クラウド・ライダー

1.プロローグ

          風吹く大平原をかすめて
          赤い雲が流れ着く
          遠いビュート(岩丘)
          心が震える
          希望が生まれる
          あの雲に乗れば



1. プロローグ

 あの人は来るだろうか。
 リチャード。
 あの約束から……もう二年半。

 人生には、どうしても無視できない、忘れられない出会いがある。守らなければならない約束がある。それは自分との約束だからかもしれない。

 真山(まやま)ユキは、小さな公園の入り口に立っていた。アメリカ、アイオワ州の中央に位置する小さな町マウント・バーナン。町の中心の一区画分、四方を通りで囲まれたスペース。ローズヒル(ばらの丘)とは名ばかりの寒々としたその場所には、誰もいなかった。一九七五年十一月二十七日。アメリカは感謝祭を迎えていた。
 すべてを凍らせる風が、散在するベンチの周りを吹き抜ける。公園の中央には丸太作りのガゼボがある。その周りに何本か立つ大きな楓の木。そのむき出しの黒い枝は、掴むものは何もない天に向かって黒く長い手を伸ばしている。空はどんよりとして重い。北西から吹く風は、かすかだが、確かに雪の匂いがした。
 ユキは、フード付きのこげ茶色のコートを着て、その左肩に黒いバッグをかけていた。公園の入り口で立ち止まり、様子を窺ってみた。犯罪者のような気持ちになりながら、注意して見た。やはり誰もいない。何も起こりそうにない。
 感謝祭は家族とともにターキーの丸焼きや、パンプキン・パイを食べる。そんな習慣のアメリカで、寒々とした公園に来る人はいない……。
 ユキは、そんな当たり前のことを考えながら、ひとりでいるみじめさを消すために、歩き出した。約束のガゼボまで。
 その時、一段と大きな風が空から降りてきて、ユキの周りを一回転してから去っていった。

 もう一度会おう、と言ったのは、リチャードだった。
「ここ、この場所。ここでもう一度会おう。初めて会った日からちょうど三年目に」
「って一九七五年の感謝祭になるよね」
「その通り」
「ちょっと寒すぎない、十一月の屋外って」
「まあね。でもそれ以外にいい方法が浮かばない」
 ユキは、深刻な雰囲気になるのを避けるために、明るい声で言った。
「オッケー。いいよ。生きてれば必ずここに来る」
「オレも。神に誓って」
 リチャードは胸に十字を切った。そしていつもの子供じみた笑顔に戻って付け加えた。  「死んでいてもね」
「でも、憶えてるかなあ、そんな先のこと」
「もちろん。憶えてるさ。オレは何もかも憶えてる」

 ふたりが最後に会ったのは一九七三年の六月だった。ユキはアイオワ州の大学に大学院生として留学し、そこでリチャードと出会った。しかし、大学が夏休みを迎える頃、父親との約束を守って日本に帰った。リチャードは、ふたりの将来について自信が持てず、一緒に暮らそうとは言い出せないでいた。ユキはふるさとの沢野に帰り、リチャードは仕事を探してシカゴに旅立っていった。
 二年半の間、全く連絡が途絶えた。それは、ちょっとしたケンカ別れのような別れ方のせいでもあった。ユキは、ただ気休めに、連絡し合おうと言うのは避けたかった。太平洋を隔てた関係を手紙連絡だけで続けていくのは。不自然に思えた。「中学生のペンフレンドでもあるまいし」と、余りの子供っぽさに半分嫌気がさしたのだった。それに、本当の巡り合いなら、きっともう一度会える、と信じてみたかった。
 そして、やぱりその日、ユキは約束通り、中西部の誰もいない公園にやって来たのだった。リチャードと一緒なら、どんなことにも耐えられる。どんな寂しさにも負けずに生きていける。ふたりで、手をつないて、空の雲を見上げている……。少女趣味だと自嘲しながらも、そんな風景を心の支えとして、ずっと生きてきたのだった。
 しかし、現実に戻ると、心に重い何かが沈澱していく。二年半も前のことである。時だけでなく、太平洋を越えた文化の差もある。それはあまりに遠いように思えた。
 きっと来る。リチャードならきっと来る。あの人なら。約束した通り。きっと来る。きのう別れたように、さりげなく。
 そんなはずないか。今どこにいるのかも知らない。やっぱり、もう忘れてしまっているだろう。こんなところまで来るはずない。……ない。
 ふたつの思いには同じくらいの説得力があり、それらが交互に押し寄せた。しかし結局は、 否定できない彼への想いがユキを強くした。
 今日は、会えるまで待つ。何時間でも。夕方まで。夜まで……。
 ガゼボの近くまでやって来た時、何か動くものが視野に入った。
 えっ。こっちに来る?
 ユキには正面から見る勇気がなく、直立したまま動けなかった。しかし次の瞬間、最大の注意を払って顔を向けた。
 左側から近付いてくる人影。
 男の人?
 リチャード?
 黒っぽいコートを着た若い男だ。
 ユキは息を止めた。十一月のアイオワの寒さの中で、ユキは何か痛く温かいものが胸を刺すのを感じていた。

