丈そうな鉄板に跡が付くとは思えないので、鈍器か何かで殴ったのだろう。継ぎ目部分は更に酷く傷付いていて、特に切り傷が目立つ。

「これ、開くのか?」

引き抜き式の取っ手を引っ張ってみると、錆びが擦れる音と共に開いた。…開いた。鍵の部分は断ち切られていた。ぽっかりと覗いた穴は、一寸先も見えない闇に繋がっている。スーは生唾を呑んだ。

恐い。

彼女は倉庫を抜け目無く物色し、電灯も持って来ていた。だから、闇自身に対する恐れは無かった。恐ろしいのは、闇の中の何かだ。何より恐ろしい怪物が潜むかもしれない洞に、どうして好き好んで入ることが出来るだろう。しかし、扉を開けて一層耳鳴りは強くなった。行かなければならないと、耳鳴りがスーを闇の奥へと誘う。

「…大丈夫」

胸の首飾りを強く握りしめ、スーは穴の中に足を下ろした。鉄梯子が掛かっている。電灯を口に咥えてそれを降りていく。鉄錆の酷い臭いが充満しているのに辟易するが、梯子を下りていきながら鼻が麻痺してきたのか、そのうちあまり気にならなくなった。何とか地に足が着く所まで来たが、また更に下には階段が続いている。スーはうんざりとしたが、また降りて行った。狭い壁の両脇に部屋が在ったが、敢えて入ることはしない。スーは廃墟巡りをしに来た訳では無いし、開けた扉から何かが飛び出してくるのも嫌だったからだ。

「…にしても、不気味だ。臭いし、埃凄いし。一体ここは何なんだ?」

まさかマンホールではないだろうことは、もう明らかだった。秘された空間は、進むごとに鉄錆の臭いが濃くなっていく。自分の口内まで鉄錆の味がしてくる様で、吐き気がした。早く出なければ、という思いは時間が経つほどに強くなっていく。怯える様に心臓が震えている。不吉な予感する。

「大丈夫、大丈夫…」

漸く最奥の突き当たりに辿り着いた。固く閉ざされた扉に手を掛ける。

「ここにある」

確信して、スーは扉を押し開けた。

むわっと押し寄せてくるのは鉄錆の臭い。いい加減、鼻が曲がりそうだ。しかし、それも気にならなくなる様な光景を目にする。

壁に居並ぶ青い画面。電力の供給は何処からされているのかは分からない。狭い通路とは対照的に広々とした空間が広がり、奥の開け放された扉から死骸が雪崩れ込んで床面に広がっている。部屋の諸々の設備を見る限りでは、ここは研究室らしい。

だが、そんな部屋の景色もどうでも良い。本当に気にするべきは部屋の中央にあった。

ーーー紅い。

紅い、巨大な、生命石柱が聳え立っていた。天井まで届く生命石など見たことがない。その鮮烈な紅は光を帯びていると錯覚しそうな程に強く、闇を従える様に存在するその色彩は、くっきりとその姿を浮かび上がらせていた。

「嘘…」

生身の人間を閉じ込めているーーー。

まるで、昆虫を自身の中に取り込み固まった琥珀の様だ。虫入り琥珀は虫の細部までを繊細に残す。その繊細さは、樹脂ならではの優しい生命の在り方だ。

今目にしている物は更に堅牢だ。僅かの欠けも無い。細部どころかその生命の一瞬の時間さえも固め取るほどの執拗ささえ感じる。

スーは暫く惚けていたが、少しずつ近づいていった。触れると温かい。生命石を象徴する、何よりの特徴だ。滲み出る様なその温度は、中の少年に触れたらこうだろうという加減だった。

近くで見ると、少年は際立って美しい容貌をしている。白皙の面には繊細な目鼻が整い、生命石と同じ紅の髪は目を引く。目を開ければどんな色をしているのか。スーは縫い止められた様にその瞼を見つめていた。

スーは彼が生きていると思った。

何故かと問われると言葉に詰まるだろう。敢えて言うならば、彼女の能力によるものであり、やはりこれも他人と理解を共有出来るものでは無かった。

「ここに閉じ篭っているんじゃ、生きてるって言えないけどな」

少年の頰の辺りをつるりと撫でる。この生命石は、少年を閉じ込めておく枷ではない筈だ。やはり何故そう思ったのかは説明出来ないが、これは強固に守り、永遠に愛おしみ、育むための腕の筈である。

しんとしたこの地下研究所に、既に危機は無い。恐怖していた怪物はかつて居たのかもしれない。しかし、もう何処にも居ない。この生命石は守り切ったのだ。

スーは軽くノックした。春の目覚めや運命は、きっとこんな惚けた調子でやって来る。

そして、光が弾けたーーー…

5.琥珀

琥珀は中の虫を生かせない。何故ならそれは、時間までを留めることが出来ないから。だから、琥珀の中に居た蚊から恐竜の血液を採取して、当時の恐竜が複製出来たなんていう話はあり得ない。

だが、それは違う形で実現されたと言っても良いのではないか。

今、目の前に、宝石柱に取り込まれ、かつ、生きている人間が存在している。生命石は亡骸から形成されるものだ。石にならず、生身を保っているという事実は、すなわちその生物が存命であることを示す。

歴史を覆すどころか、世界の理をも捻じ曲げて、その少年は生きていた。

もしこの生命石から解放されたならば、彼はどうなるだろう。スーはそのことについて危惧した。彼女は少年が生きていることを疑っていなかったが、同時に色々な悪い仮定が浮かび上がる。この生命石から出た途端、彼の命は失われてしまうのではないか。それとも、身体が年月ーーー何年かは知らないがーーーに耐え切れずに壊れてしまうのではないか。そうなれば、スーは人殺しになってしまう。果たして彼を出していいものか。

ーーーいや、出さなきゃいけないんだ。何としても。

命有るものにとって、この在り方は不本意なものだから。この生命石は少年を守るためのものだと直感が告げている。だが、生き物はいつまでも庇護者に守られ続けるのではいけない。いつかは解放されなければ、その庇護対象は歪んでしまうだろう。

きっと、解放されるのは今だ。

スーは自分の直感を信じた。

この生命石は恐ろしく硬そうだが、長い時間を掛けていけばどうにか少年の身体を傷付けずに出せるだろうか。幸いにも、スーは宝石職人だったので鉱物を削り出すための道具は揃っている。しかし、生命石は純度が高くなればなるほどモース硬度が高くなる。時にはダイヤモンドの10を超えるものすらあるのだ。一見しても、この生命石の純度は高い。スーの一生掛けてすら全てを削り切れるか怪しいかもしれない。そんな不安に悩まされる。

