目をそらさずにはいられない

私は現実を見ている。

吐き出す息が白い。ふう、と息を吐いたそれは目の前で白く霞んで消える。幻想的な見た目は、寒さの証である。
新人代謝が悪いのか、握り締めた指先が氷のように冷たかった。ひんやりとしたものが手のひらに伝わり、指先がじくじくと痛む
音もなく風が吹きつけた。顔に当たる風が冷たい。
冬にいいことなんて一つもないのだ。
まぁ、きっと私のことだから夏になったら夏にいいこともないと思うに違いない。
今日は朝から曇りで午後になっても晴れないし、もしかしたら今日、私はものすごく運が悪いのかもしれなかった。
「まぁ、もう終わったんだけど」
つぶやいたら風が一段と強く吹きつけた。冷たさが一段と身に染みる。
運が悪いも何も、もう今日の一大イベントは終了した。
閉店終了感謝祭大セール、ただいまをもちまして終了。みたいな。
後はもう家に帰るだけだ。
私は風に落とされかけたマフラーをまた首に巻きつける。
今日はいつもより風が強い。この行動ももう何度目か。
巻きつけるたびに握った手を開いて、開かねばならない。それだけで微妙に温まった指の熱は急速に失われる。
つめたい、と思って、指先を眺めたけれど、足は止めなかった。
のろのろと歩いた先に、コンビニの角が見えた。
駅はもうすぐそこだ。
(あーよく見えない)
ぼんやりとしかうつらない私の視界。
天気が悪いといつも視界が悪くなる。
特に、曇りとか。雨だともう最悪だ。
かといってメガネをかけていると目が疲れる。ので、私はいつも裸眼だ。
私は、いま帰路につく途中なのだ。
くだらないことばかり考えるのは、やっぱりテスト終わった直後だからだろうか。
駅が見えて、私はエスカレーターか階段かちょっと悩んで、階段をのぼった。
部活を引退したころはそうでもなかったのに、最近は階段をのぼるのすらキツイ。
私はパスケースを取り出してスイカで改札を通る。
その際、ちゃんとお金が落とされているか確認する。前にちゃんとお金が払われていなくて通れなかったことがあったからだ。
私は過去から学ばないほど馬鹿じゃない。
つもり。
新宿方面のホームへと私はゆっくりと階段を下る。
駅から遠いのがこの学校の難点だ。
ホームへ降りると私と同じような受験生がちらほらと見てとれた。
私は、じゅけんせいだ。
今はテスト後。
ここは併願で受ける学校だ。
神奈川県の近くにある東京の端っこ、私の街のほうから来る人は少ない。
私の本命は都立の、それも飛び込み。ようは半端なくレベルが高いわけで。
その高校の、「一割は当日の実力全てでいれてやる」という制度を使って入ろうとしているわけだ。
そんな方法を使わねばならないのは、私の成績が足りていないから。
分不相応だから。
その高校の名前は有名らしく、いうと「すご!」なんて反応が返ってくるので誰にも言っていない。
すごくなんかない。動機だって不純だ。
なのに。
いきたくて、勉強をしているはずだ。
だというのに。
私は小さくため息をつく。
正直言って、迷っている自分がいる。
電車が来た。私は表示されている時刻表を見て、自分の町で止まることを知る。
ま、いっか。
私は電車へと乗り込む。
平日の昼間は席がすいていた。
空いている席を見つけて、リュックを抱えて座った。
母は神奈川県出身で、私立の方が私に向いているんじゃないかと私を私立へ行かせたがっているのだ。
ちなみに母の実家からそう、遠くない距離。
母に言われると、どうしてよいかわからない。
がたん、ごとん、と電車が揺れる。
電車の窓に映る景色は田園風景だ。私が見慣れない、私の知らない町が次々と流れていく。
ビルと住宅街だらけの景色しか知らない私は、どこか知らない街に迷い込んだようだ。
一人だけ不思議の国に落ちてしまった。
ゆったりとした時間が流れている。
することがないと、いやでも頭よぎる。
受験なんて、通過点の一つに過ぎないと誰もが言う。
学校の先生も。お父さんも。お母さんも。おじいちゃんも。おばあちゃんも。叔父さんも。叔母さんも。
「受験なんて、通過点の一つ」
そういわれるたび、私は笑って「知ってるよ」と返すのだった。
知っている。知っている。知っている。知っている。知っている。知っている、だから、だから、黙れ。
私の中にある、凶暴な塊。
あるいは凶悪な。
がたん、と電車が止まって、私の体が揺れた。
やめよう。
意識をそらそうとして、少しだけあたりを見回してみた。
昼間の電車の中は、人が少ない。
しかし何人かがぞろぞろと室内へ入ってくる。その中には制服姿の同い年ぐらいの人もちらほら見てとれた。
空いていた向かい側の席に、若い男が座った。
私と同じ受験生なのだろう。ほかにもちらほらいる中でその男だけが目を引いたのが黒い学ランだったからだ。
私の学校はブレザーだ。
近隣の学校にもセーラーや学ランがないので私にとっては物珍しい。
