楽園とピンボール(三題噺)
都外某所で行われた三題噺の作品です。所要時間40分。
三題:東京ドイツ村(千葉県)/ピンボール/失格
押し込むではない、けれど叩くでもない。その時間分だけスペースキーを押して、離す。
『スキルショット!』
その通り。僕は画面に語りかける。そのとおりだ。スキルショット。これで開幕と同時に三千点が手に入る。ウィンドウズ九十五に搭載された僕の青春だ。そしてこれからは僕の青年期となり、壮年期を共にし、そして棺桶に至るまで添い遂げる。灰色のノートパソコン。三センチもの厚さ。今の時期にはちょうどよい温かさを僕にくれる。廃ゲームセンターの電源を勝手にもらっている。契約の先がどこに行っているかはわからない。しかし、古めかしいノートパソコン一台を動かす程度なら、渋谷の街は見逃してくれる。
僕はピンボールというゲームが非常に好きだ。ゲームの持つ夢、そして無意味さを完璧に備えている。どこまで行っても終わることのないミッション、扇情的な効果音、そして刺激的なグラフィック、不気味なほどになめらかなフリッパー、回避のしようがない死亡。それらは複雑な順序を取り、一回として同じ動きを見せない。ぎこちない生命体のようにも思える。銀球はディスプレーを跳ね回り、そして幾度と無く衝突し、点数を稼ぎ続けるが、定めある生命だ。無限に台を動くことは出来ない。ディスプレーから飛び出ることも出来ない。せめて、次なる球は少しばかり長く生きることを、そして、『ハイスコア』の名のもとに永遠に生きることを求め続ける。その感覚など、操る僕からは推し量ることしか出来ないのだが。
弾がはじかれる。このコースは良くない。台をチルトする。軌道がそれる。僕は少し微笑む。もう一回チルト。そしてもう一回。エラー音。しまったな、と僕はつぶやく。ずっとやっていなかったせいで、何回『たたけ』ば死んでしまうのかわからなくなっている。失格と非失格の間は空虚が横たわっている。それを量子化と呼ぼうが、連続でないと呼ぼうが結構だ。とにかく僕はひとつの機体を失い、また新たな銀球がウィンドウズ九十五のディスプレーに現れた。スキルショット。これでまた三千点。
「おい、こっちだよ、こっち」
僕は数多くのアダムであり、彼女はまた数多くのイブだ。
彼女が僕の手を引く。僕は地図を見ようとして――それが失われる。彼女が奪ったのだ。僕は肩をすくめる。人混みの中には、きっと僕達と同じような人々がいる。この世には数多くの男女がいて、その中には(偶然にも)人生のささやかな期間を共にする二人組がいる。そして彼らはきっと自分たちが次なる時代のアダムとイブになれると(性別は不問にして)考えている。僕も多分そうなのだろう。僕たちはいつかこの渋谷の街から遠く離れなきゃいけないし、それは多分僕達が知恵の実を中途半端に食べてしまったせいだろうし、そしてそれは労働の苦しみやら、息子娘を授かる痛みやらを僕達に授けるが、僕たちはそれをある観点からは嬉しく享受するのだ。次の世代に何かを授けるという権利を得た喜びかもしれないし、あるいは時間というものの価値を作り出せたことの幸せかもしれない。いずれにせよ、僕も彼女も、今のところはこの渋谷に生き、そしてまだ楽園に潜んでいる。そこにはいちじくの葉はなく、悪賢い蛇も現れてはいない。
「ちょっと、早いよ。地図見なきゃ、迷ったらどうするの、ちょっと寒くなってきているし、危ないよ」
「何女の子みたいなこと言っているの、そう言いたいのはホントは私」
そりゃそうかもね、と僕は呟いて、雑踏の中でちょっと立ち止まった。彼女は僕を置いて数メートル進んでから、半ばあきらめたように首を振って戻ってきた。髪を赤色に染めたバンドマンが怪訝そうな顔で僕達を見た。
「ちゃんと調べなきゃ。まだ渋谷だって。旅は長いよ」
東京ドイツ村(千葉県)への道のりは想像以上に僕達にとって難しかった。彼女は当然――気の強そうなショートカットにする人は、『実際に』気が強いからショートカットにするのだ、と気の強い彼女はよく言う――地図など見ないし、僕だってそう読むのが上手な方ではない。結局のところ、僕たちは『全ての道はローマに通ず』を文字通りに受け止めたいと思っているし、現状はひとまずそういうふうにしているだけなのだ。
僕たちはまた歩き出す。次はもうちょっと近くなった距離で。僕は裏道に歩いて行く。こっちのほうがきっと近いし、多分この道にしか蛇はいないのだ。そういえば、幼稚園生の時、一回だけこの道を通ったことがあった。父親にゲームセンターに連れて行ったもらった時だ。その時はひどく怯えてしまって、実際彼も驚かそうとしていたみたいだったけれど。
そして三機目が死んだ。正確にはそのゲーム中の三機目が死んだ。点数はハイスコアに到達せず(正確には上から三位までを脅かすことなく)全くの虚無に消え去った。上を向いて、目を閉じると、僕はさっきのゲームにおける反省点をざっとリストアップした。チルトを使いすぎた。フリッパーを叩くタイミングが雑だった。ジャックポットを狙いすぎた……。そうして、また僕はディスプレイに向き合った。ボード全体のランプチェックエフェクトがめまぐるしく点滅し、効果音が鳴り響く。そして一つ目の銀球が落ちてくる。
『スキル・ショット!』
また三千点がスコアに追加された。そして銀球はフリッパーに叩かれると上部まで到達して、また生命らしき火を灯す。いつまでも生きていたい銀球。しかしながら、必ず死は訪れる。それが悲しみであり、救いでもある。死のない世界は、資源が上界を持つ限り結局のところ生命を授かることのない世界に変貌するし、生命が増えない世界においてはすべてのものはただ味気なく、ただ輝きを失い、ただ灰色の楽園だけが生命の形を模倣する。それよりも僕はピンボールの世界を愛する。
声が掛かる。
「あの、すいません」
顔を上げると、若い男女の二人組がこちらを見ていた。管理人の息子娘だろうか。僕はできるだけ丁寧に頭を下げると、「申し訳ない」といった。
「どうしても電気が必要で。すいません。電気料金は二倍で払います」
「いや、そうじゃなくって」
気弱そうな男の声に、全く逆の正確らしい女の声が重なる。
「あれ、これ、ピンボールじゃん、あたし、これの裏ワザしってんだ。こいつのお父さんが教えてくれてさ、こうやって」
彼女は私のパソコンに何事か叩き込んだ。そして、銀球はマウスポインタに吸い込まれていき、ピタリと静止した。
「これで、マウスでボールが動かせるんだぜ。絶対死なないし、ずっとジャックポットが出来る。最強じゃん。これすごくない?」
そうかもしれない。僕は呟いた。それは最強なのかもしれない。そしてそこは楽園なのかもしれない。しかしそこに二つ目の銀球はない。
楽園とピンボール(三題噺)