ノスタルジア(夜久)
ニュースによれば、今日の午後六時頃に地球は滅びるらしい。
NASAが発表したのだからそうなのだろう。ニュースで毎日のように報じられているのだからそうなのだろう。皆が信じ切っているのだからそうなのだろう。
墨田も多くの人間がそうなるように、疑問もなく、唯々諾々と情報の欠片の掴み取りをするだけで満足するような大人になっていた。中学生の頃の自分だったなら、目を輝かせて大型の隕石が地球に衝突するメカニズムを特集するメディアを追いかけていたのだろうか。
実家の自室を思い出す。素っ気ない造りの机と、埃の被ったゲームソフトたちや高校時代の教科書と参考書を並べた棚、目を閉じればありありと眼前にあるかのように思い浮かべることができた。可能ならばそこに帰って、それが終わる時を待ちたかったものだが思い通りにいかないのがこの世間様というものだ。
以前売れた大衆小説のように日が落ちつつある街は自棄になった人々によって無法地帯になっている――というわけではなかったが、完全にその機能を失っていた。公共交通機関はストップし、スーパーからは食料が消え、ごみ集積所では生ごみの袋が臭気を放っている。少なくとも、この都心は一足先に死んでいた。だから電車の止まったこの日本ではどこかに移動することも難しかった。件の発表が行われてすぐにそれを信じた人々による帰省ラッシュは起きていたらしいが、墨田はその点において完全に後れを取っていた。
まぁた変なイベントでもやっているのか、今日はエイプリルフールじゃないぞ、なんて思ったものだ。かれこれ数日前の出来事がはるか遠くのことのよう。墨田が学業、バイトにサークルと様々なものたちに追われる日々から唐突に解放されてまず手に取ったのはゲームだったが、(かれこれ何年ぶりだろう、)延々と出来るほど墨田の目はかつてのように若くはない。個人差はあるらしいが、大学生にもなると随分と目というものは疲れを感じやすくなってしまうらしかった。自然と休憩は必要になってくるが、その時間もリミットが決定されている中のものだと思えばひどく煩わしい。
束の間の休憩を挟み、テレビ画面の前に戻ろうとしたその時、ぐう、と腹が間抜けな音を立てた。昨日冷蔵庫の中身が缶ビール二本を残して完全に空になり、それ以来何も食べていない。まあいいか、泣いても笑っても、腹が減っても満たされても、どうせ数時間後にはすべてが終わるのだから。
大きく伸びをしたのとほぼ同時に、ここ数日、平生よりもずっと高頻度でメッセージの受信を告げていた端末が軽やかなメロディーを流し始めた。まだ慣れたばかりのLINEの着信音だ。メッセージではなく、どうやら通話らしい。最後の会話と呼ぶにはまだ早く、地元の数少ない友人の誰かだろうかと手に取るとそこには予想外の名前が表示されていた。「赤井エミ」、高校時代部活が同じで、親友の男とその彼女の友人同士とかいう微妙な関係の「友だち」だった。
何故彼女が自分に通話をかけてきたのか、墨田には全く分からなかった。地元に帰れば他の馴染みも踏まえて遊んだりはするとはいえ、サシでメッセージを交わしたことも両手で足りるほどだというのに。殆ど呆然と画面を見詰めるが、時間が止まったように変わらず、着信音が流れるばかり。こころなしか震える指で通話の表示を押して、端末を頬に押し当てる。すると「遅いよ、墨田」とかつてのように穏やかに笑う赤井の声が聞こえてきた。
「ああ、ごめん。ちょっと気付くのに遅れちゃったからさ」
「何かしてたの?」
「ゲームしてて、丁度その休憩中」
「ああ、そういえば墨田ってゲーム好きだったよね。まだやってたんだ」
「赤井は、何してんの。家族と一緒とかじゃねーの?」
「私はねえ、今一人」
「実家から離れて住んでるんだっけ?」