それだけだった。
男は空いている私の向かいに座った。すぐに腕を組んで目を閉じてしまう。
ついついその男が目を閉じているのをいいことに、ものめずらしげに眺めてしまう。
よく見れば髪は真っ黒で、肌はとても白い。
白いだけではない。肌がきれいなのだ。透き通る、とはこのことなのだろう。
目を閉じていてもわかる。ずいぶんと造作が整っていることが。
周りにいる何人の女の子もちらちら見ていた。
男だというのに、えらく美人な人間だった。
私とは大違いである。
「はぁ、まぁ、いいけどね」
呟いたらなんだか悲しくなってきた。
私の呟いた声は誰にも聞こえなかったようだ。
良かったと思う反面、まるで私だけが取り残されてしまったようで、がたんごとんと揺れる音がよく響く。
人の少ない電車の中は、音だけが支配している。
がたんごと電車が揺れる。
(あ、まずい)
私は私の中から何か湧き上がってくるのを感じて目を伏せた。
静かにならされた水の底から、ぼこりと水泡が湧き上がる。
気泡のように湧き上がって、どろどろと水の中で溶ける。
もやもやとした、形のない漠然とした何かが私の中で巣食っている。
それは私という形を形成する。
体全身の中に鉛でも詰まっているようだ。ひどく、動きづらい。
水圧でもかかっているのだろうか。息をするのすら苦しい。
鉛の詰まった私の体はゆるりと水没していく。思考が落下する。
こんな醜い私では、水面に顔を出すことすら出来ない。
出来損ないででくの坊の私は、いつまでたっても許されない。
水の中では鉛のように重たい。
咎を背負っているわけでもないのに、私に巻きつく鎖は私が浮上することを許さない。
電車の中は温かいはずなのに、寒い。
いつになれば私は水面の上の美しい光を見ることが出来るのだろう。
ならされた海底のようなこの水面のそこは、ひどく暗い。
なんだろう。この、私だけを包むような。
温かい空気は・・・・ん?
あったかい。あったかい?
私は慌てて目を見開いた。
そして私の視界を。
鳥が横切った。
向こう側が透けて見える、透明色の鳥たちだ。
緑、赤、青、紫、黄色、橙色、紺色、群青、鮮紅、桃色。
沢山の鳥たちが、電車の中に溢れかえっていた。
「は・・・」
私は口を開いたまま呆けてしまった。
温かい奔流が、光と影を伴っている。流れが視認できた。
は、なんだこれ。
私の口元が引きつるように笑った。
なんだ、私はあれか。
色々と思いつめるあまり幻覚が見えるようになってしまったのか。
さすがにこれはお母さんに相談するべきか。
黄緑色をした鳥が羽ばたいて、私の膝に止まった。
小首を傾げて私を見上げている。
「リュ―」
鳥の名前なのだろうか。黄緑色の鳥は振り返った。
そして興味がないようにまた私を見上げる。
私は鳥が顔を向けたほうに私は視線を向けた。
向かい側に座った男と、目が合った。
閉じていた目が、黒いとわかる。
驚きに大きく見開いた目と。
私の目が合う。
温かな風が、吹き抜ける。
ああ、そうか。
ここは、春なのか。
だからこんなにも寒くて、温かい。
私は少し目を細めた。
鳥が。
鳥がいる。
温かい奔流が、私を包んでいる。
私は目を、閉じているのだろうか。開けているのだろうか。
分からない。
けれどここはひどく心地が良くて。
鎖も、水圧も。
何も私を苛まない。
鉛さえ、消えてしまったような。
そんな錯覚に。
思考が麻痺している。
考えようとは思わない。
私にはそれがひどく、どうでもいいことにさえ。
思えてくる。
『西硝子――――』
西硝子です、と繰り返されて、私は我に返った。
駅についている。私の町だ。見慣れた駅の景色に、私は立ち上がった。
何を考えていたのだ、私は。
どうでもいい訳がないだろう。
思考を放棄したら、いやたまにごちゃごちゃ考えすぎて保留にしたりするけども、放棄はしない。思考の放棄は、人間の放棄だ。
かろうじて保っている私という人間性を失う。
私は、怖くなった。
「待って」
そう声が聞こえた。
けれど私に声を掛けたのではないだろう。
待つものか。待てるわけがない。
私は思考の放棄をしかけた自分に驚き、そして恐怖した。
そんなことを考えてしまった自分が、怖くて仕方なかった。
私はその声を無視する。そして駅に降りた。
今日はこのまま家に帰ればいい。
そう思ったら、急に足取りが重くなったような気がした。
鎖が、足もとに巻きついたのだ。
そして一気に水の中へと突き落とされる。
水圧に苛まれているときの倦怠感が私に押し寄せた。
今日電車の中で見たことも忘れよう。
水圧も鎖も、ましてや鉛が私を苛まずにいるわけがない。
錯覚にしたってひどいものだ。
悪い夢。
そう悪い夢だ。私の妄想で幻覚なのだ。
「待って」
腕を引かれて、私は振り返った。
がたんごとんと、電車が通り過ぎていった。
ホームに下りた人々が流れていく。
軽く息を切らせながら、男は私の腕を掴んでいた。
