*星空文庫

盗人ノノラと木偶人形(綾月かもめ)

東大文芸部 作

盗人ノノラと木偶人形(綾月かもめ)
  1. 緑柱石の瞳
  2. 剣と竜鱗
  3. 忘れ得ぬもの
  4. 祈りの言葉
  5. 指輪と契

緑柱石の瞳

 墨を流したような濃い闇に、エメラルドの光が踊っていた。草木も眠る丑三つ時、寒々とした石造りの壁を乗り越える人影が、眼に宿す光だった。
「デク、本当にここでいいのかしら」
 静寂を破る声に、いらえはない。
「……ねえ、デク?」
 黒衣をまとった人影は闇に溶け込み、その輪郭を朧にしている。返事がない苛立ちに舌打ちして、深夜の静謐を汚す闖入者が飛び降りると、ブーツの靴底が石畳を噛む音がした。
「返事くらいしてよ……そんなに呼び名が気に入らない?」
 素早く周りを見回してから、人影がささやく。飛び降りた拍子にずれた縁なし帽の隙間から、一つに束ねた髪がはみ出していた。そよ風に尻尾のようになびくお下げをしまいこんで、ため息をつく。
「いったい何が不満なの。木人形だから『デク』、いい名前じゃない」
「……気に入らないに決まってるよ。『木偶の坊』って言葉、知ってるでしょ」
「なあに、それ」
「どうして木偶は知ってて木偶の坊は知らないんだい……」
 と、人影は遠くに足音を聞きつけて、石壁にぴったり身を寄せてうずくまる。ほどなく巡回中の見張りが松明を掲げて現れるが、幸いこちらに近付くことはなく、息を殺して潜む人影に気付かないまま去って行った。
「危なかった……」
 そう呟いて月明かりの下に現れた人影は、小柄な少女の姿をしていた。
 僅かに覗き見える肌の色とは対照的に、縁なし帽、腕と足に巻いた厚布、皮の胸当て、ブーツにベルト、あらゆる装束が塗り込めたような漆黒で、いかにも盗賊という出で立ちをしている。腰のベルトには短刀とピックを帯び、懐には毒入りの小瓶を忍ばせている。また、上着に隠れて見えないが、腹に丈夫なロープをぎっちりと巻いていた。
 しかし一つだけ盗人らしくない持ち物があった。胸元で揺れるそれは人型にくりぬかれた木の板で、顔に眼を模した丸いへこみがある。全体的に古ぼけていて、削れたり色が褪せたりしていたが、木目の浮き方といいどことなく値打ちがありそうだった。頭のてっぺんのところに輪状の金具がついており、そこに麻紐を通して首からぶら下げられている。
 そしてそれは人影がデクと呼び、話をしている相手であった。
「不注意だねえ。さっきも壁から飛び降りるしさ。何のためのロープなんだか」
「……ロープ?」
「お腹に巻いてるって言ってたでしょ。それを使ってゆっくり下りれば安全だし、余計な音立てる必要もなかったじゃないか」
「……すっかり忘れてた。気づいてたなら言ってくれればいいのに」
 もちろん人形は表情を変えないが、声音は苦笑いしている者のそれだ。
「盗賊さん、今までよく捕まらなかったね」
「……うるさい、度忘れしただけだってば。それと、『盗賊さん』じゃなくて、ノノラ」
「僕の呼び名は変えないくせに自分の呼び方に訂正を求めるか」
「名前が無いんだからしょうがないじゃない」
「名付けるにしても他に決めようあるだろうに……だいたい、物に名があるほうが珍しいのにさ、わざわざ名を付ける必要があるかい?」
「名前がなかったら話しにくい」
「普通は話せないんだけどね」
「あたしは話せるから名前を付けるの。何かおかしい?」
「はいはいわかった。デクでいいよ、もう」
 呆れっ放しのデクは口答えするのを諦めて、ノノラの案内を始めたのだった。


 遡ること半日前――
 山おろしの風が三日市の活気を抱き込んで、市壁の外にまでその喧騒を運んでくる。真っ黒な縁なし帽を被ったノノラは砂まじりの風にやや顔をしかめながら、少女の出で立ちにそぐわない、丈の長いおんぼろコートをつっかけて往来に佇んでいた。
 市の立つ大通りを目当てに、街の門を行き交う人の波は絶えることがない。にもかかわらず、ノノラは誰にも顧みられることなく、エメラルドの眼をぴかりと光らせて突っ立っている。異様な風貌ながらまるでそこにいないかのように気配を消していられるのは、眉ひとつ動かさない静けさもさることながら、ノノラの体質によるところが大きかった。
 時は流れて夕刻、空を朱色に塗りたくる太陽が、荒涼とした岩肌を晒す稜線に没さんとしていた。市はもう最終日、早めに畳む露店も少なくなく、人通りは目に見えて減っている。依然として所在なく佇むノノラだったが、ふと誰かに呼び止められたかのように顔を上げると、薄い唇をわずかに引き締め、縁なし帽を目深に被り直して、大通りへと向かった。
 夕暮れ時の小腹の空いた頃合いを狙ってか、串焼きのじうじうと焼ける音と香ばしい匂いが漂っている。食べ物の他にも、香料、農具、薬、刀剣や蝋燭など、より取り見取りの露店が立ち並び、店番が威勢のいい声を上げて売り込んでいる。
 しかしそんなものには一切目もくれずに、ノノラは人波を縫うように突っ切っていく。
 街娘に評判の、色鮮やかな染物を商う店で売り子に呼び止められたが、仮面のような無表情で怯ませると、そのまま歩き去っていった。
 やがて何かに導かれるようにして、ノノラはある店の前に辿りつく。
「おや? いらっしゃい」
 ようやく立ち止まった露店には民芸品だろうか、木を彫ったり、飾り紐を編んだりして作った装飾品の類が並べられていた。金物や宝石のようにきらびやかではないけれども、素朴で落ち着いた雰囲気を醸し出す品々。ただ、中にはやけに派手派手しい異国風のアクセサリーも交じっている。売れ残り具合を見るに、生憎と受けが悪かったらしい。
「そうだなあ、お嬢さんに似合いそうなのは……」
 そう言って、白髪が目立つ初老の店主は羽飾りやら、占星術風の文様が刻まれたブローチやら、女の子向けの商品を見繕っている。ノノラはそれを全く無視して、何かを探している様子だった。
「これ、ください」
 お目当てのものを見つけたらしい。たくさんの売り物の中から、ノノラは板状の人形を指さした。他の品に比べればかなり地味で、むしろ呪術めいて不気味にさえ見える。その人形の、口を模した三日月形の切れ込みが少し深くなった気がした。
 店主はノノラの選択にぎょっとしたようだった。
「お嬢さん、それでいいのかい? どうせ店じまいだし、おまけしとくよ」
 その顔は、遠回しにいい趣味をしていないと言っていた。
「いえ、これが欲しいんです。おいくらですか」
 感情の読みがたい、幽霊のような姿に店主は戸惑って、こちらをまじまじと見つめてくる。ノノラは少し焦ったが、幸い気が付いた様子はなく、代金を払うと人形を渡してくれた。
「どうも」
 それだけ言って、ノノラはさっさとその場を離れる。一拍遅れて我に返ったらしく、まいどあり、という店主の声が背中にぶつかった。
 音を立てない早足でするりと雑踏を通り抜けると、ノノラは薄暗い路地を見つけて滑り込む。
「あなた、どうしたの」
 人目のないことを素早く確かめてから、ノノラは人形に語りかけた。
「……まさかとは思ったけど、驚いた。僕の声が聞こえるんだ。《物聞き》ってやつ?」
 ノノラはけだるそうにため息をついて、答えた。
「あたしのことはどうだっていいじゃない。で、何か入り用なんじゃないの」
「ふうん、僕の声を聞いてわざわざ買ってくれたんだ。ずいぶんなお人好しだねえ」
「……恩着せがましくするつもりはないから、おせっかいならそう言って」
 寂しそうに言うと、さすがに人形の方も慌てた様子だ。
「ああ、ごめんよ。ちょっと驚いただけだ。君みたいに話のわかる人は珍しいからね。頼みたいことがないわけじゃない……だけど、いいのかい?」
「気にしないで。あたしは好きでやってるだけだから」
 何でもないように言って、ノノラは前髪をかき上げる。端正で儚げな蝋色の面差しに、少し色が戻ったように見えた。
 人形は礼を言って、神妙そうに切り出した。
「僕の眼を取り返して欲しい。顔のところにへこみがあるだろう? 宝石でできた眼がはまっていたんだけれど、もぎ取られちゃったんだ。おかげであたりは真っ暗闇さ」
「それは可哀想に……眼はさっきの店主が持っているの?」
「いや、違う。あのおじさんに買われたのは眼をなくした後だ。でも場所はわかる。体の一部だからね。割と近いみたい……」
「どこなの?」
「そんなに急かさないでよ。えっと……うん、高台にあるみたいだ。確か近くの丘に砦があったはず。そこじゃないかな」
「砦ねえ……」
 赤茶けた煉瓦造りの建物、その屋根と屋根の間を見やると、件の丘が目に入った。草木がまばらで灰色の岩肌が目立つ丘の頂上に、岩盤から直に削り出したような、同じ色をした建物が乗っかっているのが見えた。丘の向こうを見張る、あるいは防衛する拠点なのだろうか。
「ああ、でも兵士がいっぱい詰めていそうだなあ。曲がりなりにも値打ち物の宝石だから、その辺に転がってるわけじゃないだろうし……どうすればいいんだろう」
「大丈夫。任せておいて」
 人形が嘆くも、ノノラは即答する。
「別に無理しなくていいんだよ? 僕だって、女の子一人にできることは限られることくらい、わかっているさ」
「いいの。宝石って言われた時点で、こうなると思ってたし」
 あまりに自信満々なノノラを、人形はいぶかしんでいるようだった。
「あたしは盗人なの。お宝奪取なら望むところよ」
 ノノラの不敵な言葉を聞いた人形は吹き出して、からからと声を上げて笑い出した。
「……なにがおかしいの」
 わずかに頬を紅潮させて、ノノラは人形の胸をつつく。
「ふ、ふふ、盗人を自慢げに自称する女の子がいるとはね。それに、僕の眼を取り返してくれると。ふふっ」
 そう言って、また笑い出す。人形の声は人に聞こえないからいいものの、どう返事をすればいいかわからなくて、ノノラは困ったように人形を見つめている。
 人形はなおも笑い続ける。馬鹿にされるのはなんとも面白くなくて、視線を細めながら、地面に叩きつけてやろうかと不穏なことを思ったりする。それでも頭の片隅で、この人形が笑うのはいつ以来なのだろうと、考えずにはいられないのだった。


 首尾よく入り込んだ砦の中は、建付けの悪い鎧戸から夜気が忍び込んで鋼のようにしんと冷え切っていた。壁にかかった燭台に灯はなく、矢も光も拒む堅牢な外壁の内は、手を伸ばせば触れそうなくらい闇が濃い。一寸先も見えない暗がりに、白磁の色をしたノノラのかんばせと、鋭い双眸だけが浮かび上がっていた。
「ずいぶん寒いねえ。まだ中には入らないのかい?」
「ううん、もう入ってる。外よりよっぽど寒いけど」
 視界の効かないデクにはわからなかったらしい。ええっ、と頓狂な声をあげて、ノノラに問いかける。
「僕なら大丈夫だけど、人間だったらこの寒さは結構こたえるんじゃない?」
「そう思う。さっきから全然人の気配がしないし、放棄する直前なのかも」
「ここんところ戦の話は聞かないし、わざわざ人員を割いていないんだろうか」
「ううん、どうなんだろう……」
 下調べした限りでは、ここはノノラがにらんだ通り丘の向こうを見張るための拠点で、街が雇った自警団の一隊が住み込みで詰めているらしい。ただこのあたりは地下水が湧く街の周りを除いて乾燥地帯であり、今日のように市が立たない限りよほど訪れる者はないし、まして鳥獣の類が現れることは皆無と言ってよかったから、あってもなくても変わらないようなものだ。街の人も砦について知るものは少なく、知っていたとしても人の数や生活リズムといった、有益な情報はまるで得られなかった。
 あるいは、人目を遠ざけておいて、街の有力者が財宝の隠し場所として運用しているのかもしれない……とまで考えて、やめた。想像をたくましくするにはあまりに情報が少ない。
「……無駄口はこの辺にしときましょう。あなたの声は聞かれないけど、あたしの声は聞かれるんだから」
 廊下の角に身を隠し、首を伸ばして向こう側を確認すると、ノノラが言った。
「なんだ、気が付いてたのか」
「馬鹿にしないでよ。宝物庫にはさすがに人がいるだろうから、用心して行く。方向は?」
「うん……この感じだと下かな。ここは一階だよね? 地下があるみたい」
「わかった。定期的に方向を教えて。あたしは返事しないけど拗ねないでよね」
「僕がちょーっと黙っただけでおかんむりだった誰かさんとは違いますとも」
「あのねえ……誰のために来てると思ってるの」
「あれ、返事しないんじゃなかったっけ」
 デクがそう言うと、ノノラは不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「もう、いつの間に口答えするようになったんだか……」
「なんか、母親みたいな物言いだねえ」
 くすくす笑うデクを指で弾くと、ノノラはそれきり黙り込み、地下へ降りる階段を探し始める。
 砦は存外に広かった。二階建てに加え地下、様子見にぐるりと外周を回るのにもずいぶん時間がかかったので、逃げるころには夜が明けてしまうのではないかと不安になったくらいだ。ノノラも夜目は効く方だが、廊下の突き当りは闇に塗りつぶされて見通せなかった。
 短刀をいつでも抜けるようにして、ざらりとした石壁を手掛かりに廊下を進む。石壁はからからに乾いていて、手で触ると少し砂がこびり付いてきた。忍び足は慣れたものだが、あたりには静寂が深く垂れこめ、身じろぎひとつさえ壁の向こうに伝わってしまう気がした。まるで水底にいるようだ。声を上げるのも体を動かすのも億劫で、そのまま静けさに押しつぶされてしまいそうになる。
「……いくらなんでも、静かすぎやしないかい? なんだか不気味だ。気を付けたほうがよさそうだよ」
 デクの呟きはノノラの心中を代弁していた。いつも以上に慎重に、ゆるやかな坂を滑り落ちるように歩を進める。それでも、罠の中にまっすぐ入り込んでいるのではないかという不安は拭えなかった。
 しばらく進んで、左手で触っていた石壁が不意に途絶えた。いくら暗いとはいえ、まさか目の前に来るまで気が付かないとは思わなかった。慌てたノノラは反射的に飛びのいて、長い息を吐く。
「大丈夫かい?」
 デクも心配そうに聞いてくる。返事の代わりにデクの胸をつつくと、ほっとしたようだった。
 見つけた通路は下り階段、慎重に降りるうち、あたりがわずかに明るくなって、乾いていた石壁も湿ってきたように感じられる。地下特有のよどんだ水の匂いが、ふっと鼻を通り抜けた。
「階はここかな。僕から見て右の方だ。かなり近い」
 期待と緊張がないまぜになった声で、デクが言う。
 しかし、ノノラの方はと言えば、緊張なんてものではなかった。
 灯火の下に、人影を認めたのだ。
 壁に背をあずけて、慎重に覗き込んだ先。
 揺らめく光の円の中で、皮鎧に身を包んだ兵士が槍を投げ出して倒れていた。
 驚愕を張り付けた顔がこちらを向いている。
 その顔は蒼白で、唇は紫色だ。
 ――死んでいる。
 ノノラはゆっくりと息を吐く。大声を上げるような間抜けな真似はしなかった。
 一目見て毒殺だとわかった。懐に忍ばせた毒の一つを使って、人間があのように死ぬのを見たことがある。息が詰まって死ぬので、断末魔の叫びをあげることも許されない。暗殺用の代物だ。
 この奥に、兵士を殺した人間が潜んでいる。
 もう帰った後だとは考えにくい。入れ違いになりそうな場所はなかったし、何よりデクが宝石はここにあると言っている。今まさに、もう一人の賊は宝物庫を物色しているはずなのだ。
 ――どうする?
 ノノラの心中で天秤が揺れる。デクには悪いが、諦める方が得策だと思った。宝石が持っていかれてしまっても、デクがいれば場所はわかる。売られた先からまた盗み出せばいい。
 しかし、もし賊と戦って傷を負えば癒えることはない。一度壊れたものは、元には戻らないのだ。
「あれ? おかしいな。僕の眼が動いてる」
 ノノラは舌打ちをしそうになった。
「こっちに来るよ、警戒して!」
 逃げても間に合わない、とノノラは判断した。音を立てずに刃を抜いて、不意打ちの構えを取る。毒を塗る時間はなかったが、あらかじめ痺れ薬を塗ってある。一太刀浴びせれば片が付くはずだ。
「近づいてくる……あと十歩、九、八、七……」
 緊迫した声がカウントダウンを始める。それなりに早足であるにも関わらず、賊の足音は全く聞こえなかった。相当の手練れだ。
「五、四、三、二、一……!」
 飛び掛かりたくなる衝動をぐっと抑えて、ノノラは息を潜めて待った。敵も盗人なら曲がり角で止まってこちらの様子をうかがうはず。狙うのはその瞬間だ。
 果たして、デクの声はそこで止まった。角の向こうにようやく人間の気配が現れる。くぐもった、静かな吐息。
 漏れてくる灯火の光が、微かに遮られる。
 ノノラは慎重に、素早く短刀を振りぬいた。
 小さな、しかし狙い通りの手ごたえがあった。壁の向こうで人の体がぐらりとかしいだのが分かる。ノノラは素早く廊下に躍り出て、ぱっと短刀を閃かせた。
 賊はもう一人いた。一人目が膝を折るその刹那、腰の柄に手を当てていた。
 刃の噛みあう音。金属質の、硬い手応え。
 不意を打ったという油断。そのちょっとした慢心で、ノノラの攻撃は素直なものになりすぎた。受け止められた短刀を即座に引っ込め、脚をしならせて跳びすさる。
 そこに容赦なく突きが飛んでくる。通路は狭い。左手でうまくいなして突き込むが、相手も同じようにかわす。
 あとは純粋に技量を競うのみとなった。
 飛び交う剣閃、それをさばく手刀、打撃、関節を極めようと伸びる腕。鋭い技の応酬に空気は千切れ、それを追いかける足運びが石畳を震わせる。唸る風切り音に交じって、時折打ち合った短刀が火花を散らし、甲高い悲鳴を上げた。
 一太刀。それはあまりにも遠い。ノノラにとっても一太刀は致命的だから、互いに一撃で決着がつく五分の勝負。とはいえ、短刀を当てることにこだわれば即座に打撃や関節技の餌食になることも、お互いよく知っている。
 足払いをかわし、頬を狙った突きが相手の髪を削って空を切る。左からの薙ぎがフェイントと見切り、下からせり上がる本命の拳を迎撃する。絶え間ない攻防に感覚が研ぎ澄まされ、自身が刃そのものになったかのような錯覚に陥る。
「帽子だ、ノノラ!」
 デクの声と一緒に、首をめがけた斬撃が迫る。
 かわしてのけぞった瞬間、空いた手を頭の後ろに回して縁なし帽を投げつける。突き入れようと前のめりになった相手の顔に当たって、たじろいだのがわかった。
 ――今だっ!
 体をひねってかわし、がら空きの腹に渾身の蹴りを入れる。
 鋲付きのブーツを履いてきてよかった、と思った。
「提案がある!」
 後ろに跳んで距離をとり、足元に短刀を落としてノノラは叫んだ。敵、灰白色の髪をしたやせぎすの青年は灯火の下、苦しそうに顔をゆがめ、腹を押さえて呻いている。
 両者の距離は十歩ほど、ノノラが短刀を拾って構える間に、相手は突っ込んで斬りかかることができる。投げた帽子は両者の中間に落ちていて、ノノラの黒絹の髪が露わになっていた。
「言ってみろ」
 肩で息をしながら青年が言う。死戦の直後、いや、未だしのぎを削っているさなかだというのに、その口元に薄ら笑いを浮かべていた。しかし、不意を突いて襲ってくる素振りはない。
「あたしが欲しいのは一対の宝石だけ。それ以外はいらないから、持っていって構わない。それでどう?」
「一対の宝石、こいつか」
 両手を上げるノノラにも最大限の警戒をしながら、青年は蒼い宝石を二個取り出して見せた。
「小指の爪くらいのアクアマリンなら、そうだよ」
 デクの声を聞いて、ノノラはゆっくりうなずく。
「なるほど、確かにここの宝の中でも抜きん出た逸品だ」
 ようやく息を整えた青年は、余裕綽々と言わんばかり不敵な笑みをたたえている。
「しかし同時に、邪なる雰囲気を強く感じる。いいのか? 俺の見立てが正しければいわくつきだ」
「いいの。売るつもりはないし」
「お前はこの宝石がここにあることを知っていた。決め打ちで来たところをみても、訳ありらしいな」
 そう言って探りを入れてくる。ノノラはこういう相手が苦手だった。
「伸るか反るか、やってみる?」
 冷たく言い放って、最後通牒を装う。ノノラとしてもこれ以上戦いたくはなかったが、幸い青年は笑みを消して、両手を上げた。
「降参だ。これだけやって息が上がらない相手に、敵う気はしないね。それに……」
 無精髭の生えた精悍な顔つき、抜け目なさそうな双眸に、悪戯っぽい光が宿る。
「俺が飛び掛かったら、袖口に仕込んだナイフで応戦するんだろう? 俺の勘では、他にも五、六本は隠し持っていると見たが、どうだ?」
「……ご想像にお任せします。じゃあ宝石を足元に置いて、下がって。ゆっくりね」
 すげない返事に肩をすくめてから、青年は言われたとおりにした。ノノラもやはり警戒を怠らずに、それを拾い上げる。
「間違いない、僕の眼だ」
 デクの言葉を聞いて、ほっと胸をなで下ろす。素早く懐にしまって、青年の方に向き直った。
「確かに受け取ったから。お先に失礼するけど、その前に」
 ノノラは指の先ほどの小瓶を取り出して足元に置く。
「解毒剤よ。寝っ転がってる彼に飲ませてあげて」
「ずいぶん優しいんだな。だが、ありがたく頂くとしよう」
「毒と解毒剤、片方だけ余らせても仕方ないってだけよ」
 ぶっきらぼうに言って、ノノラは短刀と帽子を拾いに戻る。青年はと言えば、早速解毒剤を飲ませて、倒れた男の介抱をしていた。隙だらけに見えるが、ノノラに戦う意思がないと判断したのだろう。
「じゃあ、さよなら」
「待った」
 介抱の手を止めて、青年が呼び止める。
「お前、俺たちと組む気はないか。見たところ、俺たちと同じような流れの盗賊だろう。腕は確かなようだが、一人旅はリスクが高いことも身に染みているはずだ」
「ありがたいお誘い……なんでしょうね、普通なら」
 ノノラはそう言いながら、酸っぱいものを含んだような沈痛な面持ちをしていた。初めから答えは決まっていたかのように、小さく首を振って、答える。
「お断りよ。……人間の営みとは、なるべく交じらない主義なの」
 青年はちょっと眉を上げただけで、さほど驚きはしなかった。
「やはり、そうか。ならば仕方ないな」
 とは言いつつ、肩を落として残念がっている。
「俺はトーリョ、こいつはグレムだ。生業が同じなら、また会うこともあるだろう。刃を交えたいとは思わんがね」
 体格のいい、盗賊よりは武人の方が似合いそうな相方を支えながら、青年は名乗った。素性を知られたくない盗賊にとって、名を教えるのは信用の証だ。にやりと笑って、トーリョは続ける。
「しかし、俺たちはとんでもないマスターピースを盗みそこなったらしいな。人間と遜色ない人形、いや、俺は負けたのだから、人間以上と言うべきか。ともかく、君のような存在は噂にも聞いたことがない。まったく、君を連れていけるなら、盗賊冥利に尽きるというものだろうに」
 自分の正体を看破するトーリョの慧眼にうんざりしながら、ノノラは言う。
「ご愁傷様でした。それと、『人間以上の人形』じゃなくて、ノノラ」
「なるほど。その名、覚えておこう。……達者でな」
 トーリョの言葉に返事もせずにそっぽを向いて、階段を駆け上がる。無明の闇に溶け込むと、そのままくぐもった足音だけを残して、ノノラは走り去ったのだった。


「ついていけば良かったのに」
 アクアマリンの眼に獣脂の灯火を映しながら、デクが言った。相変わらず表情は変わらないが、ノノラにはそれがにやにや笑いをしているのだと分かった。
「どうしてそんなこと。人間と人形じゃ、体の仕組みも、生活も、生きる時間も違うのに」
 エメラルドの眼を半ば閉じて、ノノラは嘆息する。
 人間と違って人形は疲れないし、ほとんど寝ないし、食事もしない。その代わり負った傷は治らず、壊れてしまえば戻ることはない。壊れない限りは生き続けるが、記憶していられるのはせいぜい五年分、長くても十年分が関の山だ。今日のことだって、しばらく旅を続けるうちに忘れてしまうだろう。
 だから、ノノラは人と交じらず、旅をして暮らしていた。草木もないような荒涼とした大地を何か月もかけて踏破し、街で物の声を聞けば、その願いを叶えてやる。大抵は心無い人間に壊されようとしているとか、捨てられようとしているとか、あるいはしまわれっぱなしで外が見たいという依頼なので、盗みの技術は自然と身についていた。
「それでも、いや、だからこそ、君は人の世に交じりたいと思っている。違う?」
 トーリョといい、デクといい、ノノラの心にずかずかと立ち入ってくる。
 そうされる経験に乏しいノノラは、なんと言い返せばいいのか見当もつかないのだった。
「わかんない。自分がどうしたいかだなんて。あたしは人形だもの」
「僕だって人形だよ。けど、君には自分で歩く足がある」
「あなたは元人間でしょう?」
 破れかぶれに言ってやると、デクは少し驚いたようだった。
「おやおや、よくわかったね。そうだよ、この小さな板切れに封印されてしまった、哀れな哀れな人間さ。どうしてわかったんだい?」
「なんとなく。あなたみたいに口達者な物は、珍しいから」
「だから僕も、君が人外だとは思いもよらなかったんだけどね」
「まったく、口が減らないんだから……」
 デクの頭を指でつつく。白磁のような質感の指は、形つくりは人間のものと遜色ないが、触ってみれば人ならざる冷たさであることがわかる。
「デクは、どんな人だったの?」
 そう聞いてみる。そういえば、『元』とはいえ人間に興味を持つのは初めてかもしれなかった。
「これでも、某国の王子様だよ」
「冗談」
 あまりに突拍子もなくて、ノノラは思わず笑いそうになった。
「名無しの王子なんているわけないじゃない」
「ちぇ、信じないか。でも僕は器が広いから、怒らないでいてあげる」
「自分で言うことじゃないでしょ」
「なんたって、一国を背負って立つ人間だからね、器が広いのは当然さ」
「ふふっ」
 うそぶくデクがおかしくて、笑い声が漏れる。
 と、ちょっと前にデクの心配をしておきながら、自分も声に出して笑ったのはいつ以来か、思い出せないことに気が付いた。なんのことはない、ノノラは自分が思っている以上に、自分をないがしろにしてきたのだった。
「まあ、そういうことにしておいてあげる。あたしも器が広いから。デクが王子様なら、あたしはお姫様ね」
「ほう、それはどういう意図があっての発言か、詳しく聞かせてもらいたいね?」
 茶化すデクに、ノノラは首をかしげる。
「王家の生まれでないものが姫と呼ばれるのは、妃候補ということなわけだけれど」
「……う、うるさいったら。デクが王子だからって、あれこれ指図されるいわれはないって言いたいだけよ」
「もちろん、指図するつもりなんてないとも」
 言葉を詰まらせたこと、指が少しだけ熱くなっていることに気が付いているくせに、デクはぬけぬけとそんなことを言う。内心、笑い転げているに違いない。
「まったく……」
 ただ、からかわれて悪い気はしないのが不思議だった。
 なんでもない、てらいのない会話は楽しいのだと、初めて知った。
 人の世に交じりたいという欲求は、確かに自分の中にあるのかもしれない。
 ――それでも。
「……あたしがどうしたいかなんて、本当はどうでもいいの」
 デクを荷の包みに立てかけると、ノノラは切なさのにじみ出た、どこか諦めてしまったような笑みを浮かべる。それは作り物などではなく、まさしくいたいけな少女の表情だった。
「人には人の、物には物の、居場所がある。越えちゃいけない境界線、侵してはいけない領分がある。それを違えてしまうとどうなるか、あたしは知ってしまっているから」
「君は、ノノラは、たとえ形つくりが人間そのものだったとしても、物として生きる、と」
「うん」
 その言葉に、迷いがないと言えば嘘になる。しかし、もう決めたことだった。
「じゃあ、僕もしばらく見届けさせてもらうよ。人ならざるノノラの旅路を」
 芝居がかったデクの言葉に、ノノラは驚いた体で言ってやる。
「あら、やかましいから置いていこうかと思ったんだけど」
「まんざらでもない癖に」
「いつも一言多いんだから」
 今度は一緒になって、からからと笑った。


「次はどこへ行くんだい?」
 砦を挟んで街の反対側、荒涼とした丘の中腹から、二人は岩と砂ばかりのわびしい大地を見下ろしていた。
「どこへでも。一応、あたしを作った人を探すって目的もないではないんだけど、当てはないし、そもそも生きているかわからないし」
「そうか」
 夜はじきに明けるとみえて、背後の空は徐々に白んできている。しかし、ノノラもデクも、見つめる先は未だ闇が深い夜の道。人の営みとも、獣や草木の営みとも外れた、乾いた道だ。
「それにしても、本当に連れてってくれるとは思わなかったよ。一人旅が性分じゃなかったのかい?」
 首にかけるのは煩わしいと、デクの体は縁なし帽に縫い留めてあった。ノノラは少し視線を上向けながら、唇を尖らせる。
「なあに、またからかってるの?」
「違うよ。今までずうっと独りで旅をしてきたんだろう? どうして今更変える気になったのさ。それに、僕だって君の言う『人の領分』の住人なんだよ?」
 思いのほか声音が真剣そうだったので、少し面食らってしまう。でも、真面目に聞いてくれそうな気がしたので、ノノラは正直に答えた。
「あたしだって、好き好んで一人旅をしていたわけじゃないもの。人はあたしの旅についてこれないし、物はもともと人の役に立つためのものだから、助け出しても居場所がある。旅の道連れなんて、今まで本当に巡り会えなかったの。少なくとも、記憶の限りでは」
「とすると、寄る辺もなくて、そのくせ飢えも渇きも知らない僕なんかは、うってつけだってわけか」
 デクは得心がいったらしく、首を曲げてうなずく代わりに、ふんふんと呟いている。
「無駄におしゃべり、が抜けてるけど」
「違いないね。でも、退屈しないだろう?」
「そうね。怖いくらいに」
「怖い、かあ」
 そう言って、デクが思案気に黙りこくる。
「どうしたの?」
「いや、お互い様だなあって思っただけ。僕も話し相手がいなくてつまらなかったし、流されるままで、自由なんてこれっぽっちもなかったからね。怖かったよ。挙句の果てに眼も取られるし……と、そういえばまだお礼言ってなかったんだった」
 いきなり改まったふうになるのを感じて、ノノラはなんだかおかしかった。てっきり礼なんて言うつもりはさらさらないのかと思っていたのだ。
「まあ、それはお相子ってことにしようじゃない。水臭いし」
「それもそうか。それなら、借りはいずれ返すということで」
「期待していいのね?」
 言ってやると、デクはもちろん、と請け負った。
「特に目的地がないのなら、行先は僕が決めてもいいのかな?」
 朝日が蝕みつつある夜の道を見据えてデクが言う。今更ながら、頭上から声が降ってくるのがくすぐったくて、ノノラはふっと笑みをこぼした。
「いいんじゃない」
 応じると、デクは少なからず調子づいて、はしゃいでいるようだった。
「なら、まっすぐだ」
「うん」
 そうしてノノラは歩き出す。
 エメラルドとアクアマリン、二対の緑柱石の瞳は、どんな景色を臨むのか。
 それを知るものはないのだった。

