榊原洋介事件簿1

第一章 美人薄命



 2005年8月25日、陽子にとっては、北海道にはない太陽がぎらぎらと輝くうんざりする残暑の季節である。朝起きて緑のストライプのカーテンを開けたとき、日の光に目を閉じ、
「今日もまた暑い日が続くのか。いやになっちゃうな」
と呟く一日が始まる。
 陽子は、東京都Y区の高層ビルの有名商社に席を置く25歳になったばかりのOLで、30度を越える毎日の暑さにけだるさと情熱の感じない仕事に懈怠感を感じ、何時かここから飛び出すことができないかと考える日々を過ごしていた。
「何か、どきどきする、そしてぞくぞくすることが起きないかな。そうすれば、この暑さも吹き飛ばせるのに」
 市電に乗って朝の出勤、毎日毎日おなじみの人達。全く同じ環境。時計をのぞきながら、
「8時40分か。今日は、ずる休みしちゃって、由美と久しぶりに会おうかな」
 携帯を取りだし、
「すいません、清水ですけど、和田課長おられますか?おられたら、電話かわって下さい」
 しばらくして、和田課長のだみ声が聞こえてきた。
「もしもし。和田だけど。清水ちゃんどうした?」 
「今日、風邪みたいで、体がだるくて、お休みさせて頂きたいのですが……」
「大丈夫かい?珍しいな、君が休むなんて」
和田が心配そうに大きなだみ声を出した。
「たぶん、1日休めば大丈夫だと思います。明日は、元気に出勤しますので……」
「いいよ、いいよ。とにかく、ゆっくり休んで体を治してくれ。君がいないと、課内が暗くなっちゃうからね」
「うまいこといっちゃって」
「何か言ったかい?」
「いえいえ、何でもありません。それでは失礼します」
 陽子は、ちろっと舌を出してから、また携帯から電話を掛けた。
「もしもし、由美?今日ひま?」
「誰?あー、陽子じゃない、どうしたの。こんな朝早く、電話かけてくるなんて、どうかした?」
「ううん。どうもしないんだけど、毎日毎日暑いし、仕事も面白くないし、何かパーとしたことないかなと思って……。今日、ずる休みしちゃった。久しぶりに由美の声が聞きたくなっちゃって、これから会えない?」
「ちょっと待って、起きたばっかりなのよ。1時間後なら会うことができるわ。それでもいい?」
と、由美が言った。
「いい、いい。何処で会おうか?暇だからそっちに行こうか?」
「それなら、A町の地中海で会おうか?朝食も食べたいし、陽子は、朝食もう済ませているの?」
「ううん。私もお腹ぺこぺこなの。それじゃ、一緒に食事しようよ。私、地中海で待っているわ」
 陽子は、バスに乗りA町の三越前のバス停で降り、5分歩いて待ち合わせ場所の地中海に入って行った。
「お客様は、お一人ですか?」
ウエートレスが入り口で声をかけた。
「後から友達が一人来るのよ。できれば窓側の席がいいわ」
「それなら、お二人ですね。たばこはお吸いになりますか?」
「ううん。吸わないから、禁煙席にして下さい」
「分かりました。それでは案内しますので、こちらへどうぞ」
 ウエートレスに付いて行くと、ちょっと広めの4人席に案内された。
「どうぞ。ご注文が決まりましたらお呼び下さい」
ウエートレスがメニューを置きながら言った。
「取りあえず、ホットちょうだい。食事もしたいんだけど、友達が来てから頼むわ」
と、陽子は明るく答えた。
「それでは。ごゆっくりして下さい」
「今何時かな?9時半か、もうちょっとで由美が来るわ」
時計を見ながら陽子は呟いた。
 窓側に座ったためか、外の風景がよく見える。この暑いのにスーツをキチンと着てネクタイをしめたサラリーマンや化粧でおめかししたOL達が足早に歩いている。
(みんな、会社に行くのかな?それとも営業にいくのかな?私もいつもはあんななんだ。なんか、忙しないな。ずる休みは申し訳ないけど、こんなところで人を見ているのもなんか楽しいかな。だけど、街の中って緑が少ないな。秋桜ぐらい咲いている場所があってもいいのにな。まー、草原じゃないしそれを望むのは無理かな)
 陽子は、花の中ではあのたよりなげな何か女の自分に近い秋桜が好きであった。特にあの紫色の秋桜が好きであった。30分位外を眺めていたが、
(遅いな。由美、1時間で来るって言ったのに。由美ったら、20分も遅刻じゃないの。どうしたのかな?携帯もかかってこないし……。由美に電話かけてみようかしら)
 陽子は携帯を取りだして、
(あれ、メールが由美から来ているわ。気が付かなかったな)

『ごめん陽子。
急に人と会うことになっちゃって、出掛けなきゃならなくなっちゃったの。ごめんね。この埋め合わせはきっとするから、今日のところは許して。今度、私の方から電話するから。
あなたの親友、由美』
(私より大事な人って誰だろう?由美が来れないなら、ここにいてもしょうがないな。コーヒー頼んでしまったな。まーしょうがないか。これからどうしようかな?由美に、電話でもしてみようかしら)
 陽子は由美に電話したが、
「こちらは、NTTドコモです。お客様がおかけした電話は、電波の届かないところか、電源が入っておりません」
とのアナウンスが聞こえてきた。
(おかしいな、電波が届かないということはないから、電源を切っているのかな?私に知られたくないのかしら?)
陽子は、ちょっとムッとして、バックに携帯をしまった。
(ずる休みをしたのはいいんだけど、今日一日どうして過ごそうかしら。由美と会えないんじゃ、何にもならないな。困っちゃったな。この暑いのに一人で過ごすのはいやだな。こんなことになるなら、ずる休みしないで会社に行った方がよかったかな……)
と、陽子は心の中で呟いた。
「お客様、コーヒーをお持ちいたしました」
「ごめんね。友達が来ることができなくなったので、ホットを飲んだら帰るわ。悪いわね」
「いえいえ、宜しいですよ。ごゆっくりしていって下さい」
 陽子は、コーヒーにミルクを入れ、スプーンでかき混ぜた。コーヒーに砂糖は入れない主義である。コーヒーを口に運びながら、あれこれと考え始めた。
 ふと、誰かの視線を感じて、ゾクッとして振り返った。
「誰だろう、私のことを見ているのは……?なんか、いやな感じだな」
陽子は店の中を見回したが、誰なのか分からなかった。
 店の中は、知らないうちに人々が席を占め盛況な状況になっていて、アイスコーヒーを飲んでいる者、モーニングサービスのパンを旨そうに食べている者、女同士で楽しく話に夢中になっている者、どう見てもこちらの様子を窺っている者はいない。
(気持ち悪いから、早く飲んじゃって、外に出よう)
 陽子は、いてもたってもいられない気持ちになって、コーヒーを早く飲もうと手を伸ばしたが、震えていたせいかコーヒー茶碗に指が触れ、コーヒーをかなりこぼしてしまった。
 コーヒー茶碗がガタガタと耳障りな音を立て、人の視線が気になり周囲を見渡したが、みんなは自分たちの世界に浸っているのか、陽子の粗相に気が付いた者はいなかった。
「あの、すいませんが、清水陽子さんじゃありませんか?顔色が悪いですよ。僕のこと、覚えていませんか?W大学時代、隣のクラスにいて、ドイツ語の講義、一緒に受けたことがあるんだけどなあ。あの山本教授の講義だけど……」
「ごめんなさい。よく覚えてないの、あなたのこと。なぜ、私のこと知っているんですか?沢山の人がいたのに……」
「僕、榊原洋介といいます。5年ぶりですね。知らないかもしれないけど、君は、僕たちのマドンナだったんですよ。僕らの仲間の中じゃ、君は有名人でね。君のことを知らない男はいない位だったよ。誰かいい人と、待ち合わせですか?」
「違います。女友達と待ち合わせしていたのだけれど、彼女急に来られなくなったんです」
陽子は言いながら、さっきと同じ視線を感じて、身震いした。
「どうしたの?震えているじゃないですか?立っているのも何だから、ご一緒してもいいですか?」
「え……、どうぞ。風邪かもいしれません。ちょっと気持ち悪くって、今日会社休んじゃったの。でももう大丈夫です」
と陽子は言って、
(この人じゃないわ。誰か知らない人の視線だわ)
周りを見ながら、陽子は榊原と言った青年の値踏みを始めた。
(この男、なかなかセンスいいわ。優しそうだし。だけど早く出なきゃ。震えが止まらないわ)
と、陽子は心の中で呟き、
「ごめんなさい。もう行かなきゃならないの」
「そお……。久しぶりの再会。ごめん、君にとってではなく、僕にとってだけれど。よかったら、今度、僕が店長をしている店に一度遊びに来ませんか?居酒屋で、店長やっているんだ。居酒屋といっても、静かで雰囲気のいい所ですよ。一人がいやなら、友達も呼んで来て下さい。これ名刺。よかったら、来るとき、ここに電話して下さい。それじゃ、楽しみにして待っています」
「あー、でも行かないかもしれないですよ。それじゃ、失礼するわ」
 陽子は、さよならの挨拶である頭を下げるのも忘れ、あたかも今でも身震いするような視線から逃れるように、慌ててレジまで早足で行き、左右を見回してから支払いを済ませ、外に出た。榊原は置いてきぼりを食ったようにポカンと、陽子の急ぎ足の後ろ姿を眺めていた。
(急だったから、びっくりさせちゃったかな?逃げられた感じだな。俺って、いやな感じに見えたのかな……)
榊原は、そう思った。
 陽子は、慌てていたためか、もらった名刺を握りしめていた。汗ばんだ右手を開くとくしゃくしゃになった名刺があり、開くとそこには、
『居酒屋 「千年の恋」 店長 榊原洋介』
と書いてあった。
(今11時か、これからどうしようかな?家に帰るしかないか)
 陽子は、仕方なく家に帰ることにした。



 陽子は、Y区B町の10階建ての賃貸マンションの501号室に住んでいる。そこは、一人住まい用の洋室8畳1間の1Kの部屋であった。ベットに座り、テレビを見ていると、TBSの5時のニュースで、キャスターが、
『本日、午後3時頃、Y区A町4丁目のユーキマンションの201号室で、女性が死んでいるのが発見されました。この女性は、201号室に住んでいた長谷川由美さん(25歳)と見られています。マンションの管理人が202号室の住人から201号室のテレビの音がうるさくて、困っているとの苦情があり、201号室を訪問したところ、鍵がかかっており、長谷川さんと何度も呼んだが応答がなく、不審に思い、合い鍵で部屋に入り、長谷川さんの死体を発見したとのことです。
 Y警察署の発表では、長谷川さんは絞殺されており、何らかの事件に巻き込まれたのではないかと言っており、検視の結果、死後2時間~4時間程度経っているとのことです。現在、殺人事件として、不審な人物の目撃情報がないか捜査に全力をあげている模様です。
 それでは、次のニュースは、……』
 陽子は、絶句して、テレビをまじまじと見つめた。
(なんてこと。うそだ、信じられない……。由美が殺されるなんて。朝、あんなに元気にしていたのに……。誰かと外で会うってメールで言っていたのに。何か変だわ。テレビで言っていることが本当なら、11時~13時頃まで家にいたのかしら?携帯もつながらなかったのに。それなら、由美の家に行けばよかったわ。由美、殺されずに済んだかもしれないのに……)
 陽子は、取る物も取りあえず、Y警察署に向かった。
 警察署に着くと、陽子は受付で長谷川由美殺害事件を担当している刑事に会いたいと申し込んだ。受付で相沢刑事を紹介してもらい、捜査本部のおかれている2階の捜査第1課に行った。
「すいません。相沢刑事はいらっしゃいますか?」
「……」
相沢刑事は座っていた机から開いているドアの方に顔を向けて、そこに若い女性がもじもじとして、しかし精一杯気丈さを保とうとしている姿を認めた。
「私、清水陽子といいます。は、長谷川由美の友達なんです」
 相沢刑事は立ち上がって、ドアの所に行き、
「よく来て下さいました。友達を亡くしてさぞ悲しみのことと思いますが、宜しければ、亡くなった方が由美さんかどうか確認願えますか?まだ、御両親が確認に見えられていないものですから。御両親は山形県にお住まいということで、今日かなり遅い時間に来られるようです。由美さんが山形出身だったということは、ご存じでしたか?それから、何かご存じのことがあれば、別室でお話を聞かせて頂けませんか?宜しいですか?それでは、こちらへどうぞ……」
相沢は、手で合図して、先に歩き出した。
 陽子は、その後を付いて行きながら、
(相沢刑事って、想像していたより優しそうな若い刑事だわ。よかった。厳つい強面の刑事だったらどうしようかと思っていたもの)
陽子は胸をなで下ろした。
「ここです。お入り下さい」
 陽子は、地下の死体安置室に連れて行かれた。おずおずとし、入りたくはなかったが、勇気を出して由美のためと思い気を持ち直して、相沢の後に付いてその部屋に入って行った。
 そこは、冷気が立ち込めた薄暗い場所で、想像していたより背中がぞくぞくするいやな場所だった。ホルマリンの臭いが鼻につく、一人では、とてもいられない場所であった。
部屋の大きさは10畳程度であろうか?殺風景で、今にも死神や火の玉が出そうな場所で、突然、
「ニャー~」
というような猫の声でも聞こえたなら、飛び上がった挙げ句失神してしまいそうな場所であった。
 もし、こんな時、誰かに肩を叩かれでもしたら……。
(こんなにも寒くて、鳥肌も立っているわ。由美がこんな所にいるなんて。あー……)
 部屋には、数台のテーブルがあり、特に中央のテーブルが大きく、そこだけシーツが掛かっており、中央が人型に盛り上がっていた。
(もしや……?)
陽子は、知らず知らずのうちに、手で口を押さえていた。今にも「きゃー」という声が出るのを恐れるように……。そして、そのまま目を瞑って下を向いた。
相沢刑事は、陽子の様子を横目で見ながら、部屋の中央の大きなテーブルに近づき、掛かっていたシーツを少しめくって、
「どうです。長谷川由美さんに間違いありませんか?」
 陽子には、相沢の息づかいしか耳に入らない。
「清水さん?清水さん?」
 陽子は、相沢に腕を掴まれ、揺すられて初めて相沢が問いかけていることに気が付いた。
 相沢は、陽子の腕を掴みながら、もう一度問いかけた。
「清水さん。長谷川由美さんに間違いありませんか?」
その死体は、由美そのものだった。あの懐かしい顔だった。唯、首の回りに赤あざがあり、苦痛に歪んでいるのが、いつも笑っていた由美の美しい表情とは唯一違っているものだった。その顔を見た瞬間、
「……。由美!」
と、陽子は言って絶句した。それから、大声で泣き叫び、ふらふらとテーブルに手を掛けて、倒れそうになった。それを相沢が助け起こし、
「大丈夫ですか?大事なお友達を亡くされて、ご心痛は察しますが、もう少し別室でつき合ってもらえませんか?御気分が優れないようでしたら日を改めますが、どうですか?」
「もう大丈夫です。ショックで目が眩んでしまいましたが、お話しさせて頂きます」
 そうは言ったものの、陽子は、相沢に支えてもらわなければ歩くこともできないほど、気が動転し平衡感覚を失い酔っているような感覚に苛まれていた。陽子には、由美と別れてどうやってこの部屋まで辿り着いたのかさえ分からない程、ショックの大きさに心震え、しばらく自分ではどうすることもできないでいた。そんな時、目を瞑った瞼に、ある人の笑顔が写ったように感じた。
少し、ホッとしたような、そして体に血が巡って、少しずつ失っていた体の暖かみを取り戻していくような、奇妙な感覚を味わっていた。
(由美、ごめんね!何故、あなたでないの?何故、あの人なの……?今日始めて会った男。どうしちゃったのかしら?頭が可笑しくなっちゃったのかしら?由美!)
 自分をいくら叱っても、由美の面影が頭に浮かばない。陽子は、謝罪の気持ちで心が押しつぶされそうだった。それでも、少しずつ自分を取り戻していくようであった。ハッと気が付くと、痺れていた手の感覚を取り戻すように……。
 陽子は、椅子に座り、テーブルに突っ伏していた。そして、頭を両手に乗せて……。
 肩に人の温かい血の通った手の温もりを感じて、初めてその温もりを知ったように、
(なんて、人の手って、暖かいの?由美のためにも、頑張らなくては。私でなくて、誰が由美のことを考えてあげられるの?)
陽子は、両手から頭を少し持ち上げるようにして、瞼を少しずつゆっくり開き、首を振って辺りを見渡した。ぼんやりしていた風景がはっきりしてきた。
そこは、8畳位の広さの会議室だった。窓から、日暮れ前の西日が差していた。そして、自分を覗き込んでいる相沢の顔に気が付いた。その目は、優しく自分を見ていた。
「気が付かれましたね。少し落ち着かれましたか?お話ができますか?」
「私、どうしちゃったのかしら?ご迷惑をおかけしたようで……。ここで、長い間気絶していたのでしょうか……?」
「いえ、5分位ですよ。大丈夫ですよ」
相沢刑事は、思いやりを込め、優しく言いながら陽子から離れ、テーブルの向かいの席に座り、一息入れてから、
「それでは、お伺いします。清水陽子さんと仰いましたね、長谷川さんとはどのようなお友達なのですか?」
「あ、はい。由美とはW大学英文科の同級生で、親友だったんです。今日、久しぶりに会うことになっていました」
と、陽子は言った。
すかさず、相沢は、
「それじゃ、生前の長谷川さんとお会いしたのですか?」
と、目を輝かして聞いた。
「いいえ、会ってはいません。会うことができなかったのです。会いたかったのだけど。ああー。ごめんなさい。……。ちょっと待ってもらえます?……」
陽子は、こみ上げる嗚咽を抑えるように、息を吐いてから、ハンドバックからハンカチを出して目頭を押さえ、鼻水を拭いた。まるで深呼吸するように、
「はぁー……」
と、恥ずかしげに溜息をついて気を静めようとした。 
相沢は、陽子が話を再開するように、話しかけず、彼女の気が収まるまで待っていた。
 陽子は、少しずつ、考えをまとめるように、ゆっくりと話し出した。
「今日は、ちょっと暑さに参ったのか、会社を休みたくなってずる休みしちゃったのです。由美と久しぶりに会いたくなって、携帯で由美に電話しました」
「ちょっと待って下さい。それは何時頃でしたか?」
と、相沢は身を乗り出して、陽子に先を託すように言った。
「えーと……、確か8:50分頃だったと思います」
「それから?……」
「由美は、起きたばっかりだったと言って、1時間後にA町の地中海で会おうということになりました。それで会社の近くから、バスに乗ってA町の三越前で降りて地中海に行きました。9時30分頃だったと思います」
「その時間は間違いないですか?」
「何時かなと思ってその時、時計を見たので……。由美が早く来ないかなと思って、時計ばかり気にしていました。それから、10時頃には由美が来るなと思って待っていたのですけれど……。由美なかなか来なくて。仕方ないので、11時半には地中海を出て、家に帰りました」
「それを証明してくれる人がいますか?また、11半~13時までは何をしていましたか?それも証明する人がいますか?」
「ちょ、……ちょっと待って下さい。私を犯人と思っているのですか?11時半までは証明してくれる人がいますけど、ううん……、11時半に地中海を出て、バスに乗って家に帰ったから、11時半以降それを証明してくれる人はいないわ……」
陽子は非常に腹が立ち、大きな声を出した。
「いやいや。これは捜査の基本みたいなもので、関係者の皆さんにいつも聞くことなのでして、特別あなただけに聞いている訳ではないのです。どうか、気を悪くしないで下さい」
相沢は、頭をかいて申し訳なさそうに話した。
「11時半までの行動を教えて下さい。それから、何か気が付いたことはないですか?何でもいいのですが、由美さんの電話の声が普段とは違っていたとか、何かありませんか?」
「由美の電話の声は、いつもと変わらず元気な声で、普段と変わったところはなかったように思います。そうそう。10時頃由美からメールが来ました」
陽子は、携帯を取りだして相沢刑事に由美からのメールを見せた。
相沢は、陽子から携帯を受け取り、その内容を手帳に写しながら、
「外で人と会うことになったみたいですね」
と言って、携帯をちょっといじってから陽子に返した。
「そうです。メールが来たので、由美に電話したのに、つながらなくて。それから、しばらく時間をつぶしていた時に、誰かの視線を感じて振り返ったんです。でも誰なのか分からなくて……」
と、身震いして陽子は言った。
「どうしました?」
「あ、すいません。ちょっと、その時不気味さを感じたものですから。思い出しちゃって……」
「それらしい人はいなかったのですか?」
「えー、分かりませんでした。気持ち悪くで、早く店を出ようと思いました。その時、榊原という人が声を掛けてきたのです。そうだ、ウエートレスさんに聞いてもらえば分かりますわ。それに、榊原君に聞いて頂ければ、その時私が地中海にいたことが分かりますわ」
と、陽子はほっとして言った。
「榊原君と仰いましたけど、親しい方ですか?それから、誰かの視線というのは、その榊原という人のものだったのじゃないですか?」
相沢は、言葉尻を捕らえて鋭く聞いた。
「いいえ。初めて会った人です。彼は、W大学時代隣のクラスにいて、私のことを知っていたというのです。同級生ではないですけど、同窓生で、同じ授業も受けたことがありますので、つい君付けで言ってしまいました。親しくはありません。それから、あの視線は彼ではありません。彼と話をしている時に、あのいやな視線を他から感じましたし……。あ、そうそう、彼から名刺をもらいました」
ハンドバックにしまっていた名刺入れからくしゃくしゃになった名刺を取り出して、相沢刑事に渡した。
「視線を感じたのは、何時頃でしたか?心当たりがありますか?それから、榊原さんとは、どのような話をしましたか?」
と、相沢刑事は聞いた。
「10時ごろと11時頃の2回だったと思いますけど、心当たりはありませんし、周りを見回しましたけど誰か分かりませんでした。それから、榊原さんとの話は、そうですね。……取り留めのない話ですけど……。私が、大学時代彼ら仲間達のマドンナだったとか……」
ここで、洋子は顔を赤らめ恥ずかしそうにしたが、話を続けた。
「友達 ─ 由美と会う予定になっていること、彼女が急に来られなくなったことです。その時、いやな視線を感じて身震いしたのです。そしたら、彼が心配して、短い時間でしたけど、一緒の席に座ってもいいかって聞いたので、いいわと答えました。だけど、あの視線が怖くて、すぐ店を出て来ちゃいました。その時、名刺をもらって、今度店に遊びに来ないかと誘われました……」
「他には、何か気が付いたこととかありますか?」
(この人は、その他あまり知っていることはないようだ。榊原という青年に話を聞きに行くか)
「後は、気が付いたことなどありません」
「それでは、参考になる情報を頂きありがとうございました。よく来て頂きました。十分参考にさせて頂き、由美さんのためにもあなたのためにも早急にも犯人を逮捕しますよ」
と、相沢は胸を張って言った。
「あの、こちらから質問してもいいですか?」
と、陽子は勇気を出して聞いた。
「どうぞ。私に答えることができる内容でしたらお答えしますが」
「由美の部屋には、犯人の指紋とか遺留品とかがありましたか?それから、由美はあの部屋で殺されたのですか?彼女、外出して人と会うことになっていたはずですし……。彼女があの部屋で殺されたのなら、私が地中海を出たついでに彼女の部屋を訪れていたなら、彼女殺されずに済んだかもしれないのが残念でたまりません。ああー……」
「そうですね。犯人の指紋とか遺留品は、見つかりませんでした。犯人は、計画的だったのか、指紋が付かないように用心していたのか、指紋を全て拭き取って行ったか……。由美さんがあの部屋で殺されたかどうかは、現在捜査中です。あなたのおっしゃっていた、彼女の行動や会う予定だった人について、これから目撃者がいないかどうか、捜査員が全力を挙げて捜査しますよ。また、盗みや暴行目的の殺害とは思われません。部屋は荒らされておりませんし、争った形跡も見られません。検視結果においても、暴行を受けた痕跡はありませんでした。顔見知りの犯行の疑いもあります。まずは、彼女が会っていた人物の特定が最優先と思っています。それから、清水さん、自分の責任だったなんて自分を責めないで下さい。そして、くれぐれも気を付けて下さい」
「宜しくお願いします。由美のためにも……」
と、陽子は言って涙ぐんだ。


 
 陽子は2日後、榊原の店 ─ 『千年の恋』に行ってみることにした。由美が死んで、ぽっかり穴の開いた心を満たしたかったが、何をすれば満たされるのかよく分からなかった。会社には親友と呼べる者もいなかったし、相談できる人もいない。お酒を一緒に飲むような彼氏もいない。
一人で、お酒を飲みに行くこともなかったし、そんな気分ではなかったが、仕方なく、初めて知った居酒屋の名前に惹かれて、
(もしかしたら、静かに由美の冥福を祈ることができるかもしれない)
と思って、取りあえず、行ってみることにした。
 そこは、Y区の繁華街にある雑居ビル「アカシア1号館」の5階の一番奥にあった。
 店内に入ると、クラシックが流れ、居酒屋とは思えないようなしゃれた本当に静かな雰囲気の店であった。
 ドアボーイが、
「お一人様ですか?」
と聞いた。
「はい。……あのう、榊原店長に紹介して頂いたのですけど」
と、取りあえず言ってみた。
「そうですか、ちょっと待って頂けますか?店長に聞いてきますので、お名前は?」
「清水と言います」
ドアボーイは、礼をしてから、奥に引っ込んで行った。
「店長、清水さんというきれいな女性が、店長にここの店を紹介されたと言っていらっしゃっておりますが。どうしますか?」
「それじゃ、一番奥のNo.8テーブルに案内して下さい。後からちょっと顔を出しますと伝えてくれるかい?」
 ドアボーイは、ドアまで戻って、
「すいませんでした、お待たせして。こちらへどうぞ。一番奥になります」
と言って、陽子をNo.8テーブルまで案内した。そこは、衝立に囲まれた、恋人同士が二人だけの世界に浸れるような他人の目を気にする必要がない場所であった。
「どうぞ、こちらにお座り下さい」
ドアボーイは、席を勧め、陽子が席に座ると、メニューを差しだし、
「何をお飲みになりますか?」
「そうね、カンパリ下さい」
「それでは、お持ちいたしますので、おつまみを決めておいて頂けますか?」
と、ドアボーイは言って下がって行った。
それから、5分程度してから、榊原がカンパリとおしぼりを持って現れた。
「やあー、よく来て下さいました。来てくれるかどうか心配だったですよ。あの時、君をびっくりさせちゃって、嫌われたかなって。でもよかった、来てくれて。ちょっと、ご一緒させてもらってもいいですか?」
「はい」
「おおーい。吉田君、生ビールを一杯持ってきてくれるかい?」
と、榊原は料理場の方に声を掛けてから、陽子の向かいの席に座った。
「ちょっと、話をしたかったから。……君、友達と会えなかったみたいだね。一昨日、相沢という刑事が来て、君の友達の長谷川由美さんが殺されたとか言っていたよ。突然だったので、吃驚したけど。君たちのことを思うと、……何て言ったらいいのか。それから、相沢刑事から、……君との関係をいろいろと聞かれたよ」
「ごめんなさい。家でテレビを見ていたら、5時のニュースで由美が殺されたことが分かったの。吃驚しちゃって、でも警察に行かなければと思って、Y警察署の相沢刑事を訪ねて行ったの」
と、陽子は言って、一息入れカンパリを少し飲んだ。
「ゴホ。ゴホ。ごめんなさい。私、あまりお酒が強くないの」
「カンパリなんて頼むから、お酒強いのかなと思ったのだけど……。それからどうしたの?」
榊原は同情した優しい眼差しで陽子を見つめ、話の続きを促した。
「由美とはW大学英文科の同級生で、親友だったこと、会社をずる休みして10時過ぎに由美と地中海で会うことにしたこと、メールで由美が他の人と会うことになって今日は会えないと言って来たこと、そこであなたに声を掛けられたこと、あなたから名刺をもらったことを話したわ。そして、あなたが大学の頃の同窓生らしいということも」
「間違いなく、同窓生ですよ。そうか……。相沢刑事が僕の所に君の話が真実かどうか確かめに来たということか」
「私を犯人だと思っているんだわ。私、11時半まではアリバイがあるけど、13時まではアリバイがないもの。何で私が親友の由美を殺さなければならないのよ。……ごめんなさい。愚痴みたくなっちゃって。私、他にしゃべれる人がいなくて……」
由美は大きな溜息をついて、話を一度締めくくった。
「いいですよ。いくらでも喋って下さい。それであなたの悲しみが癒され、心が落ち着くなら。僕はいくらでも力になりますよ。そういえば、警察では、捜査が進展しているのかな?」
「分からないわ。あれから、相沢刑事とも会っていないし……」
「由美さんと携帯であなたが話したと相沢刑事が言っていたけど、何か気が付いたことなかった?」
「ううん。いつもの通りだったわ。でも、由美からメールが来てから、地中海にいたときに、不気味な視線を感じたの。確か、10時頃と、あなたと話していたときの11時頃だったと思うわ……。犯人かしら?怖いわ。それであの時震えていたの」
「そうか、それで震えていたのか。その不気味な視線が気になるね。でも、誰なのかは分からないのだろう?気を付けた方がいいな。それが犯人なら、君のことを知っているのだし。なぜ、君の方を見ていたのだろう?由美さんと君との関係を知っているのかな?君が犯人のことを知っているからなのかな?何か心当たりがないかい?」
「相沢刑事にも話したけれど、周りを見渡してもその視線が誰のものかも分からなかったし、人に変な目で見られることや冷たい視線を浴びる様なこともしていないし、心当たりはないわ。私、人を殺すような人なんて知らないし……」
「これは殺人事件で、もし犯人が君のことを知っているなら、君の身が心配だな。君の話から、もしかしたら危険の可能性があると、警察は感じたのだろうか?そして、君の身の安全を守る方策を取っているのだろうか?僕の方から、警察に君を守るように話しておこうか?僕もなるべく、君を見守っているようにするよ」
と、榊原は優しく言ってくれた。
 陽子は感謝の気持ちが芽生えたが、
「大丈夫よ。自分のことは自分の責任で守るわ」
と、強がって見せた。
(本当は、助けて欲しいけど。この人のことよく知らないし、この人を巻き込むわけにはいかないわ)
強がったものの、一人暮らしの自分には助けて欲しいのはやまやまで、だけどよく知らない人に見守られるのも大人の女としては、やはり抵抗があった。何となく、子供みたいで。
「僕は、昼間は暇だし、君に分からないように君に変なやつが近づかないように、気を付けるようにするよ。君が嫌でも、マドンナを守るのが、ナイトの仕事だよ」
(困ったな。変なことになっちゃった。……どうしようかしら。まあー、見守られているのも心強いか。甘えちゃおうかな……)
「長谷川由美さんのお葬式には、行ったのかい?」
「ううん。事件で殺されたから……、たぶん、解剖とかあるだろうし、しばらく警察署に安置されるんじゃないかな。だから、葬式は1週間後位になると思うわ。……由美の実家、山形県なのよ。お葬式には出るわ。私の唯一の親友だもの……。ああー……」
「良かったら、僕も一緒に葬儀に出てもいいかい?」
と、榊原は言った。
「でも、あなた由美のことは知らないでしょう?」
「だけど、大学の同窓生なのは間違いないし、それに君のことが心配なんだ。僕も一緒に行くよ。迷惑かもしれないけど、いいだろう?」
と、榊原は本当に心そうな表情を見せて言った。
「……ううん、迷惑なんてことはないけど。でも、私、あなたのことよく知らないし……。あなたに迷惑は掛けられないわ。……でも、お葬式に知っている人が一緒にいるのは心強いけど。どうしようかしら……。そうね、お頼みしようかしら。でもこのお店のことはいいの?店長さんなんだし、そんな勝手に休めないんじゃないの?」
「大丈夫だよ。いつも店の仕事は頑張っているから。ほとんど休みも取っていないし、オーナーは許してくれると思うよ。その間は副店長に頼むよ。副店長は2人いるから、交代で店を切り盛りすることになっているしね。だからそうしようよ。それでは決まり。葬儀の日取りとか連絡がきたら、電話してくれる?これ、僕の携帯番号」
榊原は、小さなメモ用紙を陽子に差し出した。
 陽子は、メモ用紙を受け取りながら、
「ありがとう」
と、言って、ありがたい気持ちでうっすらと涙ぐんだ。
「どうです。話はこれ位にして。今度の山形行きの楽しい、ごめん。楽しいと言っちゃいけなかったね……。とにかく、二人の近づきを祝って、今日は私のおごりにしますので、何か食べませんか?好きなもの何でもご用意しますよ」
榊原はバツが悪そうに、恐縮しながらそれでも勢い込んで言った。
 そのしゃべり方が、急に早口になってどもり気味だったので、陽子は由美が死んでから久しぶりに心温まる気持ちになって、榊原に微笑みかけながら、
「くす……。それは悪いわ。そんなつもりで来た訳じゃないもの」
と言った。
 榊原は、その微笑みにどぎまぎしながら、
「やっと、微笑んでくれたね。いいよ、いいよ。今日は僕のおごりにさせて下さい。大事なお客さんだし、またこの店に来て欲しいし、他の人にも宣伝してもらうとありがたいし。あ、これは押しつけかな、気にしないで下さい。この店が気に入って、良かったらということで……」
「それじゃ、ご厚意に甘えます。この店は、気に入ったので、今度会社で宣伝しておくわ。私が行くと、榊原店長さんがいつもおごってくれるとも宣伝しておくわ」
と、陽子は意地悪をするような調子で言った。
「参ったな……。それは困るよ。店長といっても、雇われだし。今日のことは、ここだけの話にして下さい。ね……」
榊原は、ちょっと困ったような、それでも満更でもないような顔を陽子に向けた。
「嘘ですよ。ちょっと意地悪したくなっちゃって。でも、本当にここに来て良かったわ。ここ2日位塞ぎ込んでいたし、少し心が楽になったわ。料理ですけど、適当に、榊原さんが選んでくれます。そんなに食べられないので、適度にお願いします」
「少しでも君が明るくなる役に立てればいいですよ。それじゃ、陽子さんのために喜んで頂けるメニューを用意しますよ。それではごゆっくりしていって下さい」
 陽子は、一人になると、心が少し晴れたものの、また由美のことを思いだして涙ぐむのであった。
 大学時代の由美との友情の数々、一緒に行った旅行での楽しかった出来事などが、走馬燈のように目に浮かび、頭の中に蘇るのであった。
(あの時は良かったなあー。何でこんなことになっちゃったのだろう。由美、教えて!あなたは、誰に殺されたの?できることなら、私が無念を晴らしてあげたいのよ)



 由美が亡くなってから6日後の夜の8時頃に、相沢刑事から陽子に電話があった。
「もしもし、清水さんですか?Y警察署の相沢です」
「はい、清水です。相沢刑事、何かご用ですか?」
「実は、明日、由美さんの葬儀が山形県のS市のご実家で営まれることになっているのをご存じでしょう?あなたが出席すると思いまして電話したのですけど、何時頃、山形に着く予定にしておりますか?先日、地中海で嫌な視線を感じたとおっしゃっていたので、ちょっと気になりましてね。まあ、危険はないと思いますが、十分気を付けて下さい」
と、相沢刑事は言った。
(警察は、私の行動を監視しているのかしら?)
陽子は安心できるような、そして何となく容疑者みたいな扱いを受けているような矛盾した気持ちに襲われた。
「はい、ありがとうございます。山形には、新幹線で昼過ぎに着く予定にしています。それから、榊原さんが一緒に行ってくれることになっています」
「あの、榊原さんがね……。ところで、帰りは、何時の予定になっていますか?……」
「相沢刑事は、行かれないのですか?……帰りの予定は、今のところ未定です。2、3日中には帰ってくると思いますけど……」
「帰りの予定は決まっていないのですか?そうですか。……では、帰る時に連絡を頂けますか?できれば、またお会いしたいので。それから、私は、行きません。私は、こちらでいろいろ捜査をしなくてはなりませんし……。それに、山形県警とS警察署にはこの殺人事件の応援を頼んでおりますので、担当捜査員が葬儀には目を光らせていると思います……。それでは、気を付けて」
と、相沢刑事は言って電話を切った。
 陽子は、相沢刑事から電話があった次の日に、山形新幹線に乗っていた。榊原とは東京駅で落ち合い、2人掛けの隣座席に榊原が座っている。
 東京9:24発つばさ109号、12:39着S市行きの禁煙車の5号車15A、B座席を予約していたのである。帰りはどうなるか分からないので、予約しなかった。昼食は、S市に着いてから、取ろうということになっている。
 陽子も榊原も、初めて山形に行くことになって、これから起こることに不安と期待の入り交じった気持ちでいた。特に、榊原は口には出さないが、陽子と旅行ができることにその喜びを隠すことができないでいた。しかし、陽子は、由美のことを思い塞ぎ込んでいた。そして、何故か不安な気持ちがどんどん大きくなるのをどうすることもできないでいた。
 新幹線の窓から外を眺めても、目にするものに心動かされず、上の空の状態であった。それに気が付いたのか、榊原が、
「……どうしたの?全然喋らないし。由美さんのことが頭から離れないと思うけど、あまり自分をいじめちゃだめだよ。君の責任じゃないのだから。明るくなれとは言わないけど、少しお喋りしないかい?君には一日も早く笑顔を取り戻してもらいたいよ……」
と、陽子に向かって、目をのぞき込むように優しく言った。
「ありがとう。洋介さんには心配ばかり掛けているみたいね。でも、あの時、私が由美の家を訪ねていれば、由美は死なずに済んだかもしれないわ。どれだけできるか分からないけど、由美のために彼女の無念を少しでも晴らしてあげたいの。だから、あなたも私に力を貸して……?」
「君が僕のことを洋介と名前で呼んでくれたのは、初めてだね。うれしいよ。君のことを陽子ちゃんと呼んでもいいかい?ちょっと、照れるけどね」
 二人は、以前よりお互いの距離が近づいたことを感じていた。
「いいわ。洋介さんは、由美とは会ったことはなかったのよね」
「そうだね……。君の周りの友達の一人だったのだろうけど……。よく覚えていなくて、ごめんね」
と、榊原はバツが悪そうに言った。
「謝ることないわ。S市でいろいろ調べたいことがあるのよ。彼女の交友関係とか……。殺されるには何か理由があるはずよ」
「まるで、警察の捜査みたいだね。だけど、何か起きる前に、相沢刑事には連絡しておいた方がいいね。僕が君を守ると見得を切ったけど、そういかない時もあるから。話は変わるけど、あれから今日まで不審な人物を見かけたとか、後を付けられたとか、君が以前感じた嫌な視線とかを感じたとか、そういうことがあるかい?僕には、そういうことはなかったように感じたけど」
と、榊原は陽子に尋ねた。
「相沢刑事は、今日私が由美の葬儀に出席することを知っているわ。昨日電話があったの。それに、山形県警とS警察署の刑事が葬儀を見守るそうよ。あなたが、感じたように、不審な人物とか、そういう気配はなかったように思うわ。だけど、あなた、私をずっと見張っていたの?何か申し訳ないわ。それに、私の私生活を全て見られているようで恥ずかしいな。ちょっと、きちんとしなくてはいけないかも……」
 陽子は、顔が赤らむのを感じて、慌てて窓の外を眺めた。先程までとは異なり、田圃や社や小高い岡の如何にものんびりとした風景が目に飛び込んできた。
(懐かしい風景だな……。こんな心を落ち着かせる景色を忘れていたな。小樽が恋しいな……)
そして、陽子は、はにかんだ表情をした。
「ずっと君を見張っていたわけではないよ。できる限り、君に分からないように気を配っていただけだよ。それに、変な覗き見はしないし、ストーカーじゃないし。安心して……」
「……え、う、うん。ごめんなさい。ボーとしていて……。洋介さんが気を遣ってくれていることがありがたいし、安心よ。私、子供じゃないけど、最近小学生の女の子の殺人事件が多発しているでしょ。ちょっと、昼間も安心できないような嫌な世の中になっちゃったなあって。なんか、気持ち悪くって……」
と、陽子は身震いして言った。
 二人が、話し合ったり、読書をしたりしているうちに、あっという間に3時間が経ち、S市駅に到着した。S市は、人口4万人程度の小さな市であった。
 S市は、S盆地の中央に位置するS藩の城下町で、日本海側と太平洋側を結ぶ交通の要所として発展した町である。
 陽子らは、S市のタクシー乗り場から由美の実家に向かった。
 山形県は、かつて40度を超える日本一の最高気温を記録したところであり、南から来た二人が吃驚する程、汗が全く退かない状態であった。
(全く、下着が蒸れ蒸れで気持ち悪いわ。シャワーを浴びたいな)
陽子は、タクシーの中で汗ばむ体の不快さと、洋介の方に体の臭いがいっていないか心配する気持ちから、無言でいることに耐えられず、
「すごい暑さねぇー。運転手さん、毎年こんな暑さなんですか?」
と聞いた。
「んだ。今年は特に暑いだべ。全く」
と、運転手は少し訛りを含んだ声で言った。
「長谷川さんのとこさ、行くんだべ?娘さん殺されたんだってな。こんな小さな町だべ、テレビで事件がでると、そん話で町ん中が持ちきりになるんだ。きれいな娘さんだったのになあー」
と、運転手は溜息を付いて言った。
「由美のことよくご存じなんですか?」
「うんにゃ、そんなに詳しくはないけんども、長谷川さんのとこは、旧家だから。実家が有名だし、娘さんも年頃だったから噂になっていただよ。大学卒業したら、すぐにも婿さん取るんじゃないかってね。一人娘だったようだから」
「そうか。由美のところ旧家だったんだ。あまり家の話しなかったから、知らなかったわ。大きな屋敷みたいな家なんですか?」
「そだね。昔ながらの武家屋敷で、400年は続いた屋敷だから、行ったら吃驚するべ」
と、運転手は言った。
「着いただよ、ここだべ。大きな屋敷だべ。旧家だけに葬儀に集まる人も多いべな」
 二人は、タクシーを降り、参列者がまだ揃っていない内に大きな門をくぐった。確かに武家屋敷のたたずまいである。受付を済ませ、陽子らは、由美の両親に挨拶するため、長い廊下を渡り、居間に向かった。
 由美の葬儀は、20畳はある和室で行われるようで、6時から始まることになっていたため、お手伝いさんや葬儀社の関係者が忙しく準備に掛かっていた。20人以上はいるだろうか、彼らの行き来で和室はごった返していた。
「あの、すいません。私、亡くなった由美の大学時代の友達で、清水といいます。それからこちらは、大学時代の同窓生で榊原さんといいます」 
と、陽子は居間の戸口に佇み、奥の椅子に腰掛けていた50歳代の初老の婦人に声を掛けた。
 婦人は、入り口まで来て、陽子に向かって、
「どうぞ、こちらにお入りになって。由美の母で、佳子といいます。由美から、あなたのお名前はよく聞いていました。大学で親友は陽子だけよって。清水陽子さんね。よく来て下さいました。あの子も喜ぶわ。そのソファーに座って下さい」
と言って、佳子はハンカチで目頭を押さえた。
 二人が、ソファーに座ると、
「百合子さん、お二人に麦茶を入れてあげて」
と、佳子は20歳位のお手伝いさんに声を掛けた。
「はい、奥様」
「ごめんなさいね。ごたごたしているもので。ゆっくり、大学時代の由美のことをあなたから聞きたいんだけど、いろいろとしなくてはならないことがあって。こちらには、どの位おられるんですか?すぐ帰られるの?」
「……はい。あの、まだ帰る予定は決めてないんです。少し、こちらにいようかなと思っています。由美の生まれた場所のこともいろいろ知りたいですし……」
「そお、できたら由美のことを聞きたいわ。大きくなってから、由美のことをよく知っているのはあなたですし。大学入学以来上京してから、あの子がこちらに戻ってくるのは年に2、3回位だったから。こちらにいるのをお願いしたいくらい……」
由美の母親は由美のことを思いだしたのか、またハンカチで目頭を押さえた。
「ごめんなさいね。あの子のことを考えると、涙が止まらなくなって。犯人が憎いわ。何であの子が……」
と、言って佳子は感極まったのか二人の存在も忘れて嗚咽が止まらない状態のままでいた。
「御心痛、よく分かります。私も、たった一人の親友を亡くして、どうしたらいいのか……」
陽子は母親につられもらい泣きした。
 しばらく泣いてから落ち着いたのか、母親は二人に向かって、
「ご、ごめんなさいね。……お二人には、葬儀開始時間まで、お客様の休憩室でゆっくりして頂いた方がいいわね。百合子さん、お二人を休憩室に御案内してあげて」
と、お手伝いさんに声を掛けてから、
「それでは、後で。本当に、よく来て下さいました。休憩室の方へ行って下さい。後で会場の方にお呼びしますので。それじゃ、百合子さんお願いね」
「それでは、御案内しますので、こちらへ」
と、百合子が言った。



 休憩室に入った二人は、そこに悲しみに打ち沈んでいる若い男性が一人でぽつんといるのを発見した。何となく、邪魔をしては悪いような感覚を味わって、二人で目を見合わせた。陽子は、思い切って、
「お邪魔してもいいでしょうか?私、由美の大学時代の友達で、清水といいます。こちらは榊原さんと言います」
と、声を掛けた。
「あ、すいません、気が付かないで……。ボーとしていたものですから。私、工藤といいます。由美さんとは、幼馴染みでして、彼女がこんなことになるなんて……。遠慮せずにお入り下さい」
 二人は、目で合図しながら、休憩室の中に入った。工藤といった青年は陽子より2つ、3つ年上の少し痩せぎみの学者然とした青年だった。工藤は、窓側の椅子に座り、簾越しに外を何気なく眺めていた。窓からは、真夏の暑い空気が流れていたが、風鈴の音が少しは暑さを和らげてくれているようであった。それでも、青年は暑いのが我慢できず、顔を隠し気味に扇子を扇いでいたが、その横顔の表情は憂いを隠すことができないでいた。
「……」
陽子と榊原は、彼とどう喋っていいのか分からず、畳に座って、黙って二人でもじもじしていた。
 しばらくして、工藤と名乗った青年が、
「清水さんといいましたね。由美さんとは大学の友達とおっしゃっていましたが、卒業後も彼女とはお付き合いがあったのですか?」
「はい、彼女が殺された日にも会うことになっていたんです。それがこんなことになってしまって……。彼女が死んだなんて、今でも信じられないくらいです。電話であんなに元気な声を出していたのに……」
と、陽子が言って目に涙を貯めだした。
 それを見て榊原が、
「これを使いなよ」
と、黒いスーツの胸ポケットから白いハンカチを取り出して、陽子に渡した。
「ありがとう。洋介さん」
「失礼なことを聞きますが、間違っていたら許して頂きたいのですが、あなたは、由美さんの恋人ではないですか?何となくそんな気がするんですが……」
と、この屋敷に来てから、初めて榊原が口を開いた。
「えー。二人の間では、結婚することを考えていました。両親達の了解はまだ受けていませんでしたが……。彼女は、9月早々にはこちらに帰ってきて、その時に両親達の了解を受けようということになっていたのです。それができなくなってしまって……」
と、工藤は気落ちして言った。
「そうだったのですか……何て言ったらいいか……」
と、榊原も顔を曇らせて、その後黙ってしまった。
少しして、陽子は、
「あの、事件当日の朝、由美は私に、今から会う人がいるから私とは会えないという断りのメールを送ってきたんです。私より大事な人で、彼女と会う予定にしていたのは工藤さんではないですか?」
と、工藤を見て言った。
工藤は、一瞬きょとんとしたが、
「いいえ、私はY区には行っていませんし、彼女とは9月早々にこちらで会う約束をしていましたから、電話ではいつも話していましたが、ここ一ヶ月は会っていないのですよ。私は、こちらにいましたし……」
と、戸惑いながら答えた。
「そうですか?すると、遠距離恋愛をされていたんですね。ところで、最近の彼女に何か変わったこととか、彼女の周りの交友関係とかで、何か変だなと感じたことがありますか?」
「……そうですね。彼女は秘密を作ったり、僕に嘘を付くこともなかったと思います。だから、何かあれば気が付いたと思うのですが、特になかったと思います。それに、9月早々に両家の両親に結婚を認めてもらおうと思っていたので……」
「どうされたんですか?何か気が付いたことがあるんですか?」
と榊原が言った。
「いえ、結婚の承諾となると、こんな田舎ですのでいろんな意味で、家同士のことになるので……。それに、彼女は一人娘ですし、私も長男ですから……。でも、家同士の関係なんかについて多少は悩むこともあったと思いますが、それほどではなかったと思います。彼女とも、二人で、頑張って両家の了解を絶対勝ち取ろうとエールを送り合っていた程で、張り切っていた位ですから……。それに彼女は、困難なことがあると逆にファイトが出て、元気になる性格でしたし、彼女に変わったことはなかったように思います。彼女の交友関係については、こちらのことしか分かりませんが、変な人間はいなかったように思います。Y区でのことに関しては、清水さんの方がよく御存知なんじゃないですか?」
「そうですか。ところで、君はどうなんだい?由美さんと会ったり、電話したりして何か気が付いたことがあったかい?何か悩んでいたとか……、それから、彼女の交友関係で気が付いたことは?」
と、榊原が陽子に尋ねた。
「そうねえー……。しばらく会っていなかったし、でも、あの時の電話の由美は普段と変わらず元気な感じだったな。私も、その時彼女の声を久しぶりに聞いて、元気そうな由美に会うのを期待していた位だもの……。本当に、どうしたのかしら?彼女の交友関係なら、全てを知っている訳じゃなかったけど、彼女も私と同じで仲のいい友達とか、男友達とかいなかったように思うな……」
と、陽子は頭を右に傾け、不思議そうな顔をして言った。
それから、陽子は言葉を続けて、
「彼女は、友達は私しかいなかったんじゃないかな。それに、彼女に男友達とか、女友達の影があるようには見えなかったな。古風というか、今のチャラチャラした人とは合わないようだったし。彼女のこの実家を見ると余計にそう思うわ」
「そうか。由美さんの死因は、友達関係ではなさそうですね。それなら何だろう?陽子さんにメールを送ってから、僕らが地中海で合っていた11時頃から13時頃の間に外出するはずだった由美さんが彼女の家で殺されていたのは……。その間に彼女の身に何があったのだろうか?次のような疑問があるんだ。
1.由美さんは、外出しなかったのだろうか?
2.そこに誰かが訪れたのだろうか?その人間が犯人か?
3.その訪れた人間は、会う予定の人だったのか、それとも違う人間か?
4.由美さんは、外出し人と会っていた場合、それは誰か?
5.会った人間は、会う予定の人間だったのか、それとも違う人間か?会った人間が、犯人か?
6.犯人が、別の場所で彼女を殺して、彼女の家を犯行現場と見せかけるため、彼女の家に彼女の死体を運んだのか?
7.犯人は、目撃される危険が多い真昼間に、何故そんな危険を冒したのか?
8.計画的犯行だったのか?指紋や遺留品がないのがその証拠か?
9.犯人は、男か女か?
10.陽子ちゃんが感じた不気味な視線は誰のか?その人間が犯人か?その人間が地中海にいたとすれば、時間的に殺人犯人とすれば、陽子ちゃんが地中海を出た11時半以降に犯行が行われたことになると思われる。
11.その人間が犯人でなければ、誰が犯人か?
12.単独犯ではなくて複数犯か?
13.陽子ちゃんが、見張られていた状況は何を意味するのか?事件と関係あるのか?
14.警察は、どこまで真相に近づいているのか?
 支離滅裂で、気が付いたことを並べたけど、こんなところかな。陽子ちゃん、他に何か気が付いたことがあるかい?」
と、榊原は思案げに言った。
「ううん。そんなところだと思うわ。私もいろいろ考えようと思うわ」



 由美の葬儀は、その暑い日の午後6時から始まった。
 20畳もあった和室に人が一杯入っていて、座る場所もないくらいの状況であった。襖を開けた廊下や日本庭園となっている豪華な庭にも弔問客が次々と訪れる盛況ぶりであった。弔問客の多さは、旧家ならではの風景であった。
 彼女が安置されている祭壇に向かって、坊さんがお経を読んでいた。
 祭壇の右側には、由美の両親、先ほど会った佳子と会うことができなかった父親の長谷川陽一が目を腫らして座っていた。会場からは、あちらこちらですすり泣きのむせび声が聞こえてきた。
 陽子は、目頭を熱くしながらも、それらの人々をじっと見ていた。変な人がいないか、自分に変な視線を送るものがいないかどうか、神経に気を配り、体を固くしていた。しかし、葬儀の間、自分に目を向ける者はいなかったし、不審と思われるような人物はいなかった。
 二人は、葬儀が終わってから、先ほどの休憩室に向かった。
 そこも、慰問客でごった返していた。お手伝いさん達が、慰問客にお酒を配っていた。居場所がないようだったので、二人は仕方なく、戸口に立っていると、後ろから陽子に呼びかける女性の声が聞こえた。
「あの、すいません、お客様。先ほど奥様とお話しされていた方ですね。居間で、奥様がお呼びですが。宜しかったら、来て頂けませんか?」
 陽子は、振り向いて、
「あ、はい。今、伺います」
 陽子達は、居場所もなく、どうしたらよいか分からなかったので、呼んでもらってほっとした表情をした。
 居間に入ると、陽子は佳子に向かって、
「何かご用でしょうか?」
と尋ねた。
「陽子さん、あなた達、泊まる場所は決めているの?もし決めてないなら、ここに泊まっていって。是非お願いするわ。あなたは、何か他人のような気がしないの。大学時代の由美の親友で、同い年で。あの子ったら一人っ子だったでしょ、だからあなたを見ていると……」
と、佳子はまた涙ぐんだ。
「ごめんなさい。あなたを見ていると、ついつい由美のことが思い出されて……。できれば大学時代の由美のことをあなたから聞きたいし、あの子の思い出を共有しているのはあなただけと思うから。我が儘を聞いて欲しいの」
「宜しいんですか?お邪魔でなければ、喜んで泊まらせて頂きます。でも、これから皆さんで由美を送る会を行うんでしょ?」
「ええ。親戚や特に仲のよい人たちだけで、あの子を天国に送ってあげるため、あの子の好きだった家庭料理を出して、あの子の霊を祭りたいの。成仏して貰うためにも。あなた達も参加してくれる?」
と、佳子は言った。
「身内の方だけなのに、いいんですか?私たち、邪魔じゃないですか?」
「いいのよ。あなた達は、あの子の親友だし、はるばるここまで来てくれたんだから。あなた達も、あの子のために祈ってあげて」
「分かりました。由美のためですものね」
 由美を送る会は、朝方まで続いたようであるが、陽子と榊原は旅の疲れもあったのか、3時間程度は親戚達につき合っていたが、失礼すると断って、早々に休ませて貰うことにした。



 次の日、陽子達は、納骨後に午後からS市の繁華街に行くことにした。まるっきり当てがあるわけではなかったが、何か情報がないかしらと思って、由美がこの町で行ったと思われるような場所(佳子からも情報を得ていたが)を訪ねようとの陽子の提案に榊原が同意した結果であった。
 昨日、二人は佳子から由美がよく行った場所を聞き出していた。
「そうねえー……。あの子は、自然の中でゆったり過ごすのが好きだったわ。散歩には、よくM中央公園に出掛けていたわね。ここからS市駅に行く途中にあって、とても良いところよ」
「他に、よく行く美容室とか、喫茶店とか、ブティックとか知りませんか?彼女は、たぶん一人でそういう店に行くことが好きだったように思うんですけど」
と、陽子は、由美の気持ちになって尋ねた。
「陽子さんの言うとおり、由美は一人で出掛けるのが好きだったみたいね。誰かと一緒に出掛けることは滅多になかったみたいに思うわ。美容室は、美和美容室でしたわ。ここは、私の知り合いの山村美和さんがやっているところで、とても上手な美容室でS市では一番有名じゃないかしら。それから、喫茶店とかブティックにはこちらではあまり行っていなかったように思うわ。大学がY区だったでしょ。あちらでは行っていたと思うけど、こちらには高校までしかいなかったから、その機会はなかったように思うわ」
と、佳子は申し訳なさそうに話した。
「ありがとうございます。明日、午後に由美がよく行っていたと思われる場所を訪問してこようと思っています。由美のなんか思い出とか痕跡が残っていないかなと思って……。もし、何でもいいんですけど、何か思い出しましたら、携帯に電話して頂けませんか?」
と陽子は頼んだ。
「ええ。……明日は忙しいし、気持ち的に由美のことで一杯でそこまで気が回らないかもしれないけど、その時はご免なさいね」
と、佳子は目頭を押さえながらうつむき加減に呟くような小さな声で言った。
「いえ、気にしませんので。気休めの言葉ですけど、気持ちを楽に持って下さい」

 長谷川家を出てから、しばらく歩いていると、後ろから、
「すみません。あの、お二人は、清水さんと榊原さんではないですか?」
「あの、どちら様ですか?」
と、陽子はスーツ姿の2人を見ながら言った。
「申し訳ありません。突然声を掛けまして。私たちは、S警察署の私、山崎と城島刑事です。本庁の要請で、Y警察署の相沢刑事に協力せよとの指令がありまして、長谷川家の葬儀に目を光らすことと。……ええと、お宅ら二人は、これからどちらかにお出かけですか?」
と、40歳代と思われる中肉中背の年がしらの刑事が言った。
「ちょっと、繁華街に行ってみようかなと思いまして」
「そうですか。もし、何かありましたら、私の方に連絡を頂きたいのですが。相沢刑事からはくれぐれも清水さんの身辺には気を付けて欲しいとの話がありましたので」
と、山崎警部が名刺を渡しながら、言った。もう一人の背の高い痩せ気味の刑事 ─ 城島刑事は無言であった。
「分かりました」
 そこで、4人は二人ずつ反対の方向に歩き出した。
「早くも、僕らを見張っているかもしれなかった刑事が正体を現したね」
と、榊原が言った。
「私たちに危険があるということかな?」
「君が、見知らぬ人間からの注視を受けたことに対して、相沢刑事は刑事としての直感からと思うけど、事件と関係があるかもしれないと感じ、こちらの警察に注意を喚起した結果じゃないのかな。僕らも気を付けなきゃならないね。自分達のことだし。まあ、付けられるなど、行動を見張られているかもしれないけど、取りあえず、由美さんが行ったようなところを訪問しに行こうか?」
「ええ」
と、陽子は、気を取り直して言った。
 二人が古い町並みを歩き出してから、しばらくして、大きな公園に出くわした。公園の入口には、M中央公園と書いた看板が見えた。ここが、佳子が言っていた由美が散歩でよく訪れていた場所と思われた。
 二人は、どちらともなく公園の入り口に向かった。
 公園の入口を入ると、200台は停まれそうな広い駐車場があり、その駐車場を通り過ぎ10段程度の階段を上ると、その先は鬱蒼とした林が広がっていた。林の中には、幾つもの遊歩道があり、S市駅へ抜ける道、国道へ抜ける道等があった。彼らは、S市駅へ抜ける遊歩道を辿ることとした。ここは、里山なのかもしれない。
 林の中は、木漏れ日が適度にあり、外界よりは幾分涼しそうな佇まいとなっており、遠くから小鳥の声も聞こえる。そして、暫く歩くと車の喧噪も聞こえなくなり、蝉時雨だけが二人を包んだ。
 陽子は、
「ねえ、洋介さん。この公園は、広いしS市駅にも近いし、由美が散歩でよく来ていたことがよく分かるわ。彼女、自然が好きだったから」
と、林の佇まいを眺めながら言った。
「そうだね。ここなら早朝に歩いたら気持ちがいいだろうな。それにアベックなら最高だね」
と、洋介も陽子を見ながら、恥ずかしそうに言った。

第二章 林の中の恋人




二人は、20分程度歩き、公園出口に辿り着くまで何となく幸せな気分を味わっていたが、そんな気分を突然女の悲鳴が破った。
「ワン、ワン。きゃー……、だ、誰か来て……。ひ、人が死んでる。早く、早く来て」
二人は、夢心地から現実に戻り、目を見交わせ聞こえた叫び声の方を探し出した。
「たぶん、少し戻った辺りからじゃないかな。左の林の方から聞こえたようだけど。君はどう思う?犬の声も聞こえたね」
「私もそのように感じたわ。ねえ、すぐ行きましょう」
彼らは、今来た道を100m程駆け足で戻って行った。その時、左側の林から若い女性が遊歩道に飛び出してきた。
「……助けて」
と、言ってその女性は道に座り込んで両手で顔を覆い、大きく肩で息をしていた。
「大丈夫ですか?どうしたんです」
「あそこで男の人が死んでいるわ。怖い……」
若い女性は顔を歪め、林の1点を見つめ、洋介に訴えるように震えながら叫んだ。
「ワン、ワン、ワン、ワン。クーン、クーン」
鎖を付けたままの紀州犬が林から飛び出してきた。若い女性のところに戻ってきて、体に鼻を寄せて、心配そうに小さな声を出した。
「大丈夫よ、大介」
と言って、若い女性は犬を胸にかき抱いて、離れたらイヤと言うような素振りを見せた。
「ここでちょっと待っていて下さい。いいですか?見てきますので、大丈夫ですね?」
と、洋介は若い女性の肩に手をそっとおいて優しく語りかけた。
「陽子ちゃん。ちょっと見てくるから、この人を見ていてくれますか?」
「はい。気を付けて行ってね」
「うん。大丈夫だよ」
と、洋介は言ったものの空元気であり、ビクビクしながらも勇気を出して林の奥に歩き出した。
(死体なんて初めて見るからな。やっぱり怖いや)
 洋介は、林の中を30m程度入っていくと、太い木の枝にぶら下がった人を発見した。
(自殺だろうか?もうちょっと近づいて見ようか)
(あれ……。この人は?由美さんの婚約者だった工藤さんじゃないか?大変だ、陽子ちゃんに早く知らせなくては。それに警察、警察)
 洋介は、あわてて陽子のいる道へ引き返して行った。
 それを、林の影から人影が、黄色い歯の覗く口を薄く開け、にゃっと歪んだ笑いを見せ、洋介の背中に鋭い視線を浴びせていた。そして、その視線を全く気づかない洋介であった。
「陽子ちゃん。陽子ちゃん」
「洋介さん、どうしたの?洋介さん、顔が真っ青よ」
「大変なんだ。死んでる人は、あの工藤さんなんだよ」
「な、なんですって……」
と、陽子は絶句した。
「とにかく、警察に知らせなくては。なんて言ったかな……?あ、そうそう、名刺をもらったんだ。陽子ちゃん、早く名刺を出して」
と、洋介は急かすように早口で喋った。
 洋介は、携帯を取りだし、
「もしもし。S警察署ですか?山崎警部は居られますか?はい、榊原といいます」
「変わりました。山崎ですが」
「もしもし、先ほど清水陽子さんと一緒にお会いした榊原ですが。大変なんです。死体を発見しちゃって。発見したのは、若い女性ですが……。ええと、ここはM中央公園なんですが、S市駅側の遊歩道から100m程戻ったところです。ここから左側の林の中へ30m程入ったところに死体があります。実は、由美さんの婚約者だった工藤さんがどうも首つり自殺したようなんです。
すぐに来てもらえますか?それから、名前は聞いていないんですが、若い女性がかなりショックを受けていて、救急車もお願いします。あ、はい、私たちは大丈夫です」
「君、何て名前?すぐ、救急車が来てくれるから」
「私は、篠原和泉と言います。おえ……」
と、女性は小声で答えて、思い出して吐き気を催したのか、口を手で塞ぐような仕草をした。
「ねえ、大丈夫?」
陽子は、慌てて脅えている女性の背中をさすってあげていた。
 暫くして、吐き気が収まったのか、
「あ、もう大丈夫です。すいません」
と和泉は言って、陽子にうなずく様に軽く頭を振った。
「陽子さん、どうする、工藤さんを見てくるかい?どう、篠原さんは、ここに一人でいても大丈夫かい?実は、死んでいる人、僕たちの知っている人なんだ。陽子さんにも確認して貰いたいんだけど。君一人で大丈夫かな?」
と、榊原は二人の方を見て優しくささやいた。
「ええ、もう大丈夫です。だいぶ落ち着きましたので。陽子さんでしたわね、私に構わず、見てきて上げて下さい。すぐにも警察が来るんでしょう……?大介もいるし」
「また、死体を見るのは嫌だけど。ここは由美のためだし、勇気を出して……。洋介さん、行きましょう。はあ……」



 二人は、先ほど洋介が入っていった林の中に入り、恐る恐る知り人の方へ近づいて行った。
 その知り人の姿を目に入れたとき、陽子は、
「きゃー……、工藤さんどうして……。由美が死んだから?」
「陽子ちゃん。これを見てくれよ。手紙じゃないか?」
 洋介が指さしたのは、木の根本にキチント揃えられた2足の靴の左側の中に差すように封筒に入った手紙が添えられていた。一見して遺書のようだ。
 榊原は、ハンカチを出して手にくるみ、その手紙を靴から取りだし、中を開こうとした。
「よ、洋介さん。勝手に手紙を開いたら……」
と、陽子がいう間にすでに洋介は封筒から手紙を取りだし、4つに折り畳んだ手紙を開きだしていた。

『 長谷川佳子様

お母さん、本当に申し訳ありません。
 由美さんは、私が殺しました。彼女とは、結婚することになっておりましたが、暫く離れているうちに彼女の心が私から離れていってしまいました。その状態に耐えきれず、彼女を殺す気はなかったのですが、別れ話の最中にカーとしてしまって……。
 気が付いたときには、彼女の部屋で彼女の首を絞めておりました。私は、悔やんでも悔やみきれません。
 そして、お母さんには最愛の娘を失うことになって、何と言ったらいいのか、私を恨んでも恨んでも恨みきれないと思います。
 本当にすいませんでした。許して頂けるとは思いませんが、これが私の謝罪の気持ちです。
 死んでお詫びいたします。

             2005年 9月2日 
工藤芳樹      』

この遺書といえる佳子に当てたワープロで書かれた手紙には、工藤の慚愧の気持ちが書かれていた。
「洋介さん。これは、工藤さんの遺書かしら?私には、どうしても工藤さんが由美を殺したとは思えないの。それに、由美が心変わりするなんて……、信じられないわ。由美は、どちらかというと一途だもの。理由はないけど、何となく女の六感というか、直感というか、信じられないの」
「そうだね。工藤さんと由美さんのお葬式の前に合った時、悲しみに打ち沈んでいて、物静かな印象を受けたけど、由美さんを本当に愛していたようで、とても人を殺せるような男には見えなかったよ。ましてや由美さんを……」
 その時、洋介の言葉を中断させるように、
「おおーい。榊原さん」
と、怒鳴る声が聞こえた。
「篠原さんを一人で置いて来ちゃだめじゃないですか。まあ、紀州犬も居たので、一人とは言わないかもしれないが。彼女は救急車で運んで貰いました。かなりショックだったようですが、落ち着いたら話を聞こうと思っておりますよ。ところで榊原さん、手に持っているのは何ですか?」
「すいません。大介、紀州犬の名前ですけど、彼がいたので、まず、大丈夫だと思ったものですから。ああ、これは遺書です……どちらかと言うと、遺書と思われます。僕らは、どうも遺書そのものの内容を信じられない気持ちですが……。その靴の左側の中に添えられている封筒の中に入っていたんですよ。勝手に読んでしまって、すいません。でも、救急車もパトカーのサイレンも聞こえなかったな。
君は、聞こえたかい?」
と、洋介は陽子に振り返って、バツが悪そうにウインクをしながら聞いた。
「いいえ、私も聞こえなかったわ。この辺までは外の音が聞こえないのかしら?それとも、上の空だったからかな」
と、陽子は小首を傾げながら言った。
「困りますね。勝手に事件現場の証拠品を触っては」
山崎警部は、幾分声を荒げて非難した。
「すいません。ハンカチで包んで触りましたので、僕の指紋は付いておりません。気になったものですから」
洋介は頭をかいて謝って、手紙を山崎に渡した。
「まあー、しょうがないでしょう。篠原さんが第1発見者で、あなた達が第2発見者とのことですが、あまりにもタイミングが良すぎますねえ。ええと、どれどれ」
山崎は、意地悪な目を陽子と洋介に向けた。
 山崎警部は、その手紙を読んでから、
「この工藤青年が、長谷川さんを殺したのか。よくある恋愛のもつれによる殺人と自殺ですか?これで事件は解決かな?」
と、山崎は言ってから、
「城島君、これを鑑識に回してくれ。大事に扱ってくれよ」
「山崎警部、そろそろ鑑識も来ることですし、この辺は立ち入り禁止にしませんと」
と、先ほど会ったもう一人の刑事が言った。
「榊原さん、清水さん。申し訳ありませんが、ここは立ち入り禁止区域にしますので、一度長谷川さんのお宅にお戻り願えませんか?それから、後ほどお電話を差し上げますので、ご足労ですが私どもの署の方へ来て頂けませんか?詳しいお話をお聞きしたいものですから」
と、山崎警部は、今度は馬鹿丁寧に喋った。
「ええ、署には伺いますが。その前に、由美がよく行ったと思われるような美容室とかに行ってみたいので。町の方にいますわ」
「そうですか。それでは署に戻りましたら携帯の方にお電話しますよ。相沢刑事からあなたの携帯の番号も聞いていますので」
「あ、あの時……。相沢刑事に由美からのメールを見せた時に、携帯番号とメール番号を調べたのね。何気なくだけど、さすが警察ね。抜け目ないわ。私のメール番号も知っているんでしょ?」
と、陽子は山崎警部を睨んで言った。
「知っていますよ。そんなに睨まないで下さいよ。警察は市民の安全のためにいろいろなことを知っていなくてはいけませんので。それでは後ほど、署の方で」
と、山崎はあたかも二人が邪魔というように、手を横に2、3度シッシッと振るようにしてから、お辞儀をして言った。
「それじゃ、僕らはこれで失礼しますよ。そうそう、大介はどうしましたか?」
「あの紀州犬ね。取りあえず、警察で預かることにしましたよ。後ほど篠原さんの家族に引き取りに来て貰いますよ」
「それじゃ陽子ちゃん、行こうか。邪魔だろうから」
「ええ、行きましょう」
 二人は、事件現場から離れ、遊歩道に戻りだした。
 遊歩道を出口に向かいながら、
「これからどうする?」
「遅くなっちゃったけど、由美のお母さんが言っていた美和美容室に行ってみたいの。由美が唯一行っていた所というから、彼女の痕跡や彼女についての話が聞きたいのよ。私の知らない彼女の顔があるのかどうか……?」
 二人は、出口を抜け、S市駅方向へと向かった。



 美和美容室は、繁華街の交差点に面したビルの1階にあり、その佇まいが人気店らしく人目を引くピンクを基調とした外観を呈していた。
「ここが、美和美容室ね。すぐに目に付く場所にあるわね」
「人気があるというのも頷けるね。まあ、僕には馴染みのない場所だけれどね。理容室にはよく行くけどね。女の人には元気の出る場所なんだろうね。陽子ちゃんも元気を出さなくっちゃ」
と、洋介は笑いながら陽子を元気付けるように言った。
「ごめん下さい」
「いらっしゃいませ。今混んでいまして、1時間位は待って貰わなくてはいけませんが」
「いえ、ここのオーナーで山村美和さんにお会いしたくて伺ったんです。私、清水陽子と言いまして長谷川由美の友達なんです。こちらは、榊原洋介さんです」
「あの、Y区で亡くなった由美さんのお友達ですか?大変だったと思いますが、お悔やみ申し上げます」
と、店員は頭を下げて言った。
「ところで、美和さんは居られるのでしょうか?」
「すいません。今、美和は外出しておりまして、何時に戻ってくるか分からないんですよ。戻ってきましたら、ご連絡しますので、携帯番号を教えて下さいますか?」
「分かりました。携帯番号は、090─XXXX─XXXXです。宜しくお願いします」
 二人は、会いたい人に会うことができなかったためか、黙り込んだまま、俯き加減で美和美容室を後にし、S市駅方面に後戻りし始めた。その時、陽子の携帯がプルプルとけたたましい音を立てた。
 陽子は、考え事をしていたためか、吃驚して、慌てて携帯を鞄から取りだした。
「もしもし、清水ですが」
「清水さんですか?S警察署の山崎です。榊原さんとご一緒ですか?できれば、今からお二人とも、S警察署の方にいらして頂きたいのですが?」
「分かりました。今から伺います」
 陽子は、携帯を切って、榊原に向かい、
「洋介さん。山崎警部が、私たちに警察署の方に今すぐ来て欲しいと、言っているんだけど。洋介さんも行ってくれるでしょう?」
と、頼み込むように言った。
「陽子ちゃん。何も頼み込むように言わなくたっていいよ。僕も呼ばれているんだろう」
「そうなんだけど。洋介さんには迷惑ばっかり掛けているから」
「気にすることないよ。僕は、陽子ちゃんのために、行動すると決めているし、君にもそう言っただろう」
「ありがとう」
と、陽子は言って少し涙ぐんだ。
「陽子ちゃん、少しセンチメンタルになっているな。僕が付いているから、大船に乗った気持ちとはいえないけど、少しは頼りにして」
「ご免なさい。今日、いろいろなことがあったから。ショックから抜けきれていないのかなあー」
 二人は、S警察署に向かって歩き出した。



 清水陽子と榊原洋介がS市駅に向かっているその頃、工藤芳樹が自殺したと思われる事件現場では、山崎警部と城島刑事が鑑識共々大木の周りを熱心に何か別の証拠品がないかどうか血眼になって探していた。
「城島君。何もなさそうだな。後は鑑識に任せて、君は、第1発見者の、ええと、何て言ったかな?」
「篠原和泉ですよ」
「そうそう、その篠原和泉の事情聴取のため、搬送先の病院に寄ってきてくれ。俺は、署に戻って、あのお二人さんを呼んでおくから」
「分かりました。それじゃ、行って来ます」