しかし、それは杞憂だった。

試しにスーは生命石を軽くノックしてみた。勿論、硬度を確かめるにはあまりに不適切で、単なる景気付けみたいなものだ。すると。

ーーーパキ、パキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキパキ………

生命石から夥しい光線が爆発した。スーは咄嗟に目を庇ったが、それでも光は凄まじい。瞼の裏まで灼き尽くしそうな勢いだ。一瞬でも目を閉じるのが遅れれば、失明していたかもしれない。光はうねり、無限に続くかと思われる破砕音を上げていた。それは、生き物の亡骸が死骸に変わるのと同じ音だった。

この生命は、今この瞬間、漸く死に切ったのだ。

轟火が燃え滾る様な、豪雨が降り頻る様な、地鳴りの様な、まるで世界が終わってしまいそうな破砕音を聞きながら、スーはそのことを悟った。役目を果たし終えた生命石は、研究室を埋め尽くす死骸になった。どれだけの命が、この一つの生命石に凝縮されていたのか判ろうという量だ。

「その代わりが、こいつか」

死骸に埋もれる様にして、少年は横たわっている。その一つの命は、果たして、この全ての死骸と等価だろうか。

ーーー守らなければ。

埋もれた生命石の中から、そんな囁きが聞こえた気がした。一体、彼は何から守られていたというのだろう。それ程の価値が彼には有るのだろうか、と彼女は興味深く思う。

「おい、起きろよ」

何もかも全て、この眠れる少年が起きなければ始まらないのは明らかだ。スーは少年の細い肩を揺すぶった。

「…起ーきーろー」

起きない。

「おい、お前、起きやがれ!おーい、朝ですよー!」

…返事が無い。ただの屍の様だ。

「お前、このまま寝てたらどうなるか判ってんだろうな!寝たら死ぬんだぞ!」

…返事が無い。本当にただの屍だったらどうしよう。

「蝿とか蟻とかゴキブリとかに集られて、こぉんな暗くて臭い所で死んじゃうんだ!ざ・ま・あ!とかなりたくなかったら、早よ起きろぉーーー!!!」

「煩い!!」

「生きてたっ!」

スーは思わず少年の両頬を掴んだ。温かい。見開かれた瞳は黒曜石の色をしている。髪の紅と肌の白を引き締める、理知的な色彩だ。じっと見つめていると、吸い込まれそうな深い深い瞳。

「…誰だ」

眉間に寄った皺さえ美しい。寄せられた細い眉は神経質な性格を良く表している。少し掠れた声は、心地よい中性の響きだった。

「私はスー。スーザン・マッカートだよ。お前を探しに来たんだ」

厳密には少し違うけれど、とスーは笑った。

「俺を…?俺は…シム。シム・グレイド」

スーに助け起こされて立ち上がると、シムは辺りを見渡した。足首まで埋もれる死骸の山と、壁に連なる青い画面、塞がった奥の扉、朽ちた机、腐った本棚…。

「ここは、何処だ?」

「何だお前、知らないのか。私も知らない。研究室っぽいなとは思うけど」

「研究室…」

シムは首を傾げ、眉間に皺を寄せる。本当に判らないのか、記憶が無いのか、嘘を吐いているのか、スーには皆目判断が付かなかった。

「取り敢えず、出よう。ここは臭いからな」

鉄錆やら腐敗臭やらが篭って混じった、臭いのとんでも空間である。肺が濁った不快な気持ちがする。

「ここの臭い…うっ!?」

臭いを吸った途端、尋常ではない顔色になって蹲ったシムにスーは慌てた。やはり、生命石に閉じ込められていた際の障害はあったのかと考えて蒼くなる。

「ど、どうした?」

「においが…」

何だ、とスーは息を吐いた。そして、安堵した分だけ怒りが湧いてくる。

「しっかりしろよ!たかが臭いなんかでそんなになるとか貧弱だな!まさか、とか思って焦っちゃっただろうが!」

「…早く」

「言われなくてもさっさと出るさ!っていうか、お前が立たなきゃ出れないだろうがよ!」

ほら、と差し出された手に、シムは縋った。そのまま、青褪めたシムを連れて、スーはあの長い階段を上るのだが、行きよりは短く感じたのであった。

振り返った研究室は、永の沈黙を湛えている。あの存在が何だったのかは謎のままーーー。

6.ズレ

かくして、地上に出てきた二人。

辺りは夕の光に染まっている。夕陽は今もぐんぐん釣瓶を落としていって、刹那の赤焼けがとても美しい空だった。

「新鮮な空気ー!腹減ったー!」

昨日の昼から何も食べていないスーと、推定何年も食べていないシムは空腹だった。新鮮な空気を食べても何の腹の足しにもならないのである。

「早く帰らないとな」

赤く染まった森の景色はひっそりとしていて、これから来る夜に備えている様に見える。彼らの立つ草原に、そうした森の息遣いのする風が吹き抜けていた。

「ここ、何処」

「森」

「それは分かってる…」

シムは額に手を当てた。夕陽に端正な顔が照らされているが、その表情は固い、様な気がする。何せ、彼は顔に鋼でも入れているみたいに無表情なのである。唯一表情豊かな眉間を除いて。

当初、シムの質問の意図が読めなかったスーだが、帰ろうと足を動かし始めてやっと、彼の言いたいことを察した。

「そういえば、シムの家は?」

「ケンブリッジ」

「近いな。でも、今日は地下使えるかな」

「何かあったのか?」

「昨日の大地震がなぁ」

シムは あぁ、と納得の息を漏らした。生憎のことなれど、地震のせいで地下に行けないということになれば、どうすればいいんだか。スーはシムを見つめながら悩んだ。シムはその間暇なのか、周りを見回していた。

「なぁ」

「そうだ!私の家に来ればいいんだ!」

スーはこれぞ妙案と言いたげに提案した。シムの話の端緒を一刀の元に帰したのにも気付いていない。

「いい考えだろ?ほぼ確実に地下は使えないし、手間も掛かる。もう今日は遅いし、地下が復旧するまで、な?」

シムは矢継ぎ早に出てくるスーの誘い文句に一答も出来ない。結局、スーに押し切られてシムは頷いた。ちらり、踏み締める地面に目を向けながら。

森を歩きながら、スーは説明した。主に、シムが生命石に閉じ込められていたことについてだ。それに対するシムの反応はというと。

「生命石とは何だ」

「はぁ?生命石は生命石だろ。それ以外の何だって言うんだ」

スーは当然のことの様に返したが、シムは納得しなかった。そこでスーは考え直す。もしかすると、生命石は自分が思うよりもメジャーではないのかもしれない。何処か腑に落ちない気もしたが、彼女はそう思うことにした。彼の無知に少々呆れながら。スーは自身の上着ポケットを探る。

「ほら、これだよ」

掌には緑の生命石が乗っていた。夕陽を浴びて、輝きの中にとろりとした金が混じる。しかし、シムは在ろう事に、それを何の変哲のない石ころでも見るかの様に見下ろしただけてあった。