剣と竜鱗

 先細った刀身が、日差しを浴びて鈍く輝いていた。半ばから折れた鉄の塊を、白くたおやかな少女の指が弄んでいる。弧を描く刃はよく手入れされていて、使い物にならなくなった今も現役の鋭さを保っていた。
 無用の長物と相成った破片を名残惜しそうに見つめるのは、緑柱石の瞳。
「あーあ。いいナイフだったのにな。誰かさんが口を挟むから」
「またそれか。手を切らなかったんだからいいじゃないか、貧乏くさい」
 答えるのはナイフの持ち主ではなく、その頭上、縁なし帽に縫い留められた板状の木人形だった。人の魂を宿した人形、デクは、少しばかり呆れた様子で言い募る。
「それに、ナイフなら買い替えれば済むじゃないか。今だって武具屋に向かっているんだろう? そんなに目くじら立てるほどのものかなあ」
「もう、わかってるってば。わかってるけど、一言くらい謝ったっていいじゃない、まったく……」
 その言葉に、デクはたまらず吹き出した。
「ふふ、ごめんごめん」
 謝りつつも、デクは含み笑いをこらえきれずにいる。頭上から降ってくる笑い声に恥じ入りながら、少女の形した人形、ノノラは、仏頂面で折れた刀身をしまい込んだのだった。
 鉱山が近く、周囲を森に囲まれていて、なおかつ川から動力を得られるこの街は、鉄の街として名を馳せているらしい。街を二分する川の上、両替商やら細工師やらが陣取っている石橋からは、川沿いに立つ煉瓦造りの煙突と、そこから立ち上る宵闇のような煙が見てとれた。川には大小さまざまの水車が浸かっていて、勝手気ままな速さで回っている。その数があまりに多いので、水流が水車を回しているのか、水車が水流を引き起こしているのか、わからなくなってくるほどだ。
 不幸中の幸いと言うべきか、ここならいい刃物が手に入りそうだし、懐にもだいぶ余裕があるから、この際何本かまとめて新調するのもいいかもしれない。ノノラはそんなことを考えながら、石畳にブーツの鋲をかちんと鳴らして、工房の立ち並ぶ通りに向かった。
 目抜き通りは《金物通り》とわかりやすい立札があって、喉がいがらっぽくなるような煙の匂いに包まれていた。人通りはさほど多くなく、どちらかと言えば馬車の方が多い。商人を別にして、毎日来る場所でもないからそんなものだろう。ノノラだって一揃いの甲冑をダース単位で仕入れるとか、そういう買い物がしたいわけではない。
 と、通りを入ってすぐのところに、個人向けに武具やこまごまとした刃物を商う店を見つけて、ノノラは足を止めた。
「それにしてもさ、ナイフなんてたくさん持ってるんだから、折れたからって買いなおす必要はないと思うんだけど」
 店先で商品を検分する間、デクはそんなことを言ってくる。
「たくさんは持ってないって。予備も含めて二本だけだもの」
「え、二本? 腕やら足やらにいっぱいつけてるじゃないか。十本はくだらないと思うけど」
「……もしかして、ナイフなら全部同じだと思ってる?」
「……違うの?」
 少しばかり剣呑な雰囲気を感じ取って、デクはたじろいだようだった。
「全然違う」
 拗ねたようにそう言うと、ノノラはナイフを二本取り出して、見せる。
「こっちが今回折れたのと同じ野外活動用のナイフで、こっちは戦闘用のナイフ」
「どっちもナイフだね」
「もちろん、どっちもナイフだけど……」
 ノノラは小馬鹿にしたような口ぶりで、説明を始めた。
「大きく違うのは、刀身の厚さと、形かな。野外活動用のものは、丈夫さが大事だから肉厚で、安全性と、切る、削る、割る、といろんな用途に使えるように、切っ先から根本にかけて丸みを帯びた刃の形をしている。対して戦闘用のものは、素早く振れるよう取り回しを重視した薄刃で、突き刺しやすいように角ばった刃の形をしている。突くとき力が入りやすいよう、切っ先が刀身の中心軸上にあるのも特徴ね。他にも鍔の有無とか、鞘の構造とか……」
「あー、わかった、わかったから。お節介を焼いて悪かったよ」
 デクはいたたまれなくなったらしく、ノノラの講釈を遮った。
「まあ、これでも旅は長いんだから、不必要なものは持っていかないって」
「よーくわかりました」
 おざなりな返事に、ノノラは悪戯っぽく笑う。
「なら、戦闘用ナイフを何本も持っているのはどうしてか、答えられる?」
「勘弁してよ……」
 デクが情けない声を出したところで、二人に歩み寄る人影があった。
「いらっしゃいませ。ナイフをお探しかな」
 頭に布を巻いた壮年の男は、煤で汚れた前掛けと、手首まで覆うごつい革手袋を外しながら、声をかけてきた。店先よりも工房が似合いそうな風体からして、ここの職人だろうか。
「ええ、野外活動に適したものを探しているのですが、どうやらここは武具が主な商品のようですね。置いてありますか?」
「肉厚で、刀身が丸まっている汎用ナイフだったな。申し訳ない、盗み聞きするつもりはなかったんだが、年端もいかない子供が物騒な話をしているものだから、気に留まってしまってね。……失礼を承知で聞くが、君は《物聞き》というやつかい」
 デクとノノラを見比べながら、男は聞いてくる。デクの声は人に聞こえないのに、こんな街中でべらべら喋っていたのは迂闊だったが、聞かれていたのなら仕方ない。幸い物の声を解するということしか知られていないのだし、ただの《物聞き》なら稀とはいえ、大きな街なら一人くらいいてもおかしくはない。
「そう、ですが……何か?」
 つっけんどんに答えると、男は安堵と緊張が一緒くたになった不思議な表情を浮かべて、続ける。
「いや、気を悪くしてしまったのなら謝ろう。お求めのナイフは向こうの方に並べてあるから、気に入ったのを持っていくといい。おまけしておくよ。ただ、もしも時間があるなら、《物聞き》の君に、一つ頼まれてほしいことがある。もちろん無理にとは言わないし、相応のお礼もしようと思うのだが……」
 年の割に、やけに腰の低い職人だ。自分の腕で生計を立てている彼らは、職人気質というか、おおよそ歳を重ねて自分の腕に誇りを持つほどに愛想が悪くなるもので、そんな人をノノラは逆に好ましく思ったりするのだが、ほとほと困り果てているといった風の男はそういう雰囲気ではない。
「聞きたそうだから言うけど、演技にも見えないし、騙すつもりはないと思うよ。周りに武具がいっぱいあるから警戒するのはわかるけど、それだってあからさますぎる。さっきの話を聞いていたなら、ノノラが只者ではないってわかっているはずさ。下手にちょっかいかけようとは思わないんじゃないかな」
 ノノラの方もデクと同意見だった。それでも警戒は怠らずに、とりあえず用件だけ聞いてみる。
 すると、男はとんでもないことを言ったのだった。
「私の作った剣、その言葉を教えてほしいのだ。作り手の私にも断片的な声は聞こえるようだが、あれが何を言っているのか、ちゃんと知りたくてな……」


 ノノラに物の声が聞こえるとはいえ、神羅万象、あらゆる物の声が聞こえるというわけではない。むしろ、声を発する、知性を宿した物というのは、特別な存在だ。
 大まかに分けて二種類がある。一つはデクのように、もともとは普通の物だったが、呪術や世への未練などによって、人の魂が宿ったもの。もう一つは、人間や神獣といった知的生物とその思念、あるいは千年樹のように凄まじい生命力を宿す存在と長きにわたって触れ合ううちに、自然と知性が芽生えたものだ。
 加えて、未練ある人の魂が宿るのは、その人が生前大事にしていたものと相場が決まっている。
 だから、一塊の職人風情が鍛えた、しかも新品の剣に意思が宿るなど、普通ならあり得ないはずだった。
「これが、その剣なんだが……」
 男、キラタと名乗った職人は、倉庫の片隅にあった小箱から一振りの剣を取り出した。鞘も柄も鉄に革を巻いて作ったダガーだ。見るからに戦闘用の代物で、手が滑らないよう質素な鍔と柄頭が付いている。刀身はキラタの手くらいの大きさで、両刃なのだろう、左右対称の形をしていた。鞘に刻印のあるほかはこれといった装飾もない実用に特化したしつらえで、実直な武具職人としての矜持が窺い知れるようだった。鞘に収めたまま渡されて、ノノラはその重さに度肝を抜かれる。
「えっと、これ、重すぎませんか?」
「普通の剣ではないのだ。抜いてみればわかる。よく斬れるから、慎重にな」
 柄を握りこむと、ノノラの手には大きいものの、絶妙な曲線を描くそれは手と癒合したかのような手応えで、革の温かみが直に伝ってくる。取り落とすことはまずないだろうと思われた。さらに、勝手に抜けないよう鍔に引っかけられた金具は、握った手の親指で外せるようになっている。咄嗟に片手で抜けるようにするための工夫に、ノノラは感心しきりだった。
 言われた通りゆっくりと鞘から引き抜くと、刀身は薄蒼い、秋晴れの空のような色をしていた。
「これが……剣なの……?」
 形は両刃のダガーそのものだ。しかし、その輝きは美しさすら感じさせる、宝石と呼んで遜色ないものだった。無骨な柄や鞘とはどう見ても不釣り合いで、まるで玉が生木の台座に収まっているかのようだ。この刃があったら流麗な剣に仕立てたくなりそうなものだが、そうしないのがキラタの性分ということなのだろう。
「試し斬りをしてみるか?」
 誇らしそうなキラタの言葉に、ダガーを魅入られるように見つめながら、ノノラは無言でうなずいた。
 倉庫のすぐ外、川に面した空地には隅の方に薪用の丸太が積んである。キラタはそのうち一本を持ってきて、空地の真ん中あたりにある凹みに差し込むと、丸太はぴったりはまって直立した。まだ木皮も剥がしていない丸太には縦横に切り傷が走っていて、いつもこうやって試し斬りをしているのだろうと知れた。
 とりあえず、鞘から抜き放って素振りをしてみる。正中線に構えてから、上下左右四方向と、斜め四方向に斬り払う。普通の短刀にはない、腕を持っていかれるような重みがはっきりとわかった。初めは柄や鞘が鉄製なので重いのかと思ったが、それ以上に刀身の重量が尋常ではない。柄の芯が鉄になっているのも重さのバランスを取るためだと感じた。
 斬り払いの他、突き、逆手への持ち替え、打撃や投げ、組みつきとの連携を一通り試してから、ノノラは丸太に向き直った。
 丸太など短刀で斬りかかるものではないが、今や体の一部となって馴染んでいるダガーであれば、斬れるという確信があった。
 だから、ノノラはその重みに任せて、ダガーを全力で振り下ろす。
 空を斬ったかと錯覚するほど軽い手応えだった。しかし丸太にはまっすぐに溝が走り、刃の通った跡がくっきりと刻み込まれている。その断面はかんなをかけたように滑らかで、その斬れ味の並大抵でないことが見て取れた。
「……いやはや、素晴らしい腕前だ。自慢したいあまり、うっかり子供に持たせてしまって心配したが、杞憂だったようだな。君ほどの腕の持ち主はそうお目にかかれまい」
「あたしの方も、正直驚きました。……これ、いったい何でできているんですか」
「竜鱗、竜の鱗だよ。二度とないような幸運に恵まれて手に入れたが、古今東西、あらゆる金属より硬いと言われ、相応の粘りも兼ね備えている代物だ。酷く重いのが玉に瑕だが、刀剣の素材としてこれ以上のものはないはずだ」
「竜の鱗、これが……?」
 ノノラはもう一度刀身を眺める。その斬れ味を目の当たりにした後では、もう宝飾品として見ることはできなくなっていた。切っ先には虚空をも切り裂かんとする殺気をまとっていて、周りの空気がそれに怯え、揺らいでいるように見える。
「竜鱗を知っているのか?」
「まあ、そうですね。こんな使い方があったなんて……」
「ちょっとちょっと、竜だか何だか知らないけど、本当にそんなものがあったとして、他の何より硬いものをどうやって加工したのさ」
 しばらくぶりにデクが口を開く。至極もっともだったので、キラタに聞いてみた。
「確かにどんな金属よりも硬いが、熱すればその限りではない。かといって、金属のように融けて飴状になるわけでもない。だから、鉄も融けるような炎で熱してから、冷めないうちにやすりで削り、水につけて冷やすのだ。どうも竜鱗は層状の構造をしているらしくてな、そうすると温度差による伸縮で、僅かながら表面を剥がしてやることができる」
 聞くだけで気が遠くなりそうな話に、ノノラは軽くめまいを覚えた。
「……それ、どれだけ手間と時間がかかるんですか?」
「半生を費やした、と言っても過言ではない。加工の方法を探るのに四年、比較的柔らかい外縁部を削り落とすのに二年、大まかな形に削り出すまでに五年、形を整えるのに三年、研ぎ上げて刃を作るのにもう二年、といったところだろうか。本業と行ったり来たりしながらやっていたから、最初に竜鱗を手にしたのは……いつだったろうな」
「よくやるなあ。よっぽど暇だったか、よっぽど馬鹿だったか」
 聞こえないのをいいことに、デクは失礼極まりないことを言っているが、ノノラも似たような感想を抱いていた。キラタの方も肩をすくめて、呆れ返ったように言う。
「……馬鹿げた酔狂だとは、自分が一番よくわかっているさ。我ながら、完成までこぎつけたのは奇跡だと思っている。何度やめようと思ったか知れないが、どうしてかやめられなかったのだ」
「そうすると、知性が宿ったのも納得だね」
 デクの言葉にノノラはうなずく。竜という、強い生命を宿した幻獣の一部であり、かつ、キラタの手によって長い歳月をかけて研ぎ上げられてきたのなら、知性が宿ってもおかしくはない。
「そう、キラタのおかげで、私はここに在るのだ」
 初めて聞く声が、ノノラの手中で響いた。
「なんだ、普通に喋れるのか。ずっとだんまりを決め込んでいるから、何か事情があるのかと勘繰ったじゃないか」
 その経てきた歳月を感じさせる厳かな声に、デクがいらえを返す。
「私の言葉を解する存在と、今まで巡り会えなかったのでな、どう話しかければいいものか、考えあぐねていたのだ」
 ダガーとデクのやり取りに、キラタは眉をぴくりと上げた。
「……話しているのか? その剣が」
 断片的ながらダガーの声が聞こえるというのは、どうやら本当らしい。キラタは《物聞き》ではないのだろうが、このダガーはキラタの積年の思いがこもっているから、ある種の繋がりができているのだろう。
「ええ、そうです。大丈夫、あたしには何を言っているのかわかります」
 キラタは目を閉じ、感慨深げに天を仰いでから、改まってノノラを見つめた。
「……頼む、教えてくれ。その剣が何を思い、何を伝えようとしているのか」
「もちろん。あたしの方も、俄然興味が湧いてきましたし」
 請け負ってから、ノノラは薄蒼の刀身を覗き込む。緑の瞳すら霞んで見えるような華美な色彩には、何物をも寄せ付けぬ鋭さと、深い思慮とが宿っている。
 硬いその刀身に染み込ませるように、ノノラはゆっくりと語りかけた。
「はじめまして、あたしはノノラ。人とも、物とも、話ができる存在。あなたの作り手に伝えるために、聞かせて。あなたの意思を……」


「私はまだ、完成していない」
 炉に火のない工房は、どこかしこも燃え残った灰の色をしていて、存外にうらぶれて見える。竜鱗のダガーという傑作をものにしたキラタの、言いようのない寂寥が透けて見える気がした。
「完成、していない……?」
 普段作業している場所なのだろう、キラタは金床の前に胡坐をかいて座り、ノノラの通訳を聞いている。
「ああ。私を纏っていた竜は、もともと極北の山岳地帯に棲んでいた。私の生来は、氷雪と同じく冷たきものなのだ。キラタは私を削るために、幾度となく灼熱の炎にくべてきた。それが間違いだとは言わないが、そのせいで、私は本来の硬度を失ってしまっている」
 伝えると、キラタは渋面を作って呟いた。
「やはり、そうだったのか……」
「心当たりがあったんですか?」
「熱して冷やすたびに、色といい、叩いた時の音といい、僅かながらくすんでしまうと感じていたのだ。なにぶん長年にわたって削り続けてきたから薄らいではいたが、最初に竜鱗を手にしたときの感覚と、どうも食い違っているような気がしてならなかった」
「でも、その口ぶりなら何か術があるってことなんだよね」
 デクが言う。確かに、完成していないと言うからには、完成させる方法があるということだ。
「そうだ。そしてそれを伝えるために、私は意思を得た。逆に言えば、私に意思が存在するのは、剣としての綻びのようなものだ。私が真に完成したとき、私の意思は消え、物言わぬ武具としての本分に戻るだろう」
「それでも、完成させて欲しい、と?」
「無論。剣として、何物をも切り裂く硬さが得られるのなら、それに越したことはない」
 その覚悟を聞いて、ノノラは身の引き締まる思いだった。武具としての本分。では、自分の本分は何なのだろうと、思いやらずにはいられない。
「その方法とは、なんだ……?」
 緊張の面持ちで、キラタが聞く。
「簡単ではないが、単純だ。限界まで熱した直後に、限界まで冷やす、それだけだ。しかし、熱する方はここの炉で足りるだろうが、冷やす方は水につけるくらいでは全く足りない。竜の棲まう極寒の地ほどでなければ、充分とは言えないだろう」
 キラタは腕を組んで考え込む。
「手法自体は、普通の刃物でやるような焼き入れと同じか。だが、冷やす方法か……氷なら何とか手に入れられるだろうが、どうだ?」
「少し足りないだろうな。氷の融け始める温度ではなく、水が自ずから凍るような温度が要る。その温度にしばらく晒しておく必要があるのだ」
「一度熱してすぐに冷まさないといけないから、寒冷地に赴いても今度は炉が要るのか。一筋縄ではいかないね」
 キラタもデクも、すぐには解決策が浮かばないらしい。金床に視線を落としていたキラタは、しばし黙考してから立ち上がる。
「決めた。ノノラさん、だったか。一つ相談があるんだが」
「なんでしょう」
「この剣、君に託そうと思う」
「……え?」
「なるほどね」
 ノノラは目を丸くしたが、デクの方は何か合点がいったようで、不敵に笑う。
「ちょっと待ってください。キラタさんが生涯をかけて作った剣なんでしょう? あたしなんかに渡してどうするんですか。さすがに、そんな大金は出せません」
「お金はいい。今まで多くの武人がそこの空き地で素振りをするのを見てきたが、素人目にも君の腕前が並外れていることはわかる。少なくとも、私の店なぞにやってくる客の中では一番に違いない。そして君は短刀使いで、剣の声を聞き、旅をしている。この剣の完成を委ねるのにこれ以上の適任はあるまい」
「でも……」
 ノノラとしても、これ以上の武具には心当たりはなかったから、断る理由などないはずだった。しかし、意思を持つダガーを道具として持っていくことは、何かとても恐ろしいことに思えて、気後れしてしまう。
「私からも頼む。ノノラよ。……酷な頼みだと、わかってはいるが」
 ダガーの言葉に、ノノラははっとなった。
「同じく意思を持つ物として、君と私は対等なのだと思っているのだろう。それはとても嬉しいが、対等だからと言って使い使われる関係が許されないわけではない。君は使い手として、私は使われる物として、対等という関係もあり得るだろう。親と子、師匠と弟子、上司と部下が人として対等であることが、あり得るように」
 正体を知られていたという驚きよりも先に、ダガーの言葉に考えさせられてしまう。
「まあ、冷たい手で握ったらばれるよね」
 無粋なデクを目で制してから、ノノラは長い息を吐いた。
「わかりました、頂いていきましょう。ありがとうございます」
「こちらこそ、礼を言わせてもらおう。ありがとう」
 そう言って、キラタは手を差し出してくる。ノノラはぎょっとしたが、キラタならいいか、と思い直して、その手を握った。
「……なるほど、ならば、もう一仕事必要だな」
 人ならぬものの冷たさに気が付いたキラタは、にやりと笑って、首をかしげるノノラに問いかける。
「ノノラさん、君の手は大きくなることがあるのか?」
 そう聞かれて、ノノラにも合点がいった。
「いえ、あたしはこの姿かたちのまま、成長することはありません」
「ならば、柄は君の手に合わせて作り直すとしよう。なに、気兼ねすることはない。君が使う以上、君が最高の技を発揮できるようにするのが、武具職人の務めというものだ。その代わり、三日間だけ待ってもらってもいいだろうか」
「構いません。そうだ、そういうことなら、これを使ってくれませんか」
 ノノラは懐から折れたナイフの刀身を取り出して、渡す。少し検分してから、キラタはうなずいた。
「なかなか女々しいことするねえ」
「いいじゃない。使い込んだ物の方が手に馴染むと思うし」
「それを女々しいと言っているんだけどね。まあ、好きにすればいいさ」
 茶化すデクをひと睨みすると、ダガーがふっと笑った。ノノラの言葉しかわからないキラタは、何が何やらという顔をしている。
「なんにせよ、大事にしてくれるなら有難いさ。本当なら何とかして冷やす方法を見つけて、完成品を渡したいところだがね」
 キラタは苦笑して、ダガーに手を伸ばした。
「お前もそれでいいか?」
「是非、そうしてくれ」
 通訳しなくとも、その言葉は伝わったらしい。晴れ晴れとした表情で大きくうなずくと、キラタはダガーを鞘に収め、ノノラの方に向き直る。
「ならば、三日後にまたここに来てくれ」
「わかりました。それでは」
 ノノラは立ち上がり、ぺこりと一度礼をして、工房を出ていく。背後に火打石の音を聞きながら、出口のところで、灰をかぶった裾を恨めしげにはたいたのだった。
「しかし、惜しいねえ。ここで完成品を持っていけないなんて」
 デクが口を開く。ノノラは肩をすくめて、首を振った。
「でも、贅沢言ったってしょうがないじゃない。竜鱗という素材でなくとも、キラタさんの腕は一級品だし、あのダガーはあたしが手にしてきた中でも群を抜いている。正直、あれよりいい武器になるなんて、信じられないもの」
「でもさ、こう、かゆいところに手が届かないというか、もどかしくない?」
「……キラタさんが完成に立ち会えないっていうのも、あたしはちょっと引っ掛かるけど、どうしようもないもの。寒冷地から運んできた氷も馬鹿にならない値段なのに、それでも冷やすのには足りないんでしょう? うまく豪雪地帯に鍛冶屋を見つけて、頼み込むしかないと思うけど」
「そうなんだよなあ。でも、豪雪地帯って鍛冶に適さないと思うんだよね。だって、原料の鉱石と、たくさんの薪とが必要で、できれば動力として水車があったほうがいいと。鉱石はともかくとして、薪が湿気っちゃうし、馬車で出荷するのも大変だからさ。割と乾燥しているこの辺りとは真逆だよ」
「どうなんだろう、わからないけど……」
 話しながら《金物通り》を出て、所在なくさまよっている。これ以上考えても仕方ないように感じて、話を打ち切った。
そういえば、三日間この街で過ごさないといけないのだし、刃物以外の必需品を仕入れたり、路銀稼ぎに盗みに入るのもいいかもしれない。お下げが隠れているか確認して、縁なし帽を目深に被り直すと、ノノラはできるだけ気配を抑えて、通りの物色を始めた。
 川沿いを外れると、工房はほとんどなくなって、どこの街にもあるような商店が立ち並んでいた。ノノラが盗みの標的にするのは、持ち運びに便利で金になる宝飾品だ。大抵、盗んだ街で売っても足がつくので、次の街まで持っていく必要があるためだ。それに、硬貨は場所によって扱っているものが違ったりするし、旅人が財産として持つには価値の変わりにくいものがいい。
 しかし、デクは別の店に目を付けたようだった。
「硝子、かあ」
 見やると、ゆるやかな曲線を描いた、美しい硝子の壺が看板代わりに置いてあった。そういえば、この前解毒剤を入れていた小瓶をひとつ渡してしまったので、買い足しておくのもいいかもしれない。そんなことを考えていると、不意に調子づいた声が降ってきた。
「ねえ、できるかもしれないよ、ノノラ」
「できるって……え?」
戸惑って、間抜けた返事をしてしまう。それを鼻で笑ってから、デクは続ける。
「盗みに入るか、金に物を言わせるかは君に任せる。硝子、染物、火薬、加工肉、あとは肥料かな? その辺を扱っている店に行けば、何とかなると思う。氷は必要だけどね」
「えっと、何の話?」
「もちろん。灼熱の炉の横で、雪降らす極寒を作る方法さ。できるかどうかわからないけど、賭けてみる?」
 そう言うと、呆気にとられるノノラをよそに、デクは気負いなく笑ってみせた。


 紅紫の炎はごうごうと低い唸り声を上げ、虚空を激しく舐め回し、糸くずのような火の粉を盛んに振り撒いている。水車駆動のふいごが動くたび、炎は風を孕んで黄金に輝き、火の爆ぜる音がひときわ大きくなった。
 汗と煤にまみれたキラタの横顔、揺らぐ炎にも動じない視線は、炎を纏う炭の上、小さな刀身に注がれている。
 職人の半生をかけて削り出された、竜鱗の剣。
 何物をも拒み切り裂くその刀身には、炎さえも例外ではないようだった。紅紫の炎に熱せられながらも、それに逆らうかのように、刀身の蒼さはより色濃く、深くなる。その様はまるで、水を浴び、身を清める修行僧のようだった。清流の代わりに灼熱の炎でその身を洗い、来たる完成の儀式に備えているのだ。
「もうじきだ。キラタよ」
 ダガーの声が、工房に朗々と響いた。熱せられたことで剣としての綻び、すなわち意思が強まったのか、キラタにもはっきりと声が聞こえるらしい。火ばさみを握る職人は大きくうなずいて、傍らのノノラに目配せをする。ノノラの方も神妙な面持ちでうなずくと、『雪降らす極寒を作る』ために、工房の外へと移動する。
「さあて、どうなるかな」
 デクは興奮を隠しきれない様子で、そう呟いた。
 目の前には四方と丈がノノラの腕の長さほどある、鉄の箱が鎮座している。昨日のうちにキラタが作っておいたもので、造りは荒々しいが、頑丈さは申し分ない。保冷のためおが屑を敷き詰めた内側に、厚布に包んだ氷が入っている。布をめくると、丹念に砕いた砂状の氷が日差しを受けてきらめいた。
「じゃあ、入れるよ」
 キラタに借りたぶかぶかの革手袋を付けて、ノノラは傍らの袋をつかむ。細い腕で抱え込み、腰を入れて持ち上げると、袋の中身を振りかけた。
 降り注いだのは雪のように白く、光沢のある粉だった。粉が触れたところから萎びるように氷が融けて、みるみる目方が減っていく。なくなってしまうのではないかと不安になったが、幸いすぐに収まった。手を突っ込んでかき回し、また袋の中身を振りかけるのを何度も繰り返しているうち、指の先が痺れるような冷たさが強くなっていくのがわかった。
「うまくいってるみたい。いつまでもつかはわからないけど」
「それはよかった」
 膨大な量の氷を見下ろしながら、デクは満足げにそう言った。
 デクがノノラに集めさせたのは、硝石と呼ばれるものだった。火薬や染子、肥料などの原料になるほか、硝子や加工肉を作る際に混ぜ込んだりする。この辺りは乾燥しているために、硝石の産する場所が近くにあって、それほど珍しいものでもないらしい。ただ、量が量だけに高くついたのだが。
 硝石は、氷と混ぜるとその温度を下げる効果がある。これを使って凍らせた果汁を供することがあるのだと、デクは知っていたらしい。それが果たして伝え聞いた話なのか、あるいは自分で食べたことがあるのかは定かではないが、いずれにせよ贅沢な食べ物だとノノラは思った。
「準備はいいか!」
 工房の中からキラタの声が聞こえてくる。まるで測ったかのようなタイミングだ。ノノラは大丈夫だと叫び返すと、ダガーを刺し込む場所だけ残して厚布を被せ直す。
 火ばさみの先に刀身を携えて、キラタが出てきた。刀身はやはりその熱を感じさせない色をしていて、むしろ極限まで冷え切っているようにさえ思える。このように蒼く鋭い光を放つ存在を、ノノラは夜空に輝く星の他に知らなかった。
 しかし、その美しさに見惚れている場合ではない。本番はこれから、それも一発勝負だ。ノノラは薄い唇をきゅっと引き締めた。
 キラタは火ばさみを逆手に持ち替えて、刀身の切っ先を氷の方に向ける。そのまま氷の中に突き刺すつもりだろう。
 キラタの頬を伝った汗が、顎の先から滴り落ちた。
「いざっ!」
 ダガーの勇ましい声とともに、刀身が氷の中へ突き立った。
 ぶしゅうっ、と激しい沸騰音がして、水煙が立ち上る。氷は見る間に融けていき、その止まることを知らない。ノノラは厚布の端を引っ張って傾け、刀身へ氷が触れ続けるように寄せてやる。
 どうやら、鉄よりずいぶん冷めにくいらしい。とはいえ、大量に用意していた甲斐あって、三分の一ほどが融けたあたりで静かになった。キラタは刀身を埋めたまま火ばさみを脇に置くと、ノノラと力を合わせ、厚布をゆっくりと引っ張り上げた。未だ冷たい水はそのまま鉄の水槽に残り、氷だけが布に濾しとられて持ち上がる。キラタの膂力は流石と言うべきだったが、それでもかなり重く、体格差で力が入りにくいのもあってよろめいてしまう。
 何度か落としそうになりながらも、じきに氷の包みを取り出して、水槽の脇に置く。キラタは布の端をしっかりと結んで零れないようにすると、ようやく額の汗をぬぐった。
「これでよし、と。しばらく冷やしておけばいいんだったな」
「そのはずです。……もう、聞けませんけど」
 ノノラの言う通り、製法にあれこれ言ってくれたダガーは、今や沈黙を守っている。
「……まあ、考えようによっては成功の証とも言える。期待して待つとしよう」
「そうですね。ならその間に、あたしは表の店を見てこようと思います」
 そう言うと、キラタはきょとんとした表情になった。
「店? ここのところ閉めているから、客の心配をする必要はないぞ」
「客はあたしですよ。そもそも、野外活動用のナイフを買いに来たんですからね」
 キラタは目をしばたいた後、大声で笑い出した。
「はは、そうだったな。すっかり忘れていた。好きなだけ見てくるといい。私はもうしばらくここにいる」
「わかりました。では、後ほど」
 うん、と伸びをしてから、ノノラは店先の方へと向かう。疲れを知らない体のはずなのに、どうもくたびれた気がしてならないのは、緊張のせいだろうか。
 振り返ると、キラタは座したままじっと包みを見つめている。その視線はどこかやるせない哀愁をたたえていたが、それは完成への不安ではなく、何か別の色を帯びているようだった。


 求めていたナイフはさっさと選び終えたのだが、キラタをしばらく一人にしておいた方がいいだろうかと思って、他の武具も見て回り、時間を潰していた。するとどうも物色をしているのだと勘繰られたらしく、デクに言いたい放題言われてしまう。
「そんな目立つもの、盗んでっても人目につくし、大したお金にはならないんじゃないの。それとも、思い切って武器替えでもするつもり?」
「あのねえ、いくらあたしだって盗んでいく場所は選ぶってば。そんな、堂々と恩を仇で返すようなこと、するわけないじゃない」
「どうだか。昨日だって、手持ちの宝石を換金しに宝飾品の店に行って、熱心に観察してたじゃないか。あれって、今夜出発する直前に侵入して、いろいろかっぱらってからとんずらしようって算段なんだろう? 宝石を換金してくれた恩を、仇で返すことなんじゃないのかな」
「えっと、それは……そうかもしれない、けど……」
 途端に語調が怪しくなるのを、デクは笑って見下ろしている。
「もう! わかったったら。どうせあたしは人でなしの盗人よ」
「そうやって拗ねるところは、盗人っぽくないんだけどね」
 デクがひとしきり笑ったところで、工房の方からキラタがやってきた。
「なんだ、まだここにいたのか。てっきり外に出ているものかと」
 思いの外時間が経っていたらしい。キラタの手には、柄と鞘のついたダガーが握られていた。
「折角ですし、他の武器も見ていこうかと。その武器で襲われた時のためにも」
「なるほど、旅というのはなかなか過酷らしい」
 冗談にも、キラタは薄く笑っただけで、気落ちしている様子だった。
「どうかしたんですか? まさか……」
「ああ、それは大丈夫だ。自分の目で確かめてみるといい」
 ノノラはダガーを受け取って、鞘から引き抜いてみる。
 その輝きは、蒼と言うより純白に近くなっていた。微かに蒼味は残っているものの、遠目に見れば普通の刃物と区別はつかないだろう。それだけ見れば、拍子抜けしてしまうかもしれない。
 しかし格別に違うとわかるのは、その纏う闘気だ。
 刀身が一回り大きくなったのかと見紛うほど、はっきりと輪郭を持った殺気の塊に、ノノラは知らず身震いをした。掌に少し余るというだけの小さな刀身を、稲妻が走り回り、音立てぬ何かが迸っているのがわかる。何物をも寄せ付けないどころか、そこに何かがあるということすら信じられなくなるような、禍々しく、それでいて美しい奔流は、空気を伝い、肌を伝い、心身を震わせる。畏怖の念すら覚えるそれを前にして、ノノラは顔をほころばせてため息をつく以外に、すべきことを知らなかった。
 そう考えると、この白さは氷雪の色なのだとわかった。竜が生きていたころ、いや、あるいはまだ生きているのかもしれないが、その住処たる氷の園、降りしきる雪の色を映して、ここに在るのだ。
 ノノラも、刀剣に疎いデクでさえも、しばらくは凍り付いたように何も言えなかった。
「どうだ」
 キラタが聞いてくる。ノノラはもう一度嘆息した。
「武器を持っている人ではなく、武器そのものに恐怖を覚えたのは、これが初めてです。こう、うまくは言えませんが……」
「腕の立つ君にそう言わしめるのだ。最大の賛辞と受け取っておこう」
「そうですね」
 物言わぬダガーを鞘に収めて、ノノラは笑った。
「そうだ、ナイフのことなんですけど」
 そう言って、ノノラは商品の並ぶ棚から三本のナイフを持ってくる。
「折角だし、古くなったものも新調しようと思いまして。この三本を買いたいんですけど、古いものは引き取ってもらえますか」
「ああ。いいだろう。だが、お代は……」
「生憎、細かいのを持っていないんですけど」
 皆まで言わせずに遮ると、ノノラは背負った荷から使い古したナイフと紙包みを取り出して、キラタに押し付ける。
「何、それ」
 出会う前に手に入れたものだから、紙包みの中身はデクも知らない。ノノラは聞こえないふりをして、キラタが包みを開くのを待つ。
 その瞬間、キラタが瞠目するのがはっきりわかった。
「これは……」
「竜鱗です。少し、小さいですけど」
 ノノラが差し出したのは、紅の竜鱗を中央にあしらったペンダントだった。おそらくは加工していないのだろう、水滴のような形をした竜鱗を取り囲むようにして、掌ほどもある豪奢な金細工が広がり、星のように散りばめられた色とりどりの宝石が、己を主張するようにまたたいている。そのせいで、鈍く照り返す竜鱗の厳かさが損なわれ、安っぽく見えてしまっていた。
「悪趣味なんですよね、それ。すごい重さで、とても付けていられませんし。細工師の腕が悪かったか、注文が酷かったのかもしれませんけど、このダガーが竜鱗でできていると知った時、本来の姿は剣なのだろうと感じました。だから、キラタさんにお譲りします。ナイフ三本の値には高すぎ、竜鱗の剣には安すぎますが、どうかお納めください」
 一息に言い切ったノノラに、キラタは困ったような笑みを向ける。
「しかし、私は……」
「だから、『満足した』なんて言わないでください」
 その言葉に、キラタは息を飲んだ。
「あたしは、キラタさんのことを尊敬しています。気の遠くなるような歳月を投げ打ってもなお、自分の手で最高の品を作り上げることを希求して止まず、持ちうる技術の粋を尽くしてそれを成し遂げる。あたしを作った人も、きっとそんな人だったのでしょう。そして、そんな人にしか作り出せない物がある。だから、失くさないで欲しいんです。人と物とが寄り添う場所を。……お願いです」
「……そうだな」
 キラタはペンダントを掲げて、通りの方から注ぐ光にかざす。キラタの目にはきっと周りの装飾など映っていなくて、いつとも知れない、竜鱗を初めて見た時のことを思い出しているのだろう。
「そこまで言われて引き下がるのは、職人の名が廃る。いいだろう、やってみようじゃないか。ただし、今のうちに引き継ぎ先を探さねばならないな」
 炉に火の戻った工房のように活気づいて、キラタは無垢な笑顔を見せた。灼けた鋼の色をしたその双眸は、紛れもない刀工の眼だ。
「ありがとうございます」
 ぺこりとお辞儀をすると、キラタの方も会釈を返した。
「いや、こちらこそ感謝している。君の協力で完成させることができたのもそうだが、もう私のすることはないと、満足しきりだったのもその通りだ。正直、普通に鉄を打つのはつまらなくてね。だが、おかげさまで新しい目標ができた。これからの人生、どれだけ残されているかはわからないが、私が培った技術を広めることに尽くそうと思う」
「ぜひお願いします。……では、そろそろ行きますね」
 そう言って、ノノラは三本のナイフと竜鱗のダガーをしまい込む。
「大事に使ってくれよ」
「もちろん。まあ、ダガーとかはあんまり使いたくないですけど」
「そうだな、それに越したことはない。旅の安全を祈っているよ」
「こちらこそ、商売繁盛を祈っています」
 互いに手を振ると、ノノラは《金物通り》の雑踏に消えていく。
 そうして、人と物、それぞれの営みへ戻っていったのだった。


