*星空文庫

ゆめの岸辺

m.ventura 作

君を待つ 針の霧雨 やわらかに


4月、ちょうど恋人と心が離れていった。
辛いはずの時期に、私は仕事上のよい出会いで知らずと心を支えられて、乗り越えられたと思う。
なぜだかその頃、よく夢を見た。
夢の中で私はどこかの集合住宅のようなところに住んでいて、そこには今の職場の人たちが、知っている顔から知らない顔まで共に暮らしていた。
そこは住みにくいようで、また居心地がよくもあった。
夢の中で私は、よく恋をした。
目が覚めて、よっぽど私は欲求不満なんだろうな、と悲しくおかしく思った。
でも、現実の世界はけっこう辛く、夢の中の甘い匂いは心地よかった。

そんなある夜、夢を見た。
私の夢は決まって短い。ストーリーもほとんどないけど、風景や色や感覚が、一刻分、とても強烈に頭の芯に残る。
たとえば雨上がりの重い空と、湿ったコンクリートに映る、もうひとつの空。
雨の気配。延々と広がる青田が、いつまでもいつまでも、雨にうなだれている様子。
……その日の夢は、人の肌の愛おしさや温かさが、強く体に残った。
いつものように朝がくればかき消され、消えていく感覚ならば、それを恋とは思わなかっただろう。静かに始まって、汐の満ち引きのように、時に強く苦しく、時に緩やかに甘く、想う。
片思いをしたのは20歳の頃以来で、その時と同じように気持ちを自分の内に閉ざして、ただその想いをじっと感じているだけ。何も変われない自分が少しおかしかった。

夢の中には当時の恋人も、時折現れた。
その夢でその人はやさしかったけど、決して体が結ばれない、という夢。
結局、彼とはそこからは長くは続けてゆけず、私たちは別々に暮らすことになった。
引越しの一週間前から、彼は家に戻らなかった。
辛い想いを抱きながらの引越しになってしまった。寂々とした気持ちで、若葉の家を出た。
秋のさくらの木の枝は、小さな葉を黄色に染め上げて、肌にしんとさす風にちらちらと揺れた。

家というものは時に、その印象が心に強く迫ることがある。
荷物をまとめる手を、ふと止めて思った。

私たちがお互いの気持ちを打ち明けたのもこの部屋だった。
ある時、実家から帰ってくると、南の島の恋のお守りボージョボー人形が飾っていて、そして彼が帰ってこなくなった。
私の知らない誰かの想いを背負って、ボージョボーが私たちを引き裂いたのかな、なんて思った。
むしろ彼のことで悩まなくてよくなったことに、安心してもいいのかもしれない。

南の島のボージョボーに、よろしくと伝えて家を出た。恋のお守りが本当なら、彼は私の知らない誰かと結ばれることになる。
この家から私たちの全てが始まって、この家で全て失った。
恋というのは、いつも短い。たいてい生活の方が飲み込んでしまう。
あなたと出会って別れるより、ずっと前から好きな曲。好きな小説。好きな映画。

誰かと別れる度に、そんなことを支えにした。
一人の自分に戻るだけだと。彼は私の人生にとびらを開けて入ってきて、そして出て行った。
私はいつもの音楽を聴いていて、じゃあまたねととびらを閉める。

新しい家に入ったときも、胸が締め付けられるような思いに、一瞬とらわれた。
東京での一人暮らし。これが私が半年間ほとんど仕事を休まず資金を貯めて、手に入れた全てのものだった。
そこにはあの人の姿はない。寂寥感に立ちすくんでしまいそうな、がらんとした冬の部屋の冷たさだけが、そこにあった。


冬くれて 流れあらわる 夕灯り ここがわが街ぞ 車窓立ち見つ


さて、とめどない夢から覚めた私に残ったものは、あの人ではなく、夢の片鱗だった。
さくらの葉がひらひらと手をふる並木道で、後ろを振り返らないように、バス停へ歩いた。
駅からバスで10分、タクシーだと深夜1600円かかるほど郊外にあるこの土地で、季節を一巡して育んだ記憶は、まだ重い。

その濃密な空間で、ただ一筋の支えにした想いは、明け方にひらめく幾つもの夢のひとつから育って、次第に確かな光になっている。
それを恋愛と呼ぶには、まだ戸惑いがあるけれど。
夢は人になにかを告げるという、ある高名な心理学者の話。

夢におされてここへ来たのか、ここへ来ることを示していただけなのかな。

人の行く先は広大な流れに委ねられている。その流れの中で、空を見上げると、濁った空の日もあれば、秋の空のように澄んで美しい空の日もある。

恋愛の始まりに運命だなんていうと、笑ってしまう年齢になってしまったけれど、帰宅の電車から、遠い空がまだ明るい、夕方の住宅街が過ぎ去っていくのを見ていたら、この想いを運命と呼んでしまってもいい気がした。
いつか結ばれなくても、この不思議な出会いが、水面の一石みたいに、大きく広がる波紋を呼んで、凍りついた時間が流れはじめるように。そんな運命もあるのだと思う。ぼんやりした夢の記憶が現実と寄り添って、力を得ていくのを見る気がして、すこし気持ちが晴れた。

『ゆめの岸辺』

『ゆめの岸辺』 m.ventura 作

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2015-05-29
Copyrighted

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