火のクニの詩(八)魔の道
国のところどころには、影につぎはぎのある場所がある。継ぎ目は時期によってくっきりしていることもあるし、ひどくぼやけて、普段の闇との境目がわからなくなってしまっていることもある。とかく影には、色味が生じるものだ。
影の色というのを知っている者は多くない。影の色味などをじっくり見つめていようものならば、その者は物狂いか、魔道の者であると思われるゆえに。
魔道を志す者は影を渡ろうとする。影から影へ移りゆくことで、闇を辿るのである。魔道の果ては別天地か、あるいは。彼らは目指す場所、永遠の知を求めて、幾星霜の夜を彼らは生き続けている。彼らにとって影は、道なのである。
我々には永久に知ることの叶わない存在、というのも、影はよく知っている。そもそもなぜ知られないはずのものを、我々は語ることができるのだろうか。その答えは、あえて両目を瞑り、ひとつの身近な闇に浸りきることでわかってくる。
不可知なる存在はかつて現世にあったという。世を映す鏡として、あるいは、瞬くことのない瞳として、彼らは己の役割を果たしていた。彼らの使命は見つめることであった。理想は、何を思うでもなく、ただそこに移り変わるものを、黙って眺め続けることであった。彼らの主(魔道の者はその存在を、始まりの王、と呼ぶ)は、混じりけのない、おおらかな世をこそ、望んでいた。
今、目を閉じた者の瞼の裏に映っているものは、一面の暗闇であろう。そこに蝋燭の幻を考えてほしい。その時、ふいにその蝋燭の影の像が己の内に浮かび上がったなら、かつて始まりの王が見た景色を垣間見たといえよう。不可知なる存在、それ自体を見ることはできなくとも、その存在の在り方は、こうして知ることができる。それは影を映した、己自身と同じである。(そして同時に、彼らの知り得る影の色の多彩さも、魂の知るところとなるだろう)
影には色がある。その継ぎ目には、現世の歪みが宿っている。光の国に息づく者が見逃しがちな、おぼろげな世界の残滓がしっとりと沈んでいる。もし偶然に継ぎ目を見つけたなら、少し覗いてみるといいだろう。何も恐ろしいことはない。それはすでに、現世に溶けているものなのだ。
……知って焦がれた者が、魔道に堕ちるのだが。
火のクニの詩(八)魔の道