Paper Moon
「私は確かに狂っているでしょう。でも、だからといってこの世界だって大してまともなものじゃない。」
火をつけて二、三口味を楽しんだだけの紙煙草はゆらゆらと薄白色の靄を漂わせ、持ち主の青年の顔をより一層謎めいたものに引き立てていた。
より一層、の言葉の部分に最もかかっている、青年の虹彩異色━━ヘテロクロミア、俗に言うオッドアイの他人から見て右の青い色の方はどこを見つめているのかわからない空虚なもので、逆に左の赤目は瞳孔のその更に奥まで魅入ってしまいそうな程に相手の男を捉えていた。
相手の男は青年よりもやや年嵩があるものの、ひとまわりも離れてはいないだろうというまだ若い男だ。体格のよい上半身に上等な紺色のブレザー、一つの無駄な皺のないシャツに、少しばかりの隙を見せているようなカジュアルなリボンタイを締めている。
つるの部分にストラップのある伊達眼鏡の位置をぞんざいに手の甲で押し上げ、暇になった手でそのまま高くはないがそこそこ酔える酒の入ったグラスを掴む。
酒と同じ色をした麦色の長髪の一部が煩わしく口唇にまとわりつくものだから、無作法だろうと、一言断りを入れて髪を耳にかけた。
「へえ、そんなことは謝るのですね。」
「ん?なんだよその言い草。俺がなんかお前に謝らなきゃいけないようなことしたまま忘れてる?」
「さあ、どうでしたか。私も忘れました。」
青年の釣れない態度があからさまになり始めたのはここ数ヶ月前からだ。すっかり、釣れないのにやたらめたらと静かに食ってかかってくるので、以前よりも余程、同じ空間で同じ時間を過ごしている。
ふとすれば、青年にこのまま脳ごと侵食されるのではないかな、などと取り留めのないことをぼんやり考えながら
この店のシャンデリアはいつもならばもっと明るくは無かっただろうか、橙色ではなくもっと明るい砂色をしてやいなかったか、それとももっと青白くガス灯のような色彩であったような気すらしてくる。
あまり上手くないジャズバンドの演奏が途切れ、まばらな拍手が乾いた音を立てて鼓膜を震わせた。演奏者も歌手も客も誰一人として口角の上がっていない陰気さが滑稽で男だけが僅かに口のはしを釣り上げる。
「音楽の作法に明るくはありませんが、お愛想にもならない拍手をもらったところで逆に惨めになるまいか。」
「なるんじゃないの?だからみんな顰めっ面してんだろ。ああ、そういう理論でいくとお前はいつも惨めな思いでもしてるの?」
「理論も論理も法則の区別もつかぬ上司のもとで研究しているかと思うと眉間に縦皺が寄らぬ道理がございません。」
「本当に釣れねえなあ。なんなの最近。」
「とっとと餌を変えてくれ、という意思表示です。」
もう吸う気などないだろう煙草の火を灰皿の底に軽く叩いて消すと、青年は手元にあったドライトマトとクラッカーのつまみを押し付けるように男の肘の方へ寄せた。
「あのなあ、これクリームチーズつけて食うんだよ。なにを丁寧に単体で食ってんの。そりゃ味気ないだろ。頭使えよ。研究員クロードくん。」
「そのクリームチーズが好きではないんです。心で察しなさい。バルトリ薬事商会社長。」
胡乱にクリームチーズを一口、マドラーですくって口に含むと、あ、これ本当にまずい。と頰を攣らせ、バルトリ薬事商会社長、サクロ・バルトリは早々に皿から手を離した。
「獣臭かったな?山羊か。」
「いえ、驢馬(ロバ)でしょう。」
は?。と嫌悪感と後悔、猜疑心の色の混じった憎々しげなサクロの表情をヘテロクロミアの瞳が悠然とうつす。
青年、研究員クロードは何処か些少ながらも気を良くした様子で右手で遊んでいたマドラーでグラスの結露をカウンターに引いて一本の線を描いた。
「牛なら合格、山羊では及第やや下、驢馬では論外。この差はどこから来るのでしょうか。驢馬が仮に馬であっても駄目でしょう。ただ、羊だったとすれば山羊と同等に並べる可能性がある。さらに肉に話題を移せばどうか、そうなると不合格は驢馬のみですかね。たしか、羊なぞは社長にとっては牛より上ではありませんでしたか。」
「面白い答えを出したいんだろうが、答えは単純明快。『俺に馴染みのない異質なものだから。』それだけだ。もし、日常的に驢馬食って乳絞って砂漠を旅してれば駱駝(ラクダ)も食える。」
「ふうん。……ああ、そうでした。現在、霞老師に御鞭撻いただいている、移植や薬物投与に関して拒絶反応を極小規模に抑え込む技術と薬剤開発なのですが中々どうして楽しいものが出来上がりそうなのですよ。」
「お前にとって楽しいものじゃなくて会社にとって金と利権になるものを作れよ。だが、俺にとって楽しそうなものなら続けてよし。」
「あはは。ほらね、やっぱり世界も大してまともじゃないんです。」
「なんの話だよ、酔ってんのか。」
サクロの問いかけに答えもせず、クロードは給仕の男を呼びつけて。追いやっていた件のつまみの皿を手に取った。
「失礼、こちらのチーズですが、なにが使われておりますか?」
「ジャージー牛でございます。」
「道理で美味しいと思いました。これと同じものをもう一皿お願いしたい。」
かしこまりました。と慇懃に給仕が去っていくと。今度は見て取れるぐらいの上機嫌さでクロードはクラッカーとドライトマト、そしてジャージー牛のクリームチーズを添えて、泡食った様な顔をしたままのサクロの口元に運んでやった。
「先ほどの、卓越なジャズバンドの歌にもありましたよ。『たとえあの月が紙切れであっても貴方が信じるならば月であるって世界に言い切ってみせられるわ』と。つまりね。そういうもので全部説明がつくんです。」
「あー、はいはい、思い込みが大切って?」
「いいえ、相手に対する信頼です。その点、そこそこに私はあなたに信頼されているようだ。非常に満足、大いに満足です。」
幼い少年のように微笑むクロードにされるがままつまみを食わせられ、仕方無しに咀嚼するとそれはどこも不快な要素など見当たらない、ありふれた酒場のつまみそのもので、あの瞬間、舌と脳がとらえた味覚の記憶が夢のように思えた。
「ふふ、今度は美味しいですよね?」
「まあ、そーね……。いつもの味だな。」
ややあって、小走りでこちらに到着した給仕が出し抜けに頭を下げ、こう言い放った。
「申し訳ありません!先ほどのクリームチーズなのですが。ジャージー牛ではございませんでした。本日のみ……。」
給仕の言葉に目をむくサクロであったが、それでもどうして舌に残るつまみの味は先ほどと変わらない乳牛のもので、今ではこの研究員クロードとの奇妙な信頼関係を嫌が応にも体現することとなった話の一つである。
Paper Moon