「何だよ、その顔」

「別に、どうといった顔はしてないと思うが。俺にはその石とペリドットとの区別が付かない」

その返答に、スーは更に憮然とした。確かに、ペリドットも美しい金がかった緑色をしている。だがしかし、それにしたってこの反応は寂し過ぎる。宝石職人見習いのスーは、彼の色好い反応を引き出すことに躍起になった。

「じゃあ、これは?!」

そう言って見せたのは、彼女の首飾りだ。連なる銀鎖のトップ、シンプルなシルバーのラインに沿って、円やかな空色の石が嵌め込んである。その色はスーの瞳に似て、人をはっとさせる鮮やかさだ。これもまた、生命石である。

「アクアマリンに見えるが…。済まないが、俺はあまり宝石には詳しくないんだ」

これも駄目だった。アクアマリンもペリドットも確かに美しい。だが、スーが生命石により強く惹きつけられるのは、それら以上の魅力が生命石にあるからなのだ。

ーーー何て乏しい感性だ。

ピクリとも動かされた気配の無い彼の面に、スーは絶望することとなった。当初の目的は…シムに生命石の何たるかを教えてやることである。取り敢えず、それを果たすだけはしようと、浮き上がらない心で再びシムと向き合った。

「ん」

スーは、シムの手に緑の生命石を押し付けた。ほんのりと温かいそれに触れて、シムは目を瞬かせる。

「手熱?」

「ちっがーう!!生命石の熱だ!」

あまりに頓珍漢なシムの頭を思わず叩いてしまったが、彼自身は気にもしていない様子で生命石を凝視していた。

「まさか、そんな鉱物が…」

そう呟いたかと思うと、シムは突いたり光に透かしてみたり、忙しなく観察し始めた。スーはそれが気に入らない。今や、彼の無表情は好奇心に彩られていた。

「んなことしてたら夜になっちまうだろーが!帰ってからにしろ!」

スーは彼の手から生命石を剥ぎ取る。それでも未練がましく凝視してくるので、スーはさっさとポケットの中に収めてしまった。

「…じゃあ、これは?」

不承不承生命石から目を離したシムは、足元を指差して言った。そこには透明な死骸が地面を成しているだけだ。何も不思議なものなど無い。

「何を指してるのか分からん。ほら、早く帰るぞ」

スーはシムを強力な腕力でもって引き摺っていく。彼女はとても苛々していた。

一方で、シムはというと、解消されなかった疑問を何とか自分で処理しようとしていた。先程の疑問以外にも、スーの言葉足らずの解答ではどうにも不消化気味だったのである。そもそも、自分が生命石という結晶の中に閉じ込められていたということからまず疑わしい。彼はスーのことを猜疑の目で見ていた。

ーーー真実か、虚実か。

どちらにせよ思うのは、常識では考えられないことが起こっている、という予感である。


* * *


「何してたんだ、このボケナス!」

げいん!

帰って早々、脳天に拳を食らった。目の前に火花が散る程の威力である。

「容赦無ぇ…」

「容赦なんかするか!地震の中、外に出てって1日帰って来ねぇ馬鹿娘!」

スーがぼやいた瞬間、水を傾けた様にくどくどとした説教を垂れるのはレンだ。彼は忙しく立ち回りながらも、スーの逸早い帰りを歯痒く待っていた一人である。その反動あってか、彼は今、普段の様子とはかけ離れ、怒れる熊と化していた。

「それで、そこの男は誰だ?」

じろり、とねちっこい視線を向けられたシムは肩を揺らす。

「シムだよ。私が拾って来たんだ」

「拾って来たぁ?」

至極胡散臭そうである。だがここで、捨ててこい、とならないのは、レンの性分だった。彼は溜息を一つ吐いて、スーに言い聞かせた。

「あのな、そう簡単に拾いもんしてくるんじゃねぇよ。どうせ、地下道が地震で使えないからだろうが、素性も判らん奴を家に入れようと思うな」

そして、とレンはシムの方を向く。先程とは違って、真摯な眼差しである。

「お前も頼る友人ならこいつじゃない奴にしろよ。ここが一般家庭じゃなくて良かったぞ、全く」

「はぁ…」

シムの気の入らない返事が気に入らなかったのか、レンは眼鏡の下の目を吊り上げる。そして、敢えて暈していた部分を口に出した。

「女の家にノコノコ入る男は信用ならないからな」

二者はその言葉に対して、それぞれ反応を示した。

「レン、お前…!」

怒りに高揚したスーが言い終えるより前に。

「ーーー女!??」

と、シムの大きな叫びがそれを制した。

ん?

目が点、正にそんな二対の瞳がシムを見つめている。見つめる先の彼は、今までになく愕然とした表情をしていた。スーの短い髪、粗野な男言葉、態度、服装、身体つき…多少気になるところも有りはしたが、彼にとって、スーは紛う事無き“男”であった。

「おい、嘘だろっ!!!」

「生物学上女で間違い無いが、確かにスーは女を捨ててるもんなぁ…」

世は無情、と後ろでしみじみ呟くのはレンである。寧ろ面白がっている風でもある。対するスーは、もう言葉も続けられずに、野蛮な暴挙に出始めている。

「取り敢えず、リチャードさんに許可は取っとけよ」

そうして、シムの滞在が決まったのである。…早くも波乱は多そうだが。

7.パン

「いいよ。親御さんが心配しないのなら、ウチに泊まっていきなさい」

リチャードの許可はあっさりと降りた。その後は何とも気まずい沈黙が漂う。その間に、スーはふつふつとした気持ちを煮やしていた。レンでさえ心配する素振りを見せたのに、何とも薄情な実父である。薄情と言えば、工房に関してもどうにかならなかったのか。何とかしようと努めてみせるのが工房の長だろうに。思い返すと忙しくしていたのはレンばかりだ。

