火のクニの詩(十)山姥
『山姥』
笛の音が聞こえてくる。あれは鬼が吹いているのだ、と、傍らで添い寝している乳母が夜具の中で怯える少女に伝えた。
鬼の笛は、実に奇妙な音色であった。気味悪く聞こえつつ、だがどこかしらには美しさの欠片の様なものがぱらぱらと散らかっていて、それが山に吹き荒ぶ風の音と、妙に趣深く響きあっているのであった。
少女は夜な夜な聞こえてくる笛の拙く侘しげな旋律に耳を澄ませながら、その身の内に鬼に対する恐ろしさと哀れさとを同時に染みこませて成長していった。やがて乳母が彼女の元を離れ、彼女が姉として、幼い弟らの世話をするようになっても、例え口がきけるようになった弟らには笛の音は聞こえぬと言われたとしても、彼女は笛の音に耳をそばだてることをやめはしなかった。
少女は、鬼に恋をしていたのだ。
姿の見えぬ、醜悪な、邪悪なはずの化け物を、彼女は笛の音から思い描きはしなかった。耽美な暗さを持った繊細な幽鬼の姿を、彼女は心の内に克明に思い描いていた。いつしかそれは彼女の空想上の官能の相手とすらなり、相手の愛撫が激しく、人間離れしていればしている程に、彼女を悦ばせた。
無論、少女はそのような夢想を厳しく自戒してはいた。あられもない妄想を決して余人に悟られぬよう、彼女は人一倍、情に冷淡な風を装っていた。時には、己が不能であるようにさえ見せかけた。元々飛びぬけて美しいというわけでもなかった顔貌がそれを容易にしたし、また、それによって彼女の、思い人以外にはできる限り他人に触れられたくないという願望も、かなりの程度において叶えられた。
そうして少女は異形の者に対する密かな慕情を、長年、いくつもの季節を越えて、募らせ続けた。少女がもはや少女でなくなり、寄る年月が彼女を、まさしく鬼のような形相に変えていっても、彼女は思いを大事に、懐に抱き続けた。
彼女の夫というものもほんの一時、いたことがあったが、不思議なことに、婚礼を上げたその夜に、その男は卒中で亡くなった。この時ばかりは彼女にも何か思うところがあったのか、彼女は深く情を込めて、一際念入りに経をあげさせ、律儀に喪に服した。
しかし女は笛の音を、その喪の夜の間も、欠かさずに聞いていた。
風か虫か、はたして何が誰が真っ先にそう呼び始めたものかは知れないが、やがて彼女は、山姥と呼ばれるようになっていった。荒れた山奥の庵に住む老女がそう呼称されることにはなんの不思議もない。だがそこにはどことなく意味合いの異なる、畏れに似た響きがこもっていた。
女は細々と弟らの施しを受けて暮らしを繋げながら、もうすっかり人の声は届かなくなった耳で、まだ何事かに熱心に耳を傾けていた。
笛の音が聞こえてくる。あれは鬼が吹いているのだ、と、老婆は今夜も己の影に独りごちた。
鬼は本当にいて、笛を吹いている。それは山姥となった者だけが本当に知っているのだが、余人には狂気にしか見えない。鬼の迎えはいずれ遠からず、必ず彼女の元へやって来るのだろう。山姥はその予感を無言のうちに漂わすゆえに、畏れられているのだ。
火のクニの詩(十)山姥