幸福

 一杯のレモネード。
 温めた鍋に砂糖を大匙で三杯。そこに、レモンの皮を削って入れる。ささやかなレモンの香り。
 ティーカップに入れてダイニングに座り、それを口に運ぶ。
 暖かい香りと、ほのかな柔らかさ。思わずほころぶ口元をそのままに、朝日の差し込む窓から外を眺める。
 これが私の、唯一の幸福。
 秋の初め、6時を少し過ぎたあたり。朝日が少しずつ顔を見せ始め、世界に色は付き始めるころ。手を伸ばせば町が掌の中に納まるくらい、小さく感じる。この瞬間。
 ここから世界は少しずつ色づき、やがていつもの世界に戻る。そうして私も、いつもの私に戻る。
 でも、いまだけは。

 世界の始まりを、今日の始まりを、私は今、ただ見つめ続ける。
 これが、幸福なことだと、よく知っているから。
 

Ⅰ・raison de^tre


 大人は汚い。
 嘘。
 作り笑い。
 セックス。
 歯噛みすればするほどに、その度に、私は大人に近付いている。
 それがたまらなくて、私は私が嫌いだ。

☪☪☪

 頬を撫でるひんやりとした風に、目が覚める。
 夜。
 見慣れない部屋。
 ただ月明かりだけが晧々(こうこう)としていて、開いた窓の隙間から差し込んでくる。
 優良はその窓の桟に座り込んで、煙草を吸っている。ジーパンだけ身につけて、その筋肉質な肉体を惜しげもなく夜風にさらしていた。
 彼はふっと私を振り返った。
「あ、悪い。起こしちまったか。」
 月明かりが目にまぶしくて、彼の表情は見えない。いいよ、とだけ私は呟いて、ベッドから体を起こした。素肌を滑り落ちてゆく、ポリエステルのシーツの感覚。わずかだがまだ肉感の残った心地よさに、自己嫌悪を感じる。振り払った感情を置き去りにして、私はベッドを出てローブを身に着け、優良(ユウラ)の膝元にそっと座る。
「吸うか?」
 優良の言葉に首を振る。
 煙草は嫌い。
 やにのにおいは好きなのに。
「月が綺麗ね。」
 窓から覗き込むように見上げた夜空に、私は溜息をついた。優良が私の髪をそっと撫でる。
 私の髪を好きだという優良。優良の煙草のにおいが好きな私。
 じゃあ、私に髪がなかったなら。
 優良が煙草を吸わなかったら。
 ふっと優良を見ると、優良は一瞬首をかしげ、困ったように微笑む。
「どうかした?」
 胸に走る、わずかな感情のゆがみ。たった一筋であっても、私を苦しめてしまう。
 憎しみ。あるいはいとおしさ。
 それを解き放つために、私は彼の唇にキスをする。彼も私に答えてくれる。口の中に広がる煙草の香りが、媚薬のように私を駆り立てていく。
 分かっている。全て、私は分かっている。
 彼の腕に身をゆだねながら、私は自らを呪う。誰かの温もりを求めていたくて、だからこそ、優良の隣にいる自分を呪う。そんな事を考えてしまう、自分の愚かさを呪う。
 また今日も。きっと明日も。

☪☪☪

「マナ。」
 茜の呼ぶ声に、私は文庫本から顔を上げる。茜は前の席から身を乗り出して、私に話し掛けてくる。
「昨日のあれ、考えてくれた?」茜は朗らかな声で言った。
「あれって?」
「もー。すぐ忘れるんだから。」くすくす笑ってそれから彼女は続けた。「ほら、舘高との合コンの話!」
「ああ、あれ?」私は文庫本にしおりをはさみながら返す。「うん、いいよ別に。」
「また今日は妙にあっさりしてるわね・・・」茜はやや呆れたように言った。
「まあ、気分ってものがあるから。」
「茜!マナ!」
 教室の入り口から声がした。振り返ると、赤毛のショートボブが揺れる。特徴的な、赤いフレームの眼鏡。
「リコ!」
 茜が嬉しそうに呼んだ。リコはとことこと歩いてくると、私の隣の席、今は空いているところに座る。
「マナ、今日も優良君来てないんだけど。知らない?」
 リコは座るなり私に尋ねる。私は首をかしげた。
「・・・いや、今日は何も言ってなかったけど・・・バイトとも言ってなかったし。」
「酒井くん、最近よく休むわね。」茜が眉をしかめて呟いた。「なんかヤバイこととかに巻き込まれてないといいけど。」
 私は笑って見せた。
「あいつにそんな度胸はないって。昨日も一緒だったけど、そんな空気なかったし。心配しなくていいと思うよ?」
 リコも茜も不安そうな顔をしたが、何も言わなかった。
 作り笑い。
 嘘。
 やっぱり繰り返す。
 私は文庫本をカバンにしまうと、そっと立ち上がった。
「帰るの?部活は?」
「行かない。有紗にごめんって、言っといてくれない?」
 リコの問いに首を振ると、私は教室を出て校舎を渡り、昇降口へと向かう。
 昇降口の下駄箱の並び、私はひとつ隣のクラスを覗き込んだ。14番、酒井優良。中に入ったスリッパは、ぽつねんと一人寂しく、座っている。
 駐輪場でバイクに荷物を詰め、ヘルメットをかぶってエンジンを動かす。飛び乗って、学校の敷地を西側へまわってから、裏通りに続く脇道を走る。
 優良の家は、「千々石ヒルズ」と呼ばれる高級住宅街の中にある。この辺りでは金持ちの住む町として知られ、舗装されたレンガ道が高級感を演出する住宅街。
「千々石ヒルズ」に入り込み、3軒目の白い家。そこが、優良の家だ。
 バイクを駐車場に停めて、玄関にかけていき、チャイムを押す。パタパタと玄関ホールをかけてくる音がして、ドアが開いた。
「・・・何やってんだ?お前は。」
 ドアを開けた優良は、開口一番そう言った。髪はぼさぼさで、服はダルダルのTシャツにジーンズ。優良の仕事着だ。
「それはこっちのセリフ。」私は優良の開けた隙間をすり抜けて玄関に入りながら言い返す。「何で今日学校来なかったの?仕事?」
「そ。終わんなかったんだ。」優良はぼりぼりと頭をかいた。「明日〆切だからさ。ちっとまずいんだよな。」
「手伝う?」
「いや、いいよ。もう出来上がったし。」優良は微笑んだ。「見る?」
「うん。」
 私は頷いて、ホールへと上がる。
 優良のアトリエは、この家の北側、一番日当たりの悪い部屋にある。最高のための窓を塞ぎ、明るい蛍光灯を付けた。北側のガラス張りの大窓以外には、外の光をとる術はない。
 部屋の中心に、そして、その造形物はあった。
「・・・わぁ・・・」思わず溜息が出る。
「『天に楯突いた男の最後』。」優良は微笑んだ。
 上半身を槍で貫かれた男。地に仰向けに突き立てられ、しかしその手は、天に差し向けられている。
何かを求めているのか。
あるいは、手離しているのか。
「これが目玉になるのね?」
 3メートル弱もある塑像を見上げて、私は優良に尋ねる。優良は頷いた。
「今度の個展は、俺の作品を初お披露目するって感じだから。そうなると、中心に持ってくるものはキッチリ仕上げたくてさ。」
 私は、その気持ちは分かる、と頷いた。
 完成。すなわち実体。
 そこにあるのは、それが真実と呼ばれるもの。
 偶像崇拝に近いけれど、けれどそれとはどこか違う。優良の作る塑像はいつもシンプルで、その主人公は何かに苦悶している。今回の塑像の主人公である青年も、下界の女性への愛を貫くために天の意思に逆らい、神々の矢に撃ちぬかれた天使がモチーフだ。
 何も食べていないと言った優良のために、私は2階のキッチンへ上がり、食事を作った。
 優良に、両親はいない。私とよく似ている。だからこそ私は、優良に惹かれるのかもしれない。
 存在理由(レゾンデートル)。優良といる意味。
 食事が終わると、私たちは寝室に行って、一度だけセックスをした。
 欲望のままに私を求める優良は、私の愛する優良ではない。そのとき、優良はただの雄になる。そしてそれに答えるように、私は自らの雌性を解き放ち、ただただ肉体に溺れる。
 セックス。
 私の憎むもの。そして、私の愛するもの。
 悲しみ。あるいはそれに準ずるもの。
 寂しさ。あるいはそれを補完するもの。
 溺れれば溺れるほどに、私は自らをそこに縛り付けていく。
 例えば優良と肌を合わせていても、私の存在理由(レゾンデートル)を証明することは出来る。呼吸を合わせ、体を馴染ませれば、それでいい。
 たとえ心が乾いて、そこになかったとしても。
 存在理由(レゾンデートル)。
 あるいはそれすらも、嘘。

☪☪☪

「マナ、調子悪いの?」
 隣に座る茜が心配そうな表情で顔を覗き込む。別に、どうもないよ、大丈夫。そう呟いて、私は小さく微笑んでみせる。
「大丈夫?マナちゃん。」運転席の男が、バックミラーを覗き込みながら言う。「水か何か飲む?コンビニ寄ろうか?」
「いえ。大丈夫です。」私はもう一度首を振った。大したことはない。2週に一度は顔を出す痛み。生理とは違って、上腹部を圧迫するような痛みは、これから15分ほど続く。
 いつものことだ。
「ならいいけど。」彼はそう言って、信号で車をとめた。「しんどくなったらすぐに言えよ?手遅れにならないうちに。」
「ありがと、恭介。」茜が微笑む。嘘。あるいは作り笑い。あまりにも馴れ合いで、私は吐きそうになる。
 大川恭介は、高校生ではない。舘高との合コンに、唯一先輩格としてやってきた大学生だ。ただ、合コン目的というよりは食料目的といった方が近い、ラフな恰好をしていた。
 街の明かりが糸を引くように通り過ぎてゆく。あの光は果たしてまやかしか、それとも現実か。
 嘘という現実。虚空という実体。
 それは矛盾しあっているようで、互いを支えあっている。
 車がマンションに着くと、私と茜は車を降りた。
「じゃあ、おやすみ。」助手席の窓を下ろして大川は言うと、それから私を見た。「大丈夫?」
「はい。」私は笑顔で頷いた。「大丈夫です。ありがと、心配してくださって。」
「急に病院とか行かなくちゃってなったりしたら、茜に言えばすぐ飛んでくるから。」
 それじゃ、と、彼は朗らかに笑って、窓の向こう側に消える。車は走り出して、あっという間に、国道の向こう側へと消えていった。
「いい人じゃん。」茜に言うと、けれど茜は眉をしかめた。
「あれがぁ?」
「何?茜、大川さん嫌いなの?」
「嫌いって言うかなんていうか・・・」茜はオートロックを解きながら、ぶつぶつと呟いた。「ちっちゃいころからずっと一緒だからさ、何かイヤなのよね。あいつの空気とか、思考回路とか。」
 その姿がなんだかおかしくて、私はくすくすと笑った。
「何言ってんだか。」
「うるさいわよ。」茜は仏頂面で答えながら、エレベーターに乗り込んで6階のボタンを押した。
 扉が閉まり、エレベーターは上昇する。わずかな時間が、少し長く感じる。閉塞感。扉が開き、そして私たちはエレベーターを降りる。
 彼女の家は突き当たりから3つ目、私の家の2つ手前だ。そのドアの前までくると、茜は私を振り返り、言った。
「じゃあ、おやすみマナ。」
「うん、おやすみ。」
 私はそのドアを通り過ぎると、私は突き当たりのドアの鍵を開け、部屋へと入る。
 閉塞感。
 玄関のパンプスがもう消えている。母さんは今日から仕事のようだ。
 玄関の電気を点けてリビングに入る。ハンドバッグを適当に投げて、ソファに飛び乗る。スプリングが私の体を跳ね上げて、私はバランスを崩して、ソファに倒れこんだ。
 穏やかにきしむスプリング。ソファ。虚ろな視界。
 無機質な天井には、母さんお気に入りの魔方陣が張ってある。
 閉塞感。
 疎外感。
 虚無感。
 ふいに喉の渇きを覚えて、私は体を起こす。刹那、上腹部に痛みを感じるが、波は和らいでいる。
 シンクに行き、流しに備え付けてある浄水器から、一杯水を汲む。グラスを満たした水を一気に飲み干すと、渇いた喉は、それによって滑らかな潤いを取り戻している。
 再生。
 あるいは補完。
 暗いリビングの隅、箪笥の上の、伏せられた写真立て。ふっと気がつき、私はそれを手にとって、中の写真を確かめた。
 幸せそうに微笑む、父と母。その2人の真ん中で、この上なく無邪気な笑顔をしている、幼いころの自分。
 穢れる前の私。
 憎しみ。それがどこへ向かったものなのか、私は知らない。胸の奥から、頭のてっぺん、あるいは指先まで通うほどの、どす黒い感情。
 ピシッ、という乾いた音にはっと我に帰る。指先にしびれるような痛みが広がって、私は慌てて写真立てを見た。
 写真の真ん中下辺り、ちょうど私の腹のあたりに、親指大のひびが広がっていた。写真立てを持ち替えて手をそっと翻すと、親指の先は切れ、手のひらは、おそらくガラスが飛んだのだろう、鋭く深く、手のひらを縦断するように切り傷が入っていた。少しずつ、血が流れていく。
 わずかずつ膨らむ赤い雫を、私は舌で掬い上げる。
 湿った痛み。
 血の香り。
 そうか、と、私は思った。これが、私の味なのか。
 キッチンに立って、シンクの上に手をかざす。滴り落ちる血。銀のシンクに広がる、紅の液体。
 澱(おり)が抜けていく。
 私が清められていく。
 もっと、もっと、もっと。
 私の中で、何かが音を立てて動き始めた。
 銀の光。左手のナイフの反射。
 次の瞬間、頭の中で黄色の閃光が走り、右手を鋭い痛みが駆け抜ける。
 迸る、大量の紅い液体。
 点々と紅くなっていくシンク。
 深く切れた、手首。
 染められた絹糸のように糸を引いて落ちていく血の美しさに、ただ私は恍惚と魅入った。

☪☪☪

「リスカはもうしないって、約束したろ?」
 優良は厳しい口調で、私の手首のガーゼを取り替え、包帯を手に取った。
「・・・ごめん。」
「4針だぞ?4針。」優良は包帯を私の手首に巻きつける。痛くないよう、そっと。「下手すると神経までイッてたかもしんねーんだぞ?右手だからよかったけど・・・包丁持ってたのが右手だったら、完全にアウトだった。」
 少し、むっとする。
 
