フェイクサマ-

――またあの匂いがする。
恭子は、大通りに出る交差点の前で、ペダルをこぐ足をゆっくりとゆるめながら、口の中で小さくそうつぶやいた。信号の先に、近所の子供たちが「緑のトンネル」と呼んでいる一角がある。寺院の敷地内から道路に張り出すように木々が伸び、歩道の向かい側の木と重なり合い、緑が絡まるようにアーチを描いている。都会の中に残る、ちょっとした手付かずの自然といった雰囲気だ。毎年同じ時期、恭子は必ずこの場所で、ある匂いを感じる。人工的に造られた公園の草木からは感じ取ることのできない、樹木本来の匂い。青臭く、むんと沸き立つような、「夏の匂い」だ。それは恭子にとって、季節が確実に夏に向かっていることを知らせる、いわば夏の使者のようなものでもある。でもなぜだろう。その匂いを感じるたびに、恭子は決まって妙な感覚に襲われるのだ。何か、得体のしれない何かが身体の深部から掻き出されるような――同時に身体ごとどこかに引きこまれていくような、それはそのまま身を任せてしまいたくなるほど優美で、懐かしくさえあり、自分でも説明のつかない感覚だった。
そして恭子は、自転車のサドルにまたがったまま、反射的にはっと後ろを見た。今走って来たばかりの道路は、平日の午後ということもあってか閑散としていて、腰の曲がったおばあさんが一人のんびりと散歩しているだけだった。また、だ。最近いつもこんなふうに誰かに見られている感じがする。誰かがじっとこちらを凝視しているような――。以前からちょくちょくそんなふうに感じることはあったが、最近とみに多くなってきている。ふと気付くと、恭子の少し後ろに若い母親が立っていて、ベビーカーの中の幼児がきょとんとした目で恭子の顔を見上げている。今感じたのはこの子の視線だったのだろうか? 恭子はそれを確かめるようにじっとその幼児の顔を見た。自分でも気付かないうちによほど怖い顔をしていたのか、初めは恭子とにらめっこをしていた子供が、急に脅えたように首をのけぞらせてむずかり出した。母親が慌てて子供を抱き上げ、なだめ始める。恭子は気まずくなって、そっと視線をそらした。
こうして信号待ちをしている間にも、じっとりと背中が汗ばんでくるのを感じる。もうじき夏がくる。今年もまた、恭子が生涯忘れることのできない、いや正確に言えば忘れることが許されない季節が――。行き交う車が止まり、目の前の信号が青に変わった。恭子は大きく息を吸いこむと、そのまま息を止め、一気に緑のトンネルの下をくぐり抜けた。

自転車のカゴの中には、買い物袋と一緒に近くのベーカリーから今引き取ってきたばかりのバースデーケーキが入っている。今日は恭子の一人息子、瞬(しゅん)の誕生日だ。私立大学の付属幼稚園、年長クラスに通う瞬は今日でやっと六歳になる。今夜ばかりはいつも深夜にならなければ帰らない夫の和彦も、早目に帰宅するだろう。
恭子はペダルをこぎながら、ちらりと腕時計を見た。もう二時を十分ほど過ぎている。
(急がなきゃ……)
瞬の幼稚園には、いわゆる園児の送迎をしてくれる園バスがない。何でも、毎朝荷物のようにバスに詰め込まれて登園するよりも、母親と手をつなぎ、道々の草花などに目を止めたりしながらゆったりと登園することが子供の発育には望ましい――、というのが、園長の方針らしいのだが、現実にはそれは親たちにとってなかなか大変なことだった。雨や雪の日などは草花どころの騒ぎではないし、今日のようについお迎えに行くのが遅くなってしまえば、教諭たちに必要以上に頭を下げなくてはならない。今のところ、多少お迎えに遅れたからといって、園側から表立って苦情を言われたことはないが、子供を預けている立場からすればやはり神経を使う。それに、車を自由に動かせる母親はまだいいが、恭子のように長年ペーパードライバーだったり、専用の自家用車がなかったりして「足」のない親はもっと大変だ。しかも、これまた園長の方針とやらで、他の園のように、給食や延長保育などの親向けサービスが一切ないというのも痛いところだ。しかし今更文句を言ったところで、それらの事情はすべて入園前に説明を受けていたことでもある。こちらが納得済みで入園させたのだから仕方がない。とにかく卒園までは何とか頑張って親が自力で送迎をこなすしかないのだ。
幼稚園は、ここから自宅を通り越して、更に十分ほどかかる場所にある。できれば家には寄らずにこのまま直接幼稚園に向かってしまいたいが、ケーキがあるのでそうもいかない。一度家に戻ってこれを冷蔵庫に入れなければ。恭子はケーキが倒れないよう慎重に、しかし急いでペダルをこいだ。


ゆるやかだった坂道は、道幅が狭くなるにつれ、急な傾斜へと変わっていく。そのちょうど変わり目の位置に、恭子の――、水沢家の自宅のあるマンションが建っている。東向きに張り出したベランダが等間隔に並ぶこのマンションは、夫、和彦の勤務先である住宅メーカーが借り上げ、社宅として使用しているマンションで、全世帯数のほぼ半分強が同じ会社の社員世帯で占められている。正直なところ、上下、両隣共に同会社の社員家族に囲まれているという状況は、主婦の恭子にとっては、決して暮らしやすい環境であるとはいえなかった。しかし都心の住宅事情を考えると、社宅に入らずに現在と同程度の住環境を得ることは不可能であり、日常の多少の不満には目をつぶって生活するしかないというのが現実だった。もっとも、社宅で暮らしている主婦たちの多くが、多少の差はあれ、同じような思いで生活をしているに違いない。安い家賃と引き換えに、ある種のわずらわしさや息苦しさは我慢するしかないということだ。
恭子は決められた位置に自転車を止め、ケーキの包みをしっかりと抱え、管理人室の前を横切って、エレベーターに向かった。管理人室には、六十代の男性が二人、交代で勤務しているという話だが、いつもどこで何をしているものやらたいてい不在で、まともに顔を合わせたためしがない。それでも普通に生活している分には、時別管理人に会わなければならないような事態は何もなく、恭子は特に不便を感じたことはなかった。疲れている時や今日のように急いでいる時などは、挨拶の手間が省けてかえって都合がいいとさえ思う。
降りてきたエレベーターに乗り込み、自宅のある七階のボタンを押す。到着し、ドアが開く間ももどかしく、すき間を通り抜けるようにして外に出たとたん、
「わっ!」
横壁から誰かがぴょん、と飛び出してきた。なんと息子の瞬ではないか。
「瞬ちゃん!」
恭子は本気で驚いてそう叫んだ。
「へへっ、びっくりした? ママが帰ってくるのが見えたから隠れてたの」
瞬は、悪だくみが成功していかにも満足、といったふうに顔を上気させている。
「どうしたの。ママ、これから瞬ちゃんを迎えに行こうと思ってたのよ?」
「あのね、愛ちゃんのお母さんがお迎えに来てくれたよ」
瞬はそう言って、エレベーターから垂直に続く通路の方を指指した。
「愛ちゃんのお母さん?」
「今、ボクんちの前にいるよ。早く行こ」
瞬に手を引っ張られるようにして進むと、自宅ドアの前に、同じ階に住む主婦、佐野明美が立っていた。巨体といっても決して言い過ぎではない身体は、いつものことながら正面から見るとかなりの威圧感だ。彼女の足元で、彼女の娘、愛が、床に直接しゃがみ込んで遊んでいる。この子はまだ三才くらいのはずだが、母親に似たのだろう、体格は瞬とそう大して変わらないほど大きかった。
「こんにちは。また瞬ちゃん、勝手に連れてきちゃった。ごめんね」
明美は、恭子がまだ近付ききらないうちから、早口でそう言い、軽く頭を下げた。
「どうも……」
恭子も歩きながら曖昧にうなずき返す。明美が「また」と言ったのは本当にその通りで、彼女がこうして恭子の知らないうちに、何かのついでだの、通りかかっただのといって瞬を勝手に幼稚園から連れ帰ってしまうことは、これまでにもたびたびあり、正確に数えていたわけではないが、今日でかれこれ十回近くにはなるはずだった。
「いつもごめんなさいね」
お願いしたわけでもないのに、なんだっていちいち自分が謝らなくてはいけないのだろう。そのたびに恭子は腹立たしい思いがする。
最初のきっかけは去年の冬。恭子がひどい風邪を引き、珍しく寝込んでしまったことがあり、たまたま何かの用事で電話をかけてきた明美に、瞬のお迎えを頼んだことがあった。その時は、まだ就園前の子供がいるにも関わらず、快く引き受けてくれた彼女に心底感謝したものだが、こちらが頼みもしないのに勝手なことをされるのは正直いい気持ちはしない。幼稚園側も一度は保護者から正式に頼まれたという実績があり、相手が幼児を連れた母親というせいもあるのか、特に問題にすることなく、瞬を渡してしまうらしい。もちろん恭子がはっきりと断ればいいのだろうが、ご近所でもあり、これからの長い付き合いを考えるとどうしても表立って苦情を言うことはできずにいた。
「頑張って急いで帰ってきたんだけど――」
言外に「入れ違いにでもなったらかえって迷惑なのだ」ということを伝えたつもりだが、少し勘の鈍そうなこの女に伝わるかどうかはあやしいものだ。ただ毎回「ごめんね」という言葉が彼女の口から出るということは、一応非常識なことをしているという認識があるのか。それならばなぜやめないのか。そのあたりは恭子には理解不能だった。
「いいのいいの。気にしないでよ。たまたま近くに用事があっただけだから。それに今のうちにいろいろ下見もしておきたくてさ」
「ああ、愛ちゃんもいよいよ来年幼稚園だものね」
恭子は、さも今初めて気付いたというふうに、座り込んだままの女児に目を落として言った。両足をだらしなく広げているので、スカートの中が丸見えになっている。体が異様に大きい分、本来なら幼児らしい仕草もどこか間が抜けて見える。本当にいつ見ても可愛くない子供だ。恭子は本心を気付かれないよう、無理に笑顔を作ってみせた。
「お兄ちゃんたちの時は、何にも考えずにこのへんの幼稚園に入れたんだけど、この子で最後かと思うと園選びも何だか迷っちゃって。でもあれね、やっぱり瞬ちゃんの幼稚園は違うわよね。ちょっと教室に貼ってあった絵を見せてもらったんだけど、みんなお上手だし、子供たちもなんだかお上品で。うちの愛にはやっぱり向かないわよねえ」
「そんなことないでしょ。幼稚園なんてどこも同じよ」
「いや、やっぱり私立の付属は違うわよ」
「私立っていったって、いろいろよ。他は知らないけどあそこはごく普通の幼稚園だし、そんな心配することないと思うけど」
恭子がそう言ったのは、あながち謙遜からではなかった。実際、早稲田や慶応といったレベルならばともかく、瞬が通っているところはそんな有名どころではなく、入園試験もあってないようなもので、少子化のせいもあるのだろうが、実際に落ちる子供など一人もいないらしい、というのがもっぱらの噂だった。それに恭子が、あまりサービスの良くない、言い換えれば親に媚びない方針に妥協してまで今の幼稚園を選んだのは、何も恭子や和彦が特別教育熱心だからというわけではない。他の理由があったからだったが、それは黙っていた。
「そういえばさっき、角のお米屋さんの前でポスターを見かけたんだけど――」
明美が急に声のトーンを低くして言った。恭子はとっさに心の中で身構えた。たちまち動機が激しくなってくる。次に何の言葉がくるのかはわかっていた。その言葉がこの女の口から発せられる前に早くここから立ち去りたい、立ち去らなければ――。
「あれからそろそろ七年になるんじゃない? 早いわよねえ。で、どうなの? その後、何か新しい情報はあるわけ? 警察はほら、捜査とかいうの、ちゃんとしてくれているんでしょ。」
明美は恭子に向かって、銃弾を連射するかのように容赦なく言葉を並べ立てた。動悸に加え、頭の片隅がズキズキと痛み出す。一体どこまで非常識な人間なんだろう。こんなところで、あの話はしたくない。できるわけがない。立ち話で話せるようなことじゃない。そばに瞬だっているのだ。
恭子が黙っていると、さすがに不謹慎だと思ったのだろう、明美はまた何かを言いかけてやめた。
「今日はほんとにすみませんでした。じゃこれで失礼します」
恭子は抑揚を付けずに言うと、ドアをふさぐように立っている明美の横をすりぬけるようにむりやり鍵口に近付いた。恭子に体ごと押し出される形になった明美が、口をアングリさせているのがわかったが、気にせず瞬を促して家の中に入る。もう限界だった。
後ろ手にドアを閉めると、急に体の力が抜けていくのがわかった。長時間閉め切っていた家の中は、湿った空気が小波のようにどんよりと漂っている。恭子はすぐさま、リビングを突っ切り、部屋中の窓を開け放った。
「ママ、ぼく遊んでくるね。拓也くんと約束したから」
「気をつけて遊ぶのよ。下の公園から出ちゃだめだからね」
「はーい」
瞬は着替えを済ませるとすぐに、外に飛び出していった。このマンションには、瞬と同じ年ごろの子供たちが多く、遊び相手には事欠かない。その意味では恵まれているほうだった。去年までは、外遊びに恭子も必ず付き添っていたものだが、年長さんになった今年からはそれもやめた。多少不安ではあったが、マンションの敷地内で遊んでいる分には安心だし、ベランダから子供たちの様子も見える。何かあればすぐに飛んでいけばいい。
恭子は明美のせいで波立った気持ちを落ち着かせるために、早々とキッチンに立った。今夜の献立はもうとっくに決めている。瞬の好きな鶏の唐揚げにフライドポテト。ハムをたくさんのせたピザ。それから定番のフルーツポンチ。恭子は、買い物袋からオレンジを取り出し、皮にナイフを当てた。さっきの明美の言葉がまだ頭に残っている。
「あれからそろそろ七年……」
「まだ捜査は続いている……」
「何か新しい情報は……」
また頭痛がする。ズッキンズッキンズッキン……。頭の奥を、規則正しいリズムを奏でた痛みが襲ってくる。しばらく我慢しているといきなりあの声が響いた。
――ママ、ママ……
瞬の声じゃない。瞬じゃない。別の子供の声。別の……。思わず耳をふさぐ。
――ママ、ママすぐに来て。ママ……
「うるさあぁぁぁ――い!」
恭子は大声で怒鳴ると、思い切りナイフを真上からオレンジに突き刺した。ぐにゃりっ、とした感触が手に伝わる。
「うるさい、うるさい、うるさあい!」
叫びながら、次々と新しいオレンジにナイフを突き立てていく。何度も何度も――。あっという間にオレンジの果汁がカットボードからあふれ出し、流し台の扉を伝って床に流れ出す。恭子はしばらく同じ姿勢のまま、容赦なく床に染み込んでいくオレンジ色の液体を見ていた。ところどころに散らばった果肉が、まるで人の脳みそを思い出させる。ハアハア……。肩で息をしなければならないほど呼吸が苦しい。
吹き込んできた風で、窓際のカーテンがパタパタと揺れた。その方向から瞬の遊び声が聞こえてくる。友達と追いかけっこでもしているのか、無邪気に騒いでいる。恭子の手から離されたナイフが、立ちすくんだままの恭子の足元にまっさかさまに落ちていった。


部屋でごろんと横になり、テレビを見ていた佐野文男は、かすかに女の怒鳴り声を聞いた気がして、頭を起こした。今までにも何度かこの時間帯に同じような声を聞いたことがある。母親が子供を叱っているのか。それともどこかの家の夫婦喧嘩か。それにしても気ちがいみたいな声を出す女だ。まあうちのやつだって似たようなものだが、何だって女ってやつはどいつもこいつもああヒステリックなのかねえ――。少しばかり気にはしてみるものの、大抵次の瞬間にはそんなことはきれいさっぱり頭の中から抜け落ちてしまうのが常だった。それよりも再放送のサスペンスドラマの方が気になる。文男はまた頭を定位置に戻し、テレビに目を向けた。
「ただいま」
玄関のドアが開き、女にしては低い声がする。妻の明美が買い物から帰ってきたらしい。文男がよいしょ、と体を起こすより先に、娘の愛がリビングに走り込んできた。そして、
「ミッフィーちゃん、ミッフィーちゃん」
最近お気に入りのキャラクターの名前を繰り返しながら、リモコンをつかむ。テレビの画面がいきなり無表情のうさぎのアニメ番組に変わった。仕方がないので、文男はそのまま立ち上がり、部屋を出た。隣のダイニングに行くと、買い物袋をどすん、とテーブルの上に置いた明美が目を吊り上げている。
「何なのさ、あの女は」
吐き捨てるようにそう言い、乱暴に椅子を引いて、どさりと音を立てて座る。明美の動作が荒いのはいつものことだが、この様子ではよほど何か気に障ることがあったのだろう。文男は黙って、明美の向かい側に腰を下ろした。
「ほんと気にくわない。一体何様のつもり!」
またいつものヒステリーか。文男は内心うんざりしたが、相手にしないでいるとあとで大変なことになる。こういう場合、夫としてどう対応するのが一番いいのか、そのあたりの術は明美との結婚生活の中で、充分に体得させられていた。
「なにかあったのか」
文男は静かに聞いた。
「それがね」
明美は、待ってましたとばかりに体を乗り出してくる。
「あの女よ。六号室の。ほら例の――あんたも知ってるでしょ。もう腹が立つったらないの。なんだかツンツンしちゃってさ。なーにがじゃ失礼します、よ。冗談じゃないっての。もっと感謝してもらったって、ばちは当たらないんだから」
「だから頼まれもしないことするなっていつも言ってるだろ。迷惑なんだって」
妻が、その家の子供を時々幼稚園に迎えに行ったりしているのは知っていた。本人は本当に親切にしているつもりでいるからややこしい。
「何よ、あんたまで。私は善意でしてあげてるのよ。車を運転できないっていうから大変だろうと思って――」
「それはそうだろうけどさ」
文男はたまに通路ですれ違う、水沢家の奥さんの顔を思い浮かべた。明美には口が裂けても言えないが、割合いい女だ。決してとびきりの美人というわけではないが、どこかはかなげで、それでいて気が強そうでもあり、ああいう女に男は弱い。若い頃はずいぶん男を泣かせてきたはずだ。
「――ったく、バカバカしい。やってられないわ」
明美はテーブルの上のせんべいをボリボリかじり出した。それよりも文男には、そこに置いたままの買い物袋のほうが気になる。もうずいぶん暑くなってきたのだし、さっさと冷蔵庫にしまえばいいのに、こいつはいつもこうだ。大らかといえば聞こえはいいが単にだらしないのだ。
「お母さん、腹へった。何かない?」
コンピューターゲームが一段落したのだろう。子供部屋にいた、五年生と一年生の息子たちが飛び出してきて、袋の中をガサガサとさぐり始める。
「なんだよ、何も買ってきてないじゃん」
「お菓子ないの、お菓子」
「ああ、もううるさいね。そのへんにポテトチップスの残りがあったでしょ」
「あれ、さっき兄ちゃんが食べちゃったよ」
「じゃあ、これでも食べてな」
明美は、自分が食べていたせんべいをあごでしゃくった。
「せんべえかよ。しゃあねえなあ」
二人は渋々せんべいの袋をつかむと、また自分たちの部屋に戻っていった。すぐにピコピコという電子音が聞こえてくる。
「あのね、瞬ちゃんのママはいつもケーキ作ってくれるんだって。瞬ちゃん言ってたよ」
テレビの前の愛が振り向いて言った。
「あらそう」
「いいなあ、愛も食べたい。ママ作って」
「今度ね」
愛を軽くあしらいながら、明美は心の中で毒づいた。
――フン、手作りおやつね。模範的な母親ですこと。あいにくだけど、私はそんなまめさは持ち合わせていないのよ。
「なあ、もういいかげん――」
買ってきたものを早くしまえ、と注意しかけて文男は言葉を飲み込んだ。明美の話はまだ終わっていなかったのだ。
「あんたはそうやってすぐ私ばっかり悪者にするけどね。私はあの奥さんの本性を知ってるんだから」
「何だそれ」
「言わない。だってどうせあんた、私の話信じないもん」
思わず大あくびが出る。ばかばかしい。
「大体あの人は、どこかでうちのことをばかにしてるのよ。見下してるの。だから平気であんな態度が取れるのよ。そりゃあうちのダンナは、しがないタクシーの運転手よ。ナントカ工業みたいな一流会社の社員じゃありませんよ。けどうちは、ちゃーんと自分たちでここのローンを払ってるんだから。自分はダンナの会社にタダ同然で住まわせてもらってるくせに、ずうずうしいってのよ」
文男はとたんに居心地が悪くなってきた。何だか知らないが、今度は矛先がこちらに向かってきそうな気配だ。なんだって主婦というのはどうでもいいことにこだわるのか。大体こいつは、あの奥さんに会うたびに何かしら文句を言っている。だったら一切関わらなければいいと思うのだが、主婦という生き物は本当によくわからない。
「もう俺、仕事行くよ」
文男は立ち上がった。まだ少し出勤時間には早いが、早々に退散したほうが身のためだ。今夜は通し勤務だ。今家を出れば、明日の昼までこいつの顔を見なくてすむ。
「あらもう行くの」
全くこの人は、いつも私の話をちゃんと聞こうとしない。
「それ、早くしまっとけよな。悪くなっても知らないぞ」
「はいはい。行ってらっしゃい」
明美はそそくさと出て行く文男を見送ると、しみじみと部屋の中を見回した。取り込んだまま、山積みになっている子供たちの服。散らばったおもちゃやマンガ本。敷きっぱなしの布団。自分が言うのもなんだが、乱雑な部屋だ。一度だけお呼ばれで上がったことのある水沢家とは大違いだ。とても同じ間取りとは思えないほどきれいな部屋だった。でも仕方がない。もともと掃除が得意ではない上に、こっちは向こうと違って子供が三人もいるんだから。いや、あの家だって本当なら――。明美は、さっき見た、米屋の店先に貼ってあったポスターの少女の顔を思い出した。そうだ、七年前のあの時だって、私は臨月の大きなおなかを抱えて捜索に参加したのだ。あの子のことが心配で、いてもたってもいられなかったから。よくよく考えてみれば、あの奥さんから一言だってお礼を言われたことなどない。あれは善意以外の何ものでもなかったのだが、それさえもあの人にとっては迷惑だというのだろうか。
明美は恭子のことを決して好いてはいなかった。むしろ一見おとなしそうでいて、ときおり人を食ったような目つきをする彼女に嫌悪感を感じることのほうが多かった。それだけではない、自分のほうだって、それほど恭子に好かれていないのもわかっている。でもやはり、あからさまに避けたり無視したりといったことはできない。困った時は助け合いたいし、余計なこととわかっていてもついついおせっかいを焼いてしまう。見ないふりなどはできない。これが性分なのだ。今日のように、ちょっと腹の立つことがあった時は、文男相手に愚痴をこぼせばそれなりにスッキリはするし、それでいい。それに――、あの子のことは別だ。あの子のことを絶対に忘れてはいけない。何よりもあの子のために。それが周囲に暮らす大人の責任というものだ。明美は心底そう考えていた。ひとしきりそんなことを考えていると、何だかすっかり頭の中がからっぽになった気がする。
「さっ、掃除でもやるか」
意を決して、掃除機を取りに押し入れのある和室に入ると、嫌でも朝起きた状態のままの布団が目に入る。今から上げたところでどうせすぐ夜になる。明美はそれを見なかったことにして、和室のふすまを閉めた。


