星降るエデンでつかまえて

プロローグ

 俺の母は敬虔なキリスト教徒だった。『だった』と言っても他界したわけじゃない。むしろ四十路半ばにしてもキャピキャピしている。俺自身もまだ幼い頃、日曜には決まって母と教会に行っていた。もちろん、嫌々に。
 せっかくの日曜日に友達とも遊べず観たいテレビも観られない。それはもう毎週日曜日が憂鬱で仕方なかった。
 そんな俺は中学に進級すると課外活動、要するに部活動を免罪符に、日曜の教会に行かなくなった。もちろん、帰宅部だったのだが……
 そうして俺は心ばかりの反抗期を終え何の気なしに進学し、二回目の春を迎えた頃だった。


 布団の中から腕を伸ばし目覚まし時計のスイッチを押す。寝ぼけた頭を軽く振りながら、今日もいつもと変わらない朝を迎える。
カーテンを開き窓を開け放つと清々しい水色が一面に広がっていた。そして少し遠くから飛行機のエンジン音が聞こえた。俺は両腕を上げ身体を伸ばすと、まだ少し冷たい春の空気をいっぱいに吸い込み、ゆっくりと吐いた。
 この季節は何かと慌ただしい。入学、進級、卒業、就職、異動等など、人によってまちまちだが、水色の空の下で忙しなく動き回る車や電車、人。ほら、さっきの飛行機のエンジン音もどんどん大きくなっていく。
 いや、違うな。
 大きくなってるんじゃない。『近付いて』きている。
 おかしいな、微妙に都会かぶれしたこの地域にエアポートなんてない。自衛隊の駐屯地は山の向こうだ。じゃあこの音は……緊急着陸?
 はは、まさか。テレビの観過ぎだ。そんなことそうそうあるもんじゃ――
 びゅおん!
 その時何かが風を切りながら、けたたましい音を立てて俺の目の前を高速で駆け抜けて行った。
 なるほど、さっきの音はエンジン音じゃなくてソニックブームだったのか。
 なんて考える余裕なんてあるはずもなく、ソニックブームを引き連れた何かはドカンと轟音を上げ俺の真下――うちの庭に落ちた。
「な、なんだ?」
 俺は素っ頓狂な声を上げて寝巻きのまま階段を駆け下り、サンダルも履かずに庭に飛び出した。そこには何か黒っぽく焼け焦げたようなよくわからないものが、プスプスと煙を上げていた。
「い、隕石?」
 俺は恐る恐るその黒っぽく焼け焦げたようなよくわからないものに近付いてみた。大きさはどうだろう、運動会の大玉ころがしの玉くらいで、見た目は何かの鉱物のような無機質さで。
「やっぱ隕石、か?」
 俺は半ば無理矢理そう納得することにした。しかしどうしたものか。『隕石が庭に落ちてきました』なんて、一体どこの公共機関に通報すればいいのだろう。
 警察?
 消防?
 それともJAXAやNASAか?
「んー、とりあえず110番だな」
 そうつぶやいて踵を返したそのとき、
「ふがふー、んがんがんがー!」
 後ろから声らしきものが聞こえた。俺は振り返り声のしたであろう生垣を見つめる。するとどうだろう、生垣がわさわさと枝を揺らしている。
 なんだろう、隕石が落ちてきてびっくりしたネコが飛び込んだのだろうか。
 そう納得して俺が再び踵を返すと、
「……って……待って……だしゃーい……」
 再び後ろから、今度は女の子の声が聞こえた。俺は振り返り声のした生垣を見つめる。するとどうだろう、生垣がわさわさと枝を揺らしている。
 なんだろう、隕石が落ちてきてびっくりした女の子が飛び込んだのだろうか。
「たしゅけてくだしゃーい……お願いでぇしゅ……」
 今度ははっきり聞き取れた。どうやら女の子が生垣に突っ込んで出られなくなり、助けを求めているようだ。周りを見回しても彼女を助けようという人物は誰も居ない。当たり前だ。ここはうちの庭なんだから。
 と、言うことは。俺が助けなきゃいけないらしい。
 俺は溜め息を吐き、わさわさと動く生垣に手を伸ばし、声の主の身体をつかむ。すると、
「ちょ、どこ触ってるんでしゅか! ちょっと、そこはっ、いやぁ!!」
「どこって、あぃたっ! ちょ、蹴る、蹴るなってば!」

「ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ……」
 顔面を蹴られること数十回。俺は数分かけて女の子を生垣から引っ張り出した。
 なんだろう、新学期が始まるってのに隕石が降って来るわわけのわからない女の子に蹴られるわ。今日は厄日だろうか。
 俺はほとほと疲れ果て、水色の空を仰いでいた。
「あ、ありがとうございましゅ。助かりました」
 女の子が謝辞を告げる。
 顔面を蹴られ続けた俺は女の子から顔を背けていたので、女の子を見たのはそのときが初めてだった。見ると、謝辞を告げながら深々と頭を下げる女の子の背中にハトがとまっていた。
 なかなかにふてぶてしいハトがいたものだ。このままでは女の子の服がハトに汚されてしまう。もうすでに汚れている気がしなくもないが。
 俺はハトを追い払おうと手を伸ばす。しかしよく見るとそれはハトではなかった。
 じゃあこの白い羽はなんだろう。新しいファッションだろうか。
 寝起きからこっち衝撃の隕石落下事件と謎の女の子との遭遇に軽くパニくっていた俺は、考えなしに白い羽をむんずと握り引っ張り上げていた。
「いいいぃぃだいいだい痛い痛い!!」
「え? えぇ? えぇぇ?」
 何が痛いのだろう。俺は女の子の背中をまじまじと見つめる。
 ……なんだこれは。
 ファッションだと思っていた羽は服からではなく、女の子の背中から直接生えていた。
「うぅ……背中が痛いでしゅ……」
 これは一体どんなシチュエーションだろう。
 うちの庭に隕石と背中に羽を生やした女の子。しかもやたらと露出の高いビキニトップにミニスカートで、アホ毛をしな垂らせて涙をこぼしている。なんだろう、妙にエロい。胸の膨らみがないのが少々残念ではあるが。
「えーと、大丈夫?」
「うぅぅ……」
 俺の言葉は気休めにもならないようだ。
 俺がどうしようもなく女の子を眺めていると、やがて女の子は嗚咽を治め、鼻声でひとつひとつ言葉を区切りながら話し始める。
「あ、ありがとうございましゅ。ウリウリはウリウリ……ウリエルとい、いいましゅ。ご覧の通り、天使でしゅ。くしゅん」
 今なんつった?
「ウリウリは……あなたの人生を是正しゅるために来ました」
 人生を是正?
 なんの話だ?
 っていうか天使ってなんだ?
 胡散臭い電波話を最後まで聞く気がなくなった俺は彼女に背を向ける。すると女の子は俺の腰元に必死にしがみついてきた。
「お願いだから聞いてくだしゃーい! じゃないとパパに怒られるんでしゅ!」
 駄々をこねだした。
「おーねーがーいーしーまーしゅー! 聞いてくれないと天罰下しましゅよ!」
 今度は脅迫ですよ、奥さん。
 仕方ない、話だけでも聞いてやるか。どうやら俺に関係のある話らしいし、このままじゃ一生離してくれそうにないし。

 とりあえず、俺は自称天使をリビングに通し紅茶とビスケットを差し出した。
 自称天使はありったけのビスケットをリスかハムスターのように口に詰め込むと、まだ熱い紅茶で一気に飲み下した。なんだろう、朝ごはん食べてないんだろうか。
そんな自称天使はふーと一息つくと、姿勢を正し深々と頭を下げた。
「あらためて初めまして。天使のウリエルでしゅ」
 挨拶を終え頭を上げて、肩にかかった髪を後ろに直す自称天使。さっきのぐちゃぐちゃに汚れた泣き顔から一転、凛とした表情は割りかし可愛かった。
「さっきも言った通り、ウリウリはパ……神から仙石しゃん、あなたの人生を是正するために遣わされました」
 そう。この自称天使は俺の人生を是正すると言った。
 しかしこれまでの人生で、何か大きな犯罪になるようなことなんてしたことはない。
 そりゃ小さい頃には公園の水道のバルブを抜き取って持って帰ったり、ピンポンダッシュや他所様の家の塀に癇癪玉で焦げ痕を作ったこともあった。
 けどその度に叱られて、打たれて、もう二度としないと誓ったのだ。それ以来俺の人生を歪ませる事件もなかったし、これからもないはずだ。
「で、君が天使だとして、俺の『人生を是正する』ってなんですか?」
 すると自称天使は神妙な面持ちで俺を見据え、
「あなたは今から一年後――来年の春に、死にましゅ」
 ……は?
 今こいつはなんつった?
 俺が死ぬ?
 一年後に?
 俺は頭の回転が間に合わず、ただただクエスチョンマークを脳裏に浮かべるだけだった。そんな俺の表情が余程だったのだろうか。自称天使は目を伏せながら言葉を続けた。
「あなたは神の怒りを買ったのでしゅ。そして天罰が執行されるのが、一年後なのでしゅ」
「ちょっと待って、俺が一体何したってんだ?」
 思わず声を荒げてしまった。
 俺は同じく思わず乗り出してしまった姿勢を直し、あらためて自称天使に向き直る。そして紅茶を一口すすり気を落ち着かせ、さっきと同じ質問をした。
「俺は聖人君子じゃないけど、少なくとも犯罪になるようなことをした覚えはない。それでも天罰は下るのか?」
 すると自称天使は申し訳無さそうにポツリと、
「しゅみません」
 とこぼした。
 何がすまないのだろう。俺が訊き返す前に、自称天使はポツポツと話し始めた。
「今から一○年ほど前、この近くの教会のステンドグラスを割ったことがありましたね?」
 覚えている。確かにあった。
 だがそれは俺がやったんじゃない。サッカーボールを持っていたせいで俺の仕業だと決め付けられたが、冤罪なんだ。誰も信用してくれなかったけど、俺は無実なんだ。
 俺は自称天使にそう訴えた。
 冤罪なのに俺に天罰が下るのか。まさに神も仏もない。
 すると自称天使は目を伏せ、小さくつぶやいた。俺はその言葉に違和感を覚えた。
「ごめんなしゃい……」
 なんで謝るんだろう。やがて死に逝く俺を憐れんでいるのか。
 自称天使は俺の困惑する様子を見たのか見ないのか、俺から視線を逸らしたまま言葉を続けた。
「あの時教会の近くにはあなた以外にもう一人男がいました。その男はかなりの量のお酒を呑んでいました。そして余程会社の上司が嫌いだったのでしょう、『佐伯のバカ野郎!』と叫んでウィスキーの空き瓶をゴミ箱へ投げ捨てました。するとそれが運悪く教会の方へワイルドピッチ、そのままイエス様のお腹にデッドボール、それに憤慨した神がその男に天罰を下そうとしたのですが、ジャッキーの酔拳並みのステップに神の雷が当たらず、運悪く近くでボールを蹴っていたあなたに当たり……」
 自称天使は一息でまくしたてる。
 そして訪れたしばしの沈黙。
 その沈黙に耐えかねたのか、自称天使は居たたまれないと言った表情で、
「ごめんなしゃい……」
 とつぶやいた。
 っつーことはなんだ、これはまさか……
「人違い?」
「――ごめんなしゃい」
 ふっ……ふざ……

 ふざけんなぁ!!

「で、その天罰を回避するために、お前が遣わされた、と」
「その通りでしゅ……」
 なんだそれは。とばっちりもいいところだ。
 天使?
 神?
 はっ、とんだ疫病神がいたもんだ。
「で、具体的に俺にどうしろと」
「ズバリ、アルマゲドンでしゅ」
 自称天使はビシッと親指を立てる。なんとまあ見事なまでのドヤ顔である。さっきまでのしょんぼりした態度はどこへやら。
 と、いう厭味を視線に込めて自称天使を睨み付けると、自称天使は親指を折り、再び肩を落とし目尻にうっすらと涙を滲ませる。
 泣きたいのはこっちだっつーの。
 しかし、ここで自称天使を責めてもどうしようもない。というか悪いのはこいつのパパとやらで、そもそもの諸悪の根源は酔っ払いだ。それにここでこいつにマジ泣きされたら面倒だ。ここはひとつ大人になって、建設的に話を進めようじゃないか。
 俺だって若い身空で死にたくはないしな。
 しかし、だ。
 アルマゲドンというのはなんだろう。あれだよな、聖書に出てくる神と悪魔の最終戦争。俺に悪魔と戦えというのだろうか。
「そうではありましぇん。これから先、あなたは多種多様な困難、試練に遭遇しましゅ。これが、神があなたに与えた罰でしゅ。まあ、その延長で最後には死んでしまうのでしゅけどね」
 大事なことをさらっと言われた気がする。
「そんな困難、試練に立ち向かい人間として成長し、最後の試練、アルマゲドンを乗り越えることで、死を回避できるのでしゅ。簡単なことでしゅ」
 試練の内容も知らずに簡単もなにもないだろうが。
「で、その困難や試練の内容は?」
「それは言えましぇん。と言うか知りましぇん」
 けろっとそう言い切った自称天使。
 俺は厭味を視線に込めて自称天使を睨み付ける。その視線に気が引けたのだろう、自称天使は額に汗を浮かべて言い訳を始めた。
「だってだってパパが教えてくれなかったんでしゅもん、仕方ないじゃないでしゅか!」

 かくして以上の経緯から、俺は全く身に覚えのない理不尽な試練を受けることと相成ったわけで。
 なんなんだろうね、全く。

第一章

 すっかり忘れていたのだが、今日は始業式だった。
 時計を見ると一一時をまわっていた。今頃は学園長のありがたいお言葉から開放され、各々の新しい教室で担任からプリントやら提出書類やらが配られているだろう。このままズル休みでもいいのだが、クラス別けくらいは確認しておきたい。
 しかし、この自称天使をどうしたものか。
「あ、ウリウリのことは気にしないでくだしゃい。この後のこともパ……神から指示をもらってましゅので」
 こいつの一人称は『ウリウリ』なのか。しかしなんだ、『さ』行の発音が悪かったり神をパパと呼んだり、まだまだお子ちゃまらしいな。
「じゃあちょっと着替えてくるから」
 そう言って俺は階段を上がり部屋に戻り急いで制服に着替えると、愛用の鞄を引っ掴みリビングに戻った。しかし、そこにはもう自称天使の姿はなかった。
 なんだ、帰ったのか。
 そう納得して俺は玄関を潜(くぐ)り、学園へと向かった。


 うちの学園長は予想以上に長話が好きらしい。
 学園に着いたときにはまだ学園長のありがたいお言葉は終わってなかった。本来なら生徒で溢れているはずのクラス表の前には人っ子ひとりおらず、俺は容易に自分の名前を見つけることができた。俺は今更学園長のありがたいお言葉を聞きに行く気もなかったので、少し時間を潰しなに食わぬ顔で教室へ向かう人波に紛れ込んだ。
 みんなが教室に入り担任が来るまでのしばしの間。
『同じクラスでよかったねー』
『あーあ、佐伯くんと違うクラスかー』
『いよっしゃー! 高梨さんと同じクラス!』
 などなど、教室の方々で悲喜こもごもの様相を呈している。そんな教室の一角に席を設けられた俺に、後ろの席の早瀬が話しかけてきた。
「仙石、お前いつ来たんだ。集会のとき居なかったろ」
「まぁ、色々あってな」
「ふーん。じゃあ知らねえだろ。転校生がうちのクラスに来るんだよ」
 真ん中の席が空いてると思ったらそういうわけか。
「ちらっと見たけどかなり可愛かったぞ。こりゃこの一年、楽しくなりそうだな」
 お前の価値基準は女なんだな。まぁ昔からだけど。
 そんなことを考えていると、新しい担任とミドルヘアーでどこか少女っぽさを残した美少女が教壇に立った。
 クラス中の生徒の視線が美少女に集まる。かくいう俺も教壇の上の美少女に視線を釘付けにされた。しかし恐らく、クラスメイトが美少女を見つめる理由と、俺が美少女を見つめる理由は全く異なるだろう。
 美少女はぺこりとお辞儀をすると、
「今日からお世話になりましゅ、瓜田えるといいましゅ。ウリウリと呼んでくだしゃい」
 なんだろう。ほんとに今日は厄日なんだろうか。

「なんのつもりだ?」
 放課後。
 俺は自称天使、もとい瓜田を特別教室棟の裏に引っ張って、開口一番にそう尋ねた。
 すると瓜田は事も無げに答える。
「何って、サポートでしゅ。神からあなたの傍についているようにと言われたので」
「だからって学園に潜り込んで来ることないだろ。屋上あたりから監視してればいいじゃないか」
「あ、そんなこと言っちゃうと助けてあげましぇんよ?」
 助ける?
「そうでしゅ。例えば――」
 瓜田が俺の額を人差し指でぐっと押す。突然のことにバランスを崩した俺は、一歩二歩後ずさり尻餅をついた。
「な、何す――」
 がしゃん。
 批難の声をあげようとした俺の目の前、ついさっきまで俺が立っていた位置に、サボテンを抱えた大きな植木鉢が降ってきた。尻餅をついたまま上を見上げると4階の科学資料室の窓が開いていて、薄ピンク色のカーテンが風に揺れていた。
まさか、偶然……だよな?
「偶然じゃありましぇん。天上人には全てお見通しなのでしゅ」
 だったらなぜお前のパパは天罰を下す相手を間違えたのだ。
「ウリウリは四天使の末っ子なのでしゅ。まだ実力はにーにやねーねに敵わなくとも、ウリウリはいつかにーに達を超えるのでしゅ!」
 聞いてないうえに熱く語りだしてしまった。
 しかしこの植木鉢を脳天に喰らっていたらただでは済まなかったことは確かだろう。これがこいつの言う困難や試練かは定かではないが、ここは命を助けてくれたってことで素直に感謝しておこう。
「うむ。ありがたく感謝するのでしゅ」
 満面の笑みを浮かべたその表情は、割りかし可愛かった。