向かい側に座っていた男だ。
体が強張った。
男が怖いのではない。
人間が怖いのだ。
見知らぬ他人が。
私は、何かをしゃべろうとして口を開きかけた。
私はさっきまで感じていた恐怖が抜けきっていない。
なので、恐怖という感情に支配されている。軽く混乱していた。
思考がまとまらない状態でどうするのだ、と口を開くのを思いとどまる。
腕を放せ、というのか。それともあなたは誰、か。どうして、か。
私は、なんと言えばいいのだ。
いや、なんと言うべきなのだ。
「あなたは、」
男が口を開きかけた。
ごちゃごちゃとした思考のもとに。
私は何かしゃべられるよりはしゃべってしまうほうがいいのではないか、と口を開いた。
「放してくださ」
い、といえば終わりだった。
私の最後を遮ったのは、一気に変わった景色だ。
春のやわらかい色が、私の視界を覆う。
緑色の透明な鳥が、男の肩にとまった。
「あなたは、視えるんですか」
男の表情はいたって真剣だった。
真摯な顔に見つめられ、私はいたたまれなくなる。
「答えてください」
腕を掴む手に力がこもる。
私は怖くなって視線をそらした。
だからいやだ。
喉の奥が張り付いてうまく声が出ない。鉛が詰まっている。
何を言っていいのかわからないというのもあるが。
私が持つ言葉はとても攻撃的なのだ。
だから私は鉛でふたをしなくてはならない。
外界から受けた衝撃は私の中でくすぶる。
くすぶり続けた結果どうなるかというと、自分自身に攻撃の矛が向く。そして矛のベクトルが外側へと向けば。
私は容易に人を傷つけることが出来るのだ。
いけないと分かっているのに。
私は自分で、コントロールできない。
「は、」
私はいってはいけない、と思いつつも口を開いた。
は?と男が聞き返した。
いい加減、思考に歯止めを。
掛けなければいけない。
「はるの、ようですね」
男の顔が一瞬のうちに輝く。
期待をのせているのだろうが。
悪いが私は。
あなたの期待など、見事に打ち砕いて見せよう。
「やっぱ」
「あなたの頭の中は」
り、と言葉をつづけた男が固まった。
ああ、やってしまった。傷つけてしまった。
けれど後悔しても、もう遅い。
どうせ、ここで会うだけだ。
二度と、関わりはしない。
手加減する必要など、一体どこにある。
「そうやって、あなたの都合のいいように何事も解釈されるんですか」
すばらしいですね、と私はいった。
ちっとも素晴らしいなんて思っていないくせに。
こんな言葉は傷つけるだけの、方便でしかない。
「ご都合主義ですか。残念ながら私には理解できません」
残念とは、思わないけれど。
理解なんて、したくもないし、及ばないし、出来ないけれど。
所詮人間なんて。
人間同士なんて、相容れないものなのだ。
人間は、理解した気になっているだけだ。
太宰治の人間失格など――――――。
読んでいて腹が立つ。
人間とは、理解の及ばない、恐ろしい生き物なのだ。
理解が及ばないなど、当たり前である。
「だからはやく、放してください。まったくの見知らぬ他人に触られるなんて不愉快です」
不愉快どころか。
寒気がして悪寒が走る。
怖い、怖い。
消えかけていた恐怖が私を支配する。
今すぐ逃げ出してしまいたい。
私のことを知る人間が一人もいないところへ。
たった一人で立ち尽くしてしまいたい。
「視え、ない・・・?」
呟きのようなそれ。
その愕然とした呟きがもつ意味を、私は気付かずにいた。
いまはただ、この男の手が離れることを願うしかない。
「み、視えようが、視えまいが、あ、あなたには」
その男の眉が見る見ると釣りあがっていくのが見えた。
こわい。
見たくも、ない。
「関係あるんだ!」
叫びは、怒り。
怒りに支配されていくのを感知した。
こわい。
見たくない。
私は思わず目を閉じた。
「関係ない!」
男の怒号に力いっぱい言い返して。
私は我に返るように目を見開いて、逃げるという手段を思い出した。
私は腕を振り払った。
沸いて出る恐怖からも周囲の不審な目からも逃げるように、私は家に向かおうと思った。
相手のことなど確認せずに走る。
階段を駆け下りて、一番近くの改札からスイカででる。流れる人の列を縫って走った。
ここは私の町だ。よく知り尽くした、私の庭。
帰ろう。帰らなければ。
はやく、私の家に。
はやく。
怖い。
体が、震えそうになる。
沸いて出る恐怖心から逃げる。
あの黒い男から、逃げる。
私は、怖いのだ。
あの、あの男は。
追いかけてきては、いないだろうか。
確かめればこの恐怖と不安から、逃げられる。
安心を、得られるのに。
確かめることすら、怖い。
マフラーがずり落ちる。
私はそこでようやく立ち止まった。
息を切らして立ち尽くす。
寒いはずなのに、走ったせいで全然そんなことはなかった。
そして私は後ろを、確認しなかった。
私はなんてチキンヤローだ。