「ただいまあ」
外が暗くなりかけた頃にようやく瞬が帰ってきた。いつもなら、もっと早く帰ってきなさいと叱りつけるところだが、今日に限ってはかえってそれが好都合だったこともあり、恭子は「お帰り」の他に手を洗ってきなさい、とだけ言葉を添えた。いろいろと手間取りはしたものの、何とか間に合ったようだ。床は何一つ痕跡を残さないようきれいに拭いたし、テーブルの上には当初の予定通りのメニューに、和彦のために海老の天ぷらを加えた料理が並んでいる。まるで温泉旅館で出される和洋折衷のバイキング料理のようだが、子供の誕生日はどこの家でもこんなものだろう。あとは真ん中にイチゴのいっぱいのったケーキを置くだけだ。
「わあー、おいしそう!」
洗面所から走って来た瞬が、早速覗きこんで喉を鳴らす。
「瞬ちゃん、ご飯の前に着がえもした方がいいわね」
「そんなに汚れてないよ」
「だめ。ズボンが真っ黒」
そんなことをしているうちに、玄関でキーが差し込まれる音がして、ドアが開いた。
「あっ、パパだ!」
はじけるように瞬がリビングを飛び出していく。
「ただいま」
足にしがみつく瞬を引きずるようにして、和彦がリビングに入ってきた。瞬は和彦が着がえている間もパパ、パパとまとわりついて離れようとしない。父親が、自分の起きている時間に家にいることが嬉しいのだ。普段は母親にべったり甘えていても、やっぱり男の子は父親が好きなのだ。
恭子は取り皿を並べながら、二人の様子を微笑ましい思いで見た。自分の産んだ子供とその父親である夫が仲良く遊んでいる。そんな二人の姿を見守るこの時ほど、母親としての幸せを感じる瞬間はない。しかし、綿菓子のように甘い思いに浸れていたのもつかの間、すぐに別の思いが沸き上がってくる。まるで青空をすごい勢いで焼き尽くす、どす黒い火炎のように。あの子の時には、こんな気持ちになったことはなかった。それどころか、あの子が和彦にまとわりつくと憎しみさえ覚えた。そのたびに母親失格ではないかと自分を責めていた。でも今は違う。こんなに健全に母としての幸せを感じている。やはり私のせいじゃない。私のせいじゃないんだ――。恭子は、何かを思い切り振り払うように髪の毛をかき上げ、
「さあ、二人共席に座って。始めましょう」
とびきり明るい声で言った。
そう、今日は大事な大事な瞬の誕生日だ。あの子のことは、ひとまず頭から離しておくことにしよう。どうしたって、明るい気分になどなれるわけがないのだから。恭子と和彦がハッピーバースデーの唄を歌い、瞬が六本のろうそくに息を吹きかける。炎が一斉に消えると、瞬が得意そうに頬をふくらませる。
「ねえ、パパ。ケーキ切り分けてくれない?」
「よっしゃ」
恭子に依頼され、和彦は張り切ってシャツの袖をまくり上げた。和彦は普段決してマメな男ではないが、手先は器用な方で、ケーキを均等に切り分けるなどという作業は、やらせてみれば恭子よりもずっと上手にこなす。
「ぼく、イチゴ二つね。それからチョコも」
「よしよし」
瞬の要望も叶えつつ、和彦は完璧なほど正確に切り分けたケーキを皿に取り分けていく。一つ、二つ、三つ、そしてもう一つ――。和彦はその最後のケーキを、無人の椅子の前に当たり前のように置く。普段の食事では、わざわざ一人分余計に作ることはないが、誰かの誕生日やクリスマスなどのイベント時には、こうするのが当然のようになっている。この人は、夫はあの子のことを実際どう思っているのだろう。恭子は、目の端に食べてくれる者のいないケーキを捕らえながら、ふと思った。

両親からのプレゼントが、ずっと欲しかった大好きなキャラクターの人形だったことで、すっかり満足した瞬はいつもより早く眠りについた。急に大人だけになった部屋は、これが先ほどと同じ空間かと思うほど静まり返っている。
「瞬もどんどん大きくなっていくな」
和彦が目はテレビのニュースに向けたままで言った。
「そうね」
「来年はもう小学生か」
「早いわね」
「もう七年になるんだな」
和彦が普段あの子のことを口にすることはめったにない。そのせいか、毎年息子の誕生日の日には決まってこの話になる。これから急スピードで夏に向かおうとする季節のせいもあるかもしれない。恭子は肩のあたりに力を入れて、彼の次の言葉を待った。しかし和彦は、
「悪い、お茶くれないかな」
そう言っただけで口を閉ざしてしまった。本当のところ、夫はどう思っているのだろう。恭子はお茶をいれるために立ち上がりながらまた同じことを思った。面と向き合って聞いてみたい気もするが、すぐにそんなことをしても意味がないと思い直したりする。この七年間というもの、恭子は明らかに夫の本心をはかりかねていた。いや、それをいうなら、おそらく和彦のほうも同じのはずだった。


水沢家の長女、来夏(らいか)がこつ然といなくなったのは、七年前の夏だった。あの日は、来夏の通っていた「あかり幼稚園」の遠足の日だった。恭子は暑いのが苦手で、毎年夏はどこかしら調子が悪くなる。あの時も少々貧血気味だったが、それをおして遠足に参加していた。年中さんともなれば保護者の付き添いを必要としない園も多いが、アットホームを売りとするあかり幼稚園では、親の付き添いが必須となっていた。場所は、区の校外にある「大高森レジャー公園」。通称「区民公園」と呼ばれるそこは、一応アスレチックや滑り台などの遊具はあるものの、周囲は深い山林に囲まれており、一歩コースを外れればすぐさま道に迷ってしまいそうなところで、公園というよりは、むしろ地名の通りに森と呼んだほうが似合うような場所だった。
その日は、広場で軽くお遊戯などをしてから、親子でアスレチックコースに挑戦し、ゴール後にいよいよお待ちかねのお弁当タイム――、という予定になっていた。親子一緒の行動が原則だったが、教諭らが具合の悪そうな恭子を気づかって、みんながアスレチックに行っている間、一人で広場で待っていてもいい、ということにしてくれた。恭子はその配慮にありがたく甘えることにした。朝早くから二人分のお弁当を作り、バスに揺られてついてきたのが精一杯で、とてもロープを上ったり渡ったりする体力は残っていなかったのだ。当時の来夏の担任、吉原恵美子教諭は、恭子に「ゆっくり休んでいて下さい」と声をかけ、子供たちを連れて山の中に入っていった。その時、列の最語尾にいた来夏が、不安気に恭子のほうを振り返ったことを覚えている。それからどのくらい時間が過ぎたのか、木陰でまどろんでいた恭子は、吉原教諭の甲高い声に起こされた。
「来夏ちゃん、戻ってませんか」
「いいえ、どうしたんですか」
教諭の顔が蒼白になったのがわかった。――それから警察の捜索が入ったが、来夏は結局見つからなかった。ただ、切り立った崖の下方から、来夏の髪を結わえていた赤いゴムが一本発見され、事故か、あるいは何者かに故意に突き落とされたことにより、そこから転落した可能性が高いと思われたが、来夏はどこからも出てこなかった。そのため、転落したのではなく、変質者に誘拐されたのではないか、いや、神隠しにあったのだ、しまいには何かのたたりでは、などと言い出す人も出る始末で、「女児失踪事件」としてマスコミにも大々的に取り上げられた。警察は一般の人にも協力を募り、公園とその周辺の捜索を徹底的に行い、関係者に情報提供を呼びかけたが、これといった目撃証言はなく、結局赤いゴム以外、他には何も有力な情報は得られなかった。もしかしたら来夏がひょっこり帰ってくるのではないか――和彦と恭子も、近所で来夏が立ち寄りそうなところを見つけてはひたすら娘を捜し歩いた。だがどうやっても来夏を見つけ出すことはできず、七年の月日が流れた。
吉原教諭は、アスレチック中、来夏のことを特別注意して見ていたが、たまたま一人の園児が転んで怪我をしてしまい、その処置に手間取っている間に、気付いたら来夏の姿が見えなくなっていた――、と証言した。恭子は、短大を出たばかりの若い教諭を責める気にはどうしてもなれなかった。信用して任せたとはいえ、本来なら親である自分が付き添っていなければいけなかったわけだし、普段から、彼女は感心するほど子供たちによくしてくれていた。これは不可抗力だ。和彦も恭子の意向をくみ、保護者側からは一切教諭の責任を追及することはなかったにも関わらず、その後彼女は、来夏の一件の全責任を取らされる形で園を辞めている。そのことをのちに人づてに聞いた時には、保護者として複雑な思いがしたものだ。
あかり幼稚園には何も恨みはない。これは本音だ。園はできる限りの誠意を示してくれたと思うし、来夏の件はあくまで不幸な出来事だった。だが、いざ瞬が幼稚園に上がる年齢になってみると、来夏と同じあの幼稚園に入園させることにはやはりためらいを覚えた。園の対応に不満があるわけではなかったが、未だ来夏が発見されない状況が続いている以上、あの園と再度関わりあうのはお互いのためにもよくない気がして、あえて誰も知り合いのいない私立の付属を選んで入園させたのだった。


「はいどうぞ」
恭子は、和彦の好みに合わせ、少しさましたお茶をテーブルの上に置いた。
「おっ、サンキュー」
和彦はソファに寝そべった姿勢から跳ねるように起き上がった。元々体育会系で、今も暇さえあれば草野球に精を出しているせいか、動きはとても今年三十八になる人のそれには見えない。
「なあ、恭子。ちょっと俺の部屋に来いよ」
「えっ、何よ。急に」
「まあいいから。来いって」
和彦は、湯飲みのふちを二本の指でつまむようにして持ち上げ、立ち上がった。仕方なく恭子も後に続く。和彦の部屋、といっても完全な個室があるわけではない。家族の衣類が入ったタンスや、瞬のおもちゃ箱などが置いてある四畳半の和室に机を入れて、一応和彦の書斎ということにして使っているのだ。和彦は部屋に入るなりすぐにパソコンの電源を入れた。
「ねえ、一体何なのよ。洗い物を早く終わらせてしまいたんだけど」
「おまえに見せたいものがあってさ」
和彦が数回キーボードを叩くと、いきなり画面全体に見たことのない少女の顔が広がった。写真ではない。絵だ。髪の毛や顔の線など細かい部分までずいぶんとリアルに書き込まれている。誰かの似顔絵だろうか。
「誰? この子」
「誰だと思う?」
「誰って……わからないわよ。でもずいぶんかわいい子ね。新しいアイドルかなにか?」
「来夏だよ」
「えっ?」
「来夏さ。十二歳の来夏」
「……」
恭子は、改めて四角い箱に浮かび上がった少女の顔を見た。肩まで伸びた髪の毛。ピンク色に染まった頬。大きな目がまっすぐこちらを見ている。恭子はその少女と自分が本当に見つめ合っているような気がして、思わず目をそらした。
「会社の若いやつで似顔絵描くのが趣味だってのがいてさ。通信教育で習ったらしいんだけど。なかなかうまいもんだろ? デジタルカメラに撮った画像を送ってもらったんだ」
「でも、どうしてこれが来夏なの」
「いや、そいつに来夏のことをちょっと話したら、写真を見せてくれれば成長した現在の来夏ちゃんを描いてあげますって言われてさ。骨格とか顔のパーツの位置とかで大体予測がつくらしいんだ。まあ多少気を使って描いてくれたってのもあるんだろうけど、結構かわいいだろう」
「……」
「もちろん本当に今、来夏がこんなふうになっているかどうかはわからないけど、俺はかなり近いんじゃないかと思うよ。それにさ、現在の来夏の顔がわかれば、捜索だってしやすくなるだろうし、何ならこれを警察に見せて――」
「違う! こんなの来夏じゃない!」
恭子の声に、パソコンを愛しげにのぞきこんでいた和彦が驚いて振り向いた。
「どうしたんだよ」
「こんなの嘘。これが来夏だなんて」
「恭子?」
「こんなまやかしの絵で喜んでいるなんて、バカみたい。もう来夏が死んじゃったって認めているようなものじゃないの」
「ちょっと待てよ、俺はただ……」
「消して!」
「わかったよ」
和彦は、母親を喜ばせようとしたのに、逆に叱られてシュンとした子供のように、背中を丸め、パソコンの電源を落とした。
「悪かったよ。別に怒らせるつもりはなかったんだ」
恭子は何も答えない。
「風呂入ってくる」
ドアの前で、和彦は思い出したように足を止め、
「俺は信じてるよ。来夏は生きている。どこかで必ず生きてるよ」
ノブに手をかけたままの姿勢でつぶやくように言うと、そのまま部屋を出て行った。恭子も部屋を出ようとしたが、なぜか足が動かない。心臓が激しく鳴っている。
――何もあんな言い方しなくてもよかったのに。
夫にきつくあたってしまったことをすぐに後悔した。あの人は、夫は、確かに「来夏は生きている」と言った。夫の口からあんなにはっきりその言葉を聞いたのは初めてだった。わかっていた、そんなことはわざわざ聞かなくても最初からわかっていたことだ。あの人が、来夏が死んでしまったなどと間違っても思っているはずがない。なのに、あの絵を見せられた時の不快感はなんだろう。
恭子はもう一度、さっきの成長した来夏だとかいう少女の顔を頭の中で思い描いた。ぱっちりした大きな目。くるんとカールされた長いまつ毛。ぷっくりとふくらんだ唇。頬にはご丁寧にえくぼまで描き入れてあった。いかにも万人に好まれそうな典型的な美少女。だけどあんなのは来夏じゃない。絶対に違う。あの子が、あのむすめが、あんなにかわいらしく成長しているはずがない! 和彦は男だから、自分好みの少女像を勝手に頭の中で作り上げているだけなのだ。都合のいい幻想に酔っているだけ。その男特有の能天気さが恭子にはたまらなく嫌だった。母親の自分ならわかる。あの子は私に似て一重まぶただったし、女の子にしては色も黒くて、そもそもえくぼなんかどこにもなかった。あんなのは来夏じゃない。絶対に違う。絶対に! 恭子はこみ上げるいらだちを押さえるために低く呻いた。

朝から顧客回りをしていると、さすがに背中がじんわりと汗ばんでくる。和彦はハンドルを切りながらエアコンのスイッチをすかさず強に入れた。とたんにほこりっぽい風が顔にふきつけてくる。すぐに冷えるのはいいが、鼻につく異臭が困りものだ。消臭剤が必要だが、持ち回りのオンボロ営業車のために、なかなか身銭を切ってまで買おうという気にはなれない。それにしても暑い。まだ初夏だというのにこの暑さはなんだ。
――よし。この辺でいいか。
和彦は古い民家の回りに積み上げられた石垣に沿って、営業車を滑らすように停車させた。大通りから一本奥に入ったところにあるここは、外回りの途中に休息を取るのに都合のいい場所だった。いつもは大抵何台か先客がいて、中で営業マンが死んだように寝ているのだが、今日は珍しくまだ一台も停まっていない。和彦はさっき買った缶コーヒーを空け、ほとんど一気に飲み干すと、シートを倒し、横たわった。いくら何でも休憩を取るにはまだ早いのかもしれない。だがそもそも、住宅メーカーの営業など昼間は大して仕事にならないのだ。いつどこで休もうが、数字さえ上げていれば誰にも文句は言われない。要は効率の問題だ。フロントガラスの形に切り取られた空を見ながら煙草に火を付ける。そうしていると、嫌でも昨夜の恭子の様子が頭に浮かんでくる。
あいつは――、一体なんだってあんなに怒ったのだろう。成長した来夏の顔を想像して嬉しがることがそんなにいけないことだろうか。親として当然の思いではないのか。なぜそれが、来夏が死んじゃったと認めたことになるなどという、ムチャクチャな話になるのかわけがわからない。来夏が死んでしまっただと? 冗談じゃない。俺はこの七年間というもの、ただの一度だってそんなことを思ったことはない。神に誓ってもいい。チラッと頭をよぎったことすらないのだ。
そもそも恭子は、あいつこそ来夏のことをどう思っているのだろう。来夏がいなくなった翌年に駿が生まれ、その育児に没頭することで、娘が行方不明となった辛さを忘れようとしているのだろうと理解してはいたが、そうだとしても、あいつは少し母親として冷たすぎはしないだろうか。他の行方不明児を持つ母親は、毎年子供がいつ帰ってきてもいいようにと服を新調したり、食事も必ずその子の分までこしらえて食卓に並べる、というようなことをしているらしい。それに比べてあいつは、普段の食事のときに来夏の分を用意しているのなど見たことがないし、家族の誕生日に、とってつけたように皿を一枚多く準備するだけだ。駿の育児を見ている限りは、あいつは完璧な母親だ。確かにそう思う。だがだからといって、行方不明になった子供のことをきれいさっぱり忘れてしまってもいい、ということにはならない。今育てている子と同じように、いや、育てられないからこそ、その子に対して強い愛情を注ぐのが親だろう。会えない分、よけいにその愛情も強くなるのではないか。少なくとも俺はそうだ。駿のことはもちろん愛している。ただ来夏のことは、今手元にいないからこそ、駿とは種類の違う、深い深い愛情がある。どうか無事でいてほしい。無事でいるならそれでいい。いつか必ず会える時がくる。そう信じている。今までこんなことを改めて夫婦の間で話したことはなかった。妻も当然俺と同じ思いでいるはずだと思っていたからだが、はたしてそれは真実なのだろうか。
来夏――。和彦は胸元から、ラミネート加工を施した来夏の写真を取り出した。ひまわりの花をバックに微笑んでいる娘。これは来夏がいなくなる前の年、近所の道端に咲いていたひまわりを来夏が気に入って、「撮って撮って」とせがまれ、たまたまシャッターを押したのだった。来夏は人見知りが強く、カメラを向けられると緊張のあまりにらんでしまう癖があり、あまりいい写真が取れなかったものだが、この写真の中では珍しく自然な笑顔を見せている。こんなふうに、特別贅沢なことをしなくても、自分の周りで楽しみを見つけることが上手な女の子だった。来夏。俺の愛しい娘。初めて人の親になったあの感動を今も忘れていない。夏に生まれてきたから、夏が来る、と書いて「来夏」と名づけた。夏に俺のところに現れ、夏に消えてしまった娘。今頃どこでどうしているのか――。
その時だ。ふいに子供たちの騒ぎ声が聞こえた。思わず体を起こして窓の外を見ると、道の反対側を、この辺りの幼稚園か保育園に通う園児たちか、お揃いの帽子をかぶった子供らが列を作って歩いている。散歩の時間か何かなのだろう。ピンクのエプロンをつけた若い先生が二人、子供たちを挟むように列の前後についている。和彦は二本目の缶コーヒーを開けながら、何気なしにこちらに向かってくるその小さな集団に視線を置いた。あの年頃の子供を見ると、どうしても胸が痛む。やはり俺の中にいる来夏は、いなくなった幼児の頃のままなのだ。キキーッ! 子供たちの楽しげな声を掻き消すように、対面してきた車が急ブレーキをかける音が響いた。一人の園児が列から飛び出して歩道を横切っている。危ない!和彦は思わず車を飛び出していた。その子を抱き上げて、端に寄り、車をやり過ごす。
「すみませ―ん!」
列の前にいたほうの先生が、一つに束ねた髪を馬のたてがみのごとく揺らしながら、慌てて駆け寄ってくる。
「急に走り出したらだめじゃない、大ちゃん」
子供は、和彦の腕の中で、何が起きたのかわからないといったふうにきょとんとしている。
「大丈夫みたいですね」
和彦は、子供を彼女に渡した。
「ありがとうございます」
彼女は、心から安堵したといった様子で子供を抱き取ると、何度も頭を下げながら列に戻っていった。――純朴そうな子だ。まだ新米の先生だろうか。そういえば、来夏の担任だった、吉原とかいう先生もあんな感じの子だった。あの時は、こちらのほうがつい気の毒になるほど憔悴しきっていたっけ。幼稚園は辞めてしまったと聞いたが、今頃どうしているのだろう。またどこかの園に勤めているのだろうか。そんなことを考えながらなんともなしに、ポニーテールを目で追っていると、ふいに彼女がこちらを振り返った。じっと和彦を見ている。思わず和彦もフロントガラス越しに彼女の顔を見る。目が合った。彼女と視線をからめたまま、和彦は煙草に手を伸ばした。


