大日本学徒見聞録

 



  某高等学校において古来より伝わりし物語がある。
本書は‘村上英樹なる男が編纂し、
男たちの汗と涙に溢れた不毛な努力の賜物で、
青春時代の結晶とも呼ぶべき存在である。
彼らにとって、なのだが。


 
 9月19日、待ちに待った修学旅行の火蓋が切られた。
我々男子にとっては正しく決戦の時であり、
行き先なんぞ眼中に無く、
ただ女風呂を覗きたい、好きな子と班行動を共にしたい、
とりあえず夜に好きな子を呼び出して告白したい、
といったような青春時代なら誰しも陥りそうな恋の悩みに押しつぶされるのである。
我々もその例外ではなかった。
旅行先なんぞどうでもよいので、この手記ではその部分については省略することにする。
我々男子は昼間は猫の如くおしとやかであり、
そのおしとやかさは乙女にも負けぬほどであった事は書くまでもないが、
本書は記録であるために一応記しておく。
そうして、問題は夜である。
恋に悩む我々男子は、ただ悶々とするのである。
懊悩に耐えねばならぬ。
この静粛な修学旅行の場において醜態を晒してはならぬ、
それは断じて許されぬ行為である。
男たちはまさに野獣同然であった。
夕方の5時を過ぎたあたりから、
男たちの目が炯々としてくるのは火を見るよりも明らかであった。
性欲に駆られて女子生徒の軍団に迂闊に接近する輩は阿呆である。
そのような阿呆の骨頂的行為に身を委ねる男たちを我々は断じて否定してきた。
夕刻は未だそのような行動に出るには早すぎる時刻である。
そうして、我々有能な男子はただただカレーライスを口にするのである。
夜は長い。
しかし、人生は短い。




 学校側も入浴中の異性を覗く不届き者が出ぬよう、
男女の入浴時刻をズラし、
さらに女子風呂前には教員の見張りを付けているのである。
しかし、男子風呂の前に見張りの教員の姿が一人もいないのは何故か。
こうした性差別に我々男子諸君は耐えねばならぬ。
熱湯ギリギリな湯船に浸かり、
火照った顔をしてそのような事を考えていたら更に赤くなり、
噴火寸前まできてしまう。
実際、そこで噴火すれば裸体を晒したまま旅館一周旅行に出て、
最終的には教員部屋に送り込まれる事請け合いである。
幸いにも、今年はそのような阿呆で下劣で羞恥極まりない男子生徒が出る事がなかった。
数年前の修学旅行ではこの病気を煩い、
女風呂の着替え所まで突入した愛すべき阿呆がいたらしい。
女風呂前に見張り要員がいるのは彼のお陰なのか。
逆に男風呂に突入を敢行する女は何故かこの世には存在しない。
しかし、それは考えてみれば合理的な問題なのである。
毛むくじゃらで、尚かつ怪しい突起物が生えてる生命体の裸体を見たい物好きがどこにいるのか。
私のような勤勉な一男子であってもそれを見るのは覚悟がいる。
ましてや、自分の裸体を他者へ掲示するのはもはや自殺行為である。
よって、入浴時間は神聖な時間なのである。
神聖な時間を侵す者は万死に値する。
異論は認めぬ。断固として。




 修学旅行中、最も多くの生徒諸君が不平不満を口にするのは就寝時間についてである。
早い、余りにも早すぎるのである。
就寝時刻9時とは何事か。
9時と言ったら、平均的男子諸君は寝室に籠り性処理行為に耽っている事であろう。
我々の寝室班も同じく不満を垂れる人間で溢れ返った。
隣室からもその声が聞こえてきた。
高校教員たちが我々学生に与える使命は時に至難の技であるが、
こんな時刻に眠れというのは虐待に近い。
眠く無い時刻に眠れと言われてあっさり眠れる奴がいたらこの目で見たいものである。
そんな教員連中への反抗を時には行う必要性があるはずだ。
そして我々男たちは立ち上がったのである。



 9時
部屋の電気を落とし、
一同は暖かい布団の中に身を潜めた。
今はここが我々の城塞である。
そうして参謀本部でもあるのだ。
本題に入る前に寝室班員を紹介する必要がある。
江戸の商人のような名だが日本史が大の苦手な折原勘助、
行動力と初期衝動に満ちあふれた男、江口峻平、
胸と尻と美女に眼がない堀江慶太、
猥談と猥褻書をこの上なく愛する男、中川健二、
女のような長いまつげの持ち主で、時に男に付け狙われる笠井蓮、
特にこれといった特徴がないのが特徴なのかそうでないのか分からぬ男、藤井翔太、
そして私の名前は‘村上 英樹、この部屋の室長である。
我々がこれから何をするのか。
事の発端は一ヶ月前の夏休みの事であった。



 折原勘助は私に一件の案を持ち出してきた。
「女風呂を覗くのは社会的にも法的にもまずいが、
女部屋へ侵入するのはセーフではないか」と。
どう考えてもそれはアウトな行為なのだが、
しかし折原は語った。
「俺たちみたいな17,8の清く正しく生きてきた青年を誰が裁く事ができようか。
否、できぬ。断じてできぬ」と。
あの蒸し暑い真夏の日に、
このような談義をしなかったら修学旅行の夜は単なる猥談大会と化していただろう。
確かに、猥談大会は悪いものではないし、
寧ろ修学旅行のどのプログラムよりも大切で、
修学旅行行動表にも猥談の文字を載せてほしいものであるが、
むさ苦しい男たちだけの猥談はやはり端から見れば見るに耐えないものである。
猥談中に男が男を襲うといったような事例も過去にはあったという。
猥談には危険が伴う。
 そうして我々は決意した。
かの神聖なる女部屋への侵入を敢行する、と。
若気の至りなんぞとは言わせぬ所存である。
男子は永遠に青春街道をひた走るのである。


 そうして今宵、暗い部屋の中でむさい男たち7人が寄せる必要性もない顔を
寄せあって作戦内容の確認を行っていた。
誰が女部屋へ行くのか、
廊下に配備されている見張り教員の位置確認、
連絡手段は文明の利器の携帯である、
室内待機者は心を静めて待つ事、
三十六計逃げるに如かずこそ根本である。
しかし、時には攻撃精神を振りかざし、
敵陣への突入も我々男子には必要である。
その結果として玉砕をしても厭わない精神を持て。
7人の男が互いを励まし合う姿は美しくは無く、
というか作戦内容があまりにもアレなため、
やってる当人たちだけが男気溢れている己に酔いしれていたのみである。
最高潮の馬鹿である。
私の任務は室内待機班の総長として、
書記の任務にあたる。
初陣を飾るのは折原勘助、
この作戦の提案者であるから当然の帰結であろう。
その後は江口峻平、堀江慶太と続き、
最後に中川健二が出撃をする予定である。
笠井と藤井の二名は室内待機班として、
通信係を勤める。
通信係は出撃していった各隊員から携帯端末によって送信された報告を受け、
適切な指示を出す任務に就く。
大変重要な任務である。
決して余り者に適当な仕事を与えた訳ではない。
そこのところは勘違いしてもらっては困るので、
注意してほしい。