2.エクソダス


 一九七二年八月二十二日、沢野盆地は今日も真夏日を迎えようとしていた。午後の便でアメリカに飛ぶその日、ユキは両親と沢野駅のホームに立った。ぶどう郷として知られるその町は、特急で新宿まで二時間。しかし、ひなびた田舎であることは否定しがたく、木造の駅舎はのんびりしたその町の雰囲気にマッチしていた。
 その朝、ユキの両親は少なくとも外見は落ち着いて見えた。余り言葉を交わすことなく朝食を終え、最後の荷造りを済ませ、三人で駅まで歩いた。ユキはローラー付きの大きなスーツケースを引いていた。
 ホームには、他の乗客はいない。
「ユキちゃん、忘れ物ない?」
 まるで小学生だったユキを学校に送り出すような口調で母が言う。
「うん、必要なもの、全部持ったから」
「パスポートとか航空券とかも、ちゃんと持った?」
 海外に一度も出たことのない両親にとって、アメリカへ行くということがどんなものか想像するすべもなかった。ただユキが大切だと言っていた書類の名前を繰り返したに過ぎない。それが精一杯の親心であった。
「落ち着いたら、すぐ手紙書くんだよ。待ってるから」
 母は、もう三度目になるその言葉を繰り返した。
「うん」
「体に気を付けて」
 これも何度も聞いた言葉だった。
「うん」
 それ以上は言葉にならない。ユキはやはり緊張しているのだ。
 七時三十六分発特急「アルプス三号」は定刻に入ってきた。いつものように駅の西側を流れる千鳥川の鉄橋を越える音を響かせながら、少しカーブしているホームに沿って進んできた。
列車のドアが開くと同時に荷物を車内に押し込んで、ユキはドアのそばに立った。あと二十秒でドアが閉まる。
「体に気を付けるんだよ」母が少し震えた声で繰り返した。
「うん。大丈夫」
「気をつけて」
 一瞬何かを怖がっているような母の顔を目の前にして、ユキはあくまで平静を装った。
「大丈夫だから。心配しないで」
 声を絞り出し、何とかそれだけ言った。
 父は駅についてから一言もしゃべらずにいた。そんな父が最後の最後に「ユキ、頑張れよ」と言った。ユキはそれまで父をまともに見られないでいたが、ふっとその方向を見ると、そこにはゆがんだ顔があった。涙をこらえているのだ。
「新宿行き、特急アルプス三号、発車いたします。ドアが閉まりますのでご注意ください」コンクリートのホームにいつも通りのアナウンスが流れた。
 ドアは一度途中で止まり、プシューという音とともに閉まった。ユキは父の顔をもう一度見た。 涙をこらえながらじっとユキの顔を見つめている。ユキは父を直視できず、母にサポートしてもらおうと目を向けた。母は今にも消えそうな笑みを浮かべている。
 列車が動き出すと同時に、ドア越しに「行ってきます」と言いながら頭を下げた。両親が手を振りだしたのでユキもそれに応えた。線路がカーブした分ホームが見える。ユキは次第に小さくなる両親の姿をドアに顔を張り付けて見つめた。
 気を取り直してスーツケースを指定席まで運んだ。特急のグリーン車には乗客はほとんどいない。いつものように進行方向右側の窓際の席に座った。

