裸のランチ―Naked Lunch―
繰り返される嘔吐に、胃が悲鳴をあげ、
私は堪らず便器に突っ伏したまま吐き続ける。
吐しゃ物には少しだけ血が混じっていた。
Ⅰ ルーシーは抱えきれないほどのダイヤモンドとお空の上……。
Ⅰ ルーシーは抱えきれないほどのダイヤモンドとお空の上……。
Lucy in the Sky with Diamond
繰り返される嘔吐に、胃が悲鳴をあげ、
私は堪らず便器に突っ伏したまま吐き続ける。
吐しゃ物には少しだけ血が混じっていた。
胃の府が空っぽになるまで吐き続け、もう唾液すらも出ない。
ようやく顔を上げると開け放たれたバスルームのドアから、
有希のヒステリックに笑う声が聞こえた。
有希は相変わらず線上に刻まれた白い粉を、マックのストローで
スニッフし続けている。
二十畳ほどもあるリビングに半裸の男女が四人、その中の一人は私、
嘔吐のループの中でもがき苦しんでいる。
退廃とブルーベルベット、フェリーニとリンチ、カフカとバロウズ、
切れかかった快楽の末路は苦しさと後悔のデュエット。
綯交ぜの意識のまま、唇を拭うと汚物が右腕にへばりついた。
クシャクシャのペパーミントグリーンのマルボロのボックスから、
クシャクシャの煙草を取り出そうとしたけれどうまくいかない。
やっとの思いで唇に咥え、震える手を左手で押さえながらシルバーの
ジッポーで火を点けた。思いっきり肺に吸い込み、一気に吐き出す。
メンソールがシナプスに染み渡る、まるで安っぽいスペシャル・エフェクト。
パープルヘイズ・・・B・G・Mにはぴったりだ。
今の私ならフェンダー歯で弾けちゃうなきっと・・・。
紫の煙が揺蕩う白い壁紫煙を眼で追う。
壁に張られたバスキアのリトグラフにフォーカスする。
その極彩色のシャーマンは今にも私に向かって持ってる槍を投げそう。
・・・早死にするかも知れない、バスキアのように、
・・・善人はみんなそう・・・甲殻類に変身して一生隅っこに隠れていたい。
啓介は相変わらずパンツ一枚って格好で、巨大なホックニーのプールに飛び込もうと必死。
バーカ、ポスターに飛び込んでどうするのよ・・・。
有希にペニスしゃぶらせたまま真司が鼻の穴についた粉を丁寧に人差し指で拭い、歯茎に擦り付けてる。
虚ろな瞳、空虚で、吸いこまれそう・・・ブラックホールみたい。
「なあ、安住知ってる、レノン射殺したチャップマンって男の背広の
内ポケットにサリンジャーのライ麦畑のペーパーバック入ってたんだって・・・」
私はだからどうなのって・・・右腕の汚物が拭っても,拭っても取れやしない。
「象徴的だよなこの話、事の真意は別にしてさ、俺もなんか入れておこうかな、尻のポケットにさ」
「好きなもの入れとけば・・・で、だれ殺すの」
「ペシミストでフェミニストでナルだからな俺、自殺はしても人は殺せないな、きっと」
喉の奥の異物と格闘してる私、もう何もない、空っぽ。
「太宰の女生徒とかおしゃれかな、晩年とかいいよな」
「分けわかんない・・・」
「何だっけ、好きなんだよな・・・死のうと思っていた。
今年の正月、なんたらかんたら、最後の一行のさ、夏まで生きていようと思った、生への決別がさ、いさぎいいよな」
「真司も太宰みたいに早死にしたい人?」
「取りあえず死ぬ理由ないもん、ある? グッド・リーズン、ないだろ、ノー・リーズンって訳にもいかないし、有希死んでくれる? 一緒に」
それには一言も答えず有希は、相変わらず勃起しないペニスを熱心に舐め続けてる。
不毛だよ、有希・・・南極で駱駝探すくらい不毛だ。
「安住知ってる? エンペドクレスのサンダルってさ」
有希のことシカトかー、真司。
「なにそれ? なんかのブランド?」
