映画『All You Need Is Kill』を観て

映画『All You Need Is Kill』を観て

 この映画が描き出した原作とのもっとも大きな差異は「リタとケイジの出会うタイミングが早い」ということです。正確には二人がループしていることをお互いに認識するタイミングということですが、この違いが映画と原作の主題を決定的に違うものにしています。

 原作ではケイジがリタに出会うのは、最後から二番目のループです。ここからケイジは抱え込んでいた孤独から解放されていきます。そしてケイジに対するリタは、恋愛というよりも母親に近い存在です。リタは常に主人公よりも上位に位置しています。原作内では少女のような容姿や仕草の描写はあるものの、ループの回数、ループ脱出の情報保有量の描写でもリタの優位性は強化されています。その後、ケイジはリタという母親を殺す(この母親殺しも主人公は母親に誘導されており、あくまで受動的に成し遂げますが。)ことで自立し、母親の意思を継いでいくことを決意し物語は幕を閉じます。

 ではケイジが受け継ぐ意思とはどのようなものだったのでしょうか。東浩紀氏は著書『ゲーム的リアリズムの誕生』の中で「死の二重性」という言葉でそのことを説明しています。東氏は原作の「リタは理解した。これが戦争というものだと。戦争が起きればかならず人は死ぬ。時のループを手に入れたリタは、これから先、ある特定の人物を助けることはできる。しかし、代わりに、誰かが死ぬだろう。(中略)たったひとりループに巻きこまれたリタ・ヴラタスキは、誰かを見殺しにしなければ明日へと進むことができなくなってしまった。(168頁)」という文章を引用することで、「死の一回性を相対化するメタ物語的な想像力を排除するのではなく、むしろその相対化を活かして、死の重要性を描いている」と指摘しています。ケイジはループを通してあり得たかもしれない死の多様性を排除してしまう選択の残酷さを受け入れ、その死を背負いこみながらも生きていくことを決意することで成長、自立していきます。

 次に映画について言及しますが、その前に原作におけるケイジの経過を整理します。原作では、「戦う決意→孤独→リタとの出会いと安心→自立」という流れによって物語が進行していきます。これに対して映画でのケイジの経過を整理すると、「戦う決意→リタとの出会いと安心→自立→孤独」という流れになります。

 最初に指摘した通り、映画では序盤でケイジはリタと出会います。またリタはケイジに戦闘指導をする立場であるため、母親というよりも教官に近い存在として描かれます。そしてケイジの戦闘能力が上がるにつれケイジとリタの立場は逆転していきます。やがてケイジはリタを守る立場になり、ケイジが抱える悩みは如何にしてリタを生き残らせることが出来るかが中心になります。ここからケイジはリタに保護される必要がなくなることで自立し、リタとの心の溝が出来、遂にはループされる時間の中で超人へと変貌していきます。リタとの心の溝が出来る重要なシーンとしてヘリコプターのある小屋でコーヒーを飲む場面があります。ここでリタはケイジが何度もこの場所にリタを連れて来ており、その都度必ず失敗をしていることを知ります。また、ケイジが一人でダムに向かうシーンでは既にループを終わらせるためにはリタの存在が絶対的なものではなくなっていることを示しています。ケイジが超人になってしまったことは、ケイジが途中からループ内で死ぬタイミングをリタに決めさせなくなる(後半のケイジはトレーニング時とは違い、リタがリセットしようとするのを制止しています)ということや、同僚の死を悲しまなくなるということから読み取ることが出来ます。特に最後のルーブル美術館での戦闘では、味方の自己犠牲により敵を倒すという英雄的な死にケイジは全く関心を抱きませんし、寧ろその爆風を利用して飛行機の推進力を得ることを想定しているような、非常に冷めた目線で死を見つめています。この映画からは原作で非常に大きな要素として描かれる「選択による死の悲痛さ」を感じ取ることは出来ません。

 ここまで私がこの映画について言及したことをまとめると、この映画は原作に比べると単なるかつてのハリウッド的な英雄譚に成り下がっています。つまりこの映画は戦闘に参加することを拒否し続ける情けない男が、強制的に戦闘へ参加させられることで、やがては女性の力も必要とせず、他人の死にも無関心な境地にまで達する超人になるという物語でしかありません。しかもその戦闘はノルマンディー上陸作戦の真似事というチープさ。しかし、本当にこの映画で描かれていることはそのような単なるマチズモ的なことのみなのでしょうか。この映画の重要なもう一つの要素を引き出すためには、もう一度原作で描かれていることに立ち返る必要があります。