「なんて早いんだ・・・」
青年は呆然と呟いた。
腕を伸ばしたまま立ち尽くすというなんとも間抜けな体勢のまま。
向かい側の席に座っていた少女の瞳には、あきらかに別のものが映っていたのだ。
あまりにも、現実はかけ離れた鮮やかな虹彩。
春にきらめき、赤や緑の鳥の色を映す彼女の瞳は、見とれてしまうほどに美しかった。
まるで暖かな季節を込めた宝石のように。
きれいだった。
それを感じ取った青年は、少しばかり期待した。
見えている。
青年が見ている。
この春のような景色が。
『ハルが不審者だからだよ』
青年は黙って肩に目を向ける。
黄緑色の半透明な鳥がなにか、と可愛らしく首を傾げた。
その姿が憎らしく、口の先をとがらせる。
このまま呟いては変な人なので、青年は顔をしかめるだけにとどめた。
『見知らぬ他人に触れられるなんて不愉快です~』
調子をつけて歌うように鳥が言うので。
青年はますます顔を歪めた。
眉間に皺を刻めばずいぶんと凶悪になり、迫力が増す。
同年代の中でも人目を引く自分の顔が、そういう効果をもたらすことを青年は知っていた。
「・・・視えてるのかなぁ」
ふと、青年は少女が走っていった方向を見つめて、眉を下げた。
声には不安が混じっていた。
あるいはそうであってほしいというような、わずかな願望。
母親を見失った子どものように寂しそうに。
鳥は何も言わずに、青年の横顔を見つめた。
鳥が覗き込んだその顔から、みるみる表情が抜けていく。
そしてついには、表情が消えた。
造形のように美しい顔は、それだけでひどく冷たい印象を与える。
まだ男にはなりきらない、幼さの残る顔は、不安定さゆえの激しい拒絶を醸し出した。
己以外どうでもいいと隠さないようなそれは、いっそ中学生がするには不釣り合いな冷酷さがあった。
その顔に冷酷さが表面化するにつれて、鳥がはっきりと形を持つ。
まるで鮮やかなインコのように、鳥は確かに肩にとまっていた。
確かな黄緑色の塊となり、黒い学ランの方に丸まっている。
『ハル、あのこ、探そうか』
「ああ」
青年は鳥の言葉に小さく呟く。
青年の期待は思った以上のものらしい。
そんなことを鳥はうっすらと読み取る。
あの少女の反応が、無感動な青年の興味をそそった。
この無感動で、感情がうまく理解できない、哀れな青年の。
そう思うと、鳥は翼に力をこめた。
ちょうどそこへ、電車がやってきた。
青年はちょうどいい、と電車に乗り込んだ。
それと同時に、鳥が飛び立つ。
青年が降りる駅はここではない。
乗り込んだ青年の肩に、鳥の姿はなかった。



