魅了する世界

「よお、なに見てんだ?」
 中学校の教室の隅で肘をつきふて腐れている(とし)の元に友人の光矢(こうや)が訪れこう尋ねる。
 すると敏は少しだけ横目に彼を省みたが、それぎりまたさっきと同じようにある場所に視線を戻したまま黙りこくる。
 教室内は授業が終わり帰り支度をしている生徒たちがワイワイと談笑している。
 光矢も彼らの行動に同調するかのように、鞄片手に敏を誘ったが、このようになぜだか彼はそ知らぬ風を装っている。
 敏は日頃からこんな態度を貫いている少年だった。
 通常この年代の子供にとって青春とは苦でもあり、楽しくもある恒例行事である。
 友人関係でギクシャクしたり、将来の夢を漠然と考えたり、好意を寄せる異性のことを思ったり、何かと忙しい時期でもある。
 だが彼はそんな通常の路線に流されることなく、少し歪んだ青春を淡々と歩んでいた。
 さっきから敏が見ていたのはある一人の少女だった。
 名を百合亜(ゆりあ)と言う。
 彼女が自分の机の引き出しから教科書を取り出し、それを鞄の中に詰め込んでいる光景を傍からボウッと眺めていたのだ。
 それに気づいた光矢がニヤニヤと不適な笑みを浮かべ彼にこう話しかける。

「お前、アイツのことが気になるのか?」

 しかし敏はさっきと同じ体勢のまま、ただ終始少女の帰宅の顛末をその目にしているだけで何も答えない。
 
「おい、聞いてんのかよ?」
「うん? なに」
「アイツのこと気になってるのかって聞いてんだよ」
「………べつに」

 別に、と答えた傍ら、気になっているのは事実だった。
 事実だったが、それが好意かどうかは判断しかねた。
 彼女はとても美しかった。
 年代的にみてもこの頃の女性はまだ大人になりきれず、少女の面影を残しているのが普通だが、彼女はそれを微塵も感じさせない。
 長くて艶やかな髪の毛はまるで人形のそれのようで、太い眉はりりしく、その下で光る茶色い瞳はいつも真剣に目の前を見つめている。
 それとは対照的な肌は、なまじ化粧が必要ないくらい、綺麗な色白を保っている。
 大人の美しさ顔負けの彼女は、他の生徒とはどこか別格な雰囲気を醸し出している。
 敏にとって彼女は、恋人として隣に存在している光景を想像することすら簡単にはできなかった。
 自分とは別次元の存在の彼女を己の隣に置くことすらはばかった。
 
「アイツ好きな奴いるんだぜ」

 光矢がこう言った。
 彼はこの一言で相手が大いに傷つくことを予想したせいか、少しだけ自身ありげだったが、当の敏の態度に思いのほか変化が見られなかったため、ポカンとした表情をする。

「お前アイツのこと気になってるんじゃないのかよ?」
「え……だから、別に、って」
「…ったく、もう放課後だぞ、支度しないのなら先に帰るぞ」

 こう言うと、言葉どおり彼はすごすごと教室の扉から大きな図体を外に投げやってしまう。
 他の生徒もいなくなり静かになった教室内。
 敏、一人空になった空虚な室内でただ呆然と外を見つめている。
 外には生徒たちが列になって運動場の脇にある歩道を歩いているが、その中で彼の目に止まっていたのはやはり同級生の百合亜だった。
 彼女はこの遠い教室からでも、その違いがよく分かるくらい目立っている。
 黒髪をなびかせた華奢な体がフワフワと路上を流れているような雰囲気。
 
 では彼が彼女に抱いていた感情は果たして好意なのだろうか。
 しかし敏は、彼女とまだ一度も話したことがない。
 同じクラスの人間ではあったが、彼女も存在感のない敏を確たる濃度で認めているのかは定かではなかった。
 だが敏は、この距離感が妥当だと考えていた。
 むしろこうでなければならないとも。
 通常の男子なら、気になる女性がいれば、話しかけたい、相手がどんな人間だか知りたいと願うのだろうが、彼はそこが普通とは違っていた。
 こうやって傍から彼女という存在を別世界から覗くように見つめているのが何よりもの楽しみであった。
  
