XENE(ジーン)

1


 首都高速湾岸線26時、200キロ前後で走り続けるとスピードの感覚が麻痺してくる。
首都高と言う名の有料駐車場なんて陰口を叩かれるけれど、さすがにこの時間だと車の数は少ない。
このスピードでも何度か轟音を響かせる大排気量のバイクに追い越された。
いったい彼らは何キロ出してるんだろうとバック・ミラーの自分に向かって苦笑する。
メーターが240キロを目前に足踏みする。強大な空気の壁に加速が鈍ってゆく。
それでもコクピットの中は平穏な空気に包まれ、流れる窓外の景色だけが非現実のように後ずさりしてゆく。
 250キロ、皮のシートを伝い、路面のうねりが尋常ではないスピードを五感に伝えようとする。いつまでもこのままエンドレスに周回しつづけて朝を迎えるのもいい。


 意識が一瞬虚空を漂う。アクセルを離すと急激な減速感に襲われる。
定期便の大型トラックにホーンを激しく鳴らされ更に憤怒のパッシングをされ、ギリギリを追い越された。
すれ違いざま風圧で車体が細かく振動し、トラックに引きずり込まれそうになる。
そう、死はきっとこんな風に唐突にやってくる。
僕を捕まえようと息を殺して隣で微笑んでいるのだ。
トラックの運転手が中指を立て、口汚く罵る姿が目に浮かんだ。
今夜は潮時かも知れない。死はこんなに近くにあって僕を捕まようと手ぐすねを引いている。
この感覚を味わうためにこんなスピードで首都高を走っている。
 死にたい分けじゃない。死ぬ勇気があればこんなリスクだらけの馬鹿なマネはしない。
生きてるという実感が欲しいだけだ。
250キロ、ひとたびハンドル操作を誤れば0・5秒で確実に死が訪れる。
ハンドルを持つ手が小刻みに震えている。汗ばんだ手の平が、心臓の鼓動が自分の中の生を主張している。
鈍重な豚のような感覚を覚醒させるためにこんなことをしてる自分を時々哀れんでみたり、いつまでこんな行為に依存して生を確かめるのか、愚行はいつか終わるのか。
 大黒埠頭P.Aに入る。
相変わらず週末のP.Aは行き場のない若者の喧噪で溢れ、そこここで車の品評会に興じている。
彼らはハイ・リスクを承知のスピードで夜明けまで周回しそれぞれの居場所へ戻ってゆく。
700円の御気楽なストレス解消法とでも言うべきか。
駐車場に車を入れ、震えの止まらない手でタバコに火を着ける。
吐き出した煙りが車内を満たし、震えは徐々に治まってゆく。
ドア・ガラスを叩く音がした。
唐突にドアが開く。
「ね、乗っていい?」
言いながら女の子が助手席に乗り込んできた。
「何!?君はどういう積もりなんだよ」
「とにかく事情は後で話すから車出してよ!」
分けも分からずアクセルを開けた。
彼女がパワー・ウインドウのスイッチを押すのが見えた。
「ばーか!ベイ・ブリ見せるくらいで直ぐやろうなんて10年早いんだよーだ」
窓から彼女が半身を乗り出して中指を立て誰かに向かって叫んでいるのを横目で見ていた。
バック・ミラーにTシャツ、ジーンズ姿の二人の男たちが追いかけてくるのが見えた。
「ねえ、この車速い?」
「ああ、A.M.Gチューンのベンツだからね多分速いと思うよ」
「なに、そのアー、マー、ゲーって?ゲシュタポの親戚」
彼女の言葉に構わずアクセルを煽った。男たちが車に乗るのが見えたからだ。
265/40の超扁平リア・タイヤが強烈なスキル音を上げ、ゴムの焦げた匂いが車内に微かに漂った。白煙を勢いよくあたりにまき散らす。
本線に入り追い越し車線を240キロ超の速度で巡行する。
「す、すごーい!なんか見かけによらず速いんだ、この車」
皮シートに身体を埋め、いつの間にかシート・ベルトをした彼女が言った。
「あのね、君を乗せただけでも僕は後悔してるんだ!その上分けも分からない奴らに追いかけ
られてさ、これ以上の面倒に関わり合いたくないだけさ」
「ジーンよ、皆はジンとか言う子もいるけれど、あたしはジーンが気に入ってるの。
ほんとは仁美(ひとみ)って言うんだけれど……」
「君の名前なんか聞きたくないよ、君、僕の話し聞いてるのか!」
「なんでだろう……この包んでくれるみたいな皮シート、匂いとこのスピード感、なんか
凄く気持ちイイ」
密かにジーンと名乗った子の息遣いが聞こえてきた。
一瞬その光景に視線を奪われた。
ジーンの右手がファスナーが下ろされたジーンズの見え隠れするパンティの中に入れられて
いたからだ。
半開きになったピンクの唇からは断続的に呻き声が漏れる。
薄目を開け、瞳は僕を挑発するように向けられている。
ジーンは更にジーンズを膝まで下げ、ずり落ちたパンティの中で右手を激しく動かしている。
パンティから盛り上がったカントとそれを被う陰毛が覗くのを僕はまるで夢でも見てるように
感じていた。


「フゥー、なんかイッちゃったみたいだ」
ジーンが薄目を開けて僕を見ながら言った。
「素敵なショーをありがと。トラックやバスの運転手が君を見て事故んないうちに少なくとも
パンツくらいちゃんとはけよ」
「ダメッ、力が入んないもの。それともこんなの見たくない?」
言いながらジーンがシート・ベルト越しに着ていたTシャツを託し上げた。
張りのある形の良い乳房が剥き出しになった。薄い陰毛が更に僕の視線の先にあった。
「大人をおちょくるのもいいかげんにしろよ! さあもうおふざけは終わりだ。
夜が開けてきたし……家を教えてよ、送ってく」
「分かった。横浜……本牧……」

2

 ジーンが自宅の場所を告げた頃には既に本牧JCTを通過し、湾岸から横羽線に入っていた。
僕はいったい何処へ向かおうとしているのか、ジーンはシートに深く身体を預けたまま窓外に
流れる景色を気だるそうに薄目を開けて見ていた。
 仕方なく高速を降り下道をゆっくりと流す。
助手席のガラスを半分ほど開けジーンは気持ち良さそうに夜風に当たっている。
急に黙り込んだまま口を開こうとしないジーンが気になる。
 身長は170くらいか、歳はいくつくらいだろう? 二十歳くらい? 長い脚、ジーンズ
が似合う。Tシャツ越しのツンと上を向いた乳房……。
「あのね、さっき本牧っていったけれどあれウソ」
唐突にジーンが話し始めた。視線が絡みあう。上眼使いのジーンの透き通るような瞳に一瞬
怯んだ自分に苦笑する。
「さっきからずっとあたしのこと見てたでしょ、値踏みするみたいに……」
栗毛色のジーンのショート・ヘアが微かに揺れていた。
「ありがとう、お礼言うの忘れてた。ああっ、まだ名前も聞いてなかった」
「名前を聞いてどうする。行き掛り上、僕は君を助けたことになるかも知れないけれど、
君を家まで送ってく、それで君とはサヨナラ、それだけだ」