「シム、行くぞ」

スーは苛立ちも露わに、戸を閉めた。シムはそんな様子を静かに傍観する他無い。閉ざされた戸を見つめ、寝台上のリチャードは溜息を漏らしていた。

シムはリチャードの言う通り、親に連絡を入れようとしたのだが、スマホの充電は切れていた。

「まぁ、いいか」

「いや、駄目だろ。というか、それは一体いつの機種だ?」

「最新の…」

スーが上着ポケットから出したのは、腕時計型端末だった。電源を入れると、ふわりとホログラムディスプレイが浮かび上がる。

「これもそう大して新しくはないけど」

ほら、と差し出されるも、シムは使い方が分からず戸惑ってしまう。

「今は、何年だ?」

「27××年だけど」

「21××年ではなく?」

「時間の感覚ズレてんのか?いつの時代を生きてるんだよ」

「そうか、そうだな」

シムの声音は平坦だった。表情と同じく、彼は感情が出ない性質らしい。彼はスーに端末を返した。

「連絡はいい。俺は元々一人暮らしだし、父は碌にメールも見ないから」

スーはふーん、と淡白に呟くと、端末を仕舞った。

「何かさー、お前ってズレてるよな」

「?」

「さっきも突然、何年?とか訊いてきただろ。私のことを男だと思ってたのもズレてる」

「それは…」

「それは、スーが女の子らしくないのがいけないんじゃないかな?」

「うおあっ!?」

ぬっと現れたのは、アマーンだった。

「いきなり現れんなっ!私の心臓が止まったらどうしてくれる!」

「スーなら心臓さえも男らしいから大丈夫だよ」

「どーいう理屈だよ!」

ぶちぶち不満をぶつけてくるスーを意に介さず、アマーンはシムと自己紹介し合っていた。

「宜しくね、シム君」

にこにこ、にこにこ、人当たりの良い笑みである、がスーには胡散臭いとしか思えない。無論、今まで飲まされてきた煮湯の成果である。

「暫く、世話になる」

「ここは私の家だぞ!私に言え、私に!」

「煩いよ。まぁ、確かに僕はしがない半人前だね。で、大家の娘さん、お客様をお部屋に案内しなくてもいいのかな?」

「す、するぞ!言われなくともな!」

言われなければしなさそう。それは初対面のシムさえ思った。

工房内を案内した後、三人は食卓に着いた。食堂は一切の光も入らない地下にある。これは、死骸が日光の無い所では形成されないからである。それによって、供された料理は死骸にならないのだ。

ようやっと食事にありつける、と思った瞬間、スーの腹の虫は高らかに歓喜の声を上げた。

「あー…みっともない」

「丸一日何も食べてないんだから、しょうがないだろ」

まだ続く二人の口論だが、それに割って入る猛者が居た。バスケットを抱えたカリンである。彼女は愛敬のある甘ったるい声で、延々続きそうな口論を止めた。

「はぁい、どーぞぉ」

ぐーーー…

「腹の虫が私よりも先に返事するとは…」

これは期待?に応えて食べねばなるまい。

だがしかし。

目の前にどん!と置かれたのは、パン、パン、パン………パンしかない。

「何でパンしかないんだよ!?」

「だってぇ、ガスも水道も使えないんだものぉ。現在自家発電中?あ、サラダもあるわよぉ」

げんなりだ。サラダ“も”ではない。サラダとパンしかないのが現状であろう。仕方がないことだとは解っていても、散々お腹を空かせてこれでは、腹の虫も報われないことだろう…かと思えばそうでもなく、依然として激しく自己主張をしていた。

「ええい、節操無しめ!いっただっきまーす!!」

口の中にじゅわりと滲みる仄かなバターの味は、期待以上に美味しかった。

「空腹こそ最高のスパイス!」

スーはパンを掲げ持った。器用にも、色々叫びながら次々パンを完食していく。勿論、サラダに手を伸ばすのも忘れていない。

「…独り言」

「スーはいつもあんなだよ。それよりゴメンね、こんなものしか無くて」

「いや、十分美味い」

スーではないが、空腹は最高のスパイスなのである。

「あはは、パンはまだ有るからゆっくり食べてね」

しかし、そのたっぷり有ったパンも、スーのお蔭で早々に数を減らしている。このペースでは、あまりありつけないだろう。すると、アマーンはシムに耳打ちして言うのだ。

「想定済みだから」

そうか、とシムは納得した。だが、もう食べないでとスーの手の甲を抓るのは何故だろうか。そして、妙に表情が嬉々としている…。

食堂には続々と人が集まってきた。まずテオ、レン、続いてラノとジドが食卓に着いていく。カリンだけは、鉄ボウルで覆った包みを持って出て行った。一人では動けないリチャードの食事だろう。

「俺はテオドリックという。スーの友人、宜しくお願い致す」

「さっき会ったな。俺はレンドリアだ。レンでいいぞ。あまり工房には居ないが、あいつほどじゃないから困ったことがあれば頼ってくれ」

「儂はラノじゃ。ところでシム坊、チェスは好きかの」

「………ジド爺」

人が増えるごとに賑々しくなっていく食堂に、シムは圧倒されていた。これほど多くの、年齢も様々で、察せられる個性もさながらな人と食事をしたのは、初めてかもしれない。

「あ!まだパンを隠してたのか!」

「さっき不満を言ってたのは誰かな?っていうか、まだ食べるの?豚になっちゃうよ」

「そうだぞ、スー。食事は均等に分けなければ」

「おいおい、お前は小食だろ。スーと同じ量、食べる気か?無理すんな」

「おうい、酒は無いか!」

「有る訳無ぇっすよ!昨日ラノ爺一人で飲み尽くした癖に!」

「なぬ?酒が無いのにシム坊の歓迎が出来るものか。誰か買ってこい!」

「このザル!」

「飲兵衛!」

「はぁい、カリンちゃんのご帰還よぉ。なぁに?楽しそうなことしてるわねぇ」

「パンの争奪戦だぁ!」

「………」

騒がしい。その中で、シムは沈黙を保っていた。

その時、不思議そうな声が掛かる。

「シム?早くしないとパンが無くなるぞ」

スーはきょとんとした目を向けた。その手には既に山盛りの戦利品が抱えられている。シムは物言わず、じっとスーの瞳を凝視した。あまりに凝視されているので、スーにとっては居心地悪い。まぁ、確かに自分は食べ過ぎたかもしれない。

「…要るか?」

すっと差し出されたパンに、シムは眉宇を寄せた。

「…要らない」

その後ずっと、彼は食卓を見つめていた。

「何だってんだ」

スーは憮然として、パンに噛み付いた。硬くなり始めたパンは咀嚼が大変だった。

8.一人

マッカート工房内の居間にて、三人の大人がソファに集まっていた。カリン、テオドール、レンドリアの三名である。彼らは一昨日の地震のために帰宅を見送る嵌めになっていた。

「地震、凄いわねぇ…」

カリンはラジオを聞きながらびっくりしたようだ。ラジオでは、一昨日の地震で教会が半壊したことや、他にも多数の死傷者と建物被害など、近況が報じられている。最近は朝晩問わずにそればかりだ。

「地下も酷いらしい。ここと同じく、街の機能が一時停止の状態であるそうだな」

コーヒー片手にテオも頷く。しかし、その厳しく造った表情も、次の瞬間には盛大に歪められた。カリンの隣で背を凭せ掛けているレンが、冗談めかしてけらけら笑っていたからだ。

「まさか、教会総本山の真下が震源たぁな。首座もびっくらこいただろう」

「レンドリア殿、不謹慎であるぞ」

「お前、相変わらず硬ぇな。昏い顔してたらイイってもんでもねぇし、お前みたく顰めっ面すんのも性に合わねぇ。だったら、いつも通り笑ってりゃイイんだよ」

レンの明後日に前向きな言い分を聞かされたテオは、とても微妙な顔をした。

「…バズールみたいなことを言う」

「げ、あいつと同じにすんな。ありゃ、狂人だ」

レンは本気で嫌そうだが、横でカリンは「似たもの同士よねぇ」と楽しそうにクスクス笑っていた。

「…震源から離れていた故に、この程度の被害で済んだことは僥倖であったか」

一方、一昨日に前向きなテオの意見には、二人とも反応しなかった。特にレンは、眼鏡に鼻頭を食い込ませる程に苦り切った顔をした。

「…この程度、ねぇ。どうだか」

カリンがラジオの電源を落とすと、居間には沈黙が残った。

「たっだいまー!今日は何も無かった!」

突如沈黙を突き破ったスーの大声に、大人三人は知らずほっと息を吐いていた。続いて、アマーンとシムの帰宅の報せが聞こえる。子供三人は廊を進み、そのままオレイヌの元へと進んだ。その間、スーとアマーンによるお馴染みの漫才も騒がしく聞こえてきていた。

何の憂いも無さそうな、明るい午前の光景に思えた。

「スー達も帰ってきたし、お昼の準備しなきゃねぇ」

「今日もパンか?」

あらぁ、とカリンは小首を傾げた。

「パンだけは大量にあるんだものぉ。日持ちしないから、直ぐに消費しないとねぇ」

レンのあからさまに不満な声が上がると、カリンは「どうしてこんなにあるんでしょうねぇ」とまた小首を傾げた。

「…ジド殿が、先日大量に作っていたのを見たのでござる」

テオは遠くに魂を飛ばしていた。

ジド爺の趣味は、パン作り。


* * *


スーはシムに向けて無い胸を張っていた。

「ここが工房の命、作業場だ!」

ずびしっ!と指を差し向けた先を見ると、成る程………酷い惨状が見える。

割れた硝子は撤去されたものの、壊れた器具や機械はまだ運び出されておらず、まるでガラクタ集積場の様なものが部屋の片隅に固まっている。本来棚の上に在ったであろうものは未だ整理が行き届いていないので、床に適当に纏められているかと思えば、散らばっていたりするものも在り、大変見苦しい。見ると、青緑の何かが壁にべったりこびり付いている。工房の命は瀕死寸前であった。

「…あぁ」

シムは何とかそれだけ感想を捻り出した。彼が基本無表情なのに騙されたスーは、得意満面である。そして、次にこう宣った。

「今日はここを掃除する!良いな!」

「………あのさ、掃除して来なさいって、オレイヌさんがさっき言ったんだから、君の提案じゃないよね。良いなも何も無くない?」

アマーンの人(主にスー)を小馬鹿にしくさった呆れ顔は、今日も快調である。

ーーーというか、これ、今日中に出来る作業量じゃないだろ。

シムは無表情ながら、じっとりと眉間の皺を深くした。無論、その極々微小の変化は、誰にも見破られることはない。

「さぁ、やるぞっ!」

叩き(今それは必要か?)を持って駆け出したスーは、落ちた器具に足を取られ、物の見事にガラクタ集積場に突っ込んでいった。

やはり、無理無謀の量であると、シムは確信した。寧ろ、作業は増えるばかりで終わりは一向に見えないかもしれないとすら思う。隣でブリザードが吹いていたので、シムはそっと側を離れて掃除することにした。

「アマーン、そっち持って」

「えぇ、僕、今これを運んでるんだけど」

「シムが非力だったんだよ。アマーンが居なきゃ持ち上がらないんだって」

「済まん…」と縮こまっているシムは、身体の何処も肉付きが悪く、いかにも非力そうだ。普段から運動をしていないのだろう。スーは、彼を毎日森歩きに連れ出してやろうと決心した。

そうして要修理機械類を纏めたり、壊れたものを外に運び出したりしているうちに、やがて、小窓から橙の斜陽が差し込んでくるようになった。周りを見渡すと、作業場は大分すっきりして先の惨状からの脱出に殆ど成功している。だが、その頃には全員がくたくたで、明日以降の酷い筋肉痛を覚悟した。

「今日はもう、このくらいで良いんじゃないかな。どうせ、今日中には終わらない量だし」

「そうだな…あー、つっかれた!足腰痛ぇ!塵臭ぇ!」

服もドロドロで機械油の染みた臭いがする。シムの作業服はアマーンからの借り物だったので、彼は少々恐縮した。

作業場を最後に出る時、シムはふいに立ち止まった。

「工房の命…か」

「シム、どうかしたのか?」

機械や器具に人間の使い込んだ跡が染み付いていた。それらが斜陽を弾いて赤白く発光していた。きょとんと彼を見つめる青色もまた赤く焼けているのと同じで、シムの髪は元の紅さも相俟って、光に溶け込んでいきそうに一際眩しく輝いている。宙の塵埃の金光が漂うのも、それが作業場を照らし上げるのも何とも美しく、懐かしい風景だと感じた。

「…明日使っても、掃除は終わらないな」

「あぁ、明日も頑張らなきゃな」

「…あぁ」

スーの言葉に、彼は今少しの曖昧さを残して頷いた。それと時を同じくして、間も無く斜陽は作業場から熱を落とすように消えた。


* * *


夜闇が世界を覆い隠す時刻、スーは自室から忍び出た。辺りは嫌に静かで、一歩ごとに彼女は身体の内側の音ばかり大きくなっていくのを感じた。うっそりと昏い気分がじわじわと彼女を侵食していくのを振り切る様に、外への扉を跳ね開けた。

外気はしんと冷えて清々しかった。星々の輝きはじんわりと明滅を繰り返し、風は余計なものを掃き清める様に力強く吹いている。スーの不安は立ち所に消えるものでは無かったが、うっそりと昏い気分は浄化された気がした。

「これから、どうなるんだろう」

空を仰ぎ、彼女は不安を吐露する。不安事は、いつも空に預けてきた。それは、母親を亡くして尚逞しく生きる彼女の一種の拠り所であったのだ。

「工房が潰れそうなのに、親父は全部諦めてるみたいだったんだ。母さんは、親父と一緒に過ごした幸せな思い出の宝箱って言っていたところなのに」

自分と同じ、綺麗な空の色をした母親の姿が脳裏に像を結ぶ。彼女は穏やかに微笑んでいたので、スーは胸に詰まるものを更に溢した。

「凄い地震とかもあって、それでなくとも仕事なんて無いのに…どうするんだろう。私は、どうしたらいいんだろう…」

夜、ベッドに入った途端、今まで気にもならなかったそれらがどっと押し寄せた。今朝から生命石探しや掃除に専心していたのは、もしかすると現実からの逃避になっていたのかもしれなかった。その張り詰めていた糸がすっかり切れて、スーは心の具合が悪くなったのだろう。そして、亡き母を思い起こす空に縋り付いた。