 そして次の日。
 教室内は何やらザワザワとざわついている。
 午前の授業を早く切り上げ、一ヵ月後校内で行われる文化祭の出し物の話し合いをするため、皆で意見を出し合っているのだ。
 その話し合いを仕切っているのは、敏にとってはその別世界の住人である女性だった。
 教壇に立った彼女は相変わらず黒い髪をサワサワ揺らしながら、生徒たちから出される意見を必死にまとめている。
 真面目で頭もよく、それでいて時には無邪気に笑う彼女は生徒の皆からも好感をもたれる。
 クラス内で誰が文化祭を仕切るのかという提案が噴出した時もいの一番に彼女が選ばれたくらいだった。

「じゃあ、出し物、これでいい?」

 彼女が皆にこう問いかけると、いっせいに返事が返ってくる。
 
「どうしてあんな奴が気になるのかね?」

 すると隣の席から光矢が苦笑しながらこう問いかける。
 
「俺は小学校の時からアイツと同じ地域に住んでるが、どうしてもいいとは思えん。ガサツだし、手付けは悪いし、俺に文句を言うときも、まるで男みたいに激しくどやされるんだ」

 思わず苦笑する敏。
   
「結局は見た目だけってことだろ? お前が考えているのは」

 …そう、なのかもしれない、敏は自分に問いかける。
 確かに彼女と一度も話したことのない自分にとって、彼女は架空の存在と形容しても何らおかしくはない。
 彼女のことで知っている情報としては、その表向きの容姿以外にはなにもないのだから。
 己の想像が架空の女性を作り出し、妄想の中でふくらみ、そして離れていく。
 実に馬鹿げた行為ではあったが、彼にとっては、それが気になる異性と対峙する唯一の方法であった。
 
 話し合いを終え、他の生徒たちと談笑する姿をボウッと眺めている敏。
 彼女の横顔が、動く唇が、綺麗な瞳が、やはり別世界の住人のような隔たりをもって自身の視界にうつってくる。
 もし彼女のいる世界が光り輝く希望だとすれば、自分のいる世界はどう考えても、負の感情渦巻く地獄のような気がしてならない。
 
 そして放課後。

「どうした敏、帰るぞ」

 敏は今日の放課後も、先日のようにまたポカンと口をあけて、あの人物、を見つめている。

「もういいよ、それは、何度も見飽きたし。それよりも帰るぞ、って」
「……帰ってていいよ」
「はあ? もう三日連続だぞ。お前最近おかしいんじゃねえのか?」

 その負の感情は、次第に大きくなり、敏の包み込む、現実世界にまでも少しずつ侵食していた。

 また一人教室内に取り残される敏。
 教室はさっきまで生徒たちが大挙として滞在していたとは思えないほど静か。
 ふと彼女の机が目に入る。
 教室の中央に鎮座する彼女の机には私物である鞄が両脇にかけられている。
 立ち上がり、教室から出ようとしたその瞬間、そのかけられた鞄の隙間からある物がのぞいていることに気づく。
 ハタと立ち止まりよく見てみると、それは紛れもなく彼女の体操服だった。
 白い布肌に青い線が二三本並んでいる。
 その時、敏の脳裏に浮かんだ計画は、今まで空想世界の中に身をやつした人間の行う行為とは多少違っていた。
 いやそれは最早ルール違反と言っても過言ではないのではないか。
 キョロキョロと辺りを見回す敏。
 この場に誰もいないことを認めた彼は、タトタトと教室の出入り口へと向かう。
 そして部屋の前後に存在する扉の鍵をガッチリと閉めてしまったのだ。
 夕闇に閉ざされつつある教室内が密室になる。
 すると彼はまるで今までの空想世界を、この場に現出させようとするかのように、己の欲望を、彼女の私物へとぶつけ始めたのだ。
 机の上に広げられた彼女の体操服が、あたかも彼女が机の上に押し付けられているような光景とリンクする。
 そこから漂う匂いを、あたかも彼女から発せられた匂いと錯覚する。
 手で触れた感覚が、まるで彼女の肌に触れた時の感覚のように誤認識する。
 彼の聴覚が視覚が、触覚が臭覚が、そして味覚が、少女の私物を媒介として、この世にひたひたと現れ始める。
 そしてしばらくして事がすむと、彼はまたコッソリと鞄の中に体操服を戻し教室の出入り口の扉を開く。
 外の廊下をキョロキョロと見回し、誰かいないかチェックを終えると、大きく息を吸い込み深呼吸する。
 爽やかな空気が彼の鼻筋を健やかに通り抜ける。    
 その後、自分の鞄を手に取り、教室を飛び出ると、未だバクバクと高鳴る心臓の鼓動を抑えながら、挙動不審に学校の階段を駆け下りていく。
 途中、担任の先生に声をかけられたような気がしたが、構わず横を通り抜け、玄関の靴置き場へと急いで向かう。
 闇は外に鎮座していた。
 まるで悪魔になった彼を待ち望んでいたかのように、外に出る彼の全身を包み込み、そして吸い寄せていく。
 