「ノノラさ、今日はだいぶお喋りだったよね。特に、別れの間際」
「そうね、あたしもそう思う」
 エメラルドの瞳で、むき出しのサファイアを検分しながら、ノノラは呆れ声を上げる。
 首尾よく宝飾店から逃げ出してから、市壁を乗り越え、すでにだいぶ街を離れている。深夜の街道に人通りがあるはずもないが、ノノラは念のため道を外れ、起伏の激しい岩場を進んでいたのだった。ここまでくれば大丈夫かと腰を下ろし、獣脂の光に掲げて獲物を改めていたわけだが、色のついた光で宝石を調べても、その真価がわかるはずもない。ノノラはあっさり諦めて、その代わりに竜鱗のダガーを引き抜いた。
 その純白に灯火を映した色彩は、彼方に見える下弦の月とそっくりだ。
「たぶん、羨ましかったんだと思う。キラタさんと、この剣とが」
「羨ましい?」
「自分の在りようをはっきり自覚して、ぶれずに生きているもの。『物言わぬ武具の本分』だなんて、かっこいいこと言っちゃってさ。あたしの本分ってなんなんだろう、あたしは何のために作られたんだろう、って考えちゃう」
「前者はわからないけど、作られた理由なら、わかりきってると思うよ?」
「え?」
「作りたかったからだよ」
 煙に巻くようなその言葉に、ノノラは唇を尖らせる。
「ちょっと、馬鹿にしてるの?」
「大真面目さ。ちょっとでも役に立てようと思っていたなら、きっと君は今も何かしらの任についているはずだろう? そうじゃないってことは、ただ作りたくて、作り終えたら勝手にやってくれって、そういうことじゃないのかな。じゃなきゃ、君みたいなどこまでも人間らしい知性は生まれないさ」
「うーん」
 確かに、デクの言うことももっともだ。けれど、ただ作るために作られたというなら、作られた後の自分は、いったいどう身の振り方を決めればいいのだろう。
「あるいは、ひょっとして君も《魂宿り》だったりしてね」
 《魂宿り》というのは、デクのように人間の魂が宿ることで知性を得た物のことだ。
「そんなわけないじゃない。もしそうなら、人の時の記憶を持っているはずでしょう?」
「さあ、どうだろうね。でも、人型の物って人間の魂とすごく相性がいいんだよ? 僕だってこんな姿に身をやつしているわけだけど、そういう意味では、君の体は依り代として最高じゃないか。もしかしたら、もともと知性があったとしても、人の魂を呼び寄せて、知らないうちに感化されたりするのかもね。知りもしないはずの名前を覚えていたりとかさ、ない?」
「ないってば。おどかさないでよ。今度こそからかってるでしょう」
「まあ、半分半分かな」
 ふふふ、と不気味な笑い声を上げて怖がらせようとしてくる。ノノラはそれにむきになって、余計に面白がられてしまう。
「まったく。でも、そういうことなら、あたしの本分は旅そのものか、旅の中で見つけるものってことになるのかな」
「君がそう思うなら、そうなんじゃない」
「はっきりしないなあ」
「はっきりしないくらいが、君らしいよ」
 返事の代わりにふうっと息をついて、ダガーを抜いたまま立ち上がる。
 十文字に斬り払うと、腕を引きずられるような感覚はなくなっていた。重みはあるのだが、ちゃんと手の動きに追い付いてきて、止まる時はぴたりと止まる。重心の位置をノノラに合わせてくれたのだ。まるで腕の長さがダガーの分だけ伸びたように錯覚する。
 そのまま、普段通りに練習を始める。斜めの斬り払い、突きをはじめとして、一通り。深い闇に純白の残像が刻まれるのを、デクは黙って眺めていた。
 このダガーのように、はっきりとした目的があるのが物としての本来なのだろう。しかし同時に、はっきりとしない生き方も、あっていいのかもしれない。剣を振りながら、ノノラは考える。
「……でも、行先くらいは、はっきりさせないとね」
 口に出すと、呆れながらも楽しそうな声が、縁なし帽から降ってくる。
「また僕が決めるのかい? ……なら、あの月の方ってことで」
 ダガーを腰の鞘に収め、鍔に留め具をかける。獣脂の灯火を吹き消して荷を持ち上げると、雪の色した月光の方へ、ノノラは歩き出したのだった。

忘れ得ぬもの

 白い風が駆け抜けていく。
 氷雪を容赦なく叩きつけるそれは、びょうびょうと唸り声を上げ、雪の大地に爪立てて
削りとり、巻き上げる。草木どころか石くれの一つも見当たらぬ山肌は、押し固められ、風に削られた万年雪で鏡のような銀色を晒していた。
 雪と風の住まう霊峰、およそ生命の営みと外れた、色のない世界。
 にもかかわらず、脚を雪に埋めて行くものが、ひとりあった。
 あるいは、だからこそ、と言うべきだろうか。
 エメラルドの双眸で眼前に舞う雪を透かし見る、少女の形をした人ならぬもの。誰が呼んだのかノノラと名乗る人形は、素肌に霜が張らないよう両手両足に厚布を巻いているものの、あとは革製の胸当てと、こちらも革でできたぼろコートという、極寒の秘境にはそぐわない軽装で步を進めている。
 実際、ノノラはほとんど何も考えず、ただ機械的に足が動くのに任せていた。少女のあどけなさを模す丸みある顔に浮かぶのも、生気のない無表情。幽鬼のような不気味さを醸す一方で、作り物としての美しさが際立っていた。
 もちろん、人形の身とはいえ危険は尽きない。寒さも息苦しさもこたえないが、体が凍りつけば動けなくなるし、氷で隠れた谷に落ちれば命はない。加えて、払っても払っても、縁なし帽の上に雪が降り積もり、背負う荷に霜が育っていって、ずしりとのしかかってくる。ガラスのように硬い氷でできた斜面は鋲付きブーツでも滑りやすく、さらに氷雪を抱き込んだ重い風が転げ落とさんと吹き付けてくる。気を抜けば奈落の底へ真っ逆さま、となるのは目に見えている。
 いつ果てるともわからない旅路は、無謀と言うほかなかった。
 しかしその無謀さをノノラはつとめて考えないようにして、ただ淡々と前に進む。意思を持たない機械に、物に、成り下がろうとする。
 まるで、人ならざるものとしての自分、物の理に生きる自分という存在、あるべき姿を、自身に刻み付けようとしているかのようだった。
 びゅおおおっ、と白い風があざ笑うように鳴き声を上げる。その声は長く尾を引いて、あちこちにこだましていった。
「……冷たい」
 ノノラはそれだけ呟くと、まぶたに張り付く霜をぬぐって、何人たりとも訪れることない頂へと、また一歩踏み出したのだった。


 寝食を必要とせず、また動物の贄となることもないノノラは、旅路においてひとところに留まることはない。休みなく連綿と続く旅が生業と言っていい彼女の歩みは、一滴の水もない砂漠、獰猛な獣の住まう森、月明かりのない夜ですら止めること敵わない。
 しかし、とある山麓に抱かれた樹海で、ノノラの足を止めるものがあった。
 鬱蒼と茂る枝葉の暗がりに、木の根が蛇のようにのたくっている。樹木が光を独占しているからか下草は少ないが、雪融け水が地下に流れ込んで水脈を成しているのだろう、土はどこかしこも湿っていて、緑の鮮やかな木の葉が絨毯を作っていた。それを蹴散らかして倒木を飛び越えると、樹液をすする蛾が褐色の翅をひらひらさせて飛び立っていく。
 蛾の羽ばたきにつられて木の向こうを見やると、ノノラはそれに気が付いた。
 木の葉に埋もれるようにして、横たわる少女の姿。
 暗闇の中でもはっきりわかる金髪が、土に汚れながらも鈍い光を宿していた。投げ出されたむき出しの腕は細く、青白い。人里離れた森の中だというのに、装いは旅のそれとは程遠く、着の身着のまま街を出てきたかのようだ。さらにはあちこち破れ、擦り切れ、ところどころ血がにじんでいる。誰が見ても行き倒れに相違なかった。
 とはいえ物の理に生き、わけても旅の盗人であるノノラにとって、行き倒れの旅人などは金目の物を漁りこそすれ、助ける義理も人情も持ち合わせていないのだった。少女の様子では金品を身に付けているはずもないので、見なかったことにするのが賢明というものだ。
 しかし何を思ったのか、ノノラは足を止めて少女のもとに駆け寄った。
 近づくと、さやさやと枝葉の揺れる音に混じって小さな吐息が聞こえた。よく見れば、うつぶせに倒れこんだ体がわずかに上下しているのがわかる。頭からつま先まで素早く検分したところ、大きなけがもなさそうだ。水や食料どころか袋の一つも持っていないので、飢えて倒れたのだろう。
 軽い体を抱き上げると、ふっと甘い香りが立ち上って、消えた。ノノラは眉を上げたが、それきりすんすん鼻を鳴らしても何も匂わず、かといって気のせいとも思えないのだった。
「おねえ……ちゃん……?」
 薄く、ひび割れた唇が、かすれた言葉を紡ぐ。
 顔は蒼白で、擦り傷と土の汚れが浮き上がって見える。まるでキャンバスに絵の具を塗りつけたようだ。痩せて骨ばってはいるものの、死に近づいているからか、整った顔立ちといい精巧な人形のようで、鏡映しに自分の顔を覗いている気分だった。
 ――助けよう。
 そう思ったのは気まぐれかもしれないし、自分に似た容貌の少女に同情したのかもしれないし、はたまた姉と呼ばれたことで何らかの義務感に駆られたのかもしれない。それは、ノノラ本人にもわかりかねた。
 ただ一つ確かなのは、ノノラがこの瞬間に盗賊としての領分、物としての領分を踏み越える決断をしたという、事実だけなのだった。


 獣道や水音を頼りに小川を見つけるまで、さほど時間はかからなかった。水を飲まないノノラにとって人や動物の集まる水場は避けるべき場所で、ごくまれに体を洗うために使うくらいだったが、いつも積極的に避けているぶん場所の見当はつきやすかった。
 あたりに人影のないことを確認してから、木の根元に少女をそっと横たえると、角ばった岩の上をぴょんぴょん跳んで渡り、水をすくってみる。上流なだけあって流れが速く、水はよく澄んでいて、特に匂いもなかった。
「ほら、起きて」
 水を汲んだ瓶を片手に少女の肩をゆする。うめき声を上げるも目を開ける様子がないので、仕方なく抱き起こして瓶を口につけてやる。少し水を含ませてやると気がついたらしく、喉を鳴らして飲み始めた。
「大丈夫? 気分はどう?」
 水を汲んでは飲ませるのを何度か繰り返してから、ノノラが尋ねる。意識はあるはずなのに、少女は未だ目を開かなかった。
「おなか……すいた……」
 弱々しくも、さっきよりはっきりした声で少女が答える。
「わかった。ちょっと待っててね。ご飯を探してくるから」
 言って、背を木の幹にもたせかけてやる。少女の顔がわずかにほころんで、もごもごと何かを呟いたが、すぐに寝息を立て始めた。
 少女の髪をそっとなぜて微笑むと、獣脂のかけらに火をつけた。小さな火で暖は取れないが、鼻の利くノノラにはくすぶる煙の匂いが目印となる。狩り用ナイフの刃を改めてから、ノノラは森に分け入っていった。
 ほどなくして、ノノラは兎を一羽と薪になりそうな小枝を手に戻ってきた。手早く火を起こすものの、兎を捌こうとして手を止める。とりあえず仕留めたのはいいが、食事の必要がないノノラには、調理の仕方がわからないのだった。
 少女の方に目配せしても、すやすや寝息を立てている。そもそも旅の支度もなしに森へ足を踏み入れるくらいだから、起きていたとしても狩りの心得などないだろう。むーん、と唸って、仕方なしに大振りの短刀で首を落とす。清流に血を流しながら、ノノラはまだ生温い兎の骸と格闘を始めた。
 生きている兎より死んでいる兎に苦戦するのは皮肉だったが、なんとかぶつ切りにした肉をナイフに刺してあぶっていると、少女が再び目を覚ました。
「もうちょっとで焼けるからね」
 聞こえているのかわからないくらいにうつらうつらしながらも、少女は鼻をひくつかせて、肉の焼ける香ばしい匂いに夢中になっているらしい。きゅうっとお腹の鳴る音が聞こえて、ノノラまで腹が空いたような気分になった。
 芯まで火が通ったところで肉を差し出すも、少女は反応しない。
「……おねえちゃん……まだ?」
 目の前に焼けた肉を差し出されてもなお、お預けを食らっているようにそう言うのを聞いて、ノノラも流石におや、と思った。見れば、少女はまだ目を開いていない。起きているはずなのに、どうして。
 そこで、ノノラは唐突に悟った。
 ――目が、見えないんだ。
 しばし茫然として、せっかく用意した肉を取り落としそうになった。
「ねえ、おねえちゃん。お肉のいい匂いがするよ。もう焼けたんでしょう? 食べちゃだめなの?」
 返す言葉が思いつかなくて、ノノラは何も言わずに肉の塊を押し付けた。よほど空腹だったのだろう、少女は獣のようにむさぼり始める。その姿をぼうっと眺めながら、ノノラはあることに思い至った。
 ――『おねえちゃん』は、どうしたんだろう。
 聞くことはできなかった。きっと、この少女はノノラを姉か、あるいは少し年上の親しい人と勘違いしているのだろうが、ノノラが少女を見つけた時は一人で倒れていた。目が見えないのをいいことに少女を見捨てて行ってしまったのか、あるいはもう力尽きてしまって、盲目の少女がそれに気づいていないのか……
 『おねえちゃんはここにいない』と、言ってしまうのは簡単だ。しかし、それは少女のためになるのだろうか。こんな森の奥深くに一人取り残されたと知ってしまったら、立ち直ることはできるのか。自分を偽ってでも、少女を安心させてやるべきではないのか。
 ノノラにはわからなかった。
 そんな葛藤をよそに、少女は顔を脂まみれにしながら手づかみで肉にかぶりついている。本当はノノラが口に運んであげるべきなのだろうが、生憎と食器の類は持ち合わせていない。ナイフや短刀はたくさん持っているのだが、どれも切れ味が鋭いので、下手に使うと怪我をさせかねないし、まして少女は目が見えないのだ。とりあえず一つ目の塊を食べ終えたら手を洗わせるのが先決だと、ノノラは苦笑いした。
「ごちそうさま! ありがとう、おねえちゃん」
 しばらく経って最後のひとかけを口に入れると、少女は手を合わせて満足げだ。兎の半身を平らげただけのことはあって、だいぶ元気を取り戻したらしい。血色がよくなると、体の傷や汚れもやんちゃ娘の勲章に見えるのが不思議でならなかった。人間というのは食事ひとつでこうも様変わりするものかと感慨深かったが、同時になんだか寂しく感じてしまう。
「食べ終わったなら、体を洗おうか。そんなに汚れてちゃ気持ち悪いでしょう」
「うん!」
 怖いくらい素直に少女が返事をする。ノノラの背中にすがりついて、無邪気に、何の疑問もなくおぶられるままになっている。
 無防備な少女をかどかわすならいっそ盗賊らしいかもしれない。けれどノノラは『おねえちゃん』として振る舞おうとしている。ご飯を与えて、体を洗って、面倒を見ようとしている。
 背中をつかむ手から、じんわりと温もりが染みてくる。ぷくぷくとして、果肉のように柔らかい手。
 ――どうせ世話をするなら、『おねえちゃん』でいいのかも。
 盗人ノノラである限り、少女は助けられない。その手は人から奪うことはあっても、人に施すことはない。ならいっそ今は『おねえちゃん』になって、この少女を見守るのもいいだろう。懐炉のように暖かい少女を背負いながら、ノノラはそんなことを考えている。
 長い髪が水に濡れると、少女はぶるるっと首を振って水滴を散らした。黄金色をした髪の揺れる先で、斜めに射す陽光で淡い紅に色づく水滴がそよ風にさらわれていく。気持ちよさそうに顔をほころばせて見上げる少女に、ノノラも優しい笑みを返す。少女が自分の肢体をさする間、ノノラは波打つ金髪に手櫛を入れながら、胸の奥に満ちてくる充足感に浸っていたのだった。


 それから幾日が過ぎた朝、木の葉を重ねた寝床の上でうん、と伸びをする少女の姿があった。
「おはよう」
 木に寄りかかって立つノノラが、頭上から声をかける。
「……おねぇちゃ、おふぁよ。……くぁ」
 未だ眠りから覚めやらぬ、といったところだろうか。ろれつの回らない少女は大口開けてあくびをすると、あぐらをかいたままぼうっとしている。寝ても覚めても目を閉じているので、なかなか見分けがつかない。
 しかし、ノノラには起きているのだろうとわかった。斜めに跳ねた前髪を直してやってから、ぽすんと縁なし帽を乗せる。ぼろコートと縁なし帽は今や少女の持ち物になっていた。お下げ髪が隠せず、ナイフや短刀も丸見えになってしまうが、人に会わぬ限り不便はないだろうし、薄い衣一枚の少女はあまりに寒々しいのだった。
「今日はどこへ行こうか」
「鳥さん! 鳥さんの声が聞きたいな」
 川で顔を洗わせるとすっかり目が覚めたらしく、両手をひらひらさせてはしゃいでいる。はつらつとした笑顔に浮く傷はかさぶたが剥がれたばかりで、つやつやした薄桃色をしていた。
「鳥さんねえ……」
 拠点に決めた川の周りはそれなりに探索を進めたのだが、鳥のさえずりには覚えがなかった。とはいえ、人や食料になりそうな獣がいないか注意していたので、気が付かなかっただけかもしれない。耳を澄ますと、遠くの方からチチッと鳴き声が聞こえた気がした。
「あっちの方にいるかも。行ってみようか」
「うん、行こう!」
 ノノラが背を向けてかがむと、少女は何も言わないでも背中に取りついてくる。首に回された手の暖かさを感じながら、ノノラは森の中へと歩き出した。
 地面はでこぼこしていて、濡れた落ち葉が敷き詰められている。あちこちで木が倒れており、朽ちた断面には苔や茸がびっしりと生えてむっとするような臭気を漂わせていた。
 足場は最悪だったが、体に染みついた忍び足で苦もなく分け入っていく。少女をおぶっていてもなんのその。むしろ目の見えない少女に歩かせる方が危ないし、手を繋げば体温で人間でないことがばれてしまう。おぶっていても大差ない気はするが、ともかく直接肌が触れないように気を付けていた。
 時々足を止めて、鳴き声を探ってみる。
「聞こえる?」
「え、どこ?」
 少女は驚いた様子できょろきょろとあたりを見回す。盲人のしぐさには見えないが、耳を傾けて音を探しているのだろう。
「正面のほう。もうちょっと近づかないとダメかな」
 ノノラは耳がすこぶるいい。茂みの擦れる音に埋もれる中から、ぴゅーいちよちよ、と笛の音のようなさえずりを探り当てていた。
「うーん、わかんないなあ」
 そう言って悔しそうにうなだれる。少女はいつも感情を全身で表現しているような気がした。ひょっとして目が見えないことと関係しているのかしら、と考える。
「じゃあ、もっと進んでみようか。でも、ちょっと待ってね」
 獣脂の煙の匂いがそろそろ薄くなっている。このあたりにもう一つ目印を作っておかないと、戻れなくなるだろう。少し逡巡してから、ノノラはあたりの枝を折りつつ進むことに決めた。あまりほうぼうに痕跡を残したくなかったが、もう一度獣脂を使っても匂いの区別がつかないので、今度はここから川の拠点がどちらかわからなくなる。
「よし、行こうか」
 手始めにそのへんの小枝をぽきりと折ってから、ノノラは再び歩き出す。
 しばし行くと、急に開けた場所に出た。
「あっ、聞こえる!」
 少女が心底嬉しそうに声を上げる。まばらになった枝葉の隙間から、青黒く丸々とした小鳥が覗き見えた。さっき耳にしたように、ぴゅーいちよちよ、と鳴いている。
 あるいは、色合いの鮮やかな小鳥もいた。頭頂部は黒で顔に白のラインが入り、橙色の胴体を鋼のような鼠色の翼が包んでいる。こちらは、ちちぴーちちぴーちち、とさえずって、揺れる枝の上で所在なさそうにしている。
 他にも、姿は見えないが様々な鳴き声が響いてきた。ノノラも少女も静かになって、鳥たちの歌声に聞き入っていた。
 ノノラが覚えている限り、こうやって鳥の声を静聴したことなどない。記憶は最近十年分くらいなものだが、それ以前にもこんな経験をしていたかどうか。鳥は求愛のために鳴くのだと聞いたけれど、そうならばノノラには縁のない出来事に違いなかった。
 それでも、鈴音のように澄んだ声は清らかで、体の内を洗い流していく感じがした。琴線に触れるとはこういうことなのだろう、染み通った音が自分の中の何かを揺らすのがわかる。
 動き、考え、話す。それでも結局は物の身である自分にも、生命の営みに触れて心動かされるのだと知って、懐が暖まるような心持ちだった。
「満足した……かな?」
 どれくらいの時間そうしていただろう。興を削いではいけないと、そっと声をかけたのだが、少女には聞こえなかったらしく、返事はなかった。
 その代わりに、息苦しそうな喘ぎ声が返ってきた。
「……どうしたの?」
「き、きもちわるい……」
 緊迫した声で尋ねると、今度は返事があった。見れば、顔を火照らせて汗をかいている。背中からそっと下ろしてやると、うっ、と苦しげにうめいて、吐いてしまった。
 夢見心地からいっぺんに現実に引き戻されたノノラは、少女の背中をなでながら、どうしようかと慌てていた。
「大丈夫?」
 ひとしきり吐いてお腹の中が空になったのだろう、それでもしきりにえずいては、ない食べものを吐き出そうとしている。果汁のような濁った淡黄色の液体から、つんと鼻につく刺激臭がした。
 少女は首を横に振る。確かに、どう見ても大丈夫そうではなかった。
 何が原因だろうかとノノラは必死に考えた。水はきれいなものを飲ませたし、肉もしっかり芯まで火を通した。傷は洗って布を巻き、睡眠もたっぷりとらせた。特に思い当たる節はない。
 ともかく、今は少女をどうするかが先決だ。いつの間にか少女の体は火の玉のように熱くなっていて、このまま衰弱するのは目に見えていた。ひとまず拠点に戻ろう、とノノラは考える。必要最低限なものを除いて荷物は置いてきてしまっているし、これだけ吐いて、これだけ汗をかいていれば、脱水症状を起こすのは時間の問題だと思ったのだ。
「……いったん戻ろうか。捕まっててね」
 やはりいらえはなく、ノノラの背を握る力も弱々しいが、少女はなんとかすがりつく。背負い上げ、ゆっくりと立ち上がると、ノノラは折れた小枝と、煙の匂いや水音を頼りに拠点まで戻ってきたのだった。
 状況はかんばしくなかった。寝床に横たえた少女は相変わらず苦しそうで、水を飲ませてもすぐに吐いてしまう。仕方なしに濡らした布で体をぬぐってやるのだが、汗は止まらず、熱も引きそうになかった。
 わらにもすがる思いで、ノノラは自分の荷をひっくり返す。油紙に包んだ獣脂、ランタン、火縄、火打石、のこぎり、砥石、厚布、裁縫道具、大小さまざまの瓶、金属の器、お金。あとは身に着けているピック、短刀、ナイフ、ロープ。かろうじて薬と呼べるものとしては、毒とその解毒剤しか持ち合わせていない。もちろんその薬効など知らないから、飲ませるわけにはいかなかった。
 ――どうしよう。
 ノノラは自問する。少女の体力に懸けて自然に治るのを待つほかは、手の施しようがないように思われた。薬草を探そうにも、何が効くのかノノラにはさっぱりだ。ならば少女に寄り添って、衰弱していくのを指をくわえて眺めているだけか。そんなことをする自分が許せなかった。
「おねえ……ちゃん」
 出会った時と同じように、少女がそんなうわごとを言った。
 ――あたしは、無力だ。
 暗澹たる気持ちでノノラは認めた。物として森の中で生きていくことはできる。けれど同じようにしても、人として森の中で生きることはできないのだと、思い知らされた。
 しかし、ノノラは諦めたわけではなかった。かがみこんで少女を見つめ、肩にかかる金髪をなでてやりながら、語りかけた。
「ごめんね。おねえちゃんじゃ、ダメみたい」
 げほ、げほっと咳をしてから、少女はもの問いたげに首をかしげた。
「森を出て、街に行こう。そこで詳しい人に診てもらおう。その間、我慢できる?」
「う……」
 声を出すのがつらいらしく、少女は朦朧としながらうなずいた。不安で仕方ないが、そうと決めたならすぐ行動に移すべきだ。
 少女と会う前、ノノラが近くの街を出てこの森に入るまでにおおよそ一日を要した。休み休み進まなければならないから、もっと時間がかかるだろう。
 ノノラは手持ちの瓶に入るだけ水を汲み、明け方に仕留めて解体しておいた兎の骸と、薪用の小枝を縄で縛って肩にかける。ひっくり返した荷を素早くまとめ、火の跡を消し、落ち葉を積んだ寝床を蹴散らかして目立たなくすると、少女を抱えて出発した。
 少女をあまり揺さぶらないように、腰を落としてすり足で運んでいく。脚にかかる負担は相当なもので、痛みを感じない人形の身ながら、時折ぎいっときしむのがわかった。かといって歩みを止めるわけにはいかない。ノノラはほうっと息を吐いて、倒木をまたぎ越した。
 木々は次第にまばらになり、やがて森を抜けたころにはすっかり日も傾いていた。出発してから半日と言ったところだろうか、そろそろ休む頃合いだろうと思って火を起こし、少女を下ろして、自分の膝を枕にして寝かせてやる。
 少女は静かに寝入っていた。熱は下がらず、噴き出す汗も止まらなかったが、寝顔はそれなりに落ち着いている様子でノノラは安堵する。お金は十分に持っているし、街まで持ちこたえてくれればなんとでもなるだろう。
 もう暗くてわからないが、街道もすぐそばにあるはずだ。日が昇り次第、街道を見つければ、あとはそれに沿って歩くだけ。途中で街に向かう馬車があれば、お金を払って乗せてもらうのでもいい。
 ともかく、無理をさせた分、今はゆっくり休ませるのが肝要だ。定期的に薪をつぎ足し、汗をぬぐい、夜を明かす。
「おねえ……ちゃん……」
 膝の上で少女が微笑んだ。それに笑みを返しながら、ノノラは水平線に光差すその時を、今か今かと待っていたのだった。


 首尾よく街道を見つけて進んでいくと、多くの旅人が休息に使うのだろう、そこかしこに焚火の跡があるおあつらえ向きの広場に行き当たった。残念ながら他の人と行きあうことはなかったが、街まであといくらもないはずだ。少女の方も少しは元気を取り戻して、布にしみこませた水を含ませてやると飲ませることができた。
翌日の昼頃、無事に街の大門にたどり着いた。背丈の三倍くらいの市壁が緩やかな弧を描いて、見渡す限り続いている。鉄製の重そうな門扉が開かれた両脇に、革鎧の衛兵が短槍を掲げて立っていた。
「そこの君、この街にどんな用事かな」
二人のうち、右側に立っていた兵士が聞いてきた。ノノラはあらかじめ考えておいた通りに答える。
「私は先日この街を出立した旅人です。ここから街道を少し進んだところで茂みの中にこの子が倒れているのを見つけました。隊商からはぐれたのか、詳しいことはわかりませんでしたが、ひどく体調を崩していて私の手には負えないとわかったので、街の人に診てもらおうと連れてきたのです」
虚実織り交ぜて話し、ノノラはおぶった少女を見せる。人に会う時に不審がられてはいけないので、縁なし帽と革コートは返してもらっていた。破れた薄衣一枚の少女に兵士も同情したらしく、一人が詰所に引っ込んで毛布を持ってきてくれた。
「失礼だが、お金は持っているかね?」
「通行税ですね。おいくらでしょう」
どこの街でも、狩りや採集が必要な狩人や薬師、材木商、あるいは組合に登録している行商人のように許可証を持っている者を除いて、市壁の出入りには少なくない税が課せられるのが普通だった。後ろめたい目的で街に訪れるのを防止し、逆に食い詰めた人間が夜逃げするのも防ぐ意味合いがある。
しかし、懐を探るノノラを手で制して、兵士は言った。
「いや、通行税は大目に見てやろう。医者にかかるためにとっておきなさい。それより、街医者とはいえ結構な料金を取られるが、大丈夫か」
「え? ああ、ありがとうございます。手持ちはそれなりにあるので大丈夫だと思いますが……よろしいので?」
不審がってノノラは尋ねる。こういう衛兵はたいてい杓子定規で、しかも街の中枢組織と通じているから、余所者が欲張って誤魔化そうとすると痛い目に遭うものだと相場が決まっていた。もちろん、だからこそ衛兵などが務まるわけだが。
「なに、やんちゃな娘っ子が市壁の外に飛び出して、懲りて戻ってきただけのことだ。なあ?」
「そうだな、昨晩はどうやら居眠りをして、人が出て行くのに気がつかなかったらしい。上に知れたら大目玉じゃないか。困ったなあ。これは黙っておいた方がいいだろうか」
毛布を渡してくれた兵士の方も、にやにや笑いながらそんなことを言っている。
「というわけだから、気にしなくていい。通りなさい」
「……ありがとうございます」
いまだに狐につままれたような心地で、ノノラは門をくぐる。その背中を追いかけるように、兵士が付け加えた。
「そうだ、街医者は大通りの向こう側に居を構えている。通りに看板が出ているからわかるはずだ。……女の子、よくなるといいな」
礼は言い尽くしてしまったので、代わりにぺこりとお辞儀をすると、人通りに従って大通りへと入っていく。その間少女の寝息を聞きながら、疑ってしまった衛兵に後でもう一度お礼を言おうと決めたのだった。