 第一陣の出撃予定時刻は10時5分。
それまでの時間に隊員たちの浮つく心を静める必要があった。
そこで我々は、中川健二氏が所持していた猥褻書の前に正座をした。
「しかしながら、なんとも卑猥なものを持ってきましたね」
と折原。
「貴様のような猥褻野郎には言われたくない」
と中川。
五十歩百歩とはこのことであろう。
「俺はてっきりお前は筋金入りの熟女好きかと思っていたよ」
「まあ間違ってはいないだろう、
こいつの趣味は広く深いからな」
「なにを貴様らほざきよって。許さんぞ」
ここで折原氏が一つ抗議の意を表明した。
「第一、何で提案者だというだけで俺が初陣を飾らなければならぬのか。
これについてはいささか疑問である」
「しかし、初陣というのは悪くは無い」
と江口。
「ここは一つ、折原君の気を静める為にもだ。
公平なじゃんけんによって順番を決め直す必要があるな」
私の提案である。
作戦の全てを取りまとめるのが総長の任務である。
というか私は出撃しないので他人事であったのだが。
「じゃんけんぽん!」
厳粛な顔とは対照的な掛け声であったのは言うまでもない。
結果的には折原氏が負けた為、
結局折原氏の抗議は無効となったも同然である。
「むう」
と折原氏は般若の如き形相を膨れっ面な饅頭顔に変えた。
しかし、どこも可愛くないのが摩訶不思議である。
そうこうしているうちに寝室の時計の針は10時を指した。


 
 我ら栄光なる男子、ついに決起す。
就寝時間から1時間が過ぎた10時00分、決戦の火蓋は切って落とされた。
出動隊員らの士気を鼓舞するため、
改めて中川氏所有の猥褻書を前に必勝を固く誓った。
私は折原氏の顔をチラリと覗き込むと、
その顔は興奮と緊張のあまり紅潮していた。
敵陣の守りは堅い事は眼に見えている。
生還もとより期すべからず。
将兵等しく決死奉公の誓いを胸に、
決然として敵陣の真っ只中へ。



第一章
折原 勘助



 折原勘助氏は‘村上室長をはじめとした寝室待機班より送られた必勝の鉢巻きを巻いた。
腕時計の針は10時を少し上回ったところである。
事前に行ったメイクにより、
折原氏は多少は可愛く見えたがこれはあくまで男だらけの部屋だから実現した錯覚である。
桃色のパジャマを着込み、
髪は茶色いウェーブのかかったカツラを着用し、
江口氏が持参した江口母の口紅をべったりと塗り付けた。
ちなみに、折原氏は口紅の出所を詳しくは知らない。
知らない方が幸せなこともあろう。
10時5分、‘村上室長の合図で折原氏は出撃。
未だ見ぬ遥かな桃源郷を目指しての出撃である。



 まず、我らの寝室がある男棟3階廊下が第一鬼門である。
廊下には調査の結果少なくとも2、3人の教員が鎮座している。
ここを突破するのは常人には不可能に近いだろう。
かつて、折原氏は言った。
「俺たち全員で強行突破すればいいじゃないか。
そうじゃないか」
しかし、それに肯定する者はいなかった。
暗闇での複数行動は互いの連帯が難しいのである。
連帯が崩れてしまえば、その時点で敵の思うがままである。
この場合の敵とは無論教員一同を表す単語である。
そこで、室長‘村上は一つの策を練った。
彼らが寝泊まりする308号室の隣室、307号室との連携である。
折原氏は3階男子トイレに籠り、
寝室で一報を待つ通信隊へ報告をした。
(男子トイレにて待機。
廊下に敵影2つ確認。支援を要請す)
寝室班は作戦1号を発令した。
307号室班員から悲鳴があがり、
その悲鳴は男子トイレに立て篭る折原氏の耳にも届いた。
「ゴキブリだー!!」
「助けてくれー!」
「誰かー!!」
「先生ー!!」
正しく、断末魔そのものであった。
室内ではいかなる阿鼻叫喚な光景が繰り広げられているのか。
廊下に待機していた教諭2名が見たものは正しく地獄であった。
ゴキブリじゃ、ゴキブリじゃ、と叫ぶ男たち。
踊り念仏の如し気狂いそのものな動きと形相。
ある者はすでに白目を剥き、
その顔は喜劇役者も真っ青なものであったという。
彼らの迫真の演技に教諭陣が気を取られている隙を見て、
折原氏は3階の廊下を下り、2階へと向かった。
 


 2階には女棟へと続く渡り廊下が架けられていた。
男たちにとってはこれこそが明日に架ける橋であったが、
厳密には橋ではない。
2階のこの渡り廊下は事前の調査では本旅館において、
難攻不落の教諭陣による防御体制が敷かれている地点であるとされていた。
しかし、今は人っ子一人いない。
これはいかなる事か。
喜ぶべき絶好の機会であると喜ぶのが一般的な考えであるが、
ここで折原氏は現状を疑った。
「これは何かの罠ではないのか」
彼一人の頭では結論を出せず、
とりあえず寝室の参謀本部に電報を入れた。
応答は次のようであった。
(必勝を祈願し、全軍突撃せよ)
全軍と言っても単身突入なのであるが。



 ともかくとして、折原氏は渡り廊下を走り抜けようと試みた。
しかし、折原氏の予想通り、それは完全なる罠であった。
前方より3、4名の教師陣が姿を現した。
あっ、と声を出したのは教師陣が先か、折原氏なのか今をもって判然としない。
そんな事はどうでもよい訳で、
とりあえず折原氏は180度身体を反転させ、
逃げの体勢に入った。
三十六計逃げるに如かず。
もときた渡り廊下の無駄に長い道を逆戻りした。
心拍数が上がっていたのは折原氏にもよくわかっていた。
後方では追撃する教諭陣の雄叫びにも似た声が響き渡り、
その顔は鬼の形相であったという。
折原氏は階段まできた。
そこで彼は得意の反復横跳び技術を生かし、
非常口の裏手に身を潜めた。
廊下を上る足音と下る足音が耳に入ってきた。
未だに心拍数は最高潮で高鳴っていた。
折原氏はすくっと立ち上がると、
2階の男子トイレに身を潜めた。
そうしてまたもや寝室へ電報を送りつけた。
(2階男子トイレに潜伏中。
敵、防御の熾烈)
それから一分と経たずうちに応答が入った。
(寝室にお前を捜しに教師たちがやってきた。
隣室にも調査の魔の手が伸びている。
武運を祈るのみである)
その応答を見て折原氏は溜め息を漏らした。
もはや、ここまでである。
還るべき故郷はもはや無いも同然である。
生還もとより期すべからず、とは言ったものの、
いざ生還できない身になってみるとその絶望は計り知れないものであった。
絶望の縁に立たされた男はただ考えた。
進むも地獄、
戻るも地獄。
同じ地獄なら笑って死にませう。
折原氏はトイレの個室でほどけかけた必勝の鉢巻きを結び直し、
その小汚い個室を後にした。
個室を後にする時、
もといた個室の中の壁に落書きがあるのを見つけた。
(進めアホンダラ)
アホンダラは決意した。
その前に一服せねば、とパジャマのポケットからタバコを一本出し、
タバコに火をつけた。
そうして参謀本部へ最後の電文を送信した。
(10時17分 突入)



 折原氏の最期は華々しいものではなかった。
やけのやんぱちで渡り廊下を渡ろうとしている所をまたもや別の教諭陣に見つかった。
混乱した頭で男棟内を逃げ回っており、
その様子は各フロアの男子諸君の眼に焼き付けられた。
まさしく、哀れ。そのものであった。
何でこんなに逃げているんだ、と彼は一人嘆いた。
突入とは名ばかりの単なる逃走劇。
あちこちの部屋の男共からは罵詈雑言の雨あられを一身に受け、
挙げ句の果てには階段で漫画並みな勢いでスッテンコロリンした。
女装がよいカモフラージュになるだろう、という‘村上総長の発案であったが、
全然カモフラージュになっておらず、というか目立ち、
予想以上に騒ぎ立てられてしまった事ばかりが心残りであった。
折原氏の頭の中では過去の記憶が走馬灯の如く駆け抜けた。
横浜駅で見たパンチラ事件の時の純白の布地。
新宿西口にて街頭演説をしていた色白の乙女。
クラス替えで隣になったおかっぱ頭の美少女。
去年まで好きだったあの子の二の腕と太もも。
相変わらず俺は、馬鹿だった。