「じゃあね、すみ!」
「うん、また明日ね~」
私はクラスメイトの声にひらひらと手を振った。
明日。
明日に一体何があるというのだろう。
笑顔でそんなことを考える。
明るい未来か、輝かしい希望か。
考えていたら自嘲的な笑みに変わる気がして、私は首を振った。
あるわけないと思っている。
でも、明るい未来があってほしいと思っている。
今の私は下を見ても、幸せだなんて言えない。
私よりひどいのがなんだっていうんだ。
誰かを傷つけたくて、でもできなくて。しないのはチキンなんかじゃないと思って、そんなことないと知っている。
私はただの弱虫だ。
どうにかしたくて、どうにもならなくて、でもめちゃくちゃにする勇気なんてない。
帰ろう。
帰って勉強だ。
勉強にさえ集中していれば。
余計なことを、考えずにすむ。
「どーん」
ほとんど棒読みに近い声が私に衝撃を与えた。
声そのものではない。あきらかに友人が後ろから突撃して来たに違いなかった。
「私をおいて帰ろうなんて百年早いぞ」
「んなことないよ、シバさん」
私はうんざりとしたように呟く。
けれど一人で帰るのは寂しいので、うれしいといえばうれしい。
シバさんとはあだ名なのだ。
どうしてシバさんになったのか覚えていないが、とにかくシバさんは私が認める友人だ。
そう、私が恐れてやまない、特別、だ。
シバさんは背が高く、ひょろひょろとしている。
髪も伸ばしっぱなしでおしゃれという言葉からは無縁だ。その上、眼鏡を掛けていて野暮ったい印象を与える。
ただ、誰も知りはしないだろう。
眼鏡をとり、髪を梳いただけで、シバさんは誰もが目を引く美人ということに。
いや、眼鏡を取っただけで十分美人だ。
でも、私の心はちっとも痛まない。
シバさんは心までも美しいから、見た目も美しい。
この人を見ていると、自分は汚いから当然なのだろうとそう思える。
「すみぞうよ」
靴を履き替えながらシバさんは私を見た。
「ちゃんと食べているのか、がりがりだぞ」
私は内心ぎくりとした。
けれど悟られないように、と靴を履く。
シバさんは観察力がすごいのだ。
そこは本当に油断ならない。
「た、食べてるよ。失礼な」
言い訳まがいのことをしてみたが、どもってしまった。
シバさんはじろり、と私を一瞥した。
そして先に歩いていく。
バレている。
私はマフラーをさらに巻きつけて、顔を隠した。
実はちょっとばかりやせている。
でも、それは本当に、仕方がなくて。
食べても吐き気を催してしまうから。
だったら、食べない方が建設的だ。
「ふぅん。別にいいがな、私は」
嘘をついていても、ということらしい。口調が刺々しかった。
「ただお前の抱き心地が悪くなるのはいやだ」
「抱き枕じゃねぇよ、変態かよ」
「私はスタイルがよろしくて、ただし、ほねほねしてないのがいいんだ」
「ほねほねって何だよ。お前の好みなんか知るかよ」
「がりがりでもいいぞ」
なんだかいつもどおりで安心してしまう自分がいた。
この友人に気を遣わせてしまったのだろうかと、そうも思う。
昨日のことがあったせいだろうか。
私は神経質になっているようだ。
ほんのりと苦い笑みを浮かべた。
「つーかだな。お前はご飯食べる量が性格並みにむらがあるからな」
「悪かったな、性格悪くて」
それは十分自覚している。
言われなくとも。
なのに。
自分で思っているよりも、他人に言われるほうがイヤ、なんて。
自分で自分を否定するのは苦しくないのに、他人に否定されると苦しいのはどうしてだろう。特別な人ならなおさら苦しい。
でも、そんなことを思ったらいけないのだろう。
私はきっと、周りから見るとそういう部分があるから言われるのであって、それを自分で跳ね除けても、ただの自己否定になるだけだ。
「心配なんだよ。なんだかんだでお前は頑張りすぎるからな」
ふいに。
本当にふいに。
するり、といつもどおりに零れた言葉に。
いつもどおりの口調で言った言葉に。
涙が出そうになった。
頑張ってない。
私はちっともがんばってない。
けどでも。
すこしは、やっているのかと、これまでの行為を、認められた気がして。
それは本当に、そんな気がしただけなのだけれど。
私はうつむいて、それをなんとかやり過ごそうとした。
そんな私の頭を、シバさんはぽんぽんと優しく撫でた。
それだけで、苦しみが消えたような気がした。私は本当に現金だ。
けど、そんなことも。
バレている。
シバさんに私の嘘は通じない。
「そ、そういえばさ」
私はわざとらしく話題を変えようとした。
「どうした」
シバさんもそれに乗る。
シバさんは本当にやさしい。
あまりにも、やさしくて。
そのやさしさに、甘えそうになる。
「テスト受けに行ったじゃん?併願の、私立」
「ああ、うん。どうだった」
「いや、いまいち。わかんない。でもさ、その電車の帰りに―――――」
帰りに。
私は幻覚を見てしまった、と続けるつもりだった。
言葉を止めたのは。
他でもないその幻覚が、再び私の視界を占めてしまったからである。
薄桃色の光が、雪のように舞っている。
いや、光でも雪でもない。
これは。
桜だ。
桜が、降っているのだ。
淡い薄紅色が、世界を支配する。
舞い漂う桜の花びらは、世俗のことなど知るかというように、栄華をあふれさせる。我こそこの世の主だと言わんばかりの、柔らかな色に釣り合わない暴力的な支配。
色づいた、鮮やかな世界。
薄紅色の、柔らかい光と影が、私の視覚を支配する。
周りの景色はかすんでいるのに。
この世の栄華を取り去らんとするべく舞っている桜の中で。
ただひとり。
その黒衣だけが。
私の視界の中に、一際、鮮明に映る。
その男は。
ゆっくりと、振り返った。
黒い学ラン。
女のように美しい顔立ち。表情がないそれは、まるで氷の彫刻のようだ。
風が一陣、吹き渡った。
「すみぞう?」
隣でシバさんが私に呼びかける声がする。
その声が。
声が、遠い。
私は黒衣の男から目が離せなかった。
どうして。
私の止まった思考から、ようやく疑問が零れ落ちる。
どうして、あの男が。
こんなところにいるのだ。
どうして。