 自宅へ到着すると、両親の問いかけを無視し、自室へと向かって階段を駆け上る。
 そしてたどり着くと、疲れた体をベッドに横たえる。
 電灯もつけない自室は、外から入ってくるか弱い月明かりに照らされているが、薄暗くドンヨリと沈んでいる。
 体は疲れながらも、目は衰えながらも、彼の脳内の神経は異様に冴え渡っていた。
 いつもならここで彼女のことを考えるのが日課だった。
 彼女の存在を空想世界に描き、その空想世界で彼女を動かし、そして彼女に話しかけられる。
 そうしている内にいつしかウトウトと自分の意識も夢という名の別世界に消えていく。
 だが今日はいつものそれとは少し違った。
 異様なる恐怖心が脳内を駆け巡り、それによって過敏になった神経が異常なほど冴え渡っていたのである。
 その原因は勿論、さっき学校の教室内で行ったアレであろうが、しかしそれでも過剰な恐怖は思いのほか常軌を逸している。
 思わず布団を退けやり、上半身を持ち上げる。
 真っ暗な闇がいつもの自室とは思えないほどの恐ろしさをもってこの空間を支配している。
 その奥から自分に向けられる何者かの凶悪な視線。
 境界線を越え、自分の行った罪、と、秘密、をこれから先未来、自分ひとりで背負わなくてはならない、といった重苦しい責任すらも激しく押し寄せてくる。
   
「おい、どうした今日は元気ないな」

 次の日、いつものように教室で光矢に話しかけられる。
 
「それに目、クマできてる」

 昨日はあれから一睡もできなかった。
 恐怖に見舞われた神経を落ち着かせようとしたがダメだった。
 
「もしかして、また百合亜のこと考えてたのか?」
「……違う」
「じゃあ別の子か」

 正直に言うと、昨日の夜は彼女の事をいっさい考えなかった。
 眠れない原因を作ったのが彼女の存在だったにせよ、それよりも大きなものが自分を支配していたからだ。

「考えすぎはよくないぞ。考えてばかりじゃ脳が腐っちまう、そんな時は、大声でもなんでも出して、何もかも忘れようと必死に走らなくちゃ」

 敏はコクリと黙って返事をしたまま、机の上にふさぎこんでしまう。
 いつもは気になる彼女の様子も今日は目に入らない。
 昨日あれだけの行為に及んだにも関わらず、なぜだか不思議と気を引かれることはなかった。
 彼女はいつものように、友人たちと楽しそうに談笑にいそしんでいる。
 傍らには、敏が飛びついた彼女の運動服の詰められた鞄が平然と揺れていた。
 
 チャイムがなり、次の授業の休み時間が始まっても、敏はふさぎこんだまま。
 それを見た光矢は多少の心配はすれど、構わず次の授業の準備をはじめている。
 上空に鎮座する雨雲からポツポツポツと少しずつ雨が落ちてくる。
 それによって授業を担当する先生の声が次第に聞こえなくなる。
 
