PURPLE RAIN
=山崎! 山崎……た、助けて=
口内にヌメっとした生温かい感触。分厚い絨毯に口元から、涎まじりの血が滴った。
腹部の痛みが現実味を帯びて、私を襲う。
まだ生きてるんだという安堵感とともにここを早く離れたいという欲求が空回りする。
ピンクの手錠を掛けられた両手に力が入らず、思うように携帯を操作できない。
=どうしたんだよ!? カオリ! カオリ……=
=いいからあ、すぐ来てよー、お願いだからあ、早くここから連れ出してよ!=
横浜インターコンチネンタルの30階、裸の私、腕にはプラスチックのピンクの手錠。
カーテンの隙間から見える三日月、殴られた左頬はきっと酷く腫れてるに違いない。
蹴られた腹部に鈍痛が走る。這いずり回ってやっとベッドサイドのテーブルに手を伸ばし、バージニア・スリムを一本手に取り、ホテルのマッチを擦った。
ほの暗い室内に紫の煙がたゆたう。沈黙を覆うのは私の鼓動……ふっと意識が遠のく。
「いつかはこんな日が来ると思ってたよ」
ハンドルに突っ伏して山崎が吐き捨てた。
助手席の私は皮のシートの感触に安堵感を覚え、重い瞼をこすった。
フロント・ウインドウを占領するのは、さっきまで私がいたヨットの帆の形をしたインターコンチの姿。
腹部には鈍い痛みが続いていた。
「どうする、落とし前つけてやろうか」
山崎はハンドルに突っ伏したままだ。
「そんなヤンキーじゃあるまいし、こっちだって一応まともな身分なんだし……」
「大丈夫なのかよ、それに、カオリは殴られて蹴られて、あのオヤジ黙って見逃すのかよ。やられ損じゃんか」
「そんな、凄んだってねえ、山崎似合わないよ」
背が高く、イケメンの山崎。モデルみたいに痩せ細ったその体型だもの、すれた言葉を使おうと、どうみたってその善人顔と込みで隠すことなどできやしない。
女に節制がないのが唯一の欠点ではあるけれど。
山崎がスタバで買ってきてくれたカフェ・モカを啜った。
口の中がヒリヒリ痛んだ。
「で、あいついくら置いてったの」
「テーブルの上に十万あったよ、このメモと一緒に」
私は山崎がくれたホテルの名入りのメモを読んだ。
――――すまない、こんなつもりじゃなかったんだ。本当にすまない――――
弱々しい走り書きのメモ……アイツらしいな。普段のアイツからは想像もできないホテルでのサディスティックぶりがなんだか哀れに思えた。
きっと、会社でものすごいストレス抱えてんだろうな、などと同情してしまう私がいる。お人よしだね、私って……。
小遣い稼ぎにデリヘルをやろうと山崎を誘ったのは私の方からだった。携帯の出会い系サイトに登録し、メールが来たら、会う約束をする。
一度はふかし、山崎がソイツの素性を調べ、安全なのを確かめた後、こちらからメールをし、ホテルで落ち合うのだ。
私は、今の今まで完璧だと思っていた。ちょろいオヤジを相手にするんだ、18のピチピチの女子大生を相手にできるんだから、一回五万なんて安いものだし、山崎が素性を調べて、ちゃんとした身分のオヤジしか相手にしないのだから、絶対危険はないと思っていた。現に今まではうまくいっていたのだ。
食事してお話だけで、五万くれるオヤジだっているんだから……。
「カオリ、こんなこともう止めよう。こんな不毛はゲム・オーバーだよ」
山崎の視線を感じた。いつになくマジメな顔、ニヤけたいつもの表情はどっかに置き忘れたみたいだ。
山崎とはクラブで出会った。私をお持ち帰りできるかどうか連れの子たちと掛けたんだそうだ。
港区汐留に本社の在るIT関連の会社に勤めている山崎は、付き合うにはかっこうの相手だった。仕事は出来るし、利口だし、スマートだし、何より私と同じ、くすぶった感情を常に持ち合わせていたのだ。このままでは終わらないってのが山崎の口癖だ。
「止めて欲しいって素直に言えば」