 第二章 江口 峻平



(応答せよ)
通信隊の笠井と藤井の希望も空しく折原氏は還らなかった。
しかし、誰も涙を流さなかった。
折原氏は聖戦を戦い抜き、そうして力尽きたのだ。
奴は満身創痍になってまでも敵陣めがけて駆け抜けていったのだ、
と都合の良い解釈をして第二陣の江口氏を進発させた。
待機班は江口氏の必勝を願い、
帽振れならぬ下着振れと称して、
入浴前まで丸一日着用していた小汚いトランクスを振った。
ただただ汚い光景に涙を禁じ得ない。
これほどなまでに美しくも悲しい愛情表現があるだろうか。
10時20分のことであった。



 江口氏は隣室307号室の大戦果を目の当たりにした。
隣室の連中が廊下に正座させられていたのである。
7名の勇士たちの顔はどこか満足げであったのは彼の見間違いではあるまい。
廊下には先ほどまでいたはずの教師はいなかった。
彼は廊下を下った。
教師陣がどこへ姿を眩ませていたのかは判然としない。
階段の踊り場へ差し掛かったとき、背後から激しい物音がした。
「貴様っ!!」
江口氏は驚愕した。
どうやらあの教師はトイレに立て篭っていたらしかった。
ここは勝負どころである。
男、江口。いまぞ決戦の時。
17年の歳月でここまで血湧き肉踊ったのは初めての事であり、
後にも先にもこの一回だけであったと考えれば悲しくも美しい。
彼はパジャマのポケットに手を突っ込んだ。
ちなみに彼のパジャマの柄は青い水玉模様である。



 結果は江口氏の圧勝であった。
ポケットにはどこで手に入れたのか、真新しい爆竹が入っていた。
彼はその爆竹を一斉に教師に投げつけると階段を駆け抜けた。
駆け抜けた先には2階渡り廊下の主のような顔をした体育会系教師が竹刀片手に鎮座していた。
どうやら3階の阿呆な連中が旅館内を蔓延っているという連絡が廻っていたようだ、
普段は鬼のごとし体育会系教師だが、今は何故か目が虚ろである。
彼は体育会系教師の左側から廊下を駆け抜けようと見せかけて、
右側からそこを駆け抜けた。
まさに神業である。
いつどこでこのような技を修得したのか、
体育の成績は万年2の江口氏からは考えられない能力であった。
これこそまさしく火事場の馬鹿力精神である。
 


 二階の渡り廊下を抜けると目の前には女性教師陣の防御陣が見えた。
しかし、体育会教師を強行突破した彼にはすでに怖いものはなかった。
女性教師陣が蔓延る廊下を抜け、
彼は女棟の1階か3階へ抜ける階段の目の前まできた。
そこで彼は瞬時に考えた。
学年の可愛い子の顔とその子たちのクラスを頭に一気に張り巡らせたのである。
どのクラスの子にすべきか、
そうして決心した。
俺には3階しかない。
その間約3秒。
使うべき知能を使うべき時に使わず、
使わんでもいい時にその能力を一気に開花した彼は阿呆の骨頂であった。


 各階には部屋が6つから7つあった。
どの階に何組の女子が寝泊まりしている、
という事は調査結果判然としていても、
誰がどの部屋にいつるのかは依然把握していなかった。
この事に関しては今一度反省してもらいたい。
‘村上総長に今一度抗議してでも調査し直すべきだったが時既に遅し。
もはやロシアンルーレットである。
彼は半ば適当に309号室への突入を敢行した。
ガラッと扉が開くと、
中から光輝く無数の眼光が眼に映った。
その顔はどれも大人びて見えた。
というかむしろ大人であった。
「しまった!」
江口氏が180度回転し、
三十六計の体勢になると、彼の目の前に一人の男が眼に入った。
体育教師の手に握られた竹刀は今にも彼に振り下ろされようとしていた。



 第三章 堀江 慶太



 寝室待機の通信隊に緊張が走った。
依然江口氏からの通信が一件も入らぬ中、
遥か遠くの彼方から江口氏と思しき断末魔が聞こえてきた。
通信隊の笠井と藤井をはじめとして、
出撃を目前に控えた堀江と中川はその顔を恐怖に引きつらせた。
江口氏との連絡も取れぬ事によりその安否は不明であったが、
今の悲鳴により、
彼の生存は最早絶望的であった。
そんな絶望的状況の中、
総長兼室長の‘村上英樹は眉一つ動かさなかった。
彼は堀江氏を出撃させる覚悟を固めた。
10時半、堀江氏は寝室の扉を開け放った。
廊下の新鮮な空気が寝室に入り込んできた。
堀江氏の頭には必勝の鉢巻きを固く結んであり、
脇には‘村上総長直筆の作戦計画書を抱えていた。
彼のパジャマは陸上自衛隊のような迷彩柄であった。
その迷彩柄は夜の闇に上手く溶け込んでいるように見えたのは錯覚か。


 307号室前には哀れな顔をした男たちが6人、静かに座っていた。
その顔はなんとも言いがたい、
不満に充ち満ちた顔つきをしており、
堀江氏は見てはならぬものを見た気分で廊下を後にしようとした。
廊下に人影が見える。
あれは廊下見張り番の教員であろうか?
堀江氏の身体に緊張が走った。
「おい、おい」
その男の顔に見覚えがあった。
こいつは一つ下の205号室の者ではないのか。
「なんだおまえ、こんなところに座り込んで」
「しっ、声を抑えろ声を」
「何をしているかと聞いているんだ」
「お前に言う筋合いはない。
そして貴様は何をしている」
「俺も貴様と同意見だな」
「なんだと貴様、この俺に反抗する気か。
叩き切るぞ」
「叩き切る?」
その男は袂から刀を出した。
無論、木刀である。
どうせ一階のお土産コーナーでこしらえてきたに違いない。
「全く、そんな物騒なものを。
第一、サムライなんて今じゃ時代遅れだぜ」
「貴様、侍の精神を汚す気か。
恥を知れ、恥を」
「しかし、お前の顔はちっとも侍らしくない。
どうせ常日頃ジャンクフードを腹一杯食っているんだろう。
たるんだ頬をしやがって。
お前こそ恥を知れ、恥を」
「貴様、俺の真似をするな」
「貴様、俺の真似をするな」
「この野郎、お前の顔だっておかしな顔だ。
タコみたいな顔しやがって」
「なんだ、寿司のネタなら俺はイカが好きだね」
「俺はイクラだ」
「ふ、やっぱり高カロリーなものじゃないか。
この似非サムライのブルジョアめ」
二人は語り合った。
というか罵り合っていたようにも見えるが、この際どうでもよい。
一糸乱れぬ華麗なまでの言論大戦争が繰り広げられた。
「まったくお前という奴は…ん?」
先に敵影を発見したのは堀江氏であった。
俊敏さには他の誰にも引けを取らぬ堀江氏はここでその実力の差をしかと見せつけた。
「先生!こいつ木刀持ってます!木刀ですよ木刀!」
そう言うと堀江氏は疾風の如く廊下を駆け下りた、
というよりかはむしろ飛び降りた。
堀江氏の耳には205号室サムライ男の悲鳴にも聞こえた悲痛な声が聞こえた。



 二階に降り立った堀江氏は一息ついた。
先ほどまで繰り広げられていた息つく間も無いような言葉合戦が一変して、
今はこんなにも静かな廊下が目の前に広がっている。
そして渡り廊下の先には誰もいない。
彼は寝室に電報を送りつけた。
(作戦順調ナリ。
二階渡り廊下ニテ敵影見エズ)
その報告を受けた寝室待機班は‘村上総長の事前調査が成功であった事を知った。
どういう事か。



 話は9時半頃に遡る。
「‘村上よ、いつそんな情報を」
作戦計画書を見つつ目を見開いた堀江氏が聞いた。
驚いていたのも無理は無い、
‘村上総長の調査した結果によれば教諭陣の秘密裏の飲み会の時刻や、
教諭陣の寝泊まりする部屋、
見回りの順路などが書かれていた。
「ちょっと言えない所からだな」
‘村上は怪しく微笑んだ。
実際、彼がどこからそれらの情報を手にしたのかは分からなかった。
しかし、その一つ一つの情報に嘘誤りがありそうな気配は微塵もなかった。
「まあ、いいじゃないか。
ここには俺の努力の結晶があるんだからな」
‘村上の作戦計画書を手にしたのは他でもない堀江氏であった。
‘村上総長は彼に絶大な期待を寄せていた。
余談だが、江口氏が女性教諭の寝泊まりする寝室に誤爆したのは努力すれば防げた問題であるのは言うまでもない。



 今、まさに堀江氏は有頂天気分であった。
この長い渡り廊下に敵はいない。
この作戦計画書によれば教師陣は男棟206号室と女棟306号室で酒を交わしている。
折原氏と江口氏は憎き彼らの酒のつまみにでもなってしまったに違いないが、
今の堀江氏にはそのような危機感は雀の涙ほどにも存在しない。
この渡り廊下を走って渡る必要性はない。
この場で腹筋背筋20回づつやっていても大丈夫な気さえしたが、
結局やらなかった。
やはり万が一の事を考えれば最善策を取らねばならぬ。
今の我らには作戦成功こそが第一なのである。
そして、渡り廊下を渡り終えると桃源郷と呼ぶべき女棟にたどり着いた。
まさしくもぬけの殻であった。
人っ子一人いないとはこのような事なのであるな、
と堀江氏は余裕の笑みをそのやらしい顔に浮かべた。
今の堀江氏にはどの部屋に入るべきか、
選択の時間が許されていた。
江口氏には考えられぬような好待遇であったのは言うまでもない。
その時、堀江氏の耳に入ってきたのは便所の付近から溢れてくる若々しい声と、
水の流れる音。
その音は女子トイレから漏れ出ていた。


 しばし、両者の動きが止まった。
男、堀江慶太。
今もって微動だにせず。
対するは堀江氏と二年間クラスを共にしてきた女子生徒、
その名を今井理沙といった。
堀江氏の後ろには誰もおらず、
対して今井氏の後ろには女子生徒が二人か三人。
堀江氏の情報処理能力はこの時点で完全にヒートアップしており、
人数の把握も最早不可能に近かった。
今井氏は今井氏で理解不能であった。
何故、こんな所に男がいるのか。
しかし、相手はまあそれなりに知らない訳ではない相手である。
でも、そこまで知っている訳でもない。
所詮その程度の間柄であった。
心優しき今井氏は好意的に状況を捉えようとした。
「男子トイレは壊れてるの?」
「無論その通りである」
「でも、女子トイレに入るの恥ずかしくはない?」
「断じて恥ずかしくはない」
「何故、其方はそのような羞恥極まりない行為をやすやすと行おうとするの?」
「もとより猥褻的な考えを膨らまさなければ、
女子トイレに進入するのもやぶさかではない」
今井氏はなるほど、という顔をした。
無論、納得していた訳ではないらしかったが、
ここで何か余計な事を言っては堀江氏の逆鱗に触れてしまう危険性があったため、
今井氏は全てを受け入れる覚悟であった。
堀江氏も同感であった。
彼はやむを得ず嘘をついた己を恥じつつも、
この場で事実を包み隠さず暴露すれば彼女たちから想像を絶する仕打ちを受けるに違いないと考えた。
「理沙」
一人の女子生徒が今井氏を呼んだ。
「なんでこいつ鉢巻きしてんの?」
それに連鎖するかのように、
「あ、こいつ裸足じゃん」
「パジャマの柄すごいね」
堀江氏は周章狼狽した。
堀江氏の頭の中では実現しかけていた桃色な幻想が一瞬にして水泡に帰す有様が眼に見えた。
気づかぬうちに涙があふれていた。
「あれ?堀江くん泣いてる?」
今井氏の優しい問いかけを無視し、
彼はその場を走り去った。



 作戦は大失敗である。
堀江氏は不運な我が身を呪った。
あの場で女子生徒に見られてはどんな作戦も成功しない。
翌朝には女子棟をうろついていた気色の悪い男と噂されるに違いない。
彼は自室へと戻る決意を固めて、
三階へと到達した。
そういえば307号室の連中はもう正座していないのだろうか?
廊下には彼らの姿は無く、
ただ暗い廊下が奥まで続いていた。
308号室の扉を開ける彼の腕には力がこもっていなかった。
みんなにはなんと言われるだろうか。
あらゆる罵詈雑言やら猥褻極まりない言葉が堀江氏の脳裏を反芻した。
彼はゆっくりと扉を開けた。
308号室内は静まり返っていた。
何故か皆、眠りについていたらしい。
どういうことか。
不思議と可憐な匂いもする。
その時、窓辺の布団に寝ていた一人が寝ぼけたような声を出した。
「理沙ちゃんおかえり…」
堀江氏は一瞬にして察した。
やってしまった。
いや、むしろこれは作戦成功なのか?
もはや俺の頭では何も判断できない。
ここを抜け出すしかないのか。
その時、308号室の前で数人の声が聞こえたかと思うと、
扉に手をかけたらしく扉がゆっくりと開いた。


 「理沙、さっき扉開けた?」
「ん?開けてないよ。
あゆ、寝ぼけてたんじゃないの?」
「歩って時々天然なこというからやばいよね」
状況を説明する必要があるだろう。
今、堀江氏は押し入れに閉じこもっている。
閉じこもりたいから入っているのではない、
入らなければならない状況に陥ってしまったのだ。
すべては恐らくあの忌まわしき女子トイレ前から始まった。
あの時、女子生徒らの目に留まってしまった事にショックを受けた堀江氏は自室へと戻る決意をしたが、
どうやら脳内が麻痺しており、女棟と男棟を間違ってしまったらしい。
そうして女棟にいることも忘れて女棟の306号室の扉に手をかけてしまい、
今にいたる。
女部屋へは侵入したものの、
ただ隠れ家にしただけだという己の行為を堀江氏はひどく恥じた。
一度は作戦が順調である、と電文を寝室待機班へと送りつけた堀江氏であったが、
今やどうする事もできない。
できるのは愚かな己を呪うばかりである。
それ以降、堀江氏は寝室で一報を待つ通信隊との交信を絶ち、
結果的には消息不明ということになった。
時期を見計らってこの部屋から脱出しようと模索していたが、
こんな時にこの部屋の連中は呑気に夜更かしトークを始めたではないか。
つくづく不運な己を呪うしかない。

       



 堀江氏が出撃した同じ頃、
この旅館内の各地で同じ志を抱いた勇敢な若武者たちの涙ぐましい戦闘が発生していた。
その発生率は雨後のタケノコ並な繁殖力で、
皆動機は暇を持て余していた、だとか性欲のやり場に困っていただとかそんなところだ。
こいつらも愛すべき阿呆たちであることは言うまでもない。
 彼らは308号室の男たちとは違い、連帯を組まず、
殆どゲリラ戦も同然の戦いを繰り広げていた。
彼らの涙ぐましい努力は、
その多くがこれまた水泡に帰する結果となっていったが、
忘れ去られたような彼らの不毛かつ果てしなく無駄な彼らの努力には
涙を禁じ得ない。



 どうやらゲリラ戦の先駆けとなったのは307号室の連中から出てきたらしい。
ゴキブリデマ騒動を引き起こし、
冷たい廊下で反省をさせられていた彼らの中でたった一人だけ抜け駆けしようとした者がいた。
「おい、お前どこ行くんだ」
「どうせトイレだろ。ほっとけよ」
しかし、彼は中々帰ってこなかった。
307号室の一人が男子トイレを覗きにいくと、
そこはもぬけの殻であった。
「化けられたか!」
一同はびっくり仰天した。
あの野郎、どこへ行きやがった。
しかし、トイレには一通の置き手紙があった。
筆跡鑑定をしなくともこの汚い字は一瞬で彼の者だと分かった。