 日本にはこんな諺がある。
 可愛さあまって憎さ百倍。
 誤用を承知で使いたいときがある。今がまさにそのときだ。
 確かにありがたいと思った。可愛いとも思った。しかし人生は愛嬌や好意だけでは生きていけないのだ。
「なぁ、ほんとにうちに来るのか?」
 俺は後ろも見ずに尋ねた。すると瓜田は、
「当たり前でしゅ。ウリウリは言わば仙石しゃんの守護天使。守護霊も死神も守護天使も、いつ如何なるときも四六時中一緒に居るものでしゅ」
 守護霊も死神も守護天使も普通は人間には見えないだろうに。お前は人間の目に見えるから、後々色んな問題が起きそうなんだが。
「そんな小さなことを気にしていたら、これから先に待ち受ける試練を乗り越えることはできましぇんよ?」
 何を偉そうに。
 しかし困ったことになった。うちには四十路半ばにしても未だにキャピキャピしてる母親がいるし、プロローグでは触れなかったが当然父親もいる。普段仕事で家を空けることが多いと言ったって、秘密裏に匿うなんて不可能だ。いつかはこいつの存在を打ち明けなくちゃならなくなる。 
 しかしこれまで一度だって女の子をうちに上げたことなんてない。まして泊まりなど、何をどう詮索されるかわかったものじゃない。それにご近所様の目もある。
「なぁ、やっぱり夜くらいパパんとこ帰れよ」
「ダメでしゅ」
 即答だ。しかも断言しやがった。
 こうなるとこいつをうちに置く言い訳をでっち上げたほうが早い気もしてきた。
 しかし俺の国語の成績は特別良いわけじゃなく、読書感想文や言論大会で賞をもらったこともない。はたしてどんな言い訳で両親が納得してくれるやら。
「あら、いいわよ、そんなの」
「他所様の家庭に口出しはしないが、そういうことなら仕方ない。好きなだけいていいぞ」
 結局家に着くまで良い言い訳が浮かばず、運悪く両親が先に帰宅しており、咄嗟に出た『家出娘を保護した』といういかにもありきたりで嘘っぽい言い訳を疑いもせずに受け入れたうえに、先の言葉を告げた。
 なんとまぁ軽い親だ。下手したら他所様の娘がお嫁にいけなくなるかもしれないってのに。まぁそんな気はこれっぽっちもないのだが。
 そんなわけで久しぶりに家族全員+アルファで食卓を囲み、父も母も瓜田の深い事情まで詮索することもなく、瓜田も交ざって談笑しながら食事を終えた。俺の心配はすべて杞憂だったわけだ。
 まぁ、何もないならないに越したことはないな。
 
 風呂上がり。
 濡れた頭をバスタオルでごしごしと乱暴に拭きながら、俺はリビングに続くドアを開けた。そこに両親の姿はなく、瓜田がひとりソファーの上で音のないテレビを見つめていた。
 瓜田はどこか寂しそうな瞳で、消え入りそうな声で告げた。
「おじしゃまとおばしゃまはアトリエに行くと言ってました」
「そか」
 俺は冷蔵庫から牛乳のパックを取り出し、マグカップに注いで電子レンジに入れ、タイマーを回した。
「どうした、やっぱりパパが恋しいか?」
 返事はない。
 チンと電子レンジが鳴るとマグカップを取り出し、それを瓜田の前に差し出す。
 瓜田は差し出されたマグカップを手にもせず、俺に問いかけた。
「仙石しゃんは、パパとママが居なくても寂しくないんでしゅか」
「俺は特に寂しくないよ。あんまり家に居ないっつったって、死んじまってもう会えないわけじゃないし」
「強がりなんでしゅね」
 ――強がってるのはお前だろ。
 天界の仕組みや天使の役割はわからんが、多分、瓜田は親や兄弟と離れて過ごすのは初めてなんじゃないだろうか。見た目は俺と同じか少し下くらい。親離れにはまだ少し早いのかもしれない。
 俺だって、今に今すぐひとりで生きていけと言われたら、困惑してホームシックになるかもしれない。
 離れて暮らすのも、同じ日本のどこかなら会おうと思えばいつでも会える。けど地上と天界とではどうだろう。一体どれだけ離れているのだろうか。
 それは俺には、どれだけ考えてもわからないことだった。
 俺はどう慰めていいかわからず、
「ミルク、冷めるぞ」
 こんなどうでもいいことしか言えなかった。


翌日。
 半ドンの今日は授業を潰してのホームルームである。いやはや、教科書を開かなくていいというのは、学生にとっては至高の贅沢である。
 クラブ勧誘に関する諸注意から始まり、生徒会の各役職への立候補、推薦、クラス委員投票とつつがなく進行して行き、今は新入生歓迎レクリエーション、通称新歓コンパの実行委員決めの最中だ。
 この新歓コンパ、毎年内容が違うというのは担任の加藤によるところ。去年はクラス対抗水着で運動会。噂に聞いた一昨年の新歓コンパは、市営プールを丸一日貸し切って生身で淡水魚掬い、さらにその前年は男女逆転コスプレパリコレとか言ってたっけか。
 つまりアホ企画を立案し、放課後や休日を使って準備をしなければならないのだ。生徒会役員やクラス委員になりたがる奴もアホだが、新歓コンパ実行委員なんてアホの極みだ。面倒くさいことこの上ない。
 ほかの連中もアホくさいと思っているのか去年の水着で運動会が堪えたのか、誰ひとりとして手を挙げる者などいない。当然だ。
 そしてもれなく俺も、だんまりを決め込んでいた。
 お通夜のように静まり返った皆を見て、加藤の表情に段々と青白い縦線が這って行く。悪いがそんな顔をされても誰も手は挙げまい。
 すると早瀬が俺の背中をシャーペンで突つき、こう言った。
「なあ、お前やってみろよ」
 誰が。
「もっと女子とキャッキャウフフできる企画を考えてくれ」
 ならお前がやれ。
 俺は早瀬を軽くいなして会話を断つ。すると早瀬が、
「仙石、ブレザーの脇、ほつれてるぞ」
「え、どこ?」
 脇を確認するために右腕を上げる。すると加藤が、
「おお、仙石。やってくれるのか」
 満面の笑みを浮かべてそう言った。
「……は?」
 迂闊だった。ちょっと考えれば早瀬の罠だと気付けたものを。
「じゃあひとりは仙石に決まりだな。あともう一人は……」
 そう。実行委員は各クラス二名ずつ。ならば早瀬、お前も道連れにしてくれる。
 俺は早瀬の腕を引っ掴み、強引に上げ――ようとしたとき。
「せ、先生……あの……」
 教室の隅から女子の声が聞こえた。
「ん? どうした、天野(あめの)」
 天野と呼ばれた女子は控えめに手を挙げ立ち上がり、眼鏡の向こうの伏せた瞳を左右にきょろきょろさせながら、
「わたし、やってみたい……です……」
 と、虫の鳴くような声でそう言った。
 するとクラス中にざわめきが広がり、皆が皆、前後左右の連中と顔を見合わせた。恐らくクラス中の誰もが思ったことだろう。

 天野が喋った!?

 そして放課後。
 なんと、新歓コンパ実行委員会は早くも今日から会議があるという。ブッチこいて帰りたい。でもそんなことをしたら明日以降の俺の境遇は容易に想像できる。人非人(にんぴにん)の烙印を押され、卒業まで後ろ指を差され続けることだろう。仕方ない、行くとしよう。
 俺は諦めて教室の扉を開けた。
 くい。
 それにしても困ったな。新歓コンパのネタなんて何一つ思いつかない。
 くいくい。
 残念ながら俺にはそんなボキャブラリーはない。
 くいくいくい。
 しかし会議を無言で乗り切れるとも思えない。
 くいくいくいくい。
 ネタねぇ。ネタねた寝た……
 くい。
「あぁもううっとうしい! なんだよ、さっきから!」
「ひっ……」
 怒鳴りながら振り返ると、小さな悲鳴が聞こえた。そこには、驚きに顔を歪ませたまま硬直している天野がいた。
「ご、ごめんなさい……」
 そう言って天野は顔を伏せる。
 ……やっちまった。
「いや、こっちこそ……ごめん」
 天野は今にも泣き出しそうな表情で、一枚のコピー紙を俺に見せた。
「……実行委員会のプリント。仙石君、場所……わからないでしょ」
「あ、ありがとう」
 俺はプリントを受け取る。だが天野はそれ以上何のモーションも起こさない。俺と天野はお互いに目を逸らし向かい合ったまま、じっと石像のように固まっていた。
「い、行こうか」
 この重ったるい空気に耐え切れなくなった俺は、そう言って天野を促した。

 この日の会議は説明と懇談会だけで、新歓コンパの打ち合わせは来週から、各員ひとつないしふたつ企画を考えておくように、という話でお開きとなった。
 そして、その帰り道。俺は天野と肩を並べて歩いていた。天野とは去年も同じクラスだったのだが、話をしたことはなかったように思う。
 後ろで三つ編みにした腰まで伸びた長い髪。やや分厚いレンズの黒縁眼鏡。いつもひとりで本ばかり読んでいて、たまに他の女子と話をしていることがあっても、一言二言ラリーしてすぐにまた手に持った文庫本に視線を戻す。
 そんなステレオタイプな文芸少女だった。
 そんな文芸少女となぜ肩を並べ帰路に就いているかというと、こういう次第である。
「天野も家、こっちなんだ」
「……うん」
 なのに登校中も下校中もこの道で天野を見掛けたことはない。そういえば、天野はいつも俺より早く席に着いていたな。逆に帰りは俺のほうが早く帰っていたような気がする。
「天野は新歓コンパ、何かいい考えある?」
「……まだ」
「俺も。企画ったってなぁ。何やりゃいいんだか」
「…………」
 本当に口数の少ない。
 俺は天野に聞こえないように、静かに溜め息を吐いた。
「……ねえ、仙石君」
「何?」
「……明日、空いてる?」

 どうしてこうなった。
 土曜の朝。
 俺はクローゼットの扉に掛けられた鏡を前に、自分自身にそう問いかけた。
 いや、最初から答えは出ている。俺は『明日は暇か』と問われたので、『暇だ』と事実を告げただけだ。
 まさか天野があんなことを言い出すとは露とも知らずに。
 しかし、ブッチするわけにもいかない。俺はお気に入りの余所行きに着替えると、ネクタイの位置を確認し、クローゼットの扉を閉め階段を下りた。
「仙石しゃん、どこ行くでしゅか?」
 瓜田である。
「打ち合わせ。新歓コンパのね」
「そんなオシャレしてでしゅか。ほんとはデートなんじゃないでしゅか?」
 鋭いな。だがデートではない。
「とりあえずいってくるから。ちゃんと留守番してろよ」
 夕飯までには帰るでしゅよ、と言った瓜田に後ろ向きでひらひらと手を振って、俺は玄関を潜った。

 いつの時代も、男の器は広くなくてはならない。
 と、いうわけで俺は約束の時間の三○分前に、待ち合わせの名犬ラッシー像の前にやってきた。しかし、だ。俺は今日の予定を何ひとつ考えていない。
 というか今日の名目は新歓コンパのネタ出しであって、瓜田が言うようなデートなどではない。
「あ……」
デートではない。
「あの……」
デートでは……
「仙石君……」
「あぁもううっとうしい! なんだよ、さっきから!」
「ひっ……」
 怒鳴りながら振り返ると、小さな悲鳴が聞こえた。そこには驚きに顔を歪ませたまま硬直している天野がいた。
「ご、ごめんなさい……」
 ……またやっちまった。
「いや、その、ごめん……」
 俺達はお互いに視線を外しうつむく。
 そのときにちらっと見たのだが、天野はなかなか可愛らしい服を着ている。胸の下で絞った空水色のワンピースがふわりと風に揺れ、これは香水だろうか、ほのかに甘い香りが漂ってくる。結っていない髪はか弱く繊細で、陽に照らされるときらきらと黒光る。
 その全てが学園での天野のイメージとはかけ離れていて、天野も女の子なんだとあらためて意識させた。
 そして一番違っていたのは――
「天野、眼鏡は?」
 そう。眼鏡を着けていなかった。
「うん。今日は、コンタクト。変、かな……?」
「いや、変じゃないよ、全然。っていうか、その方が可愛いよ」
 天野は俺の言葉に目を丸くしてきょとんとしてしまった。
 しまった、つい可愛いなんて言ってしまった。これじゃ下心があると詮索されてしまう。
 俺はつい天野から目を背けた。
 いや、待て。
 誘ったのは天野のほうなんだから、俺が卑屈になることもないんじゃないか。でも昨日初めて話した相手に可愛いだなんて言われたら、チャラい男だと思われないだろうか。
 俺が一人でそんなことを考えていると、
「ありがとう……」
 そう言って天野は微笑んだ。
 マズい。本気で可愛い。
「そ、それで、今日はどうするの?」
 俺は天野を直視できず、目を逸らしながら尋ねる。
「うん。それは――」

 やってきたのは県営歴史資料博物館。
 ここにはこの辺りの風物詩に関する歴史――成り立ちから内容、現在に続く様子の解説等など――を、当時の文献や新聞などで今日に残している。
 俺達の住むこの街周辺は、実はかなり歴史の重みのある街なのだ。西には猿田毘古神(さるたひこのかみ)を祀る神社があり、南にいけば天照大御神を祀る神社がある。
 そんな有名どころの神様が祭られているこの街の風物詩といえば、春の負け相撲、夏の大天の字焼き、秋の提灯流し、冬の御柱起しが有名である。ほかにも大小の神事や祭事などもあるが、数が多いので端折らせてもらう。
 なるほど。お祭り騒ぎのネタは祭事から、というわけか。
「ここならいいネタありそうだな」
「でしょ?」
 天野はにこっと笑ってうなずいた。
 俺達は階段を上り閲覧室に入った。カウンターに人の姿はなく、室内には古い紙の匂いが漂っていた。俺は本棚から分厚い本を抜き取ると、パラパラとページをめくった。無作為に開いたページには白黒の写真――恰幅のいい男が土俵で四股を踏んでいた――と、旧字体の解説文が載っていた。

『始マリハ建御雷神(たてみかづちのかみ)ト建御名方神(たてみなかたのかみ)ガ爭ッタモノトサレ、古來ヨリ神聖ナモノトシテ神事、祭事ノ際ニ天下泰平、五穀豐穰、大漁ヲ祈願シ行ハレタ』
『コノ地方デハ、穀物神、大歳神(おおとしのかみ)ト相撲ヲ取リ大歳神ガ勝ツト、其ノ年ハ豐穰ガ約束サレルトサレ、大歳神ト相撲ヲ取ル人閒ハワザト負ケルヨフニナツタ。其レガイツシカ「負ケ相撲」ト呼バレルヨフニナツタ』

 なるほど、そういう謂れがあったのか。
 俺はパタン、と本を閉じ、そっと本棚に戻した。すると本棚の向こうから、俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。俺は本棚をぐるりと周り声のしたほうを覗き見た。
「仙石君」
 そこにいたのはもちろん、天野である。
「何、面白いの見つけた?」
「面白いかどうかはわからないけど……」
 そう言って天野は本を開いて見せた。俺はそのページに載せられた写真を見て、
「流鏑馬(やぶさめ)か」
 天野は本で鼻から下を隠し、
「馬は用意できないけど……自転車なら、用意できるよね?」
 つまり、
「自転車に二人乗りして流鏑馬る、と?」
「……ダメ、かな」
 実際やってみると楽しいかもしれない。しかし、弓はどうしたものか。弓道部に応援要請したって、素人に弓は操れまい。
「そう、だよね……やっぱり」
「いや、でも面白いよ、それ。弓の代わりがあればいいんだから。候補に挙げとこう」
 俺がそう言うと、天野は鼻から下を隠したまま、上目遣いで俺を見つめ、控えめに目を細めた。
 その反則級の笑顔に俺はたじろぎ、
「じ、時間あるからさ、他にもいろいろ探してみようよ」
 どもりながら天野に告げる。
 その後俺達は各々にネタになりそうな本を探し、机に山積みにして開いては閉じ開いては閉じのルーチンワークに没頭した。しかしそうそう面白いものが見つかることもなく、やがて窓からオレンジ色の光が差し込んできた。顔を上げ壁に掛けられた時計を見ると、もう閉館時間間際だった。
「そろそろ出ようか」
 俺は天野を促した。すると天野はどこか寂しそうに笑ってうなずいた。
 太陽はゆっくりと、しかし確実に稜線の向こうへ傾いて行く。まるで俺と天野の二人の時間の終わりを告げているような気がした。帰路に就いた俺達の間に会話はなく、ただただ長く伸びた影を引き連れて歩くだけだった。
 そして、街に向かう上り坂と住宅街へ向かう下り坂の分かれ道で、
「――今日はありがとう。付き合ってくれて」
 そう言って、天野はまた寂しそうに笑った。
 女性経験がないってのは、こういうときに困る。
 俺は気の利いた言葉も思いつかず、
「――うん。また、学園で」
 力なく手を振るしかなかった。