 なにもしらないくせにあんたにわたしのことなんかなんにもわからないくせにほっといてよもういいよそばにこないで。

 口に出しかけた言葉を、けれど私は押し込める。
 非反抗。
 違う。私は諍いが怖いだけ。
 いさかいが、こわいだけ。
 存在理由(レゾンデートル)。
 つまりそれが、優良の隣にいる理由。
「・・・ごめん。」
 小さく呟くと、優良は溜息をついて、包帯の端を引き裂き、二つになったそれで腕を縛って、包帯を留めた。
「ともかく、これから気をつけろよ。これ以上深く切ったら、もう腕を切断するしかないらしいから。ところで・・・」優良は私の隣に座って、ふうっと天井を仰いだ。「どうする?正直、上の部屋に泊まってくれたほうが俺としては都合がいいんだけど。お前にとっても、そうだと思うし。」
「・・・どういう意味?」
 私が尋ねると、優良は肩をすくめた。
「家に帰るにしろ、ここに泊まるにしろ、今のお前には介助が要る。・・・介助っつーか、家政婦?つまり、」優良は私の右手を指差した。「その手じゃメシ作れねーだろ?コンビニ弁当とかそんなんばっかじゃ偏るし、おばさんもまだ戻ってこないし。それなら、うちに泊まってくれた方が、俺は楽。」
 いやだ。私は心の中で泣き叫んだ。泊まるのはいやだ、帰るのもいやだ、怪我した右腕がいやだ。
 感情が渦巻く。抑えが効かない。昔抱えていた怒りの奔流は、確かこの感覚によく似ていた。私とは違う、私の中の別の誰かが、大声で叫んでいる。

 どうしてほっといてくれないのわたしにかまわないでひとりにさせてなにもいらないからただわたしをほっといて。

 けれど言葉は喉もとから上に上ることはなく、唇を割ってでてきたのは、「泊まる。」と呟く声だった。
「OK。じゃあ俺の部屋掃除してくるから。」優良はほっとしたように言って、それから真剣な表情で眉根に皺を寄せた。「俺、命令してるみたいだな、なんか。ごめん。」
 私が首を振ると、けれどそれでも優良はしばらく躊躇って、それからリビングを出て行った。
 一人残されたリビング。
 改めて見回すと、優良の生活感があふれているようで、少し心地よく感じる。
 体が、馴染む感じ。
 それは、懐かしさといってもいいかもしれない。
 パソコンテーブルに目をやった時、私はふと気が着いて立ち上がった。
 パソコンデスクに近付く。脇のサイドテーブルに、写真立てが2つ。ひとつは、私のうちにあった写真のように、ぱたりと伏せられていた。
 起きているほうの写真立てを見る。思わず、クスッと笑ってしまった。私と優良の初デートの時に撮ったプリクラ。わざわざ写真にして、しかも写真立てに入れておくなんて。バッチリ決めた私の表情に対して、優良はどんな表情をしていいのか分からずに、中途半端なところで笑いを止めてしまっている。
 ひとしきり笑った後で、私は伏せてあるほうの写真立てを手にとる。裏を向けたまま一瞬だけ逡巡し、けれど私は、それをひっくり返した。
 どこかのスタジオで撮られた、一枚の家族写真。優良によく似た男性が、眼鏡をかけた顔で微笑んでいる。女性の方は微笑みというよりも満面の笑みを浮かべていて、幸せそうな空気がこちらまで伝わってきた。その手に抱かれている、白い毛布に包まった、赤ん坊。何かを握るように、その手をぎゅっと握りしめて眠っていた
 その写真のどこにも、穢れなどなかった。
 あるのは、美。
 かなり昔に撮ったらしく、円形の額に入れられたそれは、ひどく色褪せ、セピア色になっていた。
 考えなくても、分かる。
 その写真と、私の写真が、並べておいてある。
 胸が、ぎゅっと締め付けられるような気がした。
 泣きそうに。嬉しそうに。
 ゆうら。
 ただ心の中だけでつぶやいたはずの声が、唇の隙間からこぼれ落ちる。それを聞きつけたらしく、優良は奥の部屋からひょっこりと顔を出し、私に首を傾げてみせる。
 愛しい人の顔。
 私は駆け出し、彼に飛びついた。彼は驚きながらも、力強い腕で私を抱きとめ、思い切り抱きしめてくれた。
 優良の腕の中で、私はただただ泣きつづける。
 手に持ったセピア色の写真のなかで、愛しい人を産んでくれた、2人の大人が笑っている。
 私の唇が、意識もしないで何度も動いた。優良に伝えたい。ただそれだけで、唇から声が洩れつづけた。
 ありがとう。ごめんね。
 優良は何も言わなかったけれど、一言言うたびに、少しづつ、私を抱きしめる力が強くなっていった。

☪☪☪

 大人は、美しい。
 嘘。
 作り笑い。
 セックス。
 それは未来のための共通言語。
 それは微笑む前の小さな儀式。
 それは命のしなやかさ。
 進むことを拒んでいた私の中の小さな痛みは、わずかな輪郭だけを残して、消えていった。
 存在理由(レゾンデートル)。
 それは、あるいはわたしそのもの。
 私がここにいる理由。
 それは、優良といっしょにいる理由。

☪☪☪

 ベッドの上で、優良の指先に嬌声を上げながら、私は感情の変化を確かめる。
 存在理由(レゾンデートル)。
 呼吸を合わせ、湿った体を馴染ませるためのものではない。
 心が在って、初めてそこに、理由ができる。
 彼の雄性。私の雌性。
 窓から覗き込む月は、互いを解放しあった私たちを、夜から醒めた表情で見つめていた。

Ⅱ・pluie


 雨が降っている。
 マンションの中で寝転んでみる雨は、薄い簾のようだ。僕はこんな雨が嫌いではない。昔は連休の雨など大嫌いだったのに、最近はこんなふうに音を立てて落ちる雨は、嫌いではない。
 パタパタパタ・・・
 リズミカルに心地よく窓を叩く雨が、枯れかかった観葉植物の鉢を濡らしている。美咲さんの趣味だ。確か、レモングラスとか言ったっけ。
 不意に、玄関の扉がガチャガチャ鳴って、開いた。美咲さんが、スーパーの袋を抱えて入ってくる。
「お帰り。」僕は玄関まで出て彼女に声をかけた。美咲さんは袋を降ろしながら、「もう帰ってたの?」と驚いて見せる。
「日曜日だっつの。」僕は苦笑した。
 美咲さんは、父の再婚相手だ。どこでどう知り合ったのかは知らないが、去年二人は結婚した。彼女は二十八歳、僕のほうが年齢的には近い。父とは一回り違い、僕とは十歳ほど違う。母というよりも姉といった方が近い気がして、彼女がはじめて家に来た時には、僕はものすごい違和感を覚えた。だから今でも僕は彼女のことを母さんと呼べずに、「美咲さん」と呼んでいる。
「今日、父さんは?」
「出張。今日は茨城だから、帰ってこないわよ。」
 美咲さんは僕の問いに答えながら、袋の中身を冷蔵庫に移し始めた。僕はテレビを見ながら、彼女の背中を見つめている。水に濡れたTシャツが肩甲骨を浮かび上がらせて、やたらとセクシーだった。
「あ、そういえば服濡れてるんだ。」
 袋の中身を全て写し終えてから、美咲さんは思い出したように言って、脱衣所のほうに歩いて行った。なぜか分からないけれど、彼女は雨に濡れると、必ずシャワーを浴びたがる。僕はやれやれと立ち上がり、ボイラーのスイッチを入れた。


「何見てるの?」
 バスルームから出てきた美咲さんが、ソファに座った僕を見ていった。髪を拭きながら歩いてくる美咲さんの姿はどこか艶かしくて、僕はドキドキしてしまう。
「映画だよ。」僕は目を逸らすようにして言った。美咲さんは画面を覗き込む。
「『007』?古いもの見てるわね。」
「そう古くもないよ。格好いいし。」
 僕が呟くと、彼女は僕の隣に座り、冷蔵庫から取った缶ビールのフタを開ける。
「飲む?」
 彼女はもう一缶を掲げてみせる。僕は頷き、それを受け取った。プルタブを引っ張り、喉に流し込む。体の奥の方が熱くなる。
 そっと美咲さんの顔に唇を寄せると、軽く耳をかんだ。彼女は一瞬ふっと息を止めて、けれどその呼吸は、やや荒くなり始める。
カチリ。身体のどこか、聞きなれたスイッチの音がした。
「抵抗しないの?」
 僕が小声で尋ねると、彼女は苦しそうに首を振る。そっとその首を押さえると、僕の唇を彼女に押し当てた 僕は彼女の首をこちらに向けさせ、そっと唇を押し付ける。美咲さんは一瞬体を強張らせたが、すぐに力を抜き、僕の舌に応えるように、動き始めた。
 この人は、今僕の目の前にいるこの愛しい人は、しかしながら、義理とはいえ僕の母親でもあるのだ。
 堕ちてゆく、快楽。
 強い背徳感。悲しく、愛しい、永遠に叶うことのない恋。
 外はまだ雨だ。

☪☪☪

「浩二!コージ!」
 聞きなれた声にぼんやり振り返ると、そこに郁(ふみ)が立っていた。何かに怒っているのか、ふくれっつらだ。
「・・・なんつー顔してんだよ。怒ってんの?何で?」
「何で昨日、電話出てくれなかったのよ。電源入ってなかったし。」
「ああなるほどね。」僕は苦笑してみせた。「病院行ったときから切ったままだった。忘れてた。」
 嘘だ。昨日の夜は、美咲さんと一緒にいた。僕も美咲さんも、そのときになると携帯電話の電源は切ることにしている。2人だけの時を、邪魔されたくない。
 それが例え、恋人の電話であったとしても。
「病院?・・・ああ、そうか、もう薬切れてたの?」
「前に行ったの一ヶ月ぐらい前だったからな。まあ、もらいに行かないといけなかった。」
 半分は本当だ。検診に行く必要はあった。けれどそんなに急がなくても、まだ薬はいくつか余っていて取りに行く必要はない。
「・・・まあ、いいけど。」
 どこか憮然としない表情を浮かべ、それから普通の笑顔に戻って、「数学教えてよ。」と言った。
 郁と付き合い始めて、もうすぐ一年になる。可愛らしく、空気も読める子で、だからこそ僕は、彼女を突き放すことが出来ないでいる。
 また少し成績が落ちた、と、彼女は深刻な顔で言った。放課後の教室は静かで、外から聞こえる野球部やサッカー部の声だけが、時間の経つことの手がかりになる。
「数列がヤバイの。これ、ここ。」
 教材を見て即座に判断し、シャーペンで指し示しながら説明する。
「ここの分からないところを文字にするわけ。例えば、a、bと置くと、ここは2b=3+a。」
「何で?」
「等差中項の公式って言って、こうなるようになってるの。」
「出る?」
「八割は。」
 他愛もない学生の会話。だからこそ、一緒にいて気まずくならない。
「で、これにbを代入して、cが出る。」
「へぇー!」
「感心してないで解けって。」
「うん。」
 シャーペンを数学のプリントの上でさらさら走らせながら、郁は呟いた。
「ねえ浩二。」
「ん?」回答をチェックしながら、相槌を打つ。
「別に連絡取れないのは仕方ないけどさ、」ぴたりとシャーペンの動きを止めて、プリントを見たまま、郁は言った。「嘘はつかないでよ。」
 ドキッとした。
「・・・嘘?」
「・・・とぼけるのね。」郁はまたシャーペンを動かし始めた。「浩二、私さ、隠し事は嫌いじゃないけど、隠していることを知ってて、しらんぷりなんか出来ないの。知ってるでしょう?」
 だから、と、郁はシャーペンを置いて僕を見た。
「隠さないでよ。本当のことを言って。でないと、私・・・」
 言葉は、そこで途切れた。僕を見つめる郁の瞳はひどくまっすぐで、僕はたじろいだ。
 なんだか、とても情けない気持ちになっていた。

☪☪☪

「そりゃ、津村は何か感づいてんだろ。」
 高広が決め付けたように言って、グイッとコップを飲み干した。一升瓶を握ると、それをひっくり返す勢いでとくとくとコップを満たした。
「うん、僕もそう思う。・・・高広、飲みすぎ。」そう諌めたのは、勇(いさみ)だ。高広は、もう顔が真っ赤になっている。
「問題は、」高広がコップを持って言った。「津村が、何を分かってるかだ。」
 勇の家は昔ながらの木造二階建てなのだが、僕らはたまにこうやって集まって、座敷に座り込んで日本酒を飲む。僕と勇はザルだが、高広はそうではない。一杯飲んで酔っ払い、2杯目をちびちびと飲んで、寝てしまうのだ。
「さあ?」僕は肩をすくめて見せた。「心当たりはないですな。」
「・・・んだよ、ただの痴話喧嘩・・・かよ・・・」高広はふてくされた顔をした。「つーか、お前ら、どうやって長く続いてんだよ、彼女と。」
 ここで言う彼女とは、僕にとっての郁、勇にとっての遙のことだ。
「うーん・・・僕は一緒にいるだけだからなー・・・」勇は考えながらぽつぽつ呟く。僕は高広をからかった。
「つーかコツとか訊く前に彼女を作ったらどうだ?」
「そーなんだよなー・・・」相槌を打ちながら、高広はごろりと寝転がった。そして、そのまま寝息を立て始めた。
「あーあ、寝るなって言ったのに・・・」
 そう言いながらも、高広を見る勇の目は優しい。高広の手からコップを取って横にすると、また座りなおし、「で?」と、これは僕に向かっていった。
「津村さんの感づいてることって言うのは、もしかして、美咲さんのこと?」
 勇は言った。僕は頷く。
「何?見られたの?」
「・・・いや、そうじゃないんだけど。」僕は言って、酒を少し飲んだ。腹の底が熱くなる。
「お前、律子さんは?」
「うん・・・まあ、変わらないかな。」勇は苦笑した。「昨日もね、また愚痴を聞かされてたんだ。夫の帰りが遅い、だのなんだの。」
 律子さん、とは、勇と寄り添っている女性だ。三十八歳、童顔でスレンダー、若々しく、そして人妻である。勇は僕ら三人の仲では一番無邪気で素直だ。そういうところが、律子さんを惹きつけたのかもしれない。
「律子さん、ヒステリーなんだよね。」勇はそう言いながら、一升瓶を空けた。「まあ、そういうところが、やっぱり僕は好きなんだけど。」
「・・・すげぇサラッと言うな。」僕が呟くと、勇は「何が?」と目をぱちぱちさせた。勇にとって「好き」という気持ちは、彼の素直で堂々とした気持ちなのだろう。
「美咲さんと、うまく言ってないの?」
「・・・いや、そういうわけでもないけどさ、」僕はコップに注がれた酒をちびちびと飲んだ。「美咲さん、自己主張少ないからさ。」
 僕らは二人して高広を見た。ガッチリした顔つきに似合わない純粋なハートを持っている高広には、僕も勇も不倫のことについては何も伝えていない。受け容れられるほど、彼は恋愛に慣れていない。
「俺と二人のときは、気を遣ってんのもあるかもだけど、親父のことなんてカケラも言わないよ。」
「そうだよねぇ。美咲さん、そういうこと口にするタイプじゃないしねぇ。」
したり顔で言う勇の、その表情が面白くて、僕は思わず吹き出した。
「・・・ま、焼酎ロックに合わせるには、」
「うん。ちょうどいい肴だね。」
 勇は言って、それから苦笑して見せた。