 篠原和泉が救急車で搬送されたS市市民病院の一室で、城島刑事は篠原和泉が寝ているベッドの横に立って、篠原和泉に向かって事情聴取を行っていた。
 篠原和泉は、青白い顔はしていたが、落ち着きを取り戻し、事情聴取にも落ち着いて答えていた。
「篠原和泉さん、あの現場に居られたのは、どのような事情があったのですか?昼間でもあの林の中は、犬が居たとはいえ、20代の若い女性が一人で散歩するような場所とは思えませんが……。」
「はい。M中央公園は、私と大介が一番気に入っている場所なんです。だから、大介とよく散歩に来ます。いつもは遊歩道を散歩するんですけど……。はあー」
と、和泉は言って、一息ついた。
「それで?」
「大介はどこですか?」
「この病院に犬を連れてくることもできないので、署の方で預かっていますが、たぶんあなたのご家族が引き取りに来ていると思います……」
「そうですか。何処まで話をしましたでしょうか?」
「いつも、大介君と遊歩道を散歩するところまでです」
「ええと、あの遊歩道を大介と散歩していた時、急に大介が唸りだして、飛び出すように左側の林の方に体を向けたんです。その時、急だったものですから、私、吃驚して体のバランスを崩しちゃって、手に持っていた大介の鎖を思わず放してしまったんです。」
 城島刑事は、目で合図しながら先を促した。
「大介が林の中に入っていったものですから。『大介、待って』と叫びました。大介を見失ってはいけないと思ったので、何も考えず追いかけていきました。そしたら……」
 和泉は、その時のことを思い出したのか、ぶるぶると体を震えさせた。
「大介君が、吠えていたところに、首つり死体があったのですね」
「ええ。最初は、大介が吠えているのが見えていたんですけど、何があるのか分かりませんでした。兎に角、大介のところに向かいました。大介は2、3度吠えた後、あの大木に前足をかけて、あたかも登るような姿勢で吠え始めたんです。私は、思わず大木の上の方を見上げる格好になり、そして、そして……。怖くなって、助けを呼んでいました」
「すると、大介君を追いかけて行って、図らずも死体を発見してしまったと言うことですね。それからどうしました?」
「私は、怖くなって……。大介のことも忘れて、大介を置き去りにして遊歩道の方へ一目散に駆けていってしまったんです。遊歩道でうずくまっていた時に、あのお二人が声を聞きつけて駆けつけてくれました」
「それから、あなた達はどのような話をされたのですか?」
「お二人の名前は、よく知りませんが、お二人の話から、陽子さんと洋介さんだと思います。洋介さんという方が、一人で死体を見に行って、戻ってきてから、陽子さんに『死んでる人は、あの工藤さんなんだよ』とおっしゃってから、警察に電話していました。救急車の手配もしてくれたようです」
「それから、あの二人が死体を見に行ったのですね」
「はい。陽子さんが背中をさすってくれていたんですが、洋介さんが陽子さんに死体を見に行くかどうか尋ねて、二人で見に行きました。私は、大介も戻ってきていましたので、お二人には大丈夫と答えました」
「二人の様子はどうでしたか?何かおかしな素振りはありませんでしたか?大げさとか……」
「え……?お二人に何もおかしな素振りなんかありませんでした。とても優しい方達で、私のことを気付ってくれて、二人とも、死体が知っている人ということで、非常に吃驚していました。その様子から、大げさとは思えませんでした。そういえば、陽子さんが『由美のため』とおっしゃっていましたけど、どういうことなんですか?」
「……」
(あまり、詳しいことは話さない方がいいな。山崎警部がうるさいからな)
城島は、胸の中で呟いた。
「あなたは、長谷川由美さんという方を知っていますか?」
「いいえ、初めて聞く名前で、お会いしたことはありません」
「実は、長谷川由美さんという方は、清水陽子さんのお友達でして、1週間程前に亡くなっています。そして、あなたが発見された工藤芳樹さんが亡くなった由美さんの恋人だったようです」
「それで、陽子さんがあんなに吃驚していらしたんですね」
(この人の様子からすると、あの二人は工藤の事件とは関わりがないのかな。そろそろ、終わりにして、署に戻るか)
「篠原さん。どんなことでもいいのですが、他に気が付いたことはありませんか?」
「怖かっただけで、後は思い出せません」
「そうですか。それでは、もし何か思い出せましたら、名刺に書いていますので、S警察署の私までご連絡頂けませんか?どうも、ありがとうございました。ゆっくり休んでいって下さい」
「はい。ありがとうございます」



 S警察署は、S市役所、地方裁判所、市立図書館などの公共施設が集まった一角にあった。
 清水陽子と榊原洋介は、山崎警部を尋ねて行った。
 二人は、案内の者に2階にある会議室に連れて行かれた。そこには、山崎警部と若い刑事が一人いた。ただし、あの城島刑事はいなかった。
「どうぞ、こちらに座って下さい」
と、山崎警部は、彼の座っている席の向かい側を指さして微笑みながら言った。
「取調室ではないんですね。別々に取り調べられるかと思っていましたよ」
と、榊原は皮肉を込めて言った。
「いえいえ。あなた方は、工藤さんを第2に発見された方ですし、容疑者とは思っていません。唯、警察には協力して頂きたいものですから、正直にお答え下さい」
と、山崎は微笑みを引っ込め、注意するように言った。
「さて、何処から話して貰いますかな。長谷川由美さんの事件は、Y警察署管轄ですが、彼女がS市出身者ということもあって、全く本警察署と関わりがないとはいえませんし、またその恋人と思われる工藤さんが亡くなったとなると、S警察署としても重要な事件として扱わなければなりません。Y警察署と協力関係にもありまして、相沢刑事からはおおよその情報は頂いておりますが、清水さん、できれば、長谷川さんのことから相沢刑事に話した内容を再度話して頂けませんか?それから、今回のことも詳しく話して下さい」
 陽子は、相沢刑事に話したことを静かに話し始めた。
由美とはW大学英文科の同級生で、親友だったこと、会社をずる休みして由美と会うことにしたこと、メールで由美が他の人と会うことになって今日は会えないと言って来たこと、そして榊原に声を掛けられたこと等を話した。
「榊原さんも大学の同窓生とお聞きしていますが……?」
「はい、陽子さんは覚えていないようでしたが、彼女はW大学時代の僕らのマドンナだったんですよ」
と、陽子を見ながら言った。陽子は赤くなり俯いたが、それを見つつ、
「それで懐かしくもなり、また彼女が震えているようでしたので、声を掛けたんです。後から聞いたのですが、彼女は何か得体の知れない視線を感じて震えていたようです」
「そうですか、得体の知れない視線ですか?それで、相沢刑事が心配していたのですね。それでは、その後のことをお話し頂けますか?」
山崎は、陽子に話の先を促した。
「はい。榊原さんと別れた後、自宅に戻ったんですが、TBSの5時のニュースで由美の死を知りました。それからY警察署に伺いまして、相沢刑事にお会いして、由美の死体に対面し……」
俯き加減で涙ぐむと、
「すいません。後は、相沢刑事に先ほどお話しした内容をお話ししました。それから2日後に榊原さんのお店に伺いました」
と、洋介を見て言った。
「私の店は、「千年の恋」と言いまして、店長をやっています。相沢刑事も事情聴取に来られました」
「どのようなことを話されたのですか?相沢刑事は知らないことですか?」
「あ、はい。相沢刑事にはお話ししておりません。特に、話さなくてはならないことでもなかったので。榊原さんにも相沢刑事に話したことを話したんです。由美が亡くなってから、話を聞いてもらう人もいなくて、心にポッカリ穴が開いたようで……。そしたら、洋介さんが元気づけてくれて、一緒に由美の葬儀に出席する約束をしてくれました」
「そうです。僕も何だか清水さんが心配で、いても立ってもいられなかったものですから、彼女のボデーガードじゃないけれど、一緒に山形まで行くことにしたんです」
「それから4日後に相沢刑事から電話がありまして、由美の葬儀に出席することと、山形の滞在の予定を聞いてきました。相沢刑事はこちらには来られないこと、私たちがY区に帰る時に連絡することを要請してきました。山形県警とS警察署の担当捜査員が葬儀に目を光らしているとおっしゃっていましたが、それが山崎警部と城島刑事ですね?」
「はあ。……我々だけではないですけどね。それからの行動は?」
「次の日に榊原さんと東京駅で落ち合い、山形新幹線で昼にはこちらに来ました。それから、由美の実家に向かいました」
と陽子は言った。
「山形に着いた時からのあなた方の行動は、ほぼ調べが付いています。タクシー会社にも確認しております。ところで、由美さんの実家で何か気が付いたことはありませんか?工藤さんのことについてもお伺いしたいのですが、宜しいですか?」
と、山崎警部は目を光らせながら言った。
「はい。由美の家では、由美のお母さんにお会いしました。佳子さんに挨拶した後、休憩室に案内されまして、そこで工藤さんにお会いしました。工藤さんは、悲しみに打ち沈んでおりまして、私達二人とも声を掛けるのもはばかれたのですけど、私は思いきって工藤さんに声を掛けました。それから、お互いに挨拶を交わしました」
「悲しみに打ち沈んでいたと仰いましたが、他に気が付いたことはありませんか?」
と、山崎警部が聞いた。
「榊原さんが、工藤さんに由美の恋人ではないかと尋ねたんです」
「僕が、何となく彼が由美さんとただならない関係にあったと思ったものですから、失礼と思いましたが、率直に聞いてみました。すると、工藤さんは結婚する予定だったと言っていました」
「それから、私は、由美と会う約束をしていたのが工藤さんじゃないかと伺ったんですけど、工藤さんはキッパリ否定されました。工藤さんはこちらにいたと……」
「それは、おかしいですね。工藤は、由美さんを殺害したと遺書で述べているのですよ……」
と、山崎警部は疑わしそうに陽子達を睨んで言った。
「工藤さんがこちらにいたかいなかったがどうかは、調べればすぐ分かることじゃないですか?確かに、彼は僕たちに向かって否定したのです」
と、榊原は反発するように言った。
 その時、城島刑事が会議室に入ってきた。城島刑事は、山崎警部の耳元で、
「……」
と耳打ちした後、山崎警部は二人に向かって、
「ちょっと待っていてくれませんか?すぐに戻りますので……」
と言って、二人して会議室を出て行った。
「きっと、城島刑事は篠原さんが搬送された病院に行って、事情聴取してきたんだと思うな。その結果を山崎警部に話しているんだと思うよ」
と、榊原は陽子の耳元で囁いた。



 若い刑事は、供述を熱心に書いていたが、刑事二人が出て行くと手持ち無沙汰になったためか、どう対処していいのか困った表情をしていた。ただ、陽子達二人を見張る役も仰せつかっているのか、もじもじしながらも、
「すいませんね。すぐ戻りますので。喉が渇きませんか?お茶を頼みましょう」
直ぐに彼は、会議室の入口の壁に設置された電話でお茶を2人分頼んでいた。
 暫くして、若い婦警さんが二人分のお茶をお盆に載せて運んできて、二人の前に湯飲み茶碗を置いた。
「どうぞ、冷めない内に飲んで下さい」
と、若い刑事は言った。
「刑事さんは、飲まないのですか?」
と、洋介は聞いた。
「ははは……。警察というところではお客さんだけにお茶を出すのですよ。よっぽどでなければ、僕たちは飲みません」
「そうですか?事件もののテレビ番組でも、刑事さんが僕たちのような容疑者を前にしてお茶を飲むようなシーンはあまり見ないですものね」
「え?容疑者ですって……?とんでもない。そんな風には思っておりませんよ」
山崎警部と城島刑事が、苦笑しつつ会議室の入口から顔を出しながら入ってくるところであった。
「僕らが容疑者なので、刑事さん達は僕らとは一緒にお茶を飲まないのかなと思って……」
と、榊原はまた皮肉を込めて言った。
「あなた達は、2つの事件の容疑者とは思っておりませんが、事件を解決するための重要な参考人、いや、……方達とは思っております」
と、城島刑事が初めて口を開いた。
「城島君、私達も、お茶を飲むかね。お疑いのようだから……」
「山岡君、我々にもお茶を頼んでくれよ?」
と、城島刑事は、若い刑事に話した。
 結局、先ほどの婦警さんが3人分のお茶を持って会議室に現れることとなった。
「……さてと。続きをお願いしますか?」
と、山崎警部はお茶を一口口に含んでから言った。
 山岡と呼ばれた若い刑事は、お茶には手を伸ばさず、真剣な顔をして供述書に向かい、一言も漏らさず記載しようと構えていた。
「榊原さんが工藤さんに由美の交友関係とか何か気が付いたことがあるかどうか質問していましたけど、工藤さんには由美が殺された理由が分からないようでした。とても真剣に話していましたし、由美のことをほんとに愛していたんだなと感じました。そんな工藤さんが、由美を殺したなんて信じられません。何かの間違いです」
と、陽子は自信ありげにキッパリと言った。
 洋介は、陽子のそんな気丈な姿を見て、また新しい陽子の姿を垣間見たように新鮮な驚きで陽子の顔をじっと見つめていた。
 陽子は、そんな榊原の視線を感じて、恥ずかしげに俯いた。
「僕も、清水さんと同じように感じました。工藤さんが犯人ではないし、そんな人殺しのできるような人ではないと……。ただ、工藤さんが一瞬言葉に詰まった時がありまして……、なんか気が付いたことがあったように思うのです。……一瞬ですが、アッというような驚いた表情が垣間見えたものですから。その後、田舎では結婚が家同士の儀式なので、難しいとは言っていましたが、その時は饒舌になっていたのが不思議で、心ここにあらずというようで、何か考え事をしていたのを無理に隠すような調子に見え、その時ちょっと変だなと感じました。彼が、気が付いたことは、何だったのだろうか……?今思うと、由美さんの事件に関係あることのように思えてなりません。彼は、事件の全貌に気が付いたのではないでしょうか?だから、彼は自殺に見せかけて殺された……」
洋介は、陽子の話に付け加え、首を傾げながら考え込むように、そして一気にまくし立てた。
(この人、よく人を見ているわ。……全然気が付かなかったな。だめだな、私は。これじゃ、由美の弔い合戦もできないわ。でも、良かったわ、洋介さんがそばにいてくれて、頼りになるわ)
陽子は、知らず知らずに洋介を眩しげにウットリと見つめている自分を感じ、ハァッとして我に返り、またまた顔を赤らめ、誰も自分の顔を見ていないこと祈っていたが、恥ずかしくて誰の顔を見ることもできないでいた。
 陽子は、しばらくしてから、気を落ち着けて次のように言った。
「私が由美と付き合った限りにおいては、Y区には由美と特別な男女の友達はいなかったように思います。そんな影には少しも気が付きませんでした……。私も、榊原さんの意見に大賛成です」
「……ですが、人間は皆秘密を持っているものでして……。清水さんが、気が付かなかったこともあるんじゃないですか?」
と、城島刑事が問いかけた。
「由美に限って、私に秘密を持つなんて考えられないわ。それに好きな人が故郷にいたんですもの」
「我々は、相沢刑事を含め、由美さんには工藤さん以外の男の影があったように考えています。そして、工藤さんが由美さんを殺すことはできなかったように考えています。工藤さんの当時のアリバイを現在調査しておりますが、ただ、工藤さんが最初におっしゃっていたこちらにいたという点については疑っています。Y区に居られた可能性も否定できません。しかし、工藤さんは、自殺ではなく殺された疑いが出てきたのです。従って、遺書は誰かが書いて現場に置いていったと疑っています。直筆ではなく、ワープロで書かれていましたし……」
と、山崎警部が慎重に話した。
「山崎警部、工藤さんが殺された証拠が出てきたのですか?」
と、榊原が尋ねた。
「実は、工藤さんの検視結果が先ほどでまして、検死医が言うには、死因は窒息死で、首にロープではない別の圧迫現象が微かに残っていたそうです。ロープの跡から、僅か0.5mm下に一見したところでは分かりませんが、何かロープとは違う布のような繊維跡と皮下出血が見られたそうです。ロープの跡と重なっているので、よく見ないと分かりませんが、検視医が詳細に観察し発見したそうです。自殺の場合、あまり詳細には観察しませんが……。これは、失礼。この繊維跡はたぶん革製の手袋と思われるそうで、犯人は工藤さんの首を絞めて殺してから、自殺したように見せかけてロープで吊したように考えています」

第三章 再会



 会議室は、暫く声もなく、静寂が漂っていた。
 陽子は、山崎警部の話を聞いて、またショックを受けていた。
 どれ位時間が経っただろうか?陽子にはこの重苦しい空気のため、静寂が1時間もの長さに感じられたが、数分のことであった。
 その重苦しい空気に我慢できずに、
「何故、ロープ以外の圧迫現象が分かったのでしょうか?犯人には分からなかったのでしょうか?」
と、榊原は聞いた。
「たぶん、犯人は工藤さんの首を絞めた痕跡は、重なっていればロープの痕跡で消せると考えたと思われます。同じロープで首を絞めた後に、ロープで吊した場合、索条痕が一致するため、自殺か他殺か見分けるのはほとんどできなかっただろうと検視医は言っています。また、少なくてもよくある現象ではないが、ロープで首が絞まった後にそれ以前の皮膚下の充血が再び浮かび上がった可能性があります。炎にあぶり出された文字ではないですが、そのようなことも人間の体にはあるようです。被害者の怨念みたいな思いが出現したのかもしれません」
と、山崎警部は重々しく答えた。
「山崎警部、工藤さんも殺されたとなると、由美さん殺しと同じ犯人でしょうか?その疑いが強いと思いますが、それはどんな人物像なのか?警察では、捜査段階である程度容疑者の目途が付いているのですか?教えて頂けませんか?何処まで捜査が進んでいるかでもいいのですが……」
と、榊原は尋ねた。
「困りましたね。まだ捜査がそれほど進展していない状況で、捜査員は必死に調査していますが、まだ容疑者の目途も付いていないのですよ。今のところ五里霧中の状態でして。由美さん、工藤さんご両人の事件の目撃者が現れるといいのですがね。今のところ、Y、S警察署の捜査本部ともお互いの事件現場付近の捜索を徹底的に実施していますが、目撃者も見つからない状態でして……」
と、山崎警部が答えた。
「由美さんの事件に関して、陽子さんにも話したんですが、僕は次のような疑問を持っていました。
1.由美さんは、外出しなかったのだろうか?
2.そこに誰かが訪れたのだろうか?その人間が犯人か?
……」
榊原は陽子に話した14項目の疑問点を山崎警部にぶつけた。
「……」
「今回、工藤さんが殺されたとなると以下の疑問もわきます。
1.由美さん殺しと工藤さん殺しの犯人は、同一犯か?
2.それとも別々の犯人か?
3.何故、犯人は工藤さんを自殺と見せかける必要があったのか?
4.工藤さんを由美さん殺しの犯人として仕立て上げることによって、安全になると考えたからか?
5.工藤さんは事件現場で殺されたのか、それとも他の場所で殺され事件現場まで運ばれたのか?
6.工藤さんは、犯人と顔見知りか?
7.工藤さんと犯人は顔見知りではないが、犯人にとって工藤さんは危険な人物だった。その理由は何か?由美さん殺しの犯人であることを疑われる危惧があったからか?
8.工藤さんは襲われて殺されたのか、それとも犯人と会っていて殺されたのか?
9.陽子さんが感じた不気味な視線の人物とこの犯人の関係は?同一人物か、全く別人か?
10.犯人は、単独犯か、複数犯か?
11.犯人は、男か女か?
12.目撃者はいないのか?
13.警察の見解は?
 以上ですけど、山崎警部はどう思われますか?」
「そうですな。私見ですが、あなたとほぼ同じことを疑問に思っています。ただ、工藤さんを由美さん殺しの犯人に仕立て上げることがこの事件の核心だと思っていますが」
と言いながら、
「どうもご協力ありがとうございました。そろそろお帰りになって結構です。またご協力して頂くことがあるかもしれませんので、その時は宜しく願いますよ」
山崎警部は、二人を解放してくれた。



 1時間後、S警察署会議室では捜査会議が開かれていた。
 山崎警部は、黒板に次のように書いた。

・8月25日
Y区で長谷川由美が殺される。
現在、犯人は逮捕されていない。
・ 9月1日
由美の友人である清水陽子と榊原洋介が由美の葬儀に出席。
・ 9月2日
M中央公園で工藤芳樹の首つり死体が発見される。
工藤芳樹は、由美の恋人だったと思われる。
第1発見者は、篠原和泉で、紀州犬との散歩の途中で、犬の行動により工藤の死体を発見。
 第2発見者は、清水と榊原で、散歩の途中犬の吠え声と篠原の叫び声を聞きつけ、駆けつける。 
 榊原が、工藤のワープロ書きの遺書を発見する。
工藤は、遺書の中で由美を殺害したことを告白している。
検視により、工藤は殺害された疑いが強くなった。ロープの痕跡の他、革手袋の繊維の跡が発見された。
 遺書は、偽物と思われ、真犯人は工藤を由美殺害の犯人に仕立て上げ様としたことが疑われる。
・ 疑問点は、以下の通り。

○由美殺しと工藤殺しの犯人は、同一犯か?
○それとも別々の犯人か?
○何故、犯人は工藤を自殺と見せかける必要があったのか?
○工藤を由美殺害の犯人に仕立て上げる必要があったからか?
○工藤は事件現場で殺されたのか、それとも他の場所で殺され事件現場まで運ばれたのか?
○工藤は、犯人と顔見知りか?
○工藤と犯人は顔見知りではないが、犯人にとって工藤は危険な人物だった。その理由は何か?由美殺しの犯人であることを疑われる危惧があったからか?
○工藤は襲われて殺されたのか、それとも犯人と会っていて殺されたのか?
○ 清水陽子が感じた不気味な視線の人物とこの犯人の関係は?同一人物か、全く別人か?
○ 単独犯か、複数犯か?
○ 犯人は、男か女か?
○目撃者はいないのか?

 山崎警部は、以上の項目を黒板に書いて、
「私は、長谷川由美と工藤芳樹殺害は、同一犯人の仕業と考えています。長谷川由美を殺した自責の念から工藤が自殺したと見せかけるのが、最も真犯人にとって安全となる方法と思えるからです。そうでなければ、自殺と見せかける必要もないと考えられるからです。そして、単独犯か複数犯かは分かりませんが、犯人は男と思っています。工藤を大木に吊すのは女の力では無理と思いますので」
と、山崎警部は自信を見せて話した。
「警部、それは榊原が話していたことではないですか。受け売りですか?」
と、城島刑事が皮肉たっぷりに言った。
「それはどういうことかね?」
と、西島本部長が言った。
「じょ、城島君、余計なことは言わんで宜しい。本部長、何でもありません。城島君が勘違いしたんですよ」
と、山崎は城島刑事を睨んでちょっと苦笑しながら慌てて弁解した。
 城島刑事は、あちらを向いてクスと笑ったようだ。ざまーみろというように。
「ところで、清水陽子と榊原洋介がこの2つの事件と関係しているが、疑わしいところはないのか?」
「この2人は、事件とは無関係と思います。シロと思われます。篠原和泉もその行動から無関係と思われます。Y警察署の相沢刑事が言っておりましたが、清水陽子の話が真実として、不気味な視線を送った人物が鍵を握っているように思われます」
と、山崎警部は答えた。
「目撃者はまだ見つかっていないのかね?」
「はい、捜査員全員で聞き込みに回っていますが、まだ発見されていません」
と、今度は城島刑事が答えた。
「殺人現場からは、遺書の他に真犯人を特定できるような遺留品は何も見つかっていないのかね?」
と、西島本部長が質問した。
「はい、発見されませんでした」
と、今度は山崎警部が城島刑事に喋らせるものかと勢い込んで喋った。
「とにかく、事件現場をもう一度徹底的に調査して、どんな小さなものでもいいから目を小眼にして探すこと。一見何でもないものでも、証拠になることがあるから、見落としがないか再調査すること。いいな。それから、目撃者発見に全力を注ぐこと。それに、清水陽子といったか。彼女の行動や周囲に目を光らせること。尾行は付けているのか?付けているんだな。よし。Y警察署とは十分情報を交換すること。以上。」
「はい、分かりました。それじゃ、城島君、明日朝一番に事件現場に戻ってみるか」
「はい」



 Y警察署では、相沢刑事が頭を抱えていた。
 長谷川由美が殺害されてから1週間が経つが、全く解決の目途が立っていない状況であった。由美の部屋からは、犯人を示す遺留品は何も発見されず、捜査員の懸命な捜査にもかかわらず、8月25日8:50分頃(清水陽子と由美が電話で話した時刻)~13時頃(殺害されたと考えられている時刻)までの彼女の足取りが全くつかめてないのである。
 そうこうしているうちに、S市では由美の恋人と思われる工藤という青年が自殺に見せかけられて殺害されるという第2の殺人事件が発生するという展開になってしまっていた。その事件現場の第2発見者があの清水陽子と榊原青年であるというのも何かの因縁だろうか?それと、何となく清水陽子の身の上に不安を感じるのであった。
 事件舞台が他の場所に移った感があり、またY区においても今のところ事件解決に向かう様相も見えない状況であった。清水陽子が当分こちらには帰ってこない予感がすることもあり、管轄外ではあるが相沢刑事はS市に行ってみようかと考えていた。
 警察というところは、管轄外の場所に出張するのはなかなか難しく、この経費難のおり、上司は簡単にはゴーサインを出してくれるとは思われなかったが、取りあえず北村警部に直談判することにした。
「警部、実はS市に行ってみたいのですが。こちらでの長谷川由美殺害事件の進展もありませんし、御存知の通りS市で第2の殺人事件が発生し、先日お話ししていた事件を解決する上で重要人物と思われる清水陽子が暫くあちらにいることが予想されます。由美殺害事件とのつながりも調査することと情報を入手するのも現地でないとなかなか捗らないと思いますので、できれば出張したいのですよ。なんとか行かせて頂けませんか?」
「君なー。気持ちは分かるが、なかなか難しくてね。まあ、本部長に相談してみるがね。あの堅物何というか……」
と、北村警部はあまり期待しない方がいいぞというような表情で言った。
「とにかく、何とか宜しくお願いしますよ」
1時間後、相沢刑事は北村警部に呼ばれて、鈴木本部長が許可を与えたことを告げられた。
「本部長が、2日間の出張のみ許してくれたよ。十分な時間とは思えないが、何とか成果を出してきてくれ。後で本部長のお目玉をくらいたくないので頼むよ」
と、北村警部が恩着せがましく言った。
「ありがとうございます。2日間でどれだけ成果を上げることができるか分かりませんが、行動しないよりはましですので、とにかく頑張ってきます。清水陽子の周りで何かが起こる予感もしますし、彼女の近くにいれば事件の端緒もつかめる可能性もありますので、これから行って来ます。後は、宜しくお願いします」
と、相沢は言って、すぐにもS警察署を後にして、山形新幹線に乗るべく行動を起こした。
「もしもし、清水さんですか?S警察署の相沢です。実は、これからそちらに向かおうと思っています。6時頃にはS市駅に到着すると思いますが、どこかで榊原さんご同伴で食事でもしませんか?そちらの事件のことも聞きたいですし。如何です?」
「はい、相沢刑事はこちらには来られないのではなかったのですか?ええ、分かりました。それでは、6時半にS市駅の隣にありますオリエンタルホテルの11階のワインバーで如何でしょうか?私も行ったことはないんですが、由美に昔そこのワインが美味しいと聞いたことがあったのを思い出したものですから。あ、はい、それではお待ちしています」
「もしもし、洋介さん。今何処にいるの?え、パチンコ屋さん。朝からいなくなったと思ったら、遊んでいたの?」
「あ、ごめん、ごめん。こんなに事件が続いたものだから少し息抜きがしたくなって」
「洋介さんは、私のこと何時も見守ってくれているんじゃなかったの?」
と、陽子は少しいじめてみたくなってツンツンした声を出した。
「陽子ちゃんのことは何時も見守っていますよ。これから帰りますよ」
「いいのよ。ちょっと嫌みが言いたくなったの。ところで、相沢刑事が今日こちらに来るって連絡が入ったの。6時半に、S市駅隣のオリエンタルホテル11階のワインバーでお会いする約束をしたのよ。それまでには来てよね。相沢刑事があなたにも会いたいて言っているんだから。お願いね。それじゃ後で」
「分かった。たぶんその前に帰ると思うけど」



 ワインバーは、まだ外も明るく、時間が早かったからか、席がかなり空いている状態であった。
 陽子と榊原は、少し早めに着いたので、一番奥の席で相沢刑事を待つことにした。榊原は、陽子からの電話後すぐに滞在している長谷川家に戻ってきて、一緒にS市駅に来たのである。
「やあ、待っていて下さったんですか?しかし山形も暑いですね」
「暑いところ、ご苦労様です。相沢刑事は、こちらには来られないようなことを言っていたと陽子さんに聞いていましたが、来られたということはあまり事件捜査が捗っていないということですか?」
(この男なかなかするどいな)
「まあ、そうでして。工藤さんの事件がこちらで起こったこともあり、向こうにいるよりはこちらで成り行きを見た方が有効だろうし、清水さんのことも気になりましてね。刑事の感というんですか、危険なことはないと思うんですが何となく気掛かりで……。犯人かあるいは犯人に近い者に陽子さんが関わるかあるいは近づくことになるような予感がしまして、いても立ってもいられなくなりましてね。刑事なんて嫌いでしょうが、お話を聞かせて頂きたいと思いましてね」
と、相沢刑事は恐縮な様子を作りながら言った。
「話は、食事をしながらということでお願いします。まずは、ワインで乾杯しましょうか?事件解決のために。」
相沢は、今度は努めて陽気に喋った。
彼らが、ワインで乾杯し、オーダーしたイタリアンメニューを待つ間に、陽子が、
「お話って何ですか?」
と聞いた。
「そうですね。由美さんの葬儀に出席してからのことをできれば詳しく知りたいのですよ。ところで、おっしゃっていた不気味な視線をこちらでも感じられましたか?」
「いいえ。こちらでは、そのような視線にはあっていません」
「そうですか。それじゃ、話して頂けますか?」
「そうですね。詳しく語れるかどうか分かりませんけど……。ええと、榊原さんと由美の実家に伺ったんですが、お母さんの佳子さんにご挨拶した後、休憩室に案内されまして、そこで悲しみに打ち沈んでいる工藤芳樹さんにお会いしました。
 工藤さんは、由美の恋人であったと告白しまして、両親達の了解は受けていないが、9月早々には両家を訪問して結婚の了解を受けることにしていたとおっしゃっていました。そして、Y区には行っていないし、由美とも会っていないとキッパリとおっしゃったものだから、工藤さんは由美のことを本当に愛していたんだろうし、彼の話は、本当のことだろうと感じました。私は、工藤さんの表情とか、その話しぶりに違和感を感じなかったのですが、榊原さんは少し違和感を感じたそうです」
「僕も、工藤さんの誠実さを少しも疑ってはいませんが、我々との話の中で、彼が一瞬言葉に詰まり、一瞬ですが、アッというような驚いた表情を浮かべていました。すぐに普通の表情に戻りましたが、何かに気が付いたようでした。ちょっと不思議に思ったことを覚えています」
と、今度は榊原が話した。
「工藤さんがどんなことに驚いて、気が付いたのか、想像できますか?」
と、相沢刑事が尋ねた。
「残念ながら、今は分かりません。追々分かっていけばいいなと考えていますが……。由美さん、工藤さんの交友関係や足取りなどが分かれば、何かヒントになることが出てくるのではないかなと……」
「山崎警部から工藤さんは殺された疑いがあると聞かされて、私本当にショックだったんです。それに、相沢刑事も、由美には工藤さん以外の男の影があったと考えているし、そして、山崎警部は工藤さんがY区に居られた可能性があるとおっしゃっていまして、何が何だか分からなくなってしまったんです。なかなか考えがまとまらないし、私って頭が悪いのかな?」
と、陽子は少し憂鬱になって言った。食事もあまり喉に通らないようだ。
「頭が悪いなんてそんなことはないですよ。続けて酷いショックを受けるような事件に出会ったら、誰だって気が変になりそうになりますよ。ただ、榊原さんが側にいて上げているのが、救いかな」
「僕なんて役に立たないかもしれませんけど……。今日なんか、怒られちゃいましたし」
と、榊原は頭をかいて申し訳なさそうに喋った。



 相沢刑事は、彼らの話を聞いて、彼らを見ながらニヤッと含み笑いをしていた。そして、徐に陽子の方を見て聞いた。
「喧嘩でもしたんですか?」
「いいえ、大したことじゃないんです。気にしないで下さい。榊原さんには大変助けて頂いていますし、感謝しています」
陽子は、榊原の方をを向いて微笑んだ。
「……」
(彼らは、この雰囲気だと、いい恋人同士というところか。お互いに信じ合っているようだし。榊原君にある程度任せておいても大丈夫かな。俺の危惧だったのだろうか?)
相沢刑事は、眩しい物を見るように羨ましく二人を眺めた。
「それから、榊原さんが由美と工藤さんの事件に関して山崎警部に次のような疑問点をぶつけていました」
陽子は、相沢刑事に由美の事件に関しては14点の疑問点、工藤青年に関しては13点の疑問点をかいつまんで話して聞かせた。
「確かに、榊原さんが考えている疑問点が解決されたら事件は迷宮入りにならずに済むと私も思いますよ」
と、相沢刑事が言って、
「食事をするなら、楽しくがモットーと思いますが、楽しくもないし、イヤかもしれませんが、他の場所で頭を絞ることも叶いませんので、我慢して頂いて、何とか榊原さんの疑問点を含め、他に何か考えられることがないかどうか話し合いませんか?今後の行動の仕方もありますし……。清水さん達には危険なことに首をつっこんでもらうのは困りますが、お互いの意見交換は早期の事件解決に役立つと感じますし、由美さんや工藤さんの供養になりますので、ここは協力をするということで共同戦線を張りませんか?お互いの情報交換を今後も続けるということで、どうです?私もこちらに2日間しか滞在できませんので、時間を有効に使いたいのですよ」
「警察からこんな提案を受けるとは思わなかったな。でも、相沢刑事の滞在期間も短いし、僕たちも早期な事件解決を望んでいますので、おっしゃることにイヤなはありませんよ、ねえ?」
「ええ。相沢刑事と一緒に話をするのは心強いわ。何とか、由美と工藤さんの事件を私達の手で解決したいわ」
「こんなこと言ったら失礼かもしれないけど……。君たちは、昔からずーと付き合っているように見えるっていうか、とてもいい雰囲気を醸し出しているよ。時々、焼けてしまうけれども、僕は好きだな。心が温まるっていうか、若い人の心優しくアットホーム的なふれ合いは、こんな時でも安らぎを与えてくれるものだと思うよ。だけど、僕の前では腹が立つ程いちゃつかないで欲しいけどね……」
と、相沢刑事は笑いながら言った。
 その言葉を聞いて、陽子は耳が赤くなるほど顔が火照ってきてしょうがなく、相沢刑事を見ることができず、俯いてしまった。
(もう、相沢刑事ったら、嫌になっちゃうな……)
陽子は恥ずかしくて仕方がなかった。そして、榊原はどんな表情をしているのか見たくなって、チラッと榊原を盗み見た。
 榊原は、陽子の視線を知ってか知らずか、知らん振りを決め込んでいた。本当は、彼も恥ずかしくて相沢の目を直に見ることが出来なかったのである。
「あれ、悪かったかな、余計なこと言ったかな?」
相沢刑事は、バツが悪そうに頭を掻いた。
 それから、彼らは恥ずかしさも手伝って暫く無言となり、自分たちの世界に入って、相手のことや事件について考え、そして最も重要な事件解決のためにどんなことを話し合ったらいいのか、そして、今後どう行動したらいいのか、それぞれの考えをまとめることに耽っていた。



