神とその最後のしもべ
「さらば、希望よ!希望とともに恐怖よ、さらばだ!さらば、悔恨よ!すべての善はわたしには失われてしまった。
悪よ、お前がわたしの善となるのだ!」
ミルトン「失楽園」
Ⅰ 出逢い
泣きたくなるほどの青く澄みわったった空を日がな一日眺めていた。
休日をこんなふうに使う贅沢をすっかり忘れていた。
ブランコに乗る子供の泣き声や、走り回る飼い犬たちに混じって近所の主婦たちの噂話が頭上を横切る。
マンションから歩いて数分だというのに、この公園に来たのは初めてだった。
こうして、芝生の匂いを肌に感じることも久しぶりのような気がした。
一体今まで何をどう生きてきたのだ。
突き抜けるような青い空を眺めていると自分が卑小で、とるに足らない存在に思えてくる。
今までの人生を思い出そうとするが、記憶は忘却の彼方で掌の砂のように消えてゆく。
雲は北から南へ様々に形を変え、無言でゆっくりと流れてゆく。
コンビニであり合せの昼食を買っていた。
起き上がり缶ビールのプルトップを一気に引き上げる。
喉を通過する苦味に身体がほんの少し震えた。
蓋っていたビニールを注意深く剥がし、味気の無いハムエッグサンドを頬張る。
ビールで喉に流し込む。
新緑の息吹をいっぱいに含んだ生暖かい風が首筋を伝い、初夏の空気に馴染んでゆく。
今まで生きていたのか……この何年かほんとうに生きていたのか、
日常の些細な事柄が、大切な何かが、欠落していた。
何もかもがあやふやで実感がなかった。
歓声が響きそばに軟式のボールが転がってきた。
ゆっくりと拾いにきた子供に投げ返す。
野球帽を取り大きく頭を下げてその子は歓声の輪の中に駆け足で戻っていった。
ビールを飲みながら仰向けに寝転がりまた彼方へ去ってゆく雲を眺めた。
「ごめんなさい」
視線を向けると盲導犬を連れた女の子がそばに立っていた。
「ブレークが、なんだかとんでもない方にいってしまって・・・」
ブレークと呼ばれた真っ黒なラブラドールが訝しげな視線を僕に向ける。
まるで彼女のしもべのように彼女と僕を見比べている。
「As You Wish……」思わず呟いた。
「えっ…… 何か言った」小首を傾げて彼女が僕の方を見る。
「何処までいけばいい?」
立ち上がりながら僕は言った。
「ごめんなさい、公園の入り口の点字ブロックのあるところまで連れていってくれれば帰れるんだけれど……」
「OK……僕は、慎平、田崎慎平」
「ああ、ごめんなさい……崎谷綾乃です」
ほんの少し躊躇したけれど、彼女の手を取った。
長くそしてか細い指先に戸惑いが見えたけれど、それはほんの一瞬で消えた。
「僕は合格みたいだね……君の判断によるとね」
「どうしてわかったの」
「君の顔にそう書いてある」
「…… 消しゴムで消しておけばよかった」
彼女の顔に屈託のない笑顔が広がり、僕らはまるで以前からの知り合いのように笑った。
澄んだ理知的な瞳が印象的なその女性は、生まれた時からの全盲だと知った。
彼女の盲導犬は、彼女の言葉を借りるとこの世で唯一心を通わせることのできる友人はこのブレークで二代目なのだそうだ。
まさにブレークがいなければ「Break Through」どころか、この世界を一歩も進むことなんてできやしないのと彼女は笑いながら言った。
それは、この過酷な運命を全て受け入れて生きている潔さが溢れた言葉だった。
「ねえ、ほんの少し休んでいいかしら……ちょっと疲れてしまって……」
この強い陽射しだもの僕は無理もないと思った。
ログキャビン風の東屋に彼女を残し、公園の出口にある自販機でミネラル・ウオーターを買い、急いで引き返した。
傍らには行儀よく伏せをしたブレークが彼女を心配そうに見上げていた。
ミネラル・ウオーターの蓋を開け、彼女に渡す。
「ごめんなさい、ありがとう……ほんとに」
受け取ったボトルを一口飲むと頬にそれを当てながら彼女が言った。
「よかったらサンドイッチもあるよ、ほんの少しだけぱさついてはいるけれどね」
僕の方に笑顔を向けながら彼女は首を振った。
ブレークが恨めしそうに僕の手の中のサンドイッチを見つめていた。
「ブレークは興味があるみたいだ」
しかし、決して僕が差し出しても食べようとはしない。
差し出した彼女の手にサンドイッチを渡す。
少しだけ躊躇したブレークだけれど、ゆっくりと彼女の手に握られたサンドイッチをおずおずと食べ始めた。
「普段は絶対あげないのよ、決まった食事以外はね、今日は特別……」
僕はむしろその訓練された盲導犬の頭の良さに驚いていた。
まさにそれは彼女のしもべだった。
人と動物という関係を超えてそこにはある種の意志が、なにか目には見えない何かがあると感じぜずにはいられないほど、親密な疎通が見えた。
ゆるやかな風が彼女に生気を取り戻させ、それを見てブレークが安心したように組んだ両足に鼻先を乗せる。
新緑の香りは、まるでバージンのようにはにかみ、何もかもが幸福そうに見えた。
あの出会い以来僕たちは毎日曜ごとにこの小さな公園で会い、近況を語りあうようになった。
彼女は両親とも敬虔なクリスチャンでこの公園のそばにある教会で日曜ごとに礼拝を受け、その帰りにここを通るのが日課だと言った。
たまたまいつも付き添う両親が用事で来られず、迎えに来ると言っていた牧師が、来なかったため止む終えずブレークと礼拝に出てその帰りに僕と出会ったわけだ。
「でもね、この公園の中に入ったのは生まれて初めてなのよ。いつもなんだか賑やかでしょ、賑やかなのは苦手なの、私もブレークも……それにね、だって、ブレークが知ってるのは家と教会の往復だけなんだもの……」
あの日はなぜかブレークが言うことを聞かず、公園に迷い込んだのだと言った。
「かいつまんで話をするとだ。偶然がいくつも重なって僕たちは出会ったわけだね」
「まあ、かいつまむと随分短い話ってわけね」
ブレークが僕を見て嬉しそうに鼻を鳴らす。
「僕もやっとブレークに気に入られたみたいだ」
「とても不思議なの、ブレークが私以外の人にこんなになつくなんてね。全然緊張してないのが分かるもの」
「撫でてあげてもいいの?」
「ほんとはね、駄目なのよ、私以外の人に警戒心の欠片も見せないってのはね、でも貴方は特別」
撫でてやるとブレークは僕に擦り寄り、人懐っこい仕種で身体を預ける。
背中に彼女の視線を感じた。見えないはずの彼女の視線を僕は確かに感じたのだ。
「不思議だ……」
「えっ?なに……」
はにかむような仕種が愛しかった。
「ごめん、視線をね、今君が僕を見てるような気がしたんだ」
困ったような顔で彼女は僕の声を追った。
「……見たいわ、とっても、貴方が見たい」
彼女の声色が変わった。僕も迸る感情を抑えるのに精一杯だった。
ブレークが、彼女の感情を察したのだろう、悲しげに一声唸った。
僕はゆっくりと彼女の手を取り、その掌を僕の頬に押し当てた。
彼女の前に跪き無言で彼女を見つめた。僕の想いが届くようなそんな気がしたから。
ほんの少し躊躇ったあと、彼女は両手で僕の頬を挿み、そしてゆっくりと僕の輪郭を指でなぞる。
「大きな瞳、二重瞼、唇は薄めね……ちょっと痩せすぎかな、髪は長めね……それから、それから……」
彼女の言葉を遮り、強く、強く、抱きしめていた。
驚いたように一瞬身を竦めたけれど、僕の腕の中で彼女はこう言った。
「私一人入るのに充分な胸してるのね……慎平さん」