「ベスビオスだかどっかの火山に身投げしたやつだよ、
人類史上初めて自殺したやつなんだよ」
「それでー」
「その火口だかにサンダルがさ、揃えて置かれてたって話しさ、いいだろ、なんかさ」
死ぬ時までそんなにお行儀よくしなくっていいわよと思った。
美大行ってる真司のこと、それなりに尊敬してるよ、こんなセンスのいい部屋、ざらに無いもの。今度、
八王子キャンパスのなんたらってとこでブランチしよ。
眠い、堪らなく眠い、今眠ったらきっと世界が終わってしまうまで熟睡できるに違いない。
そしてこんな夢を見るんだ。
ウォホールに犯されて、妊娠して、生まれてきた赤ちゃんがモンローだったり、モンローはケネディのために歌う、
ハッピー・バースディ・ディアー・プレジデント。
夢を見ることを夢見、眠りにつく・・・シェークスピアだね。
こんな退廃そろそろお開きにしないとね、現実に戻れなくなっちゃう。
そもそも啓介が悪い。医局の手名づけた看護婦から、
アンフェタミンやら、ハルシオンやら危ないクスリの詰め合わせセットを手に入れたもんだから、私たちまで調子に乗ってしまった。
クスリなんか無くたって啓介は充分楽しませてくれるのに、倦怠感末期の真司と有希にはかなり効いたみたいね、
おねだりしたって起たないもんは起たないのよ有希。
啓介は何かわけの判らないこと呟きながら額を壁に打ち付けてる。
「ルシファー、ベールゼバブ、サタン、アストロス、リヴァイアサン、エリミ、バールベリス・・・魔王どもよ、永遠なれ・・・」
言いながらホックニーの描いたプールにペニスを擦りつけた。
「なんなのあれ、もしかして悪魔でも憑依した?」
呆れ顔の真司がいった。
「違う、違う、啓介、両親とも敬虔なクリスチャンなのよ」
「それで」と真司。
有希一生懸命なのよ、少しは反応したらー。
「で、啓介はキリスト犯すのが夢なの」
「なんだよ、啓介ってホモだったんだ」
「違う、違う、観念的によ。なんだか知らないけれど、
両親にトラウマあるらしくて、彼にとってはキリスト犯すことが復讐なのよ、両親への,多分」
「やっぱ変態だ、啓介も安住も絶対変態!」と真司。
「私はいけるんならいいよなんでも、真司、どうなってんのあんたのこれ、たった1回? もう最低。ああ、滅入っちゃう」
とうとう有希もあきらめたらしい。確かめるように起き上がり、
頭を押さえながらバスルームに消えた。
等々啓介のやつ、実家から持ってきたっていう真司御自慢のマレンコの見るからに高そうなソファに、カルバン・クラインのビキニって格好で眠ってしまった。
ソファの前にはガウディのカサ・ミラをモチーフにしたみたいな巨大な曲線のテーブルがあって、使い難いったらありゃしない。
イームズもそう、シェルチェアって、座ってるとすぐお尻痛くなるし、
ミッドセンチュリーの家具って絶対セックスに向かないよ。
その上にはシャンパンやら、ワインやら、缶ビールの空き缶やら、
歯型のついたピザやらクスリのタブレットやらがリオのカーニバルみたいに散乱してる。
「あら、啓介、なんか泡吹いてるよー、大丈夫かな?」
男物のバスローブを着た有希が気だるそうに啓介の隣に座り込む。
大胆に股、開くもんだからバスローブはだけてヘアー丸見え。
水滴のついた有希の太腿がエロチックだ。改めて思う、綺麗だね,有希の脚。
「もう駄目眠い、啓介の介抱有希に任せるからー、真司、寝室こっちだっけ?」
「やっちゃっていい?」
本気とも嘘ともとれない言い方で有希が言った。
起き上がろうとしたが脚がもつれて思うようにいかない。
腰にがっしりした真司の腕が巻きつく。
有希はちゃっかり啓介の裸の胸に顔を埋め寝息を起ててる。私のだぞ、手出すなよ。
言おうしたけれど、呂律がまわらない。