 どれくらい時間が経ったのだろうか、突然携帯のプルプルという音が聞こえた。3人とも自分の世界を破られたかのようにビクとして、我に返った。
「もしもし、ちょっと待ってもらえますか?今、少し静かなところに移りますので」
と、相沢刑事は携帯を耳から離しながら、
「すいません。山崎警部から私に電話のようです。ちょっと中座しますので、待っていてもらえますか?」
と相沢刑事は、立ちながら言って、玄関の方に向かって行った。
 残された二人は、目を見合わせたが無言のままであった。何を話したらいいのか分からないというように、目を見返すのみで相沢刑事を待つことのみに集中するような状況であった。
暫くしてから、
「何の電話かしら?相沢刑事、山崎警部からって言っていたわね。何かあったのかしら?」
と、陽子は言って、榊原の言葉を待った。
「食事中なのにね。警察官は、何時も食事もゆっくり取れないみたいだね。因果な商売だな。でも、気になるね」
「洋介さん」
「何?」
「あのね、さっきは相沢刑事が変なこと言うから恥ずかしかったんだけど。洋介さんは平気みたいだったわね」
と、陽子は少し拗ねて言った。
「僕だって、平気じゃなかったよ。ドキッとしちゃってさ、相沢さんの方向けなかったんだよ」
「へえー。そうなんだ。ところで、こんな時、例えばね、友達と3人で飲んでいる時に1人がトイレになんか行ったら、それまで話が弾んでいたのに、2人になった途端に話が弾まなくなってちょっと無言になるっていうか、そんなことない?そして、また3人になるとまた話が嘘のように始まるっていうこと。それは、3人で同じ話していたからなのかな?何時も、そう思うんだ。4人の時はそんなことないのにね」
と、陽子は話をするため話題を作って言った。
「俺もそんな経験あるよ。2人で飲んでいたり、話をしていた時でも、一人が中座すると無償に暇になるっていうか、手持ち無沙汰になっちゃって、外を何度も見たり、タバコを余計吹かしたりする時があるね。その席に一人でいる時が辛くてね。特に、女の子といる時はそうだな。変かな?」
「ふうーん。洋介さんは、女の子とよく2人でいるんだ。かっこいいものね」
と、ちょっと皮肉っぽく言った。
「そ、そんなことないよ。僕なんか、もてるわけないじゃん」
と、榊原は苦笑して言った。
「すいません、待たせちゃって。実は、話し合いを中断しなくてはならなくなりました。清水さんは、山崎刑事に美和美容室にお寄りになる予定であったとおっしゃったそうですな。それで、山村美和さんにはお会いになりましたか?」
「いえ、外出しているということでした」
「そうですか。山崎警部が言うには、今し方山村さんが他殺死体で発見されたというのですよ。清水さん共々、署の方に来て頂ければありがたいとのことでしたが、お付き合い願えますか?」
「山村美和さんが、殺されたんですか?由美のことをお聞きしたかったのに。これは不謹慎でしたね。まずは、亡くなった方のご冥福を祈らなくてはいけないのに。でもどうしてなのかしら?私がこちらに来てから、会いたい人が皆亡くなっていく……」
陽子は感極まったのか目から大粒の涙をぽろぽろ流しだした。
 榊原は、陽子の姿を見て、
(陽子ちゃん、大丈夫だろうか?唯でさえショックを受けたばかりなのに、また追い打ちを掛けられて。守ってあげなくては)
と、胸の中で囁いた。
「それでは、行きましょうか。今日の支払いは、私の方で」



 S警察署には、西島本部長、山崎警部、城島刑事、相沢刑事、清水陽子、榊原洋介というこれまでの事件の関係者が全員集まったことになる。
「山崎警部、相沢君達皆さんに、山村美和殺人事件の経過を話してやってくれたまえ」
と西島本部長が口火を切った。
「はい。それでは、お話致します。本日、午後8時37分に第1発見者からの通報がありまして、現場に急行しました。第1発見者は、島田というK寺の住職で、境内の裏にある物置の陰に胸から血を流した女性が倒れて死んでいるのを発見したと電話で言ってきました。この住職は、女性の悲鳴を聞いたので、見に行ったと言っていますが、発見した時にはすでにこと切れていたそうです。
 現場で死体を確認しましたが、被害者は所持品の免許証と名刺から、美和美容室のオーナーである山村美和であることが分かりました。被害者は、検視の結果、左胸を刃渡り20cm程の鋭利な刃物で刺され、殺害されたものと分かりました。左胸を一度刺され、それが致命傷で心臓まで達し、即死の状態だったようです。住職の話と検視結果から、殺されて間もない状態で、死後硬直もまだ起きていない状況でした。
現場検証では、凶器は発見されておりません。ただ、今回は、住職が犯人を目撃しており、裏に見に行った時に、寺の門の方に走って逃げていく黒い姿を見かけたそうです。顔を確認することはできなかったそうですが、黒い帽子と黒い服を着た黒尽くめの中肉中背(たぶん身長160~170cm位)の男だったそうです。
以上です」
「あの山崎警部、質問しても宜しいですか?」
「どうぞ」
「黒尽くめの男と言いましたが、確実に男だったのでしょうか?」
と、榊原が質問した。
「島田住職の話では、黒尽くめの後ろ姿しか見ていないのではっきりしないが、たぶん男だろうとのことでした。あの走り方は、女とは思えなかったと言っています。それに、鋭利な刃物での殺害方法は、男の仕業のような気がします」
と、山崎警部が答えた。
「私の考えでは、長谷川由美と工藤芳樹は、革手袋様の物で絞殺されていることから同一犯人と思っていますが、この山村美和殺しについては刺殺ということで別の犯人の可能性もあると思います。ただ、何故山村美和が殺されたのか?長谷川由美と工藤の殺害と何らかの関係があったのか?関係があるとすれば、同一犯の可能性があります。そして、清水さんが山村美和と会おうとしていたことに気が付いた犯人が先回りして殺したことも考えられます。この場合、山村美和が何らかの証拠あるいは情報を持っていたとも考えられます。」
と、相沢刑事が言った。
「山村さんは、何か人に恨みを受けるとか、殺害原因となるような事情を持っていたのでしょうか?」
と、榊原が尋ねた。
「現在調査中ですので何ともいえませんが、山村美和は盗みの目的で殺害されたことはないと思います。バックも無事ですし、荒らされた痕跡もありません。また、婦女暴行が目的とも思われません」
と城島刑事が答えた。
「山村美和さんの今日の足取りについては分かっているのでしょうか?早い時間から出掛けられていたようですけど」
と陽子が質問した。
「山村さんは、昼過ぎには出掛けられたそうです。午前中に携帯に電話があって、店員に人と会ってくると言っていたそうですが、誰に会うかは伝えなかったそうです。その後の足取りはまだつかめていません」
と、山崎警部が答えた。

第四章 事件の行方



 ここは、相沢刑事が昨夜S警察署から引き上げた後に宿泊したワシントンホテルのロビーである。3人、つまり陽子も同道し、ロビーで朝食後のコーヒーを飲みながら内緒話に花を咲かせていた。
「相沢刑事、今日はどうされますか?昨日の突然の殺人事件で引っ張り回されたため、くたくたですが、昨日の続きで話し合いをしましょうか?それとも何処かに行きたい場所がありますか?」
と、榊原が尋ねた。
「そうね。今日1日しか猶予がないから有意義に過ごしたいと思っています。刑事の習性ですかね、話し合いと言うよりは、現場での調査に向くのですかね、できれば、Y警察署の管轄事件である長谷川由美のことを調べたいのですが、工藤青年や山村さんのことも調べたいです。長谷川さんと関係があったのかどうかについてね。唯、時間がありませんので、まず、由美さんのお母さんにお会いして、その後工藤殺人事件現場と、山村殺人事件現場を見たいですね。それから由美さんの交友関係などを調べて、時間があれば工藤さん達のことも調べられればと思っています。まあー、由美さんのことをまずしっかり調べられれば、御の字と言うところですかね」
と、相沢刑事は自分のしたいと思っていることを2人に告げた。
「それでは、私達が御案内しますわ。善は急げということで、まず、由美の家に行きましょう」
陽子がソファーからサッサと立ち上がった。
「では、宜しくお願いします。刑事が、市民に道案内をしてもらうのは情けないですが……。山形に土地勘がなく、不案内ということで宜しく」
相沢刑事も笑って立ち上がった。

「ただいま。陽子です。お客様をお連れしました」
と、陽子は玄関で大きな声を出した。
「はあーい。ただいま」
奥から女中の百合子が顔を出して、
「いらっしゃいませ。どうぞ、こちらへ」
と言って、3人を客間に案内した。
 暫くして、佳子夫人が客間に姿を現した。
「あら、相沢刑事。その節はお世話になりました……。こちらにはどのようなご用件で?」
と、佳子夫人は少し迷惑そうな感じをチラと見せつつも、不思議そうに相沢刑事に話しかけた。
「実は、由美さんの事件後Y区ではなかなか解決の糸口がつかめず、進展していない状況でして、そのことをお伝えしたかったのと、由美さんを確認して頂いた時には時間もなく、御両親ともお話ができる状態ではなかったので、詳しいことがお聞きできなかったこともありまして、お話を少しお聞きしたくて伺いました。それに、工藤さんの事件も起き、舞台がS市に移った感がありましたので、こちらに来て情報を探した方が由美さんの事件解決に最も近道ではないかと思いましてね。それと、清水さんがY区へ戻ってこられるのがずっと遅くなりそうな予感がありましたし、少し心配だったものですから来てしまいました。清水さんには榊原さんというボデーガードがいるので少し安心しましたが……」
 その話を聞いて、陽子は少し顔を赤らめ俯いた。
「昨夜、またこれまでの事件を混んがらからせるような第3の殺人事件がありまして、状況をどんどん難しいものにしていっているようです。第3の事件がそれ以前の事件と赤い糸で繋がっているのかいないのか……?警察としても頭の痛いところです。ところで、奥さんは、山村美和さんとは極親しいお知り合いと伺いましたが、どのようなお友達だったのでしょうか?また、彼女の交友関係などについて、どんなことでも宜しいのですが、知っていることがありましたらお話願えませんか?」
と、相沢刑事は、佳子に向かって早速質問をした。



 佳子は、目を瞑って考えをまとめるように暫くじっとしていたが、意を決したのか、目を開け静かに相沢刑事に語りかけた。
「はい、美和さんとは20年来の友人です。私と由美が七五三のために髪結いに初めて美和美容室に伺いまして、それ以来由美共々お世話になっていました」
「……」
「唯、彼女とは美容師とお客という関係を外れるような付き合いをしたことはありません。ですから、彼女のプライベートなことまではあまり知りませんわ。彼女とは、美容室でお話をすることがほとんどです。つまらない世間話ばかりを話しておりまして、親友のようなお互いの心を開いてまでの深い話はしたことがないのです。ただ、話し相手としてはすばらしい人でとても優しい慈愛に満ちた人でした。私が彼女から受けた印象では、全く人から恨みを買うような人とは思えません。どうして殺されたのか、私には分かりません。彼女が人と会っていたと新聞に書いていましたが、その人物像も分かりません」
と、佳子が話し、相沢が先を続ける様に促したので、
「彼女は独身でしたが、あれだけの美貌でしたので付き合っていた人が沢山いたと思いますが、その方達とお会いしたこともありませんし、具体的には申し上げることができません。よく分かりませんが、怨恨とは違う事件に巻き込まれたのではないでしょうか?そして、由美や芳樹君の事件とは全く関係ない事件に巻き込まれたのですわ。かわいそうな美和さん。そして、私達の宝物、かわいそうな由美!あの子のことを考えると……」
と言って、佳子は泣き崩れた。
 暫く泣いてから、佳子は落ち着いたのか、ハンカチで涙を拭き、相沢刑事の方を向いて、次の質問があるかどうか促すような仕草をした。
 その仕草に誘われ、相沢刑事は次の質問をした。
「奥さんは、美和さんが由美さんや工藤君の事件とは関係ないと思いになるのは、どうしてですか?何か根拠がおありですか?」
「根拠など有りません。ただ、美和さんは由美のことをあまり知らないでしょうし、ましてや芳樹君のことも知らないと思いますので……。どうしても、関係があるとは思えません」
「それでは、由美さんのことについて、質問します。由美さんは、どのようなお子さんでしたか?子供の頃から気が付いたことがありましたら、お話下さい。良いことも悪いことも」
「由美は、私達長谷川家の長女として、25年前に生まれました。本当に可愛い一人娘でした。夫と私の宝物で、自慢の娘でした。彼女は、健やかに育ちました。小学校でも中学校でも人気のある子供でした。何時も、男の子から声を掛けられる子でしたが、これといって特定の男の子と付き会うということはなかったようです。どちらかというと内気な奥手な子だったと思います。工藤芳樹君とは、幼友達で兄弟のように育ちましたが、小さい頃は兄弟以上の感情はなかったのではないかと思います。高校に入った頃から、人に恋することを夢見るようになったんじゃないかしら。もしかすると、その頃に芳樹君に対する思いが兄弟以上のものに育っていったのかもしれません。その頃、二人ともその感情を人前に出すことがなかったので、誰も気が付かなかったのではないでしょうか。私達も全く気が付きませんでした。ただ、あの子があの年頃の女の子達同様、少女として誰に対してかは分かりませんでしたが、男性に対する憧れや恋への期待を感じて過ごしていたことは私にも薄々分かっておりました。母親として、娘が思春期を経て、女として成長していくことに誇りを感じていましたし、私の少女時代を振り返って、微笑ましくもありまた嬉しくもあり、羨ましくもありましたが。そして、少しその成長に一抹の不安、何て言ったらいいんでしょうか、母親なら皆感じるんじゃないかしら、娘の学業にマイナスになるような気持ちや感情が芽生え、私達から離れて行くんじゃないかって。それが大人になるっていうことで、頭では理解しているんですけど、寂しくもあり、親の保護から何れ近い内に旅立つ独立心が心の中に広がっていくんだなと気が気ではないような嬉しさ半分というような複雑な気持ちを味わっていたように思います。特に、夫は一人娘ということもあり、口にはしませんでしたけど、何となく娘の成長を素直に喜べないような、小さな子供のまま何時までも自分の手元に置いておきたいような男親特有の溺愛の気持ちを持て余していたんじゃないかしら。端から見ていても、焼ける位だったように記憶しています……」
と、佳子夫人は長い話をしてから、息をフウーと吐き一息入れた。



 佳子は、残暑の暑さと長い話をしたためか、非常に喉が渇いていた。そして、客にお茶も出していないことに初めて気が付いた。
「百合子さん、百合子さん!皆さんにアイスコーヒーをお出しして」
と居間の方に向かって少し大きな声で言いながら、
「話に夢中になってしまいまして、皆さんにお飲み物も出さずに失礼しました。私も喉がカラカラで、ここで少しお喋り前の休憩をさせてもらいますわ」
と、佳子夫人は由美との楽しかった、そして幸せだった、慈愛に満ちた思い出に浸るようににっこりと笑って皆を見回した。
「……」
 しばらく、話を中断し、百合子がアイスコーヒーを持ってくるまでそれぞれの思いに耽っていた。2、3分してから、百合子が、お盆に4人分のアイスコーヒーを載せて客間に入ってきて、皆の前にアイスコーヒーを置いて、居間に下がって行った。
「さあさあ、召し上がって下さい。私も少し、喉を潤してから、次の質問にお答えしたいと思います」
「ご夫婦の今の感情を率直にお話し頂けますか?」
「主人も私も、犯人が憎くてたまりません。この感情を抑えることができません。私達の唯一の希望を理不尽にも奪ったんですから、そして私達はこれから何を楽しみに生きていけばいいのでしょうか?あんなに気落ちした主人を見ていることができません」
と、佳子夫人は自分の感情を露わに喋った。
「気持ちはお察し申し上げます。由美さんが大学生活を送ったY区時代についてはどうでしょうか?」
と、相沢刑事は尋ねた。
「そうですね。由美は、年に2、3回程度しか帰って参りませんでしたので、あの子がどのような生活や交友関係があったのかあまり知らないのが正直なところです。Y区でのことは陽子さんの方がよく知っていると思いますよ。先日も、陽子さんに由美のことを教えて欲しいとお頼みしたばかりなんです。こちらでは、唯一芳樹君とは会っていたようです。あの子は、そんなに友達もいなかったようで他に会ったり、付き合ったりしていた人はいなかったように思います」
「それから、こんなことをお聞きするのは心苦しいのですが、由美さん事件や工藤さん事件に関し、何か心当たりはないでしょうか?由美さんは、恨まれていたことはなかったでしょうか?何か変わったことはなかったでしょうか?」
「由美に限って、恨まれていたことはなかったと信じていますし、こちらに帰ってきた時の由美は、普段と同じで変わったことはなかった様に思います。芳樹さんも何時もの通りで、二人ともごく自然に振る舞い、付き合っていたと思います」
「僕たちが、工藤さんとお会いした時、9月早々には由美さんとご両家に結婚の承諾を受けに行く予定だったと話していました。ただ、結婚になると家同士のことになるし、自分たちの立場を考えると困難なことになるかもしれないが、その困難も乗り越えるように頑張ろうと由美さんと話し合っていたとおっしゃっていました。お母さん達ご両家では、彼らのことをどのように思っていたのでしょうか?そう簡単に結婚の承諾は与えられないとお考えだったのでしょうか?」
と、榊原が聞いた。
「私達夫婦は、由美達のことには気付いておりました。結婚については、正式な話がありましたら承諾していたんじゃないかと思います。確かに、芳樹君が養子に入って頂くのが私どもとしては一番ありがたかったのですが……。ご先祖が頑張って守ってきたこの伝統ある長谷川家を絶えさせることはできませんし、ご先祖にも申し訳ないことですが、私に一人娘しか授からなかったことが天の思し召しと半分諦めの気持ちもありました。私は、主人を説き伏せてでも、好き合った二人を結婚させようと考えていました。それが今の時代では最も自然なことですし、二人の本当の幸せを祈るのが親としての責任と思っていました。そして、もし由美達に子供が沢山できたなら、その内の一人に長谷川家を継いでもらうことだってできたはずですし。ただ、昔からの伝統で、工藤家は長谷川家の家来筋の家系でしたので、工藤さんの御両親はどのような反応を示したのか……?。私達に気兼ねする気持ちがあれば、そして芳樹君が長男であることも考えれば、難しいことはあったかもしれません。由美の養子に望まれた場合には賛成できないと考えたかもしれません。工藤家では、確か次男の雅人君、彼は芳樹君の4歳下の青年ですが、音信不通になっていたから、特に芳樹君のことを頼みにしていたと思います」
と、佳子は話した。その表情には、苦渋の思いも含まれていた。
「その雅人君というのは、何時から音信不通になっているのですか?」
と、相沢刑事が尋ねた。
「ええと、2年位前からだったと思います。上京後、音信不通になってしまったと聞きました……。詳しくは、工藤さんの御両親にお聞き下さい」
「由美の結婚に関して、ご主人はどのように言っていたのでしょうか?」
と、今度は陽子が尋ねた。
「主人は、由美が目に入れても痛くないほど可愛がっておりましたので、結婚については反対しなくても、芳樹君に養子に入ってもらいたいと言ったと思います。主人の気持ちを翻させるのには大変な骨折りが要ったと思いますが、私は主人に結婚を承諾させるつもりでした」
と、佳子夫人は穏やかに言った。
「奥さんの気持ちは良く分かりました。御心痛の時に、お邪魔し、いろいろなことをお話し頂きありがとうございました。それでは、我々はこれで失礼致します」



 相沢刑事達は、長谷川家を辞去して、M中央公園へ向かっていた。彼らは、ただ歩く時間さえ勿体ないように、歩きながらお互いに感じたことを話し合っていた。
「由美さんのお母さんは、由美さん、工藤さん、山村さん事件のそれぞれの犯人の心当たりはないようでしたね。ただ、こちらでは結婚となると大変な行事の様ですね。我々下々にはないような家同士の結びつきを考えなくてはならないようで。陽子ちゃんの家は大丈夫かな?」
と榊原は言った。
「おいおい、そんなことを言ってもいいのかね。まるで、プロポーズに聞こえるよ」
と、相沢は陽子の顔を覗き込みながらニヤッと笑って言った。
 陽子は、恥ずかしくてプイと横を向いて知らん顔を決め込んでいた。
「君たちは、佳子夫人の話から何を感じたかな?私は、お母さんの話から、由美さんと工藤君が愛し合っていたこと、二人は確かに家同士のことで悩んでいたこと、結婚には幾多の壁がありそうだったこと、しかし二人は強い決意でその壁をぶち破ろうと意を決していたことが分かりましたよ。そして、由美さんには工藤君以外でこれといって深い仲の交友関係はほとんどなかったことも分かりました。また、結婚には工藤家が理解を示せば、長谷川家では承諾しただろうと言っていたね。ご主人を説得してでも、二人を結婚させたいし、子供が生まれれば長谷川家のことも解決するだろうから、前向きにそのことを考えていこうというようなことだったね。そして、気になることが一つ出てきたね。工藤家の次男が音信不通になっていることだけどね。事件とは関係ないかもしれないけれど、由美さんや工藤君と面識のある人物が行方しれずというのはちょっと気になるね。調査の対象に入れてもいいのかなと考えていますよ」
さらに、相沢刑事は二人に向かいながら、
「今回の調査には、工藤家の訪問も加えたいんだけど、いいかな?」
と、言った。
「そうですね。佳子夫人からは、正直相沢刑事とほぼ同じ印象を受けました。相沢さんがおっしゃるように工藤家の次男の消息については調べる必要があると私も思っています。僕たちが、工藤さんと話をしていた時、工藤さんが一瞬言葉に詰まった時があったんですよ。その時、何かを思いだしそのことに一瞬驚きを隠せなかったように感じたんです。その後は、心ここにあらずというように見え、不思議に思ったことを覚えていますよ。その思い出したことが弟のことだったんじゃないでしょうか?陽子ちゃんが言っていたように、Y区では由美さんには男の影はなかったようですし、S市での交友関係もそれほどなかったのですから。ごく身近な関係に絞って考えれば、彼の脳裏に浮かんだのは自分以外では彼の弟ではなかったでしょうか?失踪と言っていいかどうか分かりませんが、音信不通の原因が由美さんと工藤さんの親密な関係だった可能性はないのでしょうか?僕は、何となくそんな感じがします。陽子ちゃんはどう思う?」
と、榊原は一気に自分の考えを披露した。
「洋介さんが言うことにも一理あるように思うわ。たぶんY区には殺人の原因になることはなかったんじゃないかしら。由美は、Y区で殺されたんだけれど、その遠因はここS市にあるように感じるわ。ご両家のこととか、弟さんのこととか、気になることが沢山あるわ。お母さんは、山村さんが殺されたことは由美や工藤さんとは全く関係ないと言っていましたけど、どうしてそう思ったのかしら?私は、山村さんに会いに行こうと思って、その人が殺されたものだから、どうしても由美の事件と関係があるんじゃないかと思ってしまうの。全く関係ないとは思えないわ。それに、佳子夫人は芳樹さんの弟さんについては良い印象は持っていなかったように思うの。弟さんのことを話す時に、何となく苦み走ったような表情が見えたわ」
と、陽子は思案顔で言った。
(彼女もなかなか人を見ているな)
と、榊原は思った。



 彼らは、話し合っている内に、工藤青年が殺された現場近くまで来ていた。
「相沢刑事、ここですよ。ここから右側の林の方へ30m程行った大木に工藤さんの首つり死体があったんですよ。第1発見者は、紀州犬を連れた篠原和泉という若い女性で、僕らがその叫び声を聞いて駆けつけ第2発見者になったという次第です。そして、遺書を見つけたんですが、工藤さんは結局殺されていたんですね」
と、洋介が説明した。
「私の行く先々で人殺しがあり、とっても怖いわ。由美がまず初めに亡くなって、その恋人の工藤さんが亡くなって、その後すぐに山村さんが亡くなって、だから山村さんが全く関係ない事件に巻き込まれたとはとても思えないんです。誰かが私を監視していて、私の先回りをしてほくそ笑んでいるように感じるんです。こちらに来てからは、変な人の視線を感じてはいません。それは榊原さんやS警察署の山崎警部や城島刑事、そして相沢刑事がいるので、用心して私のそばに姿を現さないと思いますが、何時かまた同じ視線を感じるんじゃないか……と思うと不安でしょうがないんです」
と、陽子は工藤殺人事件現場に来たためか、不吉な思いを思い出して震えながら話した。
「僕がいるから、大丈夫だよ。それに警察もいるし……」
「清水さん、あなたの安全は保証しますよ。私もあなたのお話を聞いた時から、そのことが何時も頭の隅から離れなかったのですよ。今回もそのこともあって来たようなものでして。その人間の正体が暴ければ事件解決に向かう可能性があると考えていてね。清水さんには怖いことで、警察としても危険なことになっては困るのだけれども、できればこの滞在中にその影に少しでも近づければと思っていますよ」
と、相沢刑事は言った。
「ちょっと待って下さいよ。もしもですよ。もしものこととして聞いて下さいよ。事件が解決に向かわない事態が長く続いた場合に、まさか陽子さんを囮に使うとか。陽子さんにその人間を近づけるように仕向けるとかするようなことを考えているんじゃないでしょうね?」
と、榊原は憮然として言った。
「そんなことは考えていませんよ。信じて下さい。清水さんは何時もあなたといるんですから、清水さんが安全な状態で、何かの弾みで我々の前にその人物が姿を現すことがあればと思っているだけです」
と、相沢刑事は力強く言った。
(この男は、なかなか鋭いな。変なことは言えないな)
と、相沢は考えた。
 彼らは、話を切り上げて、事件現場の方へ向かった。事件現場には、すでに先客がいた。
「これは、これは。皆さんお揃いで、事件現場視察ですか?」
と、山崎警部が邪魔された腹いせに少し嫌みを含んで言った。
「山崎警部、私が清水さん達に工藤さんの現場まで案内してもらったのですよ。今日1日しか私はこちらにいることができませんので。最終の新幹線で帰りたいと考えています。由美さん事件の参考にもなりますので、ご一緒させて下さい」
と相沢刑事が下手に出て言った。
「まあ、いいでしょう。本部長に言われましてね。僕らも事件現場に再調査ということで、重要な証拠や何かを見落としていないかどうか見に来たんですよ。かれこれ2時間程頑張っているんですが、これといって証拠になりそうな物も見つからなくてね。また、本部長の雷を受けそうですよ」
と、山崎警部は苦笑しながら言った。
「工藤さんは、この木の上に吊されていたんですね。犯人は、どのようにして吊すことができたんですかね?上には確かに太い枝がありますが、ロープを枝に通して工藤さんを釣り上げたんですかね?木の上に犯人が登ったことも考えられますが、この木の上の枝についても調べられたんですか?」
と、相沢刑事が尋ねた。
「はい、調べましたよ。工藤氏の死体を下ろすのに、枝まで登らなくてはなりませんでしたので、我々ではありませんが、別の刑事達が登りましたし、写真撮影もありますので鑑識員も登っていますよ」
「私も登らせてもらってもいいでしょうか?」
と、相沢刑事が承諾を受けるように言った。
 相沢刑事は、木に建てかけた梯子を登って行った。
(さて、枝までの間に何があるか?これといって気になる物はないな。これが、枝に付いたロープの跡か?あまり深い跡が付いていないな。ロープで工藤さんを引っ張り上げたわけではないな。ということは、どうやって上に工藤さんを上げたんだろうか?一人の仕事ではなく、数人の男が関わっているのだろうか?)
と、相沢は思った。
「どうでした、何か分かりましたか?」
と、城島刑事が質問した。
「そうですね。枝の状態を見たら、人間の様な大きな物体を枝に掛けて引っ張り上げたとは思えないんですよ。一人の仕事とはとても思えませんね。数人が関わっているんじゃないでしょうか?」
「私達の見解も同じです。犯人は一人じゃないと考えています。まず間違いないでしょう」
と、山崎警部が言った。
 相沢刑事は、大木の周りをゆっくり回って何かないか調べていたが、何も見つからず、次の現場に向かうこととした。
「山崎警部、こちらの調査はS警察署で詳しく調査されているでしょうからこれでお暇することにしますよ。清水さん、榊原さん、それでは山村さんの現場に行きましょうか?」
と、相沢刑事は陽子達に声を掛けた。



 陽子達は、山村美和が殺されたK寺で、第1発見者の島田住職と会っていた。
「島田さんが、山村さんを発見するきっかけとなったのはどの様なことですか?」
と、相沢刑事が聞いた。
「昨晩の午後8:30分頃に境内の裏手から女性の悲鳴が聞こえましたので、慌てて見に行きました。おっかな吃驚の状態でしたが、勇気を出して廊下から下に降りていったんですが、物置の陰に胸から血を流して死んでいる山村さんを発見しました。本当に吃驚しました。お寺とはいえ、死体を見ることになるとは……。山村さんとは、顔見知りでして、ご先祖の菩提寺ともなっています。私が門の方角の物音に気付いて、境内の裏を回って門の方を見ますと、走って逃げていく黒い姿を見かけました。顔は見ておりませんが、黒い帽子と黒いコートを着た中肉中背の男だったと思います。あの走り方は、女とは思えませんでした」
と、島田住職は話した。
 殺害現場は、血痕も片付けられ、物置の裏なども見て回ったが、目新しい物は何も発見できなかった。
「殺人の手口が由美さんと工藤君の事件と異なるのが、気になるね。何となく、あの2事件では計画性を感じるが、この事件では突発的というか、無計画というか、犯人の周到さを感じないね。黒尽くめとはいえ、目撃もされているしね。それぞれの事件に何か関係があるにしても、この事件はあの2事件とは違う犯人ではないだろうか?」
と、相沢刑事が言った。
「僕もそのことを考えていました。工藤さんの事件を見て、自殺ではないことを見破られたけれども、犯人は計画的にそして姿を見せずに殺人を行っている。由美さんの時もある意味大胆というか、今回とは違うように思います。行き当たりばったりのやむにやまれずの犯行とは思われません。山村さんの事件は、どちらかというと、相沢刑事がおっしゃるように突発的と思います」
と、榊原も同意の声を上げた。
「こちらに来て、いろいろと分かったことがあり、Y区に戻っても事件解決に向けての光が差してきたように思いますよ。何処かで昼食を取ってから、工藤家を訪問しましょうか?山形ですから、何処か美味しい蕎麦屋さんを知っていませんか?」
「島田住職がよく御存知じゃないかしら。私聞いてきますわ」

第五章 青森駅にて



 美味しいお蕎麦を満喫後、彼らは、工藤家に向かった。
 工藤家では、工藤義男、今日子夫妻が在宅しており、相沢刑事達は居間で工藤夫婦と対面していた。工藤夫婦も、長谷川夫婦と同様、大事な息子を亡くした悲しみで塞ぎ込んでいた。どうして自分達より早く亡くなってしまったのか、未だに信じられないというような、信じたくない気持ちが表情に出ていた。
「私は、S警察署の相沢と申します。長谷川由美さんの事件を担当しております。こちらは、由美さんの大学時代からの友人で、清水陽子さんと榊原洋介さんです」
と、相沢が挨拶し、他の二人を夫婦に紹介した。
「私は、義男と申しまして、妻の今日子です」
と、義男が挨拶を返した。
「息子さんを亡くされて、そのお気持ちをお察し申し上げます。長谷川佳子さんにもいろいろとお話をお聞きしたのですが、芳樹さんについてお話をお聞かせ願えれば有り難いのですが?由美さんの事件とも関わりがありますし、早期の事件解決を計りたいものですから、ご協力願います」
と、相沢刑事が早速話し出した。
「あの、私達二人は、生前の芳樹さんと由美の葬儀でお会いし、暫く話をしました。そして図らずも、工藤さんの殺人現場の第2発見者になってしまったんです。何かの因縁じゃないですけれど、由美のこともありますし、他人事とは思えなくて……。工藤さんと話していた時、彼が由美のことを本当に愛していたことと、由美が死んで彼の落胆ぶりが非常に大きいことが分かりましたわ」
と、陽子が二人に話しかけた。
「そうですか……?芳樹にお会いになったんですか?それと、息子の死体も発見して頂いたわけですね。彼は、由美さんが死んで、そして自分が殺されることになってどんなにか無念であったか、死ぬにも死にきれなかったと思います。霊にでもなって出てきて、犯人を教えて欲しい位です。私は、犯人を絶対許すことができんですよ」
と、父親が親としての無念さを吐露した。
「芳樹君と由美さんは、結婚を誓っていたようなんですが、御存知でしたか?長谷川佳子さんにお話を伺いましたが、二人は幼馴染みで、何時しか恋人に変わっていったようだと。そして、結婚について正式な話があれば承諾していたと言っています。彼女は、ご主人を説き伏せてでも、好き合った二人を結婚させよう、それが二人のためなんだと考えていたようです。ただ、工藤さんご夫妻が気兼ねし、芳樹君が長男であり、由美が一人娘であることが災いしてだめになるんじゃないかと心配していたそうです。お二人はどのように考えておられましたか、腹蔵ないところをお教え下さい」
と、相沢刑事が最も知りたい点について尋ねた。
「はい、私からお話し致します。佳子奥様の言うとおり、二人は恋心を持つようになったと、私共も気付いておりました。私は、由美お嬢様とは身分が違うと芳樹に話し、できれば、諦めて欲しいと何度も言いました。しかし、若い二人は親が考えている程身分とか、世間体のことには疎いのか、今の人達なのか、親が口出しすればする程、頑なになって、自分達の幸せを絶対勝ち取ろうと余計二人の気持ちが一つになっていったようです。私達も、彼らの気持ちが一途で諦めるようには見えなかったものですから、終いには、もし結婚の承諾の挨拶に二人が正式に訪れたなら、旦那様には悪う御座いますが、許そうと考えておりました」
と、今日子夫人が初めて口を開いた。
「そうですか?ご両家ともお許しになる気持ちでいたんですね。それなのに二人とも亡くなってしまうとは……。犯人を憎んでも憎みきれない程ですね」
榊原は、嘆息混じりに悲痛な表情をした。
「ところで、芳樹君は、何か人から恨みを受けたり、特に最近普段とは変わったことはなかったでしょうか?交友関係等で悩んでいたとか、何か気が付いたことはありませんでしたか?」
と、相沢刑事は聞いた。
「いや、特別そういうことはなかったように思います。気が付きませんでしたね。由美お嬢さんのことばかり考えているようでした。たぶん悩んでいるとしたら、結婚をどうやって承諾してもらうかという1点だったと思います。それ以外のことは……。お前は他に気が付いたことがあるかい?母親の方が息子についてはよく分かるだろうから、父親というのはどうも……」
と、義男は今日子夫人の方を向いて言った。
「あの子に関しては、私もお父さん同様気が付いたことはないわ」
と、今日子夫人も当てがないような表情をした。



 相沢は、そろそろ工藤夫妻に重要な点について質問しようと考えていた。
「ところで、由美さんがY区で殺害された8月25日を挟んで24~26日頃の芳樹さんの行動を知りたいのですが?彼は、その間はこちらにご在宅だったのでしょうか?」
と、相沢刑事は聞いた。
「その点については、山崎課長にもお伝えしたのですが、……ええと、8月24~26日間ですか?確か、青森に行っていたんだよな……?」
「ええ、芳樹は会社の出張で青森に行っていましたよ。23日に青森へ出張に行って25日に戻ってきましたので、芳樹の会社にも確認して頂ければ分かると思いますが……?」
「そうですか?その点については、山崎警部に確認してみますよ。それから、ご次男の雅人さんについてお聞きしたいのですが?確か、芳樹君と4歳違いで、現在音信不通になっているとかお聞きしましたが……。全くの音信不通で、住んでいる場所とかも分からないということでしょうか?警察には失踪人届けを出されているのでしょうか?」
と、相沢刑事は尋ねた。
「雅人は、2年程前から居所が分からなくなってしまったのですよ。あいつは、元々芳樹とは違って、勝手放題に遊び回って、放蕩息子みたいなものなんです。高校時代までは、優しい本当にいい子だったんだが、東京のN市の大学に行った頃から人が変わったみたいで親に連絡をしなくなり、だんだん帰ってくることもなくなって、大学時代もほとんど音信不通のような状態でした。ぐれてしまって、私達もどうしたらいいのか、あの子がどうしてあんな風になってしまったのか分からないのです。東京なんかにやらなかった方が良かったと思っていますよ」
と、義男が言った。
「2年前から音信不通になったのは、何か原因があったのですか?」
と、相沢刑事が聞いた。
「大学を卒業してから、家に戻っていたのですが、仕事もせずにブラブラしていて、何時だったか、芳樹とひどい喧嘩をしましてね。雅人は、私達を恨んでいるかもしれません……。長男の芳樹ばかりを頼りにして、芳樹のことばかり可愛がっているように見えたのかもしれません。雅人のことも本当に愛しているのに、恨んでいたのでしょうかね?もし、そのように感じていたなら、あの子に謝りたいですよ。彼が東京へ行ったことや、ぐれてしまったことが、私達の彼に対して思いやりがないと見えたことが原因なら、それに愛されていないと思いこんだとしたら、そんなことはないと言ってあげたいですよ。
 2年前、東京へ遊びに行くと言ったきり音信が途絶えてしまいました。芳樹と喧嘩したこともあったのかもしれませんが、私達と暮らすことに苦痛を感じ出していたのかもしれません。彼が以前住んでいた東京のN市から、1ヶ月後に今日子宛に、手紙がありまして、東京で生活を始める予定だということと、探さないで欲しいということが書いてありました。私達は、吃驚して警察に失踪届を出しましたが、N市には住んでおらず、今もって行方が分かっていません。芳樹が亡くなって、雅人は私達の唯一の子供になってしまいました。彼が帰ってきたら、優しく迎えたいと思っています」
と、言って義男は老いの心細さ、寂しさを痛切に感じ、涙を服の袖でふきながら話した。



