鬼喰い

プロローグ

「なにがあったのじゃ、いったい・・・」

通りの真ん中で、男は困惑した表情を浮かべていた。

無人の村であった。しかし、人のいない村など、男の生きているこの時代には珍しくもない。

飢餓、疫病、抗争・・・人々が慣れ親しんだ土地を捨てる理由は様々だが、「大異変」後の、誰の助けも期待できないこの時代においては、自らの力を超えるものに逆らうことが速やかな死を意味する以上、力に屈服するか、すべてを捨て別の場所に移るか、それ以外に選択肢は存在しないのであった。

むしろ、なにかを捨てる決断を下せた人々はまだ幸運と言うべきだろう。
捨てられる側となり、足手まといとして放置され、なす術もなくただ虚ろな目で死を待つだけの人々を、男は旅の途中で数えきれないほど見てきた。

親が子を捨て、子が親を捨て、友が昨日までの友を捨てる。そのことに疑問を覚える暇もないほどに、この時代の人々は激烈な生存競争の中にいた。
「権利」という概念、そしてそれを守る「国」という共同体が崩壊したこの時代においては、生きる能力を失った人間に、生きる権利は存在しないのであった。

人を斬る以外の術を知らぬこの男が、そういった捨てられた者たちに手を差し伸べられるわけもなく、出来ることと言えば、ただ彼らの安らかな死を願うことだけであったのだ。
「殺してくれ」と、か細い声で懇願する彼らの願いを実際に叶えてやったことも、一度や二度ではなかった。

それに比べれば、誰一人捨てられることもなく、村民全員が一斉に消えたのであれば、彼らの行く末にわずかな希望 - それが限りなく絶望に近いとしても - を見いだせる分、まだ救いがあると言えた。

だが、この村の場合は違った。

「なんなんじゃろうな、人っ子ひとり、死体ひとつ転がっておらんというのに、この血だまりは・・・」

そう、鉄パイプや廃材を組み合わせて作られた、数十戸ほどの掘っ立て小屋のような家々の中は言うにおよばず、屋根の上、壁の表面、そして通りのいたるところ、この村はおびただしい量の血だまりに埋め尽くされているのであった。

すでに昼前とはいえ、梅雨時で気温の上がりきらぬ、じめじめとした陰鬱な曇り空の下、まだ新しいと見える膨大な量の血は乾ききらず、猛烈な血臭を放っていた。

「10年前の"大異変"の後、わしも色々な修羅場を見てきたが・・・」男は家々を覗き込みながら呟いた。

「多少は復興に向かっていると思っていたが、いよいよこの世も本格的に"地獄"と繋がってしまったかのう・・・」

住人すべてが惨殺された村を見たことも、あるいは自身の手によって、敵対する者たちの屍の山を築いたこともあったが、そこには必ず「理由」と「死体」が存在していた。

突如として現れた、理由も死体も明らかならぬこの血の海は、男の苛烈な人生経験の中においても、初めて遭遇する幻魔のような光景であったのだ。

「"血の池地獄"以外には何があったかの。"針山地獄"、"火焔地獄"、"無間地獄"・・・他にも色々あった気がするが、だいたいどこでも"鬼"が下働きしておるのじゃったな」

男は血臭に顔をしかめながら言った。

「わしの一族は"鬼"には随分恨まれておるじゃろうから、地獄には行きたくないのう・・・」

驚いたことに、男は笑っていた。悪夢のような光景に茫然としたのも束の間、この男の精神構造の中で、この村はすでに「日常風景の一つ」や「冗談の対象」として消化されていたのである。

しかし、それはこの男だけに備わった特技ではなかった。この時代に生き残っている者は皆、どのような凄惨な状況も「日常」として咀嚼できる精神力を必要としたのである。
それが出来ない者に待っているのは、速やかな「発狂」もしくは「自死」であった。

「いまのうちから閻魔様に賄賂を用意しておかねばいかんかな」

そう呟き、本当に賄賂を準備しようと考えたか、男は家々に上がり込み、血だまりを避けながら物色をはじめた。

「食糧や武器や、使えそうな日用品は残っておるのう。死体だけ持ち去る野盗というのは聞いたこともないが・・・」

村が野盗に襲われて一夜にして全滅というのは、この時代にはよく聞く話であった。

一部の地域では、そういった「焼き畑農業」のような継続性の低い略奪行為を改め、「生かさぬよう殺さぬよう」を標語として最低限の物資だけをかすめ取り、村々に寄生して生き長らえることを志向する輩も現れたが、野盗は野盗であり、後先を考えず欲望のまま刹那的に暴発する者が大半であることに変わりはなかった。

そのことを考えれば、食糧や武器を残したまま、何の使い道もない死体を持ち去るというのは、野盗というものの性質から考えればあり得ないことであった。
死体そのものに何らかの価値を見出す集団があるとすれば、それは野盗とは性質の違う、なんらかの狂信的な集団であろうと男は考えていた。

「そういえば小さい頃、"マリー・セレスト号事件"というのを本で読んだのう」男は、家の中で見つけた、外国の古い冒険小説のような本をめくりながら言った。

「乗員乗客が全員失踪した漂流船の話じゃったが、発見された時には、直前まで人がいたかのように食事はまだ温かく、しかも争った形跡はまるでなかったとか・・・」

男は家の中を見回して、大きなため息をついた。収納は倒され、食器や荷物が散乱し、さらに就寝中を襲われたと思しき家では、乱れた寝具や寝袋の上に、ひときわ大きな血だまりが形成されているのであった。

「直前まで人がいたらしいのは同様じゃが、残念ながらこの村の場合は、争った形跡"だけ"しかないのう」

「しかもこの状況からすると、相当凄惨な争いがあったようじゃな。仲間割れか、外部の者との抗争か・・・」

男は家の壁や床を注意深く観察しながら言った。

「弾丸がひとつも落ちておらんことから考えて、飛び道具は使われておらんようじゃな」

「かといって、素手では無理な話じゃから、刃物を使った殺し合いと考えるのが筋じゃが、刃物があまり落ちておらんしのう・・・」

確かに、家々や通りには、包丁やナイフ、日本刀の類が何本か散乱してはいたが、村人全員がこの刃物で殺された、殺しあった、あるいは抵抗したと考えるには、使用されたと思われる本数があまりにも少なすぎた。

「しかも、どこをどう斬ると、ここまで出血するのか・・・」

斬ることが日常のようなこの男は、人が斬られて絶命するまでに、そして絶命したあとにどれだけの出血があるか、おそらく世界中の誰よりも正確に把握しているのであった。

「この村の住民が50人ほどだったと仮定しても、これだけの血だまりを作るには、全員の血を一滴残らず絞りださなければならん。果たして刃物だけでそれが可能じゃろうか?しかも、なんのために?」