「ただいま」
 玄関のドアを潜る。足元には瓜田の靴しかない。どうやら両親はアトリエにいるらしい。今日中に帰ってくるかもわからない。だがそれは、今の俺にはちょうどよかった。
別れ際、天野を前にしたときの自分のヘタレっぷりについて、暗い自室で自己嫌悪に浸りたかった。
「仙石しゃん、帰ったでしゅか」
 瓜田の言葉に後ろ向きに手を振って階段を上る。部屋に入ると電気も点けずにベッドにダイブする。そして枕に顔をうずめて、今日の自分の振る舞いを最初から思い返していた。
 あの無口で控えめな天野が誘ってくれたのに、結局会話らしい会話もなかった。
 そりゃあ名目は新歓コンパのネタ探しだっつっても、もっと気を遣うべきだったんじゃないか。それに最後の最後。ああいうときって、どんな言葉をかければよかったんだろうか。
 ひとりで自己嫌悪に浸っていると、ドアをノックする音が聞こえた。
「仙石しゃん、ご飯、食べないんでしゅか」
 俺は答えない。
「ご飯食べないとガリガリのホネだけになっちゃいましゅよ」
 それでも答えない。
「デート、失敗したんでしゅね」
 瓜田のその言葉に、俺の身体がびくんと跳ねた。
「天上人にはお見通しなのでしゅよ」
 いつか聞いたセリフを口にした瓜田は、そのまま言葉を続ける。
「仙石しゃんはバカなのでしゅ。優しくて人当たりも良くて頭も良いのに、女心をわかってないのでしゅ」
 だって俺は男だ。それに今まで女の子と付き合ったこともないし、経験だってないんだ。仕方ないじゃないか。
「じゃあなんで落ち込むんでしゅか。悪いと思ってるからでしょ。後悔してるからでしょ。仕方ないで済ませられないから悩むんでしょ」
「…………」
「そう思ってるなら、落ち込んでる暇なんてないんじゃないでしゅか。そういうのは経験じゃないんでしゅ。こんなとき、自分ならどうされたら嬉しいか。どんな言葉が聞きたいか。そういうことなんじゃないでしゅか?」
 瓜田の言葉にはっとする。
 俺はベッドから飛び降り机の引き出しに押し込んだ書類の束を引っ張り出して、その全てを床一面にばら撒いた。
 確かこの引き出しに入れたはず。俺は書類の見出しを凝視しながら、目的の書類を捜した。
 あった。連絡網。
 部屋の明かりを点け今度は連絡網を凝視する。
 あさい……あくらがわ……あめの。あった。目的の名前を指差して、その指を真横に動かす。
 これか。俺は携帯を取り出し、見つけた番号をダイヤルする。
 そして五回目のコールで電話が繋がった。
『はい、天野です』
 聞いたことのない声だ。親御さんだろうか。
「夜分にすみません。天野照さんの学友の仙石と申します。照さんはもうお帰りでしょうか」
『お姉ちゃんですね。少々お待ちください』
『エリーゼのために』の保留音が流れる。もしかしたら嫌われたんじゃないか。もう話せないんじゃないか。そんな不安が止まることなく、胸の奥から込み上げてくる。
 そしてサビのメロディーが三周したとき、保留音が途切れた。
『もしもし……』
「あ、俺、仙石。今、大丈夫?」
『……うん』
「今日はごめん。せっかく誘ってくれたのに」
『……ううん、こっちこそ。つまらない思いさせちゃったから』
 天野は今にも消え入りそうな声で答えた。釣られて落ち込みそうになる心に発破をかけて、俺は受話器の向こうに話しかけた。
「だからさ……明日、もう一回……」
 のどが渇く。
 声が震える。
 それでも俺は気合いで声をひねり出す。
「明日、もう一回出掛けないか?」
 俺はじっと返事を待つ。
 額と手のひらにじわじわと汗が浮かび、永遠に続くかと思うほどの沈黙が耳を刺す。
 それからどれだけの時間が経っただろう。受話器の向こうから何度も息を呑む音が聞こえた後、
『……わたしで、いいの?』


 翌日。
 俺はまた名犬ラッシー像の前にいた。
 今日はばっちり予定を考えてきた。あらゆる事態を想定してプランも五つ用意した。貯金も下ろしたし服もおろしたてだ。ハンカチにポケットティッシュも完備した。朝にシャワーも浴びたし、歯も三回みがいた。我ながら完璧だ。一分の隙もない。
 携帯を見る。一一時三四分。約束の時間まであと二六分。どかっと構えよう。あまりきょろきょろしていると相手に待たせたと思わせる。
「あ、あの……」
 不意に後ろから声を掛けられた。今日は失敗しないさ。
 ゆっくりと振り返ると、そこにはやはり天野がいた。
「おはよう」
 笑顔で挨拶する。
「お、おはよう」
 逆に天野は、視線を伏せて返した。
 けどもう困惑しない。今日は俺が天野をリードするんだ。
「行こうか」
「……うん」
 俺達は並んでラッシー像を後にした。

 電車に揺られること数十分。俺達は隣県の水族館にやってきた。
「天野はここ来たことある?」
「小学生のときに……一回だけ」
「よかった。『ついこないだ、彼氏と来たよ』なんて言われたらどうしようかと思った」
「そんな……彼氏なんて……」
 天野は目を伏せて答えた。
「じゃあいこう」
 俺の先導でゲートを潜る。ここから先は、入れば誰しもが感嘆の溜め息を漏らすような幻想的な非日常が待っている。それを見れば天野だって――

「すごい……」
 ほらね。
 目の前の巨大な水槽にはイワシの群れが円を描いて泳いでいる。さらにはカツオ、マグロなどの大型の回遊魚、体長4メートルはあろうかというシュモクザメが優雅に泳いでいた。
 薄暗いフロアとわずかに差す水槽の照明が相まって、まるで自分も水の中にいるような、そんな錯覚にとらわれる。
 俺は一心に水槽を見遣る天野の表情を見てここで正解だと確信し、胸を撫で下ろした。
 夜中まで『しゃらん』とにらめっこした甲斐があったな。
「きゃっ」
 不意に天野が小さい悲鳴を漏らす。俺も水槽に視線を戻すと、目の前を巨大なエイがハラビレをわらわらと動かしながら、俺達の目の前を通り過ぎて行った。
「すげぇ…」
 思わず感嘆の溜め息が漏れる。
 いや、待て。俺が感動してどうする。まぁ、確かに感動するほどの光景だが、今日の俺の役目はホストだ。
 そう思い直して天野の表情を盗み見る。すると天野は口に拳をあて、くすっと笑った。
「なんだか、おなかが顔みたい」
 ツボに入ったのだろうか。天野は次の水槽に移っても、まだくすくすと笑っていた。
「そんなに面白い?」
「だって、表と裏に顔がふたつあるんだもん」
 天野はそう言って笑う。やっぱりツボに入ったんだな。

 次の水槽はベルーガ。シロイルカと言ったほうがわかりやすいだろうか。
「仙石君知ってた? イルカとクジラの違いは大きさだけなんだよ」
「え、そうなの?」
「うん。おおまかに体長四メートル以下をイルカ、それ以上をクジラって分けてるの」
「へぇ。タラバガニは実はヤドカリの仲間、みたいな?」
「それとはちょっと違うかな……」

「なぁ、リュウグウノツカイってほんとにいるの?」
 ここは深海層水槽。俺の目の前にはCGで再現されたリュウグウノツカイが優雅に泳いでいる。
「世界中で目撃例も多いし、日本海側では定置網に掛かったりすることもあるんだって」
「じゃぁなんでCGなの? これ」
「それは……なんでだろうね……」

 南氷洋地帯。ペンギンが降雪機の降らす雪片を被りながら、ひょこひょこと歩いたり、プールに飛び込んだりしている。
「あ、コケた」
「ちょっと痛そう」

 そうこうしながら見学順路の真ん中辺りまで見て周った頃、館内にアナウンスが響いた。
『ただいまより、屋外プールにてイルカショーを開催いたします。みなさま、どうぞお越しください』
「もうそんな時間か。天野、見にいこう」
 天野に手を差し出す。
 天野は驚いた表情で少し固まってから、恥ずかしそうに自分の手を重ねた。俺は天野の手を引いて、小走りで屋外プールへ向かった。
 俺達が屋外プールに着いた頃には、まだ人の入りはまばらだった。俺達は飼育員からカッパを受け取ると、一番前の席に着いた。
 そして客席が人で埋まった頃、別の飼育員がプールの向こうのステージに立ち、笛を吹く。
 するとプールの四方からイルカが四頭、一目散に飼育員のもとへ泳いで行った。そしてイルカ達は横一列に並ぶと、飼育員の合図にあわせてくるくると回りだした。
 観客から拍手と歓声が沸き起こる。その拍手にあわせてイルカ達は両ビレで水面をぱちゃぱちゃと叩き、くえっくえっと鳴いた。
 今度は笑い声が響く。隣を見ると、天野も口を押さえて笑っていた。

 そうこうしている間にイルカショーは最大の見せ場にやってきた。屋根と屋根の間に張られたワイヤーからサッカーボールが四つ垂れ下がってくる。
 空中ボール蹴りである。
 飼育員が笛を吹くと、一頭のイルカが水槽の壁伝いにプールを一周して飼育員の足元にスタンバイする。
 もう一度飼育員が笛を吹くと、イルカはプールの底へ深く沈んで行く。その様子を観客は固唾を呑んで見守る。そして――
 大きく水しぶきを上げてイルカが宙に舞う。イルカは大きく身体を捻り尾ビレでボールを蹴る。そして器用に頭から着水すると、どうよと言わんばかりにプールの真ん中でくるくると立ち泳ぎした。
 二頭目、三頭目が次々とボールを蹴り、三頭は並んでくるくると立ち泳ぐ。観客から割れんばかりの拍手が贈られる。
 そして最後の締め。四頭目が大きく宙に舞う。
 観客は両手を胸の前で構え、今まさに拍手を――しようとしたとき。
 すかっ。
 四頭目の尾ビレは大きく空振った。
 客席からは笑い声が聞こえた。最後の最後でこれか。やつはいい芸人になれるぞ。天野も口を隠すのを忘れ、声を出して笑っている。
 と、ここで終わればただの笑い話だっただろう。しかし、現実は時に非情である。
 空振りしたイルカは落下点を外れ、俺と天野の目の前に背中から着水した。水面に大きな水柱が立ち、俺達は頭から盛大にしぶきを被った。
 カッパを着ていたというものの俺達、特に天野は長い髪をびしょびしょにされてしまった。すると飼育員が走ってきて天野にタオルを手渡す。そして、
「申し訳ありません。お詫びにちょっとこちらへ」
 天野をステージに引っ張って行く飼育員は悪びれた様子もなく、笑顔を携えていた。天野は目を白黒させながら拒む暇もなく拉致された。なんだってんだ、一体。
 天野が恐る恐るステージに立つと、一頭のイルカが天野の前にやってきた。恐らく空振りした四頭目のイルカだろう。飼育員はマイクを持ち、
『お姉さんごめんなさい。水浸しになっちゃいましたね。オスカー、ごめんなさいは?』
 オスカーと呼ばれたイルカはステージに上半身を乗り出し、ぺこぺこと頭を上下させた。どうやら謝っているつもりらしい。
 その謝意が通じたのか、天野は塗れたまま笑った。するとオスカーは右のヒレをぱたぱたと動かす。それを見た飼育員は、
『おや、オスカーが呼んでますね。お姉さん、ちょっとしゃがんでもらえますか?』
 天野は言われたままにしゃがみこむ。すると、
 ちゅっ。
 と、オスカーが天野の頬にキスをした。
 客席からは大きな拍手が送られ、天野は照れながら笑ってオスカーの頭を撫でた。

「これ、記念写真とクリーニング代です」
 そう言って職員が天野に封筒を手渡した。天野はお金なんて、と首を振っていたが、職員にどうしてもと言われ遠慮がちに受け取った。
 あの後飼育員からこっそり教えてもらった話によると、日に三回あるイルカショーの昼の部では四頭目、オスカー(メス・三歳)はわざと失敗し、水を被った観客へキスと記念写真を贈るという水族館側の演出らしい。もちろん、隣で写真を見ながらにこにこと笑っている天野には内緒の話だ。
 その後、俺達は電車に揺られ、地元の駅で降りた。天野は終始笑顔を浮かべていた。そして俺達は、昨日気まずく別れてしまった街に向かう上り坂と住宅街へ向かう下り坂の分かれ道にやってきた。
 今日はもう大丈夫。同じ轍は踏まないさ。
「今日はありがとう。楽しかった」
 そう言って天野は目を細める。
「俺も、楽しかったよ」
 俺も釣られて目を細めた。すると天野が不意にこんなことを尋ねてきた。
「仙石君もオスカーとキス、したかった?」
 突然の質問に、俺の頭は一瞬回転を止めた。すると目の前に天野の顔が迫ってきた。
「えっ?」
 右の頬に、やわらかく湿った暖かい感触がした。それははるか昔、まだ母親の胸に抱かれていた頃に、何度も味わった感触を思い出させた。
 天野の顔が俺の頬から離れる。
 天野は夕日に頬を赤く染め、照れたように微笑んだ。
「また明日、学園で」
 そう言って天野は下り坂を駆けて行った。
 俺は自分の頬に手のひらを宛てがって、天野の背中が見えなくなるまで、分かれ道の真ん中で立ち尽くしていた。


 その後、俺は瓜田と自分の分のコンビニ弁当を買って自宅に戻った。今日は晩飯を用意していないと母から連絡があったからだ。
「ただいま。瓜田ー、弁当買ってきたぞ」
「早かったでしゅね」
 瓜田は時計を見ながら言った。
「お前が腹空かして泣いてんじゃないかって早めに帰ってきたんだよ」
 そう言いながら俺は弁当を電子レンジに入れた。すると後ろから、瓜田が俺の頭を撫でた。
「な、なんだよ」
 俺は頭を振って瓜田の腕を振り切る。だが瓜田はそれにも構わず俺の頭を撫で続ける。
「いい顔をしてましゅ。今日はちゃんと出来たんでしゅね」
「もしかして、心配してくれてたのか?」
「ウリウリは仙石しゃんの守護天使なのでしゅ。当たり前のことでしゅ」
 瓜田は笑いながらそう言った。俺は釣られて笑顔を浮かべ、瓜田の頭に手を置き、その細い髪をすくように優しく撫でた。
「な、何するんでしゅか」
 今度は瓜田が頭を振る。
「別に」
 ありがとう。
 この気持ちが手のひらから瓜田に届くように、優しく頭を撫で続けた。

第二章

 朝。
 俺は自宅の庭で洗濯物を干していた。そんな俺の目の前には大きな球状の物体。そう、瓜田と出会った朝に降ってきた隕石だ。俺は洗濯物を干す腕を休めて、よくうちに飯をたかりにくる野良猫とじゃれている瓜田に話しかけた。
「なぁ、これはなんなんだ?」
 瓜田はねこじゃらしを振る手を休めて、俺の指差す先を見遣る。
「ああ、それは飛行艇でしゅ」
「飛行艇?」
 俺はまじまじと隕石、もとい飛行艇を見つめる。これが飛行艇?
 たしかに体育座りで人ひとり乗れそうな大きさだが……天使はこんなもんで移動するのか?
「背中が筋肉痛にならないように、長距離や天界と下界を行き来するときに使うんでしゅ」
 なんじゃそりゃ。というか、天界はそんなに機械文明が発達しているのか。
「もちろんでしゅ。むしろ天界のほうが文明は発達してるでしゅ。下界の人間に叡智を授けたのは天界の住人でしゅから当然なのでしゅ」
 理屈ではそうなるんだろうが……
 もっとこう、超自然的というか荘厳というか、そういうイメージが台無しだな。
「最近では携帯電話会社が乱立して、電波障害が社会問題になってるでしゅ」
 なんじゃそりゃ。
 気を取り直して洗濯物を干し終えると、瓜田を引き連れて学園へ向かった。