「うわっ、キレイ! あの三日月みたいなのあれ何?」
なんて奴だ。全然こっちの話し聞いてないじゃないか!
「インター・コンチネンタル……ホテルだよ」
ジーンの会話に引きずり込まれてる僕がいる。こんな小娘と思ってみたけれど、切れ長の二重の
瞳や、コケティシュな笑顔、しなやかなその肢体に興味をそそられていた。
「さっきの奴ら、渋谷のクラブで軟派してきて・・・湾岸走ってベイ・ブリ見に行こうなんて
……片方の奴、後ろの席でいきなりキスしてきて服脱がそうとするの」
右肩にジーンの顔があった。日焼けした顔に鼻の周りを被うソバカス、少し突き出した
ピンクの唇。はち切れそうな胸元の隆起が僕の二の腕に感触を残す。
「あたしがジタバタしてたらパーキングに留めて早くやっちゃおうって運転してる奴が言って、
大黒でほんとにやられそうになって……オシッコ!オシッコしたいー!って叫んだらトイレ
までついてきて……」
「分かったよ、で、僕の車に無理矢理乗り込んで来た分けだ」
「そんなにはしょんないでよ、大変だったんだから、やっぱりクラブで金払わせてそのまま
トンズラしたら良かった」
 ジーンの髪の匂いが僕の鼻先を掠め、幾分涼しさを感じる外気に混じりあい脳裏を横切った。
大人しく僕の肩に持たれているジーン……心が優しくなってゆく。
「僕はトシアキ、ジーンは幾つなの?」
そんなこと聞いてどうする……頭では常に警鐘がなり、関わりあいになることを拒むもう
1人の僕がいる。
 肩にもたれながら上目使いに僕を見つめるジーン。
「やっと名前呼んでくれたねトシアキ、16よ、来月17になるわ」
「そう、ちょうど僕の半分って分けだ。で、呼び捨てはないだろ、僕は君より16も年上な
分けだから、せめてさんくらい付けろよ」
「年令なんて何よ! ただの数字でしょ。16年も生きてれば大抵のこと学べるし、ちゃんと
貴方を愛せるわ」
外見とは裏腹に大人びた口調で話すジーン。両手を僕の首に回して更に身体を密着させてくる。
「愛せるって何だよ。はしょるなよ……それこそ論理の飛躍だろ」
僕は16の女の子と会話してる。頭で何度も反芻していたけれど、そこにいるのは少女の面影を
残した紛れも無い1人の女だった。
「だから運命よ!ウ・ン・メ・イ。英語でディステニィ……はしょってるんじゃなくて
率直なだけよ、若いぶんね」
 前方の信号が黄色から赤に変わった。
ゆっくりと車を鋪道の白線に沿って止める。
顔の前にジーンのつぶらな瞳があった。
上唇を齧るようにジーンの唇が重なる。
 舌がゆっくりと絡まる。確かめるように唇をなぞるジーンの舌が口中の僕の舌を求める。
ジーンの膝が僕の股間を刺激する。歯と歯が重なり唾液が交差し、一瞬離れたジーンの口元から
溜め息が漏れる。
 「アゥ、フウッ……」
折り重なるように僕に預けたジーンの肢体が僕の上で仰け反る。
 ジーンの舌が執拗に僕の顔中を這う。
ジーンの左手が勃起した僕のペニスをゆっくりと愛撫し始めた。
突然後ろでけたたましくクラクションが鳴った。
 信号はとうに青に変わり、バック・ミラーを覗くと何台もの車の列が出来ていた。
あわてて車を動かす。僕に被いかぶさったままのジーンの屈託のない笑い声。
僕もつられて笑ってしまう。
 耳元でジーンが囁く。
「ネッ、しようよー。トシアキの出っ張りとあたしの凹み、きっとピッタリだよ」
「ジーン、僕ら会ったばかりだよ」
ジーンの右手が僕の唇を塞ぐ。
「そんなこと、どうでもいい。キスでこんなに濡れたの初めて……ね、早くしよう」

 前方に満天の星空に輝く月のように、三日月の形に似たホテルがあった。
躊躇うことなく地下の駐車場に車を入れた。
そうする自分が何だか別人のような気がした。
「ネエ、運命を信じる?」
ジーンの甘ったるい声が僕の耳をくすぐる。
「運命なんて信じないよ、神様を信じないくらいに運命なんて信じない」
「でも身体は信じられるでしょ、トシアキの出っ張りこんなに欲しがってるもの」
駐車場からフロントに上がるエレベーターの中でもジーンは僕のペニスを愛撫し続けていた。
16才の女の子に手玉に取られている自分。
何だろナバコフのロリータって小説の主人公って幾つくらいだったっけ?
確か不思議の国のアリスのルイス・キャロルもロリコンだったとか……この場でも冷静に
なろうとする僕がいる。
 現実は非現実の前であっけなく崩壊する。ジーンは非現実の中の小悪魔として光り輝いている。
 僕の偲或なんかとは無関係にエレベーターのドアが開き、フロントマンの愛想の良い笑顔が
そこにあった。

3

 フロントでキーを貰い、ジーンに渡す。
「へえー、36階のスィート。ひょっとしてトシアキってお金持ち?」
「ジーンこそピンク・フェイスのロレックスだとかハンティング・ワールドのショルダー
だとか、とても16の女の子の持ち物って雰囲気じゃないよ」
「お互い様ね」
 フロントマンの訝し気な顔を尻目にジーンは堂々した足取りで僕の腕を取り、エレベーターに
即す。
「先に行っててよ、タバコ買ってくるから」
小首を傾げたジーンがじっと僕を見ている。
「何だよ、早く行けよ」
「トシアキ、まさかこの期に及んで逃げ出すとかしないよね。裏切ったら承知しないから!」
言いながらジーンがエレベーターに消えた。
ジーンの言った通りだった。この期に及んでも僕は迷っていた。
 セックスの対象としてのジーンは申し分なかった。
ジーンを可愛いとさえ思っている自分。問題は僕のちっぽけな倫理観、フェミニズム、そういった
ことが僕をこの場から立ち去れと命じていた。
 「運命を信じる?」ジーンの言葉が脳裏を過った。
こんな出会いじゃなかったら僕はきっと君を好きになってただろう。そして、都合のいい運命
に身を委ねただろう。もう一度言う、運命なんて信じたことなんて一度もない。
今あのドアから出ていけばもう二度と16才の運命論者に会うこともない。
 そして、いつもの退屈な日常に戻る、それだけだ。
結局僕はロビーのソファに座ってタバコを二本吸い、3611号室のチャイムを押した。
ドアが開き、バスローブを羽織ったジーンが僕にしがみついてきた。
「シャワーを浴びながら考えてた……来ないんじゃないかって……」
縺れながらベッドに倒れこんだ。
はだけたバスローブから弾けそうな乳房が覗いた。
「何でもするから、抱いて……お願い」
濡れた髪が僕の項をくすぐる。上気した素顔のジーンはまるで別人のように頼りな気で
少女のように思えた。
 薄いピンクのパンティをゆっくりと下ろす。
ペディキュアの剥げかかった足先から太ももに向けて唇を這わす。
盛り上がったカント、薄く疎らな陰毛、口元から溢れる吐息、全身を曝したジーンのフィギア
のように完璧な日焼けした肉体が僕の下で密かに呼吸していた。
ゆっくりと伸びをしたジーンの両足が大きく開かれた。
「やっぱり出来ない」
「パンツまで脱がしておいて、あたしに恥かかせるの……もう十分濡れてるっていうのに」
ジーンの右手が躊躇する僕を彼女の中へ導く。
それは、運命なんて信じない僕を信じさせるほど完璧に符号する肉体と幾度の絶頂感、
波のように押し寄せる快楽の渦をもたらし、僕らはその感触を何度も何度も確かめあった。

 「パパは弁護士、ママは画廊を経営してるわ。現代アメリカン・アートが多いの、ホックニー
とかバスキア、キース・ヘィリングなんかのリトグラフとかね」
 僕の腕枕に身体を密着させたままジーンは話し続ける。
「ミッション系の女子高よ。もちニー・ハイなんて絶対ダメ。紺のピタ靴下よ、頭髪も
うるさいし、スカートなんか定規で計るんだから……でも放課後はニー・ハイよ、もちろん」
ジーンの右手は相変わらず僕のペニスを握り続けている。
「忙しいパパとママにあたしはずっと放って置かれて机の上にはアメックスとメモがあったの。
好きなモノ買いなさいって……あたしの放蕩はきっとパパとママへの復讐だわ」
 しわくちゃのシーツに潜り込んだジーンの舌が僕のペニスを舐めはじめる。
勃起してゆくペニスを弄ぶようにジーンの唇の動きが激しくなってゆく。
 ペニスの上に被いかぶさるようにジーンが身を沈める。
僕の分身を抱いたままジーンが胸に顔を埋める。
「自分のこと、何も話さないつもり?」
僕の動きに合わせてジーンの眉間に寄ったしわが深く刻まれる。
 ビキニの跡を残したふくよかで弾力のある乳房が上下する。
「作家だよ、小説を書いてる。時々作詞もするし、シナリオも書く。明日の生活に困らないだけの
収入をそれで得てる」
「なんであんな時間にあんなとこにいたの?」
「別に、当ても無くドライブするのが好きなだけさ」
「もういい、黙って……イクッ、イキそう……オッパイを吸って、キス・マークが付く
くらい!」
お互いの息遣いが交差する。ジーンの括れた腰が僕の動きに合わせてしなやかなムチのように
うねる。
「中で出してもいいよ、ピル飲んでるから」
その言葉を合図に身体を反転させ、ジーンの両手を押さえ、更に激しく挿入を繰り返す。
 解き放たれた欲望がジーンの中に吸い込まれてゆく。
ジーンの弓のように仰け反った身体が小刻みに震える。
最後の一滴までも捕らえようとするようにジーンが力まかせに僕にしがみつく。
 激しく唇を合わせながら僕らはしわくちゃのシーツの海に身体を沈めた。
浅い眠りがゆっくりと僕たちを支配してゆく。薄いグレィの天井のスポット・ライトが
微睡みの中で遠のいてゆくのを僕は馬鹿みたいに見つめていた。

4

 僕の腕枕で優しい寝息を立てているジーンを起こさないようにサイド・テーブルのタバコに
手を伸ばす。
 肺一杯に吸い込み、天井に向けて吐き出す。機械的にその動作を何度も繰り返した。
何本目かのタバコをホテルのネーム入りの灰皿に押し潰す。
何をイライラしてる。そんな自分が堪らなく嫌だった。
 16の女の子に手玉に取られたことが僕の微々たる自尊心の欠片をチクチク刺していた。
はだけられたシーツからジーンの綺麗に日焼けした長い脚が覗いた。
張り詰めた乳房が軽い寝息と一緒に上下し、それに合わせて胸の谷間のクローム・シルバーの
十字架のネックレスが見え隠れする。
 素直に素敵だと言える肉体。ジーンは正に完璧な肉体だと僕には思えた。
そう、まるでフィギュアのように完璧だ。日焼けした肌と真っ白い乳房、ハート型の臀部が妙に
艶かしく、女であることを主張している独立したパーツのようだ。
 セックスの相手としては申し分のないくらい若く、素直で、正直な肉体。
挑発的でいて無垢な絶妙のアンバランス。
でも彼女は16で、ほんの数時間前までは全く僕の生活とは無縁の存在だった。
 この部屋でいったい何度果てただろう。
ゴミ箱には精液にまみれた僕の欲望を詰め込んだティッシュが溢れている。
 結局僕はジーンを抱き、そしてこの僕のエセ・フェミニストの部分が僕を自己嫌悪の渦に
巻き込む。
 どう弁解したところでこれは反社会的な行為だ。
例え合意の上であろうと16才とのセックスは不純異性交友、強制ワイセツ・・・あらゆる
罵詈雑言が僕に押し寄せる。
 いい歳をした大人が16才の女の子を抱くというのはつまりそういうことなのだ。
 そして、僕は、僕自身に開き直る。
セックスにタブー等無いのだと心のどこかで何もかも肯定するもう1人の自分。
 ネットを開けばそこはあらゆる欲望が黄河の逆流のように押し寄せてくるパンドラの箱。
人間の本質とはそんなものだ。もちろん僕も含めて、自分のセックスも他人のセックスも
セックスに関するあらゆることを誰もが覗き見たいのだ。
 「何考えてるの?」
「ああ、起きてたの」
潤んだ瞳で僕を見つめるジーン。僕は君をもう十分傷付けただろうか?
「あのね、1つお願いしていい?」
「ああ、僕に出来ることならね、As You Wish」
「とってもお腹空いたの……空腹で目覚めたって感じ。だからルーム・サービスでね」
「分かった。僕もなんだか腹が空いてきたから……」
文明とはかくも退廃に満ちている。僕の先程の懺悔はとっくに忘却の彼方だ。
受話器を取りながら僕は思う。この受話器の向こうには何もかもがあって僕の注文を待っている。
僕はその何もかもの中でいつか溺れ死ぬことだろう。
 文明とはそんなものだ。
 「元気だねトシアキのデッパリ。触ったらまたマッターホルン並み」
シーツ越しのジーンの愛撫。僕の勃起したペニスを口に包ばり、挑発するように見つめる
ジーン。
 36階のスィートから見える白み初めた横浜の街。
あの日いったい何度ジーン、君を抱いたのだろう。
 僕らはベッドの上に運ばれたメニューを野獣のように平らげ、ワインを3本開け、セックスし、
タバコを吸い、コーヒーを飲み、デザートのケーキをお互いの身体に塗りたくり舐め回した。
 そして、そう正に死んだような眠りに落ちた。

 『何処にいるの?』
携帯の呼び出し音で目覚めた。重い鈍器で殴られたように頭がボンヤリしている。
安住(あずみ)からだった。
『昨日は帰らなかったみたいね、誰かと一緒なの?』
辺りを見渡した。ソファに無造作に脱ぎ捨てられたバスローブ、ベッドの周りの迷子の子犬の
ような僕のパンツやシャツ。
『ずっと書けなくてさ、頼まれてた詞がさ、だから憂さ晴らしにずっと走ってた』
沈黙が過る。女は感が鋭い、安住は特に鋭い。
『今日、雑誌の取材あるのよ』
『ああ』
『もうお昼よ、事務所で待ってる』
『ああ』
 唐突に切れた。
母親の体内から急に引きずり出された気分だ。吐き気を催しバス・ルームに駆け込んだ。
吐きながら眼の前にある等身大の鏡が視界に入った。
ピンクのルージュのなぐり書きがあった。ジーンからだ。
 [トシアキのデッパリはアタシにピッタリで泣きたくなるほど気持ち良かった。
  TELしてね、ケイタイにアタシの番号メモっといたから   XENE] 

5

吉祥寺の駅から歩いて10分程のマンションの一室が僕の事務所兼生活の場となっていた。
学生の頃から付き合っていた妻と結婚。6年の結婚生活の後、離婚した。
離婚協議中から僕らは話し合って別居することになった。
下北沢の以前のマンションには妻がそのまま住み、僕は事務所として使っていたマンションに
居を移した。ベッドやバスルーム等、生活の為の道具は全て揃っていたからだ。
離婚してもう一年が立とうとしていた。
 北側の大きな窓のオフホワイトのブラインドの隙間から井の頭公園を望むことが出来た。
事務所で今日二度目のシャワーを浴び、服を着替え、マンションの一階にあるカフェで安住と
落ち合った。
 オープン・テラスから華やいだ女の子たちの笑い声が聞こえる。エアコンの効いた室内もほぼ
若い女性で占領されていた。
 「何飲んでる?」
「ミネラル・ウォーター」
安住はテーブルの上の豚みたいに太ったシステム手帳をクロスのボールペンで引っ切りなしに
コツコツ叩いている。
ウエイターを呼び、アイス・コーヒーを注文した。
「いい加減に馬鹿なこと止めたら……」
「馬鹿なことってどういう意味だよ」
「走り屋みたいなマネすることよ」
安住を乗せて湾岸を走ったことがある。安住がストレスで押し潰されそうだと言ったことが
あったからだ。
 じゃあストレス解消と行こうと嫌がる安住を車に乗せ、湾岸を250キロオーバー
で走り回った。安住の顔が恐怖で引きつるのにそんなに時間は掛からなかった。
それ以来、安住は二度と僕の車に乗ろうとしない。
「君は僕の些細な快楽をも否定するのか……僕は走り屋じゃないし、車が好きって分けでも
ない。ただ、バイクは危ないから乗っちゃいけないって言うから、E55なんて馬鹿高い車買って
安全に高速クルーズを楽しんでるだけだ」
「じゃあ、楽しみなさいよ。ただ確信犯みたいなことは止めてよ、馬鹿みたいなスピード出して
法律ってものがあるでしょ、いい歳して子供みたいに……法定速度で楽しみなさいよ」
 顔見知りのウエイターが躊躇いながら僕の前にグラスを置き、そそくさと退散する。
「法定速度に快楽なんてない! 僕は24時間あの薄暗い事務所の椅子に座りパソコンに
向かって孤独に怯えた兵士のように言葉と戦い、必死で何かを捻り出そうと努力している。
少し位いの法律違反が……」
「聞き飽きたわ、毎回同じ言い訳……そんなに苦労しても書けないんならモノ書き止めたら?」
 会話が途切れた。
元雑誌編集者の椎名安住(しいな あずみ)は、僕とは以前からの顔見知りだった。
僕が事務所を開くと言った時、マネージャーが必要でしょと言って勤めていた出版社を止め、
その日の内に履歴書を持って僕の出来たばかりの事務所にやってきた。
 僕は安住ほど有能でそつなく仕事をこなす人間を知らない。
そしておまけに飛び切りの美人だ。
 その日から安住は僕の愛人からマネージャーになり、僕らの身体の関係はきっぱりと途絶えた。
どう誘っても懇願しても安住は二度と僕とは性的関係を持たないと言った。
「女性誌の取材よ。直木賞2年連続候補作になりながらの落選についてコメント欲しいって」
「そんな賞なんかどうでもいいよ。こんなに僕の書いた本が売れるなんてたいしたモノじゃない」
「もうすぐ来るはずだからそう言いなさい。ベストセラー作家なんてうさん臭い奴ばかりだって」
微かな安住のコロンの香りが鼻孔をくすぐる。
その匂いが僕に安住との濃密な瞬間を思い出させた。
「もう時代を疾走する若き言葉を紡ぐものなんて讃美される時代はとっくに過ぎたのよ。
勢いだけじゃ直ぐに息切れして、飽きられて見捨てられるわ」
 エッジの効いた黒斑の眼鏡から覗く、何もかもみすかしたような切れ長の瞳。
クールで知的なその顔が豹変する瞬間。身体中の毛穴から湧き出る安住の匂いが好きだった。
「何、考えてるの?」
「君とのこと」
「あたしとの何?」
「君とのナニさ」
「バカッ!」

 退屈で在り来たりの質問しかしない新人の女性記者の取材は1時間程で終わった。
安住も今夜はデートだからとそそくさと帰っていった。
僕の前のパソコンのディスプレィは真っ白なままだ。
 時々夢を見る。干涸びた僕の脳髄が空っぽだと叫び続ける夢だ。
そして僕はその叫び続ける脳髄を抱えたまま底なしの闇に落ちてゆく。
落ち続け、地面に激突する瞬間はっと眼が醒める。
携帯のベルが鳴った。
 メールが入っていた。ジーンからだ。
『伝言見てくれた?
家に帰ってから裸のままベッドでずっとオナニーしてるの。トシアキとのセックス想像
しながらね、まだねアソコにトシアキのデッパリの感触が残っててね、触ったらヒリヒリ
するの。最近不感症気味だったからさ、またしようね XENE』
 ジーンと何をどう話したのか思い出せない。ただ彼女とのセックスだけが真実を語っていた。
フラッシュ・バックする記憶の断片の隅にジーンの左胸のホクロが鮮明に焼き付いていた。

6

パソコンの前でかなり粘ったけれど、空白は何一つ埋められず、近くのリストランテで
遅い夕食を取り、吉祥寺の駅とパルコを望むオフイス・ビルの13階と最上階のフロアを
占めるスポーツ・ジムに向かった。
 マシン・トレーニングを一時間程やり、上のプールできっかり1000メータークロールで
泳ぎ、弛緩した身体に入念にマッサージを施してもらった。
 落ち込んでいた気分が幾分和らいだ気がしたけれど、そんなものは気休めに過ぎない。
分かっているけれど、あの薄暗い事務所で悶々としているよりはましだ。
 少なくとも不健康に時間を過ごしてはいない。
駅前はこんな時間にも関わらず相変わらず人の群れでごった返している。
 にわか雨に所々で傘の花が開いた。
窓ガラスを打ち付ける大粒の雨が額を垂れる涙のように見えた。
 今日も誰かが泣き、誰かは恋に落ち、失恋し、誰かが死ぬ。
あの蟻のように群がる人々のそれぞれに1つ1つ人生があって、僕はこうしてジャグジーに
浸かりながら傍観している。
 なんと不遜な時間を過ごしているのだろう。
売れない頃、あの東雪ケ谷の4畳半のアパートでその日の食い物さえなかった飢えは、今は
もうない。けれど、パンドラの箱の中には希望がぎっしり詰まっていた。
 安住にあった頃、創作の原点は何かと聞かれ劣等感だと答えた。
そう結局僕は馬鹿にされたり、無視されたり、けなされたり、ふられたり、そういった総ての
僕に関わりの合った人たちを見返してやりたい一心で小説を生み出していたのだ。
 僕のもろもろの劣等感を抉り出してくれたかつての友人や恋人や両親や愛人に向けて書いて
いる。しかし、今のこの閉塞感はいったい何処からくるのか……。
明日の生活を危惧することなど無くなった今、僕は創作する気力さえも失っている。
 書いていてもそれは誰かの為じゃない。生活の糧の為に書いている。
それは、嫌いな仕事だけれど生活の為と割り切ってしているようなものだ。
何かが壊れかけていた。
 それを必死で堪えているもう一人の僕がいた。片隅で微笑んでいる死を意識しなければ生を
感じられないほど何時の間にか心が病んでいた。
 ジーンとのセックスは僕にこの閉塞感からの出口、マッチの先ほどの希望を与えてくれた。
その奔放さに救いを求めてみたい。この今を吹っ切るために……。
 ジーンは僕を引き戻してくれるだろうか? 生への執着を取り戻す何かになってくれるだろう
か? たった一度寝ただけの女の子なのに僕も彼女のように運命論者めいてきている。
 この星の60億分の2人なのだろうか?
誰かに媚びたことなど一度もない、それだけが僕の守るべきものだ。
自分の才能を信じていた。根拠のない自惚れ、それこそが僕の支えだった。
けれど一端のモノカキになった今、僕は総てを失くしてしまったように思える。
この喪失感を埋めてくれるもの……それがジーンとの出会いだとしたら正にそれが
運命だ。

7

 彼女に会ったのは偶然だった。
南青山のホンダのウエルカム・プラザの入ったビルの近くにその画廊はあった。
30階建てのオフイスビルの一階の壁面に瀬能画廊と書かれた小さなプレートだけが唯一
そこが画廊であることを明かしている、そこを知らなければ気付かないほど目立たない作り
の素っ気無いプレート。そして、裏通りに面した南青山とほ思えない程静かな街路。
 ある女性誌の依頼で僕は話題のその画廊の主人にインタビューすることになった。
真夏の強烈な日差しがアスファルトを照りつけ、東京は午前中には既に30度を超える猛暑
になっていた。
 その画廊のドアを開け、中に入ると一気に汗が引いた。適度に効いたエアコン、真っ白な
壁、天井、至る所に置かれた大鉢の観葉植物が涼し気に揺れ、まるで南の島にあるホテルの
ロビーを連想させた。
 どうやらホックニーがメインの時期だったようだ。このシンプルなインテリアもそれに合
わせたものなのかも知れない。
 奥の部屋にはシャガールやモネの小品など、趣味のいい絵画がたっぷりとしたスペースを
取って飾られている。

 
シックな黒のスーツを着た若い女性にオーナーにインタビューの旨を告げた。
 「お待ちしておりました。瀬能画廊の瀬能萠(せのうきざき)と申します。どうぞオフイス
の方へ」
 強烈な印象だった。この長身の若い女性が今話題の画廊のオーナーだったなんて。
安住にいっぱい食わされたようだ。
 瀬能画廊のオーナーは品の良い口ヒゲ生やしたオジサンだと言っていたからだ。
彼女に案内されながらその顔だちに見覚えがあった。
 間違いない、確信が過る……目鼻立ちがジーンを連想させた。
ジーンの言葉を思い出していた。「パパは弁護士、ママは画廊をやってるの……」
彼女の母親だとしたらもう40近いかそれ以上ってことになる。
 そうは見えない容姿……背筋を伸ばした足取り、パンプスを差し引いてもかなり
背が高い。ストレートに肩まで垂らした黒髪が彼女を一見少女ようにも見せていた。

 
ガラステーブルを挿んでカッシーナの年代物の皮のソファに座った彼女と向き合う。
秘書らしき女性がコーヒーを僕らの前に置き一礼して出ていった。
「どうぞ、お口に合えばいいけれど……」
間違いないジーンの母親だ。切れ長の二重、鼻筋、生意気そうに少し突き出した唇、どれもが
ジーンと良く似ている。
「先ほどは失礼しました。エル誌の特集でインタビューさせていただきます筧(かけい)と
 申します」
「存じております。うちの娘がフアンですの、何冊か筧さんの著書娘の部屋で見かけました」
 僕のフアン? そうかジーンはもうとっくに僕の素性に気付いているのか。
 僕の携帯に自分の番号をメモリに入れたとあのバス・ルームの鏡に書いていた。
 
「娘さんがおられるんですか……お幾つくらいですか」
「16才、来月誕生日で17になります。私立の女子高に通っております」
「とってもそうは見えない、高校生の娘がいるようには・・・・・・」
 瀬能萠は含み笑いを浮かべ、優雅な手付きでタバコを取り、軽く煙りを吐き出した。
黒のストッキングに包んだ脚を組み直し、僕を見つめる挑むようなその瞳は、あの日の
ジーンの瞳そのものだった。
「今、最も注目される女性オーナー10人の素顔という特集なんですが、画廊を始められた
きっかけからお伺いします」
 「主人の趣味と私の趣味で集めたポスターやリトグラフや絵画を見ていただきたかった
 だけですの、それにこの画廊のオーナーは主人で私はここの雇われ社長ですの」
「しかしですよ、画廊を始められて数年でこの業界ではトップの地位におられる分けですから」
「たまたまでしょ、お客様は主人の関係の方ばかりですし・・・・・・・」
「では、質問を変えて・・・アメリカン・アートが多いようですが、どちらの御趣味ですか?」
「主人ですの、エール大に留学している頃はカウンター・カルチャーのまっただ中でしたから」
「それでウオーホールからホックニー、そしてバスキアですか?」
「バスキアは仁美です。仁美の趣味なんです・・・すごく敏感な子なんです。絵や小説や音楽
なんかを直感で判断するんです。彼女がいいと言えば大抵は主人も私も納得しますもの」

 インタビューを終え、青山で安住に拾ってもらい一緒に事務所に戻った。
MDに取ったインタビューを安住に起こしてもらう。静かな室内に安住のキーボードを叩く音
だけが響いていた。

 事務所に不釣り合いな巨大なアメリカ製の冷蔵庫を開け、内ドアに並べられた缶ビールを
安住に投げた。絶妙のタイミングで安住がそれをキャッチする。
 眼と眼で合図しながらプルトップを勢いよく開け一気に飲み干す。
二缶目を投げる。
 もう何年も繰り返されたお馴染みの動作。昔はビールを飲み、仲良くシャワーを浴び、
身体もふかず、ずぶ濡れのままベッド・インしたっけ。
 付き合っている間も今も彼女は僕の為に自分の時間の大半を費やしている。
永い付き合いだって言うのに安住の感情を露にした姿を見たことがない。 
結婚したいだとか別れるだとか。いや、僕が何も言わないからか、妻と別れる時も「貴方の
好きにしたら」と一言、言っただけだった。
 一度だけそう一度だけ僕の前で泣いたことがあった。妻と別れる前だ。
彼女の誕生日の日、僕は彼女の好きな薔薇の花束とケーキを用意した。
 妻は実家に帰っていて、確か単身赴任の妻の父が久しぶりに赴任先から帰って来るんで
家族が集まるってことで、僕も誘われたけれど仕事が推してるってことで断った。
だから、その日は前々からの約束で安住と事務所に泊まるはずだったのだ。
 安住は嬉しそうにケーキのロウソクを吹き消し、シャンパンで乾杯し、ソファでくつろい
だ頃、事務所の電話が鳴った。妻からだった。
実家で母親と喧嘩して帰ってきたのだと言う。
お腹が空いたので仕事が遅くなってもいいから何か買ってきて、そうだお寿司がいいだとか
何とか言って電話を切った。
「ご免、ルイからだった。帰らなくちゃ、ご免安住」
あの時の安住の哀しい瞳を僕はきっと忘れられないだろう、永遠に・・・・・・。
「どうして謝るの!いつだってアナタはちゃんと帰る、あたしがどんなに思ってもね」
「ほんとにご免」
「謝らないでよ!惨めになるだけだから、謝らないでよ」
感情を面に出し、耐えていた涙を見せたのはこの時が最初で最後だった。
もう遠い過去の心に刺さったままの記憶……。


 「デートはどうだった?」
「どうだったって……何よ」
「だから、楽しかったかってことだよ」
安住が気だるそうに頭をもたげ、僕を見上げる。
「何それ! カケイらしくない、自分の方に向いてないと感じたら……急に嫉妬?」
「何だよ、そっちこそ、安住らしくないよ。僕はただ安住のこと……」
「楽しかったわ。これでいい?」
「素っ気ないな……なんだか僕の知ってる人だったりして?」
「馬鹿ッ!女友達と飲んでただけよ。カケイも知ってるでしょ、カオリよ」
「安住のことだから女だけで飲んでたんなら声掛けられたろ?」
「今日のカケイ、しつこい。酔っ払ったの?それとも何か魂胆でもある?」
酔っ払っていたのかも知れない。缶ビールの潰れた数だけ嫉妬してたのかも知れない。
安住の見えない感情の糸に……。
「男だもの、魂胆くらい何時でもあるよ。愛し合ったベッドも隣にある」
「何言ってるか自分で分ってるの! ここはあたしの仕事場でもうカケイはあたしの雇い主
 でしかないの。カケイのこと好きよ今でもね、でもあたしはふっ切ったの。あたしと寝たい
ってのカケイのエゴよ、いつもそうカケイはエゴ丸出し!」
「ヒドイこと言うな。そう、その通り僕はエゴイストの固まりです!」
思わず叫んでいた。そう僕は君を何度も、何度も、何度も、傷付けている。
安住は僕の言葉が合図かのようにその胸に僕を抱きしめ、耳もとで囁いた。
「カケイ、疲れてるのよ。あたしがカケイをそんな気持ちにさせたんなら謝る。だからね、
そんな素振り見せないでね、お願いだから、あたしにとってカケイは大事な仕事上の
ほんとに大事なパートナーなんだからね」
安住に抱かれながら僕は安住のブラウスのボタンに手を掛けていた。
 「カケイ!無くしてもいいの……大事な、大事なパートナーを……」
そう、この日僕は誰よりも僕の事を思ってくれる大切なパートナーを危うく失うところだった。
安住の抵抗は言葉とは裏腹に弱まっていく。
ブラジャーをずらし、つんと張った乳首に唇を這わせた。
安住の口から押し殺した吐息が洩れた。
安住の言葉に僕は正気に帰った。
「声掛けられたわ、ナイス・ミドルのオジサンにね。朝までずっとホテルにいたのオールでね、
Hしてた。だから染み付いてるよ身体に……それでも、抱ける?あたしを」
 惨めだった。僕は君を傷付けることでしか君の想いを確かめられないのか?
それでも安住はしっかりと僕を抱きしめ、僕が苦い眠りに着くまでずっとその姿勢を
崩さなかった。

8

 『なぜTELくれないの?』
ジーンからだった。
『ああ、忙しくてね……電話しようと思ってたんだけれど』
『寂しくて浮気しちゃったじゃない』
声が泣いているように震えていた。
『誰かと一緒なの?』
『今は独り、だからきて! 直ぐよ』
『何処にいるの?』
『トシアキとHしたホテル……同じ部屋』
通話が途切れた。車のキーを掴み地下の駐車場に急いだ。何だか胸騒ぎがした。
声の震えが気になっていた。

 インターコンの3611号室のベルを押した。ドアに耳を当て中の様子を伺う。
静けさが恐怖を掻き立てる。強く何度もチャイムを鳴らした。
7度目でドアが開いた。両手をストッキングで縛られた素っ裸のジーンが僕の腕に倒れこんで
きた。
「ジーン!!どうしたの、大丈夫?」
「心配した?ねえ心配した?」
うわ言のように呟くジーンを抱えてベッド・ルームに運んだ。
ベッドに寝かせ素っ裸のジーンにシーツを掛ける。灰皿には溢れそうなほどのタバコの山。
 誰か、男と居たことは間違いなかった。それとも女か?

 片方のベッドにはアダルト・グッズの類いが無造作に置かれていた。
バイブとか鞭とかそういった類いのものだ。
両手のストッキングをゆっくり外した。縛られた痕が赤く残った手首を馬鹿みたいに摩っていた。
シーツから覗く右足にはオモチャの手錠が掛けられていた。サイドテーブルに白い錠剤が
何粒か残っていて、どうやらそれを細かく砕いて飲んだのか、
 あるいはスニッフしたのか、場違いなストローが転がっている。
「ジーン!眠るなって……何か飲んだの?」
「リ・タ・リ・ン……スニッフしただけよ」
「ジーン、寝るなったら!リタリンって、どうしてそんなクスリ持ってるの?」
「あはは、今日の相手がお医者様だったからよ……60のインポのオジイチャン」
「で、そのジイサンとここへ?」
眠りに落ちようとするジーンの顎を掴み、何度も揺すった。
「トシアキがTELくれないからよ、ここに来たかったの。でもね、来てみてね、いつものように
あたしを縛って……ずうっと触るだけなのアソコを、ピンクローターとかバイブとか
であたしがイクのを見るのが好きなのよ。気のいいオジイチャンなの」
「なんでそんなジイサンと寝るんだ」
努めて冷静さを装おうとしていた。
声を荒げてジーンを叱責しようとしてる自分が情けなかった。僕も君を傷付けている、その
意識が重くのしかかってきていた。
 自分への怒りの鉾先をジーンへ向けようとしていた。
「だってこんな高いホテル一人じゃこれないもの、やらしいポーズしてデジカメで写真取らせて
上げたらお金いっぱいくれるしね……でも、今日はイケないの、どんなにアソコをバイブ
とかで攻められても全然グチョグチョにならないもの」
ソバカス顔のあどけないジーンの口から吐き出された言葉には何のてらいも装飾も微塵も
なかった。
 有りのままの事実を有りのままに受け入れろと言っているように聞こえた。
「で、聞かれたの。誰か好きな人ができたのかって、いつもならシーツがベトベトになるくらい
濡れるのにって……虐めるの、それで意地になって触るから、濡れてないから痛いって言って
なんだろ、痛いのとか、色んなことで、それで涙が出てきて、もうこんな関係やめようって言っ
たの。すごく寂しいって、窓ガラスに写ったあたしの格好がすごく寂しいし、オジイチャン
の裸の痩せこけた姿も寂しいって言ったの」
 うわ言のように喋り続けるジーン、剥げた口紅、散乱したジーンの下着、足首の手錠、そのど
れもが非現実的で悪夢の中で溺れまいと必死で何かにすがろうとしているようだった。
「オジイチャンずっと自分の萎んだペニス見てた。で、泣くのよ。あたしのこと失いたくないっ
て呪文みたいに何度も、何度も、失いたくない、失いたくないって……気がついたら真っ暗
な中にいて……寂しくて、恐くて……クスリ欲しくって、両手縛られてて……」
ジーンの顎を掴み思いきって咽の深く指を突っ込む。
 ジーンの身体を支えながらバス・ルームの便器の前に半ば強制的に座らせた。
我慢しきれずに便器に突っ伏したジーンの背中が震えた。胃の中の大半を吐いたようだ。

 シーツに包まって眠り続けるジーンを見ていた。母親の胎内から生まれることを拒否している
胎児のようだと思った。
 16才のソバカス顔の女の子の16年の日々。いったいどんな日常を過ごしたのだろう。
彼女のセックスの奔放さはあの貞淑そうに見える母親の血なのか?
本当に両親への復讐だけなのか?無垢であどけないジーンの寝顔にはホテルでジイサンに抱かれ
る猥雑さは微塵も感じられない。
 寝返りをうった拍子にジーンのハート型の臀部が剥き出しになった。
薄い陰毛に顔を埋める痩せこけたジイサンと自分が重なる。
何も違わない。どんなに弁解してもジーンを傷付けていることに変わりはない。
 タバコを持つ指が震えていた。
ジーンが薄目を開けて当たりを見回していた。
「起きたの?」
「あらあ、トシアキ?どうしているの」
ベッドから這い出し僕の座っているソファに近付いてくる。
寝癖のついた髪、豊満に隆起した乳房、括れた腰、長い脚、足首のピンクの手錠、
猥雑なビーナスが眠りから醒めた。
指定席のように僕の横に座り飼い犬のように胸に顔を埋める。
「憶えてないの……ジーンが携帯に……」
「難しい顔して……何考えてた?」
「さあね、ジーンの裸見たら忘れちゃったよ」
「あたしもタバコが欲しい」
新しいタバコに火を着け、ジーンに渡す。
「フゥー……」
ジーンの吐き出した煙りがダウンライトの淡い光に溶けてゆく。
イヴニング・シャドウに縁取られた顎にジーンの細くしなやかな指が伸びる。
「トシアキの匂いが好き」
「僕のことどこまで知ってる?」
「カバーの裏に著者近影ってあったわ」
「初めから知ってたの?」
「車でトシアキを見た時から……」
「僕と会ったこと、まだ運命だと思ってる?」
「本読んだの。こんな本書く人ってどんな人だろうって。近親相姦の話しだったわ。
 会いたい、会いたいって神様がいるんなら会わせてって……キスしてくれないの?」
「少し話ししようよ、ジーンのこと教えてよ」
「寝ようよ、お喋りはいらない。言葉よりずっと早く分かりあえるよ」
「嫌、今日は君を抱かない。これからも君を抱くべきじゃない」
不思議そうに見つめるジーン。16才の卑猥なエンジェルは更に僕にその身体を押し付けてくる。
「どういう意味?」
「君を傷付けてるって意味だよ、身体に惹かれて欲望のまま君を抱いたらジイサンと同じだ」
「分かんない、言ってることが……トシアキのこと好きなの。会いたかったの、したかった
 の、それじゃいけないの?」
「そう思ほど若くないってことさ、君より16年長く生きてる分だけね」
「分別臭い大人みたいなこと言うつもり?ガキ扱いして遠ざけるつもり?」
 そう僕もいつの間にか僕が最も嫌っていた分別のある大人って奴に成り下がっている。
「君が好きだよジーン。僕が君を抱けないのは……僕の問題なんだ、君のせいじゃない」
「もう決めたの?セックスしないって……」
「ああ、たまには分別のある大人って奴の役がやりたくてさ」
「あたしの裸を見てもしたくない?」
挑発するジーンの瞳……右の耳の四つのピアス、ウブなソバカス顔。
「好きな子とは簡単にセックスしちゃいけないんだ」
「好きだからするんじゃないの?」
「そう、君よりほんの少しだけ複雑なんだよオトナはさ」
「こないだのセックス……何回もイッて、トシアキの出っ張りピッタリなのに?」
「ああ、ジーンの凹みも僕にピッタリさ」
「それでもしないんだ?」
「ああ、それでもしない」
「やっぱり運命でしょ?」
「今では信じたくなってるよ僕も。ジーンに会えたのは運命だって」

9

 「君のママに会ったよ」
「そう……」
「雑誌社の取材でね。青山の画廊で君のママにインタビューした」
「ママ元気だった?」
「一緒に住んでないの?」
「寮なのようちの学校、全寮制なの。家が近い子は週末外泊許可取って帰るけれど、
最近帰ってない」


ジーンを乗せて湾岸を走るのは2度目だった。ウインドウをほんの少しだけ開けてジーンは気持ち
良さそうに微風を楽しんでいる。
「綺麗な人だね、キザキさんって言うんだ」
「ねえ、寮に着くまで寝てていい? 知ってるでしょ杉並のSt・F・女学院よ」
「ママのことは話したくないんだ?」
「もう知ってるでしょ!肩借りていい?」
「ああ」
 肩にもたれたまま、ジーンの右腕がマイクロ・ミニのスカートを託し上げ、露になった
 白いショーツに吸い込まれた。
「オナニーって大好き・・・・学校サボって一日中ベッドでオナニーしてるの、身体中のね、
毛穴から発情した匂いに包まれるよ。大好きよあたしの発情してる匂い……」
「なんだよ、挑発してるつもり?」
「成人君子ヅラしないでよ!ガキ扱いして……フウッッ」
 僕の耳もとにジーンの吐息が掛かる。シート・ベルトを掴むジーンの左手の指に力が入った。
仰け反ったジーンの胸の隆起が素敵なシルエットを描いた。
なんだろ、僕はハンドルを握っていたこともあるけれど、素直にそんなジーンを眺めていた。
 素敵な絵を見るように眺めていた。
 満足したのかジーンはそのままシートの上にうずくまる格好で軽く寝息を立てはじめた。
結局僕はタバコを吸うことも出来ず、露になったジーンの下半身を隠してやることも出来ず、
学校の寮に着くまでの長い時間を過ごした。

 「ジーン着いたよ。ジーン、起きろよ」
有名な私立のお嬢様学校F・女学院の正門前に車を留めジーンに声を掛けた。
 既に深夜2時を回っていた。
蔦がビッシリと絡まる高い塀で被われたそこはまるで人を威圧する荘厳さでせまっていた。
「ダメよ、裏に回ってよ、守衛に見つかるじゃない!」
眠そうに眼を擦りながらジーンが言った。
「ああ、ゴ、ゴメン」
何で僕が謝らなきゃいけないと思ったけれど、このシチェーションは見つかると僕にとっても
不味い。
ゆっくりと車を動かす。ヘッドライトを消すと夜の闇が辺りを支配した。
ジーンが携帯で誰かと話している。
「マー、裏門開けてよ……うん、うん分ったちゃんとクレープ奢るからさ、早くね!」
「同室の子? いつも週末はこんな時間まで遊んでるんだ」
「何?説教……もうTELしない方がいいの?」
「説教なんかするつもりはないさ、たださ……いいとこのお嬢さんがさ放蕩の限りを尽くして
ママが悲しむだろ」
「やな大人の役やってれば」
「何をしようとそれはジーンの勝手さ、ジーンの人生だもの。たださ、取材で十代の女の子と
話すとみんなステロ・タイプのように同じイメージを追っ掛けてるからさ、経験だけは豊富
だけれど全部それは上辺だけで何も分ってないってのが多いから」
「それって詭弁って言うのよ。あたしたちを一派ひと絡げで括りたいのは大人の方でしよ、
あたしは自分のしたいように、自分に正直に生きてる、それだけよ……」
暗闇の車内で僕を見つめるジーンの瞳と重なる。
 抱きしめたら思いは伝わるだろうか?
ジーン君を幸せにするには僕は何をしたらいい?
ソバカス顔が近付いてくる。こんなにあどけない素顔を、心を、無防備に曝してるっていうのに
僕は君に嫌な大人に成り下がって分別くさい説教を垂れるしかできないのか?
 突き出したピンク色の生意気そうな肉厚の唇。
僕の上唇をジーンが齧った。
 触ると指にほんの少し血が滲んだ。
ジーンの舌がその唇に滲んだ血を優しく舐める。
 ジーンの生き物のような舌が僕の歯をゆっくりとなぞる。それが合図かのように僕らはヘビィ
なキスを交わす。唾液が混じりあい、舌と舌が絡まり、お互いを吸い付くすようなキス。
思わずジーンを抱きしめていた。
「僕は何をしたらいい?」
「……ア・イ・シ・テ・ク・レ・ル?」
 僕の耳もとで区切られたその言葉はずっと木霊のように僕の中で響いていた。

車の駐車灯の明かりに照らされて裏門がほんの少しだけ開き、人陰が見えた。
「マーが手を振ってる。行かなきゃ……」
「ああ……」
「また会える?」
「分別くさい大人は嫌いだろ?」
「この次会うまでその唇の痛みであたしを思い出してね」
言うなりドアを開けジーンが裏門に掛けてゆく。
ヘッドライトをつけると大きく手を振るジーンの後ろ姿が一瞬暗闇に浮かび上がり、巨大な塀の
中に消えた。
 僕は何故だか不思議の国のアリスの冒頭を思い出していた。
 急いでいるうさぎの後を分けも分からずくっついて穴の中へ入っていったアリス。
深く暗い穴の中で僕は確かに聞いた。
「ア・イ・シ・テ・ク・レ・ル?」

XENE(ジーン)

筧 俊明 (カケイトシアキ) 売れっ子の作家
瀬能 仁美 (セノウ ヒトミ 愛称 XENE)

椎名 安住(しいな あずみ)腕利きの元編集者 今は筧のマネージャー


瀬能 萠(せのう きざき)XENEの母

XENE(ジーン)

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2012-03-23

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著作権法内での利用のみを許可します。

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