しかし、空は言葉を返さない。当然だった。

「………ここが無くなったら、思い出も消えちゃうんだ」

「…何故?」

「…!!」

ふいに掛かった声に、スーは喉を震わせた。遠くの灯りに輪郭だけ光るそれは、一瞬誰か判らなかった。

「…起きてたんだな」

「まぁ…目が冴えてて」

少し気まずそうな声音は、シムのものだ。スーは見えないながらも、無表情なんだろうな、と思った。自分の顔は、到底見せられたものじゃない。

「お前は何で起きてるんだ?もう12時過ぎてるだろ」

「…何と無く」

「…ふーん、そっか」

何処か歯切れの悪い会話だ。スーは途端に居心地が悪くなってしまったのが、紛れも無いシムのせいだと判った。そして苛立ち、

「早く帰って寝れば?別に何も無いぞ」

と、ぶっきら棒に言ってしまって、更に決まり悪くなった。一音発するたびに、どんどん焦る。

「お前も」

「私はいいんだよ」

「何故?」

「ーーーああもう!何だっていいだろ!さっさとここから出ていけ!」

寸瞬で帰ってきた疑問に、スーは苛立ちを爆発させた。理由なんて、みっともなくて言えない。代わりに吐き捨てた言葉が、どういう意味を持っているかなんて、その時彼女は考えもしていなかった。ただ、自身の領域に踏み込んだ彼を追い出したくて仕方なかった。

「…済まない。出ていくのは、なるべく早くする」

スーは一瞬何を言われたのか解らなかった。血の巡りはとても速いのに、全てが空回りする、その感じ。解らないまま、焦った唇はつるりと滑った。

「そうだよ」

じわりと、熱が溢れる。落ちた音なんて殆どしないだろう。それに、この暗さだ。なのに、シムは帰ろうとした足を驚いた様に止めた。

「…スー?」

急激に頭が冷えていく。シムの先程の言葉がリピートして、ハウリングしたみたいに耳が痛くなった。スーは噛み締めた歯の隙間から低く呻いた。

「ごめん、嫌だ、行くな。私がどうかしてたんだ。ごめん、行かないで」

彼が突然工房に転がり込んできて、そのことを彼自身が気詰まりに思っていたことには気付いていた。いつも申し訳無さそうに、広くもない肩を狭めていたのだ。それなのに…

ーーー間違った。

そのことが辛くて苦くて、縋るように彼の服を掴んだ。今、自分がみっともないくらいの情緒不安定を晒しているのは、忌々しいくらいよく解っている。自分の行動が不可解に思えてならない。しかし、ここで彼を突き放すと、もう二度と会えない気がした。すると、居ても立っていられない。

「…わかった」

ポツリと転がったその声は、途方に暮れたみたいだった。スーもまた、途方に暮れていた。


* * *


握られた手が冷たいのに気付いた時、彼女は喉奥からの悲鳴を上げた。

あの時、手を放してしまった後悔を、喪ってしまった憂さを忘れることが出来ない。

空に置いていかれた少女は、今も膝を抱えて眠る…。

9.空海

早朝。

「シム、お早う!」

扉の中から彼が応えを返す時には、もう彼の準備は整っている。彼女の襲来に先んじて準備をしておかないと、この部屋は鍵も無いので、起きてこないシムに痺れを切らしたスーに特攻されてしまうのだ。彼女は異性の着替えに構うことが無い。そのためシムはこの様な早朝から起き出すことを余儀なくされた。扉を開くと、朝から元気に笑うスーと、同類相憐れむ様な表情を浮かべたアマーンと相見える。

あの日以来、スーは表面上屈託無くシムと接していた。頻繁に彼を外に連れ出し、彼を側に置き、彼を良く気遣った。その姿を見た職人どもが、桃色の笑顔で見守っていることを彼女自身は知らない。そして、シムもあまり周りに頓着する性格では無いので、知らぬは当人達だけであった。

「今日は森じゃなくて、地下に行くんだ。カリンにお遣いを頼まれたのと、あと、シムに見せたいものがあるからさ」

「…地下…お遣い?」

シムはどうにも合点がいかないという様に、その二単語を口内でブツブツ呟く。その内に、アマーンがその様子に気付き、あれ?と首を捻った。

「シム君には言ってなかったっけ。地下門が復旧したみたいで、昨日から地下に行ける様になったんだ。これで、君も家に帰れるね」

「あっ…そっか、そうだった。シム…帰るのか」

何処か落ち込んだ様子のスーに、未だ疑問符を浮かべたままであったシムも返答に慌てた。

「えっと…家があったら帰る、が」

「え、家無いの?」

シムはくるりと目を泳がせ、「…多分」と曖昧に答えを濁した。それに呆れた者も居れば、好色を露わにした者も居る。

「良かった…って、あれ、良くないな」

「地震で潰れてなければってことかな。シム君って言葉が圧倒的に足りてないよね」

アマーンの言葉が耳に痛かったのか、シムは肩を縮めた。コミュニケーション能力の不足は自覚しているのだ。

「もし家が無くても、私の家に来れば良いからな!」

どーん!と薄い胸を叩き、彼女はシムにそう言った。それに対し、シムは安堵した様な恐縮した様な気持ちで、何の反応も出来なかった。


* * *


寂れた街を覆う壁には、東西南北の門とは別に東西二つの門が設置されている。前者四つはそのまま壁の外に繋がるものだが、後者は地下に繋がっている。三人は東地下門にやって来ていた。

「手続きには時間がかかるから、待ってる間にこっちに行くぞ」

地下行きの切符を手に、スーは上を指差した。何のことやら判っていない風のシムを引き摺り、彼女はエレベーターに乗り込む。この壁は地上から高さ15階分までの複数階で構成されており、その殆どが休憩所になっている。復旧始めだからか、早朝にも関わらず多くの人が門に押し寄せ、それら休憩所で暫しの退屈を持て余しているのがしばしば窺えた。今日、地下に在る家に帰るらしいレンとテオも、この中のどれかに混じっているかもしれない。確かに、これは待つのに時間がかかる。それまでどうするのかとシムが思っていると、脇からスーの手が伸びてきて、最上のRボタンを押した。

「屋上?」

「あそこからの景色を見せたかったんだ。今日は天気も良いし、多分綺麗に見えるだろうな」

ニヤリと得意気に彼女がそう言ったので、例の如く彼女が自分を連れ回すのと同じことかとシムは納得して、興味薄く案内板に視線をやった。彼女の強引さに閉口することはある。なのに、何処か憎めない所もあった。

ポーン、と軽快な電子音と共にエレベーターから吐き出される。とうとうR階まで至った三人は、ほぼ同時に目を眇めた。以下の階とは違って、圧倒的に小さく人気の無い部屋だ。その代わりに、大きく幅を取った硝子窓がそこから見晴らせる目一杯を絵画の様に映し出している。心に小さなの特別感を与えてくれる景色だった。

