目覚まし時計が鳴らない日

 彼が瞼を開けると、その動きに合わせるかのようにして、カーテンが独りでに開かれる。自分は眠りから覚めたのだと、彼は他人事のように自覚した。それと同時に、まどろむ間もなく、刺すような朝日と強烈な違和感とが、頭の側面を殴打するかのように、彼の意識を刺激した。
――そうか。そういえば、そうだったか。
 彼は違和感の正体を思い出すと、急激に身体にのしかかってきた気だるさを押し出すかのように、ため息をついて、ベッドから起き上がった。
 静寂に対する喪失感。それが、彼の感じた違和感の原因である。彼は日常的に、目覚まし時計を用いて朝を迎えていた。目覚まし時計の煩わしい音が聞こえないことによって生じる静寂、そして、それに対する喪失感。それが、彼に強烈な違和感を与えていた。
 彼はベッドから降りて掛け布団を整えると、洗面所に向かって顔を洗い、軽く口をゆすぐ。それから、“丁度出来上がっていた”朝食に手を付けた。メニューはベーコンエッグとトースト、サラダ、それから、珈琲。味は――不服ながら、味は悪くない。彼は珈琲を舌の上で転がして、少しだけ表情を強張らせた。

 先日、目覚まし時計を壊してしまった。彼はそのことを、ひどく後悔している。
 ここ三十年で、人間の生活は大きく変わった。変わってしまった。朝に眠りから覚めたならば、センサーを搭載したロボットがそれを感知し、自動でカーテンを開ける。それと同時に、朝食を作り始める。彼の生活はまだロボットに頼っていない方だ。ロボットが可能とすることは他にもテレビを付けたり、部屋の照明をつけたりと、多岐にわたり――それは、ユーザーの設定次第で、言うなればベッドの上から動かずに、必要な動作を殆ど完了できることを意味する。
 そのような生活が当たり前となった現代では、「科学は全てのユーザーのニーズを満たします」と当然のように謳われ、「一人の恋人よりも一家に一台のロボットを」と人々は囁き合う。
 彼が音の鳴る旧式の目覚まし時計を使用していたのは、そのような現代の流れに対する反抗でもあった。目覚まし時計も、そのあり方は時代の流れとともに大きな変遷を遂げている。手始めに、使用者が目覚まし時計の音で目を覚ますと、眠気が残らないようになった。そして、機械がそれを察知して自動で音が止まるようになった。それだけでも衝撃的な開発であったのに、音すら鳴らなくなってしまったのだから驚きだ。目覚まし時計の機能はロボットに組み込まれ、時間を指定すると利用者の脳へ直接働きかけて、自発的な目覚めを促してくれるようになったのだ。
 どこか、時代の流れを受け入れられない自分がいる。彼は、生活環境が次々と変化していく中で、音の鳴る目覚まし時計だけは手放そうとしなかった。彼なりの、ささやかな意地だった。
 彼は朝食を食べ終えると、着替えを済ませ、歯を磨く。どこか一人暮らしを始めたばかりの時のような気分になりながら、彼は鞄を手に取った。鞄の忘れもの防止機能を作動させると、滑らかな女性の声が再生される。
『ノートを机の上に移動させています。本日の特別な持ち物は登録されていません』
「そういえば、ノートを移動させていたか」と、彼は思い出して呟くと、ノートを取りに移動した。
 この忘れ物防止機能は、人が起こす「忘れ物」を大きく二種類に分類し、その解決を目的として開発されたものである。人の起こす忘れ物の中には、何を持っていく必要があるのかを忘れてしまうこと以外のことが根本の要因となっているものがある。例えば、普段から筆記用具を持ち歩いている人が、筆記用具を鞄の中から移動させてしまったことを忘れてしまい、鞄の中に筆記用具が入ったままであると勘違いして忘れ物を起こしてしまう場合だ。この種の忘れ物を防止するために、予め登録された「ノート」等といった特定の物が鞄の中から移動された場合、その履歴を記憶しておく鞄が考案されたのだ。
 加えて、登録した物以外で必要なものがある場合は、日時を指定して個別に登録することができる機能も考案された。この二つの機能を備えた鞄により、人が起こす忘れ物は大幅に防止されるようになったと言われている。
 近年では、ロボットに忘れ物のリスクを管理する機能が備えられるようになったため、鞄の忘れ物防止機能の需要は減っている。しかし、彼はこの鞄の機能を心底気に入っていた。だってこれくらいが丁度良いじゃないか。