☪☪☪

 雨は降らなければ困るし、けれど降りっぱなしも憂鬱になる。
暗くなった部屋、ぼんやりとベランダを見つめる。叩きつける雨はけれど、窓を濡らすことはなくて、だから世界は妙にクリアだ。
突然携帯が震えだし、僕はテーブルからそれを取って開く。メールボックスを開くと、郁からのメールが一通届いていた。
『夕飯食べに来ない?今日親がいないから、一緒に食べる人いなくて・・・』
 僕は驚くよりも先に困惑した。あの日から、僕らはほとんど話をしていない。その後初めてのお誘いが、家だ。美咲さんは、今日はパートで、十時ごろにならないと帰ってこない。それよりも遅くなるなら、メールを入れておけばいいだけだ。
『OK、今から出るよ。』
 そう返信すると、僕は服を着替え、携帯と財布をポケットに入れてから玄関に向かった。傘をもって家を出ると、鍵を閉める。一階まで降りると、エントランスにある郵便受けに鍵を入れた。マンションを出て、空を見上げる。雨は思っていたよりも弱く、僕はひとつ頷いてから、傘を差して歩き始めた。
 足もと、傘をかわした雨粒がコンクリートに跳ねて、ジーンズをわずかに濡らす。ぐっしょりと濡れることもないが、それでもわずかに裾はハリを失っていく。バス停の待合所に駆け込んだときには、その部分は徐々に色を濃くし始めていた。椅子に座って脚をばたばたやっていると、バスがすっと停留所前に現れた。
 彼女の家は、この地域でもっとも大きなバスターミナルの裏側にある、マンション乱立地帯の真っ只中にあった。
 十五分ほどバスに揺られると、駅ビルとドッキングしたバスターミナルに着く。西口から裏通りの方へと抜けると、ビルが立ち並ぶオフィス街に出ることになる。僕はその中へ入っていき、ビルとビルのわずかな道路の中へと入ってゆく。そこに、彼女のすむ一軒家があった。彼女の父親の経営する会社がその真後ろにあり、そのためここに家を建てたらしい。
チャイムを鳴らすと、インターホンから声がする。
「ちょっと待ってて、今あけるから。」
 すぐにブツン、とそれが途切れ、やがてドアが開き、郁が姿を現した。
「いらっしゃい。」郁はニコッと笑う。「入ってよ。まだ夕飯には早いけど。」
「お邪魔します。」 
 僕は小さく呟いて、用意されたスリッパに履き替えてから歩き出した。
 リビングに入る瞬間、僕はやっぱりいつも通り、一瞬だけ逡巡する。
 高級感の漂うソファ、絨毯、テーブル。天井から吊り下がったランプはあちこちの出っ張った奇妙なデザインのもので、中で乱反射した光が広がり、そのおかげで部屋は変に温かいオレンジ色に包まれている。
「紅茶とコーヒー、どっちがいい?」
 キッチンから郁の声がする。僕は少しだけ考えてから、紅茶を選んだ。
 テレビでは白黒の画面が細々と動いていた。見覚えのある、ヒゲの印象的な俳優が、機械工場で働く男をコミカルな動きで演じている。イギリスだったか、ドイツだったか。それは怒りの象徴。あるいは、悲哀の叫び。
「『モダン=タイムス』よ。」
 声に振り返ると、郁はティーカップを二つ載せた銀盆をテーブルにおき、カップを下ろしていた。さらに乗った大きなクッキーのようなものは、確かスコーンとか言ったっけ。カップから湯気が上がっている。アールグレイ特有の、ベルガモットの香りがした。
「チャップリンかぁ・・・」僕はソファに座ると、カップを持ち上げる。「見たことなかった。郁って、こんなのも見るの?」
「親の影響もあるんだけどね。」郁はキッチンから戻ると、僕の隣に座る。「チャップリンって、この時代に生きてた貧民階級の人たちの気持ちを代弁してるところがあってさ。それを直截的な批判じゃなくて、こういう形で婉曲的に表現するって、すごいことだと思う。」
「チャップリンって、そんな作品だったのか・・・」僕は思わず溜息をついていた。「全然知らなかったな、俺。ただのヒゲの映画監督だと思ってた。」
「何?その形容。」郁はくすくすとおかしそうに笑って見せた。「どうせだし、最後まで見ようよ。」
 そして僕たちは二人並んで座ったまま、『モダン=タイムス』を見た。
 コミカルでユーモラスなストーリー。主役は、貧民層の少しだけおかしな男。何度も警察につかまっては出所し、その中で親を失ったホームレスの少女と出会い、恋をし、そしてまた捕まり、全てを失い、それでも最後には、彼女と共に笑顔で未来へ向かって歩いていく。セリフというセリフがほとんどないのに、とても笑える映画だった。
 けれどその物語には、当時の暗い時代背景が浮き彫りになっている。機械文明の出現によって急増した失業者たち。彼らの起こすストライキや警官隊の横暴。さりげないほどに、当然のように描き出される世界観。けれどそれは確かに、婉曲的で、それでいてどこか直截的なメタ・メッセージ。
 ぼんやり、夕暮れのような部屋の中、僕らは並んだまま、白黒の画面を見つめていた。

☪☪☪

「へぇ・・・」僕は思わず目を丸くした。「美味いな・・・意外だ。」
「何よ、それ。」郁はぷっと膨れて見せながら、けれど嬉しそうに頬を紅く染めた。
 夕食は唐揚げだった。唐揚げというのは、一見揚げるだけの簡単な料理に見えて、実はとても難しい。そう、僕は知っている。このさっくりとした衣を揚げる、その難しさを。
「これすげぇよ。この衣が、変に油っぽくないのがすげぇ。俺こんな揚げ方出来ないんだよなぁ・・・」僕はそう言いながら味噌汁を口にする。「うおっ!こっちも美味ぇ!」
「もう、ちょっと褒めすぎ・・・」郁はテーブルの向こう側、茶碗を持ったまま紅くなっている。その姿が妙に可愛らしくて、僕はドキッとしてしまった。
 食事を終え、僕は食卓に肘をついて、洗い物をする郁の背中をぼんやりと眺める。洗剤のついた皿を実に手際よく流し、食器洗浄機にてきぱきと立てていく。まるで手品のようだ。
「つーか俺、お前が家事得意なんて知らなかったぜ?」
「いや、別にあんまりひけらかすことでもないのかなーって。」水音にかき消されない程度の声で、郁は言った。「だって皿洗いよ?結構誰でも出来るでしょ?」
「お前、今、家事の出来ない女の子達全員にケンカを売ったな?」
 僕は苦笑して立ち上がり、リビングのソファに座った。テレビは、先ほどから賑やかなお笑いバラエティ番組を放映している。
「はい、浩二。」
 声に振り返ると、郁がニッコリと微笑んでビールを差し出していた。
「マジで?いいの?」
「うん。ホントは父さんのなんだけど、どうせ今日職員旅行で、父さんも母さんも帰ってこないから。」
 ビールを開けようと仕立てが、一瞬空中で止まった。
「・・・あれ?仕事で帰りが遅くなるとかじゃないんだ?」
「そ。鬼怒川温泉行ってるの。」
「渋っ。」
 そう呟きながらも、体の奥の方、あのスイッチの音の手前に感じる、奇妙な感覚が上ってくるのを感じる。
 僕はテーブルに缶を置くと、ソファから立ち上がった。
「俺・・・帰るわ。」
「え?」郁が驚いて僕の袖を掴む。「どうしたの?何で突然・・・?」
 僕は少しだけためらって、それから言った。
「・・・このままだと、俺多分ヤバい。今日は俺、薬も持ってきてないんだよ。」
 胸が息苦しくなってくる。少しだけ胸をさするが、それくらいでは、その焼きつくような感覚は消えてくれない。
「知ってる。泊まるつもりもなかったってことも、だから薬なんて持ってきてないことも。」
 そう囁いた郁はけれど、袖を離してはくれなかった。怯えるように、声が震える。
「ねえ、浩二。私・・・」
 その瞳は、わずかに潤んでいた。
 カチン。
 あの音が聞こえ、そして気がつくと、僕は彼女の上から覆い被さるようにして、彼女をソファに押し倒していた。最初は怯えるように肩をすくめた郁も、けれどすぐにすっと力を抜き、ゆっくり目を閉じる。唇を押し当てるだけのキスから、徐々にそれは熱を帯びてゆく。もはや僕は、完全にもうひとつの人格を発現させていた。
 どちらかが、本当の僕。
 けれど、どちらも、本当の僕。
 普段それを抑えている化学物質の力が弱まって、その行動の制御を完全に不可能としていた。もはや僕は、戻れないことを自覚して、突き進み始めていた。
 唇を離すと、下から彼女が僕の目を見つめている。
「思ってるほど、生易しいもんじゃないぜ。」僕が小さな声で囁く。知ってる、と、彼女は頷いた。
「私は、浩二のそういうところも好きなのよ。」

☪☪☪

 脂汗が出ている。マンションのドアを開けると、這うようにキッチンへ入り、薬棚を開けた。中に並んだ袋のうち、唯一色が青いものを取り出して、中から錠剤を取り出す。二錠をシートから押し出すと口に投げ入れて、水道水で喉に流し込む。しばらくじっと伏せていると、徐々に脂汗が引いていき、濡れたシャツがべっとりと背中に張り付いてきた。気持ち悪いと感じる余裕すらなかったのか。愕然とすると同時に、なんだか少しおかしかった。
 服を洗濯機に投げ込んでからリビングに入っていくと、ソファに身を投げ出すようにして座り込む。疲労感と共に上ってくる、奇妙な達成感。ぼんやりとした頭でテーブルを見て、思わず顔をしかめた。
 おそらく、美咲さんが食べてから家を出たのだろう、インスタントスパゲティの空が無造作に置きっぱなしになっていた。それを持って立ち上がると、もう一度キッチンに行って、ゴミ箱にそれを捨てた。
 ソファに座りなおし、窓を見上げる。
 外は今日も雨だった。時計を見ると、もうすぐ5時だ。それなのに、雨はその勢いを落とす気配すら見せない。ヴェールのように濃く白い雨が、ただ降りしきる。
 梅雨の雨はあまりに長い。過ごしている時間が余りに無作為に思える。そこに思考の入り込む余地はない。この連休をこうしてぼんやりと過ごすのが、妙に贅沢に感じられる。
 郁は、今日はバイトだと言っていた。ドラッグストアのレジ係。うちの高校の厳しい校則をくぐりぬけ、けれど郁は楽しんで仕事をしていた。だからこそ、僕は逃れるようにして彼女の家を後にしたのだ。
 ふいに玄関でガチャガチャと音がして、僕ははっと我に帰る。ドアが開き閉じる音を聞きながら、僕は玄関へ出る。
「お帰り、美咲さん。」
 僕の声に、濡れた髪をそっと撫でていた美咲さんははっと振り返って微笑んだ。
「ただいま。」
「スパゲッティの空、片付けといたよ。」彼女の荷物を受け取りながら僕は言った。「それとも、何かに使う予定だった?」
「え?ううん。」美咲さんは首を振り、それから微笑んだ。「ごめんね、ありがと。」
 美咲さんはバッグを置くと、そのままシャワーに入っていく。僕はキッチンに入って、いつものようにボイラーのスイッチを押した。
 リビングに戻ると、バッグの中から『モダン=タイムス』のDVDを取り出し、テレビの前に座り込む。郁が貸してくれたのだ。DVDデッキにそれを差し込むと、テレビ画面の設定を変えて、ソファに戻る。
 シャワーの音が聞こえる。それが僕の、小さな決意を揺さぶる。

☪☪☪

 僕らはその夜、セックスをした。
 僕らはいつもよりも静かに、いつもよりも激しく、けれど、いつもよりもどこか他人行儀にそれを行った。彼女にも、僕にも、なんとなく分かっていた。僕らの周りを囲っていた奇妙な、けれど厚い壁は、この瞬間にはもう取り壊されているように思えた。
 それを壊したのが自分であることも、僕は分かっていた。
 そして、僕がそれを壊した理由も、美咲さんには分かっているようだった。
 行為が終わると、美咲さんは欠片も休むことなく、ベッドを降りて、備え付けの小型冷蔵庫の方へと歩き出した。
「ねえ、美咲さん・・・」
 ためらうように僕が呼びかけると、けれど美咲さんは何も言わずに、冷蔵庫から取ったミネラルウォーターを僕に投げた。それを受け取ると、彼女はただ首を振った。
「分かってる。」美咲さんは呟いた。「言わなくてもいい。ちゃんと分かってる。」
 僕が何も言えずにいると、彼女はまたベッドに登り、背にもたれるように座った。ミネラルウォーターを半分ほど一気に飲み干すと、でもね、と、けだるそうに言った。
「私はもうだめ。もう戻れないの。深い海の底に来ちゃって、周りには何もない。浮きたいと思っても、どっちが上なのかわかんない。浩二君の隣にいると、それだけで居心地がよくて、このまま溺れたってかまわないって思えちゃう。」
 また体のどこかで、カチッ、音がした。だから、と、彼女はそれに気付くそぶりもなく、サイドテーブルにペットボトルを置いて、それから僕の胸にそっと触れた。
「だから、今日だけは、私の隣にいて。明日からはもういらないから、だから今は、私を許して。私を、あなたで染め上げて。」
 僕は彼女の唇を奪いながら、サイドテーブルにペットボトルを置いた。一瞬だけ硬くなった身体、けれど彼女はすぐに僕に身を任せ、その舌に応える。
 僕は彼女を信じて。彼女は僕を信じて。
 深く落ちた底から見る海面は遠く、けれどそれでも確実に見えている。
 ちらりと窓の外を見ると、雨はいつのまにか消え、満月が晧々と光っていた。僕らは、明日の夜には、きっともう義理の親子の関係に戻っているだろう。父と交えて3人で、食卓を囲み、父の土産話に笑い声を漏らすだろう。
 だからきっと、今夜は眠らない。
 月は輝く。今夜、僕らが時を忘れて、互いを求め合っていても。
 月は輝く。晧々と。ただ、晧々と。

