切り裂きジャックの孫
プロローグ
――切り裂きジャックという人物をご存知だろうか?
1888年、英国ロンドンで女性数人を惨殺し、英国全土を恐怖に落とし入れた伝説の連続殺人鬼と呼ばれている。
未解決事件の代名詞としても、今も尚語り継がれている。
けれど、その切り裂きジャックに孫がいたらどうだろうか?
切り裂きジャックが切り裂いたのは、肉体ではないとしたら?
――ジャックに後継者がいるとしたら、どうなるのだろうか?
これは、そんなあり得ない出来事のお話。
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海から聴こえる筈の汽笛の音は、波しぶきと街中に響く鐘の音によってかき消されていた。
霧が立ち込め、宵闇が支配する街。防波堤の灯りは、霧の中を泳ぎながら照らす景色を変えて行く。
その街の一角で闇と霧に紛れ、何かが蠢(うごめ)いた。
黒いシルクハットとロングコートを羽織った背の高い……凛々しい顔立ちの若い男性だった。
肩に身の丈よりも大きな鎌を担ぎ、煙草を加えながらその煙が霧の中に溶けて行くのを楽しそうに眺めている。
「おいおい……何処まで逃げるつもりだよ?」
何かを追いかけているかの様な台詞を吐きながら鎌の取っ手部分を腕に乗せ、緩やかに回す。
「鬼ごっこなんて飽きただろ? 俺は、可愛い孫と遊びたいんだ。とっとと、終わらせて貰うぜ?」
全てを黒1色に身を包んだ男性は、シルクハットの下から覗く漆黒といえる程に黒い髪と、ミルクチョコレートの様な薄い茶色い瞳を、目前まで迫っている何かに見せびらかす様に、毅然と待ち構える。
『ちっ! 化け物め……』
そんな男性から逃げ切れないと思ったのか、その足を止めたのは……赤くきらびやかなドレスに身を包んだ金髪のーー美しい女性だった。
「ん? ああ。化け物で結構さ。とっとと済ませようや?」
『殺人鬼め! テメーみてーな化け物は、馬にでも蹴られて死んじまえ!』
とても女性とは思えない乱暴な言葉使いだ。
「おいおい……俺みたいの蹴ったら、馬が可愛そうだろ? 第一お前さんは……」
鎌で宙に大きく円を描く。
「その身体の持ち主の魂を食ったじゃねえか……」
『……は? 当たり前だろ。それが俺ら魔族の役目なんだ』
「人の魂を食うのに、役目も糞もあるか!」
優しい口調だった男性は、突如そのリズムを変え……両手で取っ手を持ち足に力を込め、刹那の如き速さで地を蹴った。
『……っ!?』
いきなり戦闘になるとは思っていなかった女性は、両手を盾にするかの様に前に出し、鎌をすんでの所で受け止めた。
「テメーの食った魂の身体の人はな。ガキが居たんだよ! そのガキには、母親しかいなかった」
怒りに身を任せた鎌が、女性の身体を強く地面へ打ち付けた。
「まだ小さいガキだ! そのガキは、母親を失ってどうやって生きろってんだ!? ああ!?」
優しい表情は微塵も感じられず、ただ怒りと残された子供の悲しみを背負っている様な……そんな表情だった。
「遊びは終わりだ」
柄の先を女性の腹部に打ち込み、刃の部分で瞬時に切りつけた。
女性は一瞬だけ苦しみの表情を浮かべ……そのまま永遠の眠りに付くかの様に、その場で目を閉じた。
「これで、5人目……か」
霧で視界が悪くなっているのだが、それを物ともせず女性の亡骸の両手を、そっと胸の上に添えてあげた。
煙草を吸って気持ちを落ち着かせていると、少しかん高い声が聞こえて来た。
「じいちゃーん!」
段々近付いて来る声は、霧の中から姿を見せて行く。
肩まで伸びた真紅の髪と、その髪と同じ色の深紅の瞳。声の高さからして子供と推測出来る。
小さな手をブンブンさせ、黒ずくめの男性の元へ嬉しそうに走って来た。
「もう、遅いよ! 弟が目ぇ覚まして、おじいちゃん何処!? って、大泣きしてるよ?」
「何だ……もうお眠むの時間だから、寝てたんじゃねえのか?」
男らしいゴツゴツした手は、子供の小さな頭の上にすっぽりと収まった。
「俺は寝てないよ。弟は、さっきたまたま目を覚ました」
子供らしい大きな瞳は男性を見つめながら、キラキラと何かを期待する様に輝いていた。
そんな子供を見た男性は「帰るか」と、子供の手を握った。その時たまたま通り掛かった住人がその惨状と、子供と共に霧の中へと消えて行った男性の姿を目撃し、霧の街の夜は、騒動の街へと変わった。
ーー亡骸となった女性の事を調べた刑事が、目撃者から聞いた話は……
『猟奇的殺人鬼』だった。
後にこの殺人鬼の名前は、【切り裂きジャック】と名付けられ、恐れられた。
切り裂きジャックの孫