駿がまだよちよち歩きの頃によく通った公園を通り過ぎ、道を折れるころから、坂はいきなりきつい傾斜になる。体重がもうすでに十五キロを越えた駿を後ろにのせて上るのはさすがにつらい。交差点を抜け、幼稚園の門構えが視界に入る頃になって、ようやく足が軽くなってくる。幼稚園に着き、自転車を止めたとたん、駿は自分で子供用の椅子から飛び降り、一目散に門の中に入っていく。
「ほらカバン忘れてる! 靴入れも」
慌ててそれらを渡すと、
「じゃあね、ママ、バイバーイ」
あとは振り向きもせずに、さっさと駆けていってしまう。恭子は、しばらくその後ろ姿が完全に園舎の中に入るまで見送ってから向きを変えた。登園時間のピークに当たるこの時間帯は、園の周りは園児とその母親たちが群がって、まるで動物園のような騒がしさだ。この時期になってもまだ毎朝必ず登園を嫌がって泣いている子供がいる。門柱に取りすがるようにして泣きわめいている子供の横で、赤ん坊を抱いた母親が心底困り果てた様子で立っている。もうなだめる言葉はかけつくした、という感じだ。恭子は見ないふりをして通り過ぎた。
瞬は実質一人っ子として育ったにもかかわらず、すぐ園に慣れ、あんなふうに泣いて登園を渋ることは今まで一度もなかった。何でも、母親の愛情をたっぷりと浴びて育った子供は、初めての集団生活にもなじみやすいのだという。そんな説を何かで目にするたびに、恭子はひそかに誇らしい気持ちになる。母親としての自分が評価されたような気になるのだ。それに比べてあの子は――、姉の来夏は幼稚園の嫌いな子だった。しょっちゅう登園を嫌がり、親を手こずらせた。といっても、あの子の嫌がり方は普通の子とはちょっと違っていた。きちんと制服を着て、カバンを斜めに下げた格好で、玄関に仁王立ちになったまま、いつまでもじっとしているのだ。
「何やってるの。さっさと行きなさい! 遅れるでしょう」
どんなに叱りつけてもなだめても頑として動こうとしない。別に何かを訴えるわけでも、泣くわけでもなく黙りこくったまま、ただ立っていた。あまりの頑なさに、いつも親のほうが負けてしまい、
「――いいわ。もう今日は休みなさい」
最後にはそう言ってしまうのが常だった。何しろ玄関を一歩も動かないのだから仕方がない。乳児ならともかく四、五才にもなった子供を無理矢理引きずっていくわけにもいかない。それにしても、まだ普通に「行きたくない」と、泣くなりわめくなりしてくれたほうがどんなに楽だったか。だいいち、そのほうがずっと子供らしい。あの子は何だってあんなふうに変わった子供だったのだろう。
幼稚園をあとにして、坂の手前まで差し掛かった時、恭子はふと足を止めた。どうしたのだろう。道路脇の植え込みのそばに、女の子がランドセルを背負ったまましゃがみこんでいる。小学生が登校する時間はもうとっくに過ぎているはずだ。足に怪我でもしたのだろうか。それとも不審者に何かされたのか。本来子供の世話を焼いたりするのは好きなほうではないが、状況が状況だ。見つけてしまった以上、知らぬふりで通り過ぎてしまうわけにはいかない。
「どうしたの?」
恭子はその子に近付いて、背後からできるだけ優しい声をかけた。女の子がぱっ、と顔を上げた。
「!」
恭子はとっさに叫び出しそうになった。顔がほとんど見えないのだ。まるで怪談話に出てくる女の幽霊のように、あごの下まで髪の毛が伸びている。しかもろくに洗髪をしていないのか、初夏特有の心地よい風が吹いているというのに、髪はそよともなびかず、肌に糊でくっつけているかのようにべたりと張り付いている。
――何なの? この子。
恭子は、その奇妙な子供をまじまじと見た。よく見ると、着ているものも初夏だというのに、分厚い毛玉だらけのセーターに、変な柄の付いたズボン。足元はいまの子供が好んで履くようなスニーカーではなく、古ぼけたズック靴だ。いまどきこんな子供がいるなんて。親は一体何をしているのか。満足に世話をしてもらっていないのだろうか。その時だ。恭子の目の前に何かが飛んできた。その子が投げつけたのだ。そして次の瞬間、突如ぬるっとした感触が腕に走った。ミミズだ! 細い糸のようなミミズが恭子の腕を這っている。それも何匹も。
「キャアッ!」
恭子は腕をちぎれるほど振り回した。が、その気色の悪い生き物は、ぴたりと恭子の肌に張り付いて離れない。それどころか、振り払われてはたまらないとでもいうように、腕に巻きついてくる。恭子はほとんど半狂乱になり、
「何よ、これ。一体何なのよ!」
大声で叫びながら、持っていたバッグで、何とか身体にくっついたそれらを叩き落した。信じられない。何ということだ。
「ちょっと、あなた何てことするの!」
まだしゃがみこんだままでいる女の子を立ち上がらせようとして、恭子は思わずその伸ばしかけた手を止めた。女の子が恭子を見てにやりと笑ったのだ。そう、確かに笑った。髪の毛の奥に見える赤い唇が真横に広がっている。「イヒヒヒ」凍り付いている恭子をあざ笑うように不気味な声を上げながら、女の子は反対側に走り出した。
「待ちなさい!」 
そう声を上げてはみたものの、とても追いかける気力などない。それに情けないことに涙声になっている。赤いランドセルが小さくなっていくのをしばらくそこで見届けてから、恭子は小走りに駆け出した。


家に戻り、恭子はすぐさま洗面所に飛び込んだ。蛇口を全開にして、さっきミミズが這った箇所に熱いお湯をかけながら、スポンジで何度もそこをこする。どんなに洗っても、あのぬるりとした感触がまだ皮膚に残っている気がして気持ちが悪い。
――ああ、本当に災難だった。
恭子は石鹸を泡立てて、もう一度丁寧に腕を洗った。
――全く、女の子のくせになんて子だろう。いたずらにしたってほどがある。どこの子なのか知らないけれど、ちゃんと調べて、親か学校に苦情を言ったほうがいいかもしれない。
時間がたつにつれて、怒りがこみ上げてくる。全くもって腹立たしい。親の顔が見たいというのはこのことだ。
恭子の気をそらすように、リビングの電話が鳴った。恭子は急いで腕に付いた泡を洗い流し、タオルで拭きながら洗面所を出た。
「はい、水沢です」
「ああ、姉さん? 俺」
「優作?」
夫以外で、名前を名乗らずに「俺」などという言い方をするのは、弟の優作しかいない。
「どうしたの? あんたがうちに電話してくるなんて珍しいじゃない」
「母さんから、昨日俺のとこに電話があったんだ」
「そう」
恭子は意識して、わざとそっけない答え方をした。
「俺も最近忙しくて、ここしばらく病院に顔出してなかったからな」
「仕事じゃ仕方がないでしょ。時間がある時に、行ってあげればいいじゃない」
「そのつもり。それとさ、母さん、洗濯物がたまってるらしくて、困ってたよ」
「洗濯物って……、久美さんは何してるの?」
恭子は弟の妻の名前を出した。
「いや、母さんが久美にそこまでやってもらうのは悪いって……。それにあいつも忙しいんだよ。先月から仕事に復帰してさ」
「仕事ねえ」
優作と同い年の久美は、結婚前は確か歯科衛生士の仕事をしていたと聞いている。仕事に戻りたくても、既婚者には条件的に厳しい、働けない、と会うたびこぼしていたのに、どこかいいところでも見つかったのだろうか。
「うちのやつも、自分なんかが手を出すより、実の娘さんに世話してもらったほうがお義母さんはありがたいんじゃないかって言ってるんだ」
「私にさせろ、ってこと」
「だって実の娘だろうよ」
そんなことはあんたなんかに言われたくない。そう怒鳴りたくなる衝動を恭子はぐっと抑えた。
「とにかく近いうちに病院に行ってよ。じゃ」
こちらの返答も待たずに電話は切れた。いつもこうだ。優作には子供の頃から、おもちゃも食べ物も見たいテレビ番組も何でも譲ってきた。いつだって優作の欲求が最優先で、自分のことなど後回しだった。そうするのが自然なことだったのだ。そのせいか、大人になった今でも、嫌なことは何でも姉の恭子がかぶってくれると思い込んでいるふしがある。優作の妻である久美までもが、優作の権利は自分の権利とでも思っているのか、平然と恭子に甘えてくるから腹が立つ。「嫁なんだから、母の世話はあなたがするのが当然でしょう」などと、恭子が決して言えないことを二人とも知っているのだ。
――実の娘だろうよ。
優作が言い放った言葉が頭の中で反転する。――実の娘、か。確かに私は、あの女の腹から生まれた。それは紛れもない事実だ。でも、改めてそれを確認するたびに、吐き気がこみ上げてくるのを恭子は抑えることができない。恭子は、またもや洗面所に駆け込んだ。

「次は××町四丁目。お降りの方は……」
流暢なアナウンスが車内に流れ、バスは右に大きくカーブを描いた。恭子は、倒れないよう、両足に力をいれながら、手を伸ばして降車を知らせるボタンを押した。本当なら、母親が入院している大学病院に行くには、あと二つ三つ先の停留所で降りたほうがいいのだが、恭子はいつも少し手前のバス停で降りることにしている。そしてわざわざ十五分程度の時間をかけて歩いていくのだ。自分でもなぜこんな行動を取るのかよくわからないが、これがもし母親や弟に対する反抗のつもりだとしたら、なんとくだらないことをしているのだろうと、自分で自分を苦笑したくなる。
目の前に黒光りした巨大病院が現れた。恭子の母親が、初めてこの病院に入院したのは、恭子が結婚してすぐの頃だ。持病の糖尿病が悪化したからで、以来、この十年の間に、何度も入退院を繰り返している。恭子は、相変わらず混み合っている待合室を横切って、奥にあるエレベーターに乗り込んだ。病棟に降りたとたん、いわゆる病院臭というのか、独特のすえたようなにおいが鼻を付く。このにおいだけは何度来ても慣れることがない。長い廊下を歩き、一番突き当たりにある病室に入る。年配の女性ばかりの六人部屋。皆、一体何の病気なのか詳しくは知らないが、比較的病状の軽い患者ばかりが集まっているせいか、いつ来ても和やかな雰囲気だ。――もっとも、そうハッキリと言い切れるほど、恭子はここに通ってきているわけではなかったのだが――今日も、一つのベッドを囲むように患者たちが集まり、果物か何かをつまみながら皆で談笑している。だが、その中に肝心の母親の姿は見えない。どこにいるのかと周囲に目を移すと、体調が悪いのだろうか。窓際の自分のベッドで、入り口に背を向けた格好で横になっている。こんにちは、と恭子が声をかける前に、一人の患者が、素早く母親のベッドに近づき、
「ほら今野さん、今野さん。お客さんだよ」
こちらが気恥ずかしくなるくらいの大声で言った。それを合図のように、他の人も一斉に恭子を見る。なぜ恭子が誰の見舞いに来たのかを知っているのか不思議だが、おそらく何度か顔を見られているのだろう。こちらは同質の患者の顔など、病室を出たとたんすぐに忘れてしまうが、患者のほうは、やって来る見舞い客のことを鮮明に覚えているものなのかもしれない。
母親はゆっくりと顔だけをこちら側に向けた。どうやら寝転んだままで、テレビを見ていたらしい。
「なんだ、あんたか」
そう言って、母親はあからさまに顔を曇らせた。それがはっきりと意識した上でのことなのか、あるいは無意識なのかわからずに、恭子はいつも戸惑う。でも母親が恭子ではなく、誰のことを待っているのかはわかる。この人の頭の中では、恭子の存在など、一体どれほどのものなのだろう。こんなことは子供の時分から慣れているはずだ。なのに、いちいち心を波立たせてしまう自分にも苛立ちを覚える。母親はまたテレビに目を戻した。恭子も仕方なく、傍らの丸椅子に腰を下ろす。
患者が一人、病室に入ってきた。隣のベッドの患者のようだ。
「あら、こんにちは」
「お世話になっています」
恭子も頭を下げた。
「今野さんのお嫁さん?」
唐突にそう聞かれて、恭子は狼狽した。
――え、お嫁さんって…… 私のこと? 
だがすぐに、そう聞かれた理由がわかった。母親のベッドの上に、いくつか写真立てが置いてあり、優作や駿の写真の他に、どういうわけか久美の写真が飾ってあるのだ。確かに、実の娘がいるのに、その娘の写真を飾らず、わざわざ嫁の写真を置く人間がいるとは誰も考えないだろう。この人は、久美を実の娘だと思っているわけだ。だから、写真のない恭子はお嫁さん――、というわけか。別に人からどう誤解されようがどうでもいいのだが、本当のことを告げた時の相手の反応を考えると、少し気が重くなってくる。
「いえ、違うんです」
恭子は曖昧に答えた。
「えっ、じゃあ――」
「娘なんです。一応」
「いやだ、私ったら。ごめんなさいね。ほんと、よく見れば今野さんにそっくり」
状況のせいとはいえ、実の娘を嫁と間違えたとわかれば、やはりばつが悪いのだろう。いかにも人のよさそうなその患者は、母親と恭子をかわるがわる見比べながら、こちらが気の毒になるほど何度も、似ている、そっくりだと騒ぎ立てた。当の母親はそんなやり取りには一切構わず、突然テレビを消すと、
「よっこらしょっと」
大儀そうに身体を起こした。
「お風呂に入れないから身体が痒くてね」
そう言いながらいきなり着ているものを脱ごうとする。恭子は慌ててベッドの周りのカーテンを引いた。
「見えちゃうじゃないの」
「いいんだよ。今更人に見られて恥ずかしいことなんかあるもんかい」
本人よりも、見せられる側のほうがよほど恥ずかしいのでは、と思うが口にはできない。そんなことより、この調子だと今日もあれをしなければいけないようだ。覚悟はしてきたが、できるならやりたくない。恭子は、母親が服を脱いでいる間に、洗面器の中に熱いお湯を張り、タオルを用意した。どうしてもやらざるを得ないことなら、せめてさっさと終わらせてしまいたい。母親が、ベージュ色の肌着を引きちぎるような動作で剥ぎ取ると、その下から、だらりと垂れ下がった乳房があらわになった。
「ほら、寒いから早く」
「お願いします」でもなければ、「頼みます」でもない。ただ、ぬうっと恭子の前に腕を差し出す。恭子も同じように黙ったまま、固く絞ったタオルで、目の前の脂肪だらけの身体を拭いていく。腕から始まり、肩、首すじ、背中、胸、腹部――。そうだ。恥部はどうするのだろう。ふと思う。この人だって、女性のものは持っているだろうに。あとで、そこだけ自分で洗うのだろうか。恭子は、機械的にタオルを上下させながら、複雑に入り組んだ構造の、自分の陰部を想像した。さすがに母親もそこだけは開示してこない。
「もういいでしょ」
恭子は、母親の背中をタオルの先で軽く叩き、終了の合図とした。とたんに、母親の不満気なため息が狭いスペースに充満する。
「全くあんたはいつもそうだ。そっちから『もういいか』と言われたら、世話を受けているほうは、もっとやってほしい、とは言えないもんなんだよ。気を使ってね。あんたは冷たいんだよ。そういうことが全然わかっちゃいないんだから。その点、久美ちゃんは違うよ。あの子は、身体拭きでもマッサージでも、私のほうから、もういいと言うまで絶対にやめない。さすが優作が選んだ嫁だね。人の気持ちがちゃんとわかる子だよ。あーあ、他人の嫁より、実の娘のほうが親に冷たいなんてねえ。これじゃあ、何のために苦労して育てたんだかわかりゃしない。やっぱりこの年になったら、ろくでもない娘なんかより、嫁のほうあい
嘘だ。恭子は唇を噛んだ。久美が、あのしたたかな子が、こんなうざったい姑の世話などするものか。だいいち、姑の汚れ物を洗濯するのさえ嫌がって、義姉に押し付けるような子だ。そんな気のきいたことをしているわけがない。この人だって、結局嫁が当てにならないから困り果てて、優作を使って私に来させたのだ。だったら久美さんに来てもらえばいいでしょう、と言えたら、どんなにかすっきりするだろう。恭子がここまで言われても、母親に何も言い返すことができないのは、別に母親を怖がっているからでも、ましてや労わりからでもない。
「本当に冷たい娘だよ。誰に似たんだか」
せっかく来ているのにそんな言い方はないでしょう。どうぞこれからは大好きな優作と久美さんに全部やってもらってちょうだい。私はもう知らないから。この人とそんなやり取りができるくらいなら、初めからこんな気持ちにはなりはしない。
「ああ痛い。足が痛い」
誰に、というわけでもなく、そのくせ部屋全体に聞こえるほどの声で、母親は愚痴を言い続ける。きっと今、カーテンの向こうでは、刺激に飢えた患者たちが身体全体を耳にして、こちらの様子をうかがっていることだろう。恭子は母親にはかまわずに、ベッドの下から汚れ物の詰まった紙袋を引っ張り出すと、わざと勢いをつけてカーテンを開けた。案の定、好奇心むき出しの顔を向けていた患者たちが、慌てた様子で一斉に視線を外す。
――ああ、やってられない。
恭子は紙袋を抱え、そ知らぬ顔で患者たちの横をすり抜け、病室を出た。背中に、彼女らの悪意がこもった視線を感じたのは、単なる気のせいだろうか。

そのまま廊下を走り、トイレに飛び込む。便器をかかえるようにして、突き上げてくるものを吐き出す。さっきバスの中で飲んだ、ペットボトルのお茶を少し戻しただけで、あとは何も出るものはない。ただ喉がせり上がる嘔吐感だけがいつまでも止まらない。恭子は、ひとしきり自分の身体の反応に身を任せたあと、ぐったりとしてトイレの床に座り込んだ。
いつもこうなのだ。母親の――、あの人の身体に触ると、必ず吐き気に襲われる。吐き気だけでなく実際に吐いてしまうのだ。最初に散々な思いをしてからは、病院に来る前には、予め何も口にしないようにしているが、何も吐くものがないというのも、それはそれで苦しいものだ。なぜこんなふうになってしまうのだろう。もともと恭子は、子供の頃から、他人に触れたり触れられたりすることが、あまり好きなほうではなかった。学校で、体育の時間に誰かと組んで体操をやらされる時などは寒気がしたものだし、「ねえ、ちょっとかして」などと言われて、友達に髪の毛を触られるのもひどく苦痛だった。そういう自分の性質と関係があるのかどうかはわからない。が、どう気力を総動員しても、母親の身体に触るのはあれが限界だ。自分でもひどい話だとは思うが、気持ちが悪くてどうしようもないのだ。やはり私がどこかおかしいのだろうか。となれば、まんざら母親の言ったことも当たっているのかもしれない。私は冷たい人間なのだ。たぶん――。いや、何も恭子だって、こんなふうに好きで苦しんでいるわけではない。できるなら、ごく普通に、母親の身体を拭いてあげられる娘でありたい。心からそう思う。そうなれたらどんなに幸せだろう。でもどうしてもだめなのだ。
恭子は、壁に寄りかかりながらよろよろと立ち上がった。あの調子だと、今頃病室は、恭子の悪口で盛り上がっているだろう。母親と同じ年ごろの女たちは、母親の言葉に同調し、親の世話も満足にしない娘への憎悪を募らせているに違いない。非常な娘。育ててもらった恩も知らない冷たい娘――。でも誰が好きで冷たい娘になどなるだろう。娘は育てられたように育つだけだ。再度吐き気を感じて、恭子はまたうずくまった。


しばらくそうしているうちに、胃は何とか落ちついてきたようだ。恭子はようやく立ち上がってトイレを出た。吐き気は収まったが、胃に古い油をしみ込ませたような不快感はまだ残っている。病棟の外れにあるランドリー室までよろよろとした足取りで歩く。これでは誰が見ても、間違いなく恭子が入院患者本人だと思うだろう。
やっとの思いで、洗濯機の置いてあるランドリー室にたどり着く。入り口から中を覗くと、珍しく誰もいない。恭子は、一番手前の洗濯機の前に立って、いつもそうするように息を止めた。そして紙袋を持ち上げ、汚れ物を直接中に放り入れた。触ることができないのは母親の身体だけではない。使用済みの下着や衣類も同様だった。スイッチを入れると、黒とベージュの交じり合ったかたまりが、うなりをあげて回り始める。恭子はそこに突っ立ったまま、次々に作り出される渦の動きをぼんやり見下ろしていた。家では、こんなふうに洗濯機の前にぼさっとたたずんでいることなどありえないが、ここでは洗濯が終わるまで他に何もすることがないのだ。と、
「あら、それ洗剤を入れてないんじゃない?」
背後からそう声がした。びっくりして振り向くと、うしろにパジャマ姿の女性が立っている。さっき病室で、恭子のことをお嫁さん、と間違えたあの患者だ。
「やだ、ほんと。私ったら」
指摘されるまで、洗剤を入れずに洗濯機を回していたことに全く気付かなかった。うっかりしていた。恭子は慌てて停止ボタンを押し、棚から洗剤の箱を取り上げた。何だか無防備なところを覗き見されてしまったようで、今度はこちらのほうが、ばつの悪い思いをする番だ。
「私、戸田です」
患者は、恭子の気持ちなどはおかまいなしに、にっこりと微笑みかけてきた。
「戸田ハツエといいます。三日前にここに入院したばかりなの。よろしくね」
「あ、こちらこそ」
恭子は相手の目を見ずに、軽く頭を下げた。どうもこの年代の女性は苦手なのだ。対面すると萎縮してしまう癖がついている。
「さっきはごめんなさいね。あなたのこと、お嫁さんなんて言ってしまって」
「いえ、そんな」
「まだ入院して日が浅いものだから、病室の人たちのこともよく知らないの。これから皆さんと仲良くなれるといいんだけど」
「あの、どこがお悪いんですか」
「腎臓がちょっとね。若い頃から弱くて」
ハツエは、恭子の隣で洗濯を始めた。どこが悪いのかなどと聞くのは失礼だっただろうか。恭子は少し後悔しながら、ハツエの横顔を盗み見るように見た。素顔のせいか、目の下に隈が目立つが、きちんと化粧をすればかなりきれいなおばあさんなのではないだろうか。
「失礼だけど」
また先に口を開いたのはハツエのほうだった。
「はい?」
「お母さんはいつもあんなふうなの?」
ふいに母親のことを聞かれて、恭子は戸惑った。いつもあんなふうなのか、と聞かれれば、どう答えるのが一番正しいのかわからない。
「すみません」
いい返答が思いつかないまま、とっさに謝っていた。
「さっきはあんな……見苦しいところをお見せして」
「何を言ってるの。あなたが悪いわけじゃないでしょう」
ハツエが大きく見開いた目を向けた。そして、
「あなたは何も悪くないわよ」
もう一度ゆっくりと同じ言葉を繰り返す。恭子は驚いて、初めて正面からハツエの顔を見た。
「あなたが悪いわけじゃない」。三十と数年間の人生で、人からそんなことを言ってもらったのは初めてのような気がする。子供の頃から、いつだって何だって、ことが起きれば悪いのはこの私だった。「あんたが悪い」。ずっとずっと、そう言われ続けてきたのに。
「母と娘の関係っていうのは、難しいのよね」
ハツエは少し言葉を切って、続けた。
「結局は女同士でしょう。母と娘なんて、世間で思われてるほど、仲良し親子ばかりじゃないと思うわよ。実際はね。現にこの私も、母親とは本当にいろいろとあったもの。それはもういろいろね」
「どんなお母さんだったんですか」
「ふふふ、知りたい? それはもう気の強い人でねえ。いや、あれは気が強いなんてものじゃなかったわね。言葉は悪いけど、一種の気ちがいみたいなものよね。いったん怒り出すと、周りの誰も手がつけられないの。一晩中罵られたり叩かれたりね。ほんとにすごかった。何しろいつ母親の機嫌が悪くなるのかわからないものだから、こっちはいつもおびえていなければばらないわけ。最後は病院で寝たきりになって、そんな状態でも、私を『何をやってるっ!』なんて怒鳴りつけてね。見舞いに行くたび、恥ずかしいわ、情けないわで、散々な思いをしたものよ」
「――」
「さっきは……申し訳ないけど、あなたとお母さんのやりとりを聞いているうちに、昔を思い出してしまって。母が亡くなって、それこそもう何十年にもなるのに、いまだに親を恨む気持ちが消えないなんてね。困ったものだわね」
「あの――、お子さんは?」
ハツエは首を振った。
「ずっとね、子供を持つことが怖いような気がしていたの。上手に育てる自信がなかったのね。結局決心がつかないまま、ズルズル年を取っちゃって。だから入院したからといって、お世話に来てくれる人もいないし、お洗濯でも何でも自分でするしか仕方がない、というわけ。夫も亡くなって、きょうだいもいないし、まあ気楽な身分ではあるけれど、今となっては、そうね。あなたみたいな娘がいるとよかっただろうな、と正直思う時もあるわね」
「私……やっぱり冷たい娘なんでしょうか」
恭子の口から、自然と言葉がついて出た。
「母の言うように、私は……」
「あなたは、充分いい娘さんだと思うわよ」
「そうでしょうか」
「だって、ちゃんとお母さんのお見舞いに来て、こうしてお洗濯までしてあげているじゃないの」
「吐いちゃうんです」
恭子は言った。
「母親の身体に触ることが、どうしてもできないんです。そんな娘っているでしょうか。それが本当に辛くて……」
そんなこと、とハツエは笑った。
「私も同じでしたよ。もう嫌で嫌でね。子供は私一人しかいなかったから、母のことは私がやるしか仕方がなかったんだけど、それはもう辛かった。地獄のような思いで世話したものよ」
救われた。深いしわの刻まれたハツエの顔を見ながら、恭子は心底そうした思いを感じていた。私だけじゃない。私だけじゃなかった――。
「あら、そういえばあなた、お子さんは?」
「います」
「そう、男の子?女の子?」
「男の子です。今、幼稚園で」
「まだお一人?」
「はい」
子供は一人か。七年前のあの夏以来、事情を知らない人からこの質問を受けるたび、心がぐいと揺さぶられてしまう。
「それはかわいいでしょう」
「ええ、まあ」
「私はとうとう子供を作らず、勝手気ままに、この年まできてしまったでしょう。だからかしらね。子供を生んで育てていると聞くと、もうそれだけで無条件に尊敬してしまうの。だって、人の親になるというのは大変なことだもの。重大な責任を伴うわけでしょう。私はその責任から逃げてきた人間。自分が親になった経験がないものだから、こんなおばあちゃんになっても、いつまでも親を許すことができないでいるおばか者ね。それに比べたら、あなたは本当にえらいわ。どうぞ、お坊ちゃんをかわいがってあげてね」
いや、違う。恭子は心の中で叫んだ。私はえらくなんかない。この人のように、「子供を持たない」という賢明な選択ができなかっただけの愚かな女だ。子供を持てば、誰でも彼でも自動的に親になれるわけではない。このことに、子供を生むまで気付きもしなかった。世の中には、決して親になってはいけない人間がいる。間違いなくそういう種類の人間が存在する。自分がそれに属する人間なのかどうか。それはこれから神様の判決が下るのかもしれない。
「あらあら、どうしたの」
ハツエにタオルを渡されて、恭子は初めて自分が泣いていることに気付いた。思いがけないことだった。大人になってから、いや、もっとずっと前――、物心ついた頃から、他人の前で泣いたことなど一度もなかったのに。卒業式にも結婚式にも、可愛がっていた犬が死んだ時にも、恭子は泣かなかった。周囲の人間が皆涙していても、恭子の頬には、一滴の涙も流れなかった。むろん、恭子が何も感じないわけではない。人並みに感動もするし、悲しいという感情もある。ただ、涙が出てこないのだ。和彦には、「おまえは変わった女だよな。絶対に泣かないもんな」と、呆れたように言われたものだ。そのたびに、自分は特殊な人間なのだと思っていた。泣くこともできない、冷たい人間なのだと。それなのに、今日初めて会った人の前でこんなに簡単に泣いてしまうなんて。一体どうしちゃったのだろう。恭子は、洗剤の香りのするタオルで目を押さえながら、ハツエのような人が母親だったらよかったのに、とまるで子供みたいなことを考えていた。

