サイレン

サイレン

 どうして僕はここにいるんだっけ?
ああ、そっか、今はコンビニの帰り道なんだっけ。
その僅かな証拠として僕の左手には缶ビールが2本入ったビニール袋が握られている。
腕時計で時間を確認する。
真夜中の2時を指していた。
この腕時計は買ってからもう2年になるんだった。
この腕時計を初めて右腕に付けたのは18歳の春で、
僕は20歳になっていた。


 網の目のような住宅街を歩いていた。
絵に描いたような、まさにこれが住宅街ですよ、
と提示されてもああ、そうですねと納得してしまいそうな程の住宅街だ。
僕は住宅街が好きだ。
でも、この住宅街には。
信号機が多い。
多すぎる気もする信号機の数に朝方や昼間は辟易としなくもないが、
今は真夜中なので信号機が赤を示していようが青だろうが関係ない。
車は一台も通っていないし、
遠くを走る車の音さえ僕の耳には届かなかった。
真夜中になればこの街は僕の手中に収められたもののようにさえ感じた。
 信号機が僕の目の前に見えて来た。
赤を指していた。
止まれ、の意味なのだが今は真夜中、
左右から車が来ない事を確認してから横断歩道を渡る。
果たして真夜中にこうして赤信号でも道を渡るのは信号無視にあたる行為なのだろうか。
その答えは分からないけど一つだけ分かる事はある。
僕は今、いくら赤信号を渡っても誰にも罰せられることはない。



 10月の丑三つ時は予想以上に寒くて、
長袖のシャツ一枚で出て来た事を今更ながらに後悔していた。
また一つ赤信号を渡りながら僕はそう思っていた。
 それからどのくらいの間歩いていたのだろうか。
それで、一つ気がついたことがある。
些細な事なのだが、今まで渡って来た信号機はどれも赤信号だった。
これは何かを表しているのか、
それとも単なる偶然の出来事なのだろうか。
もしくはここらへんの信号機は真夜中になると赤信号のまま機能しなくなるのだろうか。
そんな馬鹿みたいな事を考える僕の目の前にまた一つ、信号機が姿を現した。
僕の目にはその赤色が全ての答えである気がした。
ふと、右腕にした腕時計を覗いてみた。
2時を指していた。
2時?
これが本当なら僕は1分たりとも歩いていない事になるじゃないか。
何かが間違っている。



 僕はその場で、目の前には信号機のある場所で立ち止まってみた。
信号機の赤が青に変わるその時を僕は待っていた。
でも、待てど暮らせど赤信号は赤信号のままで、
信号機からは絶対に青信号になりませんよという意志まで感じられるようだった。
どれくらい待っていたのだろうか、
おそらくは5分程はその場に突っ立っていたのだが、
腕時計は今も2時を指していたのだから恐怖すべきなのか呆れるべきなのかわからなかった。
僕の目の前にある信号機は赤を指していて、
その7、80メートル先の信号機もいつまでも赤信号のままだった。
 心霊現象、怪現象、というものを扱った番組はよく見ていた。
白いもや状の何かが監視カメラに映り、
映画のワンシーンに役者ではないが異質な人物が映っている、
トンネルを抜ければ窓ガラスに手の跡がびっしりとこびりついていたなんて話はよく耳にするだろう。
でも、僕の場合はそこまで劇的ではなかった。
腕時計は止まっていて、そして住宅街の信号機はすべて赤信号のままになっている。
真の偉業は何の変哲もない日常で起こるとは何かで聞いた話だが、
怪現象やらなんやらもそんな普通の日の夜に起こるのだろうか。
誰か可愛い自分の恋人なんかと2人きりでこんな状況になればちょっとしたアトラクションと成り得るし、
友人2、3人とこんな状況になればそれはそれである種の冒険に近くもなるだろう。
でも、今僕は1人きりだった。
1人ではアトラクションでも冒険でもなく、これは単なる僕一人の幻覚のようにも思える。
むしろ単なる悪夢であってほしかったが、悪夢と言う程恐ろしいものには思えなかった。