「おい…起きろ、敏」

 思わず眠り込んでいた敏は、光矢の問いかけによって意識を取り戻す。

「次の授業だ。体育。今日は雨だから体育館で体操の授業だってよ」

 頭を起こし辺りを見回すと、そこには体操着に着替えている男子だけが残った教室の光景が広がっていた。

「なんだ? 寝ぼけてるのか? 早くしろよ、先生にどやされるぞ」

 体操着の袖に腕を伸ばし着替えを終えると、教室を出て、校舎裏にある体育館へと向かう。
 そこへ更衣室で着替えを終えた女子たちが、並んで体育館へ向かっている姿が敏の視界にうつった。
 なぜだかここでもまだ敏の心臓はバクバクと高鳴っていた。
 昨日、自室にたどりつきベッドに横になった時と同じような並々ならぬ躍動で。
 目は自然と彼女を探していた。
 自分がむさぼった体操服に、彼女が着替えていることを想像すると、いてもたってもいられないほどの興奮が胸の奥底から襲ってきたからだった。
 するとようやくお目当てを発見する。 
 確かに彼女はあの体操服に袖を通し、他の生徒と談笑しながらこちらへ歩いてくる。
 その時敏は、なぜだろうか不思議なことに、突然、あの行為以来続いていた恐怖心が消えうせ、やっと元の安堵感が舞い戻ってきたのだった。
 
 ようやく気分が良くなった敏は、次の授業の体育を通常通りうけていた。
 すると隣から光矢。

「どうした? よくなったか?」
「うん…まあ」
「さっきはあんなに顔色が悪かったが、見る見るうちに血の気を取り戻したようだ」
「雨が止んだだろ? 気分なんてアレみたいに、突然よくなるものだよ」
「…ふうん、じゃどうだ、また百合亜のこと、考え始めたか?」

 ふと彼女の方に視線がずれる。
 彼女は体育の先生に指導されながらマットの上で体を動かしている。
 するとその演技が終わると他の生徒たちから、激しい喝采と拍手がもれる。
 
「あの動き見ろ、柔らかいだろ? アイツ小学校の頃、体操クラブに所属してたんだ。なんか大きな大会で賞も取ったらしいぜ」

 …知らなかった。
 彼女の態度がなんとなく堂々としているのも、そんな背景が由来していたからなのだろうと敏は察知する。
 しかし、あの体操服。
 彼女を取り囲んでいる他の生徒たちは、まさか昨日自分があれにかぶりついたなんてどう考えても思い及ばないだろう。
 なぜだろうか、その時、多少の優越感が敏の心の中で沸々と沸きあがってきたのは。
 チャイムがなり、体育館から続々と生徒たちが飛び出していく。
 同じように敏もふと体育館の扉をくぐろうとしたとき、背後で一人マット上で練習に耽っているある人を発見する。
 百合亜だ。
 彼女は一人居残り、体を機敏に動かしている。
 その動きは、先に光矢の言ったとおり、体操の選手らしい、滑らかな動きと、素早い足使いとで、マット上をピョンピョン飛び跳ねている。
 ふと視線の先の彼女の動きが止まった。
 そして背を向けた体が百八十度回転する。
 すると不思議なことにポカンとした目つきで敏の方を見つめているのだ。
 ビックリした敏は、恥ずかしそうに視線を逸らすと、それから逃げるかのようにスゴスゴと体育館を後にしたのだった。

「またか?」

 それから一週間後の放課後。
 敏はまた光矢の帰宅の誘いを断った。

「…気分が悪いんだ。もうちっとしたら後を追うから、先に帰ってて」
「ったく……お前最近付き合いわるいぞ」
「ごめん」
「………分かった。じゃあ先に帰るから、お前も早く来いよ」  
 
 教室を出て行く光矢を見送る敏。
 百合亜の体操服を見つけたあの日、彼を襲った恐怖は、彼女がそれを着ている姿を見た途端、安堵に変わり、それ以降彼を襲うことはなかった。
 一週間が過ぎた今でもそれは変わらない。
 だが先日、ふと敏はある思いに打ちひしがれた。
 その思いは尋常ではない、退屈、であった。
 以前は、ベッドの上で眠りにつく少しの間、彼女のことを想像したり、熱い思いに耽ったりしていたが、あの日以来、不思議なことになぜだか著しく想像力が低下し思うようにいかなかったのである。
 彼女のことを考えようとしても、それはすぐに邪心にかき消される。
 一体その邪心がなんなのか、と自分で自答した結果、やはりあの行為が原因だということに気づいたのだ。
 あの行為とあの恐怖が、自分の脳内世界を邪魔しようと必死に企んでいるのだ。
 教室の外を包み込む漆黒の闇。
 敏は今日の朝から、あのターゲットを目にし、狙いを定めていた。
 彼女の体操服。
 それがあの日と同様に、机の脇にかけられていることを知っていた。
 あの日の光景をまた再び再現するかのように、扉を締め、密室状態を造る。
 どうしてだろうか、どうしてまたあの行為を繰り返すのであろうか、敏は己が空想世界をあの日の恐怖に邪魔されながらも、屹然たる態度で脳内を支配していた欲望に圧倒され勝てず本能のまま、アレ、に近づくしかなかったのである。
 
