火のクニの詩(十四)浦々
『浦々』
白々と夜が明ける頃、一人の旅人が峠の宿を発った。旅人は若いとも老けているともつかないどこか鬱した面影のある男で、ほとんど一言も喋らぬまま方々を彷徨っているらしい、いわゆる奇人だった。
宿の主人は台帳に彼の名を記させたのだが、そこには上品なほっそりとした文字で、「浦々」とだけ書かれていた。
代金は前払いで支払われていたため、実際には何の問題も無かったわけではあるが、何となく主人は男の正体が気にかかった。彼には何か妖しげな、ただいるだけで見る者の不安を掻き立てる、謎の雰囲気がこびりついていたのだ。
主人は自分の息子に、こっそりと「浦々」の後をつけさせた。主人はくれぐれも見つからぬようにと息子に言い含め、そしてもし万が一、男が本当に物の怪の類であったならば、すぐさま里の寺院へと向かって、相談するようにと言った。
果たして、男は物の怪であった。
「浦々」は、砂と血とを啜って生きていた。
宿屋の息子はまず、「浦々」が砂を掻き食らうのを見た。「浦々」は昼過ぎに急に道端に蹲ったかと思うと、砂を手で掬い始めて、それをさぁっ、と流し込むようにして食らった。息子はそれを目の当たりにして肝を潰したが、それでもしばらくはまだ、彼の後について歩いた。
夕暮れ時まで、二人は歩き続けた。
「浦々」は足の速い方ではなく、むしろ鈍い方とも言え、息子は尾行するのに妙に気を使わなければならなかった。彼は昼以来ちょくちょく座っては砂を食らっていたけれど、それはちょうど、人が水を飲むのと似たような具合の感覚であるようだった。
日没の頃、今少しで里に下りるという時分、「浦々」はふと背後を振り返った。
息子は慌てて木の陰に隠れたものの、これは結果から言えば、悪い選択であった。「浦々」は息子を見つけ、そろそろと何のこともないような歩みで近寄って来た。
「浦々」はまじまじと相手を見つめながら、何も言わなかった。異様に見開かれたその濁った湖水のような瞳の奥は、およそ人には窺い知れぬ深い黒を溜めていた。「浦々」は息子の顔には見覚えが無いようで、とんと見当がつかぬといった風に、能面じみた顔の下にぽつんと置かれた口を開かせていた。
「浦々」は、そして、いきなり己の腕を噛んだ。
強く、皮膚の引き裂かれる音が息子の耳に響いた。夕陽の残光を浴びて、「浦々」の腕から滴る鮮血の赤が、染みるように息子の目に映り込んだ。足元の土に血がじわりと浸み入っていく。息子には最早、何言かを発するほどの余裕は残っていなかった。
「浦々」はずぅずぅと、蕎麦でも啜るかのごとく、血を吸った。あまりの身じろぎの無さに、いつまでも吸っているかのように息子には見えた。世界がこの瞬間だけを残して終わったのではないかとも、思えた。夕陽はどうしたわけかどれだけ待っても暮れてくれなかったし、ずぅずぅという音は一呼吸ごとに途切れながら、断続的に、生々しい強弱をつけて響き渡っていた。
「浦々」の瞳はその間ずっと息子を見つめていたけれど、瞬きは全く、一度もすることが無かった。濁りの深みに潜む何かが、静かに、静かに、だが熱っぽく、息子を捉え続けていた。
そうして息子は、哀れにも、気が狂った。
「浦々」の手が自分の手を取り、その指――――小指と薬指――――を咥えた時も、彼には何も感じられなかった。脳の一部が時を失って、何だか景色がいやに平面的に、画一的に感じられるようになってしまっていた。
痛みはあった。骨の砕ける音も、咀嚼音も聞こえていた。なのに、血の色だけがどうもおかしく、のっぺりと黒ずんで見えた。ああ、と、声にならない声を、彼はいつしか上げていた。何がどうなっているのか、少しも理解できていなかった。息子には自分の外に存在するあらゆることが、己の内だけでは、整理できないようになってしまっていた。
「浦々」は相手の指を食い終わると、何か違うと思ったのか、わずかに眉を顰めて、また背を向けて歩み出した。彼は里へ下りる前に、口直しにまたちょっとだけ砂を食ったのだが、それは彼本人しか知らないことだった。
翌朝になって、息子が戻らないことを心配した主人が峠を下りてきて、木の陰でへたり込んでいる息子を見つけた。不思議なことに、その時は息子の小指と薬指は、ちゃんと手に付いたままであった。
主人は呂律も回らない、要領も得ない息子の話を辛抱強く聞いた。話を飲むなり主人は息子に謝りながら、泣きつきながら、微かな望みをかけて、共に里の寺院へと向かって歩いて行った。寺院にて祈ることで、少しでも、息子の見えない傷が癒されればと考えたのだった。
それから息子の容体が快方へ向かうのに(それは、若干の回復ではあったが)、十年の月日が費やされた。
「浦々」の正体は結局、主人や寺院の者が手を尽くして調べたにもかかわらず、分らず仕舞いであった。 「浦々」のような男がつと現れて、時に宿屋の息子のような怪我者を残し、つと消えて行く。そんな知らせはいくつも風に乗って聞こえてきたが、その「浦々」が、いったい同じ「浦々」なのかどうか、誰にも判断がつけられなかった。
この頃、ややまとまった話のできるようになった主人の息子は語ることがある。蚊の歌うような調子で、ゆらゆらと、宙に視線を漂わせながら、彼はこう囁く。
「……ええ、
私はいつの間にか、上の空で、道に迷っていたのです。
ええ、何となくどこかに誰かがいるような気がして、本当にいたり、いなかったり。
わかりますか。……」
火のクニの詩(十四)浦々