Ⅲ・Breaking A Commandments

 バスを降りると、冷たい冬の空気が肺を貫いた。コートの襟を立てながら、私はロータリーの時計台を見上げる。約束五分前。ちょうどいい時間だ。
 辺りには夜の気配が立ち込めている。駅舎を出て路上駐車の列を見流すように視線を動かして、もう見慣れた青のスカイラインを見つける。駆けるように近付いて、助手席の窓をトントンっと叩くと、タッキーは読んでいた小説から目を上げ、そっと微笑んだ。
「久しぶり。元気だったかい?」
 助手席のドアを開けて乗り込むと、彼は閉じた小説をダッシュボードに入れながら尋ねた。私は頷く。
「今日は早く帰ったの?それとも行ってない?」
「今日は早く帰った。」私はベルトを締めながら答える。「今日はどんなお店に連れてってくれるの?」
「それは秘密。当ててごらん。」
「えーっ?なんかずるい!教えてよ!」
 彼が微笑んで言った言葉に、私はちょっと甘え声で言う。彼はけれど笑いながらハンドルを切り、車をスタートさせた。
 金曜日の逢瀬。
 サイトで知り合ってから、もうすぐ半年になる。
 こうやって毎週逢う関係になるとは思わなかったけれど。
 最初会ったときの印象が若く、私は彼を二十代だろうと思っていた。彼が四十一歳だと聞いたときには、驚きすぎて言葉を失ったほどだ。
 毎週金曜日の夜。
 彼と食事をして、時にはちょっとだけお酒を飲んで、そして家まで送ってもらう。誰もいない、閑散とした家で、彼と過ごした時間を反芻し、一人リビングで過ごす。
 それが私の過ごし方。
 彼は今まで一度も、私の体を求めたことはない。私の身体に魅力がないのか、あるいは奥さんに遠慮しているのか。彼自身がもう出来ないということもありうる。
 彼は外資系企業の幹部だった。自らが訪れた様々な海外の町のことを、面白おかしく話してくれる。深く澄んだ、心の奥に染み渡るような声。整理された話し方。
 そのときだけは、彼が本当に年上の男性であることを意識する。
 私は彼が好きだ。

☪☪☪

「なんか・・・イタリアンって、タッキーっぽくない気がする。」
 コートを脱いで椅子の背にかけ、私はきょろきょろと店内を見渡した。彼は首をかしげる。
「そうかい?」
「うん。なんか、和食とか懐石とか、そんなのばっかり食べてるイメージがあったからさぁ・・・」
「まさか。」タッキーは苦笑した。「確かに役職柄、そういうの食べる機会は多いし、嫌いでもないけどね。だけど、結構いい値段なんだよ、懐石とかって。だから本当は、こういうリーズナブルな方が好きなんだ。」
 気負わなくてもいいし。最後にボソッとそう付け足したのが面白くて、私はクスッと笑って、それからもう一度店内を見回す。木造りのあたたかい雰囲気。椅子もテーブルも、それに合わせた木の装飾で、空気はぬくもりに満ちていた。
 テーブルの中央の、燭台風のスタンドを見つめていると、その視線の先、タッキーがぼんやりとみえる。
 それが、妙に嬉しくて。
「どうかした?嬉しそうな顔してるけど。」
 はっと我に帰ると、タッキーがからかうような微笑みを浮かべて私を見つめていた。
「べ、別に・・・」私は慌ててしまって、それを取り繕おうとフォークを取り出す。
「まだパスタは来てないよ。」
 タッキーは大笑いする。私はフォークを置いて耳まで熱くなった頬をこすりながら、ふくれっつらで呟く。
「そこまで笑わなくてもいいじゃん。」
「ごめんごめん。」
 タッキーはそれでも笑っている。
 やがてパスタが運ばれてくると、タッキーは鮮やかな手つきでパスタを巻き上げ、口に運ぶ。その姿はひどく煽情的で、私はドキッとしてしまう。胸の動悸をごまかすために、私はパスタを口に運ぶ。ガーリックのよく聞いたパスタは、舌の上で強く香った。
「そう言えばタッキー、イタリアは行ったことあるの?」
 私はふと思いついて尋ねる。タッキーは少しだけ考えると、「ああそう言えば、」と笑顔になった。
「一度だけあった。アンコナって言う、アドリア海に面した港町でね。古い町で、ローマ帝国時代からあったんだって。サン・チリアーコ大聖堂って言う古い教会があって、すごく綺麗なんだよ。・・・」
 そう言って語る彼に相槌を打っていると、私はいつも彼の住む世界との違いを感じる。
 かたや世界を飛び回る、超やり手の外資系企業幹部。
 かたやこれといって特徴もない、ただの女子高生。
 そこに感じる、わずかな、けれど深い溝。
 彼の手招きがなければ、それを乗り越えることすら出来ない。
 寄る辺もなく曖昧に揺れるフォークの先は、スタンドの仄かな灯りに揺らめいている。
「どうかしたの?」
 タッキーが心配そうに私の顔を覗き込む。私は無理に笑顔を作って、それから残りのパスタを口に詰め込む。鼻をつくガーリックの香りが突然強く感じて、私は思わず顔をしかめた。
 タッキーは、そんな私の様子を何も言わずに見つめている。
 私の皿が空になったころ、タッキーは口を開いた。
「まだ時間、大丈夫かな?」
「え?まあ、別に大丈夫だけど・・・」
 そんな事を聞かれたのは初めてだ。今までは、このあとはすぐに、家に送ってもらうだけだったのに。
 タッキーは、いつになく真面目な表情で言った。
「少し君に、見せたいものがあってね。」

☪☪☪

 車は地下に入っていく。県下でも有数の高級ホテルは、よく政治家の会合場所になる施設だった。艶やかさというよりは、政治的な匂いのほうが強い場所。
 地下の駐車場に車を停めると、彼は車を降り、私と共にエレベーターに乗り込んだ。一番上の「16」を押すと、すぐにドアが閉まる。人を運ぶ小さな箱の中に流れている音楽は、たしか、四〇〇年程前に生きていたドイツの作曲家が作ったものだ。
 エレベーターは徐々に速度を落とし、やがて、止まった。タッキーは私を促して先におろし、それから自分も降りる。
 広いバーのようだ。入り口には小さなブラックボードがあって、メニューが綺麗な楷書体で書き込まれていた。
「いらっしゃいませ。」
 中に入ると、カウンターの内側にいる女性が頭を下げた。「何名様でしょうか。」
「『トレモロ』の前田と申します。」
 タッキーは丁寧に名を告げる。女性はそっと手元のノートに目を落とし、ひとつ頷いた。
「どのようなご用件でしょうか?」
「ボックスルームは空いてますか?」タッキーは彼女に微笑んでみせた。
「少々お待ちください。」女性はカウンターのパソコンを少し操作して、頷いた。「大丈夫です。全て空いています。」
「それじゃあ、2号室に白と赤を一本ずつ。グラスは二つ用意してください。それから、ロイズのチョコレートを。」
「かしこまりました。」
 女性が頭を下げると、タッキーはまた私を促して、奥へと進んだ。
 この歳でバーに入っていくというのは、なんだか妙な気持ちだ。いけないことをしているようで、なんだかドキドキする。一般客の人たちの怪訝そうな視線を浴びながら、奥の廊下の入り口へ通される。
「タッキー、なんかここ、関係者以外立入禁止になってるよ。」
 黒い、おしゃれなドアの並んだ廊下に平然と入ってゆくタッキーの背中に、私は言った。彼は意味深な微笑みを返して、けれど戻ってくることもなく、逆に私を手招きした。仕方なく、私も彼を追って、その廊下に入っていく。
 廊下を縁取るブルーのライトが、足元から上がってくる。薄暗い、藍に染まった廊下。まるで海の底を歩いているような、そんな錯覚にもとらわれる。
 最初の角を曲がってふたつ目のドア。その前で彼は立ち止まり、ポケットから名刺入れのようなものを引っ張り出すと、中から厚めのカードを取り出して取っ手に差し込んだ。電子音が響き、がちゃっとロックの開く音がする。
「さあ、」彼は扉をグイッと引くと、部屋の中へと手を向けながら言った。「入ってごらん。」
 彼に促されるままに部屋に入り、私はそこでそのまま立ち尽くした。
 小さなリビングルーム。そんな言葉が一番合う。光沢のあるシルクのソファ。ガラス張りのテーブルは、脚に海外家具メーカーのマークがついている。 65インチの薄型テレビ。奥の方にある小さな机には向かい合って座るように椅子が設置されていて、机の上の盆には、伏せたワイングラスがふたつ、窓の外からの光でキラキラと輝いていた。
「・・・ここ、何・・・?」
「僕の会社の重役だけが泊まれる・・・そうだなぁ、プライベートルームとでも言うのかな?」彼は窓のそばまで言って、私を手招きした。「来てごらん。」
 彼に導かれるままに私は窓辺へと向かい、窓から外をのぞきこんだ。
「うわぁ・・・」
 思わず、私は声を上げた。
 眼下に広がる、私の街。ネオンが規則正しく並んだビル街。国道に沿うように並んだそれらのビル群は、オレンジや黄白色の人工的な輝きに彩られていた。
 それは、光の海にも似ていた。
「僕がまだ二十代のころ、入社して初めての管理職ポストをもらったとき、当時の社長が連れてきてくれたんだ。」
 彼はいつのまにかわたしの肩に手を置き、背後から外を見下ろしていた。
「若くて、まだ部下たちをうまく統率する力量を持たなかった僕に、ここでストレスを発散するといいと言ってくれた。本来幹部しか入れないんだけど、二泊まで泊まれるし、この店は会社の傘下だから注文も自由にするといいって。」
 眼下の国道、テールランプの列がゆらゆらと揺れる。
「しょっちゅうきていたよ。ここに来て、こうやって、窓から街を眺める。それだけで、また頑張れるような、そんな気がするんだ。ワインを飲みながら外を眺めて、夜はそこの入り口から寝室に入って、眠る。」
 彼は手を挙げた。その指の示す先、壁にぽっかりと穴があいたように入り口があって、その奥には、二人も横になればもう一杯になってしまいそうな、大きなベッドが置いてある。
「今でも、元気がなくなったとき、心が折れそうな時には、よくここに来る。ここは、僕の社会人としての原点だから。」
「・・・なんで・・・」ようやく取り戻した声は、けれど、掠れていた。「なんで、ウチなんかを・・・?」
 どうして?どうして私を連れてきたの?
 頭の中でぐるぐる回る疑問は、けれどほどける事無く回りつづける。そして、ふと気がついた。
 タッキーも、わずかだけれど、声が震えている。
「・・・君が、ご両親の海外勤務で寂しい思いをしているのは知っていた。」タッキーは静かな声で話し始めた。「けれどそれでも、僕はこれ以上、君との関係に、深いところへ踏み入ってはいけないと思っていた。君は若いし、僕には妻もいる。君を望むことは、本当は許されないことだということも分かっている。」
 肩に置かれた手に、少しだけ力が入ったのが分かる。その分だけ骨がきしむように痛くなって、けれどそれが、彼の言葉に見える感情のもどかしさと切なさの証明だった。
「君が僕をどう思っているかは、分かっているつもりだ。それに僕も、君に好意を持っている。こういう関係が、本当は続かない方がいいのも分かっている。けれど僕は、やっぱり踏み切れないんだ。こんな風に、このままの関係を維持する方がいいはずなのに・・・」
 私は彼の唇に指を当てた。これ以上、言葉は要らない。身体をくるりと反転させると、そっと伸び上がって、彼の唇とのわずかな距離を埋める。軽く触れて、それだけで唇を離す。彼を見上げると、少しだけ戸惑ったような、迷っているような、そんな複雑な表情で彼は立っていた。
 彼の手から離れ、私はぽっかり空いた入り口からベッドルームへと入る。ベッドの向こう側に、小さなテーブル。入り口の脇にある、小さな一人がけのソファ。
 コートをそっと脱いで、ソファに置く。入り口を振り返ると、彼はまだ戸惑ったような表情のままで、入り口のところで立ち止まっていた。
「壊して。」私は言った。「あなたの手で。言葉なんていらないから、だから、あなたの手で、ぐちゃぐちゃにウチを潰して。それが、タッキーのしなきゃいけないことよ。」
 彼はいつのまにか、私のそばまで歩いてきていた。
 その瞳に、もう迷いの色はなかった。
 いつもよりも少し乱暴に、少し強く、けれど彼らしい丁寧さで、私の腕をつかんだ。
 彼の手が伸び、私は服を着たまま、ベッドに投げ出される。
 スプリングの感覚。剥がれてゆく服の感覚。彼の大きな手。舌と舌の絡み合う、熱の溶け合うような心地。
 私は目を閉じ、全てを、彼に預けた。

☪☪☪

 次の朝、太陽の光に目が覚めた。
 昨日までとは違う身体の感覚に、馴れるまで少し時間が必要だった。
 違和感。
 寂しいような、嬉しいような、そんな矛盾した感覚に襲われて、私は軽くまぶたをこする。
 ベッドから降り、冬の朝、肌を刺す冷たい空気に、私は思わず身体をブルッと震わせた。床に落ちていた服を身につけると、リビングを覗き込む。朝の太陽が東側から射し込んで、テーブルに置かれたワインの瓶がキラリと光る。
 テーブルに立てられた、一対のワイングラス。
 わずかにそこに残った赤味は、私の飲みそこねた分だろう。
 ふと思い立ってワインを注ぎ、口に含んでみる。空気に触れてしまったそれはもはや味を失ってしまっていて、けれどそれでも、アルコールとわずかな果実味があって。
 シャワーの音がする。
 土曜日の朝。学校は休み。彼は午後から出張で、出勤する必要もないのだと言っていた。
 窓から見下ろした朝の国道は、まだみんな眠っているのか、いつもよりもスムーズに流れているように見える。
つかの間の幸福。
 昼を過ぎ、家に帰れば、私はきっと郁たちに誘われ、買い物にでも出かけるのだろう。真夜中の語り合いを胸に秘めたまま。この幸福を胸に秘めたまま。
 朝が、終わろうとしていた。

Ⅳ・”More Than Blue"