 列車は山裾に沿ってだんだん登り勾配にさしかかり、大和トンネルに向かっている。トンネルに入る前何秒間か、ユキが必ず見る風景がある。
 ふるさと。
 眼下に拡がるブドウやモモの果樹園。人家は隠れて見えないが、緑の果樹園から木立に囲まれた神社や鉄筋コンクリートの学校の建物が顔を出す。遠くには、ユキがよく遊びに行った松林が一段と濃い緑色の塊となって浮かんでいる。
 沢野の町は沢野盆地の中央に位置していて、ブドウとモモが主な特産物である。ブドウはデラの出荷はとうに終わり、今はネオマスカットの最盛期だった。モモの出荷も始まっている。ユキは農家に育ったのではないが、沢野の住民は夏の間町全域に響き渡る農協の出荷放送を耳にするため、今どんな果物が東京に出荷されているのかいやでも知ることになるのだった。
 今、ユキはそのふるさとを後にしようとしている。楽しかっただけではない子供の頃の思い出を、後にしようとしている。
 遠景には左側に雁坂山の山裾がなだらかに広がり、右側の山並みとの間からさらに向こうに盆地が広がっているのが見える。それは沢野より大きな山崎の町に繋がっていて、その西側には一段と高い連峰がそそり立っていた。ユキは数年前、受験校である山崎西高校に列車通学していた。山崎は電車でほんの二十分足らずであるが、そこには沢野にない教育の可能性があった。
 遠くに目をやると、盆地を覆っている空は薄青く晴れていて、銀色の筋雲が何本か山の上を流れている。その空と雲の風景を記憶しておこうと意識することで、ユキはふるさとに別れを告げた。
 列車は車内にドサッと大きなショックを与え、大和トンネルに入った。これから幾つかトンネルを抜けると関東平野が開ける。沢野の人間にとってトンネルを抜けることは、ふるさとからの脱出、エクソダス、を意味していた。
 ユキは座席の背もたれに身をあずけた。その瞬間思い出した。今朝、最後の荷物チェックをしていた時、父が渡してくれた封筒。封筒と言ってもそれは檀紙に包まれたもので、ユキはきっと父の筆書きの手紙だろうと思っていた。「じゃ、後で読むね」と言うと「ああ、列車の中ででもな」と、父は恥ずかしそうにしていた。
 檀紙の折り目を開くとその中に檀紙がもう一枚出てきた。そして、そこには、筆で「希望」と書かれていた。
 ……希望。
 その檀紙を開けると新しい一万円札が見えた。数えると十枚あった。
 ユキは声に出して言ってみた。
「希望……」
 父さん、ごめん。
 勝手なことを言って。寂しい思いをさせて。ごめん。
 父のゆがんだ顔を思い浮かべたとたん、喉の奥がつまり、ユキは声を出さずに泣いた。落ちた涙で「希」の字の「メ」の部分が滲んでいる。
 父さん、私、頑張るから。
 そして約束通り一年以内に戻るから。
 このふるさとにきっと帰って来るから。

 羽田空港は、不思議なエネルギーに満ちていた。日本から海外へ行くには、全ての旅行者が羽田に集まる時代であった。外国人が荷物に埋もれて航空会社のカウンターに向かっている。日本人はビジネスマンらしい男性が多い。空港のロビーには、いかにも日本人らしい丁寧すぎる英語で、搭乗案内を繰り返す女性の声が響いていた。
 数人の若い女性が集まっているグループがある。
「でもさあ、真山さん、勇気あるよね、ひとりでアメリカ行くんだから。私にはとても」
 君子が、中でもとりわけ背の高い女性に向かって言った。
 そう言われたユキは黙っていた。すぐに助け舟が出た。
「ユキちゃんなら大丈夫。一番頭いいし、しっかりしてるし。私たちとはちょっと違うんだからさ」恵美が主張した。
 ユキはちょっと体を丸めて恥ずかしそうに微笑んだ。
「手紙書いてね。帰ってきたら歓迎会するからさ」
 そう言う恵美にユキは「うん。絶対、連絡する」と力強く答えた。
 ちょっと間を置いて、淳子が心配そうに言った。
「ユキちゃん、アメリカ人のボーイフレンドでも見つけて結婚しちゃうなんてことないよね。もう帰って来ないなんてことないよね」
 そしてバッグから榊原神社のお守りを出して「ユキちゃん、これ」と渡してくれた。
 ユキは先週まで勤務していた東京の外資系広告代理店で一番の仲良しだった淳子が、お守りをもらいに行ってくれたことを知っていた。
「淳ちゃん、ありがと。これで無事アメリカへ行ける」