「やっぱり、ここが一番よく外が見える」

さぁ、と扉の外までシムを導いて、スーは満足そうに笑った。扉を出た途端、一気に開けた視界に一面の青が広がる。遠く高い空と深く広やかな海のツートーン、頬を嬲る風すら心地良く、胸一杯に充ち満ちた開放感に息を吐く。スーがシムを横目に見ると、彼は目を奪われた様にじっと境界線を見つめていたので、こっそり笑った。とても愉快な気持ちだ。

「綺麗だね。朝日がちょっと眩しいけど」

アマーンの栗色の髪が光に透けてキラキラしている。そんなことにも腹が擽られて、スーは揶揄う様に指摘した。

「アマーン、シムみたいな顔してるぞ」

「ええ?にっこり笑ってるでしょ」

「いや、眉間の所」

とん、と指先で心外そうなアマーンの眉間を突く。すると、邪険に払われた。

「止めてくれない?勝手に触るの」

「相変わらず潔癖だなぁ。しかも自分から触るのだけはオーケーってところ、ホントよく解らない」

払われた手をプラプラと振りながら、スーは苦言を零す。その横では、やり取りを聞いていたシムが訝しげに眉を顰めていた。

「…俺みたいな顔って何?」

「ほら、スーもシム君みたいな顔になってるじゃない。こんな感じの不機嫌顔」

アマーンに眉間を抓られて、スーは痛い!と大袈裟なくらいに喚いた。一方で、シムは成る程と頷く。

「俺の眉が寄るのは、視力が悪いからだと思う」

と言いつつ、垣間見えるアマーンの性癖らしきものに眉が寄るなどは、きっぱり別話となるが。

「今凄く眩しいから眉が寄ってるんだよ。僕らみんなね」

凡そ正面に見える太陽が、空を舞う死骸に煌めきを与えている。あまりに眩しくて、皆ぐっと眉間に皺を寄せていた。アマーンの的を射た解を皮切りに、再び腹から不思議な笑いが湧き上がってきた。それはふわふわと伝播していって、シムでさえ口角を上げた。



「珍しい。ここは、人が滅多に来ない所なのですが。この門に来る人たちは特にね」

ふと聞こえた声にはっとして、笑いが止む。振り返ると、扉口に落ち着いた物腰の男が立っていた。第一印象にはまず、特徴的な金のおかっぱ頭が挙げられる他は、それがよく似合う女性的な面立ちであることだろうか。朝日に浩々と輝く真っ白な装いといい、少し風変わりである。男は人好きのする笑みを浮かべて、徐に歩み寄ってきた。

「すみません。話の腰を折ってしまいました。あまりに珍しく、楽しそうだったので。いや、若いとは良いものですね」

「貴方は?」

アマーンが一歩前に出て、にこやかに訊ねる。相対する二人の笑顔は、恐らく同種のものだ。

「私はサミュエル・クラークと申します。地下門が復旧したと聞いて、地下から上がって来たのですよ」

「これはご丁寧に。僕はアマーン・エヴァンズです。こちらは友人のスーザンとシム。僕らは地下の方の用向きで、ここに来たんですよ」

「そうなのですか。地下はまだ先日の地震の影響で危ない箇所も有りますが、お気を付けて下さいね」

そこまで世間話をした後で、サミュエルは「あぁ、そうだ」と付け足した。

「実は私、聖石教会の者なのですが、この辺りで最近生命石を見つけたとかいうお話はございますかな?」

スーはあっと声を上げかけた。最近、彼女は教会が未確認の生命石を発掘した。まさかそれがバレたのかと肝を冷やす。しかし、スーがボロを出す前に、先んじてアマーンが「いいえ」としらっ惚けた。彼もあの時同じ現場に居たはずなのだが…スーとアマーンとでは、面の皮の厚さが違う。

「そうですか、ご協力有難うございます」

サミュエルは胸に手を当て、礼を述べた。スーはアマーンの背後で溜息を吐く。その時、すっと目の前に白手が差し出され、スーは目を丸くした。

「これは私の名刺です。可愛らしいレディに差し上げますね。珍しいものも見せて頂きましたし。それでは、私はこれから仕事ですので、御機嫌よう」

サミュエルは、ふっと軽く笑みを零して去っていった。スーは白々とその背を見送る。

「何しに来たんだろーな、あの人」

『Samuel Clark』と記された名刺には、共に聖石教会所属の司教であるとも書かれていた。三十前半程の齢で司教の地位にあるとは、中々早熟だ。ただし、古来からの正教等よりも聖石教会は規律に緩い箇所もあるらしく、若い司教だって居ない訳ではない。聖石の管理保護だと建前をたて、生命石の独占によって利を得ていることからも察せる通り、教会の内情は成果主義。詰まる所、その緩い箇所とは生命石を介した利益追求についてであり、サミュエルは恐らく遣り手の商人(聖職者ではなく)であろうと判断出来た。

「スー、それ要る?」

唐突に、アマーンが名刺を見て尋ねる。

「ん?要るか要らないかで言ったら、邪魔だから要らないけど」

「じゃ、僕が貰っておくよ」

「何でだよ」

スーが胡乱げにすると、アマーンは常には無い歪んだ表情で、ふん、と嗤った。

「僕が話してたのに、スーに渡したのが不快だったから」

「そんな理由かよ!?」

「要らないんでしょ?言質は取ってるんだから、さっさと頂戴」

「…くそったれ」

スーは差し出された掌を叩きつつ、名刺を手渡した。乾いた音がすると共に、アマーンの通信端末が鳴った。

10.証明

アマーンは手首に巻かれた端末を見て、「時間だね」と言った。待ち時間が終わったらしい。想定よりも随分早かったので、急く急く三人は、再び一階ホールまで戻ってきた。

だが、受付でIDを提示する所で問題が起こる。

「少しいいですか?」

職員がシムの腕を取った。厳しい顔で睨まれ、何か良からぬことがあったのだろうと嫌でも察する。気付けば彼らは黒服の職員たちに囲まれていた。シムに目配せをしても、一向に首を振るばかりである。

「お連れの方もご同伴願います」

よく判らないながら三人は頷いた。受付裏の廊下を通り、質素な小部屋に連れられる。木机を挟み相対する配置に並んだ三組のパイプ椅子に、各々腰を下ろした。

「グレイド、貴方の提示した身分証は偽造ですね」

三人の中で最も偉い職員なのだろう男が詰問した。スーとアマーンは唖然として、シムを見つめる。しかし、彼は「いいえ」と肯んぜず、尋問する職員を俄かに苛立たせた。

「お前の身分証はどう見てもおかしい。何故、生年月日が600年も前なんだ!」

バン!と机に叩きつけられたシムの身分証には、シムの顔写真の横に21××年とあった。今は27××年、はっきりおかしいと判る。にも関わらず、彼は認めなかった。

「…いいえ、間違いなく俺の身分証です。偽物ではありません」

「嘘を吐くな!」

職員は既に、見下す態度を隠していなかった。シムのことを嘘ばかりの犯罪者だと信じて疑っていなかったからである。三人が地上民であるということも、彼の蔑視に輪を掛けて増長させた。病原菌め、これ以上手間を取らせるな、と憎々しく思いながら彼は尋問を行っていた。

横から見ていて、スーはハラハラする気持ちを抑えきれない。職員のあからさまな態度にも怒りを禁じ得ない。そんな中、ふと思い出したのは先日のシムとの会話で、21××年と見た瞬間に何処か引っかかりを覚えたのであった。

ーーー…そういえば、シムはいつからあの生命石の中に居たんだ?