 人波と自動車でごった返す街を抜け、景観緑など一本もない無愛想な防災林を潜り、ひたすら坂道を登る。そうして辿り着いた開けた高台の上に、俺達の通う学園がひっそりと建っている。
 一年通って気付いたことは、夏場にはうんざりするほど最悪な立地だということと、冬、雪が積もると足元がおぼつかない――実際、年に一〇人は足を滑らせて怪我をする者がいる――ということ。
 そして、そんなデメリットを加味しても余りあるほど、校舎から見渡す景観が素晴らしいということ。
 東を向けばアスファルトとコンクリートの街並みの向こうに開けた海が広がり、西を向けば緑が生い茂る山麓が連なってそびえている。それらの景色は四季折々に様々に表情を変え、一年中見飽きることはない。
 そんな我が愛しの学園の校門が見えた頃。
 ぴしゅっ!
「うわっと!」
 俺の足元で何かが跳ねた。しかも一回だけではない。何回も何回も何回も。
 爆竹?
 癇癪玉?
 違う、これはBB弾。
「仙石しゃん、何やってるでしゅか」
 校門前でタップダンスを披露する俺に、『お前、頭大丈夫か』と言わんばかりの表情で近付く瓜田。
「バカ、来るな!」
「バカとはなんでしゅか、バカとは――ってうわあ!」
 今度は瓜田がタップのステップを踏む。しかし決して身体には当たらない。もちろん、周りにいる生徒達にも。
 風向きと風速、さらに兆弾の角度や軌道まで考慮に入れた正確な射撃。こんな芸当ができるのは奴しかいまい。
 俺は落ちていたスギの枝を拾い、二階の教室の窓をめがけぶん投げる。枝は空中をぐるんぐるんと回転しながら弧を描いて飛んで行く。しかしそれもBB弾によって打ち落とされる。
 だがそれでいい。
 今必要なのは反撃ではなくわずかな隙。
 そう。俺が投げた枝を打ち落とすために、奴は俺から一瞬目を離す。その一瞬の隙で俺は校舎まで走りより、コンクリの壁に張り付き二階の窓を見上げる。
 ふっふっふ。探してる探してる。MP40を左右に振って俺を探している。
 俺は鞄から鉄扇を取り出して(なぜ鉄扇を持っているかなんて野暮なことは訊くな)、二階のMP40の銃身に投げつけ――ようとしたとき。
「Fregio!」
 後頭部に何かを突きつけられる。
 え?
 この声は……
「Le mani in alto, lentamente, esci dalla cabina telefonica」
 これはイタリア語。
 間違いない、奴だ。
 俺は鉄扇を地面に投げゆっくりと手を挙げると、首だけぎりぎりと振り返る。
 そこには天然の金髪を吊り目のスマイリーで二つに結い、フェイスマスクを装着した文字通りちっこい少女が、マテバ6unicaを構えて立っていた。
 フェイスマスクを外し、八重歯をきらりと光らせてにかっと笑う少女。その素顔はかなり幼く、この学園の制服を着ていなかったら映画館に子供料金で易々と入れるだろう、そんなちっこ幼い少女が、なぜか重々しいマテバを構えている。
「ひっひっひ。仙ちゃんゲット」
「お、織姫。二階にいたんじゃ……」
 織姫は人差し指を上に向け、くいくいと動かす。俺がその指差す先を見遣ると、
「織姫ちゃーん、これ重いよー」
 別の女の子がMP40を抱え、窓から身を乗り出していた。
 なんと、身代わりの術でござるか。
「仙ちゃんの考えとることなんかお見通しじゃ。春ちゃーん、もう銃笑てええでー」
 二階の春ちゃんに手を振る織姫。と、同時に、俺はマテバから解放される。
「仙石しゃーん」
 瓜田が校門から駆けてくる。その姿を見て織姫が、
「なんや、あのねーちゃん」
「うちのクラスの転校生」
「ふーん」
 織姫はうなずくとマテバを腰元のガンホルダーに収め、瓜田に手を差し出した。
「うちはベラ=ベルナデット=織姫。よろしゅう」
「あ、はい、瓜田えるでしゅ」
 ふたりは握手を交わす。傍目には仲睦まじく見えて何よりだ。
 しかしな、織姫よ。
 俺は織姫の後ろ襟を掴んで引っ張り上げる。
「うわた? ちょ、何すんねん! 降ろせ、こらー!」
 見た目どおりすんげー軽い。織姫は手足をじたばたぐるぐる振り回し暴れる。
「学園にモデルガンなんか持ってくんなよ。あと人に向けて撃つな」
「しゃーないやんけ、サバゲやと8ミリBB使用禁止なんやから。それに銃は人を撃つためのもんじゃ」
「かもしれんが……だったら6ミリのAKだかSIGだか買って、仲間に入れてもらえばいいだろが」
「いーやーじゃー! 6ミリは威力が弱いんじゃー。うちはマテバが好きなんじゃー!」
 じたばたぐるぐる。まったくこいつは。
「イタリアじゃマフィア相手にほんまもんのマテバ撃ち放題やったのに。なんで日本は銃禁止なんじゃ」
 なんつー不穏当なことを。お前みたいなアブナイ奴がいるから銃規制かかってんだよ。
「とにかく」
 俺は織姫からマテバを取り上げる。
 まったく。こんな物騒なもん学園に持ち込むなんて。しかしよく出来てるな、これ。
「あほー、返せ! 仙石!」
 じたばたぐるぐる。うぜぇな、こいつ。ついでに、
「そこの。そいつも渡せ」
 二階の春ちゃんに呼びかける。春ちゃんはおどおどしながらも、MP40を放ってよこす。うん、こっちは素直でよろしい。
「春ー、裏切り者ー!」
 織姫は八重歯を剥き出しにして春ちゃんを睨みつける。春ちゃんは笑顔で『ごめんねー』と言って顔を引っ込めた。
「後で返してやっから。ほら、教室行け。授業始まんぞ」
 掴んでいた後ろ襟を放し地面に放り投げる。織姫はよたよたと二歩三歩進むと振り返り、
「覚えとれよ、あほ仙石!」
 びしっ、と俺を指差し咆えた。騒々しいやっちゃ。
 走り去る織姫を見送ると瓜田に向き直り、
「瓜田、俺達も行くぞ」
 瓜田を伴って教室へ向かった。

「せーんーごーくー!」
 けたたましい叫び声とともにBB弾が際限なく飛んでくる。
 もちろん、狙われているのはこの俺で、銃をぶっ放しているのは織姫である。
「織姫、お前何丁持ってきてんだ!」
 当然の疑問である。
「あほか! 戦場で自分の手の内明かすボケがどこにおる思うてんねん!」
 当然の回答である。
 俺は類人猿最速の男としてギネスブックに載るくらいのスピードで廊下を一心不乱に走り抜ける。そしてそのスピードにも負けない速さで追ってくる織姫。
「だいたいお前、八九式は6ミリじゃねぇか!」
「うちが直々に8ミリに改造したんじゃ! 初速も1・5Jに大幅アップ!」
 おもっくそ違法改造じゃねぇか!
「諦めてうちのMP40とマテバ返さんかい! 早よせな身体中蜂の巣になんぞ!」
 蜂の巣は大げさでも直撃を喰らえば青アザは免れまい。織姫のことだ、予備弾倉も何個か持っているだろう。このまま追いかけっこしてても、鉄扇しか持っていない俺に勝機はない。
 俺は階段を飛び降り、美術準備室に逃げ込む。
「あほめ、自分から教室に逃げ込むなんざ」
 そう。
 普通、教室に逃げ込むということは自分から退路を断つ愚行である。しかし俺には考えがあった。
 俺に遅れること数秒。織姫が美術準備室の扉を蹴破り侵入してくる。
「仙石ー、どこじゃー!」
 織姫は八九式を左右に振りながら、じりじりと準備室を物色する。俺はその織姫の後ろに向けて鉛筆を転がす。
「そこかっ!」
 織姫が振り返る。しかしここは美術準備室。そこかしこに胸像や卒業生が残していった彫り物、イーゼル等などが散在している。織姫の八九式はそのバレルの長さ故、こういった障害物がある狭い場所では不利なのだ。
 かつん。
「あっ……」
 織姫の八九式の銃身の先端がヴィーナス像に当たり、ヴィーナス像が不安定に揺れる。
「あかんあかんあかん!」
 あわや落下というぎりぎりのところで、織姫はヴィーナス像を支える。
「あーぶなかった。そうかそうか、そういうことかいな。なら――」
 俺はブルータス像の陰に潜み、手にした鉄扇を構える。すると、教室のいたるところで【何か】がはじける音がした。そしてその【何か】が、俺の足元に転がってきた。
 これは……九八式手榴弾!
「うわっほーい!」
 俺は慌ててブルータス像の陰から飛び出す。
「そこか!」
 すたたたたたたたん。
「痛たたたたたたたっ!」
 織姫はいつの間にか手にしていた銃身の短いMP7A1で俺を蜂の巣にした。俺は床にひれ伏し、両手を頭の上に乗せる。
「ひっひっひ。制圧完了」
 織姫は極上の笑みを浮かべる。
 参ったよ。完全に俺の負けだ。っていうかマジで何丁持ってんだよ……
「で、うちのMP40とマテバどこやった?」

「あらへんやんけ!」
 織姫が俺の首根っこを掴んでぶんぶんと振り回す。
 ここは廊下の個人ロッカー。おかしいな、ここにしまったはずなんだが。
「『なんだが』やあらへんわ! うちの魂のマテバ、どないしてくれんねん!」
 そう言われてもなぁ。職員室に遺失物届け出しとくか?
「んなもん出せるか! それこそ没収されてまうわ!」
 悪いことしてる認識はあるんだな。
 ま、学園内とはいえこれは完璧に窃盗だ。
 しかし一体誰が持ち去ったやら……正直、もう見つからない方が世の為俺の為なのだが。俺は心の中でないないの神様に祈る。すると、
『にゃー』
『にー』
 猫の鳴き声が聞こえた。俺は何の気なしに声がした窓の外を見る。
「おい、織姫、あれ」
 織姫の肩を叩き、窓の外を指差す。
「なんやねんな! 今は猫よりマテバ探すんが先や!」
「いや、だからさ、あれ」
 織姫はしぶしぶ窓の外の猫を見遣る。
「……あー!」
 そこには二匹の猫がいて、一匹はマテバをくわえ、一匹はMP40のストラップを体に巻いていた。
「早よ捕まえや!」
 と、言われても。相手は屋根の上だしなぁ。
『にゃー』
『にー』
 あ、飛び降りた。
 そのままどこか遠くへ行ってくれ。それで世界が救われる。
 しかし織姫が指をくわえて大人しく見逃すはずもなく、俺の襟首をむんずと掴むと、
「追うで!」
「ちょっと待て、まさか――」
 窓枠に足をかけ飛び降りる織姫。襟首を掴まれたままの俺は抗うこともできず――

 うわっほーい!!

 銃を携えた二匹の猫が走る。そしてそれを追う武装した女と丸腰の男。日曜午後六時半から始まるアニメのオープニングテーマのような光景である。
「止まれやー、こんあほ猫ー!」
すたたたたたたたんと猫の足元にBB弾を撃つ織姫。いや、そんなことしたら余計逃げるだろ。ほら、今舌で加速装置のスイッチ入れた。
 しかしあいつら、モデルガンくわえてよく走れるなぁ。担いでるほうはもっとすげぇよな。そもそもどうやって巻いたんだか。
 俺は半ば感心しつつ、猫達を校舎裏の焼却炉へ追い詰めた。
「追い詰めたで、あほ猫どもが」
 織姫は空になった八九式のマガジンを放り投げると、腰からスペアマガジンを取り出し、セットしてコッキングレバーを引く。
『にゃー』
『にー』
 猫達は顔を見合わせる。
「往生せえやあ!」
 織姫が八九式をぶっ放すと、猫達は二手に分かれ逃亡する。
 織姫は八重歯を剥き出しにして、
「なんでじゃー!」
 と、叫んだ。
 だからお前が撃つからだっつーの。
「仙石! 自分は右行った方追え!」
 そう言って織姫はスカートの裾をめくり上げる。
「ちょ、おま、何してんだよ!」
 俺は慌てて目を逸らす。だが、織姫は全く気にした様子もなく、
「ん? パンツじゃないから恥ずかしくねーし」
 と、言い切りスパッツを見せ付けた。少しは恥じらえよ。
 そして太ももに装着したガンホルダーからデリンジャーを取り出し、俺に放ってよこした。だから何丁持って……って、もういいや。
「無改造の護身用やけど、反攻されたら迷わず撃て!」
 猫をモデルガンで撃つのは動物愛護法違反です。絶対にやめましょう。
 さて、俺は右に逃げたMP40を担いだほうを追うわけなのだが。
 猫はその警戒心故、追えば逃げる生き物である。そのくせ喰い意地のはった図々しい性格も併せ持っている。
 つまり、ネコを捕まえるには餌付けが一番効果的なのだ。そしておあつらえ向きにベンチでお弁当している女子ふたり組がいる。
 俺は猫を視界から外さないようにしつつ、ベンチの女子に近付き声をかけた。
「ごめん、ちょっといいかな」
 俺の掛け声に女子ふたりが振り向く。すると、
「仙石先輩!」
 髪の短いボーイッシュなほうの女子が俺の名を呼ぶ。なんで俺の名前知ってんだ?
 ま、いいか。とりあえず今は猫だ。俺は猫を指差し、
「あいつを捕まえたいんだけどさ、なんかおかず一個もらえないかな?」
 ふたりは猫を見つめる。すると髪の長いおっとりとしたほうの女子が、
「あの子なら、呼んだらすぐ来ますよ。ほら、おいで、シャミセン」
 と言いながら指をひらひらさせる。するとシャミセンは鼻をぴくぴくと動かし、ゆっくりとこっちに向かってくる。そして長髪女子の足元にすり寄り、
『にゃー』
 と鳴いた。
 俺はシャミセンをひょいと抱きかかえると、MP40のストラップを外す。俺の抱き方が悪かったのか、シャミセンは手足をばたばたさせぴょんっと飛び降り、足音も立てずに植木の奥に消えて行った。
 織姫なら『捕まえて磔刑(たっけい)にしろ』なんて言いだすだろうが、ま、MP40を返してくれればそれでいい。さらば、シャミセン。
「ありがとう。じゃ」
 ふたりに礼を言って踵を返す。しばらく歩くと後ろから、
「仙石先輩とお話しちゃった!」
「年上だけど威圧感ないんだよね。紳士だし」
 なんか、照れるな……

 さて、織姫のほうはどうなったろうか。
 俺はもう一匹の猫が火刑にされていないだろうかと心配しつつ、焼却炉の前まで歩いて戻ってきた。すると物陰から何かが飛び出してきた。
 にーと鳴いたそれは織姫が追っかけてった猫だ。そしてまだマテバをくわえている。織姫の奴は何やってんだか。
 俺はさっきの長髪女子がしたように、腰をかがめて指をひらひらさせる。すると猫はためらいなく俺の前に寄ってきた。そしてマテバを地面に置くと、俺の指を舐めた。
 なんだ、素直じゃないか。頭を撫でてやると気持ちよさそうに目をとろんとさせる猫。
 しかし、植木の向こうから叫び声が聞こえると、猫は一目散に逃げ出した。もちろん、叫び声の主は織姫である。織姫は植木から飛び出すと、
「っんのあほんだら!」
 と、叫びながら八九式を乱射する。だからお前が撃つから逃げんだよ。
 俺は織姫の後ろ襟を掴んで持ち上げる。
「放せ、仙石! あいつは、あいつだけは!」
 じたばたぐるぐる。
「足元見てみろ。マテバは返してくれたぞ」
 織姫は暴れるのをやめ、俺の足元に目を遣る。
「マテバやん! うちのマテバけ?」
 この学園にマテバなんてマニアックなもん持ってくる奴なんかお前だけだ。
 織姫を降ろしてやる。織姫はマテバを拾い上げ、『マテバー、マテバー』と言いながら頬ずりする。まぁ、趣味は人それぞれだから何も言うまい。
「さ、マテバもMP40も取り戻したし、飯喰いにいこうぜ」
 織姫に手を差し出すと、織姫は俺の手を取り立ち上がる。
「せやな。うちもお腹ぺこぺこや」
 そして一歩を踏み出そうとしたときに、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。
 勘弁してくれよ……


ある日曜。
 昨日は昼に誰もいない学園に行き、一九時過ぎまで新歓コンパの内容について会議をしていた。内容はおおまかに、運動会然とした多種目競技イベントと決まった。あとはそれぞれどんな競技にするかを詰めて行くことと相成った。
 貴重な休日を一日棒に振ったのだ。日曜くらいはゆっくりしたい。俺はベッドを降りても寝巻きのまま、リビングでひたすらだらけることにした。
 それにしても、日曜の昼間はろくなTV番組がやってない。かといって何の賑やかしもないリビングは寒すぎる。というわけで俺は童顔でやたらと声の高いおっさんが司会の通販番組にチャンネルを合わせ、ソファに仰向けで寝転んだ。
 しばらくすると、二階から瓜田が降りてきた。そして寝巻きでだれている俺に、
「仙石しゃん、お腹減ったでしゅ」
 捨てられた子犬のような瞳で訴えてきた。そんな瞳で見るな。石になる。
 しょうがない。何か簡単なものを作ろう――とソファを下りたとき、インターホンが鳴った。誰だろう、郵便屋かな。
「はいはーい。どちらさんで――」
 玄関のドアを開ける。玄関の向こうに居る人物を見て、俺は言葉を失った。
 そこにはイタリア軍のM92迷彩服と防弾チョッキ、フェイスガードとヘッドギアに大きなリュックサック。そして、サイレンサー、スコープ、可視レーザーサイト、バイポッド、M26 MASSアンダーマウントショットガンを装備したM4カービンで完全武装したちっこ幼い奴がいた。
「何してんだ、織姫よ」
 俺の問いに織姫はフェイスガードを外し、答える。
「ようわかったな、仙ちゃん」
 こんな装備で出歩くアホは俺の知り合いにお前一人しかいないからな。よく補導されずにここまで来られたもんだ。
「いやな、仙ちゃんに折り入ってお願いがあんねんけどな」