二度と来ることはないだろうと思っていた大通りに足を踏み入れて、久方ぶりの活気が肌に伝わってきた。よく整備された石畳の通りは貿易都市の名に恥じないもので、両側に商店がこれでもかと立ち並び、あちこちで馬車から荷を下ろしたり積んだりと忙しそうにしている。取引が紛糾しているのか、店番と行商人が怒鳴りあっている一方で、別な場所では笑顔で握手を交わしていたりする。とかく人の営みにうといノノラにはそんなやりとりは理解しかねるが、いちばん人間を人間らしいと感じる光景の一つだった。
通りを中央で二分するように鐘の釣り下がった塔が建ち、その周りは広場になっている。ここには商店も個人もいっしょくたになって露店を立てていて、食料やら生活用品を売る市場と化していた。果物、香料、肉、魚、薬草、金物、木製品、さらには人の汗の匂いまでないまぜになった独特の臭気がたちこめている。にぎわう人々の波をかいくぐるようにして、ノノラは広場の向こう側、街医者の居へと続く道を目指す。
「お嬢ちゃん、どうだい、何か買っていかないかい?」
 そんなノノラに声をかける店主があった。先を急ぐと言いかけたところ、そこが駄菓子屋であることに気が付いて、飴くらいなら少女も食べられるかもしれない、と思い当たる。
「……おねえ、ちゃん? ここは……?」
 そのとき、少女が目を覚ましたらしい。あたりの匂いを嗅いで、きゅっと顔をゆがめた。
「街の市場に来てるの。ねえ、飴を舐めるなら大丈夫かな?」
「えっと……」
 今までに比べてずいぶん意識がはっきりしていたが、ノノラの問いには答えず、かなりそわそわしている様子だった。毛布の中で身じろぎをして、顔には不安の色が濃い。ノノラにすがる手の力を強くして、肩を震わせていた。
「どうしたの?」
「だって……」
 言いかけて口をつぐむ。少女を支える手を通じて、ノノラにも胸を揺り動かすような不安が伝ってくる。
「大丈夫、すぐにお医者さんのところに連れて行ってあげるから」
 ほとんど自分に言い聞かせるようにして少女をなだめる。けれども少女の怯えは止まず、ノノラもすぐにこの場を離れないといけないような気がしはじめていた。
「お嬢ちゃん、その娘は……」
 やり取りを聞いていたのだろう、店のおばさんが猜疑の視線を向けてくる。少女の顔を食い入るように見つめていると気が付いて、気味が悪かった。
 嫌な予感がして、少女の顔を肩の後ろに隠す。しかしかえってそれは不審を誘ったらしく、商売っ気に満ちた笑顔が、きっ、とひきつった。
「忌子だ! この娘、《無明の忌子》だあよ!」
 市場の喧騒を切り裂いて、店主の声が響き渡る。
 息を飲む音が重なり合い、時間が凍り付く。
 水を打ったような静寂。
 ――これは、いったい……?
 おどろおどろしい視線に突き刺されて、息が詰まり、足が縫い留められる。
 つとめて人の世に交じらず陰に生きるノノラにとって、鉄釘のような視線はおぞましいなんてものではない。それが数えきれないほど、見渡す限りの目という目が集まり、どろどろに凝り固まった嫌悪の泥濘へとノノラを飲み込もうとする。ノノラは人形の身に、初めて総毛立つ感覚を知った。
 ノノラも、それを取り囲む人だかりも微動だにしない中、唯一わなわなと震える指を背負った少女へと向ける店主が、言い募る。
「その娘だ、おぶられている娘! 目が見えないのさ。罪深さゆえに光を失い、自ずから災厄を振りまく。《無明の忌子》に、間違いないよ!」
 再びの沈黙。
 ノノラは目の前の女性が何を言っているのか、まるでわからなかった。ぎゅっと背中を握る手が冷え切って、粘っこい汗で湿っているのを感じる。少女は熱があったはずなのに、その冷たさは死人のようだった。
「そんな、ただ目が見えないだけなのに、どうして……」
 ノノラの言葉に、人だかりがどよめく。そのざわめきは波となって、うねりながら伝っていく。
「ただ目が見えないだけ、だって?」
 いきり立った女性は火炎にくべた鋼のように赤熱して、ノノラに食ってかかった。
「冗談じゃあないよ! 慈悲深い神様が、何の理由もなしに光を奪うような仕打ちをなさるもんかね! 盲目は邪悪のしるしだよ。神の導きたる光を享受できないのだから、当然さね!」
 そうだそうだ、と野次が飛ぶ。思いがけない理不尽には怒りすら湧かず、ただ呆れてものも言えない。夢でも見ているような現実感の薄さに戸惑うばかりだ。
 しかし、うなじのあたりをびりっ、と痺れさせるような気配に、ノノラは我に返る。
 咄嗟のことでよろめいた、その僅かな隙が致命的だった。
 重い衝撃が背中を打ち、ノノラはたまらずつんのめる。
 少女の重みが消えて、どさり、と体が石畳に打ち付けられる音がした。
 血相を変えて振り返り、少女の名を呼ぼうとして、その名を知らないことに気が付いた。幸い気を失っているだけのようだったが、なすすべなく倒れる少女を見下ろしながら、胸に広がる虚無感を噛みしめていた。
「おい、この娘、見たことあるぜ」
 少女を殴り飛ばした男が愉快そうに言った。むき出しになった腕は隆々としていて、いかにも荒くれ者といった風体の三人組が、少女を取り囲んでいる。
「こないだ逃げられた奴だな。確かクソ生意気な姉がいたはずだが……」
 足で少女の体を転がして顔を確認すると、ノノラと見比べる。情けないことに、ノノラは金縛りにでも遭ったかのように体が動かなかった。
「似てねえな、じゃあ別人だ。ほら、用がないなら行った行った」
 そう言って、邪険に追い払うようなしぐさをする。ノノラが動かずにいると、すっと目を細めてにじり寄ってくる。
「……聞こえなかったか、それとも、言わなきゃわからねえか? 今すぐ立ち去るならいいが、かばうってんなら容赦はしねえぞ」
 ただの憂さ晴らしだ、とノノラにもわかった。三人の男は一様に嗜虐的な笑みを浮かべて、少女やノノラをねめつけている。しかし取り巻く人々はみな我関せずと言わんばかり、押し黙って事の成り行きを見届けようとしている。
 ずっと一人旅を続けてきたノノラだが、これ以上の孤独に覚えはなかった。
 操り人形なら、糸が切れたようと言うのだろう。途方もない無力感に頭の芯まで麻痺してしまって、遊離した自分の魂が自分の体を見下ろしている気分だった。
「……まあ、邪魔する気がねえなら、そこで黙って見てな。邪悪な忌子が死ぬところを」
 ――死、ぬ。
 その言葉、その意味が頭の中に滑り込んでくる。張りつめた空気で固まった体がほどけて、何かがお腹のあたりにすとん、と収まるのを感じる。
「……その言葉を口にするってことは、あなたたちには覚悟があるのね」
 ゆらり、と、蛇が首をもたげるように立ち上がる。
 エメラルドの瞳が、ぴかり、と無機質な光を放った。
「……ああ?」
 男の顔が醜くゆがむ。それは怒りのためではなく、獲物が増えるのを喜ぶ狩人の顔だ。
 今、獅子に屠られるとも知らないで。
「……命のやり取りをする、覚悟が」
 刃が風を切り、ひゅううん、と鳴いた。
 音もなく抜き放たれ、虚空を疾走したナイフは、五歩離れた男の喉笛にあやまたず突き刺さり、濁った断末魔へと変わった。
 左半身から石畳に崩れ落ちた男は、がぽっ、ごぽぽっ、と血の泡立つ音を漏らして、真ん丸に見開いた目を一瞬ノノラに向ける。怨嗟に満ちたその視線に全く怯むことなく見つめ返すと、ノノラはかがみこみ、無造作にナイフを引き抜いた。どぽり、と冗談のような量の血が噴き出ると、男の体が痙攣して、動かなくなる。
 血の色を映したエメラルドの瞳が、輝きを増していた。
「て、めえ!」
 残りの二人が短刀を引き抜いて、周りから狂乱の声が上がる。我先にと逃げ出す者、足に根が生えたかのように棒立ちになっている者、ごくまれに、腕に自信があるのか不敵な笑みを浮かべてたたずんでいる姿もあった。けれども、そういった外野の出来事は薄ぼんやりと意識するだけで、ノノラはもっぱら二人の男の一挙一動に神経を逆立てていた。
 血にまみれたナイフと男たちの得物とを見比べて、ノノラはナイフを懐にしまう。二人の武器はノノラが持っているものよりリーチが長く、重いので、斬撃を受け止めるのは難しいだろう。同時に斬りかかられた時のことを考えると、下手に武器を持つより柔軟に対応できる素手の方がいい、と判断したのだった。
 手ぶらで少女の前に立ち塞がったノノラの所業を、男たちは挑発ととったらしい。ほとんど同時に唸り声を上げて、勢いよく短刀を突き込んできた。
 勝敗は一瞬で決した。
 ノノラは少しかがみながら、相手の腕に内側から自分の腕を合わせて外側に押しやり、そらす。そのまま器用に二人の手首をつかんで、下に押し付けながら手首を返してやると、短刀はあっけなく地に落ちた。二人の腕を引きつつ、一人は顎下から蹴り上げて悶絶させ、もう一人は関節を極めて体制を崩してから、袖口に仕込んだナイフで首筋を切り裂いた。蹴り上げた方も、倒れ伏したところを膝で押さえてとどめを刺す。
 流れるような立ち回りに、見る者は息を飲んだ。
 首を裂かれ血だまりに沈むならず者が三人と、小柄な少女の形をしたノノラ。血をかぶった顔に浮かぶ冷徹な無表情、澄んだ緑の光をたたえるまなざしを、誰もが魅入られたように眺めていた。
 辺りをぐるりと見回してから、死人の服で返り血とナイフについた血をぬぐって、抜身のまま転がっている短刀を一瞥する。無駄に刀身がぶ厚く、刃もあまり手入れがされていなさそうだったので、無視して立ち上がった。
「こ、ここ、こんな……こんなことをして、あ、あんたは!」
 最初に少女へ指を向けた、駄菓子屋の店主が言った。無感動に、すっとそちらへ視線を向けると、ひいっと声を上げてたじろいだ。
「盲人は殺すのがあなたたちのルールなら、連れに害なす人は殺すのが旅人のルール」
 ノノラは少女を担ぎ上げると、店主など目もくれずに、すたすたと歩き始める。
「どいて」
 そう言うと、茫然と立ちすくんでいた人々は蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。
 あれだけにぎわっていた広場は今や無人で、露店は売り物がそのままになっている。物陰から、好奇心旺盛な野次馬たちに見られているのがわかったが、気にも留めずにノノラは歩く。
 がらんどうの通りを歩けば、目的地はすぐだった。大通りに面した街医者の居は、他のどの建物とも同じようにぴったりと扉を閉ざし、沈黙を貫いていた。
「もしもし、どなたかいらっしゃいますか」
 重厚な樫の扉を叩くも、返事はない。
「あの、連れの調子が悪いので、診ていただきたいのですが」
 気持ち声を大きくして尋ねても、やはり応える声はない。
「あの!」
「うるさい! 忌子を癒すつもりはない。帰ってくれ!」
 扉の向こうで、男のしゃがれた怒鳴り声がした。
 頭の芯が、すうっと冷えていくのを感じた。
「邪悪な使い魔め、殺すなら殺せ! 私は『人』の傷を癒し、病を治すのが責務だ。《無明の忌子》に施す手などない。死んでも診てやるものか!」
 声音は少なからず怯えていたが、はったりには聞こえなかった。ノノラは扉を検分して、蹴破るか、それとものこぎりで切るか、考える。
「おねえ、ちゃん……」
 少女がうわごとを言った。見れば、ぐったりと力のない腕でノノラの手をとどめようしていた。
 はっと我に返って、ずいぶんと空しい気持ちになる。
 ただ一人助けるために、自分は何人もの人間を殺さなければそれができないのだと、ノノラは気が付いたのだった。
 背中をそっとなでてやると、少女はほっとしたように手を下ろして、再びか細い寝息を立て始める。物言わぬ扉を見つめると、そのまま踵を返して、その場を立ち去った。
 それから、二度とこの街に戻ることはなかったのだった。


 ――あたしはいくつ、間違えたのだろう。
 見上げると、紫がかった空が一面に広がっていた。
 雲を突き抜けた霊峰の頂は存外に雪が少なく、足でこするだけで剥げてしまって、岩盤の硬い感触が鋲付きブーツの底から伝わってくる。風はなく、音もなく、少女の形をした精巧な人形が一人立ちつくしている、ただそれだけだった。
 頭上には空、足元には岩。
 世界は恨めしいほどに二分されていた。
 ――あたしはいくつ、間違えたのだろう。
 空を仰いで、ノノラはもう一度自問する。
 戯れに人を助けようと思ったこと、人の生きる術も知らずに高をくくっていたこと、水を沸かさずに飲ませたこと、『おねえちゃん』の振りをして少女に身の上を尋ねなかったこと。
 回復しきっていない少女をささやかな冒険に連れ出したこと、少女の意思もろくに確かめずに街まで運んだこと。
 露店で足を止めたこと、不穏な空気を察してすぐに逃げなかったこと、人を三人殺したこと。
 いちいち数えればきりがなかった。
 どさり、と座りこんで、ノノラは空に向かって手を伸ばす。ぐっと握りこんだ手に残るものは、何もない。
 ――所詮、あたしは物なのだ。
 いくら過酷とはいえ、地続きの、この山の頂に立つことはできる。しかし人間は、巨大な風船を不思議な空気で満たして、空を行く術を持つという。たくさんの人が協力して知恵を絞り、身を粉にして働き、作り上げたであろう技術の結晶。とてもノノラに成し得る所業ではない。
 そう考えると、ここはまさに人と物の領分がせめぎ合う、境目といえた。
 ノノラはごつごつした岩盤をなでる。使い物にならないくらいぼろくなったコートの袖口から、ほつれた糸が手に垂れ下がった。
 ――あたしは、眺めることしかできない、許されない。
 空を、人の営みを。
 ノノラは歯ぎしりする。
 ――眺めることしか、できなかった……
 人の、弱っていくさまを。
 そうして、耳の中に少女の言葉が蘇ってくる。
「おねえ、ちゃん……」
 

「ごめんね。本当に、ごめん。黙ってて、騙して、ごめんなさい……」
 少女は、薄ぼんやりとまぶたを開いていた。その目は虚ろだが、はっきりとどこかに焦点を結んでいるような気がした。
「あたしは、『おねえちゃん』じゃない。あたしがあなたを見つけた時には、あなたは独りで倒れていたの。だからきっと、『おねえちゃん』は、もう……」
 ショックを受けるだろうとわかっていた。いまさら言っても仕方ないとわかっていた。それでも、言わないで済ますことはできなかった。
「なにを、いってるの……?」
 か細く、美しい声。そう、まるで黒絹でできた、髪の毛ように。
 人と死者の境界。物に近づいた者の、美しさ。
 少女はなぜか、優しい笑みを浮かべた。
「じょうだんは、やめてよ……おねえちゃんの声だもん。まちがえるわけ、ないよ……」
 幻を見ているのだと、ノノラはいっそう哀れに感じた。だから思い切って、少女の手を自分の手で包みこむ。
「……冗談なんかじゃないの。そもそも、あたしは人間じゃないもの……ほら、手だってこんなに冷たいでしょう?」
 言いつつ、少女の手も同じくらい冷たくなっていることに、ノノラは気が付いた。
「わかんない……わかんないよ。おねえちゃんは……おねえちゃんなのに……どうして、そんなこと……いうの……?」
 人形のそれよりも青白い唇が、言葉を紡ぐ。
「ノノラおねえちゃん……」
 ノノラは仰天して、思わず口走る。
「あたしの、名前を……どうして……?」
 もちろん、少女には名を明かしていない。そもそも盗みを生業とするノノラは名乗ることなどほぼないから、少女はノノラの名を知らないはずなのに。
「しらないわけ、ないよ。ずっと、いっしょだったもん……ノノラおねえちゃん……」
 ならば、少女の姉もノノラという名前なのか。そんな偶然があり得るのか。
「いっしょに、いてくれ、て……ありがとう……おねえ……ちゃ……」
 急速に声が先細っていく。包みこんだ手から、力が抜けていくのがわかる。
「待って!」
 悩むのを後回しにして、ノノラは叫ぶ。
「お願い、名前を……あなたの名前を教えて! あなたのこと、忘れたくないの!」
 少女は長い息を吐いた。唇がかすかに動くも、声にはならない。
 それきり、少女は二度と動かなくなった。


 ――忘れてしまうのだ。
 やはり霊峰の頂で、ノノラは小ぶりなナイフの刀身に瞳を映しながら、嘆息する。
 絶対に忘れたくない少女の記憶。しかしノノラは、それを十年と覚えていることができない。
 ――忘れてしまうくらいなら……
 ノノラはナイフの切れ味を今一度確認する。普段から整備された刃は今まさに研ぎ上がったかのようで、鋭さは折り紙付きだった。
 ノノラの肌は、人でいうと皮の厚さぶんくらいならば、風化しても長い時間をかけて元通りになる。
 見れば、白磁のように滑らかなはずの掌は、岩と雪に削られてがさがさになっている。だが、これくらいならばいずれ元通り、何事もなかったかのように治ってしまうのだろう。
 とはいえ、深い傷ならば、一生癒えることはない。
 壊れてしまえば、戻ることはない。
 ならば、いっそ、このまま……
 肌に触れた刃先から、とてつもない悪寒がぞろりと全身を這い、蝕んだ。
 感じるはずのない吐き気。体が裏返りそうな、不快感。
 ノノラは、自身の生への欲求に、初めて気が付いた。
 そして、それがどうしようもないくらい罪深いことに思えた。
 歯を食いしばり、握るナイフに力を込める。
 ぎゃりりぎゃりぃっ、と、頭の中でけたたましい異音が鳴った。焼けるような、体の芯を貫くような激痛。それでいて体はいっぺんに冷たくなって、ぶるりと震えた。叫び出しそうになって、ノノラは必死にこらえる。噛みしめた奥歯が、かちかちかちと音を立てていた。
「ぐ、ううっ……つうっ!」
 気が狂いそうになりながらも、ノノラは力を抜かなかった。
 かすむ視界、薄れゆく意識。
 その中でノノラは、か細く、甘い、少女の声を聞いた気がした。

 静かにたゆたう水面の中に、春の香りをはらんだ木漏れ日が染み通っていく。こんこんと湧き出る水は硝子のように澄み切って、森の色を映し、淡い緑に輝いていた。
 水底に沈む、色の褪せた倒木。皮がめくれてむき出しになった生木は目の覚めるような青白さで、およそ生命の息吹を感じさせない無機質な荘厳さをそなえている。その木肌と同じ色をした指が、透き通った水に触れてさざ波を立てた。
「ずいぶん綺麗」
 呟いて覗きこむ眼は、泉の水を凍らせたかのような深い緑をたたえている。すくい取った水の匂いを嗅ぐと、ほんの僅か、甘い花の蜜を溶かし込んでいる気がした。
「特に変なものも混ざってなさそう。これだけ綺麗な水なのに、人も動物も寄り付かないのが不思議だけど」
「飲んだらお腹を下すのかもね。まあ、僕らには関係ないさ」
 頭上から振ってくる声は、いつだって偉ぶっているように聞こえる。縁なし帽に縫い留められた木人形はふざけて王子様を自称しているけれど、万が一には本当かもしれないと思わせるところがある、そんな声だ。
「それもそうね。浴びるくらいなら大丈夫だと思うし」
 そう言うと、ノノラは縁なし帽を持ち上げて、岸辺にそっと置いてやる。後ろ手に束ねた髪をほどいてから、ぼろコートを脱ぎ、革製の胸当てを岩に立てかけた。それから、体のあちこちに括り付けた刃物を一つ一つ取り外しては、畳んだコートの上に整然と並べていく。
「え、ちょっと、何してるわけ?」
 ノノラが肌着に手をかけたところで、デクが頓狂な声を上げる。
「何って……服を脱いでるんだけど」
 そのまま上裸になったノノラは、それがどうしたとでも言いたげに革ベルトの金具を外し始める。その様子にデクはすっかり慌てふためいていた。
「な、何考えてるのさ! 隠す素振りもなく……」
「え? だって、他に誰もいないって、散々確かめたばかりじゃない」
 首だけ回して振り向くと、むき出しの肩口に下ろした髪がはらりとかかる。黒絹の髪は長らく結んだままだったのに、流れ落ちる滝のように滑らかだった。
 生き物との遭遇を好まないノノラは、自ら進んで水場に赴くようなことはめったにない。今だって泉の周りを一周して、足跡や動物の糞、枝の折れた跡なんかがないかと念入りに調べたので、こうして無防備でいられるのだ。
 しかし、デクの言いたいのはそういうことではないらしい。
「誰もいないって、僕が見てるじゃないか! 僕は首を回せないし、目も閉じられないんだよ?」
「見ててもらわないと困るってば。もし誰か来たら教えて欲しいし」
「そうじゃなくて、もう……君にもちょっとは恥じらいってものが……」
 そこまで言って、もごもごと口ごもる。ノノラはしばらく首をかしげていたが、ふと思い当たって、聞いてみる。
「もしかして、照れてる?」
「当たり前じゃないか! って、うわっ!」
 歩き出した拍子に、ノノラの腰からズボンがずり落ちる。一糸まとわぬ姿で歩み寄ると、デクは言葉にならないうめき声を上げた。
「ふーん、人形なのに?」
「だから今は人形だけど、僕はもともと人間だってば……」
「デクのことじゃなくて、あたしのこと。作り物、人形の体なのに、何を恥ずかしがることがあるの」
 裸を見たり見られたりするのが恥ずかしい、という気持ちが存在していることは知っている。しかし、命の営みから外れるノノラには、それを実感として持っていないのだった。
 デクはやれやれとため息をついた。
「君は自分が綺麗な少女の姿をしてるってこと、少しは意識した方がいいと思うよ……」
「さんざんそれで苦労してきたんだもの、わかってる。だから人目に付くところでは男装してるじゃない」
「それはそうだけど、なんというか……」
 デクは言葉を濁す。一方でノノラは思いついたことがあって、内心にやりと笑った。
「……それより、どうもありがとう」
「ありがとうって、何が?」
「綺麗だって褒めてくれて」
 ほころばせた顔を近づけて、ささやくように言ってやると、デクは息を詰まらせてすっかり何も言わなくなった。もちろん人形としての表情は変わらないが、人間だったら顔を真っ赤にしているのだろうと、ノノラにはわかった。
 いつもからかうのはデクの役回りだったから、なんだか新鮮だ。デクがいつもこんな気分で自分をからかっていたのかと思うと複雑だが、悪戯心をくすぐられるこの感覚は確かに病みつきになりそうだった。
 しかし、慣れないことをしたせいで、少しばかり度が過ぎたらしい。
「……流石に怒るよ?」
 呆れたようにデクが言う。取り繕ってはいるがそこそこ本心で言っているらしくて、ノノラは驚いた。凍り付いた表情、飄々とした態度の裏に隠れている、デク本来の人となりが垣間見えたような気がした。
「ごめんなさい」
「……まったく、今日ほど人形の体を恨めしく思ったことはないよ」
 その言葉の意味は気になったが、あまり問いただしても嫌われそうだったので、やめた。
「でも、見張りはやってもらうからね。悪いけど、万が一のことがあれば取り返しがつかないし」
「わかった、わかったよ。旅のしきたりならしょうがないさ」
「ありがとう」
 苦笑いの声を漏らしたデクに微笑みかけると、縁なし帽を再び岸辺に横たえて、ノノラは泉に入っていく。
 間近で見れば水はいっそう透き通って、冷え切った体に生温いその手触りさえなければ、気が付かないのではと思うほどだ。ぱしゃりと水面をすくい上げると、散ったしずくは銀に輝き、青白い肌にぶつかって鈴の音を鳴らす。まるで水晶を鋳溶かしたかのようだと、ノノラは思った。
 水がこんなにも清らかなのは、湧き上がるに任せて留まることなく流れていくからだ。そう考えると、水というのは不思議な生き方をしている。人も物も、流れれば流れるだけ別色に染まり、元の自分ではいられないのに、水はひとところに留まるとかえってよどみ、濁ってしまう。
 では、自分はどうだろうか。
 人の営みに交わるまいと、流れるままに暮らしてきた。でも、思い返せば物の営みも、常に人の営みに寄り添って在った。人が使うための物なのだから、考えてみれば当たり前のことだ。物の営みに生きようとすると、いつも人の営みと交じってしまう。それが嫌で、また流れ流される生活に戻ってしまう。
 そして結局、この体には傷の一つも負わずにきている。新しい出会いがあるたびに古い出会いを忘れてしまって、心までまっさらのままに生きている。
すると、自分の営みは人でもなく物でもなく、水のそれに近いのかもしれない。生まれたままの姿でただ流れ、寄る辺を持たないことで自分を保とうとする、水の特質に。
 腕に振りかけた水が、肌に染みた土と煙の匂いをさらっていく。それでもひとたび水面に戻れば、ほのかな花の香をまとって、何事もなかったかのように小川の方へ下っていく。その行く先を目で追いながら、自分はどこへ下っていくのだろうと、つい考えてしまう。
「あれ、ノノラ?」
 後ろからの声に、はっとなって振り向いた。
「誰か来た?」
「違うけど、どうしたの、その傷」
「傷?」
「肩のところ。そっちじゃなくて、左肩の、先っぽのあたり」
 言われるままに、首を伸ばして確認してみると、確かに刃物でひっかいたように肌が削れ、ざらざらした断面を晒している。かなり深い傷跡で、ノノラの体質では永遠に治らないはずのものだった。
「本当ね。でも、いつの間にこんなもの……」
「覚えがないのかい?」
「うん。戦闘で負ったにしては、変な傷だし……」
 その言葉の通り、傷跡は単調なものではなく、曲線と曲線が交わったり、点が打ってあったり、震えて縁がぎざぎざになっていたりする。
「文字、なのかな。ねえ、ちょっと読んでみてくれない?」
「なんだ、字は読めないのか」
「うるさい。物の分際で読み書きできてどうするの」
「ごもっとも」
 泉から上がって、傷を見せてやる。デクはううむと唸ってから、言った。
「汚い字だなあ。名前っぽいけど、作者の銘とかそんなだろうか」
「作者って、あたしを作った人ってこと? あたしみたいな人形を作る腕がありながら、こんなに下手な字を書くのかな」
「それもそうだね。あれ、ノノラって書いてある? いや、似た名前だけど違うな、これは……」
 不思議な傷跡とにらめっこをしながら、デクは悩んでいる。その間、ノノラはなぜか胸の内がざわついて、断崖に立っている自分を見下ろしているような、奇妙な感覚にとらわれていた。
「……『ミミラ』かな」
 ――ミミラ。
 その名を聞いた瞬間、ノノラは世界が歪むのを感じた。
「ちょっと、どうしたの!」
 デクの呼びかけも耳に入らずに、肌を切り刻む冷たさと、体の芯から暗雲のような何かがこみあげてくるのを感じて、無意識のうちに震えが止まらなくなっていた。
 ――なんなの、これ……? 
 ミミラという名前が何を意味するのか、ノノラは思い出せなかった。それでも、体は、心は、その名前を知っている。
 目の前を、白い風が駆け抜けていく。うずく傷跡、感じるはずのない吐き気。悪寒と、焼けるような痛み。
 自分の肩を抱き、不規則な荒い息をしながら、ノノラは胸に吹き荒れるこの嵐が、底知れぬ悲しみであることを悟った。
「……何か、悲しい思い出があるんだね」
「わかんない、わかんないの!」
 膝を折り、腰を抜かしてへたりこんでいるノノラは、駄々をこねる子供ようにわめき散らした。
 こんなに悲しいのに、人形の体では涙の一つも出てこない。こんなに悲しいのに、『ミミラ』が誰なのか思い出すこともできない。そんな自分が恨めしくて、空しくて、余計に悲しみがあふれてくる。そのやり場がわからずもてあますうちに、滞った感情は内側から自分を侵し、さいなんでいく。
「どうして、なんで、思い出せないの……大事なこと、忘れちゃいけないことだったはずなのに、どうして……」
 人であったなら、決して忘れるはずのなかったこと。それを覚えていないのが、とても罪深いことに思えた。
「……忘れてなんか、いないじゃないか」
「……え?」
 取り落とした縁なし帽の上で、アクアマリンの瞳がまっすぐこちらを見つめていた。
「君のその傷跡は、君のその悲しみはなんだい? ノノラ。君はミミラという名前に、まさしく心を動かしているじゃないか」
「でも、本当に思い出せないんだもの。その名が誰なのか、何が起こったのか、なぜこんなにも悲しいのか。あたしのような人でなしは、そんな大切なことだって長くは覚えていられない……」
「人間だってそうだよ」
 何でもないことのように、軽い調子でデクは言う。その声音は気取っているようにも、呆れているようにも、薄くはにかんでいるようにも聞こえる。しかし不思議と心の奥にすっと差し込んでくるような、聞いていて落ち着く言葉だった。
「人間だって忘れてしまう。いや、むしろ人間は思い出を作り変えてしまう、と言ったほうがいいのかな。自分ではその時のまま覚えているつもりでも、時間が経つにつれて細部はおぼろげになり、知らず知らずのうちに美化されたり、とるに足らない陳腐なものにおとしめられたり、たった一言の教訓に成り下がってしまったりする。ねえ、ノノラ。それは時として忘れてしまうよりも恐ろしいことなんだよ」
「忘れてしまうよりも……恐ろしい?」
「そう。でも君は、ノノラは、ありのままの気持ちを覚えている。そのときの気持ちを心と体に刻み付けて、本能として、忘れ得ぬものとして、間違いなく覚えている。それをどうして思い出せないなんて言うんだい?」
「それは……」
 体の震えは未だ治まらず、寒気も、傷の疼きも、止むことはない。ただの錯覚、幻想などではあり得ない。
 ――この感覚は、記憶、なの……?
「人の領分、物の領分、それを違えてはいけない……」
 口をついて出た言葉が、体を一巡りして収まるところにすとんと収まるのを感じた。思えば、そう考えるようになった根拠、理由、きっかけは、今まで意識したこともなかったのだった。
「ミミラ……」
 言葉にしてみると、その名は呼ばれることを待ち焦がれていたのだとわかった。その響きはあまりにいとおしく、ずっと知りたいと思っていた、かけがえのないものだった。
「ごめんね、ミミラ……やっと、やっと、わかったよ。あなたの名前……」
 涙が流れないことなど、もうノノラは気にしていなかった。魂の揺り動くままに、清い泉のほとりでノノラは泣いた。武器も装具もない生まれたままの姿で、体を震わせ、悲愴な声を上げながら、確かに泣いていたのだった。
 いつしか日も高くなっていて、遮られることなく降り注いだ日差しが、泉の底をあららかに照らし出していた。淡い緑の輝きも薄れ、沈んだ倒木の生々しさが浮き上がるようだった。
 ノノラの髪にも、肌にも、暖かい日が差していた。柔らかく照り返す肌はかすかに赤みを帯びて、可憐な艶めかしさをそなえている。人ならぬ少女の、人よりも命を感じさせる幻想的な居姿。それを、涙の色したアクアマリンの瞳が、穏やかに見守っていた。


「これでよし、と」
 髪を束ねてから上体をひねって、装具に違和感がないことを確かめる。最後に縁なし帽を持ち上げてから、ぽすんと頭に乗せた。お下げを帽子にしまうか逡巡して、結局出したままにすると、泉の方を見やる。
「結局、誰も現れなかったね」
 頭の上から、デクの声が降ってくる。
「そうね。なんというか、あたしたちにおあつらえ向きの場所、って感じだった」
「確かに。ひょっとして、僕らがここを去ったら消えて無くなっちゃったりするのかもね」
「まさか」
「夢がないなあ」
 そう言って、デクは笑う。
「はいはい、どうせ血も涙もない人間ですよ」
 ノノラも笑ってそう言うと、デクの方は驚いた風だった。
「それは違うと思うけど」
「えっ?」
 こちらも驚いて聞き返す。デクはもったいぶるように間を置いて、言った。
「……だって、血も涙もないのはそうだけど、ノノラは人形じゃないか」
「ちょっと、そっちじゃないでしょ。もう」
 頭上を睨み付けると、デクは相好を崩す。
「ごめんごめん、突っ込んで欲しかったのかと思って」
「ちょっとは期待したあたしが馬鹿だった」
「ごめんったら。一応釈明しておくとだね、僕はそういう説教めいたことは好きじゃないんだ。本当は。さっきだって我慢したんだよ、こう、小恥ずかしくなってくるのをさ」
「まあ、それはありがとうって言っておくけれど……」
 はあ、と大きなため息をつくと、喉の奥でくすぶっていた感情の残り火が煙となって流れ出ていく。忌々しいが、独りで悶々とするよりデクにからかわれる方がよほど気が紛れるのだった。
 それに、ノノラの方だって、意図せずとはいえ自分を人間と呼んだことに、我ながら驚いたのだ。
「……ねえ、あたしって、人と物と、どっちに近い存在なんだろう」
「苦手だって言ったそばからそういう話題を振るかなあ」
「血も涙もないんだもの、意地悪でも仕方ないじゃない」
「根に持つねえ。まあいいけどさ」
「言ってみただけだってば」
 ノノラが唇を尖らせると、デクは少し間をとって考える。話し相手はお互い一人なのだから、なんだかんだ言いつつも応じてくれる。
「結局、君がどうしたいかだと思うけど。人として生きたいのか、物として生きたいのか。でも、敢えて言わせてもらうなら、君ほど人間らしい存在もないと思うね」
「あたしが、人間らしい? どうして?」
「心当たりはないの? まあ、時々抜けてるところがあるとか、一人を寂しく思うところとか。人間らしいというよりも、子供っぽいの方が近いかな」
「えーっ、あたし、そんな風に思われてたの……?」
 冗談を言う口ぶりではなかったので、ノノラは割とがっくりきてしまった。しかし、デクは構わずに続ける。
「それと極めつけは、ただ一度の失敗に向き合わないまま長いこと引きずって、そのままにしているところかな」
「……手厳しいのね」
 ノノラも、そう言われては苦笑いで済ませられなかった。
「正直に答えて欲しかったんだろう? まあ累計じゃわからないけど、君に比べたら少しは年の功ってものがあるからさ」
「……失敗と向き合う、か」
 ミミラのことは、結局はっきりと思い出すことはできずにいる。しかし、自分の中に沸き起こった悲哀、後悔、自責の奔流から察するに、きっと自分のせいで酷い目に遭わせてしまったのだろう。それをきっかけにして、人の営みに交わってはならないと、長い間、知らずして自分に戒めを課してきたのだ。
 けれど、ノノラが引き起こす不幸を知っていたとして、ミミラはノノラと一緒にいることを拒んだだろうか。
 思い出せない今となっては、何もわからない。答えを見つける機会は、とうに失ってしまったのだから。
 でも、これから確かめることはできる。たとえそれが過ちだとしても、答えを探そうと苦心することがミミラの記憶と向き合うことであり、一種の贖罪でもあるように思えた。
「ねえ、デク? 次の街に着いたら、特に用がなくても一週間くらいはぶらぶらしてみようと思うのだけれど、どうかな」
「いいんじゃない。すぐに飽きると思うけど。まあ盗人なんだから、口約束の一つや二つくらい構やしないよ」
「なんで守らない前提なのよ」
「生き方を変えるのって、簡単なことじゃないから。僕なんかは、嫌でも変えざるを得なかったけど」
「……そうね」
呟いて、左肩をそっとさする。この傷跡も、デクが人形になったのと同じように、生き方を変えざるを得ないきっかけだったのだろうか。
 傷の疼き、重みに思いを馳せながら、ノノラは言う。
「まあ、なるようになるかな。幸か不幸か、時間はたくさんあるんだし」
「そのうち、今日の決意も忘れちゃったりしてね」
「それならそれでいい気もする。落ち着くべきところに落ち着いたってことだから」
「そうそう、気負いすぎる方がかえってうまくいかないと思うよ。気楽にいこう、気楽に」
「なんかデクが言うと説得力がある」
「微妙だけど、褒め言葉ととっておこうかな」
「じゃあ、そういうことで」
 二人して微笑んで歩くうち、もう泉は見えなくなっていた。
「さて、行先はどうする?」
 デクが聞く。ノノラは四方八方に広がる木々を見つめながら、答えた。
「とりあえず、森を出てから考えればいいと思うけど」
「違いない」
「決まりね、ちょっと見渡してみようかな」
 ノノラは腹に巻いたロープをほどくと、手ごろな木に放って登り始める。しばらく枝葉をがさがさ揺らしているうち、視界が開けてきた。
 土と湿った葉を一緒にした、むせ返るような森の匂いが薄らいで、微かな潮の香が風に乗って流れてくる。森の果ては臨めないが、さほど遠くはないのだろう。
「……海が近いみたい。潮の匂いがする」
「本当? 僕は見たことがないんだけど」
「あたしもしばらくぶりな気がする。折角だし、行ってみる?」
「ぜひ行きたいね。海かあ、楽しみだなあ!」
 人のことを子供っぽいと言っておきながら、童心に返ったように嬉しそうなデクがおかしくて、取り付いた枝から落っこちそうになる。
 ――ミミラは、海を見たことがあったんだろうか。
 重なり合う木々の向こう、彼方の水平線を探しつつ、ノノラはそんなことを考える。すぐ真横から、どこか懐かしい、小鳥のさえずる声が聞こえてきた。
 そのさなか、ノノラは涙のないはずの目元を、自分でも気が付かないうちに、そっとぬぐっていたのだった。

