夜と春

夜と春

 まあるい月が見える。
 黄色くて鮮やかな、小さな月だ。紺青色の夜空にぽつりと浮かんでいる。時折、細くたなびいた薄雲がその月影を曇らせては、音も立てずに去って行く。
 街はしっとりと濃い静寂に満ちていた。まるで深く澄んだ湖の水底にすべてが沈んでしまったかのような、肌寒い心持ちがする。
 私は仕事を終えて寮へ帰る途中、冷たいアスファルトの上で、そっとつま先を埋めるハイヒールを脱いだ。
 つぶらな満月が見下ろす道を、そうして、ひそひそと歩き出す。
 私はこの靴が心底苦手だった。この靴は履く人間に、必ず背伸びを強いてくる。私は背伸びなんかちっともしたくなかった。
 届かないものがあるわけじゃないし、欲しいものがあるわけでもない。私にはそういう理由がどこにも見つけられない。私はただみんなを真似ているだけだった。
 私は根っからの子供で、それ以外にできることが何もない。しかも愚かだから、それすら実は満足に出来ていないのだけれど。
 私は十一の頃に独りになって以来、ずっとこんな危うい、つま先立ちのバランスを維持してきた。
 誰にも頼らなかった。怖がりで、ちょっと拒絶されたらもうお終いのような気がして、相談すら出来なかった。そのうち意地になって、まるで辻褄の合わない、ぐちゃぐちゃの頭になっていった。
 情けない、なんて弱いことだと思う。
 私はよく黒いものを吐いた。それを目の当たりにすると、さらに何も考えられなくなった。被害者ぶっている自分の身体が憎らしくて堪らなかった。誰かに訴えて心配されるなんてことは、何としてでも避けなければならないと感じた。これ以上惨めになれば、私はもう生きていけないと思った。
 つま先がまだ、いじいじと痛みを訴えている。大丈夫。叱りつける代わりに、私は励ましてやった。だって帰るためには、動いてもらわなくちゃいけない。なんて馬鹿馬鹿しい欺瞞だろう。
 背伸びをする人は大抵、手を伸ばす。月が欲しかったり、星が欲しかったりする人は、背伸びだけではとても足りない。だから手を伸ばす。
 私は、でも、さすがにそんな真似は出来なかった。
 欲しいものは、むしろ、距離だったから。
 私は今の私と夜空の間にあるような、圧倒的な距離が好き。
 物事を落ち着いて見つめるための距離。何も望まれないことと、何も望まないことを私はいつだって祈っている。
 一歩踏み出す度に、疲れた足に敷石の欠片が食い込んだ。少し痛くて、それがかえって心地良かった。
 帰ったらまたすぐに明日がやって来る。
 そしたら私は、私たちは、また、背くらべを始める。背伸びはやめられない。みんながするから。
 昼でも、夜でも。
 子供でも、大人でも。
 いっそ崩れて、何より下に堕ちたらどうなるのだろうと考えなかった日はない。蜘蛛の糸だって垂れてこない薄暗い日々に身を埋めて、いつか、あの黒いものをうっと喉の奥に詰めて、生温かい部屋の中、泥みたいに、静かに横になることを考えた。
 乾いた風が隣をすり抜けて行く。私のいじけた身体は縮こまり、甘ったるい自虐はきゅうと戒められた。
 仰ぎ見た月は、おぼろに滲んでいる。淡く、頼りない。
 こんな時耳を澄ませば、音楽が聞こえてくる人もあるだろう。静かで、無音の、私には聞こえないメロディ。
微睡みを誘ってくれる安らかな子守歌。

 ちぐはぐな違和感はもちろん、女の靴のせいだろう。
 女は中性的な顔で、落ち着きのあるよく通る声とすらりと長い手足を持っていた。小さな顔と、滑らかに反った背筋が美しい。姿勢が良く、店に似つかわしくない独特の上品さを漂わせていた。
 いつも、ヒールの高い靴を履いている。
 似合わないわけではない。しかし、整った身体にそれは何とも言えず奇妙で、幾何学的な、どこか落ち着かない不釣り合いを俺に感じさせた。
 歩くと特にそれが目立つ。調和された筋肉の弾みが、世界とのアンバランスをより強調するからだった。
 狭い廊下は鈍い橙色のランプに照らされて、室内には材木の香りと外からの夜気がうっすらと立ち込めている。
 俺は決して目を合わせないように、こちらへ歩いてくる女の姿から顔を背けた。かわりに椅子に深く腰を沈めて、煙草に火を付けた。
 大きく煙を飲むと薬が効いてきて、感覚が無防備なほど冴えてクリアになった。俺はその感覚を楽しみながら、努めて煙草の赤い灯だけを見つめた。
 やがてテーブルの傍らに女がやってきて、直線的な脚が隣できれいにそろった。
 俺はこの時、相手の存在を最も強く感じる。
 それは距離の問題ではなかった。ある意味では、同じベッドの中に誰かがいるよりも、もっと強く、近しく感じられた。
 神経に染み入ってくる息づかい、それから、静謐な視線。女は口をきいた。俺はその声の透き通った響きを頭の中で転がしながら、いつものように短く返した。
 女は透明なグラスをコースターの上に置く。水滴がフェルトのコースターにぽつりと滴り、小さな染みを作った。白く滑らかな手が添えられて、冷えたソーダ水の瓶がゆっくりと傾いていく。細かな水泡が白く瞬き、触れるよりも速く、聞こえるよりも鋭く、満ちていく。
 …………俺はこの瞬間が好きだった。
 この女が好きなのか、それともこいつにまつわるあらゆる透明が好きなのか。それはどちらでも構わなかった。
 ふいに女の細い髪が揺れ、小さな頭がわずかに下がる。
 俺との間にわずかな距離がうまれて、女はそのまま、するりと離れていった。
 ソーダ水の泡が浮かんではじけ、仄暗い天井だけが後に残される。その頃、俺はもうその女にあっけないほど興味を失っていた。
 歪な木目を辿っているうち、ふとグラスに映った幽鬼の顔を見てしまう。
 そいつはひどくやつれて、病人のように青かった。異様にギラつく瞳は人らしく思えず、額の傷にかかる前髪はやけに黒かった。
 乾いたそいつの唇の隙間から、擦り切れた吐息が漏れている。
 そんなに憎いのか、と俺は鬼に問うた。
 そうだ、と直ぐに低い声が返ってきたのは、意外なことではない。
 ややしけった煙草をくゆらせながら、俺は幽鬼から目を逸らして向かいの絵画を見つめた。
 それは大きくも小さくもない、妙なサイズの絵だった。
 色は美しい。淡い緑や橙の曲線が幾重にも折り重なり、一筋、青い風が拙く吹いている。風景を粉にして、そのままキャンバスに溶かしたようだった。画面を埋める物狂おしいうねりを眺めているうちに、何かが澱のように心に降り積もっていった。
 しばらく見つめていると、先の給仕がふと足を止めるのが目についた。彼女は横を向き、しばらくその額縁の前で立ち止まっていた。
 綺麗でしょう、とカウンターの女主人が静かに話しかけている。
 振り向いた女の顔は、肯定とも否定ともつかない、風のように空虚な、柔らかな笑みを浮かべていた。
 つと、口元で透明な牙が光る。
 ……………きっと、誰も気付いていないことだろうが。
 やがて女は淡々と仕事に戻っていった。深い森の中のように、その所作は粛々として厳かだった。
 それは、獣が見せる、これ以上もなく自然な所作である。
 ヒールは一歩歩くごとに、紅い絨毯に少しだけ沈んだ。