 しばらくして事が終わると汗だくのまま、扉を開いた。
 辺りに誰かいないかとキョロキョロと見回すが人の気配はない。
 薄暗く不気味な校舎。
 しかし最初この行為に及んだ時に感じた激しい切迫感と恐怖は、今回は微塵もなかった。
 二回目にして既に慣れてしまったせいか、そのような心の動揺はさほどないのだろう。
 そのまま自宅へと帰宅し、自室に戻る。
 いつものようにベッドに横になると、ポカンと薄暗い天井を眺めはじめる。
 彼女の姿を想像することは今や容易にはできなかった。
 いや、その必要性すらなかった。
 彼女に対する好意のベクトルが、空想世界から、欲望世界へと、移ったからかもしれない。
  
「おはよう敏」

 いつものように光矢が話しかけてくる。
 今朝は梅雨のせいか、外は豪雨に見舞われている。
 その雨は光矢の大きな声さえも打ち消すほどの、大きな音を喚き散らしている。
 そんな最中、その音にも負けず劣らず巨大な叫び声をあげた生徒がいた。

「なんだ? なんだ? どうしたんだ?」

 振り返った光矢は、背後の教壇の近くで騒いでいる女子生徒の元に近寄る。
 そこには黒板を指差したり、屈んで泣いていたり、訝しげな表情で憤怒している生徒もいる。
 何が起こったのだろうと光矢は気になり、その騒ぎの中心地である黒板の元へとさらに向かった。
 教壇に乗り、その事実を確認した光矢は驚愕の目でソレを見た。
 彼が目にしたのは黒板に張られた数枚の写真だった。
 その写真にはある一人の女性が写っているのだが、よく見てみると絶対に目にしてはいけないものが写っていたのである。
 その光矢の行動を垣間見た他の女子生徒が急いで、黒板から写真を剥がす。
 するとスタスタスタと元来た道を引き返す光矢。

「どうしたの一体?」

 敏がこう質問するが、光矢は答えることを躊躇しているようだ。

「ねえ?」
「…やばいんだ」
「やばい? …黒板に何かあったの?」
「…貼られてた、写真を」

 すると光矢は顔を敏の眼前に近づけ、周囲を気にするかのように、コソコソと真相を語り始める。

「百合亜の写真が貼ってあったんだ」
「彼女の?」
「でも普通じゃない…裸だ、しかも下半身。きっと女子トイレの個室の隣から撮ったものだろう」

 敏は固まった。
  
「誰にも言うなよ。この事実は他の男子生徒だって知らない。女子生徒だってまだ一部しか知らない。百合亜もまだ教室に戻ってきてないようだし、上手くいけばこれ以上事が大きくならないだろうからな」
 
 すると教室の出入り口の扉が開く、入ってきたのは百合亜だった。

「やばい」

 光矢がこう言いながら、なぜか敏の机の上に頭を伏せてしまう。
 彼女はテクテクテクとそのまま女子生徒の集団に近づき、その騒ぎの中へ加わろうとする。
 敏は黙ってその光景を見つめている。
 両目には異様なほどのギラツキと真剣味を滲ませながら。
 彼女の長くて黒い髪の毛、ピンクの唇、透き通った瞳、華奢な脚、それを昔の空想世界の彼女と重ねるかのようにその一瞬をまだかまだかと待ち望んでいる。
 そして彼女は、生徒たちの騒ぎへとたどり着くが、当の声を上げている生徒たちは彼女の存在に気づいていない。
 敏の視線も彼女の動きに合わせてゆっくりと移動する。
 女子生徒たちは仕切りに写真を見比べたり、他の生徒と交換したりしているようだ。
 それを背伸びして背後から確認しようとする百合亜。
 そしてついに目にしてしまったのか驚きの表情を垣間見せる彼女。
 口を両手でを覆い、全身の動きが固まってしまう。
   