初夏の風は火照った身体に心地よく、人気のない公園の東屋で僕らは暫く抱き合ったまま、お互いの温もりを確かめていた。
この穏やかに過ぎてゆく時間が永遠に続けばいいと思った。
僕の腕の中の綾乃は小さくて、頼りなくて、儚げだった。
意地悪な夕暮れが迫っていた。
彼女といると心地よかった。
彼女の深い深い藍色の瞳や、話し声や、栗色の髪や、細く長い腕や、しなやかな指や、真摯な話し振りや、その何もかもに癒されるような感慨を覚えた。
彼女と会う前の僕はいったいなんだったのだ。
いや、あの日君の手を取ったあの瞬間から僕は恋に落ちていたのかも知れない。
彼女と向き合いとりとめのない話をしていると全盲というハンデなど微塵も感じさせなかった。
僕らはまるで長い長い知己のように話し、笑い、時々彼女が作ってくれたランチを食べ、夕暮れが迫ると彼女を家の門の前まで送ってゆき、僕は彼女が大きな扉の影に隠れるまで見送り、幸福な気持ちを抱えて家路についた。
部屋に戻ると乃亜から何度も携帯にメールと着信が入っていた。
〔最近いつもいないのね、いつまでずらしてるつもりなの(怒)〕
〔どういうつもり。はは~ん、他にオンナでもできたってわけ(怒 ×10000回)〕
〔連絡くらいしろよ~お願い(泣×1000回)〕
TVでは、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世逝去のニュースとバチカン市国での追悼ミサに押し寄せる何十万人もの群集の模様を繰り返し報道していた。
乃亜が会社に押し掛けてきた。
取引先のアパレル関係のバイヤーの女の子で先輩が企画した合コンで知り合い、
それ以来の付き合いだ。もちろん仕事上でのことだけれど。
受付の子が僕に目配せする。
「やあ、ほんと久しぶりだね、元気だった?」
ゆっくりと近づく僕に笑いかける乃亜の顔が不気味だった。
「お昼でしょ、ちょっと顔貸してよ」
強引に僕の腕を引っ張り、近くの蕎麦屋に連れ込まれた。
「幸せそうじゃない、仕事、仕事でげっそりなんて思ってたら」
席に着くなり乃亜が言った。
周りの昼食を取っているサラリーマン風の男たちの箸が止まり一斉に振向く。
それほど大きな声だった。そして、乃亜に視線が集中する。
無理もない、僕だって眼のやり場に困るくらい露出度の高い服装なのだ。
ご丁寧に右腕にはフェイクのタトウまで入っている。
「あー、腹が減っては戦はできぬってね……オバチャン、鴨南一つねーお願い!」
オバチャンと呼ばれたウェートレスの子が睨みつけ、水の入ったコップを乱暴に
僕らのテーブルに置いていった。水が半分ほど零れた。
「やっぱり、オンナができたのね、直感鋭いのよあたし」
鼻を鳴らす仕種をしながら乃亜が言った。
「もっと普通の声で喋れないかな、同僚もいたりするし……」
「声が大きいのは生まれつきよ、訊かれちゃヤバイわけ!?」
天井の一角を占める大型のTVでは、新教皇ベネデクト16世が、
バチカンのサンピエトロ広場で就任式を行い、ローマカトリックの第265代教皇職を
公式承継したこと、それを熱狂的に迎える群衆の歓喜を無音のまま何度も伝えていた。
「一月もTELもメールもくれないなんてヒドイ!あの夜のことはなんだったわけ……」
僕は今にも乃亜が泣き出すんじゃないかとハラハラした。
それでなくても好奇の眼に晒されてるってのに……。
「あの夜って……君が勝手に酔っ払って僕のマンションでそれも僕のベッドを
占領して寝てしまっただけだろ」
「じ、じゃあ、なんで裸だったのよ、それも素っ裸だったの?」
「そ、そ、それは、君が苦しいだとか、吐きそうだとか、脱がせてだとかって言ったから……ご、誤解するなよ、僕は、ぼ、僕はジーンズとブラウスを脱がせただけ、後は勝手に君が脱いだんだよ……」
周りの連中が耳をそばだたせてにやけているのが手に取るように分かった。いい笑いものだ。
運ばれてきた鴨南をこともなく平らげ、小さなゲップを一度し、僕のざるそばに箸を伸ばし、
いいかしらと一言いい、二口啜り、満足気な顔で僕を見据えた。
「そっかー誤解かあ、六階ならねーあたしんちのマンションの階数なんだけれどねー……えーゴホン、もう一度確認するんだけれど、何もなかったのね、あの夜」
「何一つなかったよ、ナッシング、ゼロだよ、ゼロ!」
上目使いで覗くように見つめる乃亜はまだ納得していないようだ。
「慎平、ひよっとして君、インポじゃないよね……」
喉元まで啜ったそばをあらかた吐き出した。
「グフッ、君と寝なかったからってどうして僕がそうなんだよ、乃亜はさ、論理が飛躍しすぎなんだよ、棒高跳びじゃあるまいし」
「そっか、勝手に思い込んでただけかあ、あたし、そういえば、あの朝違和感なかったものねえ、あそこに……」
「真昼間なんだ、そういう生々しい会話……」
「てっきり恋人みたいな関係なんだと思ってたんだ、あたしと慎平のこと、そっか、一緒に仕事してても寝たくせに随分よそよそしいヤツなんて思ってた……あたしが馬鹿かあ……」
昼食時間を過ぎても乃亜は泣き止まず、僕は途方に暮れながらも、彼女を慰め、何故か分からないが、携帯やメールを無視しないと約束させられ、今度この償いとして飲みに連れてけと言われ、最後には笑顔を振りまきながら人込みの雑踏に消えてゆくのを、呆気に取られて見送っていた。
今日久しぶりに会ってみて、
生気に溢れた乃亜と仕事をすることは僕にとって秒単位で襲ってくるスケジュールの唯一の息抜きだったことを知った。
乃亜の理不尽なわがままも二十歳と二十七……七つも違えば案外許せるものだ。
ただいつも乃亜に振り回されている自分に苦笑しているもう一人の自分がいるのもまた確かなことだった。
ふいに綾乃の匂いを感じた。この四角い空しか見えないビル群の中で綾乃を思った。
それは雑踏の中で感じる孤独を唯一癒してくれる約束された場所のようなものだ。
今すぐにでも彼女を抱きしめ、僕の腕の中に彼女を感じたかった。
しかし、拭えない不安は僕の心に巣食い、それは、蜘蛛の巣のように増殖してゆく。
綾乃と出会ってからずっと抱いていた消えることのない不安。
確かに彼女は現実なのだと心に言い聞かせた。
しかし、何度心に刻み込んでも、彼女が僕の前からいつか消えてしまうのではないかという
不安を拭い去ることはできなかった。
あんなに会い、話したってのに僕は綾乃のことを何一つ知らないことに気付いた。知っていることといえば、ラブラドールのブレークと、いつも門の前まで送ってゆく彼女の瀟洒な洋館風の邸宅と、彼女がICUの三回生だということだけ。
会社の人事課のパソコンを少しだけ拝借し、キーボードを何度か叩いてみると案の定、
ICUを出た後輩が販売促進部にいることを知って、昼休み社食に誘い、彼女を知っているか訊ねてみた。
「田崎先輩、それって大学じゃあ有名ですよ。教養学部の崎谷教授の娘です、全盲らしいんで特待生枠で入ってきてですねー、スゲー美人で、首席で教育学科卒業するかもって噂だったなーおまけに教授の奥さんも青山で何代も画廊やってるいいとこのお嬢さんだったって言うし、もう生粋のお嬢様ですねその子、全盲でも許せちゃなあ俺、ぜひお近づきになりたかったな」
〔起こしてしまったかな?〕
〔ううん、私も眠れなくて……〕
〔君のことばかり考えてしまう……〕
〔ありがとう、私もずっと慎平さんのこと考えてたわ〕
〔率直に言うとこんな気持ちは初めてで、自分でも戸惑ってる……〕
〔私もこんなに想うのは受洗をするかどうか悩んで以来ね、きっと〕