「そ。結構離れてるよ、だって考えてもみてよ、あそこからあの大学までって遠いじゃん?」
「まあ、それもそうだけど。でも頑張れば行ける距離じゃねーの」
「だってこんな中じゃ、どこにも行けないでしょ。こっちも交通機関なんか使えないし、自転車はなんか気が付いたら盗られてたし」
「だったら尚更、オレになんて電話かけてる場合じゃないんじゃないの?」
短い沈黙。何かまずいことを訊いてしまったのかと逡巡したが、もう遅い。うーん、とアブが長く唸って、また少し黙り込んで、それから漸く言葉らしいものを発した。
「なんか、なんとなーく、墨田と話したくなっちゃったんだよね」
その言葉に、丁度去年の、残暑が身を焼く季節だったあの夜のことを思い出した。あの日、酔っているらしかった赤井は久しぶりに話がしたくてとか理由を付けて突然通話を仕掛けてきたのだったな、と。
「デジャヴ感じるなあ、その理由」
「私もそう思うけど、でも今は完全にシラフだから」
酒、尽きちゃったんだよね。食材は買いすぎて余ってるくらいなのに。そう赤井は続けて心底残念そうに溜息を吐いた。わざとらしいくらいだが、彼女の普段からの酒豪ぶりを知っていれば何ら違和感のあることではない。
「あ、オレは逆だな。缶ビール二本だけ残って、あとは空っぽ」
「ええ、いいなあ、それ持って今からうち来てよ」
「今から歩いて行ったらきっと六時過ぎちゃってるよ」
デスヨネー。棒読みで、最初から分かっていた筋道をふたりでなぞるように言葉の応酬をすることはある意味で気持ちよく、ある意味で居心地が悪い。今までの墨田と赤井の間にはとんとなかった親しみのようなもの、埋まりようがないはずだった距離のようなものが急に、今になって、縮んでしまったような。そんな心地を墨田は覚えたのだった。ないはずだったものが現れれば、気持ちが悪い。そういうものだ。
「もし墨田が同じ大学に行ってたんなら、愛をこめて最後の晩餐でも作ってあげられたのに。おつまみ付きで」
「じゃあ、作ってよ」
へ、と赤井の間抜けな声。口をついて勝手に出てきた言葉だったが、嘘ではなかったし、墨田は確かに今この瞬間赤井に料理を作ってほしいと思っていた。他の誰のためでもなく、自分だけのために。
「別に持って来いなんて言わないけど、ってか言えないけどさ、食材が余ってるならついでにオレの分も含めて二人分の晩御飯、作ってくれないかな」
「……それなら、代わりに墨田は残ってるビール、二本とも飲み干してね。私の代わりの分も含めて」
返答までの沈黙は短く、赤井の声はまるで告白めいた真剣さを帯びている。全くの勘違いではないだろう。悲しいかな、墨田の耳は音の変化に関してはそれなりに敏感な方だった。高校時代に所属していた合唱部内でも、歌声は平凡だったとはいえ耳だけは良かった。
「なーに言っちゃってるんだろうなぁ、オレたち」
振り払うように冗談めかした言葉を口にした。ないはずだったものが、徐々に徐々に背後から迫ってきて、己の内を浸食してしまうから。それから逃れるただそれだけのために。
「まあ、いいんじゃないの。どうせみんな終わっちゃうんだし、細かいこと考えたって仕方ないよ」
そうだね、そうだよ、そうだよね、って確認するようなやりとりを半分だけ笑いながら繰り返して、それから漸く通話を切った。
時刻を見ると、世界が終わるまであと一時間。部屋に死んだような静けさが戻ってくる。何度も、何度も、墨田が瞬きをする一瞬一瞬に訪れる暗闇の中に赤井の姿がくっきりと映っていた。彼女の、鮮烈な色が見えるようだった。それももうこれっきりだと思うと、不意を突かれたように墨田の目から涙が零れた。
一時間後に世界は終わる。泣いても笑っても、腹を満たしても、酒に酔っても、一人でも、二人でも、変わらない。世界はやっぱり終わってしまうようだった。
ノスタルジア(夜久)