 黒い瞳は、それでも深く透き通った気高さを宿していた。
 あの人の噂は絶えることがない。あの店で、彼について何も尋ねない子は今まで一人もいなかった。時にはいい相談であり、多くは悪い相談だった。
 あの瞳が「恐い」という。
 雰囲気が「やばい」という。
 しかし、その近寄り難さはいつしか彼女たちの中で一種のブランドと化し、より感覚的な部分で、あの人はあの子たちにもてはやされるようになっていった。
 やがて自然な着地点として、彼への接近がタブーとなるのに時間はかからなかった。
 烏の羽みたいに黒い髪。あの人はなぜかそれだけでも人目を引いた。長身で、どこか佇まいが都会じみている。あるいは峠を越えた先の、私たちの知らない港からやってきたのかもしれない。
 ひどいヘビースモーカーでもあった。この界隈では珍しいことではないけれど、あの甘ったるい香りが気を引くのだろう。ああいう禁止に対する憧れが強い少女ほどあの人に憧れ、寮を抜けだしてまで、この店で働きたがった。
 男はいつも、二十五時を少し過ぎた真夜中にやってきた。
 今夜も侘しいドアベルが響いて、ひび割れた風と共に薄手のコートに身を包んだ彼が現れた。
 男は淀みのない歩調で通路を抜けると、壁沿いの、いつもの隅の席に腰を下ろした。動作のすべては雪に似て、見るものを自然と沈黙させた。そうして霜のように尖った静寂だけが、彼の周囲に降りていくのだ。
 彼はいつも一人だった。
 そして、静かである。
 ほどなくして、私はいつもの品を彼に届けるよう主人に言いつかった。私はカウンターの裏の冷蔵庫を開け、奥からよく冷えたソーダ水と、その隣の棚から栓抜きを取り出した。
 霜を崩さないよう、そっと席へと向かっていく。
 彼の声を聞くのは一度だけだ。
 本当に、短い返事だけ。
 低く、落ち着いた、少しハスキィな声。
 私はそれを耳にすると、いつも少しだけ胸の鼓動が高鳴るのを感じた。
 テーブルの傍らで、私は瓶のまわりの水滴を丁寧に拭き取った。視界の傍ら、煙草の揺れる火がソーダ水の深緑色の瓶に小さく灯っている。
 影はあるけど、綺麗な横顔。仮面よりも凍てついた無表情。私は沈黙の帳の中にそっと息をひそめて入っていった。
 私はとても緊張していた。
 胸がぎゅうと締め付けられて、倒れそうなほど苦しくなる。そこにはいつも、裸足で歩く獣のような自分がいるからだ。
 あいつはいつも黙っているから、誰にも見えないし、聞こえない。あれと見つめ合う瞬間に走るのは、素足のままの、生の刃だけが漂わす緊張感だ。
 自分自身と向き合うのは、いつだって殺し合いという感覚を私に思い起こさせる。そこには向かい合う衝動があって、必ず、どちらかが死ぬ。
 囁くような己の息遣い。
 ソーダ水の泡とか。
 光る滴とか。
 断片的に覚えているものはたくさんある。
 しかし、そんなものは結局、最後に出会う彼の存在に掻き消されてしまうのだった。
 そう…………。
 ほんの一瞬だけ、彼は私を見る。
 私は見逃さない。気を抜けばすくむほどに鋭い視線を、私は、ほんの一瞬、針の穴ばかりの隙間を通して、感じることができる。
 深い、水底から見つめてくるような暗い瞳。
 ほんの一滴、苦い蜜の味がする。
 私はともすると乱れそうな呼吸を押し殺しつつ、すぐに身を引いて彼の前から立ち去った。夜の猫のように、滑らかでしなやかな動きを意識した。
 後ろを向いたら、絶対に振り返ってはいけないと決めている。今一度射抜かれたなら、きっと瞬きもできずに私が死んでしまうとわかっていたから。
 そして何より、心のどこかでそれを望んでいたから。
 この瞬間、私と男の距離は限りなくゼロに近く、同時に果てしなく遠い距離の彼方にあった。例えるなら、湖面に映る月のようなものかもしれない。ひとつの次元で月と湖は同じものであり、ひとつの次元では全く異なる場所に存在している。
 それは完成した平衡。
 私は他の仕事に戻るため、沈むカーペットの上を慣れないヒールを踏みしめて歩いた。
 カウンターの奥で同僚のあの子が見つめていた。水飴のようにねっとりと感情の絡んだ瞳で、私を睨みつけている。
 私は視線を真っ直ぐにして、無意識に背筋を伸ばしていた。こんな時、私にできることはいつもそれしかなかった。
 彼女が見ているのは、湖面の月。
 虚構に過ぎない。
 今日も夜が更けて、月はどこかへ消える。
 幻の湖のありかなど、知るべきではないのだ。 