 支度を全て済ませて、彼は家を出る。扉を閉めると、勝手に鍵が閉まった。部屋内ではカーテンが自動で閉められ、不要なものの電源が全て自動で落とされているのだろう。他にも、朝食の洗い物や、ゴミの廃棄など――それは、主人の外出を合図に始まるロボット達の労働だった。
 彼は道路を前にして、矢のような日射しを避けるように目を窄めた。キーで車を呼び寄せて、雲ひとつない空を羨む。風があまり吹いていないことが、少し恨めしかった。風が吹いていたならば、この靄が掛かったような気分をどうにかしてくれたかもしれないのに。
 彼が住むのは住宅地に馴染んで建つ二階建てアパートの一室である。近年では常套句ともなりつつある「ロボット完備」を謳い文句としたアパートであり、彼が住むのはその二階の一室だ。当初、彼はロボット完備ではない住居に住むつもりだった。しかし、その条件では良い物件が見つからず、父からの強い勧めもあり結局このアパートに決めてしまったのだ。昔から、父には頭が上がらない。男手一つで育ててくれた父から強く勧められると、無下に拒絶することは出来なかった。それが自分を思ってくれてのことであるのだから尚更だ。
 車が駐車場から面前へと移動してきて、ドアが開かれる。彼は車に乗り込むと、「A社まで」と少し疲れたように告げた。
 車のドアが独りでに閉まり、自動運転が開始される。彼は次々と車窓に映し出される景色を、スクリーンに映し出される映像を見るかのように眺めるのだった。映し出される映像が都会へと切り替わると、スクリーンに「科学は全てのユーザーのニーズを満たします」と映し出されたデジタルサイネージが入りこんでくる。
 時代が進むにつれて、世界中で様々なものがロボット化されるようになっていった。家事はロボットが行い、人間は生きる為に必要な活動から解放され、豊かになったのだという声も少なくない。家事や重労働から解放されて、娯楽に掛ける時間が増えたのだと。現代科学の及ぶ分野は芸術分野にさえ届き、今や人工知能は作曲を行い、小説を書き、絵を描く。
 だからと言って、人間の労働が全く不要なものになったかと言えば、そうではない。多くの労働はロボットによって可能なものとなったが、未だにロボットは人間の感情を正確に理解するには至っていないし、ロボットの労働に対して人間が仕上げを行うという体制をとることが殆どだ。芸術分野に関しても、未だほとんどの作品は人間によって生み出されたものであるし、人工知能が作成したものでも人間の手が加わっていることが多い。ロボットと人間とでは、上手く分業体制がなされている。彼は時代の流れを受け入れられないながらも、そのように理解は示していた。

 A社に到着すると車を降りて、彼は車を駐車場へと向かわせた。A社は彼が勤める大手の食品メーカーである。彼は社内に入ると執務室へと向かった。
 会社内のセキュリティには、本人ですら認知していないような身体的特徴や、癖などの行動的特徴といった情報をもとに行われる生体認証が用いられている。その情報の入手を自動に行うロボットも開発されており、現在では最も信頼のおけるセキュリティシステムであると言われている。また、この生体認証は立ち止まる等といった特別な動作は必要なく、機密性の高いエリアへ移動するにつれて流動的に行われる。そのため、セキュリティチェックを受ける側としてはストレスが無い。認証されるために必要な手間も無ければ、認証されるという感覚すらないのだ。
 彼が執務室に入ると、人はほとんど来ておらず、席は虫食いどころか枯れ葉のような有様だった。彼はそれについて特に気にする様子も無く、自身のデスクへ着く。
 人は会社に行かなくなった。コンピューターネットワーク技術の向上や、それに拘わるセキュリティー技術の向上によって、会社に行かなくても十分な作業が行えるようになったのだ。人同士が直接合わなくても共同作業は可能であり、十分な管理体制も敷ける。そのため、直接会うという文化そのものが衰退した。多くの企業もまた、それを受け入れた。今や重要な会議ですら、役員全員が直接顔を合わせることはほとんどない。