病院を出ると、朝は曇っていたはずなのに、日差しがずいぶんと強くなっている。
――帽子を持ってくればよかった。
エントランスの前で少し躊躇してから、意を決して、恭子は歩き出した。バス停まで行けば、確かあそこにはベンチと屋根があったはずだ。少しは日をさえぎることができる。
一台のタクシーが病院に入ってきた。それをやり過ごそうとして、体を脇に寄せながら、ふと視線を横に向けた。と、「救急入口」と書かれたプレートの横に、赤いランドセルを背負った少女が、後ろ向きに立っている。恭子は、思わずぎくりとして立ち止まった。真っ黒な長い髪に、ここからではよく見えないが、時代遅れの妙ちきりんな服。もしかして、あの子……? 数日前、恭子にミミズを投げつけてきた、あの子ではないだろうか。でもどうしてこんなところにいるのだろう。恭子は、それを確かめるために、女の子にそろそろと近付いていった。その時だ。恭子がそこにいるのがわかったように、女の子がパッと振り向き、恭子めがけて、手に持っていた小石を思い切り投げつけたのだ。
「何するの!」
恭子はとっさに両腕で顔をかばった。
「やめなさい」
腕といわず、足といわず、小石が次々と飛んでくる。
「やめなさい、って言ってるの」
持っていた石が底をついたのか、ようやく攻撃が収まった。恭子は、すかさずその子に駆け寄った。この前はあまりにも突然だったから何もできなかったけれど、今度はそうはいかない。何が目的か知らないが、捕まえてとっちめてやる。
「どうしてこんなことするの!」
腕を捕まえようとした瞬間、女の子は、素早く身を交わした。
「……殺し」
「えっ?」
「人殺し」
はっきりとそう聞こえた。人殺し。間違いない。この子は恭子に向かって、人殺し、と言ったのだ。恭子が呆然と立ち尽くしている間に、女の子はランドセルを揺らして逃げていってしまった。人殺し。あの子は確かにそう言った。あの子は一体何者なのか――。

その夜、恭子は駿を寝かしつけたあと、しばし放心したように、ソファに座り込んでいた。さっき気づいて慌てて取り込んだ洗濯物が、部屋の隅に山積みになったままだ。いつもは絶対にこんなことはないのだが、今日は昼間のことがどうにも気になって、何も手につかない。人殺し――。なぜあの子は、あんなことを言ったのだろう。それに、今日はっきりわかったことが一つだけある。あの子は恭子のことを知っている! ミミズの時は、あの子のそばを、自分のほうがたまたま通りかかったのだと思っていた。ただ、運の悪い偶然だったのだと。しかし、今日は違う。たまたまなんかじゃない。あの子は、確かにあそこで恭子を待っていた。恭子が病院にいることをなぜ知っていたのかはわからないが、とにかくあの子は、恭子を待ち伏せていた。それは確かだと思う。ひょっとしたら、こちらが覚えていないだけで、以前どこかであの子に会っているのかもしれない。たとえそうだとしても、どうして見ず知らずの子供にあんなひどいことを言われなければならないのか。いくら考えてもわからない。知らない子に、人殺しなどと言われる覚えはないのだ。知らない子に――。突然、恭子の頭の中に、ある考えが浮かんだ。知らない子? 本当に知らない子だろうか。よく考えてみれば、あの子の顔をこちらはまだ見ていないのだ。あの長い髪の毛の下にあるはずの、あの子の顔。もしかしたらあの子は――。恭子はその考えの恐ろしさに、思わずソファから立ち上がった。いや、そんなはずはない。ありえない!
ガチャリ。玄関でドアの開く音がした。和彦が帰ってきたのだ。迎えに出ようとするが、足が床に張り付いたように動かない。そうしている間に、和彦がリビングに入ってきた。
「ただいま」
「お帰りなさい――ちょっと待ってね。すぐに用意するから」
「悪い。今日同僚に誘われて、ちょっと飲んできたんだ。電話できなくてごめん」
「そう」
「お茶漬けでいいや。ある?」
「すぐ作るから」
助かった、と恭子は思った。今夜はろくなものを作っていなかった。しっかり食べると言われたらどうしようかと思っていたのだ。手早く冷凍していた鮭をほぐして、和彦の好きな鮭茶漬けを作る。だが、
「着替えてくる」
そう言って奥の部屋に入ったまま、和彦はなかなか出てこない。仕事でもしているのだろうか。恭子はたまりかねて書斎のドアを開けた。
「何してるの? お茶漬けが冷めちゃう」
和彦はパソコンに向かっていた。覗いたつもりはないが見えてしまった。彼の背中越しに、あの成長した来夏だとかいう、少女の顔が映っている。和彦は恭子に気づくと、慌てて椅子から立ち上がり、画面を隠すようにパソコンの前に立ちはだかった。
「ごめん――」
「やだ。気にしなくていいのに」
その動作が、いたずらを見つかった時の駿にそっくりで、恭子は思わず苦笑した。
「ねえ、和彦。今、ちょっといい?」
「なに」
「来夏のことだけど、あなたはどう思ってる?」
「何だよ。いきなり」
「生きていると思う?」
「はっ? 何言ってんだよ。当たり前だろ」
和彦が少し怒ったように言う。
「本音を聞きたいの」
え、というふうに和彦が恭子を見た。
「信じているとか、そうであってほしいという希望じゃなくて、本音を聞きたいのよ。本当のところ、どう思っているのか」
少し間があった。
「あれからもう七年になるんだよな」
「そうよ。もう七年」
「おまえはどうなんだよ」
和彦は、パソコンの前に座り直した。
「俺のほうこそ、おまえにずっと聞きたいと思ってたよ。なあ、どう思ってるんだ?」
「私は……わからない。正直に言えば、もう無理かもしれないと思ったこともあるけど、でもわからないの。実際はどうなのかしら。本当にわからない」
眉間にしわを寄せて「わからない」を連発する妻を見ながら、和彦は、なぜ今夜、恭子が突然こんな話をする気になったのかを考えていた。何かきっかけになるようなことでもあったのか。この七年間、ただの一度も、恭子のほうから来夏の話をしてきたことなどなかったのに。来夏のことよりも、和彦にはそっちのほうがよっぽどわからない。まあ、理由は何であれ、受けて立つのはやぶさかではないが。
「本音、と言われると困るけどさ。俺はやっぱり信じてるよ。来夏はどこかで必ず生きている。そう思わなきゃ、やってられないじゃないか」
後半部分が、和彦の本音といえば本音だった。
「でもね。私いろいろと考えたんだけど、もしそうなら、今の今まで何も連絡がないっていうのはおかしいんじゃない? 誰かが来夏を保護してくれているとしたら、私たちにそれを知らせてくれればいいことでしょう」
「いや、だから子供のいない夫婦なんかが、こっそり自分の子供として育ててくれているとかさ」
「意図的に連絡をしてこないということね」
「まあ、そういっちゃうと聞こえは悪いけどな。それか、俺たちが来夏を探していることそのものを知らないとか」
「それはないでしょう。あれだけマスコミで取り上げられたのよ。テレビの取材だってずいぶん受けたし」
「いや、明らかな誘拐事件とかならともかく、来夏の場合はなあ。俺たちが思うほど、来夏のことを知っている人は多くはないと思うよ。現に最近じゃ……」
和彦は、語尾を最後まで言わずに、むにゃむにゃとごまかした。確かに、マスコミが来夏の件を「幼女失踪事件」としてこぞって取り上げてくれたのは、最初の数年間だけで、近頃はめっきりそんな機会もなくなっている。定期的に放送される、行方不明者のスペシャル番組などでは、来夏は常連のようになってはいるが、それすらも年々内容が簡素化されつつある。地元ではともかく、全国区で来夏の件が取り上げられることは、ほとんどなくなったといっていい。悲しいことだが、年月と共に事件は風化していくもの――そう認めざるをえない状況だった。
「忘れてしまっている人も多いのかしらね」
「まあな。それに、大多数の人は、最悪のことを考えているだろうしなあ」
そう口にしてから、和彦はすぐに後悔した。恭子が本音を聞かせろ、などとせまるものだから、ついみもふたもないことを言ってしまった。男である自分は、来夏の生存を信じながらも、同時に現実は現実として、きちんと受け止められるバランス感覚を備え持っている。そうでなければ、到底仕事などできはしないのだ。ただ、女は違う。よくも悪くも、自分の意見がこの世界のすべてであるととらえがちだ。その視野の狭さが女というものの魅力でもあり、時に嫌気がさす部分でもある。恭子とて、同じだろう。
「ごめん」
謝りながら、「何てことを言うの」と、恭子が怒り出すのを覚悟して身構えたが、予想に反して何も返ってこない。ただ、じっと何かを考え込んでいる。
「あの子が生きている、と仮定して話すけどいい?」
怒るどころか、かなり冷静ともいえる恭子の話しぶりに、和彦は拍子抜けする思いがした。
「来夏がいなくなったのは、あの子が五才の時。常識で考えても、五才の子が一人で生きてこられるわけはないから、あの子が今生きているとしたら、必ず誰か大人があの子のそばにいる、ということになるわけでしょう。これは大前提よね」
「そうだな」
「なのに、今までに何一つ情報がない。ということは、あの子を保護している人間が、どういう理由かはわからないけれど、その事実を隠しているということ」
「うん」
「もし仮に保護してくれた人が、たまたま事件のことを知らなかったとしても、普通、子供を保護した時点で警察に届けるなり何なりするわよね」
「そりゃそうだな」
「こんなに長い間、見ず知らずの子をただ漠然と育てている人がいるとは思えないし。とすると、事件のことを知っているか知らないかは別にして、何か目的があって来夏のことを隠している、ということになるんじゃない」
「まあ、そういうことだな」
和彦は椅子に深くかけ直すと、煙草に火をつけた。またずいぶんと話が長くなりそうだ。しかしこいつは――恭子は、何だってこんなに冷静なんだ。いや、冷静すぎる。これではまるで、夫婦の会話というより刑事同士みたいではないか。
「その目的って何なのかしら。やっぱり子供がほしくてもできないような夫婦が、わが子として育ててくれているとか」
「あまり考えたくはないけど、監禁されているとか、そういうセンもあるだろうな」
知らず知らずのうちにこっちまで、親であることを飛び越えて、事件を分析する刑事のような気分になってくる。
「あの子自身は、自分が誰なのか、ちゃんとわかっていると思う?」
「いなくなったときが五才だろ。どうかな。普通はもう認識できる年頃だけどな。ただ何かショックなことがあって記憶がないかもしれないし、微妙なところだな」
「学校には行っているかしら」
「学校かあ。監禁されていれば、まず無理だろうけど、そうじゃなければ、普通に行かせてもらっているんじゃないか」
「そしたら、周りが気づくんじゃない」
「いや、どうかな。ほとんどのやつが、そう意識しては見ないだろうからな。意外とわからないもんだと思うぜ。名前だって変えられている可能性もあるし」
思いつくままに答えながら、和彦は不思議な気持ちにとらわれていた。確かに生きているなら、なぜここまで何も情報がないのか。さっきは一人で、今年来夏は小学校六年生になるのだ、などと感慨にふけっていたが、そもそも学校には通っているのか。通っているとすれば、どこに住み、誰の庇護の下で暮らしているのか。ここまで深く掘り下げて考えてみたことはなかった。現実を見ていなかったのは、俺のほうだったのか。
「この近くに住んでいることも可能性としてはあるわよね」
「近くに?」
「わからないけど。あくまで可能性として、よ」
「もしそうなら願ってもないことじゃないか。本当に来夏がこの近くにいるんなら、今すぐ飛んでいきたいよ。でもなんでそんなこと――おまえ、もしかして来夏に似た子でも見たのか」
恭子は黙っている。
「おい、恭子」
「よく考えてみたらそんなはずないのに。ごめんね。お茶漬け作り直すから」
恭子は和彦の言葉をさえぎるように背を向けた。ドアノブに手をかけながら、ふとパソコンに目をやると、薄明かりの中で、画面の中の少女が恭子に笑いかけたような気がした。


――ああ疲れた。
恭子はゆっくりと裸体を湯船に沈めた。夕方、駿と一緒に入浴は済ませたのだが、もう一度一人で入りたかった。このマンションは追い炊き機能がないため、またお湯を入れ替えることになり、大変不経済なのだが、今夜はあまりにも疲労感が強い。駿の面倒を見ながらの慌ただしい入り方では、とても疲れが取れない。病院から帰ってすぐ始まった頭痛は、時間を追うごとに一層ひどくなっている。恭子は濡れた手でこめかみを押さえた。痛い。痛い。ズキンズキンと、血管が規則正しく波打っている。その波が一瞬ふいに引くときがある。それを待っていたようにいつものあの声が響く。
――ママ、どこにいるの? ママ。
そして、それにかぶさるように、
――人殺し。
喉の奥底から無理矢理絞り出したような、とても人間のものとは思えない声。
「やめて!」
恭子は湯船の中で大きくしぶきを上げた。天井から水滴がボタボタと落ち、数時間前に洗ったばかりの髪を容赦なく湿らせる。あの子は一体だれなのだろう。痛み続ける頭の隅で、恭子は改めてそれを思った。あの子は絶対にこっちのことを知っている。今日だって、小学生ならまだ学校にいるはずの時間帯に、わざわざあそこで私を待っていた。偶然なんかじゃない。確かめなければ。あの子は一体誰なのか。


翌日。恭子は近所の小学校の校門の前に立っていた。午後二時過ぎ。そろそろ児童たちが下校を始める時刻だ。初めてあの子と会ったのは、駿の幼稚園からの帰り道だった。それを考えると、おそらくあの場所からすぐのところにある、この小学校の児童ではないかと見当をつけたのだ。もちろん、ミミズの時が偶然ではなく、予め恭子を待ち伏せしていたのだとすれば、必ずしもこの近辺に住んでいる子だとは限らない。が、いかんせん小学生の行動範囲がそんなに広いとも思えない。もし見当が外れれば、また出直すだけだ。恭子は、鉄製の門越しに、突き当たりに建つ赤茶色の校舎を見据えた。絶対に捕まえてやる。絶対に。
駿はさっき、いつもより早めにお迎えに行き、明美のところに預けてきた。連れてこようかとも思ったのだが、もしあの子に会えたら、場合によっては、先生や保護者とも話をしなければいけない事態になるかもしれない。そんな場面に駿を立ち合わせるわけにはいかない、と思い直したのだ。
つい十五分ほど前、恭子は少々迷った末、明美の家のインターフォンを押した。
「駿ちゃん? もちろんいいわよぉ」
「突然ごめんなさいね。なるべく早く帰るから」
「あら気にしないでいいのよ。うちは三人も四人も同じなんだから」
「すみません」
「いいんだってば。そんなに気を使わなくても。でもどうかしたの? 何か急用?」
そらきた。恭子は前もって用意しておいた言葉を、口の端に上げた。
「入院している母の容態が悪化して、付き添いに行かないといけなくなったの」
母親のことをこんな形で言い訳に使うのは本意ではないが、この際仕方がない。まさか他人に子供を預かってもらうのに、「ちょっと用事が」だけですむはずがないことくらいは知っている。子供を預かってもらうことと引き換えに、相手の好奇心を正確に満たしてあげなければ。これは主婦同士の暗黙のルールなのだ。
「それは大変じゃない。駿ちゃんはうちでしっかり預かるから心配しないで。ちゃんとお母さんの看病してきてあげて」
それまでどこか、何かを探るようだった明美の目つきが、一転して輝きを帯びだした。こんな時、間違っても「夫と二人で食事に」とか「好きな映画を観たい」などという理由を出してはいけない。あくまで不幸という名のエッセンスが入った問題でなければならない。こちらの不幸を示せば、相手は同情心から子供を快く預かってくれるものだ。
「早くお母さんのところに行ってあげて。ほんとに大丈夫だから。ほら駿ちゃん、中に入って」
駿は、この家に自分の家にはないゲームソフトがたくさんあることを知っているので、大喜びで家の中に上がりこむ。
「じゃあお願いします」
恭子はもう一度明美に頭を下げてから、その足で小学校に来た。しばらくすると、何人かの子供たちがワイワイ騒ぎながら校舎から出てきた。ランドセルがまだ真新しい。ピカピカの一年生だ。そういえば、あの子は何年生なのだろうか。名札を付けていたような気もするが、見る余裕はなかった。でも、あのあまりきれいではないランドセルと背格好を見ても、この子たちのような低学年ではなさそうだ。高学年だとすると、帰りはまだのはずだ。もう少し待っていれば、いつか出てくるだろう。しかし――、四時。四時半、五時。明らかに大きい子供たちが下校する頃になっても、あの女の子が現れることはなかったのだ。チャイムと共に、「下校時間です。学校に残っている人は帰りましょう」という校内放送が聞こえてくる。まだ校舎に残っているのか。今日はたまたま休みだったのか。そもそも、やはりこの学校の子ではないのだろうか。駿のことも気になり、何度も、もう帰ろうと思うものの、せっかくここまで待ったのだから、という気持ちが邪魔をして、恭子はなかなかそこを去る決心がつかずにいた。


