囚人と青い鍵

1 突然の青い男(翡翠side)

空がうっすらと白む午前5時。
普段はそんなことないのに、なんでこんな時間に目が覚めたんだろう。
嫌な予感しかしないが、私がとる選択肢は一つ。
二度寝してや…

ーピンポーンー

誰だよこんな時間に!?

「何ですか」
「宅急便でーす。」
「は?」
「だから、宅急便です」
のぞき穴(というのだろうか)から覗いてみるに、本当に宅急便らしい。
「はいはい」
ガチャ。仕方なくドアを開ける。
「じゃあ、サインのほうお願いします。」
「あ、はい。」
「ありがとうございましたー。」

何も頼んだ覚えはない。親戚や友人から何か送ると言われたわけでもない。差出人も不明だ。第一、届く時間がおかしい。
確か、こういう勝手に送られてきたものの場合、使っても何しても法的責任は発生しないんだよな…。

…しかしやけにデカいなこの箱。置き場にも困るから、取りあえず開けてみるか。

「やっと出られたーっ!ありがとうございますマスター!命の恩人です!あー、やっと体を伸ばせる。」

はぁっ!?何が起きてるんだ!?
あまりの事態に声が出なかった。
何でこんなのが家に送られてくるんだよ!?
てか箱に人入れて輸送すんなよ!
まずマスターって何だよ!?

突っ込みたいが突っ込みどころが多すぎてまずどこから突っ込めばいいんだよ…。

「お近づきの印に、アイス食べませんか?」

そう言って、箱から出てきた得体の知れない青い男はリビングへ向かい、冷凍庫に手をかける。

「人ん家の冷凍庫勝手に開けんな!てかなんでアイスなんだよ。」
「ごごっ、ごめんなさいマスター!あの、アイスはその、美味しいから、というか僕が好きだから…」

青い男はしゅんと小さくなった。
なんだ、こいつ意外と可愛いかもしれない。

「あの、マスター」
「翡翠」
「へ?」
「糸魚川 翡翠。私の名前。で、あんた誰?」
「カイトです。あの、ボーカロイドです。」

あぁ、あの巷で流行りの。言われてみれば、目の前の男と同じ格好をした人が描かれたパッケージを見たことがあるかもしれない。

待てよ、あれは確かPCソフトだったはずだ。
なんで今目の前にいるのは人間なんだ?

「ボーカロイドって、確か歌わせるソフトじゃないの?」
「新型なんです。」
「は?」
「だから、僕は新しく開発された、人型ボーカロイドV20なんです。で、あなたは僕のマスターなんです。」
「勝手に決めるな!まず私、あんたのこと注文してないし。」
「マスターは、新型ボーカロイドのモニターなんです。」
「つまり、新商品を使ってみて、改善点等ありましたら意見してくださいってことか。って、ずいぶん勝手だな。」
「そう…ですね。」

カイトの表情が陰る。私はそれに気づかないフリをして続ける。

「モニターってことは、必ずしも使わなきゃいけない訳じゃないんでしょ。勝手に送られたんだし、別に売ったっていいんだし。とりあえず私は寝るから。」

「マス…ター…」
泣きそうな顔をするカイト。そんな顔をされては、流石に良心に刺さる。
あぁ、こいつを追い出す理由をつくるのもめんどくさい。
静かであれこれ考えてしまう一人暮らしにも、疲れてきたし。

「はぁ。ここを出たところで行くとこ無いんでしょ。いいよ、しばらくここにいな。私やっぱ二度寝するから、7時半に起こしてよ?学校あるから、時間忘れないでよ。」

「はい!マスター」
向日葵みたいな笑顔しやがって…。
可愛い奴だな…って何考えてるんだ私は。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「マスター、マスター?」

あの青い男、カイトだっけ。
あいつは夢じゃなかった、のか。

「マスターっ!おっはようございまーすっ!!」

なんだこいつ鬱陶しいな。

「朝ですよー、7時半ですよーっ!起きてくださーいっ!」

余計起きたくなくなるんだが。

「マスターマスターマスターマスターっ!」

これは起きない方が面倒なパターンか。仕方がない。
大学もあることだし。

「マスターやっと起きたぁっ!」
ぎゅーっ

は?え?
…ええええええええっ!?
「なんだよいきなり抱きつくな!」
状況を理解するのに数秒かかった。そして暑い。重い。

「え、だってマスターが起きたから」
「理由になってない!まず降りろ邪魔だ。ベッドから降りられない。」

「だって、マスターが寝ちゃうと暇でつまんなかったから…」
「お前は犬か!」
「わん」
「鳴けとは言ってない。」

うるさいカイトを適当にあしらって、私は大学へ行く支度をする。基本的に横にいる分にはいいんだが、唯一こいつがいるとできないことがある。

「あのさ、ちょっとあっち行っててくれる?着替えたいの。」

「あっ…はいっ!すみません!」

赤面するカイト。中学生か。いちいち反応が可愛……
あぁもう!

朝からいろんなことがあったからだろうか、服を裏返しに着てしまいそうになったり、リップがはみ出そうになったり、なんだか落ち着かないみたいだ。
ふと時計を見ると、8時15分になろうとしている。
「やばっ!カイト、私出かけてくるから、お留守番お願い!誰が来ても家に入れないでよ!あと、リビングと私の部屋以外入らないこと!」
「はい、わかりました!気をつけてくださいね、マスター」

2萌(翡翠side)

「えー、シャンポリオンと言えばフランスの考古学者で、ナポレオンのエジプト遠征時に発見されたロゼッタストーンを解読したことで有名ですが、実はこのシャンポリオンの書いた別の論文によると……」

だめだ、講義が全然頭に入ってこない。5限だからとかいう問題じゃない。大好きな世界史なのに全然集中できないなんて、こりゃ重症だな。
あぁ、やっぱ今日睡眠足りてないのかな。
あんなこともあったし、頭の整理がつかないって。

「では、今日はここまで。」

やっば、全然聞いてなかった…。

「ひーちゃん、何ぼーっとしてんの?ひーちゃんってば。おーい、生きてるー?」
「ん、あぁ、萌か。」

彼女は楠 萌(くすのき もえ)
数少ない私の友達。可愛くて女子力満開なのに、いろいろとズレてる。

「ひーちゃん聞いて聞いて!今日ね、すっごくびっくりしたことがあったんだよ!」
「ん、なんだよ。」

今朝あれだけのことがあったんだ。そうそう驚かないよ。

「ホントなんだから信じてね?」
「まず内容を言え。」
「あのね、うちにボーカロイドが届いたの!しかも、人型なんだよ!」

っ!!他にもいたのか!?
飲もうとした午後ティーを吹き出しそうになる。

「びっくりした?もしかしてひーちゃん、冗談だと思って信じてない?」
「いや、信じる。ごめん、なんでもないから今のは気にしないで。」
「そりゃ、ひーちゃんだってびっくりだよねぇ、萌もすっごくびっくりしたもん。あのね、リンちゃんとレンくんっていうんだよ。双子でね、すっごく可愛いの!今度ひーちゃんにも紹介するね!」
「あぁ、うん。よろしく。」

カイト一人でさえ面倒なのに、萌のところは二人なのか。というか、順応するの早くね!?まぁ、萌ならわからなくもない。

「ひーちゃんまだぼーっとしてるね?なんか考えごと?なんかあったらいつでも萌に言ってね。萌、すっごく役に立つよ。」
「自分で言うな。あとお前の役に立つは宇宙人っぽいことが起きそうで怖い。」
「宇宙人っぽいことってなによー」
「お前しょっちゅう宇宙人と通信してそう。」
「そっかぁ、だからリンちゃんとレンくんがうちにきたんだね♪」
「してたんかい! あ、そうだ。さっきの講義、ノートとってた?」
「うん!」
満面の笑みでノートを開く萌。

開いたページには、いろんなものがカラフルに描かれていて、さっぱり解読できなかった。かろうじて、動物園の絵かもしれない、ってくらいだ。

「お前、なに描いてんだよ。」
「ノートとってないひーちゃんに言われたくはないな」
「珍しく正論…って、お前も同じだろうが!」
「じゃ、二人が待ってるから先帰るねー☆」
「あぁ、またね。」

私も、帰ろう。カイトに留守番させたままだし。
そうだ、帰りにアイス買っていこう。あいつ、好きだって言ってたし。
…なんでこんなこと思い出すんだよ。
てか、ボーカロイドは食べ物食えるのか?
まぁ、あいつが食えなかったら私が食べればいい。朝の様子を見るに、食べられるんだろうけど。

~interval-1(萌side)~

「ねぇねぇ、恭くん恭くん。」

彼、桐生 恭一(きりゅう きょういち)は萌の所属する音楽サークルの一つ上の先輩。
でも、萌は5月生まれだし、恭くんは3月生まれだから、ほとんど同い年。
だけど、すっごく優しくて、春からずっと萌の面倒を見てくれてる。
萌のこと、絶対否定しないし、いつも萌の話を真剣に聞いてくれる。
そんな恭くんが、萌は大好き。
わたしは、そんな恭くんが大好き。

「なに?」

「萌はね、本当は萌じゃないかもしれないよ?
って言ったらどうする?」

「どうした?急に。」

「だって、恭くんだって、ぜーったいに恭くんだって保証はある?まぁ、普段から恭くんのことを偽物かもしれなーいなんて意地悪な目で見てる訳じゃあないんだけどね。」

「まぁ、そう見られてたら俺も困る。」
まぁ、普通の人の反応なんだろうな。


「でもね、萌は、もしかしたら萌じゃないかもしれない。萌が萌であるための条件って何かなーって、何が萌を萌にしてるのかなーってしょっちゅう考えてる。」

「うん、しょっちゅうではないけど、俺も時々気になることもあるな。」
悪くない。多分、今までの人の中では。

「気持ち悪くない?」
「え?」
「だから、萌のこと、気持ち悪いって思わない?」

「なんでだよ、思うわけないだろ。」
そっか、そう言ってくれる人もいるよね。

「どうして?」
でもね、みんなここで詰まるんだよ。

「だって、そう思う理由がない。」
そうきたか。

「じゃあ、萌が考えてるようなことは、気持ち悪くない?」
「あぁ、だから言ったろ、俺もたまに気になるってさ。」

やっぱり、恭くんなら、信じて大丈夫、かな。

「恭くんは、萌のこと好き?」
「え、突然…」
「萌はね、恭くんのこと、だーいすきだよ?」

「恭くん?」
恭くんの顔をのぞき込んだ。

刹那、何も見えなくなった。

ほんの一瞬、わたしの唇に、彼の唇が重なった。

「え…いきなり…」
「答えただろ、萌。」

「あ、ありがとう!」
恭くんは顔を背けた。照れてる…のかな。

3 親切と脳天気(翡翠side)

重い。
何味が好きかわからず、ありとあらゆるアイスを買ってしまった。
バニラ、チョコ、いちご、チョコミント、カフェモカ…
味だけならまだしも、だ。
かき氷風、シャーベット、モナカ、アイスキャンディー、チョコがかかったやつ、パフェ風、練乳入り…
もう、これだけ買ってくれば文句無いだろ。
あぁ、痛い出費だ。
てかまず、アイス買いすぎだろ!そりゃ、レジの人が変な顔するわけだよな。
なんで今になるまでそんなことに気づかないかなぁ。やっぱ私、今日どうかしてるわ。
とりあえず、一人暮らしにしては冷蔵庫も冷凍庫も無駄に大きいから、入らなくなる、なんてことはないけど。

「ただい
「マスターっ!」
ま」

「おかえりなさい、マスター!」
走ってきては飛びついてくるカイト。
「待て、だから抱きつくな!離れろ。コレをまず冷凍庫に入れなきゃいけないんだよ!」
「マスター、それってもしかして…」
「あぁ、好きなの選べ。」
「わぁぁ、こんなにたくさん!マスター大好き!」

ったく、現金な奴め。
はぁ。こんなに目をキラキラさせて選んでるのを見てたら、私までアイス食べたくなってきた。チョコミント残ってるかな。

「マスター、一緒に食べましょう♪」
カイトがチョコミントアイスを差し出す。
「な…、どうして私の好きなやつがわかった?」
「マスター、食べたそうな顔してました。」
「そ、そんな顔してない!そりゃ、残ってたらいいなくらいには思ってたけど。」
「でてましたよ、顔に。それに、他のは一つずつなのに、チョコミントは二つありました。」

こいつ…、あなどれん。

「さ、一緒に食べましょう、マスター」
「あぁ。」

一席分開けてソファーに座ったはずだった。
が、なぜか隣にいる。
なんでだよ。二度見してしまう。
「マスター、どうかしましたか?」
「いや、何も…」

さらにくっついてくる。
「な、なんだよ。」
「マスターいい匂い」
「はぁ!?アイスに集中しろ!」
「マスターこそ、アイス溶けますよ?」
ぱくっ

わ、私のスプーンにとってあったチョコミントを、さらっと食べていきやがった!

て、ていうか、それで私がまたアイス食べたら、それは、その…間接キス……
ああもうっ!そうこうしてるうちに溶けちゃうから、さっさと食べないと!

「マスター、大丈夫ですか?」
「え、は?何が?」

カイトが私の顔をのぞき込む。ねぇ、あのさ、近いって。
「熱でもあるんですか?顔、赤いですよ?」
「そそそそ、そんなこと、ないっ!大丈夫だからっ!
てかアイス食べるの早っ!」
「もう1個食べていいですか?」
「好きにしろ!」

カイトが冷凍庫に行ってる間に、急いでアイスを食べ終えてしまった。そうでもしないと、だって、あのスプーン…

ズキン

痛い。あぁ、バカだな。急いで食べるから頭が…

「アイス♪アイス♪」

脳天気だなこいつは。

ふと、さっきカイトが私のアイスを食べたときの、いたずらっぽい瞳を思い出した。

なんだろう、なにかが引っかかる。



「あ、お風呂沸かしておきましたから、どうぞ入ってください!」

アイスを食べ終わったカイトが、バスタオルを手渡してくる。どうやって場所を知った?
まあ、いい。それより、機械がお湯を沸かして、万が一ということはないのだろうか。

「水、大丈夫なのか?」
「そんな一昔前の機器じゃないんですから。ちゃんと防水されてますよ。だからマスターと一緒にお風呂に入っても」

ドスッ

「何言ってんだよ!」

みぞおちに一発喰らわせてやった。

「ちょ、ちょっと痛いです、マスター、冗談ですよ。」

なんだよ、ちょっとかよ。

まぁ、それはともかく、親切には甘えてお風呂にはいることにした。


やっと私一人の空間になった。
本当に、なんなんだろうか。何が起こっているのだろうか。
わかることは、カイトがこの家に住むことになったってこと。
萌のところにも同じようにボーカロイドが来ているってこと。
カイトがアイス大好きってこと。
やたらくっついてくる鬱陶しい奴だってこと。
もしかしたらちょっと可愛いかもしれない…
って、だから、そうじゃなくて!

さっきの、何か引っかかる感じは、なんだったんだろう?

いろいろと考えごとをしているうちに、随分と長い時間が経っていた。
私が上がる頃には、お湯の温度がかなり冷めていた。


「あがったよ。」

返事はない。やっぱり夢だったんだろうか?
それとも、私があまりに素っ気ないからどこかに行ってしまったのか?

リビングに行ってみると、不格好なサンドイッチと、目玉焼きにしようとしたら失敗して急遽スクランブルエッグにしたような玉子の固まりがあった。
カイトが作ったのか?
ふと振り返ると、カイトがソファーの上で寝ていた。
手には切り傷と火傷があった。そういえばサンドイッチの端っこがうっすら赤い…。
ボーカロイドでも怪我するんだな。

「おい、起きろ。」

寝ている。気持ちよさそうに寝息をたてている。
「ます…たぁ……アイスが空飛んで…」

どんな夢見てんだよ。

「!」
カイトの寝顔を見ていた私の中で、何かが光った。
さっきまでバタバタしていたし、そもそも髪の毛も目も青いから全然気づかなかったけど…、こいつ…

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

こいつ…私の弟にそっくりだ。まるで生き写しみたいに。

みんなで笑っている写真立ての写真を見る。

急いで押入の中のアルバムを取り出して、別の写真も見る。

鮮明なのはわかっているけれど、もう一度記憶を辿る。

やっぱりだ。間違いない。私の弟に酷似している。

広げたアルバムをそのままに、私は彼のところへと駆け戻る。

「ねぇ、あんた、生きてるんなら何で生きてるってすぐに言わなかったんだよ。」

「マス、ター?」
目を覚ましたらしい。

「何で突然髪の毛青くして、青いカラコンいれるようになったんだよ。」

「え、マスター、僕は元から…」
彼はなんのことかわからず、ただぽかんとしている。

「なんなのその呼び方。前みたいに、ねーちゃんでいいじゃん。なんか、姉弟じゃないみたい、嫌だそれ。」

「え、どういうこと、ですか?マスター?」

「琥珀じゃ、ないの?」

「え、琥珀?宝石、ですか?」
何をとぼけているの、姉にドッキリ仕掛けるつもりなら、もういいだろ?

「なんで、こんなにそっくりなのに、違うの?じゃあ、あんたは誰なの?ねぇ、ねぇ!」

「ぼ、僕は、カイトです。カイトですよ。」
いつになく驚いた顔をしている。いつの間にか、私は彼の袖を強く掴んでいたらしい。詰め寄って、問いつめていたらしい。

「ごめん、なんでもない、なんでもないから。今のは気にしないで。本当にごめん。」

そうだ、ありえない。琥珀は、私の弟は1年半前に死んだはずなんだ。

「ごめん。ホントにごめん。」
私の頬に何かがつたうのを感じた。私はそれを見られたくなくて、カイトの顔を見ることもなく自分の部屋に入り、鍵をかけた。

4 旅立ち(カイトside)

ヤ○ハ本社にて。

「また会えるといいね!」
「次見るときはテレビかもよ?」
「まずニコ動かな。」
「それじゃどの兄さんかわかんないじゃん。」
「それはみんなも一緒だよ。」
「じゃあ、みんながわかるように、私ネギ振ってるね!」
「それもどのミクだかわかんないって。」
「アイスねだりすぎてマスター困らせたりしないでよ?」
「めーちゃんこそ、酒癖の悪さでマスター困らせないでね。」
「こ、このバカイト!」

「それでは、箱に入ってください。」

「「「「「はーい」」」」」

狭っ!
小さいリンレンや、華奢なミクならともかく、僕まで箱の大きさ統一するのはおかしいって!

「うわっ!何この箱!もうちょっと大きいのに入れなさいよ!」

めーちゃんが狭いのは焼酎の瓶を3本も入れてるから、自業自得じゃないか?

「それでは、最後の説明を行います。」

いや、箱に入れる前にしろよ(全員の心の声)。

「あなた方5人は、我が社の新型ボーカロイド、V20のプロトタイプ(試験品)です。今から各モニターの家に運ばれ、それぞれのマスターとともに暮らしてください。それから、まだ開発段階ですので、不具合が発生した場合、こちらの方であなた方を回収いたします。詳しいことは、それぞれのデータの中に内蔵しておきましたので、そちらを参照してください。では、輸送を開始します。」

全然説明になってない(全員の心の声)。

午前3時半。
こうして僕たちは、宅急便のトラックの荷台に詰められ、それぞれのマスターの元へと運ばれた。どうやら、僕以外は二人でセットらしい。

「じゃあ、みんな、達者でやるのよ。」
「次会うときはネギパーティーですよ♪」

「めい姉、ミク姉、バイバーイ、ほら、レン。」
「さ、寂しくなんか無いんだからな!」
「姉妹仲良く頑張ってね。」

月並みな言葉しかかけられなかった。
というか、まず外から見たら箱同士の会話だ。明らかにシュールだ。

「またね、兄さん」
「ロードローラーで遊びに行くから!」
「いや、兄さんのマスターがどこだか知らないし。」
「ロードローラーで探す!」
「勢いで僕とマスターの家潰さないでね!?」

残るは、僕一人。

ーピンポーンー
「何ですか?」
「宅急便でーす」
「は?」

女の人の声だった。
この人が僕のマスターなのだろう。
声がけだるげなのは、無理もない。こんな時間の訪問者だ。ふつうなら寝ている時間だろう。マスターもきっとそうだったんだ。

それはともかく、だ。早く箱を開けてくれ。いい加減体が痛い。

そう思っていたところに、突如として光が射し込んだ。
マスターが箱を開けたのだ。

「やっと出られたーっ!ありがとうございますマスター!命の恩人です!あー、やっと体を伸ばせる。」

自分でも自分のテンションの高さに驚いたが、マスターの方はというと、呆然としている。
何が起きているのかさっぱりわからない、と言わんばかりに。

何とかしなくては。そうだ、困ったときはアイスだ!
「お近づきの印に、アイス食べませんか?」

視界に入った、廊下の奥の冷凍庫へと近づき、開けようとする。

「人ん家の冷凍庫勝手に開けんな!てかなんでアイスなんだよ。」

あ…れ…、マスター、怒ってる!?

「ごごっ、ごめんなさいマスター!あの、アイスはその、美味しいから、というか僕が好きだから…」

もはや言い訳にもなってない。しっかりしろ、僕。
なんとか場をつなげなくては。

「あの、マスター」
「翡翠」
「へ?」
「糸魚川 翡翠。私の名前。で、あんた誰?」
「カイトです。あの、ボーカロイドです。」

なんとか、マスターがつなげてくれた。
早くも僕は、マスターに救われたような、気がする。

自己紹介は済ませたけれど(あの程度だが)、マスターの怪訝な表情は消えない。

「ボーカロイドって、確か歌わせるソフトじゃないの?」
そうか、実体化していることに驚いているのか。

「新型なんです。」
「は?」
「だから、僕は新しく開発された、人型ボーカロイドV20なんです。で、あなたは僕のマスターなんです。」
状況を話したはずなのに、マスターは余計に困惑している。

「勝手に決めるな!まず私、あんたのこと注文してないし。」
もしかして、本社の人はマスターに何一つ説明していないのか。とんでもない会社だ。

「マスターは、新型ボーカロイドのモニターなんです。」
「つまり、新商品を使ってみて、改善点等ありましたら意見してくださいってことか。って、ずいぶん勝手だな。」
「そう…ですね。」

マスターは、ちゃんと僕のマスターになってくれるんだろうか?

一抹の不安がよぎる。

「モニターってことは、必ずしも使わなきゃいけない訳じゃないんでしょ。勝手に送られたんだし、別に売ったっていいんだし。とりあえず私は寝るから。」

「マス…ター…」
あぁ、こんなにすぐに不安が的中しなくたっていいじゃないか。まず、このマスターのところを追い出されたら、僕はどこに行けばいいんだ。

「はぁ。ここを出たところで行くとこ無いんでしょ。いいよ、しばらくここにいなよ。私やっぱ二度寝するから、7時半に起こしてよ?学校あるから、時間忘れないでよ。」

え、これは、「上げて下ろす作戦」の逆、新手の「下げて上げる大作戦」!?
てことは、僕はここにいていいんですね!

「はい!マスター」
できうる限りの最高の笑顔で僕は応えた。

5 家、マスターの部屋(カイトside)

「じゃあ、おやすみ。」
寝てしまった。本当はもう少し話したかっけど、仕方がない。無理矢理起こすわけにもいかない。このあと学校があるのに疲れさせるのも申し訳ない。

リビングにいるのも手持ちぶさただから、マスターの眠るベッドに僕も腰掛ける。なんかちょっと問題があるような気がしないでもないけど、そこは無視する方針にした。

やわらかくて暖かいのに、どこか清涼感のある、いい匂いがする。マスターの匂い、なんだろうか。

「ん…」

マスターが寝返りを打つ。さっきまでは背を向けていたようで見えなかったマスターの寝顔が僕の目に映る。

慌ただしくて、マスターの顔すらまともに見ていなかったことに気づいた。

マスター、可愛いです。

艶のある綺麗な黒髪、桜色の頬、長くしっかりしているのに、どこか繊細さの漂うまつげ…

気づくと僕は、眠るマスターの頭を撫でていた。

何やってるんだ僕は!

「…ごめんなさい」
マスターが小さな声で呟く。

え?

「私のせい…」

いやいや、僕が勝手に眺めて、勝手にマスターに触れて…

「みんな、どうして、私だけ、ごめんなさい、行かないで…私が…あの時…」

あ、いや、僕は関係なく…
マスター、悪い夢でも見ているんですか?

「ごめんなさい…ごめんね…みんな…、私が」


時計を見ると、7時27分だった。7時半より早かったが、うなされるマスターを見るのが辛かった。耐えられなかった。

「マスター、マスター?」
「マスターっ!おっはようございまーすっ!!」
僕の不安を隠すように、精一杯のハイテンションで起こす。

「朝ですよー、7時半ですよーっ!起きてくださーいっ!」
マスターは起きてくれない。早くそんな悪い夢、終わってほしいのに。

「マスターマスターマスターマスターっ!」

ようやく、マスターは体を起こした。

「マスターやっと起きたぁっ!」

「なんだよいきなり抱きつくな!」

僕、マスターに抱きついていたんですね。
って、え!?嘘だろ!?

「え、だってマスターが起きたから」

「理由になってない!まず降りろ邪魔だ。ベッドから降りられない。」

「だって、マスターが寝ちゃうと暇でつまんなかったから…」

さすがに、うなされてるマスターが心配で、やっと起きてくれたから、抱きしめたくなって、とは言えなかった。

「お前は犬か!」
「わん」
「鳴けとは言ってない。」

夢、覚えていないのかな。よかった、思い出さないでいてくれれば、それで。
マスターはどこかへ行く支度を始めた。たぶん連れていってはくれないと思うけど。犬と言われたからなのかな、つい彼女の後を追ってしまう。

「ちょっとあっち行っててくれる?着替えたいの。」

「あっ…はいっ!すみません!」
至極当たり前のことだ。別に変なことは考えるつもりもないのに、急に恥ずかしくなってしまった。

ぼーっとしている間に、どうやらかなり時間が経っていたらしい。

「やばっ!カイト、私出かけてくるから、お留守番お願い!誰が来ても家に入れないでよ!あと、リビングと私の部屋以外入らないこと!」

「はい、わかりました!気をつけてくださいね、マスター」

一瞬だったけど、こうして見ると、マスターって寝顔は可愛くて、起きているときは美人というか、綺麗なんだなぁ。
やっぱり、長い黒髪が似合うなぁ。

もしかしたら、ちょっといじってみたらものすごく可愛い反応するのかもしれない。

って、僕は変態か!

リビングとマスターの部屋以外は入るなってことは、マスターの部屋にならいてもいいと言うことだ。

本社以外に知っている場所はマスターの家の玄関と、リビングと、洗面所とバスルームと、マスターの部屋しか知らないけれど、マスターの部屋が一番好きだ。

よくわからないけど、この匂いが落ち着くらしい。

マスターが寝ているときならマスターを眺めることもできたけど、マスターがいないとなると本当に手持ちぶさただ。

メイコやミク、リンレンなら、マスターがいなくても二人でいる分、退屈しないだろう。僕だけ扱いが不憫じゃないか?

もし他のみんなのマスターのところには、プロトタイプのモニターの話は届いていて、僕のマスターのところに届いていないとしたら、それってとんだ試練じゃないか?
まぁ、それはないだろう。

考えても仕方がない。今の僕にわかるのは、これからマスターと暮らしていくということだけだ。


マスターは、僕に歌を教えてくれるのだろうか?
ボーカロイドに対する認識も、「そういったソフトが世の中にはある」といったもので、特に興味を持っているわけでもなさそうだった。

マスターの部屋を見回してみても、楽器らしきもの、楽譜らしきものも見あたらない。見あたらないどころか、やたらと殺風景だ。生活に必要なもの以外、本当に何もない。


これは…?

写真立てが僕の目にとまる。
中央には、浴衣を着た、今よりほんの少しあどけないマスターが、綿飴を食べながら笑っている。隣には、いたずらっぽく笑いながら、金魚の入った袋を戦利品のようにかかげる黒髪の少年。その後ろには、40代後半くらいの男女が穏やかに笑っている。

マスターの、家族?

そういえば、僕が来たとき、玄関にはマスターのもの以外の靴はなかった。おそらく、仕送りとアルバイト等で、一人暮らしで大学に通っているのだろう。

それ以上のことは、考えなかった。
考えなかったというよりも、考えることを拒んだのかもしれない。

そんなことよりも、だ。
たぶんマスターは疲れて帰ってくるだろう。
お風呂のお湯沸かしといたら、喜んでくれるかな?

お湯を溜めるには、ただ「お風呂」ボタンを押せばいいらしい。

ピッ
ーお風呂を沸かします。設定温度は、39℃ですー

声は数世代前のボイスロイド、だろうか。

お湯を沸かしている間に、マスターの部屋のベッドを整え、干してあるバスタオルを畳む。
これじゃ、ボーカロイドじゃなくて主夫(主婦?)ロイドじゃないか?

マスター、早く帰ってこないかな。

6 アイスとサンドイッチと誰か(カイトside)

ガチャ

マスターだ!

「ただい
「マスターっ!」
ま」

なぜだろう、マスターが帰ってくるのがわかった瞬間、どうしてだか抱きしめたくなった。

「おかえりなさい、マスター!」

「待て、だから抱きつくな!離れろ。コレをまず冷凍庫に入れなきゃいけないんだよ!」

大きめの買い物袋を持ってバタバタするマスター。
このひんやりとした感じはもしかして…

「マスター、それってもしかして…」
「あぁ、好きなの選べ。」
「わぁぁ、こんなにたくさん!マスター大好き!」

アイス選び放題という状況ももちろんだが、マスターが、僕がアイスが好きと言ったのを覚えていて、買ってきてくれたことの方が嬉しかった。

選んでいる途中で、ふと、マスターの視線を感じた。
明らかに、ただ1点、チョコミントにだけ向いていた。
そういえば、他のアイスは1つずつなのにチョコミントだけ…。

そうだ、一緒に食べるチャンスだ!

「マスター、一緒に食べましょう♪」

マスターは驚いて、僕が差し出したチョコミントと、僕の顔を交互に見た。

「な…、どうして私の好きなやつがわかった?」
「マスター、食べたそうな顔してました。」

「そ、そんな顔してない!そりゃ、残ってたらいいなくらいには思ってたけど。」

マスターは自覚していなかったのか?
あんなに分かりやすい視線だったのに。

「でてましたよ、顔に。それに、他のは一つずつなのに、チョコミントは二つありました。」

ちょっと慌てたようなマスターが、また可愛い。
もしかしたら、いじるともっと可愛いかもしれない。

「さ、一緒に食べましょう、マスター」
「あぁ。」

マスターは僕の隣から一席あいたところに座った。
でも僕はすかさずマスターの隣へと席を変える。

なんでだよ、という顔をして、僕の方を二度見する。

マスター可愛い!

「マスター、どうかしましたか?」
「いや、何も…」

多分鬱陶しいと思われるだろうけど、さらにくっついてみたらどうだろうか。

「な、なんだよ。」
「マスターいい匂い」
何一つ嘘は言ってない。
やっぱりあの匂いはマスターだった。

「はぁ!?アイスに集中しろ!」
そう言うマスターだか、マスターのスプーンに乗ったチョコミントが今にも溶けそうだ。
僕も食べたかったしね。

「マスターこそ、アイス溶けますよ?」
ぱくっ

うん、チョコミントも美味しい。

あれ?マスター、どうしたんだろうか。
なぜか動揺しているようだった。

もしかして、僕がチョコミント食べたから怒ってる?
いや、怒ってるわけではなさそうだ。

「マスター、大丈夫ですか?」
「え、は?何が?」

マスターの顔を見ると、赤くなってる。アイス食べてるのにどうして?
熱でもあるのかな、今日疲れただろうし。

「熱でもあるんですか?顔、赤いですよ?」
「そそそそ、そんなこと、ないっ!大丈夫だからっ!
てかアイス食べるの早っ!」
「もう1個食べていいですか?」
「好きにしろ!」

本当に大丈夫かはよくわからなかったが、冗談で言ったら食べてもいいと言われたので、また別なアイスを食べに行くことにした。

「アイス♪アイス♪」

いろいろあって嬉しいけど、ダッツが無いのはマスターのお財布事情だろうか。

僕が2つ目のアイスを食べている間に、マスターは食べ終わったらしい。

「あ、お風呂沸かしておきましたから、どうぞ入ってください!」

バスタオルを手渡すと、なぜかマスターは不思議そうな顔をした。

「水、大丈夫なのか?」

そこの心配!?
そんなマスターを見ていると、もう少し意地悪や冗談を言ってみたくなる。

「そんな一昔前の機器じゃないんですから。ちゃんと防水されてますよ。だからマスターと一緒にお風呂に入っても」

ドスッ

「何言ってんだよ!」

案の定、みぞおちに一発喰らわされた。

「ちょ、ちょっと痛いです、マスター、冗談ですよ。」

少し不服そうな顔をするマスター。もうちょっとオーバーリアクションにすれば良かったかな?


そうだ、僕は機械だから大丈夫だけど、マスターはアイスだけではちゃんとした栄養にならない。

僕が来て、いろいろ大変になったかもしれない。せめて、何か役に立ちたい。

簡単な晩ご飯でも作っておこう。
知識としては頭に入っている。

サンドイッチと目玉焼きでいいだろうか。マスターは女性だから、山ほどは食べないだろうし。

冷蔵庫からハムやレタスやチーズ、トマトを出し、切っていく。食パンを半分に切り…え?

痛い。うっかり包丁で切ったとでもいうのか?
というか、ボーカロイドなのに怪我するのか?
そういうことこそきちんと説明してくれ。

中途半端にキッチンを散らかすのは、マスターが余計に苦労するだろう。やるなら最後までやってやる。

次に目玉焼きを作ろうとするが、早速黄身が破ける。ちょっとメンタルにくるものがある。
そうだ、スクランブルエッグというものがあった。それだ…は?

熱い。嘘だろ、やけどもするのか。だからどうとも言っていられない。せめて綺麗に盛りつけて、リビングのテーブルに運ぶ。フライパン等を洗っておく。

マスターはお風呂、長い方なのかな?

僕はリビングに戻り、皿にラップをかけておいた。
そして、少しソファーの上に横になった。
マスターは一人暮らしなのに、どうしてこんなに大きいソファーにしたんだろう?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「ねぇ、あんた、生きてるんなら何で生きてるってすぐに言わなかったんだよ。」

マスターが何か言っている?
というか、僕は寝ていたのか。

「マス、ター?」
「何で突然髪の毛青くして、青いカラコンいれるようになったんだよ。」
「え、マスター、僕は元から…」

なんのことだろうか、僕が青いのは、前からで、染めたわけでもカラーコンタクトでもない。

「なんなのその呼び方。前みたいに、ねーちゃんでいいじゃん。なんか、姉弟じゃないみたい、嫌だそれ。」

さっきはマスターって言っても何も言わなかった。
さっきまでのマスターじゃないみたいだ。

「え、どういうこと、ですか?マスター?」
「琥珀じゃ、ないの?」
「え、琥珀?宝石、ですか?」

マスターは少しだけ呆然としたかと思うと、僕の袖を強くつかみ、詰め寄ってきた。

「なんで、こんなにそっくりなのに、違うの?じゃあ、あんたは誰なの?ねぇ、ねぇ!」
「ぼ、僕は、カイトです。カイトですよ。」

マスターは僕を、誰かと勘違いしている?

「ごめん、なんでもない、なんでもないから。今のは気にしないで。本当にごめん。」

我に返ったようにはっとして、俯いたマスター。

「ごめん。ホントにごめん。」

俯いたままマスターは部屋へと走り、鍵をかけてしまった。

僕が、何かいけなかったのだろうか?
床に、一滴の水滴を見た。

僕はただ、マスターの部屋の前で、座り込むしかできなかった。

7 ごめんね、そしておかえり(翡翠side)

ごめんなさい。
ごめんね、みんな。

私が…

お父さん
お母さん

琥珀

私のせいで…

どうして私だけ、ここにいるんだろう。
もう1年半近く経つのに、こんな考えを繰り返さずにはいられなくなる。

もう私はひとりだということ、もうみんないないこと、頭ではわかっていると思うけれど、全然認められない。
きっと帰ってくるよ。だから部屋はそのままにしておくね。きっとどこかで笑ってるんだよね。

ひょっこり、帰ってきたんだよね?
青い髪も、蒼い瞳も、イメチェンかな。随分と思い切ったね。箱に入って宅急便?ドッキリもいいとこだろ。私のことマスターって、そんな、キャラ変えたところで、カオスになってるだけなんだから。

違う。彼は彼だ。カイトだ。
琥珀ではない。

琥珀は風呂を沸かしておいてくれるなんて気の利いたことしないし、アイスみたいな甘くて冷たいものより、むしろ熱くて辛いものの方が好きだし。

そういう問題じゃない。

もう、何もしたくない。

1年半前からそうだった。
辛うじて大学は行く。日々の生活に必要なものは買いに行く。

趣味らしきことも、遊びに行くことも、何もしたくないんだ。サークルにも入らなかった。特に友達を作ろうとも思わなかったけど、萌は話しかけてくれるから、仲良くはしていた。

思い出すから。
いろんなところに行って、たくさん笑って馬鹿やって、でも暖かかった、そんな日々を思い出すから。
そして、もう戻ってはこないことを認識せざるを得なくなるから。

きっと帰ってくるんじゃないか、今でもどこかでそう信じている。だからみんなの部屋はそのままにしている。
でも何も思い出したくない。思い出すようなことはしたくない。

だから、弟と一緒に歌って、演奏したギターやマイクは全部押入の奥にしまった。写真も、ただ1枚を残して全部しまった。弟と一緒にやったゲームも、両親と一緒に見たビデオも全部。捨てられないけど、見たくない。

ただ、本を読むか勉強するかだけでいい。別に好きではないけれど、何も考えなくてすむ。ただ頭をそこに割いていればいい。気づけば頭が良くて付き合いづらい奴という烙印を押されているらしいが、私にとってそんなもの、どうでもいい。

ただ、思い出したくない。
思い出したくないから、何もしたくない。

もはや、これでは生きている必要すらもない。
生きたい理由もない。

ただ、死なないための惰性。

なのに、それなのに。

どうして今、弟に生き写しの男が家にやってくるんだよ?
テロか?私への精神的なテロか?


それなら、いっそのこと、琥珀の代わりとして扱ってみようか?
お父さんとお母さんは戻らなくとも、せめて琥珀だけでも…

腫れた目を隠すようにサングラスをかけ、パーカーのフードを被る。
ドンキくらいならやっているはずだ。
髪色戻しと黒のカラーコンタクトくらいあるだろう。

部屋のドアを開ける。

「マスター!?」
こいつ、ずっと私の部屋の前にいたのか?

「買い物行ってくる」

「ちょ、待ってくださいマスター!」

腹立たしい。その呼び方。せめて全然違う顔立ちなら、違ったかもしれないのに。

「マスターって言わないで。」

乱暴に家のドアを閉め、私は出かけた。
彼は呆然と立ち尽くしていたようだったが、知らない。
琥珀の偽物なら、"琥珀"になってもらわなければ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

帰ってくると、私が出かけたときのまま立ち尽くす彼の姿があった。

「ただいま。」
サングラスをはずして、帰りの挨拶をしたのに、身動き一つしない。

「何ぼさっとしてんの。」

「マス…ねーちゃん、おかえり。」

たどたどしい。気に入らない。

「髪、染めるよ。」
「え?」
「その青い頭、黒に染めるから。」
「え?…えぇっ!?」
「早く。」

「わかった。」
なんだ、飲み込み早いじゃないか。

「これ、あんたの服。」
弟のものを差し出す。琥珀も、目の前の男も180cmくらいだから、ちょうどいいだろう。この白いジャケットは汚れたら高そうだし、夏だというのに、何しろマフラーが暑そうだ。見ているこっちが暑い。

「うん。」
素直に着替えている。

今の私はどんな表情をしているんだろう?
「じゃあ、始めるから。」

説明書通りに、淡々とこなしていく。
目の前の青は、漆黒へと変わっていく。

「これ、つけて。」
蒼い瞳の彼は、手渡した箱をまじまじと眺めている。
「早く。」
彼は箱を開け、小さな曲面の黒を、小さな曲面の蒼に重ねた。


「おかえり。"琥珀"。遅いよ、馬鹿。」
黒い髪、黒い瞳。高身長で細身。我が弟ながら整った顔立ち。私の可愛い弟。あんたがいなきゃ、何も足りないんだよ。

目の前の"琥珀"を、私は迷わず抱きしめた。
「俺も、会いたかった。ねーちゃん、遅くなってごめん」

8 無力な僕の役目(カイトside)

マスター、泣いてた。

ドアの向こうから、微かに声が聞こえたような気がした。

いや、声はしていないのかもしれないけれど、感じた。

マスターは泣いてる。

ドアの鍵をかけられ、隔てられ、どうにかしたいのに、何一つ出来やしない。

僕は無力だ。


さっきマスターは、僕のことを"琥珀"と呼んだ。
「姉弟じゃないみたい」と言った。

あの写真の少年のことだろうか?

「こんなにそっくりなのに」

もう、彼は存在していないのか?

「リビングと私の部屋以外入らないこと!」

他の部屋がある…

あれだけの量のアイスが入る冷凍庫、普通一人暮らしでは買わないはずだ。

僕が横になっても少し余裕のあるあのソファー。

つまりこの家は…

独りで暮らすには余りに広すぎるこの家は…

そして玄関の靴がたった一人分しかないのは…

視界が滲む。マフラーが、滴を吸う。
生暖かい何かが伝う。どうして?マスターの方がずっと苦しいはずなのに?

あの小さな体で、僕にはわからない何人分もの苦しみを背負っているのに。

どうして僕が泣いているの?僕は機械なのに。
たった1日、それも、ほんの少しの時間一緒にいただけなのに、どうしてこんなに救いたいって思うんだろう?守りたいって思うんだろう?

多分、僕のマスター、だからかな。
ボーカロイドがマスターに逆らったら、マスターへ反逆心を持ったら、それは商品として成り立たない。きっと、製品の特性上、マスターへの忠心はそなわっているものなのだろう。きっとPCソフトだった、V1から今までのも、そうだったに違いない。

そして僕は…

どうしたらマスターを救える?


部屋のドアが開く。

「マスター!?」
もしかしたらずっと開けてくれないかもしれないと思っていた。

「買い物行ってくる」
「ちょ、待ってくださいマスター!」

玄関まで追いかける。

サングラスをかけ、フードを被り出かけようとするマスターのまわりには、一緒にアイスを食べたときとは全く違う、突き刺すような暗い何かが漂っていた。

「マスターって言わないで。」

そう言い放ち、乱暴にドアを開け、マスターは出ていった。


帰ってこなかったらどうしよう?

また、僕には立ち尽くす以外何もできなかった。

でも、一つだけわかったことがある。
僕が僕じゃなくて、マスターの弟である"琥珀"として振る舞うこと。

そうしたら、マスターを救えるのかもしれない。
少なくとも、苦しみを軽くできるのかもしれない。



マスターは思いの外早く帰ってきた。本当に買い物だけだったらしい。

「ただいま。」

"琥珀"なら、どんな風に言うのだろうか。

「何ぼさっとしてんの。」

「マス…ねーちゃん、おかえり。」

マスターの表情が険しくなった。気に入らなかったのだろうか。

「髪、染めるよ。」
「え?」
「その青い頭、黒に染めるから。」
「え?…えぇっ!?」
もしかして、僕を本当に"琥珀"にするつもりなのか!?

「早く。」

それが、マスターの願いだというのなら。

「わかった。」
「これ、あんたの服。」

これも"琥珀"が着ていたのだろう。サイズも、わりと近いみたいだ。

「うん。」

マスターはまだ、虚ろな瞳をしていた。

「じゃあ、始めるから。」

説明書を見ながら淡々と僕の髪を操るマスター。
全体的にどうなっているかはわからないが、前髪が見慣れない色をしているのだけはわかった。

「これ、つけて。」

カラーコンタクトというやつだろうか。

「早く。」

マスターに言われるがまま、箱を開け、レンズを装着した。

僕の前に立ったマスターは、初めて見る、笑顔だった。

「おかえり。"琥珀"。遅いよ、馬鹿。」

僕は、いや"琥珀"は、マスターに、いや、翡翠に抱きしめられていた。

「俺も、会いたかった。ねーちゃん、遅くなってごめん」

マスターの目に映るのが、たとえ僕じゃなかったとしても…

マスターがそれで救われるのならば…

「琥珀、もう遅い時間だから、早く寝な。私も明日大学だから。おやすみ。」

「おやすみ、ねーちゃん。」

マスターはマスターの部屋へと、僕は"琥珀"の部屋へと向かった。

淀んだ空気と、微かな埃のにおいのする部屋だった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「琥珀!起きて!朝ご飯できてるから!」

マスターのいつになく明るい声が、僕の寝ている部屋へ響く。

「もー!開けるよ?」
「ちょ、待ち。今行くから。」
「じゃあ、先リビング行ってるよー」
「はーい」

ごく普通の、姉弟だったんだろう。昨日渡されたジャージ姿のまま、リビングへと降りる。

トーストを運んできたマスターが僕を見る。

「おはよう、こは……嘘でしょ?」

愕然とした顔で僕を見る。皿を落とさなかったのが不思議なくらいだ。

「なんで…戻ってるの?」

"琥珀"が戻ってきていることが気に入らないのだろうか?

「どうしたの、ねーちゃん。俺、なんかついてる?」

「違う。違う違う違う違う違う!」

取り乱し、くずおれるマスターを支えに駆けだしたとき、僕の視界を見慣れた青い前髪が流れるのに気づいた。

髪の毛の色は、戻るのか。

気を失ったマスターを、マスターのベッドへと運ぶ。

せめて、というのだろうか。僕ではなく、"琥珀"のためだけれど、マスターの作ってくれた朝ご飯を口にした。

美味しかった。多分、僕が昨日作ったものとは比べものにならないのだろう。


マスターは僕の中に"琥珀"を見ていて、でも僕にはマスターのための"琥珀"になることはできなくて…

僕はどうすればいいんだろう。

みんなは元気にやっているかな。マスターともうまくやっているかな。

皿を洗っていても、何していても、いろんなことを考えてしまう。思考をかき消すために歌いたくても、せいぜいデモソングしか入ってない。それに今歌ったら、倒れているマスターに迷惑だ。

昨日の朝のように、マスターの眠るベッドに腰掛ける。だけど、今はマスターの顔を見るのが辛い。

それでも、そばにいないのはもっと辛い。

めーちゃんやミク、リンレンに対しては、大切な姉妹、弟ではあるけれど、こんなにも、せめてそばにいたいと思ったことはなかった。それは、彼らがマスターのような苦しみを抱えた状態ではなかったから?マスターみたいに独りじゃなかったから?マスターが僕のマスターだから?

それとも…?

でも、だけど、マスター。
僕は僕ですが、"琥珀"にはなれなさそうですが、僕は僕として、もう少し、あなたのそばにいさせてください。

マスターの眠るベッドで、背中合わせに僕も横になった。

マスター、暖かい…

9 罪人と馬鹿(翡翠side)

私は久々に家に帰ってきた"琥珀"のために朝ご飯を作って、"琥珀"と一緒に食べるはずだった。
だから今も"琥珀"を起こしに行って、すぐに食べられるよう皿を並べていたはずだった。

「おはよう、こは……嘘でしょ?」

はずだったのに。

"琥珀"は昨日帰ってきたはずなのに。
私が取り戻したはずなのに。
私は彼を"琥珀"にしたはずだったのに。

「なんで…戻ってるの?」

「どうしたの、ねーちゃん。俺、なんかついてる?」

青い彼が、"琥珀"と同じ口調で問う。

「違う。違う違う違う違う違う!」

そこで私の視界が歪んで、倒れる私を誰かが支えてくれていた。

そこで記憶が途切れている。



ここは…
いつものベッドだ。私を支えてくれた人が、ここまで運んでくれたのだろう。

しかし。明らかに違和感がある。

「誰!?何!?背中にいるの誰!?」

飛び起きて振り返ると、青が真っ先に目に飛び込んできた。その青が、昨日から今朝にかけての、私の彼への仕打ちを思い出させた。

「わわっ!ごめんなさい、ごめんなさいマスター!」

まず、状況が読めないのだが。

「いや、その、僕はその、マスターに変なことをしようとか、そういうわけではっ!」

本当に?

「ホントです!本当ですってば!」

こいつ、心読めてるのか?

「ただ、マスター暖かいなぁって…」

十分変態じゃないか。
何を感じ取ったのか、目の前の彼は表情をこわばらせた。あぁ、カイトだ。

「あのさぁ。」
「はっ、はいっ!」

「誰が私のベッドに入っていいって言ったよこの野郎」

「ごご、ごめんなさい…」

効果音が聞こえそうなほどわかりやすくしゅんとするカイト。別に怒っていたわけじゃなく、ただ、その反応を見てみたかっただけだ。

「それはともかく、だけど。」
「何ですか?マスター。」
「朝ご飯、食べた?」

確かに、カイトの為に作ったわけではなかった。
でも、昨日から今朝にかけての私のしたカイトへの酷い仕打ちに対して、せめて食べてもらいたかったと今では思うのだ。

「ごめんなさい、食べました。僕のためのものじゃないのに…」

「いや、食べてもらえたなら、良かった。むしろ、謝るのは私の方だ。」

「いや、そんな、マスターは、だって…。あの、朝ご飯、美味しかったです!」

素直な、優しい子だ。カイトは、カイトだ。琥珀じゃない。代わりでもない。代わりでなんてあってはいけない。なのに私は…。

「ごめんね…カイト……ごめんね…カイトはカイトなのに…、琥珀じゃないのに…カイトなのに…」

涙が溢れてくる。
格好悪い。私が悪いのに、こんなぼろぼろ泣くなんて。
カイトの方が、別の人間の代わりを押しつけられ、苦しかったはずなのに。馬鹿だな、私本当に馬鹿だな。もう、どうやって接したらいいんだろう。
仮にも、カイトのマスターなのに。

「私酷いことしたよね、怖かったよね、訳わからなかったよね、辛かったよね、苦しかったよね、ごめんね…ごめんね…あれだけのことをしたのに、私、謝るしかできない…本当にごめんね…、ダメだね、私…」

不意に、私の体が暖かい何かに包まれた。

「ごめんなさい、マスター。」

「え?」

どうしてカイトはこんな私を抱きしめてくれているの?
どうしてカイトが謝るの?

「僕は、マスターの大切な人の代わりになってあげることはできません。」

「だから…それは…」

「でも、僕はマスターの側にいます。側にいたいんです。側にいさせてください。」

「え、どうして、なんで?私のこと、嫌いにならないの?あんなこと、したのに。別の人間にしようとしたのに…」

「嫌いになんてなりませんよ。」

「それは…私がマスターだから?」

「そうかもしれないです。細かい理由は、まだ僕もよくわからないです。でもわかってるのは…」

「言わないでっ…」

言われたら、余計苦しくなりそうだ。きっと健気な言葉なのがわかっているから、余計に。

「嫌いになんて絶対ならないこと。僕にとってマスターがとても大切だってこと。もし叶うならば、マスターにとっての僕も、大切な存在になれたらいいなって願っていることです。」

収まりそうだった涙が、また止まらなくなった。

「だから…だから言わないでって言ったのに…馬鹿…」

自然と、私も腕を回していた。

「馬鹿…ばかぁ…」
「馬鹿ですよ、僕は。マスター馬鹿です。多分。」
「ほんとだよぉ…この…バカイト…」
「あー!マスターまでめーちゃんと同じこと言うー!」
「めーちゃん?」

聞き慣れない名前が、私に顔を上げさせた。
「マスター、大丈夫ですから、もう泣かないでください。」

「うん、ありがとう。それで、めーちゃんって誰?」

自分でも恐ろしいくらいに、「めーちゃんって誰?」の声のトーンが下がっていた。普段は人のことなんてほとんど気にしないのに、どうして「めーちゃん」のことはこんなにも気になったんだろう?

「あぁ、僕と同期のボーカロイドです。一応姉です。今は同期で妹のミクと一緒に別のマスターのところにいるはずです。」

「彼女とか、そういうんではないんだ。」

「あ、それはないです。」

けろっと返すということは、本当にただ同期なのだろう。
って、どうして私はこんなことを聞いてるんだ?
そんなん、どうでもいいのに…。

10 狭い世界(翡翠side)

Trrrrr...Trrrrr...
「マスター、電話ですよ。」

カイトが携帯を取ってきてくれた。
萌だ。

「もしもーし、ひーちゃん?」
「あぁ、萌、どうした?」
「どうした?はこっちの台詞だよ?ひーちゃん昨日もぼーっとしてたし、今日はいきなり休むし、萌心配だったんだよ?教授も、珍しいなって心配してたし。」
「あぁ、寝坊したから。」
「え!?寝坊?うっそだぁ、ひーちゃん絶対なんかあったーっ!」
「まぁ、それはともかく、大丈夫だから。」
「そう?それならいいんだー。」
「あぁ、また明日な。」
「うん、またねー♪」

「マスター」
「ん?」
「やっぱりマスターは一人じゃないです。」
「そうだな」
「たとえ他の誰がマスターの味方じゃなくても、僕が一人にさせませんけどね。」

なっ、さっきは全然それどころじゃなかったけど、改めて言われると、なんか、その、めちゃくちゃ恥ずかしいんだけど!?

「マスター」
「な、何?」
「可愛いです。」
「は?はぁああああっ!?」

走って逃げようとしたのに、なぜかカイトに後ろから抱きしめられてる、だと!?

「逃げようとしてもマスター小さいからすぐつかまえちゃいますよ?」

なんだ!?なんだこいつ天然タラシなのか!?
ってか、その前に今こいつ…私への禁句を言ったな…?

「あのね、電気代節約したいの。」
「あぁ、節電ですね?」
「だから、冷凍庫のコンセント抜いていいよね。」
「わわっ!ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!」
「何が悪いか分かってる?」
「ち、小さいって言ってごめんなさい…」
「分かって言ったんかいボケェっ!!」
パシーン
「ったたた…マスタぁごめんなさい…」

「こいつ可愛いな」
「え、マスター今…」
「なんでもねーよっ!!」
今度こそ走って逃げる。そしてベッドの中に隠れる。

Trrrrr...Trrrrr...
ったく、今度は誰だよ…忙しいな。
「もしもし、翡翠?元気か?」
「恭一!?いきなりなんだよ?」
「いや、元気にしてるかな、と。」
「本当に?」
従兄妹だからしょっちゅう遊んだことはあったが、恭一の方から連絡するときは、大概何かとんでもない(恭一にとって)ことがあるのだ。
「実はさ、とんでもないことがあって…」
「やっぱり…」
「え?」
「いつものパターンだろ。」

でも、大概その「とんでもない」っていうのは、私からしてみたら大したことはないのだ。
初めて食べ放題行ったらお腹壊しただの、ヤモリが迷い込んだから飼うことにしただの、新作のゲームを買いに早朝から並んだのに恭一の前の人までで売り切れただの、霊感が強いらしく何か出てきて取り憑かれただの、最後の一つ以外はむしろ、そうですか、としか言いようがない。
ただ、当時の恭一からしたら十分、従弟妹に伝えるほど「とんでもないこと」らしい。しばらく経って同じ話題を振ると大抵けろっとしているのだ。

「そんなにいつもじゃないだろ?」
「いや、恭一からかけてくるときはいつもだから。で、とんでもないことってのは?」
「実は昨日だな、うちに新型ボーカロイドが届いたんだよ。」
「はぁっ!?嘘だろ?まさかそれ、箱に入って勝手に届いた?」
「うん。」
「で、PCソフトじゃなくて人間だった?」
「そうそう、そうなんだよ。って、何で知ってるの?」
「いや、それは…」
「メイコもミクも同期がいるって言ってたから、もしかして翡翠のところにも届いたの?」
「なんでわかるんだよ!」
「おー!じゃあ翡翠が昔歌ってたやつとか教えられるじゃん?」

「私はもう歌わない。」
恭一はまだわからないのだろうか。
琥珀を思い出すようなことは、いないことを認識しなきゃいけないことは、できるだけしたくないんだ。
前にも言ったはずなのに。

「翡翠、お前とらわれてるよな。」
「そんなことない。で、それ以外に用件ないなら切るよ。」
「ちょ、待てよ!」

プツッー


「恭一さんって、元彼さんか誰かですか?」
いつになく機嫌の悪そうなカイトがいた。
いや、本人は機嫌の悪いつもりはないのだろう。

「いや、従兄だよ。あと、元って何、今いなさそうに見えるの?いや、いないけど。」

「あ、従兄ですか。いや、そういうわけじゃ、マスター、ごめんなさい…」
カイトは少しだけ安堵の表情を見せた。

「そういえば、めーちゃんとミクっていう同期のボーカロイド、会いたい?」
元気でやっているかくらいは、お互い知りたいんじゃあないだろうか。

「え?あっ、はい、ぜひ!」

「例の従兄が、二人のマスターやってるみたいなんだ。」
「世界って狭いんですね。」

「ついでに聞くけど、リンちゃんとレンくんって言うのも同期?」
「そうですよ。」
「本当に世界は狭いな。」

「二人のマスターと知り合いなんですか?」
「あぁ、大学の友人だ。」

つまり、だ。これからはボーカロイドを通じて萌と大学以外で会う機会も、恭一と会う機会も増えるってことか。
騒がしくなりそうだ。私はただ、何もしたくないのに。

溜息をついた私に、追い打ちをかけるようにカイトが言葉を放った。

「マスター、そういえばさっき、私はもう歌わないって…」

「歌は苦手なんだ。だから、カイトに歌は教えられない。ごめん。」

もちろん、嘘だ。
苦手だから、ではない。

カイトはそれ以上、何も聞いてこなかった。
「そういえば、昨日カイトが作ってくれたサンドイッチと玉子、まだある?」

カイト自身も忘れていたのだろうか、一瞬きょとんとした顔を見せる。

「あ、でもずっと冷蔵庫に入れてましたから…」

「食べよう。」

「はっ、はい!」
少しだけ驚いて、でも花が咲いたような笑顔をみせるカイト。表情がくるくる変わる、本当に可愛いやつだな。

11 大切(カイトside)

「誰!?何!?背中にいるの誰!?」

マスターの叫び声で目が覚めた。
僕まで眠るつもりではなかったのに!

「わわっ!ごめんなさい、ごめんなさいマスター!」

どうにか弁解の言葉を探す。

「いや、その、僕はその、マスターに変なことをしようとか、そういうわけではっ!」

ー本当に?ー
マスターが無言でそう語っているような気がした。

「ホントです!本当ですってば!」

ただ僕は言葉を探す。

「ただ、マスター暖かいなぁって…」

マスターの表情が変わった。
少なくとも、よくない方向に。

おもむろにマスターは口を開いた。

「あのさぁ。」
「はっ、はいっ!」

「誰が私のベッドに入っていいって言ったよこの野郎」
「ごご、ごめんなさい…」

どうしよう、僕マスター救えるかとかそういう話じゃなくて、まず嫌われるんじゃないか?

どうにかしてマスターの気を他のことにそらせようとするよりも先に、沈黙を破ったのはマスターだった。

「それはともかく、だけど。」
「何ですか?マスター。」
「朝ご飯、食べた?」

嘘をつくことは、できない。

「ごめんなさい、食べました。僕のためのものじゃないのに…」
「いや、食べてもらえたなら、良かった。むしろ、謝るのは私の方だ。」

怒っていない…のか?まして、良かったって、マスターが謝るって?だって、あれはマスターは悪いとかそういうのではなくて…

「いや、そんな、マスターは、だって…。あの、朝ご飯、美味しかったです!」

無理矢理にでも、明るく振る舞う。状況から、マスターと向き合うことから逃げているのは、逃げようとしているのは、僕の方なのかもしれない。

「ごめんね…カイト……ごめんね…カイトはカイトなのに…、琥珀じゃないのに…カイトなのに…」

気丈な言葉でクールに振る舞っていた、振る舞っているように見えたマスターは、一瞬にしてか弱い少女へと変貌した。

「私酷いことしたよね、怖かったよね、訳わからなかったよね、辛かったよね、苦しかったよね、ごめんね…ごめんね…あれだけのことをしたのに、私、謝るしかできない…本当にごめんね…、ダメだね、私…」

「ごめんなさい、マスター。」

今の僕には、これくらいしかできそうにありません…
ただ、側にいて抱きしめるくらいのことしか、僕には…

「え?」

「僕は、マスターの大切な人の代わりになってあげることはできません。」

「だから…それは…」

「でも、僕はマスターの側にいます。側にいたいんです。側にいさせてください。」

「え、どうして、なんで?私のこと、嫌いにならないの?あんなこと、したのに。別の人間にしようとしたのに…」

「嫌いになんてなりませんよ。」

「それは…私がマスターだから?」

ーマスターだから?ー
製品の特性上、なのだろうか?
それすらも、今の僕には分からないけれど…

「そうかもしれないです。細かい理由は、まだ僕もよくわからないです。でもわかってるのは…」

「言わないでっ…」

それでも、僕は…

「嫌いになんて絶対ならないこと。僕にとってマスターがとても大切だってこと。もし叶うならば、マスターにとっての僕も、大切な存在になれたらいいなって願っていることです。」

泣きながらもどこか、堪えようとしていたマスターの何かを、いつか僕も理解できる日がくるのだろうか?

「だから…だから言わないでって言ったのに…馬鹿…」

「馬鹿…ばかぁ…」

僕は、そう。馬鹿だ。

「馬鹿ですよ、僕は。マスター馬鹿です。多分。」
「ほんとだよぉ…この…バカイト…」

え、バカイト?いや、確かに馬鹿だけど、マスターまで言わなくたっていいじゃないですか!?