「こんにちは」

まるで数年来の友人のように。
男は親しげな笑みを浮かべて、挨拶するのだった。

「すみぞう、知り合いか」
シバさんの声に、私は首を振った。
こんな男。
知り合いでもなんでもない。
私が八つ当たりをして。
吐くだけ毒を吐いて、逃げただけだ。
そのことを自覚した途端に、私の中に居座る狂暴は笑った。
痛むような、いっそ心臓も内蔵も切り裂いてぐちゃぐちゃにしてしまいたくて。
それが私は、できない。
「話を、聞いてほしいんです」
男は懇願するように呟いた。
私の痛む心中など、お構いなしだ。
すがるようなその声は、苛立ちに楽しみを与えただけだった。
「し、しらねぇよ!」
私は思わず叫んだ。
叫ぶ声は、狂暴の笑い。
もっと糾弾すればいい。
この男は恐ろしいのだから、叩き潰してしまえと、そう思って。
私はできない。
やめて欲しい。
こんな。
こんな幻覚を、見せるな。
頼むから私を、おかしくするな。
「大体、この変なマボロシ見せてんのもお前なんだろ、ホント」
いい加減にしてくれ。
私が呟いた声は、声にならなかった。
ただ泣きそうになって、ぽつりと音が零れただけだ。
喉が引きつって、言葉にならなかった。
「やめろ。やめろ、やめろ。おかしくなる。気が、触れそうになるんだよ」
私は顔を晒したくなくて、片手で顔を覆った。
あるいは、私は世界を見たくなかったのかもしれない。
こんな幻想だらけの偽りの世界は、気が触れそうになる。
おかしくなる。
誰も彼も、私を刺激しないで欲しい。
私の中の凶暴な塊を。
あるいは凶悪な。
「・・・視え、るんですか」
男がぽつりと呟く。
私は首を傾げた。
わけが分からない。
涙が出そうだ。理解が及ばない。理解した気にすらなれない。
だから、怖い。
「あなたが、見せているんでしょう」
私の声が、震えかけていた。
「ちがう、いや、ちがくないのかな。それも含めてあなたと話がしたい」
男は首を傾げて、照れたように笑った。
どうして笑うんだ。
そんなに、きれいな顔で。
「自分は、あなたと話すことなどありません」
「・・・このひと、なんなの」
隣にいたシバさんが顔をしかめて呟いた。
「ぼくは――――」
「ハルさん」
男が名乗る前に私はシバさんに伝えた。
シバさんが「ハル?」と首を傾げた。
「頭の中が春みたいに幸せなご都合主義の人」
ああ、とシバさんがにやり、と口の端をあげた。
私の毒舌具合からして、敵だと判断したようだ。
ごめんなさい。でも、私はあなたが怖い。
言葉で他人を傷つけるしか、自分を守れないんです。
私は姑息で卑怯な子どもなのだ。
凶暴な、子供。
「シバさん、ごめん。今日は一緒に帰れそうにない」
これ以上、シバさんに迷惑など掛けたくはない。
ごめん、と視線をそらして謝る私に、シバさんはぽんぽん、と頭をやさしく撫でた。
「明日な」
うん、と小さく頷いた。
シバさんはやっぱりやさしい。
だからこそ、私は、この男をたたきつぶしてしまいたい。
シバさんが過ぎ去ると、私は男に向いた。
「ハルさん」
「その名前、定着なんですか」
「定着です。他には何がいいですか。ご都合主義さんですか」
まぁ、いいですけどね、と乱暴に呟くハルさんを尻目に私は歩き出した。
「お願いですから、さっきの友達。シバさんというのですが、関わらないでくださいね。私の大切なひとなので」
「大切なんですか」
「大切なんです。手を出したら、あなたをどうしてしまうかわかりません」
こんな私を気遣ってくれる、優しい人。
それだけで私はとても救われる。
これも、私が勝手に思っているに過ぎないのだが。
ハルさんは私に続いて歩いてきて、隣に並んだ。
「ここは、きれいですね」
ハルさんは小さく呟いた。
いまだ、私の世界は幻にとらわれたままだ。
桜が。
桜が、雪のように舞っている。
雨のように。
降り注いで、私の視界を奪う。
「桜が?」
私は言ってから後悔した。
言わなければよかったのだ。
関わりあいたくなければ余計なことは言わなければいい。
それでなくとも。
私の言葉は。
聞き入れられないほど、無神経で愚鈍な言葉なのだから。
「・・・さくら」
私は横目でハルさんを伺い、そして激しく後悔した。
うれしそうに笑っていた。
ますます理解できない。理解したつもりにもなれない。
変人とか無神経とか、愚鈍とか言葉に当てはめることが出来ない。
だから理解したつもりになれない。
つもりになれないから、余計怖い。
「名前は、なんというのですか」
ハルさんはいまさらながらにそういった。
私だって皮肉をこめて勝手に名前をつけたのだから、勝手に呼んでしまえばいいものを。
律儀な男である。
「じゅん」
私は、なので、偽名を告げた。
私だってこの男の本名など知らない。
だからお互いに、本名など知らないほうがいい。
知らなければ、後腐れがなくていいではないか。
「どういう字でしょう」
律儀に男がたずねる。
私はあらかじめ考えておいた名前を告げた。
「涼しいの、涼の小さいじゃなくて、子どもの子のやつ」
「ああ、淳」
「たぶん。説明下手だから、あれだけど」
ハルさんが納得したのはいいが、段々と自信がなくなってきた。
私が思っている字とほんとうに同じだろうか。
まあ、違ったところで問題はないだろう。
偽名だし。
「淳、さん」
うれしそうに呟くので。
なんだか私が全て悪いような気がしてきた。
しかもさん付け。
私は慣れていないので「いいよ」といった。
「淳でいいよ。慣れない」
「淳さんだってさん付けじゃないですか」
張り合いたいのか、こいつは。
学校から遠ざかると、景色が変わった。
蝶が飛んでいる。そして私の足が薄い水色に浸かっていた。
青い、透明な色。冷たさもなく、いや、冬だから元から寒いのかもしれない。
「あ、さん付けいやですか」
「慣れないってだけだよ」
「さん付けじゃダメですか」
段々と面倒になってきた。
「どうでもいいよ。好きに呼べば」
私はぶっきらぼうに言う。
「あなたにこれ以上嫌われたくないんです。いやならいやと言ってください」
私がしかめっ面を向けると、笑顔が返ってきた。
なんか本当に、全て私が悪いんだろうか。
毒を吐くだけ吐いて、テスト疲れもあって八つ当たりをして逃亡。
うわ、私自身を私がフォローできない。私が百パー悪いし。
ああ、自己嫌悪だ。
思考を切り替えようとすれば、いつの間にか私は水に浸かっていた。
自分が水の中を歩くのは、ちょっと不思議な気分だ。
水色が影と光を伴って揺れる。
緑や黄色の魚の形をした光が泳いでいた。
ここは、そうか。
「うみ・・・」
「みたいですね」
私の呟きを聞いていたのか、ハルさんはあたりを見回していた。
ようやく着いた、大きな自然公園に魚が泳ぎまわっている。
見慣れたはずの景色は、私の視界を占める幻影でまるで別のもののように映っていた。
水槽の中に沈んだようだ。あまりいい気分ではない。
「きれいですね」
それには激しく同感だ。