そう思い浮かんだ途端、最初からその答えは用意されていたかの様にスーの頭に閃いた。

ーーー21××年!まさか、そんな昔から?!

今まで何故、気にしていなかったのか。彼が閉じ込められたのがつい最近ーーーあっても数年だと思い込んでいたのはどうしてか。それは、脳髄に染み込んだ『常識』という枷が彼女を盲目の病に至らしめていたからに違いなかった。

ーーーこれは、本当に同じ人間なのか?600年も昔から生きているなんて。

戦慄した。彼が石の中で生きていたという事実に止まらず、彼は更なる世界の理ーーそれも最大の!ーーを打ち壊してまで生きているというのか。

今まで、彼の持つ常識を不思議がったことは多々あったが、まさかここでその原因が明らかにされるとは思いもしていない。スーは自分の盲目さや迂闊さを呪いながら、あれこれ悩んだ。自分の疑わしい予想通りなら、シムの身分証は間違いなく本物なのだ。このままでは、彼を謂れの無い犯罪者にしてしまう。

「え、えっと、記載が間違えていた、とか」

「確認したが、彼のIDは死人のものだった。顔写真と顔が似ているだけで言い逃れ出来ると思うなよ」

「本人です」

言いながら、シムは苦しげに顔を歪めていた。彼もスーと同じ結論に至ったのだろう。今までひたひたと聞こえていた不安が、唐突に目の前にやって来て彼に現実を突きつけた。家が、家族が、知り合いが…もう、居ない。

「あー、IDと顔写真認定しかしていないんですか?」

そこで、今まで黙していたアマーンが口を開いた。もう相当怒りが沸点に近い職員は、ギラついた眼で彼に目を移した。

「する必要は無いだろう」

「いやいや、本人がここまで主張するんですから、もしかしたらID登録の時点で手違いがあったのかもしれないじゃないですか。指紋認証とか、まだ本人識別方法はあるでしょ。そこまでしてくれないと、職務怠慢だって訴えますよ?」

その訴えが法廷まで届くかどうかは別にして、体面が多少なりとも傷付くのは職員側である。職員は面倒そうな顔をして、隣の職員に耳打ちする。指示された職員は、席を立って生体認証用の器具を取りに行った。

「私が見る前で、誤魔化しは通用しないぞ」

ふん、と職員は嘲笑した。スーは腸の煮え繰り返る様な思いをしたが、立場が悪いのを察して動けなかった。



「…嘘だろう!?」

シムは職員の見ている前で、悉く生体認証を通過した。暗証番号及びDNA認証すらも合致してしまったので、生年月日のみが誤記載されたのだと認めぬわけにはいかなくなった。

「今回は見逃してやるが、新しい身分証明を一ヶ月後までに作成しなさい」

露骨に顔を顰めた職員は、渋々ながら三人を解放した。この間、数時間は拘束されていた。

「ふー、長かったぁ」

門前で伸びをするアマーンに、シムはおずおずと謝罪した。

「…済まない。俺のせいで」

「んー?あれはボンクラなお役人がミスったのが原因でしょ。シム君のせいじゃないよ」

「そうそう!お前は悪くないからな!ってか、あいつ、私たちのこと馬鹿にした眼で見やがって…そっちの方が許せない!」

今更怒りが耐え難くなったのか、今来た道を振り返って牙を剥くスーを、どうどうとアマーンが宥める。

「時間が惜しいんだから、そう無駄なことはしないの。今からがまた面倒臭いんじゃない」

「消毒だろ。これがあるからいちいち下りるの面倒臭いんだよなぁ」

「不便だよね。そこのところナーバスだから、ここっていつもギスギスしてるし」

シムは脳内に数多の疑問符を浮かべていたが、生憎それに気付く者はいない。そして、うんざりするくらいの消毒過程を経て、彼らはようやっと門を通過したのであった。

巨大なエレベーターに押し込まれて地下百数十mを下っていく最中、やっとシムが疑問を吐き出した。

「何、今の」

少々言葉足らずである。訊き返して初めて、消毒のことだとスーは理解できた。

「何って、消毒だよ。地上民は地下に下りる時に消毒が義務化されてるからな」

「何故」

「何故って…何て言ったらいいんだ?」

言葉に困ったらしいスーに、呆れてアマーンが説明を代わった。

「病気の感染源が地下に入らないようにするためだよ。特に、結晶病の」

「そうそう…て、ん?よく考えたら、結晶病って太陽の光が無きゃ発症しないんじゃね?死骸と同じなんだし」

「今更気付いたの?まぁ、そうなんだけど、万が一、光耐性の付いたウィルスが生まれたら地下は大惨事だからっていうのが理由だよ」

「何故、大惨事…?」

そもそも、結晶病の何たるかがシムには理解出来ないのだが、説明の中で一番気になったことを訊いた。

「死骸は死んだ生物がなるものだよね」

ぐんぐんと下りていく感触がする。表示を見ると、既に地下90mに達していた。

「食べ物って、謂わば殺された生物でしょ。だから、結晶病が蔓延する様な環境では、死骸を食べて生きられる様に進化した生物じゃない限り、生きていられないってこと」

だから、大惨事、とアマーンは言葉程は深刻そうではない顔で言った。シムは次に結晶病について尋ねようとしたのだが、その時にポーンと到着のアナウンスが流れ出たために質問タイムは終わってしまった。

不消化に終わってしまったことや、自分のこと、これからのこと、沢山の懸案が彼の頭を巡って嘲笑っている様だった。

the crystal world

the crystal world

*なろうサイトから転載 結晶に覆われた地球。そんな未来で、職人見習いの少女は不思議なものと出会う。 ーーー結晶に閉じ込められた少年?

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-05

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1.死骸
  2. 2.斜陽
  3. 3.地震
  4. 4.地下ラボ
  5. 5.琥珀
  6. 6.ズレ
  7. 7.パン
  8. 8.一人
  9. 9.空海
  10. 10.証明