 すると背後から、あああ、という光矢の嘆き声が聞こえた。
 今まで騒いでいた生徒たちの態度が、彼女の存在に気づいた途端、凍りついたかのように冷ややかになる。
 
 敏の視界にうつったのは、彼女の怯える表情、赤い光沢の浮かんだ両頬、涙で潤んだ瞳。
 それを確認した彼は、あの時まで消えていた、空想世界の彼女が、再び己の脳内に戻ってくるのを感じた。
 熱い欲望によって、彼女の存在がより近くに擦り寄ってきていたものを、もう一度、遥か遠く手の届かない場所へ追いやることに成功した。

「まさか、お前がやったんじゃないだろうな?」

 その日の放課後、敏に対し光矢がこう詰め寄る。

「なわけないじゃん。僕があんなことするわけないだろ」
「…そうだな、疑ってスマン」

 事実、彼にはあんな醜い行為をやった記憶がない。
 影でこっそりと彼女の私物に手をつけることはあっても、表だってことに及べるような自信は全く持っていなかったのである。
  
「しかし何者なんだろうな、百合亜に対してあんなヒドイことをしたのは」

 敏にも見当がつかなかった。
 見当をつけるよりも、百合亜のことが気になって仕方なかった。
 あの写真を発見した後、彼女は呆然とした態度で平常どおり授業を受けていた。
 しかし顔には悲壮感が漂い、手に持ったペンの動きもどこかぎこちなかった。
 仲の良かった周囲の生徒たちも神妙な面持ちで彼女のことを心配していた。
 放課後、教室に一人居残った敏は、いつものように呆然と窓の外を見つめている。
 運動場の傍らにある路上には、いつもとは異なる彼女の意気消沈した姿がある。
 今日は彼女の私物に手をつける気がしなかった。
 その理由というのも、さっきも言ったとおり、彼女があの写真を発見し動揺した姿を見た途端、またあの空想世界の彼女がハッキリと頭の中に戻ってきたからだった。
   
 自室へ戻るとベッドに横になる。
 あの時、想像していた彼女の姿が戻ってきたことで、また魅力的な世界が頭の中に創造されていく。
 彼女の美しい姿が現れ、黒い髪の毛をなびかせている。
 白い肌が決め細やかに光っている。
 茶色い瞳が真剣にこっちを見つめている。

 それから一週間が経つ。
 
「今日もこないな」

 空想世界の彼女は復活せれど、それとは対照的に現実にいる彼女の姿は、教室のどこにもなかった。
 心を痛めたのか、あれ以来彼女は学校に登校することを拒否してしまう。
 それもそうだ、と敏は考えていた。
 彼女のことを隠し撮りした犯人が、まだこの学校に隠れていてもおかしくはない。
 こんな状況でのこのことやってくるのは何かと危険だと思った。
 いつも彼女が座っている机は、空席のまま、授業が開始される。
 それからさらに一週間が経過しても、彼女は一向学校を訪れなかった。

「おかしくないか、もうさすがに学校に来てもいい頃だろ」

 光矢がこう訴えるが、敏はただポカンとしているだけ。
 
「お前、また目に凄いクマができてるぞ。寝てないのか?」
「え? …ああ、うん」
「百合亜のことを想像するのもいいが、ちゃんと寝たほうがいいぞ」

 しかし最近になって敏は彼の言うような、想像、を止めていた。
 それは想像とは違う別の行為が、その行為に取って代わり、彼の日課になっていたからである。
 その取って代わった行為というのが、夜な夜な彼女の自宅へ向かい、心配の目を向ける、という行為であった。
 ただ彼は純粋に彼女のことが心配だったのである。
 確かに彼女の私物に向かって己の欲望を曝け出した、彼女が学校に来なくなってからも想像の世界で彼女とあっていた。
 がその偽者たちの本体である彼女自身が弱りきっているのであれば、さすがに安々とそういう行為に及ぶわけにはいかなかった。
 真っ暗な闇の中で、彼女の自宅の玄関脇にある電柱の影に隠れ、薄く光る自室の窓を見上げているだけだったがそれだけでも構わなかった。
 まるで自分ひとりが彼女の体と心を心配している人間になれたかのように、必死に見守り、見つめ続けていた。
     