この小学校の職員室は二階にある。その窓は校庭に面しており、廊下を背にして座る教員の席からは、校庭から校門までがまっすぐに見渡せる造りになっていた。正規採用から二年目の教諭、高津康夫はさっきから校門前に立っている女性の存在が気になっていた。初めは、母親が子供を迎えに来たのだろうと思い、さほど気にも留めずにいたが、ほとんどの児童が下校した今も、ああして同じ場所に立っている。明らかに様子が変だ。今も校門を出る子供たちを、一人ずつ物色するかのように眺め回している。一体何をしているのだ。高津は思い切って職員室を飛び出した。
「早く帰れよ。気をつけてな」
まだ教室内に残っている子供たちに声をかけ、階段を駆け降りる。まさかあの女性が子供たちに危害を加えるとは思えないが、このご時勢だ。何があるかわからない。注意するのに越したことはない。子供たちを危険な目にさらすわけにはいかない。それが教師である俺の仕事だ。高津は校庭を突っ切って、その女のところに近付いていった。
「あの、何か御用でしょうか」
門越しに、女の背中に向かって声をかける。
「は?」
恭子は驚いて、若い男性教師を見た。彼がこちらに向かって走ってきたのは視界に入っていた。が、まさか自分に声をかけるために、わざわざ飛び出して来たのだとは、その時まで思いもしなかったのだ。
「いえ、別に――」
「失礼ですが、保護者の方でしょうか」
「違います」
「――」
教師は、顔を赤く力ませて、さっと恭子の全身に視線を走らせた。明らかに表情がこわばっている。そうされてみて、恭子はようやく、自分が不審者だと疑われていることに気が付いた。一気に身体中の力が抜ける。ばかばかしい。私は何も好きでこんなところにいるわけじゃない。こっちは被害者なのに。
「では何か。ご用件なら私が承りますが」
「……」
この使命感に燃えた新米教師に、あの子のことを聞いてみようか――と思ったが、すぐに思い直してやめた。もし、この学校の児童でなかったらまずいし、変なことを言って、ますます疑われても困る。もういい。帰ろう。少し長くここにいすぎたらしい。
「すみません。いいです。失礼します」
「あの――」
教師はまだ何かを言いたそうに目をしばたかせたが、恭子はかまわず、さっさと歩き出した。こちらにも幾分非があったとはいえ、他人からあんな目つきで見られるのは心外だ。そしてそのまま、数メートルほど歩いてから、重要なことに気が付いた。
あの子の顔! ――うかつだった。てっきり顔が髪の毛で覆われた、あの異様なイメージのまま、あの子を捜していたが、よく考えてみれば、四六時中あんな不気味な形相をした子供がいるわけがない。あれはきっと恭子に顔を見られたくなかったのだ。学校では普通にしているのだとしたら、見逃してしまった可能性もある。なにしろ、こっちはあの子の本当の顔を知らないのだ。ああ、なんてうっかりしていたのだろう。あの子にも自分にも、そして見当外れもはなはだしいあの教師にも、だんだん腹がたってくる。
―― !
狭い交差点を過ぎたあたりで、恭子は足を止めた。あの子だ。そこにあの子がいる。横断歩道を挟んだ数メートル先の歩道にこちらを向いて立っている。くすんだ色のトレーナーに、だらりとしたズボン。そして――長い髪の毛で覆われた顔。この子は、普段からあんな不気味な容貌のままなのか? だとしたら、いつこの子は学校を出たのだろう。さっき、校門を通る女子児童は、一人残らずチェックしたはずなのに。こんな変わった外見の子供がいたら、絶対に見逃すはずはない。一体――。
信号が青に変わった瞬間、女の子は急に身体の向きを変えて、反対側に走りだした。
「待って!」
恭子も思わず後を追う。逃がすものか。ここまできて。絶対に逃がさない!
赤いランドセルは、住宅街の中のいくつかの角を曲がったあと、ふいに路地へと入っていった。数分ほど遅れて、恭子も後に続く。だが、恭子がその路地に入った時には、もう女の子の姿は見えなくなっていた。
――どこに行ったのだろう。
砂利が一帯に敷き詰められた、幅の狭いその路地は、進んでいくと、民家の裏側に面した行き止まりになっていた。その片側に古ぼけた家が二軒並んで建っている。このどちらかの家に、あの子が入ったことには間違いない。だがよく見れば、片方はおそらく空き家なのだろう。軒下にびっしりとくもの巣が張られ、窓ガラスは壊れたままで、どう見ても人が住んでいる気配はない。ではもう一つのほうは、と見ると、こちらも同じように大分汚れてはいるが、バケツやほうきなど細々した生活用品が玄関の周囲に散乱し、張り出した窓の向こうには鍋や洗剤なども見える。どうやらこっちの家では、人が生活しているようだ。とすると、ここがあの子の家か。ついにあの子の家を突き止めたのだ。失礼ながら、この家を見ただけで暮らしぶりがわかるというものだ。恭子は、昭和のまま時間が止まってしまったようなその家の前に立ち、周囲を見渡した。煮詰めたような色の外壁。伸び放題にからみついた、名前もわからないような草。表札も呼び鈴もない。しかし、あんなに時間を無駄な費やし、人に不審者扱いされてまで、やっとの思いでここまでたどりついたのだ。このまま黙って帰るわけにはいかない。せめてあの子の保護者に会いたい。いや、会わなければ。自分にはその権利がある。
仕方なく、恭子は玄関の前に立ち、家の中に向かって声をかけた。
「あの、すみません」
返事がない。
「すみません」
今度は少し大きな声をあげてみる。と、突然玄関の引き戸がガラリと開いた。
「誰じゃ」
ものすごい形相をした老婆が、ぬっと顔を出した。幕末時代の薩摩藩士のように逆立った白髪頭。黄色くくすんだ肌に、焦点の合っていない三角眼の目。恭子はそのあまりの凄まじさに、思わず後ずさりした。黒光りした襦袢の裾が、だらしなくはだけている。このまま怪奇小説にでも登場するようないでたちだ。おそらく、あの子のおばあさんなのだろう。
「あの、お宅のお孫さんのことで――」
恭子は恐る恐る、そう切り出した。
「そんなもん、いねえ」
「え、でも、確かにここに小学生の女の子が――」
「うちにはわらすなど、いねえ」
「そんなはずは――」
どこを見ているのかわからない老婆とやり取りしながら、恭子はそっと家の中に目をやった。玄関の先にすぐ畳の部屋があり、奥に布団が敷いてあるのが見える。そして、そのこんもりと丸まった掛け布団が、老婆の肩越しにかすかに動いた。恭子は思わず「あ」と声を上げた。今、確かに動いた。見間違いじゃない。やっぱり誰かいる! 恭子が更に身を乗り出すと、
「誰もいねえ」
老婆は、喉の奥から絞り出すようにそう言い放ち、恭子の目の前で、戸をぴしゃりと閉めた。
「――」
恭子は呆然とその場に立ち尽くした。中からガチャガチャと鍵を掛ける音がする。何であれ、ここまでされては、またあの老婆を呼ぶ気にもなれない。引き返すしかなさそうだ。恭子は釈然としないまま、路地を後にした。あの子は確かにこの路地に入った。あの布団の中に誰かがいたことも間違いない。あの老婆が嘘をついているとすれば、何のために? 単純にとぼけているのか、異常に用心深いのか、あるいは本当に少々ボケているのか。それとも――。自宅の前まで来たところで、恭子は凍りついた。なんと、マンションの入り口に、恭子が追っていたはずのあの子が立っているではないか。壁に寄りかかり、長い髪の毛を前後に揺らしながら、うつむき加減に立っている。一体、いつどこからここに来たのだろう。先回りをしていた? いや、今、恭子が歩いてきたルートが最短距離のはずだ。では、どうやって? いやそれよりも、この子は――この子は、恭子の家の場所を知っている! 恭子は、歩幅をゆるめ、ゆっくりとその子に近付いていった。
「あなた、誰なの」
恭子の問いかけに、女の子は下を向いたまま何も答えない。カラスの羽を集めたような髪の毛の先っぽだけが、恭子をあざ笑うかのように、ゆらゆらと動いている。
「ちゃんと答えなさい。名前を言いなさい」
「……」
「なら、おうちの人に話をさせてもらうわよ」
「……殺し」
「え?」
「人殺し」
「なんですって。もう一度言ってみなさい」
「人殺し」
「あなた、この前も私にそう言ったわね。どうしてそんなこと言うの?」
「人殺し!」
女の子はいきなり声を張り上げた。
「人殺し! 人殺し!」
そしてあろうことか、そのボリュームのまま、連呼を始めたのだ。これでは近所中に聞こえてしまう。
「ちょっと、やめなさい。やめなさいよ!」
たまらず恭子が声を荒げると、女の子はさっと恭子の横をすり抜けようとした。
「待ちなさい!」
だめ、逃がさない。絶対に。恭子はとっさに、逃げていこうとする女の子の腕を捕まえた。何とか抜け出そうともがく彼女の体を、恭子も負けじと押さえつける。恭子も必死だった。なにしろ子供とは思えない、すごい力なのだ。
「顔を見せなさい!」
恭子は女の子の手をしっかりとつかんだまま、岩海苔のように顔の前に垂れ下がった髪の毛を持って引き上げた。
――!
思わず息を飲む。顔の上半分、いやほとんどの皮膚が、赤くひきつれているではないか。ひどいヤケドの痕だ。これは一体……。
「ぎゃあああああ――!」
突然、女の子の絶叫が、辺りに響き渡った。かなり先を歩いている通行人まで、何事かと一斉にこちらを振り返る。これでは、事情の知らない人からは、恭子が子供を虐待しているひどい悪人に見られてしまう。
「ごめんなさい。ごめんなさいね。でもあなたが……」
恭子がたじろいだすきに、女の子は恭子の腕を振り切って、ダーッと走っていってしまった。また逃げられた――。だが、もう追いかける気力はない。恭子はそこに立ったまま、遠去かる後姿をしばらく見送ったあと、隠れるようにマンションの中に入った。ふと気付くと、背中を丸めた自分の姿が管理人室の横にある鏡に映っている。自分の家に帰るのに一体なんてざまだ。これではまるで泥棒ではないか。そう思うと、ひどく情けない気持ちになってくる。それにしても、あれは――、恭子はエレベーターが下りてくるのを待ちながら、先ほど見たばかりの、髪の毛の下に現れたあの子の顔を思い出した。あれは、あの顔は尋常じゃない。もとの顔立ちがわからないほどに変形した、あそこまですさまじいヤケド痕は、今まで見たことがない。だから、いつもああやって顔を隠していたのだろうか。知らなかったとはいえ、無理矢理顔を見たりして、悪いことをした。恭子は素直にそう思った。でも――、あの子はまた、人殺し、と言った。あの子は一体何者なのだ。もう一度、あの家に行ってみれば何かわかるだろうか。
とにかく今日は本当に疲れた。身体が泥のように重く感じる。早く横になりたいが、駿を迎えにいかないといけない。恭子は、今にもぐったりと倒れこみそうになる身体を引きずるようにしてエレベーターに乗った。その一部始終を、上の階のベランダから、明美が好奇心に目を輝かせて見ていたことには、恭子は全く気付かなかった。
明美は興奮した時の癖で、自分の耳たぶをねじるように触りながら、ベランダから身を乗り出すようにして立っていた。子供たちにおやつを出し、洗濯物の乾き具合を見ようと何気なくベランダに出たら、下であの騒ぎだ。人殺し。確かにそう聞いた。どこかの子が、お隣さんに向かってそう叫んでいたのを、この耳ではっきりと聞いた。それから二人がもみ合っていたかと思うと、女の子が急に大声で騒ぎながら逃げて行った。何だか知らないが、あれはただ事じゃない。何かある。何か秘密が――。そう思うだけで、まるで旅行前夜のように気持ちがわくわくしてしまう。
(まず誰にしゃべろうかな)
明美は近所の仲のいい友人たちの顔を思い出し、一人悦に入った。明日のランチの話題はこれで決まりだ。玄関の呼び鈴がなったのは、それから数秒後だった。


頭上で、念のためにと、今朝セットしておいた携帯電話のタイマーが何度も鳴り響く。そのたびに手を伸ばして携帯をつかむが、それを持ったまま、ついまたうとうととしてしまう。わかっている。もう起きないと。起きて幼稚園に駿を迎えに行かなければ。ああ、でも身体がだるい。恭子はベッドの中で大げさに寝返りをうった。ここ数日、体調がおかしい。ひどい頭痛が前よりも頻繁に起こるようになったし、鉛を引きずって歩いているように、常に身体が重い。今朝も、幼稚園から戻ってから横にならずにはいられないほど疲労感が強く、それもほんの数分休むつもりが、そのまま午後まで寝込んでしまったようだ。急に暑くなってきた陽気のせいだろうか。でも以前はこんなことはなかった。やはりあの子のせいだ。あの子が現れてから、すべてがおかしくなっている。だめだ、もうタイムリミットだ。恭子は懇親の力を込めて、ずぶずぶとベッドの海に沈んでいこうとする身体を引き剥がした。
やっとの思いで幼稚園に到着した時には、決められたお迎えの時間を二十分ほど過ぎてしまっていた。小走りで中に入ると、園内にもう子供たちの姿はなく、教諭が一人、靴箱の掃除をしている。先月新しく入ってきたばかりの、岡田あゆみ先生だ。正規の職員ではなく、あくまで補充要員ということで採用になったらしいが、いつ見ても明るくて感じのいい娘だった。何しろいかにも子供が好きそうな、ほんわりとした雰囲気がいい。子供たちは、早速この新顔の先生を「あゆ先生」と呼んで慕っているようだし、恭子もこの元気な若い教諭が結構気に入っていた。
「先生、遅くなってすみません」
声をかけると、あゆ先生がはじけるように背中を伸ばして振り返った。
「あらっ、駿ちゃん、さっきお迎えが来たようでしたけど」
「そうですか」
また明美が連れていったのか。
「確認してみましょうか」
「いえ、いいの。いつものことだから」
「でも……何かあったらすぐ連絡下さいね」
あゆ先生が、不安気に顔をしかめながら言う。
「どうもお世話様でした」
恭子は、先生に軽くおじぎをすると、すぐマンションにとってかえした。
――全く。連れて行くなら事前に電話一本でもくれればいいのに。本当に常識がないんだから、あの人は。
恭子は悶々としながら、明美の家のチャイムを押した。
「は―い」
男のような野太い声に交じって、奥で子供たちの騒ぐ声が聞こえる。きっとあの中に駿もいるのだろう。ドアが開いて、いつものように明美がぬうっと顔を出した。
「あら、水沢さん」
「いつもごめんなさいね。あの、駿は――」
「え? 駿ちゃんいないの?」
明美の、あっけらかんとした物言いに、思わず血の気が引く。
「こちらでまたお世話になったんじゃ……」
「いいええ。今日は私、朝からずっと家にいて、一歩も外に出ていないの」
そんな……。恭子は言葉を失った。じゃあ駿は? 駿はどこに行ったのだ。
「やだやだ。駿ちゃんまでいなくなっちゃったの? 大変じゃない」
黙り込んだ恭子を見て、明美が大声で騒ぎ出した。駿ちゃんまで、というのが引っかかったが、今はそんなことにかまっていられない。さっき先生は、確かに「お迎えが来た」と言った。誰かが駿を連れ出したのだ。一体誰が――。
「とにかく捜しましょうよ。私も一緒に捜すから」
「え、ええ――」
「あ、ご主人にも連絡しといたほうがいいんじゃない」
「そ、そうね」
慌ててバッグをまさぐったが、携帯が見当たらない。どうやら家に置いてきてしまったようだ。
「私のを貸すわ。ほら使って」
「ありがとう」
恭子は明美にせかされるまま、和彦の携帯番号を押した。
「はい。水沢です」
珍しくすぐに和彦が出た。明美の携帯からかけたため、恭子からだとは思わなかったのだろう。よそゆき用の声を出している。
「ああ、パパ。どうしよう。駿が、駿がいないの」
「え、何だって?」
「だから駿が……」
「貸して。私が代わる」
見かねて明美が電話を取り上げ、説明を始めた。
「ご主人、今すぐ帰るって」
「ごめんなさい……」
「何言ってるのよ。お隣同士じゃないの。人数は少しでも多いほうがいいわね。あなた、先に下に下りて。私何人かに声かけてから、すぐに追いかけるから」
明美は、すぐさますごい勢いでメールを打ち始めた。誰を呼ぶつもりなのだろう。そんなに大袈裟にされるのは困る、と一瞬思ったが、いたしかたない。恭子は、今乗ってきたばかりのエレベーターに再度乗り込んだ。外に飛び出し、公園や神社、スーパーの遊び場――、子供がいそうな場所をあちこち探してみる。が、どこにも駿の姿はない。駿、駿、どこにいるの。駿。闇雲に歩き回っている途中で、向こうから走ってくる明美に会った。
「どう?」
恭子は黙って首を振る。
「こっちは私たちにまかせて、あなたは一度家に戻ったほうがいいわ。もしかしたら、今頃駿ちゃん、ひょっこり帰っているかもしれないし」
「そうね……」
「それから、幼稚園には連絡したの?」
「あ――」
そうだった。早く園に知らせなければ。そして、誰が駿を迎えに来たのかを確認するのだ。どうしてすぐに気付かなかったのだろう。
「ほら早く」
「じゃあそうさせてもらいます」
「まかせて」
恭子はそこで明美と別れ、来た道を戻った。明美の言う通り、本当にひょっこり家に帰っていてくれればいいのだけれど。マンションに続く角を曲がったところで、恭子は卒倒しそうなほど驚いた。あの子がいる。あの子が駿を連れて歩いている。二人は手をつないで、ちょうど恭子のマンションに入っていくところだった。あの子が駿を連れ出したのだ! 恭子は全速力で駆け出し、二人の後を追って、マンションに入った。恭子が、ロビーに到着したのと、二人の乗ったエレベーターが出発したのはほとんど同時だった。自宅は七階。エレベーターがまた下りてくるまで、とてもぼんやり待っている余裕はない。恭子は一度外に出て、めったに使うことのない非常階段を駆け上った。息を切らしながら自宅のある階に出る。通路には誰もいない。急いで自宅の前に行き、ドアノブを回すと鍵が開いている。玄関に、駿の靴と並んで見慣れない靴がある。あの子の靴だ。あの子が家の中にいる! サンダルのストラップを外すのももどかしく、恭子は転がるように家の中に入った。
「駿! 駿、どこ?どこにいるの」
奥で駿の声がする。ベランダだ。ベランダに、あの子と駿が並んで立っている。
「何してるの!」
恭子は力任せに、戸を開けながら叫んだ。
「あ、ママ。お帰りなさーい」
駿が振り向いてのんきな声をあげる。その無邪気な顔に、思わず腰が抜けそうになるが、恭子は必死で自分を律した。
「ここで何をしてるの」
「あのね、このお姉ちゃんとシャボン玉してたの。これ、お姉ちゃんがくれたんだよ」
小さな容器に入ったシャボン液を得意気に振って見せる駿の横で、女の子は恭子に背を向けたまま、シャボン玉を空に向けて飛ばし続けている。
「ママに黙って勝手に帰ってきたりしたらだめでしょう。みんな心配するのよ。それから知らないお友達を家にあげるのもだめよ」
「でも、このお姉ちゃんが一緒にママを待ってようって」
「鍵はどうしたの」
「お姉ちゃんが、虫かごのところから出してくれた。ここにあるはずだからって」
前に一度、外出先に鍵を忘れて大変な思いをして以来、予備の鍵を物置に掛けておくようにしていたのだが、それをなぜこの子が知っているのか。恭子は底知れない恐怖感に、体が震え出すのを感じた。恭子と駿の会話は当然聞こえているはずなのだが、女の子は振り向きもせず、他人事のようにシャボン玉を作り続けている。
「駿ちゃん。もういいからお部屋に入っていなさい。ママ、このお姉ちゃんとお話があるから」
「はーい」
駿はシャボン玉の容器を握り閉めたまま、素直に部屋に戻っていく。カーテン越しに、駿がテレビの前に座ったのを見届けてから、
「どういうつもりなの」
恭子はその背中に向けて、ゆっくりとした口調で問いかけた。だが、何も反応がない。
「答えなさい」
女の子が作るシャボン玉が、次々と足元に落ちては消えてゆく。
「あなた、誰なの?」
ストローを持った女の子の手が止まった。
「来夏なの?」
「――」
「来夏なんでしょう」
それはあまりにも突然だった。女の子が、くるりとこっちを向いたかと思うと、いきなり恭子に飛びかかってきたのだ。ふいをつかれて恭子はベランダに転倒し、したたかに後頭部を床に打ち付けた。女の子が、恭子の身体をまたぐようにのしかかってくる。
「殺してやる……」
恭子の耳元で低い声が響く。まるで地の底から湧き上がってくるような。これはもはや、子供の声ではない。
「やめなさい。何をするの」
「殺してやる」
恭子の首に女の子の手がかけられた。そして、その手は恐ろしいほどの力で、恭子の首を締め上げていく。
「やめて……」
恭子も必死に抵抗するが、女の子は全く力を弱めない。
「殺してやる」
「やめ……」
「殺してやる」
「来夏……やめ……な……」
呼吸が苦しい。視界の隅に、ビデオを見ている駿の後ろ姿が映る。ああ、駿、駿!
「殺してやる」
ふと、意識が遠のく。殺される! 誰か……誰か助け……。ドアの開く音が聞こえた。


「おい、恭子。いるのか?」
駆け足のまま部屋に入ると、リビングのソファに駿がちょこんと座ってテレビを見ている。
「なんだ、駿。おまえ、ちゃんといるじゃないか」
和彦は気が抜ける思いがした。駿がいなくなった、とあんなに大騒ぎしていたのは、一体何だったのだ。
「パパ! もう帰ってきたの?」
駿は、思いがけないパパの出現に目を輝かせている。どこといって変わった様子もない。
「駿、ママは?」
「あっち」
テレビの戦闘ヒーローの真似をしながら、駿が窓のほうを指で差す。タッセルの取れたカーテンの裾が、異常なほど激しく風にはためいている。
「ベランダか」


和彦がこっちに来る気配がする。
――助けて!
恭子は必死で叫んだが、首を締め上げられているのだ。声になるはずもない。
「恭子、いるのか?」
和彦の声が近付いた瞬間、恭子の首を押さえていた力が急に解き放たれた。助かった、と思うと同時に鈍い吐き気が襲い、恭子はひどく咳き込んだ。
「恭子?」
和彦はベランダに出ようとした。が、暴れ馬のごとく身体にまとわり付いてくるカーテンが、どうにもうっとうしい。それを留めるため、床に落ちているタッセルを拾おうと腰をかがめた、その時だ。誰かが自分の横をサッとすり抜けていったのがわかった。だが振り向いてそれを確かめるより先に、ベランダに倒れこんでいる恭子の姿が目に飛び込んできた。
「きょ、恭子、どうした! 大丈夫か?」
慌てふためきながら恭子を抱え起こす。
「何かあったのか」
「追いかけて」
「え?」
「今出て行った……あの子、来夏よ」
「何だって?」
「来夏が来たの。来夏が……。早く追いかけて。あの子を……」
和彦はマンションの外に走り出た。首を振って左右を見るが、年寄りが連れ立って散歩しているだけで、どこにも子供の姿はない。追いかけて、といわれてもどっちに行けばいいのか。とりあえず大通りに通じる右に進路をとる。当てなど何もないが、仕方がない。
さっきのあれが来夏だって? 本当に来夏が来たのか? もしそうなら、恭子と来夏の間に何があったというのだ。さっきの恭子の様子――あれは明らかに普通じゃなかった。ベランダに倒れていたのも妙だし、まるで何かに怯えているような……。もし仮に、ずっと行方不明のままだった娘が突然現れたとして、母親があんな態度を取るものだろうか。待ちに待った娘との再会だ。大喜びで迎えるのが普通だろうに。来夏がひどく変わり果てていたのか。いや、それにしてもあんなに怯える必要はないだろう。母親なのだから。一体何があった? そもそも、なぜ来夏が突然現れたのだ。知りたいことが次々と湧いてくるが、今は来夏を捜すのが先決だ。もちろん、恭子の言ったことが本当ならだが。いや、まてよ。そもそもこちらは来夏だという、その女の子の顔を全く見ていないのだ。顔がわからなければ捜しようがないではないか。和彦は観念したように立ち止まった。そして、首にからみつくネクタイを引きちぎるように取り外した。向こうから、小学生の女の子たちがいくつかの集団を作って歩いてくる。いかにもローティーンの女の子らしい、華やかな嬌声を上げながら。あの中に来夏がいるのだろうか。が、いちいち一人一人の顔を覗き込むわけにもいかない。そんなことをしたら、このご時勢だ。変質者に間違われかねないだろう。
――帰ろう。
和彦は何の収穫もないまま、家に戻った。恭子は当然ながらもうすでにベランダにはおらず、いつものようにキッチンで立ち働いていた。部屋中に何かを煮ている匂いが漂っている。駿は、テレビの前から離れ、ブロックを組み立てて遊んでいる。その光景は、どう見ても何ごとも起こらなかったかのようで、和彦は投げかける言葉を失ったまま、そこに立ち尽くすだけだった。