男は、家の中に落ちている、血まみれの包丁を眺めながら呟いた。

「死体を包丁でみじん切りにでもしたかのう。えらく根気がいりそうじゃが・・・」

男は目を薄く閉じて、色々と思考を巡らせているようであったが、そのとき「ぐうう・・・」と、男の腹の鳴る音がした。

「いかんいかん。わしともあろう者が下品な・・・」

この時代に生きる人々の神経がいかに強靭だとはいえ、死体を切り刻む光景を想像して空腹を感じられる者はそう多くはないであろう。
ましてこの村全体に漂う猛烈な血臭と血だまりの中では、食欲を失いこそすれ、食欲が増進する人間などまず存在しない。

いるとすればそれは人間ではなく、血のしたたる生肉を好む肉食獣ぐらいであろうが、この男の精神構造もまた、肉食獣のそれに近いのであろうか。

「こんな時でも腹はへるものじゃな・・・」男は苦笑して言った。

「まともなめしにありつけると思ってこの村に立ち寄ってみたが、いくらわしでもこの状況で食糧を拝借するのは気が引けるのう・・・」

男は家の中の食糧を未練がましく見つめながら、家の外に出て、道の真ん中に立ち、周囲の空をぐるりと見回した。

「さてどうするか、血の臭いを嗅ぎつけて、カラスでも飛んでこんもんかな」

「キジの方が好みじゃが、この際ぜいたくは言っておられん」

腕組みをしてぼやきながら、男がふと路上に目を落とすと、血だまりの中で白く輝く小さな物体が目に止まった。

「はて・・・そういえば小さな白いものが先ほどの家でもたくさん転がっておったが、これは何じゃろう?」

男が屈み込もうとしたその時であった。

第一章

「動かないで!」

「動くな!」

この村の陰惨な光景には場違いなほどの、威勢のいい、若いというよりはむしろ幼い男女の声が轟いた。

「ほ?」

声のした方を男が振り返ってみると、黒く長い髪を後ろで束ねた、厳しく鋭い目つきの美少女が、その射るような眼差しにふさわしい武器 - 手製の弓を構え、男にまっすぐ狙いをつけていた。

少女の傍らには、こちらも手製と思われる弓を構えた、くりくりとした瞳の可愛らしい少年が、パートナーと同様に男にまっすぐ狙いをつけていた。ただしこちらの武器は、体格に合わせて一回り小さめである。

少女はおそらく10代半ば、少年の方はまだ10歳にも満たないであろうが、怯えの中にもみなぎる強烈な殺気と闘志は、この時代を生き抜くにふさわしい覚悟と生命力に満ちていた。

「なんじゃ、地獄の鬼のご登場かと思ったが、追い剥ぎか?なんにしても物騒なところじゃのう」

男はぼやいたが、村の惨状に気を取られていたとはいえ、これだけの殺気を放つ相手 - しかも二人 - の存在に今まで気が付かなかったとは、自分の腕によほど自信を持っているか、あるいは単純に鈍いのか、いずれにしてもこの時代の荒野を旅する者としては呆れるほどの注意力の欠如と言えた。

「刀を下に置いて、背中をこちらに向けて、両手を上に上げなさい!」

「そうだ!手をあげろ!」

二人の声が再び村の中に響いた。

「ほっほっほ。若いのに手慣れたものじゃの。感心感心」

男は、この村に着いた時からそうであったように、右肩に刀を担ぎ、その先にズタ袋をぶら下げていた。

その刀と荷物をさっさと地面に下ろし、後ろを向き、手を上に上げて、戦う意志も見せずに男はあっさりと降参した。

「参った。わしの負けじゃ。命だけは助けてくれ」

妙な動きあらば即座に矢を射んとしていた少女は面食らい、男の真意を測りかねたが、二人の矢に恐れをなしたと判断した。

「ふざけたやつね。あなた何者なの!?これはあなたのしわざ!?村の人たちをどこにやったの!?」

少女は、これもまた彼女の持つ武器にふさわしく、矢継ぎ早に質問した。

「ん?おまえたち、追い剥ぎではないのか?」

「質問に答えなさい!村の人たちをどこにやったの?」

少女は男からの質問に答える気はないようであった。

「待て待て。わしはなにも関係ないぞ。先ほどこの村に着いたばかりじゃし、なにがあったのか知りたいのはわしの方じゃ」

男は二人の方へ向き直って、聞いた。

「おまえたちこそ、何者じゃ?」

ビュッ!

二人の同時に放った矢が、男の顔の両脇をかすめて、背後の家の壁に突き刺さった。

「質問してるのはこっちよ!おとなしく答えないなら、次は心臓を狙うわよ」

「そうだぞ!ガキだと思ってあまく見るなよな!」

二人は背中の矢筒から素早く二の矢を継ぎ、言葉通り男の心臓に狙いをつけてから言った。

いかに近距離とはいえ、照準の定まらぬ手製の弓で標的を正確に射抜くのは至難の技であるが、この若き弓使い二人の技量は、その奇跡を可能にしているのであった。

しかし、威嚇射撃であることを認識していたとはいえ、自分の顔の横を矢が通過する際に、まばたき一つしなかったこの男の度胸もまた恐るべしである。

「わかったわかった。短気なやつらじゃのう」男はぼやいた。

「しかし、お見事。良い腕じゃ」

そう言って男は二人の弓の腕を褒めたが、これは駆け引きではなく、武の世界に生きる者として、若い二人の弓の腕前が一流の水準に達していることを、素直に賞賛したのであった。