「もう一ヶ月、全然やってこない」

 敏は光矢に日課になっていた見守りのことを話さなかった。
 もし話したとしても、ドン引きされるに違いないからだ。

「しかし、おかしな情報もあるぞ」
「なに?」
「百合亜のやつな、髪を染めたんだって」
「髪?」
「茶髪な、全部真っ茶色」
「…ふうん」

 敏はその情報を既につかんでいた。
 夜、毎日彼女の自宅に向かっていれば、たまにその姿を目にすることもある。
 自室の窓から彼女の姿が垣間見えたときは、敏の心に安堵感と喜びが舞い込んでくる。
 そんな彼女の変化に気づいたのは、つい先日のことだった。

「まあ、あんなことがあったんだ、ショックで何したっておかしくない」
「…そうだね」

 正直言ってショックなのは敏も同じだった。
 彼女が髪の毛を染めるなんてまさか考えつかなかったからである。
 学校に滞在している時は、至極真面目で行事にも積極的に取り組む生徒だった。
 クラスのリーダーを務め、文化祭の準備の指揮をしたりするくらいだった、彼女があんな姿になるなんて思い及ばなかった。
 
 今日も、黒々とした夜の闇が敏の全身を覆い尽くしていた。
 訪れたのはやはり彼女の自宅。
 物陰に隠れ、自室の窓を真剣に見守る。
 しかし今日は、いつものように彼女の自室には黄色い光は灯っていない。
 中には誰もいないのだろうか、彼女の自宅を後にし、家に戻ろうとしたその時、背後から何者かの声が聞こえてくる。

「君、なにやってるの?」

 ビックリした敏は思わず、立ち止まり、振り返ってしまう。

「ずっと私の家、きてるよね」

 闇の中でその姿はハッキリと確認できないが、それは紛れもなく彼女の声に違いなかった。
 彼はまだ彼女と一度も口を聞いたことがないせいか、どこかぎこちない返答だった。

「…うん」
「うんじゃないよ…キモイんだけど」 

 …キモイ。
 あまりにも彼女と似つかわしくない言葉使いに驚く。
 視界には近づいてきた彼女の茶色くて長い髪の毛を確認できる。
 その姿は、依然彼が想像していた彼女の姿、態度とはまるで異なっている。
 あの真面目だった彼女の姿とはどうしても合致しない。
 
「もしかして同じクラスの敏君だよね?」
「…うん」
「困るよ、毎日毎日、物陰に隠れて私の部屋を監視するなんて」
「心配だったんだよ」
「私のことが?」
「うん、あんな事件があったから」

 彼女は目をパチパチさせ、驚きの表情を曝け出している。
 その表情には、多少の笑みも読み取れる。
 それに疑問を感じた敏がこう尋ねる。

「どうして笑ってるの?」 
「ん………いや、なんでもない」

 不思議な表情で彼女を見つめる敏。
 すると、しばらく二人の間に沈黙が流れていたが、彼女は何を思ったのか、突然に彼の腕を引っ張り、家の中へ引きずり込もうとしたのである。

「ちょ、ちょっと何?」
「いいから、早く」

 それから敏は彼女にされるがまま、彼女の自室へと引っ張られたのだった。
 困惑しながら、彼女の部屋の絨毯の上に座り込む敏。
 彼女の性格はやはり傍から見ていた彼女の性格とは断然異なっている。
 こんなにも活発で、強引な性格だとは思わなかった。
 しかもあんな事件に見舞われた後だとすればなお更だった。
 しかしふと、昔光矢が言ったある言葉を思い出し少し納得する。
 アイツはガサツで男っぽい面があるという言葉を。

「とりあえずジュースしかないけど、これでいい?」
「…うん」

 敏は手渡されたジュースを一気に飲み干す。
 その光景を見ていた彼女はニヤニヤと笑顔を垣間見せる。
 彼女の顔つきはやはり、あんな醜い事件に遭った人間の顔とは思えないほど明るかった。
 きっと意気消沈し、塞ぎこんでいるとばかり思っていたが、全く予想が外れていた。

「君、ショックを受けたから学校に来なくなったんじゃないの?」

 思わずこういった言葉が口を出た。
 彼女はこう言い返す。

「違うよ」
「え?」
「私ショックなんて受けてないし」
「はあ?」

 何がなんだか分からなかった。
 ショックなんて受けてない………どういうことだろうか。

「ど…どういうことなの?」

 彼女は持ってきていたもう一つのコップに注がれたジュースをゴクゴクと飲み干す。
 そしてプハーと吐息を吐き、敏に対し、事の真相を語ったのである。

「全部ウソなの」
「ウソ?」
「うん、あの写真事件」

 どういうことか理解できない敏は目をパチパチさせながら困惑した表情をあらわにする。

「う…そ、ということは………どういうこと?」
「私が貼ったの、アレ」

 自分で貼った?