「阿呆な男子諸君。
我は一人立ち上がる。
隣室のお馬鹿どものお馬鹿パワーに我は奮起させられた。
我もかの美しきサディスティックな乙女たちの巣くう女子棟へと突入するのである。
その結果として我は散華しても悔いはなし。
我についてくる度胸のある猛者はいれば歓迎して受け入れよう。
そして共にあの猥褻ドリームを勝ち取ろうではないか
某氏より」
しかし、立ち上がり彼についていった強者はいなかった。
彼らはまだこの置き手紙阿呆よりはマトモな人材であったらしかった。
少なくともこいつよりは。



 この置き手紙君の最期を記録していた人物がいる。
「女子棟2階廊下で何やら叫ぶ奴がいた。
そのひたすら叫ぶ男は何を言っているのかと思いきや、
ひたすらにゴキブリじゃ、ゴキブリじゃ、
の連呼をしていたのである。
あんまりに声が上ずっていたので何を言っているのか判然としなかったが、
どうやらそういうことらしかった。
なんやあれ、と同室のお友達(Kちゃん)が言った。
扉を開けてみると、
その奇怪な顔をした男が部屋に入ってきて、
バク転じみた何かをした挙げ句、
そそくさと出て行った。
廊下の奥で先生たちにどこかへ連れて行かれる彼を見た後に部屋に残っていたのは、
嵐の前の静けさならぬ、嵐の後の静けさとでも言いたい静寂であった

308号室 恩田歩」



 
 10時40分、男棟2階の205号室では3人の斬り込み決死隊が今まさに出撃しようとしていた。
彼らは名を「新撰組」と申し、
切り込み隊長は当時1回ダブっていた大西という男が務めた。
18歳の大西隊長の学生生活の夢は素敵な乙女たちの柔らかい二つの膨らみをその手で揉みしだく事であったが、未だにその夢は実現されていなかったため、
彼の夢を叶えるべく同室の哀れな男たちが計画してくれたらしい。
一説によればただ単に大西が同室の連中を脅迫して結成したというが、
私個人としてはこちらの説を支援したい。
 兎も角として、新撰組は闇に紛れた真っ黒なパジャマに目出し帽を被り出動した。
新撰組というよりはむしろ忍者集団である。
部屋に残っていた4、5人は彼らの一報を待つ訳でもなく、
ただただ睡眠に耽った。
賢明であろう。
大西隊長と行動を共にした不運な男は二人、
その名を渡辺 健一と刑部 宗平といった。
あまりにもアメリカ人が思い描いたような恥ずかしい忍者的格好に二人は耐えられなかったが、
大西隊長の穏やかではない口調を前にして二人は閉口した。
大西に衣装に関しての提案をしたのは渡辺でも刑部でもなく、
今は眠り耽っている安西という男であった。
二人は安西を蹴り倒したい気持ちで部屋を後にした。
蹴り倒したのかもしれない。



 大西が言った。
「お前、試しに非常口の方見てこい」
お前とは渡辺氏の事であった。
普段はクラスでも副大将のような威圧感を放ってはいたが、
大西の前ではやはり誰でも恐縮してしまう。
ちなみに、総大将とは言うまでもなく大西隊長の事である。
年齢が一つ上だという事実を濫用し、
クラスメイト達をたぶらかしてさえいた。
全く、恐ろしい話である。
渡辺氏は大西隊長から針金を渡され、
もうすでに落涙寸前な形相であった。
可哀想なので、ここからは渡辺氏を渡辺軍曹と呼ばせていただく。
渡辺氏への鎮魂の意味も込めて。
無論、死んではいないのだが。



 針金が意味する事はただ一つ、
非常口の鍵穴を破壊し、外へ出よという作戦であった。
渡辺軍曹はトイレに潜み、
物陰に潜み、時には他の寝室へも身を隠し、
着実に非常口へと近づいていた。
 非常口前には見張りの教師はいなかった。
当然であろう、ここまで来る生徒はいないし、
ここまで来てもすることはない。
愛の睦言を語らうやらしい2人組もいなければ、
愛しの想い人を待つ初々しい乙女もおらず、
ただただ緑色の「非常口」という文字のみ煌煌とその光を湛えていた。
いささか不気味である。
今なら進む事もできれば戻ることもできた筈だが、
渡辺軍曹はただひたすらに前進した。
 針金を使って鍵穴をこじ開けるという考えが妙案だと一人確信していた大西隊長は大バカものであったし、
それに忠実に従った渡辺軍曹もまた大バカ野郎であった。
なんせ、鍵穴針金でこじ開ける戦法はあまりにも時代遅れであった。
太平洋戦争時に火矢を用いるくらいに時代遅れであり、
端から見れば確実に不格好な不審者であろう。
というか端から見られていた。
は!?
と、渡辺軍曹が最期にそう言ったかは知らないが、
ここでは最期の言葉はそれにしておこう。
この日の修学旅行同時多発脱出事変において、
最大級の重刑を食らったのは無論、渡辺軍曹であった。



 大西が言った 
「お前もどっか見てこい」
お前とは刑部氏の事であった。
普段はクラスの副副大将のような威圧感を放っていたが、
大西の前ではやはり誰でも恐縮してしまう。
ちなみに、副大将とは渡辺軍曹のことであり、
総大将とは言うまでもなく大西隊長の事である。
年齢が一つ上だという事実を濫用し、
クラスメイト達をたぶらかしてさえいた。
全く、恐ろしい話である。
刑部氏は大西隊長から木刀を渡された。
もうすでに落涙寸前な形相であった。
可哀想なので、ここからは刑部氏を刑部伍長と呼ばせていただく。
刑部氏への鎮魂の意味も込めて。
無論、死んではいないのだが。



 木刀が意味する事はただ一つ、
旅館内での無意味な遊撃戦を展開せよという作戦であった。
大西隊長の脳みそではそれが無意味だとは思ってはいないだろうが、
これは確実に無意味であり、無謀極まりない作戦であった。
それでも刑部伍長はトイレに潜み、
物陰に潜み、時には他の寝室へ身を隠し、
着実に前進を続けたが、
ここで重大かつ根本的な問題に気がついたのである。
「どっかってどこだよ」
まったく、初歩的な問題であったのだが、
これを解決する方法は無い。
そもそもな話、大西隊長は携帯電話というものを所持していない。
大西隊長が文明の利器に頼らぬ事を誇りに思っていたかは知らぬが、
こんな時には迷惑他ならない。