「よう、どうした? あまり元気なさそうだけど」
 しばらくすると、同僚のNが声を掛けてきた。「んー……」と、彼は曖昧な反応を返しながら、ちらりと時計を盗み見る。時計の針は既に正午を指していた。
「ちょっとね。静かな朝に慣れなくて。ほら、例の。壊れたって話、この前しただろう?」
「ああ、目覚まし時計の件ね」Nは納得したように呟くと、彼を昼食に誘った。彼はそれに応じて、立ち上がる。
 Nは彼の同期であり、友人でもある。会社への通勤が自由化されてからも高頻度で会社に来ているが、Nは彼と違って時代の流れに対して好意的である。N曰く、「自宅に居るのに管理されているというのがどうにも落ち着かない」ため通勤を続けているのだという。
「全く、お前さんも中々に頑固だよな。……で、どうだった?」と、執務室から移動している最中に、Nが可笑しそうに笑いながら言った。
「どうだった……って、何が?」
「起きた時の心地だよ。心地。導入したんだろう? 最新の目覚まし機能」
 Nがあまりにも純粋な笑顔で言ってくるものだから、彼は喉まで出かかった皮肉を飲み込まざるを得なかった。音の鳴る目覚まし時計の方が優れているのなら、手に入れるのが難しくなるほどに衰退などするはずがない。返答なんてわかりきっているくせに。
「……正直、比べものにならなかったよ。不服ながら。目覚めがあまりにも自然で、最初は自分が目覚めたことにすら気が付かなかった」
 彼が口論で言い負かされた子供のように言うと、Nは満足そうにうなずいた。
「うんうん。しっかし、そこまで認めておいて受け入れられないとは、やっぱりお前さんは頑固だね」
「自分でも、どうしてそこまで受け入れられないのかわからないんだけどね」と、彼は前置きして続ける。
「どうも、ロボットに頼り過ぎな気がするんだ。家事とかもそう。結局自分も頼ってしまっている以上、人に言えたことじゃないけど、ロボットがいないと生きていけなくなる。本当に人は自由になっているんだろうかって思うんだ」
 彼は「ロボットは人間に必要な物だ、とは思っているんだけどね」と付け加える。
 家事や自己管理などは、人間が生きていくために必要なことだ。それをロボット任せにしてしまっている現状を「自由」と呼ぶことに、抵抗があった。
「随分と気難しい考え方してんだな。正直言って驚いた」Nの反応を聞くと、それが自然な反応なのだと彼はふと冷静になった。少しだけ、体がむず痒くなる感覚になる。Nはそんな彼の様子を楽しむように、笑いながら続けた。
「でもほら、ロボットが家事とかの生きるために必要な活動を担当してくれているからこそ、その……マズラーだっけ? の言うところの、自己実現の欲求を満たす余裕が生まれるんじゃないか。家事はロボットがなくてもやらなくちゃいけないことだろう? それをロボットに任せることができるなら、任せた方がよっぽど自由だと俺は思うけどね。俺たちの仕事の効率だってどんどん上がっているし、ロボットに仕事を取られているわけでもないだろう?」
「マズラーじゃなくて、マズローね」と彼はNの間違いを指摘して、すこし考え込む。
 確かに、Nの言うことは理解できる。自分の、時代の流れを受け入れられない理由が漠然としている分、痛いほどに。
 家事などの生きる上で必要な活動は、ロボットが無くてもやらなければならないことだ。例えば、何かを調理して食べるという行為は生きる上で必要な行為であり、ある意味では生きる上で強制されている行為である。それを行うことが自由であるかどうかと問われると、何とも言い難い。ロボットに任せられるなら任せた方が自由であるという考えは、確かにそうなのかもしれない。
 それに、家事等の活動をロボットに任せているとはいえ、労働の全てをロボットに任せているというわけではない。以前、実験的にロボットにA社の新製品を考案させてみたことがある。A社は食品メーカーであるから、どのような商品が売れているのかといったデータや、過去に行ったアンケート調査・ヒアリング調査の結果など――ロボットはそれらの人間では処理しきれないような莫大なデータを集め、分析してしまった。そこから人間のニーズを導きだし、ロボットは様々な商品を考案したのだ。
 しかし、その結果は芳しくなかった。ロボットの考案したものを商品化して売り出した結果、そこそこ売れる商品はあったものの、ヒット商品と呼べるようなものは生まれなかったのだ。中には、殆ど売れないものも存在してしまったくらいだ。その中の一つであるイチゴ味のハンバーグは、今では笑い話となってしまっている。
 ロボットは未だ、人の感情を理解するには至っていない。過去のデータから、人がどのようなニーズを持っているのかという分析はできても、商品を受け取った顧客が何を感じ、商品を通してどのような経験をするのかといった顧客視点の予測をすることはできないのだ。A社はこの経験から、ロボットに任せるのはあくまでデータの収集と分析のみとし、新商品の開発は徹底して人間が行うものとした。
 彼が時代の流れを受け入れないままで生きていられるのは、このおかげであると言ってしまっても過言ではない。彼は、自分がロボットには生み出せない価値を生み出しているという実感を持っている。人間ならでは生み出せる価値を、自分が生み出している。その実感が、彼の生き甲斐となっていた。そして、データの収取等を引き受けてくれることによって、その労働の効率を上げているのがロボットであり、それによって彼の感じるやりがいが助長されているのもまた明らかであった。
「でも、それだとロボットがまるで奴隷みたいじゃないか」
 彼は少し言葉に詰まり、駄々をこねる子供のような口調で言った。取り繕った言葉ではあったが、言うと同時に幼いころ見た映画の一シーンが脳裏をよぎる。奴隷のようにこき使われてきたロボットが、人間に復讐するという内容だ。不覚にも、彼は少し身震いした。
 Nは彼の様子を見て、「やっぱり頑固だ」と言うと、彼の心情を知ってか知らずか諦めたようにため息をついた。