祈りの言葉

 森を抜けると、かげりのない刺すような陽光にノノラは目をしばたいた。澄み切った空気、抜けるような蒼穹にも関わらず、黄金色の日差しにどこか枯れ木のもの悲しさを感じるのは、みずみずしい生命の息吹感じる森を踏み出したからばかりではなかった。
 森の際からそう遠くないところに、幌付きの荷馬車が横倒しになっていた。古木の葉のような深い緑をたたえた幌は大きく破れていて、時折吹く風に情けなく揺らめいている。裂け目から見える荷馬車の中は割れた木箱がいくつかあるだけで、その断面はぼろぼろに朽ち果て、惨状の顧みられなかった歳月をありありと表していた。
「襲われたんだろうね」
 縁なし帽から降る声に、ノノラはうなずく。
 果たして、倒れた荷馬車の陰に、人だったものが転がっていた。
 鳥に啄まれ、獣に噛み裂かれたのだろう、残っているのは土に汚れた骨だけで、その下にうっすら見える血の染みは、まるで死人がこの世に影法師だけ置き忘れてきたかのようだった。骨は大小あって、そのうちの一つ、小さなどくろがこちらを見上げているのを、ノノラはじっと見つめ返す。
 長い時を経ながらも、事の顛末が目に浮かぶようだった。姿の見えない馬、折れた矢、折り重なった大人の骨と子供の骨。数からして家族だったようだ。両親が子をかばうようにして、寄り添ったまま骸になったとわかる。森に潜んでいた盗賊が通りがかった荷馬車を襲撃したのだ。馬車が通るような整備された道ではないから、逃げる間もなくやられたに違いない。矢を射かけ、荷車をひっくり返し、馬を捕えて襲い掛かる。荒っぽいが、まず足を潰して襲いかかるあたり連携と手際のよさが窺える。ひょっとして荷馬車がこんな荒れ道を通ったのも、近くの街道に工作があって、おびき出されたのかもしれない。
 そんな周到な盗賊たちだから、金目のもの、役に立ちそうなものが残っているはずもない。しかしノノラは立ち去ろうとせずに、自分の顔よりも一回り小さいしゃれこうべに、そっと手を乗せているのだった。
「君だって旅の盗賊だろう? そんなもの放っておいて、さっさと街を目指すのが筋ってもんじゃないかい?」
「そう、なんだけどね」
 板状の木人形、デクの言葉に、ノノラも我ながら呆れている風だった。
「なんか、そんな気分じゃないの。前にもこんなことがあったんだけど」
「……僕だって見捨てていくのは忍びないとは思うけどさ、旅の掟、盗賊の礼儀ってのは生き死にっていう人生の趨勢を決めるもので、そう簡単に歪めていいものじゃないでしょ? 前々から思ってたけど、君、あんまり盗人っぽくないよね。そんなんで……」
「よく生き残れたね、でしょう? あたしだってそう思うんだもん、言われても仕方ないよね」
 言葉を継いだノノラは悪びれるでもなく、清々しい潮の香する風にお下げ髪を揺らしている。一つため息ついて、どくろの前に座り込んでから、こう切り出した。
「森を歩いている間ね、だんだん思い出してきたの。……ミミラのこと」
「左肩に刻まれた名前だよね。何かつらい思い出があったみたいだけれど」
「うん。行き倒れていたところを介抱したけど、結局助けきれなかった、あたしが人の営みに疎いせいで死なせてしまった、女の子。あのときどうして助けようとしたのか、自分でもわからなかったけど……今ならわかる」
 瞳は強い光をたたえながらも澄んでいて、柔らかい新芽の若草色をしていた。擦り切れた黒革の装束はものものしい武人のそれだが、綿毛のように白く、丸みを帯びた目鼻立ちのノノラがまとえば、喪に服する少女の居姿に見えなくもない。
「あたし、ミミラの名前を知らないはずなの」
「どういうことだい?」
「本人に聞いたんだと思ってたけど、違った。ミミラはあたしのことをお姉さんだと勘違いしてて、それに便乗してたから名前を聞けなかったの。……死ぬ間際に尋ねたけど、答える前に逝ってしまって……」
「え? でも、ミミラって名前なんだろう? 肩に傷までつけて、君が覚えようとしたのは」
 デクは当惑した様子で尋ねる。知っている名前を知らないと言うのだから、当然のことだ。
「前に言ってたよね。知りもしないはずの名前を覚えていたりしないか、って」
「……そういえば、言ったね」
 言葉を弄することができる物には二種類あって、一つは長きにわたって知性や意思、生命の鼓動と触れ合うことで自我に芽生えた物、もう一つはデクのように人間の魂が宿った《魂宿り》だ。ノノラに人としての記憶はないから前者なのだろうが、もしかして人の魂に感化されることもあるかもしれないと、デクが言っていたのだった。
「ミミラのお姉さん、ノノラって名前だったみたいなの。声も一緒だって、間違えるわけないって、ミミラが言ってた」
 言うと、その意味するところにデクは興味をそそられたようだった。
「……自分にはミミラの姉、『ノノラ』の魂が宿っていて、彼女の人としての心が、君に憐憫の情をもたらしている、と?」
「たぶん、だけど」
「うーん、あり得ない話じゃないと思うけど……」
 デクはしばし黙り込んでから、恐る恐る口を開く。
「それなら、ノノラって名前は、そのお姉さんのものなのか、それとも、君はもともとノノラを名乗っていたのか、どっちなんだろうね」
「あたしも、同じことを考えてたの。どこまでが本当のあたしなんだろうって。この意思は、心は、魂は、借り物なのかもしれないって……」
 言葉尻はかすれて消える。しかし腰の鞘に手を触れて、竜鱗の収まったくろがねから勇気をもらうと、大きくかぶりを振った。
「……でも、そんなのどっちでもいい、関係ないんだって、気付いたの。……このダガーの、自らの意思を失ってでも完成させて欲しいって覚悟は、たとえキラタさんの借り物だったとしても、格好良かったもの」
「そうだね。竜はやたらプライドが高いし、自己犠牲の精神なんて持ち合わせているとは思えない。その剣の意志は多分に刀匠の影響が大きいはずだ」
 まるで竜を見てきたかのような物言いに少し引っ掛かったが、気にしないことにしてノノラは続ける。
「それに、変わることは怖いことばかりじゃないってわかったから。……ううん、むしろ生きているんだって思えて、嬉しかった」
「と、言うと?」
「あたし、飢えとも渇きとも無縁だから、何もしなくても生きていけるの。それこそ、荒野の真ん中で突っ立っているだけでも……。それに、あたしがいなくても人の世は勝手に回っていく。あたしにとって、生きるっていうことは惰性でやってることで、人や物と話すのもただの気まぐれ。意味なんてないって思ってた」
「……なるほど、僕には耳の痛い話だね」
 ノノラと同じ人形でありながら、文字通り手も足も出ないデクは、なぜか少し愉快そうな声でそう言った。
「でも、あたしが自分から遠ざけていただけだった。ミミラのことがあって、他人を変えてしまうほど深く関わり合うのを、無意識に遠ざけていた。ひとところに留まらず、流れ、流されるままに自分を清く保つ、水のように生きてきたの。あなたと会うまでは」
「なんだい、それは。回りくどい口説き文句かい?」
「違うったら。ただ、同じく人形で寄る辺のないあなたは連れていくことができたって、言いたいだけ。……でも、おかげで人との交わり、物との交わりが大事なことだってわかったの。自分のありようを考えて、見つめ直して、変わっていける機会。変わること、昨日とは違う自分になること、それがあたしの生きることだって思えたから」
「そうやって君は自身の首を絞めて、君自身という存在を脅かしていくのかもしれないよ? ……かつて、左肩に傷をつけたように」
 いきなり低くなったデクの声は、お腹の底の方にずしりと響く。同時に、刃をこすり合わせたような、身の毛のよだつような異音が、頭に蘇った。
「……確かに、ミミラを亡くした後、天衝く峰の頂で、あたしは死ぬつもりだった」
 言うと、眼前のどくろが不敵に笑った気がした。風が一瞬静まり、デクも沈黙を守る。ひとときの空白、断絶、静寂が場を支配した。
「ミミラか、それともノノラかが止めてくれたんだと思う。だから傷を残すだけで終わった。ううん、本当は単に怖かっただけかもしれない。あの時、生きていたいって強く思ったもの。天と地のはざまで、あたしは脆く、儚く、危うい存在だった。でも、生きているってそういうことでしょう?」
「……そうだろうね」
 デクは一つため息をついて、静かに笑う。相も変わらず表情の読めない顔をしているが、今日は一段と何を考えているのかわからない声音をしていた。
 説教めいたことをするのは苦手だと言っていたのを、ふと思い出す。
「デク、あなたはどう思っているの? 自分にとって、生きるってこと」
「あんまりきつい話を振らないでくれよ」
 おどけた口調で言うけれど、取り繕っている風なのがかろうじてわかった。デクの方も、ノノラがいたたまれない様子なのを察したらしく、気まずそうに唸る。
「元は人間とはいえ、君よりはよほど物に近い存在だ。でも、僕のすることと言えばもっぱら考えることと話すことだからね、現状にさほど不満はないさ。これで本でも読めれば言うことないんだけど、まあ高望みしても仕方ない」
 一度に言い切って、間をおいてから付け加える。
「だから、もし君が人間に近づきすぎて、僕の声が聞こえなくなるようなことがあったら、困るってわけさ」
「そんなことがあり得るの?」
「今の君だって、そうそうあり得ないような存在だよ?」
「そうかな。でも、それなら心配いらないでしょう?」
「え?」
 虚を衝かれたらしく、デクは柄にもなく頓狂な声で聞き返す。
「あたしが人間になれるなら、きっとあなたも人間に戻れるはず。もしもそんなことになったら、探してあげるから。その方法を」
「……期待していいのかい?」
 聞かれて、ノノラはもちろんと請け負った。
「ただ、借りは高くつくから」
「うへえ、盗人なんかに借りを作ったら、どうなることやら」
「まあ、身ぐるみ剥がすじゃ済まないかもね」
 デクの冗談にノノラもそんなことを言うと、二人して笑う。乾いて消えかけた血だまりと薄汚れた骨たちの傍らに、無邪気な声が響いた。


「弔っていくのかい?」
 いつの間に日は傾いて、たなびく薄雲が紫煙のように漂っている。立ち上がり、服についた砂を払うと、少女はゆっくりうなずいた。
「埋めていこうと思うの。都合のいい道具はないけど、幸い時間と労力は有り余っているもの」
「でも、弔い方なんて知っているのかい?」
「だから、あなたが教えてくれるんでしょう? 冥福を願う、祈りの言葉を」
「まあ、そうなんだけどさ」
 提案を先読みされて、デクはきまりが悪そうに苦笑する。
「ありがとう」
「そうするのが当然みたいな言い方しておいて、礼は言うんだね」
「……あたし、何も言ってないけど」
「え?」
 ノノラは足元を見やる。子供大の頭蓋骨は、どうやら少女の物だったらしい。ただ、それきり声は上げなかった。ノノラはかがみこんで、もう一度なでてやる。砂を被った骨はざらざらしていて、冷たい。
「……君の声に似てたけど、この子も姉妹かな?」
「そうあちこちに居るわけないでしょう。それより、早く教えてよ」
「そうだね。僕の知ってる葬儀がこの人たちのそれと一緒かどうかわからないけど、まあ、やらないよりはいいかな」
「お礼言われたんだもの、あたしは見様見真似だってやるからね」
「はいはい、それじゃあ……」
 ノノラはデクの指示のままに、ナイフで土をほじくり始める。もともと穴を掘るような道具ではないから突き崩すのがせいぜいで、土を掻き出すのはもっぱら素手だ。それでもめげずに掘り返しているうちに、あたりは暗くなる。
 今日は月のない夜だった。星たちは気ままに空を彩り、各々の拍子でまたたいている。ノノラは星明かりに目を凝らしながら黙々と手を動かし、デクも呆れるくらい懸命に作業を続けていた。
 ようやくそれなりの大きさの穴ができて、まずは一人分の骨を埋めることにする。少女の骨に触れた瞬間、何か温かいものが指先に伝ってきた気がして、ノノラは驚いた。
「どうしたの?」
 デクが聞いてきたときには、その温もりは消えている。ノノラは小さく首を振って、なんでもないとだけ呟いた。
「じゃあ、僕に続けて言ってね。リ・タキット・マスール……」
 そうして、祈りの言葉を紡ぎ始める。その意味するところはわからないが、手を組んで、目を閉じて、ノノラは一心に祈る。
 ノノラの肌はうっすらと燐光を放ち、宵闇の中、敬虔な祈り捧げる横顔が黒装束から浮かび上がっている。その間、ひょっとしてこの少女の魂も自分に宿ることがあるのかと考え、指先の温もりを思い出しては、穏やかな心持ちで、祈りの言葉をささやいているのだった。

指輪と契

 寄せては返す大海原はその度に銀色の潮騒を振り撒き、辺りは潮と海藻のすえた匂いと、じっとり湿り気を孕んだ空気が重く垂れ込めていた。嗅覚に優れたノノラは鼻のひん曲がるようなきつい臭気に顔をしかめ、黒絹の髪を纏わりつくような海風にさらしながら、暗澹たる気分で日差し照り返す海を臨んでいるのだった。
「いやあ、聞きしに勝る迫力だねえ!」
 そんなノノラとは対照的に、縁なし帽から降る声は陽気そのもので、混じり気のない歓喜がありありとしていた。ノノラはさらに険しい顔になって、視線を上向ける。
「デク、もういいでしょう?」
 うんざりした様子でノノラが言う。
「ええっ? たった今来たばかりじゃないか」
「そうだけど……こんなにひどい匂いがするなんて知らなかった」
「君は海を見たことがあったんだろう?」
「どうも、砂浜まで来たことはなかったみたいね」
 鋲付きブーツでは足を取られて歩きにくいが、素足では足の裏が削れてしまいそうなので仕方なく履いたままにしている。割れた貝殻やぬめぬめした海藻がそこかしこに打ち上げられていて、ノノラはそれが無性に気味悪く感じてたまらないのだった。
「君に船旅は無理そうだねえ」
 あんまりノノラの機嫌が悪いので、デクはこれ以上海を見るのを諦めてくれたようだった。とはいえ、デクのすることは考えることと会話することくらいのものだから、ノノラが嫌と言ってどうこうできるわけもないのだが。
「遠目に眺める分には綺麗だし好きだったんだけど、これじゃねえ……」
「ひょっとして塩が苦手なのかな? 振りかけたら縮むとか」
「何の話かわからないけど、まあ、そうなのかもね」
 適当に相槌を打って、ノノラは海岸を後にする。
 潮風に抱かれた港町は南国かぶれの派手な色彩をしていた。木造の家屋は色とりどりに塗られ、まるで市場に並ぶ果実のようだ。気候はとりわけ暖かいわけでもないのだが、海向こうの異国から運ばれてくる物産、文化の影響か、辺りに満ちる色といい香りといい、今にも人々が踊り出しそうな活気にあふれていた。そのせいか、赤土を押し固めた通りに入れば生々しい海の臭気はあまり気にならない。ノノラが立ち去った砂浜に隣接してよく整備された港があり、牛馬が何頭も乗るような大きな船から手漕ぎのボートまで、様々な船が停泊していた。よくよく日に焼けた人夫たちがもろ肌脱ぎになって荷物の上げ下ろしをしているのが見える。
「で、どうするつもりだい? この街でしばらく過ごすんだろう?」
 アクアマリンの瞳を悪戯っぽくきらめかせながら、デクが言う。
「そうね、先立つものは必要だから、とりあえず換金に行こうかな」
 喧騒に紛れるくらいの小さな声でノノラが答えた。いい加減デクと街を歩くのにも慣れてきたので、《物聞き》と悟られないような振る舞いを心がけるようになっていた。
「こないだ盗んできたサファイアかい? そこそこ値が張りそうだったけど」
「拾ってきた、ね。小さいけど熱処理しないであの蒼さだし、六条の光も見える。当分の路銀にはなるでしょう」
 通りで宝石を取り出すような真似はせずに、じっくり鑑定したときのことを思い出しながら答える。むき出しのサファイアはわずかに紫がかった蒼色で、少し色むらがあるものの天然物にしてはかなり良質といえた。親指の爪くらいの大きさのそれは楕円形をしていて、六条の光、つまり六方向に伸びる光の筋を宿している。
「でも、換金だなんて今までもさんざんやってたことなんじゃないかい? 人と関わろうって覚悟したなら、ちょっとくらい変わったことにも挑戦してみないと」
「だから、先立つものが必要だって言ってるじゃない。そのあと何するかはまた考えるってば」
「それもそうか」
 ノノラの語調が荒くなってきて、デクも切り上げ時だと察したらしい。人も多くなって独り言を聞かれるやもしれないので、しばらく静かになった。
 港湾都市という流通の拠点なだけあって、市場の彩りには並々ならぬものがあった。馬が入れないくらいの細い通りがいくつもあって、両脇に露店がぎゅうぎゅう詰めになっている。その数は百や二百どころではなかろうし、人通りはといえばさらに多くて、どこへ行っても肩を縮めなければすれ違えないほどだった。
 とはいえ、宝飾店がそんな粗野な場所にあるはずもない。ノノラは人の流れに逆らって、馬が行き交う通りを探してさまよっていた。
 薄着の人が多い街中で、黒革のぼろコートを翻しているノノラはなかなかに異質な出で立ちをしていた。熱さも寒さもないノノラには武器を隠せる装束以外に着るものなどない。しかし気配の薄さは人形ならではで、さほど悪目立ちはしないでいた。軽やかな身のこなしで、人だかりを縫うように進んでいく。
 と、しばらくそうしているうちに、自分と同じように気配を殺し、混雑をものともせずに行き交う人がちらほらいることに気がついた。
「……スリが多いみたいね」
 縁なし帽を取って、デクにそっと耳打ちする。
 鋭敏な五感を持つノノラは同業者の姿をたちまち見あらわしたのだった。しかし、そのノノラの目にも彼らの腕は確かなものとして映った。彼らの動きはまるで影法師が人波の間を滑っているようで、気に留める人はいなかった。決定的な瞬間でも盗られる側はそよ風ほどにも感じないらしく、きっと次に買い物をする時まで気がつかないのだろう。いや、ひょっとして永遠に気がつかないのかもしれなかった。というのは、どうもスリたちは財布の中身だけ抜き取っているようなのだ。
 足は止めなかったものの、ノノラは気になってしばらく観察していた。驚くべきはその練度だ。スリといえば困窮して食いぶちを稼ぐために行われることが多いが、この場の盗人たちはそうではなかろうと思わせる鮮やかな手口だった。気配の消し方といいとても一朝一夕、付け焼刃でできるような所業ではなく、特別な鍛錬を積んでいると感じさせた。ただ、あまりに足音や気配の殺し方が見事なので、ノノラにしてみれば喧騒の中に気配の薄らいだ穴がうごめいているように見えて、かえって目立ってしまっているのだった。
 よくよく見ると、スリたちが狙っているのは外からやってきた人間らしい。言葉尻がなまっている者、装いの異国風な者、赤ら顔の者、といった具合だ。集団で行う風なのもあって、何か目的あってのことかとノノラは考えていた。
「気になるの?」
 デクが聞く。少なくとも、デクは気になるようだった。
「うん。普通のスリにしては技術が高すぎるし、そんな人が何人もいる。示し合わせてやっているとしか思えない」
「止めてみる? 今、スリをしたでしょって」
「そこまでする義理もないし、簡単に足がつくような盗み方してないと思う。盗っているのは現金だけのようだし、自分の持ち物だと言い張れば証拠はないもの」
「これだから、悪は世から尽きない」
 芝居がかった言葉に、ノノラは呆れる。
「……あなた、真面目に言ってるのかふざけてるのか、どっちなの」
「半々。別に、どっちでなけりゃいけないなんて言わないだろう?」
「……やっぱりふざけてるじゃない」
 冷笑してノノラが縁なし帽を被り直すと、デクも黙った。時折影の行き過ぎる人波をかいくぐり、馬が足運ぶ商店を探しながら、ノノラはスリたちについて調べてみるのもいいかもしれないと、こっそり考えていたのだった。


 首尾よく見つけた宝飾店は存外に広く、流石は貿易の要所だと思わせるものがあった。サファイアやルビーをふんだんにあしらった、よほどの金持ちでない限り手が出ないような代物が平然と並べられていて、格の違いを見せつけているようだった。逆に言えば、そういう金持ちがこの街には唸るほどいるということだ。
 素材ばかりでなく、いつぞやの竜鱗をはめ込んだアクセサリーと違って、意匠も洗練された上品なものばかりだった。砂状のエメラルドがびっしり敷き詰められた、木の葉を模すブローチ。表面に網目模様を施した豪奢な金の上で、おっとりと真珠が光る指輪。優美な曲線を描く銀線が、涙のようなサファイアを絡めとるイヤリング。中には安い宝石や地金の品もあるが同じく意匠が凝っていて、細工師の腕前と品定めの巧さが窺える。
 そういうわけで、薄汚い旅人などは疎んじられてしかるべき場所であったから、少し懸念はあったのだが。
「要するに、買い取れない、と?」
「……申し訳ありませんが、そういうことになります」
 持ち寄った品も見ずに、店員は丁寧に頭を下げた。ノノラは少々いたたまれない気分だったが、このまま引き下がるわけにもいかない。
「わけを聞いてもいいでしょうか」
「当店では、仕入れは信用筋からのみとさせていただいております」
 にべもない。当然のように鑑定士は詰めているのだろうが、なにせ偽物をつかまされては損が大きい取引だろうし、商う品に相当なこだわりがあるようだから、お得意様からしか仕入れないと言うのも無理はない。ノノラは諦めて、別の切り口で尋ねた。
「事情はわかりました。では、この街で他に宝石類を扱う店を教えていただいても? できれば、旅人の品も扱ってくれるような店だといいのですが」
「ございません」
 店員はきっぱりと言い切った。
「……え?」
 これにはノノラも耳を疑った。
「ですから、ございません。この街に、この店の他は、宝石を扱う店はございません」
「そんなわけないでしょう」
 ノノラはとっさに言い募る。
「寂れた村ならともかく、これほど大きい街で旅人の財を換金する場所がないはずはありません。確かにここは品位ある店のようですが、他にもっと気楽な店もあるはずです」
 店員は少し眉をひそめる。まあ、いかにもくたびれた風貌の子供に文句をつけられれば誰しもそんな顔をするだろう。しかし、この街での行動に支障をきたす以上ノノラにとっては死活問題だし、他の旅人にとってもそうであるはずだった。周りの客が何やらひそひそと囁いているが、人目を気にしている場合などではない。
「そうですね、そういうことでしたら、いくつかの宿屋では質屋まがいのことをしていると聞きます。ここから一番近いところは……」
 そう言って、店員は丁寧に道を教えてくれた。
「ありがとうございます」
 ノノラは帽子を取って礼を言うと、そのまま店を辞して教えてもらった宿屋へと向かう。
 その道すがら、デクが言った。
「店員さん、君のことにらんでたよ」
「他には?」
「ちょっと笑ってたかな。してやったりって感じ」
「……あなたの言った通りね」
 ノノラはデクの入れ知恵で、店で帽子を被り直す時、デクの視線を背中側に向けておいて店員を観察してもらったのだった。帽子の向きを直しながら、用心のためにお下げもしまい込む。
「でも、背中を見せただけで相好を崩すなんて、たかが知れてない?」
 ノノラの言に、デクは神妙そうな口ぶりだった。
「目的がわかっているならね。ただ体よく追い払えたって思っただけかもしれない。でも、やっぱりあそこしか宝石を扱ってないっていうのは気になる。原石とかむき出しの宝石を扱ってないようだから、細工師や職人の類は別にいると思うし、そういう職種の人こそ宝飾店の仕入れ先だろう? 第一、仮に宿屋が質をやっていたとして、買い取った宝石はどこに売りに行くんだい? 知ってて言わなかったに決まってる」
「宿屋は罠ってことね」
「あるいは何の関係もなくて、宿屋の主人に怪訝な顔をされるだけかもしれない。ただ、それではあんまり浅はかだね。宝飾店からしたら君を追っ払いたいはずだけど、騙されたとわかったら誰だって文句を言いに戻る。面倒が増えるだけさ」
 足を止めて、ノノラは唸る。店からはだいぶ離れたから、見張りをよこされていない限りは見咎められないはずだ。
「他の店を探すかい?」
「まさか」
 そう即答したノノラに、デクは少し驚いたようだった。
「馬鹿にされて黙っていられるもんですか。その宿屋とやらを外から探ってみる。商いに携わる者として、新しい客を無下にしたらどうなるか思い知らせてやるんだから」
「盗人の君ほど、招かれざる客もないだろうけどね」
 なかなか突飛な選択肢だが、デクは気に入ったようだった。
「僕がじっくり観察するから、君は通り過ぎるだけでいいよ。あんまりじろじろ見てても不審がられるだろう」
「何言ってるの。初めて来る街なんだし、旅装をしているんだから、きょろきょろしてたって不思議でもなんでもないじゃない。自分の目で確かめるから」
「やれやれ、信用ないねえ、僕は」
「体を動かすのはあたしの役回りだもの。それだけよ」
 そう言って、ノノラは再び宿屋への道を急いだのだった。


 宿屋と言われた建物は、確かに宿屋の体をなしていた。木造だが造りはがっしりとしていて、海風など跳ね返してしまいそうな堅牢さを備えている。海沿いの建物と違って色は塗られておらず、堅実で、質素な印象を受ける。入口には《蛇の尻尾亭》なる看板がぶら下がっていて、酒の匂いが流れ出ているところをみると、一階で酒や食事を出して二階が宿泊する部屋らしい。二階の窓は全て閉ざされていたが、その数から部屋はそこそこ多いのだと知れた。
「観察するなんて言っていたけど、君は宿屋なんて立ち寄るのかい?」
 デクが問う。寝食の必要ないノノラは、前の街でも深夜まで通りをふらついていたのだった。
「中まで入ったことはほとんどないけど、通りがかったことくらいなら何度もある。……でも、地下がある宿屋なんて初めて見た」
「え、地下? 地下に部屋があるってことかい?」
「そう。あなたはそういう宿、他に知ってる?」
「……いや、知らないけど、どうしてわかったんだい?」
 不思議がるデクに、ノノラは何でもないことのように言った。
「目で見えるものだけが全てじゃないってこと。……匂いと、音ね。風のないよどんだ空気に特有のかび臭い湿った匂いがするし、物音が耳で聞くよりはっきりと足元を伝ってくる。地下があるのよ、間違いなく」
「へえ、流石だねえ」
「……何のためだと思う?」
 水を向けると、デクは黙りこんで考え始める。
「宿屋であることを疑っている以上、可能性が多過ぎてわからない。ただ、普通の宿屋に地下室があるなら、倉庫に使うのがせいぜいだろうね」
「まあ、そうよね」
 とっくに宿屋を行き過ぎてから、ノノラは適当なところで脇道に折れた。これ以上は中まで入らないとわからないだろうから、もう一度宿屋に向かうかどうしようか、考え始めた矢先のこと。
 殺気。
 首筋のひりつく感覚に、ノノラは思わず飛びのいた。
 気がつけば、辺りに人影はすっかりなくなっていた。ぼんやりしていたノノラは、知らず裏路地に踏み込んでいたのだった。人いきれと離れ、顧みる者のない、人ならざる身に心地よい居場所。しかし今この場所を縄張りにできる存在は、ノノラではなかった。
「名誉挽回、とはいかなかったようだな」
 その人は、まっさらな紙に薄墨を垂らしたように、影からにじみ出るようにして姿を現した。息遣いは淡く、足取りは浅く、見上げるような長身と筋肉質の体躯には似つかわしくないほどその輪郭はおぼろげで、ナイフの光る右手すら霞んで見えるようだった。しかし、一度目にすれば忍び寄る殺気はさながら蛇のごとく、ぎりぎりと手足を締め付けてくるように感ぜられる、確かなものだった。
「……グレム、だったかしら」
 ノノラがその名を呼ぶ。
 デクがあっと声を上げる。デクの眼を巡って攻防を交わした二人組の盗賊、その片割れが今目の前にいたのだった。
「覚えていてくれて光栄だ、ノノラよ」
 この前は盗賊よりは騎士の方が似合いそうな風貌だと思ったが、受け答えも騎士然としている。しかし、全く悟られないうちにノノラの首にまで迫る技量を見せつけられた後では、騎士の方が似合いだと言えるはずもなかった。
「何の用?」
 もちろん、ノノラは襲われた瞬間に短刀を抜いて臨戦態勢に入っている。グレムはそれには答えずに、腰を落としてナイフを構える。その姿すらまるで宙に浮いているかのようで、この空間に居ついていない、虚空に溶け込んでいる感じがした。
 再び首筋に感じた殺気に、ノノラはこれ以上ないくらい驚いた。グレムの姿を注視していたにも関わらず、その初動に全く気がつかなかったのだ。かろうじて身をひねってかわしたが、耳をかすめる切っ先に反撃はかなわなかった。
 とはいえ、二撃目にまで遅れをとるノノラではない。
 返す刀を見切ったノノラはその手首を捕えていなし、そのままひねり上げようとする。しかしすかさず飛んできた足払いにそれも敵わず、避けて距離を取るので精一杯だった。
「ここまでだ」
 十歩離れた場所で、グレムが両手を上げて首を振った。
「問答無用で襲ってきておいて、それ?」
 ノノラは警戒を解かない。互いに攻撃は通っていないし、余力もまだまだ残っているから、降参する理由はないはずだった。
「盗賊は引き際が大事だ。いつぞやの意趣返しがしたかったが、それも叶わぬとわかったのでな。騙し討ちは得意だが、トーリョと違って斬り合いは性分じゃない。初撃が通らなかった時点で俺の負けだ」
 これまた騎士然とした潔さだった。ノノラはいぶかしみながらも、この間は痺れ薬を塗った短刀で一撃のもとに戦闘不能に追い込んだのを思い出して、根に持っても仕方ないと思った。
「それなら、今度こそ何の用か聞かせてくれるんでしょうね」
 つっけんどんに言ってやると、グレムは怪訝そうな顔をした。
「む、君が何の用か話さずに済む、ということではないのか?」
 ノノラの方も眉をひそめる。何が言いたいのか見当がつかなかった。
「まさか、何も知らずに出向いたのか? ……待て、なるほど、『あどけない顔をした少年』か。君は『凛々しい少女』と形容すべきだろうが、間違えるのも無理はない」
 合点がいったらしく独りで何やら呟いているグレムを、ノノラは面白くなさそうに見ていた。
「どういうことなの?」
「わかった、全部説明してやる。俺と一緒に《蛇の尻尾亭》まで来い。そこにトーリョもいる」
 《蛇の尻尾亭》と聞いて、ノノラは一段と警戒を強めた。
「宿屋を騙る胡散臭い建物に招かれて、信じるとでも?」
「……そこまでは知っているとすると、ある程度はここで話さなければならぬ、か」
 グレムはあたりを素早く見回し、同時に耳をそばだてて、周りに誰の影もないことを確かめる。それでも用心に用心を重ねたいようで、衣擦れのような静かな声で言った。
「俺や君のような旅の盗賊に、何のしがらみもあるはずがない。しかし一つだけ、そんな者たちが与し、拠り所にできる場所がある」
 勿体ぶって口を閉ざしたグレムを前に、ノノラは首をひねる。デクも心当たりはないようだった。グレムは一段と低い声で言った。
「……盗賊ギルドだ。俺たちは君を貶めようとするのではない。歓迎すると言っているのだよ、ノノラ」


 ノノラが知るギルドと言えば、商人やら職人やらが同業者で集まって情報交換をしたり、商品の値段を統一したりと便宜を図るためのものだったが、盗賊ギルドも基本は変わらないらしかった。
「所属する最大の利点は情報にある。各地の盗賊、社会の裏側に住まう者たちからありとあらゆる情報が手に入る。ただし、金はかかるがな。逆に、情報を提供すれば金がもらえる仕組みだ」
「人語を解する人形が盗賊をやっているだなんて、さぞかしいい小遣いになったでしょうね」
「生憎と、ある程度は信憑性がないと買い叩かれるのでな。誰にも言っていない」
「あ、そう……」
 頭の上でデクが吹き出すも、《蛇の尻尾亭》の一階で卓を囲むトーリョとグレムはいたって真面目な顔をして、ぴくりとも笑わなかった。
 きまりが悪くなったノノラは、さっさと次の質問を振る。
「そんな破天荒な団体、一体どこの誰が運営しているわけ?」
 質問に答えるのは正面に座ったグレムで、トーリョは退屈そうにジョッキを傾けている。どうやら今はそういう役回りらしかった。
「それを聞くには膨大な金銭を吹っ掛けられるだろうな。ただ、構成員であればこの街の中枢が関わっているだろうことは察している。暗黙の了解と言うやつだ。この街は貿易港を擁する経済の中枢としての表の顔と、盗賊を養うゆりかごとしての裏の顔を持っている」
「……宝飾店にも繋がりがあるわけ?」
「そうだ。盗品には貴金属や宝石類が多い。それを一手にさばく店は一つだけで、盗賊ギルドと懇意にしている。他の客からの仕入れは請け負わないし、他に店ができようものならギルドが潰しにかかる。どちらも野良の盗賊、野良の宝飾屋を出さないための共生関係というわけだ。もちろん、盗賊からすれば足がつかず、高額な代物でも買ってくれる販路は貴重だし、店側からしたらいい品が安く手に入る」
「……真っ黒ね」
 ノノラは思わず苦笑する。しかし、店のノノラに取り合わなかった理由がこれでわかった。
「なら、旅人はどうするのよ。財産が換金できなかったら不自由するでしょう」
「お気の毒に、と言う他ないな。何らかの方法で現金に換えたとしても、心得のない者ならあっという間にスられる。そういうわけだから、この街の評判を聞き知っている旅人は絶対に来ない」
「あのスリたちもギルドに関わっているのね。よくわかった」
「そういうことだ。あれで得た金はギルドに上納しなければいけないが、その分ギルド側から技術の教授を受けられたり、ギルド内での地位向上に繋がる、いわば訓練の一環だな」
「狙いは外から来た人たち、『お金を落としていってもらう』というわけね」
「ひどい話だけど、それでも人が集まるだけの利益、商売の好機がこの街にあるってことだよね。いやしかし、盗賊を客として歓迎する店があるとはねえ」
 口を挟んだデクは、呆れるのを通り越して感心しきりのようだった。確かに、この街は表の顔があってこそ裏の顔も持ち得るのかもしれない。
「あたしはみすみすスらせたりしないけど、この街で現金を手にしたいなら入るしかないみたいね。何か制約はあるの?」
「勧誘以外を目的に盗賊ギルドの存在を明かさないこと、この街と周辺に限っては街の人間から盗んだり、内外の人間に関わらず殺しをしないこと。これだけだ。もちろんギルドの利益になることは奨励されるが、義務ではないし、功績者にはちゃんと褒賞金が出る。街を離れれば何をやっても構わないし、ここほど行き届いてはいないが各地の支部で情報交換や盗品の取引ができる。あと、依頼の受注もな」
「依頼?」
「ああ、やっとその話になったか」
 待ちくたびれたように肩を回してから、トーリョが言った。
「情報収集や工作のためにギルドから構成員に依頼を出すことがある。それで今……」
「強盗が出たんだ。この街に住む富豪夫妻が首を斬られて殺され、指輪が盗まれた。自分たちの縄張りで勝手な真似は許さないと、ギルドも犯人を捜している。下手人の、『あどけない顔をした少年』をな。俺とグレムが追っている最中だ」
 説明を続けようとしたグレムに、トーリョが割って入る。話しぶりから、トーリョ主導で調べている事件らしい。
「宝飾店で、ノノラは犯人と勘違いされたということかな」
 デクが言う。二人はデクの存在を知らないのでノノラが代わりに聞いてみると、トーリョがうなずいた。
「察しがよくて助かる。ここらで宝飾品を換金できるのはあれだけだから、金銭目的ならあの店に売りに来る可能性が高いと考え、指示を出していた次第だ。そこに君がやってきて、ここによこされたというわけだな」
「俺が《蛇の尻尾亭》を嗅ぎ回っている君を見つけてからは、知っての通りだ」
 グレムが補足する。つまりは、そういう顛末なのだった。
「要するにあなたたちは、あたしに盗賊ギルドに入って、事件解決のために協力しろと言いたいわけ?」
「いや、ここまで話したのは敗者なりの礼儀というやつだ。事件そのものは一般人にも知れているしな。もちろん協力してくれるならありがたいし、もう少し詳しく話すことになる」
「どうする?」
 縁なし帽から降る声。それに答えられないノノラは、せめてデクとだけでも声を出さずに会話ができたらいいのにと思った。
 ゆっくりと息を吐いて、ノノラは言う。
「わかった。どうせこの街でゆっくりするつもりだったし、協力する。ただし……」
 ノノラは肩をすくめて付け足した。
「説明は手短にね。さっきから肩が凝ってしょうがないの」
「感謝する」
 グレムが言って、二人は手を差し出してくる。ノノラはためらいなく握手を交わし、勢い込んで立ち上がったのだった。