私は空いているベンチの席を見つけて、そこに座った。
座ったところで寒さはどうにもならない。ポケットに手を突っ込んで、こぶしを作った。
ひらに触れた指先がじんわりとする。
ハルさんは側につっ立ったままなので、私は「座れば」とぶっきらぼうに呟いた。
ハルさんはそれで納得したように私の隣に腰掛けた。
「さて・・・とりあえず、すみませんでした」
ハルさんがいきなり謝り始めたので私は思わず腰を浮かせかけた。
いや、悪いのは私であって、ハルさんではないはずだけど。
「いきなり手を掴んだりして、勝手に触ったり、すみませんでした」
私の無責任な毒舌を真に受けているのか、この人は。
「いや、いやあ、えっと、あのっ・・・」
私は攻撃してしまったことに対して弁解をしようとして。
はた、と気付いた。
こんなときに。
私の言葉は何一つ気のきいた言葉が出てこない。
謝罪の言葉さえ、喉の奥につっかかったように、出てこない。
私は、なんて卑怯な人間なんだろう。
自分の非すら、素直に認められない。
ごめんなさい、ひとつ、素直にいえない。
「でも、あなたに名前を教えていただける程度には嫌われてないと知って、安心しました」
ハルさんの笑顔が痛かった。
うわぁ、攻撃力強い。もういやだ。
私、本当にかわいくない。
もういやだ。腹を切り裂いて、烏に食われてさっさと死にたい。
「き、嫌ってなんかいませんよ」
私は苦し紛れにそういった。
苦し紛れではあるが、嘘ではない。
「嫌い」ということは特別だ。
だから、私は人間を平等に思っている。
唯一の例外が、友人と家族だが。
けれど私は心の奥底で、その特別すらなくしてしまいたいと思っている。
特別は、重たい。
失くすことを考えるくらいなら、特別など必要ない。
特別なものは、なくすことが怖いのだ。
私はどこか、本当に少しだけ、何かが曲がっているのだ。
日常に支障をきたさない程度の、ほんの少しの他人とのズレ。
他人なんて個性があるのだし、違って当然なのだけれど。
私は大なり小なり似たり寄ったり個性の中で、少しだけ、本当に少しだけ。
逸脱した何かがあるのだ。
特別は失くすことが、恐ろしいと思うから。
私は、向けられた『特別』に対し、それとまったく逆の感情を相手に返す。
そうすれば、特別でもなんでもない。
相手と私の中で、感情は平等になる。
「私の言動はたしかに、あなたを傷つけるものでした。でも、嫌いというわけではなくて、その、怖かったから」
私がしどろもどろに聞き取りづらい声で答える。
すると、やっぱりハルさんはうれしそうに笑った。
「ごめんなさい。でも、すごくうれしいんです」
笑っていることに対して謝っているのだろうか。
だとしたら謝る必要なんかない。
笑顔は、嫌いではないのだ。
他人の笑った顔は、悪くないと、そう思う。
「淳さんも視えるんでしょう、これが」
私は、公園に重なる景色に目を向けた。
魚は私の苦悩などかけらも理解できないように、悠々自適に泳いでいる。
水面に降り注ぐ日の光が、何もないはずの空中を、まるで水中のように映し出している。
「海、でしょう。ここは。きれい」
私は素直に感想を言うと、ハルさんはうれしそうに笑った。
無邪気すぎて、見るのがいやになる。
「ぼくもね、これがなにかなんて分からないんです。ただ、ぼくは気がついたときにはこの景色が視えていて」
「重なって見えてるんですか」
「うん。重なってるんです。他の人には視えないんだってね、ぼくの家族も、友達も、誰も視ることが出来ないんです」
それは、なんて孤独なのだろう。
自分に見えていることが、他人には見えないなんて。
それじゃあ、同じ人間なのに、まるで違う人種のようだ。
外人同士が話をするように、お互いの話が通じない。
理解など範疇外で、するつもりも、した気にもなれない。
それは。
そんなのはただの、狂人だ。
生きにくい、どころではない。
迫害と脅迫に混乱して、錯乱したくなるだろう。
そして、自分の世界の中で生きるしかなくなる。
小さくて矮小な、干渉されない世界。
大海原に一人で浮かんでいるような、孤独だろう。
悲しい。淋しい。
そんな感情すら、共有した気にすらなれずに。
ひたすら一人で、一人で。
生きていくしかないのだ。
「・・・」
私はそう思って、けれど言葉にならなかった。
黙りこくってうつむいた。
私の口からは毒ばっかりすらすらと出るのに、こんなときに言う言葉一つ出てこない。
分かったような口をきいて、適当に受け流せばいいのに。
私は、何もいえなかった。
ハルさんは私の横で立ち上がった。
「気がね、狂いそうでした。でも、何よりも不幸だったのは、ぼくに植えつかれた常識と良識です」
そうやって社会と自分の世界とぶつかり合って擦り切れながら、必死で生きている。
私はハルさんを見上げた。
彼は私よりも背が高い。
しゃんと伸ばした姿は、見あげなければならなくて。
自分が、どこまでも沈んで行ってしまったようだった。
こうして話しているのが、不思議なくらいの生き方だと、苦さを飲み込む。
「ぼくの精神がつよかったのも、あるかもしれませんね。だって世界は、こんなにもきれいなんですよ」
どっちつかずでしか、生きることが出来なかったのだろう。
ハルさんは、とっても強い人だ。
私は改めて、この人を傷つけたことを悔いた。
けれど。
私の口から謝罪が出てこない。
なんと謝ればいいのだろう。
それが、分からなかった。
「・・・なんで泣いてくれるんですか」
ハルさんは振り返って、困ったように眉を下げるので。
私はゆっくりと頬に触れた。
生暖かい液体が、頬を伝っている。
あれ、私。
泣いているんだ。
「知らない」
だって涙が止まらないのだ。
泣いていたことさえ気付かなかった私は。
零れ落ちた涙の意味さえ分からないのに。
私の中でめまぐるしく変わる、この感情の意味を知るはずがない。
言葉にしきれない感情が存在するなど。
私はハルさんに会うまで知らなかったのだ。
「同情してくれるんですか」
やさしく問いかけるハルさんに私は首を振った。
同情は、自分が上の立場でないと出来ない。
私がこんな強い人より、立場が上なわけがないではないか。
「ふざけんな・・・しらねぇし」
抗議した声は弱々しく、力などなかった。
ハルさんはどこまでも優しく笑いかけて、ハンカチを差し出した。
「触ったら、また嫌われそうですから」
嫌ってなんかいないと言ったのに。
私は仕方なく受け取る。
このほうが、嫌っていないと伝わる気がした。
まぁ、どんなふうに言い訳をしたところで、こんなふうに泣き腫らして家に帰ったら母に怒られてしまう。
「だから、うれしかったんです。ぼくと同じものを視れる人がいて」
この人にとってはじめての世界の共有者が、私なのだ。
だからハルさんはこんなにも。
私に嫌われたくはないのだ。
私が世界を共有したいがために、誰かに嫌われるのを恐れるように。
「お願いします」
彼は私に真摯に頭を下げた。