真正面から山崎を見つめてやった。
山崎の細い指が私の左頬に触れた。
「お前は同類なんだよ、きっと俺と。だから、お前の気紛れに付き合ってきたんだ……」
手錠を掛けられた両腕にはくっきりと赤いミミズバレが残った。
「カオリ、なんで俺がお前と寝ないか分かる?」
「さあ、なんでかな……」
「寝たら好きになるかも知れないからだよ」
言いながら山崎の唇が近付いてくるのを私は拒まなかった。
両親は医学部に通う出来のいい兄ばかりちやほやし、ことごとく私を兄の下に置いた。
私立のミッション系の中、高、大学一貫教育に通う私はとにかく退屈だった。
何か面白いことがないか毎日捜し続けた。
高校進学と同時に心にくすぶった感情は、一気に爆発した。
素行不良で、ママは何度も学校から呼び出しを受け、その度に私はパパの怒りを一身に受けた。
モラル・ハザードの淵であがき続けた。気にしたこっちやない。私のモラルは私自身が決めるのだ。
ふり向かせるために奔放な自分を演出してたってのに結果は自身に跳ね返ってきた。
私の奔放さに手を焼いた両親は更に私を無視した。
食事も一人で取るようになり家族の中で私は孤立した。
唯一時々見せる兄の優しさは救いでもあり、重荷でもあった。
幼児期五つ違いの兄が私を性的対象と見ていたのは間違いなかった。
私がベッドに入った後、眠っていることを注意深く確かめ、シーツをはぐりパジャマ姿の私を暫く見ていたりした。
私は初めから気付いていた。幼なすぎたんだ。
優しさの延長線上の行為だと思っていた。
それが、段々エスカレートし、下半身だけ剥き出しにしたり、ついにはアソコを執拗に触るようになった時、私は怖くて無言のまま震えていた。
兄はそれに気付き、私の頭を撫ぜながら諭すように今まで見たこともない優しい顔でこう言った。
「告げ口したら、お前を殺して俺も死ぬよ……カオリ」
「山崎一つ言っていい?」わざとらしく小首を傾げながら私は言った。
「何……」
「寝る相手は自分で決めるから、自分でね。今のキスは無かったことにしてあげる」
一瞬の沈黙。沈黙は金だ。
なんでそんな異星人を見るような目付きで私を見るんだ、山崎。
「ははは、ほんとにすげーよカオリ、お前って俺が付き合ってきた中で最高のヤツだよ」
「付き合ってないって……」
「じゃあ、じゃあ、俺たちって何なんだよ」
「仕事上のパートナー、資本主義で言えば共同の出資者ってとこかな」
「呆れたね、お前ってヤツにはね」
「全ての仕事は売春である。ゴダールも言ってるわ」
嘔吐は突然に襲ってきた。
「や、山崎、ちょっと車止めて!」
「何? どうしたの?」
路肩にうずくまり胃の中のありったけを吐いた。
まるで、今までの人生全部が汚物みたいなものだと言わんばかりに嘔吐は続いた。
「腹、蹴られたんだろ。病院行ったほうがよくないか、頬の腫れも痛そうだし……」
背中を摩りながら山崎が言った。優しい声色なんだなと初めて気付いた。
苦しくて涙が滲んだ。
「や、山崎、GHBとか、なんかクスリ持ってない?」
「なんだよ、カオリがクスリって……そんなに痛むのかよ、救急いこうか」
「持ってるの、持ってないの!」
「分かったよ、今やるよ!」
窓外を流れるレインボーブリッジや、ベイブリが天国への門みたいに思えた。
80MHz、午前二時、流れてきた曲は大好きなプリンスのパープル・レイン。
パープル・レインのリフが車内を満たす。
私はそんな空間に窒息しそうになる。
Purple Rain Purple Rain Purple Rain Purple Rain Purple Rain Purple Rain
I Only Wanted To See You In The Purple Rain
紫の雨の中、君と逢えば本当の愛が理解できる……。
PURPLE RAIN