 どうしてこうなった。
数分後、俺は近くの河川敷でAK47を小脇に携えていた。隣にはL96AWSを抱きかかえた瓜田の姿もある。もちろん、フル装備の迷彩服に身を包んで。
ちなみにAKとL96も織姫の所有物だ。分解してリュックサックに入れてたらしい。
 そして俺の向かいには、同じく完全武装した背格好のいい男が五人立っている。織姫がコホンと咳払いすると、その男五人と俺と瓜田は織姫に向き直る。
「えー、本日は第一回ルール無用の地域親交サバイバルゲーム大会へのご参加、ありがとうございます。雲ひとつない絶好のサバゲー日和でなによりです」
 体育祭の校長先生の挨拶みたいに語りだした。なぜかこういった挨拶の類は標準語になるんだよな。
「今回はペイント弾を使用してのゲームとなります。頭部に一発喰らうまでは何発喰らってもOKですが、ゾンビプレーは禁止です」
 くいくい、っと瓜田が俺の肩を突つき、小声で尋ねてきた。
「仙石しゃん、ゾンビプレーってなんでしゅか」
「頭に喰らったのに申告しないでゲームを続けること。それよりお前、ライフルなんか撃てんのか?」
「ふっふっふ」
 と瓜田は不適に笑う。そしてL96を小脇に抱えると音もなくコッキングレバーを引き、はるか一○○メートル程向こうの対岸でタバコをふかしている学ラン少年に狙いを定め、トリガーを引く。
「M16を愛用するスナイパー漫画を全巻読破しているウリウリをなめたらいけないのでしゅ」
 くわえていたタバコが突然何かに弾かれたことに動揺する少年。
 マジかよ……ゾンビプレーの意味も知らないくせに。
 織姫の挨拶が終わると、それぞれ自軍エリアの茂みに向かう。相手方の装備を見るに、前衛2、バックアップ2、狙撃手1のオーソドックスな戦法を採るであろう。対する我が織姫軍は前衛織姫、バックアップ俺、狙撃手瓜田。
 織姫は言わずもがな、瓜田もあの腕前。相手が五人でも充分張り合える戦力だろう。
 そして、時間を合わせておいた腕時計のアラームが鳴る。ゲーム開始だ。
「うおおぉりゃー!」
 普通は息を潜めて敵陣に向かうものなのだが、織姫は叫びながら真っ直ぐに茂みを駆ける。そんな織姫の前方約五○メートルで、茂みがわずかに揺れる。いち早くその動きに気付いた俺はAKの銃口を向け、トリガーを引く。
『あたっ! ヒット!』
 開戦早々敵軍の狙撃手を撃退。
 そう。
 織姫は意味もなく叫んだわけじゃない。織姫を陽動にして敵軍の動きを誘い、動いた敵を俺が撃つ。
「仙ちゃん、後ろ!」
 いつのまにか近付いてきていた敵尖兵がM16の銃口を俺に向けている。至近距離に俺と織姫。確実にふたりを撃てる状況に、敵尖兵はニヤリと笑う。しかし――
『あひっ!』
 的尖兵のヘルメットに赤いペイントが血糊のようにほとばしる。撃ったのはもちろん、後方の瓜田だ。
 織姫の後ろに俺、俺の後ろに瓜田の完璧なコンビネーション。俺たち三人ならアフガンに攻め込んだ怒れるワンマンアーミーにだって勝てるだろう。
『おい、一旦退くぞ!』
 敵兵の叫び声とともに前方の茂みが広範囲にわたって揺れる。居場所を悟られないために棒か何かで茂みを叩きながら退いていったのだろう。織姫はちっと舌打ちすると、瓜田が撃った敵尖兵に近付き、腰から愛用のマテバを抜く。
「自分、ヒット宣告しとらんかったな?」
 ひっひっひと笑いながら銃口を向ける織姫に追い詰められ、敵尖兵の表情が見る見る青褪めて行く。織姫が敵じゃなくてよかった。俺は敵尖兵に合掌する。
 さて、ここからは完全に敵陣での戦闘になる。トラップの一つや二つ仕掛けてあるだろう。さすがの織姫も口を閉じ、腰をかがめ慎重に歩を進める。
 そのとき、茂みがわずかに揺れた。織姫もそれを察知し、M4カービンの銃口を向けトリガーを引く。しかし弾丸は雑草を弾き散らしただけで、そこに敵兵の姿はなかった。
 風?
 違う。風なら一面の茂みが揺れるはずだ。と、いうことは――トラップだ!
 そう気付き反対方向に振り向いたときには、既に敵兵がAKの銃口を織姫に向けていた。
 だめだ、反撃が間に合わない!
「織姫!」
 俺は織姫に飛びつき、織姫を抱えたまま地面に転がる。なんとか頭部への被弾は避けられたものの、この態勢では反撃できない!
「terribile……」
 織姫は俺の胸襟をぎゅっと握り、震えた声を漏らす。俺たちは腹を括った。だが、聞こえてきたのは敵兵の短い悲鳴。
 瓜田が撃ったのだ。しかしその弾丸は頭部には当たっていないらしく、ヒット宣告はなかった。しかしその一瞬の隙に、織姫はマテバを抜き、敵兵に向け六発全弾撃ち放つ。だが態勢の悪さ故、弾丸は敵兵の脇をすり抜けて行った。
 そこに瓜田からのバックアップが入る。だが敵兵は腰をかがめ距離を取る。
「ウリウリが二回も外した? っ!」
 伏せていた別の敵兵が瓜田に向けてM16を撃ち放つ。
「いだ! ヒット、ヒットでしゅ!」
 瓜田がやられた?
 この状況で瓜田がやられたらもう絶体絶命だ。
 俺は上体を起こすと両手を上げた。俺に続いて織姫も同じポーズをとる。
 かくして第一回ルール無用の地域親交サバイバルゲーム大会は幕を閉じた。


「あーあ、負けてまったやん」
 晩飯の用意をすると言った瓜田を家に残し、俺は織姫を彼女の家まで送ることと相成った。織姫も食事に誘ったのだが、
「さすがに夜にこの装備やと警察がな」
 とのことだ。昼間でもどうかと思うが。
「あれがトラップやとはなぁ。五対三でトラップとかあかんわー」
「だいぶゲーム慣れしてたしな、向こうも」
 土手を歩きながらの反省会。織姫はさっきから『トラップが、トラップが』とぼやいている。
「でも久しぶりやな。二人でこうして歩くのも」
 ふと織姫がそんなことを言い出した。
 俺と織姫は幼馴染だ。昔うちの両親が独立する前に所属していたデザイン事務所の所長が、織姫の親父さんだった。鼻筋の通った長身のイタリア人なのだが、留学していたのが関西の芸大だったそうで、おじさんもおばさんも織姫も家族そろって関西弁だったりする。
 織姫とは物心ついたときからの遊び相手だったのだが、俺が中学に上がるくらいだっけかな、家族揃ってイタリアに渡航したのは。数年後には日本に戻ってくるって話だったのだが、空港での別れ際、織姫はわんわん泣いてイタリアになんかいかないって駄々こねて。
「そうだな。お前が帰ってきてからもそんなに会う機会もなかったし。でもほんとにうちの学園に来るなんて、だいぶ勉強したろ」
 一応うちは進学校だしな。俺が受かったのは多分奇跡だけども。
「あほな、うちの頭なめたらあかんで。それに――」
 不意に織姫が俺の首に腕を絡め、背伸びして顔を近付ける。そして――
「仙ちゃんがおるって分かってたから、頑張れたんよ」
 頬に柔らかく暖かい感触がした。
 織姫は腕を解いて二歩三歩退がると、
「ここでええよ。またサバゲしよな」
 そう言って、八重歯を見せてにっこりと笑った。

「どうしたんでしゅか、仙石しゃん」
「え?」
 気付けば俺は自宅のリビングで瓜田と食卓を囲んでいた。あの後どこをどう通って帰ってきたのか全く覚えていない。
 一体なんなんだ、天野も織姫も。もしかして、これがモテ期ってやつなのか?
 ついに俺に春が来たのか?
 でもなんか、思ったより嬉しくない。こんな浮ついた雰囲気で恋愛するってのもなんだか違う気がするし。それに……
 でも柔らかかったな、女の子の唇って……
「? ウリウリの顔に何か付いてるでしゅか?」
 しまった。ぼうっとしてつい瓜田の唇に目がいってしまった。
「いや、なんでもない」
 俺は白飯を乱暴にかき込むと、そそくさと食器を下げて部屋に戻った。

第三章

 やっちまった。
 昨日、青白む空を見上げて雨はないと確信し天気予報を無視して傘を持たず登校しタイミング悪く帰りしなに降りだした五月雨に打たれながら帰宅して睡魔に負け瓜田の忠告を無視して身体を温めずに寝た結果が、三八度八分。インフルエンザでなしにここまで高熱が出るなんて俺は知らなかった。こんなことなら瓜田の言う通り、めんどくさがらず毛布に包まって寝るべきだった。
「仙石しゃん、大丈夫でしゅか」
 大丈夫な訳ない。
 と、言いたいのだが、俺の口を吐いて出るのは荒い息遣いだけである。それでも俺は渾身の力を振り絞り、小さく瓜田に告げる。
「いいから……学園行け……風邪、うつるぞ」
 瓜田は心配そうな表情を浮かべ、
「じゃあウリウリが帰るまで大人しくしてるでしゅよ」
 瓜田はそう言って部屋を後にした。俺は瓜田の背中にひらひらと手を振って、首だけ横に向けて窓の外を見遣る。そこには薄水色の空が広がっていた。
 きっと今の俺の顔色もあんななんだろうな。

 風邪をひいても腹は減る。朝は瓜田がおかゆを用意してくれたからなんとかなったものの、昼飯を作ってくれるような人は今この家には誰もいない。息子が高熱を出してダウンしても、両親は家に帰ってくる気配すらない。
 しかしそんなことを愚痴っていてもどうしようもない。俺は空腹に耐えかね鼻水を垂れ流しながら、ふらつく足取りでキッチンを目指し階段を一歩ずつ下って行く。だが高熱のせいで視界はぐんにゃりと歪み、うっすらとしたもやのようなものがさらに視界を阻む。
 そんな不確かな意識故、こうなることは自明の理であることを、俺は失念していた。
 どかん、ぼすん、ばきばき。
 豪快な音が響いたかと思うと視界の上下が逆になり、体中に鈍い痛みが走った。自分が階段から転落したと認識するのに数秒の時間を要した。
 ずるずると重力に引かれるまま、とりあえず床に寝そべる。だが身体が固まって起き上がることが出来ない。
 これはまずい。
 飯どころではない、このままじゃキッチンどころかトイレにも、ベッドに戻ることすらできない。
 あぁ、そうか。俺、今日で死ぬんだ。瓜田は一年後とか言ってたけど、きっと何か選択肢を間違えて死亡フラグが立っちゃったんだ。
 俺は菩提樹の下で悟りを啓いた即身仏のごとくぐにゃんと床に横たわる。
「あー、最期にカツ丼、喰いたかったなぁ……」
 来世こそは真っ当な人生であるようにと祈りながら、俺は瞼を閉じた。するとガチャガチャと玄関の鍵が開く音がした。あぁ、もう天使が迎えに来たのか。
 天使は床にぐんにゃりしている俺の傍に立ち、
「何してるでしゅか、仙石しゃん」
 出会って初めて瓜田が天使に見えた。

「まったく、ちゃんと寝てないとダメじゃないでしゅか」
 そう言いながら瓜田は柔らかめに煮込んだカツ丼を用意してくれた。そして落穂蓮華で一口掬うと、ゆっくり俺の口元に近付ける。
「いいよ、一人で喰えるよ」
 俺は瓜田から落穂蓮華を奪い取る。しかし腕に力が入らず、落穂蓮華はぷるぷると小刻みに震える。そして――
「あ」
 ぽろっとカツがトレーの上にこぼれた。
「ほらこぼした。おとなしくウリウリの言う通りにするでしゅ」
 瓜田は新たにカツをひとくち掬い、再び俺の口元に落穂蓮華を寄せる。
 風邪をひいて女の子にベッドで看病してもらう。
 ただそれだけのことなのに、その行為がなんだかいやらしく思えて、なかなか口を開けないでいる俺。ダメだ。こーゆーときに経験の無さが仇になる。
 しかし瓜田の方は動じない。動じないどころか、早く喰えと言わんばかりに落穂蓮華を構えている。
 腹の虫もカロリーを欲している。ここはもう腹を括るしかない。俺は瞼をぐっと閉じ、大きく口を開けてカツを頬張る。恥ずかしさから無言で咀嚼していると、
「……おいしくないでしゅか?」
 瓜田が控えめにそう訊いてきた。
 正直、恥ずかしすぎて味どころではない。俺がしどろもどろに回らない呂律でうろたえていると、瓜田は目を伏せ、トレーを下げた。
「やっぱり、おいしくないでしゅよね」
「ち、ちがっ」
 俺は慌てて瓜田の手を取る。
「女の子に介抱してもらうのは初めてで……ちょっと、いや、かなり恥ずかしくて」
 俺の言葉に、瓜田は目を大きく見開いたまま硬直している。やがてその顔は紅潮し、俺から視線を外し、瓜田はつぶやいた。
「ウリウリが女の子……」
「え?」
 訊き返す間もなく、瓜田は走って部屋を飛び出した。俺、なんか変なこと言ったか?
 ふと見回した室内で、時計が目に入った。時刻は一ニ時半。昼飯の時間になんで瓜田が……まさか、心配して早引けして?
 真意を訊こうにももう瓜田の姿はない。残されたカツ丼を震える腕でゆっくりと咀嚼し、風邪薬の誘うままに瞼を閉じると、俺の意識はすぐに深みへと沈んで行く。そして沈んで行った先で、俺は不思議な夢を見た。

 雲の中にいるように真っ白なもやに包まれていて、宇宙でさまよっているかのように重力も体重も感じない、けれども心が晴れて清々しいほどの、まさに天国って言葉がぴったりの超自然的な空間で、数人の子供の声が聞こえた。
 だがそれは無邪気に遊びまわる楽しげな声でなく、しくしくと泣いている女の子を囃したてる声に聞こえた。
 俺は声のするほうに一歩踏み出す。すると視界のもやが晴れ、予想通り、ひとりの女の子が涙をこぼし泣いている姿が見えた。だが、その女の子は人間ではなかった。背中にちんまりと、白い翼を生やしていた。
 手のひらで涙をぬぐう女の子を囲み、これでもかというほど囃すいじめっ子たち。
 俺はわずかばかりの正義感を勇気に、いじめっ子のひとりの肩を掴んだ――はずなのだが、俺の手はいじめっ子をすり抜けて空を掴む。目の前に居た女の子やいじめっ子たちの姿は露と消え、視界は再び白いもやに包まれた。
 俺は自分の手のひらを見つめ指をグーパーする。すると後ろから、今度は大人の男達の声が聞こえた。振り返るとそこは教会で、祭司風の派手な衣装を纏った老齢の男達が聖書を手に、なにやら不穏な様子で議論を交わしていた。そして一番派手な衣装を纏った老人が聖書の一部を破り取り、傍らで燃え盛る松明で燃やした。すると頭上から女の子のすすり泣く声が聞こえた。
 俺は頭上を見上げる。
 そこには小さな羽根を生やした女の子がいた。

 不思議な夢はそこで途切れた。寒気に震えて目が覚めてしまったからだ。
 俺は枕元に打ち捨てられた体温計を脇に挟む。ピッと鳴った体温計を抜き取り液晶を確認する。三九度二分。これは本格的にヤバイ。
 瓜田ぁ、助けてくれぇ……
 助けを求めようと口を開いても声が出ない。俺の部屋には電話の子機もないし、ナースコールなんてもんもあるはずない。
 そうだ、携帯から家電にかければいいんだ。
 熱にやられた頭にしては奇跡的な閃きを得て、俺は机の上の携帯に手を伸ばす。
 もうちょっと、もうちょっとだ。
 指先が携帯の角に触れる。中指の第二関節をくいくいと曲げ伸ばしし、少しずつ少しずつ文字通り手繰り寄せる。だが――
 ことん。ころころ。
 携帯は机から転がり落ち、無情にもベッドとは反対側へすってんころりんと遠退く。
 最悪だ。やっぱり俺、今日死ぬんだ。
 せめてパソコンの厳選アダルト画像を消してから死にたかったが、もうそんな余裕はない。
 さよなら、現世。
 諦めてうつ伏せで窒息しかけていると、
「何してるでしゅか、仙石しゃん」
 瓜田が湯たんぽと水枕を持って入ってきた。
「天上人にはお見通しなんでしゅから、おとなしく寝てればいいのでしゅ」
そう言いながら瓜田は湯たんぽをタオルで包み、俺の足元に据える。
「ちょっと我慢するでしゅよ」
 今度は俺の頭を抱え持ち上げる。水枕を据えようとしているのはわかるのだが……その、なんだ、小さくも柔らかい膨らみが……俺は邪念を払うようにぐっと目を閉じ、呼吸を止める。しかし脳ミソに直接伝わる瓜田の鼓動が、俺の中の邪念をむくむくともたげさせる。
 やがて水枕を据え終えた瓜田は腕を解き、俺はようやく呼吸を再開することができた。
「汗がすごいでしゅね。タオル持ってくるでしゅ」
 瓜田は俺に振り返らず、足早に部屋を後にした。よくは見えなかったが、瓜田の耳が赤く火照っているように見えた気がした。
 しばらく後、瓜田はタオルと水を張った洗面器を持って戻ってきた。瓜田は顔を紅潮させながら俺のパジャマをはだけさせると、タオルを水に浸し硬く絞り、俺の胸板に当てる。
「んっ」
 冷やっとした感触に思わず声が漏れる。
「我慢するでしゅ」
 たしなめる瓜田はもう耳まで真っ赤にしている。
 無理してくれてるんだ、俺のために。
 上半身の汗を一通り拭き終えるとパジャマのボタンを留め、洗面器を抱えて立ち上がろうとする。
「じゃあちゃんと寝てるでしゅよ」
 その言葉を聞いた俺は無意識に腕を伸ばし、瓜田の肘を弱々しく掴んでいた。
「もうちょっと……いてくれないか……」
 高熱で弱っている頭が瓜田の優しさを求めていた。俺はじっと瓜田の返事を待つ。瓜田はしょうがないなと言った表情で、
「眠るまでここにいてあげましゅ。ほら、お薬飲んでくだしゃい」
 傍らに座り、薬と水差しを差し出した。