 ずいぶん昔の話だ。
 あなたには人の心が分からない、と言ったのは、誰よりも人の心がわからない女だった。
 俺は女の話が続く間中いっさい口を利かず、ただその首筋に刻まれた、微かな皺だけを眺めていた。
 同じ話を繰り返す度に、身体の方がきちんと記録しておくのだろう。一筋々々の皺はまだ微かなものであったが、これから時を経るにつれて徐々に深くなることは想像に難くなかった。
 あなたはもう子供じゃない、と女は何度も言った。
 その頃の彼女はもうすっかり大人だった。昔のようには泣かなくなっていたし、笑わなくもなっていた。植物に似てきていた。植えられて真っ直ぐに生き延びる術を、俺などには遥かに及ばないほど上手く、美しく身に付けていた。
 彼女の成熟につれて、俺は彼女から遠ざかっていった。
 離れれば離れるほどに、俺には女の言うことがわからなくなっていった。理解できないと言うより、在り方自体がもう異なってしまったと感じた。
 俺は話の最中に、女の後ろにぽかりと開いた窓を見た。
 空は高く澄み渡り、晩秋の晴天はどこまでも青かった。
 透明だ、と感じた。
 理解しえないものは、あそこにはない。
 女はなおも怒り続けていた。
 どす黒い、段々と悪意に染まっていく言葉を聞き流しながら、俺は静かに、入口も出口も見つからないひどく陰惨な気分に陥っていた。
 酒も、煙草も、喧嘩も、セックスも、この混沌を掻き消しはしなかった。
 目の前の女が時々はっと怯えたような目をするのも、純粋にそれらの行為のためではないとわかっていた。さらに言えば、俺への憐憫の情ゆえでもない。彼女は、己の「外側」そのものを怖がるようになっていた。
 聞いているの、と、そんな時、決まって女は問うた。自分でも本当は俺に向かって話しているわけでないと、知っていたろうに。
 俺たちはなぜ「外側」を恐がるのだろう。
 そもそも何から、逸脱するというのだろう。
 彼女もきっと俺と同じように考えて、傷ついているに違いなかった。すまない。
 俺はまた外を眺めた。ソファの端に頬杖をつくと、まだ火照ったままの傷が少しだけ痛んだ。
 死に損なった後の喪失感は、それからいつまでも俺に纏わりついて、やがて鬼の形になった。
 彼女の背後では深緑色の木々がざわめいていた。
 青の中にひそむ夕暮れの気配が、校舎をひっそりと浸していく。
 女は唐突に泣き崩れた。
 どうして…………、と掠れた声で言ったきり、続く言葉はなかった。
 俺には未だに、何と答えるべきだったのか分からない。