 雨は布のように、さらさらと降っている。傘を差したままゆったりと歩いていくと、アーケード街のほうに入っていく。屋根の下に入ったところで、私は傘を閉じ、ふっと息を吐いた。
 一番街アーケードは賑わっていた。この不景気、安定して収入を得られる地元の商店は強い。あちらこちらの店で、おまけだとか値引きだとか、そういう言葉が飛び交っている。
 世間話をする店主とおばさんたちを尻目に、アーケード中央部の大きな広場に到達する。
 煉瓦造りの門をいくつか備えた大きな囲い。その真ん中に広場があって、いつもは子供たちが遊んでいる。けれど今日は雨のせいか、人は少なく、若いカップルが数組、歩いているだけだった。
 慣れないコンタクトに目を瞬かせながら、少し広場を見回す。
 勇は壁に背をもたせかけ、片手で携帯をいじっていた。私が近付いていくと、彼は一度大きく目を見開いて、携帯を閉じ、もたれていた壁から背を離した。
「ごめん、待ったでしょ?」
 駆け寄った私が謝ると、勇は肩をすくめて見せた。
「いや、そんなには。それより、早く行こう。もうすぐ始まっちゃうよ。」
 勇はそれから、さりげなく手を差し出す。私はおずおずとその手を掴んだ。勇が嬉しそうに微笑む。
 ぬくもりが、さりげない行為の中に生まれる。それに気がつくたび、痛烈に、鮮烈なほどに、私は彼を想うのだ。
「コンタクトにしたんだ。」
「うん。」私は少し嬉しくなって頷いた。「一度つけてみたかったんだ。似合う?」
「コンタクトに似合うも何もないと思うけどね。」勇は苦笑した。「だけど僕は、どっちの遙でもかわいいと思うし、好きだよ?」
 屈託もなく勇は言い放ち、私は耳まで真っ赤になった。
 広場から西に伸びる二番街アーケードへ入っていく。こちら側はゲームセンターやボーリング場が並んだ界隈で、このあたりの高校生はよくここで遊びまわっていた。
 私たちは手をつなぎ、その明るい集団からは少しはなれた、古い映画館に入っていった。
「なんだっけ・・・『悲しみよりもっと悲しい物語(モア・ザン・ブルー)』?」
「そ。」勇の言葉に、私は頷く。
 初回の上演時間まではあと十分ほどあった。私たちはチケットを買って、エレベーターに入っていった。

☪☪☪

「勇くんて、そういうイメージなかったんだけどなぁ・・・」
 カバンに教科書をしまいこみながら、綾音は首をかしげた。放課後の教室はがやがやしていて、妙に居心地の悪さを感じる。
「あんまり器用じゃないから、言葉がすごく素直で率直なんだよね。だからかもしれないけど、勇といると、私もすごく素直になれるの。私の本当の姿って言うか、そういうのを出せる。」
「はいはいごちそうさま。」綾音はカバンのチャックを、勢いよく閉め、肩に背負った。「早く行こう。」
 教室を出ると二階に下り、そのまま棟をひとつ突き抜けて渡り廊下へ出る。体育館の扉を開けると、いつも通り、しんと静まり返った体育館には、誰もいなかった。
「じゃ、よろしく。」
 綾音はそう言うと、体育倉庫と消えていく。私がゴール下に着いたとき、綾音は体育倉庫からコートに入り、スリーポイントラインの外からバスケットボールを放り投げた。ボールはきれいに弧を描き、ゴールリングで跳ね上がって、けれどネットを揺らすことなく落ちてきた。
「うーん、入らないなぁ・・・」
 私の投げ返したボールを受け取りながら、綾音がぼやく。もう一度、今度はジャンプシュートを放つと、今度もリングで跳ね上がり、今度はバスケットに収まった。
「二本に一本は入ってるじゃない。」
「これじゃまだダメよ。」綾音はまたボールを受け取りながら首を振った。「アンタはボカスカ決めてたでしょ?あれくらいのレベルじゃないと。」
 綾音はボールを受け取るたび、すぐにシュートを放つ。決まったり、決まらなかったり。もともと外からのシュートが苦手な綾音が、こうして外からのシュート率を上げることで、私の穴を埋めようとしている。
 私が抜けたことで、バスケ部の実力は半減している。茜はまだ成長過程の司令塔で、とてもスリーポイントの練習など手が回らないからだ。
「遙、一本打つ?」
 綾音が言ったので、私は頷き、綾音とは反対側のスリーポイントラインに出た。綾音からのパスを受け取ると、素早く身体を入れ替え、シュートを放つ。高い弾道から放物線を描いて、ボールはリングに触れることもなくきれいに、シュパッとネットを揺らした。
「・・・さすがね。」
 綾音は囁くように言った。私は綾音にボールを返すと、コートを出てバッグを持った。
「じゃあ、帰る。」
 綾音は一瞬驚いたように目を開いて、けれど頷いた。
 体育館をぬけ、階段を降りる。職員室の前を通って校長室の方へ抜ければ、そこが昇降口になっている。ローファーをはいて外へ出ると、学校のフェンスを回って、裏の堤防へと出た。
 夕暮れ。滲んでゆく空をぼんやりと眺めて歩くのは、結構好きだ。特に、落ち込んでいる時には。
 堤防の道はオレンジ色に染まり、なんとなく続いている。つらつらと流れる川の水を見ながらゆっくりと歩いていると、自分の心がすっと楽になる気がする。
 強豪のバスケット部でレギュラーを取るのは確かに楽ではなかった。
中学校時代からフォワードとして名を馳せていた綾音がいたことで、私はフォワードでのレギュラー獲得は厳しいと判断し、ポイントガードへのポジションコンバートを断行した。もともとポジション的にはやったことのあるものだったし、そこからひたすらスリーポイントシュートの決定率をあげたことで、レギュラーになるのに時間はかからなかった。中は綾音が取り、外は私が取る。一年生の二枚で攻めるのが私たちのスタイルになった。
 けれど、今年の全国大会(インターハイ)、決勝戦。あとわずかで優勝が決まるという時に起きた衝突プレイで、私の膝は、あっけなく壊れた。
 輝かしい栄光と引き換えに、バスケットをするために必須の、走る力を失った。
 普通に日常生活を送るぶんには支障はない。けれど、跳んだり跳ねたり走ったり、そういう運動的な才能は、この怪我ですべて封じ込められた。
 それでも、私は未だにバスケットに未練がある。だからこそ、綾音の練習に付き合う。けれどそれは同時に、過去に自分がいた場所を見ることにもなる。その場所には、もう、私はいない。
 こうやって歩く時には、誰かと一緒にはいたくない。
 失ったもの。
 それを反芻すること。
 ただそれだけが、私の存在、その輪郭を、くっきりと浮かび上がらせる。
 大袈裟でなく、顕著に。
 日は落ちるように沈んでいく。冬の太陽は、長く空にいようとはしない。私は一人きり、堤防をゆっくりと住宅街の方へと歩いていく。堤防を十分ほど歩きつづけ、そこから降りれば、すぐに住宅街に入っていく。
 夕陽はいつのまにか、その身体を半分ほど隠し、川面は橙に染まっていた。

☪☪☪

 日が落ちると、辺りは驚くほどに暗くなり、川面は黒に染まる。コンクリートと草の境界があいまいになり、路肩を歩いていると、時折転びそうになる。堤防には人気がなく、時折通り過ぎる車のライトだけが、道を照らし上げた。
 そろそろ帰ろうかな。そんなことを考えながらなんとはなく後ろを振り返ったとき、私ははっとした。
男の人だろうか、中肉中背の、パーカー姿の人が後ろをついてくる。そう言えば、さっき堤防を歩いていたときから、ずっと後ろにいたような気がする。
 背筋がぞっと寒くなり、同時に、肩のあたりからいやな汗があふれた。寒さのせいではない事は、ちゃんとわかっていた。
 自然と足が速くなった。住宅街の方へ向かう坂を通り過ぎ、街の方へ向かいながら、私はちらりと後ろを振り返る。男は、これもわずかに足を速めていて、けれどやっぱり、私の後ろを歩いてくる。
 もう間違いなかった。
 頭が真っ白になった。ポケットから携帯を取り出すと、発信履歴を開いた時に一番上にあった名前に電話をかける。コール音が三回ほど鳴り、それから声がした。
「遙?電話、珍しいね。」
「・・・勇!」
 私の震える声に、勇も驚いたようだ。
「どうしたの?何かあった?」
「なんか、変な男の人がついてきてて・・・」私は足を止めることなく歩いた。声は、けれど、震えを抑えることは出来なかった。「勇、怖いよ。どうしよう?」
「待って。」勇の声音が、刹那、真剣なものに変わった。「今どこにいるの?」
「堤防、学校の裏の。もうすぐ市街のほうに出る。」
「こんな時間にいるから・・・」勇は少しだけぼやくように言ったあと、すぐに声を戻して、強い口調で言った。「とにかく、市街のほうに歩いてて。絶対に土手の方には降りちゃダメだよ。迎えに行くから。」
「勇・・・」私は囁くように言った。「お願い、早く来て・・・」
「分かった。」
 そう言うと、勇は電話を切った。私も携帯を閉じると、勇の言ったとおり、ただ歩きつづける。堤防の端っこにある端を渡って、その向こう側は、三番アーケード。あそこに入れば、男も諦める。私はそう信じて、歩きつづけた。
 そのとき、だった。
 ずきん、と、膝に刺すような激痛が走った。例えるなら、ナイフを膝の関節に突き立てたような、焼けるような、骨を断ち切られるような痛み。
 今なの?
 気を失いそうな痛みに、私は思わず崩れ落ちた。古傷だった。正面から蹴り折られた膝。普段よりも速いスピードで歩きつづけたために、膝に負担がかかっていた。
 痛みに耐え、脂汗を流しながら振り返ると、男は着実に近づきながら、その視線は確実に、うずくまる私をじっと見据えていた。私の傍らに立つと、しばらくじっと私を見下ろす。三十代も後半だろうか。髪も薄く、温厚そうな顔をしている。しかしその目は野獣のように爛々と光り、汚いらしい口ひげの隙間から洩れる息は荒い。恐怖と、痛みとで、私は声も出なくなっていた。体が動かない。
 男が、私にのしかかってきた。体重がかかる。生暖かい息が顔に当たって、臭くて気持ち悪い。必死にもがくが、男はそんな反抗などまるでないように易々と、制服を剥いでいく。ビリッ、と制服が引き裂かれ、胸に刺すような寒さを感じた。声が出ない。私は、せめて目を閉じた。
 ふいに体が重さから解放され、私は驚いて目を開いた。
 男が土手の方に転がっていて、私と男の間には、誰かが立っていた。薄い色のコートを脱ぐと、彼は私の体を包み込んだ。
私を見下ろした顔は、汗まみれになった、勇の顔だった。
「ごめん、遅くなって。大丈夫?」
 私は安堵とまだわずかに残る恐怖で、首を振ることしかできなかった。勇はほっと息をつくと、「ちょっとだけ待ってて。」と呟いて、立ち上がった。
 その表情に、私はギョッとした。今までの勇にはない、怒りに満ち満ちたものだった。
 明王の憤怒。
 勇は土手を駆け降りて、伸びた男を蹴り飛ばし、土手から転げ落とした。胸倉を掴んで男に何か呟く。そして次の瞬間、勇は男を、川に叩き込んだ。
 派手な音を立てて水に落ちた男は、けれど勇から逃げるように川の中央のほうへと泳いでいく。勇はそれを怒りの表情のまま見送ると、すっと踵を返して、土手を登ってきた。その表情は、さっきよりも幾分か和らいでいた。
「結構飛ばしてきたんだけど。大丈夫?何もされてない?」
「・・・制服、破られた。」
 私はようやく言った。声が震えている。それに歯もガチガチと鳴っていた。寒さと、痛みと、恐ろしさと。
「とりあえず、僕の家に行こう。この土手降りたら、裏庭の方に行けるから。」勇は手を差し出した。「歩ける?」
「膝が・・・」私は呟く。勇ははっとした顔で、「そうか・・・」と呟き、それから私に背を向けた。
「背中に乗って。」
 私は少しだけ迷って、それから彼の背中に負ぶさった。彼は私の腿に腕を回し、それからすっと立ち上がった。道を渡り、川とは反対側の斜面を、身体を横向きにして降りていく。堤防に沿うようにして、そこには砂利道が伸びていた。
「大分無理して歩いてたんだね。」斜面を降りながら、勇が申し訳なさそうに言った。「ごめんね。どのルートが1番早いか考えるので精一杯になっちゃって、膝のこと考えるの忘れてた。」
 私は何も言わなかった。
 勇が砂利道に降り立ち、走り出そうとしたときに、私は小さく呟いた。
「怖かった。」
 勇は、ひとつだけ頷いてから、走り出した。

☪☪☪

 包むように持ったマグカップから、穏やかに湯気が立ちのぼっている。そっと口に含むと、コーンスープのまろやかな甘さが口一杯に広がる。勇の渡してくれた丹前は、ちょっともこもこして格好悪いけれど、でもとても暖かい。芯まで冷えた体は徐々にぬくもっていく。
 勇の家は、木造二階建ての典型的日本家屋だ。けれど、この部屋だけはなぜか洋室のように模様替えしてあった。ソファーもそれなりに高級だし、床は絨毯が敷き詰めてある。わずかに入り口の引き戸だけが、もとの形を残していた。
 その戸が開き、盆にいくつか皿を載せて勇が入ってきた。
「はい。まあ、ありあわせで作ったから、そんな豪華でもないけど。」
 そう言ってテーブルに並んでいくのは、ご飯、洋風スープ、ピーマンのチンジャオロース。とてもありあわせで作ったとは思えないほど、クオリティが高かった。チンジャオロースをひと口含むと、ピリッとほのかに辛い味付けで、食欲のわかない私でもするすると入る。
「じゃあ僕、隣の部屋にいるから。どうせ今日、うちの親どっちも海外だし、この部屋にあるものは自由に使っていいから。」
 そう言って勇は、部屋を出て行った。
 半ば機械的に、食べ物を口に運ぶ。口の中は妙に乾いていて、それでも味は感じるのが不思議だった。熱さを感じられずに火傷してしまいそうでスープだけは残したけれど、その他の皿は空にした。
 盆を置きっぱなしのまま部屋を出ると、すぐ隣の部屋の戸を開ける。すっと横にスムーズに開いて、襖は開く。
 勇は、畳にあぐらをかいて、クラシックギターを弾いていた。
 ジャズだろうか、妙に耳に残るリズミカルな響きが、心地よく体の中で響く。手の届かないところのかゆみを和らげるような、そんな響き。
 掻き鳴らしたり、弦を小さく爪弾いたり、そうやって重ねられていく音は、部屋一杯に広がって、私を包み込む。
 長い和音が響いて、勇がふっと息をつき、振り返って私を見る。私は拍手した。
「弾けるってのは知ってたけど、そこまでのレベルだったのね。それ、なんて曲?」
「・・・いたんだ。」ちょっと恥ずかしそうに呟いてから、勇はギターをそっと抱えた。「僕、曲名知らないんだ。『ショコラ』の中でジョニー・デップが弾いてた曲なんだけど。」
「『ショコラ』?」
「知らない?映画の。」
「ああ、そう言えばあったわね。」言われて、ふっと思い出す。「私、あれ見てないのよ。放浪のチョコレート職人かなんかの話じゃなかった?」
「うん。ジョニー・デップはジプシーの役を演じてた。」そう言うと勇は少しだけギターを見つめて、それから呟く。「そう言えば、しばらく見てないな。見ようかな?」
 勇はギターケースにギターをしまいこむと、壁に立てかける。部屋を出ようとして、振り返った。
「遙もおいでよ。一緒に見よう。」
 それから勇は、さっきの洋室に戻って、てきぱきと私の盆を片付け始める。私は我慢できずに、少しだけクスッと笑った。
 勇の照れ隠し。
 勇は人のことをためらいもなく褒めるくせに、自分が褒められるのは慣れていない。自分のしていることに対して肯定的な意見や趣味に対する褒め言葉に関しては、異常なくらいに恐縮して、照れてしまうらしい。
 そういう所が、勇らしいのだ。
「よしできた。」DVDデッキにディスクを差し込み、それが吸い込まれていくのを見届けてから、勇はソファに座り、自分の隣を叩いてみせる。「ここに座りなよ。並んで見よう。」
 彼の隣に座る。勇はリモコンを操作して、洋室の電気を一段階下げた。オレンジ色の淡い光が、部屋を包む。そして勇は、それからDVD用のリモコンに持ち替え、再生ボタンを押した。
 やわらかな印象の映画だった。食べた人を幸せにするというチョコレートを作る未亡人の女性を中心に、古い慣習の中にある街の人々の、心の交流があたたかく描かれていた。教会や市長による妨害にもめげず、彼女はチョコレートを作りつづける。そんな彼女の姿に、街の人々も徐々に心を開き始め、ついには市長と教会の司教までもがチョコレートの虜になる。
 勇の弾いていたギターは、映画の主題歌となっていた。
 ジュリエット・ビノシュの演じる主人公・ヴィアンヌがジプシーの集落でパーティーに参加していた時に、その集落の長ルーを演じていたジョニー・デップが弾き始めた曲だった。本来は二本のギターで演奏する曲らしく、勇の単独演奏とは少し音の厚みが違っていたけれど、やっぱり、耳に心地よく残る。
 勇は、食い入るように画面を見つめる。そして私もまた、物語に惹き入れられていた。
 それは、勇の心の中にある思いとは全く違うのだろう。けれど、私の心の中ではじけたそれは、奇妙な切実さをもって私に迫ってきた。
 彼と共に在ること。
 それが、今の私がいること。
 ぬくもりをもっと感じたくて、私は彼の肩に頭を預けて、そっと目を閉じる。彼の肩が、呼吸のたびに上下するのが分かる。
 私の愛しいひと。
 彼の体温を感じながら、私は静かに、眠りに落ちていった。