「仙石さん」
 自分の名を呼ばれたことで意識が覚醒する。いつのまにか寝てしまっていたのか。
 身体をむくりと起こし、額に手を遣る。どうやら熱は下がったらしい。そして名を呼ばれたことを思い出して傍らを見遣る。そこでは、瓜田がベッドに肩を預け寝息を立てていた。じゃあ俺を呼んだのは誰だ?
「仙石さん、こちらです」
 声はベランダから聞こえた。見ると、カーテン越しにまばゆい光が差し込んでいた。俺はベッドから降り、恐怖心もためらいもなくベランダへ続く窓を開ける。
 そこには燦然と輝く光体が一つあった。あまりの眩しさに目を細めていると、やがてその光体は人型に姿を変えた。
「ごめんなさい、眩しかったですね」
 どこか聞き覚えのあるその声の主――かなりの美人だった――は、柔らかい表情で笑った。笑った彼女のその表情も、どこかで見たような顔立ちだった。どこかで会ったような……いや、誰かに似ている気がする。彼女の服装もどこかで見たような、誰かが似たような服を着ていたような。
 俺は必死に海馬の深淵を検索する。そして一つの結論に至り、俺のベッドに肩を預け眠っている瓜田に振り返る。すると彼女はにっこりと笑い、
「正解です。でも、そんなに似ていますか」
 背中の羽を大きく広げて言った。
「はじめまして。四天使の次女、ラファエルです」
小さい鼻、少し垂れた目尻、ぷくっとした唇、細い顎、と、アホ毛。全体的に大人びた感じは出ているが、パーツ単位で見るとほんとに瓜田そっくりだ。胸の膨らみは雲泥の差ではあるが。
「やっぱり、瓜田のお姉さん?」
 ラファエルと名乗った彼女はまたにっこりと笑った。
「いつもウリエルの面倒をみてもらってありがとうございます。どうですか、ウリエルはご迷惑をかけていませんでしょうか」
「いえ、そんなこと。いつもご飯作ってくれるし、今日だって一日俺の看病してくれて」
 彼女はにっこりと笑った表情を崩さず、
「そう。お役に立っていますか。あなたに風邪をひかせた甲斐もありましたね」
 今なんつった?
「ごめんなさい。でも、これもウリエルのためなんです」
 俺が風邪をひかされたのが瓜田のため?
 っていうか風邪はこの人(というか天使)のせいなのか?
 俺はじとっとした目で彼女を見遣る。だが彼女は意に介した様子も無く、笑顔を崩さず続ける。
「詳しいことは今は言えませんが……そうですね、これもあなたが乗り越えるべき試練のひとつ、と言ったところでしょうか」
 これが試練?
 どういう意味だ?
 きっと俺の瞳にはクエスチョンマークが浮かんでいるだろう。そんな困惑した俺を見て彼女は、
「じきにわかります」
 と言った。
「んん……仙石しゃん、起きたんでしゅか」
 背後から瓜田の声が聞こえた。すると彼女は、
「ふふ。もう少しお話したかったのですが、また機会もあるでしょう。今日はこれでお暇します。ウリエルには私のことは内緒にしておいてくださいね」
 そう言って彼女は自分の唇に人差し指を立て、大きく羽ばたいて星空の彼方へ飛んで行った。
 あれ?
 天界と下界の移動には飛行艇使うんじゃなかったっけ?
 彼女の意味深な発言のせいで、病み上がりの俺の脳ミソはオーバーヒート寸前だ。
 俺は彼女のせいで風邪をひき、それが俺にとって乗り越えねばならない試練で、尚且つそれが瓜田のため?
 ダメだ。今は考えても解らないことばかりだ。そういえば、瓜田がこっちにくる気配が無い。
 俺は瓜田に振り返る。見ると、床にぐんにゃりとしな垂れ寝息を立てている。なんだ、起きたんじゃなかったのか。
 俺はベッドから毛布を抜き取り、瓜田の身体に被せる。このまま床で寝させるのも忍びないのだが、瓜田の……眠っている女の子の身体に触れるという行為が躊躇われた。
 やっぱダメだな、俺。
 軽い自己嫌悪に浸っていた俺なのだが、ふと気になって瓜田の顔を覗き込む。
 やっぱり似てる。
 ってことは、瓜田も将来はあんな美人になるということか。ちょっと楽しみだ。
「んむぅ……夢の国のネズミがペストのキャリアに……えらいこっちゃやでぇ……」
 なんつー夢見てんだ、こいつは。


翌日。
 瓜田の看病とラファエルさんのおかげ(?)で俺の風邪は完治したのだが――
「三七度九分。風邪だな」
 瓜田は顔を真っ青にして冷や汗をかいていた。天使も風邪ひくんだな。
「うぅ、これじゃ本末転倒でしゅ」
「いいから寝とけ。今貼るピタ持ってきてやるから」
 俺は一階に下り、救急箱を漁る。貼るピタ貼るピタ……あったあった。あとは……キッチンに向かい食器棚から日本酒を、冷蔵庫から卵を取り出し、砂糖とおろし生姜を入れボウルであわ立て鍋に入れ火にかける。昔よく母が作ってくれた玉子酒だ。
 鍋はそのままに、貼るピタとタオルを小脇に階段を上がり、ドアをノックする。中から弱々しい返事が聞こえた。
「ほら、貼るピタ」
「はうー、冷たくて気持ちいいでしゅ」
「待ってろ、今玉子酒持ってくるから。薬飲んどけよ」
 瓜田は無言でひらひらと手を振る。その顔は遠目でも弱々しさが見て取れた。
 鍋を火から下ろし中身をコップに注ぐ。なんとも言えないこの香りが、昔、母の玉子酒飲みたさに冬場にわざと薄着して風邪をひいたりなんかしたことを思い出させた。そんなこともあったっけ。
 コップをお盆に載せ、俺は再び階段を上がる。
「お待たせ。ほら、玉子酒。起きれるか」
 瓜田の手を引いて上体を起こす。コップを手渡すと、瓜田はふーふーと湯気を払い、ちょいとひとくちすする。
「あ、おいしいでしゅ」
 母直伝のレシピだからな。
「それ飲んだら寝ろよ。俺は下にいるから、なんかあったら内線で呼べ」
 そう言い渡し瓜田の枕元に電話の子機を置く。そして部屋を出ようとドアノブに手をかけると、
「仙石しゃん」
 小さく俺を呼んだ。
「どうした?」
「その、あ……」
 なにやら頬をほんのり染めて、言葉を飲み込んでは小さくこぼしを繰り返す。俺は瓜田の枕元に膝を付き、極力優しい声でもう一度問う。すると瓜田は目を伏せて、消え入りそうな小さな声で、
「頭、なでなでしてくだしゃい……」
 突然の申し出にきょとんと目を丸くする俺。
「ダメ、でしゅか?」
 瓜田の瞳が潤む。ダメ、ではないが……いや、前に一度してるじゃないか。でもあの時とは俺の心境もシチュエーションも異なるわけで……その、なんだ、あらためてさあやれと言われると……顔が火照る。
 いや、これも看病のうちだ。なにより昨日さんざ瓜田に世話になったじゃないか。だったら俺もやるっきゃない……よな?
 俺は決心し、そっとそっと瓜田の頭に手を伸ばす。
 ぽふん。
 熱っぽい体温、キューティクルの整った細い髪、わずかに感じる鼓動。
 この前触ったときとはまた違った感情が込み上げてくる。ただ頭を撫でているだけなのに、ひどく官能的でいけないことをしているような、そんな気持ちになってくる。
 瓜田は瓜田で、目を閉じて頬を染めながら俺にされるがまま微動だにしない。が、俺の手のひらに伝わる瓜田の温度はどんどん熱を増していってるように感じる。
「ほ、ほら、もういいだろ。ゆっくり寝て早く治せよ」
 これ以上瓜田に触っていたら、きっと俺の理性は崩壊する。俺は熱く火照った頬を見られないように瓜田から顔を背け、足早に部屋を後にする。そして思いのほか勢いよく閉めてしまったドアに背中を張り付かせ、大きく息を吐いた。気が付けば心臓が早鐘を打つようにバクバクし、額の汗が顎まで伝いこぼれている。
 なんだ、これ?
 なんでこんなにドキドキしてるんだ、俺?
「貼るピタ、まだあったっけな」
 俺は上気した頭をぶんぶんと振って階段を下りた。
 おでこに貼るピタを貼ってソファにうつぶせになる。テレビを点けるも俺の意識はそこになく、頭の中で邪念と理性がせめぎあっている。
 右手の手のひらを見る。
 そこにはまだ、瓜田の温もりが残っている。
 ――だから意識するなっつーの。ダメだ、邪念が……シャワー浴びて落ち着こう。
 そう思い立ちソファから立ち上がると、まるでどこかで監視してるんじゃないかってくらいバッチリなタイミングで電話が鳴った。この音、外線じゃなくて内線だ。
「どうした?」
「…………」
 返事がない。だがかすかに荒い息遣いが聞こえる。
「おい、瓜田、大丈夫か?」
「…………」
 やはり返事がない。
 事は急を要するかもしれない。俺は邪念を捨て去り、階段を駆け上がる。
「瓜田!」
 勢いよくドアを開けると、瓜田がベッドでうつぶせになり、電話の子機を抱えているのが見えた。俺は瓜田に走り寄り、瓜田の肩を掴んで抱き上げる。
 顔は上気して真っ赤に染まり、息も途切れ途切れで見るからに苦しそうだ。
「瓜田、おい、瓜田!」
 名を呼びながら頬を軽く叩くと瓜田はうっすらと目を開け、
「ひぇんごくひゃん……」
 呂律の回らない舌で答えた。
 これは本格的にマズいかもしれない。病院に連れていかなきゃ。両親はアトリエに篭ってるから救急車を呼ぶしかない。
 俺は瓜田が抱えている子機を掠め取り、119をダイヤル――しようとしたとき。抱えていた瓜田が急に軽くなった。と思ったら、俺の視界が一八○度回転した。
「あでっ!」
 後頭部に激痛が走る。一体何が起きたのか理解できないでいると、鼻先からかすかに柔らかいシャンプーの香りと、少し熱っぽく艶めかしい女の子の匂いがした。
 目を開けると、俺の胸元に埋まるように瓜田の頭があった。さらには瓜田の腕が首に巻きついている。
「お、おい、瓜田……」
 呼びかけると瓜田は上目遣いで俺を見上げ――正確には見下ろしているのだが――瞳を潤ませてこう言った。
「ひぇんごくひゃん……おんにゃのこのへやにむだんではいっひゃいけにゃいのでひゅ」
 なんとなく言わんとしていることはわかるのだが、完全に呂律が回ってない。これは早急に病院に連れてかねば。
「瓜田、とりあえず離れろ。な」
 瓜田の肩を押して引き剥がそうとするのだが、それ以上の力でしがみ付いてくる。こいつ、どこにこんな力が……
「よやいにくるにゃんていへないのでしゅ……いへにゃいこにはおひおきなのでひゅう」
 夜這い?
 何を言うとるんだこいつは。てかお仕置きってなんだ?
 っておい、なんで服を脱がそうとする?
「ちょ、おま、何して、とにかく一回離れよう、な、な?」
 俺は必死に瓜田の肩を押す。だが床に背を向けた姿勢のせいでうまく力が入らない。
 しかしなんなんだ、これは。まるで酔っ払った上司に迫られてるOLみたいじゃないか――ん?
 酔っ払い?
 俺は首だけ動かして部屋を見回す。そして俺の目に留まったのは、お盆の上に置かれた空いたコップ。おい、まさか。たった一杯の玉子酒で?
「れいこうしれもらめらのれひゅ…おろなひふふゆのれひゅ」
 どんどん呂律が回らなくなっていく瓜田。しかし攻める力だけは変わらず、そろそろ俺の筋肉も限界だ。
「ちょっと……マジで……」
 哀願する俺。すると瓜田は腕の力を抜き、ふらっと上体を上げた。ふう。やっとやめてくれた……と思ったら、瓜田は妖艶な笑みを浮かべて俺を見下ろす。そしてこれまた艶めかしく舌なめずりすると、
「ひぇんごくひゃんにあげるのれひゅ」
 そう言って瓜田は目を閉じ、ゆっくりと俺に顔をよせる。
 あげる?
 何を?
 思わずごくりと喉が鳴る。
 って待て、俺。何期待してんだよ。早く逃げないと。でも襲われてるのは俺なわけでこれは不可抗力いやいやそんな言い訳通じないってまがりなりにも女の子だぞ酒の勢いでそんなこと許されるはずがないでもだってじゃあ俺はどうしたらだって瓜田があげるって言ったんだからありがたく頂戴しとけばいい役得じゃないかいやいやいやいやそーゆー問題じゃないだろいやでもだって俺はおれはオレハおれわ……
 もう頭の中がぐっちゃぐちゃ。そうしている間にも瓜田の唇はどんどん近付いてきて――ついには吐息が鼻先に届く距離まできてしまっている。
 こうなったら俺も男だ。事後の責任もちゃんと取る。
 覚悟を決めると気分も幾分か落ち着いたように思えた。
 そして互いの唇があと3センチ…2センチ…1センチ…
 のところで急に瓜田の首がかくんと折れる。そしてそのまま俺の肩の辺りに顔を埋めると……
 れろれろれろれろ。

 ちょっと待てぇ!?

あの後、瓜田はすぐに寝てしまった。俺はというと、瓜田を起こさないように静かに床を掃除して、今しがた風呂からあがったところである。まぁ、この件は俺の胸の内に仕舞っておこう。年頃(天使の歳のとり方が人間と同じかどうかは知らんが)の乙女が玉子酒でリバースだなんて、きっと赤面ものだろう。言わぬが華ってもんだ。それに病人を叩き起こして説教するようなサディスティックな趣味もない。
 でももう金輪際、瓜田にアルコールは与えないほうがいいな。
 さて、瓜田も寝たことだし俺もちょっと休もう。色々ありすぎて頭がオーバーヒート寸前だ。
 俺は毛布を被りソファの背もたれを倒して横になる。瞼を閉じると急激に意識が遠くなり、行き着いた先で――
 ペスト菌対策にネズミの国が焼き払われる、という夢を見た。

第四章

 夕方から雨って天気予報で言ってたけど、その頃にはもう家に着いているだろう。今日は新歓コンパの会議の日でもないし。
 そんなことを考えながら坂道を登っていると、校門のところに黒塗りのセンチュリーが停まっているのが目に入った。
 スモーク貼りのウインドウ、延長されたホイールベース、そして日本なのにアルファベットの羅列が刻まれたナンバープレート。
 この界隈でこんな特異な車を使用する人物などひとりしか見当がつかない。その人物の顔を思い浮かべると、背中に青虫が這うようないやーな感覚が走った。いつもはあの人と出くわさないように登校時間を調整していたのだが、病み上がりの頭はそのことをすっかり失念してしまっていた。
 そんなセンチュリーの運転席からタキシードに白い手袋を着けたいかにも執事ですと言わんばかりの老紳士が降りてきて、後部座席のドアを開ける。
 降りてきたのは、亜麻色の長い髪をなびかせた美女だった。美女はこの学園の制服を着ていたが、周りの学生よりもかなり大人びた雰囲気を醸し出し、制服の上からでもわかる豊満なバスととヒップは健康的な色気を感じさせる。
 はっきり言ってそこらのグラビアアイドル以上の美貌と色気に、校門の周りの生徒達(主に男子)の視線が一斉に美女に集まる。遠巻きに写真を撮る者までいた。
 そんな美女と目が合ってしまった。その瞬間、俺の背中に再び青虫が這う。美女は執事さんに一言二言何かを告げると、パリコレモデルのように優雅にこちらに歩いてくる。
「おはようございます、千石さん」
「御雷(みかづち)先輩……おはようございます」
 さぞや俺の顔は引き攣っていたことだろう。だが、御雷先輩はそんなことも構わずに、
「そんな他人行儀に呼ばないで。美琴でよろしいといつも言ってますでしょ」
 俺は乾いた笑顔を返す。
 すると隣にいた瓜田が、小声で俺に尋ねてきた。
「誰でしゅか、この人」
「ああ、この人は――」
 御雷美琴。
 戦後の混乱期にガラ鉄収集と闇市で財を成した(ともっぱらの噂の)現・御雷グループのご令嬢にして、この学園の創設者のいとこ違いにあたる方であらせられる。
 入学してすぐの頃からどういうわけか彼女に目をつけられ、執拗に第三種接近遭遇を迫られている。俺としては早々に止めてほしいのだが……
 俺の説明にふーんとうなずく瓜田。その瓜田を見て御雷先輩は、
「あなた、確か、転校生の」
「瓜田えるでしゅ」
 瓜田はぺこりと頭を下げる。
「そう、瓜田さん。ごめんなさい、貧相なお顔立ちだったので記憶に残らなくて」
 瓜田の眉間にピクリとしわが寄る。
 御雷先輩はそんな瓜田を気にする様子もなく、俺の腕に組み付いた。先輩の突然の行動に瓜田は目を丸くし、周りにいる登校中の生徒達の目が一斉に俺達(というか俺)に集まる。その内の男子からは、もれなく殺意と呪念が送られくる。
 俺は引き攣った顔をさらに引き攣らせ、
「先輩、ちょっと……当たってるんですけど……」
「感謝なさい。わたくしの躯はお高くてよ。それとも、初めては唇からのほうがよろしいかしら」
 先輩は不敵に笑う。そんな目で見ないでください。石になります。あと野郎どもの視線が痛いからはやく離れてください。
「ふふっ、初心ですのね」
 やっと離れてくれた。俺は大きく溜め息を吐く。
「それにしても……おふたりとも揃って登校とは、随分仲がよろしいのね」
 先輩は値踏みするように鋭い眼差しで瓜田を睨みつける。瓜田はよっぽど狼狽したのだろう。
「え、あ、はい、ウリウリは仙石しゃんのお家に――ふがっ?」
 寸でのところで瓜田の口を塞ぎ、からっからの笑いで瓜田のセリフをかき消す。
「どうかなさいまして?」
「いえ、なんでもありません。そうだ、ぼくたち今日日直だったんだー。じゃ、先輩、そういうことで。失礼しまーす」
 俺は瓜田の口を塞いだまま、ボルトもびっくりのスピードでその場を逃げ出した。そしてそのまま体育館裏へ隠れる。
「っのバカ、一緒に住んでるなんて言うなよ!」
 大声でがなりたい気持ちを抑え、小声で瓜田に怒鳴りつける。
「バカとはなんでしゅか、バカとは! ウリウリはほんとのことを」
 瓜田も小声で怒鳴り返す。
「ほんとのことだからダメなんだよ!」
「天使は嘘吐いちゃいけないんでしゅ! パパに怒られるんでしゅ」
「それでもダメなもんはダメなの!」
 ぜぇ、ぜぇ、はぁ……
「もう、わかったでしゅよ。ウリウリからは言いましぇん。でも訊かれたら話しましゅよ」
 それも危なっかしいが……まぁいいだろう。今更ながら俺達はけこう危なっかしい環境にいると思い知る。
 これからは学園内では瓜田と距離を置こう。放置するのも危なっかしいが、ひっついていて要らぬ詮索をされるよりはましだろう。俺は半ば無理矢理そう納得して、瓜田と一○メートルほど離れて校舎へ向かった。

