狐冷(三題)

都外某所で行われた三題噺です。所要時間は40分

三題:霧ヶ峰/ピストン/栄養ドリンク

「ええ! 霧ヶ峰のミストに栄養ドリンクを混ぜることで無限にハッスルできてピストンのクオリティが無限に高まるんだってぇ?」
「井上くん、日曜のアニメみたい」
 これが僕の彼女であるところの狐(エキノコックスには感染していない)、シズカだ。シズカははっきり言って異常だ。まず狐なのにあからさまに人間のフォルムをしている。無限に嘘だ。果てしなく嘘だ。そして彼女は多少――統計的に考えて、誰しも多少はおかしいのだ、という批判はともかくとして――頭がおかしい。彼女はひどい嗜虐趣味を持っている。簡単にいえばサディストなのだ。『こぎつねヘレン』を見に行った時、彼女が発した第一声は「こんなのやりたい放題じゃない。まず耳を切るわ。いらないもの」だったことからも察せよう。栄養ドリンクをタンクに満たした加湿器を霧ヶ峰の送風口に設置して、僕は反論した。
「だったら何だ? 僕達の使う言葉ってやつも要は何十年か前の人『みたい』じゃないか?」
「サバうぇバロぐれルニロへス」
「僕が悪かった。シズカ、許しておくれ」
「じゃあまず指かなあ」
 と言って彼女は机――スプラッター映画の監督に熱心なファンレターを送ったらくれたらしい。とっても愉快な装飾が施されている――から糸鋸を拾い上げた。それに引っかかって、歯科医が使う先の曲がった針やら、ペンチやら、クロコダイルのナイフやらが何個か釣れた。ちなみにこれを見て彼女の母親は失神したらしい(それは別に工具ではなくて、彼女が映画監督からもらった血痕付き手術台のせいではあるものの)。
「でも、ほら、指なくなっちゃったらさ、ほら、困るじゃん。だってシズカ、料理作れないんでしょ、だからさ、僕の指がなくなったらシズカ餓死だよ。ガシッと死神が君の食道を掴んで餓死だ」
 シズカはある程度納得したらしく、つまらなさそうに糸鋸を裏返したり、斜め下から見たりした。シズカは狐だから、料理が作れないのだ。当然。別に僕は『黒人と女は数学ができない』なんてことを言おうとしているのではない。ただ狐はそもそもの定義として料理が作れないから、料理が作れないと言っているだけなのだ。
 話を最初に戻そう。
「良かったよ、シズカ。銭湯に行くのは完全に諦めたけど、まだやくざと友達にはなりたくないからね。ところで、どう? ミスト」
 シズカ、もとい人間の形をした狐、は軽く頷くと、にへらと笑った。ちなみに僕たちは今当然全裸だ。そうじゃなかったら栄養ドリンクを加湿器に突っ込むなんてことをしない。とりあえず僕は自分の欲を満たせるだけ満たしてからその後の苦悶を迎えようと思いたち(簡単にいえば、やってよかったくもん式だ)、彼女の方に近寄った。ちなみに一歩歩くごとに僕の背中はずきずきと痛むし、脇腹は完治していないやけどがひりひりとした感覚を残すし、足の裏に埋め込まれた釘が神経を苛む。でもまあしょうがない。なぜならシズカは正直ちょっと怪しいくらい無限に可愛いからだ。
 シズカはさっきのニヘラ笑いを保ったまま僕を呼び込んだ。僕はとりあえず彼女の手からジッポーのライターをむしりとり、枕の後ろからポケットサイズの十徳ナイフを取り除き、彼女のくるまっているシーツに縫い止められたミシン針を引き抜いてから、おもむろに彼女の頬に触った。エアコンの風が栄養ドリンクを運んできた。これは無限にピストン出来る。出来なければ詐欺だ。けれど僕は違和感を覚えた。ちょっと普通では考えられないくらいエアコンが寒いのだ。はっきり言って異常に。
「シズカ、エアコンがめちゃめちゃ寒い」
「だって設定温度マイナス四度だもん」
 僕は素早くリモコンを奪い取った。液晶には大きく『マイナス四度』と表示されている。上キーを押そうとしたが、リモコンは即座に叩き落とされた。ヘッド二キロ半のショートハンマーを持っている女の子ってそうそういない。コンセントとケーブルを確認したが、ご丁寧にアルミプレートらしきもので保護されていた。いつの間にやったのかは聞かないことにした。シズカはニヘラとまた笑った。
「井上くんさ、人体の限界に挑戦しようよ。まあ私は狐体だけどね」
「死んじゃうから。これ。常識的に考えて、無限に死んじゃうから。ヒートポンプの限界を考えちゃうね。とにかくドア、ドア開けよ?」
 彼女は不服そうに私の方を見て、首を振った。僕はドアノブに手をかけて――回らない。
「回らないんだけど」
「そういうようにしてあるの。スマフォ連携の外鍵にして、こちら側には鍵が無いようにして、蝶番も硬いのに変えて、もちろんドアの材もいいのに変えて、すごいでしょ、これ」
 僕は肩をすくめようとしたが、マイナス四度の風が直撃し、くしゃみを返答に帰ることに鳴った。ちなみにパンツ等々は彼女の手によって灰燼に帰している。僕は生命の危機を感じ始めた。
「ねえ、本気だ。僕たちは死ぬ。このまま行くとマジに死ぬ。全力で死ぬ。無限に死ぬ。僕は出るぞ。ここから出る。いいか」
「駄目」
「黙れ、君は狐じゃないんだぞ、君はイカれたサディストなんだ、この変態、死ね、ビッチ、壁に二人死体埋め込んでんの知ってっからな!」
 シズカは何を思ったか突然ブチ切れて、何語かを喋った。僕は手近な平板(痛いんだこれが)を拾い上げるとシズカの頬を全力でぶっ叩いた。すっごい音が鳴った。オーケストラに使えそうなくらいだ。霧ヶ峰のソロが終わって、最終章に入る前の合図、彼女の頬とシンバルが鳴らされる。感動的だ。しかし今はこの部屋を出なければ。僕は彼女を無理やり引っ張り起こすと、どこかに出る場所がないかを確認した。
「知らない」
 僕はアイスピックを彼女の脇腹に突き刺した。えぐるように突き刺すと痛みがあるだけで生命に影響はしない。
「ごめんマジで知ってた。確かドアの上の通気口に」
 僕はそこを確認しようとして、彼女の家のドアがやたらに高いことを思い出した。到底届かない。僕が彼女を肩車しても微妙に――何センチかで――届かない。
「ごめん、ホント、あ、血凍ってる。すげー」
 シズカは死ぬ前にアホみたいなことを言う。僕は必死で部屋を探しまわる。足が震える。赤みが指している。ほとんど凍傷なのだ。体の周りと淡黄色の氷が覆っている。これを舐めればホッキョクグマは越冬できるだろう。栄養ドリンク?
 僕は栄養ドリンクの空き瓶をかき集めると、その上に平板を置いて台とした。そうすると彼女はやっとそのドアに辿り着いた。しかし、
「駄目、鉄格子が」
 僕は糸鋸を彼女に投げた。
「やれ! 切れ! 前後に動かせ! ピストンの要領だ!」
 そして彼女と僕はやっとこさ鉄格子を切り開き、なんとかマイナス四度の世界から脱出できたのだった。よかったよかった。

狐冷(三題)

狐冷(三題)

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-20

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted