女郎蜘蛛

大石秀宣

女郎蜘蛛

 寝起きと共に神妙な心持ちになるのは、どんよりと雲に遮られ陽の光が届かぬ陰の作用からであろうか、心なし静かな朝なのである。

 幾分涼しくなってきたので、散歩に出てみると、もう柿が生け垣の柿の木の下に転がっていて、まだ色は青いが痛んでいる処を団子虫やら蟻やらが群がっているのを見ると、子供の頃に夢中で虫を捕まえた記憶などが蘇り切なさを覚えるのだった。
 少しずつ秋が近づいていると云えども、山道をものの五分も歩かぬうちに汗がじんわりと滲んでくるのが分かる。谷間を下り、小川沿いを歩くと、木々の隙間からそよぐ風が心地いい。突如ぱっと地面に木洩れ陽の陰影が舞うので、空を見やるとお日さまがまた厚い雲に隠れようとしていた。森の深いところまでくると、盛夏の熱狂は鳴りを潜めたとはいえ、遅れてきた蝉たちが疎らにその情熱を残している。

 さらに小川を行くと、なにやらあたりの調律を狂わせる異音が混ざっていた。そのもとを探し出そうと沢のあたりに目をやると、蝉が逆さまにぶら下がっていて、時折その羽を振るわせるが動けずにいる。蜘蛛の巣にかかっているのだ。
 その巣の中央には蜘蛛が留まっていて、蝉の様子を伺っているのである。いつ訪れるとも分からない蜘蛛の襲来に怯えているのであろう、蝉は必死に抜け出そうと抵抗する。そしてしばらくすると動けなくなってしまった。消耗してしまったのか。
 そこへ蜘蛛が近づいてくる。迫る死の恐怖に堪らず、蝉はまたぶるぶると身体を振るわせ抵抗を試みる。自分よりも倍の大きさはあるので蜘蛛もたじろぐ。そして時期尚早だったかとばかりに、巣の中央に戻っていった。
 私は目の前に現れた壮絶な野生に慄きながらも、最後まで見届けなければならないという義務感のようなものに襲われるのだった。
 蝉はまたしばらくすると今まで以上にもがき出したが、その命を燃やし尽くしてしまったのだろうか、それからはもうピタリとも動かなくなってしまった。観念して死を覚悟したのかもしれない。突然訪れる死を受け容れなければならないのはどれほどのことなのであろうか。
 私はただそこに畏まり、凛と立ちつくすことしかできなかった。
 事実この蝉を助けたいという衝動に駆られたが、私のような人間がその生態系を狂わせることは、彼らに負の影響を及ぼしかねないと直感したのだ。この蝉を生かせば、ひょっとしたら、蜘蛛はこのまま食べ物にありつけず死に絶えてしまうかもしれない。いづれにしても生とは何者かの犠牲によって支えられているというのが無情にも自然の理(ことわり)というものなのだろう。
 そろそろ頃合いかと蜘蛛が恐る恐る近づいてくる。その蜘蛛の動く一刻一刻の間に走馬灯のように過去が襲っているのだろうか、蝉はこのまま蜘蛛に身を捧げその生涯を終えるのだ。私は目の当たりにするこの現実に、宇宙の秘密を示されたようで、蝉に感謝の気持ちで胸が張り裂けそうになるのだった。目を逸らさずその一挙手一投足に注目する。とそのとき、蝉がわずかに動いた。赤子のように弱々しく、手足を小さく動かしたのだった。
 シニタクナイヨウ
 とっさに私は、地面の枝を拾い、その糸を払っていた。すると、蝉は其処彼処にぶつかりながら短い鳴き音を上げて飛んで行った。
 安著の溜め息が漏れる。しかし、しばらくすると得体の知れない罪悪感に襲われるのだった。結局見るに耐えかねて蝉を救ってしまった。己の意志の弱さを思い知ると共に、生死という現実に対する何かが欠けているのではないのかと。
 さらにここで考えたのが、蝉にとって、そして蜘蛛にとって、私は何者であったのかということである。森で生き抜くこともできないこのひとりの人間が。
 彼らの視界にはまったく入っていなかったであろう断末魔の舞台で、さじ加減一つであっけなくその生死を決めてしまった、このひとりの人間は。
 神と呼ばれるにはあまりに烏滸(おこ)がましい。
 ともあれ、彼らの生死に関わりをもってしまったことで、その生涯に影響を及ぼしかねないか、危惧するのである。
 正直に言うと、ここで蝉を救えば、いつか巡り巡って恩が返ってくるかもしれないという疾(やま)しさが頭をよぎったことは告白しておきたい。それでも、人はそれを「優しさ」と呼ぶのだろう。
 そう思案に耽りながら店に戻る。憂鬱な気分を転換しようと、珈琲を淹れ、いつものように店番をしながら本に目を落とすことにする。