 昼。
 俺は早瀬を伴って学食にいた。早瀬はたぬきうどんを、俺はポークカレーを、それぞれ咀嚼していた。すると早瀬がこんなことを言い出した。
「お前、朝なんか御雷先輩ともめてたろ」
 もめてなどいない。一方的に絡まれてただけだ。
 すると早瀬は『俺ずっと見てたんだけどさ』と前置きして、
「お前、御雷先輩に気に入られてるよな。絶対」
 まさか。あのお嬢様が本気で俺を気に入るなんてことあるはずがない。ただ面白がって絡んでくるだけだ。あとずっと見てたとはなんだ、気色悪い。
「いっそ付き合っちまえ。逆玉じゃねえか。将来は御雷グループの重役の席が約束されてるようなもんだぞ」
 早瀬は空中で箸をくいくいと動かす。やめろ、行儀の悪い。
 それでも早瀬は箸を動かすのをやめないので、仕方なしに箸の指す方を見遣る。
「御雷先輩、またあんなに男引き連れて。ま、お嬢様であれだけ美人なら野郎のほうが放っとかないか」
 見遣った先では御雷先輩がお食事を召されている。その周りでは野郎数人がせっせと媚びを売っている。
 まぁ確かに客観的に見ればどこの遺伝子いじくったコーディネーターですかってくらいの美人だし、しかも良家のお嬢様とくれば、ああいう待遇にもなろう。
「将来楽したいなら、先輩が誰かとくっつく前に手打っとけよ」
 どいつもこいつも。
 だいたい美人だお嬢様だ逆玉だって、そんな不純な動機で恋愛なんかできっかよ。っていうかそこに愛はあるのか。甚だ疑わしい。
 そう考えつつカレーを食べていると、
『またあんなに男引き連れて。やーね』
『ほんと、お高くとまっちゃって』
 後ろから御雷先輩を批難する声が聞こえた。
 俺も御雷先輩のことは苦手だが、別に嫌ってるわけじゃない。確かにあんなお嬢様な性格だし、物言いもどこか上から目線だし、取り巻きも多いから同じ女の子からしたら妬んだり、そういうふうに思うのも仕方ないかもしれない。
 でも知り合いの悪口を聞くのって気分のいいもんじゃないな。俺は食事を終えると足早にその場を離れた。
 教室に戻る途中、昇降口で三人の女子とすれ違った。これはあくまで主観なのだが、三人はいやらしい笑みを浮かべていた。ように見えた。
 なんだろう。嫌な予感がする。
 俺の不安と連動するように、予報より早く雨がぽつぽつと降りだした。

「なぁ、天野」
 放課後。
 俺は天野に誘われて図書室で新歓コンパのネタ探しをしていた。していたとはいうものの、俺のほうはすっかり上の空で昼のことを思い出していた。
「何?」
 俺はひとりで思い悩むのに疲れ、先輩の名前は伏せたまま天野に助言を仰いだ。
「人間だから好き嫌いがあるのは仕方ないと思うかな。仙石君だって嫌いな先生とか、いるでしょ?」
 まぁ確かに。数学の北村とか科学の西川とか。
「でも大事なのはほかの人がなんて言っても、仙石君がそのひとをどう思ってるか、じゃないかな」
「俺が?」
「うん。仙石君が感じたことが、その人の本当の姿だと思うよ」
 俺が感じたこと、か。青虫が這う感覚しかしないような気がするけど。
「その人の悪口を聞いて嫌な気分がしたんなら、ほんとはそんな風に思ってないってことだよ、きっと」
「そう、なのかな」
「仙石君は優しいから」
 そう言って天野は複雑な笑みを浮かべた。

 図書室の閲覧時間が過ぎ、俺と天野は昇降口までやってきた。『私は寄るとこあるから』と言って、天野は校門の前で停車しているタクシーを指差した。
「途中まで乗ってく?」
「いや、いいよ」
 俺達は玄関で別れ、遠くなる背中に手を振った。そしてそのまま空を見上げる。
 傘もないし、雨脚が弱いうちに帰ろう。

 なんてこった。
 完全に読み違え雨はすっかり本降りになってしまった。これなら学園から教員用の置き傘をパクってくるか、天野の言葉に甘えてタクシーで帰ればよかった。
 俺は走って坂を下る。ふもとまでいけば屋根のあるバス停がある。ひとまずはそこで雨宿りするしかないな。この雨量では。
 俺は鞄を頭に掲げながら息を切らせ目的のバス停に辿り着いた――ら、そこには先客がいた。
 俺はそこにいた人物を見て三度驚いた。
「あら、仙石さん……」
 御雷先輩だった。
 哀しそうな表情だった。
 そして、びしょ濡れだった。
「御雷先輩も雨宿りですか」
「ええ……」
 俺は鞄をまさぐる。そして、分厚い数学の参考書のおかげで辛うじて濡れるのを免れたフェイスタオルを取り出し、先輩に手渡した。
「ありがとう」
 びしょ濡れの髪をタオルで拭くその仕草が、この上なく官能的に見えた。俺はつい先輩の体躯を、頭から足の先までパーンしてしまった。そうすると一つの違和感に気付いた。
「先輩、靴、どうしたんですか?」
 細身できゅっと引き締まったおみ足の爪先は、黒く汚れて穴が開いてしまった靴下しか纏っていなかった。
「ファンの方が持っていってしまったのかしら」
 そう言った先輩の表情はかなり弱々しく、強がっているのがばればれだった。
 その時、俺の脳裏に三人の女子の顔が浮かんだ。昼に昇降口ですれ違った女子の顔が。
 あのいやらしい笑いは間違いない。あいつらが先輩の靴を隠したか捨てたかしたんだろう。
 そう思い至ると、眉間に皺が寄ってしまう。
 それにしても先輩はどうして家に電話して迎えを呼ぶなり、タクシーを呼ぶなりしなかったのだろう。
 俺の疑問を察したのだろうか。先輩は鞄からぼろぼろに壊れたスマホを取り出し、俺に見せた。
「階段で落として踏んづけてしまいまして」
 先輩は力なく笑った。
 いたずらにも程がある。靴の件とは犯人が違うかも知れないが、だとしたらそれなりの人間がいじめに加担していることになる。
 俺は久しぶりに怒りを覚え、右手で拳を作りぎゅっと握り締めた。すると、先輩は震える両手で俺の拳を包み込み、
「いいの……わたくしは大丈夫ですから……」
 痛々しいほど哀しい笑顔を浮かべた。その表情を見て血が上っていた俺の頭は急激に冷却され、握り締めた拳は先輩の手によって優しく解された。
 先輩のおかげで冷静さを取り戻した俺は、兎にも角にも今すべきことを思い出した。
「とにかく、風邪ひきますから。家の人、呼んでください」
 俺はポケットから携帯を取り出し先輩に差し出した。しかし先輩は受け取ろうとしない。
「先輩?」
「ダメよ……こんな惨めな姿、家の者に見せられない」
 まぁ先輩の性格を考えるにしようのないことかもしれんが……俺はポケットから財布を取り出し中身を検める。ひいふうみのよの……タクシー代はなんとかなる。このままでは先輩が風邪をひいてしまう。なら、背に腹は代えられまい。

 先輩の手を取ってタクシーを降りる。やってきたのは俺の家である。
「遠慮しないで上がってください」
「でも……」
「風邪ひきますよ」
「…………」
 らしくなく遠慮の塊となってしまった先輩の手を引いて玄関を潜る。すると、
「仙石しゃーん、帰ったでしゅか?」
 リビングから瓜田の声が届く。
「妹さん?」
 先輩が尋ねる。
「まぁ、似たようなもんです」
 俺は意を決して先輩をリビングに通す。
「今日は冷えましゅから先にお風呂に……あ」
「……え?」
 リビングの空気が凍りついた。
「あなた、瓜田……さん?」
 先輩は瓜田を指差したまま硬直する。まぁそうなるわな。
 とりあえず瓜田は遠い親戚で、始業式に間に合うように家族より先に引っ越してきて一時的にうちで預かり、瓜田の両親は遅れてこっちに引っ越してくる、という風に先輩に説明した。
 納得してくれたかどうかは定かではないが。
 とにかく風邪をひくからと急いでバスタブに湯を張り、先輩を半ば強引に脱衣所に押し込む。そして先輩がバスルームに入ったのを音で確認すると、瓜田を伴って脱衣所に入り、先輩の制服を洗濯機に入れる。下着は瓜田に任せた。嘘ではない。
「まったく。ウリウリがいるのに女の子を連れ込むなんて何考えてるでしゅか」
 あの状況なら仕方ないだろ。放っぽって帰るわけにもいかないんだから。
 そう言った俺をじとっとした目で睨みつける瓜田。そんな目で見るな。石になる。
「その気もないのに女の子を家に上げるなんて、良い人を通り越してただのお人好しでしゅ」
 言うなよ、自分でも分かってるんだから。っつーか居候が言う台詞じゃないだろうが。
「仙石さん……」
 瓜田と喋っていると、脱衣所から先輩が声をかけてきた。
「あの……服をいただけないかしら」
「あ、すみません。制服、まだ乾いてないんですよ。篭に俺のジャージが置いてあるんで、すみませんけどとりあえずそれ着といてください」
 しばらくすると先輩が恥ずかしそうな表情で『ちょっと大きいですわね』と言いながらリビングにやってきた。
 頬は熟れた桃のようにうっすらと赤みを帯び、乾ききっていない髪からは使い慣れたはずのシャンプーの香りが高級な香水のようにほのかに香り、ぶかぶかのジャージの裾を掴みもじもじとする様子は、普段より幼い印象を呈しこの上なく庇護欲を搔き立てる。
「仙石さん……?」
 ほら、唇なんかも綺麗なピンク色であんなにもおいしそうで。
「仙石さん……そんなに見られると……」
 ごくりと喉が鳴る。
 だめだ。
 何も考えられない。
「は、恥ずかしい……ですわ」
 このまま……
 このまま先輩の唇に――はぎゃっ!
 足の小指に激痛が走る。
 恐る恐る足元を見ると、瓜田が俺の足を踏んづけていた。しゃがみこんで小指をさする俺を瓜田はじとっとした目で見下ろす。そして先輩に向き直り、
「食事の用意ができました。先輩も食べていってくだしゃい」
 先輩の背中を押してテーブルに着かせる。
 危なかった。瓜田がいなかったら性犯罪者になるところだった。本当に危なかった。
 瓜田、GJ。
 後で殴るけどな。

 三人で食卓を囲む。メニューは瓜田謹製のホイコーロー。先輩は遠慮がちにひとくちついばむと、
「おいしい」
 とこぼした。
 その後、先輩も少し元気を取り戻したようで、瓜田と仲良く会話していた。先輩は、
 自分がひとりっ子だということ、
 料理ができないこと、
 家が洋風なので中華はほとんど食べたことがないこと、
 動物が大好きなこと、
格闘技観戦が好きなこと、
 等など、身の上を恥ずかしそうに話してくれた。その表情はなんだか嬉しそうで。先輩もこんな顔するんだと思うと、自然と俺の頬も緩んだ。
 食事を終え三人でお茶を飲みながらまったりしていると、先輩がどこか申し訳なさそうに、
「ごめんなさい、電話、貸していただけます?」
 と切り出した。
 時計を見る。
 短針はやがて八時を指そうとしている。もうこんな時間か。
「どうぞ、お使いくだしゃい」
 瓜田が電話の子機を差し出す。
 先輩は『ありがとう』と微笑んでプッシュボタンを押す。それからしばらくすると、玄関のインターホンが鳴った。
 玄関のドアを開けると、黒いタキシードを着た老紳士が頭を下げた。俺も釣られて頭を下げる。
「私、美琴嬢の執事の南方と申します。此度は美琴嬢のお世話を頂き、誠にありがとうございました」
 丁寧な物腰で謝辞を告げると、もう一度頭を下げた。
「あ、いえ、こちらこそ。出過ぎた真似をしてしまいまして」
 俺も釣られて頭を下げる。そこに瓜田が御雷先輩を伴って玄関に出てきた。
「お嬢様、お迎えにあがりました」
「ありがとう、セバスチャン」
 今セバスチャンって言った?
「あ……」
 足元を見て先輩が小さく声を漏らす。俺も釣られて足元を見ると――そうだ、先輩の靴。
 すると瓜田が靴入れの戸を開けて、自分のローファーを取り出した。『汚れてますけど』と言いながら、先輩の足元に揃える。
「でも、それだと瓜田さんが……」
「ウリウリはスニーカーで大丈夫でしゅから」
 瓜田がにっこりと微笑むと、先輩もはにかんだ笑顔で返した。

「瓜田さん」
 センチュリーの後部座席にちょこんと座った先輩が、窓を開けこう言った。
「今度、お料理を教えていただけますか?」
 上目遣いでどこか恥ずかしそうに尋ねる先輩。俺と瓜田は顔を見合わせてうなずく。
「もちろんでしゅ」
「また遊びに来てください」
 俺達がそう答えると、先輩はこの上なく可愛らしく笑った。
 南方氏は深々と頭を下げると、運転席に乗り込み車を発進させた。俺達は笑顔で手を振る御雷先輩の姿が見えなくなるまで手を振って見送った。

『仙石君が感じたことが、その人の本当の姿だと思うよ』

 不意に天野の言葉を思い出した。
 先輩、楽しそうだったな。


 翌日。
 俺は朝から思案に暮れていた。こんなに頭を使うのはこの学園の入試と進級試験に次いで人生で三度目だ。しかし今回の問題はマークシート方式ではない。『恐らくこれで正解だろう』という選択肢がないのだ。鉛筆を転がして適当にマークすることもできない。
 はたしてどうしたら御雷先輩の不遇な環境を改善できるか。
 まぁ原因は先輩のほうにもあるのだろう。あんな性格だし。しかし昨日の仕打ちはさすがにやりすぎだ。それに弱々しくも可愛らしい、実に人間味溢れる素の先輩を知ったら、味方してあげたいと思うのも人情というものだろう。
 昨日の女子三人組の顔は覚えている。クラスと名前を調べるのも容易だろう。名前が書かれた相手を黒髪の美少女が地獄に送ってくれるホームページに名前を書くのも手といえば手だが、仕返しして解決する問題でもない。
 はてさてどうしたものか。俺は屋上でハトどもにパンくずをばらまきながらひとり頭を捻った。
「ん?」
 ふと視線を落とすと、校門の辺りに『いかにも』な男が数人たむろしているのが見えた。まったく、懲りない奴らだ。
 前にも少し触れたが、この学園は県内でもそこそこ有名な進学校である。そしてそれ以上に、女子のレベルの高さもアンダーグラウンドでは有名である。ついでに言うと制服のレベルの高さも有名で、それこそアングラでは法外な値段で取引されている――ともっぱらの噂である。実際に制服目当てで入学してくる女子も多くその制服を纏って早々に転校、あるいは退学……なんて噂も耳にする。
 となれば、自然とナンパ目当ての野郎共もこの学園周辺に集まってくるわけで。しかし真昼間からご苦労なことで。放課後までそこに陣取るつもりだろうか。これから陽も高くなるというのに、ほんと、ご苦労さん。
 