 まず原作のクライマックスシーンからケイジとリタとの会話を抜き出しましょう。ケイジはリタに対して「勝つだなんて…このままずっと繰り返せばいいじゃないか。時は前に進まないけれど、ぼくときみはずっと一緒にいられる。いつまでだって。ひとりの人間が過ごせる一生分よりも長い時間一緒にいることだって可能だ。(258頁)」と訴えかけ、それに対してリタは「同じ一日をか?毎朝お前は、見知らぬリタ・ヴラウスキと会うのだぞ(258頁)」と答えます。この会話は一見ケイジがリタに恋をしているが故に、死ぬ度に別人になるリタの気持ちを考えることもなく、自分の欲望をぶつけただけの未熟で身勝手な言動のようにも見えますが、実はケイジはその身勝手さを十分に理解したうえで訴えかけています。何故ならば、この言葉を発する前にケイジはリタに淡い恋心を抱きつつも「クソッたれな時間の輪から抜けだせないぼくは、人と愛し合うことができない。一日という短い時間の中で誰かと相思相愛の仲にたどりついたとしても、次の日にその人はいなくなってしまっているのだ。ループする世界は、人と共有する大切な時間を奪い取る。(135頁)」と自ら語っているからです。ケイジは結果的にはリタを殺すことでループから解放されると同時に、リタを思いながら多様な死を背負いこむ覚悟をすることが出来ます。しかし、ケイジがこのような成長を遂げることが出来たのは、リタとの親密な関係を築く時からループの解放までがたったの一度のループですんでいるという幸運に恵まれていたからなのです。実際に親密な関係になったリタが繰り返し死に、そしてその度にリセットされてしまう世界では二人の関係はどのようなものになるのでしょうか。ケイジはそれでもリタを繰り返し愛し続けることが出来るのでしょうか。原作の中でもそのことについて言及している箇所があります。リタがケイジのシャツの端を握りしめた瞬間にケイジがどのように振る舞って良いのか戸惑う場面で、ケイジは「十回くらい繰り返せば、これもルーチンワークになって、泣きだしたリタをやさしくなぐさめたりごく自然に肩を抱いたりできるのだろう。しかし、それは同時に、やっとめぐり会えたかけがえのない女性相手に決まりきった作業をしなければならないということでもある。それよりは、でくのぼうと化して突っ立っているほうがいいと、ぼくは思う。(206頁)」と語ります。そしてそのような不幸なルーチンワークが映画では起こってしまいます。

 映画では二人の出会いが早いが故に、ケイジは何度もリタを失います。そして「かけがえのない女性相手に決まりきった作業」を繰り返していきます。映画は原作でもあり得たかもしれない、終わることの無い愛の喪失を描き出しています。その部分において、映画は原作ときちんと呼応しています。

 ここからは私の推測になってしまいますが、コーヒーに砂糖を三つ入れるという場面でリタが動揺したのは、ケイジがこの場所に何度も来て失敗していたからではなく、ケイジが自分よりも親密な関係を築いたリタがかつて存在し、そしてそのリタは自分ではないことに気付いたからではないでしょうか。その為、自分が特別な自分であるために、死の間際でミドルネームを明かしたのではないでしょうか。そして悲しいのはそのリタすらもケイジにとっては何度となく失うリタの一人にすぎないということです。
 
 原作ではケイジのループ回数は160回と明示されていますが、映画だと何回ケイジがループをしているのかは分かりません。もしかすると何千回も何万回も泡のように消えていく愛を経験しているのかもしれないと考えると、次第にケイジが他者の死に対して無関心になっていくことは、 超人へと変貌しているのではなく、感情を持つ人間が必然的に心を閉ざしていった結果なのだと理解することも出来ます。

 最後に、ループを終えたケイジの微笑みは一体どのリタに向けられているのでしょうか。目の前の見知らぬリタなのか、それとも何度も失っていく中で(おそらくヘリコプターの小屋での失敗をするループのどこかで)出会っているかもしれない、特別なリタに向けられているのでしょうか。私としては後者であって欲しいと願うばかりですが。


以上

映画『All You Need Is Kill』を観て

映画『All You Need Is Kill』を観て

映画『All You Need Is Kill』を観て、自分なりに考察したことを書いています。原作との違いを中心に書いていますので、ものすごい勢いでネタバレをしています。

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • アクション
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-06-06

CC BY-NC-ND
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