 いくつかの仮説を立てる事にしたのは至極当然の事だろう。
それで想像力の乏しい僕には数多くの仮説が思い浮かぶことはなかった。
 一つ目は今のこの状況は夢のなかであるというものだ。
時間は止まっていて、信号機も止まっているという現実世界ではありえないという状況に陥っているのだから、
こうした思考にたどり着くのも当たり前だろう。
しかし、ここで疑問なのは夢の中で「これは夢だ」と考えるのだろうかという点だ。
どこか都合の良い気もする。
試しに僕はジーンズの尻ポケットに入っている財布の中身を覗いてみた。
ユニオンジャック柄のやや悪趣味な長財布だ。
中には千円札1枚といくらかの小銭が入っていた。
他には学生証とスーパーでもらったポイントカードの類い。
全て現実の世界と同じ。
夢の中もここまで再現されるものなのだろうか。
先ほど買った缶ビールのレシートもちゃんと入っている。
時間は1時54分、店員の名前は瀬名。
よくわからないが、どうもこれは夢ではないのかもしれない。
というか夢ならもっと劇的な何かが起きてもおかしくはない。
 


 二つ目は僕の腕時計が止まっているだけ、ということ。
買ってから2年が経っているのだか止まるというのもあながちあり得ない話ではないだろう。
むしろそうであってほしい。
肝心な赤信号の件に関してはどうだろうか。
ここら辺は夜には車はまったくと言っていい程通らないし、
ましてや人間の通行量もたかが知れている。
だが、いくら通行量が低いからといって信号機を赤のままにするだろうか。
僕の考えている理論がやや破綻しているのを感じていた。
 3つ目はあまり考えたくないのだが、
そうしてこれが一番の有力説なのだが、僕はやはり怪現象に巻き込まれているのではないだろうか。
怪現象だから原因究明が困難なのも理解できる。
しかし、やはりこれは地味な怪現象ではなかろうか。
でも、もっと派手な展開を望むこともしなかった。
チェーンソーを持ったジェイソンやらが出てくる急展開はご免だ。


 フレディもジェイソンも、ましてや貞子も出てはこなかった。
でも、その時初めて人影を遠くに見た。
何故か分からないがとてつもなく新鮮な感覚だった。
まるで僕が長い間、それこそ1年や2年だれとも会っていなかったのに、
急に目の前に友人がやってきた、そんな感覚だった。
話しかけに行こうかと思った。
しかし、僕は戸惑った。
ここに来てちょっとした新たな展開がやってきた。
急展開と呼ぶにはあまりにもちんけな展開が。
 遠くを救急車が鳴らすサイレン音が聞こえて来た。
このよくわからない状況に陥ってから初めて耳にした車の音である。
そのサイレンが聞こえてくると、
僕から遠くに立っているその人影が急停止した。
6、70メートルの距離があるから僕にはそいつの顔は分からないし、
性別も判然としていない。
向こうも僕に気がついているのかは分からない。
率直に言うと何かが僕に第六感に危険信号を発していた。
わけが分からないまま、僕はすぐそばの庭付きの民家に飛び込んだ。



 ものすごい恐怖感が僕を包み込んでいた。
そうしてその訳をこの状況と結びつけようと努力をしたが、
結局無理だった。
どうしてこの状況で急激に恐怖を感じているのだろうか。
人影は何かしら凶器になりえる物は手にしていなかったし、
それにそいつは何も叫ばなかったし、僕を追って来たわけでもない。
僕は思考をどうにか停止することにした。
そうして気付いた。
サイレン音が止んでいる。
僕はゆっくりと立ち上がり、
ジーンズについた草を払い落とした。
申し訳程度の気持ちで腕時計を見ると2時を指していた。
どういう訳か安堵の気持ちが心の奥底で湧いていた。
やっぱりね、とでも言いたい気分だ。



 体内時計というのは当てにならない。
腕時計が止まっている以上、時計の代わりをしてくれるのは僕のこの頼りない体内時計くらいなもので、
無意識にも時間を計っていた。
ぼーっと、ただひたすら体内時計で時間を測定しながら歩いていたため、
現在位置がわからなくなっていた。
 本格的にやばくなってきたかな、
と思う頃になってまた救急車のサイレン音が僕の耳に届いて来た。
そうしてそれに乗ずるかのように遠くの路地にはまた人影が現れた。
さっきのより長身に見えた。
直感的にそれは男だな、と思った。
そうして自然な流れでまた別の家の前に潜んだ。
かくれんぼをしていた頃を思い出す。
小学生の時の記憶が僕の中では最後のかくれんぼの記憶だと思う。
そうして今、僕はちょっとしたかくれんぼをしている。
あの頃抱いていた感情とは別の感情を抱いたまま。