 チリン、チリンと安っぽいベルが響く。
 やたらと雑多なものばかり並んでいる商店街で、私はなぜかあの自転車の音ばかりを、やけにはっきりと覚えていた。
 聞こえたらいいな、って、ずっと待ち望んでいたからだろう。
 音が聞こえるなり私はすぐに振り返って、母の押して来る自転車に駆け寄ったものだった。思い出すといつも、母の懐かしい笑顔が春霞のように記憶の中へと広がっていく。
 買い物袋の詰まった前かごと、私を乗っけるための後ろかご。前かごの袋からはよく野菜がはみ出していたので、私は何気なくそれらの名前を呼んだ。母は笑って、呆れることなく、いちいち頷いてくれた。あの人はそんな優しい人だった。
 いまいち立てつけの悪い、後ろかごから見る景色は淡い色に包まれていた。
 正面には丸い、小さな母の背中があった。どんな色のセーターを彼女が気に入って着ていたか、もう覚えていない。
 脇を流れる川沿いの堤防はゆるいカーブを描いて、私達の走っている土手の上の道は、遠くまで続いていった。対岸の西向きの傾斜は茜色の陽を一杯に受けて、風が流れされた芝生が柔くおおらかに、ひとつ滑らかな波になって揺らいでいた。
 川面はひっそりと夕空を映して、時々波立つ部分が冷たそうに白く瞬いた。山際は夕焼けに滲んで、赤く影を染めた浮雲が遠く、高く、空の向こうまでずっと細くなびいていく。
 空の果ては薄紫色だった。大きな翼を広げた鳶がそちらへ向かって音もなく滑って行く。
 私はその時ふと、足元に目を落とした。
 草むらに真っ黒い影がひとつ、必死に何かをついばんでいるのが見えた。動くたび、小さな肩が小刻みに揺れている。
 それは鴉だった。
 小さな頭がふいにこちらに向けられる。
 その嘴には、赤い、濡れた屍肉が垂れていた。
 自転車が通り過ぎる刹那のことだったので、私はその屍の正体を知ることができなかった。あの烏はその後すぐに飛び去ってしまった。
 燃え滾る夕陽を背負う小さな黒い影は、しかし、火傷となって、幼い私の目に焼きついた。
 西日が強く差し込む寮の自室で、私はそんな光景を脳裏に浮かべていた。
 それは昨日の残したスープに母の好きなトマトが入っていたせいかもしれないし、目の前の夕陽があんまりにも美しく、哀しげなせいかもしれない。
 静けさが耳の奥で、ずっと音を立てて震えていた。
 私は橙色に染まる窓辺に腰を下ろして、土埃で汚れたベランダに足を延ばした。窓のアルミサッシは冷たくて気持ち良く、見下ろす中庭に落ちる女子寮の影は、さながら灰色の海のようだった。
 投げ出したつま先にあたる、自然な陽の暖かさにそっと目を瞑る。こうしていると、安らぎに似たものが心に染みて、少しだけ気持ちが楽になった。
 …………じっとしていよう。
 心地良いのは、きっと、やがて陽が沈むからだろう。そして、似ているというだけで、これが本物の安らぎではないからだろう。
 静寂だけが身も心も満たしている。
 少し、店のことを思った。
 ヒールのことを言われた。歩きにくいから思い切って脱いでしまったところを、細かいところまで見ていたあの子が「似合うのだから履けばいいのに」と。
 私は困ってしまって、またどうしようもなく笑ってみせた。いつだって見せてきた、あの曖昧な、我ながら気味の悪い笑顔で。
 あの子はせっかくの親切をはぐらかされて、ひどく不快に思ったことだろう。触れないでください、と表情で伝えたつもりだが、陰湿過ぎただろうか。
 本当は、私だって、笑いたくない。でも考えるより先に、感じるより先に、勝手に作られてしまう。
 生きている、ただそれだけのことがつらかった。変に馴らされた、いや、自分で馴らした習性が、身体中の血を絞りながら、締め付けてくるのだ。
 環境のせいにするのはたやすく、しかし、何の慰めにもならない。それは自分で痛いほどにわかっていた。
 こんな痛みを感じているのは、きっとあの子だって同じだ。生きている人はみんな、同じように血まみれなのだ。
 みんなそれぞれに抱えて、それでも黙って暮らしている。だからこそ時々、どうしても避けられない摩擦が起きるのだけど。
 あの子はいつも、私と背比べをしたがったから。
 放っておけばいいと思っていた。でも最近は、すんなり行動できないことが多くなってきていた。
 理由はわかっている。私たちはどちらもよく自覚している。
 …………そうしてまた、私たちはヒールを履いて背伸びを始める。
 たとえ欲しいものが無かったとしても、欲しいものが手に入るべくもないものだったとしても、生きていくってことは、それしか道がないのかもしれない。踵を高くして、暖かなつま先をいじめて、逃げ続けるしかないのかもしれない。
 …………ああ。
 夕陽が、沈んでいく。
 私は空を行く黒い点が陽の中に消えるのを眺めて、ささやかな思いを馳せた。
 こんなに昔が恋しいのは、あの人が…………、あの人の真っ黒な瞳が、あの烏に似ているからだ、と。
 窓際に掛けられた制服のシャツが風ではためいて、バタバタと音を立てていた。
 私は、他人だけでなく、自分をも騙そうとして生きている。嘘のつき過ぎで、日々はもう血反吐で真っ黒になってしまった。母の代わりにあの店で働き始めた時から、もうすっかり全部を濁してしまった。
「今日は店に来るかな」
 誰にともなく、私はこぼした。
 時には正直になって、それで何か救われるような錯覚がしたのだろうか。
 それは苦くて甘い、どうしようもない妄想だった。

 夢がとろける。
 女が駆けていく。
 俺は手を伸ばそうとして、そこには何もないことに気が付いた。
 消えたのではない。最初から何もなかったのだ。
 俺は叫んだかもしれない。
 だが、そもそも、言葉なんてものはここになかったかもしれない。
 上を見上げると、差し込む月明かりが水面のさざ波に青白く揺れていた。
 身体を包む冷温。
 細かな泡がいくつか、音もなく昇っていく。
 静謐に降り注ぐ、一筋の光。
 ここには何もない。
 ただ透明だけが、広がっている。
 どうしようもない喪失感だけが、水底の砂に朽ちていく…………。