「ぼくと、」

「いいですよ」
私は始めて柔らかに伝えた。
へ、と彼が意外そうに顔を上げる。
どこまでも年上のような仕草であったけれど、そうして間の抜けた表情は分相応の青年に見えた。
私はそのことがおかしくて、苦笑した。
「あなたと、世界を共有しましょう」
私は立ち上がった。
ハルさんと向かい合う。
そして、右手を差し出した。
「左手は、敵に差し出すものなんだよ」
知ってた?とわざとらしく精一杯格好つけて、私は言う。
私は目を細めて、出方を伺った。
「右手は、友好の証に」
ハルさんはそういって、うれしそうに笑った。
笑った顔は、なかなかに悪くないと、そう思う。

『よろしく』

こうして私は、彼と世界を共有することになった。
だって私たちの見る世界は、幻想的で美しい。
あんまりにも非現実的すぎて。
私たちは、現実に生きたくて。
この世界から目をそらさずにいられない。

目をそらさずにはいられない

自分が目に移す景色と、他人が目に移す景色は、ほんとうに同じなのでしょうか。

目をそらさずにはいられない

苦しむ少女と、おかしなものが見える青年が出会ってしまうお話。 少女さえもおなじ世界を持ってしまったら、果たして彼女はどうするのか。 まったり続きそうです。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-16

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