義男は、話ながら意気消沈していることがよく分かった。自責の念も強いのだろう。より、老いが深まったように陽子達には感じられた。
「芳樹さんとひどい喧嘩をされたということですが、その原因を御存知ですか?」
「いえ、何で喧嘩したのかは分かりませんわ。ただ、芳樹は真面目な性格でしたので、雅人が不甲斐なく見えたんじゃないでしょうか?兄として弟を怒り、喧嘩になったんじゃないかと……でも、芳樹は弟思いで、何とか雅人を立ち直らせたいと。母親の私が感じていたんですが、雅人だって兄のことは尊敬していたし、好きだったと思います。それであんなに喧嘩したんじゃないかと……」
と、今日子は言った。
「奥さんは、雅人くんが失踪してから、東京へ行ってお探しになりましたか?」
「いえ、警察にお任せしましたものですから、行っておりません」
「そうですか?大事な息子さんですし、お探しになったかと思いましたが……」
と、相沢は、少し皮肉に聞こえるように言った。
「ちょっと、失礼じゃないですか!雅人のことばかりお聞きになりますが、由美さんや芳樹の事件とどう関係があるんです?まさか雅人が、事件と関係あると思われているのですか?あの子はぐれてはいましたが、優しさも沢山持っている子で、事件を起こすような子じゃありません。芳樹とも本当は仲のいい兄弟だったのですよ。警察は、雅人を疑っているのですか?全く、お門違いも甚だしい!冗談じゃない。もう帰ってくれ……!」
と、義男は最後には怒り出し、つっけんどんに言った。
「雅人さんが事件と関係あるとは思っていません。ただ、3件もの事件が起こっており、まだ解決の目途も立っていませんので、どんなことでも知りたいのですよ。関係がないにしても、工藤さんのご家族に音信不通者がいるのは何となく気になることですし、弟さんにお兄さんが亡くなったことを知らせなくても宜しいのですか?てっきり、ご夫妻から雅人さんを至急捜して欲しいと頼まれるかと思いましたよ……」
と、相沢刑事は言った。
「まあ、すいません。大きな声を出しまして。芳樹が亡くなり、私達は気が滅入っていたものですから。雅人には今すぐにも会いたいですし、帰ってきて欲しいと思っています。芳樹が亡くなったことを知らせてやりたいのです。二人きりの兄弟ですから。雅人がお兄ちゃんの分まで頑張ってくれさえすれば……。相沢刑事は、東京のY警察署の刑事でしたね。雅人を本当にお捜し願いたいのです。何としてでも。宜しくお願いしますよ」
と、父親は今度は恐縮し、懇願して言った。
「雅人君の写真はありますか?東京に帰りましたら、写真を基に失踪人探しを試みますよ。また、N警察署やS警察署にも再捜索を頼んでみますよ。はい、写真ですね……、お借りしていきます。……それじゃ君たち、お暇しましょう」
と、雅人の写真を手に相沢は陽子達に声を掛けた。
「それでは、お邪魔して申し訳ありませんでした。何か、気が付いたことがありましたら、私の方か、S警察署の山崎警部までお知らせ下さい。では失礼します」
相沢刑事は、頭を下げて玄関から出て行った。慌てて、二人も挨拶をし、相沢の後に続いた。


 
 榊原には、工藤夫妻の態度にどうも解せないものを感じていた。親子ってこんなものか。このことは、陽子や相沢刑事も感じているだろう。
「どうでした。何か分かりましたか?」
と、榊原が相沢に尋ねた。
「ご両家とも、家同士の問題はあったが、二人の結婚は最終的には認めようと考えていたことは分かったね。それと、工藤家では特に、兄貴の方を溺愛していたようだね。だめな弟よりはということかね。雅人君に関しては、東京で探してみるよ。話を聞いて、喧嘩の原因や失踪の原因が余計気になったね。事件とは直接関係ないかもしれないが、何かがあるような気がするのだよ」
と、相沢刑事が答えた。
「工藤家では、本当に雅人君を捜す気があったんでしょうかね?こんなことを言ったら罰が当たるかもしれませんが、何となく、邪魔者扱いのようないなくなってせいせいしたような……。うーん、本当に彼を捜していたんでしょうかね?警察任せというか……。まあ、自分達ではなかなか探し出せないかもしれませんが、大事な息子なら、音信不通になったら、親なら東京へも探しに行くんじゃないですかね?特に母親は……?」
と、首を傾げて榊原が言った。
「私も、母親だったら探しに何処までも行くと思うわ。それにご主人のあの怒り方は、雅人さんのことを必ずしも信じてはいないというか、私の勘違いかもしれないけれど、少し疑いは持っているんじゃないですか?私達の追求から、もしやという気持ちにもなったんじゃないかと……。だから、その気持ちを否定するために怒ったんじゃないかと……」
と、陽子も怒ったように言った。
「今日は、どうもお付き合い頂きありがとう。何となく、来た甲斐がありましたよ。これで東京に戻りますが、あなた達はまだこちらに居られるのですか?呉々も気を付けて下さいよ」
「私達も、そろそろ帰ろうかなと思っています。ねえ、洋介さん?」
「そうだね。もう少しこちらにいてから、帰ることになると思います。工藤さんや山村さんの事件経過を少し山崎警部に教えて頂いてからになると思います。陽子さんもまだ知りたいこともあるだろうし……」
「そうですか?山崎警部には、電話で由美さん事件当日の芳樹くんの足取りについて確認しますが、もし山崎警部に会いましたら、その辺の話も聞いておいて下さい。山崎警部には、君たちにも情報を与えるように頼んでおきますので。それじゃ、Y区でお待ちしております。お帰りになったら私の方まで連絡して下さい。また、情報交換しましょう」
「相沢刑事、私達のような素人とそんなに付き合ってもいいんですか?それに、警察の大事な情報を私達にリークしてもいいんですか?」
と、陽子が少し心配になって聞いた。
「いいのですよ。時には、素人さんの方が情報を持っている場合がありますし、あなた達はよく物事を見ているようですので。それに、あなた達は重要参考人ということで、表向きは何時でもお会いできるし協力してもらうことができることになってますので。そのつもりで、警察に何時も見張られている振りをしていて下さい。私も、上司には由美さんの事件当時や工藤さんの事件について重要な情報を持っているはずだということにして、お会いできるように計らいますので。ご心配なく、大船に乗った気持ちでいて下さい」
と、相沢は言って、名残惜しそうにS市駅の改札を通って行った。



 S警察署では、工藤家及び芳樹が働いていた○○商事に確認した情報に基づき、山崎警部は工藤芳樹の足取りを城島刑事ではない若い刑事と追いかけていた。
 その頃、一方の城島刑事は、S警察署第1課の担当員人数の都合上、山崎警部とのコンビを解消し山村美和事件の調査に没頭していた。
 山崎警部達の調査によると、工藤芳樹は、8月23日に確かに青森に出張に行っていた。
 その行程は、以下の通りである。

 S市発 12:54 奥羽本線秋田行き
       ↓
 大曲発 14:38 こまち20号東京行き
       ↓
 盛岡発 16:26 はやて21号八戸行き
       ↓
 八戸発 17:07 スーパー白鳥21号函館行き
       ↓
 青森着 18:04

 工藤芳樹は、会社の予約していた青森プラウザホテルに19:00にチェックインしていた。
 S市駅では、駅員に芳樹の写真を見せたが、当日彼が12:54発の秋田行きの列車に乗ったかどうかは確認はきなかった。しかし、青森プラウザホテルでは宿泊者名簿に工藤芳樹の名前があり、会社や両親による名簿の筆跡確認においても本人であることが判明した。
 24日には、取引先のT会社で9:00~15:00まで商談を行っていた。なかなか商談がまとまらず、ほぼ1日かけてやっとまとまった状態であった。山崎警部達は、工藤の15:00以降から25日に実家に戻るまでの足取りがなかなかつかめないでいた。
「警部、15:00以降の足取りが全くつかめませんね。工藤の会社でもつかんでいないようですし、25日夕方に会社に出社すると24日の朝に連絡があったとのことでしたが……。青森駅で、聞き込みをしますか?」
S警察署で陽子達の供述書を作成していたあの若い刑事の山岡刑事が山崎警部に話しかけた。
 青森駅では、駅員やキオスクの店員達に写真を見せて聞いて回ったが、なかなか情報を得ることができなかった。さらに、青森駅近くの食堂、本屋や喫茶店などにも尋ねて行ったが、全く情報はない状態であった。3時間近く掛けて、工藤が寄りそうな場所を虱潰しに尋ねてみたが、何もなく、青森駅に戻り、帰りの列車に乗り込むまでの待ち時間を使ってキオスクでビールとお摘みを買った時であった。
「あの、すいません。先ほどの刑事さんでしたよね?」
と、年増の女店員が言った。
「それがね。さっき写真を見せてくれたでしょう。その時、明日発売の雑誌を配達してきたお兄さんがね、電話かけてきたのよ。彼が言うにはね、ちらっと横から写真を覗いたんだって。そして、工藤という名前も聞こえたって言うのよ。その時は次の店に配達するため急いでいたし、そんなに気にかけていなかったので気が付かなかったらしいんだけど、後でアッと思ったらしいのよ。もしかしたら山形S市出身の工藤さんじゃないかってね?彼も同じところの出身で、工藤さんは高校の先輩だって言うのよ。そんなに親しかった訳じゃないから、すぐには思い出せなかったけど、もしかしたらと思ったって言うの。それから、確か24日にも雑誌を配達してきたんだけど、他の店で雑誌を渡している時に、ビールと雑誌を買っている工藤さんを見かけたらしいのよ。その時は、何処かで見かけた人だな程度のものだったらしいんだけど、さっき気が付いたって言うのよ」
「どの列車に乗ったか分かるといいんだけどな」
「見かけたホームからいうと、停車していたのは、函館行きの白鳥15号だって言うのよ。確かに、彼の言っていたキオスクのあるホームではあの時間帯には、白鳥15号が停車していたはずですよ」
「函館行きかい、八戸行きの列車ではないのかい?」
と、山崎課長は山岡刑事と顔を見合わせて女店員に言った。
「函館行きに間違いありませんよ」
「どうもありがとう。助かりました」
と、山岡刑事は言った。



 山崎達は、キオスクを離れ、列車に乗り込むことにした。
(函館……。北海道とはな。どういうことなんだ……?)
と、山崎警部は考えていた。
「山岡君、当時の工藤の足取りを追ってみようか?実際に電車に乗る訳じゃないが、帰りの電車の中で時刻表で検討してみよう。時刻表を買ってきてくれないか?」
「分かりました。他に何か要りますか?」
「時刻表だけ買ってきてくれればいいよ」
 列車の中は、乗客がパラパラと居るだけだった。二人は、指定席の座席で時刻表を見ながら、工藤の行動を考えようとしていた。24日の会社への連絡等を考えると、その日工藤は明らかに山形には戻る気がなかったようだ。それでは、工藤はどのような行動を取ろうとしていたのか?東京に行ったのではないかと考えていたが、女店員の話が事実なら、何故函館行きの列車に乗ったのだろうか?あの時間帯なら、青森から東京へ向かえば良いのを、わざわざ反対方向へ向かうのか、その理由が分からなかった。
「山崎警部。15時過ぎの青森~函館行きだと、次のような行程になりますよ。

 青森発 15:22 白鳥15号函館行き
       ↓
 函館着 17:33 

 これだと、函館空港から羽田に向かうことができるんじゃないですか?ええと、これだとANAにもJALにも乗れますよ。

函館発 18:40 ANA864便
函館発 19:35 JAL1168便

で、羽田には、20:00、21:00に到着しますよ」
「青森から直接東京に行く場合は、どんな行程になるんだ?」
「青森 16:05 つがる86号で、八戸ではやて86号17:30に乗り換えて20:36に東京に着きますよ。それから、青森空港 17:10 JAL1208便で羽田に18:25に着きます。これが最も早く東京に着きます」
「いろいろな方法があるんだな。俺たちのように、田舎にいて旅行をあまりしない人間には、知らないことが多いな。警察機構と違って、交通機関は非常に便利になっているんだな。警察に限らず公務員は、列車利用が原則で、飛行機を利用できるのはお偉いさん方だけだものな。時間と戦って仕事をしているサラリーマン戦士なら、時間が金なりで、どんなことがあっても決められた時間に到着するために回り道をしてでもいろいろな方法を考えて行こうとするだろうね。そんな人間でない限り、気が付かないわな。飛行機の世界では、ビジネスリピートというキャッシュレスでチケットが発券されるシステムも出来ているというし。俺のようにカードを持たない人間には別世界だけどね。今はカード世界が本当に広がっているようだね」
「警部は、カードを持っておられないんですか?」
「まあな、何となくカードを持つとろくなことがないような気がしてな。ははは……」
山崎警部は、自分のかみさんがうるさいのを誤魔化して苦笑いした。



 山岡刑事は、今時カードも持っていない人間がいるなんてというように、不思議そうに上司を見ていたが、気を取り直してこの上司に向かい、自分の疑問点を話した。
「ところで、工藤はどうして函館に行くようなまどろっこしいことをしたんですかね?東京にそれほど早く到着するわけでもないのに……」
「そうだな。家族や会社の人間のような彼の身近な人間には東京に行くことを知られたくなかったんじゃないかな?どうしてか分らないけどね」
「警部、このようなことは考えられないでしょうか?例えば、彼は青森で担当の取引会社が沢山あり、そのうちの人間があの当時東京に出張に行く予定情報を聞き込んでいて、出来れば一緒になりたくなかったような。一緒になればご一緒しましょうとなることも恐れ、またたまたま会った場合にも行き先を聞かれた場合に、函館、札幌でもいいんですが、そこで商談しに行くようなことも言えますし……。そうすれば、いろいろなことを聞かれずに済みますしね」
「だけど、由美事件が起こったから、我々のように彼の足取りを調べることをするが、事件が起きなければ調べられることもないんだからな。東京行きを隠す必要もないんじゃないか?もしかすると、事件と関係があって、それを隠す必要があった……?彼が、犯人か?由美を愛していたはずなのに……、どうしてだ?」
「例えばですよ。彼は、警察に東京へ行ったことを調べられるのが困ると思っていたんじゃないでしょうか?警部は、工藤が由美殺しの犯人ではないと思っていますよね。もし、工藤が由美を殺したか、あるいは彼が直接手を下さなかったとしても共犯者がいた場合、警察に追いかけられることは破滅に向かうので、その危険を冒したくなかったとも考えられます。僕には、彼が本当に犯人でないとは思えないんですよ。彼の遺書にあったように、工藤が主犯で、その彼が図らずも共犯者達に殺されたとは考えられないでしょうか?彼が殺される羽目になった理由は、彼が由美を殺したことに対して、日が経つにつれ後悔の念と苦しみの気持ちに苛まれて次第に心が病んでいったとしたら。あの遺書が本当は告白の第1章ではなかったのかと……。それが、共犯者達に対する裏切りの幕開けだったとしたら、共犯者達は自分達の身を守るため、工藤を殺すしかないと考えたとしたら、工藤殺害事件は起こるべくして起きたとは考えられないでしょうか?警部はどう思われます?」
「つまり、あの日工藤は由美を殺しに行ったということかね。そのため、その足取りを人には見せられなかったということかね。うんー、しかしね……。俺には、工藤が由美を殺す動機が分からないんだよ。工藤が清水さん達に話していたように、唯俺たちは工藤と直接会って話していないから100%彼らの話を鵜呑みにはできないが、それでも彼らの工藤に対する印象を信じたい気持ちなんだ。これは、たぶん相沢刑事も同じ気持ちだと思うよ。警察官のモットーとしては、人を疑えだけれども、また人間は、よく騙されるけれども、信じる者がいてもいいんじゃないか。もし、本当に工藤が由美と9月早々に両家に対し結婚の承諾をうける計画だったとしたら、清水さん達が言うように工藤が由美を本当に愛していたなら、工藤が由美を殺す理由がないと思うんだよ。だから、工藤は由美の本当の犯人に殺され、由美殺しの身代わりにされそうになったんじゃないかと思うんだ。これは、俺の期待でもあるが……」
「そうすると、工藤が東京へ行った理由が分かりませんね。何故、こそこそ東京へ行く必要があったのか?由美と会うためなら、どんな理由があったのか?すぐにも、S市で会う約束になっていたはずですよね……」
と、山岡刑事が疑問を言った。
「そうなんだ。そこが分からないとな。由美とは会う予定がなかったのか?由美と会う、場合によっては会わざるをえない状況が出現したのか?会ったとしたら、由美殺人事件に遭遇しなかったのか?それ以前に山形に帰ってしまったのか?由美が会おうとした人間が、工藤だったのか、あるいは全く違う人間だったのか?それこそたまに会う親友の清水さんとの約束をすっぽかしてでも会わなくてはならなかった人物とは、どのような人物か?清水さんよりも重要な人物だったということになるな。常識的には、遠距離恋愛中の恋人の工藤だが……」
と山崎警部が頭を振りながら、山岡刑事に言った。
「確かに。由美が急遽会うことになった人物は誰か?その人物と工藤に関係があったのか?あるいは工藤その人か?この点が分かれば、由美、工藤事件も解決に向かいますね」
と、山岡刑事が分かり切った結論を言った。
「まあ、電車の中での話は、これ位にして、後はそれぞれの頭の中で考えることにして……、俺は少し眠るよ」
と、山崎警部は言って、目を瞑った。

第六章 震災発生



 Y警察署で、相沢刑事は、鈴木本部長以下の幹部を前にしてS市を訪問して得た情報を報告書に示して開示していた。その報告書のコピー版には、以下の事項が書かれていた。

『      由美殺害事件に関する覚え書き

・ S市に到着後、清水陽子、榊原洋介両氏と再会し、お互いの情報交換を今後とも行うことを確認した。彼らは、容疑者ではないと思われるが、由美殺害事件に最も身近な人達である。特に、清水陽子は長谷川由美の親友であり、彼女の葬儀出席後もS市に留まり、由美殺害事件が解決されることを切に願っている人物である。
・ 長谷川由美の殺された理由は?
・ S市では、工藤殺害事件、山村殺害事件が連続して起こっている。
・ 山村殺害事件は、由美殺害事件と直接関わりがないかもしれないが、工藤殺害事件は由美殺害事件の延長線上にあることは間違いないと思われる。
・ 陽子達は、由美の葬儀の時に工藤に会っているが、彼らの印象によると、工藤は非常に悲しみに打ち沈んでおり、由美を本当に愛していたと感じたと二人共から証言を得た。また、彼らの話から、工藤の言動に基づくと、由美も工藤を愛していたと思われる。
・ 工藤は、由美の恋人であることは間違いなく、9月早々に両家を訪問して結婚の了解を受けることにしていた。
・ そんな工藤が由美を殺すとは考えにくい。工藤は、由美を殺したと遺書で示しているが、犯人に由美殺しの汚名を着せられたと思われる。
・ 榊原の話によると、工藤は彼らとの話の中で、一瞬ではあるがアッというような驚いた表情を浮かべていたとのことであった。工藤が何かを感じた、あるいは察したとの印象を持ったとのことである。
・ 清水陽子に関しては、私がS市滞在中には危険性はないように感じた。S警察署の刑事達も目を光らせていること、榊原も側にいることが大きく、今のところ事件関係者(犯人かどうかは今のところ分からないが)が清水に近づく隙はないように思われた。また、近づく理由も今のところ分からない。
・ ただし、清水陽子の身辺については今後とも注意を払う必要がある。はっきりした理由はないが、今後は事件関係者が彼女に接触を図る予感がする。
・ 山村美和、彼女は由美が小さい時から行っていた美和美容室のオーナーであり、清水が由美のことを聞きに訪ねていった時には不在で、その夜8時37分頃には殺害されていた。この時刻は、第1発見者の通報時間である。山村は、由美、工藤とは異なり、絞殺ではなく刺殺されている。また、第1発見者の住職が黒尽くめの犯人の後ろ姿を目撃していることも、目撃者の現れない前2事件とは異なる。山村美和事件は、計画性を感じないが、先の2事件には計画性があり、そのことも大きな違いがある。山村美和殺害事件の犯人は、男と思われる。その体格は、中肉中背(たぶん身長160~170cm位)。
・ 由美、工藤の犯人は、同一犯の可能性があるが、山村美和殺害犯人は別人の可能性がある。
・ 山村美和が殺された、理由は?美和は、全く別の理由で異なる犯人に殺されたか、由美や工藤の殺害された理由を知っていて、そのため犯人に殺された可能性もある。
・ 長谷川、工藤両家の両親は、二人の結婚に対して様々な障害があったが、最後には二人の結婚を許す気持ちでいた。
・ 工藤は、由美が殺害された8月25日前後の8月23に青森に出張に行き、25日に実家に戻っている。
・ 工藤芳樹には、雅人という4歳違いの弟がいる。この弟は、2年前から現在まで音信不通のままである。両親は、失踪人届けを出しているが、特に自分達の手で進んで探すことはしていない。現在、雅人はN市には住んでいない。
・ 工藤夫妻の話によると、雅人は、東京のN市の大学に行った頃から人が変わったようで、大学時代から両親とは連絡を取ることがほとんどなかったと言っている。
・ 工藤夫妻には、雅人が音信不通となった本当の理由が分からないと言っている。ただし、芳樹と雅人はひどい喧嘩をしたことがあり、その理由は分からないが、雅人の失踪した原因になった可能性もある。両親は、芳樹が雅人を立ち直らせたかったのでないかと思っている。
・工藤夫婦は、雅人の話をあまりしたがらない様子であったが、雅人が事件と全く関わりなくても、由美や工藤と何らかの関わりがあったと疑っているようであった。両親の雅人に対する気持ちは、かなり冷え込んでいるように感じられた。
・雅人の写真を入手したことから、この東京都近辺で雅人を捜索する予定である。事件を解く何らかの情報を掴めることを期待している。S警察署には、山形県内でも雅人の調査を依頼している。
・榊原氏の情報によると、これはS警察署の山崎警部の情報だが、工藤芳樹は、8月23日に青森に出張に行っていたことが確認された。ただし、100%確認されたわけではないが、おかしなことに函館に向かったことが目撃されている。
・山崎警部は、24日に工藤は東京に向かったと疑っている様である。時刻表に基づく検討では、函館から羽田に向かうことが可能であり、その遠回りの行程を家族や会社に東京に行くことを秘密にしていたかったと考えている。ただし、由美と9月早々には会って両家に結婚の承諾を受けに行く約束をしていた工藤が東京へ急遽秘密裏に行った理由が不明である。
・他方、工藤が由美を殺したか、あるいは彼が直接手を下さなかったとしても共犯者がいて、警察のアリバイ調査に対抗できる行動を取ったことも考えられる。その場合、工藤が殺害された理由は、工藤が心痛から由美殺害の事実を隠し通すことができなくなり、例えば自殺を考えるようになり、遺書を自ら書き、その状況を共犯者達(山崎警部は一人とは考えていないようである。)に知られ、口封じのために殺害されたこと可能性も考えられると言っている。
・しかし、むしろ山崎警部は工藤が由美を殺さなければならなかった理由が分からず、清水さん達の工藤に対する印象を信じたい気持ちであり、工藤が由美を本当に愛しおり、殺す理由がなく、工藤は由美の本当の犯人に殺され、由美殺しの身代わりにされそうになった可能性が最も真実に近いと考えているとのことである。
・それでは、工藤は由美と会ったのかあるいは会わなかったのか?どちらの事実があったとしても、その行動の理由は何か?
・会わなかった場合の、工藤の由美殺害事件との関係は何か?殺害事件を知らずに山形に帰ったのか、あるいは知っていながらも帰ったのか?知っていたとしたら、何故Y警察署あるいは帰ってからS警察署を訪問しなかったのか?
・ 長谷川由美が会う予定だった人間は、工藤だったのか、あるいは全く違う人間だったのか?清水さんとの約束を反故にしてでも急遽会う必要があった人物とは、どのような人物か?
・ 今後とも、S警察署と密な連携を取るとともに、清水さん達との情報交換を行いたいと考えている。また、清水さん達には早くこちらに戻ってきてもらいたいと考えているし、そのように勧めたいと考えている。

以上』



 相沢は、自分の書いた覚書から、次に何が浮かんでくるか考えていた。
「この覚え書きを読むと、工藤芳樹が急遽東京へ行った理由が最大の焦点かね?それと、工藤雅人の存在も気になるということかね?」
と、鈴木本部長が尋ねた。
「はい。工藤芳樹の突然の行動が何を意味するのか?それが直接的でなくても間接的に由美殺害事件の導火線にならなかったかどうか、それを知りたいと思っています。由美が会わなければならなかった人物と工藤の関係は?その人物が犯人か?何れにしても、8月24日から25日に掛けての工藤の行動が鍵を握っていると睨んでいます。そして、本部長がおっしゃるとおり、工藤雅人の存在も無視できないと考えています。雅人は、当然由美と面識がありますし、当日会うことが可能であった人間として浮上してきました。雅人が音信不通となった原因が、由美と芳樹の恋人関係にあったことに起因しているのではないかと予想しています。雅人が由美の争奪戦に負け、去っていったような気がします。雅人が当時何処にいたかは分かりませんが、東京にいた可能性が大きいと考えています。つまり、雅人も何らかの形で由美殺害事件を紐解く重要参考人に格上げになるのではないかと思っています。従って、工藤雅人の足取りを追ってみたいと考えています」
と、相沢は答えた。
「分かった。工藤雅人の捜索に関しては、私の方からも警視庁や東京都内の警察署の応援を受けられるよう要請してみよう。ところで君は、今まで一人で行動していたようだが、相棒は要らないのかね?」
「他署への要請については宜しくお願い申し上げます。相棒については……。私は、一人で行動することが好きですし、特には必要ないと思っていますので、ご懸念には及びません」
と、相沢は苦笑して言った。
「まあー、そう言うな。君が相棒と組むことを嫌がるのは知っていたよ。唯、君のような優秀な刑事、特に叩き上げのバリバリには、若い人間を育ててもらいたいのが上層部の意見でね。君が若い頃、君の親友の相棒が殉職した時から、相棒と組むことを拒否してきたのは分かっていたよ。そのショックが大きかったことも。今まで、北村警部と私で優秀な君を庇って、自由にさせてきたが……。今回は、上層部が強硬でね、君に絶対相棒と組ませろと言ってきてね。分かって欲しいんだ。今の警察組織って所はね……。サラリーマン世界だけの現象ではなくて、ご託に漏れず、警察世界においても最近、大学出の頭のいい人間が入ってくるが、頭がいいだけで自分で物事を考えて行動することができず、上司の命令がない限り仕事せず、自分から進んでという積極性も見られずというのが現状でね。何とか、教育というか、君に優秀な部下を作って欲しいんだよ。上層部は、将来の警察の有り様を心配しているし、警察組織力の低下、ひいては世間の風当たりを心配しているんだよ。上層部は、まあ、世間の風当たりが強くなれば、当然自分達の立場を守りたいという気持ちもあると思うがね。どうかね?」
と、本部長が済まなさそうに言った。
「しかしですね……」
 相沢は、何という方向に話が進んでいってしまったのか、憂鬱な感情に浸っていた。
「もう、君の相棒の人選は済んでいてね。決まってしまったんだよ。吉川君、こちらに来て、相沢君に挨拶したまえ」
と、鈴木本部長は相沢刑事の相棒予定者を呼んだ。
「ちょっと待って下さいよ。急にそう言われても……」
と、相沢刑事は、将来の相棒を見て絶句した。
「相沢刑事、宜しくお願いします。吉川ひろみと言います。相沢刑事は憧れの人でしたので、相棒にして頂けるとは非常に光栄です」
と言って、吉川刑事は頭を下げた。
「相沢刑事。こちらの吉川君は、優秀な成績で刑事になったばかりなんだが、初めて、殺人事件と関わるんだよ。由美殺害事件は女性が殺されたわけだし、清水陽子さんの存在もあることから、今後の捜査では女性のカンや女性同士の付き合いも捜査のためになることも予想されるし、必要になるんじゃないかな。私からも頼むよ。ここは、彼女を相棒として迎えてくれ」
と、北村警部も言った。
「はい、はい、分かりました。一つ条件があります。吉川刑事を相棒にしますが、もし彼女が私の重荷になったり、捜査の邪魔になるようだったら早速相棒を解消させてもらいますが、その条件は呑んで頂けますね!」
と、相沢刑事は吉川刑事を見て言った。
「私は、相沢刑事のお荷物にはならないように頑張りますので側に置いて下さい」
と、吉川刑事は必死に言った。
(なんだこの女は?恋人気取りじゃないか。冗談じゃないよ、これだから女は……。しかし、面倒な事態になってしまったな……)
と、相沢は吉川を見て思ったが、心の中では清水陽子の容貌を思い浮かべ、吉川と比較していた。
「分かった。その条件は呑もう。それじゃ、早速行動を開始してくれ。吉川君も相沢刑事に嫌われないように頑張ってくれたまえ」
鈴木本部長は、相沢刑事が心変わりする前に、決定権を行使した。



 今日も朝から暑い1日となっていた。陽子は、うんざりしながら、
「洋介さん、今日も暑いわね。夜になったから、もう少し涼しくなると思ったのになあ。嫌になっちゃうわ。相沢刑事が東京に帰って、2日も経つのね。東京に早く帰りたいけど……。相沢刑事が東京に早く帰った方がいいよって言ってきたのよ。それからね、相沢刑事が吉川っていう女性刑事さんと組むことになったんですって。相沢刑事さんって、結婚していたのかな?結婚して子供もいても可笑しくない年頃に見えたけど、結婚指輪もしていなかったようだし……。あなたはどう思う?」
と、陽子は可笑しそうに榊原に聞いた。
「どうかな?最近の大人はいい年でも結婚していない人が多いからな。昔なら、結婚適齢期は男女とも25歳位だったけど、今は30歳や40歳を過ぎても結婚しない人が増えているっていうし……。コンビニやファミリーレストランが近くにあって、それからコインランドリーもあって、独身者が生活に困らなくなったからかな。フリーターやニートが増え、結婚しない人間が増えているしね。それに、年金問題や子供の問題があって、将来に不安を抱えている人が多くなり、結婚に希望を持てない人も増えているということかな。少子化が益々進みそうだし、僕らの未来はどうなっちゃうのかな?嫌だ、嫌だ……。あ、ごめん。脱線しちゃったみたいで……。そうそう、僕の目から見ると、相沢刑事は結婚していないように思うんだ。僕には分かるんだよ。君を見る目が、何となく気になるし、僕にとっては強力なライバルだと……」
と、榊原は陽子にウインクしながら言った。
「私には、分からないわ。今のところ、洋介さんしか見てないもの。あなたが今のままならね……」
と、陽子は悪戯っぽく言った。
「だけど、相沢刑事が女刑事とうまくいくことを祈るよ」
 この時二人は、まもなく起こる悲劇に全く気が付いていなかった。



 次の日の早朝、清水陽子と、榊原洋介が滞在していた山形県を未曾有の地震が襲っていた。
 ドーンという音とともに、人が立っていられない程の縦揺れが30秒間も続き、家の中のあらゆる物が倒れる程の衝撃波がS市を襲っていた。

日本は、世界有数な地震国で有名なことは日本人なら皆知っていることであった。榊原は、まさかこんな時に自分達が地震に襲われるとは思っていなかった。その時、まさに西村京太郎作「日本沈没」が実際に起こったのではないかという錯覚に落ちいった程のパニック状態を経験していた。彼の、後日の述懐によると、以下のような状況であった。
 陽子と、洋介は、東京に帰る前に長谷川由美、工藤芳樹と雅人の関係や彼らと特に関係あった人物がいなかったかどうかを調べるため、次の日にU高等学校に赴く計画を話し合っていた。
「洋介さん、私ね、山村さんが亡くなり、相沢刑事も東京に帰られたし、今のところ由美のためにどうしたら行動できるか分からなくなっているの。でね、一から始めることになるんだけど、由美が通っていたU高校に訪問したいと思っているんだけど、明日付き合ってくれる?」
「そうか。そうだね。まずは、始まりからだね。S市での人間関係を調べるには、高校が最も相応しいかもしれないね。彼らや彼らの周りの人間関係が浮かび上がることを期待したいね。当然、君が行くところには男の姿 ─ 僕のことだけど ─ ありだね」

 日本は、細長い列島の中央部に急峻な脊梁山脈が縦断し、河川は諸外国と比較しても急勾配な特徴を示していた。その国土環境にあることと、日本の地球における位置 ─ 北緯25度~45度─ が、フィリピンやタイなどのアセアン諸国を含め世界に類を見ない四季のはっきりした素晴らしい気候を形作っていた。
 また、日本の江戸時代以前より、世界では地球の東の果てにジパング ─ 黄金郷 ─ が存在し、マゼランのように冒険者達はその国を発見することに期待と希望を持って西欧諸国から旅立ったものであった。
 春には桜が咲き、杉花粉に悩まされ、冬には沖縄と北海道で40度もの気温格差が出現する程の国土である。南北に3000kmという細長い国土が成せる技であった。榊原は、そんな日本が好きで、この国に生まれたことを誇りに思っていた。そして、いまだにジパング(理想郷)と思っていた。
 日本は、アジア・モンスーン地域に属し、台風常襲地帯であり、降水量が多く、洪水、土砂崩壊や地すべりなどの土砂災害が頻繁に起こる国土となっていた。この国では、どれだけの災害に見舞われ、そして人々はその災害に立ち向かい希望を持って立ち直ってきたことか?日本人の忍耐強さは、こんな経験が形作ったものかもしれない。
第2次世界大戦に負け、長崎、広島と立て続けに原爆の恐怖を味わい、東京の大規模空襲を経験してなお、本来なら立ち上がることさえできないはずが、戦後の復興を自ら作り上げ高度成長時代を立ち上げたこの底力は何から生まれたのだろうか?現在、退職時期となった団塊時代のサラリーマン戦士が、どれほど国の復興のために自らを犠牲にし、将来の発展の希望やどうしても国を富ませたいという切なる気持ちを持ち続け、形振り構わず働いたことか?この忍耐強さは、日本の自然環境に負うところが大きかったのだろうか?榊原にはそう思えて仕方がないのである。だから、先人の財産を引き継ぎたいと思っているし、自分より若い連中や、子供達にも日本の将来のことを考えていって欲しいのである。
そして、ここ最近日本では、頻繁に地震が発生し、大規模な被害が起きていた。特に、日本は、環太平洋造山帯に属し、1900年から1994年におけるマグニチュード7.8以上の大地震のうち約20%が日本とその周辺に発生しているという世界有数の地震国となっている。そして、火山噴火も頻繁に起きている。火山噴火では、平成12年の北海道の有珠山や雲仙普賢岳が起き、火砕流や土石流の恐怖を味わったばかりである。



地震では、平成7年に淡路島を震源に、震度7を記録する阪神・淡路大震災が発生し、建築物の倒壊、大火災の発生、ライフラインの寸断、5000人を越える死者という戦後最悪の未曾有な災害が発生した。この大地震は、野島断層という活断層が活動し、直下型地震が発生したものである。近畿地方では、ここ数十年大地震に見舞われたことがなく、関東大震災を経験した関東地方や東海地方と比較し、盲点となっていた地域であった。その間隙をぬわれ、大都市である神戸市を襲ったのである。榊原は、その当時テレビを見ながら、大火災の猛威を目の当たりにしてこの世ではない光景を呆然として見ていたことを思い出していた。映画やドラマではないが、こんな現実離れした信じがたいことが本当に起こっているのだろうか?これは夢ではないのかと思ったものであった。
山形地方には、東北日本弧の日本海側に並ぶ火山体である鳥海火山帯が存在する。渡島大島、岩木山、鳥海山という2000m級の活火山もあり、鳥海山は578年から1821年に渡って数々の活動の記録を残している。東北から北海道にかけて存在する東北日本弧の中軸部に分布する那須火山帯 ─ あの赤軍派によって引き起こされた浅間山山荘事件があった浅間山、那須岳、十和田湖、死の雪中行軍で有名な八甲田山そして噴火で有名な有珠山が存在する ─ があり、鳥海火山帯はその位置から那須火山帯から西~北西へ枝分かれしたように見える。また、グリーンタフ地域に属し、緑色凝灰岩類及びその上位の含油新第三系(泥岩を主体とする)の地層が分布し、新潟~秋田県にかけ、石油や天然ガスの産出があり、新第三系の地層を原因とした日本有数の地すべり地帯となっている。

この地震は、山形県の日本海沖50km、深度30kmの活断層を震源地とし、大地震が発生したのである。震度は7を越え、マグニチュード7.8という阪神・淡路大震災に匹敵する巨大な地震が発生した。しかも、その地震が鳥海火山帯の活火山である鳥海山を刺激し、水蒸気爆発を伴う大噴火まで発生し、安山岩溶岩の溶岩流の発生、火砕流の発生が起こり、最悪なことにこの大自然の破壊活動に刺激されたのか、集中豪雨に見舞われるという状況であった。
山形県は、有数の地すべり地帯であり、大地震、水蒸気爆発を伴う大噴火によって生じた可能性もある集中豪雨により、地すべり、崖崩れ、土石流が至るところで発生し、大規模な土砂災害に見舞われていた。
しかも、S市は壊滅的な崩壊を受け、ビルの倒壊、道路の寸断、電気、水道、ガス等のライフラインが完全にストップし、火災も発生していた。豪雨があったため、火災はそれほど広がらなかったのがせめてもの救いであった。
しかし、日本海側の都市では津波の発生による壊滅的な被害を受けていた。