「ほらー、ちゃんと起きてよ、寝室まで連れてってやるから」
「ありがと、ごめんね、こんなになるなんてね」
抱きかかえられ、ベッド・ルームに運ばれてる間に真司にキスされた。
「なんか、飲ませた?」
「ああ、ハルシオン 一錠」
仰向けに寝かされた私に、真司の影が覆い被さる。
「駄目だよ,真司。そんなこと,有希いるんだよ」
パンティの上から真司の指がゆっくり私のカントをなぞる。
「安住が嫌ならしない、ここまでで終わり、ゆっくり眠っていいよ」
「クスリのせいだよ、クスリのせい・・・」
いい訳してる自分が可笑しかった。真っ白なシーツが雲みたいに見えた。
ラピュタを包んでた雲だ。飛行石のペンダントが欲しい、
ティファニーでもいいけれど。
キャミソールが捲れて、乳房が露になってる、誘惑したんじゃないよ私。
パンティの中で真司の指がヴァギナを弄り、クリットを愛撫する。
乳首を齧られ、舐められ、私は思わず声を上げた。
「いいの?」
「うん・・・」
「クスリのせいだろ」
「焦らさないでよ」
真司は挿入すると荒荒しく私を責めた。
肩や項を歯型がつくほど齧られその度に私の口を真司の手のひらが覆った。
なにより私自身が驚いたのはその粗野なセックスに何度もいったことだ。
全てを熟知してるような真司の手管は二度目の時は、一変して丁寧に優しく私を扱い、私は真司のされるがままに身を委ねた。
真司の胸に抱かれて私は、自分に言い聞かせてた。「これはきっとクスリのせいなんだ、
クスリのせいなんだ、私のせいじゃない」って何度も何度も頭の中で繰り返してた。
Ⅱ 僕と一緒に行かないか、あのストロベリー・フィールズへ。
Ⅱ 僕と一緒に行かないか、あのストロベリー・フィールズへ。
Strawberry Fields Forever
病的に雨が好きな子だった。
抜けるような青空を見ると吸いこまれそうで自分が消えて無くなってしまいそうで恐かったからだ。窓ガラスを伝う雨の滴だとか、雨上がりの水溜りとか、夕立の後の澄んだ空気の街並みとか、傘さして黄色いお気に入りの長靴はいてそぼ降る雨の中の散歩とか、時雨なんかも好き、今日だって小雨がずっと降り続いててなんとも朝から気分がいい。
「資本主義の卑小なとこは、俺と安住の生活も、誰かの犠牲の上に成り立ってるってこと」
言いながら啓介は足元に唾を吐いた。
「唾吐くって行為と資本主義を誹謗、中傷するってこととどんな関係性あるわけ?」
しかめ面の私を見て入り口の扉を開けながら愛想笑いで道を譲る。
相変わらずの混雑ぶりを見せるスタバの店内、水滴で曇った窓ガラスを通して足早に行き交う人の波がオブジェみたいに見える。ざわついた店内、なんだかむしょうに煙草が吸いたい。
「裕福ってのは俺のせいじゃないし、貧困も俺や安住が作り出してるってわけじゃない」
「だから、何が言いたいわけ? デート中って認識ないの?」
「だからー、安住がさ、俺たちの関係が見えてこないって言うからー」
「なに、それ、それでいいわけに資本主義なんだ」
カフェモカを一口飲み啓介が続ける。
「だからー、まあ、簡単に要約するとだな、健全な世界規模の経済の発展には規制のない自由な競争が原則なんで、だからこそあらゆる人間に平等の幻想を信じさせることができたわけ、いわゆるアメリカの幻想ってやつ。
人種や貧富の差に関係なくね、アメリカン・ドリームとも言う、
その幻想を信じさせてってか、その幻想の上に今のアメリカがあるわけ。
だけど、もう気付いてるんだよなみんな、幻想の未来、その上の砂上の楼閣、背伸びしたバベルの塔は崩れさる運命なんだってことさ、
テレビで9・11見ててツインタワーがバベルに見えたね俺には」
フラペチーノが不味くなる、もう。