「あー!マスターまでめーちゃんと同じこと言うー!」
「めーちゃん?」

聞き慣れない名前だったからだろうか。それでもいい。
マスターが、やっと顔を上げてくれた。

「マスター、大丈夫ですから、もう泣かないでください。」

「うん、ありがとう。それで、めーちゃんって誰?」

マスターの声が、少し低めのいつもの声に戻った。
いや、いつも以上に低かったかもしれない。

「あぁ、僕と同期のボーカロイドです。一応、姉です。今は妹のミクと一緒に別のマスターのところにいるはずです。」

「彼女とか、そういうんではないんだ。」
「あ、それはないです。」

マスターがなぜそれを聞いたのか、少しだけ気になった。
でも今はそんなことより、本当に僕は自分勝手なのかもしれないけれど、マスターが"琥珀"としてではなく、僕として見てくれたことで、僕はいっぱいだった。

きっと、本当にマスターを救えるには、僕では足りないのかもしれないけれど。

12 今はそれで十分(カイトside)

Trrrrr...Trrrrr...
マスターの電話が鳴る。

「マスター、電話ですよ。」

普通のことのはずなのに、なぜか厭わしい。

「あぁ、萌、どうした?」
マスターの友人だろうか。

「あぁ、寝坊したから。」
寝坊、というのだろうか。

「まぁ、それはともかく、大丈夫だから。」
電話の主は今日の欠席を心配している、のだろう。

「あぁ、また明日な。」

なんだ、たった1日休んだだけで、電話かけてくれるような人がいるんじゃないですか。

「マスター」
「ん?」
「やっぱりマスターは一人じゃないです。」
「そうだな」

でも、たとえいなかったとしても。
マスターがそういった人の存在を見失っていたとしても。

「たとえ他の誰がマスターの味方じゃなくても、僕が一人にさせませんけどね。」

マスターの目を直視していった言葉は、もしかしたらこれが初めてかもしれない。

あれ、もしかしてマスター、照れてる?

「マスター」
「な、何?」
「可愛いです。」
「は?はぁああああっ!?」

いや、本当に可愛かったんですよ、マスター?
もしかして自覚してない?

それに、そうやって駆け出しますけどマスター、この家の中のどこに逃げようと言うんです?

「逃げようとしてもマスター小さいからすぐつかまえちゃいますよ?」

150あるかないかの小柄なマスターのことだ。捕まえようとすれば僕の腕に収まってしまう。

「あのね、電気代節約したいの。」
「あぁ、節電ですね?」

え?なぜ突然電気代の話を?
まさか僕の電源を切ると?あれ、僕何を動力に動いてるんだろう?

「だから、冷凍庫のコンセント抜いていいよね。」

そっちですか!それだけはダメですマスター!!

「わわっ!ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ!」
「何が悪いか分かってる?」

思い当たるのは「小さい」「可愛い」あたりだろうか…

「ち、小さいって言ってごめんなさい…」
「分かって言ったんかいボケェっ!!」
パシーン
「ったたた…マスタぁごめんなさい…」

僕、マスターに怒られてばかりじゃないだろうか…

「こいつ可愛いな」

さっきまでとは打って変わった微かな声で、マスターがそう言ったのが聞こえた…ような気がした。

「え、マスター今…」
「なんでもねーよっ!!」

またマスターは走って逃げてしまう。そしてベッドの中に隠れたつもりでいる。あの、頭隠して足見えてます、マスター。



Trrrrr...Trrrrr...

またマスターの電話が鳴ってるらしい。
マスターは人気者なのだろう。
あれだけ可愛いマスターのことだ。理解に難くない。
ただ、どうしてほんの少しだけ、寂しいような気がするんだろう。

「恭一!?いきなりなんだよ?」

初めて聞く名前だ。弟でないとしたら、マスターの彼氏?
背筋を通り抜けた悪寒に、気づかないふりをした。

「本当に?」
「やっぱり…」
「いつものパターンだろ。」
「いや、恭一からかけてくるときはいつもだから。で、とんでもないことってのは?」

いつもの、ということは割と長い付き合い、なのだろうか。

「はぁっ!?嘘だろ?まさかそれ、箱に入って勝手に届いた?」
「で、PCソフトじゃなくて人間だった?」

なぜ僕のことを?

「なんでわかるんだよ!」

これ以上は、聞かない方がいいのかもしれないと思った矢先だった。

「私はもう歌わない。」

マスターの部屋には、音楽に関連するものが何一つ無かった。
もう歌わないと言うことは、かつては歌っていた?
歌わなくなったのは…

もしもマスターがもう歌に携わる気が無いというのは…

ー僕の存在の否定を意味するー

僕はマスターの部屋のそばを離れた。



「カイトー?」
電話が終わったのだろう。リビングへ降りる足音が聞こえた。

「恭一さんって、元彼さんか誰かですか?」

今まで自分が発したことの無いような、冷たい声が響いた。どうして、よりによってマスターに向かって?

「いや、従兄だよ。あと、元って何、今いなさそうに見えるの?いや、いないけど。」

「あ、従兄ですか。いや、そういうわけじゃ、マスター、ごめんなさい…」

カイトは少しだけ安堵の表情を見せた。
そういえば、どうしてわざわざ「元」をつけたんだろう?

「そういえば、めーちゃんとミクっていう同期のボーカロイド、会いたい?」

箱に入って届いた、PCソフトでなく、人間だった。
めーちゃんとミクのことだったのか。

「え?あっ、はい、ぜひ!」

「例の従兄が、二人のマスターやってるみたいなんだ。」
「世界って狭いんですね。」

僕の中に影を潜めていた何かは、すっと消えていったみたいだ。

「ついでに聞くけど、リンちゃんとレンくんって言うのも同期?」
「そうですよ。」
「本当に世界は狭いな。」
「二人のマスターと知り合いなんですか?」
「あぁ、大学の友人だ。」

ということは、もしかしたら彼らとまた歌えるかもしれない。今度はデモソングではなく、僕らのものとして発表できるかもしれない。

でも、僕のマスターはそれでいいの?

「マスター、そういえばさっき、私はもう歌わないって…」

「歌は苦手なんだ。だから、カイトに歌は教えられない。ごめん。」

苦手だから、ではない。
嘘だというのは、すぐに分かった。
でも、それ以上は聞いてはいけない。
聞いてはいけないんだ。


「そういえば、昨日カイトが作ってくれたサンドイッチと玉子、まだある?」

僕自身も忘れていたのに、マスターは覚えていてくれたんだ。今は、それでいいことにした。

「あ、でもずっと冷蔵庫に入れてましたから…」
「食べよう。」

「はっ、はい!」

マスターが食べようと言ってくれた。
仮に歌うことができなくても、十分なんじゃないだろうか。

「ボーカロイドのくせに怪我しやがって。無理するくらいなら一人でやるな。料理なら今度私が教えてやる。」

やっぱりあなたは、僕には十分すぎるほど、すてきなマスターです。

~interval-2(萌side)~

「恭くん恭くん」
「なに?」
「萌は、萌だけど萌じゃないんだよって言ったら、信じる?」

「また、前の話か?萌が萌である条件とか、何が萌を萌にさせているのかっていう。」

そう。めんどくさそうな顔しないで、そうやって真面目に聞いてくれる恭くんが、わたしは好き。

「うん、そんな感じ。でも、ちょっと違うかも。」

「萌ね、二人いるの。一人で二人で、二人で一人なの。」

「は?」
よく、わからないよね。
でも、恭くんなら、きっと、受け入れてくれると、思う。

「結なの。」

「え、結?」
さらに驚いたよね。でもね、わたし、何一つ嘘はついてないんだよ。

「これからわたしが言うこと、すっごく混乱すると思うけど、信じて聞いてくれる?」

「あぁ。わかった。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

だれだっけ、同じ中学の人。小学校も同じだったみたい。萌は興味ないから、全然覚えてなかったけど。

「知ってる?楠萌って、本当は楠萌じゃないんだよー?」
「えー、何それどういうこと?」
「うち小学校一緒だったけど、楠萌ってうちらが卒業する前に死んだんだよ。」
「マジで?じゃああれって幽霊?」
「違う違う、双子の妹!」
「何それマジ漫画みたいw」
「てか、幽霊にしても妹にしても気持ち悪いよねぇ。」
「ほんとそれなw」
「あいつ頭おかしいんじゃね?」
「言えてるw近寄ったらヤバいかもねw」

何言ってるの?萌は、萌だよ?
頭おかしいのは、あなたたちでしょ?
だってほら、ずっといたんだよ?
萌は、いるんだよ?
だってわたしは、「萌」なんだから。

13 夢とオムレツ(カイトside)

「…ごめんなさい……私のせい…

みんな、どうして、私だけ、

ごめんなさい、行かないで…私が…あの時…

ごめんなさい…ごめんね…みんな…、私が

お父さん…お母さん……琥珀…私のせい…」


前と同じ夢を見ているんですか?


「許さない……あの車も、あの連中も…」

何かを、恨んでいるんですか?

しばらくすると、マスターはまた静かに寝息をたてた。
まだ、午前5時半。

「ごめん、さっきのコンビニに忘れ物したから、先行ってて?」

「え、コンビニ?」

マスターからの答えはない。マスターの寝言は、寝言と言うにはあまりにもはっきりし過ぎていて、少し怖く感じることもある。

「どうして…嘘でしょ…ねぇ、ありえないよ、絶対違う人だ…え?起きて…いやぁあああああああっ!!!」

「マスター!マスター!?」

「あれ…カイト…、また、あの夢か…。」
「大丈夫ですか、マスター?」
「あぁ。いつものことだ。心配かけたな。また7時半に起こしてくれ。」
「わかりました。」

大丈夫なわけがない。しょっちゅうこんな夢ばかり見るなら、もしかしていつもあまり眠れてないんじゃないか?

ただ側にいるだけではやはり足りないのだろう。もっと根本的な何かに気づいてあげなくちゃいけないのだろう。
でも、聞き出そうにもマスターから聞き出すなんてそんなこと、できない。



このままただ何もしないのも辛くて、昨日マスターが教えてくれたプレーンオムレツを作ることにした。

バターを使うとおいしくなるって、マスター言ってた。

「中はとろっとしてるやつが好きなんだよね。」

できるかな。

そうだ、マスターってコーヒー好きかな?
アイスを乗せたらフロートになるけど、どうだろうか。

とりあえず、まずはオムレツを作ってしまおう。卵はいくつぐらいがいいだろうか。僕とマスターの分だから、3つかな。あまり多く使いすぎても怒られるかもしれない。

溶いた卵に塩と胡椒と、ほんの少しの砂糖を加える。

「しょっぱいものを作るときにね、なんか味が足りないなって時は、ほんの少し砂糖を入れるの。でも、カイトは初めてだから、これはちょっぴり上級向けかな。」

逆に塩とかを足しちゃうと、しょっぱいだけで物足りないってなっちゃうんでしたよね。

フライパンの上で溶けるバターが薫る。
そうそう、いい調子だ、僕。
卵を静かに流し少し待つ。

3つに畳むんだよな…

あああっ!

畳もうとしたところで、無惨に流れる卵。
オムレツと言うよりは、玉子の固まりと化してしまう。
あたふたしているうちに、半熟ですら無くなってしまった。

怒らないまでも、マスターは苦笑するだろうな…

いや、でもきっと、味はおいしいはず。

皿に盛り、フライパンや菜箸を洗って元の状態に戻しておく。
そして、コーヒーを探していた。

「何やってんの、バカイト。」
「え、マスター!?」
「今何時だと思ってる?」
「え、あっ、嘘、7時半!?」

とんだ失態だ。いくら朝ご飯を作ったって、ちゃんと時間に起こさなくちゃ意味ないじゃないか!

「ごめんなさい…マスター…」
「やっぱり携帯のアラームをかけておいて正解だったな。」

やっぱりってことは、マスター僕のこと信用してない?
あぁ、でもそりゃ、1日や2日で信用される方が不思議なわけで…だけど、これじゃ頼りにならないよな…

「ごめんなさい…」

「ねぇ、オムレツ作ったの?」
それでも、僕が何かをやらかしたときに、必要以上に責めずに話題を変えてくれるのもマスターなんだ。

「は、はい!」
「ちょうだい。」
そう言って箸を取り出し、一口食べるマスター。
「ちゃんとバター使ったんだね。あと、砂糖も少し入れたでしょ?味がまとも。」
「はい!マスター昨日言ってましたから。」

まともってことは、まともじゃないものを食べたことがあるんだろうか?あぁ、一昨日僕が作ったやつ…

「始めた頃は味付けが全然分からなくて大変だった。しょっぱかったり酸っぱかったり、逆にほとんど味がしないようなものだったりしたもの。」

僕が聞くよりも先に、マスターは語る。

「あと、」
「はい?」
「すぐにフライパンとか片づけるあたり、偉いなぁって思った。私めんどくさがって後でまとめてやったりするから。」

「あ、ありがとうございます!」
思いがけないところで誉めてもらえた。

「半熟とか、きれいな形とかは、すぐには難しいから気を落とさないで。」

最初はぶっきらぼうにも見えたけど、やっぱりマスター、優しい人だ。

「はい!」
「カイト。」
「何でしょう?」

「ありがとう。」

「マスターっ!」
「だから突然抱きつくな!」

「だってマスターがありがとうって…」
「だからっていきなり……いいよ、もう。」
「いいんですか?やったーっ!」
「とりあえず今は離れて。支度がある。」
「あっ、ごめんなさい」

僕の分を取り分け、マスターの分を食べ、皿を片づけてからマスターは支度に取りかかった。8時を過ぎたところだ。結構時間まずいんじゃないか?

「今日も留守番お願いできる?」
「はい、行ってらっしゃいマスター。」

14 興味ない(翡翠side)

カイトに見送られ、家を出る。
半熟じゃないことと、形が崩れてることを除けば、かなりよくできてたと思う。機械だから、飲み込みが早いんだろうか?

「ひーちゃんおはよー。」
「あぁ、萌、おはよう。」
「ひーちゃんぼーっとしたの治ったね?よかったよかったぁ。」
「むしろ萌がいつもズレてんの治せ。」
「ひーちゃん、人間ね、できることとできないことがあるんだよ?」
「あぁ、無理そうだな。」
「うん!」
「いや、笑顔で言うなよ。」

明日から夏休みということもあってか、今日はあまり講義は多くない。私も萌も2限だけ出席する。
私はともかく、こいつは何で授業を受けてるんだ?
萌の今日のノートは、水族館らしい。

「ひーちゃんは、夏休みどこか行くの?」
「いや、特に。」
「そっかぁ、予定無いんだぁ。」
「まぁ、どこにも行きたくないし。」
「もったいないよ?3年になると学部に配属されちゃうから、そんなに暇なくなっちゃうじゃん。」
「あぁ、別にいいや。ところで、萌はどの学部に行くつもりなんだ?」
「実はねー、萌、あんまり考えてなかったぁ」

いつも思うけどこいつ、よくこの大学入れたな…

「ひーちゃんは?ひーちゃんこそどこ行くの?」
「あぁ、特に興味ない。」
「うっそー、ひーちゃんそれ自分の成績わかって言ってる?」
「それすら興味ない。」
「ひーちゃんの馬鹿ーっ!首席だよ?首席が何言ってんの!?ひーちゃんの成績なら文理選び放題なんだよ?」
「首席に馬鹿って何だよ。」
「だって、馬鹿だって!ひーちゃん頭いいけど馬鹿!」
「どっちだよそれ。あぁ、そうだ、萌。」

本当に、興味ないものは興味ないんだよ。
やりたいことなんて。あれから何一つなくなったんだから。

「ん、なぁに?」
「ボーカロイド、うちにも届いた。」
「え、本当に?すっごーい、今度うちのサークル連れてきてよ!」
「そうか、音楽系のサークルだっけ。それなら、萌のところのつれていけば良くないか?」
「だって、いっぱいいた方が楽しいじゃん?」
「あぁ、だったら私の従兄に頼むわ。あいつのところにも、二人届いたらしいからな。めーちゃんとミクって言ったっけ。」

カイトを連れていくということは、私も行かなくてはならない。歌や演奏は、もう…

「え、そうなんだ?うわぁ、じゃあいっぱい流通してるのかな、すごいねぇ。」

萌の話し方に若干の違和感を覚えた。
何か、まずいことでもあったのか?
まぁ、常人とのズレは一級品の萌のことだ。
多分、気にするようなこともないだろう。

「それじゃ、萌このあとサークルあるから、ばいばーい」
「じゃあね、萌。」

~interval-3(萌side)~

昨日も、「萌」って呼んでくれたね。
一昨日も、その前も、ひーちゃんはわたしのこと、「萌」って呼んでくれる。

何一つ疑わない。
疑うどころか、興味すらない。
他の何にも興味を示さない。
だから友達もいない。
興味がないから、情報を得ない。
ただ、空白を埋めるように勉強しているだけ。

だから、わたしに気づかない。わたしを知らない。

知ってるよ。そんなひーちゃんだから、わたしはひーちゃんと一緒にいる。

空っぽのひーちゃんだから。
わたしにすら興味のないひーちゃんだから。

萌は、今日も萌だよ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「萌ちゃんって、兄弟いるの?」

高校もいろんな人がいたけど、みんな1回はこの質問するんだよね。

「うん、双子の妹がいるの。」
「へぇ、そっくりなの?」
「もちろん、見分けつかないって言う人もいるよ。でも、性格はちょっと違うかな。」
「えー、見たい見たい!今度写真見せてよ!」
「結ちゃん、写真嫌いだからなぁ、ちょっと無理かも。」
「そっかぁ、残念。」

いろいろ聞いてくる人は嫌い。
情報を探ろうとする人に近づきたくない。

萌はいるんだよ。ここにいるでしょ?

散々探った挙げ句、事実にたどり着いた人間はみんな同じ顔をするんだ。

"萌はいないんだよ"

無言でそう言うのをやめて。
萌はいるよ。いるよ。ずっと一緒にいるんだよ。
みんなが、わかってないだけ。

15 買い物(翡翠side)

「ただいま、カイト。」
「おかえりなさい、マスター。」

今日はさすがに抱きついてこない。
そういえば、ただいまと言った私におかえりと返してくれる人がいるってのは、あまりにも久しぶりだ。

「明日から、夏休みだから。」
「マスターはどこか行かないんですか?」
萌と同じ質問をされる。

「行かない。」

「せっかくの夏休み、ですよ?」
だから萌と同じこと言うな。

「行きたくない。どこにも。何もしたくない。」

「何も、ですか?」
どうして同じことを何度も言わなきゃいけない?

「あぁ、何も。どこに行くのも、何をするのも。何度も言わせるな。」

カイトの表情が少し落ち込んだような気がした。
どこに行くも何をするも、私の勝手だ。
どうしてこいつが落ち込む必要がある?

「じゃあ、買い物行きましょう!マスター。」

「は?」
どこにも行きたくないって言ったのを、こいつはもう忘れたのか?鶏か?いや、3歩すら歩いてないから、鶏以下だ。

「だから、一緒に買い物に行きましょうって。」
こいつも来るのかよ。

「日用品なら基本的に買ってある。アイスもあれだけあればしばらくはいいだろ?」

「もう残り1つです。」

「はぁっ!?」
あのときいくつ買ったと思ってるんだよ!?
箱に複数入っているものも数えると、20をゆうに超えていたんだぞ!?

「チョコミントは残しておきましたから。」
「そういう問題じゃない!」
「あっ、もしかしてバニラソーダバーメロンチョコも食べたかったですか?」
「だからそういう問題じゃない!!」
「じゃなかったら、あの中で一番高いパルムを食べたからでしょうか?」
「そういう問題でもないっ!!!」

「あの…僕…食べ過ぎましたか?」
「気づくのが遅い!」
「ごめんなさい…」
「もうしばらくアイスは買わな…」

気づいた。今は夏だ。アイスがないのは私も辛いじゃないか。

「あーもうわかったよ!買い物行けばいいんだろ?買い物だけだからな?」

はめられたのは私の方か?
仕方なく、カイトを連れて買い物にいく。そういえば、こいつと外にでるのは初めてかもしれない。



なぜか、街行く人の視線を感じる。

「やばーい!あの青い髪の人チョーイケメンじゃね?」
「それな!でもなかなかすごい色だね」

しまった。帽子かぶせてくるんだった…

「ジャケットにマフラーとか暑そう…」

こいつは暑くないのか!?
機械だからか?でも怪我はするんだよな…

「マジかよ、あれカイトのコスプレ?」
「クオリティ高くね?」

あああああっ!弟の服着せてくるんだった!

「地味に隣の女の子めっちゃ美人やん。」
「すいません!写真撮らせてください!!」

なんでこうなるんだよ!

「どけ」
え…今の、カイト?

「だから、どいてください。」

「あの、握手だけでも!」

「気安く俺の彼女に近寄らないでください。」

え?は?いつから私はカイトの彼女なんだよ!?

「行きますよ、マスター。」
私の手を引き、人混みをかいくぐる。
何で突然そんな紳士なんだよ!

人の少ない通りに出て、すぐに私は手をふりほどいた。

「気をつけてくださいよ?マスター。」
「いや先に注目集めたのカイトだから。」
「マスター可愛いんですから。」

無視。さて、私は買い物してさっさと帰ろう。

「ちょ、待ってくださいマスター!」
あわててついてくるカイト。犬か。

当初スーパーに行く予定だったが、急遽ショッピングモールへと行き先を変える。
こいつの服を買わなくては。

しかし、どんなのを買えばいいんだ?
琥珀は基本的にジャージかTシャツかジーパンくらいしか着なかったから、よくわからない。

「あの、この人に合う夏物を探しているんですが…」
「あっ、それならこちらを!」
いかにも、「オシャレ」な感じの服を笑顔で手渡す店員。

「あの、マスター、僕はどうすれば?」
「試着してみたら?合わなかったらまずいだろ?」
「はい、わかりました。」


「あの…、いかがでしょう?」

なんだ…これは?
あまりに似合いすぎていて、言葉を失った。
こいつ、こんなに格好よかったっけ。

「もしかして、似合わない…ですか?」
「いや、全然。すっごく、似合ってる。」

もしかしたら、いや、確実に、そこらのファッション誌のモデルや、そこらの男性アイドルなどを軽く一蹴できるレベルだ。

「お客様、こちらもいかがでしょう?」
「あの、こちらもよろしいかと。」
「今大人気のこちらのアイテムですが…」

…この店員、カイトの着せかえを楽しんでないか?

「マスター、どうしましょう?」
カイトの手には、試着した多くの服が山積みになっていた。

私に選べ、というのか?
選ぶにはどれも、あまりに似合いすぎている。
服がカイトに合うのではなく、カイトはどんな服でも着こなせてしまうのかもしれない。

「あの、全部ください。」
「マスター!?」

え、今私は、全部買うと言ったのか?
嘘だろ…今まで衝動買いなんて、ほとんどしたこと無かったのに。
買いすぎたものと言えば、あのときのアイスくらいだったのに。

「1てーん、2てーん、3てーん…15てーん、16てーん、17点、合計63800円になりまーす。」

「え、あ、嘘、どうしよう…」

財布を圧迫し続けていたいつかのお中元のギフト商品券が皆羽ばたいた。

「えっと、5000円ギフト券を4枚お預かりで残りが43800円ですね…」

「マスター、僕これとこれとこれは要らないです。似たようなものですし…」

「えーっと、お会計変わりまして残り26970円ですね。」

ショッピングモール共通ポイントカードの類も羽ばたいてゆく。

「残り23760円です。」

「あああああっ!17000円しか入ってねぇええ!!」
ATMで下ろしてこようか、って、しまった銀行のカードは家で保管しているんだ…

「え、じゃあ僕これもいいです」
「あの、結構ですよ。」
さっきの着せかえ店員が耳を疑う発言をする。

「さっきお客様が返されました服も、差し上げます。」
「え、どういうことですか?」

「その代わり、今日と明日、こちらの店頭スタッフをお願いできますか?」

何を言っているんだ?服の代金として働いてくれということか?

「え、店頭スタッフ?」

「はい!お願いします!是非是非、お二人でお願い申しあげます!」

「わかりました、やります!」
ちょ、カイト!?何を勝手に決めてるんだよ!?

「ありがとうございます!!こちらのすでに購入されたものに関しましても、キャッシュバックさせていただきますね!」

着せかえ店員、やりすぎじゃないか!?

「では、お兄さんは先ほど購入された服を着ていただいて、お嬢さんはそのままの服で、お願いします。」

うわぁ、決まっちゃったよ。しかもこの店員私のこと、「お嬢さん」って言ったよ。

「お客様の案内や、似合う服を探したり、まぁ、用はさっきわたくしがやったようにお願いしますね。」

どうしてこうなった…

16 アパレル店員(翡翠side)

あぁ、どうして全部くださいなんて言ってしまったんだろう。何もしたくなかったはずなのに、なんでアパレル店員のバイトなんて…。

まぁ、あれだけの服が安く手にはいること、払えなくて恥をかかずにすんだことを考えれば、仕方ないかもしれない。

「夏物、新作、気になるあのアイテム、いろいろ取り揃えておりまーす。どうぞお立ち寄りくださーい。」

「あの、八百屋じゃないのでそういうのは…」

「はっ、すみません。」
なんだ、宣伝はしないほうがいいのか。難しいな。

「あ、いらっしゃいませ。」
さっきの着せかえ店員は、さっと新しい客の元へ行き、丁寧に案内をしていた。迅速だ。
着せかえ店員とか適当なこと言ってごめんなさい。

「こちらのワンピースなんていかがでしょう?」
カイトは早くも、若い女性に服を紹介していた。

「あっ、はい!」

「よくお似合いですね。そのワンピースでしたら、こちらの靴やこのスカーフなども合われますよ。こちらのベストも組み合わせますと、また違った印象になるかと思われます。」

「あっ、じゃあ、そちらもお願いします!」

「承りました。」

あいつ、あんなにセンスよかったのか?

「あの…すみません、店員さん…ですよね…。」
「あっはい!申し訳ございません!えっと、どのようなものをお探しでしょうか!?」
「あ、いや、なんでもないです!」

私の方に来たお客さんは去っていってしまった。接客なんて慣れなさすぎる。

「そうですね、今年のトレンド色はあちらですが、スタンダードな色はこちらになります。長くお使いになりたいということでしたら、トラッドな印象のこちらもいかがでしょうか?」

カイト、あんたいつの間にそんな知識得てたのよ。

「君新人さーん?チョー可愛いね☆」
何で私の元には変な人しかこないんだよ。
「いらっしゃいませ、どのような服をお探しでしょうか?」
「hu!今年のお嬢ちゃんはクール×ビューティーだね?いいねぇセンスあるねぇ。」
「あの、だからどのような服をお探しで…」
「そうだねぇ、この俺様にピッタリのカッチョイーのはどれだい?」
「こちらはいかがでしょう?」
カイト!?

手渡すのは、明らかに奇抜なオーバーオールだ。どういうつもりだ?

「お客様のような個性的な方は、いわゆる流行ものではせっかくの光る個性も半減してしまいます。あえて奇抜な服装をすることで、より注目が集まり、お客様の個性をより引き立たせると思いますよ。」

完璧な笑顔が逆に怖い。

「兄ちゃん、いいこと言うねぇ、その青い髪もそのポリシ
ーかい?」
「ええ。あ、それからこちらのチェーンアクセサリーと、そちらのデザインキャップもおすすめです。今若干お安くなっておりますのでそちらもぜひ。」
「よし、じゃあそれも全部頼むぜ!」
「承りました。」

もしかして、こいつ、話術の天才なのか?
それから、この男は気づいていないのか、一瞬カイトが威嚇するような目をしたような気がしたのは、私の気のせいだろうか?

「ねーねー聞いた?この店、青い髪のイケメン店員がいるらしいよ?」
「えーマジで?行こ行こ!」

「「すみませーん」」

「はい、お客様。」

「「きゃーっ」」

なぜか、面白くない。私が接客下手だからか?

「あの、このブラウス、気に入ったんですけど、これに合うボトムスってございますか?」
「あ、それでしたら、こちらのパンツですと大人っぽい印象に、こちらのフレアスカートですと女の子らしい印象になりますが、いかがでしょうか。」
「あ、じゃあ、両方いただけますか?」
「かしこまりました。」

カイトの真似をしたようなものだが、うまくいった、と思う。カイトが一瞬、こちらに笑顔を向けてくれた。うまくいってよかったね、と言いたいのだろうか。私も、笑い返した。



「蛍の光」がフロア中に流れる。
そろそろ、解放されるだろうか。

「今日はお疲れさま。明日も頼むわね。」
「「はい、わかりました。」」

大量の服を持ち、帰路につく。

「持ちますよ、マスター。」
「あぁ、ありがとう。」

素直に甘えることも、必要なのかもしれない。

「ただいま。」
「ただいま…です。」
「なんだよ、ただいまです、って。」
「いや、僕の家でもあるんだなぁって、改めて。」

カイトの家でもある…あぁ、まだ3日しか経ってないが、そういうことになるのか。まだ違和感が残るが、しばらくすると慣れるのだろう。

「マスター、お疲れさまです。」
「いや、カイトも疲れただろ?悪かった、私が全部買うって言ったばかりに。」

「マスターの方が疲れてますよ。顔見ればわかります。僕はその特性上、人と接するのには抵抗無いようにできてます。でもマスターはあれだけたくさんの見知らぬ人と相対して、相当疲れたはずです。」

時々、こいつは心が読めるんじゃないかと思う。
本当に機械なのか疑う程良くできている。
むしろ、人間以上に細かいことに気づいているんじゃないか?

「って、痛い!そこ違うツボじゃない!」
いたわってマッサージしようとするのはいいのだが、相当ズレたとこ押したよな…

「あわわ、ごめんなさい、大丈夫ですかマスター!?」
「明日も早いんだ。私はもう大丈夫だから早く寝ろ。」
「マスターも、ゆっくり休んでくださいね。」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「マスター、起きてくださーいっ!今日もお手伝いですよー!」

わかっている。いつもながらのっそりと起き上がり、リビングへと降りる。

「オムレツ作りましたよ、マスター。」
「お前、毎日作るつもりなのか?」
「え?」

しまった、これは他のものを教えなければ毎日オムレツだ。

「いや、毎日はさすがに飽きるだろ。また別なものを教える。」
「はい!あ、でも今日のオムレツは…」
「今はまだ飽きてない。」
「よかったぁ」

こいつが来てから、久々に朝御飯を食べるようになった。
一人で暮らすようになってから、食事がどうでもよくなったのだ。

ただ、外食や買って食べるのも高いから、仕方なく料理は身につけた。さすがに不味いのは食べたくなかったから、おいしいものの作り方は身につけた。

隣で一緒に食べる人がいるのは、1年半ぶりか…。

「マスター?起きてます?」
「え、あぁ、起きてるよ?さすがにオムレツを枕になんかしない。」
「いや、ぼーっとしてましたから。」
「悪い。なんでもない。考えごとだ。」
「そうですか?考えすぎはほどほどにしてくださいね。」
「あぁ、ほどほどが分かればな。」

やはりこいつは、どこか鋭い。
「ねぇ、カイトってあんなにセンス良かったっけ?」
「え、センスですか?」
「お客さんの欲しそうなものをさっと選んできて、それに合うもの、その印象とかをパッと的確に言えるって、そうできることじゃないよ。」
「マスターだってできてたじゃないですか。」
あれは、違う。

「あれは、カイトのを見て見よう見まねをしてみただけだ。それに、1点はあの人がすでに選んでいて、それも割と何でも合うものだったから…」

「同じですよ。マスター。」
「え?」
「僕も、見よう見まねです。」

見よう見まねであんなにもうまくいくのか?

「僕に服を勧めてくれた店員さんです。確かに着せかえを楽しんでいる節もありましたが、勧めかたを考えると、かなりちゃんとしていましたよ。最初は、オシャレだけれど無難なもの、もしベースとなる服が決まった場合はそれに合わせたもの。色やモチーフですね。基本的にはここまでで終わります。僕の場合、それから、着回しのきくものを数着。そしてまだいけそうであれば少し冒険をしたファッションを勧めてくれました。僕はさすがに冒険するようなことはできません。あの変な男は別ですけど。」

「え、すごい…んだね。そんな、私カイトの服が次々変わるのをただ眺めてただけで、全然そんな…」

「あの人、マスターにもいろいろ着せたがってましたよ。」

「はぁ!?」
あの人、謎すぎる…

「マスターならいろいろ似合いそうだし、僕と対になるようなファッションを試すのも良さそうって言ってました。でも、他のものには興味がないって顔に書いてあるマスターには、とてもじゃないけど言い出せなかったんだと思います。」

「そ、そこまで言ってたのか、っていうかカイトもそこまで推測したのか」
着せかえ店員なんていい加減なこと言ってごめんなさい…

っていうか二人してすごすぎだろ!

「さ、マスター。そろそろ行きますよ。」
「あぁ。そうだな。」

17 店長(翡翠side)

「「おはようございます」」
「今日も来てくれてありがとうね。」

「はい、がんばります!」

「カイト、先に売場行っててくれるかな。あの!店員さん、って呼べばいいんでしょうか。」
「柳宮(やなぎみや)って言うんだけど、言いにくいから、店長でいいわ。」
「店長だったんですね!だからか、なるほど」
「うん、で、聞きたかったことは何?」

「服の選び方とか、勧め方とか、その、カイトから聞いて、すごいなぁって思って、コツとか聞きたくって…」

「そっかぁ、彼、カイト君って言うんだ。あなたは?」
「ひ、翡翠です。糸魚川、翡翠です。」
「うんうん、翡翠ちゃんね。わかったわ。そうね、基本はお客様の『こういうものが欲しい』って言うのを聞いて、そのジャンルや雰囲気の中で無難なものを選んでくる。特に無くって夏物、秋物とか、似合うものっていう注文だったら、ベーシックで無難なものをまず選ぶ。私はカイト君には最初からちょっと冒険したけど、彼みたいに特別格好いい人は本当に特別ね。それと、どうしても経験がものを言ってしまうところもあるし。無理や背伸びはしなくていいの。ブティックだから、普通じゃないもの勧めなきゃっていう、謎のプライドも逆効果。服は着てもらって、似合ってこそ意味があるんだもの。そして、ベースが決まった後に小物とかを合わせるといいわ。」

私はただ、圧倒されていた。
「そうだ、翡翠ちゃん。少し付き合ってくれる?」
「はい!あのでも、売場の方は…」
「まぁ、カイト君なら何とかなるでしょ。」
「そそ、そうですね。」

「こっちよ。早く来て。」
「はい、今行きます。」

アトリエ、というのか。むしろ物置か。立ち並ぶトルソーや、多くの生地。型紙やチャコペン、メジャーが散乱している。

「ごめんね、ちょっと散らかってるけど。」
「ちょっと、ですか!?」
「…ちょっと、よ。」

あの、店長さん、今あなたものすごく怖い顔を…

「ご、ごめんなさい…ちょっと、ですよね…」
いつも謝るときのカイトの気持ちが分かった気がした。

「まぁいいわ。翡翠ちゃんに試してもらいたい服があるの。」

確か、カイトが言っていたな。でも、何も興味がなさそうな私には…

興味を示しだしたのは、私の方か?

「翡翠ちゃんが着るのは、いつもこんなクールな感じ?」
「そうですね。基本的に白かカーキです。黒は着ようと思ったこともありましたが、さすがに髪が黒くて長いので、黒を着ちゃうと真っ黒くろすけみたいで…」
「あははっ、翡翠ちゃん可愛いっ。真っ黒くろすけって。でもそうだね。確かに黒の面積が広すぎるとね。翡翠ちゃんの髪綺麗だから、切っちゃうのももったいないし。」

「はい…で、試して欲しい服っていうのは…」

「そう、これなのよ。」
奥のクロゼットらしきものにかかるカーテンを開け放つ。

「これ、全部、ですか?」
「えぇ、そうよ。」
下手したら、カイトが昨日試着した分より多い。

「着せてみて、モデルとして見たいのもそうだし、もし、もっとここをこうした方が可愛いとかあれば言って欲しいし。こんな着方もあるんじゃないってのも、聞いてみたいのよね。」

まさか、これって全部…

「あの、これって、店長さんが作ったんですか?」
「そうよ。ここの服はほとんど、私がデザインして、型紙を作って、一着手作りして、あなたみたいな人に意見をもらう。商品化できそうなら、それを、工場に発注する。時々、私の友達が作ってくれるものもあるわ。」

すごい…すごすぎる…着せかえ店員なんて思って本当にごめんなさい。

「あの、私、でもここをこうしたらとかそういうこと、あまり言えないです。全然詳しくもないし…」

「そうね、じゃあ、翡翠ちゃんが着て、それを他の人に意見聞いてみようか。」

何か言っても動じずに、さらっと対応を変えてくれる。この人、やっぱりいろんな意味ですごい人だ。
「はい、それがいいと思います。」

「よし、まずはカイト君に見てもらおう。」
「え!?」
何でカイトなんだよ!

「あと、お客さんにもいろいろ見てもらった方がいいわね。」

「あの、やっぱりその、恥ずかしいですよ。」
「もー、もったいないわねぇ。あなためちゃくちゃ可愛いのよ?分かって言ってる?まぁ、可愛いと言うより美人だけど。」

カイトにも時々可愛いと言われるけど、この人たち、変な協定でも結んでるのか?

「じゃあ、決まりね。とりあえずこれを着て、売場出て。」

決まりって、私なにも言ってない!

「ほら、早く!」
「は、はい!」

有無も言わさず、とはまさにこのことだ。

18 ご意見を(翡翠side)

「ありがとうございました。」
ちょうど接客が終わったところらしい。

「ちょっと、カイト君。」
「はい、店長。って、マスターどうしたんですかその服」
「カイト君どう思う?翡翠ちゃん、いつものクールなのも似合うけど、こういうシックなのも似合うと思わない?」

「はい!とっても。あの、これ、シルバー系の小さなペンダントが似合うんじゃないでしょうか?」

「あぁ、確かにこの服にはゴールドじゃ合わないよね。カイト君さすが!」

やっぱり、この人たち変な協定結んでません?

「よし、翡翠ちゃん次これ!」
「あ、はい!」


「あのねー、この近くにね、去年萌がお世話になった方がいるの。」
「へぇ、そうなの?」
「すっごいすてきな人なんだよ、すてきっていうか、面白い人。恭くんにも紹介するね。」

萌か?まぁ、彼氏とショッピングだろう。

「あの、着替えました。」
「カイト君、どう?」
「可愛いです!」

他の人にも聞け!

「店長さーんっ!久しぶり!」
嘘、萌こっちに来るのかよ!?

「あらー、萌ちゃん、元気にしてたー?」
「元気元気!萌とっても元気だよー。って、あれ、あそこにいるの、ひーちゃん?」

何でよりによって今来るんだよ!
「なにそれすっごく可愛い!ひーちゃんがスカートっていうかワンピース着てるの初めてみたぁ!」
「俺も小さい頃以来だな。いや、高校の文化祭のお姫様役だっけ?」

「は!?萌に恭一!?お前等なんでいるんだよ!ってか知り合いだったのかよ!」

本当に、何でよりによって今日くるんだよ…
お姫様役の話もするな。あれはやらされたんだよ…

「うん、萌と恭くんは付き合ってるんだよ?そういえば、恭くんってひーちゃんの幼なじみだったの?」
「いや、翡翠は俺の従妹だ。むしろ、萌こそ翡翠と知り合いだったんだな。」
「うん、そうだよー?萌、ひーちゃんと大学のクラス一緒なの」

なんだこれ、めちゃくちゃ恥ずかしい…

隙を見計らってカイトの後ろに隠れる。
「え、ちょ、マスター何やってるんですか!せっかく可愛いのに。」

「あー!ちょとまてひーちゃん!」
「こら翡翠ちゃん。仕事は仕事よ。」

地獄だ…

「ねぇねぇ店長さん、これもしかして去年萌がやった2日間バイト?」
「そうよ。萌ちゃんも翡翠ちゃんの服、見てくれる?」
「もっちろんっ!萌これすっごく楽しかったのに、ひーちゃんなんでこんな隠れちゃうんだろ?」
「こいつは昔から照れ屋だからな。」
何言ってんだよ!?

「はぁ!?んなことないだろ!」
「あ、ひーちゃん出てきた。」
「分かりやすいな。」
とりあえず恭一黙れ。

助けてくれ、とカイトに目線を送るが、ニコニコ笑顔を返されるだけだ。いや、助けろよ。

「でも店長さん、これ可愛いけどシルエット重視だね?ひーちゃんみたいに華奢な人ならともかく、着られる人限られるんじゃない?」
「あら、言われてみればそうね。萌ちゃんありがとう。そうね、翡翠ちゃん、そろそろ次に着替えてみて。」

「はい…」
前途多難です。

「格好いい!ひーちゃんそれ街歩いたら威嚇できるよ!」
「いや、しないし。」
「クールからパンクに走りましたねマスター?」
「まぁ、俺としてはそんなに意外性はないな。」
「店長さん、ひーちゃんにさ、萌が着てるようなの着せてみたら?」

「はぁっ!?」
萌がいつも着ているのは、もう少し極端にすればロリータの領域にはいるような、フリルなどの多い、いかにも女の子、という服だ。

「そうだ、萌がひーちゃんみたいなクールな感じの着たらどうなるかなぁ?恭くんどう思う?」
「ちょっと想像付かないから見てみたい。」
「カイト助けて…」
「僕も見たいです、マスター。」

なんでだよ!

「じゃあ、ひーちゃん萌と服交換しよ?」

待て待て待て待て。156cmという萌と、150あるかないかの私ではまず身長が違う。

「いや、萌が私のを着るのはともかく、私が萌のを着たらぶかぶかだろうが!いろいろと…」

私は平坦な真下を見下ろす。
「ひーちゃん、萌そんなには太ってないよ?」
「そうじゃねーよ!」

この巨乳ふわふわ女が!

カイトと恭一は私の意味するところを分かってしまったのだろうか、二人顔を見合わせ困っている。

「翡翠ちゃん?」
店長が耳打ちする。
「もしかして、気にしてる?でも、大きさがすべてじゃないのよ?」
「なっ…」
あの、正直萌を上回る店長さんに言われると余計惨めです…

「萌ちゃん、ごめんね。今日はちょっと私の新作を翡翠ちゃんに試して欲しいの。だから、その中で萌ちゃんがよく着るような服を着せてみるから、萌ちゃんは新作の中のクールな感じのを着てもらうから、それでいいでしょ?」

「りょーかいっ!店長さんこれ?」
「そうそう、それ着てちょうだい。」
「はーい♪」

助かった…

「じゃあ、翡翠ちゃんこれね。」

って、着るんかい!
もう、観念するしかないんだな。

「マスター、大丈夫ですか?」
試着室のカーテン越しにカイトが呼びかける。

「大丈夫に見えるか?」
「でも、少し楽しそうです。」
どこがだよ!

「後で一緒にパフェ食べに連れていってください!」
「女子か!」

カーテンを開ける。
「ひーちゃんおっそーい!」
「うるさい、これ着るの難しいんだよ。」
「って、わぁっ、ひーちゃんそれお人形さんみたい!写真撮っていい?」
「嫌だ!」
「あら、本当ね。」
「お姫様以来か。」
「マスター結婚してください!」

爆弾発言するな!

「このバカイト!」

「萌の方は、あまり似合わない、かな。」
「いや、そうか?多分服以外がいつも通りだからで、メイクとか変えればまた違うと思うけど。」
「そう?恭くんありがと。」

「ねぇ、カイト君、今これを着てる翡翠ちゃんの頭にこのリボンつけたら可愛いと思わない?」
「可愛いです!とっても可愛いです天使です!」
もっと他に言葉無いのか。

「そうねぇ、後はこのバッグとぬいぐるみかしら?」
さらにガーリーにしないで下さいよ…

「この服とこれらセットでいくらくらいですか?」

買うつもりなのか!?私の金だぞ!?そして私着ないぞ!?

「あ、これはね、まだ売り物にはできないの。でも、仮に売り物だったとしても、翡翠ちゃんあまり好きじゃないみたいだから、タンスの肥やしになっちゃうかもしれないわよ。服は着てもらってこそ意味があるから…。まぁ、もったいないとは思うけどね。こんな可愛い子、そうそういないわ。」
「商品化したら萌が買うよー!」
「本当?萌ちゃんありがとう。じゃあそれまでに改良しておくわね。」
「やったぁっ!」

「萌ちゃんみたいにスタイルいい子もそうそういないのよね…」
店長さん、あなた本人を忘れてませんか?

「萌ちゃん、こっちの服のモデルもお願いできる?あ、カイト君はそちらのお客様をお願い。」

「「はい!」」

「ごめんね、翡翠ちゃん疲れたでしょう?残りの服のモデルは萌ちゃんにお願いするわ。あとは、昨日同様、お客様の案内をしてくれる?さっき教えたようにやれば大丈夫だから。」

「わかりました。ありがとうございます。」
やっと解放された…って、この服のまま!?

もう、いい。着替えるのも面倒だ。仕方ない。

「あの、俺はどうすれば…」
「あ、そうね、本当は恭一くんと萌ちゃんには仕事させるはずじゃなかったけど、急遽萌ちゃんに頼んじゃったから暇よね…。じゃあ、レジ打ちを頼むわ。」

恭一の扱い雑だな。

~interval-4(萌side)~

「あらー、萌ちゃん、元気にしてたー?」
「元気元気!萌とっても元気だよー。って、あれ、あそこにいるの、ひーちゃん?」

なんでいるの?
わたしと恭くんのことは、そんなに知られたくない。

でも、萌はそんなこと言わないよ。

「なにそれすっごく可愛い!ひーちゃんがスカートっていうかワンピース着てるの初めてみたぁ!」
「俺も小さい頃以来だな。いや、高校の文化祭のお姫様役だっけ?」
「は!?萌に恭一!?お前等なんでいるんだよ!ってか知り合いだったのかよ!」

そっか、恭くんは言わないでくれてたんだ。
でも、この状況はもう言わないといけないよね。

「うん、萌と恭くんは付き合ってるんだよ?そういえば、恭くんってひーちゃんの幼なじみだったの?」

従兄妹同士なのは知ってるよ。
だって、メイコさんとミクちゃんが届いたのが恭くんで、ひーちゃんはひーちゃんの従兄に二人が届いたって言ったもん。

「いや、翡翠は俺の従妹だ。むしろ、萌こそ翡翠と知り合いだったんだな。」
「うん、そうだよー?萌、ひーちゃんと大学のクラス一緒なの」

でも、ひーちゃんはわたしのことは何も知らないよ。

ひーちゃん、何も気づかないんだね。そりゃそうか、気づかせないようにしてるんだし、ひーちゃんは気づこうともしないし。

でももしかしたら、恭くんからひーちゃんに伝わるのかな?萌とひーちゃんが知り合いだって知ったら。
嫌だよ。萌は萌なの。萌のままでいるために、それは絶対に嫌。ひーちゃんは、何も知らない子じゃなきゃいけないの。

だけど萌はそんなこと、顔に出さないよ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「好きだよ、萌」
高校時代に付き合っていた人がいた。
その人は萌のこと、多分すごく好きだったんだと思う。
わたしも、その人のことが好きだった。
でも、その人に萌って言われる度、苦しかった。
わたしの中で声がするの。
「結だよ、結だよ。」
「萌じゃないよ、結だよ。」
その声もね、苦しそうなの。
「結なの、気づいて。」
「萌ちゃん、ごめんね。萌ちゃんの好きな人なのに、ごめんね。」

ずっと萌で生きてきたのに。わたしが「萌」だったのに。
萌なのに。わたしは「萌」なのに。
どうして今頃になって、わたしがわたしなの?
違うよ、萌は萌。そう、萌なの。萌なんだよ。

でも、騙してるみたいで、辛かった。
打ち明けることは、
「萌ちゃんはもういない」
そう自ら宣告するのと同じこと。それもすごく嫌だったけど、騙すのも、結を、わたしを殺すこともできなかった。

19 笑顔とモンブラン(カイトside)

「少し早いけど、今日はもうお疲れさま。みんな1日2日どうもありがとうね。」

「いえ、こちらこそ。」
「勉強になりました。ね、マスター。」
「萌すっごく楽しかった!」
「はいはい、萌がお世話になりました。」
「恭くん何それ!萌子供じゃないよ?」

マスターはすごく疲れたみたいだけど、でも、いつもより生き生きして見えた。今まで僕が見ていたのは、必要最低限のことと、考えなくてすむようにすること以外何にも興味がない、そんなマスターの姿だったから。

「みんな、気をつけて帰ってね。そうだ、翡翠ちゃんちょっと。」
「はい、何でしょう?」

萌さんと恭一さんは先に行こうとするが、すぐに立ち止まる。僕は、もちろんマスターを待つ。

「翡翠ちゃんはどこに住んでるの?今日試してもらった服の中で翡翠ちゃんが気に入りそうなもの、商品化できたら送りたいの。」
「いや、いいですよそんなそこまで!」
「遠慮しないで。協力してくれた方にはみんなしていることなのよ。手伝ってもらってばかりじゃ、ね。それとも、もしかしてどれも好みじゃなかった?」
「いや、最初に着ていた2つとか、萌が今日最初に試したものとか、私好きです!あの、住所こちらです。」
「そう、よかった。ありがとうね。」
「こちらこそ、ありがとうございます!」
「じゃあ、もしよかったらまた来てね。」
「はい、絶対また来ます!」

マスターがこっちへ走ってくる。
「あいつのあんなに良い表情、久しぶりに見た。」
恭一さんもそうだったのか。

「悪い、待たせた。」
「約束のパフェ食べに行きましょう、マスター。」
「あぁ、しょうがないな。」
「萌美味しいとこ知ってるよー?」
「迷うなよ。」
「迷わないもん!」

萌さんについて、近くのカフェへと向かった。
「マスター、車道側は危ないですから、こっちへ来て下さい。」
「だから私が車道側を歩いているんだ。カイトこそ歩道側にいろ。」
さっきまで普通にしていたマスターが、急にきつい剣幕になった。
マスター、急にどうしたんです?

「翡翠?」
さっきまで萌さんと話していた恭一さんも振り返った。
恭一さんが僕に何か、目で合図をした。
ー車道がどうとか、そういう話はもうするなー
ということだろうか。

「パフェ、何味にしようかなぁ。マスターは?」
「考えてない。」

「期間限定、とかあるかもしれないですよ?」
「あぁ、そうだな。」

会話が続かない。どうしよう。
マスターの小さな手をとってみる。

「はぁ!?何すんだ今すぐ放せ暑い!」

恭一さんも萌さんも振り返る。
「ひーちゃんって、こんなによく怒ってたっけ?」
むしろ、僕にはしょっちゅう怒ってますよ…

そうこうしているうちに、僕たちは個人で経営しているような、小さなお洒落なカフェにたどり着いた。インテリアの一つ一つが独特だ。

「いらっしゃい。お、萌ちゃん、今日はお友達と一緒かい?」
「うん、春爺、萌はいつものおねがい。」

春爺と呼ばれた優しそうな顔をした壮年の方は、この店のマスターと言ったところか。

「はいよ。そっちのお嬢ちゃんは?」
「あの、モンブラン、ありますか?」
「お、通だねぇ。ここのモンブランは隠れた逸品なんだよ。萌ちゃん食べたことまだないでしょ?」
「じゃあ、萌モンブランも食べる!」
「はいはい。あんちゃんたちは?決まった?」
「あ、じゃあ俺ブレンドコーヒーで。」
「僕イチゴパフェでお願いします。」
「はーい、わかったよ。」

春爺さんはキッチンへと去って行った。静かな音楽と澄んだ空気が心を落ち着かせる。って、僕機械だけど。

「翡翠って小さい頃からモンブランだよな。」
「好きなんだよ。恭一なんか今でこそコーヒー飲めるけど、中2の時なんか格好つけて飲もうとして、後で『苦っ』って言ってたの覚えてるよ。このリアル中二病って思った。」
「おいそれ言うなよ!」
「高校の文化祭のことバラされたからな。」
「それにしてもお姫様役なんてすごいねぇ。ひーちゃんそういうの絶対やらなさそうなのに。」
「あぁ、大学入ってからはこいつ、そうかもな。」

恭一さんは、僕の知らないマスターをたくさん知ってるんですね。少し、羨ましいです。

「お待たせしました。コーヒーと、萌ちゃん、いつものね。」

萌さんの前に現れるのは、生クリームとフルーツたっぷりの巨大プリンアラモード。
これって普通、デカ盛りチャレンジとか、その類ですよね…。

「あと、こちらイチゴパフェ。モンブランはもうちょっと待ってね。」
「マスター、申し訳ないですが先食べてますね。」
「あぁ、溶けるからな。萌なんか無言で食べ始めてるし。」
「ふぇ?にゃんかゆった?」
「飲み込んでから話せ。」

突っ込みは、僕に対しても萌さんに対しても同じなんだなぁ。

「はい、遅くなってごめんね、モンブランね。」
「わぁ…。」
マスターって、こんな表情もするんですね…。
子供のように目をきらきらさせて、目の前のモンブランに心躍らせるマスター。
そして、大事そうにちびちびと食べる。一口一口が、とても幸せそうだ。本当に好きなんですね。

「翡翠が小学校3年の時だっけ、あんまりちびちび食べて、てっぺんの栗を最後までとっておくもんだから、俺ちょっとした意地悪のつもりで、あと早く遊びてーとか思って、食べちゃったんだよね。」

「恭くんサイテー。」
「いや、子供の頃の話だって。」

僕は萌さんに同意します。あ…マスター…
あれは間違いなく、威嚇の目だ。モンブランの前に小さな手で壁を作り、必死の形相で恭一さんを睨む。

「いや、食べないから!大丈夫だから!」

目線をモンブランへと戻し、またちびちび食べ始める。
モンブランを食べるマスターって、ただでさえ小さいのに余計小動物みたいです。言ったら絶対怒られますから言いませんけど。

「カイト、翡翠ばっか見てるとパフェ溶けるぞ。」
「あっ!はい!」
いや、別に…恭一さんも、パフェ溶けるぞだけ言ってくれれば良かったのに。

溶けそうなアイスを口に運ぶ。なぜか強烈な視線を感じる。…マスター!?

「まさか栗を狙ってたんじゃないでしょうね…?」
「そんな!まさかそれはないです!僕はただ、モンブランを食べるマスターがかわ…」

しまった、どう答えようにもマスターに怒られる。
恭一さんが笑いを堪えている。なぜか春爺も笑っている。
「いいねぇ、若いもんは。」

一気に場を和ませる春爺。ありがとうございます。

「あの…、ひーちゃん。」
「ん?」

小さなフォークをくわえたままマスターは萌さんを見る。

「萌のモンブランも、半分あげる。」
「!」
ガタン!
パッと目を見開き、突如としてマスターが立ち上がる。

萌さんの手をとり、これ以上ないほどのテンションで迫る。

「え、ちょ、嘘、いいの!?もしかして萌って神様なの!?ほんと嬉しい!大好き!ありがとう!」

「え、あ、うん。萌、いつもの食べちゃったから、全部は入らないの。だから、ひーちゃん食べて?」

あの萌さんが圧倒されている。

「うん!やったぁ、嬉しいな…」
マスターの初めて見る表情がたくさん見られて僕も嬉しいです。

「カイト、ちょっといいか。萌、翡翠、悪いがちょっと席外す。すぐ戻る。」
「萌はともかく、ひーちゃんモンブランに夢中だから大丈夫だよー。萌、春爺とお話してるね。春爺、来て来て!」
「じゃあ、行ってきますねマスター」

顔だけこっちに向け、うなずくマスター。春爺は早くもテーブルにつき、萌さんと何か話しているようだ。

20 正反対(カイトside)

「翡翠のことだけど。」
「はい。」

良い予感はしない。

「あいつ、確かにクールなところはあったけど、昔からあんなに暗かったり、無気力だったわけじゃないんだよ。むしろ、音楽や文化祭の劇とか、いろんなことをやってる活発なやつだった。しょっちゅう、どこ行こうここ行こうって、家族といろんなところ行ってたし。ゲームもめちゃくちゃ強かったんだ。」

そうなんだろうな、という気はしたが、それでは今と正反対じゃないか。

「あいつ、歌もうまいんだよ。ギターも弾けるし。高校時代は弟と一緒に校内ユニット組んでたぐらいだったんだ。作詞作曲は2人で交代しながらって感じだった。」


ー歌は苦手なんだー

マスターのあれは、やっぱり嘘だった。

「頭もいいし、なんだかんだ優しいし。本人背とかいろいろ小さいのを気にしてるけどそれ以前にまず美人だし。家族と、特に弟と仲が良かったからな。」

「琥珀さん、ですか?」

「あぁ。翡翠は琥珀のこと、相当かわいがってたし、琥珀はお姉ちゃんっ子だったし。そうそう。さっきのモンブランの話で、俺が栗を食べちまった瞬間、琥珀がひどい顔してたんだよな。『こいつはなんて恐ろしいことを…』って言わんばかりの。多分過去にやらかして酷い目見たんだろう。あ、俺も散々だったよ。」

恭一さんが言いたいのは、多分、過去の楽しかった話自体ではない。多分、僕にとって、聞きたくない情報。
マスターの、闇。

「おーい、今の笑うところだぞ?もしかして、展開読めてる?」

いや、分かりやすすぎますって。笑い話だけなら、まぁマスターに多少怒られるかもしれませんけど、わざわざ席を外すこともないでしょう。

「それで、マスターのご家族は?」

きっと僕は、知らなければならない。
マスターを苦しめているものの正体を。

「お前、それ本当に聞きたいのか?」

それを話しに僕だけを呼んだのでしょう?

「亡くなられた、のですか?」
「翡翠が何か言ってたのか?」
「マスターを苦しめているのは、一体何なんですか?」
「お前、もしかして翡翠と何かあったのか?」
「ほぼ毎日マスターが悪夢にうなされてる原因はなんなんです!?」

「落ち着け!」

「…っ、すみません。」
「でも俺、少しだけ安心したんだよ。あんな生き生きしたあいつ、久々に見たから。お前といるとあいつ、少しはマシっぽいし。バイトもできてたしな。」

「あの、あれは違うんです。」
「え?」
「あのやり手店長のすすめで、服を見繕ってもらってたら、お金足りなくなっちゃって、それで」
「でも、ツケにするとか、商品を減らすとか、カイトだけ働くとかできたろ?」

「僕が、やり手店長の呼びかけには僕が答えました。…何か他のこと、無理矢理な状況でもやるようになったら…マスター、なにかやる気になってくれるかなって。そしたらやっぱり、少し興味持ってくれたのかな、今日店長に質問してたマスターを見て思いました。」

「そうか…」


「おーい、恭くん、カイトくーん、帰ろうよー。」
「私もモンブラン食べ終わったし。美味しかった!サービスで春爺、紅茶も淹れてくれたしね。飲んでないなんて、ほんとお前等損だな!」

肝心なことを聞かないうちに、二人が来てしまった。

「おい、お金はどうした?」
「萌払っといたよー。」
「悪い、いくらだった?」
「えーっと、恭くんのは250円。」
「いや、全体で。」
「え?」
「今日は俺がおごる。萌たちは働いてたしな。あぁ、もちろん翡翠とカイトの分も。」
「恭くんだって働いてたじゃん。」
「いいから。そうだ、このあとどうする?」
「えー、恭くんもう遅いから帰ろう?」
「そうか。俺、萌を送って帰るから、カイト、翡翠を頼む。」

「わかりました。」
言われなくても、ですよ。

「そうだカイト。頑張れよ!」
「何を、ですか?」
恭一さんはなぜかにやけている。

「あの、めーちゃんとミクは?」
「あぁ、元気にしてる。今日会ったって言っとくよ。」
「ありがとうございます。」

「ひーちゃん、カイトくんばいばーい。」
「じゃあ、気をつけろよ。」



萌さんと恭一さんと別れ、マスターと二人になった。
家に帰っても二人なのだが、ほんの少し非日常が名残惜しい。

「マスター、少しだけ散歩しませんか?」

~interval-5(萌side)~

恭くんと付き合い初めて半年近く経つ頃だった。萌の家に双子のボーカロイドが届く。

「鏡音リンです!」「レンです。」
「よろしくおねがいしまーすっ!」
「よろしく、おねがいします。」

「萌だよ。楠萌。よろしくね!」
仮面の笑顔で二人を迎える。

よりによってこいつらがわたしのところにくるなんて、どんな因縁なの?

この完璧な双子を見る度に、わたしが、萌ちゃんが、不完全だと言われているみたいで、腹立たしい。

二人で自然でいる姿が、わたしへの、萌ちゃんへの当てつけのように見えて仕方がない。

「マスター!3人で一緒にゲームしよ!」
「うん、萌今から行くよー!」

今日も仮面の笑顔で接する。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

萌ちゃんはいるよ。ここに。ずーっとわたしと一緒にいるの。

打ち明けることは、
「萌ちゃんはもういない」
そう自ら宣告するのと同じこと。

でも、あなたを騙し続けるのも、わたしを殺し続けるのも、もうできないの。萌ちゃん、本当にごめんね。

「あのね、大事な話があるの。」
「わたしね、本当は萌じゃないの。」
「双子の妹の、結なの。」
「わたし、今までずっと萌として生きてきたの。」

ふざけんな。
ずっと騙しやがって。
俺が好きなのは萌だったんだ。
裏切り者。
萌は、萌はどこ行ったんだよ。
最初から騙してたのか?
萌が、萌のことがずっと好きだったのに。

「ごめんなさい」

そう、騙してた、ことになるよね。
なのに、どうしてかわたしは、彼を憎いと思った。
端から見れば逆ギレだけれど、萌ちゃんが好きと言った彼を、許せなかった。
わたしを見てくれなかったからじゃない。

萌ちゃんのこと、誰より知ってるのはわたしなの。あなたは萌ちゃんの何を知ってるの?
萌ちゃんのいいところ、優しいところ、可愛いところ、ちょっとズレてるところ、何にも知らないくせに、一体萌ちゃんの何が好きなの?
萌ちゃんのこと、誰よりも誰よりも好きなのはわたし。

萌ちゃんは言ってくれた。
「萌は、結ちゃんのことだーいすきだよ。ずーっと一緒だよ。」
わたしも、萌ちゃんのことが、大好き。
だから、もう一度「萌」になる。
「萌」として生きる。

家族さえ、もうとっくに「結ちゃん」って呼ばなくなった。「萌ちゃん」って呼ぶようになった。

ずっと一緒。萌はここにいる。ね?