「……ったく、もう」
明美がガチャガチャと音を立てながら洗い物をしている。あんなに乱暴にしたら食器が割れるのではないか。文男は思わず箸を止めて、明美の背中を見た。
「ああむかつく!」
またか。さっきから何度言ったら気が済むのか。文男は、伸ばしかけた首を引っ込め、食事に専念することにした。これ以上、明美の発展性のない愚痴に付き合わされるのはごめんだ。山盛りに盛られた米を口に入れ、咀嚼する。全く噛み応えがない。明美のヤツ、また水加減を適当にしたな。俺は固めの米が好きだと、何度言ったらわかるんだ。だが、もういちいち文句を言う気にもなれない。文男は黙々と食物を口に運んだ。
「ああ、むかつく」
文男が何も反応しないからだろう。明美は更に声を高くして、同じ言葉を繰り返す。文男は仕方なく応じることにした。
「だから、無事見つかったんだからそれでいいじゃないか」
「そりゃそうよ」
明美が、待ってましたというふうに振り返る。
「駿ちゃんに、何もなくてよかったわよ。私だってそう思ってる。でも、それとこれとは別でしょう。私はね。近所の友達にも声がけして、一生懸命捜してあげていたわけ。ほんとに必死だったんだから。それでどうなったかな、と思って電話を入れたらよ。『駿は家にいましたからもう結構です』って。それはないでしょう。非常識にもほどがあるわよ。みんな誰のために、暑い中汗だくになって走り回っていると思ってるの。見つかったら見つかったで、私たちにすぐそのことを知らせに飛んできて、お礼の一つでも言うのが筋じゃない? それをひょうひょうとして、もう結構です、なんて。信じられないったら」
「まあなあ」
「そうでしょ? 私の言うこと間違っていないでしょ」
明美は、小鼻をふくらませた。これは彼女が正論を吐いている時の癖なのだ。明美の言うことも確かにもっともだが、相手の立場に立って考えれば、いなくなったと思った子供が見つかり、ついほっとして、近所の人間のことなど忘れてしまったのだろう。だが、とてもそんなことを言える雰囲気ではない。文男はまた黙り込んだ。
「こっちは、子供が二人ともいなくなったら大変だと思って、本気で捜してあげていたのにさ」
「二人とも、って?」
「だからほら、上のお姉ちゃんよ。七年前に――」
「ああ」
「もう今頃は、小学校の六年生よね。どうなっているのかしらね」
明美は一息ついてから、シンクのほうに向き直り、洗い物の続きを始めた。文男相手に散々言い尽くし、とりあえずすっきりしたのだろう。食器を扱う音も通常に戻ったようだ。――やれやれ。文男はほっとして咀嚼を続けた。そしてふと、近所を走る際、時折目にする、あのポスターを思い出した。おさげ髪の、少し首をかしげた少女の写真。笑顔といえるほどではないが、はにかんだように頬を緩ませている。ポスターの中の少女は、いなくなった当時の幼児のままだが、彼女が生きているとするなら今は六年生か。子供の時間の過ぎる速度は、当然だが大人の比ではない。もし今、成長した少女とどこかですれ違ったとして、たとえ実の親でもすぐに、あれは自分の娘だとわかるものだろうか。「この少女を捜して下さい」そう言われても、これだけ年月がたってしまえば、赤の他人が少女を見つけ出すのは難しいのではないか。文男は更に考える。実際に、わが子が生きているか死んでいるかわからないという状態とは、どういうものなのだろう。親にしてみれば、まさに生殺しというほかはない。そんな状況の中で、一体何を支えに親は生きるのか。絶対に無事でいる。いつか会えるという、かすかな望みか。これはある意味、子供が死んでしまうよりも辛いのではないか。
文男は、再度首をひねって、妻の後ろ姿を目でとらえた。下着からはみ出た肉が、くっきりと三段になっている。我が女房ながら、とても正視できたものではない。だが、こんな女房ではあるが、気はいい女だ。それに何より、少々出来は悪いが健康な子供たちがいる。全員、事故にも遭わず行方不明にもならず、ここまで無事に育っている。家族が誰一人欠けることなく暮らしている。それで十分だ。俺の人生、そう悪くもないじゃないか。文男は妙に満ち足りた気持ちになって、ビールを缶のまま喉に流し入れた。他人の不幸と比べて自分の幸せを実感するなどあまりほめられたことではないが、まあこれが人間の本質というものだろうと、文男はひとりごちた。急におとなしくなったところを見ると、案外明美のほうも同じようなことを考えているのかもしれない。
そういえば――、今日最後に乗せた客。あれは衝撃だった。仕事柄、毎日いろんな人間に出くわすので、少々のことでは別段驚きもしないのだが、あの風貌には、さすがに一瞬ぎょっとしてしまった。顔にあれだけの傷を負ったら男でも辛いだろうに。気の毒なものだ。奇妙なのはそれだけではない。「大高森公園まで」というので、入口で降ろしたのだが、あんな時刻に一体何の用があるのだろう。昼間ならともかく、あの時間、あそこには誰もいなくなるはずだが。まあ、車を降りてからの客の行動など、いちいち気にしていたら身がもたない。いろんな事情があるのだろう。いつもなら、そんな一日にあったあれこれを、明美相手につらつら話すところだが、今日はやめておこう。やっと静かになったのだ。また蒸し返されでもしたらたまらない。文男は、柔らか過ぎる米と一緒に、脳裏に浮かび上がった、妙な客の面影をぐいと飲み込み、それきりすっかり忘れてしまった。


快感を伴う強い波が襲ってくる。何度かやり過ごしてきたがもう限界だ。和彦は、絶頂が近いことを短い言葉で彼女に告げた。
「私も……」
和彦の腕の中にある身体がびくんと波打ち、彼女の口から、今度ははっきりと、頂点に達する意味の言葉が漏れた。和彦は最終ラウンドに向け、動きを加速していく。それと合わせるように、彼女の発する声が大きくなり、だんだんじれたような泣き声へと変わっていく。二人の腰が大きくグラインドする。肌の擦れる音。激しい息遣い。やがて二人を同時に歓喜の大波が襲う。
「――」
和彦は、彼女の中に入ったままの姿勢で、柔らかな身体にもたれかかった。終焉を迎える前とは打って変わって、全身が倦怠感に包まれている。それでも、彼女に全体重をかけないよう、気をつけている自分が何だかおかしい。妻との時は、そんなこと一度足りとも気にしたことはないのに。
「どうだった?」
そう問いかけながら、一方で、これがいい年した男が、行為の後で女に言うセリフだろうか、と呆れている自分がいる。女体を知ったばかりの少年でもあるまいし。俺はそんなに自分に自信がないのか。ただ無粋なことだとわかっていながら、どうしても確認せずにはいられない。何でもいい、彼女の口からはっきりとしたことを聞きたい。手ごたえがほしい。考えてみれば、こんな感情とも久しく無縁だった気がする。
「なあ、どうだった」
「もう。聞かないで。そんなこと」
「ちゃんと教えてよ」
「やだ」
彼女は、和彦の下で身をよじって背中を向けた。他人が聞いたら、あまりのバカらしさに反吐が出そうなやり取りだろう。だが、こういうのも悪くはない。十代の頃に戻ったようで、新鮮ささえ感じる。それにこうして彼女の肌に触れていると、またすぐに欲求を覚えるから不思議だ。ここ数年、一度果ててからまたその気になることなど、全くなくなっていたのに。単に年を取ったせいだと思っていたが、相手が変わるとこうも違ってくるものだとは、自分でも驚きだった。彼女とこうした関係になってから、まだ一ヶ月足らずだが、回を重ねるごとに彼女から恥じらいが消えていくのがわかる。さっきも自らリズミカルに腰を動かしていた。
「自分たちの先生が、こんないやらしいって知ったら、子供たちびっくりするだろうな」
「何変なこと言ってるの」
「だってさ。この同じ身体使って、普段は子供たち相手にお遊戯なんかしてるわけだろ。何かすごいギャップを感じるよ」
「おかしな想像しないで。それも仕事なの」
「仕事かあ」
初めて彼女を見かけた時の、子供と接している姿が印象に残っているせいか、生の女の部分を見せられれれば見せられるほど、たまらない刺激を覚える。二度目に会った時、「飲みに行こう」と誘ったのは、ほんの軽い気持ちからだった。言い訳するつもりはないが、まさかそのあとすぐ深い関係になるとは思ってもみなかった。妻子がいる男と付き合うような子には見えなかったのだが、つくづく女はわからない。
和彦は仰向けになり、煙草に火をつけた。ふと、彼女の手が伸び、和彦の股間をまさぐり出す。それを求めているというより、幼児が玩具をいじっているような触れ方だ。和彦は、しばらくされるがままになっていた。
「ねえ、和彦さん、今日は何か悩み事でもあるの?」
「え、どうして」
「だって」
彼女はいたずらっぽく笑いながら、和彦の下半身を握った手に少しだけ力を入れた。確かに、抱きたい気持ちはあっても、どうもそれが形になってこない。やはり年なのだろうか。
「仕事のこと?」
「いや――」
和彦はできるだけ優しく、そこに置かれたままの彼女の手を取った。
「君はさ、どうして今の仕事を選んだの?」
「どうして、って……うーん」
彼女は上半身を起こし、髪の毛をかき上げた。
「やっぱり子供が好きだから、かな。こんな答え、当たり前すぎてつまらないけど」
「女の人は、みんな子供が好きなのかな」
「それはどうかしら。生涯子供を作らない人もいるし」
「でも、自分の子供はかわいがるのが普通だよな」
「そうとも言えないでしょう。最近は児童虐待も多いし。うちの園にもね、時々アザを作ってくる子がいるの」
「児童虐待ねえ」
あの日、一体何があったのか、恭子はあれきり何も言おうとしない。来夏が本当に現れたのか。そうだとしたら、なぜ恭子はあんなに怯えていたのか。その理由は何か。和彦には何もわからないままだ。もちろん何度も恭子をつかまえ、問い詰めた。あまりの埒のあかなさに、思わず声を荒げたこともある。しかし、そのたびに苛立ちだけがつのった。これまで何度同じ会話を繰り返したかしれない。
「来夏がここに来たのか」
「よくわからないのよ」
「俺に、『来夏を追いかけて』と言ったじゃないか」
「あの時は、ちょっとパニックになっていたものだから」
「なんでパニックになるんだよ。自分の娘だろう」
「驚いたのよ。あんまり突然で」
「じゃあ、おまえがベランダに倒れていたのはなぜなんだ」
「ちょっと転んだだけ」
「何があったのか言えよ。言ってくれ」
「何もわからないし、覚えていないの。本当よ」
「来夏はどこに行ったんだ」
「私が知るはずないでしょう」
あとはもう何を聞いても、わからない、覚えていないの一点張りで、しまいには「あなたまで私を追いつめるの」などとわけのわからないことを言い出して、ヒステリーを起こす始末だ。最近では和彦もあきらめて何も聞かなくなった。同時に、恭子とのまともな会話もなくなった。恭子には――いや、恭子一人のせいにするわけにはいかないだろう。本当は気が付いていた。もうずっと前から。来夏がいなくなってから、いやそれよりも前、あの子が生まれた頃からすでに感じていたのかもしれない。俺たちの間には、俺たちの築いてきた家庭には、何かが欠けている。ある決定的な何かが。
「さっきから何を考えてるの」
彼女がウサギのような目で和彦を見上げている。和彦は煙草をもみ消し、彼女の肩を抱き寄せた。この娘とは、いわゆる不倫という関係になるわけだが、今は彼女とこうしている時が一番安らげる気がする。自分でも青臭いと思うが、それが本心だ。恭子と結婚してから、浮気をしたのはこれが初めて、というわけではない。だが、大抵相手はプロの女だったし、こんな気持ちになったのは、今までにないことだった。彼女は和彦が何も答えないことを別に責めもせず、ただ黙って身体を寄せていた。
彼女の名前は、岡田あゆみといった。もちろん自分の浮気相手が、つい最近、息子の通う幼稚園に転職してきたことなど、和彦の知るところではなかった。和彦に抱かれながら、あゆみの目が憎悪に満ちた光を放ち続けていることも、和彦は知る由もない。
窓を開けると、どこからか子供の騒ぐ声が聞こえてくる。女の子の声だ。女児独特の大人に媚びるような声。ああ、嫌だ。恭子は思わず耳を塞ぎ、窓を閉めた。エアコンのリモコンを取りに行く気にもなれず、そのままソファにうずくまる。たまらなく暑い。暑いが、そんなもの、あのカンにさわる子供の声を聞かされる不快さに比べたら、いかほどのものか。
家事や雑事など、何もする気が起きなくなってから、もうどのくらいたっただろう。少し前までは、何とかご飯だけは炊き、市販の惣菜を並べることぐらいはしていたのだが、最近は米を研ぐ作業さえ億劫になってしまい、食事はほとんど出来合いの弁当で済ませている。初めの頃こそ、またかよ、などと文句を言っていた和彦も、最近ではもう何も言わなくなった。そう、本当に何も――。和彦は何も言わない。あんなに知りたがっていた、来夏のことでさえも。いや、会話どころか恭子と目を合わそうともしない。和彦の視界の中では、まるでこの世に恭子など存在していないかのようだ。
このままではいけない。いいはずがない。でもどうしたらいいのか、何から取り掛かればいいのか、恭子にはもうとうにわからなくなっていた。恭子はソファに置きっ放しの毛布にくるまった。あまりの暑さに頭が朦朧としてくる。一瞬死ぬかもしれないと思う。確か室内でも熱中症になる場合がある、と何かで聞いたことがある。このままこうしていたら死ぬだろうか。いや、死ぬわけにはいかない。駿がいる。でも、こうでもしていないと気が狂いそうなのだ。まだ首すじに痛みが残っている。
ふいに目前にあの子の顔が迫ってきた。まるで捨てられた古い日本人形のように、見苦しく伸び切った髪の毛。その下にあるのは、あの焼けただれた顔。
「来ないで!」
手で追い払っても追い払っても、近付いてくる。
「殺してやる――殺してやる――」
またあの声だ。髪の毛のすき間から異様に赤い唇がのぞいている。その唇が横に引っ張られる。笑っている。
――殺される!
恭子は頭から毛布をかぶった。ひどく暑いはずなのに震えが止まらない。あれは来夏だ。きっとそうだ。間違いない。あの子は、十二年前の夏に自分が生んだ娘、来夏だ。しかし、このことは和彦には言えない。絶対に言えない。言えば、和彦は「どうしてあの子が恭子を殺しにくるのか」と聞くだろう。でも私にはわかる。あの子が、母親である自分のことを、そう思っていてもおかしくはないのだ。なぜなら、私はどうしてもあの子のことは愛せなかった。ただの一度たりとも愛したことなどなかった。恭子は自ら作った闇の中に身を隠したまま、十二年前の夏の記録を辿り始めた。
暑い、暑い夏。夏の盛りの日に、あの子は生まれてきた。あの時の気持ちをどのような言葉で表現したらより的確になるのか、恭子には今もってわからない。想像を遥かに超えた苦痛の末、かたい台の上で、仰臥した恭子の中心から、ぬるっという感触と共に、何かが体外に押し出された。
「女の子ですよ」 
助産婦が恭子の顔を覗き込んで、そう告げた。恭子の顔が歪んだのを見て、まだ年若い助産婦は、当然それが母親になった喜びによるものだと疑いもしなかったのだろう。おめでとうございます。と、微笑みながらつけ加えると、どの患者にもそうするように、処置が済んできれいになった赤ん坊を恭子の近くにそっと置いた。たった今この世に生み落とされたばかりの赤子は、手足をすぼめ、かぼそい泣き声を上げている。恭子は、助産婦に気付かれないよう、その小さな肉体からそっと目をそらした。そして、無機質な天井を見上げながら、助産婦の想像とは裏腹に、喜びなどとは程遠い感情をかみしめていた。女――女の子だった。妊娠がわかった時から、自分のお腹の中にいるのは、男の子だと信じていたのに。男の子がほしかった。いや、それもたぶん正確ではない。女の子はどうしても生みたくなかったのだ。自分の体内から女という生き物が生み出される……それがたまらなく嫌だった。恭子はふいに胃がぐっとせり上ってくるのを感じた。つわりの時期でも、一度も吐いたりなどしなかったのに、産婦となってから、悪心に悩ませられるなんて。
「大丈夫ですか」
ベッドの上で、急に背を上下に揺らし始めた恭子に気付き、助産婦が慌てて駆け寄ってくる。赤ん坊は、そんな母親の気持ちなどおかまいなしに、また短い泣き声を上げた。
すぐに授乳が始まった。だがその三時間毎に行われる授乳が、恭子にはひどく苦痛を強いられる時間となった。母乳は溢れるほど出たが、赤ん坊にお乳を吸わせる、という行為そのものが、どうしてもできなかったのだ。傍らで泣き続ける赤ん坊に根負けして、仕方なく乳首を加えさせる。と、赤ん坊はこれを逃したら最後とばかりに、しゃにむに吸い付いてくる。だが、すぐに形容し難い嫌悪感が身体の奥底から湧き上がってくる。ああ、気持ちが悪い! 我慢できずに、ようやく乳にありつけた赤ん坊を無理矢理自分の胸から引きはがし、ベッドに落とすように寝かせる。当然赤ん坊は、また火がついたように泣き出す。その繰り返しだった。
「だめ。どうしてもできない。できないの!」
授乳のたびに、母乳は出るのに「できない」とヒステリックにわめき散らす新米ママに、他の産婦や看護婦たちは怪訝な目付きを隠そうとはしなかった。自分がどこかおかしいのだろうか。母乳を捨て、哺乳瓶にミルクを作りながら、恭子はひたすら自分を責め続けていた。
授乳よりも悲惨だったのは、オムツの交換だった。赤ん坊の両足を持ち上げると、目の前でぱっくりと開く襞。その奥に続く赤い粘膜。ぷくりとふくらんだ粒。使い込んでいないだけで、そのパーツも構造も大人のものと何ら変わらない。むしろ毛が生えていない分、大人のそれよりずっとリアルな様相で、それは恭子の目の前に現れた。――こんなもの、見たくない。初めてそれを目の当たりにした時、恭子は思わず顔をそむけた。他の人は、一体どんな気持ちでこれを凝視しているのだろう。何とも思わないのだろうか。それとも母親というものは、わが子のこんなところまでも愛しいと思えるものなのか。昔、病院で入院患者の付き添い婦をしていた母親が、よくこぼしていた愚痴を、恭子は赤ん坊のオムツを開けるたびに思い出した。
「女は何だってああ汚いのかねえ。男はおちんちんを拭けばいいだけだから楽だけど、女はおしっこが背中に回るだろ。下痢すればあそこの中に入るしねえ。それからあの臭い。たまらないんだよ。汚いわ、臭いわ、本当に女の下の世話は地獄だよ」
まだ、大人用の紙オムツすらない時代のことだ。女は汚い――。確かに、赤ん坊の柔らかいウンチは、容赦なく襞の奥に入り込む。それを掻き分けて拭くのは、かなり困難な作業だった。これがこんな複雑な構造をしたものでなく、ただの突起物なら、目に見えるところをきれいにすればいいわけだから、どんなにか楽に済むだろう。
「不思議よねえ。自分の子のウンチは全然汚いと感じないんだもの」
そう言いながら、赤ん坊の性器に、舐めてしまうのではと思うくらい顔を近づけてオムツを取り替えている同室の産婦を、恭子は異邦人を見るような思いで見ていたものだ。違う。自分はそうは思えない。見たくないものは見たくないし、汚いものは汚い。オムツを開けるたびに、嫌でも赤ん坊の秘部を直視することになる。薄目を開けながら、適当に処理するのが恭子には精一杯だった。一刻も早くあの子の下の世話から逃れたい、とそれだけを願っていた。
――子育ては地獄だった。そもそもあの子を腕に抱くことが嫌だった。あの子の皮膚に触れると、鳥肌がたった。子供といえど、相手は女ではないか。女の身体に触るなんて、気色悪くてとてもできたものじゃない。それなのに、よその母親が平気で娘を抱っこしたり、頬をすり寄せたり、ましてや、少し大きくなった女の子たちが母親と腕を組んで歩いていたりすることが恭子にはとても信じられなかった。自分が娘を生んでみて、初めて世の中にこんなにベタベタした母娘が多いことに、気付いたのだ。それは、恭子が死んでも入ることのできない世界だった。小児科で、知らないおばさんから、
「女の子はいいわねえ。息子と違っていつまでもお母さんとくっついていられるものね」
と、話しかけられた時には、なぜか怒りさえ沸いてきた。おばさんにだけじゃない。道でベタベタくっついている母娘を見ると、必ず怒りを覚えた。あれは誰に対しての怒りだったのか。母親に愛されている子供に? それとも、何のためらいも葛藤もなく、素直に娘を愛することができる母親にだろうか。そもそも、自分はなぜ、あんなに娘のことが嫌いだったのだろう。また、自分はどうして母親に愛されない娘だったのだろう。ここまでで、恭子の思考はいつもストップしてしまう。その先はいくら考えを巡らせても、今身を潜めている空間のように、深い闇が広がっているだけだった。
外からかすかに子供の泣き声が聞こえてくる。窓を閉め切り、更に毛布をかぶっているこんな状態でも耳に届くのだから、近くにいたらかなりの騒音に違いない。ああ、そうだ。何より嫌でたまらなかったのは、あの子が泣く時だった。あの子が泣くと、とにかく腹が立った。それにどういうわけか、そんな時には決まって、
「うるさい! 泣けばすむと思ってんじゃねえ!」
「ふざけんなよ、ばかやろう!」
「ぶっ殺す」
これまでおよぞ使ったこともない言葉が、口からポンポンと飛び出してくるのには自分でも驚きだった。まるで、自分の中から別人格が現れたのかと、本気で疑ってしまうほどだった。少し大きくなってからは、怒鳴るだけじゃ収まりがつかず、頬をつねることにした。完全にあの子が泣き止むまで、指先に力を込め、つまんだ皮膚を思い切りひねり上げる。そうすると、あの子は一発で静かになったものだ。最初からうるさくしなければ、痛い思いをすることもなかったのに、ばかな娘。
いや、実際は泣いた時だけじゃない。たとえあの子が何もしなくても、あの子がただそこにいるだけで腹が立った。いきなり髪の毛を引っ張って転ばせる、手加減なしに突き飛ばす。蹴る。叩く。いろいろなことをした。その瞬間には、胃もたれが一気に楽になる時のように、胸がすーっとしたものだ。これでもう、やめられるかもしれない。そのたびにそう思った。が、また何日もたたないうちに、つかえがとれたはずの胸に、どろどろとしたものが蓄積されてくる。そしてまた、マグマのようなその感情の矛先が、あの子に向かう。際限なく続くかと思えた、あの、娘を殴り、蹴り、叩いた日々――。そう、授乳やオムツの世話から解放される頃になっても、娘に愛情が湧いてくることはなかった。いや、むしろあの子が立ち、歩き、言葉を話し――、そうやって成長していくほどに、嫌悪の感情は肥大化していったような気がする。
他の母親がよく口にする、「娘にかわいい服を着せて連れ歩くのが楽しみ」などという感情は、恭子の理解の域を超えていた。大体、ぶさいくな子に、何を着せたって似合いはしないのに、そんなことで得意になっている親の気がしれなかった。あの子の顔立ちは、基本的には和彦のほうに似ていたと思う。それは恭子にとっては、ラッキーなことだった。自分と瓜二つの人間がこの世に存在するなど、到底耐えられるはずがない。考えただけで身震いがした。が、思わずぎくりとする瞬間は、何度もあった。ふとあの子が見せる表情――こちらを見上げる、上目遣いの目。眉をしかめる癖。ぼんやりした横顔。あの子の中に、過去の自分がいる。幼すぎて、自分の力では何をどうすることもできなかった、哀れなほど無力な自分。もうとっくに葬り去ったはずの、過去の亡霊がそこにいた。
「気持ち悪い! あっち行って」
そんな時は、いつも我慢できずに、ほとばしる感情のまま、小さな身体を殴り飛ばした。そのおどおどとした目つきが、尚更こちらの神経を苛立たせる。ああ、これだから女の子を生むのは嫌だったんだ。本当に、どうしてこんな子を生んでしまったんだろう。
「ブス、ブス、ブス! このブス女!」
「あんたがこんな顔で生まれてくるからいけないのよ!」
「あんたなんか、大、大、大嫌い!」
娘に向かって、思いつく限りの悪態をつく。罪悪感などは、微塵も感じなかった。だってあの子は、誰がみたって可愛らしさなどとは無縁の子供だったのだから。せめて、モデルみたいな容姿の子が生まれていたら、少しは救われたかもしれないのに。
そのうちあの子は、恭子のそばには、あまり近付かないようになった。恭子のほうから話しかければ答えるし、「おいで」といえば素直に寄っては来るが、絶対に自分から来ようとはしない。そのくせいつも全身で恭子の顔色を伺っている。そんなところもあの子は、嫌になるほど恭子自身の幼い頃にそっくりだった。恭子と違うのは、あの子には、あの子をちゃんと愛している父親がいたことだ。恭子にも父親はいたが、いつも妻の影にひっそりと隠れるようにして生きていた人で、父親として娘を守ってくれるような存在ではなかった。家族を守るという意識も気概も持たず、まるで永遠の少年のごとく、気の向くままに日々を過ごしていた父。そのかげろうのような父親が、肺ガンで亡くなってからもう十年近くになるが、最後まで、自分が人の親であるという自覚などないままに、逝ったのではないかと思う。ただそんな人でも、息子の優作のことだけは可愛がっていた。男の子は、自分の分身だという意識があったのだろうか。あれは、遠い遠い日、まだ優作がよちよち歩きのかわいい盛りの頃だ。カメラいじりを唯一の趣味としていた父親が、庭で優作の写真を撮っていた。それを見て、「私も撮って」恭子が無邪気に言った。すると父親は露骨に顔をしかめた。
「おまえも撮るの? フィルムがもったいないなあ」
あの父親のつぶやきと、半ば意地になり、無理矢理撮ってもらった写真の中の、何かをこらえたような自分の顔を、恭子は今も忘れられない。母親から幾度も聞かされた話によれば、恭子が生まれた時、父親が開口一番口にした言葉は、「何だ女か」だったそうだ。難産の末、出てきたのが女の子で、どれだけがっかりしたか、そして五年後、念願の男の子である優作が誕生して、本当に嬉しかった。誇らしかった――。そんな話を、恭子は母親から繰り返し聞かされて育ってきた。せっかくこの世に生を受けたのに、女であるという理由で親からも歓迎されず、それどころか「何だ女か」否定の言葉で迎えられた自分とは、一体何なのだろう。何のために生きているのだろう。思春期の頃は、そんなことでずいぶん悩みもしたものだが、大人になるにつれ、もうややこしいことを考えるのはやめにした。自分で努力のしようがないことを、くよくよ思い悩むのはうんざりだったのだ。なのに、なのに――。あの子の存在が、何かにつけ、封印したはずの不文律を思い出させる。あの子の身体が小さいほど、はかなげなほど、「自分もこんなに小さかったんだ。こんな小さい身体でいろいろなことを耐えていたのだ」そんな思いが湧いてきて、耐え難い焦燥感にとらわれる。
「あっ、パパだ!」
あの子がそう声を上げると、数秒後には必ず玄関に鍵を差し込む音がしたものだ。通路を歩いてくる和彦の足音まで聞きつけるほど、あの子は和彦の帰りだけを待って暮らしていたのだ。恭子と二人きりの、ピンと糸を張り詰めたような緊張感に包まれた部屋の中で。
「ただいま」
和彦の声がすると、あの子の顔にパッと安堵が広がった。あとはひたすらパパ、パパと和彦にまとわりつく。
「パパ、あのね、パパ。来夏ね」
「よしよし。来夏ちゃん、今日もいい子にしてまちたかあ」
部屋に入るなり、スーツがしわになるのも構わず、和彦があの子を抱き上げる。妻にはおよそ見せたことのない表情。何よりも恭子を刺激したのは、和彦の腕の中で、あの子が恭子に向けた目、だ。
――どう? あんたなんかより、私のほうがずーっとパパに愛されているんだから。
まるでそう言っているようにしか思えない、勝ち誇った目。確かにあの子は、そんな目をして恭子を見た。一層あの子に対して憎しみが募った。やっぱり女は、どんなに小さくても女なのだ。男に媚びる術を生まれながらに知っている。
「来夏はパパの宝物だ」
「パパが来夏を一生守ってやる」
そんな台詞を、和彦が臆面もなく口にするたびに胸がざわついた。
「やっぱり女の子はかわいいなあ」
そんなの嘘だ! と、大声で叫びたかった。だったらなぜ、自分は親からあんな扱いを受けなければいけなかったのか。来夏と同じ女の子だったはずなのに、親からも誰からも、一度だってそんな言葉をかけられたことなどない。
「おまえは女の子なのに目つきは悪いし、色は黒いし、ほんとにみたくなしだね」
「それに比べて優作はかわいい顔して。男と女が逆だったらよかったのに」
「女の子はどんなに大事に育てたって、どうせ嫁に行っちまうんだから。つまらないもんだ。メシを食わせるのももったいない」
どんなに記憶のかけらを探してみても、出てくるのはそんな言葉ばかりだ。女の子がかわいいなんて許せない。許せるはずがない。自分が親からあれほど疎ましがられたのは、女という性別のせいだと思ってきた。それなのに、「女の子はかわいい」なんて、絶対に認めない!
朝からずっと付けっぱなしにしているラジオから、ニュースが流れている。
「一才十ヶ月の娘の顔などを殴り、死亡させたとして、○○県○○署は、同県○○市の無職、今井明子三十五才を、傷害致死容疑で逮捕しました。調べによりますと、今井容疑者は○日午後九時頃、自宅の風呂場で、長女あすかちゃんの手足を紐で縛り、冷水のシャワーをかけた他、殴る蹴るの暴行を繰り返し……」
児童虐待、か。
――いい気味。
恭子は、毛布にくるまったまま、そうつぶやいた。被害者が男児の場合には、加害者に対する激しい怒りで涙さえ出てくるのだが、被害に遭ったのが女児と聞くと、なぜか嬉しくなってしまう。自分でも意地が悪いと思うが、これは昔から変わらない恭子の癖だ。和彦と一緒にニュースを見ていた時にも、「よかった。女の子で」とつい言ってしまい、ぎょっとされたこともあった。あの時は慌ててごまかしたけれど。自分の中に巣食う、こうしたねじくれた思いを和彦には口が裂けても言えなかった。ごくごく普通に育ってきた、和彦のような人間には、どんなに言葉を尽くして訴えたとしても、到底わかってもらえるはずはないのだ。「どんな親でも親は親。親孝行するのは当然」「わが子がかわいくない親などいるはずがない」定石のようにそう考える種類の人間が、一番自分を傷付ける存在であることを、恭子は身をもって知っていた。
この娘は――、来夏は、ただ存在しているというだけで、何の努力もなしに、父親の愛情を手に入れている。自分から時間や労力だけでなく、和彦の愛情までも奪っていこうとしている。こんな子のどこがいいの? 私とこの子のどっちを選ぶの? 和彦があの子を可愛がるたびに、和彦の胸ぐらをつかまえて、そう問い詰めたい衝動にかられた。
――こんな娘、死ねばいい。
いつからかはっきりとそう思っていた。いらない。いらない。女の子なんかいらない! 
だが、駿のことは無条件で「愛しい」と思えた。娘の時には、あんなに苦痛だった授乳が、このうえない至福のときとなり、恭子は初めて母親の幸せというものを実感した。懸命に乳首に吸い付いてくる唇がが、何ともいえず愛おしい。そして、小さな小さな突起物。手のひらで包んでしまいたいほどに愛しかった。――やっぱりあの娘のせいだった。あの子を生んでから、子供を愛することができない自分はおかしいのだろうか、とずっと悩んできたが、駿のことは、こんなに自然に愛情を感じることができる。自分の命に代えても守りたいと思う。きっとあの子が、愛される資格のない子だったのだ。そう思えば、すべてがうまく流れていくように思えた。なのに、まさか七年後の今になって、あの子が現れるなんて。しかもあんな形で。
恭子は暑さに耐え切れなくなり、身体にまとわりついている毛布をはねのけた。いきなり空気にさらされた肌から、汗が一気に噴き出してくる。暑い。暑いが、もしできることなら、この洞窟みたいな部屋に、永遠にこもっていたい。誰にも会いたくないし、誰とも話したくない。愛想笑いも、もうたくさんだ。しかし、現実にそんなことができるはずもない。あと数時間もしたら、いつものように幼稚園に駿を迎えに行き、顔見知りのお母さんたちと適当に世間話をし、買い物にも行かなければいけない。一歩この部屋を出たら、悩みなど何もありはしない、という顔をしていなければならないのだ。恭子は、ギロチン台に連行されるのを待つ犯罪人のような気持ちで、同じ場所にただ座り込んでいた。