 仕事を終えて、帰宅する。沈みゆく夕日の燃えるような射光に、彼は断末魔の叫びを連想した。自動運転で走る車の中を染める朱色が、今日はとても禍々しいものに思えたのだ。
 もしかすると、この朱色が自分の首を絞めて、自分を殺すかもしれない――そう考えたとき、彼は自嘲するように笑った、「これは末期だ」と。思わず、そうつぶやく。誤魔化すように唇を噛むと、自分の唇が渇いてしまっていることに気が付いた。
 人の、環境に適応する能力は著しく高度なものである。様々な状況に合わせて、臨機応変に思考して、あるいは自身の行動を律して、対応することが出来る。現在と比べて使いにくいものに溢れていた過去の時代でも、人は特に不自由なく暮らせていた。身の回りの環境に合わせて、人は自身の行動を作り変えることができていた。
 しかし、人は同時に、環境を作り変える能力を持っていた。これは他の生物には無い能力である。人はこの能力によって、人間に合わせて環境を作り変えるようになった。今ではロボットに家事等の活動を任せるようになり、環境に合わせて自分の行動を作り変えることをやめてしまった。環境に適応する能力は、いつか失われてしまうのではないか。そんな、漠然とした不安を抱えている。
 ロボットを人が生み出しているうちはまだいい。問題は、ロボットがロボットを生み出すようになった時だ。そうなったとき――人間が作り変えた環境が人間から離れて独立してしまったとき――人は環境に適応する能力も、環境を作り変える能力も、両方とも失ってしまうのではないだろうか。その時には、ロボットはもう人の感情を理解出来るようになっているのかもしれない。
 彼はふと恐ろしくなって、身震いした。よく、労働から解放されることが自由であると考える人がいる。しかし、自分は、人が労働する必要が無くなった時――人が何もする必要のない環境が完成してしまった時――人間としての尊厳を保っていられるのだろうか。
 ふと窓の外を見ると、通勤時にも目にした「科学は全てのユーザーのニーズを満たします」と書かれたデジタルサイネージが視界に入ってきた。陽は既に沈み、全てを覆い隠すような暗闇の中で煌々と光る様子は、どこか虚栄的に映った。
――科学は、不安感を解消したいと思う今の自分のニーズを、満たしてくれるのだろうか。
あるいはこれは、ニーズとは言えないのかもしれない。彼はロボットを排除して欲しいと思っているわけではなかった。むしろ、一面では人間に必要な物であるとさえ思っている。しかし、それと同時に、以前のような暮らしを求める自分がいるのも確かだった。
「科学は自分のこの要求を、満たしてくれるのだろうか」
 ネオン街を抜けた時、彼の呟く声は喧騒に包まれるようにして、暗闇の中へと飲みこまれていった。彼は目覚まし時計の鳴る音を想起する。瞼を閉じると、想起した音が記憶の奥底に押し込まれたような感覚に陥った。最近まで使っていた、目覚まし時計の鳴る音が正確に思い出せない。彼は、自分をこれまで形成してきたものの中から、何か大切なものがぽっかりと抜け落ちてしまったような気がした。

目覚まし時計が鳴らない日

目覚まし時計が鳴らない日

作者:かちゃぼちゃ

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-08-13

Copyrighted
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