 思い起こせば大西隊長はあらゆる意味で我々常人とは別種の生物であった。
まず、大西隊長は風呂に滅多に入らなかった。
60年代後半のヒッピー文化に憧れを抱いていたのかは知らぬが、
彼の半径1メートル以内に近寄ると異様な匂いに襲われる事であろう。
臭いわけではないのだが、
それでもずっと嗅いでいても得はしないだろうし、
第一ずっと嗅いでいたいと思っている人物はこの世に存在しないし、
存在してはいけない。
 次に、大西隊長は靴下を嫌っていた。
彼は春夏秋冬、東西南北、古今東西を問わず靴下を履く事はない。
以前、彼の小学校時代の卒業アルバムを鑑賞した人物は、
大西隊長がどの写真においても素足であったことに驚いたという。
見てみたい気もするが、
見たら見たで「見なけりゃよかった」と後悔する事だろうから見ない方が善行であろう。
末代までの幸福のためならば仕方が無い。
解決策はたった一つ、
彼がさっさと靴下を身に着ける事に他ならない。
 それから大西隊長は一切の勉学を放棄していた。
いつからその能力を放棄していたかは誰も知らないし、
毛頭興味なんぞないわ、という人も多いだろうし、
かく言う私もまあその一人なのだが、高校入学時から彼の阿呆っぷりは極みに極め、
何かよく分からない神秘的な雰囲気さえも漂っていたのは幻覚だろうか。
彼が書ける漢字は自身の「大西 彰一郎」という名前だけだ、
という論を唱えている人物がいた気がするが、
「彰」の字を書けるのか?
と誰かが聞いた所、
その論を唱えていた男は黙りこくってしまったという。
全くおかしな話なのだが、
そもそもな話、こんな会話が現実で行われたのかどうかは今をもって闇の中である。
他にも彼に関する様々な伝説的奇行は存在するがこの際だから言ってしまおうなんて事はしない。
彼が店頭でセール品を「ご自由にお持ちください」的商品だと思い込んで持ち去ったら警察の御用になったお話や、
想い人にラブレターを書いたところ相手の名前が一字一句まったく合っていなかった事や、
神奈川県内の高校の試験会場を誤ってどういう訳か千駄ヶ谷まで行ってしまった話や、
六本木で食い逃げを働いき、
それが原因で停学処分を食らった話はこの際黙っておこうと思う。


 刑部伍長は激怒した。
彼に命令を下した大西隊長は今やその消息を掴む事は不可能であった。
しかし、刑部伍長には意地があった。
大西隊長はよく刑部の意地を「大和魂だ!」だなんて讃えていたが、
馬鹿な大西には大和魂と意地っ張り精神の違いが分からなかった。
時に彼の馬鹿さ加減に刑部伍長は辟易としていたが、
とうの大西は全く意に介さず、
というかむしろ気付かず、己の阿呆道をひた走り、
周りの人々は彼の走りっぷりを見て憎しみとも慈愛ともつかぬ奇妙な感情を抱いた。
刑部伍長の木刀を握る腕が震えたが武者震いという訳ではなかろう。
彼の木刀は手汗に塗れていた。
「そもそもなんで俺はこんな格好をしているのだ」
当然の疑問である。
目出し帽だなんてしているのはせいぜい銀行強盗かなんかだろう。
彼は目出し帽を脱ぐと、
その場に腰を下ろした。
ここは階段だが無意識に歩いていたので、
自分が何階にいるのかは分からなかった。


 背後からの物音に刑部伍長は全身を強ばらせた。
人間は緊張した時には背後に全神経を集中させるものなのだろうか。
しかし、その足音は見張り番の教師のものとは違ったものに聞こえた。
実際、その通りであった。
顔は知っているが名前は知らない男がそこに立っていた。
白い鉢巻きをしていた。
「おい、おい」
口を開いたのはその男だった。
「なんだおまえ、こんなところに座り込んで」
と、そいつは聞くと同時に刑部伍長の隣に自らも腰を下ろした。
「しっ、声を抑えろ声を」
刑部伍長は見張りの教師陣や、
物陰からやってくるかもしれない大西隊長の幻影に恐怖した。
「何をしているかと聞いているんだ」
「お前に言う筋合いはない。
そして貴様は何をしている」
まったく、こうなってくるとどうにも仕方が無い。
「俺も貴様と同意見だな」
その男は怪しい笑みを浮かべていた。
背丈は刑部伍長と同格なのだが、
彼から漂ってくる怪しい風格は曲者を思わせた。
「なんだと貴様、この俺に反抗する気か。
叩き切るぞ」
刑部伍長は精一杯の抵抗をしてみせたが、男は平然と
「叩き切る?」
なんて聞いてくる始末だ。
この怪しい男の方が一枚も二枚も上手に思えてならなかった。
刑部伍長はわざとらしく恭しさを込めて刀を出した。
無論、木刀である。
それを見て男はにやりと笑っていた。
当然である。馬鹿にしていたのかもしれない。
「全く、そんな物騒なものを。
第一、サムライなんて今じゃ時代遅れだぜ」
男は刑部伍長を小馬鹿にした。
その事が刑部伍長を余計に腹立たせた。
「貴様、侍の精神を汚す気か。
恥を知れ、恥を」
「しかし、お前の顔はちっとも侍らしくない。
どうせ常日頃ジャンクフードを腹一杯食っているんだろう。
たるんだ頬をしやがって。
お前こそ恥を知れ、恥を」
ここまで言われて刑部伍長が黙っている訳が無かった。
刑部伍長は必死の形相であったが、
相手の男はどこか落ち着き払った表情をしていた。
緊張を表情の裏に隠しているとも思えなかった。
「貴様、俺の真似をするな」
「貴様、俺の真似をするな」
畜生、この野郎と刑部伍長は激怒し、
その顔が上気しているのには気付かなかった。
「この野郎、お前の顔だっておかしな顔だ。
タコみたいな顔しやがって」
しかし、男は瞬時に言い返してくる。
「なんだ、寿司のネタなら俺はイカが好きだね」
「俺はイクラだ」
なんの話をしているのだ、と刑部伍長は疑問に思った。
そうして男は笑った。
「ふ、やっぱり高カロリーなものじゃないか。
この似非サムライのブルジョアめ」
ブルジョアとは何たる侮蔑か。
ブルジョアは世界の豚か。
 
 二人は語り合った。
というか罵り合っていたようにも見えるが、この際どうでもよい。
一糸乱れぬ華麗なまでの言論大戦争が繰り広げられた。
「まったくお前という奴は…」
と男は言葉を詰まらせた。
俺がなんだというのだ、と刑部伍長は気がかりになり、
男の視線の先にある人影に気がつかなかった。
するといきなり男が立ち上がった。
決闘か、と刑部伍長は呑気なことを考えていた。
「先生!こいつ木刀持ってます。木刀ですよ木刀!」
そう言うと男は闇に包まれた階段を駆け降りていった。
というよりかはむしろ飛び降りた。
刑部伍長は覚悟を決めて立ち上がった。
大西隊長に報わねばならぬではないか。
刑部伍長は悲壮な決意を固め、近づいてくる荒い息づかいに耳をすませた。
1秒また1秒とそれは近づいてくる。
あと2、3秒もしないうちに目の前にそいつは姿を見せるだろう
刑部伍長は木刀を握る腕に力を込めて、
木刀を頭上高く振り上げた。
木刀を振り下ろすのが先か、
そいつが現れたのが先かは分からなかったが、
結果的には木刀がそいつの脳天を直撃した。
「ヒャッホウ!」
と刑部伍長は雄叫びを上げたが、
目の前で頭を抑えて悶えている人物が大西隊長である事に気付くのに時間はかからなかった。
その後、彼の発した恐怖と呪縛と焦燥の入り交じった悲鳴が男棟全土に響き渡ったのは言うまでもない。
 各フロアの見張り番教師が3階廊下にたどり着いた時にはもう手遅れで、
刑部伍長の髪は半分近くが抜け落ち、
残された髪の毛はその時の恐怖で白髪になっていた、というのは真っ赤な嘘である。
そこには無惨にも折れた木刀が置き捨てられており、
人影は一つも姿を現さなかった。


 男棟ではこれらの勇士達の激戦激闘が繰り広げられ、
男達のその無様っぷりをいかんなく発揮した。
その他、201号室の2人組が乳母車をし、
先生に扮して敵陣に突入を試みるもついに玉砕。
104号室からは足音を殺して歩くのが趣味の男がその得意の歩き方と、
匍匐前進を駆使して敵陣へと向かっている最中に夜が明けたという。
 また、女棟でも同様の事例は発生していたというが、
そちらの件に関しては資料が乏しいため判然としていない。
不確かな目撃情報もあるが、
それは単なる女装した男であるという説が有力である。
そうなると、第一陣の折原氏の女装にも多少は成果があったのかもしれない。

 