☪☪☪

 わずかに朝の光を感じて、私は目を覚ました。
 体を起こした時、掛け布団が滑り落ちる。私はそこでようやく自分が布団で眠っていることに気がついた。
 ふと辺りを見回して、自分が勇の部屋にいることに気がつく。窓際に置かれた彼の机の上、几帳面に並べられた教科書で、それと分かる。けれど、勇の姿はこの部屋にはない。違うところで眠っているのだろう。
布団をたたんで、ドアを出る。
 一番奥の部屋のようだ。あの洋室から、わざわざここまで運んでくれたのだ。
 勇がどこにいるかは、なんとなく分かっていた。そっと、できるだけ静かに歩いて、昨日いた洋室の戸をあける。
 勇は、ソファの上に丸くなり、小さな毛布に包まって眠っていた。その寝顔はどこか幼く、それでいて大人びていて。
 彼の傍らにしゃがみこみ、その顔を見つめる。少しだけ開いた唇。私は目を閉じると、そこにそっと、唇を押し付けた。
柔らかさ、ぬくもり。
 一瞬のキスの後で身体を離すと、思わずビクッとした。勇が、目を開いて私を見つめている。
「お・・・おはよ。」
 取り繕うように微笑んでみせる。勇はけれど、何も言わずに起き上がった。そっと持ち上げた手で、唇に触れる。
「・・・どうしたの、遙?突然。」勇は呆然としたように尋ねる。
 ふいに恥ずかしくなった。顔が熱い。思わず立ち上がろうとすると、けれど勇は、私の手をぐっと掴んで引っ張った。勢い余って、勇の足の上に倒れる。
「キャッ!」
 思わず悲鳴を上げるけれど、勇は自然に私の身体を受け止め、私の瞳を見つめた。とても澄んでいて、深い藍色をした、綺麗な瞳だった。
 藍より青く(モア・ザン・ブルー)。
 私はそっと、彼の唇にキスをした。彼もそれに応える。彼の唇は柔らかくて、熱かった。
 勇に全てを預けること。
 それが、今の私の存在。
 勇といれば、私は私でいられる。本当の私の姿で、私を認めてくれる。だから、こうやって彼とキスすることもできる。
「勇。私さ、」唇が離れた時、私は囁くように言った。「最後にあと一度だけ、試合に出ようと思うの。」
「え?」勇は目を見開いた。「本気なの?」
「本気。」私は頷く。「もう、少し走っただけでもやばい膝だけど、それでも、中途半端なままで終わりたくない。この膝が壊れても、最後にもう一度だけ、試合でやりたい。」
 勇は何も言わず、私を見つめている。
「綾音にも、たくさん迷惑をかけてる。だからせめて決勝戦くらいは、私の最後の力を使うわ。いい?」
「いいも何も、」勇は微笑んだ。「僕はそれでもいいと思うよ。遙の身体なんだから、それは遙の決断次第だと思うし、報いたいって気持ちも、よく分かるしね。」
 きゅっと胸が締まる思いがして、私はもう一度勇にキスをした。
 朝陽はまるで微笑むかのように、優しい光で差し込んでいた。

Ⅴ-1・The tale of a Ring~The Teacher smiles for me~

「ごめん、待った?」
 遙の声に、私と典子は振り返る。
「遅いよー!」
「ごめんってば!」そう言って遙は両手をあわせ、それから首を捻った。「あれ?綾音は?」
「バスケの練習、終わんないんだって。」典子は大げさに肩をすくめて見せた。「なんか最近、綾音の付き合い悪くない?」
「しょうがないよ、キャプテンになったんだから。することも練習だけじゃないだろうしね。」
 遙はそう言って、櫛を取り出して乱れた髪を梳かした。
 駅ビルからバスに乗り込む。3人並んで座りながら、シートの独特なにおいに身を沈めた。
「このビミョーなにおいがね・・・」私は首をかしげる。「何よコレ?って感じ。」
「馴れないわね、アンタも。」バス通学の典子は馴れている。私の顔に苦笑して、それから遙を振り返る。「で、アンタは誰とメールしてんのよ。」
「勇。」遙はキーをカコカコ打ちながら答える。「後でこないかってさ。今浩二たちと一緒に家飲みするからって。」
「・・・あいつら、歳いくつよ。」
 バスはショッピングモールに滑り込む。建物を貫いた道路の途中、バス停に停まったところで私たちはバスを降り、東口からショッピングモールに入る。
 球場二つ分くらいの広さがある、この近県では最大規模のショッピングモール。通路の中央にはレールが敷かれ、モール中央の広場からクモの巣状に広がっている。エリアごとに停留所が三つずつ置かれ、列車がそこで停まるようになっていた。広場から汽車型のものに乗ると、海外服飾ブランドの集まったエリアで降りて、私たちは歩き出す。
「コレ、コレ!」典子が突然興奮した声を上げて、『バルサ』というブランドの小売店に駆け寄った。「新作!夏コレで発表されたダウン!」
「へぇ、なんか今までのと雰囲気が違うね。」
「今冬の目玉って言ってた!」
「でも『バルサ』だよ?相当・・・いや、そうでもないね、『バルサ』にしては。」
「そう、いいのよこれ!」典子はそのダウンジャケットを両手で掴んで目の前に掲げた。「どうしよう、コレ・・・買おうかなぁ?」

☪☪☪

「一杯買っちゃった・・・」
 典子が後悔したような表情で呟いた。「やんなっちゃう、もう。ここに来ると、いっつも衝動買いしちゃうんだもん。」
「たまにはいいじゃん、そういうのもさ。」私はBLTサンドをかじりながら笑った。
 タリーズコーヒーはやや混んでいた。休日の昼過ぎ。カップルや家族連れが多い。私たちはようやく空いたテーブルに座って、ちょっとしたティーブレイクを楽しんでいた。向かいの椅子に置かれた紙袋の山は、すべて典子の荷物だった。中身はほとんど服だ。
「てゆーか、典子ってどこからそんなお金手に入れてんのよ?なんかアヤシイんですけど。」
 遙がふざけて典子に尋ねる。典子ははしゃぎながら、怒ったフリをして「アヤシイって何よォ!」と遙の肩をパシパシ叩いた。それからふと真顔になり、「アヤシイと言えばさ、星村先生の噂、聞いた?」
「うわさ?」
「あ、あたし知ってる。」遙が身を乗り出してくる。「なんか病気らしいって話でしょ?」
「え、何の?」私も思わず身を乗り出して声をひそめる。
「そこまで分かんないって。」典子はさらに身を乗り出す。「だけどここ最近休みがちで、しかも学校に来るたび痩せてってる。言われてみれば、そんな感じがするのよね。」
 典子はチラッと私を見た。私は首を振る。
「分かんないよ。私も最近会ってないし。」
「郁(ふみ)、最近忙しかったしねぇ。・・・文化祭の準備委員に、合唱コンクールの練習でしょ?文化祭で歌うほうも考えないといけないし・・・」
 遙がしみじみという。典子も首をかしげて、「そうかぁ・・・」と残念そうに呟いた。
「でもさ、その噂が本当なら、星村先生、結構ヤバいんじゃないの?」
 私が尋ねると、典子は肩を小さくすくめた。
「ビミョーね。どのぐらいの病気かわかんないし、しかもこの噂は生徒の中だけで流れてるだけだし。だけどコレを言い出したの、窄中(さこなか)くんなのよ。」
「・・・なるほど、それで本当っぽく聞こえるのね。」
 私は妙に納得した。窄中透は、この町でもっとも大きな病院である「窄中総合病院」の後継ぎで、医学部を志望していた。それだけではなく、親からはすでに診察のノウハウまでもを学び、簡単な体調判断くらいなら顔色からできるようになっているらしい。それもまた噂に過ぎないけれど、噂に噂が重なるというか、その窄中君が言ったのならば、噂は妙に信憑性を帯びてくるから不思議だ。
 不安。
 あるいは、恐慌。
「じゃあ、明日行って聞いてみるよ。」
 私は二人に言った。

☪☪☪

 社会科教諭室は、いつもは閑散としている第三棟の二階にある。大講義室の隣の、小さな部屋。ひどく強く漂うコーヒーの香り。先生たちは一体、どれぐらいの量のコーヒーを飲めば気が済むのだろうか?
 そんな事を考えながら、私は社会科教諭室のドアの前、一人立ちすくむ。
 確かに、星村先生とはよく話していた。
 乾いた声質。独特の話術。彼の話す日本史の話は、今まで聞いたことも無いものばかりでとても面白かった。
 惹かれていた。それは分かっている。
 けれど浩二と付き合いだしてからは、そういう気持ちにけじめをつけて、合唱部の練習を理由にこの部屋を避けていた。
 一度息を吸って、ふっと吐く。それから、二度、トントンっとドアをノックすると、「はい。」と、聞きなれた静かな声が中から聞こえた。ドキン。跳ね上がる心臓を感じながら、私は「失礼します」と、扉を開く。
「おお。」
星村先生は一度驚いて見せたあと、ニッコリと微笑んだ。「久しぶりだね。まあ座ってよ。コーヒーでも淹れよう。」
 そう言って立ち上がった先生の頬は、確かに以前よりも痩せて見えた。いつもつけていた、彼の大切にしている薬指の指輪も、なんだか頼りなげに彼の指にひっかかっている。
 それは確かに、「痩せ細っている」という表現がもっとも的確だった。
「はい、どうぞ。」細くなったその腕を伸ばして、彼は私の前にコーヒーカップを置いた。「『グアテマラ』のいいのがあってね。君に飲ませてあげたいと思っていたんだ。」
「・・・ありがとう、ございます。」
 そっとコーヒーカップを持ち上げて、立ちのぼる湯気に鼻を寄せる。立ちのぼる香りは深く、そして濃い。『グアテマラ』は、彼の好きな、そして私も好きなコーヒー豆のひとつだった。
「最近来なくなったからもう来ないのかと思っていたよ。」
彼は自分のぶんのカップを運んできて、私の向かい側に座った。
「すみません。最近忙しくて・・・」
「それは知ってるよ。」先生は苦笑した。「合唱部の部長として、コンクールと文化祭の準備。それに君は実行委員もしてる。ああ、それに、彼氏も出来たって聞いたよ?」
 思わずコーヒーを吹いてしまって、カップの中には戻れなかったぶんがテーブルで跳ねる。星村先生は笑いながら立ち上がり、台拭きをもってきてそれを拭い取った。
「何で・・・」むせながら、私はハァハァと言葉をつなぐ。「先生が、私に彼氏が出来たこと知ってるんですか?」
「浩二くんたちの再テストの時にね。」彼は苦笑した。「近藤くんが浩二くんをからかっているのを聞いたんだ。早く終わらせないと、津村が先に帰っちまうぞーって。この学校で津村といったら、君ぐらいのものだからね。」
 顔が燃え上がりそうなほどに恥ずかしい。友達のならやんわりと逃げられるのに、彼の追及には、どうしてもこうなってしまう。なんだか、裸を見られたような、私の中の敏感な部分に触れられてしまったような、そんな気持ちになる。
「そう言えば、先生の噂聞きました。」
 話題を変えたいと思って口を開くと、自然とそんな言葉が飛び出してきた。「先生が病気だって。結構広がってるみたいですよ、生徒の間では。」
「そうみたいだね。」
 彼は微笑みを崩す事無くコーヒーを啜った。
「本当なんですか?」
「本当かといえば本当ではないし、」カップを置いて、星村先生は妙に曖昧な言い方をする。「だったら嘘かといえば、それもまた違う。」
 なんだかはぐらかされているような気がして、私はむっとした。
「どういう意味ですか?」
彼はけれど曖昧に笑って続ける。
「大体、僕自身もまだ、何がどうなっているのか良くつかめていないところがある。僕が今後どうなるのか、どんな病気なのか・・・自分でも分かっていないことを説明は出来ないんだ。」
 その言葉は、まるで本当のようだった。けれど私には、その言葉は本当でない事がわかっていた。
 胸の奥に湧き上がっていく、どす黒い感情。
 ドウシテドウシテナニモハナシテクレナイノワタシジャダメナノダッタラダレナライイノ。
 気がつくと、私は空になったコーヒーカップを置いて立ち上がっていた。先生が目を丸くしている。
「どうした?」
「部活に戻らなくちゃ。」私は言った。「ごめんなさい。途中で抜けてきたんです。コーヒーごちそうさまでした。」
 私はぺこっと頭を下げると、早歩きでドアへ向かう。これ以上ここにいたら、自分の感情に飲み込まれてしまいそうだった。
 ドアをあけて振り返ると、先生は立ち上がってこちらを見ていた。彼は私に向かって微笑んだ。
「津村。質問をしてもいいかい?」
 胸の中で、クエスチョンマークが浮かぶ。今まで、質問なんてしたことはなかったのに。私は頷く。彼は少し考えてから、うんとひとつ頷いた。
「そうだな、ストレートがいい。ひとつだけ・・・君は今、幸せかい?」
 更なる困惑が、心を染める。一体、こんな時に、何を尋ねてくるのだろうか?私は、けれど少し考えて答えた。
「幸せです。部活も全国大会に行きますし、今は浩二だっていますから。」
 そうか。そう呟いて、彼は心が表れるような、満面の笑みを浮かべた。「よかったよ、久しぶりに話せて。」
 私は彼に頷くと、ぺこりと頭を下げた。
「失礼しました。」
「うん、それじゃあ。」彼は手を振った。「さよなら。」
 ドアを閉めて、踵を返すと、第三棟のドアから渡り廊下の方へ出て、部室へと向かう。
 なんだか奇妙な違和感が、胸を占めていた。
 何か、違う。
 何かが、おかしい。
 ジグソーパズルのかみ合わないピースのような、小さな不快感が、胸の中にわずかに残っている。
 渡り廊下の真ん中、私は気がついて、思わず立ち止まった。
さよなら?
 今まで彼は、「それじゃあ」と言って手を振るだけだった。部屋を出るときに、「さよなら」だなんて、そんなふうに言われたことは一度も無い。
 それに、あの最後の質問。
 幸せか、だなんて。
 渡り廊下の真ん中、思考はどんどん回転していく。そしてその思考が止まったとき、私は思わず来た道を振り返った。
 マサカデモソンナハズハダケド。
 吹きぬける風はどこか冷たく、それでいて湿っていて。
 唇に残る『グアテマラ』の苦味を、妙に舌に強く感じた。