山形県は、佐藤知事が災害対策本部を設置し、被害状況の収集に努めていたが、巨大な災害のため正確な情報が入手できない状況であった。停電が発生し、電話も通じない状況であった。唯一連絡手段として期待された携帯電話もほとんど繋がらない状況であった。
まだ暗い早朝に地震が発生したこともあり、救助や捜索が進まない状況であったし、皆二次災害を心配し、明るくならなければ行動できない状況であった。
「木村君、情報はどうなっているのかね?」
と、佐藤知事が県警本部長の木村に聞いた。
「今、県警と県庁職員、各市町村警察署員、各役場職員達が各職場に集まって情報収集に努めておりますが、ライフラインの切断もあり、職員自体がなかなか職場に集まれない状況もありまして、情報が入ってこない事態になっています」
「電話も携帯も繋がらないか?小住総理と連絡を取って、早急な自衛隊による救助活動、支援活動、生活物資の支給をお頼み申したいんだが。政府もたぶん災害対策本部を設置して活動を開始していると思うが、どういう事態になっているか分からないと何とも手が打てない……」
佐藤知事は、頭を抱えてしまっていた。

 一方、S市では、山形新幹線高架の寸断、S市駅周辺の官庁街のビルの倒壊が起き、道路も地震の影響で地割れが至る所で発生し、車での移動も不可能な状況であった。
 陽子と洋介は、明け方長谷川家でこの大地震に合い、熟睡を妨げられ、陽が昇って早々に、長谷川家の人々と非難するため図らずもU高等学校に行く羽目になっていた。沢山の被災者達に混じってU高等学校のグランドに向かって走っていた。彼らには、自分達を含め被災者達が、何千、何万人もいるように感じた。それほど多くの人が一塊りになって恐怖に引きつった顔を歪め走っていたのである。
「はあ、はあ。洋介さん、大丈夫?こんな地震に遭うなんて。私から離れないでね……」
「はあ、はあ、はあ。大丈夫だよ。人が沢山いるから、離れ離れにならないように、お互い気を付けなくてはね」
洋介は、陽子を気遣い、慌ててぶつかってきそうな人間を押しのけながら陽子の手を握って走っていた。唯、女である陽子の走る速度に合わせるため、時々スピードを緩める必要があった。その都度、急いでいる男達にぶつかられ前のめりになりそうになる始末であった。
 10分も走っただろうか、U高等学校のグラウンドが見え始め、少しホッとした瞬間であった。陽子が突然バランスを崩し、倒れ込みそうになった。洋介は慌てて陽子と繋いでいた手を引っ張り、助け起こそうとし、立ち止まりかけた。その時、後ろから突然突き飛ばされたのである。沢山の人間がおり、彼とぶつかり、こんなパニックの中誰も自分のことしか考えていないのか、彼を助け起こそうとする者はいなかった。終いに、
「邪魔だ。どけろ。踏みつぶすぞ」
と、蹴飛ばされ怒鳴られる始末だった。その後、足腰の弱い女性や老人達が彼の体に躓いて彼の体の上に将棋倒しに倒れてきたのである。
 どれだけ時間が経っただろうか?脳しんとうを起こし、気を失っていた洋介が息を吹き返し、将棋倒しになった人達の下で苦しい息を吐いていたが、やっと陽子のことを思い出し、彼らを掻き分け這い出したのである。頭に鈍痛を感じ、頭の後ろを触ると、ねっとりとした血糊が手に付いた。周りを見ると、老人達も気を失ったり、頭から血を流したり、骨折をしたりして、動けない人間が沢山いた。彼らのことも気になったが、陽子のことを探さなくてはと『はあっ』と思い、ようやく立ち上がり後ろを見たが、陽子の姿が人並みにかき消されて見えない状況であった。どれだけ、飛ばされ引きずられ、人の下敷きになって、ここにいたのだろうか?
「陽子ちゃん。陽子ちゃん……?」
と、大きな声を出して叫んだが、全くいらえはない。
 彼は、こちらに走ってくる人達に構わず反対方向に行こうとしたが、ふらふらの体のため、人々にまた倒され転ばされる羽目に陥っていた。いくら頑張っても、前には遅々として進まないのである。殆ど逃げてくる人が疎らになった時間帯まで同じ場所に立ち尽くしているような状態だった。10mも進んだのだろうか?
「陽子ちゃん。陽子ちゃん!何処行っちゃったんだい?」
と、また叫んでみたが答える人がいない。



『臨時ニュースをお知らせ致します。本日、午前3時21分、山形県日本海沖50km、深度30kmで震度7、マグニチュード7.8という阪神・淡路大震災に匹敵する巨大な地震が発生しました。この大地震は、鳥海山をも刺激し、水蒸気爆発を伴う大噴火まで発生している模様です。溶岩流、火砕流が発生し、さらに集中豪雨に見舞われ、地すべり、崖崩れ、土石流が至るところで発生し、大規模な土砂災害に見舞われている模様です。日本海側の都市では、瞬時に発生した津波により壊滅的な被害を受けているという情報もあります。
山形県S市では壊滅的な被害を受け、ビルの倒壊、道路の寸断、電気、水道、ガス等のライフラインが完全にストップしているようです。ただ、火災の発生による被害はそれほどないという情報もあります。そして、電話も繋がらない状態であり、被害状況が明らかになっておらず、被災者の状況や救助、捜索の情報も分からない状態で非常に心配される状況です。
政府によると、小住総理が緊急に閣僚を招集し、たった今災害対策本部を設置して活動を開始した模様です。芦田官房長官の声明では、現在山形県と連絡が取れない状態だが、自衛隊の派遣を決定したこと、ヘリコプターによる救援物資、生活物資の輸送を開始したとの発表がありました。現在、情報収集に全力を挙げているが、鉄道網、道路網の寸断が発生しており、現地に近づけない状況であり、正確な情報が届かないとのことです。近隣県の応援を要請し、正確な情報が入り次第、記者会見を開き、国民にお知らせするとのことです……』
と、NHKのアナウンサーが悲痛な面もちで喋っていた。
 相沢は、この時Y警察署のデスクに座って、吉川刑事と初めて組んで行った今日の捜査結果を反芻していた。
工藤雅人は、大学時代N市に住んでいたこと、大学卒業後郷里に戻ったが、突然上京し、2年前の失踪前1ヶ月間程は以前住んでいたアパートに転がり込んでいたようである。アパートの管理人の話によると、
「工藤君は、大学時代からこのアパートに住んでいまして、大学卒業後一時山形に帰っておりましたが、2年程前突然尋ねて参りまして、仕事が見つかるまで、ちょっとの間住まわせてくれと言いましてね。それまでは、アルバイトで部屋代を稼ぐからと言うしさ。ここしか頼るところがないと言ってね。大学時代からのよしみもあったし、たまたま部屋が空いていたので、貸すことにしたんですよ。1ヶ月位経った頃かな、急にいなくなってしまってね。私に何も言わず消えてしまったんですよ。全く、恩知らずだよ、あの子は……」
「どんな青年でした?よく付き合っていたような人はいましたか?」
「そうね。どちらかというと、人付き合いはあまりないようだったかな。彼は、おとなしいというか、そんなに明るいということはなかったし、内にこもるところがあって、塞ぎ込んでいることもよくあったように思うね。大学時代もそうだったけど、これといった友達はいなかったんじゃないかね。ただね、優しいところもある、私にとってはいい子だったよ。何時だったかな……、私が風邪を引いて床に伏せっている時に、心配しておじやを作ってくれたのさ。私は、この時優しい子だなって思ったものですよ」
と、女管理人が言った。
 アパートに住んでから、1ヶ月後に突然姿を消し、その後の足取りがプッツリと切れてしまっていた。工藤雅人は、母親今日子に出した手紙のとおり、その姿を隠してしまっていた。
「相沢刑事、大変です。今、テレビで大変なニュースを伝えています。山形県で大地震が発生したそうです。刑事が先日行っていたS市も大変な状態のようです。すぐ、応接室に来て下さい」
吉川刑事がドアから駆け足で入ってきて、大きな声で相沢を呼んだ。

第七章 復興




応接室では、刑事達が緊張した面持ちでテレビに見入っていた。
『繰り返しお知らせ致します。ただいまの情報では、本日、午前3時21分、山形県日本海沖50km、深度30kmで震度7、マグニチュード7.8という阪神・淡路大震災に匹敵する巨大な地震が発生しました。…………S市では壊滅的な被害を受け、ビルの倒壊、道路の寸断、電気、水道、ガス等のライフラインが完全にストップしているもようです。…………芦田官房長官の声明では、現在山形県と連絡が取れない状態だが、自衛隊の派遣を決定したこと、ヘリコプターによる救援物資、生活物資の輸送を開始したとの発表がありました。……』
 相沢は、殆どテレビのアナウンサーの声を聞いていなかった。大変なことになった。
(清水さんや榊原君、山崎警部達は無事だろうか?清水さんには早く帰ってくるように伝えたのだけど……。あれは、胸騒ぎだったのだろうか?取りあえず、連絡を試みよう)
「もしもし、もしもし」
「ツウー、ツウー、ツウー……」
相沢は、清水の携帯番号に何度も連絡を試みたが、全く繋がることがなかった。榊原やS警察署に電話しても同様だった。
「吉川君、なんとか山形県警やS警察署に連絡を取ることができないか?試みてくれ!」
と、相沢は吉川刑事に始めて命令した。
「はい、すぐ実行します。初めて命令して下さいましたね。嬉しいです」
と、吉川刑事が言った。
「つべこべ言わずに、早くやれ」
と、相沢刑事は怒鳴った。
(明日にならなければ、どんな状態か伝わらないか……?今夜は徹夜だな。彼らが、離れ離れになっていなければいいが……)
 現場では、相沢の危惧が現実のものとなっていたのである。
「相沢刑事。どうしても山形県には通じません。秋田県警と新潟県警に事情を話して、情報が分かり次第知らせてもらうことにしました。唯、今のところ、明日朝にならないとはっきりしたことは伝えられないだろうと言っています」
と、吉川刑事が残念そうに話した。



 次の日、午後になって、やっとあの榊原から連絡があった。
「相沢刑事、大変なことになってしまいました。陽子さんとはぐれてしまって、未だに彼女の消息が分からないのですよ」
と、榊原が咳き込んで言った。
「え、……。どうして?」
「こちらで大地震が発生したのはすでに御存知ですよね。やっと、携帯がそちらと通じたんですよ。あまり、こちらの状況はお分かりにならないでしょうから、その辺からお話ししますよ。S市では、山形新幹線の高架が寸断され、新幹線、JRのローカル線もストップし、国道や生活道路もメタメタな状態です。山形空港も閉鎖しています。陸の孤島状態です。近隣の県もかなり被害を受けており、交通機関は使用不可能です。宮城県まで歩いていけば、東京にも帰れるかもしれませんが……」
榊原は、ここで言葉を区切った。
「もしもし。もしもし。榊原君?」
「……すいません。電波の状態が悪いようです。ツウー、ツウー。聞こえますか?」
「聞こえるよ」
と、相沢刑事は大きな声を出した。
(まるで、新幹線の中で喋っているようだな?)
と、相沢は思った。
「ツウー、ツウー。……S市駅周辺の官庁街のビルや木造家屋が倒壊し、あの長谷川家も倒壊したようです。長谷川夫妻達の安否も今は分かりません。わあー、わあー……」
「どうしたー?」
「……また、大きな地震です。ちょっと待って下さい……」
 数分後、
「……やっとおさまりました。できたらそちらから私の携帯に電話頂けませんか?残りの電池容量が少なくなっているんですよ。まだ、停電が続いていまして、コンビニも閉まっている状態で……。充電器も買えません」
と、榊原が伝えてきた。
「もしもし、榊原君。聞こえるかい?」
「はい。聞こえます。今、U高等学校の体育館で沢山の被災者達と避難生活を送っています。昨日、4時半頃、長谷川家は屋根がつぶれ、これ以上留まることができなかったので、長谷川家の人達と一緒に避難場所であるU高校のグランドに向かったんです……」
「もしもし。また切れたか……」
「もし、もーし。榊……?」
「……聞こえます。聞こえます。また切れちゃったですね。ええと、それから、陽子さんとは途中まで一緒に走っていたんですが、陽子さんが突然バランスを崩し、倒れ込みそうになったんです。僕は必死に繋いでいた手を引っ張り、助け起こそうとしたんですが……その時、後ろから突然突き飛ばされたんです……」
「どうしたって?」
「いや。私の勘違いかもしれませんが、わざと押されたような……。いや、そんなことはないか。ええと、非常なパニックだったもので、僕たちにぶつかる人間が沢山いて、終いには邪魔だと蹴飛ばされたり怒鳴られる始末で……。そしたら、女の人や老人達が僕の体に躓いて沢山の人間が覆い被さってきたんですよ。最悪の状態でした。脳しんとうで気を失い、気が付いた時には彼女の姿を見失っていたんです。戻りかけて探したんですけど、どうしても見つかりません。今もって、彼女の消息が分かりません。U高校の体育館の近くまで来ていたんですが、被災者の中にもいないんです。そして、長谷川家、工藤家の人々も……。彼女が長谷川さん達と一緒に逃げて、どこかで無事でいてくれたら……。相沢刑事、彼女の身に何かが起こっていたら……、どうしたらいいんですか?僕は、僕は……。彼女を守ると誓ったのに……。ああー……」
と、榊原は涙声を出した。
「榊原君。榊原君。自分をそんなに責めるんじゃない。君だけが今我々の頼りなんだ。落ち着いてくれ。大丈夫だ、清水さんはきっと無事でいるよ。兎に角、彼女を必死に捜してくれ。何とか、近々僕もそちらに行くよ」
「それから、相沢刑事。彼女の実家に連絡願えませんか?僕は、まだ彼女の実家のことを聞いていなかったんですよ。相沢刑事なら分かると思いますので、もしかしたら、彼女から実家に連絡がいっているかもしれませんし……。それに、御両親も心配しているかもしれません。宜しくお願いします。ツウー、ツウー……」
 榊原との電話連絡が完全に途絶えてしまった。
 それで、相沢は、陽子の実家に連絡を取ることにした。

「もしもし、清水さんのお宅でしょうか?私は、Y警察署の相沢といいますが。陽子さんは、そちらにおられますか?」
「あの、警察の方ですか?陽子は、陽子は、こちらにはおりません。一週間前に事件で亡くなった友達の葬儀に出席するために山形県のS市に滞在していると連絡があって、3日前にもまだS市にいるけどそろそろY区に戻る予定だとの電話があったんです。あの大地震が起こってS市が壊滅的な被害を受けたってテレビで見て……。あの子からその後連絡がなくて……。携帯も繋がらない状態が続いていて、心配で、心配で……。あの子は、どうしてしまったんでしょうか?」
と、母親の由紀子は、わらにも縋る気持ちで、警察官なら何か知っているんじゃないかと思って聞いた。
「……そうですか?連絡はないんですか?私は、陽子さんの友人の事件を捜査している者ですが、陽子さんとは時々連絡を取っていたんですけど……。実は、あの大地震の前も彼女と連絡を取っていまして、彼女の大学の同窓生 ─ この人は榊原君という男性で、非常に信頼できる人ですが ─ と避難途中まで一緒にいたそうですが、混乱の折り離れ離れになってしまったと榊原君から先程連絡がありました。榊原君とは連絡が取れたのですが、彼女とは未だに連絡が取れなくて……。もしかしたら、お母さんに連絡がいっているかなと思いまして……?」
「未だに連絡がないんです。……あの子を探して下さい!お願いします。お願いします。本当に……」
と、電話の向こうからすすり泣きの声が聞こえた。


 
 山形県では、大地震発生後2ヶ月が経ち、少しずつ復興が始まっていた。電気、水道、ガス等のライフラインの復旧は全て完了し、倒壊したビルの撤去、新しいビルの建設開始、道路の補修等々が進み、各市町村に活気が戻ってきていた。
 日本海側の各都市でも津波の被害により壊滅的な破壊が生じていたが、復興の兆しが見え、人々の顔にもやっと日々笑顔が戻ってきていた。
隣の秋田県でも、大地震の影響により、日本海側は山形県と同様津波による壊滅的といえる程の被害を受けていた。ただし、内陸部では幸いにも山形県程被害は大きくなかったが、それでもビルの倒壊やJR路線、道路の寸断、電気、水道、ガス等のライフラインの寸断が生じ、豪雨による土砂災害も発生していた。唯、地震計で観測された震度が6程度であったため、山形県のS市ほどの壊滅的な被害を免れていた。そのため、復興は早く1ヶ月程でほぼ元とおりの町並みになっていた。T町でも、人々が生活するにはほぼ不自由のない状態まで回復していた。
「孝夫さん、大地震後、殆ど町が元に蘇ったわね。今日仕事遅いの?」
と、優子が聞いた。
「今日は、いつものとおり、夜9時頃には仕事が終わると思うよ。大地震前は、7時には閉店になっていたけど、今は町の復興や隣の山形県の復興のため工事関係の車両が大量に動いているだろう。だから、9時までは働かないとな。稼ぎ時だからね」
と、小宮孝夫は泉優子に言った。彼らは、2ヶ月前の大地震時に山形県で知り合い、被災地を避け被害の少なかった秋田県T町に来て、被災者同士助け合いながら生活していた。
「それじゃ行ってらっしゃい。私も、Pマートにこれから行くわ」
 小宮孝夫は、L石油のガソリンスタンドで、そして優子はPマートでそれぞれ働いていた。  

「だけど、寒くなったな。小宮君、今日も工事車両が多いな。今日も忙しくなるな。こういう仕事は結構疲れるから、働く人間もよく変わるんだよ。だけど、君は疲れも見せずよく働いてくれるよ」
と、轟木店長が陽気な顔で言った。
「はい、店長。これ位忙しくないと働き甲斐がないですよ。それに、こんな稼ぎ時に暇だったら大変なことですよ。大地震後の復興も少しずつ進んで、これから僕たちの生活も楽にして行かなくては……。また、地震が起きた時には生活していけなくなりますよ」
と、孝夫は真剣に言った。
「山形県は、壊滅的だったものなあ。君たちの住んでいた所もなくなってしまったんだろう?まあ、ここでこうして働けるだけ俺たちは幸せか」
「そうですよ。働いて、お金がもらえるだけ、今は幸せですよ」
「優子さんも、4週間位入院していたんだっけ。元気になったようだね。この前、Pマートに行ったら、優子さん元気に働いていて、骨折した足ももう大丈夫なようだったな。Pマートで優子さんが働きだしてから活気が出たというか、お客さんにも人気があるようだよ……」
と、店長が言った。
「……。そうですか?彼女も元気になって、良かったと思っていますよ」
(ちょっと変なこと言ったかな?小宮は、優子さんのことになると、気にするのか、気持ちが乱れるようだな。あの、陽気なところが、急に塞ぎ込むように人間が変わってしまうな)
と思い、店長は、いつもは陽気な小宮が暗くなる姿を不思議そうに見ていた。
 暫くしてから、
「ところで、店長はずーとこちらにお住まいなんですか?」
「俺は、秋田県生まれの秋田県育ちで、この町から外に出て住んだことがないんだよ。だから、世の中のことに疎くてね」
「君は、どうなんだ?」
「僕は、山形県生まれの山形県育ちですが、初めて今回県外に出て、この町にいることになりましたよ」
「陽子さんは、山形人じゃないよね。方言もないし。東京の人かい?」
「どうですかね?僕はよく知らないんですよ……」
「そうか。言葉がきれいだから、東北人じゃないと思ったんだがなあ……」
と、轟木店長は言った。



 榊原と相沢刑事は、Y区で久しぶりに会っていた。榊原が店長をしている「千年の恋」でテーブルに向かい合って話していた。 
「山崎警部によると、震災後の捜索や調査で亡くなった人や怪我をして病院に入院した人達の中には、陽子さんは見つからなかったようだよ。彼女の姿形も見出せなかったようで、まるで煙のように消えてしまったようだと言っていたよ。それから、実家のほうにもこの2ヶ月間彼女からは音沙汰がなく、ご両親も心休まる状況ではないようだ。時々連絡を取るのだけれども、彼女の姿が全く見えない状況だよ」
と、相沢刑事が言った。
「そうですか?陽子さんはどこに行ってしまったんだろう?S市にもいないとなると、東京に戻ってきているってことがあるのだろうか?そんなことってないな。もしそうなら、僕らの前に姿を現さないのが可笑しいものなあ……!」
と、榊原は苦渋に満ちた顔で言った。
「山崎警部は、S市もやっと震災後復興の兆しが見え、今まで捜索や救助等に追われ、事件の捜査が中止状況で、これから少しづつ捜査再開に向かうだろうと言っていたよ。そして、長谷川家は全員無事だったが……、残念なことに工藤夫婦のうち、ご主人の工藤義男さんは家の倒壊と火事で亡くなったそうだ……。長谷川さん達は、君とは違う避難所にいたらしい。彼らも、清水さんには会っていないとのことだよ」
「……そうですか?工藤義男さんは、亡くなってしまったんですか?生きていれば、工藤家で残ったのは、母親の今日子夫人と雅人だけですか?工藤雅人はどうなったんでしょうか?相沢刑事、その後彼の捜査はどうなりました?その後進展していますか?」
「それが、全くもって進展していないのだよ。N市へは何度も行って、彼の消息を尋ねているのだが、全く分からなくて……。彼が大学時代から住んでいたアパートの大家に聞いてみたんだが、再上京後1ヶ月程は住んでいたものの、その後消息を絶っているとのことだよ。大家も全く消息が分からないということでね。東京都内の各警察署にも協力をあおいでいるが、情報が今のところなくてね。ただ、いずれ何か情報が出てくる様な期待は持っているけどね……」
と、相沢刑事はまるで楽観しているように榊原には聞こえた。
「雅人は、今東京にいるんでしょうかね?日本の国土って狭い狭いって言うけど、探し人がなかなか見つからないというのは、結構広いってことですかね?」
「やっぱり広いよ。北海道から沖縄まであるのだからね。3000kmだよ、この国の長さは。広いさ」
「相沢刑事はこれからどうされる予定ですか?吉川刑事とイチャイチャですか?」
「何、言ってるんだよ。……大人をからかうなよ!全く」
と、相沢刑事は苦笑して言った。
「いや、なかなかお似合いかなって思って。彼女は、相沢刑事にほの字ですよ。経験者が語るんですから、間違いないですよ」
「馬鹿言うなよ。年甲斐がないよ……。そんなこと言っていられないだろう。君の大事な人を早く捜さないとな」
「大地震発生の際、この前は、S市に行くと言ったものの、行けなかっただろう。S市でも復興しだしたというし、山崎警部も行動再開ということも言っているし、こちらではまた行き詰まりになりつつあるから、事件解決の鍵があると思われるS市をまた訪問しようかなって思っているのだよ。今度は吉川刑事も共なわなければならないだろうけどね……。半分面倒くさいが、兎に角、彼女には女の第六感をとことん働かせてもらうよ。俺たち男達には分からなかったものが、彼女には見えるかもしれないからね。本部長には、要請はしているのだがね、なかなか許可が下りなくてね」
「相沢刑事、許可が下りた時に、僕にも声を掛けてくれませんか?僕もまた行きたいんですよ。大震災前とは違うものが見えるかもしれないし……。だけど、あの地震が本当に全てを変えてしまいましたね。捜査の時間を止めてしまったというか。陽子ちゃんがいなくなるとは想像もできなかったですよ。僕は、彼女が無事でいることを全く疑っていませんけど……。僕は今、彼女が感じていた身をも震わせるような視線を持つ人物が彼女の近くにいないことを祈るだけですよ。……それだけが心配です」
榊原は、早くもS市への再訪問を心に決めて、落ち着かない風情を示していた。
「今日は、これで退散するけど、君の決心が固いようだから、S市に行くことになったら連絡するよ」
「宜しくお願いしますよ」



 山崎警部と城島刑事、山岡刑事は、工藤と山村両殺人事件の再捜査が始まって、やっと自分達の仕事に戻ったことを感じていた。兎に角、この2ヶ月は、寝る間もない程大地震後の復興のために頑張ってきたこと思い出していた。S市を無法地帯にするわけにはいかなかったのだ。こんな非常事態の災害時には、S市の保安を守るのが全警察官の使命であった。二人は、一仕事を終え、休む間もなく次の仕事に邁進していく宮仕えの宿命を感じていた。
「警部、仕事始めで、長谷川家に行きましょうか?彼らは、今仮設住宅にいるはずですよ。元の土地はまだ片付いていませんし、家屋の再建築の許可も出ていませんからね。それに、未亡人となった工藤今日子夫人にも会いに行きましょうよ?その後の状況も知りたいですし、工藤雅人の行方も知れるかもしれません……」
と、山岡刑事が言った。
「工藤雅人も、全く姿を現さないみたいだな。実家があんなことになったのだから、普通なら心配して自分の家族達がどうなったか訪ねるものだがなあ。どういう家族なのかね?」
と、山崎警部はムッとして言った。
「警部、先ほど相沢刑事から連絡がありましてね。明日、相沢刑事、吉川刑事 ─ 新人の女刑事らしいんですが。上からの命令で泣く泣く相棒にしたみたいですよ。相沢刑事は嫌がっていたという噂ですがね。 ─ 、あの榊原君がこちらにまた来るそうですよ。向こうでは、工藤雅人の捜索も進まなかったみたいで、それと清水陽子の行方を一刻も早く掴みたいとのことで、我々と合同で捜査を進めたいとのことです。S警察署とY警察署の両本部長間のトップ会談で決まったみたいです。彼らがこちらに来たら、十分協力せよとのお達しで、警察の沽券にも関わるから早く事件を解決せよとの上からの命令でした」
「一度、相沢君と榊原君とは腹を割って話し合いたかったのだ。トップからの命令がなくても、俺も早く事件解決したくってウズウズしていたよ。上の了解のもとだから、とことんやってやるよ」
と、山崎警部は意気込んで部下に話した。

 相沢刑事、吉川刑事、そして榊原がS警察署の山崎警部のもとを尋ねていた。彼らは、会議室に案内され、山崎警部、城島刑事、山岡刑事を加えた6人が机を挟んで向かい合って着席した。
「ご苦労さんです。相沢刑事、吉川刑事、それと榊原さん。今回またこちらに来られたのは、大地震後のこちらで清水さんの行方を捜すことと、長谷川家や工藤家の話を聞くことですかね?我々もご一緒しようと思っています。なお、その前にこれまでの事件に関して、合同捜査前の会議というか、意思確認というか、お互いの意見を戦わせませんか?」
と、山崎警部が言った。
「それには賛成ですね。お互いが今まで得ている情報を開示し、早い事件解決になればそれに越したことはありません。それでは、まず最初に、私が各事件について今感じていることをかいつまんでお話しようと思います」
と、相沢刑事は皆の顔を見ながら、
「・長谷川由美の殺された理由については、いまだに不明です。
・ 工藤芳樹と由美は愛し合っており、工藤は自殺に見せかけられ由美殺害犯人に殺され、由美殺害犯人の身代わりにされそうになったと考えています。
・ 工藤は、9月早々に両家を訪問して由美との結婚の了解を受ける予定にしており、この時に由美と会うことにしていたのは事実と思っています。
・ 榊原さんの印象によると、どの様な内容かは今だに不明ですが、工藤は由美殺害事件の真相に近づいていた可能性があります。そのため、犯人に消された可能性もあります。これについては、確証はありませんが、榊原君の感性を信じたいと思っています」
と、簡単に述べた。
「私もほぼ同じ意見です。相沢刑事に異論や意見があれば、言ってもらいたいのだが……?」
と、山崎警部が言った。
「……ええと。私は、工藤芳樹が全くのシロとは思っていません。由美を殺した犯人達の内の一人である可能性を疑っています。殺害理由は、由美に新しい男の姿を認めたからではないでしょうか?結婚を約束していたから、余計に憎しみが高じたのではないかと……。そして、殺害したことに対する苦しみに耐えられなくなり、共犯者達に真相が明るみに出ることを恐れられて殺されたのではないかと考えています」
と、城島刑事は、持論を展開した。
「榊原さんは、どう思うかね?」
と、山崎警部が聞いた。
「……僕は、何は置いても早く陽子さんの無事が知りたいです……。……今までの事件に関しては、工藤さんの気が付いた点を知ることが、由美さん殺害事件に最も早く近づけると思っています。その点と工藤雅人が関係あるのかどうか?私は、Y区では陽子さん以外にそれといって友人のいなかったと思われる由美さんに疑われずに近付けた人物は、この雅人しかいないんじゃないかと思っています。犯人かどうかは横に置いても、何らかの関係があったと思います。これからじっくり調べたいし、何として、早く真相に近づきたいと思っています。」
と、榊原が心配顔で言った。彼は、陽子の身を思うあまりか幾分青白い顔をしていた。
「確かに、まずは、陽子さんを捜すのが先決問題だね!由美と工藤の両事件に関しては……。私は工藤雅人を捜していましたが、まだ見つかっていません。彼の存在が工藤家の複雑さを表しているように感じますし、警察官として感でものごとを話してはならないのですが、ここだけの話として聞いてもらうと、私も工藤雅人が鍵を握っているのではないかと感じています。裏付けになる事実を早く得たいと考えています」
相沢刑事は、榊原の方を見て、賛成の意を表明した。
「それでは、山村事件についてはどうですか?」
と、山崎警部が次の事件について話を進めた。
「それでは、また私の方から話を進めさせてもらおうと思います。
S市では、工藤殺害事件、山村殺害事件が連続して起こっており、山村殺害事件が由美さんや工藤殺害事件と関わりがないという意見もありますが、私は何らかの関係があると思っています。清水さんや榊原君が山村さんとは会えなかったけれども、会いに行ったその日に殺されたというのは、あまりにもタイミングが良すぎると感じるからです」
と、相沢刑事が言った。
「私は、その点については違う見方をしています。山村美和は、由美、工藤事件とは異なり、絞殺ではなく刺殺されています。そして、目撃者がいることも先の2事件とは異なっています。また、先の2事件とは異なって、計画性が感じられません。犯人は、男と思われており、中肉中背(たぶん身長160~170cm位)と聞いています。我々の捜査では、工藤雅人は痩せ形で身長が180cm近いということもあります」
と、山崎警部が初めて相沢刑事と異なる意見を言った。
「私は、山崎警部の見解にある程度賛成ですが、山村美和が由美さんを小さい時から知っており、全く関係がなかったとは言えないので、彼女も何か知っていた可能性はあると思います。ただし、それで殺されたかどうかは分かりませんが……。感で物事を言ってはいけないと相沢刑事も言われましたが、どうしても由美さんとは何か関係があるように感じてしまいます。そう、もう一人の自分が囁くんです。山村事件を無視すると拙いぞと……」
と、榊原が言った。



 彼らが、話し合っている時に、事件に対する方向性が出てきたのだろうか、議論が白熱してきたようだった。皆が、貪欲に他の人の情報や意見を吸収しようとしているのだ。事件の解決と清水陽子、工藤雅人を捜す方向性が見つかるかのように……。
「それでは、由美殺害事件当時の工藤芳樹の行動について、私の方から話をさせてもらいます。

・工藤芳樹は、8月23日に青森に出張し、その後函館に向かったことが目撃されています。
・ 私は、24日に工藤は函館から東京に向かったと思っています。
・ 函館→羽田の行程は、家族や会社へのカモフラージュと考えています。ただし、その理由は不明です。唯、由美と会うというのではなく、工藤雅人と会うか、彼を何らかの理由で探しに行ったのではないかと疑っています。
・ それが、由美からの情報なのか、あるいは雅人本人からの連絡で雅人の居場所が分かった様に感じます。彼が雅人と会ったけれども ― たぶん、由美殺害事件発生後には雅人が犯人だろうと疑ったが ― その時は雅人が由美を殺す計画でいるとは気付かなかったし、全く思わなかったのではないでしょうか?そして、工藤は、由美が殺される前に東京を発ったと思います

 私は、以上のようなことを考えています」
と、山崎警部は言った。
「なるほど……。山崎警部は、工藤芳樹が何故、最愛の由美に会うのではなく、雅人に会いに行ったと確信するのはどうしてですか?」
と、相沢刑事が尋ねた。
「これは、私の想像ですが……。工藤は、長谷川家に遠慮していた部分もあると思います。彼は、両親の話や同級生達の話からすると、生一本で非常に真面目で両親思いであることが分かっておりまして、好き合った二人といっても、家同士の格式にこだわった部分があったように思います。東京に行きたくて行きたくて仕方がなかったけれども、行けなかったのでは……。あるいは、家同士の関係を後生大事に守っていると思われる工藤夫妻に止められていた可能性もあると思います。何れにしても、両親思いの工藤は、おいそれとは東京に行けなかったと思います。ただし、工藤夫妻や世間に知られたくないが、どうしても、事態が生じたのだと思います。それは何か?
どうしても雅人と会う必要があったからだと確信しています。それでは、芳樹は何が心配で雅人に会いに行ったのか?雅人とのけんかの原因が由美のことで、由美との結婚を決めた以上、雅人に由美との結婚のことを話し、了解を得るつもりだったのではないでしょうか?あるいは、由美のことを諦めるように、説得しに行ったのではないでしょうか?それは、雅人から由美を自分の恋人にしたいというような連絡が芳樹にあったからではないでしょうか?あるいは、芳樹に由美を諦めるように言ってきたか……?
そして、由美さんの葬儀の時、境原さん達と会って話した時に、雅人が犯人ではないかと疑ったのだろうと思います。そして、雅人達(雅人だけではなく、何人かの共犯者がいると想像しています。)に自殺に見せかけられ殺されたと思います」
と、山崎警部が考えをぶつけた。
「私は、山崎警部の意見に賛成ですが、工藤芳樹に唯一会った榊原さんはどう思いますか?」
と、山岡刑事が言った。
「僕は、山崎警部がよく人の心理をつかんでいるなあーと、今感心しているところですし、たぶん工藤芳樹さんの行動は山崎警部が言っている内容通りなのだろうと思っています。僕も、由美さん及び芳樹さんの殺害犯人の主犯は、工藤雅人だろうと思います」
と、榊原が言うと、山崎警部が頭をかいていた。ただし、恐れ入ったかというような表情も見られた。榊原は、その顔を横目で見ながら話を続けた。
「私は、都会にしか住んでいなかった者ですし、若いこともあると思いますが、家というものにそれほどの関心を払ったことはありませんでした。S市を訪問して、家という考え方があることと、工藤さんと会って僕達も家を大事にする必要があるんだなあーと感じました。今の乱れた日本には、伝統を守る人がいてもいいし、日本の将来を考えてもなくしてはならないものかもしれないと感じました。そして、家族の愛も。工藤さんは、本当に由美さんを愛していたし、そして工藤家も愛していたのではないでしょうか……?それでは、今度は私からの提案で、清水陽子さんの行方を捜す方法を話し合いたいんですが……」
と、榊原が要請した。
「それでは、由美さん及び芳樹さんの殺害犯人の主犯は、工藤雅人が最も疑わしいと言うことで宜しいですか?城島刑事、異論はありますか?」
と、相沢刑事が城島刑事を見て聞いた。
「皆さんがそう思っているのであれば、先程の意見は撤回します」
「なお、山村美和殺害事件については、今回は結論が出せないということで、もうすこし様子を見るということで宜しいですか?ただ、山村美和殺害事件のその後の経過を簡単にお教え頂けますか?その後、榊原君の要請もありますので、最後に清水陽子さんの行方探しについて話し合いたいと思いますので、皆さん、宜しく願います」
と、相沢刑事が話を進めた。



山村美和事件については、S警察署のみで調査しており、その後の経過を相沢も榊原も知らなかった。
「K寺の島田住職に山村美和が死体で発見され、住職が黒い帽子と黒いコートを着た黒装束の中肉中背(身長160~170cm位)の男の姿を目撃していたことまでは皆さんが周知のことですね。その後、私は山崎警部とは別行動で山村美和事件を洗い出していました」
と、城島刑事は、話を始めた。
「島田住職には、事件後いろいろと話を聞きましたが、御存知の話以上のことは分かりませんでした。目撃者についても顔が分からないのでモンタージュも作成できず、市民への協力依頼については、唯事件当時の目撃時刻以前、以後に黒い帽子と黒いコートを着た黒装束の中肉中背(身長160~170cm位)の男の目撃情報をというもので、それらしき情報はさっぱりでした。夜ということもあったと思いますが、なかなか目撃というのはないものです。場合によっては、犯人は着替えをしたかもしれません。この線からは未だに何も出てきていません」
と、城島刑事は言った。
「凶器の線からは何か出てきていませんか?」
と、相沢刑事が尋ねた。
「凶器は、果物ナイフであることが分かりました。数日前、偶然ですが、ゴミ収集車が回収した生ゴミ袋の中に入っていたことが分かりました。焼却所でゴム袋から血の付いた刃物がビニールを破って突き出ているのを作業員が見つけて、こちらに連絡が来ました。そして、DNA鑑定より、血痕が山村美和のものであることが確認されました。」
と、城島刑事は言った。