 「それにしても」
寝室待機班の通信係、笠井は声を発した。
「折原氏らは元気にやっているだろうか」
「なんとかしているだろう」
藤井氏はそれに同意した。
全く、呑気なものであると中川健二は考えていた。
中川氏は目の前に置かれた猥褻本には眼もくれず、
ただメガネの奥の瞳を閉じて腕を組んで傲然と座っていた。
単に眠かったのかもしれない。
‘村上室長はただ静かに腕時計を眺めている。
笠井はポケットからタバコを取り出して、
それに火を付けて一服していた。
「まったく、世の中阿呆ばっかりさ」
「お前の事か?」
「俺も、お前もさ」
「俺も仲間に入れてくれちゃ困るね、まったく、これだからお前は」
「でもお前だって女は好きだろう?」
「まあ…嗜む程度さ」
「嗜む、とはまた上手い言い訳を。
嗜むという事は貴様、何人とお付き合いしてきた?」
「ぐぬぬ。そういう話はしない事にしよう。
無論、お前と同じはずさ」
「そら見た事か、考えてみろ、俺たちの部屋の連中は誰一人として女を必要としていない」
「女を必要としていないのか、
それとも女に相手にすらされていないのか…」
「黙りたまえ。我々は愚かしい恋の道には走らぬ所存だろ。
この部屋に女を持てる者は誰一人としていないさ」
むくっと中川氏が顔を上げた。
「俺はいるさ」
「え?」
「え?」
笠井と藤井は顔を合わせて笑った。
まさか、そんな事はねぇ、冗談キツいぜ、なんて言ってタバコの煙をプカプカさせていた。
「中川君」
‘村上室長が口を開いた。
「頼んだよ」
その手には襷が握られていた。
そしてその襷には黒ペンで文字がいくらか書かれていた。
それは、修学旅行前夜のことであった。



 出撃前夜には一応は出撃順は決まっていた。
その時点でも中川氏は決戦の最期を飾る、
最期の砦とでも形容したくなるような存在であった。
「最期の砦なら、なんか派手なことやろうや」
そんな提案をするのは折原だった。
自分が最期じゃないからって適当な事を言っていた。
「貴君、派手なことをやりたい気持ちはわかるが、
提案者ならもっと的確にこれがしたいという案を出したまえ」
‘村上室長の言う通りであった。
折原氏はいつもこうだ。
そうして馬鹿を見るのは他でもない我々であったが、
折原氏の馬鹿行為を止めるに止めきれない我々にも責任はあるのだろうか。
「白襷なんてかっこいいじゃないか」
そう言ったのは藤井氏であった。
その白襷は体育祭で使用した襷の流用品なのだが、
どこからそれを入手したのかは分からない。
白襷には皆それぞれの想いを書き添えた。
中には口にするのも憚られるようなものもあったので、
ここでそれらを紹介するのは差し控えたい。
何はともあれ、全ての命運は中川氏に託された。



 第四章 中川 健二



 中川氏は博学才穎、若くして名を某私立中学に連ねたはいいが、
そこでの成績不振が要因となり、現在はかのような高校生活を送っている。
馬鹿校にいることを厭わなく、
馬鹿校にいることに甘んじて甘い汁を垂れ流していたのだから救いがたい馬鹿であった。
頭脳明晰であるし、
芥川龍之介の顔を薄めたような顔の中川氏には自身の顔面に関しては随一の自信があった。
しかし、その成果は容易に揚がらず、
高校生活は日を逐うて苦しくなる。
中川氏は漸く焦燥に駆られて来た。
この頃からその容貌も峭刻となり……


 とはよく言ったものだが、
いくらかの誤りがあるので訂正したい。
 まず、中川氏の出身中学は全くもって普通の市中学である。
そこでの成績不振が起因となって現在の高校に通うハメになったとはあったが、
その市立中学の進学先から見れば平均的な高校であった。
要するにレベルが低かったのはその中学校自体なのであった。
馬鹿校にいることを厭わない、とあるが、
彼の頭の中には我らの高校が馬鹿校である、という認識がない。
頭脳明晰とはあるが、
これはもうどこから出てきた情報なのか分からない。
彼の顔が芥川に近いさも美男子のように書かれているが、
これも立派な嘘で、
目元は芥川に似てなくもないが、全体像としてはメガネを外した中島敦のような雰囲気である。
以下、ダラダラと彼についての美化された人物像が記されていくこの文章は全くもって信用に値しないし、
この手記の筆者がまさかの中川氏であった事には驚いた。
救いがたい馬鹿、という部分に関しては正解なのかもしれないし、
彼の一番の特徴を認識できている事に関しては喝采でもしてやりたい。
まったく、無駄なことである。
  


 手渡された白襷を中川氏はまじまじと見つめていた。
別に今日初めて目の当たりにした訳ではあるまいのに、
やはり白襷をいざ手渡されてみると、
その重任にいささか困惑でもしているのに違いない。
それとも我々が丹心込めて書いた寄せ書きに感動でもしているのだろうか。
しかし、泣くのは早いぞ、中川氏よ。
「これは目立ちますよ、‘村上さん」
中川氏が顔をあげると言った。
「あの暗闇の中ではこの純白は目立ってしまう。
これでは敵陣に踏み込む前に捕まってしまう」
物申そうとする藤井氏を‘村上室長は制して言った。
「よかろう。我々は貴様に無理にそれを着用せよとは言わない。
しかし、万が一の時の為に持っていったらどうかね」
ややあって、中川氏は納得したように頷き、
それをパジャマのポケットにしまい込んだ。
ポケットが妙な具合に膨れていた。
「頑張ってこいよ」
と笠井氏。
「死ぬなよ」
と藤井氏。
‘村上室長はただ黙って中川氏の出撃を見守った。
10時50分の事であった。



 中川氏の脳内には戦略がなかった。
廊下は予想以上に暗かったことを中川氏は認知した。
この一寸先は闇、と言ったらそれは過剰表現だろうが、
そんな中で奮戦した先人たちは尊敬に値するだろう。
 目を凝らすと、前方に5、6人の人影が見えた。
人影は皆、廊下に座り込んでいた。
はて、何をしているのだろうかと中川氏は考えた。
まるで敵軍に捕らわれの身となった兵隊にも見えて、不憫になった。
その一人一人は項垂れていて、
どこか忌々しい怨念に似たものを垂れ流しているようにも見えた。
 すると、そのすぐ脇を誰かが通ったのが見えた。
そのガタイの良い肉付きと、
手にした竹刀には見覚えがあった。
どうやら、その竹刀を手にした体育会系教師はこの廊下をグルグル廻っているようだ。
恐ろしい。
教師は廊下の人影には眼もくれず廻っているらしい。
よく見ればその人影は皆、眠っているらしく、
スースーと心地よい鼻息だけが聞こえてきた。
僥倖であった。
中川氏は得意の匍匐前進でその人影に近づいた。
中川氏は一番手前で項垂れている生徒の真横で同じように項垂れてみせた。
やがて、コツコツと嫌な足音が聞こえて来た。
足音だけでも恐ろしいとは何事か。
ここでバレてしまえば、
恐らく木っ端みじんにされることは間違いないのだが、
教師は中川氏の前を素通りしたのだから驚きである。
すくっと立ち上がると、
足音を立てずに教師の後ろを歩き、
そうして階段へと向かった。