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「たっだいまー!」
「おかえりマスター!」
「おかえりー。」

「今日ね、二人のお兄さんの、カイトくんに会ったよ。」
「ほんと!?リンも会いたかった!」
「元気そうだった?」
「うん、ありゃ、マスターLoveだね。」
「おーっ、素敵なマスターさんなんだ!」
「ひーちゃんの方も、カイトくんLoveだね、2人とも気づいてないけど。」

21 潮風(カイトside)

「店長さんと春爺のとこなら、また行こうな。」
「はい。」

長い髪を潮風に揺らして、マスターは微笑んだ。
柵に手をかけ、遠く光る船を眺めている。

僕も、隣に並ぶ。
「夏なのに、静かですね。」

ふと、僕の方へ体を寄せ、軽くもたれ掛かる。
「カイト、疲れてない?」

疲れているのは、マスターの方じゃないですか?
「僕は大丈夫です。マスターこそ。」
「私は、春爺のモンブランで、元気でた。」

そう言いながらも、とても眠そうだ。
時々姿勢を立て直しながらも、かくんとバランスを崩す。

「少し、座りましょうか。」
「…うん」
マスターの手を引き、ベンチへと誘導する。
今度は手をとっても、怒られなかった。

すぐ隣に座っても、怒られなかった。

「月が、きれいですね。」
「ん…」
今にも寝てしまいそうだ。

「寝ても、いいですよ。」
僕が守りますから。

ゆっくりと、マスターは僕の膝に横たわる。
起きたら何て言うかな。

起こすか連れて帰るかくらいしろ!とか言われるかな。

それでもいい。今僕は、とても幸せだ。
誰よりも、あなたの側にいられるから。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

もうすぐ、夜が明けますね。
マスターがうなされないのは、疲れていて夢すら見ていないのでしょうか、それとも昨日が、マスターにとって楽しかったからでしょうか。
後者だと良いなと思っています。

鳥が鳴いていますね。
マスターはどんな風に歌うのでしょうか。
いつか聞けたらいいなと思っています。
いつか一緒に歌えたらいいなと思っています。

空が白くなってきましたね。
僕とマスターが出会ったのも、今くらいの時間でしたね。
マスターは、僕に出会えて良かったと思ってくれてるでしょうか。もしかしたら、まだそれはわからないかもしれませんね。少なくとも、僕はあなたに会えて幸せです。
マスターにそう思ってもらえる日が来ると良いなと思っています。

「ん…え…?私、寝てたの…?」
「おはようございます、マスター。」
「え、本当に寝てたの!?」
「はい、よく眠っていらっしゃいました。」
「それって…もしかして…」
「はい、一晩中膝枕でした。」
「嘘だぁあああああああああっ!!!!」

マスター、顔を真っ赤にして走り去ってしまいました。
よくもまぁ、寝起きであんなに叫んで走れるものです。
って、マスター!!

トテンっ

「大丈夫ですかマスター、怪我はないですか?」
突然走り出すからですよ、マスター。
「こ、こけたんじゃないぞ、地面にダイブしただけだからな!」
「いや、マスター、言ってること同じです。」
「違う!」
「あと今は早朝です。」
「あ…」
「帰りましょう、マスター。」
「うん。」

僕の方には目もくれず、すたすたと早歩きで帰路につくマスター。今日も可愛いです、マスター。

22 白い翼(翡翠side)

外が、明るい…?

春爺のカフェを出て、萌と恭一と別れて、少し散歩したいというカイトと一緒に海岸沿いを歩いていたはずだった。

柵が、横向き…?

確か私は、遠くの船を見ていたんじゃなかったか?

導き出される結論は一つ。

「私、寝てたの…?」
「おはようございます、マスター。」
「え、本当に寝てたの!?」

嫌な予感がする。

「はい、よく眠っていらっしゃいました。」
「それって…もしかして…」
「はい、一晩中膝枕でした。」

「嘘だぁあああああああああっ!!!!」

いやいやいやいや、おかしいおかしいおかしいおかしいって!なんでそんな膝枕なんてなんでよりによってカイトなんだよもう!!

なんだかもう、夢中で駆け出す他は無かった。
だってだってだって膝枕って…


目の前に、地面が急接近する。
え、つまり、転んでる!?

「大丈夫ですかマスター、怪我はないですか?」

カイトが心配して駆け寄る。

「こ、こけたんじゃないぞ、地面にダイブしただけだからな!」

我ながら意味不明の言い訳だ。

「いや、マスター、言ってること同じです。」

そして正論で返される。

「違う!」
「あと今は早朝です。」
「あ…」

さらに正論で返される。


「帰りましょう、マスター。」

そうか、まだ家にすら帰っていないのか。

「うん。」

まいったな。完全に、こいつのペースだ。
乗せられてばかりでは悔しいから、カイトの顔すら見ずに早歩きで差を広げる。

あぁ、ずっと同じ体勢だったからか、身体が痛い。
だが、よく考えてみると、こいつは眠ってすらいないんじゃないか。こいつのことだ。私を守るだとか、そんなこと考えて、寝なかったに違いない。
私、そんな守るべきものなんかじゃないよ。
抜け殻に、そんな気をかける必要なんかない。

それを伝えるまもなく、またこいつは私に気をかけてしまう。
「マスター、段差気をつけてくださいね。」
「私はまだ若い。」

いつのまに追いついた?足音たてず、気づかせず歩くなんて、猫か。
でも絶対に、先には行かせない。車道側は歩かせない。これ以上は…

「マスター、曲がりますよ、マスター?」
あぁ、いつもの、曲がり角だ。ここを曲がればすぐに家だというのに。
寝起きだから、ではないだろう。
最近、あまりにも私はぼーっとし過ぎている。
なぜ?
こいつがいる生活に、まだ慣れないのだろうか。

「ただいま。」
「ただいま、です。」
「いい加減、ただいまに『です』はいらないだろ。」
「ごめんなさい。」
「謝らんでいい。あと、カイト寝てないだろ。疲れたろうから、寝てたら?その格好じゃ眠れないだろうから、弟の寝間着貸すから。今度は、前みたいな意味じゃないから安心して。もし、弟の部屋が嫌なら私のベッドで寝ても構わない。」

驚いた顔をするカイト。寝ろと言ったのがそんなに不思議か?

「今寝間着とってくるから待ってろ。」
手渡すと、微笑んで受け取る。

「私は風呂に入っているから。」
「おやすみなさい、マスター。」
私の部屋へとはいる後ろ姿を見た。
私のベッドを使っていいと言ったからだろうか。
買い換えのタイミングの関係で、弟のベッドよりも私のベッドの方がいいベッドなんだよな。


お湯を沸かす間に、髪と身体を洗う。髪が長いから、それだけで時間がかかる。

ーお風呂が沸きました。ー
無機質な声。

脱衣室の棚からラベンダーの入浴剤を取り出し、溶かす。
体が小さくて良かったと思うのなんか、浴槽で肩まで浸かっても足を伸ばせることくらいだ。背が高いとこうはいかない。

あぁ、暇だ。
どうしようか。
何かしていないと、余計なことを考えてしまう。
下手に何かをすると、色々と思い出してしまう。

昨日は疲れて夢すら見なかったが、寝たところで嫌な夢を見るだけだ。

行き着く結論はいつも同じ。
別に生きてる必要はない。
生きたい理由はない。
やりたいことも、大切なものもない。
多分、死ぬ気力すらも無いのかもしれない。
昨日はよくあんなにも動けた、自分でもそう思う。
むしろ、日常生活を営んでいるだけで、十分不思議な気がしてきた。
何で私だけ生きてるんだろうね?

早々に湯から上がり、着替えてベランダに出る。洗濯物も乾くくらいだ。髪もすぐ乾くかもしれない。


ー今、私の 願いごとが 叶うならば 翼が、ほしいー

私の、声?

ーこの背中に 鳥のように 白い翼 つけてくださいー

気づくと、歌が口をついて外へと流れてゆく。

ーこの大空に 翼を広げ 飛んでゆきたいよー

どうして、今この曲が?

ー悲しみのない 自由な空へー

私の頭とは裏腹に、どうしてか歌っている。

ー翼はためかせ 行きたいー


ー今、富とか 名誉ならば いらないけど、翼がほしいー

「マスター?」
カイト!?
寝ていたはずじゃなかったのか?

「マスター、ですか?」
「何が?」
「今、歌っていたのは」

「…私じゃ、ないよ。」
「そう…ですか。」
どこか腑に落ちなさげに下を向くカイト。

「綺麗な、声…でしたね。」
「そう…か。」

蝉の声が沈黙を壊す。
夏の日差しを助長させるようだ。
私の下におりた黒い影を、より一層黒くしながら。

「恭一さんと萌さんから、連絡がありましたよ。」
それを先に言え、とも思ったが、それすらもどうでもよく感じる。
「あぁ、別にいい。こんなに早く起きて、眠くないのか?」
「僕は、機械ですから。」
「そう…」

「下に、行っててくれる?私はもうしばらくここにいる。」
「わかりました。」

どうして、突然ベランダに来たくなったのだろう。
別に髪を乾かすなんて目的は無かった。正直それならドライヤーで十分だ。
外が見たいなんて思ったわけでもない。むしろこんな炎天下の外なんか見たくもない。

どうして、突然歌いだしたのだろう。
別に好きな曲だったわけでもない。嫌いでもないが。
いままでずっと、何も口ずさんだことは無かったのに。


悲しみのない、自由な空…か。

ふと上を見る。どこまでいこうと手に届きそうもない、果て無き青空。

ふと下を見る。ここは2階だから、大して高さの差もない。小学校の頃の朝顔の鉢がまだとってあった。

もう一度上を見る。痛々しいほどの、光。


「あ、萌さん。はい、僕です。え、リンとレン?わかりました。もしもしー?」

何してんだあいつ!

「うん、僕だよ。2人とも元気だった?」
「何勝手に私の電話使ってんだよ!」
「あ、マスター!ごめん、リン、ちょっと萌さんに替わって。あ、はい、今マスター来たので替わりますね。萌さんです、マスター。」

「もしもし、替わった。悪い、うちのカイトが迷惑かけた。」
「ううん、萌が電話かけたんだよ。そしたらカイトくんが代わりに出てくれたの。」

「で、用件は何だ?」

23 勝手(翡翠side)

「で、用件は何だ?」
正直、カイトが出なかったら電話をとらないつもりだった。

「あのね、バーベキュー行かない?」
「行かない。」

「明日、恭くん家でやるの。萌も行くよ?」
「だから行かない。」

「めーちゃんもミクちゃんもいるし、リンちゃんもレンくんも行くから、カイトくんいなかったら可哀想じゃない?」
どこにも行く気はないって言ったろ。
昨日のは不可抗力だ。

「じゃあカイトだけ行かせる。私は行かない。」
「ひーちゃんはそれでいいの?」

「行かないってさっきから言ってるだろ?何回言えばわかるんだよ!」
「ごめ…」
「ちょっとマスター借ります。あの、萌さん。僕マスター連れて行きますから。それじゃ、リンとレンによろしくお願いします。」

ープツッー

「なんで勝手に決めるんだよ!」

答えない。いつものようなしゅんとした様子もない。
「何で勝手に決めたと聞いてるんだけど。」

「僕が、みんなに会いたかったからです。」
カイトだけ行かせるって、私言ったじゃないか。

「だったらカイトだけ行けばいいだろ?何で私まで一緒に行くことにするんだよ。」

「僕は恭一さんの家、知りません。」
直感的にわかった。本当の理由はそんなことじゃない。

「それなら私が地図を渡せばいい。」
「その手があると気づきませんでした。」

「本当に?」
「…マスターがいないと、つまらないじゃないですか。」
「それだけ…?」

「…それだけです。」
どうにも、つまらないとか楽しいとか、それだけのことのために決断したようには思えない、けど。

「あ、そう。じゃあ次からそれだけのために私を巻き込まないでくれる?迷惑だから。」

悲しげな表情するな。勝手に決めたのはお前だ。
無性に、いらいらする。携帯とハンドバッグだけ持って、何も言わずに外に出る。

「マスター!?待ってくださいマスター!」


家を出たところで、特に行くところはない。
ただ、家にはいたくない。というより、カイトといたくない。いや、カイトといるのが嫌なのではなく、誰といるのも嫌だ。一人になりたい。

最初から、一人だったはずだけど。

そうだ、恭一に頼んでおこう。
「もしもし、恭一?」
「お、翡翠。明日のバーベキュー…」
「私は行かないから、カイトを迎えに来てくれる?」
「え…」
「だから、私は行かない。カイトだけ行く。だから明日の朝カイトを迎えに来て。それだけ。」
「お前の分の肉も買っ…」
ープツッー

なぜどいつもこいつも私を参加させたがる。
私がいたって楽しくないだろうに。
それに、少しは私の参加したくない意思も尊重しろ。

カイトも、可哀想だ。
私なんかの元に送られてきて。
もっと優しいマスターが、歌を教えられるマスターが、もっとカイトを大切にできるマスターが、いるはずなのに。

そうだ、そうしよう。
「もしもし、何度もごめん、恭一。」
「おいお前勝手に切っておいて何だよ。」
「ごめん。カイトのことなんだけど…」
「迎えに行けってことだろ?わかったよ。」
「そうじゃなくて」
「なんだ、やっぱお前来るの?」
「いや、私は行かない。そうじゃなくて、カイトのこと、預かってくれる?」
「は?なに馬鹿なこと言ってんだよ、お前のボーカロイドだろ?あいつすごくお前に懐いてるし。」
「私なんかのところより、恭一のところにいた方が、きっとカイトにとっても良いはずだから。めーちゃんとミクちゃんもいるし。恭一、歌教えられるでしょ?」
「そういう問題じゃないだろ、それに歌はお前が…」
「だから、私はもう歌わないから。じゃあ、カイトを頼むね。」
ープツッー

預けるには、準備をしなくてはならない。仕方ない。家に戻ろう。

24 僕(カイトside)

Trrrr....Trrrr....
電話、ですか。

「桐生恭一」

後でマスターに伝えておこう。

Trrrr....Trrrr...

「楠萌」

さすがに後ではまずいか。



ー今、私の 願いごとが 叶うならば 翼が、ほしいー

誰?

ーこの背中に 鳥のように 白い翼 つけてくださいー

伸びやかで、透き通るような声。

ーこの大空に 翼を広げ 飛んでゆきたいよー

どこから聞こえる?

ー悲しみのない 自由な空へー

ベランダから?

ー翼はためかせ 行きたいー

そこにいるのは…

ー今、富とか 名誉ならば いらないけど、翼がほしいー

「マスター?」

驚いて振り返る彼女は、紛れもない、僕のマスターだ。

「マスター、ですか?」
「何が?」
「今、歌っていたのは」

マスターが僕から目をそらす。

「…私じゃ、ないよ。」
「そう…ですか。」

マスター、でしたよね?

「綺麗な、声…でしたね。」
「そう…か。」


夏の日差しがマスターの影を、真っ黒に映し出す。

「恭一さんと萌さんから、連絡がありましたよ。」
「あぁ、別にいい。こんなに早く起きて、眠くないのか?」
「僕は、機械ですから。」
「そう…」

マスターの目に、僕はいなかった。
映るのはただ、空虚。

「下に、行っててくれる?私はもうしばらくここにいる。」
「わかりました。」

しばらくマスターの部屋で呆然としていると、再び萌さんから電話がかかる。

マスターなら出ないかもしれない。

「もしもしひーちゃん?」
「あ、萌さん。はい、僕です。」
「あ、カイトくんなの?じゃあ、リンちゃんとレンくん呼ぶからちょっと待って?」

「え、リンとレン?わかりました。もしもしー?」
「もしもし、兄さん?ほんとに兄さん!?」
「うん、僕だよ。2人とも元気だった?」
「うん、元気してたよー!マスターにもいっぱい遊んでもらってるしね!」

「何勝手に私の電話使ってんだよ!」

「あ、マスター!ごめん、リン、ちょっと萌さんに替わって。あ、はい、今マスター来たので替わりますね。萌さんです、マスター。」
「えー、リンもっと話したかったー。レンなんて話してすらいないのにぃ」

「もしもし、替わった。悪い、うちのカイトが迷惑かけた。」
「ううん、萌が電話かけたんだよ。そしたらカイトくんが代わりに出てくれたの。」

「で、用件は何だ?」

明らかに、マスターは機嫌が悪そうだった。

「行かない。」

萌さんは、マスターをどこかに誘ってくれているらしい。
もしかしたら、さっきの恭一さんの電話もそうだったのか。

「だから行かない。」

「めーちゃんもミクちゃんもいるし、リンちゃんもレンくんも行くから、カイトくんいなかったら可哀想じゃない?」

萌さんの声が微かに聞こえた。めーちゃんとミクがいるということは、恭一さんの家だろうか。

「じゃあカイトだけ行かせる。私は行かない。」

「行かないってさっきから言ってるだろ?何回言えばわかるんだよ!」

嫌だ。

「ちょっとマスター借ります。あの、萌さん。僕マスター連れて行きますから。それじゃ、リンとレンによろしくお願いします。」

ープツッー

「なんで勝手に決めるんだよ!」
「何で勝手に決めたと聞いてるんだけど。」

もしかしたら、行ったらマスターは昨日みたいに楽しんでくれるかもしれない。
でも、それを言っても、行きたくない、興味ないの一点張りだろう。

「僕が、みんなに会いたかったからです。」
「だったらカイトだけ行けばいいだろ?何で私まで一緒に行くことにするんだよ。」

一緒にどこかに行ったら、もしかしたら少しずつ、恭一さんの言っていた活発な頃のマスターに戻るかもしれない。

「僕は恭一さんの家、知りません。」
本当の理由はそんなことじゃない。
何か別のもので埋めることで、マスターが辛いのが、少しは軽くなるのかもしれない。

「それなら私が地図を渡せばいい。」
「その手があると気づきませんでした。」

最初から、恭一さんの家を知らないからなんて理由ではない。

「本当に?」
「…マスターがいないと、つまらないじゃないですか。」
「それだけ…?」

僕はこう言えば、きっと自然なんだ。

「…それだけです。」

「あ、そう。じゃあ次からそれだけのために私を巻き込まないでくれる?迷惑だから。」

無意味かな。むしろ、逆効果かな。

携帯とハンドバッグだけを持ち、何も言わずに外に出るマスター。


「マスター!?待ってくださいマスター!」

こればかりは、完全に、僕のせいだ。

「ありがた迷惑」という言葉があるらしい。もしも僕が、マスターのためと思ったことが、マスターにとって迷惑なことだったら?

今のは、まさにそうだったのだろう。

でも、何もしない、興味ない、空虚に引きずられながらただ生きていく…マスターはそれでいいんですか?

いや、そもそも、だ。僕はただのボーカロイドだ。マスターの生き方に口なんか出せる立場じゃない。マスターは僕のマスターだけれど、マスターからすれば僕は単なる所有物だ。当然、所有物が口を出す領分ではない。

どこまでも、僕には力がない。
大切な人の代わりにすら、なれない。
ただ、迷惑をかけ続けるだけ。

マスター、帰ってこなかったらどうしよう。
僕のせいですね。
きっと、僕じゃなくて、めーちゃんやミク、リンやレンが来ていたら、また違っていたのかもしれない。

僕がマスターの側にいたいと願うのも、救いたいと、守りたいと思うのも、ただそれは僕の独りよがりでしかない。
マスターはそれを、望んでいない。


ガチャ

思いの外早く、マスターは帰ってきた。
「おかえりなさい、マスター。」
なぜか、僕の服を畳み、丁寧に袋へと詰める。
少し、琥珀さんの服も足し、丁寧に袋へと詰める。

「何してるんですか、マスター。」
マスターは無言で微笑む。

財布から何枚かの紙幣を取り出し、封筒に入れる。
封筒には、
「カイトはアイスが好きだから、これでいくつか買ってやってください。」
の文字。

あぁ、どこかに預けられるんですね。
「今まで、ごめんね。ひどい扱いだったでしょう?」

そんなこと、思ってませんから、そんな優しい笑顔、向けないでくださいよ。

「恭一なら、歌も教えてくれるし、私と違って優しいし、めーちゃんとミクちゃんもいるしね。ここで私と暮らすより、ずっと楽しいから。」

そっちのほうが僕が楽しいなんて、どうしてそんなこと、マスターは言えるんですか!?

「明日、恭一が迎えに来てくれるはずだから。」

僕には、僕のマスターは、あなたじゃなければ意味がないのに。

僕にとって大切なのは、あなたなのに。

でも、よくわかりました。

ーあなたに僕は、必要ないー

わがままは言いませんよ。この期に及んでマスター、いやあなたを困らせるつもりはありませんから。

「わかりました。」

そう、出すぎた真似をした、僕がいけないんです。
ごめんなさい、マスター。

25 めーちゃん(カイトside)

ーピンポーンー
「はい。あぁ、恭一さん。今行きます。」
「悪い。でも翡翠を断るわけにもいかなかった。」
「大丈夫ですよ。」
「翡翠は?」
「まだ寝ています。」

昨日はマスターが、晩ご飯を作ってくれた。
マスターのことだから、ちゃんとおいしいものを作ってくれたのだとは思うけれど、全然味がしなかった。

ソファーに寝そべったけれど、全く眠れなかった。

マスターも、夢を見ていなかったけれど、多分あれは寝ていないんだ。

まだ、ベッドの中にいる。

「いいのか?挨拶しなくて。俺、待ってるから。」

「そう、ですね。」

階段を上る。

「マスター、入りますよ。

あの、お世話になりました。迷惑もたくさんかけました。面倒見てくれて、ありがとうございました。

さようなら。」

階段を下りる。

「行きましょう、恭一さん。」
「あぁ、もういいのか?」
「はい、大丈夫です。」

二人で恭一さんの家へと向かう。
いいんだ、悪いのは僕だ。

恭一さんの家は、マスターの家から歩いて20分くらいのところにある。
「あいつの家ほど広くないけどさ。寝る場所くらいはあるから。」
「はい、ありがとうございます。」
「おかえり、マスター。酒買ってきた?って、カイト!?あんたなんでいんの。」
「え、お兄ちゃん!?わぁ、元気してた?」
「久しぶり、めーちゃん、ミク。元気だったよ。二人とも元気そうでよかった。」

めーちゃんとミクが出迎える。

「今日からカイトはうちで暮らすことになった。」
「本当?にぎやかになりますね、マスター!」
「カイト、あんたまさか…」

あぁ、そうだよ。

「メイコ、それ以上は言うな。」
「…わかったわよ。さ、人手も増えたとこだし、バーベキューの準備するわよ!」
「まだしてなかったの?めーちゃん。」
「夜中に雨が降ったら大変じゃないの。」
「そっか。」

キャンプ用の椅子やテーブルを庭に出す。マスターの家ほど広くないと言っていたが、庭があることを考えると、敷地面積はどっこいどっこいじゃないか?

「ネギ切っておきますねー!」

どんだけ食べるんだよ!
木の幹を抱えるように、両腕いっぱいのネギを抱えるミク。
ー次会うときはネギパーティーですよー

あのときのミクの言葉通りだ。

「お!やってるやってる。リン、こっちこっち。」
「おーい、恭くーん、萌も来たよー!」
「あぁ、早く来い!」

萌さんがリンとレンを連れてくる。
僕らが発送された時とはまた別の、対になった服を着ている。よくそんな服あったな。

久々に会うみんなに意識を集中させる。

「あれ、カイトくん、ひーちゃんは?」
「ごめんなさい、夏風邪、ひいたみたいなので。さすがに連れてこられませんでした。」
「そうー?後でお見舞い行こうかな、でも行ったらひーちゃん嫌がるかな。あ、そもそもひーちゃん家知らないんだった。って、ほんとに夏風邪?もしかしてひーちゃん、行かない行かないって駄々こねた?」

恭一さんの家に預けられた、とは、言えなかった。

「見てみて!萌ね、すっごいの作ってきたよ!」
「マスターそれアルミホイル?」
「わかったわ、それ、ホイル焼きね?」
「ピンポーン!めーちゃん大正解!この中ね、鮭とタマネギとパプリカとチーズが入ってて、焼くとすっごくおいしいんだから!」

女の子たちは特有の歓声を上げながら、準備を楽しんでるようだった。

「兄さん、なんかあった?」
「あぁ、レン。いや、何もないよ。大丈夫。」
「そう?ならいいけど。」
「リンのとこ、行っといでよ。」
「うん、そうする。」

さっきのめーちゃん、萌さんといい、レンといい、そんなに何かあったように見えているのだろうか。
僕は普通にしているはずなのだけど。

「なーに湿気た顔してんの、バカイト。ほら、飲みな。」
「めーちゃん僕がお酒ダメなの知ってるでしょ!」
「じゃあなんでラムレーズンアイスは食べられるのよ!」
「あれはアイスだから。」
「きつめのリキュール入りアイスも平気で食べてるじゃないの!」
「あれはアイスだから。」
「じゃあ、酒凍らせたら大丈夫ってこと?」
「いや、それはアイスとは違う。」
「凍ってるんだから、細かいこと言わない!」
「いや細かくないから!」

めーちゃん、相変わらずだなぁ。
もしかして恭一さん、ネギ代と酒代で出費大変なんじゃないか?

「それはともかく、よ。あんた、絶対なんかあったでしょ。」
「何もないよ。」
「何もないわけないわよ。まぁ、でも、言いたくないなら無理に言えとは言わないわ。だけど、あんた、本社時代から何かあると抱え込む癖があるから心配なだけ。さ、もう焼いてるみたいだし、とことん食べるわよ!」

めーちゃんのこの明るさには、本社時代から僕、救われてたんだよ。

「ほら、カイト。焼けたよこれ。」

めーちゃんが牛串を差し出す。
「ありがとう。」

味がしない。みんなの手前、笑顔で食べるけれど。

「お兄ちゃん、ネギ、塩とタレどっちがいい?」
「焼き鳥かよ!」
「あれ、お兄ちゃんネギマって知らない?」
「いやミクが持ってるのはネギマじゃなくてネギオンリーでしょ!?」
「バレたか…」
「いや何も隠れてないから!」

恭一さん、日々お疲れさまです…

最低限程度に食べる。リンやレンは、「食べなよ」と言えば喜んでもらってくれる。

「恭一さん。」
「どうした?」
「少し、休ませてもらってもいいですか?」
「あぁ、そうか。疲れたよな。家に入って右奥の部屋が俺の部屋だ。そこで休んでてくれ。」
「ありがとうございます。」

めーちゃんの不安げな目に、笑顔で返して僕は部屋に行く。

マスターの部屋とは全然違うにおいがする。
嫌いなわけではないが…。
マスター、今どうしてるんでしょうか?
僕が気にしたところで、何も意味を持たないけれど…。

独りで寂しくないですか?
寂しいのは、僕のほう、ですか。

26 似た者同士(カイトside)

「カイト。これ、飲みなさい。」
目を覚ますと、めーちゃんがいた。

「だからお酒は…」
「酒じゃないわよ。」
「え?」
「水よ。暑いんだから、食べられなくても水分はとりなさい。」
「あぁ、ありがとう。」

外からは、まだ楽しそうな声が聞こえる。
「めーちゃん、いいの?」
「何が?」
「バーベキュー、行かないでいいの?」
「もうさんざん食べたわよ。もうネギしか残ってないわ。」
あっ…察し。

「カイト、あんたもうちょっと正直になった方がいいと思うわよ。多分、正直になる以前に、あんた自身のことに気づいてないんだろうけど。」
「僕自身の、こと?」
「そう。萌ちゃん言ってたわ。あんたも、あんたのマスターも気づいてないだろうけどねって。」
「マスター?」
「私は細かいことはわからないわよ?でも、そんなような気がするだけ。じゃあ、私みんなのところへ戻るわね。」
「うん、ありがとう。」

僕も、マスターも気づいていないこと?
なぜ、萌さんはそれを知ってる?

「カイト、体調は大丈夫か?」
続けて恭一さんが来る。
「病人じゃないんですから。大丈夫です。今めーちゃんが水持ってきてくれました。」
「翡翠と、何かあった?」
「え、恭一さんは聞いてないんですか?」
「あいつ、ただお前を俺に預けるとだけ言って電話切りやがったからな…」
「僕のせいです。」
「え?」
「僕が、勝手なことばかりするから、マスターにとっては迷惑だったんです。」
「どういうことだ?」
「萌さんからマスターに、バーベキューのお誘いがあったとき、行かないと頑なに言うマスターに代わって、僕がマスターを連れていくって、そう言ってしまったんです。ブティックのバイトの時と同じです。

そうしたら、マスターすごく怒って、迷惑だからやめろと。
そもそも、僕自身、マスターにとっては不要なんです。
役にも立たないし、弟さんの代わりさえつとまらない。
だから、これでよかったんです。僕は、マスターの元にいない方が…」

「カイトは、それでいいのか?」
「マスターに迷惑をかけるくらいなら…」

「本当に?」
「本当…です…」

あのときと同じものが流れる。
マスターが僕を弟だと思ったときの、隔たれたドアの前で僕の目から流れたものと同じ滴が。

「僕だって、マスターの側に居たいですよ。いや、僕が側にいるって言ったんです。でも、マスターは僕が側にいない方がいいから…」

「似たもの、同士だな。」

「え?」

「『私なんかのところより、恭一のところにいた方が、きっとカイトにとっても良いはずだから。』
あいつ、そう言ってた。ひどい扱いばかりしてしまう。歌も教えられない。何もしたくない自分がいると、カイトはやりたいこともできない。俺に預ければ、メイコやミクとも一緒にいられる。歌も教えてもらえる。そう思ったのかもしれない。」

「そんなの、全然良くないですって。僕は…僕はマスターと居なくちゃ意味ないんですよ?歌を教えてもらえなかったとしても、それでも僕のマスターはマスターじゃなきゃ意味がないんです…マスターはそれを知ってるはず…」

「あいつに、そこまで考える余裕があると思うか?」

「え…」

扉の音がする。誰か、何か取りに来たのだろうか。

「もう、気づいてはいると思うが、あいつは交通事故で家族を一度になくした。
あいつが大学に合格した、そのお祝いで家族4人で旅行に出かけた帰り道だったらしい。

~~~~~~

「あれ、無い…」
「どうした?ねーちゃん。」
「あっ、さっきのコンビニ!」
「え?」
「ごめんみんな、私さっきのコンビニに携帯忘れたみたい。先行ってて?後から追いつくから。」
「わかった。行こうぜ父ちゃん、母ちゃん。」

「すいませーん、携帯落としましたよー!」
「はーい!それ私です、ありがとうございます!」

~~~~~~

信号が点滅する中、横断歩道を走って渡るあいつが見たのは、数m前の家族を…

~~~~~~

「お父さん?お母さん?琥珀?」

サイレンが飛び交う。立ち尽くす少女。

「どうして…嘘でしょ…ねぇ、ありえないよ、絶対違う人だ…え?起きて…いやぁあああああああっ!!!」

3つの朱い塊を前に、崩れ落ちる少女。

酒を飲み、暴走した運転をした2台の車。

「嘘だ、そんなはず無い。いなくなるなんてそんなこと、ないのに…」

それからだった。
少女の目が光を映さなくなったのは。
少女の心が闇へと閉ざされたのは。

~~~~~~

頭ではわかってるんだろうな。ただ、どうしても心が受け付けないんだと思う。
あいつが何一つやりたくない、そういうのはきっと、多くのことが家族の思い出に結びついていて、思い出したく、ないからだろう。」

「あの、マスターはよく、夢を見てたんです。」
「あぁ、この前、悪夢と言っていたな。」
「はい、ごめんなさい、私のせいでって、うなされて、謝っていて…それってもしかして…」

「もし、あのとき忘れ物をしなかったら、あのとき、先行っててと言わなければ、みんな、生きていたかもしれない。あいつ、多分自分のせいでみんな死んだと、ずっと思っているのかもしれない。」

「でも、それ、マスターのせいじゃ無いじゃないですか!」

「それを言ってやれる人が、家族をみんな亡くしたあいつには、いなかった。俺も、なんて声をかけていいか、わからないままずっときちゃったんだよ。」

「だから、俺は、翡翠のあのときの表情を見たとき、お前に期待した。こいつなら、翡翠を救えるかもしれないって。すぐにはうまくいかないかもしれないけど、きっといつか、前みたいによく笑うあいつになるって、そんな気がしたんだ。案の定、すぐにはうまくいかないみたいだったけど。」

「僕、そんな自信、無いです。僕なんかが、マスターを救えるなんて、そんな…だって、マスターにも迷惑かけちゃってるし…」

「どう思う?」

「え?」

「助けたいか、助けたくないか。」

「そりゃ、もちろん助けたいですよ、マスターが苦しんでると、僕だって辛いです。でも…」

「お前ならあいつを救える、むしろお前じゃなければ救えない。そう確信している理由がある。」
「え…?」

「カイトも、翡翠もどっちも気づいてないけどな。だから、頑張れよ。あいつ、照れ屋だしツンデレだし、じゃじゃ馬だから大変だと思うけどさ。俺は応援してる。」

「だからその、僕が気づいてないことって何なんです?めーちゃんも萌さんも、恭一さんまで…」

「それだけ分かりやすいってことだよ。」

「僕には全然わかりません!」
「こればっかりは、自分で気がつかなきゃ意味がないことだからな…」

「そう言われましても…」

扉の音がする。

「マスターおそいよー!」
「ごめんごめーん!」

萌さん?

~interval-6(萌side)~

恭くん、ちょっとトイレ借りるね。

何か、話してるの?恭くんと、カイトくん?