「驚いたでしょ」
「なんのために?」
「騙すためだよ」
「誰を」
「クラスのみんなを」

 まだ要領を得ない敏。

「どうしてクラスのみんなを騙す必要があるんだよ?」
「クラスのみんなだけじゃない、私の家族もよ」
「どうして?」
「こうやって学校を休みたいからよ。…私ね、こう見えても結構、不真面目なのよ。傍から見た姿とはまるで違う。君、ずっと私を見てたわよね?」

 ギクリ、と両肩を持ち上げる。

「知ってるわ。でも君が描いているイメージとは全然違うの、ホラこの髪の毛、これだって私、昔からこうしたかったの」
「…まさかそのために?」
「うん」
「じゃあ、あの写真も君が自分で撮ったってこと?」
「うん」   

 敏は思わず両腕を後ろに反り、また口が開いたままになってしまう。
 
「騙すにはまず身内からって言うじゃん。あの事件を起こして、私がショックで学校に行きたくないと周りに訴えれば、簡単にサボることができるじゃん」

 敏の口からため息がもれる。

「上手だったでしょ? 私の演技。得意なの、小さい頃から新体操やってるからってわけじゃないけど、人前で演技するのが上手いの」
「あの動揺した姿も、涙を浮かべてた瞳も?」
「うん、騙された?」

 思わずもう一度ため息。
 それと同時に今まで心配してきて損した、と彼は思った。
 さらに、あんな想像をしていた自分を情けなく思ってしまう。
 
「現実なんてこんなもんよ。女ってのは、こんなもの」

 その言葉に大いに納得し、思わず苦笑いしてしまう敏。

「でもね、心配してくれて嬉しかった。君が私の家に来たときは少し怖かったけれど、何もしないって分かったら少し安心した」

 馬鹿馬鹿しい。
 
「あれ? もう帰るの? …もうちょっと居ればいいのに」

 立ち上がり、部屋を出ようとすると、彼女の言葉によって彼の動きが止まる。

「でもね、一つおかしなことがあるの。あの日、黒板に写真を貼り付けたじゃない。あの五枚の写真、あの後、机の引き出しの中にしまっておいたのに、放課後帰ろうとした時、一枚なくなってたの」

 敏は鼻でフンと笑い、その場を後にする。

 そして次の日。
 ホームルーム前の教室内で、光矢がこう問いかける。 

「どうした? 元気ないな、また寝不足か?」

 敏は机の上に塞ぎこんだまま返事をしようとしない。

「俺な一つ言い忘れてたことがあったんだ。お前に言うのはまだ早すぎると思って止めてたんだけど」

 腕の隙間から、敏の目が覗く。

「この前、百合亜に好きな人がいるっていってたじゃん。アレ実はお前なんだよ」
「…ふうん」
「ふうん、って何だよ? 好きだったんじゃないのかよ?」
「べつに」

 その態度に不思議そうな表情を晒す光矢。
 すると、何を思ったのか敏はポケットからある一枚の紙を取り出し、そしてそれをグチャグチャに丸め、開いた窓から思い切って外に投げやった。

「お、おい、何だよソレ?」
「あんな女クソだった」
「はあ?」

 突然立ち上がると、教室の出入り口へ向かい振り返る。

「お、おい? どこ行くんだよ?」
「走るのさ。この前君の言ったとおり、考えすぎたから、それを忘れるために、大声で叫んで走るのさ」

 すると敏は、その言葉どおり、何やら大声を張り上げながら、廊下を懸命に走り出した。
 その彼の行動を見た光矢はポカンとしていたが、次第に笑みになり、最後には腹をかかえて爆笑しはじめてしまった。

──魅了する世界──終わり

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更新日
登録日
2015-06-25

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