「で、そのご高説まあごたくとも言うけれど、確かに拝聴いたしました、結論言ってよ、結論」
「自由を規制して、例えばあらゆる輸入品にバカ高な間税かけるとか、
統制経済なんか導入しちゃうと、それこそ神の見えざる手すら働かなく
なるんだよ、競争阻害されるとさ、パイプカットされた雄犬になりさがるんだな、でさ、俺たちの関係性を例えばここで恋人ですだとか、将来は結婚前提だとかってことは、健全な恋愛を阻害する一要因にはなるが、決していい結果をだな・・・」
二本指で啓介の唇を塞いだ、まだ言い足りないみたいに口モグモグさせてる。
往生際の悪いやつ。
「セイウチと大工ね」
「アリスか…まあ、例え話しだよ」
「悪いのはどっち?」
「嫌、そうじゃない、牡蠣もせいうちも大工も、みんな持ちつ持たれつって言いたかったのさ」
「啓介、学部は経済だっけ」
「いや、医学部だけど、何か?皮肉かそれ」
「自由でいたいんだ、来るもの拒まずってやつ」
「本能に忠実にって言い方もできる」
「身体目当てって言ってるみたい」
「一頭の雄牛はさ、何百頭もいる雌牛と1回しか交尾しないんだって、
1回づつだよ、しちゃったのには見向きもしないんだって、
凄いよな本能って」
真司と寝たよって言いそうになった。けれど、口からついて出た言葉は
「セックスしよっか」で、私は啓介の優しい愛撫を想像して頭の中それ
ばかりになってた。
我慢できなかった私は、啓介のマンションがある井の頭公園のずっと手前の人気のない駐車場で、自分からパンティを脱ぎ、ペニスを導いた。
啓介の赤いミニクーパーはカーセックスには不向きだったけれど、リアウインドウに着いた水滴を見ながら啓介の愛撫を受けるのはとても素敵な行為に思えた。
ワイパーが作動するたびに視界が開けてそれだけが気になったけれど、この瞬間だけがリアルだと思った。何回身体重ねたって、
お互いのことなんて砂漠の一粒の砂ほども分かりっこないんだから。
身体は嘘つかないね、啓介、私たちシャムの双子のように離れられないよ、きっとね。
啓介と最初に出会った日、彼はこう言って私に近づいてきた。
「君は僕の分身だ、やっと逢えたね、僕らは逢うべくして逢った、
そういう運命なんだ」
普段なら下らない運命論者の戯言、放置するんだけれど、
その日は雨が降ってて気分良くて送ってくれた啓介とそのままホテルに直行した。
啓介、私もそう思ったんだ、君が分身だって。無くした身体のジグソーの一片、そんな気がしたの、ずっと探してたものを手に入れた気分に浸ってたんだよ。
雨の日が大好きだ。雨の後の新緑の際立つような匂い、息づく芝生の緑、何もかもが生命に満ち溢れていて、一時、喪失感も、
閉塞感すら忘れさせてくれる。
雨にはきっと再生の神様が宿っているに違いない。
Ⅲ 温かく勃起したペニスは至上の幸福。
Ⅲ 温かく勃起したペニスは至上の幸福。
Happiness Is A Warm Gun
「・・・難関を突破して医学部に入った後、ひたすら医学知識を詰め込み、国家試験に合格してからは専門医への道をひた走る。
だから、緊急時に対処できずにあげくの果ては医療事故続発だぜ、
ER見て勉強しろっての」
まあ、ER見てってのはジョークだと思うけれど、かなり、ERってのはリアルらしい、
ほんとにあれそっくりの言いまわしや言動真似するインターン多いって
啓介がいってた。
日本の医療制度の不備を嘆きながらも啓介は結局父親の跡を継ぎ、
総合病院かなんかの院長に納まり、仮面夫婦演じながら、
愛人イッパイ囲ってエロ親父との2足の草鞋ってことになるんだろう。
だとしたらこのままいくと私は裏切られる院長婦人か、冗談じゃない!
「だから、セックスする度にそういう愚痴ばっか言うの止めてくれる?