 俺は夜明け前の暗い自室の中で、泥のように重たい瞼を持ち上げた。
 風がせわしく窓を叩いている。俺は固いベッドに横たわったまま、枕元の煙草を引き寄せた。
 気だるい半身を起して、しばらくブラインドから差し込む月明りを眺めた。宿舎の外には古い桜の木があり、空っぽの枝が寒々しく夜風にさらされていた。
 なぜか底知れない孤独が心の内に残っている。
 煙草に火を点けながら、夢を見たのだ、と思い返した。
 女の白い指先がつたう、身体の存在。それが俺自身の身体なのかどうか、深い水底を漂う意識の中では定かでなかった。
 やがて女はつと離れると、口元を三日月型に歪ませてくらりとよろけた。
 俺は慌てて手を伸ばした。だがその甲斐もなく、細い指先は離れていく。
 それは、あいつのハイヒールのせいだった。
 女は倒れなかった。折れそうなその靴はそのまま、崩れるような歩みで駆けだした。
 …………気付く頃には、いない。
 広がる意識の波に掻き消されて、夢の追憶は途切れた。後には白く濁った、煙草の甘い香ばかりが残されていた。
 俺はもう寝つける気がしなかったので、台所まで歩いて湯を沸かした。煙のせいで喉が渇いたし、夢の冷えた感触のせいか、とにかく熱いものが飲みたかった。
 暗い部屋の隅には、物言わぬ家具が佇んでいる。
 俺は湯が沸くまでの間それらを見渡して、最後に、壁にかかった時計に目をやった。傾いた針は割れたガラスの向こうで四時を指していた。
 わざとらしい苦みの溶けたコーヒーは味がせず、それでも、飲むといくらか気分が落ち着いた。
 黒い液体は何も映さずにただ黙ってカップの中でたゆたっている。俺はもう少しだけ口を付けた後、窓のブラインドを持ち上げた。
 広がっていたのは一面、重い藍色の空だった。
 茶色い烏が二羽ばかり飛び去るその下、遠くの国道を一台の軽トラックが走り去っていく。
 山裾に広がる道路沿いに、街が見えた。
 街では何もかもが谷間に沈み、しんみりと息づいていた。生活の貧しさがどの建物にも滲み込んで、陰気としか言いようがない。
 湿った低地を埋めつくしている住宅は密集して、もはや巨大な小屋とも、虫塚ともつかなかった。女学校も近くにあるが、それすらもどこか物悲しい影を背負って墓標のごとく立ち尽くしている。
 冷たい窓に触れて、俺はもうすぐこの土地に雪が降ることを思った。耳鳴りがするほど静まり返った外気が連想させる銀世界は、楽園とは程遠い。
 大地から巻き上がる粉雪と、凍る土。芽。
 …………ふいに、俺はあの給仕の女に会いたくなった。
 それも眺めるだけではなく、あの肌に、髪に、この手で触れたいと思った。
 それは良くない徴候に思えたが、厄介なことに、しばらくしてもその思いは離れることがなかった。
 俺はまだ残り多い煙草を灰皿に押しつけ、ブラインドを下ろした。なぜか無性に気分が悪くて、吐き出しようのない悪寒が胸に淀んでいる。
 薬の作用かもしれない。
 沈む気分は、不味いコーヒーに溶かして飲みほした。

 靴ずれのするローファーのせいだろう。ストッキングに血が滲んでいる。見ながら私は金属の味を思った。
 ふくらはぎの青い血管と踵に掠れた血の跡は、凍えて、うち捨てられた死体とそっくりだ。違いと言えば、私の足が温かいことだけだった。
 路傍に転がるネズミの轢死体を眺めて、つくづくそう思った。いつか私もああなる瞬間、遠のく加速度に身をゆだねて目を閉じたい、とも。
 あの男が現れたのは、そんな私の悪趣味がグラスの淵からぷつりと溢れだす、その寸前のことだった。
 私は思わず目を疑った。考えてみれば当然なことではあるのだが、彼もまた、私と同じように、この街で生きているということが信じられなかったのだ。
 男は着古されたシャツを着て、こちらを見下ろしていた。少し崩れた襟元から漂う生活感がなぜかやけに目に付いた。
 見上げる私は公園のベンチで、制服のままだった。
 店とは違う、あの子と同じ、もうひとつの制服。
 秋の風が吹いていた。カサカサと足元の枯れた葉を散らして、私と彼の間を上手にすり抜けていく。上空には途方もない青空がぶちまけられていた。
 鼓動が速い。
 私は食べたくもないランチをいじる手を止めて、彼を見つめた。油まみれで死に絶えたチキンが行き場を失い、無造作に転がった。
 くしゃり、と音を立てて、男の足が落ち葉を踏んだ。
 会いたかった、という内容の言葉を、彼は伝えてくれた。
 もっと当たり障りのない挨拶があるはずなのに。男の雰囲気に飲まれてか、どういうわけか私にはそれができなかった。心も身体も、何もかもがぎこちなかった。
 私はこの姿を誰にも話さないで欲しいと思ったので、そう告げた。
 男は少し眉間に皺を寄せ、口元を奇妙な形で釣り上げた。やがて小声で気にするなと言い、珍しいことではないと言った。
 冷たく貧しい風が、山から吹き下ろす。
 私は自分の似合わない制服に、ふと吐き気を催した。いつもの黒いモノがお腹の中で蠢いて、何だかとてもいたたまれなくなったのだ。
 子供ぶっていることがひどく不自然だった。母の屍を食べて立つ、制服の私が嫌いだった。私にとって、この服は矛盾と理不尽の、薄っぺらな象徴だった。こんなくだらない自分は、誰にも、特に彼には、絶対に見られたくなかった。
 低い声がかかる。
 それは、私を気遣う言葉だった。その言葉が実際に意味するところを察して、私の中にやるせない寂しさが広がっていく。
 それはとても悲しいことで、身体が一気に重たくなって、濁った世界の内にかき消されてしまいそうになった。
 だが彼の目を見て、私は直ぐに気が付いた。
 湖の上には波があった。
 深い静寂を一点にたたえた彼の瞳を見て、彼はきっと、見えない私を知っているのだと理解した。
 男は吸っていた煙草を放り投げると、何も言わずに背を向けた。
 私は浮かれていたのかもしれない。だが一方で、不思議なほど落ち着いてもいた。今言わなければ、永遠に離れていってしまうと感じた。
 やっと振り絞って出した声は、自分でも驚くほど微かなものだった。
 振り向いた男はわずかに目を見開き、しばらく私を見つめていた。そして、やがて恐ろしく沈んだ声で囁いた。
 私は思わず言葉を詰まらせ、その場で俯いた。
 男の気配が、離れていく。
 風が、秋を連れて去っていく。
 私は食べかけの弁当を急いで鞄の中に押し込んだ。立ちあがって、スカートの裾に埃がついているのも構わない。気がついた時には、息を弾ませて、男の腕を掴んでいた。
 彼がゆっくりと振り向く。
 大きな手だった。
 私は男の顔を覗き見た。
 声は出ない。こうしているうちに、震えているのが伝わってしまうのが恥ずかしかった。
 男は一瞬だけためらいの色を見せたが、ややあって、少しだけ微笑んだ。
 