「へへへ。そうだろ。父ちゃんの直伝だぞ!」

少年は、自分の技量を褒められたことがよほど嬉しかったらしい。

「ほほう父上殿の・・・。良き師匠のようじゃの。手製の弓と矢で標的を正確に射るというのは、正しい訓練を地道に積み重ねなければ、中々出来ることではない」

「へへへ。たくさん練習したからね!」

「すばる!余計なことは言わないでいいの」

少女は少年をたしなめた。今は尋問中である。男にどのような狙いがあるか分からない以上、口車に乗せられて相手のペースにはまることは避けなければならなかった。

「そうだった。ごめんよ、姉ちゃん」

この二人の間では、おそらく過去に何度もこのようなやりとりが行われているのであろう。

「なるほどな。おぬしたちは姉弟か。なかなかの名コンビじゃの」

「質問に答えなさい。あなた何者なの?」少女は再び質問を続けた。

「何者とかといえば、まあ旅の者じゃな。とある人物を探しておって、いまはとりあえず西に向かって旅をしておるところじゃ」男は正直に答えた。

「ここに大きな村があると聞いたでな。なにかまとまった食糧を稼げるような仕事はないかと思い立ち寄ってみたら、このありさまじゃったというわけじゃ」

とある人物を"本気で探しているのかどうか"、男自身にも今ひとつ確信は持てていなかったが、旅の目的自体に嘘はなかった。

「ふん、仕事にあぶれたならず者ってわけね。どうせなにか悪さをして、自分の村を追い出されでもしたんでしょう?」

「まあ確かに悪さはたくさんしたがの、追い出されたわけではない。むしろ随分引き止められて往生したものじゃ。わしは人気者じゃったからの。ほっほっほ」

近距離で矢に狙いをつけられている状況であるにも関わらず、両手を上に上げていることを除けば、男は知人との世間話を楽しむような風情であった。

「胡散臭い男ね・・・自分がこの村で何もしていないと証明できる?」

「証明と言われてものう・・・」

男は困った顔をした。何かしたことの証明は簡単であっても、何もしなかったことの証明は難しい。男のように、ほぼいつも一人で行動している者の場合は特にそうであった。

「村人が失踪したのは、湿度や血の乾き具合から見ておそらく昨日の深夜から今日の早朝あたりじゃろうが、その時間は道中で一人野宿しておったでな。それを証明してくれる者はおらん」

男は、事件の発生した時間帯に関する自分の推論を交えて正直に話した。剣士として、ある意味「血の専門家」でもあるこの男の、血に関する推論に間違いがあろうはずもない。

「じゃが、わしがもし犯人じゃとしても、村人を一人で全部殺して、その死体をこれまた一人で全部どこかに隠すというのは無理がある話じゃぞ。そんなことをしても何の得もないしな」

「じゃあ、あなたが野盗の一味ではないという証明は?」

少女が最も疑っているのはこの点であった。もとより、たった一人で実行できる規模の事件ではない以上、男が関わっているのであれば、野盗の尖兵か偵察として派遣されてきたと考えるのが自然であろう。

「武器や食糧がそのまま残っておることから考えて、これは野盗の仕業ではない。それにもしわしが野盗の一味なら、現場にのこのこ戻ってきたりはせんし、道の真ん中でカラスやキジを待っていたりはせんじゃろう」

「・・・言い分は分かったわ」

この程度の尋問で男に対する疑念を完全に払拭できるわけもなかったが、少女はこれ以上の質問は無駄と判断した。
男の言うことには筋が通っていたし、なによりこの事件は少女の理解できる範疇を完全に超えていたのである。

尋問の続きは後で自分の村の者に任せることに決めて、少女はよそ者への対応の型通り、男の持ち物検査を行うことにした。

「じゃあ次は、その刀と荷物を見せてもらうわ。手を上げたまま後ろに十歩下がりなさい」

「疑り深いのう。見せるのは構わんが・・・」

男はちらっと刀を見て、何かを確認しているようであった。

「まあこの様子なら大丈夫じゃろう」

「?」

なにを確認したのか少女が把握できぬ中、男は「十歩じゃったな。い〜ち、に〜い、さ〜ん、し〜い」と、一歩ごとにわざとらしく大きな声をあげて後ろに下がった。

「・・・ほんとにふざけた男ね」

「あはは、あのにいちゃん面白いや!」

少女と少年は、男が下がった分に合わせ、男に狙いをつけたまま前に出た。

「すばる、まず刀を点検して。新しい血が付いてないかどうか見るのよ」

「うん!わ、この刀めっちゃくちゃ重い!」

そう言いながらも、少年は素早く鞘から刀を抜いた。弓だけでなく日本刀の扱いにも慣れているらしい。

「姉ちゃん!新しい血はついてないよ!」少年は刀を両手で持ち、表面をまじまじと凝視しながら言った。刀の重みで足元がふらふらとしている。

「ていうか、おいらこんな日本刀はじめて見たよ!刃が両方についてるし、ぶっといし、重いし、しかもすげえきれいだ!」

「おお分かるのか?子供にしては詳しいのう」男は感心したように言った。

「その刀は"両刃造り"というてな、日本刀では滅多にない種類の刀なのじゃぞ」

そう、海外のいわゆる「直刀」と呼ばれる種類の刀と異なり、刀身に反りのある日本刀の場合、現存しているものはほぼ全て「片刃」である。
「折れず、曲がらず」と形容される日本刀の強度と切れ味を両立させているのは、この独特の反りと片刃構造にあるわけだが、男の日本刀はその物理法則を完全に無視していた。

刀身が太く、広いのは、強度を保つための工夫であろうが、同時に重量も通常の日本刀を遥かに超過するであろうから、戦闘における実用性があるとは到底思えない代物であった。

「こんな刀、どこで手に入れたの?」

少女が、刀と男の両方に視点を合わせながら聞く。武に関わる者として刀に興味をひかれながらも、男から決して視線を外さない用心深さは見事であった。

「どこで手に入れたかと言われても困るがのう。まあわしの小さい頃から"あった"というか、腐れ縁の幼なじみという感じじゃな。はっはっは」

「小さい頃から剣があったって、あなた剣士の一族なの?」

「そうじゃ。しかも、名門中の名門じゃぞ。ふっふっふ」

男は鼻高々といった風情で言った。どうやらこの男には、謙虚さの美徳というものが欠如しているらしい。

「ところでぼうず、その刀、あまり長く持たんほうが良いぞ。いまは"眠っておる"から良いがな」

「眠ってる?」

少年は目を白黒させて聞き返した。

「うむ。刀も人間と同様、生きておるでな。眠りもするし腹もへる」

「そうなんだ。おいら、刀が眠るってはじめて聞いた!」

姉と違って、"人を疑う"という、この時代を生きていく上で必須の素養をまだ獲得しきれていないこの少年であっても、刀が眠るなどというのはにわかに信じがたい言葉であったろうが、手に持った刀の非現実的な存在感が、その言葉に妙な信憑性を与えていた。