家に着いたとたん、駿はいつものようにさっさと制服を脱ぎ捨てると、「誰々くんと遊んでくる」と言って外に飛び出していった。いつものように、気を付けなさいと声を張り上げるのも億劫で、恭子は黙ったまま駿を見送った。幼稚園からどこにも寄らず、まっすぐ帰ってきたというのに、身体はぐったりと疲れている。どうしてこんなに身体が重いのだろう。すぐさまソファに横になりたいが、そうしたらもう二度と立ち上がれそうにない。動けるうちに最低限のことだけはやってしまわなければ。恭子は、気力を総動員し、駿が脱いでいった制服を拾い、ハンガーにかけ、ミッキーマウスの絵柄のついた、幼稚園バッグを開け弁当箱を取り出した。
――あ。
その底に、今日園から渡されたプリントが、無造作に折り畳まれて入っている。
――そうだった。
恭子は、しわの寄ったわら半紙の紙を両手で広げながら、深くため息をついた。「遠足のお知らせ」と打たれたその下に、「場所・大高森レジャー公園」はっきりとそう書いてある。大高森。幼稚園最後の遠足の場所が、よりによって、あそこになるとは。そういえば、さっき帰り際に、あゆみ先生がわざわざ恭子のそばに駆け寄ってきて、こう言った。
「私が、次の遠足は大高森がいいと思いますって、園長に提案したんです。実は、この前の休みの日に、大学時代の友達と、大高森に遊びに行ったんですけど、もうすごく楽しくて、こんなところに子供たちを連れてきたら喜ぶだろうね、って盛り上がっちゃったりして。あ、その友達も幼稚園の先生なんですけどね。ちょっと遠いけど、自然がいっぱいで、空気もきれいだし、きっと子供たちものびのび遊べると思います。お母さんも楽しみにしていて下さいね」
いかにも新任の先生らしく、目を輝かしている彼女を前に、どんな顔をしていいかわからす、曖昧にうなずいて早々に切り上げてきたが、本当に疲れた。彼女が来夏のことを知らないのは仕方がない。だが、いくら若い教諭が何も知らずに提案したといっても、誰か一人くらい、うちに配慮してくれる職員がいてもよさそうなものじゃないか。あまりにも無神経ではないか。和彦に頼んで、園に正式にクレームを入れてもらおうか。と、そこまで考えてから、恭子はすぐに思い直した。冷静に考えてみれば、あの事件のことで特別視されるのが嫌で、あえて駿を今の園に入れたのだった。実際に配慮などされたら、そのほうが余計に不本意に感じるだろう。そもそも、幼稚園で遠足に使える場所などは限られているわけだし、今回場所がたまたまあそこに決まったのも、仕方がないことかもしれない。
恭子はもう一度、プリントに記載された、「大高森レジャー公園」の無機質な文字を見た。
――またあそこに行くのか。
行くしかないだろう。平日だし、和彦が代わりに行ってくれるわけもない。来年、駿が小学校に上がれば、もう親が一緒に遠足についていくこともなくなる。今度で本当に最後だ。恭子は、自分を落ち着かせるためにそう言い聞かせながら、アルミの弁当箱と箸を洗った。水道を止めると、駿の遊ぶ声が、下の公園から聞こえてくる。友達と追いかけっこでもしているのだろう。空気を入れたばかりのボールのように弾んだ声だ。あの子がいてくれるだけでいい。ああして元気でいてくれるだけで。それだけでいいのだ。恭子はかみしめるようにそう強く思った。
リビングの一角に、幼稚園から渡されたプリント類を留めるためのコルクボードが置いてある。通常は、プリントをもらったその日に、すぐにそこに留めてしまうのだが、今回はそうする気がしない。恭子はわら半紙を手の中で小さく畳み直すと、そのままゴミ箱にポイと捨ててしまった。


二週間後。遠足当日の朝。布団から起き出し、少しばかり期待しながらカーテンを開けると、空は水色の絵の具で塗りつぶしたような青空だった。空から振り落とされた光の粒が、窓全体をステージにして踊っている。まるでこの日のために用意されたような晴天だ。
――雨ならよかったのに。
恭子は恨めしい気持ちで、長方形に切り取られた空を見上げた。
――まあそんなに都合のいいようにはいかない、か。
とっくに覚悟は決めたはずなのに、未だにぐずぐずと惑っている自分に苦笑し、恭子は、気合いを入れるため、起きぬけの胃に、ブラックのアイスコーヒーを流し入れた。そしてすぐに、二人分のお弁当作りに取り掛かった。こんなふうに気が晴れない時は、ひたすら身体を動かすのに限るのだ。
バスの中は、これから遠足に向かうという状況特有の、高揚感に満ちていた。園が借りた大型バスは、補助椅子を総動員しなければならないほどの込みようで、あまりの熱気に、目的地に着く前に疲れてしまいそうだ。例年なら、もう少しゆったりと座れたはずなのだが、情報通の母親たちによると、今年は園長の意向で、かなり予算を節減したために、ギリギリの台数しか借りられなかった、ということらしい。車窓の外が、ビルや家々の屋根に代わって、濃い緑色で閉められる割合が多くなる頃には、恭子の身構えた気持ちもだんだんとほどけてきていた。ここにいる誰一人として、来夏のことなど口にしない。恭子に気を使って、というよりも、おそらくこちらが思うほど人は、何年も前にいなくなった子供のことなど気に留めていないのだろう。それも当然だ。みんな自分のことで忙しいのだから。恭子は少しホッとした気持ちになって、背もたれをほんの少しだけ倒し、シートに背中を預けた。
――せっかくだから楽しもう。駿の幼稚園最後の遠足なんだもの。
ようやくそんな気分にもなってきた。
いくつか緩やかなカーブを過ぎ、バスは大高森に到着した。バスを降り、管理塔の建つ中央広場に一度集まって、先生の話を聞いたり写真を撮ったりしたあと、いよいよ今日のメインイベント、親子揃ってのアスレチックとなる。七年前は体調が悪かったため、先生の配慮で参加を免除させてもらったのだが、今日は当然そんなわけにはいかない。
「ママ、遅れちゃだめだよ」
駿が、恭子を見上げて不安気に言う。
「大丈夫よ。駿ちゃんこそ最後まで頑張ってよ」
「当たり前だよ」
恭子は、気合の入った様子を駿に示すため、スニーカーの紐をきつく結び直した。
「じゃあ出発しまーす」
あゆみ先生が先頭に立って、山の中に入っていく。さすが今回の提案者だけあって、先生たちの中でも彼女が一番張り切っているようだ。恭子たち他の親子も、適当に列を作り、ゾロゾロとそのあとに続く。大高森のアスレチックは、山の斜面に沿って、丸太や、ロープの吊り橋などがいくつも設置されていて、大人でも結構ハードなコースとなっている。日頃これといった運動をしていない恭子にとっては、尚更だ。案の定、コースを進むごとに、だんだんと足が重くなってきた。初めのほうこそ、「ママ、先に行かないでね」と言いながら、必死で恭子についてきていた駿だが、コースも半分を過ぎる頃になると、今度は逆に恭子のほうがおいていかれるようになってしまった。
「ママ、早くう」
駿は、自分だけとっととロープを渡り終えると、いかにも待ちきれないといった様子で、地団太を踏んでいる。しまいには、いちいち恭子を待ってから次に進むのが、どうにもじれったくなったのだろう。
「ボクもう先に行くよ」
と言い残し、友達と一緒にさっさと走っていってしまった。情けないが、とてもかなわない。六歳児に負けるほど体力がなくなっていたとは。ああ、あといくつ橋を渡ればいいのだろう。恭子は気が遠くなる思いがした。子供たちや、比較的体力のあるお母さんたちは、先にどんどんと行ってしまい、あとに残ったのは恭子を含め、数人の母親だけとなった。
「すみません。子供たちを追いかけますね。向こうでお待ちしていますから」
最後尾についていた若い教諭が、申し訳なさそうに恭子を追い抜いてゆく。恭子は黙ったまま、頭を下げて彼女を見送った。息が切れて、声を出すのが苦しいのだ。奥に進むにつれ、傾斜がどんどんきつくなっていく。足が痛い。目の前にあるのはまたロープの橋だ。もちろん、ずるをして、横を通り過ぎてしまうこともできるのだが、それも何だか悔しい。仕方がない。もうひと頑張りするか。覚悟を決め、がっちり組まれた綱に右足をかけたちょうどその時。急に背後に気配を感じて、恭子は振り向いた。
――! 
思わず息を飲む。あの子だ! あの子がそこに立っている。いつものように、髪の毛でどっしりと覆われた顔をこちらに向けて、じっとこちらを見ている。
「来夏……」
娘の名前を口の中でつぶやく。
お互いが相手を凝視したまま、どのくらいそうしていただろう。近くの木から、羽音を響かせて鳥が飛び立っていく。それを合図のように、女の子は、さっと身をひるがえし、コースをそれて脇の山林の中に入っていった。
「待ちなさい!」
恭子もロープを下り、慌ててあとを追いかける。とっさに、(勝手に列を離れるのはまずい)という懸念が頭をよぎったが、すぐに思い直す。駿には先生たちがついているし、あとで近道でもして、何気なくみんなの中に戻ればいい。とにかく今は、のんびりアスレチックなどやっている場合じゃない。いや、とてもやっていられない。あの子がどうしてここに? よりによってこの大高森に――。ずっと恭子たちのあとを追いかけてきたというのだろうか。何にせよ、このまま見なかったことにするわけにはいかない。
女の子は山道をどんどんと奥に入っていく。進むほどに、茂みが深くなっていくが、恭子も必死で前を行く影を追いかける。今日こそあの子を捕まえてやる。絶対に! もうあの子の影に怯えて暮らすのはまっぴらだ。だが、ふと、ぬかるんだ土と石に足をとられて、木々の間に見え隠れしていたその子の姿を見失った。どこにいったのだろう。ここまできて――。顔の前に容赦なく広がる枝を掻き分けながら進むと、林はそこで途切れ、眼前に切り立った崖が現れた。ごうごうという滝の流れる音が聞こえる。恭子は、その崖の上に呆然と立ち止まった。来夏はどこだ?
「殺してやる」
ふいにどこかから、いつものあの声がした。反射的に振り向くと、まるで誰かがポンと置いたかのように、そこにあの子が立っていた。
「殺してやる……殺してやる……」
押し殺した声で唸りながら、じりじりとこちらに向かって歩いてくる。
「待って。待ってちょうだい。あなたと話がしたいの」
「殺してやる……」
「ごめんなさい。私が悪かったの。許して、来夏」
恭子は後ずさりを始めた。怒りを含んだような滝の音が、一歩うしろに下がるごとに耳に迫ってくる。
「殺してやるう……」
来夏が近付いてくる。かかとが斜面を削り、バランスが崩れる。
「来夏。やめて」
今にも蹴り落とした石と共に体ごと落ちていきそうになる。もうすでにまっすぐには立っていられない。
「殺してやる!」
だめだ、落ちる……! そう覚悟した瞬間、
「水沢さーん」
今走ってきた山林の奥から、恭子を呼ぶ声が響いた。あれはもしかして――そう、あゆみ先生、あゆ先生の声だ。恭子が急にいなくなったので、捜しにきてくれたのだ。
「こ、ここよ!」
恭子は声のする方角に向かって大きな声を上げた。助かった! ガサガサと木々の擦れる音がして、すぐに木々の間から、あゆみ先生が顔を出した。
「どうしたんですか。水沢さん、こんなところで。捜したんですよ」
「この子……、この子があの時、駿を幼稚園から連れ去ったの!」
恭子は、自分の正面に仁王立ちになったままの女の子を指で指しながら、切れ切れにそう訴えた。
「えっ」
あゆみ先生が、怪訝そうに顔をしかめて、恭子の指の方向を見る。この容貌だ。彼女が驚くのも無理はない。
「とにかくその子を捕まえて。事情はあとで説明するから」
「嫌です」
恭子は一瞬、自分の耳が変になったのかと思った。この滝の音のせいで聞き違えたのだろうか?
「今、何て言ったの?」
「嫌です。私にはできません」
「大丈夫。ただの子供なのよ。とにかくその子が逃げないように――」
「やっぱり七年前、あなたが来夏ちゃんをここから突き落としたんですね」
その時、足に力を入れていなければ、間違いなくここには立っていられなかっただろう。恭子はふらつく身体を必死で立て直した。何だって? 今何て言ったのだ。
「七女の年前、あなたが来夏ちゃんを殺したんですね」
恭子の気持ちを見透かしたように、あゆみ先生は、もう一度はっきりとそう言った。
「あなた、あなた誰なの!」
そして、恭子の問いには答えず、黙ったまま、狼狽する恭子の顔を見る。その目は、獲物を襲う直前の猛獣のように鋭利な輝きを放ち、恭子をとらえて放さないという強い意志に満ちていた。これがいつもの、あの明るく元気なあゆみ先生だろうか。いや、別人だ。ここにいるのはいつもの先生ではない。
「認めるんだね」
突然、どこかから中年の女の声がした。あゆみ先生の声でも、もちろん恭子の声でもない。では誰だ。誰の声だ?
「自分が、子供を殺したと認めるんだね」
恭子はハッとして、目の前にいる女の子を見た。この子だ。間違いない。確かに今、この子がしゃべっていた。でも、この声は? この声は――子供のものではない。 恭子は、背筋にぞくっと寒気の筋が走るのを感じた。
「あなたは、本当に来夏なの?」
恭子は間髪を入れずに続けた。
「教えて。あなたは誰なの?」
「あんたに殺された、吉原恵美子の母親だよ。」
「――」
「忘れたとは言わせないよ。七年前、受け持ちの子が遠足中に行方不明になり、その責任を感じて自殺した、あの吉原恵美子さ」
「どういうこと? だってあなたは、どう見ても――」
「子供にしか見えない、と言いたいんだろう。わかってるさ。ただ残念だけど、私はれっきとした大人なんだよ」
恭子は改めて、目の前にいる相手をしげしげと「眺めた」。どう見ても、身長は百三十センチ程度しかない。いや、ひょっとすると、もっと低いのかもしれない。これが大人? しかも恵美子先生の母親などとは――。
「骨軟骨形成不全症――といっても、そんなの知らないといった顔だね。なら、小人症とでもいえばわかるかい」
小人症……。恭子の頭の中に高校時代のことが甦った。そういえば隣のクラスに、異常に背の低い同級生がいた。背が低いといっても、ただの小柄といったようなレベルではなく、その体つきは誰が見ても異様だったのを覚えている。クラスは離れていたし、特に彼女の身体について、何も聞いてみたことはなかったけれど、あれが小人症というものだったのだろうか。
「生まれつきの障害でね。情けないもんだよ。こんな年になっても、何一つまともにはできやしないんだから。ただ、いくら身体はこんなでも、間違いなく年だけはくっているからねえ」
女は更に続ける。
「最初は心配だったさ。よく見れば、子供じゃないのは一目瞭然だものね。でも顔を隠して、余計なことをしゃべらなきゃ、何とかあんたには、子供に見てもらえるんじゃないかと思ってね。いや、何としても見てもらう必要があったのさ。万一の時のことを考えて、わざと熱湯をかけて顔をつぶした。その時はそこまでするかと自分でもあきれたけど、ほらいつだったか、あんたに髪の毛をつかまれて顔を見られた時があったろう。あのときゃ、ああ、ケロイドにしておいてよかった、とホッとしたもんさ。どうやら、ばれなくてすんだみたいだったしねえ」
女は自分の手で、邪魔くさそうに髪の毛を掻き分け、赤くひきつれた顔をさらけ出した。
「何のために、そんな……」
「娘のためさ」
女は一息おいて、
「恵美子はいい娘だった。本当にいい娘だった」
少ししゃがれ気味の低い声で、ゆっくりと話し出した。
「うちは死んだ亭主も障害者でね。あの子は、恵美子は、ほんの小さい時分から、不自由な身体の両親と、小さい妹、病気の年寄りまで抱えて、家のことや妹の世話、私らの生活の面倒まで、そりゃあよくやってくれた。愚痴一つこぼさず、いつか私が家族みんなでもっと大きい家に住めるようにしてあげるから、って口癖のように言ってね」
そうだ。あの煮しめたような色の家。やはりあれは、この人の家だった。そして、あの老婆が言った通り、あの家には初めから子供などいなかったのだ。
「恵美子は昔から小さい子が好きでね。幼稚園の先生になりたい、っていうのがあの子の夢だった。でもうちじゃあ、娘を上の学校にやる余裕なんかとてもありゃしない。あの子はそれを知っていて、親には一切負担をかけずに、自分の稼ぎだけで学校を出た。いくつもアルバイトを掛け持ちしてね。そうやって人の何倍も苦労して、ようやっとあの子は念願だった幼稚園の先生になったんだ。勤めだしてからは、そりゃあ頑張ってた。一生の仕事にするんだ、って張り切ってねえ」
それが、と女は言葉をつなげた。
「あの事件が起きた。あの子の受け持ちだった水沢来夏という女の子が、遠足の最中にいなくなったあの事件さ。そう、水沢来夏。あんたの娘だよ。あの時の恵美子は、見ているこっちが参ってしまうくらい、ひどい状態だった。自分のせいだ、自分がちゃんと来夏ちゃんを見ていなかったからだ、って、まるでネジが壊れちまったみたいにそればっかり繰り返してね。それがまさかあんなことになるとは――」
「お母さん、もういいわ。あとは私が話す」
お母さんだって? 恭子は驚いて、傍らのあゆみ先生に視線を移した。
「吉原恵美子は私の姉です」
「ちょっと待って。あなたは確か岡田先生と……」
「私は、姉と違って不真面目でしたから。若いときに一度結婚しているんです。十八でした。結婚といってもいたずらに籍だけ入れたような格好で、実態は何もありませんでしたけど。もちろんすぐに籍は戻しましたが、いろいろ思うこともあって、苗字はそのままにしているんです。旧姓は吉原といいます。吉原恵美子は間違いなく、私と血のつながった姉です」
よく頭の中が真っ白になるというが、きっとこういう時のことをいうのだろう。恭子は自分の後ろにあるものが、ほぼ垂直に切り立った崖だとわかっていながら、この状況から少しでも逃れたくて、自ら後退を始めた。
「あのあと姉は、結局責任をおしつけられる形で園を辞めさせられ、以来ずっと家に閉じこもったままでした。あんなに希望に燃えていた姉が、まるで亡霊みたいに一日中ぼんやりしている姿を見るのは、私にも辛いことでした。でも、当時私はまだ高校生でしたから、自分のことに精一杯で、姉のために何もしてあげることができませんでした。そのことは今も後悔しています。一年後、姉は家の裏で首を吊って自殺したんです」
女が聞きたくない、というふうに耳を塞ぐ。
「姉が自殺したあとの母は、とても見ていられませんでした。母は姉を本当に頼りにしていましたから。私は、本当にあの事件が、姉の落ち度によるものだったのなら、人一倍責任感の強い姉のことですから、本人がああいう道を選んだとしても、ある意味仕方のないことかもしれない、と思っていました。でもある疑問が、どうしても消えなかったんです」
疑問って、と恭子が聞き返す間もあけずに、先生は言葉を続ける。
「姉は、私を相手に、家でもよく仕事の話をしていました。幼稚園の先生という仕事は、姉にとってまさに天職だったんだと思います。幼稚園であったことを、あれこれ話している時の姉は、とても楽しそうでしたから。私のほうは、正直そんなに真剣に聞いていたわけではなかったので、ほとんどは忘れてしまいましたが、それでも姉の話の中で、妙に頭に残っていたことがあるんです。水沢来夏ちゃんのことです」
来夏、来夏がどうしたというの。自分ではそう言葉を発したつもりだが、うまく声にならない。恭子は金魚のように、口をパクパクとさせた。
「来夏ちゃんがふとした時に見せるあの寂しそうな顔は尋常じゃない。とても子供の表情とは思えない。もしかしたら来夏ちゃんは、お母さんの愛情が足りていないのではないだろうか、とよく心配していました」
「な、何を根拠にそんな――」
「プロとしての勘が働いたんだと思います。来夏ちゃんの母親は、ちっとも娘をかわいがっているようには見えないとも、姉は言っていました。たとえば、子供が幼稚園から帰ってくれば、普通のお母さんなら、子供に向かって、今日はどうだったの、楽しかった?とか、何やかやとうるさくするものだけど、来夏ちゃんのお母さんだけはそうじゃない。園バスが着くと、子供のことは見向きもしないで、自分だけさっさと行ってしまう。そのあとを来夏ちゃんがトボトボとついていく様子が、とっても寂しそうでかわいそうなのよ、とよく――」
「いい加減なことを言わないで! 何も知らないくせに」
恭子は思わずカッとなり、声を荒げた。だがあゆみ先生は、動じる様子もなく、口元にかすかな笑みさえ浮かべている。
「あの太ったお隣さん、相当なお話好きですね。――明美さん、でしたっけ? 私あのかたと、カルチャーセンターのお料理教室で一緒のクラスなんですよ。え? 偶然かって? それはあなたのご想像にお任せします。ご自由にどうぞ。でも、おもしろい人ですよね。さりげなく来夏ちゃんのことを聞いてみたら、ずいぶんいろいろとお話してくれましたよ。七年前、来夏ちゃんがいなくなったときは、あのかたもかなり協力されたんですってね。妊娠中で身重だったにもかかわらず、一生懸命捜索に参加したって。それが、当の来夏ちゃんのお母さんは全く現場に顔を出さないし、自分であちこち捜し回るでもない。特に悲しんでいるようにも見えないし、一体どういう神経をしているのか不思議でしようがない、ってこぼしてました。もっともあの人は、それ以上のことは何も考えていないようでしたけど」
明美、か。あの人ならきっと、あることないこと話すに違いない。恭子は唇を噛んだ。
「これはおかしい、何かある、と確信しました。自分の子供が急にいなくなったというのに、そんな態度の母親がいるでしょうか。もちろん、あまりのショックで放心状態になっていたために、他人にはそんなふうに見えただけかもしれないとも考えました。とにかく、姉のためにも自分たちで真実を確かめなければと思ったんです」
「真実って何? 何を確かめるというの」
「もしかしたら姉は――母親の子殺しに利用されただけかもしれないって」
重い静けさをかき消すように、鳥たちが鳴き声を上げながら、空を旋回していく。
「かといって、まともに、あなたは子供を殺しましたか、などと聞いたところで、はいとうなずく人間がいるわけもなし、一歩間違えればこっちが捕まってしまう。でもそうかといって、私らの推測だけで警察が動いてくれるはずもない。こうするしか方法がなかったのさ。来夏ちゃんがあのまま成長していたら、今はちょうど私くらいの背丈になっているはずだしね。あんたに気付かれないよう、こっそりあんたの周囲を調べ上げて、今年の夏、ようやくチャンスが巡ってきたというわけさ」
「そう、私のことを、ずっとつけまわしていたのはあなたたちだったの……」
「幸いに、この子も姉と同じ職業についていたからね」
女が、あゆみ先生を顎でしゃくった。
「息子さんのいる幼稚園に就職できたのは、ラッキーでしたけどね」
「じゃあ……駿がいなくなった時は、あなたがこの人に駿を引き渡したわけ」
二人がグルだった。どうりで、どうりであんなことができたわけだ。そうとわかればすべて合点がいく。駿。そうだ、駿……! 恭子は、はっと我に返った。
「駿は? あの子はどこなの?」
「心配しないで下さい。駿くんには何もしません。子供には、罪はないですから」
「私、もう行かなきゃ。そこをどいて」
「大丈夫ですよ。そんなに慌てなくても。今頃はきっと、広場でお友達と一緒に、楽しくお弁当を食べていますから」
「子供を殺したければ、おまえが勝手に一人で殺せばよかったんだ。うちの娘を巻き添えにしたりしないでね」
二人は、左右から、恭子を挟むようにじりじりと歩み寄ってくる。
「何わけのわからないことを言ってるの! とにかく私はこんなところで、いつまでもあなたたちにかまっている暇はありません。そこをどいてちょうだい」
「さっきのあなたの様子を見て、はっきりとわかりました。あなたが来夏ちゃんを殺したんですね」
「いい加減にして。これ以上私に変な言いがかりをつけるなら、園長に全部、訴えますからね」
「なら、これまでのおまえの態度はどう説明するんだい。なぜ、自分の娘に謝る必要がある? あれが久しぶりに会えた我が子に、親がかける言葉かい。私には到底そうは思えないね」
「あなたが、殺してやるだのと、物騒なことを言うからでしょう。それに、そんな外見じゃ誰だってぎょっとするわ」
「いや違うね。あんたは思い当たるふしがあったのさ。我が娘に、殺してやると言われても仕方がないと思える何かがね」
「一体何を根拠に、そんな――」
「姉は、最後まであなたたちに謝りながら死んでいきました。遺書にも、来夏ちゃんごめんね、って何度も――」
「私には、関係ありません」
「そうでしょうか」
なぜかあゆみ先生の頬に、先程よりも深い微笑が浮かんだ。
「あなたのご主人から、最近のあなたの様子を伺いました。ずいぶんと、混乱した生活を送ってらっしゃるようですけど――」
「どういうこと? あなた、うちの夫と会ったことがあるの?」
「ええ、もう何度も。まあ、最初の計画では、一回くらいは寝ることになるかもな、と予想はしていましたけど、まさかこんなに相性がいいとは、誤算でした」
何ということだ。自分だけが何も知らずにいた。自分一人だけが。これまで懸命に積み上げてきたと信じていたものが、砂で造ったお城のように、足元から崩れ落ちていくのを、恭子ははっきりと感じ取っていた。
「私たちは、あなたを許せません」
あゆみ先生の顔が、近付いてくる。
「やめて」
「姉があんなに悩んでいた間も、あなたはのうのうと暮らしていた。母親のくせに、姉一人に責任をおしつけて」
「もうやめて」
「姉のためにも、あなだだけは絶対に許せない」
「こないで。お願い」
両手が前に突き出され、恭子の胸を押した。
「ぎゃああ―― !」
身体がふわりと宙に浮いた瞬間、つんざくような自分の悲鳴が辺りにこだまするのを、恭子はおぼろげに聞いた。恭子の右手に、何かがそこで待っていたかのようにからみついてくる。飾り玉の付いた赤いゴム。これはもしや来夏の――そうだ。あの時来夏は髪を二つに結わえていたはずだ。発見されなかったもう一つのゴム。来夏――。それをしっかりと手に握りしめたまま、恭子の身体は、激しい勢いで旋回しながら、山肌を落下していった。


