蜘蛛の囲

蜘蛛の囲

 父方の家がかつて書店を営んでいた、その名残の蔵を壊すという話があった。店は祖父の死と同時に畳んでおり、以来この蔵は伯父によって別の使われ方をされてきた。
 伯父はわたしの父とずいぶん年の離れた兄弟で、幼少時から周囲の評判がめっぽうよかったという。背の高さはそれほどでもないがやせ形ですらっとしていて、面長の顔にぎょろっとしたどんぐり眼が印象的な、様子のいい男だ。弁護士業を務めるだけあって口も立つ。優しくて活動的で陽気な人間のようだが、たったひとりの兄弟であるわたしの父とは不仲だった。それゆえ父は兄について積極的に語ることをしなかった。どうしても話題に出さなければならないときは不機嫌になったほどだ。
 わたしがそうした確執を幼心に感じ取っていたのは確かだが、それだけが伯父を恐れるようになった理由ではない。この伯父にひどく怒鳴りつけられた日のことを、わたしは未だにおぼえている。
 あれは祖父の何回忌であったろう、わたしたち家族は夏に父の実家へ帰省した。そこには伯父と娘ふたりが住んでいた。妻は郷里へ帰ってしまったと聞かされていたが、家は片付いていて、伯父の潔癖な性質がうかがえた。そのようなところもいいかげんな父とは合わない。
 娘たちはわたしと年が近かったため、親のことは関係なく仲良く遊んだものだ。法事のあと、わたしは従姉妹らとかくれんぼをしていて、家の裏手にあるあの蔵へ隠れようとした。そこは前から近づかぬよう言われていたのだが、折しも南京錠が外れていたのである。鉄製の扉は子供の手に重かった、が、なんとか滑りこめるだけのすきまをつくり、内側の引き戸も開けて中へと忍びこんだ。
 まっくらやみのなかでじっとしていると、自分の息づかいと鼓動の他に何か別の音が聞こえてくる。目が慣れると、積み重なった書物の脇に階段があるのが分かった。物音は階上から響いてくるようだ。かすかな光も漏れている。
 こわいと思わなかったわけではない、どころか心臓が別の生きもののようにあばれ狂っていた。
 それでもゆっくりと階段を昇りはじめてしまったのは、幼さゆえに引き際を見究められなかったからかもしれない。二階には本だけでなくさまざまながらくたが詰めこまれていた。三階へとつづく階段の脇に積んであるのは少女の友と書かれた古雑誌で、その山の上にちょこんと載ったかたまりは、顔を近づけて見てみると木彫りのえびす様だった。わたしは市松人形や福助が嫌いだったのでこれも不気味に感じてすっと体を引いた、とき、物音がいっそう激しくなった。だれかが騒いでいるようだ。
 このときにはもう昇ってきたことを後悔していた。かと言ってまっくらな階下へ引き返すのも恐ろしく、光のあるほうへ進むのがまだましなような気もした。
 慎重に昇り、柵のあいだから最上階を覗くと、懐中電灯に照らされてぼんやりと白いものが見える。二度三度とゴム製の人形のようにはずむのを見て、ようやくそれが人の体であることに気づいた。白い体をおおいかくすように長い黒髪がまとわりついている。女だ。裸の女がいるのだ。
 窓が閉め切られているせいか、上階にはむっとしたなまぐさいような空気がたまっていた。ぼうっとして目を離せないでいるわたしを現実に引き戻したのは、鼓膜を破らんばかりの怒号だった。それだけで縮み上がってわたしは動けなくなってしまった。
 見てはならないものを見たのだ。
 クソガキ何しに来たッという叫びとともに女の後ろの暗がりから男が顔を出した。目玉がぎらぎらと光っているように見えたのは恐怖のせいだろうか。眉も口も怒りのあまりにゆがんで身の毛もよだつほどみにくかった。わたしはあの顔を絵本で見たことがある。地獄で亡者を責め立てる獄卒のそれだ。面長の顔にぎょろっとしたどんぐり眼、歯茎をむき出しにして怒鳴る伯父は、鬼そのものだった。
 懐中電灯によって下から照らされた顔は奇妙な陰影をつくって不気味さを増している。その表情は今もありありと思い出せる。興奮でふくらんだ鼻の穴の前に、黒い点がすうっと下りてきたことさえおぼえている。それが、尻から糸を吐いて下りてくる蜘蛛であったことも。
 伯父が蜘蛛をうるさそうに払って、おい坊主上がってこいと言うのとほとんど同時に、女が伯父の足にしがみついた。彼女の眼は、腫れ上がったまぶたの下から確かにわたしを見ていた。
 伯父は犬が吠えるような奇声を上げて彼女を蹴り飛ばし、つづけて髪を掴むと何度も腹を蹴った。わたしは泣きわめきながらほとんど転がり落ちるようにして一階までたどりつき、重たい扉に焦りながらも外へ飛び出した。日の下へ出てもまだ闇が追ってくるようで震えが止まらず、足がもつれた。それでよく転ばなかったものだと思う。
 わんわん泣きながら家の中へ戻ったせいで、従姉妹らもわたしの両親も心配して集まってきた。
 私を見て察したのだろう、たちまち従姉妹らの顔は紙のように白くなった。
「蔵に入っちゃだめって言ったのに」
「伯父さんが、女のひと蹴ったりたたいたりしてた。なんで、あれ、だれ」
「お母ちゃん」
