空蝉

大石秀宣

空蝉

 寸分の隙間もなく降りしきる雨の向こうで、ほのかに光ったと思ったら、しばらくしてゴロゴロという音が遠慮がちにやってくる。
 思わず飛び込んだ蕎麦屋の軒先で、毅然たる自然の猛威をほれぼれと鑑賞するが、一向にやみそうにない雨をいつまでも眺めている訳にもいかず、ちょうど腹の虫もなり始めたので、店に入る事にする。
 昔ながらの食堂を思わせる店内は、空調が効いており、蕎麦の湯気が渇いた空気を潤していた。突然の雨のせいか混雑していたが、奥のテーブルにはまだ空席があり、ややあって割烹着を来たおかみさんに、そこへ通される。
 居合わせた客のほとんどは、家族連れなどの観光客で、こぞって格子窓から見える裏庭の大雨に目をやり、水族館のイルカショーよろしくときどき鳴り響く雷の音に歓声などがあがっていた。
 そんな浮き足立った雰囲気にありながら、ふとはす向かいに席を取る中老の男に引きつけられた。男は無精髭を蓄え、雪の文様のはいった見窄らしい甚平姿という出で立ちで、その表情は冴えないのだが、どこか凛とした気配を感じるのだった。外の雨の様子などに一切の興味を示さず、淡々と目の前の蕎麦をすすっているその佇まいは、異形の趣があり、私も斯く在りたいと思うのだった。
 注文を済ませほっと息をついていると、目の前の席に二人組の婦人がやってきた。ご多分に漏れず難を逃れてきたのであろう、興奮気味にここまで辿り着いたその功をねぎらい合っている。濡れた土産袋などを大義そうに脇へやりながら、ようやく席に着くなり、近くを通りかかったおかみさんに、
「恐縮でございますけれども、少し暑いのでクーラー強くしてくださらないかしら?」
と、紫色に髪を染めた婦人のひとりが伝えると、
「すみません、他のお客様がいるので、気持ち程度でよろしければ。」
と応えるおかみさんに、お手本のような笑顔を返して、また土産袋などをそわそわと整理しはじめると、もうひとりの婦人が、
「異常気象でこうも暑いと参るわねえ。」
「ほんとに困ったものよ。政府は温暖化の対策もしないで、税金を無駄遣いばかりして・・」
などと間断なく続きそうな気配なので、私は持参した本に目を落とすことにした。

 しばらくすると、
「お待たせしてしまって、すみませんね。」
と、そのおかみさんの声で我に返り、
「いえいえ、この混雑ですからね。」
と応えながら注文した(にしん)蕎麦を受け取る。醤油色に変わり果てた鰊のかつて川を悠々と泳ぐ姿に思いを馳せ、手を合わせ、ゆっくりと堪能しようとするところに、
「キャー!ちょっと、店長呼んで!」
顔を上げると、先ほどの婦人たちの前を、蛾がひらひらと舞っていた。紫髪の婦人は、手に取ったメニューを無闇矢鱈に振り回し、その狂喜乱舞たるやまたたく間に店内の注目の的となった。ほどなくしてはたかれてしまった蛾は地面に落ち、小さく呼吸するように羽を開いたり閉じたりしていた。
 すると、そこへさきほどの甚平の男がやってきて、しゃがみ込むと両手でその蛾を掬(すく)って抱きかかえ、
「お前もえらいところに入り込んじまったな。」
とぼそっと呟くと、あっという間に店を出ていった。
 慌てて先ほどのおかみさんがやって来るが、紫髪の婦人の興奮は覚めやらない様子で、もうひとりの婦人も難しい顔を浮かべる他なさそうであった。私はしばらく呆気に取られていたが、食べかけのそばをそのままに立ち上がって、男の後を追っていた。

 蕎麦屋を出ると、外の様子は打って変わって陽が出ていて、そのもわっとする熱気の中に雨の匂いが漂っていた。甚平の男は、人の間をぬって、ちょうど五、六軒先の路地を入っていくところであった。見たところ両手を抱え込んでいるようであったので、蛾はまだその手の中にいるようである。私もすぐさま人の流れをかき分けてようやくその路地を入ったが、男の姿はもう見えなくなっていた。路地の先には踏切があり、その奥に神社が見える。きっとそこで蛾を離してやるのだろう。そう直感した。
 踏切を渡ると、繁華街とは裏腹に静かな空気が流れていた。鳥居をくぐって神社に入ると人はちらほらあったが、甚平姿の男はそこにもなく、疎らな蝉の鳴き声に紛れて踏切の音が響いていた。
 仕方なく踵を返して、来た道を戻りながら、先ほどの男の言葉を思い返していた。
「お前もえらいところに入り込んじまったな。」
 彼の蛾は、自発的に人間界に入り込んだのだろうか、それとも何かに引き寄せられてきたのか。いづれにしても別界に堕ちてしまっては、抜け出す事はできないのだろうか。私はどうなのだろう。抜け出せるとしたら・・
 とそのとき、思考を切り裂く轟音に、はっと目の前の世界に引き戻されると、脇の線路を電車が通過していった。ふと見やった東の空には虹が掛かっていて、ああ、と独りで感嘆の声を上げながらしばし見入るが、反対の空に立ちこめる灰色の雲が目に入るなりまた雨にやられる心配がよぎり、食事は諦めて帰宅の途に就くことにした。

 帰りの道中に繁華街を抜ける際、ちょっとした人だかりに歩みを止められる。目の前を横切った観光客が団子を手にしていたところを見ると甘味処であろうか。どうも食指が動かされてしまい、迂闊にも歩が鈍ってしまうところに、クウーンという声が聞こえてきた。足元に目をやると、服を着せられた小さな犬が哀れみの表情を浮かべて飼い主の団子を一直線に見ていた。ややもったいぶられた後にその団子が与えられるや否や、すぐさまその野生が露になり一気に平らげると、またクウーンと哀れみの声をあげて尻尾を振っていた。
 私は団子の誘惑を振り払い、帰宅の途に戻り、また源氏山を越えて、竹薮の中へと帰っていくのだった。

 店に戻ると、空はまた陰鬱な表情を浮かべ始めていて、そぞろ吹く風には溜め息が混ざっているようであった。夏がもう終わるのだ。
 そう感慨に耽っていると、気の早い(ひぐらし)がカナカナと鳴き出していた。

空蝉

空蝉

鳥獣風話 第参話

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
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