 それからもう一度、同じようにサイレン音が鳴り響き人影が現れ、
民家の軒下に隠れるという行動をした時点でもう一度状況を把握することにした。
人間は僕以外にも今、この空間にいることは確かだ。
しかし、その人影がちゃんと生きているのかどうかは分からない。
言ってしまえばあれらは幽霊の可能性だってあり得る。
幽霊とは足の無い浮遊物だと思っている人もいるだろうが、
何で幽霊がそんな状態で存在しているのだろうか。
実は幽霊は僕と同じような五体満足の姿形をしているのではあるまいか。
そうして気になるのはあのサイレンである。
今まで救急車のサイレンにここまで恐怖したことはなかった。
言ってしまえば異例の事態とも言えよう。
考えれば考える程、恐ろしい現状ではないか。



 コツコツと歩く音が聞こえたのはその直後であった。
僕がどこの誰の家とも知れぬ民家の庭先に潜んでから1分も経っていないだろう。
足音が聞こえて来た方向は先ほど人影がいた方からだった。
恐らくあの人影がこちらに向かって歩いてきているらしかった。
何でこっちに来るんだ、と内心怒りと恐怖の混じり合った感情を抱いていたが、
ともかく今はここで息をひそめるしかない。
息を殺してここに隠れているとその足音の距離は僕に近づき、
今ではもうその距離感2メートルもないのではないかという位に近くなっていた。
 その人影がそこで止まらなかったのは幸いかもしれない。
恐らくは僕がこの場に潜んでいることも知らぬままここを通り過ぎて行った。
しかし、通り過ぎて行っただけ、というだけには思えなかった。
ここで思いついたのは奴らは僕を見つけ出そうとしているのではないか。
先ほどのかくれんぼの話ではないが、
これは本格的にかくれんぼ状態になっているのではないのか。
恐ろしいのは発見されたときだ。
考えたくもない話だが、
今の僕の脳裏にはやつらに捕まったときの僕の姿があった。
僕がやつらに捕まる、もしくは発見された時、
生き残れる確率は格段に低い事は想像に難くなかった。
無理からぬ話だ。
人間は最悪の状況を想像もしなくていいのにしてしまう生き物なのだから。



 次の人影を発見したのは先ほどの民家を抜け出てから5分ほど経っていたのかと思うが、
この時間も全ては僕の体内時計によるものなので詳しくはわからない。
だが、どうやら5分おきにサイレンが鳴りそうして人影が現れるらしい。
この順序に例外はあるのだろうか。
例えば。
人影を見て一瞬たじろいだ。
人影の数は一つではなく二つだった。
ここにきてその例外とやらと対峙する事になったのだが、
なんにも嬉しくはなかった。
あまりの恐ろしさに隠れるのではなく、
踵を返して走り出した。
夜に走ると自分が早く走っている感覚に陥ったことは度々あったのだが、
今回も同じで、赤信号を次々と超えて行く自分の早さに驚きかけた。
振り返るとそこにはあの二つの人影はなく、
ただ夜の静けさに包まれた家々が連なっているだけだった。



 ここはどこなのか。
今日はどういう訳か携帯電話を持っていなかったためにそのGPS機能を駆使して現在位置を確認することも不可能なのである。
最悪だ。
今になって、こんな真夜中にコンビニまで出かけようと思い立った己を呪いたいと思った。
あんな事を考えた自分への後悔の念は振り払えないだろう。
けれど、こんな最悪な状況下でも、
夜空の星は綺麗に見えていた。
いつもこんなに綺麗に輝いていたのだろうか、
僕にはわからなかった。
結局、僕はこの場で眠ることにした。
それ以外のやり方は僕にはなかった。
本当はもっと考えれば、
より正しい解決策が見つかったのかもしれないけど、
僕にはそんなの無理だった。


東京の空の星は見えないと聞かされていたけど
見えないこともないんだな

サイレン

サイレン

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-05

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