「一週間は街に留まろう、人の営みと関わってみよう、って決意が、まさかこんなことになるなんてね」
 トーリョからしばらく話を聞いた後、二人になった途端にデクが言った。
「どういう意味? ちゃんと人と関われることを見つけたじゃない」
 ノノラが問いただすと、デクはため息をつく。
「そりゃあ君のことだから、宿に泊まってみるとか、街の人と話し込んでみるとか、あるいは人助けをするだとか、そういうことは期待してなかったけどさ、こんなきな臭い話に首を突っ込まなくたっていいじゃないか」
「……この流れだと、盗賊ギルドの宿に泊まって、街の人に聞き込みをして、強盗を捕まえるって人助けをすることになりそうなんだけど」
「いや、だからそういうんじゃなくて、なんかこう、もっとほのぼのとした出来事というか……まあ、君らしくていいと思うよ、うん」
 デクの言葉は非難めいていたが、口ぶりからするとこの状況を楽しんでいるようだったので、からかい半分に言ってやる。
「文句がないなら黙っていればいいのに」
「ふうん、文句ならいくらでも言っていいと?」
 デクはそうやって切り返してくる。やはり口八丁で後れを取るのはノノラの方なのだった。
「で、今日はどうしようかしらね」
 見上げれば空には茜と黒紫とがせめぎ合い、夜の帳が下ろされようとしていた。思いの外話し込んでいたらしい。極彩色の街並みも日が傾けば落ち着いた風合いに変わり、陸風にさらわれて潮の香も遠ざかっていくようだった。往来は帰路につく人でにぎわっていたが、ノノラたち盗賊の時間はむしろこれから訪れる。
「……見回りくらいしかすることないんじゃないのかな。現場も遺体も見られるのは明日だし、聞き込みをしようにも、じき人はいなくなるだろう」
「そうね、どうせ街の地理にも疎いんだし、あたりをつけてもしょうがないか。適当にうろついてみることにする」
「……なんか、いつもと変わんないね」
「うるさいったら」
 そうして、ノノラは夜の港町に繰り出したのだった。
 トーリョによれば事件が起こったのは昨晩、篠突く雨の騒々しい夜半のことだった。被害者は子を持たない富豪夫妻で、目撃者の使用人らによれば、叫び声とそれに続く物音に目を覚まして駆けつけた時には、既に変わり果てた姿であったらしい。『あどけない顔の少年』を目撃したのもその時だ。見覚えのない少年が返り血を浴び、短刀を片手に、静かに笑って立ち尽くしていたそうだ。無論屋敷を閉鎖して追いかけたが、見失った瞬間に煙のように行方をくらましてしまって、以来見つかっていない。張っていた門番もそんな子供は見なかったそうだ。そして、夫婦の寝室に置いてあった家宝の指輪もまた、忽然と消え失せていたという。
「でも、人相特徴がわかっているのに見つけられないなんて、間の抜けた話もあるものね」
「おっと、強気だね。これで君も見つけられなかったら、どう申し開きをするんだい?」
「……訂正。あたしが言いたいのは、盗賊ギルドの追跡から丸一日行方をくらましたままでいられるのは、何かあるのかしらって」
 事件を追っているのはトーリョやグレムだけではない。盗賊ギルドが提示した懸賞金はけっこうな額になるので、手すきの盗賊たちはみな情報収集に余念がなかった。その情報も軒並み買い取ってもらえるので、各自が自分の得た情報を秘匿して足を引っ張り合うこともない。情報は常に更新され、依頼を受けた者なら《蛇の尻尾亭》をはじめとした盗賊ギルドの拠点で確認することができた。普通、盗賊ギルドから情報を得るのは有料なのだが、ギルドそのものが解決を依頼しているこの事件に限っては無料だった。つまりギルド側からすれば金は出ていく一方のはずで、その額もかなりのものだ。盗賊ギルドの事情はよく知らないから何とも言えないが、そこまでして解決したい事件なのかと、そこも少し引っ掛かっている。
「君の目から見て、トーリョやグレムは追跡者として優秀だと思うかい?」
「戦闘と隠密の練度しか目の当たりにしていないから本当のところはわからないけど、かなり優秀だと思う。彼らは謙遜しているけれど、身を守る術であたしと互角以上に渡り合えるんだもの。曖昧な記憶だけど、あたしは盗人としてのべ数十年の蓄積があるはずで、対して彼らはまだ二十かそこら、もしかしたら十代かもしれない。ぬくぬくとした生活を送ってきたとは思えないかな」
 ノノラの評に、デクはひゅうっと口笛みたいな音を立てた。
「へえ、意外だね。君が彼らをそんなに買っていたなんて。僕の眼を巡って対峙した時なんて、すごく鬱陶しそうにしてたのに」
「え、そうだった? うーん、自分の存在を脅かしかねない人に遭遇したら、ある程度警戒すると思うけど……」
「まあ、そうか。しかしそうすると、まだ見つからない少年っていうのは、確かに何か裏がありそうだね」
「うん、油断しちゃいけない」
 ノノラは自分に言い聞かせるようにそう言った。
 世に街は多々あり、ノノラが巡ってきた中にも個性あふれる街はたくさんあったが、人々の寝静まる深夜、闇にとらわれた夜の表情はどの街も不思議なほど似通っていた。暗がりはただ黒々としているわけではなく、わずかに紫がかった蒼、サファイアの色を帯び、月と星とに見守られながらしずしずと日の出ずる朝を待っている。その様はどこか鋼に似ているとノノラは思っていた。磨けば輝くがその光沢を主張しようとはせず、強靭さというその本分を粛々と果たす。夜は眠る街をそっと抱きかかえ、揺り起こすことのないよう頑固に静謐さを守っているのだった。
 ノノラの踏み込んだ道もそんな様子だった。日がとっぷり暮れると日中の喧騒は幻と消え、わずかに残る香辛料の匂いだけがそこに市のあったことを示している。通りにもよるのかもしれないが、露店が一つ残らず除かれていてノノラは感心した。朝早くにやってくれば皆一斉に露店をしつらえる光景が見られるのかと思うと、少し見てみたい気もするが、そうすると店の場所は毎日変わってしまうのではないかと思い当たって、ひどく不便そうだと考えたりもする。ともかく通りはがらんどうで、店や人のない分、かなり広々して見えた。
 その真ん中に、ぽつねんと立ち尽くす影。
 一日のうちにこれほど何度も肝を冷やした日はなかった。またしてもノノラは眼前にその人影、小柄な少年の姿を認めるまで、まるでその存在に気がついていなかった。しかし少年は初めからそこにいたかのようにたたずみ、宵闇よりさらに暗い漆黒の髪を月光に濡らしているのだった。
「……見つけた、のかな?」
 デクが呟くと、やにわに少年は振り返った。火炎のように鮮やかな緋色の目。少女と見紛うような白い肌が闇夜に冴え、体をすっぽり覆うローブの裾は地面をのたくっている。
 容貌から身なりまで情報の通り、間違えようもない。
 盗賊ギルドが血眼になって探している人物が、今まさに目の前にいるのだった。
「ねーちゃん、だあれ?」
 澄んだ声音はどこか纏わりつくような妖しさを備えている。静かな笑みの不気味さも、いっそ荒らかな憤怒の形相より恐ろしいかもしれなかった。
 黙ったままのノノラが探るような視線を向けると、少年は首だけをこちらに向けた姿勢のままで、もう一度笑った。
「ねーちゃんも、そいつの声が聞こえるの?」
「……え?」
「やっぱり、そうなんだ」
 少年は満足した様子で顔を背けると、そのまますたすたと歩き始めた。ノノラはしばし呆然として動けなかったが、少年が立ち去ろうとしているのだとわかると、慌てて追いかけた。
 少年はゆっくり歩くだけ、ノノラが走れば逃がすはずもない。鋲付きブーツがくぐもった足音を鳴らす。近づくにつれ、髪から衣まで真っ黒な後ろ姿が月光のもとに露わになる……。
 追いついて、ローブをつかもうとした瞬間、ノノラの手は空を切った。
「なっ……」
 戦慄が走る。素早く辺りを見回す。ノノラの他に誰の姿もない。
 少年は、消えていた。
 走り去ったとか、ノノラの手をよけたとか、そういう現象ではなかった。蝋燭の火が吹き消され、後に煙も残らない、そんな消え方だった。
「デク……幻覚じゃ、ないのよね?」
 ほとんど泣きそうな、か細い声でノノラが言った。デクにもそれを茶化すだけの余裕はないようだった。
「……僕も見ていた。まばたきできない体なんだ、間違いない。一瞬のうちに、消えた」
「どういうことなの? この距離で、あたしが見逃すんだもの。普通じゃありえない」
「呪術の類だろうけど、はっきりとはわからない。あまりにも……一瞬だった」
 沈黙が下りる。心なしか、月光がさっきより明るくなっていた。
 絶句していた時間は一瞬だった気もするし、途方もなく長い時間だったようにも感じる。ともかく、静寂を破ったのはノノラの方だった。
「……あの子、デクの声が聞こえているみたいだった」
 意思ある物の声を解する存在、《物聞き》。
「……髪も、肌も、瞳の輝きも、あたしにそっくりだった」
 黒絹、白磁、宝石の光。
 ノノラは大きく息を吸って、吐く。深夜の冷気にも、その呼気は白むことはない。
「……何より、汗の匂いがしなかった」
「まさか!」
 ノノラの考えを察して、デクは息を飲みこんだ。
「あたしと同じ、人形、なの……?」
 呟いた言葉を、聞き咎めるものはない。
 がらんどうの通りは、サファイア色に沈んでいる。


 朝一番に、ノノラは早速情報を売りに行くことにした。教わった符丁を使って《蛇の尻尾亭》の地下へ案内してもらうと、通りで感じたかび臭い地下の匂いが満ちていて、少しむせそうになった。
 建物は木造だったが、地下は石造りになっていた。大部屋と小部屋に二分されていて、隠し梯を下りた手前側の大部屋には壁一面に小さな木の板がかけてあり、ギルドに所属する盗賊なのだろう、何人かがそれを眺めている。一つ一つに依頼の内容や、その依頼に関する情報が書いてあるらしい。ノノラは昨日のうちにここに来ておけばよかったと、少し後悔する。
 どうやら、指輪を巡る強盗事件についての情報がかなりの分量を占めているようだった。ざっと見て、グレムとトーリョの二人から聞いた以上にめぼしい情報がないことを確認すると、ノノラは胸をなで下ろす。
 しかし、今朝の本来の目的は奥の小部屋にあった。ノノラは薄い唇を引き締める。
 大部屋と小部屋を仕切る壁には、情報の書かれた木の板はかかっていない。むき出しの石壁はしっかりと漆喰で固められていて、針を通す穴さえないように見えた。ぽつんと一つだけついている扉は開け放たれていて、先客の居ないことを示している。その扉はものものしい、重厚な鉄扉だった。
 盗賊ギルドとその構成員が情報のやり取りを行う部屋、耳聡い同業者にも聞かれないように防音を施した場所。ノノラは少し緊張しながら、その扉をくぐった。
 鉄扉を閉めると、背を向けて書き物をしていた男性がこちらを振り返った。四十くらいだろうか。無精ひげを生やしている以外にこれといった特徴もない中肉中背の男だった。これほど印象に残りづらい人物もそうそういないかもしれないと、ノノラは思った。
 それよりは、ノノラが気を引かれたのは部屋の内壁だった。外から見れば石造りだが、内側は板張りになっている。扉を閉めるときにその断面が覗き見えたが、板と石壁との間にはびっしりと綿が詰めてあった。音を遮断する工夫だろうかと、ノノラは考える。
「いらっしゃい。ここは初めてかね?」
 盗賊にそぐわない、少女の姿のノノラを見ても、男はさほど関心を持たないようだった。
「はい、そうです」
「売りか、買いか、どちらだね?」
「売りです。お金になるほどの情報かはわかりませんが、一応報告に」
「値はこちらで判断する。どんな些細なことでもいいから遠慮なく話してくれ。ただし一つ忠告しておくが、値段交渉には応じられない。いいか?」
「わかりました。お話します」
 と言って、ノノラは少年との遭遇について話した。深夜の通りを歩いていたら、突如として姿を現したこと、その容姿と服装、服をつかもうとしたら一瞬のうちに消えたこと、そして《物聞き》である可能性が高いこと……何度か質問を挟まれ、その度に詳細な説明を加える。ときどき言葉に困った時はデクが助け舟を出してくれた。
 ただ、少年が人形であるかもしれないというのは憶測でしかないし、自分のことがばれるかもしれないので、黙っておいた。
「なるほど、確かに聞かせてもらった」
 男は聞いている間、書き取ったりせずに全てを頭に刻み付けている様子だった。しばらく思案気に目を閉じてから、男は言った。
「さて、報奨金を払おう。現金か現物かどちらがいい?」
「……値段を見て決めることはできますか」
「構わない。額はこれだ」
 そう言って、男は数字を書いた紙をノノラに見せる。緊張の一瞬。
 それを見て、ノノラは声を上げそうになるのをなんとか堪えた。ただ、表情の変化は見られたに違いない。
 昨日換金したサファイアと同程度の金額が、そこに記されていた。
「……現物で」
「わかった。ならこれを一階の店主に渡してくれ」
 あくまで事務的に、無感動に、男は走り書きした紙を手渡してきた。ノノラはそれを握りしめて、一階へ上がっていったのだった。
「なんだか随分とあっさりしてたね」
 頭の上でデクが言う。昨日売ったサファイアを取り戻したノノラも、やや拍子抜けしているのは確かだった。
「そんなに大した情報じゃなかった気がするんだけど、こんなに貰ってよかったのかしら」
「あるいは、向こうにとっては大事な情報だったのかも」
 デクの言に、ノノラは首をかしげる。
「そうかな……容姿や服装の情報は既出だし、結局行方知れずなんだから見かけた場所も当てにならないし、呪術めいた力や《物聞き》の話なんて眉唾にもほどがあるじゃない」
「何かその裏付けになる情報を持っているのかもしれないよ」
「なら、もう公開されているはずでしょう?」
「あ、そうだった」
 事件についての情報は全て地下に張り出されている。そこに書かれていないということは、ギルドが知らない情報だということだ。
「もしかして、初回だからおまけしてくれたのかもね。なんにせよ、トーリョやグレムに聞けばいいんじゃないかな」
「そうだ、現場と遺体を確認するために待ち合わせをしてるんだった」
 ノノラはやっと用向きを思い出して店内を見回すと、ちょうど二人が下りてくるところだった。
「早いな」
 トーリョが言う。確かに、盗賊ギルドの窓口が開くなり来たので、まだ日が昇って間もないはずだった。《蛇の尻尾亭》の一階も、木卓が一つ埋まっているだけだ。夜を居場所とする盗賊たちにはむしろこれから寝るものだっているかもしれない。
「どうも不眠症みたいなの」
 ただでさえ目立つなりをしているし、むやみに自身の正体に関わることを言い触らすのは控えたが、二人はノノラが睡眠を必要としないことを察してくれたようだった。
 昨日と同じように三人で卓を囲んで座り、ノノラ以外が朝食を頼む。宿屋というのはあながち嘘でもないらしかった。
「食べないのか?」
 今度はグレムが尋ねた。ノノラは片目をつぶって答える。
「お腹減らなくて」
「……つくづく一人旅に向いているというわけか」
 二人とも感心している。敵の時は神経を遣うが、味方に回れば一言で勘付いてくれる相手は気安くて楽だった
「本当にね。人と同じように旅をしろって言われたらできる気がしないもの」
 しみじみ言うと、唐突にトーリョが改まった風になる。
「君は変わったな」
「え?」
 あっけにとられて、ノノラはどんな顔をすればいいのかわからなかった。
「以前会った時は、自分のことを知られるのは気に食わなかっただろう。あの時君は、人の営みとは関わらない主義だと言ったはずだ。疑るわけじゃなく純粋に好奇心から聞くんだが、一体どういう心境の変化があったんだ?」
 ノノラは言葉を詰まらせる。トーリョと斬り合った時、水の匂いする砦の地下での攻防に思いを馳せた。
「……思い返してみれば、こうやって話をしているのもあたしの身にはあるまじきことなのよね。でも、なんというか、あたしも人として生きていいんだ、そういう生き方を探さなきゃいけないんだって思えるようになったの。……だからかな」
 組んだ指先を見つめながら答える。何となく気恥ずかしくて、二人の顔は見られなかった。頭上でデクがにやにや笑っている。
「なるほど、俺もあの時は君を物扱いしていたかもしれない。それが癇に障ったのかもしれないな、すまなかった」
「……あなたたちも大概盗賊らしくないよね」
「そうだな、どちらかと言えば職人気質だ。俺は自分より技術に秀でた者はそれだけで尊ぶ。自分の技術に誇りを持っているのでな」
 トーリョが言うと、ちょうど料理が運ばれてきたところだった。
 ノノラは話題を変える。
「実は昨日、例の少年を見つけたの」
 自分の体験は詳細を省き、盗賊ギルドの情報屋に話したと言って、詳細は地下で確認してほしいと告げた。そうすれば情報が整理されていてわかりやすいだろうと思ったのだ。
「それで、結構な金額を貰ってしまって……相場ってどれくらいなの?」
「いくら貰ったんだ」
「昨日換金したサファイアを取り戻した」
 二人は目を丸くする。
「一体何を話したんだ……?」
 ノノラはため息をついて、首をひねる。
「やっぱり、普通じゃない金額なのね。何がそんなに重要だったんだろう……」
 匙を置いて少し考えてから、グレムが言う。
「最初だから仕方ないとはいえ、少し失敗したな、ノノラ。君の思っている通り、どの情報にどれくらいの金額を払うか、つまりギルドがどの情報を重く見ているかという情報もまた、俺たちの判断材料となる。一度にたくさんの情報を得た時は、一度に話すのではなく小出しにして、どの話にどれくらいの値がついたか確認するのが定石だ。あんまり露骨にすると疎まれるが、それは向こうもわかってるから、ある程度は応じてくれる」
「なるほど、考えもしなかったな」
 デクが感心する。
「次から気を付けることにする。ありがとう。で、お願いなんだけど、下で情報を確認したら何が重要そうか思うところを教えてくれない?」
「いいだろう。……そうすると、もう別行動にした方が時間の節約になりそうだな。あまり遅くなると通りが混む。街の地理は大丈夫か?」
 たぶん、と言いながらうなずくと、グレムが事件現場となった屋敷と遺体が保管されている教会の場所を教えてくれた。
「番兵が立っているが、符丁を伝えれば通してくれる。見張りがつくが、間違っても巻いたりするなよ。余計な疑いをかけられることになる」
「わかった。じゃあもう出るから」
「ああ、達者でな。終わるころを見計らって俺たちもここに戻る」
 匙を片手に手を振る二人に手を振り返すと、ノノラは朝日に影伸びる通りへ歩き出していった。


 事件現場となった富豪夫妻の屋敷はその財力がありありとした豪華絢爛な造りをしていて、昇る日を背にしてさえ白銀に輝くようだった。矢を束ねたような形をした柵が連なり、広大な庭をぐるりと取り囲んでいる。外周はいつかの砦と同じくらいで、短い通りなら端から端まですっぽりと入ってしまいそうだ。植え込みや芝生は青々としながらも、綺麗に切りそろえられている。奇抜な色彩の街の中にあって、限られた自然の色は目の安らぐ上品なものに映った。
 しかし、漂う不穏さがそういう気分にさせなかった。仰々しい門には番兵が五人も立っていて、みな短槍を携えて行き交う人々に目を光らせている。
「仕事熱心だねえ」
 市壁を守る衛兵よりも多く、警戒を怠らない様子の彼らにデクは辟易しているらしかった。ノノラの方も盗人としての性分から、半ば反射的に近づきたくないと思ってしまう。
 しかし、裏を返せばそれほどの重大事だということだ。ノノラは気を引き締めて、堂々と番兵の一人に詰め寄った。
 けんもほろろに追い返されたらどうしようかと心配したが、教わった符丁を伝えるとすんなり通してくれた。その代わり、どこからともなく男が一人現れて、案内役兼見張り役として同行することになった。立ち居振る舞いからして盗賊ギルドの構成員だろうとノノラはあたりをつけたが、詮索しても仕方ないことだった。
 芝生を分かつ砂利道は貝殻のように白く、ゆるやかに蛇行しながらノノラを玄関へと連れて行った。番兵はここにも立っていて、案内人の姿を認めると扉を開けて入れてくれる。
 入ってまずノノラを出迎えたのは豪奢なシャンデリアだった。しかし人のない広間で灯は点いておらず、いっそ何もないより物寂しい感じがした。床は一面絨毯張り、見上げれば二階は吹き抜けになって、左右対称に作られた階段が続いていた。どこに視線を向けても贅を尽くした仕上がりで、その財力の計り知れぬということだけがわかった。
 案内人はそんな内装には目もくれず、足早にノノラを先導していく。きっと見飽きているのだろうし、一つ一つ観察していては日が暮れてしまうということだろう。それくらいに屋敷は広かった。
 階段を上り、右に折れ、左に折れ、また上り、しばらくしたら下る。かなり複雑な作りをしているらしい。最初は遠回りしているのではと勘繰ったが、どうやら最短経路を取っているようだ。現場は寝室とのことだったから、襲撃に備えて道筋をわかりにくく作ってあるのかもしれない。ここの主人は財だけでなく社会的な権力も持っているのだろうし、そのあたり用心するものなのかもしれないが、普段の利便を捨ててまで凶事に備えるものだろうかとノノラは疑問だった。まあ結果的に殺されてしまうことになったのだから、その備えが有用だったのか、無用だったのか、どちらとも言い難い。
「ここだ」
 案内人が初めて発した言葉がそれだった。ここにも番兵が立っていて、ノノラはいい加減うんざりだった。促されてスリッパに履き替え、事件現場の検分を始める。
 血の匂いはまだ残っていた。果たして、羽毛のような白い絨毯はあちこちに赤褐色の斑点を浮かべていた。絨毯は廊下のものと比べて毛足が長く、足に絡みついてくる。もし戦闘になったとして、これでは俊敏な動きはかなわないだろう。
 遺体は運び出された後だが、血の染みの具合から大体の成り行きは見て取れた。枕元の血だまりは文字通り寝首をかかれた痕だろう。もう一つ、寝台の奥側に血だまりがあって、こちらからは血が飛び散った痕跡があり、シーツも乱れている。一人殺された直後、もう一人が起き上がって悲鳴を上げたものの、たちまち凶刃の餌食となったのだろう。
 また、部屋の中はかなり荒らされていた。さほど家具は多くなかったが、高価そうな戸棚は引き出しを全て引き抜かれた後に叩き壊され、木片が散らばっていた。他にも収納を備えた家具は軒並み同じような末路を辿っている。
 その木片を見ていて、ノノラは気がついた。
「これ、もしかして二重底になっていたんじゃない?」
 デクが同じことを言った。ノノラは小さくうなずく。
 盗み出されたのは家宝の指輪だという。手の込んだ隠し方をしていたのかもしれないが、こうして家具そのものを叩き壊されてしまえばそれも無意味というものだった。下手人は難なく指輪を持ち帰ったことだろう。
 部屋の状況はこんなところだった。トーリョから聞いた話、叫び声と物音を聞いて駆け付けたという使用人の証言とも符合する。ノノラは部屋を出て、案内人に申し出る。
「そこの廊下を見てもいいですか。血痕が残っているかどうか確かめたいんです」
 案内人は了承し、ノノラは廊下を調べ始めた。自分たちがやってきた方向と逆側に血痕が続いていた。あれだけ派手に殺したのだ。返り血を浴びていないはずがないし、実際、使用人の証言にも出ていた。
 血痕は次第に小さくなっていくが、不意に途切れている場所があった。姿をくらませたというのはここだろう。壁や天井、床などに何か隠し扉などがないかと調べてみたが、わからなかった。血痕が途切れているのも壁から離れた廊下の真ん中で、それ以上の情報はない。昨日ノノラが経験したのと同じように突如としてかき消えたのだろうと想像がつく。
 案内人は少々怪訝な様子でついてきていた。これ以上深入りするのはよした方がよさそうだ。ノノラは調査協力に対して礼を言って、門の外まで案内してもらい、引き上げることにした。
 ただ、帰り際に一つだけ質問をした。
「すみません、ここの警備についてなのですが、事件の起こる前はどれくらい厳重だったのでしょうか」
 番兵は渋い顔をしたが、答えてくれた。
「さすがに寝室の前に人は立たんが、配置は今日と変わらん。あんなことがあってから、人数は少し増やしているがな」
 ということは、少なくとも門と玄関には見張りが立っていたということだ。柵に手がかりはなく先端が尖っているため、乗り越えるのは骨だろう。
「ありがとうございます」
 言って、ノノラは屋敷を後にした。
「次は遺体の確認だったけど……さっきの事件現場、どう思った?」
 屋敷を離れて移動するさなか、ノノラが声をかける。聞かれるのを待っていたらしく、デクはすぐに答えた。
「屋敷の作りがやけに用心深いことの他は、気になるところはなかったかなあ。トーリョから聞いたこと以上の情報はなかったと思う」
「そうよね。ただ、あたしは一つ思いついたことがあるんだけど……」
「なんだい?」
 デクが先を促す。少し言葉を詰めてから、ノノラは考えを語った。
「警戒厳重な屋敷に侵入して、発見されながらも逃げおおせたってところだけ聞けば熟練した盗賊に思えるけど、何か瞬間的に移動するすべを持っていたとしたなら、犯人はすごく迂闊なんじゃないかって思うの。一人殺してから気づかれているし、被害者が叫ぶのを阻止できなかった。その後に派手に家具を壊して指輪を探していたせいで使用人に姿を見られ、逃げ出したのも入口と反対方向。慌てていたか、よほど計画性がない人じゃなきゃ、そんな失敗はしない」
「……確かにその通りだね。不気味な奴だと思ったけど、そのあたりは年相応なのかもしれない」
「不気味なのに変わりはないし、あたしと同じように見た目と中身が釣り合っていないかもしれないけどね。超人的な力を持っているけど、無鉄砲なんでしょう。昨日姿を消したあの技が、手品か何かでなければの話だけど……」
「いや、辻褄は合うと思う。それにしても、よく気がついたね」
 いつものような皮肉ではなく、デクは素直に感心しているようだった。
「……自分ならどうするか考えたらね。逆に言えば、盗賊ギルドとか、そうね、グレムやトーリョも気がついているかも。また後で聞いてみましょう」
「ちなみに、君ならどうするの?」
 今日の夕飯でも聞くような口調でデクは聞く。もちろん、夕飯など食べないのだが。
「うーん、人殺しをいとわないなら夫婦を殺して物色だけど、得物は毒針にする。血潮を浴びなくて済むし、呼吸ができなくなって死ぬから騒がれる心配もないもの」
「……盗人らしくないなんて言って、悪かったよ」
「まあ、誰も手にかけず、かつ誰にも気が付かれず、盗んだことすら悟られないくらいやってのけてこそ、一流の盗人だと思うけどね」
 ノノラはそう付け足すと、遺体が安置されているという教会へ急いだのだった。


 大豪邸を見た後だからかもしれないが、教会は意外にこぢんまりとしていた。外装も内装も落ち着いた造りをしていたが、透明な硝子がふんだんに使われた窓から上品に陽光が差し込んでいるところを見ると、結構うまくやっているようだ。屋敷からさほど遠くなく、周りにも高級そうな建物が多かった。デクが言うには、清貧や施しを押し付けず、むしろ立身出世して他者を正しく導くことを奨励する神様を祀っているのだそうで、貴族や商人に信者が多いというから、立地もそんな身分の人が集まりやすいようにということなのだろう。
「王子様だとか言うあなたも、ここの神様を信仰しているわけ?」
 説明を終えたデクにそう尋ねると、デクはふふん、と鼻を鳴らすような音を立てた。
「他の何者かが決めたルールに指図されるのは嫌いでね、生憎と無宗教さ。強いて言うなら、信仰しているのは自分自身ってわけ」
 そんな風に大それた冗談を言ってのけるので、ノノラは人前で吹き出さないようにするのが大変だった。
 しかしノノラにしてみれば、信じる神様が人それぞれ違うというのは新たな発見なのだった。てっきり神様というのは一人だけで、人はみな同じように崇めているものだとばかり思っていた。デクによると、他の神様に寛容な宗教もあれば、自分たちの信じる神様以外は認めないような宗教もあるのだという。また暇なときにどんな神様がいるのか聞いてみるのも楽しいかもしれないが、差し当たっては本来の用事を優先させるべきだった。
 真っ白な長衣を纏う神官におそるおそる声をかけて符丁を伝えると、奥の部屋に案内してくれた。こんなところにまで盗賊ギルドの息がかかっているのはどうなのだろうと思いつつ、きっと教会の人たちは盗賊が関わっているとまでは知らないのだろうと信じることにして、ノノラは遺体との対面に臨んだ。
 台の上、ノノラの胸くらいの高さに白布を被った遺体が横たえられていた。傍らにはやはり盗賊ギルドの誰かなのだろう、立会人が見張りとして控えていた。神官が出ていった後ノノラは見張りに目配せをして、そっと布をめくった。
 仄白い死に装束に着がえさせられた遺体が二つ。年の頃は三十くらいで、想像していたよりだいぶ若かった。手前側の妻はすっと通った鼻筋が印象的で、意志の強さを感じさせる整った美貌を備えていた。夫の方は引き締まりながらも丸みを残した中性的な顔立ちで、伸ばした黒髪は優雅に波立っている。夫はどこかで見たような顔かと思ったが、目にする機会があったはずもないので、気のせいだろう。二人は死してなお安らかな表情で寄り添い、その睦まじさがひしひしと伝わってくるようだった。
 まあ亡くなり方に事件性があったとはいえ、教会という場で遺体を死亡当時のまま保管せよというのも無理な話だったのだろう。少なくとも悲鳴を上げて死んだ方は恐怖を顔に浮かべて亡くなったはずだが、今は心からの穏やかな表情をしていた。仕方なく、ノノラは傷口の方を確認する。
 と、うめき声が聞こえてきたのはその時だった。
 驚いたが、ノノラは極力反応しないように努めた。微かな声は物言わぬはずの遺体から聞こえてきて、人ならざるものの声とわかったからだった。見張りがいる以上、自分が《物聞き》だと悟られていいことはない。代わりに、ノノラが何も言わなくとも、デクが機転を利かせて会話を試みてくれた。デクの声ならば普通の人間には聞こえない。
「もしもし、どうしたんだい? 君は誰?」
「う……あ……」
 傷を確認する振りをしながら、ノノラも耳をそばだてる。声はかなり小さく、まともに喋れない様子だった。言葉を操る物にも程度はあって、ほとんど鳴き声のような言葉しか発さない物もあるが、それにしたって声はかすれてたどたどしかった。
 ただ、自分の言葉を聞き入れる存在が近くにいるということを理解するだけの知性は宿しているようだった。謎の声は震える声でまくし立てる。
「指輪が……指輪、行って、駄目……行ってしまう……」
 指輪というのは盗み出された物のことだろうか。そうだとすると、それを憂うのは今目の前にいる夫妻のどちらかかと、ノノラは考える。どちらかと言えば男の声に聞こえた。
「……指輪を取り戻して欲しいのかい?」
「野放しは駄目……災厄……二つで、離しては……片割れを、かたわれ……」
 全く会話が成り立っていなかった。デクも対話は諦め、一言も聞き漏らすまいと耳を傾ける。
「魂を、喰らう……もう一つ、対……封印……壊され、指輪……」
 『魂を喰らう』という言葉に、デクがはっと息を飲み込んだ。聞けないノノラはもどかしさに耐えながら、もう一人の遺体に視線を映し、検分する振りを続ける。
「君は、喰われた魂の残滓かい?」
 切迫した声でデクが尋ねるも、返ってくるのは言葉にすらならない、苦しげな息遣いばかり。
「指輪……逃がすな……!」
 最後の言葉だけは、ややはっきりとして聞こえた。それきりうめき声も荒い息遣いも聞こえなくなって、死を悼むしじまが穏やかに眠る二人を包むばかりだった。
 教会を出るなり、デクは今までにないくらい真剣な声音で聞いてきた。
「ノノラ、盗み出された指輪についての情報は、何かあったっけ?」
 ノノラは視線を宙にさまよわせる。
「……言われてみれば、ほとんどない気がする。確か、被害者の家に代々伝わる家宝だとか言ってたけど、それ以上の情報は張り出されていなかった。心当たりがあるの?」
「確証はないんだ。憶測に過ぎない。でも、もっと詳しく知りたい」
「でも、事件についての情報は全部開示されているのでしょう? 犯人から取り返さない限り、わからないと思うけど……」
 ノノラがそう言うとデクは黙ったが、かなりじれったく思っている様子だった。
「ともかく、一旦トーリョやグレムと合流しましょう。得られる情報は出そろったのだし、どうしても引っ掛かるなら彼らにも相談できる」
「……ああ、そうだね。行こう」
 デクは力なげに言う。《蛇の尻尾亭》に戻るまでの間、初めて見る憔悴したデクの様子がノノラは心配でならなかったのだった。