 …………風が流れる。
 冷たくて、青い色をしていた。
 遅咲きのコスモスが足元の花壇に咲いている。
 ひっそりとして、大人しい色に染まっている。
 宿るのはきっと、ほんのわずかな甘い蜜。
 廃墟みたいな学校の寮を、私は幽かに思い出していた。
 あの子が見ている。睨んでいる。
 見ているのは湖面の月?
 違う、水底の月。

 空では無秩序に散らばった星だけが、嘲笑うでもなく、ひっそりと慎ましやかに瞬いていた。
 煙草の火が揺れている。吐き出すと、白い煙がふわりと部屋の中に広がった。
 静かな夜だった。いつものように粗末な夕食を食べて過ごした。部屋は変わらず古かったし、重たい家具たちも、沈んだ流木のように動かなかった。変わっていることと言えば、女がいることだけだった。
 透明でも何でもなく、ただ現実だけがここにある。
 自分の中に存在している女の姿は、ひどく生々しいものへと変化していった。
 透き通るような指先は、温もりを宿した人の肌に。
 幾何学的なほどに整った容姿は、血の通った生ある物の四肢に。
 透明な視線は、そのまま、不思議と質量を持った、孤独な柔らかさを宿していた。
 よくいる奴に過ぎなかったとは思わない。話す言葉は抽象的かつ自分勝手で、心の冷たさが透けて見えた。ただそれは利己的や独善的といった類のものではなく、どちらかと言えば、どうしても自分の中に他人が住めない、そういう生まれ持っての性であるかのように思われた。
 正直な奴だった。透明な嘘ばかりついているのだと、俺には思えた。
 似ているな、と思う。
 きっと、俺たちはお互いの中に自分の姿を見ていたのだろう。人が鏡をのぞくように、歪な、こうありたいという願いを込めて。
 俺はこいつに何を求めていたのだろう。
 辿り着く結論は、結局は、単純な憧れだと感じる。
 煙草の先の、赤い灯。
 水底に届く、一筋の光。
 冷たい、グラスの透明。
 ささやかで、しかし触れ得ないもの。
 俺はそういうものに魅かれていて、だから、こういう形で女と重なり、それに触れようとしたのだ。
 …………なぜ魅かれていたのか? それは、暗い窓ガラスに映った己の姿が教えてくれた。
 満足したか、と俺は幽鬼に尋ねる。
 幽鬼の瞳は未だ耽々として、やがてゆっくりと首を振った。
 しんと夜が響く中、微かな寝息が俺の耳をくすぐる。
 触れることで壊れるのではないかという心配は、今から思えば見当はずれなものだった。
 元から存在しないモノに、壊れるも何もない。それは水面に映った月を掬うようなもので、所詮何も変わりはしなかった。
 手に残る冷たさも、薄く伝わる波紋も、やがて虚ろに消えいくことだろう。あたかもそこには初めから何もなかったかのように。
 俺はゆっくりと煙草を吸ってから、そっと傍らの女に呼びかけた。
 華奢な肩が動いて、少し濡れた瞳がこちらを見つめてくる。
 帰ろう、と俺は告げた。
 女は毛布ごと身体を起こして、少し唇を噛んで頷いた。細い髪は肩のあたりで揺れて、ふと見た時、その顔には澄んだ微笑みが浮かんでいた。
 三日月の形の唇が緩んで、溜息のような声で俺の名を呼ぶ。
 俺は答えず、代わりに笑って見せた。
 夜の深い頃、荒れた桜並木の下を俺たちは歩いて行き過ぎた。
 朔の夜空に無数の星が瞬いている。見下ろす暗い谷間には、頼りない街の明かりがぽつぽつと灯っていた。
 暗い坂道を下って行く。
「また会えるかな」と女は呟いた。
 俺はまた、何も口にすることができなかった。