「もう、気づいてはいると思うが、あいつは交通事故で家族を一度になくした。
~~~~~~
頭ではわかってるんだろうな。ただ、どうしても心が受け付けないんだと思う。
あいつが何一つやりたくない、そういうのはきっと、多くのことが家族の思い出に結びついていて、思い出したく、ないからだろう。」

ひーちゃんが何にも興味ないのは、空っぽなのは、そういうことだったの?

「もし、あのとき忘れ物をしなかったら、あのとき、先行っててと言わなければ、みんな、生きていたかもしれない。あいつ、多分自分のせいでみんな死んだと、ずっと思っているのかもしれない。」

「でも、それ、マスターのせいじゃ無いじゃないですか!」

「それを言ってやれる人が、家族をみんな亡くしたあいつには、いなかった。俺も、なんて声をかけていいか、わからないままずっときちゃったんだよ。」

「だから、俺は、翡翠のあのときの表情を見たとき、お前に期待した。こいつなら、翡翠を救えるかもしれないって。すぐにはうまくいかないかもしれないけど、きっといつか、前みたいによく笑うあいつになるって、そんな気がしたんだ。案の定、すぐにはうまくいかないみたいだったけど。」

ごめんね、ひーちゃん。萌、ひーちゃんがいっぱいいっぱい抱えてるって知らなかった。

ひーちゃんがわたしと同じなんて、知らなかった。

ただ、何にも興味ないひーちゃんが、都合良かったから、一緒にいた。

「僕、そんな自信、無いです。僕なんかが、マスターを救えるなんて、そんな…だって、マスターにも迷惑かけちゃってるし…」

わたしが、頑張ったら、ひーちゃんも頑張ってくれるかな?

「どう思う?」
「え?」
「助けたいか、助けたくないか。」
「そりゃ、もちろん助けたいですよ、マスターが苦しんでると、僕だって辛いです。でも…」
「お前ならあいつを救える、むしろお前じゃなければ救えない。そう確信している理由がある。」
「え…?」
「カイトも、翡翠もどっちも気づいてないけどな。だから、頑張れよ。あいつ、照れ屋だしツンデレだし、じゃじゃ馬だから大変だと思うけどさ。俺は応援してる。」

わたしのところにリンちゃんとレンくんが来たのは、そういう意味だったのかな。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
あれから、何人かいた。
萌に「好きだよ」って言ってくれる人。

あれから、そういう人にはちゃんと本当のことを話そうと思っていた。

でも、誰一人受け入れてくれなかった。

わたしがふざけていると決めつける人。
はなから話を聞こうとしない人。
萌ちゃんに理想の姿を押しつける人。
気持ち悪がる人。
面白がる人。

まともな人なんかいやしない。

やっぱり、ただただ萌として生きていこう。そう思ってた。

でも、恭くんの前では違った。
さすがに、双子の姉として生き続けているとかまでは気づかなかったけど、わたしの影を早いうちに見抜いたのは、ひーちゃんが同じだったから?

ひーちゃんが、わたしと同じ影をもっていたから?

27 あの時と(カイトside)

「カイトくん、ちょっといい?」
「何でしょう、萌さん。」

「ひーちゃんの家、萌に教えて?」
「どうしたんですか?」
「これ、お裾分けしたいの。冷めちゃったけど、ね。」

肉と野菜(ほぼネギだが)、ホイル焼き等がバランスよくタッパーに入っている。

「あの、恭一さん…」
「萌は、カイトくんに頼んでるの。」
「行ってこい。」

恭一さんも、めーちゃんも、萌さんも同じ目をしている。

「わかりました。こっちです。」

「いってらっしゃい。」
手を振るめーちゃんに、手を振り返す。

朝来た道を、戻る。
「カイトくんはさ、ひーちゃんのこと、どう思ってるの?」
「大事なマスター、です。」
「ほんとに?」

「ほんとですよ!実は邪険に思ってたとかそういうことは一切無いです。」

「そういう意味じゃなくてさ?ひーちゃん美人だから、うかうかしてると誰かに取られちゃうよ?実は恭くんとか狙ってたりして…」

「え、だって、恭一さんは萌さんの彼氏じゃないですか!それに、恭一さんはマスターの従兄だし…」

「知ってる?この国、従兄妹同士は結婚できるんだよ?未来は誰にもわからないんだよ?」

「え!?」

「もー、カイトくんってば動揺してるーっ!これでわかった?」
「え、何が、ですか?」
「うっそぉ、まだわからないの!?」

「えっ、はい?」

「こりゃバカイトだな。まぁ、ひーちゃんもそういうところ、おバカさんだから似たもの同士、か。」

萌さんから見ても、似たもの同士なのか。

「あ、ここ、曲がります。」
ここを曲がれば、すぐにマスターの家だ。

ーピンポーンー
「はい」
「萌だよー」
「何で来た?」
「今日のお裾分けー!」
「あぁ、わざわざよかったのに。で、何で私の家を知ってる?」
「カイトくんが教えてくれたの。で、ドア開けてよ。」
「あぁ、悪い。」

僕に、マスターに会えというんですか?
どんな顔すればいいんだ。

ガチャ

「ひーちゃん夏風邪なんて嘘でしょ。」
「誰が言ったそんなこと。」
「カイトくんが、ひーちゃん夏風邪だったから連れてこられなかったって言ってたよ。って、何でカイトくんドアの後ろ隠れてんの?こっちおいでよ!」
「は?お前、なにやって…」
「だから、萌、可哀想な段ボール子猫ちゃん拾ったの。ひーちゃん、愛護団体に訴えられるよ?」

子猫?愛護団体?話が読めない。

「恭一のところにいたんじゃ…」
「あー、もう、ひーちゃんも大概バカだね。あーんな猛獣だらけの檻に子猫放りこんだら何されるかわかったもんじゃないでしょ?」

「カイト、あんた恭一に何かされたの!?大丈夫!?」
「え、何もないですよ!?」

「あーもう、わっかんないかなぁ、簡単に預けるだの離れるだの言わないのってこと!萌が言いたいのは。ったく、ひーちゃんもカイトくんも素直じゃないんだからぁ。」

「は?どういうことだよ萌。」
「自分で考えろこの馬鹿ひーちゃん!さてと、萌は恭くんとこ戻るからね!カイトくん、恭くんとこ戻ってきたら萌怒るからね!じゃあね!」

萌さんはマスターにタッパーを手渡し、去っていった。
「あんな萌、初めて見た。ほんとに、何もされなかった?」
なんでマスターはそんなこと聞くんだ?僕はいらないはずなのに。
「何もないですよ。じゃあ、僕も帰りますから。」
萌さんは怒るとか言っていたが、そうは言っても今は預けられているのだから、仕方がない。

「待って!」
「何ですか?」

「行かないで…」
マスター?
僕の服の裾を掴んだまま、離さない。

「独りは、もう嫌だ…」
マスターの足下に、ぽたぽたと滴が落ちる。

「家に入りましょう。」
マスターは、静かに頷いた。

マスターと僕は、ソファーに腰掛ける。
「カイト…」
「いいですよ。」
「え?」
「何も、言わなくていいですから。」

僕も、素直じゃなかったですね。

マスターの手に、僕の手を重ねる。
小さなその手は、僕の手をそっと握り返した。

「悪いのは、僕ですから。」
「そうやって、いつも自分が悪いっていう風にしないの」
「それは、あなたも同じでしょう?」

僕は、わかりましたよ。

「そんなこと…」
「自分なんかのところでは僕は幸せになれない。恭一さんの方が、マスターとしてふさわしい。そう勝手に思いこんで、僕を預けた。違いますか?」

僕自身の気持ちが。

「どうして…それを?恭一が言ってたの?」
「はい。」
「なんで言っちゃうかなぁ…」
「でも、良かったです。」

あのときマスターに言った言葉と同じです。

「どうして?」
「僕、マスターに迷惑かけてばかりだったから、マスターには僕のこと、必要ないのかな、要らないのかな、いない方がいいのかなって、思ってましたから。」

僕は、あなたの側にいたい。たとえ何があっても、あなたと一緒にいたい。

「馬鹿。そんなこと…ない。なかった。だって私、カイトがいなくて…」

でも、あのときと少しだけ違います。それは…

「寂しかった、ですか?」
「何で言うんだよ、馬鹿!」

僕が、マスターのこと、あなたのことが、大好きだからです。

「僕も、寂しかったですよ。すごく。」
マスターが僕の手を握る力が、ほんの少しだけ強まった気がした。

いつか、僕はこの気持ちを、あなたに伝えられるかな。

「もう、預けるなんて言われても離れませんからね。僕のマスターは、他でもない、あなたでなくては意味がないんです。」
「わかったよ。てか、もう言わないから。」

マスター、大好きです。この世の誰よりも、あなたのことが。

「カイトは、バーベキュー食べたの?」
「少しだけ、です。」
「じゃあ、萌が持ってきてくれたの、一緒に食べようか。」

「はい!」

だからマスター、少しは僕のこと、頼ってくださいね。

28 どうして(翡翠side)

「おかえりなさい、マスター。」
帰るとお帰りと言ってもらえることが、辛い。

恭一に預ける準備をする私を、不思議そうな目で見つめる。

「何してるんですか、マスター。」
私にはもう微笑むくらいしかできない。

財布から何枚かの紙幣を取り出し、封筒に入れる。
封筒には、
「カイトはアイスが好きだから、これでいくつか買ってやってください。」
の文字。せめても、程度のこと。

「今まで、ごめんね。ひどい扱いだったでしょう?」

カイトは、答えない。

「恭一なら、歌も教えてくれるし、私と違って優しいし、めーちゃんとミクちゃんもいるしね。ここで私と暮らすより、ずっと楽しいから。」

どこにも行きたくない。何もしたくない。もう、こんな私に合わせなくてもいいんだよ。

「明日、恭一が迎えに来てくれるはずだから。」

早い方が、いいでしょう?

「わかりました。」

「晩ご飯、作るから。」
せめて、おいしいもの食べていってね。

ついこの前黄金比を体得した、トマトクリームスパゲッティを作る。麺はリングイネがいいかな、フェットチーネかな。スパゲッティなら、そんなに時間かからないから。

「できたよ。」

無言で食べるカイト。いつもの笑顔がない。おいしくなかった、かな?かく言う私も、味を感じない。とうとう味覚までイカレたか。

互いに無言のまま、限りなく長く感じる時間を過ごす。

耐えられず、いつも沈黙を破るのは、私のほう。
「カイト、おやすみ。琥珀の部屋でも、ソファーでも、好きなところで寝て。」

ただ、いたたまれなくて、私は自分の部屋へと逃げた。
「おやすみなさい、マスター。」
眠れるはずはない。

空の色が変わる。
夜が明けるのは、あまりに長すぎた。

あれから、どれくらい経っただろうか。
時計を見る気力すら無い。

ーピンポーンー

恭一かな。

「はい。あぁ、恭一さん。今行きます。」
「悪い。でも翡翠を断るわけにもいかなかった。」
「大丈夫ですよ。」
「翡翠は?」
「まだ寝ています。」

二人の声が聞こえる。

「いいのか?挨拶しなくて。俺、待ってるから。」

「そう、ですね。」

階段を上る足音がする。ノック音がする。
私は、ベッドから出られなかった。
顔を見ることさえ、できなかった。

「マスター、入りますよ。」

本当は、私も何か言うべきなのだろう。

「あの、お世話になりました。迷惑もたくさんかけました。面倒見てくれて、ありがとうございました。

さようなら。」

案外、あっさりしていた。

階段を下りる足音がする。

「行きましょう、恭一さん。」
「あぁ、もういいのか?」
「はい、大丈夫です。」

そう、それでいいの。それが、彼のため。カイトが楽しく生きるため。そのためには、私は邪魔な枷でしかない。

顔を見たら、「行かないで」と叫んでしまうかもしれなかった。
私には、そんな権利もない。

さらに深く、ベッドの中に潜り込む。
眠れない。

家の中を掃除する。
心はきれいにならない。

とりあえず何かを食べようとする。
喉を通らない。

論文でも読んで、頭を埋めようとする。
頭が回らない。

今、どうしてるかな。同期のボーカロイドたちとは会えたかな。バーベキュー、楽しくやってるかな。私のことなど、気にしていないといいな。
頭から離れない。

もう、生きていたくない。

ー今、私の 願いごとが 叶うならば 翼が、ほしいー

あぁ、やっぱり私の声だ。

ーこの背中に 鳥のように 白い翼 つけてくださいー

いつだったか、恭一が言ってた。

ーこの大空に 翼を広げ 飛んでゆきたいよー

多分、たまたま知ったトリビアだと思って、私たちに伝えたんだろう。本当は、それは単なる一説にすぎないのだけれど。

ー悲しみのない 自由な空へー

「知ってるか?この歌、飛び降り自殺の歌らしいぜ。」

ー翼はためかせ 行きたいー

「えー、そうなの!?なんか、嫌。私もう歌わない!」

それから、昨日まで、この歌を歌ったことはなかった。あの時の私は幼くて、きっと恭一の言うそれを鵜呑みにしたのかもしれない。けれど、なぜそれが、口をついて出てきた?

生きたくない。
そう思ったからか?

馬鹿げてる。何よりも、私が馬鹿げている。

やっぱり、恭一に預けて正解だった。こんな私のところにいたら、カイトまで暗くなってしまったかもしれない。

多分、世間一般としては、乗り越えなくてはいけないんだろう。こうやって、抜け殻のように日々を貪るのは許されないことなのだろう。

でも、乗り越えてまで何をどうしたいの?
もう、何も見えないよ。わからないよ。
私の思考は1年半前へと戻る。
何度でも、何度でも。
あの日私が、みんなに先行っててと言わなければ、きっとみんな生きていたはずなのに。
私のせいで、みんな…どうして、私だけ生きてるの?

…カイトは今、どうしてるかな。
気になって仕方がないのは、弟によく似ているから?

カイトはいつの間に、私の中をこんなにも大きく占めていたのだろう。

何日も離れているわけじゃないのに、たった1日すら、離れていないのに、側にいないのがどうしてこんなに辛いんだろう。

どうして、あれからずっと私は一人だったのに、ごくわずかな期間あいつと過ごして、ほんの少しあいつがいないだけで、こんなに寂しいんだろう。

カイト、戻ってきてはくれないだろうか。
馬鹿らしい。預けたのは私なのに。

一人で居るにはこの家は広すぎる。
そして、静かすぎる。
ただ、息が詰まる。

カイト、きっと今頃楽しんでるんだろうな。
そう、私はそれを望んだはずなのに。それでいいはずなのに。

私は、それでいいの?

もう、わからない。

気づくと、陽が落ちそうになっていた。

29 裏腹(翡翠side)

ーピンポーンー
「はい」
「萌だよー」

恭一のところでバーベキューじゃなかったのか?

「何で来た?」
「今日のお裾分けー!」
「あぁ、わざわざよかったのに。で、何で私の家を知ってる?」
「カイトくんが教えてくれたの。で、ドア開けてよ。」

カイトが!?

「あぁ、悪い。」

ドアを開けるや否や、萌が詰め寄ってくる。
「ひーちゃん夏風邪なんて嘘でしょ。」

は?夏風邪?

「誰が言ったそんなこと。」
「カイトくんが、ひーちゃん夏風邪だったから連れてこられなかったって言ってたよ。って、何でカイトくんドアの後ろ隠れてんの?こっちおいでよ!」
「は?お前、なにやって…」

私はカイトに合わせる顔がないんだぞ?
それに、なんでカイトも戻ってくるんだよ…
お裾分けなら恭一が持ってくればいいじゃないか。

「だから、萌、可哀想な段ボール子猫ちゃん拾ったの。ひーちゃん、愛護団体に訴えられるよ?」

子猫は、カイトのことか?
で、愛護団体って何だよ。

「恭一のところにいたんじゃ…」
「あー、もう、ひーちゃんも大概バカだね。あーんな猛獣だらけの檻に子猫放りこんだら何されるかわかったもんじゃないでしょ?」

恭一ってまさか、私の知らない恐ろしい生き物なのか!?

「カイト、あんた恭一に何かされたの!?大丈夫!?」
「え、何もないですよ!?」
「あーもう、わっかんないかなぁ、簡単に預けるだの離れるだの言わないのってこと!萌が言いたいのは。ったく、ひーちゃんもカイトくんも素直じゃないんだからぁ。」

じゃあ、子猫だの愛護団体だのは関係ないのか?
素直じゃないって、どういうこと?
「は?どういうことだよ萌。」

「自分で考えろこの馬鹿ひーちゃん!さてと、萌は恭くんとこ戻るからね!カイトくん、恭くんとこ戻ってきたら萌怒るからね!じゃあね!」

馬鹿ひーちゃんって何だよ。
萌は私にタッパーを手渡し、去っていった。
「あんな萌、初めて見た。ほんとに、何もされなかった?」
「何もないですよ。じゃあ、僕も帰りますから。」

まるで他人だったかのように、ツンと返すカイト。
私の胸に針が突き刺さるような感じだ。胸無いけど。

「待って!」
「何ですか?」

「行かないで…」

あぁ、言ってしまった。
私は裾を掴んだまま、離すことができなかった。

「独りは、もう嫌だ…」

カイトは恭一のところにいるべきなのに。
私の足下に、涙がこぼれる。
どうして、泣くのはいつも私なの?
いつも悪いのは、私なのに。

「家に入りましょう。」
ただ、頷く他はなかった。

カイトと私は、ソファーに腰掛ける。
「カイト…」

謝らなくちゃ。

「いいですよ。」
「え?」
「何も、言わなくていいですから。」

カイトの手が、私の手に重なる。
とっさに私は、その手を握り返した。

「悪いのは、僕ですから。」
そうじゃないの。
「そうやって、いつも自分が悪いっていう風にしないの」

「それは、あなたも同じでしょう?」

…え?

「そんなこと…」
「自分なんかのところでは僕は幸せになれない。恭一さんの方が、マスターとしてふさわしい。そう勝手に思いこんで、僕を預けた。違いますか?」

どうして、知っているの?

「どうして…それを?恭一が言ってたの?」
「はい。」

あの野郎…

「なんで言っちゃうかなぁ…」
「でも、良かったです。」

「どうして?」
「僕、マスターに迷惑かけてばかりだったから、マスターには僕のこと、必要ないのかな、要らないのかな、いない方がいいのかなって、思ってましたから。」

いない方がいいわけ、ないじゃないの。
だって、独りは嫌…寂しかった…

「馬鹿。そんなこと…ない。なかった。だって私、カイトがいなくて…」

「寂しかった、ですか?」
「何で言うんだよ、馬鹿!」

どうしても、こんなきつい受け答えしかできない。

「僕も、寂しかったですよ。すごく。」
カイトの手を握る力を、ほんの少しだけ強める。

「もう、預けるなんて言われても離れませんからね。僕のマスターは、他でもない、あなたでなくては意味がないんです。」

それはつまり、また私のそばにいてくれるの?

「わかったよ。てか、もう言わないから。」

本当は、すごく嬉しい。けど、どうやって言えばいいのか、よくわからない。
だから、また私は、話題を変えてしまう。

「カイトは、バーベキュー食べたの?」
「少しだけ、です。」
「じゃあ、萌が持ってきてくれたの、一緒に食べようか。」

「はい!」
その笑顔が、再び私を照らしていた。

~interval-7(萌side)~

ひーちゃんとカイトくん、うまくやってるかな?

っていうか、うまくやってなかったら萌承知しないから!

…人に対して、こんなにも一生懸命になるのは、もしかしたら初めてかもしれない。

ふわふわしていて、ちょっとズレた子、萌として生きながら、萌ちゃんの存在を否定する要因になるものを排除するように、最初から選別するように生きてきたからかもしれない。

萌としてでもあり、わたしとしてでもあり、ひーちゃんの友達として、何とかしたいと思った。

あれから初めて、誰かを心の底から「友達」だと思った。二人で二人だったのが、一人で二人になったあの日以来。
ひーちゃんですら、今までは私に都合のいい人間だった。

ひーちゃんには、ちゃんと話そう。ひーちゃんが、ひーちゃんの中のものを乗り越える助けになれるよう、わたしも…

「ただいま、恭くん。」
「おかえり、萌。カイトは?」
「ひーちゃん家に入ったよ。わたし結構頑張ったから、たぶんうまくいくと思う。」
「結、の方か?」

恭くんが初めてだよ。萌ちゃんも、私も両方認めてくれたのは。

「たぶん、萌ちゃんじゃなくて、わたしの方。」
「そうか、ありがとう。結。」
「ねぇ、わたしがただふわふわズレてる訳じゃないって、いろいろ気づいたのは、ひーちゃんがああだったから?」
「聞いてたのか?」
「ごめん。聞いちゃった。」
気を悪くしたかな…。

「結が動いたのは、翡翠を知ったから、か?」
「ひーちゃんはね、」
「ん?」
「わたしにとって、都合のいい子でしかなかったの。」
「何だよそれ…」
「ひーちゃん、何にも興味ないから、萌が萌でいることを何も疑わないし、詮索しようとかしないから。萌ちゃんはもういないよって暗に言われなくてすむ。だから一緒にいたの。」

恭くんが怒るのも無理ないよ。だってわたしはそれだけのことをした。1年半、わたしのためにひーちゃんを利用したにも等しいから。

「でもね、恭くんがカイトくんと話してるの聞いちゃって、もしかしたらひーちゃん、わたしと同じなんだって、それにこの前、カイトくんはひーちゃんのこと、大好きなんだなって、ひーちゃんはカイトくんのこと、気づいてないけど大好きなんだなって思って。
わたし、何とかしたいって思って。初めて心から、誰かを友達だって思って…それで…。」

「いいよ。」
頭に、大きくて暖かい手が置かれる。
「ごめんなさい。」
「それは、いつか言えるようになったら本人に言ってやれ。俺じゃなくて。俺は、結が苦労してるのも、わかってるから。」

「あのね、恭くん。」
「どうした?」

「萌ちゃんは、もういないのかな?」
「え?」
「わたしが萌ちゃんであることをやめたら、萌ちゃんいなくなっちゃうかな…?」

わたしが泣きそうなとき、いつもそうやって抱きしめてくれる。でも、わたし、そればっかりじゃいけないと、最近そう思うの。

「それは…俺にはわからない。」
「そう…だよね。わたしがなんとかしなくちゃ…。ありがとね。恭くん。今日は、もう二人と帰るね。」
「送らなくて大丈夫か?」

そういうところ、本当に優しいよね。

「うん、平気。じゃあ、またね。リンちゃん、レンくん。帰るよ?」
「はーい、マスター!」
「ちょ、ちょっと待って靴ひもが!」
「レン大丈夫!?」
「慌てないで。待ってるから。」

まだ、わからないでいる。
わたしは、「萌」と「結」どちらで生きるべきなの?

30 可愛い!(カイトside)

昨日の晩は、楽しかったな。
今日も可愛い寝顔です。マスター。
変な夢見てないみたいで、良かったな。
マスター起きたらまた怒るかな、何でいるんだ!とか。
寝顔見てた、とか言ったら余計怒られそう。
でもマスター、僕に寝顔を見せたくなければ、簡単です。
僕より遅く寝て、僕より早く起きればいいんです。
機械の僕に勝てれば、ですけどね。

あれから、マスターと一緒にバーベキューのお裾分けを食べて、それからいろいろ話した。

バーベキュー、美味しかったな。
多分、マスターと一緒に笑顔で食べられたから。

「ごちそうさまでした。美味しかったですね、マスター!」
「あぁ、このホイル焼きは萌かな。」
「そうですよ。」
「恭一はこんな細かいことできない。」
「なんか恭一さん扱い雑ですね。」
「まぁ、そういうもんだ。」
「食後のアイス食べませんか?」
「あと1個しかないの忘れたのか?」
「あ…」
「誰のせいだと思ってる?」
「ごめんなさい。」

こういう、マスターとの他愛もない会話が、なんだかとても安心するんです。
「じゃあ、半分こしましょう?」
「結局お前食べるんだな?」
「じゃ、じゃあ僕、我慢します…マスター丸ごと一つどうぞ…。」
「いや、いいよ分けるよ!」
僕は冷凍庫へと走る。マスターと半分こしたくて、パピポだけはとっておいてたんですよ?
「はい、マスター♪」
「あ、ありがとう。」
受け取るマスターの桜色の頬が、薄ら紅くなったこと、見逃したりしませんからね。

かといって、最初の日のようにくっつきに行くのは、それはそれで僕が恥ずかしい…

そう思った矢先に、マスターが僕の肩に頭を寄せる。
「ちょ、マスターいきなり何するんですか!」
「なんとなく、だ。お前こそ、しょっちゅう抱きついてくるくせにそれこそ何だよ。」

しまった、僕が可愛いマスターを眺めてるはずだったのに。

アイスを食べ終わると、食卓を片づけ始めるマスター。
「アイスのゴミ、ちょうだい。」
「あ、ありがとうございます。」
「テーブル拭いといて。私皿洗うから。」
マスターの動作一つ一つを、つい目で追ってしまう。
あ、テーブル拭かなきゃ。

皿を洗い終えたマスターが戻ってくる。さぁ反撃だ。
僕のターン!なんちゃって。

「マスター、愛でていいですか!?」
「何をだよ!?観葉植物か?」
「マスター以外何がいるんですか!」
「は!?空気とかあるだろ!」
「僕が空気愛でてたら気持ち悪くないですか!?」
「それもそうか。」

おかしいな、僕はマスターに反撃を仕掛けるはずだったんですが…

「!?」
ぼっぺに何か刺さった!?って、マスターの指!?
「意外と柔らかいな」
ちょ、何このちっちゃい子に見上げられてる感!
やっぱりマスター可愛い…
というか、突然こんなイタズラ的な何かは…
わかりましたマスター、これご褒美ですね!?
「もうちょい何かしら反応しろよ。」

あれ、もしかしてマスター気に入らない?
今度は僕が、マスターの両頬を両手で挟む。
「ふぎゃ!にゃにするんだこのバカイト!」
「仕返しです。」
なるほど、こういうリアクションをしろと言うことですね。素敵なお手本ありがとうございます。僕の脳内永久保存版でよろしいですね、はいよろしいです。

僕の横をスタスタと通り過ぎるマスター。何か取りに行ったのでしょうか。マスター可愛いからつい目で追いたくなります。
あれ、何もとらないんですか?往復したり、くるくるしたりしてどうしたんだろう。
「後ろ向け!」
「こっちですか?」
「そう!」
なんでしょうか…?
「膝かっくん。」
「おわっ!?」
小さな肩を震わせ、大笑いするマスター。
もしかして、これだけのためにタイミング計ってたんですか?で、僕があんまり目で追うものだから、後ろを向け、と…?

可愛い!
…どうしよう、何この可愛い子どうしよう。
今までなら迷わず抱きしめてたのに、はっきりと僕がマスターのことが好きだと認識してしまってからは、なぜかそれができない。

マスターは、僕のことどう思っているのかな?

「くらえーっ!」
すかさずマスターがチョップを入れようとしてくる。
いや、届いてないですマスター。
マスターちっちゃいからちょっと厳しいですって!
それにしても、今日はあまりにも…
マスター、小学生化してますよね!?

「満足か?」
「え?」
「愛でたいって言うから、ちょっと幼くなってみたつもりだ。」
「え、ええええええっ!?」
マスターそれ全部わざとだったんですか!?
つつ、つまり最初っからマスターの手の中で僕は踊らされていたと!?
いや、かまいませんよマスター。マスターになら踏まれてもいいです、って、さすがにこれは変態ですよね。

「可愛いな、お前。」

何言ってるんですかマスター、可愛いのはどっちだかわかってます!?

「カイト。」
「はい!」
「ずっと、側にいてくれる?」
「も、もちろんですよ!」

僕のマスターは、あなただけです。

31 どこに行きたい?(翡翠side)

夏休みは大学もないから、ゆっくりと寝られる。

ぼんやりと開いた視界に、青がある。

「あぁ、カイト、ここにいたんだ。」
「マスター、おはようございます。」
「ん、おはよう。」
カイトのことだ。どうせ私の寝顔でも眺めてたんだろう。今更驚きも怒りもしない。そんな私を見て、少し驚いた風だった。怒られると思ったのか?誰があんたの予想通りにしてやるかよ。

昨日、思った。カイトと一緒にいる間は、思い出したくないことを思い出さないでいられるかもしれない。

そして、カイトと一緒にいるときは久々に心から笑えたんだと。

どこにも行きたくなかったのも、何もしたくなかったのも嘘ではない。でも、カイトと一緒なら、やってみてもいい気がする。

「ねぇ、カイト。」
「何ですか、マスター。」
「カイトは、どこに行きたい?」
「え!?」

ぎょっとして固まるカイト。今まで、ずっと行きたくないと言っていたんだ。驚くのは無理もない。
昨日ので、カイトだけじゃなく、恭一や萌にも心配させているから、私もいつまでもこのままではいけないかな、そう思った。

「だから、どこか行きたいところはある?」
「いいんですか!?えっと、じゃあ海も行きたいし、あ、お祭りもいいなぁ、花火大会とか、遊園地も動物園も水族館も、あと北海道!それから東京ドイツ村とカーバ神殿とサンスーシ宮殿!コンコルド広場も名前が格好良くて好きですよ。アンクル=トムの小屋とか、遊びに来てくださいって感じの名前じゃないですか?あとはあとは…廃墟とかどうですかマスター!軍艦島とか興味ありません?」

最初の方はまぁわかるとして、だ。
あと北海道!って、北海道のどこだよアバウトすぎだろ!

東京ドイツ村って、何でいきなりそんなピンポイントなんだよ。確かあれ、千葉県にあるんだよな。名前が東京ドイツ村で場所が千葉県とか、どこにあるんだか訳わからないよな。東京?ドイツ?千葉?はっきりしやがれ。

カーバ神殿とか、イスラームに改宗するつもりか?

サンスーシ宮殿とか、フリードリヒ2世のファンなのか?
それともベルリンの壁跡を見たいのか?

コンコルド広場はフランス革命中、革命広場と呼ばれ、ギロチン処刑場だった歴史を知ってて言ってるのか?

ちなみにアンクル=トムの小屋はアメリカのストウ作の黒人奴隷の悲惨さを訴える内容の本だ。遊びに来てね、では断じて無い。

あと軍艦島を軽々しく廃墟と言うな。

そもそも、人型ボーカロイドはパスポートをとれるのか?

「あ!日付変更線行ったりきたりして、昨日だー、今日だー、明日だー!とかもやってみたいです!時空飛び越えてるみたいで格好よくないですか?」

海だぞ、海。行くなら一人で行ってこい。
まず時空の前にお前は次元を超えただろうが。

「あの、でもさすがに行けるところには限度があるからな?」
「もちろん、ほとんどがダメもとと冗談で言いました。」
「なら良かった。本気でアンクル=トムの小屋行きたがってたらどうしようかと思った。」
「頭の中でツッコミを繰り出しまくってるマスターが見たかっただけです。」
「どんな趣味してんだよ!?」
「マスター眺めるのが趣味です。」
「このストーカー予備群!」
「だとしたら家に上げてるのまずくないですか?」
「いやまずストーカー予備群を否定しろよ!」
「で、どこ連れていってくれるんですか、マスター?」

あぁ、そうだった。だが今日はもう、起きた時点で10時を過ぎている。
「今日じゃなくても、この夏休みでゆっくり行く計画を立てないか?」
「わかりました。じゃあ、今日は家でゆっくりしますか?」

「モンブラン…」
この前食べたモンブランが、衝撃が走るほど美味しかったのだ。

「春爺のカフェですね?」
「うん!」

ここならまた行こう、そう約束してたしね。
「じゃあ、僕着替えてきますね。」
「あぁ。」

せっかくのカイトと二人でのお出かけだ。
何着ていこうかな?
一緒に買い物に行ったときは、そんなこと微塵も考えなかったのに。大学から帰って、そのままだったからか?

それとも…?

普段のと違う方がいいのかな?
こっちの方が可愛く見えるかな?
タンスの奥底から、昔お母さんが買ってくれたけどずっと着なかった花柄のスカートを取り出した。
少し、お母さんのことを思いだした。あのときは好みじゃないからって、ほとんど着なかったけど、あんなことになるなら、もっと着ていれば良かった…。

「マスター?」
「ごめん、もうちょっと待って!」
上は万能な白ブラウスを合わせる。透けないよね?胸無いけど。

「ごめん、お待たせ。」
「マスター、そのスカート…」
「似合わない、かな?」
「いや、すごく可愛いです、僕それ好きです!」
「ほんと?」
「はい!」
良かった…って、これじゃデートに行くみたいじゃないか!
カイトはというと、この前の店長さんの店で買った、というか頂いた服を着ている。服もさながらだが、カイトもカイトだ。正直、格好いい。
「マスター、行きますよ?」
「あ、うん!」
「帰りにアイス買いましょうね。」
「はいはいわかったわかった。」


街行く人の視線を感じる。今日はカイト、普通の服着ているはずだが。頭が青いからか?でも、この暑い中、帽子を被せるのも可哀想だ。サングラスをかけさせたら余計おかしな人だからな…。

「マスター、どうしました?」
「日傘、入れ。」

私も眩しいからな。しかしこの野郎、背高いな。
出来うる限り手を高く挙げ、カイトも日傘に入れるようにする。
「あの、僕持ちますよ?」
「いい。」

ここで持たせたら、私は背が小さいです、と宣言しているようなものだ。まぁ、事実は何一つ変わらないが。

「いや持ちますって。」
「だからいいって。」

いい加減腕が疲れてくるが、ここは私のプライドが許さない。しかし、だ。日傘をさしているのにどうしてさっきより視線が増えているんだ?

「マスターやっぱり僕持ちますよ。これじゃ絵的におかしいです!」

カイトが日傘を持たせると、少し視線が減ったような気がする。そういうものなんだろうか。

春爺のカフェってこんなに遠かったっけ?

「マスター、暑くないですか?」
「この炎天下で暑くないというやつがいるのか?」
「いや、ちゃんと傘に入ってますか?」
「あぁ、大丈夫だ。ありがとう。」

せっかく気遣ってもらえたんだから、もうすこしかわいげのある受け答えもあっただろうけど、どうにもうまくいかない。


「あ…」
通りにあるペットショップにどうしても目がいく。
可愛い…。
昔から、猫が大好きなのだ。
まだ子猫なんだな。ボールを転がしながら遊んでいる。
あっ、ひっくり返った!それでも、楽しそうだ。

「マスター?」

かと思ったら、パッと立ち上がって水を飲む。暑いからな。

「マスター、行きますよ。」
「えっ、あっ、うん!ごめん!」

これじゃ、諭される子供みたいじゃないか?
ついこの前まで、私諭す役だったはずなのに。

「そろそろ着きますよ。」
「あぁ、そうだな。」

「ごめんくださーい」
ドアに下がったベルがチリンと鳴った。

32 何より幸せにできるのは(カイトside)

「いらっしゃい、今日は二人かい?」
「はい、あの、モンブランと紅茶、お願いします。」
「はいよ。あんちゃんは、イチゴパフェかな?」
「良く覚えてますね、でも今日はチョコパフェです。」
「はいよ。じゃあ、好きなところ座って、ちょっと待ってててね。」
「はい。」

僕たちは店の奥のテーブル席に座る。
春爺のいるカウンターが割と近くにある。
マスターの顔が、すでにほころんでいる。
いつもはクールなのに、周囲に花が咲いてるみたいだ。
この前食べたモンブランがよほど美味しかったのだろう。

僕もここのパフェは好きだ。アイスも市販のものでなく、手作りしているらしい。

マスターと暮らすようになってしばらくが経つが、思えばこうやって二人でまったり休日を過ごすことはほとんど無かった。
一緒にいても、なんだかんだ慌ただしかったり、どちらかが寝ていたり、マスターが悲しそうだったりしていたから。

ーどこに行きたい?ー

どこにも行きたくない、何もしたくない、そう言ってましたけど、少しは、良くなったんですね。
僕と一緒に、また出掛けてくれるんですね。
今の瞬間も楽しみつつ、楽しみにしていますね。
でも、無理はしないでくださいね。

「一応聞くけどさ、カイトは何か夏休みの予定はあるの?」

「え、何でですか?あるわけないじゃないですか。」
「いや、もしかしたら姉妹や弟に会う約束があるかもしれないと思って。」
「僕はマスターに黙って予定入れたりはしませんよ、あれで懲りました。」
「あのときは…ごめんね?」

ああっ、謝らせるとか、そういうつもりじゃなかったんですよ!

「いや、そういうことじゃないです。マスターがくれた予定が、僕の予定だから気にしないでください。都合聞いてくれてありがとうございます。」

マスターが僕のことを気遣ってくれてることは、僕わかりますよ。

「お待たせ。デートの相談かな?」
「ち、違います!そんなんじゃないです!全然!ね、カイト!?」

慌てて否定するマスターが可愛い。
僕はデートでもいいですよ?
むしろ勝手にデートだと思ってます。

「そうかい?せっかくの美男美女なのに。」
「春爺何言ってるんですか!」
「いやぁ、いいねぇ若くて。はいこれ、チョコパフェと紅茶とモンブランね。ひーちゃん栗サービスしといたからね。」
「わぁ…ありがとうございます!って、なんでひーちゃんって!?」

次々に表情が変わるマスター。見てて飽きないです。
まぁ、ずっと真顔でも見ていられますけど。
今度にらめっこでもしてみますか?
僕多分勝てますけど。

「萌ちゃんがそう呼んでたからね。じゃあ、ゆっくりしてってよ。」
「はい!」

小さなフォークを手に、大切なモンブランをどこから切り崩そうかと悩み眺めるマスター。

いいこと、思いついた。
僕はパフェのアイスをスプーンにとる。
「マスター、一口食べますか?」
「え、いいの?」

モンブランへ向けていた目をこちらへと向ける。
そして僕は、スプーンの先をマスターへと向ける。
「どうぞ、マスター。」
「ありが…やっぱいい!いいからカイト食べなよ!」
状況がわかったのか、慌ててモンブランに手をつける。

こう思ったのは何回目だろうか。
マスター、可愛いなぁ。
もし、マスターが食べてくれたらそれはそれで間接…
いや、そこまでくるとむしろ僕が恥ずかしいからこれで良かったんだ。

僕が来た日、マスターが買ってきてくれたアイスを二人で食べた時のことが頭に浮かぶ。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

「はぁ!?アイスに集中しろ!」
そう言うマスターだか、マスターのスプーンに乗ったチョコミントが今にも溶けそうだ。
僕も食べたかったしね。

「マスターこそ、アイス溶けますよ?」
ぱくっ

うん、チョコミントも美味しい。

あれ?マスター、どうしたんだろうか。
なぜか動揺しているようだった。

もしかして、僕がチョコミント食べたから怒ってる?
いや、怒ってるわけではなさそうだ。

「マスター、大丈夫ですか?」
「え、は?何が?」

マスターの顔を見ると、赤くなってる。アイス食べてるのにどうして?
熱でもあるのかな、今日疲れただろうし。

「熱でもあるんですか?顔、赤いですよ?」
「そそそそ、そんなこと、ないっ!大丈夫だからっ!
てかアイス食べるの早っ!」

ーーーーーーーーーーーーーーー

…つまり、この時点ですでに僕は……
なんで今になってふと頭に蘇るんだ!?
ってか、何やってたんだよ僕!

「モンブラン美味しい♪」
そんな僕を意に介さず、ひたすら目の前のモンブランに一生懸命なマスター。
美味しそうに食べているマスターを見てると、なんだか僕まで嬉しいです。

僕がパフェを食べ終えるころ、マスターのモンブランは、まだ3分の1も残っていた。こんなに大事に食べられたら、このモンブランも幸せだろう。というか、マスターに食べてもらえるって時点で相当幸せだ。
僕もマスターになら食べられても…自重しよう。
僕がマスターを食べても…自重しよう自重しよう!!

それにしても、モンブランを食べてるときのマスターって無防備だな…。街では色々視線を感じるらしく、ちょっと気にしがちなのに、モンブランを食べてるときは僕がこんなに眺めてても気づいてすらいない。何か変な奴がマスターに近づいても気づかないんじゃないか?春爺のカフェでそれはないだろうけれど。

モンブランを食べつつ、ちょびちょびと紅茶を飲む。
もう熱くないですよ?マスター。
もしかしたらモンブランと一緒で、大切に飲んでるのかもしれませんけど、猫舌だったら可愛いなぁ…。

ふとカウンターの春爺と目が合う。
「頑張れよ、少年」
口パクでいつかの恭一さんと同じことを言うのがわかった。今なら、何に対して言ってるのかがわかる。頑張りますよ。確かにマスターは、難攻不落かもしれませんけど。
にしても、僕の見た目は少年と言うより青年だと思うんですが、春爺からしたら僕も少年なんでしょうか。

ふとマスターに視点を戻すと、最後の栗を食べるところらしい。この世の誰よりもマスターを幸せに出来るのは、もしかしたらモンブランなんじゃないか?
僕はそれがちょっと悔しい。
モンブランの作り方、勉強しようかな。もちろん、マスターには内緒で。

「ごちそうさまでした♪」
この上なく満足そうなマスター。

「ごめんね、お待たせ。だからって急ぐ気は無かったけど。それじゃ、予定立てようか。」

紅茶を飲みつつ、手帳を開くマスター。
「春爺、僕も紅茶ください!あ、アイスティーで。」
「はいよ。」

マスター、紅茶も美味しいって言ってたな。

33 予定は未定(翡翠side)

カイトの分のアイスティーが届いた。

「マスターは、予定無いんですか?あっ、この紅茶おいしい。」
「あぁ、サークルもない、授業もない。成績でとれる奨学金とその他で何とかやってるから、バイトもしてない。高校時代のバイトの貯金もあるしね。ね、おいしいでしょ」
「もしかして、僕が来るまではそんなにお金使わなかった…ですか?」

そんなこと気にするのか、こいつは。

「生活必要最低限のほかに使うあてがなかったからな。」

例のごとく、何もする気がなかったからだ。
だから、今年多少旅行やらなんやらに使う分には大丈夫だろう。
行った大学が大学だけに、やろうと思えば家庭教師やら参考書編集やらいいバイトは色々ある。3年でのインターンも視野にはいるしな。確か、恭一も早くからヤ○ハのインターンだった気がする。

「それに関しては気にするな。でもさすがに、カイトはパスポートとれるか怪しいから、海外は無理だぞ?」

ボーカロイドは戸籍が無いからな。あれ、もしかして身分証も作れないんじゃないか?

今はそれを、置いとくしかないだろう。

「あぁ、限度があるってそういうことですね。確かに僕戸籍ないし。でも国内でも、無理して遠くに連れていこうとかしなくて大丈夫ですから。マスターが行きたい範囲で決めてください。」

時々こいつは、親切なんだか意地悪なんだかよくわからなくなる。まぁ、基本的には親切で、意地悪なときはちょっと反応を見てやろう、くらいのものだろうが。

「現実的なのは、海、お祭り、花火大会、遊園地、動物園、水族館、北海道、といったところか。」
「北海道入ってるんですね!?」

今朝はツッコミどころを分かって言ったんだな?

「そうだな、新幹線も通ったし。まぁ、細かい行き先は後から決めるけどな?前に一度行ったことがあるんだ。」

「じゃあ、マスターバスガイドさんですね♪」
「バスかよ!超少人数修学旅行かよ!」
「じゃあ夜中に旅館のマスターの部屋に侵入して…」
「先生に怒られるからな!?」
「マスター先生だったんですか!」
「いや流れ的にそうだろ!」
「ちっちゃ可愛いから生徒だと思ってました。」
「小さいは私への禁句だ!」
「知ってて言いました。」
「帰りアイス買わないから!」
「ごめんなさいマスター!」
「単純だなこの野郎。」
「マスターも案外単じゅ…」
「なんか言ったか?」
「なんでもないです。」

ただ他愛もないことをこうやって話すことが、ただ楽しい。今になってようやく、その当たり前の感覚を思い出した。もちろん、今ではカイトはカイトだと分かっている。琥珀の代わりとしてみているわけではない。けれどこうしてカイトと話すのは、かつて琥珀と話していたときのようだ。

「じゃあ、旅行、行こうか。青春18切符、まだ買えるかな。」
「旅行!?」
「だって、北海道に行くのに、日帰りはきついだろう?1週間くらい旅行に出て、しばらくちょっと休んで、それから夏休み後半にある夏祭りと花火大会、それからとしまえんにも行こう。」
「なんか、遊園地だけピンポイントですね?」
「閉園になるかもしれないんだよ。小さい頃からよく行ってたから、思い入れがあって。」

本当は、家族のことも思い出すから、北海道もとしまえんも、進んで行こうとは思わなかった。でも、どうしてだろうね。カイトがいてくれたら、思い出しても辛くない気がするんだ。

「そうなんですね。」
「この季節なら、としまえん、プールもやってるしね。ウォータースライダーとか、結構楽しいよ。」

「プール、ですか!?」
なぜそこで紅茶を吹き出しそうになる!?
「水は大丈夫なんだよな?」
「いや、そういう問題じゃなく…」
「あぁ、塩素がダメか。」
「いやそうでなく!」
「じゃあ何だよ。」
「なんでもないです。」
「そりゃないだろ。」
「言ったらマスター怒るから絶対言いません!」

何を考えてたんだこいつは。
「じゃあ、宿とかの予約やチケットの入手は家に帰ってから私がやるから。」
「わかりました!」

いつも思うけど、この笑顔は意図してやっているのか?
意図してたとしたら相当な策士だし、意図していないとしてもそれはそれで厄介だ。

「嬉しいなぁ」
「え?」
「だって、マスターが一緒に旅行に行ってくれるんですよ?」
「普段だって家で一緒にいるじゃないか。」
「それでも、嬉しいんです。マスターは、嬉しくないですか?」
「えっと…そりゃ私も楽しみ…だよ?」
どうしてたったこれだけのことを言うのもたどたどしくなってしまうのだろうか。
ツッコミやきつい言葉なら、どこまでも流暢に言えるのに。
「僕も同じです。誰かに自慢したいですけど、でも僕の中でもとっておきたいなって、そんな感じです。」
「まだ行ってないじゃないか。」
「マスター子供の頃ありませんでした?友達に『今度どこどこに連れてってもらうんだ!』って自慢したこと。」
「あぁ…そんなこともあった…な」
「あっ…あの…ごめんなさいマスター…」
え?
今のはどうしてカイトが謝ったのかわからなかった。小さいとかの禁句を発したわけでもないのに?
「何が?」
「いや、いいですマスター。気づいてなかったらそれで…」
「そう?」
変な奴だ。

Trrrr....Trrrr....
「ごめんカイト、ちょっと失礼する。」


「もしもし」
「萌だよー」

最近多くないか?

「どうした。カイトなら一緒にいるぞ。」
「うん、ひーちゃん今家?」
「いや、春爺のカフェにカイトといる。」
「そっか、まだいたんだ。」
「は?」

まだいたんだってことは、私たちがここにいることを知っているのか?

「ううん、なんでもない。そっか、暇じゃないならいいんだ。ごめん。」

普段の萌と様子が違うような気がする。

「萌、どうした?私今から帰るぞ?」
「いいよいいよ、今日じゃなくてもいいの。」
「そうか?」
「うん、だから、また空いてるときに連絡ちょうだい?わたし、ひーちゃんに話したいことがあるの。」
「あぁ、わかった。また連絡する。」
「うん、じゃあね。」
「あぁ。」

今、「萌」じゃなくて「わたし」って言わなかったか?

「ごめんね、カイト。紅茶はもう飲んだ?」
「はい、飲みました。帰りますか?」
「あぁ。春爺、お会計は?」
「はいよ。1360円ね。」
「はい、ちょうどあると思います。」
「はい、ちょうどね。ありがとね。またきてねー。」
「はーい」

春爺に手を振り、店を出る。
「急ぎだったらアイスはまた今度でいいですよ?」
「いいのか?」
「はい、今日はパフェも食べましたし。」
「そうか。」
今さっきの萌の電話が気になって、いつの間にか早歩きになる。
「なんかあったんですか?マスター。さっきの電話ですか?」
「あぁ。」

それ以上は、聞いてこなかった。

行きよりも、帰りのほうが近く感じた。
「ただいま。」
「ただいまです。…あっ」
「いいよもう、ただいまですでも何でも。」
カイトが少し笑う。

「私の部屋にあがっててくれる?」
「わかりました。」

リビングで萌に折り返し電話をかける。
「ひーちゃん?」
「あぁ。」
「今大丈夫なの?」
「もう家にいる。」
「そっか。あのさ、」
「何?」
「今からひーちゃん家行っていい?」
「何も出せるもの無いぞ?」
「うん、そういうのは大丈夫。」
「わかった。カイトは?いたままでいいのか?」
「…うーん、でもまぁ、いても大丈夫かな。」
「わかった。じゃあ待ってるから。」
「うん、今から行くね。」

ところで、シリアス萌って新ジャンルじゃないだろうか。急に、どうしたんだろうか。私とカイトにあれだけ言っておいて、恭一と喧嘩でもしたんだろうか。

~interval-8(萌side)~

今日も本当は、春爺のカフェに行こうと思った。
いつもの食べつつ、少し春爺とも話しつつ、あの空間で一人で考えると、少し頭が整理されるんだ。

でも、ひーちゃんとカイトくんが二人でカフェに入るのを見た。

カイトくん髪の毛青いし、身長差ですぐわかった。よかった、仲良くやってるんだ。

萌行ったら邪魔しちゃうね。静かに入っても、きっと春爺が「萌ちゃんいらっしゃい」って言ったら気づいちゃうし、そしたら二人ともわたしに声かけちゃうから。

昨日の今日だ。二人でゆっくりしていてよ。

ひーちゃん今日もモンブランかな。
この前半分しか食べられなかったけど、あれは確かに美味しかった。春爺が隠れた逸品だよ、というだけのことはある。というか、まず春爺のカフェはどれも逸品だよ。

帰ろう。家にいたら家にいたで、リンちゃんとレンくんに聞きたいことがある。

「ただいま」

「あれ?マスターカフェ行ったんじゃなかったの?」
「今日ね、急遽お休みだったの。」
「じゃあ、残念だったね。」
「まぁ、それならそれで、3人でお家にいるのもいいよね。」
「あ、でもマスターごめん、リン、めい姉とミク姉のところでユニット信号機やるから来てって言われてて、今出るところなの。」
「そうなの?レンくんは?」
「家にいる。」
「そっか、じゃあリンちゃん楽しんできてね?気をつけて帰ってくるんだよ?」
「はーい、マスター行ってきまーす!」
「いってらっしゃい。」

一人ずつ聞きたかったから、ちょうどよかったかもしれない。
「ねぇ、レンくん。」
「どうしたの、マスター。」

でも、これを聞くのはやっぱり酷かな?

「考えたくないことだと思うんだけどね、萌の質問に答えてくれる?」
「どんな質問?」
「もしね、何らかの形で、リンちゃんがいなくなってレンくん一人になったら、どうする?」

レンくんから笑みが消える。
「マスター、何でそんなこと聞くの…?まさかリンになにかあったの!?本社の人に言われたの?リンは欠陥があるから回収するとか?それともマスター、リンになにかするつもりなの!?」

あぁ、やっぱりこうなっちゃうか。まだ、聞くには幼かった、かな…。

「今すぐに、とか、実際にリンちゃんがどうとか、そういう話じゃないよ。そういったことは全然無いから落ち着いて、安心して?ごめんね、考えたくないことなのはわかってる。でも、萌にはね、どうしても聞かなくちゃいけない理由があるの。今日じゃなくってもいいから、少しでも何かあったら、話してくれる?」

「わかった、マスター。取り乱してごめん。」

「いいよ、それだけのこと、聞いちゃったし。」
まだ、二人に聞くにはきびしいかな。

「そうだ、レンくん、このパート練習してみてくれた?」
今は、私と恭くんの初めてのデュエット曲を二人に教え始めたところだ。
「それが、音が一気に下がるところが難しくて…」
「うん、恭くんもそこ、練習の時かなり苦労してたんだよね。他のところはどう?出だしとか。ちょっとやってみようか。じゃあ最初の16小節ね。いくよ、3、4!」

V20の性能だろうか、曲の特性だろうか。楽譜を教えただけ、おそらくPCソフトでいうベタ打ちに相当する段階でもかなり発音がよく、聞き取りやすい。

サビの難しいところをいきなりやるよりも、比較的歌いやすいAメロからちゃんと歌えるよう、練習する。
レンくんの練習している姿はとても真摯で、萌も見習わなきゃな、と思う。

気づくと、レッスンを始めてから2時間半が経っていた。
レンくんも、疲れてきている。
「お疲れさま。ちょっと休憩しようか。バナナシェーキ作ってくるから、ちょっと待っててね。」
「マスターありがとう!」

こんな姿を毎日見ていたら、当てつけのような憎らしい存在だなんて、思えない。

「はい、お待たせ。」
「やったー!」
甘く冷たいシェーキを美味しそうに飲むレンくん。
頑張った後って格別なんだよね。

そろそろ、ひーちゃん帰ってるかな?
やっぱり、ひーちゃんには話しておきたい。

Trrrr....Trrrr...
「もしもし」
「萌だよー」
ーーーーーーーーーーーー
「ごめん、レンくん、萌ちょっと出かけてくるから、お留守番よろしくね。帰り時間がちょっと読めないから、リンちゃん帰ってきたら伝えといてね。」
「うん、マスター気をつけてね。」
「ありがとね、行ってきます。」

ひーちゃんとはしょっちゅう話してたはずだけど、なんだかすごく緊張する。

ーピンポーンー

34 言いたいことは?(翡翠side)

「いらっしゃい。入って。」
「うん、ありがとう。」
「そうそう、昨日萌が持ってきてくれたバーベキュー、二人で食べたよ。美味しかった。どうもありがとね。ホイル焼き作ったの、萌だろ?」
「いえいえ、どういたしまして。それにしてもホイル焼きが萌だって、よくわかったね?」
「恭一はああいう細かいこと、できないからな。で、どうしたの、萌。話ってのは、昨日の続き?」
「ううん、全然違うの。これは、萌の個人的なこと。」
「わかった。ゆっくりでいいよ。」
「うん。」

昨日といい今日といい、萌、何があったんだ?
昨日の「いつものちがう」と、今日の「いつもとちがう」はまた別物だったが。

どちらにしろ、ふわふわとしていない。

「マスター、僕はマスターの部屋で調べ物の続きしてますね。」
「あぁ、お願い。」

カイトには、旅行で泊まる民宿やビジネスホテルを調べてもらうことにしている。

「よかった、ほんとに仲良くやってるみたいなんだ。」
「あぁ、おかげさまで。心配かけたな。」
「もー、ホントだよこの馬鹿ひーちゃん!」
「そろそろそれを撤回してくれ。」
「どーっしよっかなぁ~?」
「まぁ、馬鹿でも何でもいいけど。で、今日はわざわざ馬鹿ひーちゃんと言いに来たわけじゃないんだろ?もしかして恭一となんかあったのか?」

それ以外、特に思い当たらない。

「え?恭くん?ないないないない全っ然関係ないよ、びっくりしたぁ。そんな、ひーちゃんに心配されるようなことないから!」

じゃあ、何だ?

「萌ね、ひーちゃんにずっと黙ってたことがあるの。」
「何だ?」
実は萌もモンブラン大好きでした、とかか?
いや、そんなことではないだろう。
「びっくりするかもだけど、信じて聞いてくれる?」
「あぁ。」
「萌ね、本当は萌じゃないの。」
いきなり何だ?

「え?じゃあ誰だよ。」

「結。楠結。」
本当に誰だよ。

「は?」

「萌ちゃんは、わたしの双子の姉。わたしは楠結。」
まるで漫画じゃないか。

「え、つまり、ずーっと入れ替わってたってことか?じゃあ、実際の萌の方は結として生活してるのか?」

「そういうわけじゃないの。ただわたしが、ずっと萌ちゃんとして生きてきたの。」
なぜ?結なんだから結として生きればいいじゃないか。

「それじゃあ、萌と結って双子じゃなく、萌が二人いるっていう奇妙な状況じゃないか。もしかして、今日は本物の萌、明日は結が萌のフリする、とかか?あるいは、ずっと萌のための影武者でもやってたのか?」

「ううん、ひーちゃん全然違う。」
何が?…いや、まずは聞こう。

「わたしは一人だよ。」
余計わからない。

「萌ちゃんは、いるんだって、わたしは今でも信じてるけど、体は一つだけ。」
それってもしかして…

「萌ちゃんはね、中学にあがる前に、病気で死んじゃったの。遺伝子や体質的に、かかりやすい病気だったらしいけど。どうして、わたしじゃなくて萌ちゃんなんだろうって思った。DNAも同じなのに、どうして萌ちゃんだけ死ななきゃいけなかったんだろうって。」

言葉に詰まった。

「そのときにね、萌ちゃんの言葉を思い出したの。
『萌はね、結ちゃんのこと、だーいすきだよ。だから、ずーっと一緒なの。』
わたしはその言葉を反芻した。そして気づいた。
萌ちゃんは、いるんだって。ここにいるんだって。ずーっと、わたしと一緒にいるんだって。」

「だから、今まで…」

「そう、わたしは萌として生きてきた。優しくて、可愛くて、ふわふわしてて、ちょっぴりズレてて、そんな私の大好きな萌ちゃんとして。そうしたら、萌ちゃんはずっとそばにいたから。中学、高校、大学と、ずっと。大きくなっても、萌ちゃんの好きそうな服を着て、萌ちゃんと同じように振る舞って、萌ちゃんの文字を真似して…。
でも、誰かが萌ちゃんを悪く言うのは許せなかったから、言わせないための努力もし続けたつもり。あの大学に入ったのも、高校時代に『えー、萌って馬鹿だと思ってたー』って言った奴がいて、見返すため。そんなわたしを見て、家族ですら、結ちゃんって呼ばなくなった。萌ちゃんって呼ぶようになった。」

萌…いや結は…わたしなんかよりずっと辛かったんじゃないか?

「二人だったことを知ってる人には気持ち悪がられた。家族は、触れようとしなかった。知らなかった人に知られるのは、萌ちゃんはもういないんだよって無言で宣告されるみたいで嫌だった。わたしを好きになってくれた人に打ち明けても、恭くんを除いては、誰一人として真面目に受け止めてくれなかった。」

どうしてそれを今、私に打ち明ける気になったんだろう?

「ひーちゃんはね、わたしにとって、ずーっと都合のいい子だったの。だから、わたしはひーちゃんと一緒にいた。」

どういうことだ?言いなりになったわけでもない。

「何にも興味ない。友達も作ろうとしない。情報も探ろうとしない。空っぽだったから。わたしはそれをわかってて、そうだからこそ近づいたの。」

「空っぽの私は、萌の…いや、結って言った方がいいのか?お前の過去を詮索したりしない。周りに人がいないから、知られることもない。だからか?」

「そう、ひーちゃん大正解。それとね、クールで照れ屋なひーちゃんは、二人いた頃の結に少し似ていたの。だから一緒にいたら、逆転しちゃったけどまた二人でいるような気がしたの。」

まず、今まで聞いたことすべてが衝撃的だが、嘘をついているようにも見えない。

「だから、ひーちゃんが恭くんの従妹なのを知ったときはちょっと焦ったよ。恭くんからひーちゃんに伝わったら、また、今までの人と同じように気持ち悪がられて、萌ちゃんはいないって突きつけられるんじゃないか、そう思ったの。」

「じゃあ、なぜそれを今私に?」

カイトが走って降りてくる。
「お取り込み中ごめんなさい!マスター、18きっぷの落札終了3分前です!」
「あぁ、予算以内なら入札しといて。」
「わかりました!」

「ごめん。」
「大丈夫だよ。わたしが押し掛けたにも等しいしね。ひーちゃん、カイトくんと旅行行くの?」
「あぁ。あいつとなら、出かけてもいいかと思って。」
「ひーちゃん少し変わったね?わたしがそんなに心配しなくてもよかったかな。」
「むしろ今はお前の方が心配だ。」

「え?」

「私、なんか変なこと言ったか?」
「だって、心配だって…」
「そりゃ、そうだろ。いつもと様子が違うし、重大なことを打ち明けてる最中なんだ。苦しくないか、くらいは私だって考えるよ。」

「じゃあ…気持ち悪いとか、思わないの?」
「思ってるように見えるか?」

首を横に振る。

「あのね、恭くんがカイトくんに話してるの、聞いちゃったの。」
「何を、だ?」
「ひーちゃんのこと。」
「私の?」
「うん。ひーちゃんが、何にもしたくないってなっちゃった理由。大学に入る、少し前のこと。ごめんね、最初は二人が話してる内容、聞くつもりじゃなかったの。でも、どうしてか気になっちゃったの。」

じゃあ、カイトもあの日のことを知っているのか。
今でも、悪夢のような光景は、鮮明に脳裏に映る。
すっと、血の気が引くような気がした。

「ごめんね、ごめんね!でも…でも……。
わたし、思うの。ちょっと聞きかじっただけのわたしがこんなこと言える立場じゃないとは思うけれど、でもね、ひーちゃんはね、何も悪くないと思うの。」

「何も悪くないって、何が?」
何を言わんとしているのだろう?
なぜ今、私が悪くないとか、そういう話になる?

「ひーちゃんの家族が亡くなられたのは、ひーちゃんが悪いんじゃないよ。」

「亡くなったって…きっといつか、ひょっこり帰ってくるんじゃないかって…いや、ごめん。何でもない。だって、私が忘れ物をしなかったら…」

私が忘れ物をしなければ、もう少し早く横断歩道を渡っていた。あの車が走り去るより前に、渡りきっていた。

「だから、それはひーちゃんのせいじゃないの!」

「だとしても、私が『先に行ってて』と、そう言わなければ…」

私が先に行っててと言わなければ、横断歩道を渡らなかった。あの車に轢かれる可能性など、そもそも無かった。

「そういうことじゃないの、ひーちゃんは悪くないの。悪くないんだよ。」

「結局、何しに来た?何を言いに来た?いくら悪くないと言ったところで、事実は何一つ変わらないじゃないか。現に、私の家族は…」

それ以上は言えなかった。言葉にすることは、認めることと同じ。もういないなんて、思えない。信じられない。

「運命って、あるんだと思うの。どうしようもないことって、あるんだと思うの。それは、誰かが悪いとか、悪くないとか、誰かのせいでこうなったとか、ならないとか、そういう次元じゃ、ないと思うんだ。」

「運命だったと言いたいのか?避けられなかったと、言いたいのか!?私はあのとき、全て失う運命だったと、そう言うつもりなのか!?失ってもしょうがないよね、なんてふざけたことを!?」

「違う!わたしが言いたかったのは…」

「わたしは片割れがいなくなるのが嫌でずっと片割れとして生きてきて、片割れがずっといると都合良く信じてました。そう信じるために都合が良かったのであなたの友人やってました。でもあなたが何もかも失ったのは運命なんですよ?だから仕方ないと受け入れてくださいね?
は?何?どういうつもり?馬鹿にするつもり?お前だって受け入れられていないのに、私を馬鹿ひーちゃんと笑いに来たのか!?」

「そうじゃない!そうじゃないの!わたしはただ…」

「気分悪い。帰れ。」

「ひーちゃん…聞いて…?」
どうしてお前が泣くの?
泣きたいのは、私の方だ。

「帰れ!」

「…ごめんね、ひーちゃん……」

「二度と来るな。」
のろのろ歩くな。さっさと出ろ。

「早く出ていけ、この仮面女。」

あの女を無理矢理押し出し、ドアを閉める。
「マスター!?」
駆け寄り、心配そうに見つめる。
「ごめん、カイト。びっくりしたよね…」
「マスター…」

彼の横を通り、私の部屋へと駆け込む。
「…っ……わああああああっ…うわぁああああああ!!」

35 愛おしい(カイトside)

「運命だったと言いたいのか?避けられなかったと、言いたいのか!?私はあのとき、全て失う運命だったと、そう言うつもりなのか!?失ってもしょうがないよね、なんてふざけたことを!?」

マスターの激しい声が聞こえた。

「違う!わたしが言いたかったのは…」

萌さんの必死な声が聞こえた。

「…お前だって受け入れられていないのに、私を馬鹿ひーちゃんと笑いに来たのか!?」

どうしたんです!?

「そうじゃない!そうじゃないの!わたしはただ…」

僕は、入るべきか?入らないべきなのか?

「気分が悪い。帰れ。」

「ひーちゃん…聞いて…?」
「帰れ!」
「二度と来るな。」
「早く出ていけ、この仮面女。」

マスターの部屋を飛び出し、駆け寄った僕が聞いたのは、マスターが萌さんに放ったものとは思えないほどに強烈な、憎しみを持った言葉だった。
「マスター!?」
「ごめん、カイト。びっくりしたよね…」
マスターはどうにか絞り出したような、弱々しい笑顔を僕に向けた。
「マスター…」

僕の横を素通りして、マスターはマスターの部屋へと駆け込んだ。

部屋のドアを開け放ったまま、ベッドへと体を投げ出したその瞬間だった。

「…っ……わああああああっ…うわぁああああああ!!」

萌さん…、僕のマスターに何をしたんですか?
せっかく僕と二人でいたところを邪魔した挙句、マスターを壊すんですか?

何よりも先に、マスターの心配をすべきなのに、僕の心にも、憎しみが渦巻いた。

マスターを傷つけるつもりなら、たとえ相手が萌さんだろうと、恭一さんだろうと、僕は許しませんよ。

「マスター。」
崩おれたマスターを抱き寄せて呟いた。
「マスターを傷つけたのは、あの女ですね…?」

マスターは僕を抱き返し、ただ泣いていた。

まずは、リンとレンを萌さんから引き離しましょう。
二人まで巻き込むわけにはいきませんから…。

「カイト…」
「マスター?」
「カイトは、いなくなったりしない?」

寂しげに見つめるマスター。

「いなくなるわけ、無いじゃないですか。」
「絶対?死んじゃったり、しないよね?」

その目が、僕まで不安にさせる。

「僕は機械ですよ?」
「本当に?怪我するのに?」

知っていたのか?

「怪我?何のことです?」
「最初の日、サンドイッチと玉子作ってくれたとき、怪我してたでしょ?」
「知ってたんですね…。」
「うん…そのときは、ボーカロイドなのに怪我するんだって思っただけだった。でも、嫌なの、カイトまで私の側からいなくなっちゃ嫌なの…」

「マスター。もう忘れたんですか?」
小さな頭を撫でる。
「僕はマスターの側にいます。側にいたいんです。側にいさせてください。そう言ったんです。絶対、いなくなったりしませんよ。僕にとって誰よりも大切なのは、マスターただ一人です。」

「絶対、だよ?」
「えぇ、絶対です。」

誰よりも…
側にいたい。守りたい。救いたい。大切だ。可愛い。大好きだ。
そしてあなたが…

愛おしい。

辛そうなマスターは、見ているだけで僕も辛い。
それなのに、愛おしいという感情は、より一層強くなっていく。
僕に側にいてほしいと願ってくれている。僕を頼ってくれている。僕を必要としてくれている。
これは安堵?わからない。
僕は、おかしくなったんじゃないだろうか?

「今日は、もう、寝る。」
「おやすみなさい、マスター。」

マスターのベッドを離れようとしたが、マスターが僕の服の袖をつかんでいた。

「来て」
「えっ?」
「だから、一緒にいて…」
マスターから、来てほしいなんて言ってくれること、これまでは無かったから、少し驚いた。
「わかりました」
マスターのすぐ隣で僕も横になる。マスターはそのまま僕に身を寄せ、まだ、泣いていた。

どうか、思い詰めたり、しないでください。
八つ当たりだろうがどんな形でもいいんです。
今みたいに、僕に頼ってください。

泣き疲れたのだろうか、いつしか一定の呼吸を繰り返していた。

「マスター?」
呼びかけても返事はない。眠ったのだろう。

「マスター…大好きです。」
もしこれで、眠っていなかったとしたら恥ずかしいことこの上ない。
反応はない。良かった。本当に眠っているようだ。
僕も、静かに目を閉じた。

ーinterlude-Ⅰー(恭一side)

「桐生君。V20のプロトタイプはどうかね?」
「はい、5体とも、順調に稼働しています。」
「それぞれのマスターとはいかがかな?」
「問題ありません。」
「もし何かあれば、すぐに連絡してくれたまえ。」
「はい。わかりました。」

「誰、本社の人?」
最初に作られたからだろうか。メイコは本社関連の情報にめざとい。

「あぁ。ミクは?」
「もう寝たわよ。マスター、焼酎まだある?」
「もうねーよ。」
「え!?嘘でしょ!」
「嘘じゃねーよ。お前飲み過ぎだって。」
「大した量じゃ無いじゃないの。」
「俺の財布には大した額だ。」
「ケチはモテないわよ?」
「うるさい。」

「ねぇ、私たちの配属先って、本当に無作為なの?」
「なぜ突然そんなこと聞くんだ?」
「だって、カイトはマスターの従妹さんのところに、リンレンは萌ちゃんのところに、なんて、あまりにできすぎじゃないの?」
「俺にはわからない。」
「マスター、あんた本社の人間でしょ?」
「入ったばかりのインターンに、そんなん決める権限があると思うか?」
「それもそうね…集中したのは、本社への状況報告の利便性を考えて、かもしれないし。」

人材育成のため、インターンに重大な仕事が回ってくることもある。もちろん、監督付きだが。
けれど、彼らが作意的に送られたことを知れば、それぞれマスターとの関係に何らかの影響を及ぼしかねない。
あくまで、何らかの偶然ということになっているのだ。もし作意があることを知れたら、欲しがる人が大量の賄賂を積む、空前のオークションも引き起こしかねない。

しかし、メイコは聡い。
作意配属の理由の、半分は当たっている。

~走る 走る 俺ーたーちー~
「電話よ、マスター。にしても、もうちょっとセンスある着メロは無かったの?」
「分かりやすいだろ。どうした?萌。」

「あのね、ひーちゃんと喧嘩しちゃったの…」
「何!?」

36 やけに明るい(翡翠side)

カーテンから漏れる日差しが眩しい。
顔を上げると、すぐにカイトの顔があった。
ち、近い…

カイトを起こさないように、ベッドから出る。
昨日は、びっくりしたよね。でも、ありがとう。
カイトには、いつも優しくしてもらってばかりだね。
私はなにもしてあげられてないのにな。

そうだ、昨日買ってあげられなかったからね。
アイスを買ってこよう。

まだ午前中だというのに、日差しは焼け付くようだ。頭にフライパンを乗せたら、目玉焼きでも出来そうなほどに。

半分こするカイトがとても楽しそうで、家計にも優しい、パピポや雪見まんぷく、メロンシャーベットあたりを中心にカゴに入れる。チョコミント味はもちろんマスト。実は心残りの、バニラソーダバーメロンチョコも購入。

この気温だ。ゆっくり歩いてなどいられない。スーパーを出て、家へと駆け出す。

「はぁ…はぁ…ただいま…冷凍庫入れなきゃ…」
「どこ行ってたんですかマスター!しかもそんなにも急いで…」
「暑い…アイス…」
「え、もしかして…」
「昨日…帰りに買って…やれなかったから…」
「わぁ…覚えててくれたんですねマスター!」

抱きつくな!!暑いって言ったの聞こえなかったのか!?

「おい!今私走ってきたから汗かいてるから…」
「アイス♪アイス♪」
「話を聞け!」
「ごめんなさい!暑い…ですよね」

気づくのが遅い!
突っ込むのもめんどくさい。

「マスター♪」
すかさずパピポを取り出し、それ以外を冷凍庫に入れ、パピポを二つに分けた片方を差し出す。

「あぁ、ありがとう。」
アイスとなると、やけに手早い。

本当に美味しそうに食べるなぁ…

あれ、もしかして、モンブランを食べる私を見るのって、こんな感じなのか…!?

「…っ、はははっ!」
思わず笑いだしてしまった。

「どうしました?マスター。」
「いや、なんでもないよ。」
今日の私は、なぜかやけに明るい。

「もう、びっくりしたんですよ?起きたらマスターがいなくなってて、置き手紙も何もないし、携帯すら置いてあるし、トイレやお風呂にもいないし、タンスや押入の中にも隠れてないし…」

「…あんた、タンスと押入勝手に開けたの?そんなところにいるわけ無いでしょう?」
「いや、僕へのドッキリかなー、と…」
「押入はともかく、タンスにいるわけないでしょ!」

馬鹿なのかこいつは?やはりバカイトか?

「ごめんなさい!タンスはもしかしたらマスターの下…」

この変態!すかさずカイトの手から食べかけのパピポを奪う。

「あぁっ!ごめんなさいごめんなさい!タンスと押入は冗談です!!」
反応がわかりやすすぎる。

「冗談に聞こえない。」
目の前でカイトの分のパピポも食べる。

「ちょ!マスター何やって…」
案の定カイトの分のアイスを食べると、おもしろい反応をする。

「元は私が買ったんだ。私が食べても問題なかろう。」
「いや、そこじゃないです問題は!」
え、じゃあ何が問題なんだ?

「自分のアイスが私に食べられてしまったことを嘆いているんじゃないのか?」
「いやむしろ嘆くどころかご褒美です。」
「は?」
ご褒美ってなんだよ。カイトから奪った分を食べ尽くす。もとの私の分をまた食べ始める。

「あ、でも僕やっぱりちょっとしか食べてなくてさびしいのでマスターのそれ一口ください。」
なんだ、やっぱり食べられたことを嘆いているんじゃないか。

「わかったよ、はい。」
手渡すと、本当に嬉しそうに食べる。好きなんだな、アイス。

「ありがとうございます、マスター。」
本当に一口だけ食べて、残りを私に返す。

「あぁ、もういいのか?」
「はい♪」

そして再び自分の分を食べようとしたその時、私は全てに気づいた。

「わああああああああっ!!やっぱいいよカイトこれ食べていいから!というか私が奪った時点で早く言えよこのバカイトおおおおっ!!」

ーピンポーンー
最近、来客やら電話やらが多くないか?

「はい。」
「翡翠か?」
「あぁ、恭一?おはよう」
ドアを開ける。仮面女じゃなくて良かった。
「カイトとはどうだ?」
「今一緒にアイス食べてた。」
「だろうな、叫び声が外まで聞こえた。」
「なっ!?」

恭一にまで聞かれたのかよ…

「あ、恭一さん。おはようございます。」
「おはよう。その様子なら大丈夫そうだな。これ、届けに来た。この前の服とアイス代な。」

あのときの自分の間違った選択に胸が痛む。胸無いけど。

「あぁ、わざわざありがとな。」
「そうだ、昨日萌が…」

聞きたくない!

「悪い、恭一。今日この後出かける予定があるから、今日は帰ってくれる?」

「そ、そうか。わかった。じゃあな。」
「うん、ありがとう。じゃあな。」
急いでドアを閉める。
「すぐに出かける予定は、ありませんでしたよね…。」
「あぁ、無いよ。」

どうせあの仮面女だ。恭一に泣きついたに違いない。
あの女の話はしたくない。恭一を追い返したかっただけ。

「昨日、萌さんに何されたんですか?」
「ごめん、カイト。あの仮面女の名前すら、聞きたくないんだ。」
「ごめんなさい…」
「謝らなくていい。そうだ、18きっぷはいつ頃届く?」
「今日発送でしたから、明日明後日には届くと思います。」
「じゃあ、旅行に必要なもの、買いに行こう?私、先にちょっとシャワー浴びるね。」

「わかりました。」
今日の私は、やけに明るい。

37 印象(カイトside)

マスターと間接キス…
さっきからそのことばかりが頭を回り続ける。

マスターも、どうして気づかないかなぁ。
いや、でもそのおかげで…

やっぱり、状況に気づいたときのマスターの慌てっぷりも可愛かったなぁ。

こんなマスターと一つの屋根の下で暮らせるなんて、僕はきっと世界一幸せなボーカロイドだ。

僕がマスター以外のことを考えてる時間なんて、限りなくゼロに近いかもしれない。
やっぱり僕、おかしくはないだろうか?

それにしても、今日はマスターが元気そうで良かったな。
そう思う反面、昨日あれだけのことがあったことを考えると、その明るさが不自然に、奇妙に感じる。

マスター、無理してないですか?
苦しそうなマスターを見るのは、確かに僕も辛いです。でも、頼ってもらえなくて、マスターが一人抱えて耐え続けるのは、もっともっと辛いです。だから…

「伏せ!」
え?マスター、伏せですか?
背後からの命令に、即座に従う。

「いや違う。床に寝そべるな。言葉が足りなかった。いいというまで目を伏せろ。」

見えないけど、僕の前をマスターが通る。
シャンプーのいい匂いがする。

ほんの少しの好奇心から、指を開き、その間に視界を作る。

あああああああ!!
本当に僕は、やってはいけないことをしてしまったんですね…

とっさに指を閉じる。

どうしようどうしようどうしよう…
僕、マスターに顔向け出来ない…
ごめんなさい、本当にごめんなさい…

だって、指の間のその先のマスターは…
風呂上がりの着替え途中だったんだから…
白でしたね、マスター…

「いいよ。」
袖をまくったカーキ色のジャケ風シャツに、白いスキニーを合わせたマスターが目の前にいた。

「ごめん、脱衣室に着替え持っていくの忘れちゃったから」
少し自嘲気味に笑うマスターにすら、僕は惹かれてしまう。やっぱり僕は重症かもしれない。

「あ、いえ、大丈夫です!って、さらっとそういうこと言わないでください!」
「あ、ごめん。」

素直なマスターも好きですよ。
って、だから僕いい加減おかしいって!

タオルドライした長い髪にドライヤーをかけるマスター。こんな僕に気づいていませんように…

こんなに長いと毎日ドライヤーかけるの、大変じゃないですか?でも、僕はマスターの綺麗で長い髪も大好きです。
そろそろ正気に戻ろうか、僕。
いや、これが正気だ。

一通り髪を乾かしたマスターは、次の瞬間、驚くべき行動に出た。いや、少なくとも、下ろした長い髪を見慣れた僕にとっては…。

長い髪を後ろで高くあげ、一つの束にまとめる。ポニーテールというのだろう。
その束の根本に、モノトーンの布が華を添える。
シュシュというんだったな、名前だけは聞いたことがある。

マスターは化粧ポーチを取り出した。
メイクしなくたって、十二分に綺麗なのになぁ。
真っ白な肌に桜色の頬。これぞ大和撫子と言わんばかりの黒く長い、艶のある髪。柔らかそうな唇。
本当に、充分ですよ。

マスターはそれを分かっているのか、赤いリップを乗せる以外はごく自然な程度しかしない。いや、流行のナチュラルメイク、だろうか?

「ねぇ、カイト?」
こちらへ振り返るマスター。やっぱり、髪を結ぶと大分印象変わりますね。ポニーテールの方が少し活発そうで、お姉さんっぽいのに可愛さが増した、そんな感じです。
もちろん、僕はどちらも大好きです。

「はい、マスター。」
「いつ気づくかと思って、最後まで支度終えちゃったけど、じっと見られてるとやりづらいの分かる?」
マスター、気づいてたんですか!?

「わわっ、ごめんなさい!」
「気づかないとでも思った?」
「そうですよね、鏡ありますもんね…」
「で、変じゃない?」
どこが変なんですか!

「全然変じゃないですよ。可愛いです。」
「わかった黙れ。」
つれないですね、マスター。

「マスターが聞いたんですよ?」
「一言余計だった。あ、ちょっといいか?カイト、なんかそれ、前髪が邪魔そうだ。」
さっとヘアピンを取り出したマスター。それ、僕につけるんですか!?

手際よく僕の髪をヘアピンで留めるマスター。
いや、そのこと自体はいいんですよ…ただ、顔近くないですか!?

「はい、出来たよ。ちょっとすっきりしたね。」
そう言って僕に鏡を見せる。マスター、アレンジ上手なんですね。

「じゃあ、遅くならないうちに行こうか。」
「はい!」

38 KEEP OUT(翡翠side)

携帯は、鞄の中に一応入れるけれど、電源を切っておく。
煩わしい連絡を、受け付けないためだ。

今日、やけに明るいのは、きっと昨日の反動。
こうでもしなければ、おそらく保てない。

歯ブラシのトラベルセット、旅行用の鞄などを選ぶ。
「どんな鞄がいい?」
「青いのがいいです。でも、マスターが選んでくれたものなら、何だっていいですよ。」
「少しは主体性を持て。」
「じゃあ、これがいいです。」
「決めるの早っ!」

カイトが選んだのは、中程度の大きさのリュックだった。軽くて丈夫そうで、中にポケットがたくさんついている。
こいつ、目ざといな。

「じゃあ、これにしようか。」

鞄はこれでいい。服などは家にある。ところが、だ。男の人って、シャンプーとかどうやって選んでるんだ?

「あのさ、カイト。」
「なんでしょう、マスター。」
「カイトって、シャンプーどんなの使うの?」
「いや、知りません。」

重大な事実を忘れていた。
こいつは機械だ。風呂に入る必要は基本的に無い。

ただ、外気に晒されてる分ある程度掃除の必要は発生するかもしれない。お風呂に勝手に入っててもらうのが楽なんじゃないか?私が。水、大丈夫だと言っていたしね。

「じゃあ、私適当に選んじゃっていい?」
「はい、大丈夫です。」

私の好みの香りのを選んでおこう。
ミントとかシトラスとか、ハーブとかのさわやかなもの。
ついでにボディーソープと洗顔フォームも選んでおく。そういえば洗濯用洗剤も減りが早くなったから買っておこう。

「アイスの香りじゃないんですね…」
「そんなもんねーよ!ってか適当に選んでいいって言ったじゃないか!大体アイスの香りって、味指定しなくちゃ何の香りか分からないじゃないか!」
「嫌なんて言ってませんよ?」
「なんだよまどろっこしいな。」

周囲の人がクスクス笑っているような気がした。

「僕とマスターって、どんな風に見えてるんでしょうね?」
「知るか。」
「彼カノですかね?」
「んなわけないだろアホが!!」

思わず叫んでしまった。
だって、彼カノなんてそんな…
もう、なんでそんなこと言うわけ?

「ほら、とりあえずレジ並ぶぞ。」
カイトまでクスクス笑っている。何がそんなにおかしい。

買い物を終えたら、今日は真っ直ぐ帰る。宿の予約と、旅行の支度をするのだ。

「昨日、落札しといてくれてありがとね。」
「いえ、マスターお取り込み中でしたし、あれくらいは当然です。」
「そう?じゃあまた頼むことがあるかもしれないから、その時はよろしくね。」
「はい、もちろんです!」

ー遠足前夜が一番楽しいー
楽しみにしている期間が、一番楽しい。
よく聞く話だ。でも私は、本当に流れている、実際の遠足、旅行、その間の時間だって、すごく楽しいじゃないかと思う。
でも、確かに準備をするのも楽しい。

特にこの旅行の準備は。

「~♪」
謎の鼻歌を歌いながら、ニコニコしながら鞄に物を詰めるカイトを見てるのが、面白いのだ。

「マスター!アイスはおやつに入りますか!?」
「まず溶けるだろ!」
「そうだった…」

わかりやすいくらいしょんぼりする。
面白い!

待てよ…
カイトはよく、私の反応を見ては可愛いなどと言い面白がっていたことがある。
これじゃ私も同じじゃないか!

嫌だ!私はバカイトみたいにバカじゃない!

ー僕とマスターって、どんな風に見えてるんでしょうね?ー
ー彼カノですかね?ー

なんでだよ。それになんでこんな発言思い出すんだよ。
第一、私たちは全然そんなんじゃないし、だって、カイトはボーカロイド、私はカイトのマスター。それだけじゃないか。

本当に?

本当にそれだけなら、さっきのその発言もさらっと流せばいいじゃないか?

それができないのは…?

まさか、そんな…ね…。

もう一度、未だに鼻歌歌いながら準備を進めるカイトに目をやる。

直視することが出来ない。

まさか…嘘だろ?私は、こいつのこと…

考えたくない。私の脳に「KEEP OUT」の文字が現れる。それ以上、考えてはいけない。考えるのは危険だ。すべて分かってしまったら、まともに接することが出来なくなる。

手早く自分の準備をすませ、宿の予約をする。

仕方なしに、携帯の電源を入れる。

"新着メール 2件
桐生恭一:件名)萌から聞いたけど…
桐生恭一:件名)見たら返事くれ"

"2件のメールを削除しますか?"

"削除しました"

「もしもし?お忙しいところ恐れ入ります。部屋の予約をしたいのですが、よろしいでしょうか…」

よし、これで準備万端だ。

「マスター♪」
「ふぎゃーっ!?」

タイミングを見計らったのか?
予約の電話が一通り終わったところを、カイトが突然後ろから抱きついてきた。
「なんとなくです。」

「何となくで抱きつくな!」
「ダメですか…?」

振り向くと、首を傾げてこちらを見つめるカイト。
やめてくれ、その表情。お願いだからやめてくれ。

今脈拍を測ろうものなら、とんでもない値になりそうだ。
「ダメと言われても、聞くか分かりませんけどね?」
「いやそれは聞けよ!」

あの、私マスターだぞ?仮にもな?

悟らせてはいけない。悟ってもいけない。どうすればいいんだ…

Trrrr....Trrrr....

さっきの宿からだろうか、もしかしたら予約内容に不備があったかもしれない。

画面をろくに見ずに、電話をとる。
「もしもし。」
「やっとつながった!お前、電源切ってたろ!?かと思ったらさっきまでお話中だし…」

しまった、恭一だ。画面見ておくんだった。

「ごめん、今忙しいの。電源切るとか、お話中とか、そういう状況なの。じゃあね。」

「おいちょ、待て!」
ープツッー

「いいんですか?マスター。」
「あぁ。構わない。」

恭一も、あの女も諦めたらしく、今日はそれ以降連絡を入れてこなかった。

~interval-9(萌side)~

外は土砂降りの雨だった。
傘は持ってない。
ただ、一人で家へと歩く。
電車に乗る気にもなれない。

「運命だったと言いたいのか?避けられなかったと、言いたいのか!?私はあのとき、全て失う運命だったと、そう言うつもりなのか!?失ってもしょうがないよね、なんてふざけたことを!?」

ひーちゃんの言葉が、頭の中を回り続ける。

「わたしは片割れがいなくなるのが嫌でずっと片割れとして生きてきて、片割れがずっといると都合良く信じてました。そう信じるために都合が良かったのであなたの友人やってました。でもあなたが何もかも失ったのは運命なんですよ?だから仕方ないと受け入れてくださいね?
は?何?どういうつもり?馬鹿にするつもり?お前だって受け入れられていないのに、私を馬鹿ひーちゃんと笑いに来たのか!?」

まさか、そんなことを言われるなんて思ってもみなかった。

「気分悪い。帰れ。」

「二度と来るな。」

あんな風に憎しみを露わにしたひーちゃんを、今まで見たことがなかった。

「早く出ていけ、この仮面女。」

ひーちゃんでも、そういうこと言うんだな。
これは、わたしが悪いのだけど。

ひーちゃんが家族を失ったのは仕方なかったってことが言いたかったんじゃない。ただ、自分を責め続けるひーちゃんに、「ひーちゃんのせいじゃないんだよ」ってことを伝えたいだけだった。

受け入れきれないひーちゃんを馬鹿にしたかったわけじゃない。
むしろ、支えたかった。

今までのことは、ちゃんと全部話して、ごめんなさいって、でも、本当にわたしが心から友達だと思ったのはひーちゃんが初めてなんだって、だからわたしは、ひーちゃんを助けたいと思ったんだと、そう言いたかった。

それなのに、あんなに怒らせてしまうなんて…

なにがいけなかったんだろう。
わたしが悪いってことはわかる。
でも、わたしのなにがひーちゃんをそんなに怒らせちゃったの…?
わたしは、どうしてたらよかったの?

そうだ、恭くんだ。
なんでもすぐに人に頼るのは良くないってわかってる。
でも、こればっかりは本当にどうしようもないの。

「もしもし、恭くん?」
「どうした?萌。」
「あのね、ひーちゃんと喧嘩しちゃったの…」
「何!?」

恭くんも、そんなことは予想もしていないみたいだった。

「多分ね、わたしがいけないの。でも、どうしてなのか、どうしたらいいのか、わからないの。」

「話してきたのか?」

「うん、でもね、途中でひーちゃんすごく怒って、おいだされちゃったの。あんなひーちゃん…初めて見た…ねぇ、恭くん…どうしよう…」

「泣くな、とりあえず状況を教えてくれ。」
「うん…」

~~~~~~~~~~~

「…ということなんだ。」

「まずいな…。翡翠の奴、一旦キレると本当に長いからな…」

「わたし、ひーちゃんに本当に伝えたかったこと、なんにも伝えられてないの…でもきっとひーちゃん、もうわたしと話してくれない…」

「あいつがそう言った状況なら、結が直接また話すのはおそらく無理がある。一応俺からも話してみる。とりあえず今日は精神的にも疲れてるはずだから休め。そういえば、結は傘持ってるのか?今どこにいる?」

「うん、わかった。ありがとう。雨は心配しなくて大丈夫だから。ごめんね、ありがとう。」

「あぁ。また何かあったら連絡するから。」
「わかった。バイバイ。」

結局、何が悪いのか、どうしたらよかったのか、これからどうすればいいのか、何も分からなかった。

わたし、ひーちゃんは怒らせるし、恭くんには頼ってばかりだし、誰なんだかよく分からないし、本当に…なんなんだろう。いない方がいいんじゃないかな…?

ーわたしがいなくなったら萌ちゃんは?ー

吐きそうだ。
どうにか、家へとたどり着く。

「おかえり、ずいぶん遅かったね…ってマスター!?傘持ってなかったの!?レン、タオル!」
「わかった。何やってんだよマスター、風邪引いちゃったらどうするんだよ!もしかして終電逃したのか?でも飲んでないみたいだし…」

二人にすら、心配かけちゃったんだね…。

「今日は遅いから、二人とももう寝たほうがいいよ。萌もねるからさ。」

「うん、わかった。」
「マスターこそ、早く寝てね。」


わたしは、泥のように眠った。

39 前日(翡翠side)

時刻表を片手に、地図を広げる。もう片方の手には、紙とペン。

ここで昼御飯を食べる。でも13:26発を逃すと待ちがながく、夜間列車に乗れなくなるまで計画がずれ込んでしまう。まぁ、カイトと私なら、ところどころ走るくらい、なんてことはないだろう。

時刻表と地図と、私の頭は議論を繰り返す。

よし、我ながら良い計画じゃないか?