〔正直に言うと今だって君の傍にいたい〕
〔……貴方の胸には私一人しか入れないもの〕
〔僕たちは一緒にいるべきじゃないかな……〕
〔それって、慎平さん……遠まわしのプロポーズ?〕
〔いや、こんな深夜にそれも携帯で話すことなんかじゃないのは分かってる、けれど、君の声を聞いたら……率直なプロポーズだと思ってくれると助かるんだけれど・・・〕
〔母には貴方のこと話したわ……父もきっともう知ってると思う〕
〔君が許してくれるんなら、君のご両親に会ってちゃんと話したい〕
受話器からすすり泣きが聞こえた。
〔こんなに幸せな気持ちにさせてくれてほんとにありがとう、慎平さん
ちゃんと男の人と、ちゃんと恋愛できるなんて思ってなかったもの。
こんな私にプロポーズまでしてくれて……〕
〔それは君、綾乃、つ、つまりイエスってこと?〕
ほんの少しの沈黙……。
〔…… 慎平さん、運命って信じる?〕
〔何、君と僕が偶然が重なって出会ったってこと?それなら幾らでも信じるよ。
前にも言ったけれど、僕は無神論者だし、運命論者でもない。でも、君がイエスを信じろと言うなら信じる、家は仏教だけれど、改宗する、洗礼も受ける、神様だって信じられると思う……〕
生まれる前から私の運命は決まっていたのと綾乃は言った。
それは、洗礼を受けることによってその運命を受け入れると意思表示したのだとも言った。
僕は何を言ってるのかさっぱり分からない、なぜそんなに君が泣くのかも分からない、分かるように説明する義務が綾乃、君にはあると言った。
なぜなら、僕は君を愛しているからだと大凡百回も繰り返した。
今度ちゃんと説明するからと言う言葉を最後に携帯は唐突に切れた。
その後何度電話しても出てはくれなかった。
僕はその夜一睡もできず、綾乃の言葉を何度も何度も頭の中で反芻していた。
この世に生を受けてから僕は、ありきたりの人生を歩んできた。
いや、ありきたりだと思ったのはつい最近のことだ。仕事に追いまくられて、なにもかもから逃げ出したい、そんな時、綾乃と出逢った。
綾乃と会い、初夏の穏やかな光の中で、新緑の香りに包まれて、
取りとめのない話を、それこそ朝方から日が暮れるまで何度も交わしているうちに僕は気付いた。
彼女を心から愛していることを……。
人はなぜ生まれ、そして、何処へゆくのか?
自分がこの世に生を受けた真の意味はいったいなんだったのか……。
あの思春期に感じた懐かしくも疼くような記憶が蘇ってきたりもした。
「運命を信じる?」と綾乃は尋ねた。
僕はその時初めて運命ってやつを信じたい、そう思ったのだ。
君とこうして出会ったことを……。
愛している、綾乃を……退屈で平凡な人生でそれだけが真実だ。
現実は、もちろん美しくもなく、過酷で陰惨で壮絶でまるで繰り返す悪夢のようだ。
しかし、彼女は僕に楽園を垣間見させてくれたのだ。
出逢って、手を握ったその瞬間から僕は幸福にも恋に落ちた。
綾乃は静かにそこに佇み、僕を包み、その大らかな愛で癒しもしてくれた。
綾乃のそばにいたい、これ以上何を望むというのだ。
それもこれも何もかもの始まりが、綾乃との出会いがきっかけだった。
人は、自分の殻から抜け出すことはできない。Mement-mori、死を常に意識しながら生を生きているのだ。
僕の平凡は僕自身が作り出し、常識の範疇に居座れば居心地がよく、そして、それは、今までの僕自身の人生を形作っていた。
しかし、僕は綾乃のためにその境界を越えなければならない。
On the border……僕は今そのすれすれのところにいる。
綾乃と連絡が取れぬまま、ほぼ二月が過ぎ、真夏の太陽がアスファルトを容赦なく照らし出した頃、
思いもかけぬ人から携帯に着信がきた。
〔プルプルプルプルプル……〕
〔はい、田崎です〕
〔田崎慎平君だね、〕
〔はい、僕ですが……〕
〔突然の電話、失礼しました。崎谷浩平……綾乃の父です〕
〔えっ!? は、はい、綾乃は、綾乃さんは元気でしょうか……〕
〔……娘は元気です、ただ、いや……明日、うちの大学の方に退学届を出すことに……〕
〔はっ……辞めるんですか、大学を……綾乃さんは……〕
〔田崎君、娘の大学を知っているだろうか……〕
〔はい、存じています。先生がそこの大学の教授だということも知ってます〕
〔そうか田崎君、明日、時間があったら大学の私の部屋を訪ねてくれないだろうか……〕
マンションの前に車を留め、握りしめた携帯を暫く眺めていた。
ふいに握りつぶしたい衝動に駆られ、やっとの思いでそれを押し留めた。
何をやってるんだ! 明日だ、明日何もかもがきっとはっきりする。
確かな予感があった。きっと、綾乃にも会える。
綾乃、僕は今信じている。なぜ出会ったのか……そして僕らは何処へいこうとしているのか……。
君と僕との運命を、僕は固く固く信じている。
いつになく仕事の打ち合わせをコーヒーも飲まず、無駄口をたたくこともなく切り上げ、三鷹のキャンパスに車を走らせた。
打ち合わせなど全くうわの空で何一つ憶えていない。
走らせて直ぐ、フロントガラスに大粒の雨が一滴、二滴と当たり、間欠ワイパーのスイッチを入れる。
雲行きが怪しくなってきた。
〔プルプルプルプル……〕
〔あたしよー、あ、た、し、い〕
〔乃亜、どうしたの、今ちょっとね、急いでるんだ〕
〔会社にテルしたらあ、仕事終わったら直帰っていってたよ〕
〔だから、これから大事な用事があるんだよ〕
〔あたしねー、今ベランダ出てビール飲んでんのお……もう四缶目だ、あはは〕
〔ベランダって……乃亜、呂律回らないほど飲んでるのか〕
〔呂律回らないのはあ、薬飲んだからよお、く、す、りぃ……〕
〔薬飲んだってなんだよ、ちやんと説明しろよ、ちゃんと!〕
〔もうダメあたし、今、乃亜ちゃんの背中から天使の羽生えてきましたあ〕
受話器の向こうから途切れ途切れのすすり泣きが聞こえ、それは、嗚咽に変わった。
〔ねえ、慎平、あたしもうダメ……来てよぉ、あたしを抱きしめてよぉ〕
〔だから、これから大事な用事が……〕
〔……飛んじゃおうかなあ、来てくれないなら、飛んじゃおうかなあ、飛べるかなあ〕
嗚咽はさらに酷く、言葉もまるでうわ言のように響いた。
〔分かったよ、今から行くから……吉祥寺だったね乃亜のマンション……〕
〔乃亜ちゃん、本気なんだからあ……飛んじゃうんだからあ〕
六階のベランダから本当に飛ぶ、そんな気がした。我がままで気性の激しい乃亜ならやりかねない。
そう感じた。その声色に鬼気迫るものを覚えた。
乃亜が前に言っていたとおり、郵便受けの扉の裏に予備のキーがセロテープで貼り付けてあった。
エントランスを抜け、エレベーターのボタンを押す。
乃亜の部屋のドアを開ける。
キーを持つ腕が震えてうまく回せない。
真っ暗な部屋を雷鳴が走った。雨足が強まる。
「乃亜!乃亜!」
開け放たれたベランダの向こうに、ずぶ濡れの乃亜がいた。手すりからもう半分ほど身を乗り出している。
乃亜を羽交い絞めにし、手すりから引き離した。
散乱した缶ビールの缶が潰れたまま転がっていた。
「乃亜!乃亜!」
虚ろな瞳がほんの少し反応した。
「慎平、慎平……来てくれたんだあ」
ニ、三度乃亜を平手で打った。
「ほら、ちゃんとしろ。薬って何飲んだんだ!」
「何って……ビールがあ、ええとお……ろく、六缶くらいかなあ」
「ビールじゃない!薬だよ、薬!」
「……ハルシオンがあ三錠かなあ、四錠かな……ほんと効かない薬ばっか転がっててえ……」