 よせばいいのに、私は空を仰いだ。
 明かり取り用の小さな窓に切り取られたわずかな空が、そこにはある。青がどこまでも高く、鳥が一羽、大きく滑らかなラインを引いていた。
 寮の片隅にあるこの倉庫では、それはありふれた日常の風景だった。
 黒い翼を眺めていると幼い日の記憶がよみがえってくる。火傷は今もじっくりと熱く刻まれていたけれど、なぜか自転車のベルはもう遠く聞こえた。
 少しずつ、こうやって記憶が薄らいでいく。久しぶりの感覚だった。代わりに今は、あのついばまれた屍がとても近しく感じられた。
 やがて記憶は、夜空の下の黒い瞳へと重なった。夜の透き通った気配は私を包みこんで、徐々に緩やかに溶けていく。
 心臓の音が心持ち緩やかになった。
「母さん」と、私はどこかに呼びかけた。
 私には彼女が今空にいるのか、水底にいるのか、見当がつかなかった。もはやどっちにいて欲しいのかもわからなかった。あの人が残したのは私がこの学校にいるための楔だけで、あの笑顔も、夕焼けの自転車も、何もかも遠い昔のことだった。
 そう。私には、わからない。
 母だけじゃない。誰のこともよくわからなかったように思う。
 なぜだろう。いつだって答えは出ない。「何かを大切にする」みんなの真似ばかりしていた。そうやって、だましだまし、自分も何かを大切にしている気になっていた。
 あの夜の後、あの子が私を見据えて言った。
「あんたなんか仲間じゃない」と。
 どこかで噂を聞きつけたのだろう。あの子には大切なものがあって、それがあの人なのか、私たちの間での約束事なのかはわからないけど、それを踏みにじられたから、あんな風に怒っていた。
 そんなに大切ならば、どうしていつもあんなに離れたところにいたのだろう。
 大切にすること。その本質が理解できていないから、私の下手な真似ごとはいつもどこかずれているのだ。私はとても生きにくい。
 大切にすること。それは愛情であり、執着でもあるのだと思う。複雑で、ただ傍にいればいいというものではない。離れてはならないし、かといって、なくしてはいけない。
 …………わからない。
 私は何を捨ててもいいと思っている。
 むしろ、周りのものは全て、何もかも、ない方がいいと思う。常にクリアでいたかったし、それが何にしても、大切にしなければならない理由が見つからなかった。
 どうしてみんなは、無条件に自分が大切だと思うのだろう? このボロ切れみたいに弱い身体の、意味のない、価値など、どこに見出しているというのだろう?
 あの子があんまりうるさいから、私はあの時、私を捨てることにした。
 あの子を捨てるより早いと思ったから。だけどナイフは取り上げられて、そして私はこの部屋に閉じ込められた。
 最後に教師が何か言っていた気もするが、私には聞こえなかった。どうしてわからないのか、とか、そんな拙いことだろう、きっと。
 部屋は木と黴の匂いが入り混じって、隅には薄ぼんやりとした影が静かに溜まっている。
 私はただぼうっと存在していた。呼吸をしている以外は、その辺の箱と変わりがない。生きているのも、そうでないのも、あまり変わらないような気がした。
 空が目に眩しい。
 私は窓を眺めつつ、そっと頭上に掌をかざした。天井の窓には遠く届かなかった。
 だけどもしあの窓に触れられたなら、たぶん、冷たくて気持ちが良いことだろう。
 あの瞳に触れるみたいに。
 私が彼に魅かれたのは、あの瞳のせいだった。今となってはもう、それは疑いようもないことだった。
 あの奥には、何かを終わらせてくれるような、鋭いものが潜んでいたから。どんなに優しい言葉や笑顔で繕っても、隠しきれない狂暴な感情の塊が彼の中には渦巻いている。私はその仄暗い灯に魅かれて、知りつつ、炎に手を伸ばした。
 あの夜以来、彼は店に来ていない。
 それは多分私への優しさなのだろう。そっと遠くでいてくれる、さりげない距離。私はこの距離が、何よりの愛情だと信じている。
 強い風が吹いて、古い窓の木枠が大袈裟な音を立ててガタついた。少し肌寒いと思ったが、身を縮めるより他はなかった。
 この風はきっと遠くまで雲を飛ばして、大気を氷のように研ぎ澄ましていく。そしてまた、街に冬を連れてくるだろう。
 綺麗だな、と私は呟いた。
 弱々しい日差しが冷たい床を照らして、ローファーのつま先を微かに温める。陰った踵には黒く乾いた血糊が今日もこびりついていた。
 夕暮れの予感が空に染みていく。
 私は窓の向こうを仰ぎながら、もう一度だけあの人に会いたいと願った。
 それは愛情でも執着でもなく、自然な青い風の流れだった。

 真っ赤な陽が沈んでいく。
 幽鬼は眉間にしわを寄せ、不満げな視線を俺に投げかけていた。目元を縁取る隈は黒く滲み、歪んだ人相はおよそ正気を保ってはいなかった。
 終わるのか、と問われた。
 吹けば飛ぶような砂が窓の桟に積もっている。俺は少し考えてから、分からない、と正直に答えた。
 鬼が目を伏せる。そして、奴は鈍い手つきで薬を傍に置き据えた。俺は緩慢に立ち上がり、影を引き摺るようにして窓辺によった。
 荒く凍えた桜の枝の中、大きくも痩せた鬼の姿が目の前に立っていた。
 こいつが何のために存在し、どうして生きているのか。
 それはきっと誰にも分からない。知れることは永遠にないだろう。
 すべてはこの桜と何も変わらず、桟の塵とも違わない。人であることも、生きていることも、決して特別なことではない。
 ただ降り積もり、折り重なり、崩れ、また繰り返す。
 その一つ一つは途方もないきめ細かさで描かれ、やがて流砂のように不安なグラデーションをなして色を帯びていく。
 時折、風が一筋の色を付けることもあるだろう。瞬きの次には消えてしまうような、儚い軌跡を。
 救いのない絵なのか。
 終わりもなく、安らぎもないゆえに。
 …………いや、違う。
 春になれば、また柔らかな花びらがこの部屋に舞い込むだろう。その時俺の姿は時間の中にあり、その頃にはあの女も、どこかで濃紺色の夜空に溶けて、白く瞬いていることだろう。
 どんなものでも、流れていくうちにいつかは透明になれる。
 軽く、白く、冷たくなれる。
 それは美しいことだ。
 最期の夕陽を浴びて、茶褐色の瓶が鮮烈に輝いていた。
 幽鬼が手を伸ばす。
 ふとその時、俺は老木の根元に、女が立っていることに気が付いた。
 白い肌がここからでも分かるぐらい透き通っている。瞳は蒼く輝き、雪結晶のように凛としていた。
 今、陽が完全に落ちる。
 女は言った。
「あなたに、会いにきました」