☪☪☪

 彼の死を聞いたのは、それから二ヵ月後、初雪の降った朝のことだった。

☪☪☪

Ⅴ-2・The tale of a Ring~The Man was smiling for me~

 暗い体育館。校長の読み上げる弔辞の音が、朝の冷えた空気を刺激する。靴下の裏から伝わる、床の冷たさ。それが、この現実と私を繋ぎとめる。
 星村先生の学校葬。彼が死んでから、もうすでに一週間が過ぎていた。
 窓際に並んだ先生方も、全員が喪服を着ている。女の先生は、何人かが時折目にハンカチを押し当てていた。彼は先生たちの間でもかなり人気があったらしい。整った顔立ち、40を少し過ぎたくらいで、独身。そんな人が、騒がれないはずが無い。
 死因は、ガンだった。
 彼の肺に住みついたガンが、彼の体のすべてを蝕んでいた。小康状態になった最後の時に、彼は学校へやってきて、すべての後片付けをしていたという。
 それが、あの日だった。
 どうしてあの時、もう一度彼のもとへと向かわなかったのか。日が過ぎれば過ぎるほどに、後悔は大きさを増してゆく。
 渡り廊下の上、振り返ったとき、けれど私は第三棟へ引き返す事無く、そのまま歩き出し、部活へと向かった。
『失礼しました。』
『うん、それじゃあ。さよなら。』
 それが、私が彼と交わした、最後の言葉。
 教師と生徒としての、あまりに儀礼的な言葉。
 生徒会長が代表して焼香し、戻る。慣例的な動き。
 ステージに設置された花台の上、彼の遺影がある。見慣れた、わずかに柔らかく微笑んだ表情。今にも話し掛けてくれそうなほど、美しく、悲しい。
 もっともっと、声を聞いていたかった。
 もっともっと、彼と話していたかった。
 不思議なことに、けれど涙は出なかった。

☪☪☪

「津村。」
 全校集会ののち放課となってざわめく体育館の中、静かな声が私を呼んだ。私は振り返る。向こうの方で、少しだけ太った男性教諭が私に向かって手を挙げていた。
「郁。どうかした?」
 綾音が私を振り返る。
「ちょっと、及川が呼んでる。先に戻ってて。」
「分かった。」
 手を振って綾音と別れると、私は人の流れに逆流して及川先生のところへと歩いていく。
 コーラス部の顧問で現代社会の教諭でもある先生は、私が前に立つとその禿げ上がった頭をつるりと撫でた。
「すまんな。」
「何ですか?正直、今日は早く帰りたいので・・・」
「分かってる、分かってる。えっと、確かここに・・・」先生は懐に手を突っ込んで、内ポケットをごそごそと探った。しばらくごそごそとやってから、あった、と、茶封筒を取り出して私に差し出す。
 どきん、と、心臓が波打つ。
 万年筆だろうか、青いインクの、見覚えのある筆跡で、「津村 郁様」と書かれていた。
「隆作から、自分が死んだらお前に渡してくれと頼まれてたんだが、ここ一週間出張で渡せなかったんだ。すまんな。」
「・・・じゃあ、やっぱり星村先生は、」私は呟くように言った。心ならずも、声が震えている。「彼は、やっぱり、自分のご病気のこと、ちゃんと知ってあったんですね。」
 先生はけれど何も言わずに首を振って、ただ私の手を取り、封筒を握らせた。
「それは俺が言うべきことじゃない。ただ俺は、それを君に渡すように頼まれただけだしな。」
 それじゃあ、気をつけて帰れよ。そう言って先生は踵を返す。
「及川先生。」
 私は先生の背中に呼びかけた。先生が振り返る。
「何?」
「ひとつだけ・・・」私は封筒を右手に持ったまま問い掛ける。「先生と星村先生って、どういう関係だったんですか?」
「どういう関係って・・・」先生は一瞬奇妙な表情をして、それから何か理解したように微笑んだ。「隆作は、教員養成所のころからの付き合いだよ。ライバルといってもよかった。教員になったのは俺が一年早かったがな。」
「悲しくないんですか?」
 気がつくと、私は挑戦的な口調で、そう言っていた。先生が驚いた顔をする。
「どうした?」
「そんな親友が死んで、悲しくないんですか?」
 そのとき、いつもは柔和な先生の瞳が、一瞬だけ技ら利と強く光ったような気がして、私はたじろいだ。
「・・・まあ、悲しくないわけは無いな。」
 及川先生はそれだけ言うと、寂しそうに背中を丸めて歩き出した。その背中は、いつも堂々とした先生からは想像もつかないほど、ひっそりとした寂寥感があふれていた。
 先生にとって、彼は、大切な一部だった。
 それは私にとっても同じで。
 けれど、彼がいなくなっても、世界は昨日までと同じように回りつづける。
 心にぽっかりと開いた孔。そこから吹き込んでくる風は、あまりにも冷たくて、強すぎて。
 チャイムの音に、ふと我に帰る。右手に持った封筒をポケットに突っ込んで、それから私は歩き出した。

☪☪☪

 どさっとベッドに飛び乗る。変えたばかりの真新しいシーツは、すべらかで柔らかい。ただ仰向けに横になったまま、ぼんやりと天井を見つめる。
 梅雨までなら、この時間は。
 人は、失ってから初めて、失ったものの大切さに気がつく。そこにあるときには、あまりに普遍的で、日常的で、いつでも手の届くところにある気がする。けれど本当はそんなことはなくて。
 今ここにある日常も、壊れてしまえば、感嘆になくなってしまうのだ。
 もう、彼はいない。
 そっと起き上がって、ベッド脇のテーブルから封筒を手に取り、またどさりと頭を落とす。
 私の名前。
 彼の筆跡。
 封筒の口を開き、そっと中身を取り出す。何枚家の便箋と一緒に、何かがころりと転がり落ちた。慌てて身を起こし、落ちたものを拾い上げる。
 指輪。
 授業でも、私と2人きりの時も、右手の薬指につけていた、あの指輪。
 心の中、あの時感じたクエスチョンマークが再び現れる。
 ナンデコレヲ。
 指輪をサイドテーブルに置くと、私は便箋を拾い上げた。六枚。多いのか、少ないのか。
 私はそっと便箋を開いた。青いインクで書かれた、几帳面な万年筆の文字。手紙の便箋というより、なんだかレポートみたいだ。一瞬だけクスッと微笑んで、私はそれを、目で追っていった。



***


『津村へ。
  こういう形でしか、自分の言葉を君へ残すことが出来ない僕を、どうか許して欲しい。
  今僕は、県立病院で治療を受けている。こうして色々と考えていられるのも、時間的には、あと少ししか残っていないと思うから。君へ伝えたいことがあって、けれどそれを言葉にするのに、少し時間がかかりすぎてしまったことも、君には謝らなければいけない。すべてを記して、この手紙を書き終えたなら、雪(そそぐ)(及川先生の名前だよ。知ってたかい?)に預けるつもりだ。
  そう、この封筒に、指輪を同封しておくよ。
  君には言ったことがあると思う。その指輪は、僕にとってとても大切なものだ、と。けれど、「どうしてですか?」という君の問いに、僕は答えることができなかった。その質問に答えてしまえば、もしかしたら君は、僕に会いに来ることを止めてしまうかもしれないと、そう思ったんだ。
  だけど、今こんな風に病院のベッドで手紙を書いたりしていると、そんなことは意味がなかったように思える。君にすべてを伝えて、そして消えても、君なら受け容れてくれる気がする。
だから、僕はここで、僕のすべてを君に告白しようと思う。僕の、そしてこの指輪の物語を。

 二十歳のころ、僕は県の最南端にあたる学校にいて、講師として働いていた。そのころ、いっしょに講師として働いていた新人の女性がいてね。同じ講師ということで、お互いを励みにして頑張っていた。真面目な人だったけれど、何度か一緒に食事をしたりしているうちに打ち解けてきて、やがて付き合うようになった。その次の年、彼女が教員試験に合格して正規の教員になってからも、ずっと同じようにね。そしてさらにその一年後、僕もまた教員試験に合格して、それを機に彼女にプロポーズした。彼女も承諾してくれた。そして彼女の父親の承諾も得て、結婚式を挙げたのは、付き合い始めてからちょうど二年後、二十二歳の時だった。
 僕の真実の入り口だ。僕は結婚していたんだよ。
 僕らは共働きで、彼女も僕も、教員としては異色のほうだったけれど、徐々にその方法も認められ始めていて、未来には何の障害も無いように見えていた。
 けれど、そううまくは行かなかった。
 結婚した次の年、彼女の身体に異変が起こった。時折胸が苦しいと訴え、胸を押さえて喘息のような症状を起こす。酷いときには、気を失うことさえあった。僕は彼女に病院へ行くことを勧めたけれど、彼女はどうしてもうんといわなかった。というのも、彼女は病院というものに不信感を持っていたんだ。彼女の母親は内臓器系の病気で入院していたのだけれど、術後の経過が悪く、その感染症のせいで亡くなってしまった。彼女はそういう事があって、極端に病院というものを嫌っていた。けれど、症状は日を追うごとにひどくなる。ついには仕事にまで支障をきたすようになったから、僕は彼女を説き伏せ、半ば強引に病院へ連れて行った。
 精密検査をし、三日間の入院のあと、僕と彼女は病室へ呼ばれ、医師の説明を受けた。
 心臓病だった。
 君は生物選択だから知っていると思うけれど、普通心臓には、心室から心房にかけて、血の逆流を防ぐ弁がついている。彼女の心臓は、左側の心室と心房の間にあるはずの弁が無かった。それだけならまだいい。人工弁をつければいいのだから。けれど彼女の場合、それすら叶わなかった。心臓そのものが弱くて、手術に耐え切れる保証が無かったんだ。
 医師は、沈痛な顔で、根治の手段としては移植しかないと思います、と言った。
 彼女は泣いた。だから医者なんていやなのだと、呪いのように叫んでいた。けれど僕は彼女を説得して、移植心臓を待っていようと、そう言ったんだ。海外、あるいは国内で、君の遺伝子と合う心臓が、一つか二つくらいあるはずだ。それを信じよう。そう言うと彼女は、僕を信じて待つ、といったんだ。
 そのときに、僕は彼女と約束した。心臓が治ったら、2人ぶんの、おそろいの指輪を買おうって。きっと治るから、そのときには、ペアでその指輪をして、一緒に買い物でもしようって。彼女はとても嬉しそうに頷いてくれた。
 それから一年間、僕等は待ちつづけた。僕はペアの指輪を買い、家の机の中に隠していた。彼女はその間、襲い来る発作に悩まされつづけながらも、ドナーを信じて待った。
 だけど、願いは届かなかった。
 その年の終わり、雪の降る寒い夜に、彼女は息を引き取った。二十五歳。僕よりひとつ年上だっただけの、あまりに若すぎる死だった。
 彼女は僕を信じていた。ドナーを信じて待つと。けれど僕は、そんな彼女のために何もして上げられなかった。それが、僕をずっと苦しめていた。
 彼女に渡せなかった方の指輪は、彼女の骨と一緒に壺に入れ、墓に入れた。
 それから三日間は、仕事にも行かず、ずっと家で泣きっぱなしだった。さすがにずっとないてばかりもいられないから仕事に復帰したけれど、それ以降、僕は指輪の片割れをずっと身につけていた。

 それから五年経って、僕は今の高校に転勤になった。彼女のことを知る人がいない学校。それにここには、現代社会の教諭として雪も赴任していたから、気が楽だった。彼女のことは片時も忘れたことは無かったけれど、事情を知る人に同情されてばかりの生活が辛かった。だからこの高校に来てから十年くらいは、生徒と深く関わる事無く過ごしていたんだ。
 けれど、それがいつしか変わり始めた。ある生徒が、僕と深く関わってくれるようになったんだ。
 始めのころ、僕は彼女の訪問をただわずらわしく感じているだけだった。だけどそれはいつしか、不快感よりも、そよ風に似たような、そんな感覚を僕に与えてくれた。いつしか彼女の訪問は、僕の日常の中で、ささやかな楽しみとなり始めていた。 彼女と日本史について話し合える時間が、僕の日々のなかで、唯一の楽しみになっていた。
 言うまでもなく、君のことだよ。
 いつのまにか君は、僕の救いになっていたんだ。
 そんな中での、この病だ。
 実は僕の父親も若くしてこの病で死んでいる。遺伝性みたいだ。医者はそんなこと言ってなかったけれどね。だから、僕の命は長くないってことは、僕が一番分かっている。
 この指輪も、もう薬指から抜け落ちるようになってきた。痩せ細っていく僕の姿を見られたくない。君の中では、常に優しい先生でありたい。優しい、一人の男でありたい。
 だから、君には言わなかった。言えなかった。
 せめて健康な姿のままで、君の記憶の中に残っていたかった。僕の唯一の意地であり、願いだ。許してくれ。