「でも、いまもうお昼だよ?」

「はっはっは。そうなのじゃ。とにかく朝寝坊な刀でな、大事なときにいつも眠っておるので困っておる」

男は渋面を作ってそう言った。

「ふうん。そうか、なまけ者の刀なんだね!」

「そういうことじゃ。おぬしらは働き者のようじゃから、爪の垢でも煎じてそいつに飲ませてやりたいぐらいじゃな」

「もういいわ。すばる、あなたも乗せられすぎよ。刀が眠るなんてそんなの嘘に決まってるじゃない」

少女が呆れたように言った。常識的に考えればその通りであり、男の話している内容は狂人のたわ言のようなものであった。

「そうかなあ?だってこの刀、ほんとにきれいだし、まるで生きてるみたいなんだもん」

「はっはっは。それだけ褒められたらそいつも嬉しかろうな。起きたら伝えておこう」

男はあくまでも、"その刀は生きている"と言い張るつもりのようである。

「ところで、そろそろ手を下げてもよいかの?わしももう年でな、さすがに肩が凝ってきたのじゃが」

「だめよ。荷物検査が終わるまでは、そのまま手を上げていてもらうわ」

「疑り深いやつじゃのう・・・」

男は顔をしかめた。

「すばる、もう刀はいいから、袋を調べるのよ。村の人たちから盗んだものがないかどうか」

「うん!」

少年は男のズタ袋の紐をとき、中を覗きこんだ。

「ふーん、あんまり荷物入ってないや」

「旅は身軽が一番じゃからの」男は得意気に言った。「わしくらいの旅の達人になると、必要な品はほとんど現地調達じゃ」

「行き当たりばったりなだけでしょ」

男の自慢話は、またも少女にばっさりと斬られた。

「ほんとうに口の悪いやつじゃのう・・・気も強いし疑り深いし、どこかの誰かさんにそっくりじゃ」

男は苦虫を噛み潰したような表情で言った。

「お友達?」少女が聞いた。

「ああ、そいつもその刀同様、小さい頃からの腐れ縁での。女のくせに、男をたてるということを知らん。わしの言い分はなにも聞かんくせに、いつも自分の都合を押し付けおる。女はもっとたおやかであるべきじゃ」

「そうなの。わたし、その人とは気が合いそうだわ」

「そんな気がするわい」

武において男尊女卑を旨とするこの男は、どうやらこの類の女子連中と相性が悪いらしい。

「ええっと、てぬぐいと、地図と・・・これは塩、そんでカレー粉かな?」

少年は男の荷物を一つ一つ確認した。

「ずいぶん貴重なものを持ってるのね」少女が聞いた。

「カレー粉か?それは旅の途中で入手したのじゃ。ここで盗んだわけではないぞ」

「分かってるわ。この村でそんなの見たことないもの」

カレー粉はこの時代もはや入手困難な希少品となっていたが、これさえあればどんなに生臭い獣肉でも何とか食べられるという点において、男のように旅をする者には必需品であった。
どうやらカラスもこれを使って食べようとしていたようである。

「あと、これが最後。本が入ってたよ!」少年は文庫本を取り出して言った。

「でも、なんだこれ、さむらいの絵が描いてあるけど、字が難しくて読めないや」

「"柳生十兵衛血風録"。わしの座右の書じゃ。粗末に扱うでないぞ」

男は仰々しく言った。

「ふ〜ん、剣術の本なの?」少年は興味津々な様子で聞いた。

「そうじゃ。侍の生き様、そして剣の真髄が記されておる」

「すげえ!そっかわかった。これ"奥義書"ってやつだね!」

「その通りじゃ。剣の道とは修羅の道。時には血を分けた親兄弟と雌雄を決せねばならん時もある。たとえばその本の前書きに書いてあるように、侍たるもの、神に逢うては神を斬り・・・」

しかし、男の偉そうな講釈は、またも少女によって断ち切られた。

「すばる!そんな嘘信じちゃだめよ。ただの古い小説じゃないそんなの」

「"ただの古い小説"とは失礼な。最近の娘っ子は伝統や名作への敬意というものを知らんの。嘆かわしいことじゃ」

男は、最も好きな類の話を途中で打ち切りにされて、不機嫌そうに言った。

「分かったわ、あなた"時代劇おたく"ってやつね。格好も変だし、しゃべり方も変だし・・・」

そう、"大異変"のあと、新しい衣類の入手が困難になったこの時代においても、人々のほとんどは洋服を着ていたが、この男は総髪に古びた黒い和服に雪駄という出で立ちであった。
この格好で、しかも昔言葉を使うとあっては、少女ならずとも"頭がおかしい"と判断するのは至極当然な反応と言えよう。

「それに、あの刀の持ち方。剣士なら、いつでもすぐに刀を抜けるように、利き手の反対側の腰に差すものよ。あんな担ぎ方して、しかも鞘に荷物をぶら下げるなんて、剣の基本を全く知らない証拠だわ」

「ほっほっほ。普通の剣士ならそうじゃろうな。まあこれは"ハンデ"じゃよ」

「ハンデ?」

「うむ、そもそもわしと、その刀が組んでいる時点で反則のようなものじゃからな、相手にも勝つ機会を与えないと不公平じゃろう」

「・・・もういいわ嘘ばっかり。でもとりあえず何も盗んでないようだし、あなたが犯人だという証拠もないし、そんな根性もなさそうだし、刀と荷物は返すわ」

そう言って、少女は弓を下げた。

「お、疑いは晴れたようじゃの。それではもう手を下げてよいかの?」

「ええ。ただし変な真似をしたら容赦なく撃つわよ」

男は手を下げて、おおげさに肩を回し、首を左右にこきこきと鳴らしながらながらぼやいた。

「やれやれえらい災難じゃった。そもそもわしのような好男子がこんな非道な所業をするわけがないじゃろう。顔を見れば分かりそうなものじゃ」

この男は自分の外見にもかなり自信過剰なようである。

「でもあなたを完全に信用したわけじゃないわよ。村でまとまった食糧を稼ぎたいなら、その前にちゃんとした入村チェックと取り調べを受けてもらうわ」

「ほう、おまえたちの村も近くにあるのか?」

「そっちが本村の"日守村"よ。ここは分村の"日守下村"」

「なるほどな。大きい村と聞いておったのでおかしいとは思ったが、分村じゃったか。道理で家が少ないわけじゃ」

野盗や外敵との抗争を考慮して、村は出来るだけ一つの場所にまとめ、周囲を柵で囲うのがこの時代の常識である。その方が防御の際に都合が良いからだ。

しかし、いくつかの理由により、領域を複数に分割している村も存在した。

分割する理由のほとんどは、「身分格差」である。
"大異変"の前にも様々な格差は存在したが、食糧確保が最優先事項となっているこの時代においてその傾向はより顕著となり、食糧確保に関する何らかの利権や力を持っているものは優遇され、そうでないものは冷遇された。

過去に存在した「穢多非人」と呼ばれる階級制度が復活したと考えれば分かりやすいだろう。彼らに与えられる仕事は、他の人々がやりたがらないような「汚れ仕事」がほとんどであり、村民としての権利も著しく制限され、自警団による保護もない。
おそらくこの分村の人々も、そういった汚れ仕事に従事しながら、様々な屈辱を歯を食いしばって耐え忍んできたのであろう。