「おはようございます。マスター、何してるんですか?」
「あぁ、カイト起きたのか。旅行の計画だよ。お昼をどこで食べるとか、どの電車に乗るとか。」
「ほー…厳密なところは厳密で、自由度高いところは自由度高いんですね…楽しみです!」
「あぁ。結構強行軍だから、きっと疲れるけどな。」
「僕は大丈夫です。むしろマスターが心配です。」
「私はまだ若い。」

大学生くらいじゃないと、こんな旅行は体力的に辛いだろう。

ーピンポーンー
「はい。」
「メール便でーす」
「はーい。」

「マスター!」
「カイト、きっぷが届いた!」
「はい!」

カイトと一緒なら、何かしても辛く無いだろうと思った。
私が多少辛かったとしても、私が何か一緒に出かけたりしてやれば、カイトが喜ぶから、そう思っていた。
でも、嬉しそうなカイトを見ると、どうしてだか私も嬉しくなる。辛いとか辛くないとか、カイトのためとかそうじゃないとか、いつの間にそんなことより、純粋にその状況を楽しんでいる自分に気づいた。

「明日は始発だから、早く寝ような。」
「もちろんです!」
「仙台でお昼ご飯を食べるから、朝は軽い物を捨てられる容器で持っていこう。私作るから。」
「はいっ!」

こいつ、大丈夫か?今日眠れるか?楽しみで眠れないとかやめてくれよ。初日が最も強行軍なんだから。

「今日は絶対ちゃんと寝ろよ?」
「わかってますって。」

Trrrr....Trrrr....

「桐生恭一」

仕方がない。

「もしもし?」
「翡翠、今日は忙しくないか?」
「あの女の話以外なら何でも受け付けるぞ。」

昨日連絡を拒否した理由は紛れもない。あの女のことは、名前すらも聞きたくない。

「そう…か。カイトとはどうだ?」
「あれ、言ってなかったか?」
「昨日一緒にアイス食べてたことは知ってる。喧嘩したりしてないよな?まさかまた預けるとか言うなよ。」

恭一の野郎、さすがに心配しすぎだ。

「言わねーよ。むしろ明日から一週間くらい旅行に出かける。だからこの間は電話されてもそんなに出られないと思う。」

「え!?」

こいつが旅行に出かけるなんて思っても見なかった、といったところか?
電話の声だけでも恭一の驚きっぷりがわかって吹き出してしまった。

「私が旅行に出かけたら悪いか?」
「いや、だって、お前どこにも行きたくないっていつも言ってたから、驚いたんだよ。」
「あぁ、カイトと一緒だったら、出かけてみてもいい、かな、そう思ってさ。北海道とか東北とか行くけど、お土産は何が良い?松前漬けとか塩辛とか、いぶりがっこはどうだ?」
「渋いな。」
「美味しいんだぞ!?」

大好きなんだよ、こういうの。ご飯に良く合うし。馬鹿にするのは許さん。

「いや、美味いのはわかってるって。そういう意味じゃなくて、もっと安い簡単なので良いよってことだよ。」
「それ、渋いって言葉使うのは間違ってる。」
「だってお前、おやつの趣味も渋いじゃんか。」

渋いといくら言われようと、美味しい物は美味しい。
何一つ間違ってない。それに、理由になってない。

「お前まさか、茎わかめとか酢昆布とか、さきイカとか干し梅とかの美味しさがわからないのか?日本人だろ!」
「いやだから美味いのは知ってるっつの!とりあえず、楽しんで来いよ。」

「あぁ。ありがとう。現地でときおり連絡入れるかもしれない。それと、3日にいっぺんくらい私の家見といてくれるか?」
「わかった」
「マスター!恭一さんなら変わってください!」
「え、あぁ。カイトが話したいって。」
「了解。」
「もしもし恭一さん?この前はお世話になりました。マスターは僕がついてるんですから、そんな気にしなくても大丈夫ですからね!それだけです。では、失礼します。」

ープツッー
律儀だなぁ。

「恭一さんって、マスターのことかなり気にしていますよね。」

気にし過ぎなくらいだ。私に気にするくらいなら、もうちょい自分のボーカロイドや彼女に気を配ればよいものを。

「なんか、妹を溺愛してる兄みたいな感じがします。」

なんだそれは。やめてくれ。

「やめてくれ。ただ、私と琥珀は、小さい頃からよく恭一と遊んでたからな。」
「今度マスターからも言っておいてくださいね?僕がいるんだから、そんなに気にしなくって大丈夫ですよって。絶対言っておいてくださいね!」

確かに気にし過ぎだが、カイトもカイトでどうしてそこにこだわるんだ?カイトこそ、私のこと気にし過ぎてないだろうか。それに関しては、私がマスターだから普通のことなのかもしれないが。まぁ、言うだけ言っておくけど。

40 前日(カイトside)

しまった!今日もマスターが先に起きていた。寝顔見逃した!昨日マスターが貸してくれたカメラで保存しておきたかったのに。

リビングに降りてみると、マスターは地図を広げ、片手に本を持ち、もう片方の手は紙にメモをしている。
今話しかけるのはさすがに申し訳ないかな。

マスターって、裸眼視力いいのかな。コンタクトの付けはずしも見たことがない。こういう作業時だけ眼鏡をかけてる、そんなマスターも見てみたい。今度リクエストしてみようかな。はぁ!?って言われそうだけど。

作業が一段落したらしい。伸びをしている。

「おはようございます。マスター、何してるんですか?」
「あぁ、カイト起きたのか。旅行の計画だよ。お昼をどこで食べるとか、どの電車に乗るとか。」

マスター、集中してたからでしょうか。僕がずっと見ていたことに気づかなかったみたいですね。
マスターのメモを受け取り、ざっと眺める。

「ほー…厳密なところは厳密で、自由度高いところは自由度高いんですね…楽しみです!」
「あぁ。結構強行軍だから、きっと疲れるけどな。」
「僕は大丈夫です。むしろマスターが心配です。」
「私はまだ若い。」

別に年がどうとかそういうつもりはないですよ?

ーピンポーンー

マスターが何かを受け取る。きっぷかな?

「マスター!」
「カイト、きっぷが届いた!」
「はい!」

「明日は始発だから、早く寝ような。」
「もちろんです!」
「仙台でお昼ご飯を食べるから、朝は軽い物を捨てられる容器で持っていこう。私作るから。」
「はいっ!」

マスターが楽しそうだ。僕のためにいろいろと気遣ってくれているんだと思っていたけれど、それはそれで嬉しいけれど、マスターがマスター自身として楽しそうにしているのが見て取れた。

「今日は絶対ちゃんと寝ろよ?」
「わかってますって。」

Trrrr....Trrrr....

仕方なさげに電話を受けるマスター。

「もしもし?」
「あの女の話以外なら何でも受け付けるぞ。」

萌さんのことだろうか。

「あれ、言ってなかったか?」

「言わねーよ。むしろ明日から一週間くらい旅行に出かける。だからこの間は電話されてもそんなに出られないと思う。」
「私が旅行に出かけたら悪いか?」
「あぁ、カイトと一緒だったら、出かけてみてもいい、かな、そう思ってさ。北海道とか東北とか行くけど、お土産は何が良い?松前漬けとか塩辛とか、いぶりがっこはどうだ?」

電話の主は恭一さんだろうか?

「美味しいんだぞ!?」

マスターの目の色が変わる。

「それ、渋いって言葉使うのは間違ってる。」

「お前まさか、茎わかめとか酢昆布とか、さきイカとか干し梅とかの美味しさがわからないのか?日本人だろ!」

必死なマスターが可愛らしく微笑ましい。
マスターのこの遠慮の無さから見るに、やはり恭一さんだろう。

「あぁ。ありがとう。現地でときおり連絡入れるかもしれない。それと、3日にいっぺんくらい私の家見といてくれるか?」

だが、恭一さんには言っておきたいことがある。

「マスター!恭一さんなら変わってください!」
「え、あぁ。カイトが話したいって。」

「もしもし、カイトか?」

「もしもし恭一さん?この前はお世話になりました。マスターは僕がついてるんですから、そんな気にしなくても大丈夫ですからね!」

「お、おう、そうか。他、何かあるか?」

「それだけです。では、失礼します。」

「あぁ、じゃあな。楽しんで来いよ。」

ープツッー

「恭一さんって、マスターのことかなり気にしていますよね。」

萌さん言ってました。この国は従兄妹同士でも結婚できるって。

「なんか、妹を溺愛してる兄みたいな感じがします。」

萌さん言ってました。未来はどうなるかわからないって。

「やめてくれ。ただ、私と琥珀は、小さい頃からよく恭一と遊んでたからな。」

向こうはどう思ってるかわかりませんよ?僕の考えすぎかもしれませんけど。

「今度マスターからも言っておいてくださいね?僕がいるんだから、そんなに気にしなくって大丈夫ですよって。絶対言っておいてくださいね!」

多分、僕の方こそ気にし過ぎなんですね。
でも、それくらい大好きなんです。
マスター、あなたのことが。

マスターの白いドレス姿が目に浮かんだ。
僕は…機械なのに。
それよりなにより、今は明日のことだけを考えることにした。写真、沢山撮りたいなぁ。マスターとの2ショット。

~interval-10(萌side)~

テレビの音と笑い声が聞こえる。

「リンちゃん、レンくん、おはよう。」

わたし、こんな変な声だったっけ?
頭がぼーっとする。体中が痛い。妙な寒気がする。
「顔色、悪いよ?って、熱っ!マスター今タオル冷やしてくるから待ってて!寝ててね!?」

リンちゃんに押され、ベッドへと戻る。そうか、わたし熱出したんだ。

「マスター、電話。大丈夫?昨日雨の中歩いてくるから…」
「あ、レンくん。ごめんね、ありがとう。」

恭くんからだ。昨日は、連絡してもほとんどつながらなかったし、忙しいみたいだったと言っていたけど、今日はどうだったんだろう。

「もしもし、恭くん?」
「翡翠に今日また電話してみた。」
「ひーちゃん、どんな感じだった?」
「その件に関しては、相当怒ってるみたいだ。電話に出るなり開口一番、『あの女の話以外なら受け付けるよ』ときたもんだから、仕方ないから近況を聞いた。」
「そう…。」

もしかしたら昨日連絡がつきにくかったのは、本当に忙しかったわけではなくて、わたしのことについて話したくなかったから、意図的に忙しいフリをしたのかもしれない。

「明日には、カイトと二人で旅行に行くらしい。俺たちから連絡しても出られないだろうって言ってた。一週間とかなり長いらしいから、その間に収まってくれるといいんだが。」

「ひーちゃん、元気だった?」
あれだけ長いことふさぎ込み続けていたひーちゃんに、きっとわたしは追い打ちをかけてしまった。

「あぁ。むしろ楽しそうなくらいだ。」
「そっか、それならよかった。」

「すまんな。」
「え?」
「翡翠が迷惑かけた。」
「そんな!恭くんが謝ることじゃないよ。元はといえば、わたしがいけないの。」
「とりあえず、それを考えると堂々巡りするからな…。てか、電波悪いのかな。結の声が変に聞こえる。」
「それ、電波じゃない。」
「おい、具合悪いのか?今から行く。何か食べたいものあるか?」
「いいよ!大丈夫だから心配しないで!恭くんにうつったら大変だし。」
「うつったら大変とか言ってる時点で大丈夫じゃねーよ。いつも通り頼れ。じゃあ切るぞ。」

恭くんは、優しすぎるんだよ…。
ひーちゃんにも、わたしにも気を遣ってる。
わたしにそんな気を遣わなくたっていいのに。
そんな、気を遣ってもらうような価値、わたしには…

「マスター、濡れタオル持ってきたよ。遅くなってごめんね、なかなか水が冷えなかったの。」

リンちゃんも、レンもそう。わたしなんかに時間や労力さかなくたっていいんだよ…

どうしたらいいんだか、もうなんにもわかんない…

41 朝(カイトside)

「マスター、マスター起きてください!」
「早いな、お前ちゃんと寝たのか?」
「寝ましたよ。せっかくのマスターとの旅行、万全のコンディションにしたいじゃないですか。」
「そうだな、えらいえらい。」

なっ!?マスターが撫でてくれた!?1週間分くらい余裕で充電されましたありがとうございます!
そんなこと言ったらしょっちゅうマスター眺めてしょっちゅう充電されてるんですけどね♪

まだ、陽は出ていない。マスターが二人分の朝ご飯を作ってくれている。

「じゃあ、行くよ。」
「はい!」
僕の足どりは言うまでもなく、マスターの足どりも、心なしか弾んでいるように見える。
今日もポニーテールだ。

「マスター、持ちますよ。」
僕としたことが、マスターが朝ご飯の紙袋を持っていることに気がつかないなんて間が抜けていた。

「いや、いい。それより、前から思っていたんだけど、外でマスター呼びはやめない?なんか変な人だと思われそうだし。まぁ、カイトは元から変だけど。」

まさか、そんなところを指摘されるとは。

「じゃ、じゃあなんて呼べばいいんですか?っていうか、元から変ってひどくないですか!?」

「なんでもいいよ。だって、青いし、箱に入って届くし。十分その時点で変だよ。」

青はアイデンティティです!
箱に入ってたのは僕の意志じゃないです!
なんでもいい、ってのが一番困るんだよなぁ…

「うーん、なんて呼ぼう…」
「いや、そんな考え込まなくていいから!」
「だってマスターが変えろって言うから…」

だって、変な呼び方じゃ絶対いやがりますよね?
でも、萌さんひーちゃんって呼んでるから、ある程度は崩しても大丈夫かな。しかし恭一さんみたいに翡翠って呼び捨てで呼ぶのは畏れ多いし…

結局、駅について始発列車に乗ってからも考え続けていた。早い時間だからか、人が少ない。

そもそも電車自体、初めて乗ったのだが、ソファーのような席が向かい合っているのはボックス席と言うらしい。
僕はもちろんマスターの隣。

「向かいじゃなくていいの?狭くない?」
「大丈夫です。というか、隣がいいんです。」

それに、もしも混んできたときに誰かがマスターの隣なのはちょっと嫌だから。

「はい、これ食べな。」

紙袋からサンドイッチを取り出して僕に手渡してくれる。

「ありがとうございます、マス…ごめんなさい。」
なぜかマスターは怒らないどころか、笑っていた。

「もしかして、まだ考えてたのか?本当になんでもいいのに。」

だから、何でもいいが一番困るんですよ。
名前に「さん」をつけるのも、どこか距離がありそうで嫌なんです。

所在なくて、僕はただ黙々とサンドイッチを食べる。
ただ黙って景色を眺める。高層ビルや大手の店が建ち並ぶ街並みは、瞬く間に田園風景へと変わる。

マスターもサンドイッチを食べ終わったらしい。
ゴミ、回収しますよ。そう言おうとして詰まった。
「翡翠…ちゃん…、そのゴミ、持ちますよ…」

なんだこれめちゃくちゃ恥ずかしい!!
マスターは飲もうとした午後ティーを吹き出しそうになる。

「なんでそんな笑うんですか!僕…結構がんばったんですよ…。」

「だってお前今…翡翠ちゃんって…ははっ」

「呼び捨てにするのは畏れ多かったし、さん付けは距離があるみたいで嫌だったんです。だから、それしかなくって…」

マスターは未だに笑い続けている。こんなに笑われるのは不本意ではあるけれど、逆に考えれば、マスターにこんなに笑ってもらえるなら本望かもしれない。

「ったく…このバカイト…お茶飲めないじゃないかっ…はははっ…翡翠ちゃんって…あははっ…」

ー次は、黒磯…黒磯ー

あれ、確か黒磯って…
昨日マスターが僕にくれたスケジュール表を見る。

「マスター、乗り換えですよマスター!」

「え、あ!そうだな、ありがとう。」
結局呼び方がもとに戻ってしまった。

キャリーバッグを抱えて階段を上がり、3番線ホームへと駆けるマスターを追いかける。
僕に持たせればいいのに。

「ふーっ、間に合ったな。」
「キャリーバッグ重いんですから僕持ちますって。」
「あぁ、忘れてた。」

僕に任せればいいようなことも、マスターは大概一人でやってしまう。格好いいと言えば格好いいけど、女の子なんだからもっと頼ればいいのになと思う。

電車が動き出した。

42 ぴ(翡翠side)

「ふーっ、間に合ったな。」

電車に間に合ったのに、カイトはどこか不満げだ。

「キャリーバッグ重いんですから僕持ちますって。」

頼れ、そういうことか。

「あぁ、忘れてた。」

まぁ、順当に考えればカイトに持ってもらうべきなのかもしれない。今まで、ずっと一人でやってきたから一人で出来てしまうだけなのだ。頼りないと思ってるとか、信用してないとか、そういうわけではない。

私はそんなに気にしたことはなかったが、案外カイトは気にするのかもしれない。

窓から見える空が、青く透き通っている。
私はペットボトルを開ける。

「飛行機雲ですよ!翡翠…ちゃん」

飲む前で本当に良かった。

「やっぱりその呼び方、なんかおかしい。」
「じゃあなんでもいいなんて言わないでくださいよ!」

頑張って言ってる感と、ちゃん付けと敬語のミスマッチにどうしても笑ってしまうのだ。

「しょうがないですね…じゃあ、ぴーたんで。」

「は!?」
中国の卵料理じゃないか!
どうしてこうなった!

「なんか可愛いと思いませんか?」
「やめろ、おかしい人みたいだ。」
「なんでもいいって言ったじゃないですか。」

限度があるだろ!

「もはや原型ないだろ!」
「ぴ、があるじゃないですか。」

そんなん原型じゃない!

「私は翡翠だ。ぴすいじゃない!糸魚川ぴすいとか誰だよ意味わかんねーよ!」

車内がしんと静まり返る。乗客の視線が一点に集まる。

私だ…

どうしようもなく恥ずかしくて、カイトの手を引いて別の車両へと移る。

「ちょ、どこ行くんですかマスター!」

結局マスター呼びに戻るんだな。

隣の車両で、席に座る。
カイトは私が書いたスケジュール表を楽しそうに眺めている。
スケジュール表だけでこんなに楽しめるものなのか?特に面白いことを書いたつもりはなかったのだが。

「どうかしましたか?」
「いや、随分楽しそうにスケジュール表見てるな、と。」
「マスターが書いてくれたからです。」
「まさかゴミ箱漁って私の書いたメモ保存したりとかしてないよな?」
「なんでそんな発想になるんですか!」
「カイトならやりかねない。」
「マスターの中で僕はどんなキャラしてるんですか!」
「ところどころ変態で、アイス好きのバカイト。」
「なんか酷くないですか!?」
「事実だから仕方がない。」

私のもとに来たときからそうだったが、こいつは反応が面白い。

「マスター、面白がってません?」
「悪いか?」
「いや、そういうわけじゃ…」
私が首を少し傾げて訪ねると、なぜかそっぽを向いてしまった。

カイトの肩が震えている。どうしたんだ?何か笑いをこらえているのか?
「おい、どうした?」

「ぴ…ぴぴぴ……ぴすいって…マスター可愛いっ…ぴぴっ…」

今更そこにウケてたんかい!
まず私可愛くないし。ぴすいじゃないし。
よし、無視しておこう。

「ぴぴっ…ぴ……ぴぴぴぴ…」

ついに壊れたか。

「ぴぴぴ…ぴっぴ……ぴぴっ…」

さすがにうるさい。

「いい加減黙れ。」
「ふーっ…」

深呼吸しないと収まらないのか。

「…ぴぴっ」
「お前はヒヨコか!」
「マスターになら飼われてもいいですよ!」
「発言を慎め!」

ーまもなく、仙台。仙台。お出口は、右側です。ー

他の乗客も、せわしなく動き始める。
「ちゃんと迷子にならないで、ついてこいよ?」
「わかってますよ。大丈夫です。」

本当か?
こいつのことだ。すぐ何かに引っかかるんじゃないか?
カイトの手を引いて、一緒に電車を降りる。

「マスター、あっちにソフトクリームあるみたいですよ!食べましょう食べましょう!」

案の定だ。

「お前、さっきスケジュール表見てたよな?」
「はい!」
「仙台のところ、なんて書いてあった?」
「お昼ご飯…」
「ソフトクリームは昼ご飯にならないだろ?」
「…ごめんなさい」

駅前の、七夕祭りの飾りが綺麗だ。

「マスター、牛タン名物みたいですよ!」
「昼ご飯入らなくなるぞ。」

安くて美味しいアナゴ料理のお店があると聞いている。アーケード街を通り、店へと向かう。

「何がいい?」
「マスター、このアナゴ握りセット、結構豪華ですよ。」
アナゴ握りに冷麺、数々の小鉢がついて900円だ。オススメと書いてあるだけあり、いろいろあるメニューの中でも特にお得な感じがする。
「私、それにしようかな。」
「僕もそうします。すみませーん。」

私たちの元にお膳が運ばれてくる。
この握り、一つ一つが結構大きい。
「身、厚いですね。」
「あぁ、美味しそうだな。いただきます。」
「いただきます。」

身がふっくらしている。こんなに美味しいアナゴをこの価格帯で食べるのは東京では無理があるんじゃないか?
小鉢の一つ一つにも手が込んでいる。
ふと見ると、カイトのお膳はまだ手が着いていない。

「食べないのか?」
「写真、撮ってました。」

すっかり忘れていた。カイトにもカメラを持たせておいてよかった。
お膳全体と、料理一つ一つをそれぞれ撮っているようだった。
…あれ?
ついでにご飯を食べている私が盗撮されている。

「…盗撮禁止。」
「いいじゃないですか、食べてるとこくらい。」
「一言言え。」
「自然な姿がいいんじゃないですか。」
「どこの評論家だ。」

「お弁当、こちらになります。」
食べてる間にと頼んでおいた穴子重のお弁当を、店員さんが持ってきてくれた。
ちょうど私たちも食べ終わった頃だ。

「じゃあ、そろそろお会計して行くぞ。」
「僕、荷物もって先に外に出てますね。」
「あぁ、頼む。」

会計をすませ、店の外に出る。
カイトは仙台が名残惜しいようだったが、電車の都合上、すぐに電車に乗る。また今度来ような。

盛岡の方まで進む列車は、少し混んでいるようだった。
「座ったらどうですか?マスター。」
「どこに?」
席ないのに?
「マスターならトランクの上に座っても多分大丈夫だと思いますよ。」
「それじゃ小学生みたいじゃないか!」
「壊れないと思いますけどね…」
「そういう問題じゃないだろ。あとそれ暗に私に小さいって言ってるだろ。」
「そういうつもりじゃないです。マスター気にし過ぎですよ。」
「いいよなお前は背が高くて。」
「僕が小さかったら格好つかないじゃないですか!」
「私だってつかねーよ。」
「マスターは可愛いからいいんです!」
「黙れ。」
何でこいつはことあるごとに可愛いって言うんだよ。
別に照れたりとかは…しやしない……はずだけど。

途中の一ノ瀬で列車が前後に分かれ、盛岡へ向かうのは前3両のみになる。慌てて前の車両へと移る。
どうしてだろう。こいつといるとなぜか、ただドタバタとした状況ですら楽しいと感じてしまう。

「マスター!鳥が飛んでますよ!」

この無邪気な笑顔のせいだろうか…。

「そうだな。カイト、宮沢賢治って知ってるか?」
「名前だけは。」
「『雨ニモ負ケズ』とか、『銀河鉄道の夜』とか、『セロひきのゴーシュ』とか、『やまなし』とか、聞いたことないか?」
「ごめんなさい、わからないです。」
「そういった有名な作家がいたんだ。ちなみに私が特に好きなのは『やまなし』だな。『クラムボンはかぷかぷ笑ったよ』とか、やまなしが『ぼかぼか』流れてくるところとか。目に浮かんでくる情景も綺麗だしな。確か家に本があったはずだ。帰ったら読んでみてくれ。」
「はい、それで、なぜ突然宮沢賢治の話に?」
「岩手県出身なんだ。それに、この後乗る列車はいわて銀河鉄道って名前だ。」
「そうだったんですね。それにしても意外でした。」
「何が?」
「マスターって結構、擬音語とか擬態語好きなんだなぁって。マスターいつもクールだから、法律みたいな堅苦しい文章とか、漢文とか読んでるのかと思ってました。」

こいつの私のイメージ、ぶっ飛んでないか?

「いや、読めるけどさ。」
「ちょっと意外なマスターも可愛いなって思いました!」

なんであれこれ全て可愛いに結びつけるんだよ!
「お前の可愛いの基準って、何でもありだろ。」
「マスター限定です♪」
「喜々として言うな。」
「だって、不機嫌に『可愛い』って言ったら不自然極まりないじゃないですか。」
「自然に言えばいいって問題じゃない。」
「マスター、つれないなぁ…」
「どこがだよ。」

確かに、もう少し素直に接していればとか、ちょっと無愛想すぎやしなかったかと思うことは、無くはないけど。

そうこうしているうちに、電車は盛岡にたどり着く。

43 虹、論文。(カイトside)

マスターが言っていた、「いわて銀河鉄道」に乗る。夏休みだからか、子供も多く乗っていた。
僕もマスターも、窓の外を眺めていた。

さっきまできれいに晴れていたのに、黒い雲が辺りを覆う。
「雨、降りそうだな。」
「雲行き怪しいですね…」

案の定、雨はすぐに降ってきた。バケツをひっくり返したような激しい雨。他の乗客もざわついていた。
マスターは外を見るのをやめ、地図に目を落とす。

「今、どのへん通ってるんですか?」
「このへん。ちなみに今まで通ってきたのはこういうルート。」
白く細い指で地図をなぞるマスター。
指先まできれいなんだな…
いつしか僕の思考は地図から遠く離れていた。
「カイト?」
「あっ!はい。かなり遠くまで来たんですね。」
「そうだな。」

ふと窓の外を見ると、雨が止んだみたいだ…あっ!
「マスター、虹が出てますよ!」
「本当?本当だ!」

座っていた子供たちも、体をひねって虹を一心に見る。
雲が晴れた空は、虹だけでなく透き通った蒼までも映し出す。

「虹、二つあるね。」

虹の光がさらに反射して、もう一つの虹を作り出す。
大きな虹は上から、赤橙黄緑青藍紫。
その下にかかる小さな虹は上から、紫藍青緑黄橙赤。

「カイト、カメラカメラ。」
「はい!マスター、携帯も出してください。」
デジカメで撮った後、僕はマスターを引き寄せる。

「ちょっと携帯貸してくださいね。」
ちゃっかり2ショットを撮っておく。

「ちょ、何やってんの!」
「いいじゃないですか。こんな景色、偶然が重ならないと見えないんですよ?」
「そ…そうだな。」

どうにかマスターを納得させる。
「そうだ、恭一さんに今の写真送りませんか?」
「何でだよ!」
「良い写真じゃないですか。」

バックには二つの虹と蒼い空。
中央には驚いた表情のマスター。僕はその隣で笑っている。何ともちぐはぐですが、僕とマスターらしくて良いと思っています。

「私、変な顔してるじゃないか!」
「マスターはどんな表情しても美人ですから。」
「そういう問題じゃないだろ。」

そう言ってそっぽを向き、再び窓の外を眺めるマスター。
そうやって隙を見せていると、また撮りますよ?

「今度は何撮ってるんだよ!」
「スクショです。」
「嘘つけ!」

嘘です☆

「返せ。」
携帯を奪い返そうとするマスターに抵抗する。
力で男性型アンドロイドに勝てると思いますか?
マスター華奢ですし。

「かーえーせーっ」
必死になってるマスターが可愛い。
意地悪したくなるのは、マスターが可愛いせいですよ?
携帯を引っ張り合っていたところを、パッと手を離す。

「ひゃっ!」
マスターっ!!
倒れそうになるのを見て、とっさに支えてしまう。
いや、僕が仕掛けたんだけど…
やっぱり意地悪しようにも、最後にはマスターに弱いんだなぁ…。そんな僕を悟られないよう、笑みを浮かべて言う。

「マスターの言うとおり、返しましたよ?」
「わかっててやったろ、このバカイト!」
「マスター、バカイトバカイトってあんまり言わないでくださいよ!」

そう言いながらも、マスターになら、バカイトって呼ばれたとしても構わない気がした。
マスターだけですからね?

次第に陽は落ち、辺りは暗くなってきた。東京のように夜でも明るい建物や街灯がそこら中にあるというわけではないから、夜になると本当に暗い。さっきまでは外を映していた窓も、今では鏡のように中を映し出す。

マスターは鞄の中からなにやら分厚い書類を取り出し、真剣に読み始めた。僕にわかるのは、びっちり文章が書いてあるということ、それが日本語ではないということくらいしかない。

「マスター、何読んでるんですか?」
「論文。」
「え!?」

やっぱり堅苦しい文章読んでるじゃないですか。マスターは僕のこと変とか言いますけど、旅行の車中で平気で論文読んでるマスターの方が変ですからね!?

「バグダードの遺跡について、新たな発見があったんだ。その発見が今までの見解を根底から揺るがすものでさ。新たな見解が次々と出ている。今学会で最もホットな話題じゃないか?」

さらっと世界の違うこと言わないでください!

「カイトも読むか?面白いぞ。」

いや、わかりませんって!

「英語だし、これくらい読めるだろ。」

確かに僕の言語エンジンには英語も搭載されてますけど、日常英語がせいぜいです。論文レベルになると、ネイティブでも厳しいんじゃないですか!?

「よし、夏休みのレポートこれにしよう。こういうタイムリーなネタ、教授好きそうだし。」

知りませんって!

唖然とする僕をよそに、黙々と読み続ける。

「あの、マスター。論文読むのもいいんですけど…」
「いいんだな?じゃあ読む。」

それだと僕がつまらないんです!
でも、突っ込む気も失せました。

「え!?そうだったの!?」
「なるほど、それだと説明がつくな。」
「あれ、だとしたらあの民族は…?」

僕にはさっぱりです!

ー次は…八戸。八戸。ー

そういえば、一戸、二戸とかもあったなぁ。
「そろそろ降りるぞ。支度しとけ。」

よかった、論文に夢中で気づいてなかったらどうしようかと思ってました。

八戸で、札幌行きの夜間列車を待つ。
マスターが、駅弁を買ってきてくれた。
昼に買った穴子重弁当と、今マスターが買ってきた三色駅弁を半分ずつ食べる。

「駅員さんのイントネーションが東京と違うね。」

言われてみれば、そんなような気がします。
「あ、これ美味しい!カイト食べてみ。」
「はい!」
マスターが勧めてくれた魚を食べる。鯖だ。
これだけじゃなくて、全部、美味しい。
もとからすごく美味しいものだ、というのはわかる。
でも何より、マスターと食べてることが一番幸せだ。

「ふーーっ、ふーーっ」
食べ終わってしばらくすると、マスターが何かに必死に空気を入れている。

「何してるんです?」
「この後車中泊だから、車中泊用の枕に空気を入れてる。」

だから、そういうときに黙ってやってしまわないで、僕に頼ってくださいよ。

「貸してください。」
半ば強引に、マスターからトラベル枕を受け取り、空気を入れ、栓をする。

「これくらいでいかがでしょう?」

「あ、ありがとう。」
マスターはまず強引に手伝われたことの方に驚いてるようですね。
僕の方はというと、純粋に手伝いたかったから、だけじゃないです。
もう、アイスを食べられちゃったときのようにテンパったりはしませんから。

「でさ、思うんだけど。」
「何でしょうか?」
「何でこの暑いのにずっとマフラーしてるの?」
「枕の代わりです。」
「いや、それなら寝る前までしまっとけよ!」
「僕のトレードマークです。」
「青い髪で十分識別できるわ!」
「むしろよく今まで突っ込みませんでしたね?」
「忘れてたんだよ。」
「忘れることなんですか!?」

もはや、どっちがボケでどっちがツッコミなんだろうか?
僕とマスターは、ホームにやってきた電車に乗り込み、指定された席に荷物を置く。

「電車の写真撮ってくるから。」
「マスター心配だから僕も行きます!」
「いやカイトの方が心配だから。というより荷物見てて。」
「はい…」

自分でも驚くほどにしょんぼりしている。
むしろ、今までずっとそばにいたんだ。それに、マスターも写真を撮りにほんの少し席を外すだけ。冷静に考えれば、それほどしょんぼりするようなことではないはずだ。

僕がマスターのことが大好きだとその都度認識するより先に、僕に自然と現れる行動の一つ一つが、僕に僕がマスターのことが好きで好きで仕方がないということを認識させる。

マスターはきっと気づいてない。
出会った最初の頃から僕はしょっちゅうマスターにくっついていたから、僕の特性としてそういうキャラなんだと思っているのかもしれない。

そう思っているのならば…。

僕はこの想いを伝えることはできない。
それはきっと、マスターを困らせる。彼女は人間で、僕は機械だ。
それはきっと、今のこの関係を壊してしまう。口が悪いようで本当は優しいマスターのことだ。僕に対してどう接して良いか、わからなくなって苦しむだろう。

それに、こうしてマスターと二人で暮らせて、マスターはご飯も作ってくれて、旅行にも連れていってくれて、なんだかんだすごく気にかけてくれて…これだけ幸せなことってない。

これ以上、何を望む必要がある?

「ただいま。どうした?カイト。」
「…えっ!あっはい!おかえりなさい!」
「ぼーっとしてた?」
「いや、大丈夫です!」
「そうか。」

僕の隣に座るマスターは、列車が発車してしばらくすると、うとうとと眠りについた。

そのまま僕に寄りかかってくれることを期待したが、少しもそんなことはなかった。気づかれないように寝顔を撮り、そっとマスターを抱き寄せる。

気づいてない?…気づいてない。

おやすみなさい、マスター。

僕の肩に乗ったマスターの頭に重ねるように、僕も頭を重ねて眠りについた。

ーinterlude-Ⅱー(恭一side)

「てか、電波悪いのかな。結の声が変に聞こえる。」
「それ、電波じゃない。」
「おい、具合悪いのか?今から行く。何か食べたいものあるか?」
「いいよ!大丈夫だから心配しないで!恭くんにうつったら大変だし。」
「うつったら大変とか言ってる時点で大丈夫じゃねーよ。いつも通り頼れ。じゃあ切るぞ。」

「出かけるのね、マスター。萌ちゃんのところ?」
「あぁ、留守番頼む。」
「具合悪いんでしたら、ネギが利きますよ!持っていってください!」
「俺がネギ背負ってたらいかにも鴨ネギじゃねーか。まぁいいよ、ありがとう。行ってくる。」

ったく、何やってんだよどいつもこいつも。
翡翠はカイトを預けるだの言い出して収まったと思えば結と大ゲンカ(半ば一方的にキレた?)しやがるし。
結は結で風邪引きやがるし…

そりゃ、翡翠の闇も結の闇も、カイトとリンレンが来たところですぐにどうにかなるもんじゃないけどさ。

結、プリンなら食うかな。
春爺のとこ、寄っていこうか。

「春爺、いますか?」
「お、今日は萌ちゃん一緒じゃないのかい?」
「あいつ風邪引いたんで、テイクアウトで萌のいつもの、お願いできますか?」
「できないことはないけど…、どれくらいかかるかい?」
「30分あれば多分着きます。」
「そうかいそうかい。でもまぁ暑いから、保冷剤つけとくね。萌ちゃんによろしく言っといてくれ。」
「わかりました、ありがとうございます。」

いつもの、という名の巨大プリンアラモードを持って、あいつの家へと向かう。

ーピンポーンー
「はい、今ちょっとマスター出られな…恭一さん?」
「リン、萌のお見舞いに来た。」
「うん。今開けるから待ってて。マスター、恭一さん来たよ。」
「お邪魔します。春爺の所に行って、いつものテイクアウトしてきた。プリンなら食べられるか?」
「わざわざよかったのに…。恭くんほんとにうつったらいけないから…」

顔全体が赤い。明らかに大丈夫じゃなさそうだ。
「レン、こいつ熱計ったか?」
「さっき計ったら39℃だった。」
「馬鹿全然大丈夫じゃないだろうが。」

「恭くんもそう…リンちゃんも、レンくんもそう…。みんな優しすぎるよね。わたしなんかに、そんな労力とか、気遣いする必要ないんだよ。」
「おい、お前までちょっと前の翡翠みたいな自暴自棄になるなって。今は病気で気まで滅入ってるかもしれないけどさ。」

ったく、俺はここまで来て何もできないのか?

「リンちゃん、レンくん…ちょっと外してもらえるかな?恭くんとちょっとだけ話したい…」
「うん、わかった。」「必要なときはいつでも呼んで?」
「ありがとう。」

結の手を、俺の手で包む。
「プリン、ありがとうね。後で、春爺にもよろしく言っておいてね。」
「お前、春爺と同じこと言ってる。」

「そう…なんだ。あのね、わたしね、なんにもわかんないの。」
「いいよ、聞くよ。」

上手な言葉をかけるのは、得意じゃない。
せめて、聞くくらいなら…

「わたしは結として生きるべきか、萌として生きるべきか。
それ以前に、わたしは結なのか、萌なのか。
わたしは、どうしたいのか。
どうして、ひーちゃんを怒らせてしまったのか。
どうすればよかったのか。これからどうすればいいのか。
どうしてみんながわたしに接してくれているのか。
わたしはみんなにどう接したらいいのか。
本当に、なんにもわからなくなっちゃったの。
わたしは、ふわふわ。悪い意味で、ふわふわ。」

「わからなくちゃ、いけないのか?」
「え?」
「わからない、そういう時期があっても、いいんじゃないか?」
「どういうこと?」
「お前は多分、今言ったことのすべてに答えを出せなくてはいけない。出せないのはダメだ。そう思ってるんじゃないか?半無意識的に。」
「そうなの、かな。」
「多分俺が言いたいのは、あのときお前が翡翠に言いたかったことと同じだ。悪くないんだよ。でも、俺もあのときのお前と一緒だ。上手な言い方がわからない。ごめん。」
「ううん、恭くん謝らないで。ありがとう。もう少し、わたしも落ち着いたら、また何かわかるかもしれない。今日はちょっと厳しいから、わたし寝るね。わざわざ来てくれてありがとう。」
「あぁ、早く体治せよ。プリンは冷蔵庫だから。」
「うん、ありがとう。じゃあ、ね。」
「あぁ。」

ダメだな、俺。
いつも、解決策らしい解決策を提示してやることができない。聞いてやること、要求をのむこと、陰で支えになることを模索すること。それくらいしかできない。
いや、それすらも、うまくいってないんじゃないだろうか…

「マスター、お帰り。萌ちゃんはどうなの?」
「あぁ、かなりキツそうだった。今日はもう寝るからってさ。」
「そうね、長居しても迷惑でしょうし。で、酒は帰りに買ってきてくれたのよね?」
「なんでだよ!」
「留守番したじゃないの。」
「はいはいわかったよ。」

44 札幌‐1(翡翠side)

列車に揺られながら、一夜が過ぎた。青函トンネルも通り抜け、北海道にとうに入ったらしい。

頭が重い。視界が真っ直ぐじゃない。
寝てる間に私はカイトに寄りかかっていたのか!?
それで、その上に、意図的かどうかは分からないが、カイトは頭を寄せた…と。

端から見ればただの仲良しさんじゃないか!
まぁ、仲が悪いわけではないが。

まだ時間は早いけれど、北海道は本州に比べて日の出が早い。
富良野、長万部など、本州ではあまり聞かないような地名を目にする。

懐かしい。
手帳に挟んだ写真を眺める。
あの時、まだ私は中学1年生で、琥珀は小学校5年生だった。
こんな未来、微塵も想像しやしなかった。
もしかしたら今年のこの旅行も、家族4人で行っていたかもしれなかった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「琥珀琥珀!起きてよ、青函トンネル通ってるよ!」
「ねーちゃん寝ないの?」
「寝るけどさ、でも、せっかく通ってるんだよ!?」
「俺眠い。」
「翡翠、眠れなくても静かにしてなさい。出張で疲れてる人もいるのよ。」
「はーい」

「ねぇねぇ、朝になったよ、北海道入ったよ。」
「まじで!?てかねーちゃん寝たの?」
「寝たよ。お母さんたちまだ寝てるから静かにね。」
「うん。ねーちゃん、あれなんて読むの?」
「ちょう…まん…ぶ…あ、おしゃまんべじゃない?」
「なにそれ当て字?」
「まぁ、元がアイヌ語だから、そうかも。でも、それなら札幌もそうだよ。」
「へー。」
「あまり聞いてないだろ。」
「腹減ったー。ねーちゃんなんかお菓子もってない?」
「持ってねーよ。」
「なんでだよ。」
「現地のおいしいもの、入らなくなるじゃん?」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「マスター、何見てるんですか?」
「……」
「マスター?」
「あっ…、ごめん。なんでもないよ。おはよう。」
写真を慌てて手帳にしまう。

「おはようございます、マスター、お腹すきましたね。」
「アイスは持ってないからな!?」
「僕、アイス食べたいとかまだ何も言ってませんよ!?」
「現地のおいしいもの、入らなくなるだろ?」
「だから僕まだ何も言ってませんって!」

「え?あぁ、ごめん。今のは気にしないで。」
「嫌だって言ったらどうしますか?」

「は!?」

「冗談です。ちょっと言ってみたかっただけです。あとマスター、まだ寝ている方がいらっしゃいますので…」
私、カイトに遊ばれてないか?
それにこんなことを言われてしまったら、どっちがマスターだか分からないじゃないか。

「もしかして、あんなにお腹すいたって一言に反応するってことは、マスターの方がお腹減ってるんでしょうか?」

さっき気にするなって言ったじゃないか。
「まぁ、それはともかく、もうすぐ札幌ですね。着いたら朝ご飯ですよね。」
「あぁ、札幌って言うの確かアイヌ語由来だったよな。」
「アイヌ語?僕そんなこと言いましたっけ?」
「ほら、富良野とか、長万部とか。私さっき言ったろ?」
「僕、そんなこと聞いてませんよ?」

あれ…?

「大丈夫ですか?」
「あ、いや、大丈夫だ、問題ない。」
「そんな装備で、ですか?」
「そうきたか。」

まだ私は、記憶と今の区別がつかないとでもいうのだろうか。

いや、それはない。
…と思う。

言い切ることはできない。

「降りますよ、マスター。」
「ん、あぁ…そうだったな。」
「本当に、大丈夫ですか?もし具合悪いようなら、早めにホテルにチェックインして休みましょう?」

「いや、大丈夫。体調とか、そういうあれではない。心配するな。」

「大丈夫ならいいですけど…」

これ以上心配かけるわけにはいかない。

「どちらにせよ、荷物置くためにチェックインはするからさ。それから、朝ご飯食べにいこう?」
「わかりました。」

予約していたビジネスホテルにキャリーバッグなどを置いて、カメラや携帯、財布などだけを持って外へ出る。

午前7時のアーケードをくぐり抜け、碁盤の目のような街へと出る。
地図を片手に、目的地へと向かう。市場の中の、海鮮丼屋さんだ。

「マスター、海鮮丼屋さんは、海鮮丼を売ってるんですよね。」
「いきなり何だ?」
「靴屋さんは靴を売ってて、魚屋さんは魚を、肉屋さんは肉を、寿司屋さんは寿司を、ラーメン屋さんはラーメンを売ってますよね。」
「突然どうした?」
「もちろん、牛丼屋さんもメインは牛丼。僕の大好きなアイス屋さんはアイス。でも、お店屋さんって何売ってるんですか?テナント募集のやつですか?でも、あれは土地を提供しているのであって、店そのものを売ってるわけではないですよね。」
「まぁ、言われてみればそうだな。」
「だから、ケーキ屋さんごっことかは分かります。でも、お店屋さんごっこって、何すればいいんですか?」

もはやこれは、経済学とか哲学とか、そういった類の深い話じゃないだろうか。

「あっ!おいしそう!」

人に難しい話ふっておいて自分だけ美味しいものに飛びつくな!

「置いてくぞ。」
「あっ!マスター待ってください!」

慌てて私についてくるカイト。
「お前は犬か!」
「わん」
「鳴けとは言ってない。」
「あ、ここじゃないですか?」
「あぁ、そうだな、ここだ。よくわかったな。」
「匂いです。」
「お前は犬か。」
「くぅ~ん」
「鳴けとは言ってない。」
「ダメですか?」

首を傾げてこっちを見るな!
こいつ、自分の破壊力に気づいてないんじゃないか?

「いいから、入るぞ。」
「わーい朝ご飯朝ご飯♪」
この脳天気野郎が。

「三色丼お願いします。」
「僕、サーモンいくら丼で!」

朝から海鮮丼なんて、あまりに豪勢だし普通は重たいから食べないけど、旅行くらいいいんじゃないかと思う。

「マスター、来ましたよ!」
「じゃあ、食べようか。いただきます。」
「いただきまーす!何だろうこの緑色のやつ。食べてみよう。」

やめろ!お前それは…

「£&#%*§☆¥@○※♪×$★!?」

わさびだけは教えておくんだった…
塊をそのまま食べたらそりゃあそうなるわな。

「マ"…マ”ズダー…なンでズカ、ゴれ…辛い"…ぶぎゃ…」
「わさびだよ馬鹿!水飲め水!ほらこれ!」

水の入ったコップを差し出すと、あっという間に飲み干す。

「ふぅ…ふぅ…」
「大丈夫…か?」
「はい…マスターが水くれたおかげでなんとか…」

データとしてはわさびくらい入ってそうなものだが、知らなかったとは。ただ、この無類のアイス好きのことだから、辛いもののデータはほとんどないのかも知れない。トムヤムクンとか今度食べさせてみようかな。完全に私の好みだが。

「あっ、サーモン美味しい。マスター、食べないんですか?」
「誰の心配で止まったと思ってる?」
「ごめんなさい。」
「まぁ、気をつけろよ?」
本当にこいつは、ほっとけないんだから…

朝ご飯を食べ終えた私たちは、早速札幌の街を観光する。

「知ってるか?冬になるとさっぽろ雪祭りってのをやるんだ。昔、雪ミクが倒壊して大変だったらしいが、雪ミクってカイトの妹の親戚か何かか?」
「あぁ、桜ミクとか、いろんなのがいますね。あの…ミクの前で雪ミク倒壊の話はしないであげてくださいね…?」
「わかった。会うことがあったら言わないでおく。」

話をするなってことは、以前話題になったことがあるのだろうか?
雪ミクの話はとりあえず置いておき、名所と呼ばれる時計台へと向かう。

「写真撮りましょうね、マスター。」
「あぁ、そうだな。」
「どんなポーズするんですか?」
「え、私が写るのか!?」
「写らないんですか?」
「私はいいよ。カイト撮ってあげる。」
「嫌です!」
「え、カイトって写真嫌いだったっけ?」
「マスターと2ショットがいい…」
「何でだよ!?」
「あっ、すいませーん、撮ってくださーい!」
「おい、ちょ待て!まだ道の途ちゅ…」

「撮りますよー、はい、チーズ!」

カシャッ

「ありがとうございます!」
「あ、うちのカイトがご迷惑を…」
「いえいえ、いいんですよ。」

「ほらほら、見てくださいよ。マスター可愛いです!」

背景がよくわからないところに、いかにも「してやったり」という表情のカイトと、両頬をカイトに引っ張られてる私がいる。

「どこがだよ、ただの変顔じゃねーか。」
「じゃあ、今度は僕がマスター撮ります!絶対可愛く撮りますから!」
「いいよ別に!」

カイトから顔を背ける。
あんまり可愛い可愛いって言わないでくれないかな。調子が狂うんだよ…

「照れなくっていいんですよ、マスター?」
「照れてない照れてない!」
なんなんだよもう!

「マスター、時計台ってあれですか?」
「あぁ、あれだよ。」
「…なんか、小さいですね。あ、時計台が、ですよ?マスターがじゃないです!!」
「それ、小さいですねから先いらなかったよな?」
「ごめんなさい…」
「まぁ、多くの人が期待していたものより小さいなって思うところだからな。」

「あっ!」
「どうしたのカイト?」
カイトは突然どこかへと走ってしまう。
「ちょ、馬鹿。勝手に行かないの!」

「あの、帽子、落ちましたよ。」
「あっ!お兄ちゃんありがとう!」
「どうもすみません。美希、気をつけなさいよ。」
「はーい。ありがとう!」

そういうことだったのか。
美希ちゃんは何度もカイトを振り返り、手を振りながら去っていった。

「カイト、優しいんだね。」
「見つけたら、あれくらいは当然じゃないですか?でも、よかったです。誰も見てなかったかもしれないし、もし帽子を見かけても持ち主がもう遠く離れてたら渡すに渡せませんから。」
「そうだな。」
「マスター、こっち来てください!」
今度は何だ?

「すみませーん、写真お願いできますか?」
「あ、いいですよ。」
「マスター携帯とカメラ借ります。えっと、この携帯と、このカメラでもお願いします。」
「はーい。」
「時計台の下で撮りましょう、マスター♪」
はいはいわかったわかった。

「いきますよー、はい、チーズ!もう1枚いきまーす」

「「ありがとうございました!」」

「あっ、マスターも笑ってる!」
「流石に名所で仏頂面はないだろ。」
「名所だから、ですか?」
「なんか変なこと言ったか?」
「僕がいるから、が良かったなぁ…」
「いや、まぁ一人で笑ってたらほら、ただの怖い人、だしな?うん、そうだな…」

なんでさらっとそういう発言するかなぁ…
そりゃ、カイトがいてくれるのは確かに楽しいけど、さ。

「次!次行くぞ次!」
「いぇす、マスター!」

45 札幌‐2(カイトside)

時計台を後にして、に向かう。
マスター曰く、クラーク博士の像があるところらしい。
クラーク博士がどんな人かは知らない。でも、いろんなことをよく知ってて、僕にとっての博士みたいなマスターが博士と呼ぶくらいだから、きっとすごい人だと思う。

「あれだよ、カイト。あれがクラーク博士。」
「あの、どこか指さしてる人ですか?」
「そうそう。Boys be ambitious!だな。」
「なんですか、それ。」
「少年よ、大志を抱け。彼の言葉だ。」

マスターが教えてくれるってことは、名言なんだな。

「少年よ、大志を抱けぇっ!」

あれ、マスター置いて来ちゃった?
あ、カメラ向けてる。

「あ、マスター写真撮ってるんですか?」
「なんでそれわかってて動くんだよアホか!」
「マスターも一緒がいいです!」
「なんで何でもかんでも一緒なんだよ!?」
「いいじゃないですか!あ、写真お願いします。」

マスターの方が当惑してるけど、ここはもう、積極的に頼むのがいいんですよ。いや、僕はマスターとの2ショットが欲しいだけですけどね。

「マスターも同じポーズしましょうよ!」
「えー、私も?面倒くさいなぁ…」
「ほら、かつてはボーイズビーアンビシャスでしたけど、今はガールズだってビーアンビシャスですよ!」

そうです、マスターだってビーアンビシャスなんです。あんまり意味はわからないけど。

「はいはいわかったしょうがないなぁ。」
仕方なさげではあるが、マスターが一緒にクラーク博士の像の下で同じポーズをとってくれる。

「マスターマスター、この写真、恭一さんに送りましょうよ!」
「あぁ、そうだな。」
いかにも北海道に来ました、そんな感じの写真だ。

”To:桐生恭一
 件名:札幌なう
 本文:クラーク博士の像のところにて。
 朝海鮮丼を食べたときにカイトがワサビの塊を知らないで食べて面白かった。またメールします。”

「はい、送ったよ。」
「なんでワサビの件を送っちゃうんですか!?」
「面白かったから。」

恭一さんのところにそれが知れたらまためーちゃんにバカイトって言われるじゃないですか!

「データとしてくらい入ってそうなものだけどな。」
「入ってなかったんです!」
「にしても、未知のものをあんな風に一口で食べようとするあたり、バカイトだよな。」
「またバカイトって言う…」
「はははっ。悔しかったら賢イトにでもなるんだな!」

うぅ…マスターが笑ってくれた、と思うとなんだかなぁ。
それにしても賢イトって…何それ新ジャンルですか!?
賢イトかぁ…極めてみようかな。

「キリッ」
「うーん、あんまり賢そうじゃないかな。」

ガーン!

僕とマスターはひとしきり景色を眺めてから、クラーク博士のいる小高い丘の上を後にした。

どこかのスキー場で、夏にリフトだけ解放しているところがあるらしい。マスターがやけに楽しそうだ。きっとマスターがこんなに楽しそうなら、とても楽しい乗り物なんだろう。
「カイト、リフトだぞリフト!ほら早く!」
「はい!」

「マスター、あれですか…?」
「うん、あれだよ?」

なんか、あの乗り物高いところ上ってますよね!?

「あれで…上まで上がるんですか」
「それ以外何がある?」

僕、高いところ苦手…なんだよな。
「乗らないのか?」
「い、いや!ののの、乗らせていただきます!」

勢いで言ってしまった。というか、マスターだけ乗って一人で待っているのも、僕のせいでマスターの乗りたかったものが乗れなくなるのも嫌だったから、消去法的にこうなってしまったのだ。

「おい、カイト大丈夫か?震えてるぞ?」
「だだ、大丈夫です!」

並んでいる段階からすでに心配されてしまっている。

僕たちの前に二人掛けのシートが現れる。
「乗るよ。せーの。」
僕たちを乗せたリフトは、一定のペースで上り続ける。

「うわっ!浮いた!浮いてますマスター!」
「そりゃ浮くわな。」
「安全バーとかないんですか!?」
「無いよ。てか、普通に乗っててたら落ちないだろ。」
「そうかもしれませんけど、危ないじゃないですか!」
「そんなにバタバタするな。それこそ落ちるぞ。」
「ひっ!」
ふと前を見ると、頂上は気が遠くなるほど遙か先だ。

ふとマスターを見ると、涼しげな顔で佇んでいる。
横顔もきれいだなぁ…
こうしてマスターを眺めていたら、少しは高くて怖いのも紛れるかもしれない。

「かなり高いところまできたよ。ほら、景色がきれい!」
マスターがいつになく無邪気な顔で遠くを指さす。

たっ…高っ!!
無理無理無理ダメですマスター無理です僕どうしよう…
「そうだ、この景色バックに写真撮ろうか。」

今ですか!?僕が撮ろうとすると嫌そうな顔するくせに…

「はい、チーズ」

携帯に写るマスターの笑顔が可愛すぎる。
高いし怖いし可愛すぎるし…いったい僕はどうすればいいんだ…?

「カイト。…カイト?ねぇカイトってば。」
「ははっはいっ!?な、なんでございましょうマスター!?」

「あのさ、やっぱり大丈夫?まぁ、降りるまでどうにもできないけど。てか帰りのリフトも乗らないと戻れないけど。」

え、下りも乗らないといけないんですか…さらっと死亡宣告された気分です…

「もしかして、怖い?」

気づくの遅いですよ!

「だ…大丈夫ですマスター」
「ほら」
マスターが手を差し伸べる。この手は…?

「手、繋いでてもいいから。少しは、マシでしょ?」
「あ、ありがとうございますマスター!」

ついにキターーーー!
マスター公認で手を繋げるなんて!
我慢して乗ってて良かった…っていうか生きてて良かった!
マスター、あなたという方は天使なんですね、いや、女神様ですねわかります!

そんな僕の隣でマスターは
”To:桐生恭一
 件名:リフトなう
 本文:景色がすごくきれい!カイトが高いところを怖がってて可愛い。またメールします。”

「なんでそれ送っちゃうんですか!?」
「え、面白かったから。」
もしかしてマスター、心配する風で実は面白がってます?
それに、メールの文面に可愛いって…

「マスター」
「何?」
「男に可愛いって、あんまり誉め言葉じゃないですからね!?」
「あれ、そこまで見てたの?」
「すみません。」
「まぁいいけど。そろそろ降りるよ。準備しないと転ぶよ。」
「はい!」

はぐらかされたような気がしないでもないが、転んでしまったらそれこそバカイトと笑われてしまう。

「降りるよ、せーの。」

リフトを降りたところには、景色を見たり休んだりできる小屋があった。
あ!あれは…

「マスター!ソフトクリームがありますよ!」
「言うと思った。食べたいなら食べたいって言え。暗に言ってるのはわかってるけど。」
「食べたいです!すごく!」
「おいで。何味がいい?」
「限定ミルク味です!」
「すいません、限定ミルク味2つお願いします。」
「2つも食べていいんですか!?」
「アホか、一つは私のだ!」

もちろん、わかって言いましたよ。ただ、突っ込み入れてるマスターも大好きなんです。こう言ってしまうと僕はドMみたいですけど違います。それだけは違います。

「はい、これ。」
「やったぁっ!」
手渡されたソフトクリームは、かなりの大きさだ。それに、限定ミルク味だけあってとても濃厚でおいしい。
「おいしいですね、マスター。」
「おいしいね。北海道だもんな。」

僕のデータのなかに「北海道=おいしいもの」という関係が結ばれる。間違ってることはないだろう。

小屋のベランダに出て景色を眺めるマスターについていく。
「マスター、ソフトクリーム多くないですか?」
「あげないからな!」

残念。マスター小さいから、ソフトクリームがより大きく見える。怒られるから言わないけど。

「そろそろ、下りのリフトに乗ろうか?」
「は…はい。」

下りもやっぱり怖かったけれど、ずっとマスターが僕の手を繋いでいてくれたから、乗って良かったな。そう思った。

46 ユニット(翡翠side)

お昼ご飯を買い食いですませ、夜にはジンギスカンを食べた。
「ジン・ジン・ジンギスカーンって歌があってさ。小学校の時運動会のダンスで踊らされた。」
「え、マスター踊ってみてくださいよ!」
「嫌だよ何で今踊らないといけないんだよ!」

ジンギスカン焼きながら突如歌って踊り出したらただの酔っぱらいじゃないか。私まだ19だから飲めないし。

ジンギスカンをお腹いっぱい食べたところで、早めにホテルに戻る。

「ここ…ですよね?」
「あぁ、番号確認したが、間違ってない。」

「僕、2名で一番安いとこ、でネット予約したんですが…」

ベッドが一つしかない。
だが、シングルベッドにしては広すぎる。枕も二つある。
一緒に寝ろ、と!?
「カイト、お前床で寝ろ。」
「え!?ちょ、それは酷くないですか!?」

確かに、昨日も車中泊で明日も強行軍であることを考えると可哀想だ。

「寝相で私のこと、蹴らないでね。」
「蹴りませんよ!」

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「翡翠、琥珀と一緒のベッドでもいい?」
「嫌だよお母さん!あいつ寝相悪いから私蹴られる。」
「寝相ばっかりはどうしようもねーんだよ!」
「琥珀お父さんと一緒に寝てよ!」
「それじゃあ父さんが蹴られるじゃないか。」
「えー。とりあえず私は琥珀と一緒は嫌だ!」
「しょうがないわねぇ。じゃあ、私と翡翠でダブルベッドを使って、父さんと琥珀は2段ベッドで、それでいいかしら?」
「オッケー!なーなートランプしようぜトランプ!」
「負けて泣いたりしないでよ?」
「ねーちゃんこそ!」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「マスター、マスター?」
「え、あぁ、ごめん。ぼーっとしてた。」
「お風呂、先いいですよ。」
「あぁ、ありがとう。」

着替えを持って、シャワーを浴びる。ユニットタイプだから、トイレの方まで濡らさないようにカーテンを閉める。
シャンプーして、トリートメントを流した次の瞬間…

ツルッ
「きゃうっ!!」
「大丈夫ですかマスター!」
シャラシャラシャラ

な…な…
「なんでカーテン開けるんじゃボケぇ!このバカイト!変態!ドアホ!」

「わあああっ!ごめんなさいごめんなさい僕はただマスターが心配でお風呂だってこと忘れてましたごめんなさい!」
「言い訳はいらん!」
「ひゃあああああ!」

あ…シャワーのお湯かけちゃった…当然のごとく、トイレの方も水浸しだ。

パジャマに着替えて、一通り掃除をする。
カイトもパジャマに着替えていて、さっき着ていた服は干してある。さすがにシャワーをぶっかけてしまったのは悪かった…

「あの…さっきは…」
「「ごめんなさい!」」

………気まずい。
「あ、あの、カイトタオル足りなくなっちゃったでしょ?私フロントに行ってもらってくるから…」
「いや、いいです、僕自分で行きますからマスターここにいてください!」
「あ…そう?なら、わかった。」

そう言ってカイトは部屋から飛び出した。
冷房、入れようかな?
薄いネグリジェでは、寒く感じるかもしれない。
とりあえず、明日の支度をしようか。

47 ネグリジェ(カイトside)

「きゃうっ!!」

マスター!?

「大丈夫ですかマスター!」
シャラシャラシャラ
マスターの今いる場所のことも忘れて、心配で夢中でカーテンを開けてしまった。

そこにいたのは……

「なんでカーテン開けるんじゃボケぇ!このバカイト!変態!ドアホ!」

やっちゃったよ僕!いや、本当にそう言うつもりは一切無かったんです!!

「わあああっ!ごめんなさいごめんなさい僕はただマスターが心配でお風呂だってこと忘れてましたごめんなさい!」
「言い訳はいらん!」
「ひゃあああああ!」

水圧最大のシャワーをぶっかけられる。
…当然だ。この前といい今日といい、本当にとんでもないものばかり見てしまってないか?

仕方なしにジャージに着替え、さっきまで着ていた服を干す。

どうしよう…
どうしようどうしようどうしよう…

さっきのマスターの姿が頭から離れない。

滑らかそうな白い肌。
艶のある黒い髪が濡れてはりついた姿がよけいに色っぽい。

…って、だからさっきから僕はなに考えてるんだよ!?
さっきの僕のせいでマスターがお嫁に行けなかったらどうするんだ僕は?

