火のクニの詩(十一)分離

『分離』

 通り雨の後、茶屋で休んでいた人々はぽつぽつと旅立って行った。今夜、月が上る前に峠を越すには、男の足でも少し心許なくなる頃合いであった。
 旅装の女が一人、茶屋に残っていた。どうしたものかと思って茶屋の主人が問いかけると、女はどこか虚ろな様子で、主人の方へ振り向いた。
 女は血色の悪い薄い唇を開き、震える声で、呟いた。
「行っては、ならないのです……」
 主人は眉を顰め、訳を尋ねた。近頃は山賊の出ると言う話も聞かないし、一本道なので、余程の夜中か、霧が出ている日でもない限りは、そうは道にも迷わないであろう。そして、今からでは多少遅くなるとは言え、来た道を戻る方が危険であるだろうとも、言ってやった。
 女は主人の言葉を聞いて再び俯き、恐ろしく蒼ざめた顔のまま、首を横に振った。
「違うのです……。私は、恐くなってしまったのです」
 何が恐いのか、と主人は聞いた。
 女は目玉がこぼれんばかりに両の目を見開き、肩を縮めて身を引き攣らせた。主人はもしや憑かれたかと疑い、緊張して女の様子を見張った。
 少し落ちてきた日が店の軒先にかかり、濡れた地に落ちた影をじりじりと伸ばしていく。風はなく、鳥の声もなかった。女はじっと虚空の一点を見つめながら、吐息のように言葉を吐いた。
「けもの、です」
 ……熊は、出るが。主人はそう言って、肩をすくませた。ここいらは日中は人通りが多く、猟師もよく通るので、あまり向こうも近付かないだろう。前に襲われたことのあったかもしれんが、心配のし過ぎだと言った。
 女は再び、首を振った。今度は先程よりも小さく、ゆっくりであった。
 主人は店の奥へ行き、熊よけの鈴を一つとってきてやった。旅人なら普通は持っているものだが、見たところ、女は身に付けていないようであったので。主人がその真鍮の鈴を差し出すと、女はふいにさめざめと泣き出した。
 主人は困り果て、ならば、あなたさえよければだが、ここへ一晩泊っていったらどうかと提案した。独り身ゆえろくなもてなしは出来ないが、夜露をしのぐぐらいはできるだろう。夜が明けたら、信頼できそうな通りの人と一緒に行ったらいい、と。
 じっとそれを聞いていた女は、ふと顔を上げると、少し笑って主人に頭を下げた。
 しかし、では、と言って主人が奥へ案内しようとすると、女は、立ち上がって道へと踏み出した。主人が不可解げに見やると、相手はもう一度、腰を折って丁寧に礼をした。その手にはいつの間にか、鈴が握られていた。
 行くのか、と主人が問うと、女は口元を歪ませた。据えられたその目には月光に似た、静かに冷えた狂気が宿っていた。見た主人は、気を付けて、とだけ言い、後ずさった。
 女は奇妙な感覚で鈴を鳴らしながら、かくかくとよろめいて歩いて行った。
 女の立ち去った後を主人はしばらく見つめていた。それからつと今まで彼女が座っていた場所を振り返ってみると、そこには、悲しげな女の霊がいた。影のない女は腫れた目をして項垂れ、やがてすぅと消えた。
 遠くからは、奇怪な鈴の音がまだ微かに響いてきていた。

火のクニの詩(十一)分離

火のクニの詩(十一)分離

混沌とうねる思念はやがて詩となり、編まれた詩はいずれクニを造る。世のどこかに浮かぶ「火のクニ」で伝わる、神話めいたいくつかの物語。 ……峠に差し掛かる茶屋で起きた、不思議な出来事。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-05-08

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