医者以外の何かになりたいんなら今からだって遅くないと思うけど」
「親父の期待は裏切れないよ」
「そういう時だけらしくないよ啓介、トラウマのせい? なんにも知らないんだ、啓介のこと・・・全然話さないよね、自分のこと」
「訊かないからだよ」
会話はそこで途切れた。
啓介のマンションの寝室は小さかったけれど、キングサイズのベッドはなぜか二人には大き過ぎる気がした。
皺くちゃのシーツには、しがらみだけが、残り香みたいに散らばってるだけ。
何もかもが私には大き過ぎて、まるで、大海に漂うメッセージ入りのボトルのようだ。
真実はいったい何処にあるんだろう。背を向けて眠ってしまった啓介のペニスを確かめた。
それは、まだ、生暖かくてとってもリアルな息遣いがして、
なんだかほっとした。
啓介の背中に身体を密着させてみる。こんなにぴったりと重なる肉体はきっと二度と手に入れられないだろうな。
真実はいったいどこに行ってしまったんだろう。
あの頃、私たちは愛を語るには稚拙で、恋をするには老練で、
夢を語ることには臆病で、未来はとっくに過去に成り下がってた。
手の平から零れた真実の欠片はサハラ砂漠の砂の中に飲み込まれてしまったみたいだ。
星の王子さまの気持ちが少しだけ分かった気がした。
Ⅳ 賢者の言葉は”あるがままに。
Ⅳ 賢者の言葉は”あるがままに。
Let It Be
啓介に多少の負い目を感じながらも私は真司の誘いを断れないでいる。
すなわち、寝てるってこと。
有希にだって同じ気持ち。寝たあとは凄く後悔するんだ。
だから、真司のとこにはあれ以来一度だって行ってない。
誰かとベッドを共有するなんて私の趣味じゃない、もちろん男もだ。
「俺たちセックスの後にも先にもなんの会話もないよな」
空調の悪いラブホで汗だくのセックスの後、真司はシャワーを浴びたいって言う私を制してそう言った。
「有希と話せばー・・・」
「俺のさ、初恋は小学校の時、運動会とかでその子一生懸命で、
なんかすげーいいなって」
「だからー話しは有希としてよ」
「いいから、聞けよ。でさ、女の子意識したのなんてそれが初めてで、
恥ずかしがり屋で生地なくてもちろん話しかけるなんてできなくて、
信じられない? うぶだったんだよ、
でさ、年賀状出したんだよ正月に」
マルボロのメンソールを取り出し真司に咥えさせ、自分も一本咥えた。
使い込んだシルバーのジッポーで真司は、私の煙草に火を点け、
自分のにもそうした。
啓介は煙草を吸わない。真司といてリラックスできるのは、
二人とも同じ煙草を吸うヘビースモーカーだからかも。
「きっと返事がくると思ったよ、それがきっかけになればなんて思ってた」
言いながら真司は天井に向けて大きく煙を吐いた。
「で、返事は来たの?」
「来なかったよ、新学期が始まってもまともに見れなかったよ、その子の顔、ふられたと思ってさ」
真司が何故こんな話しをするのか分からなかった。
啓介と違って真司は思い出を語るのが好きなんだろうか。
「そしたら、俺の家の三軒先に同じ鴨居って苗字の同じクラスの奴がいて、そいつが、お前にその子から年賀状来てたぞって、誤配されてたのさ、そいつん家に、で、その年賀状どうしたって訊いたら燃やしたって」
「それで終わり?」
「ああ」
「今でもその子のこと忘れられないんだ」
「ああ、こんな俺がだよ、たかが女の子一人忘れられないなんてさ、
それも小学校の頃の話しだぜ、笑えるだろ」
真司は笑っていなかった。もちろん私もだ。
「若きウエルテルの悩みって奴」
「茶化すなよ」
「茶化してなんかいないよ、私の初恋もそう小学校、先生だったけどね」
「女の子は早熟だもんな、男よりずっと先行ってるからな、同い年なんて眼中になかったんだろうな」
そう言って真司は私を抱きしめた。痛いくらい強く、お互いの汗が交じり合って小さな音を立てた。汗だらけの身体も、ガラガラ言うエアコンの音も気にならなかった。
誰も彼もがみんな持っていたもの、それは、もうすでに跡形も無く消え去り、誰も彼もがその幻を追いかけてる、そんな気がした。
「なんで、こんな話ししたの?」
「似てるんだよその子に、安住がさ」
Ⅴ ノー・ホエア・マン、 何処でもない世界の真ん中から叫び続けることしかできない。
Ⅴ ノー・ホエア・マン、
何処でもない世界の真ん中から叫び続けることしかできない。
No Where Man
「有希どうしたのー、昨日授業受けなかったでしょ」
「朝からずっとオナニーしてた」
今日、大学からの帰り際、有希に拉致され裏原宿のなんたらってセレヴ御用達のお店に付き合わされるはめになった。
有希はそこでカルトブルーのジーンズとか、その他うん万円程の買い物をし、お腹空いたって言うので雑誌で取り上げられてた有名なパテシェがやってるケーキ屋さんに入った。