十一

「お前が、もし望むなら」
 掠れた喉を振り絞るようにして、男は言った。
「俺はお前の側にいよう」
 その瞳の奥は、清い何かに満ちていた。誰もが忘れていることだが、この街の冬の夜空は、晴れていればこんな風に輝く。
 沈黙が透き通った部屋の中をゆっくりと流れていった。
「あなたは優しい」
 震える女の声は鈴のようだった。転がすと聞こえる、儚い響きだ。
 彼らは動かないし、滅多に喋らなかった。重くて、もうずっとずっと昔から、すっかり水底に沈んでいたものだとお互いが錯覚していた。
 実は、本当にそうであったのかもしれない。過去などは今から見れば、脆く儚い、一つの幻でしかない。
「私は、憧れたものに触れたいと願う、それだけなの」
 小さな鈴が鳴る。
 女の言葉と見つめ返す幽鬼の瞳は、男に幾度とない自問を強いていた。
 鏡の望むことは、何かと。
 透明を濁すものが、何かと。
 男の懊悩は部屋の深閑とした空気と入り交じり、言葉にもならず溶けていく。
 男の瞳の奥には暗い焔が立っていた。ゆらゆらと揺れて、ひっそりと盛りつつある。
 女はそれをじっと見つめていた。その眼差しは溶けた蝋に見入る子供に似ていた。
「…………大切なもの、って」
 女の口調は、幼く、拙い。彼女は言いながら優しく、男のやつれた頬に手をかざした。
「私、この場所だと思うの。…………あなたと私がいる、今、ここ」
 しん、と夜が鳴っている。
 震えている。
 男が言った。
「…………俺は、お前が大切だ」
 女はそれを聞いて、つと悲しさと愛しさの混じり合ったような感情が自分の内に広がるのを感じた。一瞬、何かが分かりかけたような気がしたが、しかし直ぐに、それはほの白い霞みの向こうへと消えてしまった。
 からまった糸がほどけていく。もう少し引っ張ると、やがてほつれていくのだと二人は悟った。
 ふいに瞳の中の灯がぐらりとよろめく。
 誰が見ていただろう。
 外には、淡い粉雪がひらひらと、ひらひらと、ささやくように舞っていた。

十二

 吹き抜けるような春である。
 新しく引っ越してきたのは若い夫婦で、たくさんの荷物を抱えて来た。たくさんとは言っても、この部屋の従来の住人と比べての話で、家族二人の割には多くもない。
 のどかな風が草花の匂いをやんわりと運んで来て、小さな部屋に、土の香と爽やかな日の温もりが一杯に満たされていく。
 開け放たれた窓からは大きな桜の木が見えた。どの枝にも桃色の花がふわりと開いて、舞い散る花びらは通りをまんべんなく覆っていた。
 淡く澄んだ、優しい青が空を彩っている。
 備え付けの家具は今回、大幅に立ち位置を変えた。
 代々一人暮らしの住人が何年も動かさずにいたものを、二人は手間をかけて移動させ、窓の前に二人分のベッドを置くスペースを作り上げたのだった。
「少し、眩し過ぎやしないか?」
 夫が窓の外に目をやって、妻に尋ねた。
 少し眠たそうな顔をしているが、人相は悪くない男だった。どこか人懐っこい目つきが優しげで、遠くを見つめるような仕草は癖である。真っ黒い髪が印象的だった。
「いいの、いいの。隣街まで出て、いいカーテンを買ってくればいいだけだから。それより、ほら」
 溌剌とした表情の妻はそう言って笑うと、ベッドの上に乗り、そのまま上半身を窓から投げ出すようにして乗り出した。
 上気した頬を風が撫で、花びらの霞みが彼女を穏やかに包みこんだ。
「綺麗!」
「そうだが、落ちるなよ」
 呆れ気味の男の声は、だが、少し嬉しそうでもあった。
「大丈夫だよ、大丈夫」
 はしゃぐ彼女につられて、そのうち夫も窓に身を寄せた。二人は寄り添うようにして一緒に外を望む。
 見上げた空はどこまでも青かった。勢いよく伸ばした白ペンキのような雲が高くさっと一筋伸び、山々は鮮やかな新緑に萌えて、風と共に騒いでいる。
 裾野に、街が広がっていた。
「…………そう言えば、この街は雪が降るらしいな」
 ふいに夫が呟いた。なぜ急にそんなことを思ったのか、彼自身にもよくわからなかった。
 静かな気配が部屋に満ちている。しんとして心地良く、誰もがつい目を瞑りたくなった。
「積もる雪って見たことないけど…………」
 そう言いながら屈託のない思案顔で妻は首を傾げた。そのあどけない動作は生き生きとして、これから始まる生活の楽しさを抑えきれないといった風だった。
「悪くないと思う。白くて、冷たくて、透明で」
「透明?」
「うん、凍ると、透明になる。綺麗」
 夫は少し考えてから、ややあって頷いた。六角形の結晶を思い浮かべて、その清らかな様子と、冷たくて透明という表現に納得がいったのだった。
「ああ、でも…………」
 夫はふと妻の方を見た。
「溶けても、透明になるな」
 彼女はふいに向けられた視線に頬を染めつつ、そうだね、と目元をほころばせて頷いた。
「溶けて、流れて、春になる」
「春になる」
「夜になる前に、片付けちゃおう」
 二人は知らないが、その日の夜は一段と美しく輝いた。
 空には、無数の白い星が瞬いていた。
 街を見下ろす夜は深く澄んでいて、穏やかな濃紺色の水が、山麓のアパートから仄暗い路地の裏に至るまで、ひっそりと満ちていた。
 聞こえない言葉で、誰かが歌っている。
 それは優しく、遠い、永遠を紡ぐ柔らかな声だった。

夜と春

夜と春

ある寂れた街の酒場で、少女は給仕として働いていた。少女は店の常連である男に心惹かれており、男もまた、少女に淡い思いを抱いていた。二人は触れ合い、焦がれ合いながら、己の内に秘めた孤独を深くその身に染み入らせていく……。 少し冷たい、透明な恋の物語。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-11

Copyrighted
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  1. 十一
  2. 十二