 しばらくすると、
「ごめんください」
と突然の来客に不意をつかれ、不覚にも鼻をおさえてしまった。声のする方を見やると、何やら手にした若い女性が格子戸に立っている。
「あの、開いてますか?」
大根畑から出てきたかのようなふくよかな体つきに、白いワイシャツに黒のスーツ姿がぎこちなさを漂わせていた。訪問販売か何かだろうか。
「開いてますよ、どうぞ。」
そう声をかけると、こわばった笑顔を作り、小さくなりながら店内を見回しだす。この山の麓まで上ってくるのはさぞ難儀だったことだろう、くたびれたヒールに付着した土が物語っていた。ひとまず場の緊張をほぐそうと、
「まだまだ暑いですね。何かお探しですか?」
と声をかけると、
「あの、実はこれを買い取っていただきたいのですが。」
と、カウンターに差し出されたものは、風呂敷のようだった。
「ほう、どのようなものでしょう?」
女はその風呂敷をほどき始めるので、さりげなく、その顔を覗き見ると、やつれた表情をしていて遠目でみるよりもだいぶ老け込んでいるように見えた。
「こちらなのですが。」
そう言ってカウンターに置かれたのは、
反物のようであった。かなり古びたように見えたが、薄暗い店内から集めた光を淡い緑に放ち、水鏡のように柔らかく其処に佇んでいた。さてしかし、生地類に関してはどうも私の不得手とする分野なのである。それを悟られないように、
「これは素敵な生地ですね。どちらで購入されたものでしょうか。」
とさりげなく先手を打ち、その出自を尋ねてみると、
「家に代々に伝わるものなのですが、ちょっとした入り用で、これを買い取っていただければと思いまして。」
「いかほど必要なのでしょう?」
と念のため聞いてみる。
「急に里へ帰ることになり、その費用を工面できたらありがたいのですが。」
「お里はどちらですか?」
「東北です。」
訳ありだろうがその理由まで踏み込んで聞くのは憚られると思ったので、ふむ、なるほど、とひとまず相づちを打ち、品を検分することにする。手に取ると、水藻のように柔らかい。しかし、素材や出処を示すものがどこにも付いていないので、
「正直言いまして、証紙もついていないようなので、ちょっと買い取るのは難しいかと。」
率直にそう伝えると、女は突然の解雇を告げられたかのように絶句した。
「大変な代物だとは思うのですが・・」
と補うが、女は声の調子が一遍し、
「これは本当に由緒あるものなんです、それは私が命にかえても保証します!」
と、一気呵成に捲し立てた。私は努めて穏やかな口調で、
「生憎ですが、出処が証明できないと、例え高価なものだとしても買い手がつかないのです。」
そう伝えると、女は悲壮な表情を浮かべてまじまじと私を見た。
 私はもう一度検分しながら押し黙った。なんとかしてやりたい気持ちはあるものの、東北までの費用とあらばなかなかのものである。
 しばらく沈黙を保っていると、女は涙を堪えるような表情を浮かべ、口を開いた。
「それでは、この反物を担保にお金を貸していただけないでしょうか、必ず返しますので。」
大胆なことを言うものである。しかし、女の表情はまっすぐにこちらを見ていた。汗と熱で化粧が落ちかけていたが、よほど切迫した状況なのだろう。私は意を決した。
「ふむ、よくよく考えてみればこういう手のものを好む客がいるので、買い取りましょう。」
よほど緊張していたのか、女はその言葉を聞くと、目頭から二つ三つの滴をこぼしていた。そして、何度も頭を下げて店を出ると、小走りに去っていった。
 きっと、これも何かの縁であろう。後味のよいものが私の内側に広がるのを感じ、朝の憂鬱さはどこかへ去ってしまっていた。