あれ、マスターがお嫁に行かなかったらずーっと僕のそばにいてくれるかな…

だから!そういうことじゃなくて!
はぁ…マスターの顔見れないよ。
それに、ベッド一つしかないし…

どうしよう!もう本当にどうしよう!!

一人でバタバタとしていたら、マスターが上がったらしい。

「あの…さっきは…」
「「ごめんなさい!」」

え、マスターはどうして謝るんですか?
お湯かけるくらいはあの状況なら当たり前なのに。

っていうかマスターその格好…
家で寝るときはいつもジャージでしたよね!?

何でそんな女っぽいネグリジェなんですか!
それで僕をどうするつもりなんですか!
いや、多分マスターのことだから、ジャージだとかさばるとかそういう理由なんでしょうけど…

マスター、あなたはもうちょっと自分の破壊力わかった方がいいですよ。

「あ、あの、カイトタオル足りなくなっちゃったでしょ?私フロントに行ってもらってくるから…」

その格好で出ていかないでください!
いろんな意味で!僕こんなに可愛いマスターを他の人にまで見せたくないです。
いや、それはまずいか。

「いや、いいです、僕自分で行きますからマスターここにいてください!」
「あ…そう?なら、わかった。」

マスターの顔をまともに見ることもできなくて、僕は夢中で部屋を飛び出した。

「すみません、タオルをもう1セットいただけますか?」
「わかりました、少々お待ちください。」

マスター、僕のお嫁さんになってくれないかな…?
あんなことがあったのに、こんなことばっかり考えてしまう自分が嫌だ。マスターも、こんな僕のこと、気持ち悪くないだろうか?
やっぱり、床で寝ようかな。

タオルを受け取って、部屋に戻った。
「マスター、お風呂、入ってますね。」

シャワーを浴びながら、僕はただ思考を落ち着けるのに必死だった。

それでも、何をどう足掻いても、どんな思考回路を回しても、行き着く先はただ一つだった。

大好きです、マスター。

僕が風呂から上がると、マスターは何かを眺めているようだった。

もしかして、泣いてる…のですか?
「あっ、カイト、上がったんだ。」

慌てたように眺めていたものをしまうマスター。
「明日も忙しいから、早く寝たら?」
「マスターは、寝ないんですか?」
「私はまだ、やることがあるから。」

僕がベッドにはいるのを見送るとマスターは、電気を消し、小さなスタンドをつけた。
再び、さっきの何かを眺めているようだった。

小さな、ほんの小さな、あたりが静かであっても気をつけていなければ聞こえないほどに小さな嗚咽で、マスターは泣いていた。

マスターからしたら、僕は寝ている方がいいのだろう。
きっとその姿を見せたくなくて、僕に先に寝るよう言ったのだろう。
本当は今すぐにでもそばに行って、抱きしめたかったけれど、あくまで寝たフリをする。多分それが、あなたのためなのだろう。

小さなスタンドを消し、ベッドの端に入ったマスターに抱きついたのは、もちろん寝相ではないです。
明日は、笑ってくれますように…

ーinterlude-Ⅲー(恭一side)

"新着メール2件
(添付画像あり)"

”From:糸魚川 翡翠
 件名:札幌なう
 本文:クラーク博士の像のところにて。
 朝海鮮丼を食べたときにカイトがワサビの塊を知らないで食べて面白かった。またメールします。”

教えてやれよ!まぁ、その暇なく食べちまったかもしれないけどさぁ。
しかし、翡翠もこんなポーズするんだな。カイトに押されたのかもしれないが。

”From:糸魚川 翡翠
 件名:リフトなう
 本文:景色がすごくきれい!カイトが高いところを怖がってて可愛い。またメールします。”

おい、怖がってる奴をリフトに乗せてやるなよ。
カイトも無理するなよ。でも、二人とも楽しそうだ。

それにしてもあいつ、随分と元気になったものだな。
「マスター、メールですか?」
「あぁ、ミクか。カイトが写ってるけど見る?」
「はい。あ、ちょっと待ってください。お姉ちゃん呼んできます。」

「何、バカイトの写真?何でそんなもんマスターが持ってんのよ。」
「カイトがマスターと旅行に行って、その写真だ。」
「へー、仲直りしたのね。」
「メイコ知ってたのか?」
メイコとミクには何も言わなかったはずだが。

「カイトがあいつのマスターと何かあった、くらいはわかるわよ。」
「この、お兄ちゃんの隣に写ってる女の人が、お兄ちゃんのマスターですか?」
「ちょ、ミク見せなさい。…なに、カイトこんな美人の所にいるの!?」
「私一瞬しか見てないよお姉ちゃん!」
「携帯壊すなよ…?」

「うっわぁ…マスター格差だわぁ…」
「メイコちょっと酷くねーか?」
「だって、カイトの所はもう、超が5つくらいついてもおかしくないくらいのべっぴんさんだし、リンレンのところは可愛い可愛い萌ちゃんなのに、私とミクだけコレよ?コレ。ちょっと不憫じゃなーい?」

ズケズケ言うなぁ…
「マスター、私はマスターのことも好きですよ?だから、お姉ちゃんの言うことはそんなに気にしないでくださいね。」
「ミクは優しいな…そうだ。」
萌…いや結か…にも伝えておこう。
ミクから携帯を受け取る。

「私たちは席を外した方がいいかしら?」
「あぁ、頼む。」
「ミク、行くわよ。」
「はーい。」

「もしもし、萌か?」
「うん、何?」
「体調はどうだ?」
「もう、大丈夫だよ。ありがとね。」

声を聞くに、多分大丈夫なのだろう。

「翡翠からメールが来たけど、お前の所には?」
「何も来てないよ。」
「そうか。」

もしかしてまだ怒っているのか?
いや、むしろ翡翠のあの様子は頭から関連事項の一切を排除しているようにも見える。

「わたしね、ひーちゃんが帰ってきたら、もう一度話してみることにしたの。」
「俺、仲介したほうがいいか?」
「ううん、大丈夫。恭くんに頼ってばっかりはよくないから。」
「言っとくが頼らなさすぎも問題だからな?」
「わたしに限ってそれはないから安心してよ。」
「どうだかな。また何かあったらすぐに言えよ?」
「うん。ありがとね。じゃあ、今日はリンちゃんとレンくんと買い物にいく約束があるから切るよ?」
「あぁ、じゃあな。」
「うん、バイバイ。」

ープツッー

うまくいってくれるといいんだが、な。

48 札幌→小樽(カイトside)

「カイト、起きて。」
マスター?
「起きてよ、起きなさいっての。朝ご飯先に食べに行っちゃうよ?」

「起きます!起きますから!」
マスターはもうとっくに着替えていた。

「いいよ、ジャージのままで。ほら早く。」
急いで靴を履いて、マスターと一緒に部屋を出て、ロビーの朝食ゾーンに向かう。

「あのさぁ、カイトって別の意味で寝相悪いでしょ?」
え、もしかして蹴ったりマスターの掛け布団奪ったりしてましたか!?

「確かに蹴らなかったけどさ、寝ようかと思ったら抱きつかれてびっくりしたんだからね?」
「ごめんなさい!でも寝相だけはどうしようもないです。」
「こいつ、蹴るとか言う普通の寝相悪いよりタチ悪いな。」
「あっ、マスター何飲みますか?オレンジジュースですか?」
「話逸らすな。まぁいいや。持ってきてくれるの?」
「はい!パンも焼きましょうか?」
「じゃあクロワッサン焼いといて。カイト、ウインナーとスクランブルエッグ食べる?」
「あ、食べます。」
「じゃあ運んどくね。」

僕が飲み物とパンを、マスターがカトラリーとおかずを運んで、僕たちの朝食がはじまる。
「「いただきます」」
「マスターマスター」
「何?」
「僕たちの朝食がはじまる、ってなんか格好良くないですか?なんか伝説の序章みたいで。」
「大袈裟だな。ちょっとそれで思い出した。フランス革命って言ってわかるか?単に私の趣味だが。」
「名前しか知らないです。」
「フランス革命の概要くらい知っておけ。常識だ。さて、1792年、革命が国家や周辺諸国の干渉によって潰されそうになったとき、多くの民衆が義勇兵として立ち上がり、周辺諸国連合群を打ち破ったことがあった。」
「わぁ…格好良いですね!」
「ヴァルミーの戦いというんだが、この戦いに従軍したドイツの文豪ゲーテは、なんて言ったと思う?」
「なんとかが始まる、ですかね?」
「そうだ。『今日、そしてここから新しい世界史が始まる。』そう言ったんだよ!格好良いよな!」
「はい!」

正直、フランス革命がどうとかよりも、いつもは気だるげなマスターが喜々として僕に語ってくれていたのが幸せだった。

「じゃあ、今日、そしてここから新しい僕たちが始まる。ですね!」
「そんなに歴史的な朝食なのか?」
「いや、マスターの手作りの方が好きです。」
「おい、さらっと言うな。」
「でも基本的にマスターと一緒に食べるのは大好きです!」
「まぁ、誰かと一緒に食べるのは、いいよな。」
「僕はマスターがいいんです!」
「えっと…あぁ…そうか。あり…がとな。」

マスターが照れてる!可愛い!
言うと顔背けちゃうから黙って見てよう。

今日は札幌から函館まで、鈍行を乗り継いでいくそうだ。昼には小樽に寄って、少し観光するらしい。

札幌駅の、ご当地ショップのようなところで牛乳を飲む。
「やっぱりアレだな、現地のものって感じがするな。瓶の紙のふたにクリームがついてる。味濃いしな。」
「アイスの原料の味がします。」
「いや、そうだけども!」
さすがにズレた感想ですよね。わかってて言いました。

駅のホームで、電光掲示板とマスターのくれたスケジュール表を照らしあわせる。

「あの…すみませんねぇ…この電車って、**駅って止まるかしらねぇ…」
「あ、すみません、私たちも旅行で…」

あれ、さっきの電光掲示板…

ー停車駅:○○・※※・**…ー
「**駅ですよね、だったら大丈夫です。これ、止まりますよ。」
「あら、どうもありがとうねぇ。」

年輩の方は、微笑んで去っていった。
「カイト、いつの間にそんなこと知ってたの?」
「電光掲示板に出ていたんです。」
「そっか…、偉いね。」

マスターに誉められた!
「こ、これくらい当然ですよ!」
「うんうん。」

揺られながら外を眺めていたところ、衝撃的な駅名を発見した。
「昆布…ですよね。」
「昆布だな。」
「海辺だから…ですかね?」
「ちょっと待て、今地図を出す。」
「見せてください。…って、内陸じゃないですか!」
「少なくとも海岸付近ではないな。」
「でも、昆布駅、ですよね…」
「あぁ、昆布駅、だな…。」
「内陸なのに何で昆布なんでしょうか?」
「私も知りたい。」

列車は昆布駅をすぎ、僕たちを小樽へと運ぶ。
小樽にはきれいな運河があるそうだ。

北の大地といえども、降り注ぐ日差しに容赦はない。
「青って、いい色だよな。」
「マスター?」
「涼しげだ。」
「いい色、ですよね。」
今のって、今のってマスター、僕のこと誉めてます?
誉めてるってことで受け取っておこう♪

運河へと歩く途中で、いかにも個人で経営しているような地元のパン屋さんに立ち寄る。僕とマスターのお昼ご飯だという。
「こういう、個人経営のお店って好きなんだ。場所によって味が違うだろう?」
僕は、そういうあなたの笑顔が好きです。

坂を下ると、目の前に運河が現れる。
どこかの絵画にでも出てきそうだ。
「前も来たけど、やっぱりここはいいな。」
そういって、橋の柵からマスターは頭を乗り出す。
気をつけてくださいね!?

ふと、マスターから一歩離れて見ると…
絵になっている!すかさずカメラを取り出す僕。
黒髪が風になびく。
陽の光は運河に反射し、さらにマスターの白い肌を照らす。

「あの、とても綺麗ですね。モデルさんですか?」

誰!?マスターに気安く近づいてるのは!

「いえ…違います…」
「写真撮らせていただいても…」
「すいませんこの娘は僕の専属なんで事務所通してください!」
「え、今モデルじゃないって…」
「アイドルなんです!僕の!マスター行きますよ!」
「あっ…うん!」
「マスターもはっきり断ってくださいよ。」
「うん、そうだね。」
「マスターわかってないかもしれませんけどすっごい美人なんですからね?」
「そ、そういうことなんでストレートに言うかなぁ…。」
「遠回しに言ったってマスターわからないじゃないですか。」
「まぁ、そうだけどさ。あのね、連れていきたいところがあるの。」

運河沿いを歩いたところに、いかにもレトロな雰囲気の建物がある。
「ここね、ガラス細工のお店なんだ。」
中にはいると、キラキラとしたガラス細工がそこら中に並んでいた。大きいものから小さいものまで。その一つ一つが、マスターの目に映り、その目は輝いていた。

「カイト、これ。」
マスターが手渡したのは、数枚の紙幣。
「え?」
「もっと早く渡せば良かったけど、ほら、カイトが買いたいもの、これで買っていいよ。食べ物でも、めーちゃんたちへのおみやげでも、なんでも。配分や使い方は、ちゃんと自分で考えてね。」

「はい!ありがとうございます!」
マスターにお小遣いをもらえた♪

「じゃあ、20分後にまたここにね。」
そういって、僕たちはバラバラにガラス細工を見ていた。

マスターの好きそうなの、無いかな…
あっ!
ガラス細工で小さなスイーツを象ったものが並んでいた。もちろんそこには、モンブランもある。
そうだ、これにしよう!さっきマスターがくれたお小遣いだけど、これを買ってマスターにプレゼントするんだ。
マスター、きっと喜んでくれる。
小さいものも、中くらいのものもあったが、あまりに小さすぎるのは、なんだか触れただけで壊してしまいそうで怖くて、中くらいのものを買った。
「あの、ラッピングしてください!」
「プレゼント用ですね?」
「はい!」

20分はあっと言う間にすぎ、マスターと落ち合った。
運河をもう一度眺め、有名な蒲鉾屋さんで蒲鉾を買い、列車に戻る。

「さっきのガラス細工屋さんで、可愛いの買ったんだ。」
そういってマスターが僕に見せてくれたのは、なんだか細長い海の生き物だった。
「なんですか、それ?」
「も、もしかして貴様…ニシキアナゴとチンアナゴも知らんのか!?」
「これ、アナゴなんですか?」
「食えないからな?というか、食うところがないからな!?」
「誰も食べるなんて言ってません!」
「水族館の水槽とかにいる、砂から顔出してるひょろっとしたやつなんだが、これが可愛いんだよ。1日中見てても飽きないな。」

もしかして、マスターも十分変な人なんじゃないだろうか。
それと、こんなに笑顔で買ったものを見せられると、なんだか僕は僕のプレゼントに自信が無くなってきた。

「カイトは、何か買ったのか?」
「は、はい。買いました。」
「見てもいい?」
「こ、これです。あの、開けてみてください!」
「開けてみてくださいって…うん、わかった。」
紙袋を開く音が響く。

「カイト…これって…」
「マスター喜ぶかな…って。」
「いいの?これ本当に貰っちゃっていいの!?」
「はい、もちろん!…あれ、マスター?もしかして気に入らなかった…?」
「いや…、嬉しくって…ちょ、あんまりこっち見ないで恥ずかしいから…あの、ありがとね。大切にする。」

え、泣いてるのは嬉し泣きなんですね!
大切にするって言ってもらえた!
嬉し泣きしながらちょっと照れてるマスターとか本当に可愛すぎてこっちが死にそうです…
はぁ…神様、僕はこんなに幸せでいいんでしょうか?
罰とか当たらないですよね…?

49 函館着(翡翠side)

ここから函館までは、多少の乗り換えはあるが基本的にずっと電車に乗り続けている。殆ど、森の中のようなところをくぐり抜ける。
カイトは、さっきのガラス細工の一件からずっと笑顔だ。私も、こんなサプライズがあるなんて思ってもみなかった。嬉し泣きしてしまうなんて、不覚だ。

窓を開けると、涼しい風が通る。
「結構風強いですね。」
「閉めると閉めるで暑いけどな。」
さっき買ったパンと蒲鉾を昼ご飯に、まったりと過ごす。
もうすっかり午後という時間に、列車は長万部に停車する。

「なんか外でやってるみたいですよ?」
「お祭りか?」
御神輿のような何かを担ぐ人と、その乗り物の上から餅を投げる人。

あぁ、あのときもそうだった。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「お母さんお母さん、あれ見て!」
「あら、投げてるの餅かしら。」
「拾ってる人いるよ!」
「ねーちゃん、もらいに行こうぜ!」
「行ってきていい?」
「そうね、20分くらい停車してるから、発車までに戻ってきてね。」
「「はーい!」」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
子供たちにサービスといって、私たちの方に投げてくれたんだっけ。それから、落ちてたのも拾って(もちろん袋に入っていたんだが)、二人のパーカーのポケットをパンパンにして車両に戻ったんだ。

「行っておいで。発車まで20分くらいあるから、それまでに戻ってきて。」
「マスターは行かないんですか?」
「荷物、見てなくちゃいけないだろう?」
「わかりました。じゃあ僕だけ行ってきますね。」
「行ってらっしゃい。」
あのとき私と琥珀を見送ったお母さんとお父さんも、こんな感じだったのだろうか。窓から、駆け回るカイトがよくわかる。あのときの私たちと同じように、パーカーのポケットをパンパンにして帰ってくる。

「戦利品ですよ、マスター!」
あぁ、戻ってくるときの言葉まで同じだ。
あのときも、二人で「戦利品だよ!」と言って誇らしげに餅を掲げたのだ。

「長万部っていいところですね!」
「お前は単純だな。」
「数えてみたら餅、8個ありました!」
「貰いすぎだろ!」
「え、いいじゃないですか。」
「まぁ、いいか。」

思い出したからだろうか、再び泣きそうになるのを堪える。私ってこんなに涙もろかったか?

函館に着く頃には、辺りは暗くなっていた。
私もカイトも、乗りながらしばらく寝ていたらしい。
「着きましたね、函館!」
「あぁ、着いたな。」

函館市でのみ展開しているチェーン店のラッキーピエロでハンバーガーとポテトを買って食べる。

「わぁ…あの椅子ブランコになってますよ!」
こいつ、引っかかると思った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ブランコだよ、ブランコ!」
「翡翠、気をつけてね。」
「大丈夫だって!って、わああっ!」
手を滑らせて、トレーのドリンクをひっくり返してしまった。
「大丈夫ですか!?」
親切な対応をしてくれた店員さんが、お父さんの同僚で、よくうちに遊びに来ていた人にそっくりだと大笑いしていたのだ。
「だから気をつけてって言ったのよ。」
「俺が持てばよかったかな?」
「琥珀はもっと心配!」
「ねーちゃんに言われたくねーよ!」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「カイト、気をつけてね?」
「大丈夫ですよ。」

カイトは、いつかの私と違ってちゃんと運んできた。

「良かった…」
「僕そんなに心配だったんですか!?」
「いや、なんでもない。気にしないで。それよりあったかいうちに食べて?おいしいから。」

ここのハンバーガーもポテトも大好きで、函館にいる間中、見つけては立ち寄り、見つけては立ち寄りで、2日半の間に7回も行ったのだ。

「!」
「だろ?おいしいだろ?」
無言で首をタテに振るカイト。

「ここ、ソフトクリームもおいしいんだよね。」
「!?」
「食べる?」
無言で首をタテに振るカイト。

ここのシルクソフトはその名の通り口当たりがなめらかなのだ。

ラッキーピエロを出てから、お弁当を買いに出かけた。
「こっちの地域で焼き鳥って言うと、焼き豚が出てくるんだよ。」
「え!?」

私も初めて聞いたときは衝撃的だった。

「鳥が食べたかったら、鳥のほうでって言えば大丈夫だけどね。」

"焼き鳥"弁当を買って、ホテルに戻り、二人でお弁当を食べた。
「ん!マスターこれ美味しいですね!」
食べる度にカイトは色々と表情を変える。食レポとか、向いてるんじゃないか?ボーカロイドだからだろうが、いい声してるし。

今日はカイトが先に風呂に入る。
一人になると、どうしても写真を眺めてしまう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ラッキーピエロまた行きたい!」
「翡翠は相当気に入ったんだな。」
「でも、お父さんもそう思うでしょ?」
「そうだな。」
「俺も俺も!」
「じゃあ、明日も途中で寄ろうね。」
「「やったーっ!!」」
「琥珀、お風呂入っちゃいなさい。」
「はーい!」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

ずっと、4人だったのに。
どうして私は1人なの…?

せっかくカイトと一緒に旅行しているというのに、頭はずっと別のことを考えてばかりいる自分に、嫌気がさしてくる。

「マスター、あがりましたよ。」
「そう?じゃあ私も入るよ。」

昨日みたいに滑らないようにしないと。

風呂から上がると、どうしてだかカイトは目を逸らした。
「どうしたの?」

「もう、マスター、昨日も思いましたけど何でそんな薄くて短いネグリジェなんですか!いつもはジャージなのに!」
「え、悪いか?ジャージだとかさばるんだよ。」
「あぁ…やっぱりそんなことだろうと思った…」

何がだよ?

「と、とりあえず!その格好で部屋の外に絶対に出ないでください!」
「いや、自販機ぐらいいいだろ。」
「じゃ、じゃあそのときは誰にも見つからないでくださいね!?マスター可愛いんですから!」

どんな理屈だ。訳がわからん。昨日私がタオル取りに行くのを止めたのもその、訳のわからん理由とやらか?

「ふぇ!?」
次の瞬間、私はカイトにベッドへ押し倒されていた。

「な、いきなり何するんだ!?」

「見つかったらこういう輩が現れるかもしれないですよ?僕はマスターを傷つけたくはありませんから、これ以上は何もしませんけど、外の連中は何をしでかすか、わからないんですからね!?」

わ、わかったよ。わかったから、お願いだからすぐに離れてくれ…。

近すぎる…。

カイトの方も、弾かれたように私から離れた。
「ああああああっ、どうしよう何やってんの僕何これすごく恥ずかしい…」

いや、恥ずかしいのはこっちだから!!
っていうか、小さい声で言ってるつもりかもしれないけどめっちゃ聞こえてるから!

今日のホテルも、ベッドが一つしかない。シングル2つにすると、値段が変わってしまうらしい。仕方ない。

気まずさからか、双方ベッドの端で背を向けていた。

早く眠らないと、明日に響くことはわかっている。
ただ、どうしてもこう、色々と考えてしまう。
いや、考えているというよりは、過去と迷いの中を堂々巡りしているだけと言う方が正しいかもしれない。
未だに帰ってくるような気がするのは…愚かだろうか?

「ねぇ、カイト…?」
「何でしょう?」
「何だ、起きてたのか。」
「眠れないんですか?」
「カイトこそ。早く寝ろ。」
「マスター、大丈夫ですか?」
「…は?何が。」
「いや、悩んでるのかな…と。」
「なんで。」

カイトにまで、気を使わせる気はなかった。むしろ、気づかせないようにしていたはずなのだが。
「昨日も…」
「カイト、お前知ってたのか?」

昨日、私が写真を眺めて泣いていたことを?

「何が、ですか?」
「いや、何でもない。」
「言いたくないなら、、無理に言おうとしなくてもいいです。ただ、僕はいつでも力になりますから…いや、力になろうと思ってますから。だから、ちゃんと必要なときに頼ってくださいね。」

あれ、ちょっとグレード下がったよな?

「ちょっと自信ないだろ?」
「あ、バレました?」
「バレるわ。わかるわ。それと、これ以上起きてると明日に響くぞ。」
「マスターも、ちゃんと寝てくださいね。」
「あぁ、おやすみ。」
「おやすみなさい。」

~interval-11(萌side)~

「あ、卵切れちゃったの、買いに行かなきゃ。」
「マスターまだ病み上がりだから、俺買いに行くよ。」
「いいよ、レンくん。もう大丈夫だから。」
「いいからマスター休んでて!」
「そう?じゃあお願いね?」
「行ってきまーす。」

頼るのは心苦しいけど、行くって言ってくれているのを無理に断るのも、悪いよね。

「レン一人で大丈夫かな…」
「そんなに心配いらないと思うよ?」
「まぁ、マスター行かせるほうが心配だし。」
「そう?そんなに心配?」
「うん。またマスターに何かあったら大変だもん。」

心配かけてばっかりだなぁ。

「ねぇ、リンちゃん。ちょっと聞きたいことがあるんだけど、いい?」
「ん、なーに?」

かつてレンくんに聞いた、あの質問。

「もしね、何らかの形で、レンくんがいなくなってリンちゃん一人になったら、どうする?」

「マスター、いきなりどうしたの!?レンに何かあったの!?もし何かあるなら…」

あぁ、やっぱりこう言った反応になる、よね。
レンくんほどは取り乱さなかったけれど…

「ごめんね、そうじゃないの。今すぐに、とか、実際にリンちゃんがどうとか、そういう話じゃない。全然無いから落ち着いて、安心して?
ごめんね、考えたくないことなのはわかってる。でも、萌にはね、どうしても聞かなくちゃいけない理由があるの。今日じゃなくってもいいから、少しでも何かあったら、話してくれる?」

「そう…マスターがそんなに言うってことは、きっと必要な理由があるんだね。でも、リン、突然で今はまだわからないから。少し、考えてからまた話すね。ごめんね、マスター。」

「ううん、いいの。ありがとうね。」

「ただいまー。」
「あ、卵買えた?どうもありがとう。」
「リン目玉焼き作るよー!」
「本当?じゃあお願いしようかな。」
「俺もやる。リン一人じゃ心配だから。」
「うん、じゃあ一緒にやろう!」

本当に、わたしにはもったいないほどいい子たちだなぁ…

50 ウニと五稜郭(カイトside)

「何してるんですかマスター!?」
「ウニさばいてる。」
「はい!?」

目を覚ますと、隣にマスターの姿はなく、代わりに潮の香りがする。

「な…何やってるんです…」
「だから、ウニさばいてるって言ったろ。」

訳が分かりません!

「とれたてだから、美味しいと思うよ。今さばいたばかりだし。」

洗面所から振り返るマスターは、汚れたタオルと小さな十徳ナイフを身につけていた。

紙の皿に"ウニ"とやらを乗せ、割り箸とともに僕に手渡してくる。
「えっと、これ、食べるんですか?」
「そうだよ。先に食べさせてやるんだから、ラッキーだろ?」

僕が皿を受け取ると、またマスターはウニをさばき始めた。とりあえず食べてみると、これが何とも言えない。多分、これを形容する言葉は今の僕の言語ライブラリ内に存在しない。ほろっとして、とろっとして、濃厚でコクがある、それくらい言うので精一杯だ。

「これ…美味しいですね。」
「だろ?あ、さばくの手伝える?」
「あ、はい!」

何ですかこの紫色のトゲトゲ!さっきの黄色いとろっとしたのと全然違うじゃないですか!

「びっくりした?トゲトゲに見えるけど、普通にしていれば痛いことはないぞ。それにこいつ、意外と可愛いんだよな。生きてるときだけど。」

マスターの可愛いの基準って何なんですか!?

ふとマスターの手元を見ると、小さな十徳ナイフでは非常にやりづらそうだった。

「マスター、これ使ってください。」
もしもの為に持っておいたアイスピックを手渡す。

「何でこんなの持ってんの?」
「護身用です。」
「意味わかんない。」

僕にしてみればビジネスホテルの洗面所で突然ウニをさばくマスターの方が意味わかりません!確かにウニは美味しいですけど…

アイスピックを使って、マスターはさっきよりも手早くウニをさばいていく。このトゲトゲの大きさに対して、食べられるところってかなり小さいんですね…

一通りウニをさばき、食べて、片づけた。
「マスター、何で突然ウニをさばいたんです?」
「美味しいから。」
「さばいたやつ買えばいいじゃないですか!」
「いや、保存料とか使うと味が変わるから。」
「そうかもしれませんけど…」

手際がいいとはいえ、マスター怪我しないかとずっとヒヤヒヤしてたんですからね!

「観光客向けじゃなく、地元民向けの市場に行ってきたんだよ。安いからな。そしたら、今日はウニがよくとれたし、オススメなんだって!地元の漁師さんが言うんだから、間違いないよな。ウニ、美味しかっただろ?」

そんなに笑顔で言われたら、もう、突っ込む気も無くなりますよ。確かに、美味しかったですし。


ホテルを出てから再び別のラッキーピエロに立ち寄り、朝ご飯代わりにハンバーガーを食べる。

なんか僕たち、食べてばかりですね?
そう言ったらマスターに
「現地の美味しいもの食べてナンボでしょ。」
と真顔で言われた。そうですけどね。

五稜郭タワーという、なんだか「いかにも」な名前の建物に上る。
マスターが行きたがってるの、展望階なんだよなぁ…

「カイト、置いてっちゃうよ?」
そう言われて僕が留まると思うんですか?
わかってますよ、一緒に行きますって。

最上階に着くと、マスターは窓辺へと駆けてゆく。遅れて僕もマスターの隣へ行く。それにしても、何でこんなにガラス張りにする必要があるんですか?怖いじゃないですか…

「わっ!」
「うぎゃぁあっ!?な、なんですかやめてくださいよマスター!!」

今とんでもないことをやらかしてくれましたよね…
後ろから背中をポンっと…それも、「わっ!」とか言いながら…
いくら可愛いからって、こればっかりは僕…

「あはははっ…はははっ…カイト面白い…ははっ」
何でそんな可愛い笑顔するんですか!ずるい!ずるいですよ、そんなの反則ですって!
こんなことするのがマスターじゃなかったら、僕絶対しばらく口利いてませんからね?

「あれ…カイト怒ってる?…ごめんね?」
あーーーー!
もう、何なんですか!?
首をちょこんとかしげて謝るとか、もしかして計算してます?それとも天然なんですか!?
どっちにしても恐ろしいですよ、色々と…
それにマスター背が小さいから、普通に見上げてるだけで自然と上目遣いに…
何ですか何なんですかこの可愛い生き物は本当にもうー!

「おみやげ買いに行きますからね!」
マスターから目を逸らし、強引に手を引いてショップへ向かう。照れ隠しなのは言うまでもない。マスターが気付かないことをただ祈るばかりだ。

「え、あっ、うん。わかったからそんな強く引っ張らないでよ!」

ショップの隅っこに、なにやら小さい機械があった。
「マスター、何ですか?あれ。」
「あぁ、メダリオンだね。やってみる?」
「メダリオン?」
「ご当地限定とかの記念メダルに、好きな文字を刻印するんだ。」
「やってみたいです!」
「じゃあ、お金入れるね。好きなの選んで、文字を入れて。」
「いいんですか!?」
「ダメだったらダメって言ってるよ。」
僕は夢中でメダルを選び、文字を入力する。
どうしよう、何にしよう…

"20XX.7.XX KAITO AND HISUI"

そうだ、もう1枚同じものを作ろう!
そうしたら、僕とマスターでお揃いだ。

文字が刻印される音が響く。
「あれ、結構時間かかるんだな。」
「もう一枚作ってるんです。」
「よほど気に入ったんだ?」

できあがった2枚目を、マスターに差し出す。
「僕とお揃いです、マスター♪」

「え…これ、私にくれるの?」
「もちろんです!」
「じゃあ、なくさないところに持っておくね。ありがとう。」
ちょっと照れくさそうに受け取るマスター。
でも、財布の小さなポケットに大事そうにしまってくれた。

「記念メダル、だね。」
記念…素敵な言葉だ。そうだ、今日は僕とマスターの記念日だ!…何記念日?

ウニ記念日かな。
その後、一つ下のフロアで歴史資料を眺め、下へと降りた。五稜郭内の散歩もしたかったが、生憎の雨。
路面電車を乗り継ぎ、函館公園に行く。
動物園と遊園地と、児童公園が融合されたようなところだ。
「小さい頃、好きだったんだよ。細かく何に乗ったとか、そういうことは覚えてないけど、何かに乗って楽しかったってことは、今でも覚えてる。中学生の時も、ここに来た。そのときも、こんな天気だったな。」

動物たちを見ていたはずのマスターの目は、どこか遠くを見つめていた。
前にも、来たことがあるんですね。
……家族4人で。

あれだけ、どこにも行きたくないと言っていたのは、こうやってマスターの家族のことを思い出すからなんじゃないか?

それなのに、こうやって僕のことを連れてきてくれたけれど。

マスター、やっぱり本当は無理しているんじゃないか?

一昨日も、昨日も、ずっと思い出して、苦しいんじゃないだろうか?

「マスター。」
「何?」
「帰りませんか?」
「は!?」
「だから、もう、帰りませんか?」
「…ない」
「え?」
「まだ食べてない!」
「何を!?」
「ラッキーピエロだってまだ行きたいし、函館のまるかつ水産だってまだ行ってないし、ホタテフライだって青森のけの汁だって林檎だって、秋田のいぶりがっこもハタハタの唐揚げも、酒田の坂の上にある屋台の玉こんにゃくだって、まだまだ何にも食べてないじゃないか!もしかして食べないで帰れと!?」

確かに、突然帰ろうという提案も提案だったと思いますけど…
あまりの気迫に気おされてしまう。
そりゃ、美味しいものは僕だって大好きだが、まさかこんな勢いで反対されるとは思ってみなかった。

「じょ、冗談ですよ、あはは…」
「そう?じゃあいいけど。」

マスターって食べるの好きなんだなぁ…
そういえば、マスターが僕に教えてくれたのは料理や美味しいものがほとんどだった。あと、ほんの少し世界史。

結構よく食べてると思うけど、全然太ってないよな。むしろ細身だ。

「マスターって、結構よく食べますけど細いですよね。」
「むしろちゃんと食べてるのに身長が伸びない。必要なところに脂肪が付かない。」
「必要なところ?」

なぜか睨まれた。
それも、かなりきつい形相で。
これ以上言及するのはやめよう。

「まぁ、それはともかく、だ。今日はまるかつ水産に行こうね!お寿司が美味しいんだ。」
「はい!」

その笑顔、おいしくいただきます。
いや、変な意味じゃないですよ?ただ、大切に目に焼き付けておこうってだけです。

同時に思うのは、

ーなにがあってもその笑顔を守りたいー


「カイト、なんか動物のポーズして。」
「え!?撮るんですか?」
「当たり前じゃん、ほら。」

突然の無茶振り!?
「撮るよー。せーの。」
「が、がおー!」

「オッケー!何これネタだわ(笑)」
「もー!マスターも撮りますからね?僕だけ不公平です!」
「え、私も?私はやらないからな?てか私がやったところで誰得だよ!?」
「いいから猫やってください!手もつけて、はい!せーの」
「にゃ、にゃ~」

カシャッ

「って、何やらせてんじゃアホ!!」

撮ったもん勝ちです!あーマスター可愛い♪
怒られたって撮る価値ありますから!
誰得って、俺得に決まってるじゃないですか。
あ、僕得、かな?
「これで公平ですよね♪」

「うぅ…」
マスターは本当にいじり甲斐があるなぁ。
めーちゃんだと10倍返しくらいの仕返しを喰らってしまうし、ミクだとぽえっとしていて大した反応が見込めない。リンをいじればレンが飛んでくるし、その逆も然り。

この世界の小学生男子の気持ちがよくわかる。
"好きな子には意地悪したくなる"っていうね。
ん、あれは反応が見たいというよりは、素直になれないってやつだったかな?

じゃあ、マスターがそうかな?
いやいやいや、マスターが僕のこと好きかどうかなんて、そんな保証はどこにもないわけで。

「おーい、カイト、そろそろ行くよー!」
「今行きまーす!」

51 ランドリー(カイトside)

「何食べようかなー」
食べるときや食べる直前のマスターはいつも楽しそうだ。さすがにモンブランを超えるものは見たことがないけれど、それでも幸せそうなマスターを見るのは僕も幸せだ。
反面、所々思い出して悲しそうな顔をするマスターを見るのは、どうしても慣れないです。

「ほら、席空いたって。」
「はい!」

「2名様でーす」

「白魚ととびっこくださーい」
「マグロとか、サーモンとかじゃないんですね?」
「もー、わかってないなー。あそこのいかにも地元の人ですって感じの人の注文見てみ?とびっことか、白魚とか、かなりの大盛りだろ?せっかく来たんだ。そういうのこそ食べときたいじゃん?」

なんか…通なのはいいんですけどオヤジっぽいです、マスター。
「あ、イカのおつくりもお願いします!」
「おつくりってなんですか?」
「んー、お刺身みたいなやつ。」
「ほぉ…。あの、僕はウニといくらお願いします!」
「お、今朝の気に入ったな?」
「はい!」

「お待たせ!」
マスターの元に白魚ととびっこが届く。
「先食べてるね?」
「どうぞどうぞ。」
「いただきまーす!」

2貫ずつあるのに、なぜかマスターは1貫ずつしか食べない。
「半分、食べていいよ?」
「いや!いいですよマスター食べてください!」
「そうじゃない。」
「え?」
「1貫ずつ、半分こしたら私もカイトも沢山の種類食べられるから。」

マスターって、恭一さんから聞くにかなりの才女らしいですけど…頭の使いどころがピンポイントすぎませんか!?
「じゃあ、いただきますね。」
「ちょっと待ったーーっ!」
「はい!?」
「ごめん、写真撮り忘れたの、撮らせて…」

実はラッキーピエロの時も、焼き鳥弁当の時もマスターは写真を撮っていた。自分が写るのは嫌がるくせに。
「いいよ、ごめんありがと。」

なんだか、マスターが楽しそうなのはいいですけど、ご飯食べるにしても忙しい気がします。
「こちらイカのおつくりになります。」

「きたきた!」
早速写真に残す。

「あ、内臓もある。やっぱり新鮮だからできるんだよね。」
「え、イカの内臓って食べるものなんですか!?」
「何言ってんの、これが美味しいんじゃん。まぁ、好き嫌い分かれるけど。とりあえず食べてみ?」

濃い。
めーちゃんがお酒飲むときに食べてるやつってこんな感じだ。

「マスターも飲むんですか?」
「私は19だ。ただ、好きなものが飲んべえみたいだ、とは言われる。塩辛とか、好きだしな。」

これがあのモンブラン好きと同一人物なんだろうか…
もう一度、お寿司を食べる横顔を見る。
あぁ、マスターだ。マスターはマスターだ。
ただひたすら、どんなマスターでもマスターが好きだって認識するだけだった。

食べ終わり、まるかつ水産を出る頃にはあたりはすっかり暗く、さらに悪いことに大雨まで降っていた。

「あっ…」
その上不幸なことに、マスターの折りたたみ傘が風で折れてしまった。

不幸?いや、不幸っちゃ不幸ですけどこれは…
「ごめん、カイト。私の傘壊れちゃったから…」
相合い傘ですね!神様ありがとうございます!

「入りますか?」
「うん…入れて。」
「マスター、歩道側を…」
「お前は歩道側にいろ!絶対にだ!道路も私より先に渡るな!」
しまった。言ってしまった。
わざわざ思い出させるつもりはなかったのに…

会話が続かない。
「恭一さんたちへのおみやげ、どうしましょうかね。」
「どうしようかね。」

「ご飯、美味しかったですね!」
「うん。」

「明日も、楽しみですね!」
「そうだね。」

…せっかくの相合い傘なのに、全然盛り上がらない。

「きゃっ」

通りかかった車が思い切り水たまりをはねた。
僕でさえ多少かかったのだから、マスターはかなりの量直撃したんじゃないか?

「大丈夫ですか!?」
「タクシーの運ちゃんなら分かってるんだけどなぁ…」

直後通りかかったタクシーは、器用に水たまりを避けていた。

それにしてもなんか、やっぱりマスターオヤジっぽいです!

ホテルに着くと、マスターは荷物を整え始めた。
「カイト、洗濯するもの貸して。」
コインランドリーに洗濯しに行くらしい。
「僕行ってきます。」
「そう?場所分かる?」
「大丈夫です。」
マスターからコインと洗濯物の入った袋を貰い、外に出る。当たり前だが、袋の中にはマスターの着ていた服が入っている。
…やめろ、僕。それ以上思考を進めたら人として終わる。いや、ボーカロイドとして?どっちでもいい。ただ、普通に洗濯すればいいんだ。それだけだ。

洗濯が終わるまでの間、暇を持て余す。
ランドリーの隅にある本棚の雑誌を手に取る。
女性向けファッション誌のようだ。

…マスターの方が可愛い。
……贔屓目に見なくたって、マスターの方がきれいだ。

すぐにそれを本棚に戻した。

マスターは、僕のことどう思っているんだろう?
多分、嫌ってるわけではないってことは、わかる。
でも、好きかどうかはよくわからない。
時々、僕といても上の空のところがある。
おそらく、家族のことを考えているのだろう。
僕がいるのに…

いや、家族のことを考えるくらい、当然じゃないか。
それなのに僕がもっと僕を見ていてほしいなんて烏滸がましいにも程がある。
家族よりも僕を、なんてそんな…。
今だって、マスターは僕に気にかけてくれているじゃないか。一緒に旅行も連れていってくれるし、美味しいものも一緒に食べて、笑ってくれて、話してくれて…
僕に接しているようで、実は誰かの代わりなのか?
カイトと呼びながら、見ているのは別の人?
マスターも無意識のうちに、僕を弟さんにしようとしたときほど露骨でないまでも、家族を投影している?

馬鹿か、馬鹿なのか僕は。
なぜこんなにも疑う?なぜ信じることができない?
マスターのことだ、誰よりも大切なマスターのことだ。
誰よりも誰よりも誰よりも大好きなマスターを…
なぜ疑う?なぜ信じない?
疑うよりも、僕自身のためのことを考えるよりも、まずマスターの為のことを考えるべきなのになぜ?

僕の中に芽生えた黒を、必死にかき消そうとする。
僕はマスターのことを大切に想っている。
それだけではいけないのか?

「兄ちゃん、兄ちゃん。」
「は、はい?」
「洗濯できてるよ。」
「わわっ、ありがとうございます!」
「若いうちはいっぱい悩め。青春だ。」
「はい、あの、どうもありがとうございます!」
「じゃあよ。」

たまたま居合わせた中年男性のおかげで、我に返った。
早く帰らなきゃ、マスターが心配する。


「ただいまですマスター!って、何してるんですか!?」

どうして今アイスピックを?

ウニもさばいてない。
ただ、床に座っている。

ベッドの上に洗濯物を放り出し、マスターの元へ駆け寄る。
「何でこれを!?」
「氷、ジュースに入れようと…」
「氷もジュースもどこにもないですよ!?」

マスターは、何をするつもりだったんだ!?
「あ…そうだった…?じゃあ、どうして持ってたんだろう…」
マスターからアイスピックを奪う。
「カイト?」
「何しようとしてたんですか?」

俯いたまま答えない。
「何をしようとしてたんですか!?」

首を横に振る。
「わからない…何で持ってたんだろう。それもわからない。」

「マスター…?」
「さっきまで、お風呂入って、備え付けのバスローブに着替えて、明日の支度して、手帳を見てたはずなんだけどね…?どうしてだろう…気づいたら、手に持ってた。眺めてた。」

アイスピックをしまい、僕はマスターを抱きしめた。
そうでもしなければ、マスターが壊れてしまいそうだったから。

マスターが?

……僕が?

「カイト…?」
「はい?」
「どうして、泣いてるの?」

泣いているのは…僕?
どうして?どうして僕が?

「マスター…」
「ん?」
「いなくならないでください…」

僕から出てきた言葉なのに、僕自身が驚いた。
「私が?」
「僕のそばから、いなくなったりしないでください」

おかしいな…僕が、僕がマスターのそばにずっといるはずだったのに?

「ずっと…僕のそばにいてください…僕マスターがいなくなったら嫌です。絶対嫌です!」
「カイト…」

僕がマスターを支えるはずなのに。
助けるはずなのに。
「マス…タぁ…」
「カイト、カイト大丈夫?もうアイスピックなんて持たないから、私ここにいるから、大丈夫だよ?ね?だから泣かないで?」

どうして僕がなだめられているんだ?

ただ呆然とアイスピックを持ってるなんて、マスター絶対おかしいのに、まずそれをどうにかすべきだったのに。

何もできないどころじゃない。

「マスター、辛かったら辛いって、言っていいんですよ。
苦しかったら苦しいって、言っていいんですよ。
寂しいなら寂しいって、悲しいなら悲しいって、どんなことだって、言っていいんですよ。
マスターはマスターだからとか、変な意地張らなくていいんです。僕にだったら、甘えようが八つ当たりしようが何しようが、構いませんから。」

どうにかして絞り出した言葉は、あまりにも頼りない。

「それは、カイトじゃないの?」

すぐに、見透かされてしまう。
言葉に、詰まってしまう。

「マスターのため、マスターのため、笑ってずっと我慢してるのは、カイトの方じゃないの?」

さっきまで半ば放心状態だったマスターは、本来の意識を取り戻したらしい。

「気づいたんなら、言っていいよ。
気を使って気づかないフリ、バカイトのフリなんて、しなくていいよ。
気になることがあるなら聞いていいから。
仮にも、私はカイトのマスターなんだから。
めんどくさいだの離れろだの言うかもしれないけど、甘えたって、いいんだから。」

マスターの小さな肩を抱きしめたまま、僕は涙が止まらなかった。

マスターの言葉が嬉しくていっぱいになる一方、
マスターを信じきることができず、どこか疑ってしまう自分に嫌気がさす。
嫉妬などと呼ばれる黒い何かが自分に芽生えてしまったことへの罪悪感。
マスターに何もしてあげられない無力な僕への歯がゆさ。
なにか、言いようもない他のすべて。

ひたすらぐちゃぐちゃに掻き乱れるそれらは、ただ涙に変換される他に行き場を知らない。

「ごめんね…」

どうして?謝るべきは、マスターじゃない…

52 アイスピック(翡翠side)

カイトをずっと歩道側に歩かせ、ホテルに着く。
そろそろ、洗濯すべきだろう。
カイトが行ってくれるというので、頼んでる間に私はシャワーをすませる。
ネグリジェも洗っている最中だから、備え付けのバスローブに着替える。明らかにサイズが大きい。着られている、なんて笑われてしまうかな。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「そういえばねーちゃんって背小さくね?」
「何言ってんの、これから伸びるから!」
「でも小6でかなり伸びたろ?」
「そうだけど、伸びるし。琥珀だって小さいくせに。」
「俺まだ小5だし。」
「中1だってまだまだだからな?」
「はいはいそーですねー」
「なんだよ!」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

せっかくカイトと一緒に旅行に来ているのに、家族のことばかりが頭を巡る。
話しかけられても上の空になってしまい、悪いことをしたと思うときが多々あるのに、どうしても考えてしまう。

今回の旅行だって、中1のあのときと全く同じプランだ。回る順序も、ご飯を食べる店さえも。

あのときから、彼はカイトであって、カイト以外の何者でもないことは分かっていたはずなのに、知らず知らずのうちに投影したとでもいうのだろうか?

全く同じプランにしたからだろうか、家にいて何もしないより何倍も何倍も思い出してしまう。

写真を見たらよけい苦しいことが分かっているのに、つい見てしまう。

1年半も経ったんだよ?
いい加減受け入れないの?
もっと新しいことに目を向けたら?
執着しすぎなんじゃないの?
生き残ったら生き残ったで、生き残った人間のやることってもんがあるでしょう?

ねぇ、悪いことですか?
ただ、受け入れて前向きにいきるそのことだけが、正しいことですか?

もう一度、写真を眺める。
答えは何も帰ってこない。

どうしてみんなはいなくなって、私だけここにいるんだろう?
みんな、帰ってくるんじゃないの?
まだ、どこかにいるんじゃないの?

灰と、白い固まりの数々を、この目で見たはずなのに。
顔写真に黒いリボンがかかるその場所に、間違いなく私はいたはずなのに。

どうしてかな…なにもかも。
あれ…?私アイスピックなんて、手に持ってたっけ?

「ただいまですマスター!って、何してるんですか!?」

何してるんだろう。

「何でこれを!?」

何で持ってるんだろう。

「氷、ジュースに入れようと…」

苦し紛れの言い訳も、意味がない。

「氷もジュースもどこにもないですよ!?」
「あ…そうだった…?じゃあ、どうして持ってたんだろう…」
急に私の手からアイスピックが奪われる。

「カイト?」
「何しようとしてたんですか?」

わからない。

「何をしようとしてたんですか!?」

怒ってるの?
「わからない…何で持ってたんだろう。それもわからない。」

「マスター…?」
「さっきまで、お風呂入って、備え付けのバスローブに着替えて、明日の支度して、手帳を見てたはずなんだけどね…?どうしてだろう…気づいたら、手に持ってた。眺めてた。」

カイトは、私を抱きしめた。泣きながら。

私、またなにか悪いことをしたんだね?

「カイト…?」
「はい?」
「どうして、泣いてるの?」

「マスター…」
「ん?」
「いなくならないでください…」

いなくなる?なぜ?

「私が?」
「僕のそばから、いなくなったりしないでください」

不安になったのか?突然。

「ずっと…僕のそばにいてください…僕マスターがいなくなったら嫌です。絶対嫌です!」
「カイト…」

アイスピック…か。
私、死ぬつもりだったのかな?

そうだったのかな?
もしかしてカイトは、それが怖い…

「マス…タぁ…」
「カイト、カイト大丈夫?もうアイスピックなんて持たないから、私ここにいるから、大丈夫だよ?ね?だから泣かないで?」

ごめんね、また、不安にさせちゃったね。
どうして生きてるんだろう、くらいは思うけど、死んじゃおうまでは思ってなかった…はず。

「マスター、辛かったら辛いって、言っていいんですよ。
苦しかったら苦しいって、言っていいんですよ。
寂しいなら寂しいって、悲しいなら悲しいって、どんなことだって、言っていいんですよ。
マスターはマスターだからとか、変な意地張らなくていいんです。僕にだったら、甘えようが八つ当たりしようが何しようが、構いませんから。」

気づかせないように、そうしていたはずなのに。
別に苦しくなんてない、そう思いたかったのに。
思い出して、辛い。そんなの言ったって、困らせるだけだろう?
おそらく世間で言う、一人で抱えてた状態だったことにすら気づかなかったなんて、そんなの今更、言えるわけはなかった。
今更頼り方がわからないだなんて、言えるはずなかった。

だから、口をついた言葉は
「それは、カイトじゃないの?」

「マスターのため、マスターのため、笑ってずっと我慢してるのは、カイトの方じゃないの?」

「気づいたんなら、言っていいよ。
気を使って気づかないフリ、バカイトのフリなんて、しなくていいよ。
気になることがあるなら聞いていいから。
仮にも、私はカイトのマスターなんだから。
めんどくさいだの離れろだの言うかもしれないけど、甘えたって、いいんだから。」

カイトは泣き続けていた。

私が心配かけてばかりだからだね。

心配して貰っても、こうやって突き返すことしかできない。

家族にも、本当は私は、こんな姿ではいけないんだよね。
でも、どうしたらいいの?
どうすれば、受け入れられるの?
受け入れたことになるの?
わからないままただ堂々巡りするしかない。
カイト…みんな…こんな私で…
「ごめんね…」

~interval-12(萌side)~

「リン、ちょっとマスターに相談したいことがあるから席外してもらってもいい?」
「え?うん、わかった。じゃあ、リンはお風呂入ってるね。」
「ごめん、ありがとう。」
「どうしたの?レンくん、珍しいね。なんかあった?」
「マスターがこの前聞いたこと。」
「この前?」

「ほら…もしもリンがいなくなったなら…っていう話、あっただろ?」

覚えていてくれたんだ。

「俺、やっぱりどうなるかはわからないよ。すごくすごく悲しいだろうし、もしかしたら周りのあらゆるものに当たり散らすかもしれない。リンがいなくならなきゃいけない原因になったものが許せなくて、何か罪を犯すかもしれない。リンを追って死ぬのかもしれないとも考えた。でも、それはないなって思うんだよね。」

「どうして?」

「そういう状況になったとしても、リンは居たんだよ、存在したんだよ。もちろん、写真や持ち物には残っていると思う。でも、一番残ってるのは、リンがいたことを、リンといたことを、それを一番知ってるのは、きっとその証を一番持ってるのは、俺だから。ずっとずっと一緒にいた俺だから。俺まで居なくなったら、その多くの確認ができなくなる。思い出す人が減る。そりゃ、姉さんや兄さん、マスターも思い出してくれるのはわかってる。でも、僕が居なくちゃ、そうじゃなきゃいけないんだ。」

「そう…」

想像していたよりも、ずっとずっと、しっかりしていた。

「ごめん、マスター、ティッシュある?」
「えっ、あるよ。あ…もしかして…」
「ごめん、泣くつもりじゃなかったんだけど…だって、仮にの話で、今リンは元気にしてるのに…」

「ごめんね、わたしがこんな話を振ったからだよね…ごめんね。」
「いや、マスター謝らないで。大丈夫だから。あ、でも、リンには黙っておいて。絶対な?」
「うん。」
「さっきはうまくまとめて言えなかったけど、簡単に言うと、それでも前向きに生きるのか、退廃的に生きるのかはまだわからない。でも、リンを少しでも残すために、生き続けるだろうってこと。もしかしたら、マスターの欲しい答えとは違うかもしれないけど。」

それでも、何もわからなくなってしまったわたしとは全然違う。真っ直ぐなものを、ちゃんと持ってる。
レンくんなら、最初はもちろん気が狂ったようになるかもしれないけれど、いつかは、遠くのリンちゃんが悲しまないようにと、前を向くことをきっと選ぶことができるだろう。

わたしは…?
前を向けますか?
いや、それ以前の段階じゃないかな?

「ううん、ありがとう。辛いこと考えさせて、ごめんね。」

「いや、いいって。いつ何があるかは、わからないわけだし。」
「本当に、ありがとう。」

「お風呂あがったけど、入ってもいい?」
「いいよ、リンごめん。」
「ううん、レン大丈夫?」
「うん。俺もお風呂入ってくる。」
「あ、ガス切っちゃったからまたつけといてね。」
「わかった。」

「ねぇねぇマスター。レンと何話してたの?」
「それは…」
「言わなくっていいよ。わざわざ席を外したんだもの、きっと何かあったんだろうけど、聞かない。そうだ、こないだ恭一さんの家で、メイ姉とミク姉と、ユニット信号機やったときなんだけどね…」

そもそも、わたしは向き合ってきたのかな…?
レンくんみたいに、本当に真剣に考えたことが、一度でもあったのかな…?

53 素直じゃない(翡翠side)

「マスター、起きてください、マスター?」

SLに乗る計画があるので、寝坊することはできない。

「おはようございます、マスター。」
「なんだ、もう着替えたのか?」
「今日はSLに乗るって、書いてありましたから。マスターも急いでください。40秒で支度しな!ですよ!」

いつの間にラピュタネタを覚えた?
とりあえずカイトを部屋の外に追い出し、着替えを済ませる。

昨日のことは、ぼんやりとしか思い出せない。
いつベッドに入ったのかもわからない。

「マスター、終わりましたかー?」
「あぁ、行こう。」

函館駅からSL大沼号で、大沼公園まで乗る。車内販売でお弁当を買う。暖色系のレトロな内装に、カイトははしゃいでいる。

ベランダ、というにはあまりに味気ない。
船ならば甲板とでもいうのだろうか。
外に出られるところがある。
「マスター、あっちにデッキがありますって!行きましょうよ!」
あぁ、デッキというのか、そうだったな。夏休み、それも限定ということもあって、多くの子供たちがカイトと同様にはしゃいでいた。カイト、お前は小学生か。

「マスター、マスター!」
「わかった、わかったからもう少し静かにしろ。」

私の手を引いたまま駆け出すカイト。
「走るな!危ないだろうが!」

もう…本当に小学生みたいだ。
見た目は青年なのに。コ○ンの逆かよ。

「風、涼しいですね。」
「少し肌寒いくらいだ。」
「マフラーしますか?」
「いらねーよ!」
なんで夏休み真っ直中にマフラーしなくちゃいけないんだよ!てか持ってくるなよ!

中1の時は車内で眠ってしまったために殆ど見ていなかった内装や景色をじっくり眺めて、写真にも残しておく。しばらくすると、大沼公園に着いた。

散策しつつ、途中でお弁当を広げる。

パチャッ

「今、なんか飛びましたよね?」
「そうか?」
「飛びました飛びました!魚が!」
「へー。」
「マスターも見ててください!あっちの方です。」
指の先の沼を眺めると、再び魚が跳ねた。

「魚って飛ぶんですね…」
「飛び魚もあるくらいだからな。」

同じ旅行を企てたのは私だというのに、もう嫌になってしまうほど、何もかも同じだ。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「ねーちゃん今の見た!?」
「何?」
「魚飛んだんだよ!」
「ほんと!?」
「ここで嘘つくかよ」
「そうだけどさ。」
「ほら、あっちの方見ててよ。」

パチャパチャッ

「ほんとだ!お父さんお母さん、今の見てた?」
「飛んでたわね。」
「うん!」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「マスター、食べないんですか?」
「え?…あぁ、食べるよ。もしかして狙ってたのか?」
「いや、そんなことはないです。」
「そうか。」
函館行きの電車に間に合うよう、早めに公園を後にする。
函館に戻り、お土産を選びにいく。。

恭一のところと、あとは……
萌か。

「これは、恭一のところに。」

あのとき、あいつが言いたかったのは何だったんだろう?
本当に、家族が私のもとからみんないなくなったのは、運命で、仕方がないことだから諦めろということだったのか?
もしも、本当にそれが言いたいことならやはり私は許すことはできない。

「萌は…」

もし運命じゃないとしたら何なのか、そこに理由は存在するのかと問われたら困る。
だが、この件に関しては少なくとも赤の他人に、そんなことは言われたくなかった。

でも、そうじゃないんじゃないか?

ー違う!わたしが言いたかったのは…ー

あのとき、確かにあいつはそう言った。

ーそうじゃない!そうじゃないの!わたしはただ…ー

ただ…?

ーひーちゃん…聞いて…?ー

取り乱して、聞こうとしなかったのは、私だ。

とりあえず、取り乱して怒鳴り散らしたことは、謝らないとな。そういや、あいつ何が好きなんだ?甘いものか?
ただ、こっちの旨いものも教えておきたいしな…。

「どうしよう…」

まず、受け取ってもらえるか?

あれだけの扱いを受けたら、ずっと怒っててもおかしくはない。

「どれならいいんだ…?」

本当はあいつが私に話したかったことがあったはずなのに、突き返すもいいところ、いや突き返すどころで済まないことをしてしまったから。

「カイト。」
「何でしょう?」
「同期のボーカロイドたちの好みってわかるか?」
「めーちゃんは酒、ミクはネギ、リンはミカンでレンはバナナです。」
「めーちゃん以外希望に添えないな。塩辛とか、松前漬けとかだから。」
「お土産、みんなに買ってくれるんですか?」
「あぁ。」
「てっきり、恭一さんのところにしか買わないと思ってました。」
「どういう意味だよ。他のところにも同期がいるのに、そっちは買わなかったら可哀想じゃないか。」

なぜカイトは笑っている?

「マスターは素直じゃないですね。」
「は?何がだよ意味わかんない。」
「でも、よかったです。」
「余計訳わかんないから。」
「普通に買えばいいんじゃないですか?萌さんの分。」
「はぁ!?誰があんな奴に…」
「本当ですか?」

時々現れるこいつの鋭さは、本当に謎だ。

「恭一には買っておいてあいつに買わなかったら、なんか不公平とか贔屓とかしてるみたいで、私が悪いみたいじゃないか。仕方なくだよ仕方なく!」
「にしては、随分迷ってますよね。恭一さんのはさらっと選んだ割に。」
「何でどれが誰のかわかるんだよ!エスパーか!?」
「マスター自分で言ってましたよ。」
「は!?」

そんな覚えはない。無意識的につぶやいていたのか?
「そんなに迷うなら聞いてみたらいいじゃないですか。携帯借りますよ。」
「ちょ、待て返せ!勝手にかけるな!」
夢中で携帯を取り返す。

「あーもう!あいつなんか、イカール星人にしてやる!後で秋田のネイガーも買っといてやる!ご当地ヒーローなめんな!」
「だからもっと素直になればいいのに…」
「うっさい!」
「やっぱりマスターってツンデr…」
「はぁ!?」
「なんでもないです!」

訳わからん。ったく何が素直じゃないんだ。
むしろ、どう振る舞ったら素直なんだよ。

あとは秋田でいぶりがっこを買って、それをみんなに送ろう。そうだ。

恭一なら萌の好きなもん知ってるんじゃないか?

「もしもし恭一?」
「あぁ。楽しんでるか?」
「うん、今函館。お土産なんだけどさ。」
「わざわざ気にするなって言ったろ?」
「いや、もう買ったから。それで、着払いでいい?」
「は!?お土産着払いかよ。」
「冗談だよ、何真に受けてんの、アホなの?」
「お前ちょっとは毒吐く以外の発言しろよ。」
「毒なんて吐いたか?」
「自覚ねーのかよ。」
「取りあえず、着払いじゃないから。……でさ。」
「何だ?」
「萌の好きなもんって何だ?」
「あれ、怒ってないのか?」

驚いたのか、拍子抜けした声が聞こえる。

「いや、別に許したわけでも何でもないけど?」
「じゃあ何でだよ。」
「恭一には買って、あいつに買わなかったら、なんか不公平じゃないか。仕方なくだよ。」
「お前、相変わらず素直じゃないな。好みなら本人に聞いたらどうだ?」
「何でカイトと全く同じこと言うんだよ!」
「ははっ、やっぱりか!」
「笑うな!聞けるわけないだろうが!」
「俺は知らん。」
「お前の彼女だろ!」
「そういう問題じゃない。」

なんなんだよ!

「あーもう、恭一に聞くのがバカだった。」
「あぁ、本当に馬鹿だ。」
「うっさい!」
「はいはい、他になければ切るぞ。」
「こっちこそ切る!じゃあな!」

で、何でいつまでもカイトは笑ってるんだ?