 最後にひとつだけ、伝えたいことがある。
 最後に君に会ったとき、言ったよね。君が浩二くんと付き合っていること、聞いたって。
 最初にそれを聞いた時、僕の心は中学生のようにざわめいた。君に惹かれていたことを、はっきりと心で、頭で、知ったんだ。
 僕は教師だし、君には彼氏もいる。倫理的には許されることではない。だからあの時、君に思いを告げることなく、さよならと言った。
 だけど、僕は君に伝えておきたい。伝えておかなければならない。もう声は届かないけれど、せめてこの思いだけは君に届くように、ここに記しておきたい。
 君のことを愛している。
 初めて会ったときから、ずっとずっと。
 君のすべてに、僕は救われた。
 僕は君に何も出来なかった。
 だから、せめてものお礼として、そして、最初で最後のプレゼントとして、僕の分身であるこの指輪を受け取って欲しい。
 いつまでも、君が幸せでありますように。

星村隆作』

***


 月はいつのまにか上り、暗くなった部屋に差し込んでいる。頬を濡らす涙のあとはもう乾き始めていて、けれど、目の奥の方がなんだか痛い。
 体の奥にある倦怠感は、喪失感と重なっていた。それを人は、あるいは愛しさと呼び、あるいは切なさと呼ぶ。けれどこの思いは、そんな言葉には通じないほどに、破壊的なほどに強い感情だった。
 彼は私を愛してくれた。
 だからこそ、私が気付かなければならなかったのに。
 右手を目の前に持ち上げ、開く。薬指に通した白銀(しろがね)色の指輪は、もう温かくなっていた。彼の温もりが、指輪を通して伝わってくる気がする。
 隆作さん。
 気がつけば、そう呟いていた。目の奥がじんと痛んだけれど、もう流せる涙は無く、ただ嗚咽だけが洩れる。
 惹かれていたどころではない。私もきっと、彼を愛していた。現実という大きな壁を築き上げ、その向こう側にある感情を見ようとしなかった。
こころが叫んでいる。
 私の想いを聞いて欲しいのに。
 なのに、あなたはもうここにいない。
 ぼんやりと見上げた空、ぽっかりと浮かんでいるのは、今にも壊せそうなほどに近い満月だった。

☪☪☪

「郁!お昼いっしょに食べようよ!」
 教室の向こう側から、典子が弁当箱を掲げてみせる。私は自分のぶんを持って、典子の前の席にある椅子を反対側へと向け、座った。
「聞いた?窄中くんが勝木さんと付き合ってるの。」
「へぇ、そうなの?」私は驚いてみせる。「勝木さんって、間違ってないとしたら四組の人よね?なんかイメージ違うなぁ・・・」
「ウチもびっくりしたわよ。昨日まであんた休んでたから、多分知らないだろうって思ってさ。」
 奇妙な話だ。親しい人がいなくなっても、世界はこれまでと同じように回っている。大切な人がいなくても、今日も地球は自転することを止めない。
 私の世界は、ずっと止まったままなのに。
 弁当に入ったアスパラのベーコン巻を、そんな事を考えながら口に運んでゆく。
「郁。」
 突然名前を呼ばれて、私ははっと我に帰る。
「え、何?」
「それってさ、」典子の視線は、箸を握った私の右手に向けられている。「それって、星村先生のだよね?」
 私は曖昧に微笑んで、箸を置き、それから手を開いた。シンプルかつシックな、メビウスの輪を象ったデザイン。少しゆるいけれど、外れることなく、指輪は薬指に収まっていた。
「一昨日、及川に呼ばれたときに封筒渡されてさ。」まじまじと指を見つめる典子を眺めながら、私は言う。「そこに入ってたの。私に渡すように頼まれたんだって。」
「何で及川?」
「教員養成所で親友だったんだって。」
「えーっ?あの二人が!?」典子が驚いた顔をした後、微妙な顔をした。「及川が星村先生と同期か。なんか・・・嫌だなぁ・・・」
「及川はいい教師だよ。」私が苦笑する。
「いや、けどさぁ・・・」
 典子の矛先が及川に向いたので、私はほっと息をついた。典子の追及を受けると、どうしても喋ってしまいそうになる。
 けれど私は、この会話の流れを断ち切ったのが典子自身だということも分かっていた。
 壊れそうなほどの愛。背徳と罪に満ちた関係。典子は自らの秘密を、いつもそんな風に形容する。少しだけ辛そうに、その瞳を潤ませて。その話を聞いた時、私はただ圧倒され、相槌を打つことしか出来なかった。
 けれど、今ならよく分かる。
 背徳心。
 破壊的な愛の破片。
 こぼれ落ちた想いをすくい上げて、私はただ彼の面影を探す。伝わらなかった思いを集めて、この小さな手のひらの中に入れて。
 それはきっと、心の中に。
「ねえ、上行かない?」
 私が誘うと、典子は、いいねぇ、と笑った。
 廊下へ出て第二棟へ行き、中央の階段から上がって屋上へ出た。閉まったドアの前、大きく息を吸い込むと、冬の冷たい空気が肺を貫いた。昼間の太陽が容赦なく私を貫く。雲ひとつ無い空が、青いじゅうたんのように広がっていた。
 太陽を遮るように右手を上げ、それからその指を、わずかに開いてみた。指間から入り込んだ光が目に鋭く突き刺さる。
 少しだけ手を動かすと、太陽は指に遮られ、それに代わるように、指輪に弾かれた光が鼻の辺りに振ってきた。わずかな、優しい温もり。それがなんだか嬉しくなって、思わずクスリと微笑む。
 ありがとう。
 心の中で、小さく呟いてみる。言葉から漏れ出した暖かさが、身体の中にじんわりと広がっていく。
 カチリ。どこかで、スイッチが入ったような気がした。
 太陽が一瞬だけ揺らいで、そして世界はまた、回りだした。

Ⅵ・No Lily’s Room

☪☪☪

 やがて来るとは分かっていた。
けれど僕はそれを、どこか遠くから見ていたのだろう。
 現実を受け容れたくなくて。
 目の前の光を、絶やしたくなくて。
 そうして、いつしか僕は、振り返ることすら出来なくなった。
一瞬の幸福が絶望に変わる、その瞬間を、目にしたくなくて。
 満ち足りた幸せは、いつのまにか僕のすぐそばをすり抜けていく。
そのことを、僕はよく知っているのだ。

☪☪☪

 慣れないスーツを着たまま、慣れた道を歩いていくのは不思議だった。
 駅のほうへ五分ほど歩くと、外壁が汚れ、白というよりは灰色になった建物が見えてくる。友里の住んでいたアパートだ。古びた階段を上がっていくと、スニーカーは錆びた階段に軋るような音を響かせる。奥から二番めの扉の前で立ち止まると、合鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。捻ってみて、首をかしげる。開いている。
 僕は鍵を引き抜き、ドアを引いた。玄関を見て、溜息をつく。友里の靴とともに、見覚えのある黒いハイヒールが、きちんとつま先をそろえて置かれていた。
 やっぱり。
靴を脱いで、リビングのドアを開ける。
窓から入り込む月明かりの下で、ソファーに横向きに座り、馨は出窓から月を見上げていた。喪服を着たままで、髪は解き放ったまま、整えた形跡もない。
「出るぞ。」僕は彼女に声をかけた。「そろそろ出ないと、間に合わなくなる。」
「・・・行きたくない。」
「分かってる。」
 僕が言うと、馨は虚ろな瞳をゆっくりと伏せた。彼女は、彼女なりに苦しんでいる。それは間違いの無いことで、しかも僕の苦しみとは違うものだ。それは分かっている。
 悔恨。
 ないしは、責任感。
 ただ一人、自分だけが彼女を救いえたことが、彼女の心を占めている。それに気付けなかった自分を、心から悔いている。
 泣き疲れ、逃れる術も知らぬまま、僕らはこの場所で、いつか見た月を見上げる。花瓶に実った白百合の蕾は、友里の活けたものだ。
 友里が死んで、僕と馨は以前よりもセックスをする回数が増えた。ついこの間まで、三人で抱き合っていたはずのベッドで、二人きりで欲望をぶつけ合う。
 それは、慰め。寂しさ。
 あるいは、補完。
 そうして、けれど、探している色の欠片は、どこにも見当たらない。ただ繋がる欲望の連鎖を、半ば惰性的に、空間を埋めるように繰り返しているだけだ。
 友里との思い出が、ここにはあまりに溢れすぎている。
 残された者の悲しみ、苦しみ。それは、後悔と呼ばれるもの。まるで鏡のように、それは友里の心を映している。
 穏やかに立ち上がると、僕は部屋の中央に座っているグランドピアノの蓋を開き、椅子に座って、ゆっくりと鍵盤を押した。ルードヴィヒ=V=ベートーヴェン作曲、ピアノソナタ『月光』、第一楽章。
「・・・ぴったりね。」
 馨がつぶやいた。
 高く、高く昇る月。雲に隠れることもなく、それはいつまでも輝いている。そう、ただ晧々と。

☪☪☪

 斎場は、奇妙なほどひっそりとしていた。友人の少ない友里の葬儀は、高校時代の同級生達が多く参列している。響き渡るお坊さんの声は、無機質なのにどこか芯があって、人の少ない式場を包み込んでいた。
 やがて焼香が始まり、僕も馨も列に並んで、作法どおりに焼香を行った。一礼、一礼、三度ほど額の前にかざし、一礼、下がって一礼、そして列から抜け出す。
 空席の遺族席。
 そこに座るべき人々は、そこに望んでゆくことはない。そして僕は、それを一番よく知っていた。
 祭壇で微笑む彼女の表情、その瞳は、僕の知っている彼女とはどこか違う光を放っている。
 母親に棄てられ、父親の性的虐待から逃れて、僕を頼った。彼女が縋ることが出来たのは、僕と馨だけだった。そばにあった僕らに、服の裾にすがるようにして助けを求めてきた。
 僕はそして、彼女のその思いを裏切らないと誓った。
 誓ったのに。
 どうして、なにもぼくにいわずにいってしまった?
 どうして、ぼくはなにもきづくことができなかった?
 疑問はまるで泡沫のように、浮かんでは消え、そしてまた現れる。そうしてあの夜から繰り返される連鎖は、けれど決して切れることはない。
 参列者の列から離れ、僕は式場を出る。ロビーの喫煙コーナーにあるソファに座り、煙草をくわえて火をつけた。
「ヤマト先輩。」
 ふいに聞き覚えのある声がして振り返る。紫煙の向こう側、顔をしかめて眉根を寄せた浩二の姿があった。ブレザーの詰襟をつめ、妙に窮屈そうな姿で立っている。
「来てたのか。」
「大丈夫ですか?」浩二は煙たそうに手を払いながら尋ねる。「煙草吸ってる先輩なんて、久方ぶりに見ましたよ?」
「まあ、な。」僕は曖昧に肩をすくめて、煙を肺に吸い込んだ。僕の隣に座った浩二は、背もたれにもたれかかるように背伸びをしてから、僕を見上げる。
「心臓の病気とかでしたよね、確か。」
 すぐに、友里のことを言っていると分かった。
「ああ。」
「・・・なんか、」浩二は妙に泳いだ視線で首を捻っている。「変な感じです。昨日まで同じ空間にいたヤツが、今日はもういないんですから。」
「・・・まあ、そうだな。」
 僕は煙を吐き出しながら頷く。虚偽の肯定のため、あるいは、嘘の継続のため。僕と馨以外の誰も、真実は知らないままで構わない。そうでなくてはいけない。
「だけど、誰かが死ぬって、そういうことなんでしょうね。」
浩二はぼんやりと天井を見つめながら、分かったように言う。
「多分、俺、親父が死んでも美咲さんが死んでも、こういう感じを味わうと思うんです。自分がここにいて、誰かがいなくなって、だけど世界は回っていくって、そういう感覚。そうやって何日も過ぎていって、ふとした瞬間に、いないことを意識する。そこでやっと哀しくなって、悲しむことができる。」
「いやでも、その感覚、ちょっと分かる。」僕は浩二の話に相槌を打ちながら、煙を吐いた。
 いないことを意識する。それは、その人がいないという「真実」に向き合わなければ出来ないことだ。
 友里のいない部屋。
 白百合の蕾。
 馨の涙。
 百合の花が咲かない部屋。
 そうして積み重ねられてきた世界のズレが、彼女のいない世界を強烈に意識させる。
 ふいに熱くなった目の奥をごまかすために、僕は灰皿に煙草を押し付けた。中の水に落ちていった灰は、ジュッと音を立て、細い煙を立ち上らせた。

☪☪☪

 百合を火葬場へと送る霊柩車には、僕と馨だけが同乗した。親族と呼ぶべき人は誰も来なかった。それは彼女自身も予想していたことで、だからこそ僕は少し、悲しくなった。
 静まり返った後部座席、並んで座る僕ら二人。
車は緩やかな坂道を、緩やかに震えながら上っていく。運転している男性は、ロボットのようにじっと、しっかりとハンドルを握っている。
「倭(やまと)・・・」
 声に振りむく。馨は背もたれに体を預け、昨日と変わらぬ虚ろな目のままだ。
「なに?」
 僕の問いに、しかし彼女はただ黙ったまま、答えることもない。ただ、僕の手をそっと握り、震えるように頷く。ただ、それだけだった。
予測をしていたことは、えてしてそこに起こる。
だからこそ、何も言わずにただ寄り添う。
 彼女の死ぬまさにその姿は、僕らの中にいまだに残っている。
 死ぬ間際、僕らに彼女が遺した言葉は、僕らを彼女のもとへと縛り付けてしまった、けれどそれは決して問題ではなかった、むしろここにその言葉がなければ、僕たちは先へ進むことはできなかった。
 霊柩車は、田園の中を抜け、煉瓦造りの大きな建物へと向かっている。

幸福

幸福

「幸福」とは何か。 「幸せ」とは何か。 悲しみに追われ、日常をたどる人々。自らにとっての幸福を探し、追い求め、そして失ってゆく。 代わり映えのせぬ日々の中で、少年少女は何を求め、何を手放すのか。 日常の片隅にある、幸福を探す人々の物語。 ※「小説家になろう」さんの方にも投稿させていただいております。

  • 小説
  • 中編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-09-06

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. Ⅰ・raison de^tre
  2. Ⅱ・pluie
  3. Ⅲ・Breaking A Commandments
  4. Ⅳ・”More Than Blue"
  5. Ⅴ-1・The tale of a Ring~The Teacher smiles for me~
  6. Ⅴ-2・The tale of a Ring~The Man was smiling for me~
  7. Ⅵ・No Lily’s Room