「この時代、誰も死に方は選べんか・・・」

男はつぶやき、刀と荷物を担ぎあげた。

「ところでおまえたち、見たところまだ子供なようじゃが、こんな物騒な現場に二人だけで来たのか?随分と勇敢じゃの。父上殿はどうしたのじゃ?」

男のなにげない質問に対し、少女の動きがビクッと止まった。

「・・・勇敢なんかじゃないし、好きで来たわけでもないわ!あなたには関係ないでしょう!」

突然の少女の激昂に、男は目を白黒させた。

「どうしたのじゃ。わしがなにか気に障ることを言ったか?」

男は少年に視線を移して聞いた。この人懐っこい少年は、よほどこの男と刀に興味をひかれたと見えて、先ほどから男の周りをつきまとっていた。

「父ちゃんは・・・死んじゃったんだ」

先ほどまで元気だった少年は、うなだれた様子で言った。

「そうじゃったか・・・。それはすまんことを聞いたな」

無神経を絵に描いたようなこの男も、さすがに少々ばつが悪そうである。

「いいわ、別に・・・。怒鳴ってごめんなさい」

どうやらこの姉弟の人生にも、様々な事情が存在しているようであった。

「それより、さっきからわたしたちのことを子供子供と言ってるけど、あなただってまだ若造じゃない。いくつなの?」

「17歳じゃ」

「・・・私と同い年じゃない!なによ自分だって子供のくせに散々人を見下すようなことを言って・・・」

「む、失礼な、わしは子供などではないぞ。こう見えてもおまえたちより人生経験はずっと豊富じゃ」

男はふんぞりかえって答えた。自分が優位に立たないと気の済まない性分らしい。

「この時代の17歳ならみんなそうよ!"大異変"の後を必死で生き抜いてきたんだから・・・」

「ふむ、まあ確かにな」

その通りであった。"大異変"前の、高校生活や部活動、アルバイトや大学受験等が生活の全てだった頃の17歳とはもはや全てが違うのだ。

生き抜くこと、食べること、さらに言えば"殺す"こと、"殺されぬ"こと、それが最優先となるこの時代における17歳は、過去の平和な時代の大人たちが一生経験しないほどの、そしてする必要のないほどの修羅場を経験してきているのであった。

「もういいわ、あなたと話してると頭がおかしくなりそう。さっさと村に行きましょう」

「情緒不安定じゃな。もっとおおらかな気持ちで会話を楽しんだ方がよいぞ」

人をいらいらさせることに関して自分が天才的であることを、どうやらこの男本人は全く自覚していないようであった。

少女は大きなため息をつき、怒りを鎮めるように何度か深呼吸してから言った。

「村への行き方は案内するから、あなたが先頭に立って」

「わしが前を行くのか?ほんとうに用心深いのう・・・」

背中を見せることが戦闘においては圧倒的な不利になる以上、信用できないよそ者に対する指示としては的確であった。

「嫌なら村には入れないわよ」

「わかったわかった。入れてもらえるのであればなんでもよい。後ろから矢を射るのだけは勘弁じゃぞ」

「妙な動きはしないことね。すばる!いいかげんその人から離れてこっちにいらっしゃい」

男の周りをうろちょろしていた少年は、男と色々話したいようで不満そうな表情を作ったが、姉の命令に従った。

まだ甘えん坊らしい少年は、戻ってくると姉の足にしがみつき、少女は優しい表情でその頭を撫でてやった。

「さあ、行きま・・・!」

視線を上げて男の方を見た少女の顔に、驚愕の相が浮かんでいた。

「ほ?」

男は、その視線が自分ではなく、自分の背後を見ていることに気が付き、ゆっくりと振り返った。

どこから現れたか、いつからそこにいたのか、少女そして男の視線の先に立っていたのは、顔と上半身全体を薄汚れた包帯でぐるぐる巻きにして、両目と口の部分だけに穴を開け、ぼろぼろの迷彩服を着て黒いブーツを履き、左手には日本刀をひっさげた、負傷兵のような風体の"怪人"であった。

「・・・なかなか個性的な格好をしておるの。知り合いか?」男は少女をちらっと見て聞いた。

少女は、男の20メートルほど向こう側に立っている怪人から視線をそらさぬまま、恐怖と驚愕に彩られた表情で、首をゆっくりと左右に振った。

「・・・知らない。こんな人、村にいないわ」

「そうか。となると生き残りでもないわけじゃな」

怪人の包帯に血が滲んでいないことを男は既に確認していた。もとより、生き残りが存在するとも思っていなかったが。

「わし同様、旅の途中でまともなめしを目当てにこの村にやってきたというところかの・・・とてもそうは見えんが」

現れてから一言も発さず、身じろぎ一つせず、血走った目でこちらをずっと凝視している怪人の異様な風体をまじまじと眺めつつ、男は苦笑した。

「おぬしもいま村にやってきたところか?それともこの事件になにか関わっておるのか?どちらにしても素直に身元をしゃべった方がよいぞ。この姉弟は腕利きじゃ」

怪人の妖気と迫力にすっかり呑まれてしまった少女たちに代わり、男がやや大きな声で告げた。

「しかも短気で、すぐに矢を射ってくるでの。包帯がいくつあっても足りんぞ。予備はあるのか?」

相手の包帯姿に、病気などのやむにやまれぬ事情があるとすれば、これは感情の暴発を招きかねない恐るべき挑発的発言であろうが、男に悪気はまるでなかった。
デリカシーという言葉の意味を全く理解していないこの男は、むしろ相手の体を気遣った上で気の利いた冗談を言ってやった、という程度の認識しかないのであった。

そして、男の発言に怒ったか、あるいは最初から予定していた行動であったか、怪人は左手に持った刀を水平にしてゆっくりと眼前に掲げ、右手で柄を握った。

「ほう、やる気かの」

男は嬉しそうに、にやりとした。

怪人は、刀を掲げたときと同様、呆れるほどゆっくりとしたスピードで腕を左右に広げて抜刀していった。
そこだけ時間の流れが異なるような、あるいは今のうちに人生の思い出をゆっくりと振り返っておけとでも言うような、いずれにしてもこれから始まる闘いが尋常ならざるものであろうことを予想させるには十分な異様さであった。