「なぁ、カイト?」
「はい、マスター。」
「お前、恭一と変な協定結んでるだろ!」
「何のことですか?」
「素直じゃないとか何とか、全く同じこと言って笑いやがって…」
「本当のことじゃないですか。」
「意味わかんない。そうだ、カイトは同期にお土産買ったの?」
「はい、これはめーちゃんに、これはミク、こっちはリンレンに、で、これが恭一さんで、あとこれが萌さんです。」
「そうか、じゃあ、メッセージカード買っておくから、添えておきたいことがあったら自分で書いて。あとで私のと一緒に配送する。」
「わかりました。」

事務的なことを挟んでどうにか普通を装う。
どうしてこう、素直じゃないだのなんだの言われなきゃいけないかなぁ…
そりゃ、裏腹なこと言っちゃうこと、無くはないけどさ。

ラッキーピエロでセットをテイクアウトし、ホテルの部屋で食べる。
カイトは、お土産渡す人みんなにメッセージを書いているようだった。律儀だ。

「マスター、恭一さんに電話かけていいですか?」
「いいよ。てか、随分仲良いんだな。」

あんなことが、あったんだもんな…
突然預けるなんて、あのときは本当に馬鹿なことを言ったと思う。
「携帯、そこにあるから。私はシャワー浴びてくる。」
「わかりました。」

ーinterlude-Ⅳー(恭一side)

~走る 走る 俺ーたーちー~

"糸魚川 翡翠"

今度は何だ。

「もしもし、恭一さん?」

カイトか?翡翠にちゃんと聞いたんだよな?

「カイトか。どうした?翡翠は?」
「今シャワー浴びてます。僕は今携帯借りてます。了承もらってるので大丈夫です。」

ならよかった。

「そうか。旅行はどうだ?」
「楽しいですよ。マスターって食べるの好きなんですね。昨日の朝なんて、洗面所でウニさばいてました。」
「は?」

とうとうやらかしたか、あいつ…
いや、ちょっと待てよ。ウニって…

「びっくりですよね!それも、ビジネスホテルの洗面所で。もう、最初訳がわからなかったです。」
「だろうな。」

函館、ウニ…確か俺が中2で、あいつが中1じゃなかったか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「恭一、お土産!」
「イカール星人?」
「恭一に似てるだろ?」
「似てねーよ!翡翠お前アホか!」
「……アホちゃうわ。」
「ねーちゃんすっげー迷ってたんだぞ!?」
「わかったよ、わかったありがとう。」
「そうそう、函館のホテルで衝撃的なことがあったんだよ!ね、琥珀。」
「うん。」
「衝撃的なことって?」
「お母さんがウニさばいてた!」
ーーーーーーーーーーーーーーーーー

「どうかしましたか?」
「いや、何でもない。ちょっと昔のことを思い出した。」
「そうですか。あの、基本的にはマスターがいつも通り可愛くて、マスターと一緒に行けてすごく楽しいんですけど…」
「お前素直だな。」
「その点マスターとは違います。」
「で、けど、何だ?」
「気になることがあって。」

カイトのこの様子だと翡翠、またなんかあったな…

「僕が話しかけても、時々上の空だったり、手帳の中の何かをずっと眺めてたり、全くとんちんかんな応答だったりするんですよ。」

「ついにボケたか、19歳にして。」

「いや、冗談で言ってるんじゃないですよ!?」

わかってる。ただ、冗談を言わなければいけないくらい、嫌な予感がする。

「多分、僕が思うに、ご家族のことを思い出しちゃってるんじゃないかな、と。どこにも行きたくないって言ってたのに、無理してるんじゃないかな、と。この前も、僕が寝たフリしていたら、多分写真見ながら泣いてて…」

確かに、カイトがいるなら大丈夫そうだと言ったのは翡翠本人だが、本当に大丈夫なのか?

「昨日なんて…」
「昨日、何かあったのか?」

「僕がコインランドリーから戻ってきたら、マスター、僕のアイスピックを手に持ったまま呆然と座ってて…」

「アイスピック!?」

「絶対マスターおかしいのに、僕の方が泣いちゃって何もできなくて…」

アイスピックを持ったまま呆然と座り込むって、まずどういう状況だ?なぜあいつはそんなものを手にしていた?

「どうしてって聞いても、何で持ってるのかよくわからないって…どうしてだろうって、本人もわからないって…」

危険だ。

「そのアイスピックはどうした?」
「僕の鞄にしまってあります。昨日とはしまう場所を変えました。マスターは確実に知りません。」
「そうか。」

無意識的な行動が一番怖い。
意図的なものは意識下で自制を利かせることが可能だ。
しかし、本人すらもわからない行動でそれなら、何をしでかすかわからない。
にしても、カイトはなぜアイスピックなんて持ってるんだ?

「それ以前に、なぜカイトがアイスピックを持ってた?」
「アイスとアイスピックは、ミクのネギみたいな定番アイテムなだけです。あと護身用ってくらいです。マスターがアイスピックの存在を知ってたのは、ウニさばきを手伝うときに使ったからです。」

おそらく今までの翡翠なら、半無意識下においても誰かに危害を加えるつもりはないだろう。
可能性があるのは…

「監視しろ。」
「え?」
「翡翠を監視しろ。特別なことはしなくていい。いつも通り一緒にいて、目を離すな。一つ一つの行動に気をつけろ。必要があれば今日みたいに報告してくれ。」
「わかりました。じゃあ、マスターそろそろあがるので切りますね。」
「あぁ。」

翡翠が一人暮らしをするようになってから、月に1回くらい様子を見に行くことがあった。
半年くらい前だったか、頭に包帯を巻いていたからどうしたのかと聞いた。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「わからない。どうしたんだろうね?」
「どうしたんだろうね?じゃないだろ。何もなくてそんな怪我するかよ!?」
「たまたま教授が、昨日流星群が流れるからって言ってて、それを見にベランダに出ていただけのはずなのにね?」
「どういうことだよ。」
「だから、どうしてベランダの柵を越えようとしたのか、私もよくわからないんだ。どうしてかな…?」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

この、私もよくわからないっていうのは、これだけじゃなかった。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「その手、どうした?」
「切ろうってつもりは無かったんだ。気づいたら、こうなってた。」
「は!?」
「だから、普通に料理してたんだよ。でも、おかしいな。だって、料理に失敗してもこんな怪我しないし。あの日下ごしらえしか終わらなかったし。変だね。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

酷いのはこれくらいだが、もしかしたら学期中毎日一緒にいた萌はもっといろいろ知っているかもしれない。

54 大丈夫(カイトside)

「今日は秋田まで行くからな!」
「はい!」

函館を後にし、まず青森まで電車に乗る。
青森に着いてから、地元らしい定食屋さんで昼食をとる。マスターがホタテフライを力説していたから、僕も同じものを頼む。郷土料理のけの汁と、ホタテのヒモの刺身も二人で食べた。

「中1の時に食べたのが、本当に美味しかったんだよ。」

笑顔のマスターに笑顔で返しつつ、僕は僕の不安を隠す。

日本海沿いを走る観光用の列車に乗る。畳まれたシートは、広げるとベッドにもなる。晴れていたはずの空は、すぐに灰色になり、海は荒れ始めた。

「せっかくのいい天気だったのにとも思ったけど、これはこれで風情あるよね。あ、リンゴおいしい。」

これまでなら、笑ってるマスターをただ可愛いと眺めることができたのに。

「カイト?なんかあった?」
「え、いや、大丈夫ですよ。」

気づかれては、マスターはまた別の気をつかってしまう。

恭一さんが「監視しろ」とまで言うということは、やはりなにかまずいことになっているのだろう。
目の前の笑っているマスターは、本当に笑っているのだろうか?
テーブルの上に乗った小さな手を、両手でそっと包む。

「何?暑い。」
「ダメですか?」
「いや…別に良いけど。」

こうでもしていないと、不安で仕方ないんです。
何かが起きてしまいそうで、怖くて仕方ないんです。
本当は今すぐにでも抱きしめたいんです。
ただ、今は外だからそれができないだけで。

秋田に着く頃には、辺りは暗くなっていた。
これまでとはうって変わって、料亭のような雰囲気のところで夕食をとった。

きりたんぽ、ハタハタの唐揚げや、いぶりがっこにマスターのテンションが上がっていたが、僕は心の底から笑うことはできなかった。もちろん、僕がこんな状態だっただけで、料理そのものはとても美味しかった。ただ、一緒に「美味しいですね」とはしゃいで、マスターの笑顔に重ねて、僕にできるのは、それくらいだった。

今日は僕が先にシャワーを浴び、マスターが後から浴びる。

「もしもし、恭一さん?」
「今日は、何もないです。ご飯を美味しそうに食べて、笑顔で景色を見ていました。」

「大丈夫か?」

はい?

「だからカイト、お前の方は、大丈夫か?」
「僕は、大丈夫ですよ。では、失礼します。」
「あぁ。」

マスターが上がるにはまだ時間がかかる。
机の上に無造作に置かれた手帳を開いてみる。

ポケットに挟まれた、数枚の写真。
今よりかなり幼さの残るマスターと、小学校高学年くらいの少年。優しそうな男女。

場所は、札幌の時計台、クラーク博士の像、小樽の銀河、五稜郭タワー、函館公園、大沼公園…


この旅行と、同じじゃないか!?
昨日、恭一さんがウニと聞いて反応したのは…?
マスターが過去に家族で来たときにも、誰かがウニをさばいていたのか?

いったいなぜ?
確かに、どこに行きたいか聞かれて、北海道と答えたのは僕だ。だけど、あれだけ思いだがらなかったマスターが、わざわざほぼ同じ旅行にしたのは…?

「何してるの。」
「はい!?」

しまった。時間は思いの外過ぎてしまっていて、マスターがシャワーから上がる。

「勝手に開けないで!」
手帳をみる僕に気づき、僕の手から乱暴に手帳を奪う。
直後、折れたりしなかったかを確認し、丁寧に鞄にしまう。

「スケジュール表なら、渡しただろ?」
「ごめんなさい」

何を見ていたかには、気づいてなかったみたいだ。

「あのさ、カイト。」
「はい。」
「昨日は、心配かけてごめん。」
「いや、そんな気にしないでくださいよ。大丈夫ですから。」
「本当に?」

恭一さんにも、マスターにも同じことを聞かれた。そんなにも、大丈夫じゃないように見えるのだろうか?

「大丈夫ですよ。むしろマスターの方が心配です。」
「そう、か。」
「そうですよ。」

僕が大丈夫じゃなかったら、マスターを支えられないから。
だから、大丈夫ですよ。大丈夫でなければいけないんです。

「そろそろ、寝ましょうか。」
「そうだな。」

どうか、ゆっくり眠ってください。

55 三段活用(カイトside)

いぶりがっこやら何やらも購入し、お土産と荷物をそれぞれ宅急便で送る。

電車に乗り、酒田で途中下車する。
もう、山形県まで来たらしい。出かけはじめてからの総移動距離はかなりなもんじゃないだろうか?

「自転車、乗れるよね?」
「多分大丈夫です。」

その手の日常生活に必要なことは、データとして搭載されているはずだ。

坂を駆け登り、少し高いところにある小さな公園のようなところに来る。港の眺めが綺麗だ。
マスターはベンチで眠る猫に釘付けだ。

「おでん、食べますか?」
すぐそばに、おでんの屋台がある。
「ん、玉こんにゃく。大根、玉子。」
「わかりました。玉子と大根と玉こんにゃくお願いします。」
「はーい。玉こんにゃくおまけしておくね。」
「ありがとうございます!」

夏とはいえ、海風のせいか少し肌寒い。

「いただきます。」
「昔もおまけしてもらっちゃったんだよね。それにしてもこいつ、ずっとここに住んでるのかな。」
「その猫、前も見たんですか?」
「うん、中1のときに来たときも、ここで寝てた。」

やっぱり、同じ旅行だったんですね…

猫を撫でながら、マスターは遠くを見つめる。
「思い出すっていうのは、過去なのかもしれないね。」
「マスター?」
「なんでもない。そろそろ、戻ろうか。」
「はい。」

途中のお総菜屋さんでコロッケを買って食べ、駅まで戻る。

「なんだコノヤローバカヤロー!」
突然の罵声。
「お前が出るなっつってんだろが!」

「何あの人。」
「知りません。」

駅前の電話ボックスで怒鳴り散らす中年の男がいた。
「だから何でお前が出るんだ!」

マスターが笑いをこらえている。
「お前じゃねーよコノヤローバカヤロー!」

道行く人もクスクス笑いながらボックスの前を通る。
「典型的な三段活用だな…ははは」
「何がですか?」
「ああいうおっさんの発言、なんだ、コノヤロー、バカヤロー、の3語に大概集約されるんだよ。」

思わず吹き出してしまった。
「うるせーコノヤロー!」
「ほらね?」
「ですね!」

変な人を横目に駅構内に入り、新潟行きの電車に乗る。
「あんなの久しぶりに見た…」

まだ笑ってるんですね。
でもやっぱり、マスターは笑っててくれる方がいいですよ。
原因があんなくだらないことだろうと何だろうと。

基本的に何もない僕には、守りたいものなんてごくわずかです。
守りたいもの、それは…

ーあなたの笑顔ー

ただそれだけです。

「あ、トラベル枕貸してください。膨らましますから。」
「え?」
「今日も、車中泊でしたよね?」
「あぁ、ありがとう。お願い。」

新潟行きの車中で、マスターは案の定論文を読んでいた。
こういうところは、よくわからないです。

新潟発、新宿着の夜間列車に乗る。
寝たフリをしながら、マスターに寄りかかってみる。

跳ね退けられるかとも思ったが、特に何もされなかった。
そのまま、僕もマスターも眠ってしまったらしい。

「起きて。着いたよ。」
夜間列車から普通の電車に乗り換え、最寄り駅に着く。
早朝、僕たちは家にたどり着いた。

「ただいまです!」
「ただいま。ちょっと休んだらまた出かけるよ!」
「はい!?」

切符がもったいないから、という理由で今度は一日鎌倉に行くことになった。これ、僕が機械じゃなかったらついていけないんじゃないか?

紫いもコロッケやら、しらすの釜揚げ丼やら、マスターは今日もよく食べていた。

一週間もの間飛び回っていたせいか、次の日は二人揃って泥のように眠っていた。

~interval-13(萌side)~

「マスター、リンもマスターに話したいことあるの。」
「何?」
「この前の質問のこと。」

リンちゃんも、考えておいてくれたんだ。

「レンがいなくなった、その事実を認めることはすぐにはできないよ。認めたくない、信じたくない。認められない。信じられない。きっとどこかにいるんだって、信じ続けようとすると思う。でもね、」

「でも?」

「ずっとずっと認めないで生き続けることはできないと思うの。生きていく中で、認めなきゃいけないって、嫌でも示される出来事が、突きつけられる出来事が、たくさんあるんだと思う。いくらそのすべてから逃げようとしたところで、あらゆる局面が現実を見せつけるはず。だから、いつかは認めて生きなくちゃいけない。どんなに拒んだところで、そうなる時が必ず来てしまうから。」

認めなくてはならないとき…

「実際起きたわけでもないし、まぁ、絶対起きないでほしいけどさ。だから、わからないけど、でも、認めた先にわかることも、あるのかもしれないなって思う。どれだけの意味を持っていたのかとかって、失って、それを認めて、そのうえでわかるのかなって。ありがとね、マスター。」

「どうして?むしろ答えてもらって、お礼を言うのは私のほう…」

「こういったこと何も考えることもせず、もしそんな状況に、レンがいなくなるなんてことに直面してしまったら、本当に、本当にどうしていいかわからなくなると思う。多分一度でもこうやって真面目に考えてたら、ちょっとは違うかもしれないから。」

「そっか、でも、答えてくれてありがとうね。」
「マスターは、どうしてこれを聞こうと思ったの?」

「それは…」

「いいよ、話せるときに話してくれたら。無理に話さなくってもいいしさ。」
「うん、ごめんね…」

Trrrr....Trrrr....
「もしもし、恭くん?」
「いい知らせと悪い知らせ、どっちから聞きたい?」

いきなりどうしたのかな?
「どっちからでも、いいよ。」
「いい知らせは、翡翠は多分お前が思うほど怒ってない。ただあいつは知っての通り素直じゃないからめんどくさいけどな。」
「そう、なんだ?」
「お土産選んでたみたいだぞ。知らないけど。」

わたしにお土産?ひーちゃんが?

「嘘でしょ?恭くん変な冗談で安心させようとか逆効果だから。」
「いや、嘘じゃねーよ。好みなら本人に聞けよって言ったら、聞けるかよ!だってさ。安定のツンデレだよ。」

確かに、恭くんはこんなことで嘘をつく人ではないし、ひーちゃんが本当に怒ったのを見たのはあれが初めてだったけれど、あの後どうするにしても、ひーちゃんなら直接は言いづらいのかもしれない。

「そっか。ありがとう。それで、悪い知らせって言うのは?」
「今はカイトに見張らせてるが、翡翠がやばい。いや、前々からそういうところはあったが。萌、翡翠が不審な怪我してるの見たことあるか?」

見張らせてる?やばい?不審な怪我?

「ひーちゃん、何かあったの?」

不審な怪我が一度も無かったかと言えば嘘になる。
大学の課題実験時、明らかにおかしい薬品の使い方をしていたことがある。普段の真面目なひーちゃんなら絶対しない使い方、いや、ひーちゃんじゃなくてもあんな使い方はしない。
しかも、その薬品の使い方を知らなかったわけじゃない。

そのせいで、ひーちゃん2週間くらい爛れてたことがあった。

「カイト曰く、アイスピックを持ったまま呆然と座ってたらしい。」

アイスピック?なぜそんな物を?状況がわからない。

「不審な怪我っていうのかな、明らかに不自然なもの、わたしも知ってるよ。」
「何だ?」
「大学の実験の時。知ってるはずなのに、薬品を誰も普通やらないような危険な使い方して、しばらく爛れてたことがあった。」
「そのときの翡翠の様子は?」

今でも覚えている。いつもクールで理路整然としていたひーちゃんが、なぜだかわからないと言うのだ。

「どうしてこんなことしてるのか、自分でもよくわからないって。気付いたら、こうしてたって。あの時はミスとして始末書書いてどうにかしたけど…。すぐに普通のひーちゃんに戻ったから、そんなには心配しなかったけど、前にもあったの?」

「あぁ、1度や2度じゃないみたいだな。」

このまま放っといたら、もしかしたら命にかかわることしちゃうんじゃないかな!?

「だから、カイトくんに見張らせてるんだね?」
「命に関わってからじゃ遅い。」

だけど、この様子だと、ひーちゃんのこの諸症状、最近になってわかったことなの?

「ねぇ、この類のことはいつからなの?」
「いつから…」

考えられることは…
「ひーちゃんに家族がいた頃は、こんなことはなかった?」

しばらくの沈黙が流れる。

「恭くん?」
「無かった。」

思った通りだ。今までもずっとひーちゃんを蝕み続けているのは、家族の死だ。

「ひーちゃんはいつ帰ってくるの?」
「多分、後3日くらいだ。」
「結構長いんだね。わかった。ありがとう。」
「お前は…」
「何?」
「お前は大丈夫なのか?」

わたし…?

「…大丈夫だよ。じゃあ、切るよ。」
「あぁ、じゃあな。」

56 仲直り(翡翠side)

「おはようございます、マスター。」
「今何時だ。」
「昼過ぎです。」
「は!?」

一昨日鎌倉に行って、昨日はほぼ1日中寝ていたというのに、今日も昼間で寝ていたのか?

寝すぎてしまったからだろうか、逆に体が重い。

「秋田からうちに送った宅急便が届いたので、受け取っておきました。マスターの分の荷物はそこにおいてあります。」
「あぁ、ありがとう。」
「お昼ご飯、食べましょうか。もう作ってありますよ。」

主婦(夫)か!?

ーピンポーンー
「カイト、出て。」
「はーい。どちら様ですか?」
「楠です。」

「は!?ちょ待て!」
まだパジャマから着替えてない!

「萌さん、少々お待ちくださいね。」
「あ、忙しかったらいいの…」

「待て!着替えたらすぐでるから!」
「着替えてすぐにくるから待っててください、だそうです。」
「わかった。」

何でよりによって今来るんだよ。さっきまで寝てたから頭まだ冴えてないし…

「悪い、待たせた。しょうがないから入れてやる。」
「本当に素直じゃないですねマスターは。」
「何がだよ。」
「お邪魔しまーす。」
「何か飲むか?」
「いや、大丈夫だよ。」

普通の会話をしていることが、奇妙に感じる。
「僕は席を外した方がいいですか?」
「いや、ここにいて。」

萌?なぜ萌がカイトに指示を?
なにか、目線で伝えているようだった。
「わかりました。」

何だ?萌とカイトが知っていて、私が知らない何かがあるのか?
「ひーちゃん、お土産ありがとう。」
「届いたのか。」
「ひーちゃんってハイセンスだよね。」
「イカール星人がか!?」
「ひーちゃんが、萌のズレたセンスにぴったりなの選んできてくれたんだなって、そう思ったよ?」

褒めてるのか?それ。
褒められている気がしない。

「たまたま目の前にあったから買ったんだよ。そもそも萌にお土産買ったのだって、カイトの同期がいるからだし、恭一に買って萌に買わなかったら不公平だろ?別に萌のためにわざわざ考えたりとかしてないし。勘違いするな。」

…何でカイトと萌がそろって笑ってるんだ?
最近私の周りで変な協定結んでる人多すぎないか?

「ひーちゃんって素直じゃないしツンデレだとは思ってたけど、こんなに典型的ツンデレ発言するとはね。素直じゃないのって、カイトくんに対してだけじゃないんだ?」

どいつもこいつも何なんだ?
揃いも揃って素直じゃないなんて、もはや宗教か何かか?
しかも何で今カイトが出てくるんだよ?

「意味わかんねーよ。で、何しに来た?」

「ごめんなさいって、言いに来たの。」
しまった。本来ならば先に私が謝るべきだったのに。

「いや、取り乱して逆上した私が悪かった。ごめん。」

あのとき、萌が言いたかったのは何だったんだ?
「ねぇ、あの時萌が言いたかったことって何だ?」
「結」
「え?」
「結って呼んで。多分、この手の話をするときのわたしは、萌ちゃんじゃない。結だから。」

「え!?もしかして、人格が二つあるんですか?」
そうか、カイトは知らないのか。

「どうなんだろう、そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。ごめんね、詳しくは言えないや。
それでね、ひーちゃん。わたしはね…」

かつて都合のいい相手として付き合っていたことへの謝罪。
私の家族のことを恭一から聞いたこと。
萌と結の間で揺れたこと。
初めて、誰かを心の底から友達だと思ったこと。
それが、私だということ。

「だからね、わたしね、ひーちゃんを助けたかったの。」

私を、助ける?

「ひーちゃんは、ご家族のこと、ずっとひーちゃんのせいだって思ってるみたいだったから、悪くないよって言いたかったの。それだけだったの。」

私が悪いんじゃない、その一点だけを言いに?

「じゃあ、運命だとかなんだっていうのは…」

「そう、ひーちゃんは悪くない、それを言うのに上手な言葉を見つけられなかった。だから、ひーちゃん、気分悪くさせちゃったんだよね。そうだよね?」

なんて返したらいいんだ?
結…にはこんなにも考えさせておいて、自分は旅行に出かけて、ほとんど何も考えずにいた。

「ごめん…そこまで考えさせて…」
「ううん、ひーちゃん謝らないで?あと、それとね。」
「何だ?」
「萌ちゃんは…いるんだと思う?」

萌は…?
目の前の彼女のことを、つい最近までずっと萌だと思って接していた。
でも、実際は違った。

じゃあ、萌はいない…?
いないと言い切ってしまうのは、私の家族さえももういないのだと言い切ってしまうみたいだ。

いない?

それなら、いるのだろうか?
いるって言い切ってしまうのも、あまりにも、あまりにも無責任じゃないだろうか…

「わたしもね、わからないの。」

恭一と付き合い、少しずつ結で考えることが増え、双子のリンとレンが来たことで、混乱し、徐々に結でいる時間が長くなっていく中で、萌がわからなくなったらしい。

「今日は、ありがとう。お昼ご飯とかもまだだったでしょう?ごめんね、お邪魔しちゃって。」
「いや、いいよ。むしろありがとう。」
「じゃあ、わたしはそろそろ帰るね。カイトくん、リンちゃんとレンくんに伝えとくことはある?」
「早寝早起き朝ご飯です!」

小学校の先生か!?

「それはわたしが見てるから大丈夫だよ。あ、そうだ、ひーちゃん。」
「何?」
「怪我、気を付けてよね。じゃあね。」
「え?あぁ、わかった。じゃあな。」

何で今、怪我に気を付けろと?
知らないうちに怪我でもしたんだろうか?

「昼ご飯、暖めなおしますね。」
「あ、ありがとう。麦茶テーブルに出しとくから。」
「お願いします。」

57 現実(翡翠side)

「ごちそうさまでした。」
「マスター♪」

何だよ!?夏だってのに抱きつくな、暑い。

「どけ。食器片づける。」
「じゃあ僕も行きます!」
「キッチンに2人もいらん。それにご飯の準備やってもらったし。」
「じゃあ僕お皿拭きます!」
「わかったよ。」

こいつは犬なんじゃないかと思うことがよくある。尻尾でもついてたらしょっちゅう振って飛んできそうだ。

「終わりましたね、マスター。」
「あぁ。手伝ってくれてありがとう。」
「これくらい朝飯前ですよ!」
「昼食後だけどな。」
「マジレスしないでください!」

長い旅行の後、昨日はほとんど寝ていたから、こうやって家で普通に過ごすのは久しぶりな気がする。

「マスターマスター」
「何?」
「呼んでみただけです。」
「何なんだよ。」

部屋に戻り、旅行中に読み切れなかった論文の続きを取り出す。
視線を感じ振り返ると、カイトがいた。
部屋までついてきたのか!?

「暇人か!?」
「暇です。」
「じっと見られると落ち着いて読めない。」
「だって見てないとマスター心配ですから。」
「そんな幼稚園児みたいな扱いするな!」
「もっとタチ悪いですよ。」

え…?
ニコニコしていたカイトの表情が急に険しくなる。
「半無意識的にアイスピックを持ってるようなところを見たら、心配に決まってるじゃないですか。いつ何をしでかすかわからないじゃないですか!」

そんなの、もう何日も前のことじゃないか。

「何、まだそんなこと気にしてたの?どんなのかなって気になっただけ。」
「いや、どうして持ってるのかわからないって言ってました。」

だから、何で今頃までそんなことを気にしてるわけ?

「だったら何?それで私のことを見張るつもり?」
「そうですよ。」

訳わからない。
「恭一さん、すぐに見張れって言ってました。多分、マスターが気付いてないだけで、それだけ危険な状況下にあると思います。」

恭一に言ったの?なぜ?
それに、恭一の方もなぜそんなにも干渉したがる?

親でもない、兄でもない、ただの従兄のくせに。

「それにしても、よかったですね。」
「何が?」
「萌さん…いや、結さんと仲直りできて。」
「あぁ、そうだな。」

話題、変えやがったな。
そういえば帰り際にあいつ…

ー怪我に気を付けてよねー

どういうことだ?

Trrrr.....Trrrr.....
"桐生恭一"

「もしもし、お土産あり…」
「カイトに見張ってろってどういうことだよ!?」
「聞いたのか?カイトから」
「あぁ。で、どういうつもりだ。」
「心配なんだよ。翡翠が。」
「だからって監視させることないだろ!?」
「危ないだろうが。」
「私は囚人でもないし、誰かに危害を加えるつもりもない。」

なのにどうして見張られなければならない?

「流星群を見ていたとき、料理中、実験の失敗。」
「いきなりなんだよ?」
「お前が不審な怪我をしたときだよ。どうしてこんなことをしたのかわからない、必ずそう言ってた。」

それがなんだ?不審も、どうしてこんなことを、も、わざわざ自分から意図的に怪我しようなんてしないんだから。

「カイトから聞いた、アイスピックの時の状況とそっくりなんだよ。命に関わることやらかしてからじゃ遅いんだよ!」

「命に関わること?」
「これ以上話してると、俺が冷静になれなさそうだ。切る。」

なんだよ、そっちからかけておいて。

ープツッー

私が死ぬつもりでいるとでも思っているのか?
私にはいっさいそんなつもりは無い。

…本当に無い?

じゃあ、どうして生きてる?

「マスター…」
悲しげな顔をされても、困る。
「ごめんなさい…」
「別にもう、いいよ。」

正直もう、疲れた。
多分これは、旅行疲れとは、全然違う。

「ごめんカイト、一人にさせてくれる?」
「わかりました。」

天井には、照明。
何もない部屋。

この部屋に何もないのは、私が全部、何もかも、仕舞込んでしまったから。

論文、読もう。
こうしていれば、きっと余計なことを思い出したり考えたりしないですむ。

そうだと思っていた。

少し前まで、そうだった。

論文や勉強でかき消そうにも、かき消すことができない。

やっぱり、旅行に行ったのがよくなかったのか?

カイトといるなら大丈夫な気がしたが、そんなことはなかった。私がかつて危惧したとおり、思い出して、思い出して悲しかった。

…どうして私だけ残ってしまったんだろう。

どうして私だけ残ってしまったんだろう?

残ってしまったんだろう?

残ってしまった?

残って…

思い出すことが辛くて悲しいのは、なぜ?

家族が大切だったから。
一緒にいた日々が、幸せだったから。

本当にいなくなったの?
どこかにいて、いつかひょっこり帰ってくるんじゃないの?

…本当に?

私は本当に、いつか帰ってくることを信じている?
信じていたら、どうして「残ってしまった」という認識になる?
思い出して悲しいのは、もう、分かってしまっているから?
時々本当に生きていたくなくなるのは、分かっているから?

「そっか、本当に、この世にはいないんだね…」

思い出すのは、過去のこと。
思い出すなら、それは過去。

ずっと昔から、突きつけられ続けたはずだった。
気付かないふりで、都合のいいことを信じようとした。
どこかにいる、いつか帰ってくる。

だけどその反面、思い出したくない、何もしたくない。
矛盾した日々を繰り返した。

何もしたくなかったのは、思い出して辛いことよりも、もうみんながいないという、実感を持った現実を私から遠ざけるためだったんじゃないか?

一度、気付いてしまった現実は、もう一度知らなかった頃に戻すことはできない。

もう、この世にはいない。
この世で会うことは、もうできない。

それに気が付いて、なぜだか、生きたくないとは思わなかった。
改めて、ちゃんと思い出そうと思った。

押入から、アルバムを取り出した。

58 ギター(カイトside)

手持ちぶさたになり、リビングでアイスを食べながらテレビを見ることにした。
続き物のドラマは途中から見ても話がさっぱりつかめないし、お笑いも最近の人を知らないからネタがよくわからない。昔の人を出されてもわからないけど。

マスター、大丈夫かな?
どうしても気になってしまう。
一人でいる間に何かやらかしてないだろうか。

アイスピックの場所は僕しか知らない。包丁やナイフの類は皆キッチンにある。

皆…?

十徳ナイフ。

しまった、どうしよう。
回収しに行くにも、まだマスターが一人にしてと言ってから20分も経っていない。

仕方なく、消去法的に動物番組を眺める。
テレビの内容なんて、全く頭に入ってこない。
入る入らないどころか、すり抜けていくようだ。
マスターが出ている番組だったら、また違っていたかもしれない。いや、違うどころではない。
もしマスターが出演していたら、録画して何度でも何度でも見直していただろう。

テレビにももちろん、きれいな人や可愛い人が出ている。でも、マスターの方がずっときれいだ。マスターにかなう人なんて他にいない。絶対にいない。あくまで僕の見解だけれども。

今はこんな世界に身を投じていないから有名ではないけれども、ひとたびマスターが芸能人になったなら、世間の大女優という大女優がみんな真っ青になるだろう。こんなにもきれいな人、他にいないんだから。マスターはただきれいなだけじゃない。誰にも超えられない輝きを持ってる。誰一人として、僕のマスターに及ぶ人などいやしない、少なくとも僕はそう思ってる。

でも、ちょっと待てよ?
もしもマスターが有名になってしまったら…
僕と一緒にいる時間が圧倒的に減ってしまうじゃないか!
マネージャーとやらに日々を管理され、見も知らぬファンや追っかけの数々の目に囲まれ続け、マスコミは現在過去未来何もかも詮索しようとし、少しでも何かあれば全国区に報じてしまう。

嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。そんなのは絶対に嫌だ。

たぶんマスターだって嫌だろうし、僕だって嫌だ。なんか、許せない。
仮に僕がマネージャーをやったとしても嫌だ。

こうして、2人で普通に暮らしているのが一番いい。

マスター、今部屋でどうしてるかな…?
どうしてもどうしても、マスターのことが気になってしまって仕方がない。

こんな時に限って、時計の針は進まない。
かといって、わざわざ一人にしてと頼んだマスターを呼び出すわけにもいかない。
出てきたマスターに、大丈夫ですか、怪我はないですかとでも言おうものなら余計に警戒させかねない。
それだけは絶対に避けたい。

マスターのために料理をしようにも、旅行から帰ってきて食材という食材を買ってないから作りようがない。昼ご飯だって、ご飯を炊いて冷凍食品を温め、粉のスープにお湯を注ぐ程度のことだ。

そうか、食材を買いに行けばいいのか。
何を買うべきかわからなかったため、仕方なくマスターに尋ねる。

コンコン
「マスター、ちょっといいですか?」
「何?」
返事はドア越しだ。
「旅行から帰ってから食材買ってませんから、ちょっとスーパーに行ってこようと思って。何か買ってきてほしいものはありますか?」
「ちょっと待って。」

しばらくするとマスターは、小さな紙切れを手渡してくれた。
「ここに書いてあるものを買ってきて。お金はこれで払って。もし余ったら好きなアイス買ってきていいから。あ、鍵これね。」
小銭入れと鍵を渡すマスターの目元が、うっすら赤いような気がした。

卵、牛乳、食パン、砂糖、タマネギ、ジャガイモ、午後ティー等、至って普通のものと、マスターと半分こするためのパピポを買った。レジが混んでいて、帰りが遅くなってしまった。

家に帰ってきても、まだマスターは部屋の中にいた。冷蔵庫や冷凍庫など、然るべきところに然るべきものをしまい終え、アイスを食べようとしたその時だった。


ギターの音?

殺風景なマスターの部屋には、ギターなんてそんなもの無かった。

ーあいつ、歌もうまいんだよ。ギターも弾けるし。高校時代は弟と一緒に校内ユニット組んでたぐらいだったんだ。作詞作曲は2人で交代しながらって感じだった。ー

初めて春爺のカフェに行ったときに恭一さんが言っていた。
けれど、今は思い出したくなくて、何もしたくなくて、もう歌わないと言っていたはずだ。
僕には、歌は苦手と言っていて。
それなのに、どうして今?

綺麗な旋律だ。
そよ風が花を揺らすような、優しい音。
アイスをしまい、マスターの部屋の前でその音色に聞き入っていた。

曲が終わったのか、ギターの音が止む。
マスターがドアを開け、部屋から出てきた。
「何でこんなとこにいるの?まさか、聞いてたの?」
「ごめ…」
「謝らないでいいよ、別に。聞かせられないほど下手なわけでもないし。」

そこ、なんですか?
マスターの目元の赤が、ほんの少し濃く、広くなったような気がした。

「それはそうと、午後ティーは冷蔵庫?喉乾いた。」
「あ、はい!ミルクでいいんですよね。」
「そう。一番好きなやつ。おつかい行ってくれてありがとう。」

こんな、ほの暗いような状況でも、マスターのありがとうという言葉が僕の心に花を咲かせた。

「カイトも飲む?」
「はい!」
マスターがコップを2つ持って、リビングに来る。

「マスターって、すごい美人ですよね。」
無理に重々しい話なんて、しなくてもいいんじゃないか。

「いきなりなんだよ。」
「マスターほどの美人って、他にいないと思います。少なくとも僕の知る限りでは。」
「だからいきなりなんだよ。だいたいカイトは知ってる人自体少ないだろ。」

普通の、他愛もない話をこうやってしているだけで、十分じゃないだろうか。

「テレビを見ていて思ったんです。ひとたびマスターが芸能界入りしたら、世間の名だたる女優たちがみんな真っ青になるくらいきれいだなって。」
「そんなにきれいきれい言うなよ。どっかの石鹸みたいじゃないか。それに、そんなおだてたところで追加でアイス買ってきたりしないからな?」

どっかの石鹸って…
照れ隠しなのはわかってますけどさ。
「わかってますよ、僕は思ったことを言っただけです。」
さりげなく、マスターの手に自分の手を重ねる。

「だから何やねん!」
こういう反応が、可愛いんですよね。

心配だとか、どうとかは、あえて言葉に出さなかった。
他愛もなく、ただ特に内容があるわけでもない話で、ぼんやりと笑うことを選んだ。
やっぱり、一番逃げているのは、僕のような気がした。

「ねぇ、やっぱりさ…」
「何でしょう?」

「あんた、やっぱり私の弟そっくりだよ。」
意表を突かれた。
弟さんの話が飛んでくるなんて、予想もしていなかった。
だけど、僕が弟さんによく似ていたところで、何ができるのだろう?

「大丈夫だよ、前みたいなことしたりしない。カイトがカイトなのは、私ももうわかってる。ただ、やっぱりよく似た顔立ちしてるなって、それだけ。もうしばらくしたら晩ご飯を作るから、お風呂にでも入っててよ。」

「そうですね。」

マスターをリビングに残し、風呂場へと向かう。
どうしてマスターは突然また、僕が弟さんに似ているなんて言い出したんだろう?

いや、マスターの行動一つ一つになぜと問うのは、それはそれで僕がおかしい気もする。全部が全部、説明できる理由で行動しているわけなんてない。

風呂場とキッチンは、割と近くにある。
シャワーを止めたとき、マスターの声が聞こえた。

さっきのギターの曲と、同じメロディー。
いつか聞いたあの声は、やっぱりマスターだったんですね。
伸びやかで透き通った、僕の好きな声。

59 優しさ(翡翠side)

アルバムを眺める。
封じ込めようとしていた記憶の数々が、枷を外され、私の中を飛び回ってゆく。

苦しいとか、悲しいとか辛いとか、そういう問題以前の話で、ただただ、封印していたものがあふれてくる。

一度、全てを閉じ、天井を見上げる。

記憶たち。
あれだけ遠ざけていたものは、こんなにも近くにあった。

もう一度その一つ一つを、アルバムを眺めながら、なぞるように反芻する。

いくつもの色をまといながら、私を取り巻いた思い出は、決して私を傷つけるためにあるのではなかった。

むしろ、限りなく優しく、私を包み込んでくれた。

「ねーちゃん!」
声が聞こえた…ような気がした。
振り返る。誰もいない。

コンコン
「マスター、ちょっといいですか?」
そっか、そうだったよね。

カイトが買い物に行った。

流れる涙の意味は、何なのだろうか?
苦しみ、悲しみ、辛さ、痛み…?
どれでもない。

しまい込んでいたものを思い出そうとするたび、そのひとつひとつに触れるたび、流れてゆく。

触れたものは…優しさ…?

気づくと私は、アルバムの奥にあるギターと、一枚の楽譜を取り出していた。

私の、好きな曲。
琥珀が、私のために書いてくれたもの。

さっきアルバムをなぞったときと同じように、楽譜をなぞってギターを弾く。

すぐとなりにでも、琥珀がいてくれているような気がした。

お姉ちゃんっ子だった琥珀は、しょっちゅう私の後をついて回ってたっけ。

少しだけ喉が渇いて、飲み物を飲もうとドアを開けると、目の前にカイトがいた。

顔立ちも確かに、びっくりするほどそっくりだけれど、しょっちゅう私の後をついてくるところも、なんだか琥珀にそっくりだ。
「何でこんなとこにいるの?まさか、聞いてたの?」
「ごめ…」
「謝らないでいいよ、別に。聞かせられないほど下手なわけでもないし。」

もう少しまともな言い方の一つや二つ、あっただろうにといつも思う。

「それはそうと、午後ティーは冷蔵庫?喉乾いた。」
「あ、はい!ミルクでいいんですよね。」
「そう。一番好きなやつ。おつかい行ってくれてありがとう。」

ありがとう一つ言うにも、どうしてこう、ぶっきらぼうになってしまうんだろう?

午後ティーを飲みながら、他愛もない会話をする。
そんな会話をどうにか続けようとしているけど、とても心配ですって、顔に書いてあるよ。

カイトがお風呂に入っていて、私はその間に晩ご飯を作る。お父さんとお母さんが仕事とかで忙しかったときは、よくこうしていたっけ。

さっきの曲を、今度は声でなぞった。

あんなに、あんなに思い出すことが怖かったのに。
本当は怖いものなんかでは全然なくて、むしろ、ずっとずっと優しいものだったんだね。

思えば、もう、1年半も経ってしまっていた。
少しずつ思い出していくと、すぐそばに、お母さんも、お父さんも、琥珀もいてくれてるような気がする。

隣で、笑って見守ってくれているような気がする。

もういないこと、それがわかってしまって、わかってしまったからこそ、みんなが生きていたこと、ちゃんと存在してたこと、私と一緒にいてくれたことに気づけたんじゃないだろうか。

怯えて、遠ざけ、目を伏せ続けていたから、みんながいた、そのことさえも見失ってしまったんじゃないだろうか?

事故が起こらなきゃよかった、とは思わない、なんて言ったらもちろん嘘になる。
今でもそばにいてほしい、もちろんそう思ってる。

だけど、そればかりはもう、どうにもならない。

みんなごめんね。こんなにも、気づくのが遅くなって。
みんなが残してくれた、限りなく優しいもの…
…思い出に…。

「あがりましたよ、マスター。」
「うん、ご飯できてるよ。」

何を驚いているの?
もしかして、私が、笑っていたから…?

60 メール(翡翠side)

ご飯を食べ終わって携帯を見ると、見慣れないアドレスからメールが入っていた。

"件名:クラスの小野寺です。
本文:夏期レポートの件ですが、バグダードの遺跡をテーマに、一緒に調べませんか?"

小野寺君とは特によく話すとか、そういうわけではない。
ただ、糸魚川、小野寺という出席番号順の関係で、今回のレポートは共同でやることになっていた。

正直、この手のことはあまり話し合わずに私がほとんど書いて、あとは残りの人に適当に脚色加えてもらうくらいが早くて面倒も少なくてよいのだが、今回ばかりはちょっと事情が違う。

ついこの前読んでいたテーマだったんだよ!
もしかしたら小野寺君、別の論文読んでるかもしれないし、

"件名:糸魚川です
本文:メールありがとう。大学の図書館あたりで調べて、話そうかと思うけど、都合のいい日を教えて。"

明日から数日間くらいがちょうど空いているらしい。
待ち合わせは、9時半に図書館前だ。

ほかの教授が書いてる論文も印刷しておくか。

「マスター、何してるんですか?」
「論文刷ってる。」
「また論文ですか!?」

論文という単語を聞くと、カイトがひっくり返りそうになるのがおもしろい。
「ここ2、3日レポート書きに大学行ってるから、留守番してて。あ、いや、ちゃんと鍵かけてくれるなら恭一や結のところに遊びに行ってもいいし。電話は家電使って。ここに恭一と結の電話番号書いておくから。」

残念そうな顔をされたのはわかったが、課題でもあるわけだから仕方がない。

「じゃ…じゃあ、帰りにアイス買ってきてくださいね…」
「また買うのか!?」

カイトが口を尖らせる。
「わかったよ。でもたくさんは買わないからな。」

「いいですよーだ。」
拗ねるな!

ーーーーーーーーーーーーーーーーー
「マスター、朝ご飯作っておきましたよ!」

朝起きてリビングに降りると、お洒落なフレンチトーストが目の前に!?
いつの間に覚えたんだろうか。しかも下手したら私が作るのより美味しいかもしれない。

この前料理始めたばかりのくせに!
少しだけ悔しいが、美味しいので許すことにする。

「レポート書きに行くって、誰かと一緒なんですか?」
「ん、クラスの小野寺君だよ。」

あれ、今カイト、目が変な光り方しなかったか?
「マスター、絶対お洒落していかないでくださいね!?」

いきなりどうした?
「いや、図書館とかお洒落していくところじゃないし。」

「絶対ですよ!絶対可愛い服とか着ていかないでくださいよ!?」

なぜそこまで言う?

「ジャージで!ジャージでいいですからジャージで!」
「いやジャージ暑いから。」
「露出が多いのとか、絶対絶対ぜーーーったいダメですからね!」

いつの時代のどこの良家の母親だよ?
「なぜそこまで言う…」

「え…だってほら…蚊!蚊ですよ蚊!あと紫外線!」
「日焼け止めと虫よけ塗ればいいだろ。」

「でもダメなんです!絶対!別に露出多くなくても可愛いのとかお洒落なのもダメです!」

「だから何でだよ…」
「何でもです!」
いや理由になってない!

とりあえず、適当なTシャツとGパンに着替え、支度して玄関に行く。

って、なんで服の袖つかんでるんだよ!
「やめろ、伸びるだろ。行ってくるからな。」
「……行ってらっしゃい。」

なんかすごく不機嫌そうに見送られたけどなんで?

61 差し入れ(翡翠side)

図書館の近くに来る。

「糸魚川さーん!」
なんかめっちゃ手振ってるんだけど。
周りの人見てるし。
「小野寺君おはよう。あの、大声出して手を振るのやめてくれる?周りの人見てるし。」

「あ…ごめん。あと、あのこれ、差し入れなんだけど…」
え、これ私も持ってこなきゃいけなかった?

「嘘、私何もそういうの持ってきてないんだけど…」
「いいよ!糸魚川さんはいいんだよ。」
なんかよくわかんないんだけど。

「えっと、じゃあこれは貰っちゃっていいのか?」
「うん!」

気になって、中身を見る。
……嘘だろ!?これって春爺のとこのモンブラン…
「ねぇ、これ本当にいいの!?」
「うん、もちろん。」

春爺のモンブラン持ってくるとか、センスありすぎだろ!
「嬉しい!私ここのモンブラン大好きなんだよね!」
「本当?喜んでもらえたならよかった。」

いやもう素晴らしすぎだって!

それぞれが調べてきたことの報告と、レポート作成の方向性を決めるだけで辺りが暗くなってしまった。

正直、私がモンブランをゆっくり食べるからって言うのと、ついついモンブランと紅茶について語ってしまったからあまり多くを話せなかったのだが、小野寺君、怒らずにニコニコ聞いてくれていた。

もちろん、双方の読んできた論文の話も充実していたのだが。やはり、学会で注目されているだけあって、重大かつ奥が深い。

「今日はありがとう。モンブランも美味しかったし。」
「いやいや。暗くなっちゃったから、送っていくよ。」

そんな至れり尽くせりしなくっていいから!

「大丈夫だって!そんなわざわざ悪いし…」
「いや、いいよ。女の子が一人で歩くには危ないし、送っていくよ。」

結局、断るのも申し訳ないほどに説得され、送ってもらうことにした。

「今日は意外だったよ、糸魚川さんっていつもクールなイメージだったけど、モンブラン食べてるときはなんか、小動物みたいで可愛いっていうか。」
「なんかそれいろんな人に言われるんだけど。てか私可愛くないし。」

みんな揃って同じこと言うって、変な協定加入者がどんどん増えてるわけ?

「可愛いよ。可愛いか美人かで言ったら確かに美人だけどさ。背が小さいとことか、すごく可愛いし。」
「貴様……私への禁句を…」
「ごご、ごめん!そういうつもりじゃなくて…」
「知らない、言い訳は聞かない。小さいは私への禁句だ。覚えておけ。次言ったら容赦しないからな。」

…なんでこいつは笑っている?

「なぜ笑う?」
「いや、怒ってる糸魚川さんも可愛いなって。」
「意味わかんない。」
怒ってたら普通可愛くないだろうが。

「じゃあ、私家ここだから。今日はありがとう。」
「うん、じゃあまた明日ね。」


「ただい…」
「何なんですかあの男!!」

何!?今のカイトのほうが、何なんですかこの人って感じだけど!?

「え、同じクラスの小野寺君だけど…」
「何で家までついてくるんです!」

むしろ何で詰問するわけ!?

「暗くなったから送ってくれるって言うから、断れなくて。」
「マスター絶対騙されてますって!何もされませんでしたか!?」

何か変な勘違いしてないか?
「いや、普通にレポートの相談してきただけだぞ?これ、今日のメモ。あと、小野寺君はカイトが思ってるような悪い人ではないと思うぞ?差し入れに春爺のとこのモンブランくれたし。」
「ももも、モンブラン、ですか!?」

なんだその李も桃も桃のうちみたいな。
「あぁ。」

「マスターそれ、お菓子で釣るとかいう常套手段ですよ分かります!?」
「むしろカイトがそんなに怒るのが分かりません…って、あーーー!アイス買ってこなかったからだな!?ごめん!ホントごめん!今買ってくる!」

慌てて家を飛び出し、一番近いコンビニでハーゲンダッツを買う。てか、食べ物の恨み恐ろしすぎるだろ。
モンブランの栗を奪われた私に匹敵するか、あるいはそれ以上なんじゃないか?

「ただいま!これでダメか?」
「…え?」
「もしかしてハーゲンダッツでもダメなのか?サーティーワンまで買いに行かないとダメだったか?」
「…そういうことじゃないですけど…もう、いいですよ。ハーゲンダッツ僕好きですから。というか一番好きですから。」

じゃあなんでそんな機嫌悪いんだよ?

62 わかってない(カイトside)

マスターがなぜだか楽しそうだ。

「マスター、何してるんですか?」
「論文刷ってる。」
「また論文ですか!?」

あんな訳の分からないものがどうしておもしろいんだろう?もしかしてマスター、ドM?いやそれはない、断じてない。

「ここ2、3日レポート書きに大学行ってるから、留守番してて。あ、いや、ちゃんと鍵かけてくれるなら恭一や結のところに遊びに行ってもいいし。電話は家電使って。ここに恭一と結の電話番号書いておくから。」

僕は一緒に行ってはいけないんですね。
レポート書くだけなら、わざわざ大学なんか行かないで家で書けばいいのに。そしたら僕、紅茶淹れたりできるのにな…

「じゃ…じゃあ、帰りにアイス買ってきてくださいね…」
「また買うのか!?」

だって、一緒にいてくれないじゃないですか。

「わかったよ。でもたくさんは買わないからな。」
「いいですよーだ。」

ちょっと拗ねてみました。
いや、態度はちょっとですけど内心かなり拗ねてますからねー。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー
食パンと卵と牛乳とバターがあるから、今日はフレンチトーストでも作ってみよう。いいところにシナモンとバニラエッセンスも発見。
朝ご飯作っておいたら、マスター気が変わって家にいてくれるかな?

「マスター、朝ご飯作っておきましたよ!」

お!マスターびっくりしてる。
結構美味しくできたと思うんですよ?

どちらにしろ、気になっていることがある。

「レポート書きに行くって、誰かと一緒なんですか?」
「ん、クラスの小野寺君だよ。」

誰ですかその男!?

「マスター、絶対お洒落していかないでくださいね!?」

さっきとは別の意味で驚くマスター。
「いや、図書館とかお洒落していくところじゃないし。」
「絶対ですよ!絶対可愛い服とか着ていかないでくださいよ!?」
ただでさえ可愛いマスターがお洒落したらほとんどの男が目をつけますからね!?
マスター、いい加減自分の破壊力を自覚してください!

「ジャージで!ジャージでいいですからジャージで!」
「いやジャージ暑いから。」
「露出が多いのとか、絶対絶対ぜーーーったいダメですからね!」
「なぜそこまで言う…」

なぜって…だって…マスターを他の誰かにとられるのは嫌だって…

言えるわけないじゃないですか!!

「え…だってほら…蚊!蚊ですよ蚊!あと紫外線!」
「日焼け止めと虫よけ塗ればいいだろ。」

あー!理由よけられた!!

「でもダメなんです!絶対!別に露出多くなくても可愛いのとかお洒落なのもダメです!」
「だから何でだよ…」
「何でもです!」

これ絶対理由になってないよ…

マスターは僕の説得に折れてくれたのか、適当なTシャツとGパンで出かけようとする。
結局行くんですね…
行ってほしくないなぁ…

「やめろ、伸びるだろ。行ってくるからな。」
「……行ってらっしゃい。」

やっぱり、ダメか。

マスターがいないんじゃ、何したってつまらないし。

嫌だなぁ…
課題とはいえ、マスターがよく知らない男の人と一緒にいるっていう状況がすごく嫌だ。

マスターが一緒にいないってだけでも嫌なのに。よりによって何で知らない男の人と一緒なんですか。

あー、嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。

こうして何もしないでいるのも、よくないのかもしれない。

「もしもし、恭一さん!?聞いてくださいよ!」
「どうした?またなんか翡翠にあったのか?」
「レポート書くとか言って、出かけちゃったんですよ!」
「要は暇なんだな?お前。」

暇って何なんですかもう!僕だって大変なんですって!

「それに、クラスの小野寺とか言う得体の知れない変な男と一緒なんです!」
「つまり、それが嫌だと。」
「そうなんですよ!!マスター美人だからいつ手を出されたっておかしくないじゃないですか!」
「まぁでも、レポート課題なら、どうしようもないしな。クラスメイトってことなら、萌の方がよく知ってるんじゃないか?」
「小野寺のことなんて知りたくもありませんよ!僕はただマスターが心配なだけです!」
「そうだろうな…。怪我とか、辛そうとか、そういうのはなかったか?」

あ…、恭一さんに先に報告すべきはそっちだった。

「マスター、昨日歌ってましたよ。」
「え!?」
「綺麗な声でした。ギターも、弾いてましたよ。ご飯できたよって言ってくれたマスター、すごく優しげな笑顔でした。」
「それ…本当か?」
「こんなことで嘘つきませんよ。」

僕だって、驚きましたよ。
あんな、全てを受け入れた先にあるような笑顔、初めて見ました。

「そうか…カイト、ありがとうな。」
「僕は何もしてませんよ。」
「いや…そんなことはない。もう歌わないって言ってたあいつが、だって…」
「きっと、マスターの中で何かがあったんだと思います。」
「それでも、お前はどこか必ず一役買ってる。少なくとも俺はそう思う。」
「そうですか?」

マスターの優しい姿を思い出すと、僕がイライラしていたのもだいぶ収まったようだ。

「あ、愚痴聞いてくれてありがとうございます。そろそろお昼ご飯でしょうから、切りますね。」
「あぁ、じゃあな。」

電話を切ってしまったらそれはそれでまた、暇になってしまった。
めーちゃんやミクにでも代わってもらえばよかったかな?
でも、電話代がかさむとマスター困るだろうし。

マスターの部屋にはいると、昨日演奏していたものだろうか、楽譜が広げてあった。
色あせた付箋には「ねーちゃんへ」の文字。

"作詞・作曲:糸魚川 琥珀"
花を咲かせるよ 君のために
探し辿り着く その地平に
もし君が何も 見えなくても
その花が君を 導けるように

頑張りすぎる 君だけれど
完璧である 必要はない
3歩進んでは2歩 下がる日もある
それでも蒼い花は 君のそばに咲く


楽譜の情報を頼りに、口ずさんでみる。
まだ、上手には歌えない。
いつか、マスターは僕に歌を教えてくれるかな…?

気づくと、西の空が茜色になっていた。
マスター、そろそろ帰ってくるかな?

いつ帰ってくるかと窓の外を眺めるけど、マスターは一向に帰ってこない。
さっきの歌をまた口ずさむ。
弟さんだから、ずっと見ていたのだろう。
やっぱり、マスターのことを表している感じがする。
それと、どうして琥珀さんは、「蒼い花」にしたんだろう?
白い花でも、黄色い花でも、赤い花でもよかったはずだ。
むしろ、マスターに合うのは青よりも白のような気もする。

辺りは、暗くなっていた。

「じゃあ、私家ここだから。今日はありがとう。」

マスター!?帰ってきた!

「うん、じゃあまた明日ね。」

何?この男、家までマスターに付きまとっていたのか?

「ただい…」
「何なんですかあの男!!」
「え、同じクラスの小野寺君だけど…」
「何で家までついてくるんです!」

ただのクラスメイトごときが家まで着いてくる権限がありますか!?

「暗くなったから送ってくれるって言うから、断れなくて。」

あぁ、そうですか。無理矢理ですね?無理矢理なんですね!?
まさか、遅くなったのはマスターが何かされたからなんじゃ…

「マスター絶対騙されてますって!何もされませんでしたか!?」
「いや、普通にレポートの相談してきただけだぞ?これ、今日のメモ。」

何でそんなにけろっとしてるんです!?洗脳か何かですか!?

「あと、小野寺君はカイトが思ってるような悪い人ではないと思うぞ?差し入れに春爺のとこのモンブランくれたし。」

マスターがモンブラン好き、しかも春爺のところのって…
どこで手に入れた?その情報を…

「ももも、モンブラン、ですか!?」
「あぁ。」

そうか、マスターを懐柔して手懐けるつもりなんですね。

「マスターそれ、お菓子で釣るとかいう常套手段ですよ分かります!?」
「むしろカイトがそんなに怒るのが分かりません…って、あーーー!アイス買ってこなかったからだな!?ごめん!ホントごめん!今買ってくる!」

マスター?
そんな、逃げるように出ていかないでくださいよ…

「ただいま!これでダメか?」
「…え?」

アイス…ですか?
確かに、買ってきてくださいって言いましたけど。

「もしかしてハーゲンダッツでもダメなのか?サーティーワンまで買いに行かないとダメだったか?」

違う、そうじゃない。

「…そういうことじゃないですけど…もう、いいですよ。ハーゲンダッツ僕好きですから。というか一番好きですから。」

マスターは全然わかってないんですから…

~interval-14(萌side)~

Trrrr....Trrrr....

誰?知らない番号。

"ただいま、電話に出ることができません。留守番電話サービスに接続します。ピーという音の後に、お名前とご用件をお願いします。ピー
もしもし?楠さんだよね。楠さんと同じサークルの山田から番号聞きました。楠さんって糸魚川さんと仲いいよね。糸魚川さんの…"

「もしもし?萌だけど。なんで小野寺君が萌に?」
「あ、つながった。今大丈夫?」
「うん、別にいいけど。」
「俺さ、出席番号でレポート、糸魚川さんと一緒なんだよね。」
直接話せばいいじゃん。

「でも俺、電話もメールも知らないからさ…」
夏休み前に聞いておけばよかったのに。

「あぁ、ひーちゃんあんまり人に教えたがらないんだけどね…。でも、レポートは課題だし、しょうがないか。メアドだけ教えておくね。」
なんで勝手に教えたーとか怒られそうでちょっと嫌だけど仕方ないか。

「あと…」
「他にもあるの?」
「レポートのテーマどうしよう…」
自分で考えなよ!

「糸魚川さん、どんなテーマが好きかな?」
「知らないよ、小野寺君がやりたいテーマはないの?」
「うーん…」
「そんなんだったら、ひーちゃんに任せちゃったら?萌から言っておこうか?去年もグループレポ、ひーちゃんがほとんど書いて、あと個々人の脚色でさっさと終了って感じだったし。」

まぁ、ひーちゃんのことだから、うだうだ決まらない話し合いなんかするくらいなら自分が書いちゃった方が早いとか思うんだろうね。

「でも、どうしても一緒にやりたいんだよね…」
「なんで?任せちゃえば楽じゃん。ひーちゃんも多分その方が楽だよ。」
「でも…」
あーもう、でもでもでもって五月蠅いって!

「ひーちゃん世界史好きだからさ、世界史の学会の中でホットなやつでも選んでみたら?バグダードの遺跡がどうとか言ってたし、その手の論文なら読んでるんじゃないの?」
「本当!?ありがとう楠さん!それとさ、」

まだあるの!?

「糸魚川さんの好きなものって何かな?一緒に図書館とか行くとしたら、差し入れとかしたいし。」

行くかわからないけど?
「何、小野寺君ってひーちゃんのこと好きなの?」
「えっと…それは…その…うん。」
「やめといたほうがいいと思うよ…」

ひーちゃんすごく美人だから、いろんな人が好きだの何だの言ってるのを見たけど、告白した人々の末路は同じなんだよね…

ーーーーーーーーーーーーー
「あの、翡翠さん、俺と付き合ってもらえませんか?」

「私、悪いけどそういうの興味ないから。他に用件は?無いなら、帰るけど。」
ーーーーーーーーーーーーー

まぁ…あのひーちゃんだもんね。恋愛とか、それどころじゃなかったもんね。
今は今で、また別の意味でやめたほうがいいけど。
カイトくんがいるんだから、無理だって。

「でも!俺、それでも糸魚川さん好きだし、その…」
こりゃ何言ってもしょうがないな。

「モンブラン。」
「え?」
「シャーロット通りってわかる?」
「うん。」
「シャーロット通りの北側の入り口の近くに、春爺って人がやってるカフェがあるの。いろんな人がレビュー書いてるから、シャーロット通り、春爺でググったら出るはず。そこのモンブラン。あれを食べてるときのひーちゃんは本当に幸せそうだったよ。」
「ありがとう!楠さん本当にありがとう!」
「まぁ、頑張ってね。後はもういい?」
「うん。じゃあ、切るね。」
「バイバイ。」

なーんか、めんどくさいことになりそうだなぁ…

63 嫌だ(カイトside)

あんな危険な男の所に、マスターを1人で行かせるわけないです。昨日はのこのこ家で待ってるなんて、ちょっと甘すぎましたね。

「おはようございます、マスター!」
卵を半熟に茹でられるようになったんですよ?

「すごい、これ私の好きな半熟だ…」
よし!今だ!

「マスター、今日はレポート書きに、僕も連れていってくれますよね?」
「え、なんで?」

こっちが聞きたいです!なんで連れていってくれないんですか?