「安住からTEL来たとき、もう真っ最中で、それどころじゃないって感じで」
「私もあるな、生理近くなってきたりしたら、むしょうにしたくなったり」
「でさ、真司がイッパイ持ってくるのよ。ローターだとかバイヴだとかー」
オープンテラスの席の間を夕暮れのひんやりした風が通り過ぎた。神宮外延に近いこの辺りはさすがにお子ちゃまには不不似合いで、
客の多くは三十代前後に見える。
「オナニーってなんか不毛だよね、いってるんだか、いないんだか、迷宮のラビリンスに迷いこんだ感じで、一日中モヤモヤしてる、ベッドから這い出せなくなっちゃうし」
うんうん私は頷く。
「仕舞いにクリトリスとかヴァギナ痛くなっちゃうしー、で、
やっぱり男の方がいいなって思ったりして」
ずっと頷いてるだけの私。
「不純だよね、地球上の全人口の恐らく半分は働いてる時間に、ケーキ食べてオナニーの話ししてるんだから」
言いながら有希は足元に視線を落とした。
剥げかかったペデキュア、白いミュール、シルバーのアンクレット、細い踝、足先が私のマイクロミニの股の間に滑り込む。
「何してるの有希・・・!?」
払いのけようとした私を有希が睨んだ。
「前に大学の図書館で安住、試験勉強してたじゃない。黒斑の眼鏡かけてさ、シャープペン口に咥えたりして、時々髪の毛かきあげたりしてさ、なんかエロかったな、抱きたくなって、思わずあそこ触ってた」
「止めてよ有希!」
「真司がね、今度三人でしようかって」
テーブルの下で有希の脚が私を責め続けるのを、
私は他人事のように感じていた。
きっと真司と寝てることを有希は気付いてるに違いない。
そんな負い目が私の抵抗を鈍らせたのかも知れない。
地球上の半分の人間が働いていて、恐らく何百、何千の人間が飢えたり、死んだりしてるって時に、私たちはテーブルの下の秘め事にしばらく夢中になった。
「ねえ、ここではもういや。続きは有希の家か私んちでやろう」
言うと有希はやっと私を開放した。
「私ね、ヒッキーだったの。中学校まで登校拒否繰り返してた」
「信じられないな、有希がヒッキーだったなんて」
「カウンセリングとか精神科にも通ったし、色々ね、受けたんだけれど
全然駄目で、まあ、結局自宅で治療ってことになるんだけれど」
行き交う車のテールライトが真っ赤に点滅するのが目立つ。
いつの間にか暗闇が支配する世界が偲び寄っていた。
「十三の時、勉強のこと心配してママ家教つけてくれて、で、
1ヶ月くらいして家に誰もいない時、その家庭教師の前で裸になって頼んだの、してくれって」
「なんで、なんでそんなことしたの?」
「わかんない、その時はなんか必死だったの。部屋にいる間中ネットとかしてヒッキーだとか、自閉症だとか、もちセックスだとか色々調べたりしてたの。
で、私みたいなヒッキーが何万人もいてみんな苦しんでて、だから、なんか、賭けてみようと思ったのかな」
「賭けてみる?」
言葉を発するたびに有希は苦しそうな表情を見せた。
「そう、この男が私をどう扱うのか、そして、いつまでも、コーマベィビーみたいなことしてられないなって、いつかは、このヌクヌクしたとこから出て行かなきゃって覚悟を決めてたんだと思う」
「で、どうなったの?」
「彼は裸の私を強く強く抱きしめてくれたの・・・」
「それで?」
「で、私の頭を撫ぜながらこう言ったの。君のことが好きだ、会った時からとても可愛いと思った。恥ずかしそうに僕を見る姿や、たどたどしい言葉や、臆病なしぐさがとても愛おしい。だから君とはできない。
僕が君のためにしてあげられるのは、こうして抱きしめてあげることだけだって・・・」
テーブルの上のコーヒーはとっくに冷めてたけれど、私は一口で飲み干した。
ここにいる有希がいつもの有希じゃなく別人に思えた。
「次の日から登校し始めたの、もう一度人を信じてみようと思ったの。
何度も挫折しそうになったけれど、そのたびに彼は支えてくれたわ」
「有希の初恋の人?」
「うん、きっと私の愛はその人で完結しちゃったのね、
その後はキルケゴールよ。逢う前から失恋してるってやつ」
「・・・キルケゴールってきっといいやつだったんだね」
「うん、私もそう思うわ・・・」
言いながら有希は寂しそうな笑顔を向けた。
私たちはいったい出口を見つけることができるんだろうか?
こんな不毛やあんな閉塞感抱えながら身勝手に流れてゆく
時間の中でもがき苦しんでいる。
出口はいったい何処にあるんだろう。
自由と言う名の不自由を抱えたまま、
何処にいるのかさえ見失ってしまいそうだ。
それでも誰かの絆を求めて私は叫びつづけるしかないんだろう。
何処でもないところからきっと叫びつづけるしかないんだ。
裸のランチ―Naked Lunch―