「随分と勿体ぶるのう。もしやおぬし、ご老体か?」

男は心配そうな顔をした。

「うちの死にぞこないの爺さまでも、もう少し早く動いとったような気がするが・・・いや同じぐらいだったかの」

ここしばらく会っていない親族が懐かしくなったか、あるいは祖父の動く速度と怪人のそれを比較しようとしたか、男は顎をつまんで遠い目をした。

今まさに決闘が始まろうとしているこの段階においても、男の思考には他の要素が入り込む余地が残っているらしかったが、果たしてそれは余裕か、隙か。

「あなた・・・ほんとうに闘うつもり?」

やっと我に返った少女が男に言った。先ほどまで自分と弟の弓に脅されて情けない姿を晒していた男が、この怪人とまともに勝負出来るとは到底思えなかったのである。

「無論じゃ。相手もわしがお目当てのようじゃからのう」

そう、少女たちの立っている位置と男の位置とは、怪人から見るとやや異なる角度になっており、怪人は明らかに男の方だけを凝視していたのである。

「身に覚えはない、と言いたいところじゃが、残念ながら恨まれる覚えならたくさんあるでの。あの包帯もわしのせいかもしれん」

男は苦笑いして言った。

そして、無限に終わらぬかと思えた抜刀動作を遂に終え、怪人は鞘を脇に放った。

「ほう、鞘を捨てたか。勝って生き残るつもりがあるなら刀の帰る場所を捨てるはずもない。それは"小次郎敗れたり"のパターンじゃぞ」

男はからかうように言った。

「ま、わしもすぐ鞘を放るし、人のことは言えんか・・・案外おぬしが正しいかもしれん。"二つ二つの場にて、早く死方に片付ばかり也"じゃ」

「なによそれ?」聞きなれない言葉を使った男に、少女が聞いた。

「"葉隠"じゃ」

「それ知ってるわ。昔の難しい本でしょ。読んだの?」

「いや、そこしか知らん」

「・・・」

少女と男がそんなやりとりをしている間に、怪人はゆっくりとこちらに向かって歩き出していた。

「お、来るか。しかしその歩き方は・・・」

男は呆れたように言った

「おぬし、酒にでも酔っておるのか?」

確かにその通り。怪人はいわゆる"千鳥足"の状態で、一歩踏み出すごとに左右にぐらつき足はもつれ、肩や腕をぶらぶらさせ首は座らず、とてもこれから誰かと一戦を交えられるような様子ではなかった。

「参ったのう。さすがのわしでも、酔っぱらいを斬るのは気が進まんが・・・」

男はやや闘志が萎えてしまった様子で、こちらに向かってよたよたと歩いてくる怪人を憮然とした表情で見つめていた。

「赤ん坊に"あんよが上手"をやっている親の心境じゃな・・・」

そんな男の心情はおかまいなしに、怪人はよたつきながらも徐々に男との距離を縮めていた。

そして、男までの距離が丁度5メートルほどになったその瞬間・・・

「あっ!」

怪人の動きをじっと見つめていた少女には、その姿が霞んだように見えたであろう。

これまでの酔っぱらったような動きは、敵を幻惑するためのカムフラージュであったか、矢の訓練で鍛えた少女の目でも捉えきれぬほどの速度で前に踏み込んだ怪人は、一瞬にして男の眼前に達していた。

ガシィィィィン!!!

硬いもの同士がものすごい速度でぶつかり合う音。

「ほっほっほ。惜しかったのう」

怪人の超速の斬撃を、こちらも超速の抜刀で受け止めた男は、心底嬉しそうに言った。

先ほどまで右肩に担いでいた刀は、今は男の左手に握られ、男から見て左下の急角度から襲った怪人の一撃を、鍔の部分でがっちりと受け止めていた。

「"酔拳"ならぬ"酔剣"か。いやいや見事な偽装ぶり。さしものわしも一本取られるところじゃったわい」

ガシュッ!

怪人は刀で男を押しながら、踏み込んできた際と同様な速さで後ろに飛び退った。

「おぬし、どこでそんな技を身に付けたかは知らんが、所詮は相手の虚を突く邪剣。一太刀目を封じられたら次はないぞ」

男は刀を両手に握り直しながら言った。

「最初の攻撃はおぬしに譲ったでの。ハンデをやるのはここまでじゃ」

「ちょっと!」

少女が声をあげた。

「なんじゃ、闘いの最中じゃというに・・・」

男は不機嫌そうに言った。さすがに怪人からは目をそらしていない。

「あなた、その構え方・・・たしかに剣を抜くのは速かったけど、本当に剣士なの?」

少女の疑問はもっともであった。通常、剣を構える際は右手が上側、左手を下側にして握るが、男は左手で上側、右手で下側、つまり全くあべこべの握り方をしているのであった。

「失礼な。今の攻防を見たであろう。そもそも剣の握り方に"これが正しい"などというものは存在せん。昔の野球選手にも左打席の者はおったであろうが」

「それはそうだけど・・・」

「常識には常に疑問を持たねばの。固定観念にとらわれて、小さくまとまってはいかんぞ。人生とは常に試みであり、破壊じゃ」

男の言い分にも一理はあったが、命のやりとりを前提とした闘争の世界において、"独創性"に果たしてどれだけの価値ありや。
この男は、実戦の場において自らそれを証明しようというのであろうか。

「閑話休題じゃ。さあ来い」

自らの超速の斬撃、しかも最初に仕掛けた"虚"の剣線に全く惑わされず、"実"の一撃のみを受け止めた男の予想外の腕前にひるんだか、あるいは男と少女とのやりとりの間に戦略を練り直していたのか、怪人は飛び下がった時のまま、その場から動いていなかった。

「どうした?そちらが来ぬのなら・・・」

そう言って男が一歩踏みだそうとした瞬間、その動作によって生じた間合いの変化と隙を待ち構えていたかのように、絶妙のタイミングで踏み込んだ怪人の剣が、下方から男を強襲した。

「お!」

怪人の狙いすました一撃を男は再び刀で受け止めたが、それも既に織り込み済みであったか、今度の怪人の攻めは一太刀では終わらず、上下左右からの目にもとまらぬ連撃が始まった。

「いよっ、とっ、とっ、とっ!」

全方向から繰り出される怒涛の連撃に男もさすがに驚嘆したか、全く反撃に移れず、防御だけで手一杯のようであった。

「ほっ!」

怪人の攻撃をなんとか受けきり、間合いを取ろうとしたか、今度は男が後ろに飛び退った。

「やるのう!剣の使い方は滅茶苦茶じゃが、これだけの連撃の使い手は久々じゃ」

男は素直に感心した。

「しかもまったく呼吸が乱れておらんとは・・・」

そう、十数秒程度の間、男にそれこそ息つく間も与えない連続攻撃を仕掛けた後も、怪人は息ひとつ乱さず、疲れた様子も見えないのであった。

「普段よほど鍛えておると見えるな。いやお見事。しかしおぬし、それほどの腕がありながら、なぜそのような目くらましを使う?」

男の疑問はもっともであった。最初の一太刀目が防がれ、幻惑戦法がもはや通じないことは明らかであるにも関わらず、怪人はいまだに酔ったふりをやめていなかったのである。
足元はぐらつき、体や顔は斜めになり、まるで操り人形のような様相であった。

「まあよい。スタイルは人それぞれじゃ。しかしおぬし、確かに凄まじい連撃じゃが、妙に単調じゃの。はっきり言って、見切ったぞい」

駆け引きか、本音か、あるいは怪人の攻撃力に対する悔し紛れの一言か、傍から窺い知ることは出来なかったが、男は自信満々に言った。

「さあ来い」

ここで、男はなんと構えをとき、手も刀も下げて完全に棒立ちの状態になった。"どこからでもかかってこい"という強烈な自信か、あるいは破れかぶれか?
さしもの怪人も、男の常識外れの戦法に面食らったか、一瞬戸惑ったような様子を見せた。

しかしそれも束の間、怪人は前後左右に揺れながら徐々に徐々に前に出て、男との間合いを縮めていった。

そして・・・

ボッ!!