「だってマスターいなくて1人じゃ暇ですから。」
「だから結や恭一のとこ出かけてていいって言っただろ?」
「マスターと一緒がいいんです!」
「遊びに行くんじゃないんだよ。レポートは課題だ。それに、論文って単語だけでひっくり返る奴がきても何も面白くないだけだぞ。結局暇になる。」

マスター、何とかして僕が来ないようにしたいんですか?

「マスターはどうしても、僕と一緒が嫌なんですか?」
「そんなこと一言も言ってないだろ?」
「じゃあ、一緒に言ってもいいですよね!」
「わかったよ、好きにしろ。」

なんか無理矢理押し切ってしまったみたいだが、とりあえず一緒に行けたので良しとする。


「糸魚川さーん!」
何この男。

「だから大声で呼んで手を振るのやめてって言ったろ。」
「ごめん…あの、隣の人は?」
「カイト…あぁ、私の弟。この大学受けたいみたいだから連れてきた。」
「へ、へぇ、そうなんだ…受験、頑張ってね…」

なんで僕を見てそんなに罰の悪そうな顔をする?
やはりマスターに何かするつもりなのか!?

「そうだ、糸魚川さん、これ」
「え、今日も持ってきてくれたの!?もう、なんか申し訳ないな…でも、ありがとね?」
「マス…ねーちゃん、それ安全だかわからないよ。俺が毒味するから貸して。」
「いや俺なにも入れてないから!」

怪しい。眠剤でも入れてマスターを連れ去る気じゃないのか?
「カイト、小野寺君に失礼。ごめんね、最近ちょっとスレてるから気にしないでやって。」
「そ、そう…?糸魚川さんが言うなら…わかった。」

なんで?なんでマスターはこんな奴のために謝るの!?
嫌だ。この状況、本当に嫌だ。

「あっれー?ひーちゃんにカイトくんに小野寺君?みんなレポートなんだぁ。萌もレポートなんだけど、ここ座っていい?」

結さん!あ、萌さんって言った方がいいのかな。
とにかくナイスです!
小野寺とマスターの間に座ってくれるなんて、本当にありがたいです!!

あ、小野寺が一瞬嫌そうな顔をした。
やっぱりマスターに何かするつもりだったんですね。

「ひーちゃん、そういえば喉乾かない?」
「俺、買ってくるよ。」
「えー、小野寺君行ってくれるのー?じゃあ萌カフェオレがいいなー♪ひーちゃんは?」
「午後ティーミルク。」
「ねーちゃん、俺も買ってくる。」
「カイトくんも?行ってらっしゃーい☆」

萌さん、僕たちがいない間に何とか言っておいてくださいね?

「お姉ちゃん、美人だよね。」
「小野寺さん。」
「何?」
「姉に気安く手を出したり、近寄ったりしないでください。」
「え…」

小野寺の持つペットボトルも奪い、4本持って席へと早歩きする。
「お待たせしました、マスター、萌さん。」
「小野寺君は?」
「トイレ行ってくるみたいですよ?」
「そうか。とりあえず午後ティーありがとう。」
「マスター、あんな男に騙されちゃダメですからね。」
「…案の定かぁ。」
「結?」
「あ、小野寺君来たから萌って呼んで。」
「わかった。」
「お待たせ、糸魚川さん。」
「萌もいるよー?」
「あぁ、楠さんも。」

イライラする。無性に。この男に対して。本当は見張っていたかったけど、あまりにもイライラして仕方がないからここは萌さんに任せよう。

「ねーちゃん、俺、七八郎池らへんちょっと散歩してくるから。何時までここにいる?」
「夕方になると思うけど。」
「じゃあそれまでには戻る。」

萌さんにアイコンタクトを送ると、意図的なまばたきで返された。きっと、わかってくれた。

僕は図書館を後にした。

64 質問攻め(翡翠side)

「マスターはどうしても、僕と一緒が嫌なんですか?」
「そんなこと一言も言ってないだろ?」
「じゃあ、一緒に言ってもいいですよね!」
「わかったよ、好きにしろ。」
昨日今日と、カイトが少し怖い。
何をそんなに怒っているのか、よくわからない。

図書館前では相変わらず、小野寺君が大声で私を呼ぶ。
「糸魚川さーん!」
「だから大声で呼んで手を振るのやめてって言ったろ。」
「ごめん…あの、隣の人は?」

そうだ、なんて言おう。

「カイト…あぁ、私の弟。この大学受けたいみたいだから連れてきた。」
「へ、へぇ、そうなんだ…受験、頑張ってね…」

小野寺君はなぜか、カイトを見て罰の悪そうな顔をする。カイト、もしかしてよほど怖い顔してるのか?

「そうだ、糸魚川さん、これ」

昨日と同じ紙袋。春爺のモンブランだ!

「え、今日も持ってきてくれたの!?もう、なんか申し訳ないな…でも、ありがとね?」

何か、お礼を考えなくては。

「マス…ねーちゃん、それ安全だかわからないよ。俺が毒味するから貸して。」

え?なんでそうなるの?

「いや俺なにも入れてないから!」

ですよね。うちのカイトがごめんなさい。

「カイト、小野寺君に失礼。ごめんね、最近ちょっとスレてるから気にしないでやって。」
「そ、そう…?糸魚川さんが言うなら…わかった。」
「あっれー?ひーちゃんにカイトくんに小野寺君?みんなレポートなんだぁ。萌もレポートなんだけど、ここ座っていい?」

「ゆ…萌か。いいよ。」
萌は私と小野寺君の間に座る。

「ひーちゃん、そういえば喉乾かない?」
座って10分も経ってないだろうが。

「俺、買ってくるよ。」
「えー、小野寺君行ってくれるのー?じゃあ萌カフェオレがいいなー♪ひーちゃんは?」
買ってきてもらえるなら、お願いしておこう。後で買いに行くのも面倒だ。
「午後ティーミルク。」
「ねーちゃん、俺も買ってくる。」
「カイトくんも?行ってらっしゃーい☆」

まぁ、4本を1人で持つのはやめた方がいいだろう。

「昨日今日とカイトが怖いんだが。」
「ん、どんな感じで?」
「なんか、やたらと怒ってる。よくわからんが。」

なぜか、カイト1人がペットボトルを4本持って席へと戻る。2人でもって来るんじゃなかったのか?
「お待たせしました、マスター、萌さん。」
「小野寺君は?」
「トイレ行ってくるみたいですよ?」

なら、仕方がないな。

「そうか。とりあえず午後ティーありがとう。」
「マスター、あんな男に騙されちゃダメですからね。」

なんでカイトの頭の中で小野寺君がそんなに悪人なんだ?

「…案の定かぁ。」
「結?」

何か知ってるのか?

「あ、小野寺君来たから萌って呼んで。」
「わかった。」
「お待たせ、糸魚川さん。」
「萌もいるよー?」
「あぁ、楠さんも。」

カイト…?
見るからに全身から、イライラとしたオーラを放っている。

「ねーちゃん、俺、七八郎池らへんちょっと散歩してくるから。何時までここにいる?」
「夕方になると思うけど。」
「じゃあそれまでには戻る。」

一緒にいたいから、と言っていたはずなのに、変な奴だ。

「レポートだけど、まず昨日の段階でここまで決まっていて、あとはここの内容だよね。まず、結論をAだとして、根拠はαのデータでいいと思うんだ。この教授のこの論文は、実際の遺跡のデータと照らし合わせても矛盾はないしね。で、こっちの方の文章は私が書くから、第3項目と第4項目のデータの所は小野寺君にお願いしていい?」
「わかった。糸魚川さんって、ホントすごいよね。」
「何が?」
「いや、頭の回転も速いし、いろんなことテキパキこなすし…」

別に、私は普通にやってるだけだが、周りからはそう見えるのだろうか。
「そう?ありがとう。」
淡々と、持ってきたパソコンで自分の作業を進める。

「ねーねーひーちゃん、小野寺君、昨日の話し合いの中でボツになったテーマってある?」
「あぁ、ここに書いてあるやつで×印がついてるやつ。」
「じゃあ、萌ここからテーマもらっちゃおうかな。いい?」
「あぁ、好きにしろ。」

必要な情報交換は終わったし、正直このテーマに関して小野寺君はもう、昨日話終えた時点で私以上に何か知ってるというわけではなさそうだ。
実際ここまでくると、全部私が書いてしまう方が早い気もするが、流石に来てもらってそれはできない。

「糸魚川さん。」
「何?」
「糸魚川さんって休日は何してるの?」
「特に何も。」

「糸魚川さんの好きなテレビ番組って?」
「まずほとんど見ない。」

「好きな音楽とかは?」
「まずあまり聞かない。」

「好きな動物って?」
「猫。」

「心理テスト興味ある?」
「いや別に。」

「好きな歴史上の出来事は?」
「フランス革命」

「好きな歴史上の人物は?」
「ジャン・ポール・マラー」

「名言と言えば?」
「ゲーテ:今日、そしてここから新しい世界史が始まる。
フェルマー:真に驚くべきことを発見したが、それを書くにはこの余白は狭すぎる。」

「好きな式は?」
「運動方程式」

「好きな数字は?」
「自然対数の底e」

「好きな物質は?」
「濃硫酸」

なんでこんな私ばかり質問責めされなければならないんだ?萌だっているのに。それも、意味のない質問ばかり。

「糸魚川さんって彼氏いるの?」
「いない。」
「好きな人は?」

一瞬、頭によぎった人をすぐにかき消す。
だってあくまであいつは機械、私は人間。
あいつはボーカロイド、私はマスター。
人と人ならざるもの、主従の関係、どちらも禁忌じゃないだ。それにこれは、長いこと一緒にいる情なんだ。恋だとか、そういうんじゃない。

「…いない。」
「気になる人は?」
「それ、質問ほぼ同じだろうが。」
「ごめん…じゃあ、どこか行きたいところは?」
「無い。」
よくもまぁ、こんなに次々と質問を繰り出せるものだ。

「このクラスだと誰がかっこいいと思う?」
「興味ない。」

「じゃあ、サークルとかは?」
「入ってない。」

「教授たちの中では?」
「そういう目で見たことがない。」
いいかげん、私は作業しているんだが?
小野寺君はさっき私が指示した作業やっているのか?

「じゃあ、中学とか高校では?」
「あのさ、作業してるんだからいい加減質問責めやめてくれ。っていうか小野寺君は終わったのか?」
「ご…ごめん。」

萌は、ぽわぽわした笑顔を浮かべながら作業している。
こいつも、よくわからん。

65 話通じてる?(翡翠side)

「ふー、こっちの作業は終わったけど、小野寺君は?」
「え、糸魚川さんもう終わったの!?」
割とゆっくりめにやったつもりだが。

「俺なんかまだ少し残ってるよ。」
え?私の分よりだいぶ軽くして頼んだんだけど?

「何でつまづいてんの?貸して。…あぁ、形式の変換と配置?あと論の運ぶ順番との整合性か。これならあと10分で終わる。」
「え?糸魚川さん?いや、そこまでやってもらうのは悪いよ…」
「10分で終わるって言ったろ。つまづいて1時間かかるよりいいだろ。」

やっぱり、私が全部書いた方が早かったかもな。
「で、でも…」
「モンブランの分だと思え。」
「そ、そうかな。じゃあ、お願いするね。糸魚川さんって本当にすごいよね。」

それ以外なんか無いのか。まぁいい。

「終わったぞ。」
「ありがとう、糸魚川さん!」

何に感激したか知らないけど、私の手を持ってブンブン振るのやめてもらえるかな…ここ図書館だし。

「あのさ、小野寺君。」
「何?」
「手、痛い。」
「ごご、ごめん!」

「萌は?レポートどうだ?」
「まだかかるよー。いいなぁ小野寺君。萌もひーちゃんに頼んじゃいたいよー。」
「流石に班が違うとな…」
「楠さんって、まだしばらくここにいる?」
「うん、いるけど?」
「糸魚川さん、ちょっといい?」

なんで私?

「カイト戻ってくると思うけど。」
「楠さんがいるから大丈夫だよ。」
「そう?」
「こっち来て。」
「わかった。」

図書館の閉架庫の前を通る。
閉架書庫の中に重要資料でもあったのか?

そう思うと、閉架庫前を通り過ぎる。
「どこ行くんだ?」
「ちょっとね。」

ちょっとじゃわからん。

しばらく歩くと、七八郎池の裏手に出る。
あまり目立たないが、少し開けたところだ。
「こんなとこ、あったんだな。」
「そうだね。あのさ、俺、糸魚川さんにずっと話しておきたいことがあって。」
「それ、早く言えよ。レポート書き直さなきゃいけないかもしれないだろ?」
「そういうことじゃないんだよ。」

じゃあ、何?

「糸魚川さんって美人だし、頭もいいし、何でもこなせるし、それでいてクールで一匹狼っぽいところがあって、なんていうか、誰にも染まらないっていうか、すごく格好いいなって思ってて…」

こいつの言いたいことは何だ?

「でも、モンブラン食べてるときとか、言っちゃうけど背が小さいの気にしてるところとか、すごく可愛くって…」

言いやがったな…

「ごめん!ごめんってばそんな睨まないで!」
「で、話しておきたいことってのは糸魚川翡翠の紹介小野寺バージョンか?」

「いやいやいやいや違うってそうじゃないって!」
さっきからずっと言ってるのは糸魚川翡翠の紹介小野寺バージョンだったぞ?

「じゃあ何だよ早く言え。」
「えっと、その、俺は…」

なんでそんなもごもごするんだよ、めんどくさいな…

「ずっと糸魚川さんが好きでした!あの、だから、良かったら…俺と付き合ってくれませんか?」

え…
そういうこと?
って言われても私、恋愛とか興味ないしな…
興味ないのに付き合うとか、出来ないし。

「私、悪いけどそういうの興味ないから。ごめんなさい。」

「えっと、じゃあお試し、みたいなのは?友達から始めるって言うか、友達以上恋人未満みたいな…その…」

はい?言ってる意味がちょっとよくわからない。

「糸魚川さんって彼氏いないんでしょ?」
「だから、そういうの興味ないんだって。」
「糸魚川さん美人なのにもったいないよ。絶対誰かと付き合ったりとか、した方がいいって!」

何で興味ないのに付き合わなきゃいけないんだよ。

「いや、興味ないのに付き合うって変だろ?大体そういうのって、お互い好きな人同士がってやつだろ?」

「ほら、最初はそうでもなかったけど付き合ってくうちにだんだん…みたいなのあるじゃん?」

こいつ、話通じてないのか?興味ないって言ってるじゃないか。

「まず私が興味なかったら意味ないだろ。」
「もしかしたらこれから変わるかもしれないじゃん。」
「だからって今付き合う理由にはならないだろ。」

「じゃあ、糸魚川さんは俺のこと嫌い?」
なんでそうなるんだよ!
「別に嫌いではないけど。」
「じゃあいいじゃん、付き合おうよ。」

よくねーよ!何がいいんだよ!それお前の都合にとってだろうが!

「なんでそんなに私に固執するわけ?そんないいかげんな感じでいいから付き合ってくれって言うなら、誰でもいいんじゃなくて?」
「いや、俺は糸魚川さんじゃなきゃダメなんだよ。俺が好きなのは糸魚川さんだから…」

いや、勝手もいいとこだろ…

「糸魚川さんだって、今好きな人いないんでしょ?」
「だから、さっきから何度も言ってるじゃないか。そもそも興味がないんだって。」
「でも…」

まだあるんかい!

「とにかく、私は付き合う気はないから。萌待たせてるし、戻るからね。」
「あ、ちょっと待って!」

一緒に歩くのが嫌で、一目散に走り出していた。

66 何もないわけ…(カイトside)

「ねーちゃん戻ってきたよ…って、萌さんしかいないんですか?マスターは?」
「ん、小野寺君とどっか行ったよ。」
「何やってんすか萌さん!2人でどっか行かせるなんて絶対ダメじゃないですか!だから僕アイコンタクトしたのに…」
「いや、それはわかったんだけどさ…」

わかったって、現に2人でどっか行っちゃったんじゃないですか!

「止める理由も、特にないんだよね…」
「あるじゃないですか!マスター危険じゃないですか!」
「じゃあ、カイトくんがずっとここにいればよかったじゃない?」

…そうだけどさ。

「無理だったんですよ!あの男見るとイライラしてしょうがなくて…」
「まぁ、ひーちゃん取られたりは、しないと思うよ?ひーちゃん、そういうの、興味ないし。」

少しの安堵と同時に、少しの切なさが宿る。
僕にも興味ない、のかな?

「あ、カイトくんは、大丈夫だと思うよ?」
「そ、そうですか…」

「ただいま!…はぁ…はぁ…すぐ帰ろう!荷物持って!」
「マスター、どうしたんですか!?そんな全速力で走ってきて」
「ひーちゃん小野寺君は?」
「いいから、もういいから帰ろう、早く。」
「小野寺君のパソコンは?」
「置いてっていいからもう帰ろ、萌も。」

何かあったな。

「マスター、先、帰っていてください。」
「何してんのカイト、帰らないの?早く!」
「カイトくん、これ萌の携帯。預けるから後でひーちゃん宛にかけて。ここからは萌の家の方が近いから、一旦ひーちゃんを萌の家に連れてく。」
「わかりました、お願いします。」
「行くよ、ひーちゃん。」
「え?カイトは?」
「いいから、早く。帰るんでしょ!」
「あぁ、うん。」

だからあの男は危険だと思ったんだよ。

「糸魚川さん待ってってば…あれ…カイト君?楠さんとお姉ちゃんは?」
「何したんですか?」
「え?」
「何もしてないわけ、ないですよね?」
「何が?」

この期に及んでしらばっくれるつもりか?

「姉に何したんですかって聞いてるんですよ!」
「だから何もしてないって…」
「だったら何で姉が一目散に走って今すぐに帰ろうとか言うんですか!」
「え…?」
「あなたが何かしたから、逃げてきたんじゃないんですか!?」
「糸魚川さんと楠さんは…」
「だから、帰りましたよ。」
「え!?送っていこうと思ったのに、女の子だけじゃ危ないから…」
「俺にはあなたといる方が危なく見えますけど。」
「俺は別に糸魚川さんに変なことしたりは…」

どうだか。

「小野寺さん基準の、変なことはしてない、ですか。でも、いつもクールな姉が必死で逃げてくるってことはそういうことだって分かってます?」

ポケットの中のアイスピックを握りしめる。

「俺はただ…」
「これ以上姉に手を出すつもりなら…」

僕は右手のそれを、鈍く光らせる。

「ひっ…」
「分かっていただけましたか?」
「ももも、もう近寄りませんから!本当に!あと俺はなんにもしていませんから!」

ほんの少しちらつかせるだけで、慌てて荷物を持って脱兎のごとく駆ける小野寺。
そして、この期に及んで自らの弁解と保身。
マスターにせめて謝るとか、そういうことはないのか?
まぁ、謝るために近づかれるのも虫酸が走るけど。

小物男が。



「もしもし、マスター。今萌さんの家ですか?」
「あぁ。リンとレンもいるぞ。」

少し落ち着いたんですね、マスター。

「今から行きます。」
「萌がカイトを駅まで迎えに行くって。」
「わかりました。ありがとうございます。じゃあ、切りますね。」
「あぁ。アイスもあるから早く来いよ。」

67 萌の家(翡翠side)

さっきまで私のいたテーブルが見えてくる。
カイトも、戻ってきたのか。
振り返ると、かなり遠くにへたりつつだが、小野寺が追いかけてきている。

「ただいま!…はぁ…はぁ…すぐ帰ろう!荷物持って!」

正直、顔を合わせるのも嫌だ。

「マスター、どうしたんですか!?そんな全速力で走ってきて」

カイト、心配だろうが今はまず帰るんだ。

「ひーちゃん小野寺君は?」
「いいから、もういいから帰ろう、早く。」
「小野寺君のパソコンは?」
「置いてっていいからもう帰ろ、萌も。」

とにかく、小野寺が来る前に、一刻も早く帰りたい。
こんどはどんな言い回しで言い寄ってくるか分かったもんじゃない。

「マスター、先、帰っていてください。」

なんで?いいから早く帰ろうよ?

「何してんのカイト、帰らないの?早く!」
「カイトくん、これ萌の携帯。預けるから後でひーちゃん宛にかけて。ここからは萌の家の方が近いから、一旦ひーちゃんを萌の家に連れてく。」
「わかりました、お願いします。」

え?どういうつもり?

「行くよ、ひーちゃん。」
「え?カイトは?」
「いいから、早く。帰るんでしょ!」
「あぁ、うん。」

萌に手を引かれ、駒田吾妻大前駅へと駆ける。
改札を走り抜け(ちゃんとICカードはかざしたが)、人混みをかいくぐって階段を駆け上る。

発車ベルも終わる寸前に、滑り込むように電車に乗る。
「はぁ…はぁ…」
「電車乗っちゃえば…もう…大丈夫だから。」
「あの、萌ありがとう。にしても、走りづらくなかったか?TシャツにGパンの私と違ってワンピースだし。」
「それは大丈夫。ひーちゃんこそ、何があったの?大体予想つくけど。あ、降りるよ。ここわたしの最寄りだから。」

駒田吾妻大前駅から2つのところで、しかも駅から5分もしないところにあるらしい。
私の最寄りはここで乗り換えて、それから5駅ほど。しかも家までは結構歩く。
なんか、格差を感じる。

「走ってきて暑いし、カイトくんも後で来るから飲み物かなんか途中で買っていこうか。」
「それなら、アイスにしないか?」
「それもいいね。」

途中のスーパーでアイスを買い、萌の家に着く。
デザイナーズマンションみたいなところを想定していたが、案外普通の一軒家だった。

「ただいま。」
「おかえり!マスター、隣の女の子は?」
「糸魚川翡翠。萌の大学の友達だ。」
「そっか、あたしは鏡音リン。こっちは双子の弟のレンだよ!」
「はじめまして。」
「レンくん、そこのソファーのぬいぐるみどけてもらっていい?ひーちゃん、まぁ座ってよ。今アイスティー入れるから待ってて。あ、アイス冷凍庫入れてくれる?」
「了解。」

いわゆる"可愛い"雑貨が点在している、萌らしい家だ。
「翡翠さんって、マスターと同じサークルか何かなの?」
リンが気さくに話しかけてくる。
「いや、サークルじゃなくてクラスだな。」

Trrrr....Trrrr....
「ごめん、ちょっと電話。」
「もしもし、マスター。今萌さんの家ですか?」
「あぁ。リンとレンもいるぞ。」
「今から行きます。」

「あ、ひーちゃん電話の相手カイトくん?なら、駒田吾妻大前駅までわたしが迎えに行くって言っといて。」

「萌がカイトを駅まで迎えに行くって。」
「わかりました。ありがとうございます。じゃあ、切りますね。」
「あぁ。アイスもあるから早く来いよ。」

ープツッー

「ひーちゃん、わたし迎えに行くからリンちゃんとレンくんお願い。」
「わかった。」

「翡翠さん、これ。」
レンがアイスティーを手渡してくれた。

「さっき、カイトって、しかもアイスって言った?」
「あぁ。」
「え、じゃあもしかして翡翠さんって、兄さんのマスター!?」

あれ、萌は二人に言ってなかったのか?
「そっか、翡翠さんみたいなきれいな人なら、カイト兄がす…」
「リン言っちゃだめ!」
「えー。レンもそう思うでしょー?」
「でもそこまで言っちゃだめだよ。」

2人とも楽しそうだな。

68 ゲーム(翡翠side)

「そうだ、翡翠さんってゲームとかやる?」
「昔はな。今はやってない。」
「そっか…。」
「一緒にやるとかなら、やろうか?」
「ほんと!?」

割と落ち着いていたレンだったが、ゲームをやるとなると目を輝かせた。
「リンもやりたい!」
「じゃあ、3人な!」

見ててほほえましい姉弟だな…
そうだ、いくらブランクがあるとはいえ、手加減しなくては。
高校時代の記憶がよみがえる。

ーーーーーーーーーーーーーーー
「はぁ!?また負けたし!ねーちゃん強すぎだろ!」
「琥珀が弱いんだよ。私普通にやってるし。」
「いや俺別に弱い方じゃないよ?クラス内では最強だし。ねーちゃんもクラスの人とかとやってみ?ねーちゃんめちゃくちゃ強いから。」
「ふーん。そうなの?」

次の日の放課後。
「ねぇねぇ」
「わっ、糸魚川!?」
「幽霊見たみたいな反応するな。それ、私も対戦やっていい?」
「え、いいよいいよ。4Pって今CPUだよな?」
「うん、あれ?糸魚川もやるの?」
「あぁ、混ぜてもらう。」

数分後
「嘘だろ…?」
「藤原と沢田がタッグ組んでもやられるって…」
「糸魚川、なんかお前チートした?」
「してないよ失礼な。」
「だとしたら強すぎだって!すげー、今度教えてくれる?」
「あぁ、私でよければ。」
「お前糸魚川に数学も教わってるじゃんか!」
「教わっちゃいけないなんて誰が言ったよ。」
「そうだけどさ…」

それから数日もたつと、
「糸魚川さん!2年F組の中村です!「北川です!」」
「「お手合わせお願いします!!」」
「え、私?このゲームで?いいけど…」

結局、学校中から来た(たまに他校から来た)人と対戦していて、全員に勝ってしまったのだ。私としてはごく普通にやってただけなのだが…
ーーーーーーーーーーーーーーーー

「え…嘘でしょ。」
「すげー、すごすぎる…」
「レンに勝つなんて相当だよ。」
「翡翠さん本当にブランクあるの!?」
「あるよ。」
「翡翠さんもう一戦!」
「あぁ、いいよ。」


ガチャ
「「ただいま…」」
「「「今ちょっと無理!」」」
「マスター?」
「話かけんなバカイト!」
「え…」

もう一戦も終えたが、やはり結果は変わらなかった。
割と手加減したと思うんだけど…

「カイト兄~!」
「よしよし、リン元気してたか?」
「うん、バーベキュー以来だねー♪」
「兄さん、バーベキューの時のは大丈夫なの?」
「あ、それは大丈夫だよ。レンありがとう。」

私から見ると弟っぽいけれど、本来はこうやって、お兄ちゃんとして慕われているんだな。

「それよりみんなー、アイス食べなーい?」
萌が袋にたくさん入ったシューアイスを運んでくる。

「「「食べる食べる」」」

こういうところは3人一緒なんだな…
「はいはい、リンちゃん、レンくん、カイトくんね。ひーちゃん、これ、取りに来て。」
「あぁ、ありがとう。」

リンとレンが夢中になっている間に、私たちは私たちで話す。

69 帰り道(翡翠side)

リンとレンが夢中になっている間に、私たちは私たちで話す。
「マスター、もう大丈夫ですからね。これで多分、9割9部9厘小野寺はマスターに近づきませんから。」
「むしろカイトが何した!?」
「まぁ、それはいいです。で、何があったんです?」
「萌だいたいわかるけどね。」

はぁ、ゲームとかでだいぶ気分が変わったところで言うのも面倒だな…でもしかたない。
「告白された。」
「はい!?」「やっぱりね…」

「で、どうしたんです!?」
「もちろん断ったよ。」
「よかった…」

カイトが安堵の表情を見せる。嫁入り前の父親みたいだな?

「でも、ひーちゃんお得意の、興味ないから、って言えば大概そこで終わらない?」
「お得意ってなんだよ。本当に興味ないから興味ないって言ってるだけでさ。でも、興味ないって言っても続いたんだよ。」
「ふーん?」

かくかくしかじか、とね。

「もうちょっと締めておけばよかったかな…」

カイト!?

「あのぉ…すごーく、すっごーーく言いづらいんだけど…ごめんなさい、謝っときます。」

え、どうして萌が?

「小野寺君にひーちゃんのメアド教えたの、わたしなんだよね…。」

おい。

「ひーちゃん嫌かなって思ったけど、課題だし仕方ないかなって。あと春爺のモンブラン教えたのもわたしです。ひーちゃんのこと好きって言うから、やめとけって言ったけど嫌な予感したから来てみたら案の定だよ…」

うーん、モンブラン2回も食べられたこと考えると、一概に悪くはないんだが…

「もーーえーーさーーん?」

カイト怖い!怖いってカイト!

「何してくれてんですか!!マスター逃げたからまだいいですけど、何が起こるかわからないんだよって僕に教えたのは萌さんじゃないですか!今回なんて、今回なんて本当に何が起こるかわからないじゃないですか!!ほんと何やってるんですか!マスターに何かあったらどうしてくれるつもりなんです!?」

「カイト、そんなに怒るな。」

「マスターだってマスターですよ!僕ちゃんと警戒し続けてたじゃないですか!危ないって、騙されてますって、狙われてますからって言ったじゃないですか!マスターが被害とか受けて辛い思いするのは僕嫌ですからね!」

「ごめん、カイトくん、ひーちゃん…」
「まぁ、過ぎたことを言っても仕方ありませんから、もういいですけどね。」

「カイト兄…」
「あっ…リン、ごめん、僕怖いとこ見せちゃったね、大丈夫だから、ごめんね?」
「まぁ、普段優しい兄さんがそれだけ怒るってことは、それだけの理由があるんだろうから、俺は平気。リン、確かにびっくりしたけど、兄さん頭おかしくなったとか、そういうんじゃないと思うよ。」
「うん、リン、もう大丈夫。カイト兄も、大丈夫?」
「うん、リン、レン、ありがとう。」

双子の力、おそるべし。

「萌さん、携帯。」
「あ、ありがとう。」
「あと、アイスとマスターありがとうございます。」
「いえいえ、むしろせめてこれくらいしないと。」
「マスター、帰りましょうか。」
「そうだな。」

「ばいばーい!カイト兄も翡翠さんも、また遊びに来てね!」
「兄さんまたね。翡翠さんこんどゲーム教えてね!」
「気をつけてかえってね。」

ゲームか、そうだな。

「あぁ、ありがとう。じゃあな。」
「では、さようなら。リン、レン、またね。」

カイトにはいろいろ、心配も苦労もかけてしまったな。
手をつないで帰るくらい、ありなのかもしれない。
…いや、やっぱり緊張する…。
「どうかしましたか?マスター。」
「い、いや、なんでもないよ。」

青い信号が点滅する。
「マスター、走りますか?」
「やめろ!」

完全に勢いだったが、カイトの手を、強く握ってしまっていた。

「マスター?」
私だって驚きたいよ。

「何が起きるか、わからないんだろ?」
「そう、ですよね。」
「だから、こうしてた方が、少しは安心だろ?」

何でこんなに緊張しなくちゃいけないんだよ…

「はい!」
カイトが、私の指とカイトの指を交差させるように繋ぎなおす。
信号が再び青になる。

「行きましょうか、マスター。」
この繋ぎ方の名前、カイト、お前は知ってるのか?

70 日曜朝7時半(翡翠side)

「マスターマスター!起きてくださいよマスター!」

まだ7時20分じゃないか。大学も無いんだから、寝かせてくれ。

「マスターマスターマスターマスターっ!起きてくださいってば!」

何でだよ!

「マースーターー!行きますよ、ほーれっ!」

何がほーれっ!だ!タオルケット剥ぐな!カーテン開けるな!眩しいことこの上ない!

「マスター!起きてください早く早く早く!!」

なんで今日はこいつ、こんなにしつこいんだ?

「早くしないと始まっちゃいますよ!?」

何がだよ!日曜限定スーパーの激安朝市なら行くけどな。

「んだよ、激安朝市とか何かか?」
「あ、マスター起きるの遅いですよ!ほらリビング行きますよ!」
「腕引っ張んな!」

何がしたいんだ?

時刻は、7時29分。

「ふー、うろたんだー間に合いましたね…」
「は?」

カイトがテレビをつける。

「マスターうろたんだー知らないんですか?日曜朝7時半スーパーヒーロータイムと言えばうろたんだーじゃないですか!小さいお友達も大きなお友達もみんな大好きうろたんだーをまさか知らないんですか!?」
「知らん!」

小さい頃はよく琥珀と一緒に見てたけどさ…
にしても、今はスーパーヒーロータイムって実写じゃなくてアニメなのか?

「ほらほら始まってますからちゃんと見てください!」

はいはい…

あれ…主人公は青なのか?
っていうか、見たことあるやつが出てるな…
聞き覚えのある声だな…
って!

「カイト!?あれカイトだよな!?」
「なんでヒーローの正体バラすんですか!それ一番やっちゃいけないことじゃないですか!反則です!禁忌もいいとこですって!」

いやそれならバレないようにやれよ…てか私に言われても否定しろよ…

「でもあれは、厳密には僕ではなく、昔の僕です。」
「再放送なのか?」
「そうじゃないです。僕はV20prototypeですけど、V1の頃から僕は発売され続けてました。僕の遙か先輩カイトのV1の名作を、アニメ化したのがこの作品なんです。」

なんか、歴史というか、由緒ある作品なんだなぁ…
そういえば、かなり前の話だが、よくよく思い出すとカイトって、メガレンジャーの主題歌の人に声がそっくりじゃないか?

「そういえば、かなり前の話になるが。」
「何でしょうか?」
「メガレンジャーの主題歌の人に声そっくりだよな。」
「お父さんです!」
「は!?」
「お父さんなのでパパイトです。」

と、言われましても…

「僕を作るときの声のベースとなられた方です。風雅なおとさんって言うんですが、風雅な、おとうさんって間違えて読む人続出し…」
「なおとさん、なおとうさん、パパイト、ということか。」
「そうです、そうなんです!V1から僕に連なる幾多ものカイトに彼が受け継がれてるんです!僕の尊敬してやまない方ですよ。」

そうなのか。今度調べてみよう。

ーーーーーーーーーーーーーーーーー
そうだ、としまえんに行くんだったよな。
結や恭一にも声をかけとくか。

"To:桐生恭一 楠萌
件名:としまえんに行きませんか?
本文:もし都合が合えば。めーちゃんやミク、リンレンも一緒にどう?予定を教えて。"

どちらにせよ、私は行くから通販で水着を買っておく。
そのついでに、さっきカイトが言っていた風雅なおとさんについて調べてみる。

カンタレラ…?
あぁ、あの劇薬か。
とりあえず、聞いてみるか…

!?
何だこの素敵なお声は…
というか、カイトの元になったってことは、カイトもこんな風に歌えるのか!?

「マスター、何してるんですか?」
「待てカイト今ちょっと黙れ。」
「あ、その動画は!」
「黙れ言うたろーが!」
「ごめんなさい」

………なんてあっという間の3分だ?
これではリピートしてカップラーメンが伸びるじゃないか。

「カイト!」
「はい!?」
「素敵なお父さんじゃないか!」
「はい!!」

琥珀の作ってくれたあの歌、カイトが歌ってくれたらどんな風になるんだろう…?

「ねぇ、カイト。」
「何ですか?」
「歌ってほしい曲があるんだ。」
「……マスター…!?」

なぜだ?なんで泣くんだ?嫌なのか?
でもボーカロイドなら歌うのが本業だろう?

「マスターっ!!」
「なっ…そんないきなり抱きつくな!それに泣くな!無理に歌わせたりとかしないから!」
「そうじゃないです、マスター…」

…違うのか?

71 歌(カイトside)

「ねぇ、カイト。」
「何ですか?」
「歌ってほしい曲があるんだ。」
「……マスター…!?」

嘘じゃ、ないですよね?
聞き間違いじゃないんですよね?
今、確かにマスターは、僕に、歌ってほしい曲があると、そう言ってくれたんですよね!?

「マスターっ!!」
「なっ…そんないきなり抱きつくな!それに泣くな!無理に歌わせたりとかしないから!」

無理にって、嫌なわけないじゃないですか!

「そうじゃないです、マスター…」

それにしても僕、泣いてたんですね…
でも、こればかりは仕方ないですよ。

だって、きっと思い出すから歌は苦手と嘘をついてまで、歌は教えられないと言った、そのマスターが…
僕に、僕に歌を教えてくれるんですよ!?

嬉しくないわけ、ないじゃないですか。
驚かないわけ、ないじゃないですか。

「じゃあ、何だ?」

「嬉しいんです…マスターが、僕に、歌を歌ってほしいってそう言ってくれたから…」
「だって、ボーカロイドなんだから、本業だろ?」
「そそ、そうですけど、だって、本当に嬉しかったんですよ?だって…マスター歌苦手って言ってたから…」

一緒に歌うことはおろか、歌を教えてくれることもないと思っていたんです。
たとえいろんなことを思い出すとしても、マスターが歌を僕に教えてくれることを選んだことが。
その選択をできるほどに、マスターの中で何かが変わったことが。
たまらなく、たまらなく嬉しいんです。

「嘘だよ。」

え、じゃあ歌は教えてくれない…

「歌が苦手なんて、嘘だ。むしろ本当は、歌が好きだ。」

マスター…

「今すぐに全てを言うことはできない。でも、カイトのおかげで、気づけたことがたくさんある。その、私に気づくきっかけをくれたカイトに、私の一番好きな歌を、歌ってほしいんだ。」

僕…そんな、何もしてないですよ、何も、できてないですって…

「マスター…!」

「歌って…くれるか?」

「はい!」

こんな、こんな瞬間がくるだなんて、思ってもみなかった。

「泣いてたら歌えないぞ。」
僕に抱きつかれたままのマスターが、ティッシュを手渡してくれていた。

「はい、ありがとうございます。」
「今楽譜をとってくるから。」
「はい!」

72 練習(カイトside)

「これ。この前ギターで弾いてた曲なんだけどね。」

"蒼い花 作詞・作曲:糸魚川 琥珀"

花を咲かせるよ 君がいつか
探し辿り着く その地平に
もし君が何も 見えなくても
その花が君を 導けるように

頑張りすぎる 君だけれど
完璧である 必要はない
3歩進んでは2歩 下がる日もある
それでも蒼い花は 君のそばに咲く…

僕が、マスターが出かけている間に読んだものだ。

「琥珀が、私のために作ってくれた曲。私の、一番好きな曲。これを、カイトに歌ってほしくて…」

言い終わる前に、僕は小さく口ずさんでいた。

「知ってるの?この歌。」
「マスターが出かけていたときに、1回楽譜を見させていただいただけです。ぜんぜんまだ、上手に歌えるとかじゃなくて…」
「そう、いや、今すぐに上手に歌える必要はないから。これから一緒に練習するんだろ?」

マスターが僕に、歌を教えてくれている。
その状況が、まだ僕は信じられない。

「じゃあ、まずは私の後に続いてくれる?」
「はい。」

ー花を咲かせるよ 君がいつかー
     ー花を咲かせるよ 君がいつかー


ー探し辿り着く その地平にー
     ー探し辿り着く その地平にー


ーもし君が何も 見えなくてもー
     ーもし君が何も 見えなくてもー


ーその花が君を 導けるようにー
     ーその花が君を 導けるようにー



ー頑張りすぎる 君だけれどー
     ー頑張りすぎる 君だけれどー


ー完璧である 必要はないー
     ー完璧である 必要はないー


ー3歩進んでは2歩 下がる日もあるー
     ー3歩進んでは2歩 下がる日もあるー


ーそれでも蒼い花は 君のそばに咲くー
     ーそれでも蒼い花は 君のそばに咲くー


こうしてマスターと一緒に歌っていることが何よりも幸せだが、マスターのきれいな声に、どうしても自分の声が不釣り合いに聞こえてしまう。

「やっぱりさすがだね、カイト。」
「え…?」
「最初でこれだけ音がとれるって、すごいと思うよ。私これ、音とるのにもっとかかったし。」

そう…なのかな?

「じゃあ、次はギターも入れるからね。ギター入っても、やることは同じ。私の後に続いて。」
「はい!」

マスターとの歌の練習は、本当に楽しくて、マスターと一緒に歌ってるということが、本当に嬉しくて、でも泣いたら歌えなくなっちゃうから涙は堪えていた。

こうしていると時間って、本当にあっという間なんですね。

「カイト、疲れてない?喉乾いたりしてない?大丈夫?」
「僕は大丈夫ですよ。マスターこそ、疲れてないですか?」
「少しだけ喉が乾いたから、水を飲もうかな。カイトの分も持ってくるよ。」
「いや、僕が持ってきます!」
「え、そう?じゃあお願い。」

そういえば、ひとつ気になることがある。
どうして琥珀さんは、「蒼い花」にしたんだろう?
別に花の色なら、白でも、赤でも、黄色でも、いやむしろ色を限定せずに花でも良かったんじゃないだろうか?


「マスター、氷は入れますか?」

あの歌はおそらくマスターのことを唄ってるんだろうけれど、そうだとしたら最後に蒼い花が出てくるのは…?

「あ、入れてくれる?」
「わかりました。」

まさか僕を暗示しているわけはないだろうに。
1年半前、琥珀さんが亡くなられたときには、まだV20prototypeのことは世間に知られていなかった。
開発中との発表もされていなかったはずだ。

では…なぜ?

「マスター、これ、マスターの分です。」
「ありがとう。」
「飲んだら、また続けますか?」
「そうだな。」

謎は、謎のままだ。
それでも、こうして練習しているとこの曲が、僕とマスターの曲のような気がしてくる。
琥珀さんの作った曲なのに、おこがましいかもしれない。
けれど、せめて、歌っているときだけでもそう思うのは、悪いことじゃないと思う。

マスターが、笑って僕に歌を教えてくれている。
こんな日が、ずっと続いてくれたらいいな。

73 お好み焼き(カイトside)

気付くと、朱が西の空から差し込んでいた。
うろたんだーを見て、マスターがほんの少し調べものをしてからすぐに始めたから、相当な時間が経っているようだ。

「マスター。」
「そういえば、お腹減ったよね?」

僕がマスターに聞こうと思ったこと、先に答えられてしまった。

「何が食べたい?」
「マスターは、何が食べたいですか?」
「私は特に考えてないよ。」

僕も、何がいいとかを特に考えていたわけではなかった。
むしろ、マスターが作ってくれたものなら何でもおいしいから、そう言おうかと思っていた。

でも何でもいいって、多分マスターが一番困る。

というか、これでは疲れたであろうマスターにばかり手間をかけてしまわないか?

かといって僕が作れるものは、限られているし…

「カイトは?」
「………」
「カイト?どうした?」
「はっ…ごめんなさい、ぼーっとしてました!」
「変なの。」
「あの…一緒に作りませんか?」

こうしたら、僕も手伝うことができる。足りないレパートリーは、マスターが補うことができる。

「一緒に作るもの…ね。何があるかな…。」

あ、余計に考えさせてしまったかな…

「ねぇ、お好み焼きって食べたことある?」
「何ですか?それ」

好きなものを焼くんでしょうか?
…アイス焼いたら溶けちゃうなぁ…

「じゃあ、お好み焼きにしよう。私、鉄板を準備するから、カイトはキャベツを千切りにしてくれる?あ、千切りって言っても荒くていいよ。」

センギリ…?線みたいに細く切るんだろうか?
でも、荒くていいってことは、細すぎも良くないのか。

「わかりました。」

お好み焼き…どんな食べ物が出来上がるんだろう…?

「千切りできたー?」
「こんな感じでいいんでしょうか?」
「あ、上手いじゃん!そうそうこんな感じ。」

良かった!

「オッケー、それじゃ皿と箸とソースとマヨネーズと青海苔と鰹節出しといてくれる?あと麦茶もね。その間に生地作ってるから。あ、鉄板に油もしいといて。」
「了解です!」

特にこれといって特別な行事があったわけでもないが、なんだか今日はパーティーのような感じがするんだ。
いや、僕にとっては何もかも特別な日だ。

マスターと一緒にうろたんだーを見た。
マスターが初めて僕に歌を教えてくれた。
マスターが初めて一緒に歌ってくれた。
ご飯を一緒に作って、一緒に食べてくれる。
悲しげな顔ひとつせず、笑って僕と1日家で一緒にいる。

そうだ、何もかも。
こうしていたら、マスターとの日々は毎日が特別なんじゃないだろうか?
そうだ、きっとそうだ。僕が、マスターの元に送っていただいた。
その時点で、きっと全ての特別を、この手に握らせてもらえたんだ。
その特別のひとつひとつに、これからゆっくり出会っていくんだ。
まるで、包みからひとつひとつ開けて取り出して眺めるように…

「生地できたよー!」
「はーい!」

さっきのキャベツといろんなものが混ざった何かが、鉄板の上に丸く流し込まれる。

「これ、ヘラね。いい感じになったら言うから、これ使ってひっくり返して。」
「は、はい!」

上手くできるかな…

「いいよ、今くらい今くらい」
「はい!」

せーのっ

ベシャ…

「あ…」
「ごめん、私が言ったのがちょっと早かったかも。ま、でも大丈夫だから。ほとんど崩れてないし。」
「そ、そうですね…」

次は上手くやるぞっ!

「次の、焼いてますね。」
「お願い。その間にこっち切り分けとくから。」

丸くて大きな、ちょっとふわっとしたものが切り分けられ、僕の皿とマスターの皿に乗る。

2つ目を焼いている間に、それぞれソースやマヨネーズなどをかける。

「あ、ちょっとそこの鰹節取ってくれる?」
「はい、どうぞ。青海苔ちょっと貸してくださいね。」
「いいよ取ってって。」

「あ!焦げる焦げる!」
「わああ!」

次は上手くやろうと思ってたんだけどな…

「あ、でもこれくらいなら大丈夫じゃない?」

良かった…

ちょこちょこ失敗してしまったけれど、マスターと一緒に作って一緒に食べられて、本当に楽しかった。

74 チケット(翡翠side)

"To:糸魚川 翡翠
cc:桐生 恭一
From:楠 萌
件名:Re;としまえんに行きませんか?
本文:いいよー。今日からの1週間なら特に用事もないし。恭くんもサークルないからインターン関係がなければ暇だと思う。ひーちゃんカイトくんつれてくる感じ?それならリンちゃんとレンくんもつれていこうかな。"

"To:糸魚川 翡翠・楠 萌
From:桐生 恭一
件名:Re;Re;としまえんに行きませんか?
本文:予定的には平気だし、もしそのようならメイコとミクも連れていくが、チケットの手配とかはどうするんだ?"

"To:桐生 恭一・楠 萌
From:糸魚川 翡翠
件名:Re;Re;Re;としまえんに行きませんか?
本文:近所のチケットショップに結構在庫があるのを見た。私が買っておいて、後でお金をお願いするって形でいいんじゃないか?人数は、8人か?4枚以上買うと枚数に応じた割引が適応されて、最終的に1枚あたり定価の3割引くらいになる。"

"To:糸魚川 翡翠・楠 萌
From:桐生 恭一
件名:Re;Re;Re;Re;としまえんに行きませんか?
本文:チケットの件は俺はそれでいいよ。遊園地1日、プール1日ってとこか?土日は混むから、水曜あたりがいいと思う。"

"To:糸魚川 翡翠・桐生 恭一
From:楠 萌
件名:Re;Re;Re;Re;Re;としまえんに行きませんか?
本文:わたしもそれでおk。火曜・水曜って感じかな。明日1日あれば準備なんとかなるかな?"

"To:桐生 恭一・楠 萌
From:糸魚川 翡翠
件名:Re;Re;Re;Re;Re;としまえんに行きませんか?
本文:大丈夫だと思う。8時半に現地集合でいいか?"

"To:糸魚川 翡翠・楠 萌
From:桐生 恭一
件名:Re;Re;Re;Re;Re;としまえんに行きませんか?
本文:了解。"

"To:糸魚川 翡翠・桐生 恭一
From:楠 萌
件名:Re;Re;Re;Re;Re;としまえんに行きませんか?
本文:おk。じゃあ、また明後日ね。"

晩ご飯が割と早かったから、まだ8時にもなっていない。
「カイト、ちょっとチケットショップ行ってくるから。」
「僕も行っていいですか?」

チケットを見て驚く様子が見てみたい。

「ごめん、お風呂沸かしといてもらえる?」
「わかりました。気をつけてくださいね。」
「あぁ。すぐ戻る。」

"To:糸魚川 翡翠
From:楠 萌
件名:無題
本文:ひーちゃん明日水着買いに行かない?"

"To:楠 萌
From:糸魚川 翡翠
件名:Re;無題
本文:もう買った"

お前と一緒に買いにいったら私が惨めだろうが!


"To:楠 萌
From:糸魚川 翡翠
件名:Re;Re;無題
本文:えー、残念。でもいいや、リンちゃんたちと買いに行くね♪"

はいはい。

「8枚ですね?」
「はい。」


「カイトただいま。」
「お帰りなさいマスター!」
「ちょっとちょっと…」
「何でしょう?」

私はさっき買ったチケットを取り出した。

75 サプライズ(カイトside)

「え…?」

なんですか?これ…

"としまえん プール・遊園地券"

「行くって、言ってたろ?」

今日は…本当に何なんですか!?

「は…はい…すいません、なんかびっくりしちゃって…」
「謝るな。びっくりさせたくてチケットショップに連れていかなかったんだ。」

さ、サプライズしてくれたんですね!?

歌も教えてもらって、ご飯も一緒に作って食べられて、サプライズまでしてもらえて…

そのうち、僕罰でも与えられるんじゃないでしょうか…?

そんな不安がよぎるほど幸せです!

「マスター!」
「ん?」
「抱きついていいですか!?」
「はぁ!?」
「だってマスターいつも僕が何も言わずに抱きついたらいきなり抱きつくなって怒るから、予告すればいいのかなーと。」
「そういう問題じゃなーーい!」

あ、マスター部屋に走って行っちゃった…

可愛いなぁ…

「単にバスタオルと着替え取りに行っただけだからな!」

僕何も言ってませんって。

ーお風呂が、沸きましたー
「とりあえずお風呂入ってくるから!あ、カイトありがとね。」
「いえいえ、ゆっくり入っててください。」

今さっき僕に見せ、無造作にリビングのテーブルにおかれたチケットを眺める。

…多すぎないか?

1…2…3……8枚!?
何でこんなに大量に買う必要があるんだ?
僕とマスター2人で2回行ったって4枚だ。
しかも、1枚が2日間有効だから、8枚も消費するほど何度も行くとは思えない。

誰かも一緒なのか?
考えられるのは、結さん、恭一さん……
もしかして…めーちゃんたちもみんなで行くのか!?
マスター、僕、結さん、リンとレン、恭一さん、めーちゃんとミク…8人だ。人数と枚数が一致する。

考えてみれば、8人で集まったことは今までなかったんじゃないか?
バーベキューの時はマスターいなかったし、結さんの家に行ったときは恭一さんたちがいなかった。

これ、本当に8人で行くんだよな、信じていいんだよな?
だとしたら楽しみだなぁ…

何に乗るんだろう?何食べるんだろう?そもそもどんなのがあるんだろう?マスターはどんな水着着てくるかな?
…何考えてるんだ僕は。

ーピンポーンー
「はい。」
「宅急便でーす。」

どうしよう、マスターはお風呂だし…
受け取っておくほかはないか。
確か、名字イトイガワだったよな…

「はい。」
「こちらにサインお願いします。」
"糸井川"
「…あの。」
「はい?」

宅急便の人が、包みの住所欄を指さす。
"……糸魚川 翡翠様"

ああああああああ!
「すす、すいません間違えました!」
二重線を引き、書き直す。

「ありがとうございましたー。」

それにしても、この包みは何だろう?
さすがに勝手に開けるわけにはいかないので、マスターがお風呂からあがるのを待つことにした。

アイス食べようかな…いや、マスターがあがったら一緒に食べよう。

「あがったよ。あれ、それ今届いたの?」

良かった…あのネグリジェじゃなくて普通のジャージだ…

「貸して。」
「は、はい!」
「受け取っといてくれてありがと。」
「あ、いえ。それよりそれ、何入ってるんですか?」
「水着」

ちょ!なんでさらっと言うんですか!
吹き出すの堪えるのに必死だったんですよ!?

「だって、プール行くのにないと困るだろ?」

そうですけど!

「カイトのは普通の青い海パンにしといた。」

雑ですねなんか。変なの買ってこられるよりいいですけど。
「ありがとうございます。あと、これ…」

束になったチケットを指す。

「マスターと結さんと恭一さんと、僕らみんなで行くんですか?」
「それ以外あるか?」
「やったーーーっ!!」

思わず、子供のように叫んでしまった。

「もう9時過ぎてるからちょっと黙ろうか。」
「ごめんなさい。で、いつ行くんですか?」
「明後日としあさって。」
「もうすぐじゃないですか!」
「そうだな。」

楽しみだなぁ、みんなどんな格好してくるかな。
案外いつも通りだったりして。

76 記憶(翡翠side)

風呂に入ると、自分一人の時間になる。

チケット見せたらカイト、すごく驚いてたな。
あまりに予想通り過ぎて、こっちがどうしていいかわからなかったじゃないか。

そういえば、みんなで行くことを伝えてなかったな。
今頃、チケットの枚数を不審に思ってるんじゃないか?

お好み焼きなんて食べたの、いつぶりだろうか。
一人で食べるもんじゃないからな。あれは。
カイトも、楽しそうにしていた。

ーーーーーーーーーーーーーーーー
「豚玉焼けたから、4つに切っとくね。」
「お願いね。」
「っ…これ肉がうまく切れねー。」
「琥珀貸して!お前下手!」
………
「ねーちゃんも下手じゃん!」
「お母さんお願い。」
「はいはい。みんなお皿出して。乗せるから。」
「「「はーい」」」
「翡翠はこれ、琥珀はこれ、お父さん、ちょっと焦げちゃったとこでいいかしら?」
「しょうがないなぁ」
「冗談よ、私が食べるわ。」
「いや、いいよ母さん。」
ーーーーーーーーーーーーーーーーー

あのころはしょっちゅう、やれ焼き肉だ、焼きそばだ、たこ焼きだって、鉄板使ってたっけ。私お好み焼きよりもんじゃの方が得意なんだよな…

思い出すことが悲しくないわけではない。

思い出せば思い出すほど、もう戻ってこないことを実感せざるを得なくなる。だけど同時に、それだけ幸せだった時間が確かに存在したことも、今になってようやくわかってきた。

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「ねーちゃん、今平気?」
「あぁ、ちょうど数学解き終わったところだが、どうした?」
「これ。」

手渡された、ひとつの楽譜。

「蒼い…花?」
「そう。ねーちゃんに。」
「私に?」

学校では3年だというのに文化祭演劇の姫役に駆り出され、もう一方では続く模試と受験勉強。
忙殺待ったなし。そんな時期だった。

「じゃあ、邪魔したら悪いから、俺はもう出るよ。」
「…ありがとう!」

嬉しかった。

いつもそばで見守ってくれているような、優しい歌詞。
不安なときも、自分を奮い立たせたいときも、試験当日の朝も、小さく口ずさんでいた。楽譜は、いつも持ち歩いていた。

あの日までは…

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浴室の中にいるのに、涙が伝うのがわかる。
泣くのは、今のうちにしておこう。
風呂から上がったら、笑っていられるように。


今は…?

抜け殻と化して1年半もの月日が流れた。
遠ざけていた過去を、やっと思い出すようになった。
過去があって、今があるけれど、私は今をどう見ているんだろう…?

カイトがいる。
結がいる。
恭一がいる。

…カイトがいる。

突然やってきた青い人。
マスターマスターとやたらくっついてくる変な人。
弟に、とてもよく似た人。

「あがったよ。」

リビングのテーブルの上に、包みがあった。

~interval-15~(萌side)

「明後日としあさって、みんなで遊園地とプールに行くんだよ。」
「マスターそれ本当!?」
「嘘言ったってしょうがないでしょ?」
「みんなって、翡翠さんとか兄さんとかもくる!?」
「メイ姉やミク姉も!?」
「もちろん、みんなでだよ。」
「「やったぁっ!!」」

2人そろって喜ぶ姿が微笑ましい。

ひーちゃんは、どうなんだろう。ご家族のこと、少しはよくなったのかな?
でも、バーベキューに誘ったときにあれだけ断固として行こうとしなかったひーちゃんが、自分から私たちを誘ってくれたってことは、きっと相当の変化があったんだね。

わたしは…どうなんだろう?
人の心配もいいけど、わたしだってわたしなんだよね。

最近、自分のことを萌ということよりも、わたしということが多くなった気がする。
でも、携帯の名前登録は萌のままだなぁ。

萌ちゃんは、いるのかな?
それとも、もういないのかな?

そもそも、何をもって、いると定義できるのかな?

それ以前に、もう、わたしのなかでいるかいないか揺らいでしまってる。

そのことが、何もかも表してしまっているような気がした。

誰よりも、わたし自身が本当は、何もかも知ってるんじゃないかな?

何もかもって、何を?

誰がわたしに宣告するよりも先に、わたしの今までの行動全てが、その宣告をし続けたまさにそのものだったんじゃない?

何の宣告?何の宣告?

だって、いるんなら、本当にいるんなら、わたしはなぜ萌ちゃんとして生きる必要があった?

それが表すことは…

わたしが、他人から突きつけられることを何よりも恐れた。避けたかった。

ー萌ちゃんは、もういない。ー

ただひとつ動かない、その事実。

囚人と青い鍵

囚人と青い鍵

マスターのことが大好きなボーカロイドのKAITO(本文中の表記はカイト)と、ツンデレ(?)な女マスターの話です。 主な舞台は主人公大学2年生の夏休み。 キャラもの小説のはずが、オリキャラ(人間)要素が強く、カイト以外のボカロにはほとんど焦点が当たらないのでご留意ください。 また、筆者の脳内の妄想をそのまま具現化したようなシーンが多々あります。どうぞ温かい目でお読みください^^; 主人公の翡翠と、カイトの視点が交互に変わりながら話が進みます。interval、interludeではさらに別の登場人物の視点で描かれます。 翡翠、カイトのメインの軸と、intervalなどサブの軸が、最終的に一つになる構成となっています。

  • 小説
  • 長編
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 1 突然の青い男(翡翠side)
  2. 2萌(翡翠side)
  3. ~interval-1(萌side)~
  4. 3 親切と脳天気(翡翠side)
  5. 4 旅立ち(カイトside)
  6. 5 家、マスターの部屋(カイトside)
  7. 6 アイスとサンドイッチと誰か(カイトside)
  8. 7 ごめんね、そしておかえり(翡翠side)
  9. 8 無力な僕の役目(カイトside)
  10. 9 罪人と馬鹿(翡翠side)
  11. 10 狭い世界(翡翠side)
  12. 11 大切(カイトside)
  13. 12 今はそれで十分(カイトside)
  14. ~interval-2(萌side)~
  15. 13 夢とオムレツ(カイトside)
  16. 14 興味ない(翡翠side)
  17. ~interval-3(萌side)~
  18. 15 買い物(翡翠side)
  19. 16 アパレル店員(翡翠side)
  20. 17 店長(翡翠side)
  21. 18 ご意見を(翡翠side)
  22. ~interval-4(萌side)~
  23. 19 笑顔とモンブラン(カイトside)
  24. 20 正反対(カイトside)
  25. ~interval-5(萌side)~
  26. 21 潮風(カイトside)
  27. 22 白い翼(翡翠side)
  28. 23 勝手(翡翠side)
  29. 24 僕(カイトside)
  30. 25 めーちゃん(カイトside)
  31. 26 似た者同士(カイトside)
  32. ~interval-6(萌side)~
  33. 27 あの時と(カイトside)
  34. 28 どうして(翡翠side)
  35. 29 裏腹(翡翠side)
  36. ~interval-7(萌side)~
  37. 30 可愛い!(カイトside)
  38. 31 どこに行きたい?(翡翠side)
  39. 32 何より幸せにできるのは(カイトside)
  40. 33 予定は未定(翡翠side)
  41. ~interval-8(萌side)~
  42. 34 言いたいことは?(翡翠side)
  43. 35 愛おしい(カイトside)
  44. ーinterlude-Ⅰー(恭一side)
  45. 36 やけに明るい(翡翠side)
  46. 37 印象(カイトside)
  47. 38 KEEP OUT(翡翠side)
  48. ~interval-9(萌side)~
  49. 39 前日(翡翠side)
  50. 40 前日(カイトside)
  51. ~interval-10(萌side)~
  52. 41 朝(カイトside)
  53. 42 ぴ(翡翠side)
  54. 43 虹、論文。(カイトside)
  55. ーinterlude-Ⅱー(恭一side)
  56. 44 札幌‐1(翡翠side)
  57. 45 札幌‐2(カイトside)
  58. 46 ユニット(翡翠side)
  59. 47 ネグリジェ(カイトside)
  60. ーinterlude-Ⅲー(恭一side)
  61. 48 札幌→小樽(カイトside)
  62. 49 函館着(翡翠side)
  63. ~interval-11(萌side)~
  64. 50 ウニと五稜郭(カイトside)
  65. 51 ランドリー(カイトside)
  66. 52 アイスピック(翡翠side)
  67. ~interval-12(萌side)~
  68. 53 素直じゃない(翡翠side)
  69. ーinterlude-Ⅳー(恭一side)
  70. 54 大丈夫(カイトside)
  71. 55 三段活用(カイトside)
  72. ~interval-13(萌side)~
  73. 56 仲直り(翡翠side)
  74. 57 現実(翡翠side)
  75. 58 ギター(カイトside)
  76. 59 優しさ(翡翠side)
  77. 60 メール(翡翠side)
  78. 61 差し入れ(翡翠side)
  79. 62 わかってない(カイトside)
  80. ~interval-14(萌side)~
  81. 63 嫌だ(カイトside)
  82. 64 質問攻め(翡翠side)
  83. 65 話通じてる?(翡翠side)
  84. 66 何もないわけ…(カイトside)
  85. 67 萌の家(翡翠side)
  86. 68 ゲーム(翡翠side)
  87. 69 帰り道(翡翠side)
  88. 70 日曜朝7時半(翡翠side)
  89. 71 歌(カイトside)
  90. 72 練習(カイトside)
  91. 73 お好み焼き(カイトside)
  92. 74 チケット(翡翠side)
  93. 75 サプライズ(カイトside)
  94. 76 記憶(翡翠side)
  95. ~interval-15~(萌side)