ふらふらの乃亜を抱きかかえ、バス・ルームに押し込み、嫌がる乃亜にかまわず冷たいシャワーを浴びせた。
「ひ、ひ、ひどい……慎平、何するのよー」
「どうせ雨でずぶ濡れだろ、ほら、寝ちゃだめだ!」
「慎平、慎平……」
抱きついてくる乃亜に僕はシャワーを浴びせ続けた。
乃亜は更に引きつったように激しく僕の胸で泣き続けた。
嫌がる乃亜の口をこじ開け、無理やり指を押し込む。
「ほら、薬なんて全部吐いちゃえよ!」
「し、慎平……く、苦しいよ……」
「なんで、薬なんて飲んだの、乃亜、ほら、しっかりしろ」
「だって、だって……慎平、相手にしてくれないからあ、寂しくてえ、マネージャーの家行ったら、バイトの子とベッドにいたんだもん、し、死んでやるって飛び出してきたあ……」
乃亜は吐き続け、僕はただ乃亜の背中をバカみたいに擦り続けた。
それは、まるで乃亜の背中に生えてい羽を探しているようにも思えた。
やっと落ち着いた乃亜のびしょ濡れの服を着替えさせ、ベッドに押し込み、暫く様子を見ることにした。
「慎平、慎平、ごめんね。嫌いになったでしよ乃亜のこと……」
何度も、何度も、ごめんねを繰り返す乃亜を放って出ていくわけにはいかなかった。
嫌いになんかならないよとか、とにかく思いつく限りの言葉で乃亜を慰めた。
すすり泣く乃亜の湿った髪を撫ぜながら僕は気付いた。
乃亜の指先が僕の腕に食い込むくらい強く握られていることを……。
綾乃の父親との約束が気がかりだったけれど、僕には乃亜の手を振り解き、この場を立ち去ることなど出来なかった。
乃亜の寝息が意識の片隅に遠く霞んでいく頃、携帯の着信音で我に帰った。
〔プルプルプルプル……〕
〔あ、はい〕
〔崎谷です〕
〔あっ、はい、申し訳ありません、ちょっと、そちらに向かっていたんですが……〕
〔いや、私こそそちらの都合も訊かず……ただ綾乃が出国する前にどうしても君に会いたいと言うものだから……〕
〔はっ!?……綾乃さんは、り、旅行にでも出られるんですか〕
〔田崎君。今、時間は大丈夫かね? 話しておきたいことがあるんだが……〕
ベッドの上の乃亜に眼をやった。乃亜は軽く寝息を立てていた。
〔はい、大丈夫です〕
乃亜の指先は幾分緩められたけれど、しっかり僕の腕を握っている。
〔これから話すことは他言無用……といっても恐らく君には信じられないだろう、イエス様を信じ、
従う身の私でさえも余りにも日常とはかけ離れた事だったのだから……俄には信じられなかったのだから〕
乃亜の寝言が聞こえた。
〔……う、う、う慎平。……さらば希望よ……希望とともに恐怖よ……〕
〔乃亜、乃亜……何か言ったかい……苦しいのか……?〕
乃亜の寝息のリズムは変わることなく続いていた。
〔……すべての善はわたしには失われてしまった。……悪よ、お前がわたしの善となるのだ……〕
それは、まるで乃亜とは似ても似つかない野太い声だった。消え入るような声だった。
ずっと、ずっと遠い何処かから僕に向かって投げられた警告のようにも思えた。
鳥肌が立ち、悪寒が走り、吐く息が白く見えるほどこの部屋の空気は冷たかった。
何か眼に見えない何かが乃亜の肉体を支配しているような違和感を、強く、強く感覚が訴えていた。
耳の奥に崎谷教授の落ち着いた声が響いていた。
僕の視線は安らかな寝息を繰り返す乃亜を追い、意識は崎谷教授の言葉を追っていた。
その言葉は僕を大いなる悪から守る、神の吐息にさえ感じられた。
僕は、あの夜のことを今でも鮮明に憶えている。
それは、乃亜の背中に羽が生えたと言われた方がまだ信じられたかも知れなかった。
それは、あまりにも突飛で、現実離れした内容だった。
今でも何故信じようとしたのか、信じられたのか……今でも分からない。
綾乃が生後まもなく私たちの希望で洗礼を受けて以来、綾乃自身と、綾乃の回りには常識では図れないことが、色々と起こり、私たち夫婦を困惑させた。
産まれて、何日も経たず医者から全盲であることを告げられた時の妻の失望、そして、洗礼を授けて下さった神父様の「生まれてきた御子になんの苦難があろうか、こうして、生き、笑い、泣いている……これ以上の幸せがあるだろうか……」
この言葉にどれほど救われたことか、いや、私たちが救われたのはむしろ、ハンデを背負って産まれてきた綾乃本人によるところが大きいのだが……。
綾乃はその天真爛漫さゆえに、盲目のハンデなど全く感じさせず、それ以上に周りの全ての人々に幸福をもたらしていた。
それは、何か祈りや奉仕に似た気持ちだろうか……私たちと同様、綾乃の持つ何かが充足感や幸福感をもたらし、すがるように綾乃を見つめる眼差しを私は何度見ただろう、礼拝に連れていった綾乃の手を取った何人もの人々のあの幸せそうな顔。
そこに映っているのは、神に息にふれられる幸福のようなものなのか……。
最初の兆候は三歳の頃だろうか……、両腕に赤いミミズバレが浮き出てきたのだ。
続けて両足にもそれは現れた。
私たちは不安を覚え、神父様に相談した。
神父もこの綾乃に起こった現象に明確な回答が出来ず、私たちはひたすらイエス様に祈るしかなかった。
綾乃は私たちの心配や不安などを余所に、その現象も為りを潜め、私たちも忘れようとしていた。綾乃が七歳の誕生日を迎える数ヶ月前、神父が尋ねてきた。
そして、在バチカン大使館を通じてローマ法王庁から派遣された二人の司教様の面会を受けた。
その二人の司教様は世界各地で頻発する法王庁に関係するある事象を専門的に調査する特使だということを後で訊かされた。
綾乃に起こった両手、両足のミミズバレは聖痕(Stigmata)に間違いないということ、そればかりか、綾乃の出生は、ローマ法王庁内ですでに予見されていたこと、ただ、アジアのある地域に全盲の神に遣える十二人(sentinel)の最後の御子が誕生するだろうという漠然としたことしか、その予言には書かれていなかったとその司教は言った。
我々はその御子を何年もの間、探し続けていたのだとも言った。
預言書にはその御子の特徴が四つ書かれていた。
すなわち、アジアのある地域であり、全盲で産まれてくること、女性であること、そして、七歳までに何らかの神の痕跡を現すこと。
二人の司教は綾乃の手を握り、その瞳に宿る光を見出し、涙すら浮かべながらこう言ったのだよ、田崎君。間違いなく、教皇様に遣える最後の御子だと……。
人は中々その常識の殻を破ることはできない。私も同様だ、神に遣える身でありながらだ。
田崎君、私が言うことを信じられるかね、私はとても信じられなかったよ。
君も綾乃に触れてみて何かを感じなかったかね、私たちが綾乃を授かったことで得た幸福感はとても言葉では言い表すことなど出来ない。妻が綾乃を抱く姿は聖母マリアにも似て、涙さえ流さずにはいられなかったものだ。
そして、綾乃をこの腕に抱くとえもいわれぬ充足感、或るいは癒されるとでも言うのだろうか、妻も私と同じ経験をしているのだ。それは、今も変わらず、私たちの心の拠り所となっている。
僕は夢でも見ているのだろうか? 受話器の向こうの崎谷教授の言葉は、いったい何を言おうとしているのだ。それとも理解したくないだけなのか……。
僕の脳裏を何かが横切った。
それは、乃亜が変身した蛇だった。イヴを誘惑し、アダムを誘惑した蛇の化身。
その蛇は、僕の身体に纏わりつき、強大な力で締め付けてゆく……。
僕は目覚めているのだろうか……?
