火のクニの詩(十三)ある斎主

『ある斎主』

 赤々と火が灯っていた。大仰な祭壇の上、静かに、だがどこか狂おしく踊るそれは、少年の目にはやけに眩しげに思われた。
 祭壇の両端には素朴な女神像が立っていた。彼女らの伏せた目や、肩掛けの布の裾からわずかに覗く、粗削りながらも優美な爪先には、およそこの世では目にし難い、清廉さと、高貴さとが同時に宿っていた。
 少年は石像のところどころ崩れた箇所を眺めた。女神は古くは生神であったと聞いていたが、その憑代はもはや朽ち果て、長く、遥かな時の経過を思わせる石でしかなかった。
 少年の父は息子を後ろへと下がらせ、祝詞を上げ始めた。
 長大な祝詞は低く荘重な調子で語られ、その間、火は燦爛とその命の輝きを散らしていた。祝詞の歌詞の意味は失われて久しく、かろうじて聞き取れる少しばかりの言葉さえ、ろくな意味のない繰り返しがほとんどだった。少年は積もる退屈の中で、ふと炎の中に、何かが潜んでいることに気が付いた。
 よくは見えなかった。一瞬でも目を逸らすと、すぐに見失ってしまうようなものだった。だが少年は、火の深奥に揺らぐ、微かな鼠色の影を見てしまった。
 鼠色のそれはちんまりと座し、火に流されるままとなっていた。その姿は吹き込む風に煽られ、伸び、縮み、時に完全に形を失う。透徹した色合いで、いかなる時も狼狽えることはなく、消えてもまた、いつの間にか元の場所へ戻ってきていた。それは常にぽつねんとして、独りその場に、粛然と鎮座しているのであった。
 少年は急に、全身を冷えた刃が走るのを感じて、息を呑んだ。
 濁声の祝詞が響く。父より紡がれる言葉は延々と繰り返され、さらにまた、執拗に繰り返される。寿いでいるのだとかつて父は言ったが、少年には信じられなかった。はたして祭壇の主にとって、これはどんな意味を成しているのか。そもそも主とは、何者なのか。
 目の前の影は、依然沈黙に徹している。一体どのくらいの昔から、そうしていたというのだろう。少年はそして、己の深みから湧き上がる、ある考えに捕らわれた。
 この影は、古のものではあるが、祭壇の主でも、女神の師父でもない。影は石像を形作る石のように、そこにあるがゆえに、在るばかりなのだ。影は主ではない。彼も、自分と同じ主の元へ集う、位相の違う、何者かなのではないか。
 咄嗟の考えであったが、堂内にうねる風の流れはそれを正しいと言った。微風と影は柔らかな、完成された調和をもって、少年に頷いていたのだ。
 それから、灰色の影はずっと少年の前にいた。どんなに少年が瞬きをしても、荒ぶる心をぶつけてみても、影は微動だにしなかった。
 少年はいつもそれを見つめながら、地に垂直に、あたかもそこに、天まで己を貫く芯が走っているかのごとく、立ち尽くしていた。
 そうして言祝ぎは続いた。
 幾年も続き、歌い繋がれた。
 少年は灰の精を見つめながら、濁声のうちを彷徨った。その行為はどぶろくの底に沈む酒粕の中を漂うようで、少年は未だ澄まぬ強い酒の香に身を包み、白濁のより奥へと、さらに潜っていった。
 いずれ澱の正体がわかるものと思っていた時も遠く過ぎ、むせかえる微熱の中、少年は次の斎主となった。
 祝詞が何を成すのか、彼には未だにわからない。だがその昔、火に見えていた影のように、それがいつまでもたおやかに在ったがごとく、彼は滔々と、連綿と、灰色の言の葉を紡ぎ続けている。彼はそんな時に、歌のうちに沈むものを、それらを司るであろう、祭壇の主を、何より強く、深く、想うことができるのであった。

火のクニの詩(十三)ある斎主

『ある斎主』は、実はシリーズの一番最初に書いた話でした。
火のクニの物語はこれからも書き溜まり次第投稿するかもしれませんが、自分の中では、この話が最初にして最後の話であると考えています。

ほんの少しでも目を通してくださった方、読んでくださった方にお礼を申し上げます。

火のクニの詩(十三)ある斎主

混沌とうねる思念はやがて詩となり、編まれた詩はいずれクニを造る。世のどこかに浮かぶ「火のクニ」で伝わる、神話めいたいくつかの物語。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-09

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