 階段付近には何故か粉砕された木刀らしきものが残されており、
カーペットは何者かが引きずられたような痕跡さえ残されていた。
階段を降りる時も慎重に、降りていった。
些か慎重過ぎないか、など想いはしなかった。
 二階には屈強な教師陣の包囲網が敷かれていると話には聞いたが、
その様な雰囲気はない。
しかし、ここでもグルグルと旋回している教師が一人だけいて、
中川氏は男子トイレに身を隠した。
そこで中川氏は奇妙なものを見つけた。
中川氏が個室に入り、
用を足そうと洋式便器の蓋を開けたら何か妙なものを見つけた。
それは多数の毛であった。
しかも、それが一塊になっていたので、
中川氏は危うく失禁しそうになった。
しかし、その色合いは男の髪が一気に抜け落ちた様には見えなかった。
よく見るとそれはカツラのようであった。
はて、何故にここにカツラが?
すると、トイレにコツコツと響く足音が入って来た。
その足音は革靴のそれを思わせた。
どうやらこの階を廻っている教師が入って来たらしかった。
教師は中川氏の隣の個室に入っていったらしい。
中川氏はゆっくりとそのトイレを後にした。
ついでにカツラを教師の入っている個室の真ん前に忍ばせておいた。



 廊下には人影ひとつなく、ただ際限ない闇だけが広がっていて、
中川氏の度肝を抜いた。
「闇とはこれほど恐ろしいものなのか!」
中川氏は驚愕した。
しかし、窓ガラス越しに差し込む月光だけが唯一のライトとなり、
あまりの美しさに驚嘆しかけた。
月の天然ライトに照らされてただ呆然と耽っている暇はなかった。
中川氏はまた歩き出した。
多くの勇士達が戦い、そうして散っていったあの忌まわしき二階の男棟と女棟を結ぶ渡り廊下はただ閑散としていて、幾度も激戦が繰り広げられた面影は全くない。
いや、無いというわけでもないようだ。
中川氏は足下に目をやり、
「なんじゃこりゃあ」と言った。
足下には白っぽい粉か何かが撒き散らされていた。
それがこの旅館の装飾品でないことは一目で理解できた。
そうしてどこか火薬臭い気がしなくもない。
長居は無用、
そいしているうちに例の男子便所から野太い叫び声が聞こえてきて、
中川氏は足早にその場を後にした。



 女棟廊下には無数の椅子が存在していたが、
これは見張り陣の多さを表しているのかもしれない。
‘村上室長の話によれば、
女棟には見張り番が数多く存在しているが、
夜は秘密の飲み会にほとんど皆が耽っているらしい。
どこでその情報を手にしたのかはわからない。
しかし、今は誰の姿も無い。
二階にも無数の女子部屋が存在するのだが、
彼が目指したのは三階であった。
中川氏は三階へと続く階段を上っていった。
階段の踊り場で純白の何かを発見した。
それはかつてどこかで見た気がするがよく思い出せない鉢巻きであった。
「必勝」の文字が書かれた鉢巻きは踊り場に無惨にも投げ捨ててあった。
ここから推測される事はただ一つ。
鉢巻きをしていた変態野郎が教師陣に追いかけられ、
ここで果てたに違いない。
もしくはただの変質者の仕業か。
中川氏は踊り場の窓を開け放ち、
ばっちいもんでも捨てるようにその鉢巻きを投げ捨てた。
鉢巻きは窓から飛び出して、
大空をヒラヒラと舞ったかと思うとゆっくりと落ちていった。
まさしく一寸先は闇の中で、
その鉢巻きだけはいつまでもその純白さを放っていた。
ついでにポケットの白襷も投げ捨てた。



 ここで突然告白せねばならぬ事がある。
中川氏には彼女がいた。
全く、許しがたい話であるが、これは本当の話である。
恐ろしい話であろう。
中川氏は、‘村上室長や折原氏ら同胞を裏切ったと言えるだろうし、
世間的には抜け駆けと罵られるかもしれない。
しかし、‘村上室長一同は彼の春を快く迎えた。
彼らは不必要に罵ったりなんなりしたりはしなかった。
男の中の男なのであった。
可哀想なことに笠井氏と藤井氏はそういった事情を知らず、
全くもって蚊帳の外であった。
悲劇的と言えよう。
 そう言った訳で彼女の詳しい情報を中川氏は皆に伝える事はなかったから、
308号室の連中は彼女の名前はおろか、彼女の顔も知らなかった。
 


 中川氏は事前に彼女に寝室の部屋番号を聞いていた。
皆、2人がどんな睦言を交わすのかは想像できない事であったし、
第一想像したくもなかった。
できれば2人そのままどこか適当な場所で滅びてしまえと願った。
 女子棟三階は同じように暗かったが、
中川氏には希望の光で充ち満ちていたに違いない。
恋は盲目とは言ったものだが、
彼の場合は恋の妄想一杯だけで暗い夜道を歩き通す事も十分可能であった。
盲目ではないらしい。
中川氏は走り出したくなる衝動をどうにか抑えていた。
しかし、もう限界であった。
「ここだ!」
彼女からのメールの文面が頭の中に充満していた。
「私の部屋は309号室ですよ。
間違えないようにね」
中川氏は理性を体内の何者かに操られていた。
「いただいます!」
彼は309号室のドアを開け放った。
すると12個の眼光が一斉に中川氏を襲った。
どうやら間違えていたのは彼女の方であったらしい。
悲劇的と言えよう。


 翌朝の朝礼にても話に上がった事であるが、
昨夜の各地で巻き起こった女部屋侵入計画については様々な憶測が生まれた。
男子一同による学校への挑戦状だとか、
修学旅行特有の猥褻魔人が彼らに乗り移った、だとか
寝ぼけた男子生徒が大量発生しただとか実に下らぬ憶測であり、
‘村上室長は馬鹿馬鹿しいと憤慨していた。


 一階にある和室の大広間で朝食での朝食であったが、
男子生徒のおおよそ20人近くがその大広間に足を踏み入れる事はなかった。
308号室の無惨に散っていった3名や隣室307号室の大馬鹿1名とゴキブリ騒動を起こした7名、
205号室の大西隊長に填められた2名、
その他各地で発生した雨後の筍的ゲリラ学生たちが一カ所に収容されていた。
彼らは必要以上に長ったらしい反省文を書き、
教師からの必要以上の説教を食らい、
そうして男子便所や廊下の清掃を行った。
それを見てほくそ笑んでいたのは大西隊長くらいなものだった。



 「まったく、俺たちはまんまとハメられたんじゃないのか」
堀江氏は実に憤慨である、といった顔でそう言った。
「ハメられたとは何事か。
俺たちは一世一代の大戦果を納めたんだぞ」
折原氏はやや満足げであった。
「しかし、一世一代でこんなもんとはね。
俺たちもまだまだ精進が足りんな」
中川氏はモップ片手につまらなそうな顔をしていた。
「俺があんな目にあったのはお前らのせいだぞ」
と顔を腫らせた刑部氏が怒り心頭に達して言った。
「お前らと言われてもね。
俺はお前には何もしていないぜ」
と折原氏。
「どうせお前、あの大西とやらにハメられたんだろう。
顔にそう書いてあるぜ」
中川氏はクスクスと笑った。
刑部氏は怒りに満ちた顔を恥ずかしさで赤く染めた。
「掃除サボんなよ」
とどこの誰だか分からぬ輩に言われてまた作業に移った。
同じ馬鹿の癖して何を偉そうに、と中川氏は内心憤っていた。
「そう言えば」
と折原氏。
「江口はどうしたんだ」
はて、と308号室の三人は首を傾げた。
「ま、そのうちなんとかなるだろう」
「掃除サボんなよ」



 今井理沙と恩田歩は朝食を早めに食べ終えて、
寝室の308号室に戻った。
朝食後は部屋の布団は各自押し入れにしまえという指示が出ていた。
2人はしばらくそこで話していたが、今井氏が突然、
「トイレ行ってくるから布団しまっておいてね」
恩田歩は気だるそうな顔をしながら布団を畳んでいた。
昨日は色々あったな、
と思いながら恩田氏は押し入れを開け放った。
この後、如何なる展開が待ち受けていたかは読者の想像におまかせしたい。
余談だが、この一連の事件で渡辺氏の次に悲惨な重刑を食らったのは江口氏であったという。
 
 

大日本学徒見聞録

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-09-21

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