薄れてゆく意識の狭間で裸の乃亜が僕の身体をまさぐっていた。
乃亜の唇が、舌が、誘惑し、はだけられた胸を、乃亜の湿った唇が、舌がゆっくりとなぞってゆく。
「はああ……」
乃亜の細い指先が僕の股間を弄り続ける。
「乃亜、止めろ!……何をしてるのか、分かってるのか……」
乃亜の顔が一瞬曇り、それは、綾乃の顔に形を変えてゆく。
教授の声が意識の淵を彷徨っていた。
綾乃の運命はその時にもう私たちの手の届かないところに行ってしまったのだと、私たちは薄々感じていた。
現ローマ教皇が神に召され、次の教皇様がその座についた時その予言は成就されるのだと、最後に司教は付け加えた。
しかし、最後の決断は綾乃の手に委ねられているのだともいった。
十億六千万の信者を抱える法王の十二人の使徒(Sentinel)の一人が綾乃だったとしても、綾乃が進んで自ら受洗を選択しない限り、バチカンに招聘することは出来ないのだと。
僕は綾乃の白く透明な肌を抱きしめていた。
「綾乃、綾乃、離さない、もう二度と離れない……」
その小さくてつぶらな乳房の感触を僕は絶対に忘れない……例えそれがサタンが仕掛けた罠だったとしても、これほどの幸福を味わったことがあっただろうか……。
「慎平さん、もう二度と綾乃を一人にしないで……」
綾乃の瞳から溢れ出る涙の一滴たりとも僕は見逃しはしない。
例え地獄に落ちようとも僕は二度と綾乃を手離したりはしない。
田崎君、綾乃は教皇ヨハネ・パウロ二世が逝去される一月ほど前に自ら受洗を選択したのだよ、
そして、新教皇ベネディクト16世に自らお使いすることを誓ったのだよ。
何度も訪日を繰り返し綾乃に付き添っていた司教様は、その後私にこう言った。
「これは、眼前に迫った黙示録にあるハルマゲドンと戦う我々バチカンの総意なのです。サタンは復活し、強大な権力を手中に収めようとまさに今、地の底より這い出すのです。綾乃が我々の招きに従って神の、いや、教皇のしもべとなることはすでに予言されていました。」
〔教授!?綾乃さんは今どうしていられるのですか……?〕
僕にはハルマゲドン!?などどうでも良かったのだ。
そんなものは、僕の理解の域を遥かに超えている。
いや、崎谷教授の話全てが僕にとっては、絵空事しか思えなかった。
綾乃に会いたい。そして、この腕に抱きしめてやりたいんだ。
しっかりしたまえ!綾乃を想ってくれているのなら綾乃の置かれた状況を理解してくれたまえ!
私たちも、君ももう好むと好まざるとに関わらず巻き込まれてしまったのだ。
この世界を破滅に追い込むかもしれない最終戦争の脅威という現実に……これは、現実なのだ、田崎君。
ブラインドから零れた光に眩しさを覚えた。
どうやら、乃亜の部屋で朝を向かえたようだ。
左手には携帯が握られていた。教授と話しているうちに眠ってしまったらしい。
乃亜はベッドの隅でまるで何かに怯えるように丸くなり、しわくちゃのシーツの海を漂っていた。
……昨日の出来事はまるで悪夢のようだ。
喉の奥に何かが引っかかっているような違和感を覚えた。
激しく咳き込み、口元を掌で覆う。何かが零れた。掌を見つめた。
綾乃がいつかくれたロザリオだった。僕はそのロザリオをよほど強く噛んでいたのだろう。
ロザリオにはうっすらと歯型がついていた。
乃亜の寝顔を暫く眺めた。
「……んっ、どうしたの……なんで、慎平いるの?」
乃亜は昨日の事を何も覚えていないと言った。
僕だってそうだ、どう説明したらいい……蛇に変身した乃亜が僕を……そして綾乃に姿を変え、
僕はその身体をもう絶対離さないと叫びながら抱きしめていたんだ……そして、ハルマゲドン、綾乃は十二人の教皇に遣える最後の一人で……。
「えっ……ベランダからあたしがあ? マネージャーの家に行ったの、そしたら……」
どうやら僕に電話したところまでは何とか思い出したようだ。
乃亜がお腹が空いたというので近くのガストで遅い朝食を取った。
僕にはとにかくこの現実をなんとか把握する時間が必要なのだ。この今ある現実とどうにか折り合いを付けるのだ。
教授の昨晩の話しは余りにもこのファミレスの光景とは程遠かった。
家族連れや、カップルで込み合ったいつもの休日の店内が僕の側の現実だ。
他愛のない話しが飛び交い、笑い声が響く、その人々の中で僕はありもしない恐怖と戦い、奥歯を噛み締めている。
意識の底で何かが蠢き警鐘を鳴らし続けている。
逃げろ! 逃げるんだ、逃げて逃げて逃げまくれ……いつもそうして来たように、
そう、巻き込まれる前に……居心地のいいお前の現実は乃亜の側にあるんだ。
乃亜は美味しそうにパンケーキを頬張っている。
何故今こうして僕は何杯も不味いコーヒーを飲んでいるんだ。
何故、直ぐにでも綾乃に会いに行かない。
向かいの席のサラリーマンが開いた新聞には、テロによる破壊活動によって更に悪化するイラク情勢とアメリカを支配するネオコンの記事が大きく掲載されていた。
胸のロザリオが疼いた。
何事もなくひと月が過ぎようとしていた。
バイヤーからの冬物の提案や展示会などの行事が相次ぎ多忙を極め、僕は綾乃の事を忘れようと努めた。
仕事の合間に身辺で変わったことといえば、乃亜が頻繁に僕の部屋に出入りし始めたことくらいだ。
あの事件依頼乃亜はベランダが怖いといい、独りでいる自信がないと僕に訴えた。
最初は、拒んでいた僕も乃亜の強引さに根負けして、最近は僕のベッドを占領するようになっていた。
僕はまるで乃亜に確かな現実を、僕のいつもの日常を託しているような気がしていた。
あれほど愛していたはずの綾乃の記憶を、自ら乃亜との煩雑な日常で忘れようとしていたのかもしれない。
いや、忘れられると思っていた。
この日常に埋没してしまえば神も、バチカンも、ハルマゲドンも、そして綾乃すら忘却の彼方に葬り去ることができる。
巻き込まれるなんてごめんだ。それも、突拍子もない話しなんだ。
誰も信じてなんかくれない。そんな類の話しになぜ僕が巻き込まれるんだ。
綾乃からも、もちろん崎谷教授からもその後連絡はなかった。
何度か携帯の綾乃の番号をリダイアルしようとしたけれど、その都度携帯は無言のまま閉じられた。
めまぐるしく過ぎた七月の最後の日曜日、前の日から降り続く雨は一向に止む気配すら見せず、調子の悪いエアコンを無視して冷蔵庫のドアを開け、冷気に身を浸していた。
冷蔵庫の中は心と同じに空っぽだと気付いた。
乃亜の旅行カバンと脱ぎ捨てられた着替えが乱雑に部屋の一角を占めていた。
僕のベッドに猫のように忍び込んでくる乃亜を、僕ももう拒むことはなくなっていた。
僕の胸で安心しきって眠りにつく乃亜。乃亜の吐息をこれほど身近に感じてるのに僕は乃亜を抱く気にはどうしてもなれなかった。
奇妙な同棲生活だった。僕にはきっと乃亜が必要だったのだろう、綾乃を忘れるための道具として。そして、日常を繋ぎとめておくための現実として。
冷蔵庫を満たすために近くのスーパーに買出しに出かけることにした。
差しかけた傘に容赦なく大粒の雨が打ち付ける。信号機の点滅が滲んでいた。
突っかけたサンダルも、ジーンズの裾もすぐにびしょ濡れになった。
暫く歩くとあの公園があった。……綾乃と出逢ったあの場所。
人の気配はなかった。
ベンチもグランドも何もかもが灰色の雨に塗れて佇んでいた。