「これは、初めての成果ですね。初めて物的証拠が見つかりましたね。これで、山村さん殺害犯人を追い詰めれますね」
と、榊原が言った。
「しかし、2ヶ月近くも経ってから血が付いたままの凶器が出てくるとは……。犯人は、血糊も洗わずにそのまま持っていて、2ヶ月後に捨てたということですかね?持っていられなくなったということですかね?」
と、相沢刑事が頭を傾げて言った。
「明日、凶器の発見を記者会見で発表する予定です。榊原さんが言うようには、犯人追及は簡単ではないのです。凶器の果物ナイフについては、市場にかなり出回っている特徴のないもので、100円ショップでも見られるもので、その線から犯人に辿り着くのは困難との見方が強いのです。いろいろな店で果物ナイフを購入した者がいないか現在調査中ですが、元々持っていたものであった場合は、お手上げです。それに、凶器には指紋は見つかりませんでした。何か、情報が出てこないか期待している段階です。そして、犯人は凶器を持っていることに怖くなったんだろうと思います。怖くなった犯人が何らかの墓穴を掘るような次の行動を起こさないか、今は静観の状態です」
と、城島刑事が言った。

 城島島刑事の話が終わったところで、相沢刑事が、山岡刑事に向かって尋ねた。
「城島刑事の話より、山村美和の事件については凶器が発見されて、少し捜査が進展したことが分かりました。それでは、山岡刑事、清水さんに関してはどうですか?」
「清水さんに関しては、彼女の安否について大地震後いろいろと聞き込みをしたのですが、亡くなった人や怪我をして病院に入院した人達の中には見つからなかったのですよ。まるで、煙のように消えてしまったみたいです……」
と、山岡刑事が言った。
「私は、彼女の実家の方に連絡したのですが、母親の話ではこの2ヶ月間彼女からは何の音沙汰もないとのことです。捜索願いも出しているが、心休まる状況ではないようで、早く見つけて欲しいと頼まれましたよ」
と、相沢刑事は付け加えた。
「道警から県警に清水さん捜索の要請も来ていますし……。相沢刑事や榊原さんまで来られたとなると、徹底的に調べなくてはなりませんね」
と、山崎警部が言った。
「すると、山形県内にはいないのでしょうか?Y区にもいないようだし、そうすると何処を探せばいいのでしょうかね?山岡刑事のお話を聞いた限りでは、彼女は無事と思いますし、そう信じたいと思っています。唯、彼女から全く連絡がないのが全く解せないんです。ご両親、僕や相沢刑事には連絡があっても良さそうですが……。それとも、例えば県外とか、何処かの病院で入院しているんでしょうか?あるいは、僕らに連絡できない状態、つまり大地震の際、僕とはぐれた後大怪我をし、意識不明とか……。もしそうなら、そんなに移動できなかったはずですので、少なくともこの近辺にいるのではないでしょうか?山形県 ─ 山岡刑事の言うとおり、ここにはいないかもしれないですけど、再調査はお願いしたいです ─ 、新潟県、宮城県、秋田県などの病院に入院していることは考えられませんか?」
と、榊原が言った。
「そうですなあー。……山形県内を再度調査するとして、近隣県にも足を延ばしてみますか。まずは、病院の入院患者から当たってみましょう。山岡君、どうかね?君、皆さんと協力して捜索を開始してくれないか?山岡君は、まず県内を再捜査してくれたまえ。私は、宮城県、城島君は新潟県を担当し、相沢刑事、吉川刑事と榊原さんは秋田県を調査するということでどうですか?まずは、電話での聞き込み、そしてそれらしき人物がいたら現場に直行するということで……」
山崎警部が清水陽子捜索を仕切った。
「それから、相沢刑事、我々も知りたいことがありまして、工藤雅人の捜査はその後どうなっているのですか?」
と、城島刑事が聞いた。
「工藤雅人に関しては、捜査はそれほど進んでいません。今までに分かっていることを吉川君に話してもらいます。吉川君!」
と、相沢刑事は、吉川刑事に話を振った。
「工藤雅人は、大学時代N市に住んでいましたが、大学卒業後一度郷里に戻り、2年前に再上京し、1ヶ月後失踪しています。N市では、以前住んでいたアパートにいたようですが、アパートの管理人の話によりますと、彼には特に親しい友人はいなかったようですし、内にこもるようだったと言っていました。唯、優しいところもあったと言っています。その後の足取りは全く掴めていません。彼がアルバイトしていた店にも行ったのですが、何も言わず居なくなったそうで、情報はありませんでした。東京では、彼の行方を捜すのは難しいと相沢刑事が判断し、私もこちらに来ちゃいました」
と、吉川刑事がにこにこして話した。
「くす……」
榊原が相沢刑事を見ながら口を押さえて笑いをこらえていた。 当の吉川刑事は、舌を出して顔を輝かせていた。
 


 相沢チームは、秋田県をターゲットに行動を起こすため、会議室の端の方で3人が顔を付き合わせていた。
「相沢刑事、山崎警部達と話をしてかなりのことが分かりましたね。取りあえず、秋田県の病院に片端から電話を掛けましょうか?」
「君は、あ行~さ行まで、吉川君はた行~は行、僕はま行~わ行まで電話することにしよう」
「もしもし、こちらは山形県S警察署です。私は榊原と言いますが、捜索願の出ている女性を捜しております。ちょっとお聞きしたいんですが……?2ヶ月程前、大地震発生後そちらに怪我で入院した人の中で、山形県S市で震災に遇った北海道生まれの清水陽子という25歳の女性なんですが、入院していたことはないでしょうか?調べて頂けますか?」
「ちょっとお待ち下さい。担当に変わりますので……」
「もしもし、外科病棟ですが。はい、はい、清水陽子さんですか?そういう方の通院や入院記録はありませんね。こちらには、県内の患者さんばかりで、県外からの方はおりません。申し訳ありません、手助けになりませんで。それでは、失礼します」
「どうも、すいません。ありがとう御座いました」
と、榊原は言って電話を切った。
(すぐ見つかるわけはないな。さて、次連絡するか)
 その頃、吉川刑事、相沢刑事も電話を掛けていたが、彼らにも色好い返事はまだないようだった。

秋田県T町のガソリンスタンドでは、今日も工事車両で一杯だった。数台のトラックの運転手が、ガソリンが満タンになるまで、時間待ちの間事務所で話をしていた。
「昨日、俺腰の案配悪ぐで病院さ行ってきだどき、受付のねーちゃんがなんが警察と話していだが……。なんでも、あの大地震のどき行方不明になっだどがいう、だしか清水どがいうわがいねーちゃんのごとだったべ。おめだぢ、なんがしでっが?」
「わがね……」

「……」
「どうした、小宮君。顔が真っ青だよ。大丈夫か?」
と、轟木店長が心配して尋ねた。
「いえ。大丈夫です。唯、ちょっと寒気がしまして……。風邪だと思います」
と、小宮が具合悪そうに言った。
「今日は、早退きしたらどうだ。毎日、忙しいから、疲れが貯まったんだよ。明日からも頑張ってもらわなくてはならないから、今日は帰ってゆっくり寝なよ。風邪の引き初めは、寝るのが一番だよ。そうしな」
「いいんですか?それじゃお言葉に甘えて今日は、帰らせてもらいます」

「優子さん、俺、あのガソリンスタンド辞めてきたんだ。轟木店長と、喧嘩しちゃってさ」
と、孝夫が言った。
「え……?あんなに仕事頑張っていたのに。それに轟木さんとは、すごくウマが合うって言ってたじゃない」
「ここ引き払って、東京へ行こうと思っているんだ。君も付いてきてくれないかい?今から、すぐ発ちたいんだ。今日中には、東京に行きたいし。住む場所を探さなくっちゃならないし。今日は、ホテル住まいだけど……」
「そんなに急に言われても……。何も用意してないし。それに大家さんにも挨拶しなければならないし、たいした物はないけれどこの荷物どうするのよ?」
と、優子は呆気に取られて聞いた。
「今日は、取りあえず東京に行くだけで、明日か明後日にはまたこちらに戻ってきて後始末しようと思っているよ。頼むよ。今の僕には、君だけが頼りなんだ」
「私だって、あなただけが頼りよ。怪我してから、こんなに良くなるまで私のこと大事にしてくれたもの。でも、あまりに急だから吃驚したのよ。あなたがこんなに、性急な人とは思わなかったわ」
「ごめん、アルバイトを辞めると決めてしまったら、無性に昔住んでいた東京に行きたくなっちゃって。僕の青春が詰まっている所で、もしかすると一番落ち着ける場所かもしれないんだ。今は、落ち着かなくて……。それに、君だって東京は、し……」
「え、何?私、記憶喪失になってから、以前のことは分からないけど、もしかしたら東京に行ったことがあるのかしら?私の名前を、泉優子とあなたが名付けてくれたけど、本当の名前は何だろう?そして、私の生年月日は?……どうしても思い出せないの」
「いや、いや、違うよ。君も東京が初めてなら、行きたいんじゃないかなって思ってさ。誰でも、東京には一度は行きたいだろう。首都がどういうものか、知るために。それに、君は無理しちゃだめだよ。少しずつ思い出していけばいいんだよ。君も気分転換できるかもしれないし、記憶喪失を直すには他の土地に行くのもいいかもしれないよ。僕は、アルバイトでかなりお金貯めているし、君の旅行代位出せるしさ。心配しなくてもいいよ。急だけど行こうよ。今の僕には、ここにこのまま居ることが苦痛なんだ……。頭が壊れそうなんだよ」
と、小宮は切羽詰まったように言って、優子に抱きついた。
「分かったわ。私もあなたと一緒に東京へ行くわ。確かに、気分転換になるかもしれないわね。すぐ用意するわ」
と、泉優子は小宮の頭を抱いて言った。

第八章 終焉




 S警察署では、山崎警部が相沢刑事、吉川刑事と榊原に一つの情報を話していた。もしかすると清水陽子に関する情報かもしれない。
「相沢刑事。たった今、秋田県警から連絡がありまして、T町の病院で2ヶ月程前、山形県で大地震に遇い頭に怪我をし、足を骨折し、秋田県まで避難してきた女性がいたそうです。彼女は記憶喪失になっていたようで、名前も分からず、付き添っていた男性の話では、山形県で頭から血を出し倒れていた彼女を助け、地震の被害が山形県より少なかった秋田県まで避難してきたとのことでした。男性が助けた時、その女性は、泉優子と言っていたそうで、その後意識をなくし記憶喪失になったそうです。男性は、小宮孝夫と名乗っていたそうです。彼は健康保険証を持っており、住所は東京のE市になっていたとのことです。泉優子に関しては、小宮孝夫によると、被災に遇い何も持っていなかったそうで、病院での治療や入院に関しては小宮の健康保険証を使ったようです。T警察署の白戸巡査部長が病院を訪問し、清水陽子さんの写真を受付に見せて確認したところ、その泉優子さんが清水さんであることがほぼ間違いないということが分かったそうです」
と、山崎警部が言って、さらに続けて、
「白戸巡査部長が彼らの住んでいたアパートや小宮の働いていたガソリンスタンド、清水さんがアルバイトしていたスーパーに行ったけれども、すでにもぬけの殻で、行き先も分からなかったそうです」
「榊原君、T町に行こうか?」
と、相沢刑事が言った。
「はい」
「我々もご一緒しますよ。人数が多ければ多い程捜査はし易いですからね。唯、城島刑事はここに残って、山村美和事件をさらに調査してくれ」
と、山崎警部が言ってくれた。

 榊原たちは、秋田県T町警察署の白戸巡査部長を訪ねていた。
「白戸巡査部長、私は電話で話しました山形県S警察署の山崎です。彼は、山岡刑事です。そして、こちらは東京Y警察署の相沢刑事、吉川刑事と清水陽子さんの友人の榊原洋介さんです」
「どうも、ご苦労様です。白戸です。それで東京の刑事さんがお見えなのはどういう訳ですか?」
「実は、東京のY区で8月に長谷川由美という女性が殺害され、相沢刑事と吉川刑事はその捜査を担当しています。その長谷川さんと親友だったのが清水さんで、この榊原さんと一緒に彼女の葬儀に出席するために山形県S市に来られました。そして、葬儀後、第2、第3の事件が起こりまして、由美の恋人だった工藤芳樹君が殺され、由美が通っていたと思われる美容室のオーナーが殺されたのです。清水さんは事件には無関係ですが、犯人にとっては危険な人物だった可能性もありまして我々も彼女の動向には注意していました。まあー、大地震前までは、榊原さんがピッタリ彼女をガードしていましたので、犯人あるいは不審人物が彼女に近づいた形跡はありませんでした。
 ところが、あの大地震で事態が大急転してしまいました。榊原さんと清水さんは一緒に避難所まで逃げていく途中で、はぐれてしまったのです。それ以来、彼女の消息が分からなくなり、この2ヶ月間探し回っていたのですが、やっと秋田県警から情報を得られたのです。それで、早速会いに来たのです」
と、山崎警部が代表して言った。
「分かりました。それでは何処からお話ししたら宜しいですか?……あ、そうですね、質問して頂いた方が答え易いと思いますので、質問して下さいますか?」
と、白戸巡査部長は言った。
「それでは、私から質問します。病院で、泉優子が清水陽子であると確認された時、受付では一方の男性のことをどのように言っていましたか?」
と、相沢刑事が質問した。
「ちょっと待って下さい。……手帳を見ますので。ええと、180cm程の背の高い青年だったそうです。何処か愁いを含んでいるような人だったと聞いています」
「ここに、写真を持ってきていますが、見て頂けますか?これは、殺害された工藤芳樹の弟、工藤雅人です。彼も、ここ2年程音信不通で、我々も探していた人物なのです。姿形からすると、小宮孝夫が雅人の可能性があります」
「私は会ったことがありませんので、分かりませんが、早速病院にメールを送って確認してもらいましょう。ちょっと待っていて下さい。手配してきますので」
白戸巡査部長は、会議室から出て行った。
 5分後、白戸巡査部長は、戻ってきて、
「すいませんでした。すぐに分かると思います。次の質問は、何かありますか?」
「彼らが、住んでいた所や、働いていた所を訪問して、どのような調査結果が出ましたか?」
と、榊原が聞いた。
「アパートの管理人は、彼らは仲が良く、小宮はそれほど愛想は良くなかったが、泉は明るく人を和ませる人だったと言っていました。特に、変わったところはなく、仲のいい恋人同士と思っていたそうです。小宮が働いていたL石油のガソリンスタンドでは、店長が吃驚していましたが、小宮はよく働く人間で、特に変わったところはなかったそうです。唯、店長が泉優子の話をすると、塞ぎ込む様なところがあったそうです。泉優子が働いていたPマートでは、お客に人気があったそうで、お客が増えたようだと言っています。店長は、いなくなって残念だと言っていました。」
と、白戸巡査部長が言った。
「プル、プル。はい、白戸です。……。そうですか。分かりました。……先ほどの写真の件ですが。工藤雅人に間違いないそうです」
と、白戸巡査部長はかかってきた電話を切って、皆の方を向いて言った。
「やはり、そうでしたか……」
と、相沢刑事が言った。
「工藤は、どうやって陽子さんと一緒になって秋田まで行くことが出来たのだろうか?僕が、避難している時、誰かに押されたかもしれないと感じたのは、雅人だったのだろうか?それなら、彼は僕らのすぐ後ろにいたことになるな。もしかすると、陽子さんも僕が倒れた時に同じように倒れたのかもしれませんね。手を繋いでいたから……。その時に怪我をし、雅人に助けられたということかな?唯、雅人が陽子さんに危害を加える様子がなかったことが、唯一の救いかな。……だけど、くそ」
と、榊原は腹立たしげに悪態を付いた。
「プルプルー。もしもし、あー、城島君か。どうした。うん、うん。何……?それで、彼女は取調室にいるのか?どんな様子だ?そうか、落ち着いているんだな、分かった。相沢刑事と相談するけれど、俺は一度そっちに戻るよ。それじゃ」
(陽子さんが見つかったのかな?もしそうなら……)
榊原は、そうなることを期待していた。
「相沢刑事、実は長谷川佳子が山村美和殺害の犯人としてS警察署に出頭してきたそうです。私は、一度署に戻りますが、相沢刑事達はどうされますか?清水さん捜索を継続されるなら、山岡刑事は置いていきますが……」
と、山崎警部が相沢刑事を見て言った。
「どういうことですか?長谷川佳子が出頭したとは……。その真相も知りたいですが、取りあえず榊原君達ともう少し清水さんを捜してから、私達もそちらに行きますので、後程取調結果を教えて下さい。我々も清水さん捜索に全力を傾けますよ」
と、相沢刑事が言った。
「それじゃ、これで。S警察署で待っています」
と、山崎警部が言って、T警察署を後にした。
「相沢刑事、雅人は東京に行ったのではないでしょうか?」
と、榊原は言った。
「どうしてそう思うんだい?」
と、相沢刑事は聞いた。
「彼には土地勘がありますし、山形には行けないでしょうから、それに東京であれば隠れやすいと思っているかもしれません。特に、以前住んでいたN市に戻ったかもしれません。何となく感ですが……」
「恋する男の直感かい?それとも恋人を奪われた男の直感かい?」
「からかわないで下さいよ。こっちは真剣なんだから。陽子さんを疑われずに連れて行くのは、東京位しかないんじゃないでしょうか?他の場所、例えばもっと田舎とかに急に行こうと言えば、そう簡単には陽子さんが同意するとは思えないんですよ」
と、榊原が自信ありげに言った。
「雅人は、清水さんを何処かに監禁して、自分だけが逃げたとは考えられないかい。たぶん、清水さんは足手まといだと思うよ。記憶喪失だし……」
「東京には、彼の仲間もいるんじゃないですか?仲間の助けを求めに行った可能性もあります。たぶん、高飛びするために……。また、もし、警察に見つかった時のために、陽子さんが彼にとっての人質だとしたら……。その時は、奴は何をするか分かりませんよ。彼や彼の仲間に気が付かれないように探さなくては……」
「そうか。仲間に人質か?容疑者だし、追いつめられたら何するか分からないな。よし、北村警部に頼んで、緊急で全国に指名手配してもらおう。特に東京では、警視庁に協力してもらって、N市、Y区、E市を重点的に捜査してもらおう」
と、相沢が言った。



「ここは、N市で僕が以前住んでいたところなんだよ。知っているホテルは、ここ位でね。ちょっと、汚いけど我慢して」
 彼らは、Fホテルにチェックインし、近くの居酒屋で食事をすることにした。
「孝夫さん。東京も寒いわね。それに高層ビルばっかりで、T町から来ると、圧倒されるというか吃驚してしまうわ。それにこんな真夜中だったら、T町なら真っ暗闇だけど、ネオンキラキラ……」
「どうした?何かあった?」
「ううん。何でもない。何ていうか、こんな時間の人混みに慣れていないのか、落ち着かない気持ちになっちゃって……。ホームシックかな、ご免なさい」
と、優子は少し憂鬱な表情をした。
「いいんだよ。この店も、人が多いしうるさいし。もっと静かなところに変えるかい?君には、確かに落ち着かない場所かもしれないね」
と、孝夫は心配して言った。
(彼女は、以前東京にいたことを思い出し、気が付いたのだろうか?もしそうなら……)
孝夫は、気が気ではなかった。
「いいのよ。別に人の声なんかは気にならないわ。あなたがいるから、大丈夫。ところで、明日からはどうするの……?」
「すいません」
と、孝夫は気を紛らわすために、大きな声で店員を呼んだ。
「すいません、遅くなりまして。飲み物は何にされます?」
「僕は、生ビール。君は何にする?」
「そうね。ええーと、……カンパリ下さい」
と、優子は若い女性店員に言った。
「へー、君はカンパリなんて飲むんだ。秋田ではあまりお酒飲まなかったから、知らなかったけど……」
と、孝夫が聞いた。
「私にも、分からないわ。どうしてなのか……。お酒のメニューを見ていたら、自然と口から名前が出て来ちゃったのよ。さっきの話だけど、明日からどうするの?」
と、優子が再度聞いた。
「うん。そうだね……。君は、田舎の方がいいかい?こっちに来て、君が何となく静かな田舎の方が合う様に思えたんだけど……。もし、そうなら東京にも青梅とか山間の田舎があるから、東京の外れになるけどそういうところに行ってみるかい?気持ちも落ち着くし……」
と、孝夫が考えながら言った。
「そうね。私もその方がいいかな。静かな方が慣れているみたい」
「大丈夫かい?あまり、お酒が進まないみたいだけど」
「ゴホ、ゴホ……。カンパリなんて口からでたものだから、お酒が飲めるかなと思ったんだけど、どうもあまり飲めないみたい」
と、優子は言って、頭を傾けて口を押さえた。
(変だなー……。この感覚は何だろう?懐かしいような気持ちになるのはどうしてだろう?何かが頭の中で……)
「あいたた。頭が……。よう……」
と、優子は言って急に頭を抱えだした。
「どうしたんだい?頭が痛いのかい?何か思い出す時、急に頭が痛くなることがあるって聞くけど……。何か思い出したのかい?」
と、孝夫は優子を心配するよりは、他のことを心配しているかのように言った。
「ううん。たぶん、あまりお酒が飲めないのに、カンパリなんて強いお酒飲んじゃったものだから、酔っぱらっちゃったんだと思うのよ。ご免ね。もう、ホテルに帰らない?」
「そうするか。今日は、秋田から夜遅くに急に来たから、旅の疲れも出たんだよ。ホテルに帰って、ゆっくり休もう」

 優子は、ホテルの部屋で、考えていた。酔いがあるのかないのか、疲れているのか疲れていないのか、分からなかった。頭に霞がかかったように、こめかみがズキンズキンとして重い気分である。体には、旅の疲れもあると思われるのに、頭が何となくボーとしているように感じるのに、思い出したように時々締め付けられるようで、まだ眠れそうになかった。こめかみを押さえて、もんでみる。
(こめかみがズキンズキンするな。どうしちゃったんだろう。孝夫さんが言うように、何か思い出す時って、頭が痛くなるのかな。居酒屋さんでの痛みほどはないけど、旅の疲れと、慣れない強いお酒を飲んだから体が吃驚しちゃったんだわ、きっと。ううん……。カンパリ、カンパリ。あの懐かしさは、何だったんだろう?あの時口から出た『よう……』って何だろう?何を言いたかったんだろう?ああ、思い出せない……。喉のここまで出かかっているようなのに……。ああー……)

「おはよう。昨日は、よく眠れたかい?急に頭が痛いと言っていたから、心配しちゃったよ」
と、孝夫は優子の顔をのぞき込みながら言った。
「今はもう大丈夫よ。ねえ、あなたと私のことをゆっくり話したいんだけど。この辺にゆっくり話せるような公園がないかしら?」
「知っているよ。ここは、僕のテリトリーみたいなところだからね。この近くに、I公園があるから、行こうか?」
と、孝夫が言った。



 相沢刑事達は、秋田県で清水陽子達の行方を捜していたが、なかなかそれらしき情報を手に入れることが出来なかった。榊原の予想から秋田新幹線の駅長室で駅係員に話を聞いていた。
「この人達なんですが、今日の17:00過ぎの新幹線に乗ったと思うんですけど、記憶がないでしょうか?」
と、吉川刑事が緑の窓口にいた係員に写真を見せ、話を聞いた。
「あー、この方達ですか。覚えていますよ。秋田19:06発のこまち34号東京行きの切符を買われていましたよ。この列車が発車するまで時間が余りなかったので、窓口に走ってこられて、ハアハア言っていましたので、よく覚えています」
と、駅員は言った。
「ありがとう御座います」
と、吉川は言った。
「相沢刑事、やっぱり雅人は陽子さんを東京に連れて行ったようですね」
と、榊原が言った。
「君は、これから東京に向かうかい?いても立ってもいられないという顔をしているよ。どうする?今からだと、21:06発のあけぼのに乗れるよ」
と、相沢刑事が聞いた。
「いえ、私もS警察署に寄ってから、ご一緒に東京に向かいます。長谷川佳子さんのことも気になりますので……」
と、榊原が言った。
「それじゃー……。吉川君を先行させるか。東京に先に帰って、雅人達の捜査の続きをしてくれるかい?」
と、相沢は吉川刑事の方を向いて言った。
「相沢刑事は、どうして私を除け者にしようとするんですか?こんなに……」
と、吉川が膨れて言った。
「別に除け者にしようというわけではないが……。君には、女の第六感を働かせてもらって、清水さん達を追いかけてもらいたいんだ。出来れば、北村警部の指示を受けて、N市周辺の捜査に早く加わって欲しいんだよ。彼らがいなくなってから、時間が経っているから心配なんだ。君が早く彼らの捜索に加わってくれれば、安心なんだよ、頼むよ」
「……分かりました。相沢刑事のためですもの、頑張ります。それでは、東京に帰ります」
と、吉川刑事は言った。
「旨く言って、追っ払いましたね」
と、榊原がニヤニヤして言った。
「言葉も方便て言ってね。まあ、僕らは、明日朝一番のつばさ102号6:27発東京行きで東京に向かうことにしよう」
と、相沢は片目を瞑って言った。

 相沢と榊原は、S警察署に出向き、山崎警部達の話を聞いていた。
「長谷川佳子が山村由美殺害の犯人として出頭してきまして、取調室で長時間話を聞いていましたが、その概要を話しますと、以下の通りです。

・ 長谷川佳子は、陽一と30年前に結婚し、なかなか子供が出来ない状態が続いたそうです。原因は、佳子にあったようです。
・ 長谷川夫妻は、どうしても子供が欲しかったので、密かに渡米し、代理母を捜したとのことです。出来れば、日本人あるいは日系人という条件で。
・ 長谷川佳子は、実は、ニューヨーク生まれの日系2世で、両親は山形県出身ということです。
・ その代理母になったのが、実は山村美和だったのです。
・ 山村美和は、ニューヨークの美容専門学校に留学していて、将来は日本に帰って美容室を開きたいという夢を持っていたそうです。彼女のニューヨークでの生活は、かなり大変で、親からの仕送りも少なく、アルバイトで生計を立てていましたが、勉学との両立は厳しく、ニューヨークでの生活を諦めかけていた時に、代理母の話が彼女に来たそうです。どういう伝手があったのかは、美和が亡くなっているので分かりませんが、日本人という条件に叶っているということと、お金を稼げて夢に向かって進めるということで、合意したそうです。
・ 従って、長谷川由美は、長谷川陽一と山村美和の子供ということになります。
・ 佳子は、長谷川家の家族や周囲にはニューヨークの実家で出産するということを伝え、3ヶ月程ニューヨークの実家に滞在していたそうです。
・ 由美が生まれてから、すぐに長谷川夫妻は由美を自分の子として出生届を出しています。佳子が、懇意にしていたニューヨークの個人病院で出産したことにしたそうです。
・ 山村美和も山形県出身で、3年後に日本に帰ってきました。そして、S市で美容室を始めたのです。山村の実家は、それほど裕福ではないので、たぶん、代理母の報償が開店の資金になったと思われます。
・ 2年後に、由美の5歳の時に、佳子は由美を七五三のために美和美容室に髪結いに連れて行ったのが、美和と佳子が初めて会う結果となったとのことです。
・ その後の彼らの付き合いについては、相沢刑事も御存知のことです。
・ 佳子は、こんな巡り合わせになるなんてと言っていました。これが運命だったのかと。お互いに全く知らない人間同士が、ニューヨークで関係があったと知ったと。
・ アメリカでは、精子提供者や代理母のプライバシーの問題もあって、彼らはお互いの素性は知らされてはいなかったとのことです。
・ 美和は、子供を産んだ後、おっぱいが張って張ってどうしようもなかったことと、どうして子供を手放したのかと、悩んだ時期もあったようです。ニューヨークでの3年間は、自分の夢のためと割り切っていたようです。そして、山形での2年間も。
・ 佳子は、後で美和のそんな気持ちを聞いて、どんなにか苦しかったか、美和の気持ちが分かると言っています。自分も子供を産めずに苦しんでいたが、由美ができ、自分が生んだように感じることが出来たのに、この人は最愛の子を奪われてしまったんだと。代理母なんだから、当然という気持ちにはなれなかったと言っています。
・ 美和美容室が軌道に乗り、自分が産んだ子供のことを忘れかけていた時に、長谷川佳子と由美がお客として初めて来たわけです。その時は、仲のいい親子だなと感じたそうです。その後、長谷川親子が美容室に通い出して半年位してから、次第に自分が生んだ子のことを思い出すようになったそうです。おっぱいがまた張るような感じがしたり、今あの子は何をしているんだろう、両親と旨くやっているのか、両親に虐められているということはないのかと考えたりしたそうです。母性本能に再度気が付いたようです。
・ そして、由美が10歳、15歳と成長するにつれて、自分の失った子供と由美をだぶらせて考えるようになったそうです。自分の子供でないのに、自分の子供のような気がして。そう感じ出すと、その仕草が、その微笑みが、自分が若かった時とそっくりであるように感じて、この子が本当に自分の子だったら、こんなに幸せなことはないのにと、由美を見る目が以前と変わっていることに気が付いたそうです。その気持ちは、どんどん向上し、どうしようもない感情に育っていったそうです。
・ 由美が大学に行っていた時は、美和は自分の子供のように本当に心配していたそうです。
・ そして、由美殺害事件が起こったのです。その時、美和は半狂乱になったそうです。

これが、由美殺害事件までの長谷川佳子と山村美和の関係です」
と、城島刑事が言った。



 誰も、城島刑事の話に口を挟む者はいなかった。
「次に、由美殺害事件後の山村美和殺害事件までの状況をお話しします。

・ 由美が殺害されたというニュースを見た美和は、いても立ってもいられず、直ぐさま長谷川佳子のもとに行ったそうです。そして、二人泣き明かしたとのことです。
・ 長谷川佳子が、Y警察署で由美を確認し、東京から戻ってきた日に、美和がまた訪ねてきて、由美のことを聞きに来たそうです。
由美が本当に亡くなったのかと。そして、美和がこの25年間自分の胸に閉まっていた気持ちを告白したそうです。
・ 美和が、ニューヨークで代理母として子供を一人産んだこと、その子のことが忘れられず、何時しか由美のことを本当の自分の娘のように思うようになっていたことなどを赤裸々に告白したそうです。
・ それを聞いた佳子は、驚愕し、この人が本当の由美の母親ではないかと直感的に感じたそうです。ニューヨークでの状況を聞くに付け、間違いないと感じたそうです。その時は、佳子は美和に本当のことを話せなかったと言っています。
・ 美和は、由美が殺されてから、自分の娘が殺されたと感じ、仕事も手に付かず、抜け殻のようになって、そして少し精神的にも病んでいったようです。
・ 後から、美容室の従業員にも確認しましたが、由美殺害事件後、外に出掛けることもあったが、帰ってきても店にはあまり出ず、部屋にこもっていることが多かったようです。従業員には、寒くなって風邪気味で体調が優れないと言っていたそうです。
・ 山村美和が殺害された日、美和は公園や町をブラブラしていたそうです。そして、町で果物ナイフを買って、由美のことで大事な話があると言って、長谷川佳子をK寺に呼び出したそうです。
・ 長谷川佳子は、美和が由美を自分の子供であることに気が付いたと思って、そのことで話がしたいんだろうなと思って、K寺に向かったそうです。夜でもあったし、美和と会っているところを人に見られたくなかったので、佳子であることを人に分からないように黒い帽子を被り、黒い服を着て行ったそうです。
・ 美和は、『由美が死んだのはあなたのせいよ。あなたが東京なんかに由美を行かせるから。由美はあなたの子じゃなくって、私の子よ。あなたは、人殺しよ』と、言ったそうです。その時、美和は気が狂っているように思えたそうです。佳子は、そんな美和に真実を話したそうです。美和が由美の本当の母親であることを告白したそうです。
・ 美和は、その時一瞬言葉に詰まったそうですが。『……ちきしょう、あなたは知っていて知らんぷりしていたのね』と言って、果物ナイフで襲いかかってきたそうです。もみ合っているうちに、美和を逆に差してしまっていたそうです。
・ その時、刺された美和は直ぐにぐったりし、佳子に抱きつくような形になり、佳子の耳元で、死ぬ寸前に正気になったのか、『ご免なさい。私の由美。あの子がやっぱり私の子供。ゴボ。ゴボ。そして、あなたがいい子に育てて。あなたも悲しくて寂しいのにね……』と言って、亡くなったそうです。佳子は、美和を静かに地面に横たわらせ、すぐに逃げたと言っています。

以上が、山村美和事件の全貌です」
と、城島刑事は長い話を終えた。
「美和事件の犯人は、160~170cm位の男ではなかったんですか?」
と、榊原が聞いた。
「実は、長谷川佳子はニューヨークの高校・大学で陸上選手でして、全米選手権にも出場したことがある選手で、走る姿を後ろから見ると男のようだったとのことです。着物を着ると、そんなことは想像できませんが……。何時も着物を着ていましたから、騙されたみたいなもんです」
と、城島刑事が答えた。
「何故、長谷川佳子さんは自首してきたのですか?」
と、相沢刑事が聞いた。
「長谷川佳子は、自分が殺そうとしたわけではないが、結果的に殺してしまった山村美和のことが可哀想でならなかったと言っています。そして、由美の本当の母親を殺してしまったことにだんだん耐えられなくなってきていたとも言っています。2ヶ月間程、ゴミ袋に包んだ凶器の果物ナイフを隠し持っていたが、日が経つにつれ由美や美和のことを思い出すたびに、果物ナイフをどうしても捨てたいという衝動に駆られ、生ゴミと一緒に捨ててしまってそうです。警察が、凶器の果物ナイフを発見し、その報道があった時に、これ以上黙っていることに耐えられなくなったと言っています」
と、城島刑事が答えた。
「長谷川佳子さんは、故意な殺人ではないし、正当防衛とも思われますし、直ぐに自首したわけではないですが、情状酌量の余地があるんじゃないですか?そうなって欲しいと思います。彼女は、由美さんや美和さんのことで相当苦しんでいると思いますよ……。それにしても、由美さんにそんな過去があったんですね。本当のお母さんのことを知らずに亡くなったんですね……」
と、榊原がしんみりと言った。
「僕も、長谷川佳子は罪を軽くしてもらえると思うよ。とは言っても、人が死んだのは間違いないのだから、彼女には罪を償って、由美さんや美和さんの菩提を十分弔って貰いたいよ。……これで、山村美和事件は解決ですね。後は、由美と工藤殺害事件ですか。舞台は、どうも東京になりそうですよ」
と、相沢刑事が言った。
「秋田駅で、工藤雅人と清水陽子が東京に向かったことが分かったんですよ。たぶんN市の近くにいると予想しています。吉川刑事が、夜行で東京に向かっています。相沢刑事と一緒にいたかったんでしょうが、相沢刑事に追っ払われちゃって。……可哀想でしたよ」
「おいおい、変なこと言うなよ」
「これまた。ホットなことで。ハハハハ」
と、山崎警は大きな声で笑い、
「それでは、相沢刑事、明日東京へお帰りですか?ご苦労様でした。そして、清水さんの無事な保護と、工藤雅人の逮捕を祈っていますよ。榊原さん、事件が解決したら、また清水さんとこちらに遊びに来て下さい。歓迎しますよ」
と、言った。
「榊原君だけですか、また来て欲しいのは?」
と、相沢刑事が笑いながら言った。
「とんでもない。唯、相沢刑事には事件絡みでは来て欲しくないですね。今度は、ゆっくり吉川刑事とプライベートで。フフフ……」
と、山崎警部がニヤニヤして言った。

 相沢刑事と榊原は、S警察署を後にして、居酒屋で遅くなった夕食と明日の戦闘への準備をしていた。二人とも、明日のことを思い、緊張していた。
「ついに、明日が最後の戦いですね。そうなることを祈っています。何か僕緊張しています。眠れないかもしれません。相沢刑事はどうですか?刑事である以上、こんなことに慣れているから、落ち着いたもんですか?」
と、榊原が、緊張気味に言った。
「俺だって、次の日が事件解決になるような予感がする時とか、犯人の居所が分かって、次の日その隠れ家に踏み込む予定になっている時なんか、落ち着いてはいられないよ。刑事達と一緒にいる時はいいが、特に一人でいる時はね。唯、一人の時の方がスリルがあって、俺は好きだがね」
「僕は、頼りにはなりませんか?」
と、榊原が言った。
「そんなことはないさ。君がいたお陰で、事件が解決に向かっているようなものだよ。早く、陽子さんに会いたいだろう?2ヶ月ぶりだものな」
「相沢さんだって。吉川さんに早く会いたいでしょう?」
「フン……」
「明日は、N市に向かうとして、東京では彼らの居所が分かっているんでしょうかね?相沢刑事は、何か知っているんじゃないですか?吉川刑事を先行させたことといい、いやに落ち着いているように見えるし……。僕に、内緒は御法度ですよ」
と、榊原は相沢刑事を睨んで言った。
「君に、知らせないつもりではなかったのだけどね。話す予定にしてはいたのだけど、君の方から先に質問された形になっちゃっただけだよ。実はね、S警察署でトイレに立っただろう。その時、Y警察署の北村警部と話をしてね。吉川刑事との話の後、北村警部が東京駅に刑事を張り込ませていてね。二人を確認したそうだよ。工藤雅人も警戒していて、周りを何度も確認する素振りが見えたものだから、陽子さんの安全確保もあるので、直ぐに逮捕することは出来なかったそうだが、尾行してN市のホテルに泊まっていることなどを掴んでいるとのことだよ。優秀な刑事達が張り込んでいるから大丈夫だよ」
と、相沢刑事が言った。
「何で、黙っていたんですか?」
「まあ、最も大事なことを成功させるためには、味方も騙せってね。それに、山村美和事件の話で持ちきりだったからね。これからは、俺の事件だと思ってね。黙っていて、すまなかったな」
と、相沢刑事は言って謝った。
「でも、安心しました。これで、少しは寝られるかもしれません。興奮して、余計寝られないかな?明日は、雅人が危険を感じて陽子さんを人質のように扱わないことを祈るだけです。その時は、僕が、僕が、死んでも助けます……」
と、榊原は紅潮して言った。お酒ばかりの所為ではなかった。