再び超速で踏み込んだ怪人の姿が一瞬霞み、そしてまた一瞬でその姿が現れたとき、勝負は決していた。

怪人の強烈な突きを、数ミリというぎりぎりの距離でのけぞってかわした男の左手に握られた剣が、まるでフェンシングのような姿勢で怪人の心臓を深々と貫いていたのである。

「すごい・・・」

少女が感嘆の声をもらした。

「ほっほっほ、勝負ありじゃの」

男は怪人の胸から一気に剣を引き抜き、同時に怪人は前方に頭からどさりと崩れ落ちた。

「"面"で通じないと見て"点"で来たか。悪い戦略ではないが、わしの方が一枚上じゃったの」

上下左右からの"面"の連撃が通じぬと見るや、攻撃を突きに絞って"点"を攻めた怪人の戦略のことであろうか。
血振りをし、鞘を拾い上げて刀を収めながら、男は死闘を振り返るように言った。

「しかし初めて見るタイプの剣士じゃったな。いや、世の中は広い」

「・・・おにいちゃん、すげえ!めっちゃくちゃ強いじゃん!」

眼前で繰り広げられた魔人同士の対決に圧倒され、姉にしがみついたまま完全に放心状態だった少年が、ようやく我に返って言った。

「ふっふっふ。見直したか?」

「うん!おいらたちの父ちゃんも強かったけど、おにいちゃんもすげえや!」

「うむうむ。おぬしは素直で良い子じゃの。あとで時間があったらわしが稽古をつけてやるでな」

男は鼻高々の表情であった。人から褒められたりおだてられたりすることが何よりの好物なようである。

「しかし、こいつにも困ったものじゃ・・・」

自慢たらたらのふんぞり返った様子から一転、男は鞘に収めた刀を苦々しい表情で睨みつけながら言った。

「相棒がこんな大変な思いをしておるというに、我関せずといった様子でまだ眠っておる。いいかげんに起きてひと働きせんかい。まったく・・・」

「あんなすごい闘いだったのに、まだ寝てるの?」

男の凄まじい腕前を目の当たりにして、この素直な少年は「剣は生きている」という話を完全に信じきってしまったようである。

「うむ。わしの先代達が甘やかしたものじゃから、このような怠け者に育ってしまった。三つ子の魂百までというやつじゃな」

「・・・すばる、信じちゃだめよ。腕前は分かったけど、この人きっと戦いすぎで頭がどうかしちゃってるんだわ」

少女は、たわ言はもう十分といった感じのうんざりした表情で男を見つめた。

「ふん、弟は素直じゃが、姉はひねくれ者じゃの。さて、とりあえず村に向かうとするか」

「駄目よ。そいつが犯人かもしれないし、死体を調べてみないと・・・きゃああああ!!!」

「ん?」

尋常ならざる少女の悲鳴に男が後ろを振り向くと、心臓を刺し貫かれたはずの怪人が、例の酔っ払ったような姿勢でぬうっと立ち上がったところであった。

「ほほう・・・」

さすがに男もこれには度肝を抜かれたか、生死のやりとりの真っ最中でもどこか楽しげであったその目に、明らかな驚愕の色が浮かんでいた。

「確かに"起きろ"とは言ったがの・・・。こいつを説教したつもりじゃったが、おぬしに効いてしまったか?」

男は奇妙な事を言い出した。

「わしも刀以外に"寄り添える"ようになったのかの。なんともはや、世の中は不思議だらけじゃ」

「どいて!撃つわ!」

先ほどの戦いの最中は、死闘の迫力に完全に圧倒されて何も出来なかった姉弟だが、そこはやはり武に携わる者のプライドか、二人とも素早く弓を構え、男の向こう側にいる怪人に照準を合わせようとした。

「下がっておれ!おまえたちのかなう相手ではない。心臓を貫かれても死なんやつじゃぞ」

男はそう言って少女たちを後ろ手に制し、二人をかばうように怪人との間に立った。

「とは言っても、わしも困ったの。急所を刺しても駄目となると・・・。こいつは相変わらず寝ておるし」

眼前の白昼夢のような情景を既に事実として受け入れたか、不死身の相手を前にして、苦笑する余裕を男は取り戻し、刀を構えた。

「あなた、構えが・・・」

男の方をちらっと見て少女が訝しんだのも道理、先ほど左手を前にした常識外れの方法で刀を握っていた男が、今度は右手を前に通常の構えをしていたのである。

「あたりまえじゃろ、刀を持つ時は右手が前、それが常識じゃ。父上殿に習わんかったか? 戦闘においては奇をてらわず、基本を大切にせねばいかん」

「・・・あきれたわ。あなたさっき、遊んでたの?」

何らかの狙いがあったのか、あるいは単なる気まぐれか。
いずれにしても、これだけの強敵を相手にしてなお自分の得意な型を温存していたのであれば、男の自信過剰ぶりは無謀を通り越してもはや賞賛の域に達していた。

「どうとるかは、おまえの自由じゃ」

男はにやりとして言った。

そして、再び死闘の始まりかと思われたその時・・・

「えっ!?」

少年が素っ頓狂な声を上げたのも道理、攻撃に移るかと思われた怪人は、信じがたい筋力で一気に5メートルほども後ろに飛び下がり、
そのままきびすを返して、酔っ払ったようなガクガクとした動きのまま、とてつもない速度で脱兎のごとく逃走に移ったのである。

「ほ?」

さしもの男も、不死身の怪人の突然の逃走劇に呆気に取られたか、追うのも忘れてその後ろ姿を見送るのみであった。
いや、もし追っていたとしても、通常の人間の走力ではまず追いつくことは不可能だったであろう。

村を囲む木々の間をぬって、怪人の姿はあっという間に三人の視界から消えた。

「何者じゃ、あやつ・・・」

「おにいちゃんの強さにびっくりして、逃げたのかな?」

「そうであればわしの面目躍如といったところじゃが、残念ながら違うじゃろうな。あやつにはまだ十分に余力があった」

そう、心臓を貫かれて立ち上がってきた際も、怪人は呼吸ひとつ荒げることなく、また眼光の鋭さにも一切変化はなかったのである。

「心臓を刺しても死なんし、本当に地獄の鬼かもしれんの。いずれにしても、初戦は引き分けじゃ」

「・・・初戦って、あいつがまた現れるってこと?」

少女は、縁起でもないことを言うなという表情をした。

「やつがわしを狙ってこの村に来たのか、たまたまこの村に来たからやつに狙われたのか、それは分からんが、少なくともおまえたち二人を後回しにして、先にわしを殺そうとしていたことは確かじゃ」