 真山ユキは輝いていた。二十四歳とは見えないすんなりした少女のような体を、山吹色のジーンズとベージュに小さな花がプリントされたコットンジャケットで包んでいた。ジャケットの中は白いTシャツというカジュアルな服装だ。紙はセミロング、シャギー入り。面長の顔の中では、好奇心に満ちた大きな目が印象的だった。
 ショルダーバッグには、とりあえず到着までの二十時間に必要な物が詰められていた。その中には、アイオワ州の中央、グランビルにあるアイオワカレッジの大学院からの入学許可通知が入っていた。サンフランシスコ、ロスアンゼルスと乗り換えて最終目的地は、グランビルに近いホワイトラピッズ空港。大学から、車で三十分の距離である。
 見送りに来てくれた友達と別れ、ユキは出国手続きを済ませ出発ロビーに着いた。既に同じ便に搭乗するらしい客が何人も待っている。乗客のほとんどがアメリカに出張するビジネスマンのようであった。
 出発ロビーには、滑走路が見えるように幾つかの椅子が窓に向かって並べられていた。ユキもそのひとつに腰掛け、やっと一息ついた。丸く赤い鶴のマークをつけたJALのジャンボ機が行き交っていて、滑走路には陽炎が揺れていた。
 ひとりで落ち着かない航空機の行き来を見ていると、何か胸がざわざわしてきた。
 本当にアメリカへ行くのだろうか。たったひとりで? ホントに? 父母から離れて。友達からも離れて。全く知らない世界へ。日本語の通じない世界へ。
 何か得体の知れない恐怖感がユキの体中を襲い始める。ちょっと弱気になると、昔の思い出が侵入してきてそれに飲み込まれそうだ。
 周りが見知らぬ男性ばかりだったことも、影響していたかもしれない。

 ユキは数週間前、銀座の旅行代理店で会った男性とのやりとりを思い出していた。
「えーと、アイオワ州のホワイトラピッズですね」と言ってすぐ「おひとりで?」と訊いてきた。ユキが「はい」と答えると、そこで係りの男性はユキの顔をしげしげと眺めた。
「あ、あの、大学院で勉強することになってまして」
 言い訳する必要もないことなのだが、つい罪悪感に襲われてしまうのだ。
「えっ、大学院って英語ですよね」
「はい」
「英語で勉強するんですか」
 バカじゃないの、当たり前でしょ、と言いたかったが、ユキは黙って目を伏せた。
「最近の女性って、すごいですよね。男性より勇気あるよなあ」
「そうでもないです」でも、少なくとも、アンタよりは勇気あるかもネ。
「ご両親、心配なさるでしょう」
 余計なお世話ダ。
「ええ、まあ、やはり」と口ごもった。
 次にその男性が「理解があってうらやましいなあ」と言った時、その口調には、わがままを通す親不孝者、とユキをなじる感情が滲み出ていた。
 アメリカに行くことのどこが悪い? 夢を追うことのどこが悪い? 
 そう居直ってみても、日本という国はいつもユキを罪悪感で満たした。文化の圧力とも言える見えない刃でユキを傷つけるのだった。いつものように沈黙することでその場を凌いだ。

クラウド・ライダー

クラウド・ライダー

1970年代、アメリカの中西部と広大な西部大平原を舞台に、異文化に育まれた若者たちが遭遇する恋と悲劇と希望の物語。アイオワやシカゴの文化、サウスダコタのスー・インディアンの文化、そこで生きる道を探し続ける日本人留学生ユキ。故郷で起きた辛い思い出を消すためにアメリカに向かったユキを待っているのは?クラウド・ライダー(雲に乗る人)とは?私たちはみんなクラウド・ライダーになれるのか。 Chapter 1から40まで、ユキの勇気を応援してください。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 冒険
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-30

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  2. 2.エクソダス