 I公園では、泉優子こと清水陽子と、小宮孝夫こと工藤雅人はベンチに座り、向き合って話をしていた。
「孝夫さん、山形で地震にあった時、私とあなたはどのようにして会ったの?」
と、優子が話し出した。
「前にも言ったように、山形のH市であの大地震に遭って、避難所に向かう途中みんなが逃げて走っていたんだよ。みんな必死で、助かりたい気持ちが一杯で、君は何かの弾みでつまずいて、転んでしまったんだ。その時、つんのめって頭をアスファルトにぶつけて、気を失ったようだった。僕は、君の直ぐ後ろにいたから転んだ君を助けようとしたんだけど、みんながぶつかってきて、君の上に人が何人も倒れかかったんだよ。やっと、助けたんだが、君は頭から血を出して、しかも足を骨折しているようだった。病院に連れていく必要を感じたので、H市ではだめだと思い、それで、必死の思いで秋田県のT町まで連れて行ったんだよ。T町には、いい病院があるって知っていたし、それ程地震の被害を受けていないということをラジオで聞いていたから……」
と、孝夫が答えた。
「その時、私一人だった?家族とか、友達とか、誰かと一緒ではなかった……?」
「……その時は、気が付かなかったな。君を助けることに一生懸命だったから、たぶん一人だったんじゃないかな。よく分からないけれども、地震後に避難途中で、家族とかとはぐれてしまったりして、仕方なくあそこを走っていたみんなと一緒に避難したんじゃないかい?」
「そう……?私は、誰かと一緒にいたような気がしているの……。どうしても思い出せないんだけど」
と、優子は、頭をふらつかせて言った。
「それから、秋田県まではどうやって行ったの?あなたが、本当に頑張って、全く意識がなかった私を連れて行ってくれたんでしょう?あなたは、私の命の恩人ですものね」
と、優子が言った。
「避難所で、君の頭と足の応急手当をしてもらって、その後、リヤカーに君を乗せて、途中で人の乗っていない車があったので、その車で行けるところまで行って、その後は、人の車に乗せてもらったり、歩いたりして……。やっと、最も県境に近いT町の病院に辿り着いたんだよ」
と、孝夫は思い出すように上を向いて言った。
「あなたは、この町に住んでいたと言ったわね。何時頃ここにいたの?大学の時?」
「2年前に大学を卒業するまでここに居たんだよ。そして、H市に戻ったんだけどね」
「あなた、昨日、秋田で私が東京を知っているようなことを言っていたわね。その時、あなたは誤魔化しているみたいだったけど、何か変だなーって感じたの」
と、優子は問いつめるように言った。
「……そんなことはないよ。誤魔化すなんて。君が東京にいたかどうかは知らなかったよ。東京には行きたいんじゃないかなって思っただけだよ」
と、孝夫はビクッとして言った。
「本当のことを言って?私は、今何となく東京を知っているような気がしているの……。私が、あなたに東京を知っているって言ったの?それとも2年前からあなたは東京で私のことを知っていたの?何も、隠すことじゃないじゃない。あなたは、私に記憶が戻るのが怖いの?」
と、優子は言った。
「君の記憶喪失が直ってしまったら、君は僕から離れて行ってしまうような気がして……。それが心配で。ご免。嘘を付いていて……。実は、君があの大地震の時に転んで僕が助け出した時、君が気を失う前に、東京にいてこちらには遊びに来ているようなことを言っていたんだよ。ご免」
と、孝夫は言った。
「そうなのか……」
と、優子は言って公園の周りを見回した。この風景を思い出すように。
「孝夫さん、私に協力して?今、どうしても思い出したい気持ちなの。昨日の居酒屋さんで、カンパリを飲んでいる時に、急に頭が痛くなって、『よう……』と私言ったじゃない。『よう』というのは人の名前じゃないかなって思うの。何となく、懐かしいような、心温まるような気持ちになったの……。こんな気持ちになるのは、どうしても人の名前だと思うの。あなた、知らない?わたしが、気を失う前なんかにその人のことを何か話さなかった?知っていたら教えて?……お願い!」
と、優子は必死の目で孝夫を見詰めて言った。
「……ご免。僕には分からないよ」
孝夫は、追いつめられたような、悲しそうな目をしていた。
「あいたた……」
と、優子は言って、また頭を抱えた。
(痛いよう。よう?よう……、洋介。洋介?……誰だろう?痛い。痛い。由美、由美……。誰だろう?私は、私は、私は……?痛い。陽子、陽子……。誰だろう?……そう、陽子だわ。少し、思い出したわ。そうよ、私は陽子で、洋介さん、洋介さん。ああー。思い出したわ。洋介さんと、山形にいたの。S市にいたんだわ。由美が亡くなって。由美ー!どうして亡くなったの?……工藤さん。そう、工藤さんも亡くなったんだわ。公園で。……そうか、だからこの公園が気になったんだ。そして、大地震で洋介さんと離れ離れになったんだわ。S市で……)
陽子は、思いだし、胸を波立たせていた。
「どうしたんだい?頭が痛いのかい?……大丈夫?」
と、孝夫は陽子の肩に手を掛けて言った。
 陽子は、嫌々をするように、孝夫の手を肩から外した。
「私は、思い出したわ。私が、大地震にあったのはH市ではなくて、S市よ。東京では、Y区に住んでいたわ。そして、長谷川由美と仲が良かったのよ。由美が殺されて山形のS市に榊原洋介さんと一緒に行ったのよ。そこで、由美の恋人の工藤さんまで殺されて……」
と、陽子は言って、孝夫の血走った目に思い出したくもない視線を感じた。
「……あなた、まさか?」
と、陽子が言って絶句した。



「……。……。……そう、僕は由美の友達であった君を何時も見ていた。僕は、工藤芳樹の弟で、雅人というんだ。小宮孝夫は、偽名さ。そして、由美殺害の犯人なのさ。君には、知られたくなかったが……」
と、雅人は言った。
「何故、あなたは由美を殺したの?そしてたぶん、お兄さんも殺したのね?」
と、陽子は恐怖の目で雅人を見て言った。
「由美とは、幼馴染みで、兄貴は恋敵さ。俺は、由美が東京のW大学時代に帰省中に兄貴と付き合いだした時、どうしても彼女のいる東京で彼女の側にいたかった。遠距離恋愛している兄貴よりは、彼女の恋人には俺の方が相応しいと思ったんだ。だから、N市で大学生活を送ったのさ。そして、俺が大学3年の時に、W大の大学祭に行って、偶然を装って彼女に会ったのさ。それまでは、アルバイトで金を貯めて、我慢して我慢してやっと会いに行ったのさ。それから、俺たちが幼馴染みで彼女は俺がぐれる前までは姉弟のようだったし、東京で兄貴のために彼女をボデーガードするという気持ちを信じ込ませることが出来たんだ。だから、年に何回か会って、彼女を兄貴のために守る役を演じていたのさ。だけど、彼女が兄貴と結婚を考え出したように感じた時、俺を避けるようになってきたんだ。一時は、由美のことを諦めようともしたんだ。それで、大学卒業後一旦はS市に戻ったのさ。だけど、由美のことが忘れられなくて……。兄貴には、由美を渡すことが出来ないと思い、2年前兄貴と喧嘩になって、結局東京に戻ったんだ。その時から、由美も兄貴も俺にとっては恨みの対象になってしまったのさ。何時しか、2人とも殺してやろうと思うようになってしまったんだよ」
と、雅人は自分の気持ちを話した。
「あなたが、由美への片思いから、由美達を恨んでいった気持ちは分からないでもないわ。特に、幼馴染みで恋敵がお兄さんのように家族であれば余計かもしれない。だけど、恨んでも殺そうなんて……。しかも、これから結婚して、新しい生活を夢見ていた2人を殺そうなんて。……身勝手よ!」
と、優子は目に涙を貯めて言った。
「何故、私に近づいたの?8月のあの日、私が由美と会おうとしていた時、あなたは私をどこからか見ていたわね。私は、あのお店で嫌な視線を感じて身震いしていたのよ」
と、陽子が問い質した。
「俺は、由美を殺そうと思った時から、彼女の様子を時々遠くから見張っていたのさ。気が付かれないように。それでも、2年間は待ったのさ。そして、兄貴と由美が結婚を決めた時、どうしても許せなかったんだ。結婚させるわけにはいかないし、殺すしかないと思ったんだ。大学時代に由美から君が親友であることは聞いていたし、君とは会ったことはなかったけれども、君のことは知っていたよ。そして、君の情報も掴んでいたよ。住んでいるところとか、携帯電話番号とかもね。だから、あの日君が由美と会うことは、あの朝由美から聞いて知っていたんだ」
と、雅人が言った。
「君には、騙すようなことをして本当に悪かったと思っているんだ。そして、由美にも兄貴にも……。今は、後悔しているんだよ」
と、雅人が苦渋に満ちた表情で言った。
「……」

 相沢刑事、吉川刑事、榊原は、ベンチの見える南側の街路樹の陰に隠れてじっと清水陽子と工藤雅人を見ていた。
「相沢刑事、まだ踏み込まないのですか?どうも彼らの様子が変ですよ」
と、榊原が心配そうに言った。
「まだ大丈夫だ。沢山の刑事達が見張っている。もしもし、まだ出るな。どうした。そうか。奴らの行動もじっくり見張っていてくれ」
と、相沢刑事が、携帯に向かって話した。
「刑事、どうされたんですか?」
と、吉川刑事が聞いた。
「今、この公園の西側から2人の男がやって来る。たぶん、工藤の共犯者と思われる。奴らが、清水さんを拉致していくようだと面倒になる。吉川君。状況を見て指示するから、囮になってくれないか?
君は、公園の東側に回って、清水さんの友達の振りをして彼女に声を掛け、彼らに近付いて行ってもらいたいんだ。彼らが清水さんに手を掛けないように牽制して欲しいんだ。ゆっくり、慎重に行動して欲しい。絶対、奴らを逮捕するから」
と、相沢刑事が言った。
「はい、分かりました。声を掛けて下さい」

 公園の西側から入ってきた2人組の男達は、陽子と雅人の座っているベンチに向かって近付いて行った。
「雅人、その人は誰だい?電話で言っていたお前さんの恋人とかいうお嬢さんかい?二人とも高飛びすることに関しては手を貸すが、約束は果たしてもらうぜ。俺達もやばいことに首を突っ込んじまっているからな」
と、一人の男がニヤッと笑って言った。
「雅人さん。この人達は誰?由美や貴方のお兄さんを殺した人達なのね……?そうなのね?……高飛びなんかしないわ。私は、あなたとは行かないわ。お願い、自首して!」
陽子は、雅人に懇願した。
「どういうことだい、雅人?冗談じゃないぜ。俺達はお前に自首なんてされては困るんだよ。雅人、覚悟を決めな」
と、もう一人の男が歪んだ顔で言った。
 陽子は、その言葉を聞いて、震えだした。
「待ってくれ。この人は関係ないんだ。昨日は、電話であんた達に二人共無事に高飛びする相談はしたが……。この人のことを本当に愛してしまったんだ。だから、この人を傷つけたくないんだ。だから、見逃してやってくれ」
と、雅人は2人に懇願して言った。
「ふざけるな。俺たちのやばいことがその女に知られちゃっているんじゃないか?それを黙って見過ごすことが出来るか。その女には、可哀想だが死んでもらうしかないんだよ。由美の死体を運んだのは俺たちだが、兄貴を殺したのは俺達だからな。その女も、弱気になったお前も生きていては困るんだよ。警察に自首でもされたら、俺達の未来もなくなるからな。覚悟は決めてもらうぜ。付き合ってもらおうか」

その時、和服を着た一人の女が近づいてきた。
 そして、物陰から一人の男が走り出していた。
「雅人。何をしているの?山田君、田中君、早くその女を連れて行ってちょうだい」
「母さん。どうして、こんなところに来たんだよ?それに、山田と田中がここに来ることをどうして知っていたんだい?やっぱり……」

「ねえねえ。陽子じゃない。私よ、静香よ。久しぶり」
と、言って吉川刑事が近付いてきた。
「何だ、お前は?俺達はこれから出掛けるんだよ。……さっさと、あっちに行ってくれないか?」
「陽子、何よこの人達?感じ悪いわ。私と、一緒にあっち行きましょうよ」
と、吉川刑事は陽子の手を取るようにして連れて行こうとした。
「待て、このあま」
と、一人の男が吉川刑事に殴りかかろうとした。吉川刑事は、陽子の手を放し、向かってきた男の腕をかいくぐり、回し蹴りを男の腹に炸裂していた。
「うう……」
と、男は呻いてしゃがみ込んだ。
もう一人の男は、吉川刑事と相棒が争っているのを尻目に、陽子を捕まえ、引きずるように元来た方へ逃げるように立ち去ろうとしていた。雅人は、陽子を助けようとその男に突進し、男の体を陽子から放そうとして揉み合いになっていた。
「ぎゃー。陽子さんは助けてくれー」
と、雅人は叫ぶなり、腹を押さえその場にくずおれていた。その腹には、匕首が深々と刺さり、腹の周囲がみるみる血に染まりだした。
 それを見て、一人の女が叫んでいた。
「雅人、雅人……!しっかりおし。この子が死んだら……この子が死んだら……。こんな事になったのはお前のせいよ!」
と、言ってその女は持っていたハンドバックから果物ナイフを取り出して、近くにいた陽子に斬りかかった。
 
吉川刑事が、男とやり合う瞬間に、四方の物陰から数人単位の人達が彼らに向かって駆けだしていた。
「お前達、そこを動くな。警察だ。全員逮捕する」
と、相沢刑事が叫んでいた。
「それから、救急車だ。急げ」
榊原は、ナイフで陽子に斬りかかっていた女の手首を握っていた。
「やはり貴方でしたか?工藤今日子さん。静かにしていただきますよ」
 榊原は、今日子を羽交い締めにして、近づいてきた刑事達に身柄を渡した。
「吃驚したよ。合図する前に、君が今日子夫人が現れた瞬間に走り出したものだから……」
「相沢刑事、彼女が出てきたので、やばいと思ったら、走っていましたよ。陽子ちゃんが無事で本当に良かった」
と、榊原が言って、目頭をそっと押さえた。
それから、榊原は、振り返って陽子の体を抱きしめ、陽子を抱きかかえるようにして、相沢達刑事達の背後に素早く隠れるように動いていた。



 榊原と陽子は、相沢刑事達と、Y警察署で恐怖の後の一時を過ごしていた。
「相沢刑事、どうもありがとう御座いました。また、洋介さんと会うことが出来ました。雅人さんはどうなったんでしょうか?」
「今、吉川刑事が雅人の搬送された救急病院に行っていますが、直に状況が分かるでしょう。雅人は、緊急手術を受けているはずです」
と、相沢刑事が言った。
「雅人さんは、由美や工藤芳樹さんを殺した悪い人ですけれど、この二ヶ月間T町では私を助けてくれ、私のために一生懸命仕事をし、記憶喪失になった私を支えてくれていたんです。私に邪な気持ちを持っていたかもしれませんが、あの公園での彼の言葉は信じたいと思っています。私を、あの男達から守ってくれようとしていたんです……」
と、陽子が言った。
「陽子ちゃん。必ずしも、雅人君が犯人ではないかも知れないよ。今日子夫人が真実を話してくれればよいが……」
「相沢刑事、雅人は亡くなりました。緊急手術が行われたんですが、出血多量で……。彼の言葉を聞くことは出来ませんでしたが、彼が清水さんに宛てた手紙を持ってきています。彼のジャケットの胸ポケットに入っていました」
と、吉川刑事は言って、相沢に封筒を渡した。その封筒は、雅人の血で一部赤く染まっていた。
「清水さん、宜しければ、封筒を開けて読んで頂けませんか?」
と、相沢刑事は陽子に封筒を渡しながら言った。
「洋介さん、私には手紙を読む勇気はないわ。代わりに読んでくれる、お願い……」
と、陽子は榊原に封筒を手渡した。
「それでは、僕が雅人の手紙を読みます」
榊原は、封筒から手紙を出し、読み始めた。

『 親愛なる泉優子 様

清水陽子さん、いや泉優子さんと呼ばせて下さい。
僕は工藤雅人ではなくて小宮孝夫としてあなたと秋田のT町で過ごした日々を忘れることが出来ません。あの時、幸せでした。そして、僕があんな気持ちになることは想像できませんでした。
あなたが、御存知のとおり、僕は卑劣な人間でした。
8月24日に僕は、兄貴に由美のことで、
「兄貴、俺は由美さんのことが好きなんだ。兄貴には、由美さんは渡せられない。明日、由美さんと会って、そのことを言おうと思っているんだ」
と、電話したんです。
すると、兄貴は、
「俺は、由美と結婚することが決まって、9月初めに二人で両親達の所へ行って承諾を受ける予定にしている。だから、お前が由美の所へ行っても無駄だ。もう彼女の気持ちは変わらないんだよ。諦めて、由美をそっとしておいてやってくれ」
と、兄貴は僕を諭すように言ったんだが、僕は、
「いやだ。どうしても俺は、彼女が欲しいんだ」
と、言って電話を切りました。
兄貴は、いても立ってもいられなくなって、心配して、N市の僕の所に会いに来たんです。両親には、由美のことで僕と会うことを話すことも出来ないので、知らせずに出てきたようでした。
兄貴の顔を見た時、その幸せそうな、そして僕の由美に対する気持ちを知って心配している表情を見て、僕は兄貴や由美を許せない気持ちになってしまいました。兄貴と由美のことで話し合った時、言葉では結婚が決まっているのなら由美のことは諦めると言って、兄貴を安心させ帰らせましたが、腹の中は煮えくり返っていたんです。由美を殺して、兄貴に苦痛を与えてやろうとその時決心したんです。
そして、8月25日に由美に電話をした時に、君が由美と会う約束をしていると聞いたんです。これは好都合かもしれない。警察の捜査を少しは遅らせられるかもしれない。うまくいけば、当分の間捜査を間違った方角に進ませられるかもしれないと思ったんです。由美が出掛ける前に、もう一度電話して、「兄貴が来ているので話がしたい」と言ったんです。昨日兄貴が僕に会いに来て、両親の反対で君とは結婚できなくなったから、由美と話がしたいが、僕にも付き合って欲しいと言ったと彼女には嘘を言って、呼び出したんです。由美が彼女の家から出て100m程歩いたところで、車で近付いて、「迎えに来た」と彼女に声を掛け、彼女を車に乗せ、Y区近郊の公園の駐車場に行きました。そこで彼女の首を絞めて殺したんです。
その公園には、以前居酒屋で知り合った暴力団の組員の2人組が待っていました。山田勇治と田中満夫です。迎えに使った車は、山田から借りた車でした。
二人に、由美の死体と由美の鞄から見つけた部屋の鍵を渡し、田中の車で由美の部屋に運んでもらったのです。
そして、僕は急遽、君が待っている地中海に向かい、地中海で君を監視できる場所から君の行動を見ていたんです。その時、君のそばに榊原(この人の名前は後で知ったのですが)という人が近づくのを見たのです。そして、地中海を出た後、君の後を付けたのです。君が、Y警察署を訪れたことや、「千年の恋」というお店に行ったことも知っていました。
僕は、由美の葬式に君が来ることが分かっていたので、山形で君達が来るのを待っていたのです。その時、あの2人にも来てもらっていました。
僕は、由美の葬儀が終わった後に、彼らに手伝ってもらって、兄貴を殺そうと考えていたんです。その頃には、兄貴が由美を殺した犯人が僕であることに気が付き、警察に行かれては困るという判断もあり、兄貴を殺すことを実行したのです。
 あの二人には、兄貴を殺すことで、僕が工藤家の財産や土地を手に入れることができ、その時には十分な謝礼を渡すということを約束して、手伝ってもらうことにしたのです。
 兄貴をM中央公園に呼びだして、首を絞めて殺したのです。遺書を残し、自殺に見せかけ、うまくいったと思ったのです。兄貴が由美殺しの犯人ということになれば、自分達の身は安全になると考えたからです。それで僕の恨みを晴らす行為は終わる予定でした。
 そして、偶然にも、君と榊原さん ─ 彼が、この時兄貴の死体を見に来たのです。これには僕も驚きました。彼に見つからないように別の木の陰で彼を伺っていたのです。その後、君が榊原さんとか洋介さんとか言うのを聞くことが出来ました。 ─ が、兄貴の死体の第2発見者になるのを目撃することになったのです。
しかし、警察が殺人事件であることに気が付いてしまったのです。実際に首を絞めて殺したのは、山田ですが、彼らに兄貴の死体を自殺に見せかける大木への工作を任せたために、ドジを踏んでしまったようです。
僕は、東京へ帰ることが出来なくなってしまいました。君の存在を無視することが出来なくなってしまったのです。もしかすると、君は由美に僕というものが関係していることを由美から相談されているかもしれないし、何かの時に話しているかもしれないと思っていたのです。兄貴の他に由美と親しい人間が、東京におり、それが殺された工藤芳樹の弟であると警察が知ったら、警察は僕のことを放ってはくれないはずです。僕を重要参考人として、由美や兄貴の殺害事件との関連を必ず調べるはずだからです。僕らの安全が損なわれるのは絶対と思ったのです。そのことがどうしても僕の頭から離れなかったのです。
僕は、君を監視していましたが、榊原という青年の存在やY警察署の相沢刑事、S警察署の山崎警部の存在があり、暫く迂闊な行動は取れませんでした。
そんな時、あの大地震があったのです。これは、チャンスだと思ったのです。君を捕まえる絶好の機会だと……。
あの地震で逃げていく時、榊原という青年を突き飛ばしたのは、この僕なのです。君たちを離れ離れにする必要がありました。まさか、その反動で君が記憶喪失になるとは思ってもおりませんでした。君を助けているうちに、怪我をし、記憶喪失となった君を殺すことが出来ませんでした。取りあえず、君の記憶喪失で僕らの安全が暫く保証されたのですから。
山田と田中とは、兄貴の事件後に別れましたが、どうも彼らは山形にいたようです。彼らの意図は分かりませんでしたが、悪巧みをしていたのかもしれません。
僕は、彼らから君を守りたかったのです。

そして、……ごめん、母さん。
僕は、何という馬鹿な人間だったのでしょう。

当初は、由美や兄貴を殺したことを後悔していませんでした。君を助け、秋田のT町で2ヶ月を過ごすうちに、君を愛おしく思うようになったのです。何時までもこの生活が続くように、そして君が記憶を取り戻すことなく、泉優子のままで過ごして欲しかったのです。何時かしら、僕も、小宮孝夫として何時までも過ごすことを考えていたのです。
そして、この僕の気持ちが、由美さんや兄さんの気持ちだったんだなと気が付きました。人を愛し、人を思いやることなんだと。
しかし、その生活は長続きしなかったのです。予想はしていましたが、警察の手がT町にも及んできたのです。
その後のことは、君も知っているとおりです。
 僕は、君が記憶喪失から立ち直った時、僕から離れていくことは分かっていました。それを恨む気持ちもありません。ただ、僕が人間として少しは真っ当な気持ちになれたことだけは信じて欲しかったのです。それは君のお陰です。いくら、君に感謝しても感謝し切れません。そして、君が本当の自分を取り戻した時、警察が僕を追いつめた時、死のうと考えていました。その時に、この手紙を君に渡すことが出来ると。
 どうか何時までも、幸せに暮らして下さい。

小宮孝夫      』

 陽子は、手紙の内容を聞きながら、顔を覆って泣いていた。時折小さな彼女の嗚咽が聞こえていた。その胸に去来している心の葛藤は如何ほどのものか?榊原の胸には、複雑な気持ちが渦巻いていた。
「洋介さん。彼は、本当は優しい人だったと思うの。何時かしら、彼の人生で歯車が狂ってしまったと想うの。人に恋することは、人生をバラ色にしたり、その人を狂わせたり、人がよく言うように魔物ね」
と、陽子は言った。
「君の言う通りかもしれないね。雅人が、人のことを思いやる気持ちにもっと早いうちに気が付いていれば、こんな事件は起きなかったのかもしれないね」
と、榊原がしみじみと言った。
「これで、事件は解決だな。清水さん、榊原さん、ご苦労様でした。あなた達には、大変苦労させてしまったね。お陰様で事件は解決に向かったけれど、危ない目に会わせてしまったことは、謝ります。唯、工藤雅人が人間の本来の姿に戻ってくれていたのがせめてもの救いです。二人とも、有り難う。
 ところで、これから君たちはどうしますか?」
と、相沢刑事は聞いた。
「相沢刑事、事件はまだ終わっていませんよ。今日子夫人が残っています。彼女に話を聞きに行きましょう。真犯人が分かりますので……」
と、榊原が言って、取調室に向かいかけた。
「何……?今までの事件に彼女が関係しているのかい?君は、真犯人と言ったが、二つの事件とも彼女が犯人ということかね?君は、いつから今日子夫人に疑いの目を持っていたのかね?」
「由美を殺害したのは、雅人と思いますが、芳樹殺しは母親の今日子夫人と思っています」
「雅人さんが、今日子夫人を見て『やっぱり……』と言ったのは、どういうことかしら?」
「今に分かるよ……」



 Y警察署の取調室では、4人の男女がいた。
 取調椅子には、和服姿の工藤今日子が、その尋問役として机の向こうには相沢刑事が神妙な顔で座っていた。そして、記録係として吉川刑事が、ドア付近の記録机でメモする態勢を取っていた。
 さらにもう一人、特別に一般人であるが榊原洋介が立って、相沢刑事の横にいた。
「今日子夫人、本当のことをお話し願えませんか?雅人君は亡くなりましたが、彼のためにも……」
と、相沢刑事が口を開いた。
「僕は、S警察署の山岡刑事に貴方の行動を見張るように頼んでおいたのですよ。貴方が、芳樹さんを殺させたのですね?雅人君は、陽子さんへの手紙で、自分が芳樹さんを殺したと告白していますが、たぶん貴方を庇ったのだろうと思います。実行犯は、山田と田中ですね?彼も、犯人は山田と田中と思いましたが、それを動かしているのが貴方だと気が付いたと思います。ただ、それを知るのが怖くて貴方に問いただしはしなかったと思います。陽子さんが聞いた、彼の『やっぱり……』という言葉が、それを物語っていると思います」
と、榊原が言った。
「……」
 工藤今日子は、榊原を睨むだけで何も言わなかった。
「今日子夫人、山田も田中も観念して、あなたから芳樹さん殺しを頼まれたと白状しましたよ。あなたも、本当のことを言って頂けませんか?」
「……」
 相沢刑事は、目を剥いて榊原を見た。
それまで、工藤今日子は、憔悴したうつろな目で、榊原を見ていたが、観念したのか話し始めた。
「榊原さんがおっしゃったとおりです。私が、芳樹を殺させました。雅人は犯人ではありません」
「貴方は、由美殺害事件とは関係ないのですか?それから、これまで雅人君とはどのような交流があったのですか?その点から話して頂けませんか?」
と、半信半疑で相沢刑事が供述することを進めた。
「雅人は、芳樹と比べるとできの悪い子でしたが、優しい子で、私が風邪でも引いて寝込んでしまうと、心配して直るまで看病してくれる子でした。その点、芳樹はクールで、父親にとって頼りになる子供でしたが、私にとっては……。
 父親が、芳樹を頼もしく思い、彼を溺愛すればするほど、私の心は雅人に傾きました。私の本当の子供はこの子だけだと思うようになっていったのかも知れません。そんな時、雅人が芳樹とけんかして出ていってしまったのです。それが2年前でした。音信が途絶えてから、私は、半狂乱になって、雅人を探し歩きました。世間体もあるので、私が雅人を捜して東京に何度も行ったことは、人に知られないようにしていましたし、身近な人にも口止めをしていました。探し歩きましたが、どうしても見つけることができませんでした。
私は、主人には内緒で、私立探偵に捜索を頼みました。
そして、私たち両親がさも彼を捜していないように振る舞っていたのです。
 主人の薦めもあったので、仕方なく警察にも捜索願を出しましたが、その時には雅人の居場所は私には分かっていました。雅人のことは、警察にも、そして主人にも芳樹にも知らせませんでした。
雅人は、E市に住んでいました。何故か、警察には見つからないように願っていましたし、雅人にも警察が捜していると告げました。雅人は、見つからないように用心していたようです。複雑な気持ちですが、主人にも芳樹にも知られたくないような、私だけの秘密にしておきたかったように思います。
 私は、主人や芳樹に気が付かれないように、携帯電話で雅人と連絡を取っていましたし、関西や名古屋方面への友達との旅行と偽っては、何度か雅人に会いに行きました。東京で会うのは具合が悪いので、旅行の途中で、友達に気が付かれないように抜け出したりして、あるいは、宿泊先のホテルなどで密かに雅人に会っていたのです。
 雅人が芳樹とけんかしたのは、由美さんのことだろうと予想していましたが、雅人を問い詰めると、『そうだ』と言いました。やっぱりと思いました。それからです。由美さんのことが憎く思えてきたのは……。私たち家族をバラバラにして、そして可愛い雅人を私から奪い、山形に住めないようにしてしまったのですから……。本当に、殺してやりたいと思いました。
 ……。でも、一足早く、雅人が由美さんを殺してしまったのです。私は、事件を知ってから、吃驚して、雅人に連絡しました。私が雅人に変わって、犯人になりたい位で、雅人を守ってあげたかったのです。私が由美さんを殺してしまいたい程だったのですから……。
 雅人に問い詰めました。どうして由美さんを殺したのか?一人で殺したのか?その時、山田と田中のことも聞きました。そして、山田と田中を買収したのです。雅人の言うことより、私の言うことを聞くようにと……。さすがに彼らは、賢明にもお金のある方を選びました。そして、雅人の行動を監視し、随時連絡するように指示していたので、雅人の一頭足を知っていました。
 雅人が、由美さんの葬儀に合わせて帰ってくることも知っていました。雅人も言っていましたし、彼らからも情報が入っていました。雅人には、警察の目があるから、近くには寄りつくなと忠告しておきました。
 それから、芳樹が由美さんの葬儀から帰ってきてから、妙に考え込んでいるようでした。それまでとは表情が違っていたのです。母親の感というか、由美さんのことで沈んでいるのとも違いました。何か、違うことで思い詰めているようでした。芳樹のことを密かに伺っていると、部屋のドアが少し開いていて、その隙間から、芳樹の『やっぱり、彼奴か……?彼奴が、彼奴が、……、ちきしょう。絶対に許さない』と言う声が聞こえてきたのです。私は、狼狽しました。遂に、芳樹は雅人が由美さんを殺したことに気が付いたのだと……。
 私は、鬼になりました。雅人を助けるためには、芳樹を殺さなくてはと思いました。そして、芳樹を由美殺しの犯人に仕立て上げようと、そうすれば雅人は警察に捕まることはないのだと……。何という親でしょうか?自分の子供を殺すなんて……。その時は、本当に人でなしになっていたのです。芳樹、ごめんなさい。お母さんは……。」
と、今日子は言って泣き出した。しばらく泣いていたが、気を取り直したのか、また話し始めた。
「由美さんの葬儀が始まった時、雅人が秘密裡に帰ってきていました。このことは私しか知りませんでした。主人も芳樹も知りませんでした。私と雅人の秘密にしておりました。そして、私は雅人にも秘密にしていたことがあるのです。
そうです……。私は、山田達を山形に来るように呼んでいたのです。彼らと芳樹を殺害する相談をするために、そして芳樹を由美殺害の犯人に仕立てるために……。その時は、雅人には警察の追及が厳しいので、芳樹の廻りに近づかないようにくぎを差していました。だから、雅人には殺害のチャンスはなかったのです。人にも芳樹にも疑われずに、芳樹に近づけたのは私だけです。
 芳樹には、『雅人が帰ってきているから、三人で人に見られないように会いたい』と言ったのです。芳樹は承知しました。由美さんがよく訪れていたM中央公園ということもあって、雅人を問い詰めるためにやってきました。私は、あの大木の陰に隠れていた山田と田中に目配せをし、芳樹を殺させました。あの遺書は、私が作りました。それからは、みなさんが知っているとおりです。
 榊原さんが言うとおり、雅人は、私に芳樹のことを聞きませんでした。でも、薄々知っていたのでしょうね。雅人、ごめんなさい。
 また、私は何という妻でしょうか……?子供が可愛いからといって、自分の夫までも手に掛けるとは、全くの鬼です。
……芳樹が亡くなってから、主人が雅人のことを疑い出したのです。雅人を守るために、主人を殺そうと考えました。山田と田中を呼んで、主人を殺すことにしたのです。
 そして、都合良くもあの地震がありました。
 地震後の混乱の間に、山田達3人で主人を殺し、家に火を付けたのです。
 山田達や以前雅人の捜索を頼んでいた探偵を雇って、雅人を捜させていました。そして、秋田から東京に向かったことを掴んだのです。山田達に雅人達を追っていくことを頼み、私も東京に向かいました。山田達から、雅人のいる場所も聞き出していました。
 私は、山田達に雅人を私からまた奪おうとしている清水さんを殺すように指示したのです。
以上が、私の罪の全てです」
 今日子は、長い話を終えた。その表情には、罪を告白し、少し安堵した気持ちと、雅人達を思う苦渋に満ちた気持ちがない交ぜになったものをたたえていた。

「君は何時今日子夫人を疑いだしたんだね?それに、山田や田中が告白したと嘘まで言って……」
と、相沢刑事が榊原に向かって言った。
「僕の母も、時々親父に内緒で電話を掛けてきますよ。どこの母親も、息子の生活状態が心配で、しょっちゅう電話連絡してくるのが普通じゃないでしょうか?また、行方を捜すことに熱中するのも母親だと思います。父親なんて、母親任せですからね。僕は、今日子夫人が雅人に対して無関心でいたとは思えませんでした。
 今日子夫人が雅人の行方を知らないと言った時に、変だなと思ったのです。きっと、雅人の居所を知っているのではないか。何故、嘘を言う必要があるのか?雅人が、由美殺害事件の犯人だと知っているのではないか?雅人とは、連絡を取り合っていて、警察や僕らの動静を知っているので、雅人に情報を漏らしていたのではないか?由美殺害事件の鍵を握っていると思われていた芳樹に近づくことが危険であることを雅人には知らせていたように思いました。
 僕は、雅人は芳樹には会っていないと思いました。では、警察に疑われずに芳樹に近づける人間は誰か?母親しかいません。
そう感じた時、背中に冷たい汗を掻き、自分の考えていることに嫌悪感を感じましたが、今日子夫人が芳樹さんを殺したのではないかと疑いました。
だから、彼女の動静を非公式に山岡刑事に見張るよう頼んでおいたのです。山岡刑事からの連絡で、今日子夫人が雅人を追って東京に向かったことを知りました。また、不審な男達2人が今日子夫人より前に東京に向かったことも山岡刑事から連絡を受けていました。
 相沢刑事、黙っていてすいませんでした。山岡刑事には、人の命がかかっているので、山田達や今日子夫人のことは内密にしておいてくれるように頼みました。最初は、とんでもないと言っていましたが、私が何度も真剣に頼んだものですから、やっと承知してくれたのです。このことは、内密に願います。
山岡刑事からの情報で、彼女が山田達と芳樹を殺したことを確信しました。ただ、ご主人まで殺していたとは思いませんでしたが……」
「君は、刑事顔負けだね。僕までだましていたとは……。まあ、清水さんも無事だったし、事件も解決したし、よしとするか」
 相沢は、苦笑していた。

 4人の男女が、Y警察署を出て、夕日に向かって、通りを歩いていた。東京では珍しい夕日のきれいな黄昏時であった。
「私は、暫く北海道の実家に帰ろうと思います。……洋介さん、良かったら北海道に遊びに行きませんか?あなたさえ良かったら……」
と、陽子は俯き加減で洋介に言った。
「……喜んで。君のご両親にも会って、これまでの経緯を説明しなくてはいけないと思うし……。それに……」
と、榊原は恥ずかしげに言った。
「それにとは何ですか?」
と、相沢刑事が聞いた。
「刑事、野暮なことは聞かないであげて下さい。それに、涼さん、陽子さんのことは諦めて、吉川ひろみに恋をしてみては如何ですか?」
と、吉川ひろみが悪戯っぽく相沢涼を見て言った。
「このごろの女の子は、積極的で付いていけないや……」
と、相沢は言いながらもまんざらではない顔をしていた。
 4人は、自分達のそれぞれの思いを胸に、未来はどうなっていくのかを不安と期待に胸ふくらませ、微笑んでいた。


榊原洋介事件簿1

榊原洋介事件簿1

  • 小説
  • 長編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-24

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  1. 第一章 美人薄命
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