 トーリョとグレムの二人は、朝と同じ円卓に座ってノノラの帰りを待っていた。時間は昼過ぎごろ、ちょうど昼食を食べ終えたところにノノラがやってきたらしい。他の客も徐々に席を立ち、人影はまばらになり始めていた。
「お疲れ、まずは情報共有といこう。君が朝売った情報、どれにどれくらいの値がついたかという話なんだが……」
 グレムの言葉をトーリョが引き継ぐ。
「俺たちもうっかりしていた。情報提供者の名前は明かされないからな。更新された情報のどれが君の証言によるものかわからなかった。というわけで、何を話したのか今一度教えてくれないか」
「確かにそうね。えっと……」
「待て、一応部屋に移ろう」
 そうしてトーリョとグレムが取っている部屋に引っこみ、戸も窓もしっかり閉まっていることを確認してから、ノノラは情報屋に喋った内容を繰り返す。
 途中までは適度に相槌を打ちながら聞いている二人だったが、少年が目の前で消えた話をすると表情を一変させた。
「待て、確かにその通り話したのか? ……おそらくは人間離れした技で、一瞬のうちにかき消えた、と」
「下でもそう言ったけれど……」
 ノノラは当惑するが、二人の動揺はそれを上回っていた。
「どういうことだ……そんな情報は掲示されていなかったぞ」
「え、でも、確証がなかったから書かなかっただけなんじゃ……」
「いや、調査中の事件に関しては、確証のない情報こそ重要だ。不確定情報につき検証求む、と但し書きがついて、目立つ場所に掲示がなされる。それをしなかったということは……」
「ギルドが敢えて隠している、ということになるな」
 グレムが締めくくった。しばしの沈黙。
「ひとまず、君の証言を全て聞かせてくれ。まだ開示されていない情報があるかもしれない」
 そう言われて、ノノラは話を続けた。少年が《物聞き》であるという疑惑も、二人は初耳らしかった。
「そうか、君は物の言葉がわかるのか。しかし、ギルドはなんだってその情報を伏せておくんだ……?」
 ノノラにも心当たりはない。デクも口を挟むことなく、じっくり考え事をしている様子だった。
「……その情報を、買うか?」
 グレムの提案に、トーリョは顔をしかめる。
「わざわざギルドのお偉い方が秘密にしている、その目的を聞き出そうっていうのか? とても俺たちに払える金額とは思えないが」
「値段を聞いてみるだけならタダだ。もちろん、ギルドに警戒される危険性はあるが……」
「もし聞くとするなら、あたしが適任みたいね。自分の話した情報が開示されなかったら、気になるのが道理だもの」
 その点について二人は異論ないようだった。とりあえずこの件は一旦保留にしておいて、各人の意見交換を済ませることにした。
 主に話したのは、犯人像についてだった。
「あまり信じたくはないが、ノノラの報告がある以上、何か特別な能力によって瞬間的に姿を消すことができるのは間違いない。それでいて迂闊で詰めが甘いというのも賛成だ。一連の事件、あまりに行き当たりばったりな印象を受ける。君の言った強盗の顛末もそうだが、俺は傷口が気になった」
 トーリョが言う。ノノラはといえば、傷口を調べた時は謎の声に耳を澄ましていたので、しっかり見ていなかったのだった。
「かなりいびつに、力任せに斬られていた。血が飛び散っていたことや、気が付かれたのもうなずけるが……おそらく、凶器は食事用のナイフか何か、斬れ味の悪い刃物だろう。およそ正気の沙汰とは思えない。あとは、わかりにくかったが体にいくつかあざがあった。子供がやったとは思えない、すさまじい力で締め付けたような痕だ。……想像をたくましくしても仕方ないが、人外の仕業と聞いても俺は疑わないな」
「なるほど、考えれば考えるほど不気味ね」
 ノノラの所感に、二人ともうなずいた。盗賊をして得体が知れないと言わしめるのは、それだけでまれな存在であるはずだった。
「昨晩、ノノラの前に現れたことだが……なぜだと思う? あるいは、同じように夜道に現れることがあるだろうか」
 そうグレムが問うと、ノノラが口を開いた。
「正直、考えあってのことじゃないと思う。現れるなりすぐに消えてしまったし……ただの気まぐれなんじゃないかしら。今日や明日も同じように行動する線は薄い」
「同感だ。何を考えているのかわからんのは厄介だな。そもそも、この街に留まっているのも釈然としない。指輪を売る気もないようだし、さっさと出立して行方をくらませばいいものを」
「長くこの街で暮らせば、外に出ていくことなど思いもよらないのかもしれないがな」
 トーリョの言葉に、グレムが補足を入れる。けれども、犯人の行動が読めないというところについては一致していた。
「運よく遭遇できたとして、捕まえるのも至難の技よね……確認だけど、ギルドの依頼は犯人の引き渡しと指輪の回収よね?」
「ああ。犯人については生死を問わないとも通達されている」
 地下に張り出されていたのをノノラも見た覚えがあった。
「そうだ、盗まれた指輪のこと何か知らない? 確か家宝だったと言っていたけれど、それ以外に情報がない気がして、引っ掛かるの」
 デクが気にしていたのを思い出して、ノノラは尋ねる。
「そういえば、確かにあまり触れられていないな。すまない、俺はよく知らない」
「妙だな。犯人の目的にも繋がり得る重要な情報のはずだ。むしろ強調されてしかるべきだろう。何も知らないのだとしても、それはそれでここまで精力的に解決を望むものだろうか……」
 二人とも知らなかったようだが、きな臭いことは確かだった。縁なし帽にくっついて聞いていたデクも、少しずつ疑念を深めている様子だった。
 相談する内容はおおよそ出尽くしたようだった。最後に、開示されなかった情報と指輪のことについて、今からノノラが情報屋に聞きに行くことで話がまとまった。
「しかし、無理はするなよ。今日ので察しがついたかもしれないが、盗賊ギルドというのは社会に広く深く根を張る組織だ。どこにでもいるが、どこにも見つからない。決して敵に回していい相手ではないぞ」
 グレムが念押しする。ノノラはわかってるとだけ言い置いて部屋を出ると、階段を降り、隠し梯子を伝って地下へと向かう。
 朝早くに比べれば人は増えていたが、それでもごった返すほどではなかった。《蛇の尻尾亭》以外にも盗賊ギルドの拠点はあるようだし、何より情報があまり更新されていないらしかった。多くの構成員が件の少年を追い、他のことが手薄になっているのかもしれない。
 しかし、今のノノラには関係のないことだった。奥の鉄扉が開いていることを確かめ、中に入る。
「売りかね、買いかね?」
 前に来た時と同じ、何の変哲もない男がそう言った。
「買いです」
 しっかり扉が閉まっていることを確認してから、ノノラは答える。
「富豪夫妻の屋敷に強盗が入った事件、盗み出された指輪について外見的な特徴が知りたいのですが」
 初めに聞いたのはこちらだった。デクが言うには、より核心に近く警戒されるであろう質問だから、先に聞きたいとのことだった。
 男は値段を答える。ということは知らないわけではない。しかしその値は懐のサファイア一つ分。払えなくはない額だが、躊躇する値段だ。
「では、聞き方を変えます」
 少し悩んだが、ノノラは強気に攻めることに決めた。
「その指輪は、ツタを模した金のリングに回転する台座がしつらえられていて、台座の裏側には目の模様が彫り込まれ、日光の下では青紫、灯火の下では紅に色を変える、特別なサファイアがはめ込まれている。間違いありませんか?」
 男は眉一つ動かさなかったが、しばし黙考している様子だった。じきに値段を答えたが、さっきの額よりかなり減っている。ノノラはその場で払って、返答を待った。
「その通りだ」
 男はそれだけ答えた。頭の上で、デクは喜ぶでもなく、むしろ余計に緊張している様子だった。
 これが、トーリョとグレムに教わった駆け引きの一つなのだった。つまり、聞き出す情報そのものは同じでも、聞き方によってその値段は変わる。具体的で、答え方がはっきりしているような質問、極端な話、今のように是か否かでしか答えられないような質問ほど、安く教えてもらうことができるのだ。考えてみれば当たり前のことで、勝手わからぬ旅人が井戸の場所を教わるのと、近所に住む人が井戸の水が枯れていないことを確認するのでは、水のありかという与えられる情報そのものは同じでも、その情報の価値は異なる。このような、質問者に対する情報の価値というものが値段の指標になっているのだ。
 しかし今のノノラの聞き方はいいことばかりではなく、『ノノラが指輪の外見を知っている』という情報を自ずから盗賊ギルドに伝えてしまうという危険を孕んでいた。
「一つ確認してもいいか」
 男が言った。
「今回の強盗殺人事件、指輪の回収と犯人の確保が依頼内容だが、指輪と犯人のいずれか片方だけでも達成すれば、その都度報奨金が支払われることは知っているか」
 そうやって探りを入れてくる。ノノラが実物を手に入れたのか否か、気にしているのだ。
「はい、知っています」
 依頼内容にも記載されていることだし、嘘を言っても仕方ない。ノノラは正直に答えた。
「君がその指輪を持っているのかどうか、その情報を買うことはできるか?」
「生憎と、お金にさほど不自由していないので」
 そう言って断る。持っていると知れば強引に奪おうとするかもしれないし、持っていないと知ればノノラは核心に触れているのかと疑うだろう。もちろん、金を貰っておきながら嘘を言えば断罪は免れない。この時点でとっくに警戒されているだろうが、情報を与えないに越したことはなかった。
「もう一つ、買いたい情報があるのですが」
 話が一段落したとみて、ノノラは切り出す。
「今朝あたしがお話しした少年の情報について、消え方が普通でなかったことと、《物聞き》の可能性があることは公開されていませんが、その理由を教えて欲しいです」
 男は即座に値段を告げる。その金額は、話せないと言っているのと変わらなかった。
「では、この買い物は諦めます。ありがとうございました」
 あっさり言うと、ノノラは部屋を去った。
 そのまま何かに追われるようにして梯子を上り、店を出て大きく深呼吸すると、どっと疲れが湧いてくるのを感じた。自分がひどく緊張していたことに、今更気が付いたノノラだった。
「どうやら、あなたの思っていた通りだったみたいだけど」
 人気のない裏路地を見つけて滑り込み、デクに耳打ちをする。
「うん、おかげで確信が持てたよ」
「詳しく話してくれるのよね」
「ちょっと長くなるけどね」
 デクも疲れた様子だった。身体の疲れはあり得ないから、それだけ気が重かったということなのだろう。
「この事件、少年が指輪を盗み出したわけじゃない」
 デクの声は聞かれるはずもないが、ノノラは思わずあたりを見回して、人影のないことを確かめた。気が立っているのはノノラも同じなのだ。幸い、移動する必要はなさそうだった。
 一呼吸おいて、デクは言う。
「指輪に足が生えて、逃げ出した。それが真相さ」


 その指輪は、《魂喰らいの指輪》と呼ばれていた。
 卵を横に潰して薄くした形の台座には長径の方向に細い穴があけられていて、そこに黄金のリングが通され、台座がくるくる回るようになっている。この意匠は古きに存在した文明の王族に関わる品に特徴的なもので、その時代から存在したのだと言われているが、定かではない。
 目の紋章が刻まれた台座にはめ込まれているのは、色変わりする特殊なサファイア。日の光の下では深海のごとき青紫をたたえているが、人の手によって生まれた光、灯火の下では燃えるような妖しい紅を帯びる。この希少な石こそ、その呪術的な禍々しい力の源なのだろうと言われている。
 その名の通り、この指輪は生きとし生けるものの魂を喰らうのだという。
「僕らが見たあの少年は、喰った魂が具現化した仮の姿に過ぎない。本体は指輪だ。一瞬のうちに姿を消すことができたのも、本来の姿に戻って逃げ出したからさ。指輪一つ、しかも目くらましの呪術が使えるなら、見つけることはできっこない」
 デクが説明する。要するに少年の正体が意思を持った指輪だったということで、デクの声が聞こえていたのもそれが理由だったようだが、ノノラはもう一つ気が付いたことがあった。
「そういえば、教会で旦那さんの遺体を見た時、既視感があったの。今にして思えば、黒髪や中性的な顔立ちはあの少年とそっくりだった」
「そうだね、きっと喰らった魂が不完全で子供の姿になってしまったんだろう。教会で聞いた声の主は、いわば食べ残し、ばらばらになった魂の断片ってことなんだろうね。おかげで正体を知ることができたけど……安らかに眠ることはできそうにないかな」
 デクは沈痛な声でそう言った。あの声は正常な思考を失っている様子だったから、そのまま眠るのでは安寧は得られないだろうと、ノノラも思う。
「ねえ、魂を喰らうって、具体的にどういうこと? 魂を喰われた人、喰われた魂はどうなるの?」
「魂を喰われれば、残るのは死体だけだ。喰われた魂は指輪本体の養分になり、その呪力の源へと変わる。たぶんだけど、初めに殺して魂を食べたのが奥さんの方で、それを養分にして活動しているんだと思う。旦那さんの方の魂を喰い切るのに失敗したのは、気が付かれて抵抗されたからじゃないかな」
 デクは推測を語る。暴れた痕跡があって、寝台の奥に倒れていたのが夫の方だったと先刻トーリョが言っていたから、それとも整合していた。
「その、呪力とか、呪術って言っているのはどういうもの? 指輪が持っている特別な能力、って理解でいいのかしら」
 ノノラが尋ねる。少なくともノノラには初めて聞く言葉だった。
「大体合ってる。指輪だけが使える力じゃないけどね。生き物の魂を消費することによって、常軌を逸した現象を引き起こす術のことを呪術、その力を呪力、その媒体となるものを呪物と呼ぶ。あの指輪は独立した意思を持つ呪物なんだ。そういう意味では、君と似たような存在ともいえる」
「……どういうこと?」
「もし君の推測が正しくて、君に人の魂が宿っているとすると、君は自分の意思を持ちながらにして他者の魂をその身に抱えていることになる。指輪も状況としては同じさ。生者から強引に魂を奪い、積極的に消費していることを別にしてね。逆に言えば、僕も呪物だけど君や指輪とは別種の存在だ。この意思は僕という魂の意思であって、木人形そのものに独立した意思はないからね」
 その説明を聞いたノノラは大きな疑念に思い当たって、はっと息を飲み込んだ。
「……待って、あたしがその指輪と同じような存在だとするなら、あたしが活動することができるのは、手足を動かして、考えて、人と会話することのできる、その力の源は、まさか……」
 デクは慎重に、その言葉を遮った。
「人の魂でない、とは言い切れない。でも、君はあからさまに呪術を使っているわけではないし、魂は大きな力を宿している。君が飛んだり跳ねたりするのに魂を使ったって、そうそうすり減るものじゃないんだよ。亡者を愚弄するような消費の仕方はしていないはずさ」
「でも……」
 ノノラはかなり動揺していた。自分の中で人の魂が少しずつ消えゆくのだとしたら、いたたまれないことだった。
「それに、使っているのが他者の魂だとは限らない。普通の人間だって、魂をほんの少しずつすり減らしながら活動しているんだ。君は、昔のことを思い出せないんだろう? それが魂の消耗に関わっているとするならば、使っているのは君自身の魂じゃないかい?」
 ノノラは黙っている。自分の疑念もデクの言葉も憶測に過ぎないから、どれが正しいと断言することはできなかった。
 結局、自分が何を信じるかというところに尽きる。
「……今悩んでも仕方のないことね。自分はどうあれ、あの指輪が邪なる行いをしているのは変わらないんだもの。止めなきゃいけない」
 ノノラがそう決意すると、デクもほっとしたようだった。ノノラは質問に戻る。
「デク、指輪の呪術に対抗するにはどうすればいいの?」
「……それなんだよね」
 デクはほとほと困り果てたといった様子だった。
「……え、もしかして、できないの?」
「ふがいないことに、知らないんだ。《魂喰らいの指輪》の伝説はその筋では有名だけど、あくまで伝説であって、僕も実在するなんて思ってもみなかった。どんな呪術を使えるのかもわからないし、弱点だとか、対処法なんてさっぱりだ。復活してしばらくは軽はずみな行動をしていたようだけれど、呪力の強さを鑑みると相応の知性を備えているはずだ。じきに分別を取り戻して、迂闊なことはしなくなるだろう。そうなってしまうと本当に手が付けられない。力の源である人間もこの街にはいっぱいいるし、いずれこの街の暗部となるだろう。……決して野放しにしちゃいけない存在だったんだよ」
 デクは暗澹たる声で言う。真相を知りながら気落ちしている様子だったのは、このためだったのだ。
「そんな、嘘でしょう? あの指輪は代々受け継がれてきたものらしいじゃない。何か封じ込めておく方法があったはず……」
「それは僕も考えたけど、その方法を知っているであろう人物は殺されてしまった。……真相は闇の中さ」
 デクは嘆息する。確かに、状況は八方塞がりに見えた。しかし、本当に万策尽きてしまったのだろうか。ノノラは考える。
 と、一つ気になることを見つけた。
「……あのさ、もう一度確認するけど、指輪は盗み出されたんじゃなくて、自分から逃げ出したのよね」
「そうだと思う。あれが《魂喰らいの指輪》なのはほとんど間違いない。盗み出した者がいたとして、無策なら殺されているだろうし、指輪を封じる術を持っていたにしても野放しにする理由がない」
 デクはノノラの意図を測りかねたようで、怪訝そうに答える。
 ノノラは無意識に声を潜めて、尋ねた。
「……なら、どうして指輪は家具を壊したの?」
 デクは表情を変えないが、驚いている様子だった。
「あたしたちは、少年が屋敷に侵入し、夫婦を殺害して指輪を盗み出して去ったのだと思っていた。でも、真相は違う。指輪は盗まれたのではなくて、自分の意思で夫婦を殺し、逃げ出していた。なら、寝室の家具を壊して《魂喰らいの指輪》は何を手に入れたの? 自身の糧である魂を喰らってなお、指輪が求めた物は何?」
 デクは答えられずにいる。ノノラは続ける。
「少し、変だと思っていたの。寝室の配置にあれほど神経を遣う人物が、二重底とはいえ、簡単に壊されてしまうような家具に家宝をしまっておくだろうか、と。少し楽観的な見方かもしれないけれど、少年の姿をした指輪は見つけられなかったんじゃないかしら。……自分の利益、もしくは脅威になり得る、何かを」
「……封印に必要な物?」
「可能性として、それが一番妥当じゃない?」
 ノノラはそう言った。考え込むデクは少し元気を取り戻したようだった。
「……そういえば、教会で聞いた声……『二つ』とか、『片割れ』とか、『対』とか言っていたよね。……もしかしたら、指輪はもう一つあるんじゃないかな」
「……そしてそれには、《魂喰らいの指輪》を抑制する力がある?」
「出来過ぎた話だね」
 デクが言う。首が動かせたなら、横に振っていただろう。
「でも、懸けてみる価値はある」
「どうするつもりだい?」
 ノノラの言葉を否定せずに、デクはそう尋ねた。
「聞く必要があるの?」
 不敵な笑みを浮かべて、ノノラは問い返す。デクもにやりと笑ったに違いなかった。
『あたしは盗人なの。お宝奪取なら望むところよ』
 二人は口を揃えてそう言ったのだった。


 それからの準備にノノラたちは三日を要した。
 事は一刻を争う。《魂喰らいの指輪》が腹を空かすまでにどれくらいの時間があるかはわからないが、犠牲者は増える一方だろう。その上、何か新しい能力に開花するだとか、力を増すことも考えられる。何しろ、相手は伝説上の存在なのだ。あまり悠長に時間を与えてはならない。
 しかしそれ以上に、隠密と確実を取らなければいけなかった。盗賊ギルドの方も侮ってはならないからだ。屋敷は今ギルドの管轄下にある。下手を打ってノノラたちの侵入が露見すれば何かあると勘付くだろう。対となる指輪の存在、仮に《魂鎮めの指輪》と呼んでいるそれは可能性でしかないとはいえ、ギルドには知られていないはずの重要な情報だ。もし知られてしまうようなことがあれば何としても手に入れようとするだろうし、手に入れれば何をしでかすかわからない。毒は単独でも武器になり得るが、その解毒剤と両方が揃って初めて戦略的な道具となるのだ。
 つまり、盗んだことすら悟られないように盗み出さなければならない。機会は一度きり、失敗は許されなかった。
 考えた末、ノノラはトーリョとグレムにだけはこの情報を明かし、相応の報酬を約束した上で協力を願った。ギルドに通じていないとも限らなかったが、その時は諦めるとノノラは腹をくくったのだ。二人は快諾し、内々に三人で侵入の算段を立てた。
 目的の指輪は夫婦の寝室に隠してあるとにらんでいた。妙に入り組んだところにあるのが気になったのと、大事な物は目の届くところに置いておきたいのではないかと思ったからだ。他にも、《魂喰らいの指輪》が寝室を荒らしているという状況がある。対になる指輪であるという推測が正しいなら、デクに自身の眼の場所がわかったように、ある程度は場所がわかるかもしれない。つまり、彼が漁った寝室が怪しいということだ。
 もちろん、既に盗み出され、壊されている可能性はある。見つけても取り出せないかもしれないし、別の場所にあるかもしれないし、そもそも存在していないかもしれない。
 しかし、やってみなければわからないこともある。
 新月の夜、木立に囲まれてそびえ立つ漆喰造りの屋敷に、エメラルドの双眸を向ける人影があった。潮の香はとうに遠ざかり、澄んだ夜気は冷たい鋼の匂いを纏っている。星明りしかない下界に闇はいよいよ濃く、深海を思わせるサファイア色に沈んでいた。
 薄雲が行き過ぎて、その影が舐めるように赤土の地面を這っていく。
 最も闇が深くなったその瞬間に、人影は音もなく跳び上がった。
 矢を束ねたような形をした塀の先端、侵入者を拒む尖った凶器をあざ笑うかのように、遥か高みを越えていく。人間離れした跳躍力だ。芝生に飛び降りたときのくぐもった音も、その当人しか聞き遂げる者はなかった。
 聞き遂げた物は、一人ばかりいたのだが。
「お見事」
 ノノラの背中側を向いたデクが言った。ノノラは返事をせずに、素早く手近な木陰に身を潜める。
 ――まずは一つ。
 ノノラは心中で呟いた。辺りの様子を窺いつつ、じわじわと建物へにじり寄っていく。灯りを手にした見張りが玄関に一人、外周にもう一人。無力化するのは簡単だが、何の痕跡も残さないのが今回の目標だ。ここが二つ目の障害だった。
 灯火の届かぬ暗がりの中をノノラは滑るように移動していった。水が低き所に流れるように、煙が高き所に昇るように、その動きはあるべき物があるべき所に収まる時の自然なものだった。力むこともなく、かえって虚ろになりすぎることもない。忘れてしまうほど長い時間、体に刻み付けてきた、染み付いてきた動作だった。
 そんな姿が見あらわされるはずもなかった。ノノラは難なく窓に辿り着くと、錠前にピックとテンションを刺し込んで一瞬のうちに開錠する。華奢な体をするりと滑り込ませると、内側から鍵を閉め、頭に叩き込んだ見取り図を頼りに無人の廊下を進んでいく。見張りの数と場所、外から開錠できる窓の場所、屋敷の中の見取り図は、三日を使って調べたことの一部だった。
 ――二つ。
 ノノラは数える。その数字は自身を駆り立てるようでもあったし、緊張をほぐしていくようでもあった。ノノラは次第に歩調を速め、走り出す。
 一条の光もない廊下は灯火なくして見透かせるはずもなかったが、ノノラは一度も壁に手を触れることなく、正確に寝室を目指すことができた。目を閉じて走っても同じことだっただろう。わずかな空気の流れ、壁そのものの気配がノノラに囁きかけ、存在を知らしめてくれるのだった。
 右に折れて階段を上り、左に折れて階段を下る。寝室に至る曲がり角、微かに漏れ出てくる炎の揺らめきを察知して、ノノラは足を止めた。
 息を鎮めて待つ。
 ほどなくして足音が聞こえる。たつたつと自らの存在をことさらに主張する音は、薄氷のようにもろい静寂にひびを入れて少しずつ近づいてくる。そのうちに煙の匂いも増し、灯火が空っぽの廊下を朱に照らし出した。
 曲がり角から盗み見た突き当たり、朱を濃くしていく通路によぎった人影の右手を注視する。中指と人差し指をぴんと伸ばして親指をそれと垂直に立てていた。その合図を確認すると、ノノラはようやく笑う。
 寝室の前に立つ見張り番が交代し、役目を終えた番兵が去っていく。油断せず少し時間をおいてから、ノノラは寝室へ赴いた。
 ノノラは躊躇わずに灯火の下へ姿を現し、見張りの前に立つ。見張り、すなわち変装を解いてさらに別な変装を繕おうとしているグレムは、背後の扉をノノラに示す。鍵がかかっているようだがこれもすぐに開錠すると、ノノラは寝室に忍び込むことに成功した。
 ――三つ。
 この、寝室の前に立つ見張りが一番の懸念材料だった。横をすり抜けて寝室に入るのは無理が過ぎるし、仮にできたとしても探し物をすれば気が付かれるだろう。つまり、見張りとして味方を配置しておく必要があった。そこでグレムの出番となったのだ。グレムは変装に長け、すぐ近くを通り抜けても気づかせない目くらましの呪術を使うことができる。ノノラに肉薄できたのもそのためだったのだが、今回は正門や玄関を正面突破するのに使ってもらった。屋敷内の下調べに尽力したのもノノラとグレムだ。
 交代の時間、その際の符丁、見張りの顔。ここまでお膳立てするのには知らなければいけないことが山ほどあった。とても一人では調べきれなかっただろう。苦労の末に捻出したとはいえ、与えられた時間は少ない。見張りの交代に際して、次の見張りに先んじてグレムが訪れることで前の見張りを帰し、ノノラのために時間を作るというのが策だったから、本物の見張りがやってきて前の見張りに扮したグレムと交代するまでに、ノノラは寝室を脱出していなければならない。
 寝室に窓はない。開け放した扉から差してくるグレムの灯火だけが頼りだった。血まみれの寝台、木っ端微塵になった家具、その合間にわだかまる闇の一つ一つをノノラは素早く見回していく。
 何の手がかりもなしに、短時間で指輪を見つけられるはずもない。ただ、ノノラは隠し場所に当たりをつけていた。用心深い家主のことだ。壊されて取り出されることのないような、建物に備え付けになった引き出しがあるに違いない。とすると、怪しいのは壁、床、天井のどこか、おそらくは部屋の奥側、視線の向きにくい場所……
「あった」
 ノノラが思わず声を上げた。寝台に被さる天蓋、その裏側に、葉をかたどった壁の模様が周りに比べて薄くなっている場所があった。目を凝らしてもわからないが、なぜてみるとほんのわずかに切れ目のあることがわかる。
 しかし、取っ手や錠の類は見当たらず、押しても、切れ目に針を刺し込み弄っても、ぴくりとも動かない。ノノラはいぶかしむ。
「……どうやら、物理的にではなくて何か特殊な力で封がしてあるみたいだね。こじ開けるのは難しそうだ」
 デクが言う。ノノラは臍を噛む思いだった。何か方法はないか、万事休すか、と考える。
 ベルトにぶら下げた道具入れへ針をしまった時、ノノラはそれに手を触れ、思いつく。
「……きっと、斬れない物はないのよね」
 闇の中でさえ光を集める、仄白い刃が抜き放たれた。自身の周りに何をも存在することを許さず、その刀身が纏っているのは闘気とも、殺気とも、あるいは無そのものともいえるかもしれなかった。熟練の刀匠が半生をかけて磨き上げた、竜鱗の輝き。
 目に見えぬ何かが迸る竜鱗のダガーを、壁にそっとあてがう。
 じゅうっ、と灯火を水に沈めた時の音がした。ノノラはダガーをしまい、今一度針でこじ開けようと試みる。溶接したようだったさっきの感触が嘘のよう、見た目は何ら変化なかったが、壁はあっさりと盛り上がり、その中身をノノラに差し出した。
「……本当にあったんだね」
 デクが言う。白金のリング、回転する台座、灯火に朽葉のような赤褐色を帯びる宝石。
 ノノラの手に収まったのは、《魂鎮めの指輪》に他ならないのだった。