意味もなく東屋に足を向けた。
東屋に人影がおぼろげに浮かんでいた。
僕にはそれが綾乃だとすぐに分かった。
足が止まった。
ぬかるんだ足元を気にしながら、綾乃から視線を逸らせずにいた。
その瞳は祈るようにただ前方に向けられていた。
綾乃、その盲目の瞳で何を見ようとしているんだ。
君の定められた運命から僕は逃げようと必死にもがいている。
お願いだ、その瞳の先に僕がいないことを僕は願うしかないんだ。
「駄目よ!ブレーク戻って、駄目よ」
ブレークが僕に駆け寄り差し出した掌に身体を擦り付けた。
「あ、綾乃!どうしてここに?」
ブレークが僕の掌を軽く噛み、綾乃の元に引っ張ってゆく。
雨漏りのする東屋に綾乃が佇んでいた。
「もう、ブレークったら……ご主人様を置いてけぼりにするなんて、盲導犬失格ね」
自分でも分からない、抑え切れない衝動が僕を捕らえた。綾乃の言葉が終わらないうちに僕は綾乃を抱きしめていた。
雨足はさらに強く、灰色の景色は、街から色を奪ってゆく。
「綾乃、僕は、僕は……」
君の何もかもから逃れたかったんだよ、逃げたかったんだよ、愛さえも捨てようとしたんだよ、
怖かったんだよ、君の世界の得体の知れないものに恐怖を覚えたんだよ。
「慎平さん……分かったわ……」
「えっ?なんて言ったの……」
「私の一番欲しいものが今分かったの」
「……」
「こうして抱きしめて欲しかったの。慎平さんに」
僕は更に抱きしめた腕に力を込めた。
「もう、こんなに抱きしめられることなんてないんだろうな……」
綾乃の身体が小刻みに震え、見つめた瞳から大粒の涙が零れた。
「もう時間がないの……出国するの……」
震える綾乃の唇を塞いだ。
永遠とも思えるような長い時間僕らは唇を重ね、息もできないほどきつく抱きあっていた。
綾乃、僕は許されるんだろうか……君を忘れようとした僕を君は許してくれるだろうか……。
「綾乃……離したくない」
「私もよ慎平さん・・・離れたくない」
綾乃の心の琴線に触れ、僕は涙を流している。
綾乃の心は聡明で慈愛に満ち、憐憫で溢れていた。
綾乃の温もりの中で僕は懺悔するしかなかった。
「許してくれる……こんな僕を……」
なぜこんなに涙が溢れるのか、綾乃の小さな胸に抱かれて僕は綾乃の内なる声に癒されていった。
雨はそんな僕の涙を洗い流し、灰色の景色はやがて来る雨上がりのあの透明な空の蒼さを予感させた。
「明けない夜はなく、止まない雨はないのよ慎平さん」
僕は泣き続けた。とめどなく溢れる涙を綾乃は静かに受け止めてくれた。
どの位の時間そうしていただろう。僕と綾乃の前に司教の法衣を纏った背の高い二人の男が立っていた。
明らかに日本人ではなかった。
「……そろそろ戻らなければ、綾乃様」
片方の男が流暢な日本語でそう言いながら綾乃に傘を差しかけた。もう一方の男が綾乃の手を取った。
「はい」
綾乃はゆっくりと僕の腕を解き、立ち上がった。
傍らのブレークが悲しげに鼻を鳴らした。
「一体、貴方たちは……綾乃をどこへ連れていく気なんですか!?」
綾乃の手を取った男に掴みかかろうとした時、綾乃の声が響いた。
「止めて!慎平さん……この人たちは私を守ってくれているのよ」
少しの間、二人の男たちとの睨み合いが続いた。
片方の男が頷き、もう一方の男が僕を見つめた。
「綾乃様から、出国する前にどうしても会いたい人がいる。私と親しくしたことで、もしかしたらその人に迷惑がかかるかもしれない……それは我々の本意ではない。もちろん、崎谷教授からも君の事は聞かされているよ、田崎君」
「綾乃は……綾乃を何処へ連れてゆくんですか!?」
「田崎君、君も来るかね……我々は拒まない、綾乃様もそれを望んでおられるようだし……ただし、引き返すことはできない。我々は綾乃様と十一人の使徒、そして、十億六千万の信者と全ての運命共同体となるのだよ、それでも一緒に来るかね」
公園の外に場違いな黒塗りの領事館ナンバーの車がまるで大きな影のように雨に濡れて佇んでいた。
運転手が機敏な動作でドアを開ける。
綾乃とブレークに続いて僕は乗り込んだ。
黒革のシートに身を沈めた。言いようのない疲労に眩暈を覚えた。
綾乃の手を握ったまま無言で前方を見つめていた。
綾乃はびしょ濡れのブレークを労わるように撫ぜつづけていた。
ワイパーがひっきりなしに打ち付ける雨を払う。
その規則的な動きを眼で追っていた。
「ツケラレテイルナ、ニホンセイフカ、JCIAカ、ドチラカダ……ガッシュウコクハマダウゴイテハイナイダロウ・・・」
助手席の男がバックミラーに眼をやりながら片言の日本語で言った。
「田崎君、ご覧の通りだよ、我々には常に尾行がついている。今日は公安かもしれないがね」
「いったいこの車は何処に向かってるんですか?」
「心配することはないよ、何も。ローマ法王庁大使館に帰るところだ」
「大使館?」
「これ以上は喋ることはできない。この車も気をつけてはいるが盗聴されているかも知れない」
Ⅱ GATE KEEPER(這いずる魔を監視する者)
靖国神社を右手に眺めながら車は雨の渋滞の中をゆっくりと進んでいった。
大学と大使館が混ざり合った風景はいつもと変わらぬ日常そのもののように思えた。
車は閑静な住宅街に入ってゆく。
古びた灰色の塀が雨に濡れていっそうその建物に重々しい雰囲気を醸し出していた。
塀の上部に「ローマ法王庁大使館」と日本語で書かれたプレートが見えた。
黒く頑丈そうな門が軋んだ音を立てながら開いた。
車はゆっくりとその門を抜け、敷地内へと入ってゆく。
二人の司教が同時に溜息を漏らした。
「田崎君、自己紹介が遅れてしまった。私はアンドリュー、こちらはガブルエル司教様です」
僕はと言えばその言葉に軽く頷くしかなかった。
綾乃と繋いでいた右手にはじっとりと汗が滲んでいた。
綾乃は初めて安心しきったようにブレークから腕を離した。
敷地はかなり広く、手入れの行き届いた芝生、幹の太い銀杏や楡の木が塀を覆うようにその姿を晒し、瓦屋根の変哲のない洋館風の建物が何棟か点在していた。
「ここから先は、治外法権……日本政府も、合衆国の強大な力も及ばない。我々の家だ、取り合えず綾乃様とゆっくり部屋で休んでくれたまえ、何か飲み物か、コーヒーでも運ばせよう……枢機卿も君に会いたがっているはずだからね」
二十畳ほどの広さに敷き詰められたワインレッドの絨毯、部屋の一角を占領する巨大なマホガニーの机、高い天井までの壁面を覆う蔵書の棚、シンメトリーに置かれたオステンソリウム(聖体顕示台)そして聖母マリア像、中央を占める十字架、その何もかもが威厳に満ち、僕は圧倒されていた。
「綾乃……僕は何だか、これから一体……」
「慎平さん、綾乃のために……こんなことになってしまって、ごめんなさい」
僕らは暫くロココ調のゆったりとしたソファに身を沈めた。
ブレークも綾乃の足元で安心しきったように惰眠を貪っているようにさえ見えた。
カーテン越しに窓に打ち付ける雨を眺めていた。窓ガラスを流れる雨の雫を眼で追っていた。これは現実なのだと自分に言い聞かせるだけで精一杯だった。
綾乃の為ならどんなことでも受け入れよう、例えそれがどんなに非現実なことであったとしても、そして、彼女を守るのだ。
それが彼女の傍から逃れよう、忘れようとした僕のせめてもの償いなのだと思った。