 それにしても、この反物はどうしたものか。柱時計に目をやると、いつの間にやら牛の刻を回っていた。さて食事を取りに出掛けようとしているところに、
「ごめんくださいな。」
と近所のばあさんがやってきた。
「あら、お出掛けのとこだったかしら?」
「ええ、食事に出ようかと思いましてね。」
「あら、すまないわね。でもあなた、外食ばかりだとよくないわよ。」
「時折そうして世俗の見聞を広げているのです。」
ともっともらしいことを言ってみる。
「ちょっと、いいかしら?」
と、こちらの都合などお構いなしなのだが、それがこのばあさんの人となりであるのをよく心得ているので仕方なく、どうぞ、と中へ促すと、
「いや、あなた、実はたいした用じゃないんだけどね。」
と切り出すあたりに少し憮然とするが、そこまで気を許し合える隣人がいるのも満更でもないものだと考え直し、寛大な心で次の言葉を待つ、
「これ、あなたにもあげようと思って。」
と紙袋からもぞもぞ手に取り出したのは、何やらひからびた若布(わかめ)のようなものだった。
「あなたのところ薮蚊がすごいでしょう。これで燻して蚊遣り火にしなさいな。」
蓬(よもぎ)の葉であった。去年も分けてもらったのだが、どうも無益に蚊を殺すのは忍びないので、人知れず庭の土に還してしまっていたのだった。それをわざわざ伝えるのも心なく、
「ほお、またこんなにたくさん。」
と、曖昧に感嘆の声を上げると、いいからいいからと紙袋を手渡され、いつも座る藤の椅子に腰をおろして、
「火の着きが悪いようだったら、紙に包んで燻しなさいよ。」
と、まだしばらく帰らないつもりらしいので、こちらも腰を据えることにして、
「この間、ぬか漬けまでいただいたのに、すみませんね。」
と御礼かたがた話を膨らますと、いいのよそんなこと、と満面の笑みを浮かべて、漬け方の秘訣などを話し出すのだった。実際のところ、こうした些細な生活の知恵で、出費が減るだけでなく、じわじわと忘れかけていたものを感じ入ることができるのは、実に有り難いことなのである。
「あら、これ素敵な織物ね。」
と、窓際の陽の当たるところに置いていた反物に目をやるので、
「実はちょっと前に若い娘さんが来ましてね、
急な入り用があるとかで、買い取ったのですよ。」
と、伝えると、
「ちょっといいかしら?」
返事を待つまでもなく反物を手に取り、矯(た)めつ眇(すが)めつすると、
「これいくらで買い取ったの?」
と、臆面もないこの不遠慮さは、私には到底持ち合わせることのないものだと感服しながら、斯く斯くしかじかと事の成り行きを説明すると、
「あなた、テレビなんて見てないでしょう?」
と突拍子もないことを言うので、真意を計り兼ねていると、子供を諭すように、ゆっくりとした口調で、
「巷ではね、詐欺が流行っているの。」
唖然とした。頭ごなしに、私の善意と娘さんの健気さが否定されたようで、気分を害しながらも、落ち着きを保ちつつ、
「まさか、そこまでして人を騙すものではないでしょう。」
とようやく声を出したが、
「そういう手の娘は強かなものなのよ。」
やれやれ先が思いやられるといったようなため息をつきながら、
「それで涙なんか見せたらたいしたものだけど。」
といい当ててしまうところがこの人の妙なのであろうか。
「いづれにしてもそこまでされたら放っておけませんよ。」
と返すが、
「何言ってるのあなた、そんな生優しいこと言ってたら、世を渡っていけないのよ。」
との言葉に、私はとうとう腹に据えかねて、
「事情はどうあれ、関わりを持とうとするのもまたその人の選択でしょう。」
と声を荒げてしまった。
「あなたね、それは確かにそうだけど。」
それから、お互いしばらく黙り込んでしまった。
 こういう言い争いはいつも埒があかなくなるので、ここはひとまず話題を変えようと、そうだ、と反物の手入れ方法をさりげなく聞いてみる。すると、また気分よく話し出すので胸を撫で下ろしつつ、私にはないその竹を割ったような性質を羨ましくも思うのであった。

 それから、いつの間に話題が近所の噂話になってきたので、少し嫌気が差していると、柱時計が鳴った。これ見よがしに、
「あ、もうこんな時間だ。」
と呟くと、
「あら、ずいぶんと長居してしまったわね。」
と応じて帰り支度をしようとするので、いやいや、もっとゆっくりしていっても、などどと当たり障りのないやりとりをしながら、私も店を出ようと身支度をする。
「ヨモギありがとうございました。助かります。」
「いいのよ、いいのよ、使わなくなったら捨てちゃいなさい、また来年あげるから。」
などと会話し、互いに店を出て、ばあさんを途中まで見送って別れた。
 山を降りる道中、まださきほどの会話が、頭から離れなかった。反物を買い取った善意を否定されたことだろうか。否、関わりを避けるのも、受け容れるのもその人の選択なので、それはさして気にかかることではなく、ひっかかるのは別の何かなのであった。ばあさんの言うことは同意しかねるものはあるのだが、少なくとも私などよりよっぽど実直なのではないのかと。

 鉛色の空と同じような心持ちのまま、いつもの定食屋にくると、暖簾が出ていたのでほっとする。店に入ると、店主とお袋さんがいそいそと食器を片付けていた。店主が私に気付くと、
「申し訳ないけど、お昼は一旦閉めるとこでさ。いやあ、さっきお客さんが団体で来たもんだから、食材切らしちゃって。」
 店内を見渡すと、食べ終わった皿などが散乱していて嵐の跡のような有様であった。お袋さんも、食器などを片付けながら口を開くと、
「郷里から出てきたと言っとったけんども、ありゃ集団の出稼ぎか何かだか。」
それは災難だったのか、嬉しい誤算だったのか、分かりかねて、それはそれは、と曖昧に受け答えると、店主が、
「夜また開けるので、もし時間あったら寄って下さいな。」
そう言って、それぞれまた片付けに勤しみ出すので、仕方なく店を辞することにした。
 さて、食事はどうしたものか。路頭に迷っていると、地面にぼたぼた大きな雨粒の後が出来きたと思ったら、あっという間にザーっと滝のような雨が振って来た。
「これは降り出すかもしれないね。」
近所のばあさんが帰り際に空を見やりながら呟いたのを思い出した。

女郎蜘蛛

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鳥獣風話 第弐話

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