 隠された引き出しを元に戻し、変装を終えたグレムの横で寝室の鍵をかけ直すと、ノノラは早急にその場を後にした。慎重を期しながらも疾風のように来た道を戻り、あっという間に屋敷を抜け出す。もちろん鍵は全てかけ直し、足跡も誤魔化し、一切が元通りだ。何事もなければ、盗みに入ったことすら気が付かれないはず。ノノラたちの勝利だった。
 ただ、本番はむしろこれからと言えた。
 入った時と同じように塀を飛び越えたノノラは、そのまま足を止めずに深夜の街を駆けていく。今となっては足音を気にする必要もない。疲れを知らない体が全速力で向かったのは、日中に市で賑わい、日暮れにはさっぱりがらんどうになる通り。
「首尾は?」
 打ち合わせた通り、そこにはトーリョが待っていた。
「上々よ」
 ノノラはそれだけ言う。トーリョはにやりとするも、すぐに表情を強張らせた。
「……お出ましのようだな」
 広々とした通りの真ん中に、ぽつねんと立ち尽くす影。
 前に会った時と全く同じように、少年の姿をした影が振り返った。それが舞い降りた瞬間、闇が一段と深くなるのがはっきりわかった。光を失って髪は黒々とし、毒々しい緋色の眼も太陽の下では蒼に染まるのだろう、指輪が抱くサファイアの色なのだと今はわかる。
 トーリョの持っていた灯火が突如としてかき消えた。
「まさか、本当に持ってきてくれるとは思わなかったよ」
 声は変わらず少年のものだが響きはざらついていて、おぞましさがありありとしていた。肌は生気を失って青白く、人ならざるものへと変じていることがはっきりわかった。前に相対した時よりも力を取り戻しているということなのだろう。
「正気を取り戻してからもう一度行ってみたけど、ボクには開けられないことがわかったからね。ほとほと困り果てていたんだ。……渡してもらうよ、その指輪」
 トーリョは無言で短刀を引き抜く。ノノラも竜鱗のダガーに手をかけて、言った。
「それはこちらの台詞よ。指輪を、あなたを、渡してもらう」
「……図に乗るなよ」
 あどけない少年の顔が、歪んだ。
 ノノラとトーリョが同時に駆けた。トーリョは右から、ノノラは左から、回り込むようにして挟撃を狙う。距離は一瞬にして詰まり、斬りかかるタイミングも測ったように同じだった。
「退けっ!」
 トーリョが叫ぶ。肌のひりつく感覚にいぶかる間もなく、ノノラは斬撃を中断して跳び退った。その鼻先を黒い塊が掠め、ざりざりと不可思議な音を立てて行き過ぎる。
 距離を取ると、その全容が見て取れた。
 ローブから伸びているそれは衣のようであって、衣と全く異なるものだった。黒雷と呼ぶのがふさわしいだろうか。絶えず空気を削るような音を立てて爆ぜ、鋭角に曲がりながら指輪の周りを縦横に巡っている。
 トーリョが舌打ちして短刀を捨てた。その刀身は半ばから融けていて、ノノラは黒雷の威力を思って身震いした。直撃すればどうなるか考えるのも恐ろしい。安易に近づくわけにはいかなかった。二人は後退る。
 爆ぜる音、この世のものと思えない生命のさざめきが一際大きくなった。黒雷がまさに電光の速さで二人に襲いかかる。
 斬り合いに長けた二人でも、避けるのは至難の技だった。見てからかわすのでは間に合わないから、少年の視線や今までの攻撃の様子から軌道を読み切るしかなかった。足さばきの音、空気を焦がす音、赤土の吹き飛ぶ音。幸い攻撃は単調で何とか避け続けることができたが、膠着状態が続く。
 防戦一方の中、隙をついてトーリョがナイフを投げつけた。黒雷の間を縫うようにして背を向ける少年の姿へと飛んでいったナイフに、ノノラを攻撃しようとしていた黒雷が鋭角に引き返し、あやまたず命中した。ナイフが一瞬のうちに赤熱し、煙を上げて融けていくのをノノラは見る。
 しかしノノラが感じたのは恐怖ではなく、むしろ状況を打開する希望なのだった。
 トーリョと目配せをする。どうやら、トーリョも気が付いたらしい。新しいナイフを構える。
 黒雷による攻撃はすさまじい速さとはいえ、二者を同時に攻撃することはできないようだった。そして、死角からのナイフを正確に叩き落としたということは、本体の意思と関係なく、近づくものへ襲い掛かる性質を持っているということだ。あるいは本物の雷と同じなら、金属に引き寄せられる性質を持っているのかもしれない。
 トーリョが立て続けにナイフを投げる。
 片手を振るうだけで一度に三本のナイフが少年の姿へと迫る。黒雷にあっけなく叩き落とされるが、その間に次のナイフが飛んでいる。黒雷がナイフを攻撃している間、トーリョ自身には攻撃が飛んでこないのだ。全力で投げ続けるナイフは波のように絶え間なく、黒雷が一つずつそれを鉄塊に変えていく。
 もちろん、その間ノノラには何の障害もない。
 白刃を携えて、一気に《魂喰らいの指輪》へと迫る。少年の顔に初めて焦りが浮かんだ。
「なめるなあ!」
 咆哮、掲げられた手。突如、ノノラの眼前に黒い点が生まれた。
 気が付いた時には遅かった。目の前に現れた黒雷を、突進しているノノラは避けようもない。刹那の内に、ノノラの全身をおどろおどろしい恐怖が駆け巡った。
 一閃。
 ほとんど反射的にノノラは竜鱗のダガーを振り抜いた。虚空を削る黒雷と闇夜に刻まれる白刃とが交わり、閃光が轟く。白光が辺り一面を照らし出し、少年の眼は青紫に、《魂鎮めの指輪》は深緑にまたたいて、にらみ合った。
 残光と残響とが遠ざかる。《魂喰らいの指輪》は緋色を取り戻し、《魂鎮めの指輪》は朽葉色を取り戻し、夜はサファイア色と静謐を取り戻す。
 ざりざりと空気を削る音は消えている。ノノラは無傷、竜鱗は黒雷に打ち勝ったのだった。
「何だ、その剣は……」
 そう言って怯んだのは一瞬だった。憤怒に少年の顔をますます歪めて、新たな黒雷を出して襲いかかる。
 しかし、もはや間合いはノノラのものだった。
 ほとんど手の届く距離、ノノラの攻撃も即座に届く以上、電光の速さを持つ黒雷が相手だろうと関係ない。純粋な反応速度の勝負だ。次々と繰り出される黒雷を現れるなり叩き落とし、ノノラは少年に肉薄する。剣戟の風切る音に覆い被さるようにして、稲妻のような閃きが次々と花開く。少年の足が、後退った。
 しかし《魂喰らいの指輪》も、そのままやられるほどやわではなかった。
 ノノラが鋭く突き込んだ瞬間、少年の輪郭が揺らいで刃がすり抜けた。同時に、ノノラの背後で空気の焦げる音がした。
 近づき過ぎたのだ。黒雷の出せる範囲の、内側まで。とはいえ振り返って迎撃すれば、指輪の姿に変じて逃げるのを見失ってしまう。それを悟った瞬間、デクが叫んだ。
「捕まえろ!」
 ノノラはデクの言葉を信じた。後ろを顧みず、《魂鎮めの指輪》をはめた左手をまっすぐ突き出す。
 少年の首をつかんだ確かな手応えを感じた瞬間、ノノラの背中で何かが爆ぜた。
 逃がさないように手に力を込めるとともに、振り返って迎撃する。白刃のもと、黒雷と一緒に融けたナイフが弾け飛んだ。トーリョが投げつけ、一瞬の隙を作ったのだ。背後を向いたデクはそれに気が付いていた。
 ノノラは《魂喰らいの指輪》に向き直る。
「鎮まれっ!」
 ノノラが叫ぶと、《魂鎮めの指輪》が輝く。かき消えようとしていた少年の姿が輪郭を取り戻した。
「くそう、放せ!」
 眼が緋色の輝きを増す。だがそれ以上に、《魂鎮めの指輪》の朽葉の色が強くなる。ノノラは左手で、少年の首をぎりぎりと締め上げる。
「どうしてボクを止める!」
 ざらついた少年の声が叫ぶ。
「お前だって物だろう! それも、人の魂を取り込んで我が物としている。ボクと同じだ! ボクを止める理由が、権利が、お前にあるのか!」
 ノノラはぐっと息を飲み込んだ。手に込める力が強くなる。しかし、咄嗟に答えることができなかった。
「人間はいつだってボクを虐げてきた! 片割れを作って封じ込め、都合のいい時だけ呼び起こして利用する。だからボクが同じようにする。復讐だ、自業自得だ! 思い上がった人間どもを虐げて、何が悪い!」
 虐げる。その言葉に、ノノラは目の覚める思いだった。今まで言葉にならなかった、もやもやとした決意が形を得るのを感じた。
「あたしはあなたと違う」
 詰めた息を吐き出して、ノノラが言った。
「あたしは、人とも物とも対等に在る。時に争い、時に助け合い、物としての本分を叶え、人としての意思に寄り添う。一方的に人間を貶め支配しようとするあなたを、あたしは許さない!」
「欺瞞だ! お前の魂、人の魂と癒合したそれが共存の証とでも言うのか! 物と人は違う。人間はボクたちを作った。利用するためだ! ボクたちを支配し、貶めようとする。必ずだ! 共存なんてあり得ない!」
 わめく声。決然と言い切ったノノラは、強い意志を宿した瞳を緑に光らせた。
「それは、あなたが力を持ち過ぎ、歩み寄る機会を見失ったからよ」
 竜鱗のダガー、何物をも切り裂くと誓った剣を、振り上げる。
「やめろぉっ!」
 その言葉を最後に、斬り伏せられた少年の姿は輝く光の束となって失せた。身の毛のよだつような暗黒は遠ざかり、星明りが街の底まで届く。
 ノノラは握りこんだ左手をそっとほどく。その手の中には何もなかった。しかし、中指にはめた白金のリングに寄り添うようにして、人差し指に金色のリングが収まっている。
 《魂喰らいの指輪》を手にした瞬間だった。


 港町の朝は早い。日の昇る前にしてうっすら空が明るみ始めたころから、露店の荷物を携えた人々がせわしなく行き過ぎていく。潮の香が満ちる前に人いきれと物産でごった返し、喧騒は波の音を覆ってしまう。この街において海は隠されているが、海あってこその盛況なのだ。赤土の地面も、よくよく見ればところどころ白いものが混じっている。それが砂粒なのか塩なのか、ノノラはあえて調べようとはしなかった。
 《蛇の尻尾亭》の前で佇んでいると、背後から呼び止められた。振り返れば、トーリョとグレムが立っている。
「早いのね」
「どうも不眠症らしくてな」
 そんな冗談に肩をすくめてから、二人について店へ入る。盗賊たちが起きるには少し早すぎるようで、一階には誰もいなかった。階段を上って、二人の取っている部屋に入る。
 二人の協力あって一対の指輪を手に入れることができたので、報酬の受け渡しをしようということなのだった。ノノラが荷を解いて貯め込んでいた盗品の数々を並べると、盗賊二人は息を飲む。
「……よくここまで集めたものだな」
「まあ、暇だったってことね」
 グレムの言葉に、ノノラは薄い笑みを浮かべる。いつの間にか、二人の前で笑うことに抵抗はなくなっていたのだった。
「どれか選べってことか?」
「何を言うの。全部よ。あなたたちがいなかったら絶対にうまくいかなかったし、腕前を考えても成功報酬としてこれくらいは払わないと」
 そう言うと、二人は揃って目を丸くした。
「いや、しかし……これはほとんど君の全財産だろう? 貰ってしまって大丈夫なのか?」
 気遣わしげにグレムが言うも、ノノラは気楽に返す。
「サファイアを換金した分と、今回の戦利品があるもの。ギルドからの報奨金を貰えば不自由はないから、大丈夫」
 なおも悩ましそうなグレムに、トーリョが割って入った。
「ありがたく貰っておこう。当人がこれだけ払ってしかるべきと言っているんだ。突っぱねるのも無粋だろう。……それに、これだけあれば目的を急ぐことができる。そうだろう?」
「……わかった。感謝する」
 そう言って、二人は受け取った宝物を大切そうにしまい込んだ。
「これから、俺たちは海を渡る」
 一息ついてからトーリョが言った。決意を目に秘めた、精悍な顔つきをしていた。
「とある島国に、少し因縁があってな。路銀を貯めて行くことが目的だったんだが、おかげで予定を早めることができる。……本当に、感謝している」
 そう言うグレムにも、揺るがぬ決意を感じさせるものがあった。
「こっちこそ、ありがとう。それだけの働きをしてくれたんだもの。他の人ではこうはいかなかったと思う」
 ノノラの方も礼を言う。二人は笑って、それから少し顔を見合わせて、居住まいを正して聞いてきた。
「……しつこいとはわかっている。しかし、あえてもう一度聞くことを許してくれ。……俺たちとともに行く気はないか」
 今度はノノラが驚く番だった。視線を落として、黙り込む。
 一度断ったのは、人の営みから離れていたかったからだった。そうしなければならないと、無意識に自分を縛っていたからだった。しかし、今は違う。物であろうが、人であろうが、対等な存在として向き合うこと、それを助けることが自分の本分なのだと、気が付いたのだ。何より、目の前の二人とはうまくやっていけるはずだと、今回の成功がはっきり示している。断る理由はないはず……と思ったのだが。
 海を渡る、その言葉がどうにも引っ掛かった。潮の香、寄せては返す波飛沫、その銀色のきらめき。無性に気味悪く感じる、体に纏わりつくように感じる、生命にあふれた臭気。その感覚は本能的なもので、どうにも抗うことができなさそうだったのだ。
「……ごめんなさい、他の場所ならありがたくついていったんだけど、船旅は……あたし、海がひどく苦手みたいなの」
 ひどく申し訳ない気持ちで、ノノラは答えた。二人は肩を落とすが、どこか晴れ晴れとした表情をしていた。
「……残念だが、仕方ないだろう。俺たちも行先を変えるつもりはないからな。生業は同じだが……今度こそ、会うことはないかもしれない」
「しかし、君に認めてもらったことは忘れまい。同じ技を修めるものとして誇りとしよう。……達者でな」
「二人もね。……旅の無事を祈っているから」
 そうして、三人は手を重ねる。温もりを持つ手、持たざる手、その違いはもはや関係ない。いや、むしろ好ましいものにさえ思えるのだった。
「最後になるが、アクアマリンの持ち主にも、よろしく伝えておいてくれよ」
 デクの方を見てトーリョが言った。口に出さなかっただけで、どうやら前々から気が付いていたようだ。しかし、人の言葉は通じないのだと勘違いしているらしかった。
「全部聞こえてるんだけどなあ」
 デクがぼやいたのを伝えると、三人で笑う。
 そのまま部屋を出ると、二人は宿代を払って引き払い、港へ行くのだと言って《蛇の尻尾亭》を去っていった。
 ノノラにとって、思い出せる限り死を伴わない初めての離別は、涙なしに終えることができたのだった。


 二人と別れてからしばらくも、ノノラは何をするわけでもなく《蛇の尻尾亭》に佇んでいた。日も高くなってくると起き出してきた同業者で食事処は盛況だった。周りに聞こえないよう小声でデクと話しながら、ノノラは所在なさそうに、まるで何かを待っているかのように木卓に突っ伏しているのだった。
 そのうち、デクが呆れて尋ねてくる。
「一体どうしたんだい? ずいぶんとやる気がなさそうじゃないか。さしもの君も、昨日の今日じゃ疲れて動けないのかな。……それとも、そんなに別れが堪えたか」
「うん、それもあるけど……あたしの勘が正しければ、一番疲れるのはこれからな気がするのよね。今は何事もないよう祈りながら待っているところというか……」
 ノノラは気怠そうに答える。実際、気が重いのは確かだった。
「まあ、君が楽観視し過ぎていないようで、少しは安心したよ。でも生憎と何事もなしでは済まないみたいだね」
 デクはそう言って口をつぐむ。ノノラの方に歩み寄る人があったからだった。何の変哲もない、強いて言えばそれが特徴の男。情報屋として地下の小部屋に陣取る、おそらくは盗賊ギルドにおいて重要な地位にいる人間。
 肩を叩かれ体を起こすと、教えた覚えもないのに向こうはノノラの名を知っているようだった。地下へ来てくれと頼む口調は物柔らかだが、どこか有無を言わせないような含みを感じるものだった。
 指輪を入手したと知って、交渉をしに来たのだ。ノノラは確信した。
 隠し梯子を下った地下室に、今は人っ子一人いなかった。人払いがされているに違いない。懐に収まった一対の指輪の存在を意識しながら、ノノラは一度深呼吸をする。
 男に続いて開かれた鉄扉をくぐる。扉を後ろ手に閉めると、互いの身じろぎさえ聞こえるような静寂が訪れる。隔離されているのだと強く意識した。
「さて、我々は君が指輪を入手したと知っている。ぜひ、それを買い取らせてもらいたいわけだが」
 偶然か、それともわざとなのか、男は『目的の指輪』とか『依頼していた指輪』と言わずに、『指輪』とだけ言ったのだった。《魂喰らいの指輪》については、昨晩あれほど派手な立ち回りをしたのだから、勘付かれても仕方ない。だが、《魂鎮めの指輪》について、盗賊ギルドは知っているのかどうか。屋敷から盗んだことは気が付かれていないと思いたいが、もし戦いぶりを見られていたのであれば存在を悟られていてもおかしくない。『指輪』という言葉が片方を指しているのか、両方を指しているのか、ノノラにはわかりかねた。
 とはいえ、ただの深読みということもあり得る。ノノラは慎重に答えた。
「前にも言いましたが、あまりお金に困っているわけではありません。それに、あたしが手に入れた指輪はただの宝飾品というわけではないようです。初めに状況を整理させてください。まず聞きたいのは、買い取る値段です」
 この部屋の中では情報と金銭は等価だが、売買交渉をするというなら値段を提示するのは当然だ。男はあっさり値段を告げる。もともと提示されていた依頼の成功報酬より桁が二つほど違っていて怖気づいたが、裏を返せば喉から手が出るほど欲しいということ、ある意味で弱点を晒したことになる。交渉の余地はあるはずだった。
「では、あたしが売らないと言ったらどうなりますか?」
「これはこの件に限ったことではないが、依頼を受領することで情報を得る権利が生じ、その対価として依頼主の意向に従う義務が発生する。それを突っぱねるのなら、違約金など何らかの形で罰則が下ることになる」
「この件の場合は?」
「違約金がある」
 と言って、値段を告げる。これもまた法外な額で、盗賊二人への報酬を出す前ならわからないが、今となってはとても払える額ではなかった。しかも言外に金銭以外の罰則を匂わせるあたり、実力行使もいとわないと宣言しているようなものだった。きっと違約金を元手に依頼を出して追っ手を差し向け、強奪しようとしてくるのだろう。そう簡単に奪わせない自信はあったが、名を知っているくらいだから腕前は把握しているはずだし、油断できる相手ではないはずだった。仮にトーリョやグレムのような熟達者が何人もいたとしたなら、逃げおおせるのはかなり厳しい。
「……指輪を使って何をするつもりか、買えますか?」
 その質問も想定の範疇だったのだろう、さらりと答えた値段は法外なんてものではなかった。指輪の売値よりも数倍は高い。真っ黒だ、とノノラは思った。すなわち、この値段よりもさらに数倍か数十倍の利益をギルドは指輪に見出しているのだ。ノノラには見当もつかなかったが、この街のような大都市か、小国家の趨勢に関わる額に違いなかった。
 大きな潮流が、自分を飲み込もうとしているのを感じる。
 しかし、ノノラは余計に売りたくないという決意を強くした。ただの天邪鬼ではない。心に秘めた理由、《魂喰らいの指輪》と対峙した時に気が付いた、大きな信念があった。
 そして、何ら無策でここまで出向いたわけではない。
「……売りたい情報があります」
 同情も暴力も、この場では通用しない。動くのは情報と金銭のみ。情報を買うのに金が足りないとなれば、それに見合った情報を渡すだけだ。
 とはいえ、それがどれだけの価値を持つものなのかノノラには測りかねた。だから、これは純粋な賭けだ。せめて違約金分の値がつけば、今後のことはさておき指輪を持っていくことはできる。それが叶わなければ、売るしかない。ノノラは長い息を吐いた。
「……あたしは人形です。疲れず、眠らず、食事を要さず、傷つけば直ることのない代わりに延々と生き続ける存在です。人とも物とも対話ができ、自分の意思とは別に人の魂を宿しています。証拠として、あたしの肌に触れれば人でないことがわかります」
 一息に言い切って、ノノラは男に向き直る。
「この情報は、いくらになりますか」
 男は眉一つ動かさない。ノノラは拳をぎゅっと握り込んだ。
「……金にはならない」
 その言葉が体の中を通り抜けていくのに、しばらくかかった。どうしてと問いたい一方で、やっぱりと諦める自分も確かにいた。
「……理由を聞いても?」
 金は請求されなかった。男は答える。
「その情報は既に買っているからだ。君からね」
 男が何を言っているのかわからず、ノノラは怪訝そうに見つめ返した。しかしそれ以上説明はない。しばし考えてその意味に気が付いた時、愕然とした。
 初めて情報を売った時、サファイアの値がついた理由。
 高値がついたのはどの情報だろうとノノラは悩んだものだが、他でもない、ノノラの正体こそが高値のついた情報なのだった。男はあの対話の中でノノラが人形であることを見破り、それにこっそりサファイアと同じ値をつけ、ノノラに支払っていた。
「……見破ることができた理由、推測の過程を聞くには、いくらかかりますか?」
 大体の見当はついていたが、これは是か否かで答えさせてもあまり意味がない。男の考えた通りに聞きたかった。幸い大した額は請求されなかったので、支払う。
「一番の手がかりは下手人が《物聞き》だと見抜いたことだ。誰かが《物聞き》であることを見抜くのは、自身も《物聞き》でなければ難しい。もう一つは、君の年齢と身のこなしの冴えに覚えた違和感だった。見た目通りの歳ではあり得ない技術を持つ、人外の類であることはすぐにわかった。姿形を変えずして成長できる《物聞き》ともなれば、人形であると推察してそう間違いはないだろう」
 何のことはない。鋭い洞察とはいえ、聞いてみれば当たり前のことだ。ノノラは打ちのめされた気分だった。秘密を見破られていたことではない。自分の価値、希少性を買いかぶり、正体を明かせば何とかなるだろうと考えていた浅ましさに気が付いたのだった。目の前の男は、自分の正体、人形であるという情報にサファイアの値を付けた。それはそのまま自分という存在の価値に他ならないのだと、ノノラは感じた。普通の人間にそんな値はつかないだろうが、値が付いたところで違約金には及ばない。この状況はどうしようもない。携えた手札としては全くの無価値なのだ。それを思い知らされた。特別であることそのものを武器にできるほど、自分は特別ではなかった。
「他に売りたい情報は?」
 そう言われては、黙る他ない。
「なるほどね、思いつかなかった。着眼点はなかなか悪くなかったと思うよ」
 デクが言った。慰みごとは虚しいだけだからやめて欲しかった。しかし男の前でそう言うわけにもいかない。ノノラはじっと耐えるしかなかった。
「物珍しさで言ったらとびきりだ。ただね、盗賊ギルドは好奇心から情報を買っているわけじゃない。その情報が金に変わり得るから買っているんだ。そこを勘違いしてはいけない」
 デクの言葉は、慰めというより諭すような口調だった。ノノラはいぶかしむ。今更やれることは何もないのに、今ここで反省しても仕方ないのに、デクは何が言いたいのだろう。デクは弁が立つが、余計な口を挟むようなことはしないはずだった。
 ――売れる情報がまだあると、そう言いたいの……?
 あり得ない。自分の正体の他に誰も知らないような秘密、それも金になりそうな秘密など、あるはずがない。ノノラは必死に考える。竜鱗のダガーのこと、《魂鎮めの指輪》のこと。それくらいしか思いつかなかったが、竜鱗のダガーの情報が金になるとは思えないし、《魂鎮めの指輪》について教えるのは危険過ぎる。
 面と向かっての探り合いに経験の少ないノノラが無表情を貫くのは、そろそろ限界だった。それを察したようで、デクが言った。
「トーリョやグレムだって気が付いたんだ。どうせこの男も僕の存在には気が付いている。だんまりを決め込む必要はない。だから今ここで、君の口から、僕に教えて欲しいことがある」
 物問いたげな、困ったような、情けないような視線を、ノノラは上向ける。
「……君は、どうしても指輪を持ち帰りたいのかい? もしそうなら、その理由を、決意を、覚悟を、聞かせて欲しい」
 その問いに、ノノラはデクの思惑が何となくわかった気がした。デクは相応の覚悟を求めている。それと同じだけ、デクにも覚悟があるということ。
 デクは、ノノラが知らない情報を売れと言っているのだ。
 ノノラは口を開く。
「あたしは人であり物であり、同時に人ではなく物でもない。でも人とも物とも対等でありたい。人の営みと物の営みの両方に寄り添って、その尊厳を大切にしたい」
 よどみなく、決然と語る。
「人の本分、物の本分、そのどちらも貶めたくない。蔑ろになんかさせたくない。人と物との在るべき場所、在るべき関係を探していきたい。だから……この指輪の使い道は自分で決めたいの。たとえこの身を危険に晒してでも。それがこの指輪の意志を曲げた、あたしなりの義務だと思うから」
 ノノラはそこで口をつぐむ。意思を聞き遂げたデクは、それをとっくりと吟味してから、言った。
「よくわかった。君は自分の本分を見つけたんだね。その覚悟、確かに聞いたよ」
「……助けてくれるの?」
 か細い声で聞くと、デクは得意げに、しかしどこか達観したかのような声で言った。
「借りは返すって言っただろう? ……今から言うことを、一字一句その通りに繰り返してくれるかい」
 不思議な申し出だったがノノラはうなずく。いくよ、と前置きしてからデクが話し始めた。
「……世に聞し召すテシクミエハの血は絶えども、その意思は未だ絶えず」
 厳かな、宣旨を下す神官のような声音だった。驚きながらもその通り復唱すると、男が表情を変えた。
「権謀術数の末に、皇帝陛下リューティア=ミン=テシクミエハは義ある側近とともに亡くなられ、罪を着せられた嫡子サイハル=ガラ=テシクミエハはその肉体を失った。しかし忠ある呪術師の手によってサイハルの魂のみが救い出され、永らえるに至る。皇帝の座を奪ったキッタカ=ファヂ=ナーダミラハークの不義を暴かんとするも叶わず、呪術師の死とともにその行方知れず。しかしテシクミエハの名にかけて、必ずや身の証を立てて祖国へ舞い戻り、悪辣なる偽帝の謀略を白日のものとし、愛すべき民草を正しく導かんとすることを、今ここに宣言する」
 震える声で、ノノラは繰り返した。男は動揺を隠せずにいる。言い終わったとみて、ノノラは叫んだ。
「デク⁉ いや、えっと……?」
「……お前がその、サイハル王子だと?」
 男は縁なし帽を見てそう言った。やはり、デクの存在には気が付いていたらしい。
「そうだよ、って伝えて。ノノラ」
 茫然としながらその通りにすると、男は吹き出した。
「はっはっは! いいだろう、情報料としては十分だ。気兼ねなく指輪は持っていくといい! ただしその前に、真偽は確かめさせてもらうぞ」
 馬鹿にした様子の、しかしどこか期待のまなざしを浮かべる男に、畳みかけるようにしてデクが言う。
「呪術師の名前は、ティリオ=カダールナ。彼の真名を知るのは僕と、ともに暮らしていた義兄弟だけのはずだが、覚えがあるかな?」
 伝えると男は急に静まり返り、あっけにとられて固まったままのノノラに低い声で言った。
「二つ、教えることがある。一つ目、指輪は自由にするといい。我々に強奪する意思はなくなった。危害を加えることはないと誓おう。二つ目、《魂喰らいの指輪》だが、制御できる手段、例えば相応の呪物と呪術師さえいれば、命あるものの魂を動かすことができる。例えば魂を抜き取って殺したり、死体に魂を植え付けたり、とな。我々はその力をもって権力者を傀儡とし、政治の采配に食い込むことで勢力拡大を謀っていた。……以上だ」
 男はそれきり口を閉ざした。もう伝えることはないと、そういうことらしい。
 違約金ばかりかギルドの目的も引き出すことができ、さらに襲撃をしないとの確約、指輪の使い道まで対価として貰うことができた。本当の話なのだ。この場で話されることほど信憑性の高い情報もないが、その衝撃にノノラは未だ頭が追いついていなかった。逃げるように後退り、鉄扉に手をかける。
「……殿下を、頼んだぞ」
 鉄扉を開く瞬間、微かに聞こえた。その言葉は男が言ったものなのだろうが、男はそんな素振りもなく、無表情で座っている。ノノラの目にも哀愁は見あらわせなかった。
 ノノラは扉から走り出て、隠し梯子に取りつき、一段とばしに昇る。
 一度も振り返らなかった。


 市壁の外まで出て、街道を外れて茂みに飛び込むと、ようやくノノラはへなへなと腰を下ろした。息が荒く、動悸と無縁なはずの体が火照っているように感じた。縁なし帽を持ち上げてそっと目の前に置き、自分の腕を抱いた。
「……どうして」
 聞きたいことは山ほどあったが、何をどう聞いたらいいのか見当もつかない。結局、どうしてとしか聞けなかった。
 デクは寂しげに笑う。
「……いずれ話そうとは思っていたんだけどね、話したからってどうというものでもないだろう? 話せば役に立つ機会だったんだ。ちょうど良かった。普通に話しても信じてくれたかわからなかったし」
 デク、と言いかけて、ノノラは言葉を詰まらせる。
「……何て呼べばいいの?」
「デクだよ、今の僕は。何もできない木偶人形さ」
 言葉の重みをひしひしと感じた。自嘲気味な、何もかも諦めてしまっているような声。ノノラは大きく首を振った。
「何もできないなんてこと、ないでしょう。あたしと一緒に来てくれた。ダガーを完成させてくれた。迷うあたしを励ましてくれて、祈り方を教えてくれて、指輪を奪取してくれて……それでも、何もできないだなんて言うの?」
 ノノラはほとんど泣きそうだった。初めて会った時、木人形は名前なんてないのだと言っていた。自分がデクと呼んだ時、何を思っただろう。
「これから、どうするつもり? やっぱり祖国を目指すの?」
「帰るつもりはない」
 即答するデク、サイハル王子に、ノノラはうろたえる。
「……だって、さっき言ってたじゃない。国に戻って、権力を取り戻すって」
「その場しのぎの戯言さ。今の僕が戻ったってどうしようもない。在るべきものが在るべき場所に収まってしまった後なんだ。国の存亡、権力者の交代なんて人の世に幾度となく起こってきたけど、それを取り返した例なんてほとんどない。無謀なんだよ」
 そんなことはないと思ったが、ノノラが否定したとして何の励ましにもならない。ノノラは国の趨勢など気にしたこともなかったし、口を挟んだとしてそれこそただの戯言に過ぎないのだった。
 しかし、言えることがないわけではない。
「あの男の人、あなたを知っているみたいだった。指輪の使い道、魂を移し替えることができるって教えてくれた。……あなたの言葉を、信じているんじゃないの?」
「帝国の再興ともなれば、黒い仕事には事欠かない。僕に期待しているのはそうなんだろうけど、望んでいるのは金だ。他の方法でいくらでも稼いでもらうさ」
「あなたのこと、殿下って呼んでいたけど」
「……呪術師ティリオの名を知っていたようだから、彼の義兄弟が盗賊ギルドに話すなり、情報を盗まれるなりしていたんだろう。何かと手癖の悪い奴だったけど……まさかね」
「変装はしていたと思うよ?」
 言うと、デクは黙った。あの男が呪術師の義兄弟なのかどうか、その可能性を考えているのだろう。そのうち、大きくため息をつく。首を振れたら横に振っていただろうが、きっと、そうできないのをもどかしく感じているだろう。
 ノノラは続ける。
「それに、魂を手繰ることのできるこの指輪があれば、あなたは人の体を取り戻すことができるかもしれない。決して手の届かない話じゃないはずよ」
 その言葉に、デクは厳しい口調で言った。
「それが、君が考える指輪の使い道かい? ……死体に僕の魂を移し替えるだなんて、盗賊ギルドがやろうとしたことと何も変わらないと思うけどね」
「そうだけど、でも、何もないよりは、その……」
 言いよどむノノラに、デクは呆れたような、でも少し元気づけられたような様子だった。
「わかったよ。旅は続けてくれるんだろう? なら、何か策が見つかるかもしれないさ。でもね、僕はあんまり期待し過ぎないようにしたいんだ。幸いに寿命は尽きないし、気楽にいきたいんだよ。気楽にね。……思い詰めると、本当に気が狂いそうだったから」
 ノノラと出会う前は孤独に生きてきたのだ。しかも手足を動かせず、言葉を交わす相手もなしに、流されるままに流されてきたはずだった。
「そうね。気ままに、今まで通りに旅を続けましょう。……この指輪だって、そんな旅の中で見つけたんだし」
 ノノラは懐から一対の指輪を取り出す。もう隠しておく必要もないだろう。邪魔にならないように左手の中指と薬指にはめておく。そういえば、どたばたしていてどちらもちゃんと眺めていなかった。二人はしばし指輪の輝きに見入る。
 太陽の光の下で、《魂喰らいの指輪》は遠洋を思わせる紺碧、《魂鎮めの指輪》は叢林を思わせる深緑をしていた。夜に見た時はそれぞれ燃えるような緋色、紅葉のような赤褐色をしていたから、どちらも色変わりの宝石を抱いているのだ。しかし、《魂喰らいの指輪》にはまっているのはサファイアだろうが、《魂鎮めの指輪》の宝石には心当たりがない。デクも知らないらしく、相当に珍しい石なのだろうと知れた。
 片やツタを模した金のリング、片や炎を模した白金のリング。回転する台座と、その裏に刻まれた目の紋章。どれをとっても対と呼ぶにふさわしい、似通った意匠をしていた。一つの手に並べてつけておくことが、なんだか申し訳ない気分にさえなる。
 唐突に、指輪を見つめていたデクが呟いた。
「……僕はまた、自分の足で歩くことができるのかな」
 その声の先には、アクアマリンの眼した板状の木人形。初めて聞いた幼子のような泣き言に、ノノラは優しく微笑んだ。
「できるよ、きっと。あたしだって人と向き合うことができるようになったんだもの。そうだ、魂の出し入れができるようになったら、あたしの体を使ってみる?」
「やめてくれよ、それじゃあ意味がない」
「意味がない、って?」
 尋ねると、デクは赤くならない顔を赤くしたように見えた。
「……なんでもないよ」
 それだけ言って沈黙する。ノノラは首をかしげた。
「……でも、人形の体を作ってもらうっていうのはいいかも。そもそもあなたの魂の依り代として作ったものに宿るなら、誰も何も貶めなくて済むもの」
「また、雲をつかむみたいな話をするね。君の作者でも探すつもりかい?」
「旅人には無限の可能性が広がっている。まして、あたしたちは老いることがない。時間だって有り余っている。できないことはないはず」
「その間に国が滅んじゃってたりしてね」
「本末転倒って、そういうことを言うのね」
 少し前まで自分の身の振り方さえままならなかったのに、こうして二人でやたらとスケールの大きい話をしているのがなんだか馬鹿馬鹿しく、それでいて真実味がないわけではないのだから、冒険心をくすぐられるようでおかしかった。夢見がちな人間というのは、きっとこういう気分なのだろうと、ノノラは思う。
「もし自分の体が手に入ったら、初めに何がしたい?」
 明るい声で聞く。ここで話したことは端から叶いそうな、そんな予感がしていた。
「……そうだね、その指輪はつけてみたいかな。一つだけでいいからさ」
「《魂喰らいの指輪》と《魂鎮めの指輪》、どっちを?」
「その時決める。言い出した時、どっちをどっちにつけているかわからないからね」
 デクは気取った口調でそんなことを言う。ノノラは狐につままれたような顔をして、二つの指輪を見比べる。左手の、中指と、薬指とにはまった指輪。
「まあ、いいけど……」
 しかし、人の世に疎いノノラはその意味を知らないのだった。
「約束だよ」
 言いつつも、デクは動かない肩をすくめて、やれやれと笑う。
「次の行先はどうするんだい?」
 そうしていつもの質問をする。ノノラは驚いて、まじまじとデクを見た。
「え? まだ行かないって。一週間はぶらぶらするって決めたもの。あと一日残ってるから、街に戻る」
 港町に入ってから今日が六日目なのだった。デクは苦笑する。
「そういえば、そんなこと言ってたね。律儀なことで」
「折角換金できたのに、使わなくちゃ重たくてしょうがないもの。出るときにはほとんど文無しになるかもしれないけど、今までお金に困ったことなんてないし、何とかなるでしょう。しっかり旅支度を整えて、ついでに近くに面白そうな街がないか聞いてみようかな」
「……すっかり旅人だね」
 デクが言う。心底嬉しそうだった。
「今までも、これからも、ずっと旅人だと思うけど」
「人間の旅はいつか終わる。でも僕ら人形なら、そういうこともあるのかもね」
 含みのありそうな言葉だったが、何となく、デクはそんな旅路が長く続くことを願っているような気がした。
「うん」
 大きくうなずくと、ノノラは縁なし帽を持ち上げて被り直す。黒絹のお下げ髪は出したままにしておいた。
 立ち上がると、照り付ける日差しの下、草いきれはむせ返るようだった。がさごそと音を立てながら茂みを出て、街道に足を踏み入れる。荷馬車が一台、幌を翻しながら行き過ぎていった。人馬の通う道だ。時に獣の出ることもあるだろう。ノノラは気を引き締めて、街の方を臨む。
 赤土の広々とした街道が、うねりながら街へと続いていた。多くの足跡が降り積もっている道、その上に重ねる自分の足跡は、どんな意味を持つだろうか。
 市壁にぐるりと囲まれた街には、湿った海風が吹いている。それを補って有り余る人の熱気が渦巻いている。そしてその下には、黒々とした陰謀、社会の裏を統べる闇が人知れず横たわっている。その彩り、様々な表情こそが人の営みそのものなのだ、ノノラには無性におかしかった。
「行こう」
 ノノラとデク、どちらともなく言って、歩き出す。
 エメラルドとアクアマリン、二対の緑柱石の瞳は、どんな景色を臨むのか。
 いずれ、誰かが語り継ぐのかもしれなかった。

『盗人ノノラと木偶人形(綾月かもめ)』

一話は静寂30に掲載された「緑柱石の瞳」の改稿版となります。ここに眠っていた某小説の設定を拾い直して書き起こしたのですが、ノノラとデクの二人が自分なりに気に入ったので続きを書いた次第です。終わりどころがむずかしい……

『盗人ノノラと木偶人形(綾月かもめ)』 東大文芸部 作

物の声を聞く盗人少女、物ながら口を利く木偶人形、ノノラとデクの旅路を追う短編連作。物と人との営むはざまに、二人は何を見るのか。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2015-05-03
Copyrighted

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