「ずうっとあそこにいるの」
 そう言って娘たちは目を伏せ、わたしの両親は血相を変えて蔵のほうへ走って行った。
 女のひとは死んでいた。伯父は逮捕されて、姉妹は彼女らの母の郷里へ引き取られた。
 従姉は自分が成人するまでどうか家も蔵もそのままにしてほしいと懇願し、父がその管理を引き受けることになった。忌まわしい事件のあった蔵はかくして現在まで残ることになったのだ。
 女のひとの亡骸は、どうして生きていられたのかふしぎなほどやせ細っていたという。伯父は長年にわたって妻を蔵に閉じ込め、飯もろくに食わせずに虐げていた。妻が浮気をしたからだ、あんなみだらな女を表に出してはまた問題を起こす、だからおれが管理していただけだと、伯父は警察に対して述べたらしいがそれが本当かどうかもあやしい。
 妻の郷里のほうで帰省しない娘を案じて連絡をよこしたときだけ、伯父は彼女と子どもらを連れて出たという。生家にいる時でさえも彼女は子どもたちを人質にとられて監視・支配され、おのれの境遇を周りにうちあけることができなかった。そしてとうとうわたしが禁を犯したあの日に、伯父は彼女を責め殺したのだ。
 伯父は刑務所の中で呆けたように十八年ほど過ごし、ついこのあいだ風邪をこじらせて肺炎になるとひどく苦しんで死んだ。警察病院へ見舞いに行った父は死ぬ間際の伯父の様子をめずらしく長々と語った。兄嫌いの父が見舞いに行ったのは兄弟の絆などというあまいものではない、きっと兄がちゃんと死ぬか確かめたかったのだと思う。
「胸を掻きむしって、何度もあのひとの名まえを呼んでののしっていた。呆けたのにおぼえてるんだな。あれは最後の最後までどうしようもないクズだった。自業自得だよ、あのひとの恨みで死んだんだ」
 従姉はかたくなに、蔵の取り壊しに反対していた。それどころか彼女は夫と共に数年前に実家へ移り住んだのだ。わたしには彼女らの気もちが理解できず、どうしてこんなところに越すんだ、と聞かないではいられなかった。
「だってお母ちゃんがかわいそうじゃない」
「あんなことがあったんだよ。壊したほうがいい。もうそういう方向で話を進めようよ」
「そんなことしたら、何が起きるか」
「何がって、何だよ」
「まだいるのよ」
 どれだけ問いつめても彼女はそれ以上語らない。もともとおとなしく内気な少女だったから、あんなことがあってから少しずつおかしくなってしまったのかもしれない。
「本当に壊す気なら、自分で見てみればいいじゃない」
 わたしは父と従姉の夫とともに、取り壊し前の整理を行うため、久しぶりに蔵の戸を開けた。長らく封じられていた室内には埃と黴のにおいがこもっている。かつて山のように積まれていたものは事件当時にほとんどが処分されていた。
 私は一階の掃除をふたりに任せ、階段を昇った。従姉の言うことを信じたわけではない。
 懐中電灯で照らすと二階も下と同様にがらんとしていて、えびす様も見当たらなかった。
 さらに昇る。
 3階へ足を踏み入れるというところで、ふわっと顔に何かがまとわりつく感触があった。蜘蛛の巣に頭から突っ込んでしまったのだ。あわてて取り除ける、細い糸はしなやかで思いのほか丈夫で切れない。なぜだか肌が粟立った。手のひらに貼りついた糸を電灯で照らしてみる。
 風呂場の排水溝にたまった黒く太い毛の束としか言えぬものが、そこにはあった。蜘蛛の巣と思ったそれは、どう見ても女の髪だった。
 思わず乱暴にはらい落とし、手当たりしだいにあたりを照らすと、部屋中にはりめぐらされた黒髪の網がきらりとひかった。そのただなかには、やはりあの時のように白いものが見えた。
 ぴくりとも動かぬそれは、しかしあの時と同じ体ではなかった。
 裸の男が座っているのだ。
 女の髪につつまれて、裸の伯父が座っている。伯父はわたしを見ている。あのときと同じ、鬼の眼で。けれど彼は指一本自由に動かすこともできないほど、髪にしばられていた。彼の歯の奥から漏れ出るうめきは、地獄の亡者が苦悶のあまりにあげる声のようだ。
 わたしはあとずさりして、一階へ戻った。それから父と従姉の夫に声をかけて、外に出た。
 のどがからからに乾いて、目の前が妙に白っぽく見える。
 蔵の外には、従姉が立っていた。
「いるでしょ」
「死んだのに」
「死ぬ前からよ。出しちゃだめだと思うの、あれは」
 蔵の取り壊しは止めるべきだと、わたしも思った。
 従姉はふいにわたしの胸のあたりから何かをつまみとった。蜘蛛の糸ね、と言って彼女が息を吹きかけると、細い糸はきらりと光って見えなくなった。
 蔵は今もそこにある。

蜘蛛の囲

蜘蛛の囲

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • ホラー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-10-04

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted