たまおくり

 片櫛(かたくし)という村に、ひとりひっそり日を暮らし、川ばかりながめる子どもがおりました。
 かれに母はありません、ずっとまえにいかだで遠くへ行きました。かれには父もありません、母とおなじように遠くへ行きました。
 この村の大人は時が来るといかだに乗って川を下って行ってしまうのです。
 残されたものたちは、いつか自分にも来るであろうお迎えを待ちながらぼんやりと日を送ります。

 川ばかりながめる子どもは、畑仕事が好きでした。朝まだき太陽が山の向こうで支度をしている時刻、かれは寝床からすべり出て鎌と桶とを手に家のそばの川へ下ります。
 色も形もあいまいに溶けるうす闇の河原で水を汲み、白い息を吐き吐き畑へむかうのです。
 
 朝露をふくんだ黒い土はふかふかとしてほんのりあたたかく、鼻の穴を詰まらせるような重くしめったあまずっぱいにおいを発しています。このにおいがかれの好きなもののひとつです。

「朝早くから畑仕事とは、おまえはほんとうに土が好きだな」
「ああ兄ちゃん、みよの風邪は治ったの」
 近所に住む青年と話をしながらも、かれは草刈りの手を止めません。この青年は昔からかれのことを気にかけてくれる、親代わりのような人です。
「もう元気さ。おまえ、夕飯はうちで食えよ」
「はいよ」
 昼ごろまで畑仕事をこなし、かれは山へと登ります。

「待たせた」
彼の声を聞いて、切り株に腰かけた少女がぱっと顔を上げます。

 かれにとって山のむこうは片櫛の外がわでしかなく、そこにも同じように村があり人がいるとはおもってもいませんでした、この少女に出合うまでは。

「山のむこうはあの世だって聞いていたのに。あなたは死人なの」
「なんだそれ」
「死んでいるの」
 はじめて会ったとき、少女はいきなりこう言ってかれのことをまじまじと見つめました。かれと同じぐらいの年ごろのおかっぱ頭をした少女です。

「死ぬってどういうことだ」
「生きていないっていうこと」

 かれには少女の言っていることがよくわかりませんでしたが、ふっとおもいうかんだのはいかだで川を下っていく父と母のすがたでした。

 それからかれは村の他の人びとのすがたをおもいうかべました。みな消えた家族のもとへ行く時を待つ日々に満足し、畑仕事にもそれほど真剣には取り組みません。あれは生きているといえるのでしょうか。ただ、まだ死んでいないというだけのようにもおもえます。

「おれはみんなとはちがうよ、生きているんだとおもうよ」
「へんなの」
 少女はころころ笑ってかれに手の中の花を放りました。どこにでも生えている地味なドクダミの花です。

「花ばっかりそんなにあつめてどうするんだ」
「押し花にするの、かわいいじゃないこの花」
「へんなやつ」

 ふたりはそれから毎日のように山で遊ぶようになりました。山の中にはおもしろいものがなんでもあり、飽きることはありません。
 少女は猟師をしている祖父と二人きりで暮らしていると言いました。この古物(ふるもの)山は少女の村ではあの世とこの世の境の山と呼ばれ、みだりに立ち入ることはゆるされていないのだそうです。

「行ってみたかったの、あの世」
 ある暮れ方、上ってきたばかりの宵の明星をながめながら少女はまじめな顔で言いました。そのころ少女の祖父は体調をくずして寝床を出られないほどでした。

「でも山のむこうにあの世はなかった。父さんと母さんはどこへ行ったんだろう」
「おれの父さんと母さんは川を下って行ったよ」
「それで川はどこへつながっているの。わたしは死んだ人のたましいの行き先を知りたいの」

 少女の問いにかれは答えることができませんでした。川は広く深くどこまでも遠くへと流れていくのです。その先になにがあるのか考えるたび、かれはなぜかむねがざわざわとしてじっとしていられなくなりました。
 
 七日後、少女はついにひとりぼっちになりました。祖父の墓は村人の手で山のふもとにつくられましたが、少女は祖父の死を受け入れることができませんでした。
 家から出ることもせずに泣きつづける少女を、かれは真夜中に迎えに行き、こっそり自分の家へと連れ帰りました。

 ふたりは共に畑仕事をし、共に山を駆けて大人になり、夫婦となりました。ふたりのあいだには男の子がひとり生まれました。

「呼んでいるんだ」
「だれが」
「川を下っていったみんなが」
 かれの子どもが六つになるころです。かれの親代わりをしてくれたあの青年がそのようなことを言いはじめ、昼も夜も河原にたたずんで空をながめるようになりました。

「おまえにもそろそろ聴こえるはずだ。ほんとうはずっと前から響いていたのに、子どもは土に近すぎて空の声が聴こえないんだ」
 かれには夜の静けさと田の蛙の鳴く音のほかにはなにも感じられませんでした。
 大切な人の聞くものが聞こえない、というささいなようで大きなちがいはかれにとほうもないさびしさと焦りをもたらしました。

「奥さんもみよもいるじゃないか。兄ちゃん、行っちゃだめだよ」
「娘のことはどうか頼む。妻はもう、聴いているんだよ。おれたちはたぶんふたりで行く、いや行くんじゃない、帰るんだ」
「どこに」
「ふるさとに」

 ふるさと、という言葉はかれのむねにもなぜかしっくりとなじみました。この村で生まれ育ったはずなのに、どこかが恋しいというおもいが湧き上がってきたのです。
「いつかいかだで帰るんだから、つながりなど持たなければいいのにな。おれたちはさびしさに耐えられないで恋をして子をなしてしまう。子らにもいつか同じさびしい思いをさせるというのに」

「ふるさとへ行ったら、みんなに会えるのか。しあわせなのか」
「自分が自分でなくなるのさ。みんなふるさとではひとつになるようだ。それがしあわせかどうかおれには分からない。でも、帰らなくては」

 月のない夜、かれはとなりの家の戸が開くのに気がつきました。黒の地にうっすらと青い膜が張ったような半透明の空には、星々がいっぱいにひかっていました。きらめく銀河を映した川面に、まっしろないかだがひとつ浮かんでいます。
「兄ちゃん、行かないでくれ」

 かれはかつて親を引き留めようとしたときのように、青年に追いすがりました。そして青年のからだがすかすかとしてまるで重さを感じさせないことに気が付きました。
「おまえのからだは土をふくんで重たいから、帰るまでには時間がかかりそうだね」

 青年はかれの手をそっとはずすと、妻の肩を抱いていかだへ乗りこみました。力ずくで引きもどせば、青年がばらばらにくだけてしまいそうで、かれにはもうそれ以上引き留めることができませんでした。

 白銀のいかだはかがやく川を下っていきます。それをだまって見送りながら、かれはこの川のそそぐ先を知ったような気がしていました。
 ふと気がつくと、かたわらに自分の妻がいます。彼女は少女だったころとおなじまじめな顔をして、かれの手を強くにぎりました。

 その次の夜から、かれはかすかな歌声を聴くようになりました。それは確かにかれを呼ぶなにものかの声です。

「みよちゃんのおとうさんとおかあさんは」
 かれの息子が舌足らずにたずねます。

「遠くへ行ったんだよ」
「お父さんも行ってしまうの」
 かつて、自分もまったくおなじことを親に問うたと、かれはとつぜん思い出しました。
 そのときふたりはせつなそうな顔をしてかれのことを抱きしめるだけでした。

 今ならかれにも親の気もちがわかります。望郷の念は歌を聴くたびに耐えがたいほど強くなっていくのです。帰りたい帰りたいとからだぜんぶが歌に共鳴するようでした。
 息子の目にはかれの顔もせつなそうに見えているにちがいありません。

「父さんは、土がすきだ。土を耕すのがすきだ。田がすきだ、畑がすきだ。生きるのがすきだ。すきなものと、すきな人たちにかこまれて生きるのがすきだ」
 息子と妻を交互に見ながらかれは自分に言い聞かせるように言います。

「片櫛のものはみな心の底でふるさとを恋しくおもっている。けれど帰ってからも、どうせ帰るならなにも愛さなければよかったと、子をなさねばよかったと嘆いている。まるで生きること、生をつないでいくことが罪かのように、くりかえしを終わらせろと歌って子孫たちを呼びもどそうとしている」

 月の光が戸のすきまからさしこんで、鍋の影をくっきりとかまどに映しました。妻はその前におたまを持って立っています。立ちのぼる湯気が夕ご飯の味を保証しているようです。
 おたまで鍋の中をかきまわすと、よく煮こまれた蕪が琥珀のように深くあまくとろとろと光を反射しました。

「でも父さんは、生きることがまちがったことだとはおもえないんだよ。いつか死ぬその時まで、おまえたちと土の上で生きていたいよ」

 かれは日に日に大きくなっていく呼び声をなるべく聞き流すようにして畑仕事に取り組みました。手のひらにしみこんだ土のにおいがかれをこの地上へと強くむすびつけてくれます。
 そうして年月が流れ、かれは初老にさしかかり、かれの息子は青年となってみよと恋をしました。
 かれと妻は息子たちをほほえましく見守りながら、共に畑仕事をし、共に山を歩きました。

「あなた、あぶない」
 山を下る途中で木の根につまずいたかれは、かたわらの妻に支えられ、その瞬間妻の顔がひきつるのを見ました。
 もうだいぶ前からそれは始まっていて、もはや取り返しがつかないほど進行していたのです。
 かれのからだは中身がないかのようにすかすかとして、すっかり軽くなっていました。

 そしてその晩は新月でした。

 片櫛村は山むこうとも親しく行き来するようになり、嘆き歌を聴く人はだんだんとすくなくなっていきました。何世代もの別れを経てようやく人びとは死を知り、この地をふるさとと定めて生きていく覚悟ができたのです。
 その晩におとずれたいかだは、だから最後のいかだでした。

 かれの家の前に停まった時、いかだにはすでに数人が座っていました。
「帰ろう、おれたちが嘆き歌を聴いた最後の子孫だ」

 かれは妻のほうを振り返って家からろうそくを持ってくるようにたのみました。不安でいっぱいの表情をした妻がろうそく立てごと持って駆けもどってくると、かれはそれをいかだの上の男にわたしました。

「どうかこれをふるさとへ」
「あんたはどうする」
「おれはここで生きたから、ここで死ぬ」
「けれどあの歌を聴いたなら、からだはもう」
「それでも死はここで迎えたい。この火をおれのたましいの代わりに運んでくれないか。地上へ残した子どもたちを想う祖先たちに、ここにも光は満ちていると、子どもたちはここで生きていくとつたえてくれ」

 純白にかがやくいかだの上で、ろうそくの火がゆらゆらとゆれます。川面に灯った朱い点は、星をそっくり映した川と銀河とをわける、たったひとつの境目のようでした。

「あの世がどこにあるのか、たましいはどこへ行くのか話したことがあったね」

 妻は返事をせずにしゃがみこみ、家の入り口のそばに生えていたドクダミの花を摘みました。やっぱり地味で、ありふれていて変わったにおいのする花です。けれどこれは、ふたりの出会いを見つめていたとくべつな花でもあります。
「あなた、どこへも行かないでよ」

 かれもしゃがんで妻に寄りそい、彼女の細い指を自分のすかすかな手でつつんで、小さくなっていくいかだを差しました。
「どこへも行かないさ。ずっとおまえのそばにいるつもりでいるよ。でも、もしそれが信じられなくて不安になることがあったら、あの火の朱をおぼえていて、空を見上げて探してくれ。たましいは永遠に地上へ留まってはいられないのか、あの世へ行くのか、もしそうならあの世がどこにあるのか、そもそもそんなものがあるかなんてわからないけれど、おれのたましいがあそこから毎日おまえを見つめていると、そうおもいこんで安心してくれ」
「あの世の話ばっかりして、あなた、死人みたいね」
「もうじゅうぶん生きたからな、おまえとここで」

 妻はあの日と同じように笑ってドクダミの花をかれに放ります。
 どこにでもあるような地味な日々をふたりは重ねてきました。
「ずっと、おぼえているわ」

 それから一月、ほとんど寝たきりではありましたがかれは妻と過ごしました。

 かれの死後、妻は灯篭をのせたいかだを川に流すようになりました。
 これが「(たま)送り」という祭事のはじまりと言われています。

 片櫛村はむかし隕石が落ちた土地でした。砕けた隕石の欠片たちが人となり、やがて村になったのだと伝えられています。
 古物山にトンネルが通り、他の土地との交流も人口も増えて町に変わったのちも、葬式と秋口の新月の晩には、白いいかだに灯篭をのせて流す「霊送り」が行われています。

 片櫛を流れる酒井(さかい)川は天の川に通じているとむかしから言われていますが、うそかまことか、灯篭を流した次の晩はふしぎと星の数が多く見えるという話です。
 今はもう星の嘆き歌は聴かれません。もはや歌われていないのかもしれません。
 空をさがせば、天の川のほとりにひときわ朱く燃える星があるのを見つけられるでしょうか。(了)

たまおくり

いかだに乗って天の川へたどりついた、という中国の民話を下敷きにした話です。

たまおくり

川を下る白いいかだ、その上にならべられた色とりどりの灯篭。片櫛という地に伝わる祭事「たまおくり」の由来を描いたファンタジーです。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-09

Copyrighted
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