男は、怪人が最初に現れた際の、まっすぐに自分を睨みつける姿を思い返していた。

「それに、村民失踪の犯人があやつかどうかは知らんが、少なくともなにかしらの形で関わっておるのは間違いなかろうし、遅かれ早かれ本村の方にも現れるじゃろう」

「・・・本当に頭がおかしくなりそうだわ。悪い夢でも見てるみたい」

「うむ。まあ今のこの世界そのものが、悪い夢のようなものじゃからな。案外あやつもわしも夢かもしれんぞ。ふっふっふ」

「・・・夢だったら、醒めれば全部終わるのにね」

少女は疲れたように言った。村民失踪事件や眼前の死闘というよりも、この時代に生きることそのものに対する疲れであったろうか。

「・・・随分疲れておるようじゃが、わしも腹が減って死にそうじゃ。どうやらこの件で用心棒の口はありそうじゃし、とっとと村へ向かおうぞ」

「そうね、案内するわ」

「ん?わしが前を行かんでよいのか?」

「いいわ、頭の中身はちょっと不安だけど、あなたが悪い人じゃないことは分かったから」

「なにか微妙にひっかかる言い方じゃが・・・まあよい。しんがりは引き受けたぞ。背後から斬りつけたりはせんから安心せい。はっはっは」

男は再び刀を担いで鞘に荷物を下げ、姉弟はしっかりと手をつなぎ、三人は本村への方向へと歩き始めた。

木の生い茂った森の、曲がりくねった荒れた小道を数キロほど行った先に、なゆた達の住む本村はあるらしい。
先ほどの怪人の再度の急襲を警戒しつつ、三人はやや早めの速度で村へ向かった。

分村の住人達も、普段この道を使って本村と行き来をしていたのであろうが、あのような異様な事件が自分たちの身に降り掛かってくるとは、昨日この道を戻ってくる際に誰が想像できたであろうか。
男の言う通り、この修羅の時代には、誰も死に方は選べないのであった。

惨劇の現場から多少離れたことで安心したか、道のりを三分の一ほど来たところで、少女が口を開いた。

「守ってくれたことにはお礼を言うわ。ありがとう。わたしはなゆた、この子はすばる」

「守ったのか、巻き込んだのか、なんとも言えんがのう。ほっほっほ。なゆたにすばるか、二人とも良い名前じゃ」

「にいちゃんは?」

すばると呼ばれた少年が興味津々といった表情で聞いた。

「わしの名前は天一郎じゃ。この刀は"鬼狩丸"という。よろしくの、すばる」

「よろしくね!天一郎にいちゃんと、鬼狩丸!」

「ほっほっほ、元気いっぱいじゃの」

女子連中からは「男尊女卑」の象徴のように扱われて折り合いのこの男であったが、少年達からは常に絶大な支持を受けるのであった。

そのまま暗い道を歩くこと数分、すばるが何かを見つけて声を上げた。

「あ、うさぎだ!」

暗い森の中でも目がきくと見えるこの少年は、木々の間からわずかに姿を晒したうさぎの姿を目ざとく発見したようである。

「駄目よ!すばる、さっきのあいつがまた出てきたらどうするの?」

「大丈夫だよ!それに、にいちゃんになにかごちそう用意してあげなきゃ!」

「ほっほっほ、その気持ちは嬉しいがのう。姉さんの言う通り、さっきのやつがまた出てくるかもしれんでな」

「平気だよ!あいつが狙ってるの、にいちゃんみたいだし!」

「・・・確かにな」

「あっ!すばるったら!」

すばるはなゆたの手を振り払い、うさぎの見えた方向に走り出していた。

「もう!」

言い出したら聞かないと見えるこの少年は、どうやら生粋の狩人でもあるらしかった。

「はっはっは、まあ多少の道草も良いかもしれんな。確かにさっきのやつが先に狙っておるのはわしじゃろうしな。すばるは狩りが得意なのか?」

「そうね、動物を見つけるのが凄くうまいの。動物だけじゃなくて、昆虫とか、魚とかもね」

「なるほど。生活力のあるぼうずじゃな。後でわしもコツを指南してもらおうかの」

「・・・ちょっと聞いてもいい?」

なゆたが意を決したかのように言った。すばるの前では聞きづらいことがあったようである。

「なんじゃ?好みの女のタイプか?胸はもちろん大きい方が好きじゃが、おぬしのように控えめなサイズも嫌いではない」

「馬鹿!そんなんじゃないわよ!」

「それにまだ結婚もしとらんから、おぬしにもチャンスはあるぞ」

「・・・自信過剰もそこまでいくと感心するわ。そうじゃなくて、あんなに強いのに、なぜ最初わたし達に会ったときにおとなしく従ったの?」

なゆたの疑問はもっともであった。飛び道具と剣という差はあったにせよ、男の腕前からすれば、なゆた達の矢を避ける術などいくらでもあったはずである。

「特に理由はない。おまえたちが悪者には見えんかったでな。とりあえず様子を見たまでじゃ」

「もしわたしたちが本気で矢を射っていたら?」

「ふむ、斬ったじゃろうな、二人とも」

「・・・」

天一郎はこともなげに言い、そして、ある程度想像していた通りの答えではあったろうが、なゆたは絶句した。

「わしは剣士じゃからな。老人でも赤子でも、男でも女でも、悪人でも善人でも、強き者でも弱き者でも、斬るとなったら区別はせん」

「・・・平等主義者なのね」

「そういうことじゃ。相手が神でも、仏でも、地獄の鬼でも・・・」

天一郎は、この類の質問をされた際にはいつもそうであるように、淀みなく自信満々の表情で語り、そして最後に必ずこう付け加えるのであった。

「向かってくるならば、斬る。それがわしの掟じゃ」

鬼喰い

鬼喰い

<大異変>により文明の崩壊した近未来の日本は、飢餓と暴力の渦巻く修羅の国と化していた。 心ある人々が文明再生への道を必死に歩もうとする中、辺境のとある村で、一夜にして村民全員が謎の失踪を遂げる怪事件が発生した。 おびただしい量の血だまりと猛烈な血臭だけが残る村に足を踏み入れたのは、剣の名門<鬼伏一族>出身の天才剣士、鬼伏天一郎。 そこに現れた弓使いの姉弟"なゆた"と"すばる"の運命、そして迷彩服の怪人の狙うものとは? 愛刀<鬼狩丸>を引っ提げて、若き剣士が<寄り添う者>としての宿命と修羅の時代に立ち向かう、近未来伝奇バイオレンスシリーズ第一弾!

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 冒険
  • アクション
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-07-04

Copyrighted
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  1. プロローグ
  2. 第一章