時間がゆっくりと流れていった。どこかから微かにピアノの音色が響いていた。
それがシューベルトのアヴェ・マリアだと知った時、僕の肩に頬を寄せて軽い寝息を立てている綾乃を僕は命に代えても守るのだ、そう心に固く誓った。
テーブルを挿んで向かい側に座ったアンドリュー司教が話し始めた。
「さて、何からどう話せばいいものか……」
雨は更に勢いを増しているように思えた。
時折部屋の中に閃光が走り、遠くで微かに雷鳴が轟き、ブレークが不安そうな表情を見せた。
それ以外に動くものはなく、空気さえも止まっているように重く、僕にはこの部屋を支配するクロノスが悪さをしているのではないかとさえ思えた。
「ヴァチカン美術館とともに、ヴァチカン図書館といえば、その起源は16世紀にまで遡る古い歴史を持ち、特に写本やインキュナブラなど稀覯書の所蔵では世界有数の規模を誇っている。
宗教関係の蔵書に関しては恐らく五十万冊以上にも上るだろう。
そしてそれらの利用のため多くの研究者が、世界中からこの図書館を訪れている。
しかし,それは所蔵している多くの貴重な資料が日々間違いなく破壊されつつある、ということでもある。
このことを図書館側としては当然快くは思っていなかった。だが、どのようにすれば利用に供しつつ,同時に資料の保全が図れるかということについて、特に具体的なアイデアがある訳でもなかった。
したがってIBMが電子図書館プロジェクトとして、写本等を画像データベース化し、ネットワークで提供するというアイデアをハードと共に示したときには、教皇様ももちろん、全枢機卿も賛同した。
ヴァチカン図書館で1994年から1995年の18か月間にわたってこの電子図書館プロジェクトを直ちに遂行した。
ヴァチカン図書館のこのプロジェクトは、大きく4つの構成要素からなっている。1つ目は前述のように写本等(所蔵資料の内、約2万点が対象)を画像情報としてデータベース化すること、2つ目はそのようにして構築した画像データベースをネットワークを使って、もしくは他の電子メディアに変換して利用するとき、それが利用に耐えるものかどうかを確かめること、3つ目はこれとは別に1985年以前に作成された約二百万件の目録をMARCレコード化すること、4つ目はこういったデータベースを構築し維持・提供する際の管理の在り方やコストを調査すること、これが当初の課題だった。
しかし、これはあくまでも枝葉末節であって、我々の目的の多くはその蔵書の保存にあった。
日々破壊されてゆく貴重な歴史的資料をなんとしても救いたかったのだ。
なぜIBMがこの時期に全面的な協力を求めてきたかなどは深く考える余裕はなかった。
図書館から分厚いコンクリートで覆われたレヴェル3の地下にその十台のスーパーコンピュターは設置された。なぜならそこは核戦争にも耐えうる強度を持ち、恒久的に破壊されてはならないからだ。
人類の叡智が結晶された書物の数々が眠る場所でもあるからだ。永久にね。
順調に稼動していたシステムがある日一斉にストップした。
長時間ストップし、自らリカバーするように再起動したのだよ。
IBMの担当者も全く予期せぬ事故だった。しかし、それは、突然に思わぬ結果をもたらしたのだ。
それは聖書の原典と言われる十七世紀にキプロス島で発見された一書物を、データベース化している時に起こり、コンピューターはこちらの操作を全く無視するかのようにその情報を別の形にプリント・アウトしてきたのだ。
それは聖書を、そして、ヨハネの黙示録に関する全く別のコンピューターによる解釈と言えばいいのか……そう、精緻な予言だったのだよ、それはこの世界が直面する終末を、あるいは過去から現代に通ずる膨大な予言をコンピューターは吐き出し始めたのだよ」
「法王様直属の教皇官邸管理室付きのガブリエル司教様と私は世界各地で頻繁に報告されるいわゆる信者に多発する不可解な出来事を法王様の命により調査、検証していたのだが……バチカンに急遽呼び戻された。
不可解な出来事。つまり、例えば聖母マリアの像から零れ落ちる血の涙だとか、イエス様の像が涙を流すだとか、信者の身体に現れる聖痕(Stigmata)これらの99パーセントの示現者は一様に心理的にもろく、暗示にかかりやすい人々で、彼らは頭の中でキリストの苦悩を再現し、ある一線を越えた時、自らをキリストと一体化した。聖痕現象、それは信仰がつくりだす強烈な自己暗示で、異常な脳活動が肉体にまで影響を及ぼした結果と説明付けることもできるんだが、無神論者にまでそれが及ぶとなるとやはり残りの1パーセントは解明不可能として我々は報告するしかないのだ。
しかし、まさか、バチカンでこのようなことが起きるとは夢にも想像しなかったよ……。
そして、このコンピューターが吐き出す予言をすぐさま解読しにかかった。
この時点では我々にもこれが予言だとは思っていなかったし、理解していなかったわけだが。
もちろん、ランダムに吐き出されたこれら予言は我々には「カオス」そのものだった。
詳しいことはここでは省くが、我々は信者である世界中の著名な数学者の協力によってこれらをカオス的なニューロンの不応性効果を取り入れ、カオス的時系列データを導き出し、フラクタフルなそれらの結果を、解読したのだ。それがある種の暗号であることを突き止めたのだよ。
それは、まさに未来を示唆する予言であり、それゆえに人々の目に触れられぬように巧妙に隠された暗号だったのだよ」
アンドリュー司教は天井を見上げ深い溜息をついた。
そこにはキリストの最後の晩餐をイメージしたフラスコ画の複製が掲げられていた。
「神の手になるとしか思えないほど複雑極まりないその暗号を、現代のスーパーコンピューターのオペレーションによる暗号理論でしか解読できないそのファイルを、手に取った私の気持ちをいったいなんと説明したらよいのか……」
僕は無性にタバコが吸いたいと思った。この居心地の悪さはいったい何なんだろう。
綾乃は身じろぎもせずにアンドリュー司教を見つめていた。
その聡明な瞳に僕は、マリアの影を追っていた。
「田崎君、私の母は日本人だった。もう他界したがね、そんな理由から母の母国である日本に留学していた。綾乃様と同じICUだったのだが、私の日本語は大丈夫かな・・・」
雨はいよいよ強く、雷鳴は先ほどよりももっと近くで鳴り響いた。
時折ブレークが綾乃の足元に身を寄せ、僕にはそれが綾乃を全身全霊で守る仕種に思えた。
「バベルの塔を知っているかね。田崎君」
重々しいほどの沈黙が訪れた。
それは、綾乃の眼を閉じさせ、ブレークの身をいっそう綾乃に引き寄せさせた。
「創世記第11章によれば、世界の言語がひとつであった昔、人々は集まって天まで届く塔を造り始めた。神はこれを見て、人間の尊大さをこらしめるため、言葉を乱して、お互いに意志が通じ合わないようにした。そのため、塔の建設は中止され、人間は以後各地に分散し、それぞれの地方の言葉を話すようになった。話は想像の域を出ないが、塔自体は夢物語ではない。史実なのだよ、そして、このバベルが実は二つの塔だったというのもまた事実なのだよ……」
「予言には七つの封印が解かれる時、サタンは地底の奥深くより這い出し、世界を破滅に導くとあった。最後の封印は二つのバベルが崩壊する時だとあった。それも、身のうちから出た二つの十字架によって塔は崩壊し、多くの民が血を流し、その光景はまさに地獄と化すのだと・・・」