七年前のあの日。恭子は一人木陰に腰を下ろし、先生と子供たちがアスレチックを終えて帰ってくるのを待っていた。やれやれ。これでやっと一息つける――とバッグから文庫本を取り出したちょうどその時。来夏がひょっこりと戻ってきた。
「どうしたのっ」
娘に対していちいち声を荒げるのは、もういつもの癖になっていた。来夏は黙ったまま、困ったように下半身をもじもじと動かしている。どうやらおしっこがしたくなったのだが、先生に言い出せずに、勝手に戻ってきてしまったらしい。
「全くもう、あんたは。どうしてトイレに行きたいってはっきり言えないの」
恭子は持っていた文庫本で、娘の身体を叩きながら言った。入園してから、来夏はもうすでに三度ほど粗相をしていた。どうも尿意を覚えても、先生にそれをうまく伝えることができずに、ぎりぎりまで我慢してもらしてしまうらしかった。来夏の担任は、「来夏ちゃんがトイレに行きたがっているのを私が気付いてあげられないのがいけないんです。申し訳ありません」などと殊勝なことを言っていたが、恭子にしてみればただのグズとしか思えなかった。トイレに行きたいという基本的なことも主張できないようじゃ、この先どうやって生きていくのだ。ああ、全く手がかかるったらない。恭子は乱暴に来夏の手をつかむと、小さな身体を引きずるようにしてトイレに連れて行った。
「ほら、終わったら早くみんなのところに戻りなさい。先生も心配するでしょう」
「ママも……一緒に……行って」
蚊の鳴くような声で切れ切れに言う。無性に腹が立った。身体がきついのをおしてここまでついてきてやったのに。この子はどこまで私に甘えれば気が済むのだ。恭子は前に立ってずんずん、と歩き出した。五十メートルほど過ぎた時点で振り返ると、来夏がしゃがみこんでいる。
「何してるの! さっさと来なさい」
「来夏、おなかが痛いの」
怒りが頂点に達した。なんて子だ。あくまで私を休ませない気か。
「そんな子はもう知らない!ママはもうさっきのところに帰るから、ここから一人でみんなのところに戻りなさい」
恭子はそのまま、しゃがみこんでいる来夏の横を通り過ぎ、逆方向に歩き出した。来夏があたふたと立ち上がる。
「いやだ、ママ待ってよう」
ほうら、ちゃんと立てるくせに。こういうときの恭子は、自分でも驚くほど冷淡になるのが常だった。恭子は、来夏が自分を追ってきているのを知っていながらわざとコースをそれて、山林の中に入っていった。来夏も慌てて追ってくる。
「ママぁ。ママどこ、ママぁ」
泣きべそをかきながら、必死で自分のことを探し回る娘の様子を見ているうちに、すっと溜飲が下がった。いい気味だ。母親を困らせた罰だ。そうして恭子は、山林の中に来夏を置き去りにしたまま、自分だけ元の場所に帰ってきてしまったのだった。
むろん、何とかしてみんなのところに戻るだろう、と思っていた。いや、正直に言えば、あの時は娘への怒りでいっぱいで、あとのことは何も考えていなかったのかもしれない。しばらくして、担任の先生が、「来夏ちゃんがいないんです」と叫びながら走ってきた時には驚いた。と同時に心底怖くなった。もし、罪に問われたらどうしよう。警察に捕まりでもしたら――だめだ、本当のことなど、とても言い出せない。家族のためにもよけいなことは言わないほうがいい。このことは、自分の胸に封印してしまおう。永久に。そう決めたのだ。恵美子先生だって、何も他人の子供のために、自殺なんかしなくてもよかったのに。そうすれば何もかもがうまくいっていたはずなのに。
どさり、と鈍い音を立てて、恭子の身体がようやく止まった。薄れてゆく意識の中、恭子はかすかに夏の匂いをかいだ。じきに、何事も起こらなかったかのように、周囲は静寂のベールに包まれた。

翌日の早朝、水沢恭子は、大高森レジャー公園の裏手に位置する雑木林の斜面に倒れているところを、捜索隊により、無事救助された。全身打撲と重度の脱水症状で、かなり衰弱していたが、命に別状はなく、すぐに病院に搬送された。岡田あゆみ、二十三歳が勤務する幼稚園の園長が異変に気付き、同教諭に説明を求めたことから、同教諭とその母親の吉原サワ、五十二才が、園児の保護者である水沢恭子を崖の上から突き落としたことが発覚した。二人は傷害の疑いで逮捕。その岡田容疑者らの供述により、水沢恭子が七年前、当時六才の長女、来夏ちゃんを山中に置き去りにしたことが判明。後日、保護責任者遺棄の疑いで逮捕された。この一連の事件を受け、来夏ちゃんの再捜索が行われた。二日後の午後一時四十五分、○○署は、林道から約八メートル下の斜面で、来夏ちゃんの頭部と見られる遺体の一部を発見。遺体は白骨化されており、遺留品や歯の治療痕などから来夏ちゃんであると確認された。来夏ちゃんは、母親を探して歩き回っている最中に、誤って転落したものと見られ―――


駐車場から車を出しながら、和彦はきょろきょろと辺りをうかがっている自分に気付き、思わず苦笑した。もう誰もこちらのことなど気にしちゃいないというのに。習慣というものは恐ろしい。気を取り直してアクセルを踏む。妻の恭子が逮捕されて以来、連日マスコミに追い回されたせいで、行動を起こす際にはつい周りを気にする癖がついてしまった。あれから来夏のことが、ワイドショーなどでこれでもかとばかりに取り上げられ、レポーターとかいう人間がカメラマンを引き連れて、自宅はもちろん和彦の勤務先にまでおしかけてくるような日々が続いていた。なぜこのような事件が起きたのか。母親の抱えていた心の闇とは何か。そういう類の、事件についての考察が一通り済んでしまうと、次には一体どこで誰が調べるものか、恭子の学生時代のことや、結婚生活などがおもしろおかしく垂れ流しに放送される。そして決まって「ひどい事件ですね」「周囲は何も気付かなかったんでしょうか」コメンテーターとかいうわけのわからないやつらが判で押したように同じ言葉を繰り返す。勝手なものだ。こちらのことなど何も知らないはずの他人が、したり顔で勝手なことをしゃべるのだから。
あともうちょっとそんな日々が続いていたら、和彦にも限界がきただろう。それがたまたまといっていいのかどうか、先日、福岡で小学四年生の男児が、妹の友達を暴行したうえ、殺害するという事件が起きた。とたんに今度は、来夏の事件ととってかわったようにその少年のことが報道されるようになり、同時に和彦の周囲からも、潮を引くようにマスコミがいなくなっていった。世間なんてそんなものだ。何か刺激的なことが起これば、たちまち興味はそちらへ移ってしまう。そして所詮は他人事に過ぎない事件など、人々の記憶の彼方へと押しやられ、やがて忘れられていく。当事者たちの想いを置き去りにしたまま、時間だけが容赦なく過ぎていくのだ。
国道はひどい渋滞に入り、車はのろのろとしか動かない。いつのまにか駿は、後部シートで眠ってしまったようだ。――どうりで静かにしていると思った。和彦は手を伸ばして、薄手のブランケットを駿の体にかけてやりながら、また来夏のことを思った。そしていつもそうしているように、心の中で娘に話しかけた。
来夏。ああ、俺のたった一人の娘、来夏。あのうっそうとした、樹海といってもいいほどの林の中で、たった一人で歩き回っている間、どんなに怖かっただろう。大人でも、突然一人にされたら空恐ろしくなるほどの場所だ。その時の来夏のさまを想像するだけで、身が引きちぎられる思いがする。来夏は即死だったのだろうか。せめて苦しまずに逝ってくれていたら、と願うが、今となってはもう確かめる術はない。事件が警察の手により解明されればされるほど、和彦には理解できないことばかりだった。自分の妻が一体どんな人間だったのか。突き詰めて考えれば考えれるほどわからなくなる。無責任だと非難されようがそれが事実なのだ。
虐待は連鎖するらしい。心理学の専門家だとかいう、派手な色のスーツを着た中年の女が、テレビで言っていた。子供を虐待する親の多くは、自身も子供の頃に親から同じ扱いを受けている。おそらく水沢恭子も親から愛情をあまり受けることなく成長したのだろう。自分でもどうにもできない感情の波の中で、ひどく苦しんでいたに違いない。一番近くにいたにもかかわらず、夫は何をしていたのか。何も気付かなかったのか。夫の無関心が妻を追い詰めたのだ、と。確かに俺は、何一つわからなかった。何もわからず、ただ来夏を無性に愛していただけだ。妻も苦しんでいた。確かにそうだろう。だが、だからといってこんなことが起きていいものか。そもそも自分が親からひどい扱いを受けたというのが本当なら、我が子にだけは同じ思いをさせないようにしようと考えるのが普通じゃないのか。
そういう周囲の気持ちが母親を追い詰めるんです。テレビの中の女がそう口を尖らせて言っていた。
そんなこと知るものか、と和彦は思う。たとえ世界中の人から、おまえが悪い、と言われようがわからないものはわからない。わかりたくもない。大体、結婚する時に、相手の女が将来子供を虐待するかどうかなど、わかるはずがないじゃないか。気付かないのが悪いというなら、「私は虐待されて育ちました」と看板でもしょって歩いてくれ、などと半ば本気で思ったりもする。つまるところ、俺は一体どうすればよかったのか。このことに、明確に答えられる人間がいるのだろうか。誰かと結婚するということは、その相手の過去の人生まで引き受けることになるわけだ。それに気付いた代償は、あまりに、あまりに大きい。
今、恭子を憎む気持ちはないと言えば、それはきれいごとになるだろう。自分の中で事件を真正面から受け止め、消化するには到底時間がたりない。
「パパ、もうついたの」
後ろでねぼけ声がする。駿が起き出したようだ。
「もうすぐだよ」
交差点を過ぎると、右手前方にこげ茶色の高い壁が見えてきた。
「パパ、今日はママがお泊りしているおうちに行くんだよね」
「ああ」
「ぼく、早くママに会いたいな」
「すぐに会えるよ」
これから自分たち家族がどうなっていくのか、どこに向かうのかはわからない。先のことは何も考えられない。今はただ、こうして少しづつ時を積み重ねていくしか他に、自分にできることはないような気がしている。
和彦はエアコンを止め、窓を開けた。待っていたかのように涼しげな風が、車内に忍び込んでくる。今年の夏は、本当にいろいろなことがありすぎた。いや、もしかしたら、初めから夏などどこにも来ていなかったのかもしれない。自分たちが夏だと思っていた季節は、ただの幻覚だったのだ。一瞬、風の中に夏の残り香を嗅いだような気がしたが、それもただの錯覚だろうか。
和彦は、そびえ立つ壁に向かって、ゆっくりとハンドルを切った。

フェイクサマ-

フェイクサマ-

一流会社の営業マンである夫と、私立大学の付属幼稚園に通う、かわいい盛りの息子。主婦である水沢恭子は、時折誰かに見張られているような気配と、ひどい頭痛を覚えること以外は、はた目には幸せに見える生活を送っていた。ただ一つ、過去に起きたある事件のことを除いては――。七年前。当時幼稚園児だった水沢家の長女、来夏(らいか)が、遠足に訪れていた山林で行方不明となり、未だ発見されないままの状態が続いていたのだ。恭子の夫である和彦は、親として当然娘の無事を信じていたが、普段娘のことをあまり気にかけている様子ではない妻に対して、ひそかに違和感を覚えていた。実は恭子のほうも、来夏の事件について、夫にも話せないある秘密をもっていた。夫婦は互いに相手の真意を推し量るようにしながら、日々の暮らしを続けていた。娘が無事であれば、小学六年生、十二才に成長しているはずの夏。恭子の身辺に、突然一人の奇妙な女の子が現れる。

  • 小説
  • 中編
  • サスペンス
  • ホラー
  • 成人向け
更新日
登録日
2015-09-28

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