満月が生む光

2012/04/06

 日が沈むと、まだ肌寒いと感じる。闇と同化したような石の壁に手を触れると、冷たい砂が手に残る。それでも立ち込める花の香りは辺りを包み、目を閉じても甘く芳しい春の大地を描くことは容易だった。壁を伝って歩みを進めると、左手に時折かすめる柱の数で、階段の位置を推し量った。足元の感覚が途切れたことを確認すると、膝を折る。漆喰に石材が織り込まれた階段は、見た目よりも柔らかく緩やかに作られており、視界が奪われた状態でも足元に不安はない。
 階段を折り返すと差し込む月灯りが眩しく、目を細めずにはいられなかった。
 辿り着いた中庭は、四方を回廊に囲まれている。この地方の一般的な建築方式と呼べなくもないが、溢れんばかりの贅が凝らされている点で、一般的と呼ぶことをためらってしまう。汲み上げられた水の絶え間なく流れる音も、四隅の柱に装飾されたそれぞれの音階を奏でる硝子の風鈴も、月光に輝く純白の砂も、他の場所では見ることができない。
 爪先から踏み出した足が、白い砂を踏む。鳴くような音が鳴るのは、砂が美しい証拠だと聞いた。箱庭の中で作られた美を、美しいと称して良いものか。ありのままであった物たちは、美しくはないのだろうか。答えはどちらでもない。美しさは記憶が見せる光であり、その記憶が違えば光は闇にも塗り変わる。見る者の感情ひとつでその定義が変わるのならば、なんと儚い言葉だろう。
 吹き抜けになった空には星が散り、円形の月が輝いていた。放射状に広がるその手が地上に降り注ぐ様は、甘く匂い立つ。この香りが人を惑わせるのならば、花も水も、すべての物が人を惑わせる。しかし幸いなことに、花や水の記憶を持つ者は少なく、満月ほどに人を狂わせるものはない。
 何度目かわからない満月が闇に浮かぶ。如何程の月の記憶が増えたのだろう。この地区の者たちは夜でも灯りを持っているから、あまり月など見上げないのかもしれない。そうやって新しい灯りの記憶をその目に焼き付けて、古い記憶を忘れてゆく。何かを得る変わりに、失ってしまったものは、消えてなくなるのだろうか。それとも、またどこかで新たな記憶の光となるのだろうか。もし記憶の光がどこかに繋がるならば、ここにある記憶はどこから来たのだろう。思いを辿るように目蓋を落とすが、心だけで飛べるはずもない。
 体に無理をかけたか、締めつけられるような頭痛に襲われた。心を辿る力など、もう残されていないのだろう。渇いた心を満たす力もなく、水を求めて泉に触れた。小さな泉に反射する月が、小さな花弁と戯れながら風と共に揺れる。水晶のように乱反射する白砂が、風鈴と共に歌う。飽和した花と月の香りに、気が狂れる。箱庭に整えられた美しさの記憶は、確かに月と共にあることを語りかけてくる。
 記憶など辿らなくとも、この場所に籠められた思いだけを聞いていれば良かった。それ以上の力を、何の為に振るい、何の為に失ったのだろう。元々そんなものなど無かったと思えば楽になれるだろうか。ただの器となった体は飢えて渇き、空の心が光の中を彷徨う。
 何の為に生まれ、何の為に力を得たのか。ここに存在するはずの体は次第に淡く透けて、月光の中に溶けてしまいそうだった。髪を踊らせていた風が体を通り抜け、花の香りと共に舞い上がる。
 そして月光で輝く記憶の光が、闇へと塗り変わる。

満月が生む光

続きません

いつか物語になればと思います

満月が生む光

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-04-06

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