僕は悟った。なぜ綾乃が唇を噛み締めているのか、なぜアンドリュー司教がキリストの像に向かって頭を垂れているのか、なぜガブリエル司教が胸の前で十字を切っていたのか……。
それは、七つ目の封印とは、あのSeptember11の光景そのものなのだと……バベルとは人々が己の自惚れを誇示したツインタワーであり二つの十字架とはあのテロによって乗っ取られ、突っ込んだ二機の旅客機そのものだったのだと……。
「我々バチカンは恐らくアメリカ合衆国政府を除けば世界でも有数のシンクタンクを持っている。そう、我々は分析し、理解し、この予言を検証した。
この世界がサタンによって破壊される姿など想像だにしたくはないからね……しかし、もはや第七の封印は解かれた。我々は戦わなければならない。
強大な、あまりにも強大なサタンに支配されし悪と……十億六千万の信者のために……バチカンは決意を固めたのだ。
予言はさらにパパ・パウロ教皇様が神に召され、次の教皇様が選ばれる時、十二人の使徒が現れ、それは見張りの者(Sentinel)と呼ばれ、サタンがこの世に蔓延るのを阻止する役割を担うであろうと我々に述べ伝えた。
身内から出でた十字架とは何か……田崎君、ネオコンはもちろん知っているだろうね」
僕は知らずに頷いていた。
綾乃はその見張りの者(Sentinel)の一人だということか、それも、運命だというのか・・・生まれた時から背負った十字架だというのか……神は、もし神がいるのならなぜ六十億もの人間が犇く世界で綾乃を選ばれたのか……。
「ブッシュはあのSeptember 11を事前に知っていたのだ……間違いなく彼はあの日ホワイト・ハウスにはいなかった。いや、世界で最も安全な場所に避難していた。キャンプ・デービットの地下にはどんな水爆にも耐えうる大統領専用の防空壕があるらしい、あくまでも噂だがね……これを、中東への介入の切り札にし、さらに圧倒的な国民の支持を取り付けた……軍事力による報復……憎しみの連鎖は加速された……」
穏やかなアンドリュー司教の話し振りとは裏腹に凍りつくような静けさがこの部屋を支配していた。
「強大な敵、サタンに支配された敵とは……ラムズフェルドやチェイニーなどのタカ派を中心にネオコンによる世界制覇を目論む集団、我々バチカンは戦う……それが、予言に記された真実なのだ。ネオコン(新保守主義)は、その力を利用して一極主義を押し進めるだろう、皮肉にも彼らはキリスト教右派と結びつき圧倒的な軍事力でアメリカ型の民主主義を世界に強制すること……多少の軋轢などはお構いなしに、もちろん大義名分はいくらでもある……しかし、彼らは軍事力を行使することに躊躇しない。それが、世界を破滅に導くとしてもだ、そして、アルカイーダあるいはビンラディンもまたそのような理想を掲げたイスラム急進派もサタンに選ばれしものたちなのだ。
彼らは彼らの思想にのみ従う。人類の行く末などはどうでもいいのだ。何人犠牲者が出ようと彼らの眼中にはない、我々バチカンは戦う、この二つの世界を破壊しようとする悪魔と……このままでは、イラクでの内戦状態も世界各地に頻発するテロも決して終わらない。なぜなら、終わらせないことがブッシュにとって最も都合がいいからだ。それはテロリスト達ビン・ラディン及びアルカイーダにとってもだがね」
夕暮れの気配が忍び寄っていた。
バチカン大使館の敷地内にある芝生は雨上がりの湿気を含み、穏やかに佇んでいた。
綾乃と二人、古ぼけたベンチに座り、夕暮れの東京の空を眺めていた。
余りにも先ほどの話とはかけ離れた風景がそこにあった。
綾乃にそして僕に……いったい何ができると言うのだ。
闘おうとしているのは、アメリカ合衆国のネオコン、そしてアルカイーダ、ビンラディン……こんな得体の知れない強大な敵と彩乃はどう闘えるんだ!
「預言書の彩乃以外の御子の存在はどうなんですか!」
「もちろん、事態は急を要する。我々は世界各地の信者を通じて11人に関する情報を集めた。私とガブリエル司教様はその情報に基づいて御子と確信した六人を既にバチカンに招いた。残った五人の捜索については、彩乃様とバチカンにいる六人の御子の協力があればなんとかなると思うのだが……」
アンドリュー司教は言った。人智を超えた能力によって彩乃達は繋がっているのだと。
思えばこの日本で彩乃と巡り合えたのは偶然ではないのだと、彩乃の方から我々を導いてくれたのだと言う事を、しかし、御子の中には内なる能力に全く気付かず日々生活しているものたちもいる。そういう御子を捜すのは容易ではない。彩乃達の力を借りるしか捜す手立てはもはやないのだとも言った。
アンドリュー司教は最後にこう付け加えた。
「君はすでに合衆国からの依頼によって日本政府の公安にマークされている。つまり、我々と同じ立場にいる、だからこういう話もした。日本政府もまだ態度を決めかねているのかも知れないがね、アメリカ追随主義に反旗を翻す政治家もいるにはいるわけだし、しかし、公安によって内偵されている、間違いなく……綾乃様のご両親もだ。
綾乃様の母方の家系はかなり政府や政治家あるいは財界と、密接な繋がりがあるから、恐らく余程のことがない限り安全であろうとは思うがね。既に君は巻きこまれてしまった、我々と一緒にきて欲しいのだが、もちろんバチカンではあらゆる援助を惜しまない」
僕に一体何ができる。この無力な僕に……。
「綾乃……本当にこれでいいの、君が遣える神を、キリストを、バチカンを、本当に信じていいの?」
「慎平さん、本当のところ、どう言ったらいいのかしら……ただ、私に言えることは、これが、私の存在理由だと言うこと。これは、理屈とかじゃないの……私の身体に宿っている、生まれた時から感じていたことって言えばいいのかな……」
深い、深い沈黙が訪れた。
東京の空にもこんなにも星が瞬いているのだ。幾億の星が僕らの頭上に降り注いでいた。
星を棲家とする僕らもまたこうしてこの星々の一つに生を受けているのだ。
綾乃は確かに神の息を感じているのだと思った。その口調には一片の曇りもなかった。
傍らのブレークが悲しげに鼻を鳴らした。
「神は存在するんだね……」
「さあ、どうかしら……一度もお会いしたことはないけれどね……」
「僕は、僕はどうしたらいい……」
「ごめんなさい……本当に、こんなことに巻き込んでしまって……」
綾乃の手を取った。優しく穏やかで慈愛に満ちた暖かさが僕の五感を駆け巡った。
「一緒に逃げよう……こんなこととは永遠におさらばしてさ、どっかさ、田舎で暮らすんだ。隠れてさ、ここが僕らの棲家なんだから……」
綾乃の顔が一瞬曇ったような気がした。
「本心じゃないでしょう……慎平さん、世界は救えないかも知れないけれど、私はこの運命を受け入れることをもう哀しいなんて思ってないわ」
僕は泣いていた。綾乃の膝に突っ伏して泣いた。自分の無力さに腹を立てていた。
「大丈夫よ慎平さん、何処にいても私達繋がっているのよ。誰にも断ち切ることなんてできない深い深い絆で繋がっているのよ」
数日後綾乃は、一言僕を愛していると言い残し、二人の司教とともにバチカンに旅立った。
神とその最後のしもべ