『ちょっと、やめてください』
 放課後、校門を潜ると背後からそんな声が聞こえた。振り向くと女子三人組が、昼間の野郎共と新顔、総計五人の男に取り囲まれ腕を掴まれている。あの女子、昨日の三人組だ。
『いいじゃん、遊びにいこうよ』
 そう言って野郎共はぐいぐいと女子の腕を引っ張り、趣味の悪いワンボックス車に乗せようとしている。
 俺は心の底から深く溜め息を吐く。ガラじゃないんだけどなぁ、こういうの。しかし見てしまったものはしょうがない。女子も嫌がっているのは明白だ。
 俺は手に持った鞄を野郎に向かって投げつける。
『へぶっ』
 野郎は不意の攻撃に避けることもできず、鼻血を噴いて倒れる。だがそれは俺の鞄を喰らったからではなかった。
 倒れ伏す野郎の向こうに、短いスカートを翻し、華麗なまでの脚線を九○度以上上げたままバランスを保っている女子が見えた。あれは――
「エスコートにしては少々乱暴ですわね」
 御雷先輩……?
『な、なんだ、お前!』
 肩にかかった亜麻色の髪をさっと払うと、頭上から降ってきた俺の鞄を片手で受け止める。そして俺に向き直り、
「鞄は投げるものではありませんよ、仙石さん」
 鞄を放ってよこした。っていうかどうやって鞄を頭上に跳ね上げたんだ?
『てめぇ、無視してんじゃねぇよ!』
 そんな俺達の様子に業を煮やした野郎共は声を荒げる。だが先輩はこれっぽっちも意に介さず、腕を引っ張られていた女子に向き返り、
「お怪我はありませんか、沢城さん」
 沢城と呼ばれた女子はへたりこみ、目をぱちくりさせ無言でうなづく。
「そう。ここはわたくしに任せて早くお帰りになって」
 残りの女子がへたりこんだ女子の両腕を掴んで、礼も言わず走り去って行った。
『なんだこら、お前が三人分相手してくれるってか?』
 野郎共はこの上なくいやらしい目で先輩の体躯を舐めるように文字通り視姦する。すると先輩は笑顔を浮かべ、
「よろしくてよ。お相手して差し上げますわ」
 え?
 ちょっと、先輩?
 何を仰っているのですか?
 先輩の発言に目を白黒させる俺。すると先輩は二の句を継いだ。
「この拳でよろしければ」
 言うが早いか先輩の右拳が野郎のみぞおちに炸裂する。野郎は短い悲鳴をあげるとアスファルトに沈む。
『こ、このアマっ!』
『タダじゃすまねぇぞ!』
 今度はふたりの野郎が先輩に向かって行く。そして――
 一瞬だった。
 俺が加勢しようと身構えたその一瞬で勝負が決まった。野郎ふたりはニ~三メートルほど吹き飛ばされ、防災林の幹に叩きつけられた。
 一体今の一瞬で何が起きたのか、俺には全く分からなかった。
「御雷流無差別格闘術……あなたも味わってみますか?」
 テレビや雑誌では見たことのない構えで、殺気を込めた鋭い視線を突きつける先輩。
 俺には見える。
 先輩の背後に佇む一対の金剛力士の姿が。
 それが見えたかどうかはわからんが、野郎のひとりは顔を歪ませてその場にへたり込む。それを見た先輩は構えを解くと、くるっと俺に向き返る。
「はしたない姿を見せてしまいましたね」
 先輩は気まずそうに笑う。
 そんな先輩の背後に、最初にやられた野郎が起き上がり、どこから用意したのか鉄パイプ――それはさすがに反則だろ――を構えた。
「先輩、どいて!」
 俺は先輩を跳ね除けると鞄を頭上に掲げ、鉄パイプ攻撃を防ぐ。そしてそのまま押し返し野郎の体勢を崩すと、後ろ回し蹴りを喰らわせる。
 野郎は嬌声をあげて再びアスファルトに沈んだ。
 俺は跳ね除けてしまった先輩に走り寄り、手を差し出す。
「すみません、先輩。怪我はないですか?」
 先輩は俺の手をそっと掴み立ち上がると、
「心配なくてよ」
 優しく微笑んだ。
 ヤバイ、めっちゃ可愛い……
 すると、騒ぎを聞きつけた教員加藤以下数名が走ってやってきた。なんだ、今更。
 などと溜め息を吐いていると、
『貴様ら! 何喧嘩しとるんだ! ちょっと指導室に来い!』
 は?
 喧嘩っておい、何見てたんだ、これは正当防衛だろうが。
 俺はそれを証明しようと背後でへたり込んでいる野郎に振り向くと、そこにはすでに野郎共の姿はなかった。
『弁明は指導室で聞く』
 そう言って加藤が先輩の肩を掴み、先輩を押し遣って行く。
『仙石、貴様も来い』
 もうひとりの教員が俺の肩を掴む。俺は先輩の潔白を証明すべく同意して連行されようとすると、
「その方は関係ございません。ただの野次馬ですわ」
 先輩が冷めた声でそう言った。
 え?
 ちょっと、先輩?
『そうなのか? だったら早く帰れ』
 俺は解放されたものの、後には納得のいかない気まずさが残った。
 先輩……俺をかばって――


 翌日。
 俺はいつもよりかなり早く家を出て、ひとり校門で御雷先輩を待っていた。しかし待てども待てども先輩の姿どころか、あの南方とかいう執事さんの姿も現れない。
 途中で天野や織姫や瓜田が声をかけてきたのだが、曖昧に笑って『なんでもない』と答えるしかなかった。
 やがて予鈴が鳴る。俺は大きく溜め息を吐くと、とぼとぼと教室に向かった。
 この日の授業は全く頭に入らず(いつも通りといえばいつも通りなのだが)、放課後に加藤に先輩の処遇について尋ねたのだが、
『個人情報だしお前には関係ないだろ』
 一蹴された。
 さてどうしたものか。
 俺は先輩の家を知らないし、電話番号も知らない。連絡網が手に入ればいいのだが、他学年の連絡網なんて、先の加藤の対応からするに入手は難しいだろう。
 俺はぶつぶつと独り言を口にしながら昇降口に向かう。
「あの……」
 靴を履き替えていると、後ろから女の子の声が聞こえた。振り返るとそこには、
「仙石君、だよね」
 最近見慣れた女子三人組の…確か沢城、とか言ったっけ。あとのふたりは知らんな、そういえば。
 三人は気まずそうな顔で視線を泳がせている。話しかけてきたのはいいが、それっきり一向に口を開こうとしない。なんなんだ、一体。
 怪訝な顔をした俺の心情を察したのか、沢城という女子がやっと口を開いた。
「仙石君、御雷さんと仲良かった、よね……?」
 まぁ悪くはないし、先日うちに来たときにだいぶ仲良くなったとは思う。けど、それがなんなの?
「その……私達、謝りたくて……」
 謝る?
 ってことはやっぱり――
「先輩の靴のこと?」
 沢城以下二名の肩がびくんと跳ねる。やっぱりか。
 けどそれを俺に言ったところで何がどうなるもんでもあるまいに。
「そうなんだけど……今日御雷さん、休んだから……」
 それで朝に会えなかったのか。
 俺は下を向き溜め息を吐く。
 あ。
 三人組の上履きの色。それは三年生を示す色だった。だとしたら――

「これはどうも、仙石さま。先日は美琴嬢がお世話になりました。そちらのお連れ様は……美琴嬢のご学友でしょうか」
 出迎えてくれたのは南方氏。俺達の目の前には、なんと形容していいやら言葉も浮かばないほどの豪邸がそびえている。いや、これはもうお城だ。石油王の王宮だ。噂には聞いていたがこれが御雷先輩の……いや、御雷グループの財力……
 沢城さんから連絡網をもらい、四人で先輩の家を訪ねて来たはいいものの、この浮世離れというか世間ずれしたスケールにただただ目を丸くするしかなかった。
 しかし気後れしてる場合じゃない。俺達は先輩に会いにきたのだから。
「お気遣いありがとうございます。しかしながら美琴嬢は休んでおられまして、しばらくは誰も部屋に通さないようにと――」
「よろしくてよ、セバスチャン」
 扉の奥から声が聞こえた。南方氏が振り向いた先を見遣ると、そこには寝巻き――にしてはかなり華やかなのだが――を着た御雷先輩が、もうほんとすごすぎるとしか言いようのない装飾をされた階段を下りてきていた。
「聞き慣れた声だと思いましたら。ようこそ、仙石さん。あら、沢城さんに戸松さん、花澤さんまで」
 俺の後ろで身を縮めている三人にも気付いたようだ。だが先輩は嫌な顔一つせずに、
「客間でお待ちになって。着替えたら行きますわ。セバスチャン、お通しして」
 笑顔でそう言った。
 俺たちは南方氏に案内され、客間に通される。もうね、驚くことすらできないくらいすごすぎる。どうやら沢城さんたちも同じらしい。客間も途中の廊下も、水曜発売なのに日曜の名前が付いてる漫画雑誌の執事漫画のお嬢様の家の離れみたいだった。まぁ御雷先輩も実際にお嬢様なんだけども。
 俺達が客間の相当なお値段がするであろうシックな椅子にちょこんと座ると、今度は白黒のシックなエプロンドレスに純白のエプロンを着けたメイドらしき女性がふたり、これまた相当なお値段がするであろうシックなテーブルに、これもきっと相当なお値段がするであろうシックなティーカップを置き、多分これも相当なお値段がするであろう紅茶を淹れてくれた。
「あ、どうも……」
 俺は小刻みに震える手で恐る恐るティーカップを持ち、紅茶をひとくちいただく。
 正直極度の緊張でせっかくのお高い紅茶の味がまったくわからなかった。隣を見遣ると沢城さん以下二名も同じらしく、俺たちはお互いに乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
 そこにコンコンと扉を叩く音が聞こえた。南方氏が扉を開けると、私服の――意外なことに黒を基調にしたゴシックドレス姿だった――先輩が入ってきた。
 先輩はメイドさんが淹れた紅茶をひとくちすすると、
「珍しい組み合わせですのね」
 と笑った。
 一瞬何のことだかわからなかった俺だが、すぐに俺達の顔ぶれのことだと気付く。そして未だ緊張が抜けない声で、
「いや、その、先輩、今日学園に来なかったから。それで、家を訪ねようと思ったけど、俺、先輩の家の場所知らなかったから。それでたまたま沢城先輩に会って。それで連絡網見ながら訪ねてきて」
 しどろもどろにそう言った。
 すると先輩は、
「心配させましたのね。ごめんなさい。沢城さんも戸松さんも花澤さんも、本当にごめんなさいね」
 申し訳なさそうな笑顔を浮かべた。
「でもなんで休んだんですか、見たとこ元気そうですけど……?」
 俺はストレートに今日一日抱き続けた疑問を告げた。するとなぜか隣の沢城さんが身体をびくんと跳ねさせる。戸松さんと花澤さんはうつむいてしまった。
 それを見た先輩はティーカップを受け皿の上に置き、静かに言った。
「その様子だと、どこかでお聞きになられたのですね」
 俺はなんのことかわからず、先輩と沢城さんを交互に見遣る。すると先輩は俺に向き直り、
「昨日の一件でね、停学になってしまいましたの」
「え……?」
 先輩はまた申し訳なさそうに笑った。
 いや、笑いごっちゃねえですよ。
 すると隣の沢城さんが急にがたんと椅子を跳ね除け立ち上がり、頭を下げる。
「御雷さん、ごめんなさい、私のせいで!」
「そうですよ、先輩は悪くないです。いや沢城さんが悪いって意味じゃなくて、俺だって、野郎のひとりをど突き倒したんだから、俺だって同罪ですよ!」
 思わず俺も立ち上がる。
 だが先輩は首を横に振って、
「わたくしが好きでやったことですし、仙石さんはわたくしを助けるためにしてくださったのでしょう? あなたたちに非はありませんわ」
「でも私が隙だらけだったから……それに御雷さんの靴も……」
「靴?」
 そのキーワードに戸松さんと花澤さんの身体が跳ねる。だが先輩は意に介した様子もなく優しく笑うと、
「あれはファンのドロボウさんが盗っていってしまいましたのよ」
 しれっと言った。
「でも、でも……携帯を壊したときだって、私は止めずに……」
「携帯はわたくしが階段でつまずいて落として踏んでしまったのですよ」
「でも、でも……」
 沢城さんの瞳から涙がこぼれる。
 この世の中に根っからの悪人なんていない。沢城さんもそうだ。きっと小さいながらも罪悪感を持っていたのだろう。それが先輩に助けられ、先輩の慈悲深さに触れ、犯したことの意味を知り、涙となってこぼれて行く。
 先輩は沢城さんの傍に寄りテーブルの上の紙ナプキンを取ると、そっと沢城さんの頬に宛がう。
「わたくしは気にしていませんから。ね?」
 先輩は優しく笑って、泣き止むまで沢城さんの肩を抱き続けた。まるで聖母のような優しい雰囲気を醸し出しながら。
 その後陽が落ちてしまった頃、俺たちは先輩と南方氏に付き添われ玄関へ戻った。ふたりに見送られ門扉を潜ろうとすると、沢城さんが振り返り、
「あの、お礼とお詫びがしたいんだけど……何か私達に出来ることない?」
 先輩は目をきょとんとさせ、しばしあと、指をもじもじさせうつむいてしまった。そして意を決したように顔を上げると、こう言った。
「じゃあ……わたくしと友達になってもらえますか……?」

 その翌々日。
 俺はまた校門の前に立っていた。
 だが今日は俺ひとりではない。隣には沢城さん、戸松さん、花澤さんもいる。
 一体何をしているのかというと、
「御雷先輩の停学撤回の署名にご協力くださーい」
「お願いしまーす」
 こういうことである。
 一昨日御雷先輩の家(というか王宮)からの帰り道、ずーっと黙っていた沢城さんが別れ際、不意に『署名を集めよう』と言い出したのだった。
 なかなかに良い案だと思った。けど多少の不安もあった。
 こんな言い方はしたくはないが、あの御雷先輩だ。男子からの人気は高いが、女子からの評判は正直芳しくない。
 昨日沢城さん以下二名と、加藤と生活指導の山本に直談判したときに突きつけられた条件は、曰く全校生徒の七割の署名。
 この学園は大雑把に男子四、女子六くらいの割合だ。うち、男子の八割から署名をもらったとして全体の三割二分。はたして残り三割八分の署名を女子から集められるか。それが問題だった。
 だが実際に今日校門前に立ってみると、驚くほどの数の女子が署名してくれている。ざっと女子全体の半数弱といったところだろうか。聞く所によると昨日、沢城さん以下二名が方々の女子に事のあらましと顛末を説明した上で、頭を下げて回ったという。
 アンチ御雷の筆頭だった(本人談)沢城さんと御雷先輩が友達になったと宣言したことと、他方で学園部外者によるナンパに困っていた女子が多数を占めていたことで――学園内では御雷先輩がナンパ野郎どもを撃退したと話題になっていた――、驚くほど簡単に事態が好転したのだった。
 さらには俺から事情を聞いた瓜田、天野に織姫までが友達やクラブ、生徒会や新歓コンパ実行委員会などの多方面に協力を要請して回ってくれていたのだった。
 そして放課後。
「仙石君、これ、署名」
「うちも集めてきたで」
「こっちはウリウリの分でしゅ」
 天野、織姫、瓜田がそれぞれに分厚い束になった署名用紙を持ってきてくれた。ざっと見たところ、全部で九割近くの数の名前名前名前。ダブりを省いたとしても条件の七割はゆうに超えているだろう。
「みんな、ありがとう」
 俺は瓜田、天野、織姫に頭を下げる。沢城さん以下二名も倣って頭を下げた。
「仙石君の信じた人だから、わたしも信じるよ」
「仙ちゃんのやることに間違いはあらへんからな」
「友達を助けるのは天界でも常識なのでしゅ」
 ほんとにありがとう。
 なんかひとり余計なこと言った奴がいるが誰も気にしてないから言わないでおこう。
それはともかく、これを加藤と山本に突きつければ先輩は晴れて汚名返上、名誉挽回。復学決定だ。俺と沢城さんたちは互いに顔を見合って力強くうなずく。
 そして俺と沢城さん以下二名は生徒指導室へ向かった。
 生徒指導室のドアを開けると加藤に山本、それに見覚えのない紋付袴姿の体躯の大きい白髪の男性がいた。来客だろうか。だが今ノックしたときは入れって言ったよな?
「すみません、来客中でした?」
 俺は恐縮しながら尋ねる。すると白髪の男性が、
「ああ、構わんよ。入ってくれたまえ」
 なんか聞き覚えのある口調だなと思いつつ、俺は署名の束を加藤に手渡す。
「一千三百五十ニ人分の署名です。約束どおりこれで御雷先輩の停学は撤回ですよね」
 俺は強い口調で言う。
「まさか、本当に集めたのか?」
 山本は目を丸くして署名用紙の束を受け取る。そりゃ驚くだろう。内心俺だって驚いてるんだから。
「わかった。明日書類を用意しよう。そういうことでよろしいですか、御雷さん」
 山本は白髪の男性を窺う。
 ん?
 御雷さん?
「よろしいのではないですかな。ところで……君が仙石君かね?」
「え、あ、はい。そうですけど……」
「そうか、なかなか芯の強そうな良い瞳をしておる。娘からよく話を聞いておるよ」
 娘って、御雷さんって、それにこのどこか上からの話し方、もしかして……
 すると白髪の男性ははっはっはと豪快に笑った。
「すまんすまん、名乗っておらんかったな。わしは御雷源五郎。美琴はわしの娘だよ」
 お、お父様ってことは……御雷グループの会長……だよな?
 俺は目の前のリアルVIPにがっちがちに萎縮する。そんな俺を見てお父さんは、
「そう緊張せんでくれ、仙石君。後ろのお嬢さん方はあれのご友人かな?」
 今度は沢城さん以下二名ががっちがちに萎縮する。失礼ながら、その体躯でビビるなというほうが無理ですよ、お父さん。
「そうかそうか、あれもやっと友達ができたか。ふはははは」
 やっと?
 どういう意味だ?
 俺の疑問を察したのか話が続いているのか、御雷さんは二の句を継いだ。
「ああ見えてあれは人見知りでな。家に友達を連れてくるどころか、友達の家に遊びに行ったこともなくてな。早くに母親を亡くし、わしも仕事が忙しく満足に構ってやることもできんかった。学校の教師に聞くところでも友達も作らず、ずっと自分の殻に閉じ籠っておったそうだ」
 先輩にそんな過去が……
「そしてわしの従弟を頼ってこの学園に入学した。公立では馴染めなんだ同級生と一緒になってしまうからの。だがそれも、入学した次の春から急に元気になりおってな。一丁前に化粧を覚えたと思ったら男の話ばかりしよる。どこの馬の骨に中(あ)てられたかと思っておったのだが、それが君か。なるほど、我が娘ながら人を見る目はあるようだ。はっはっは」
 なんでか知らんがお父さんは嬉しそうにばんばんと俺の背中を叩く。あの、ちょっと、いや、かなり痛いんですけど。何が楽しいのか加藤も山本もニコニコと笑っている。いや、止めろよ、あんたら。
「とにかく」
 御雷さんは叩くのを止めると、俺たちに向き直り、頭を下げた。
「あんな娘だが、この通り、宜しくしてやってくれ」

「仙石さん、沢城さん、戸松さん、花澤さん!」
 生徒指導室を出た俺たちは校門で呼び止められる。声のした方を見遣ると、ゴス服姿の御雷先輩が校門の壁に手を着いていた。
 しかし様子がおかしい。なぜか異様に息を切らしている。
「どうしたんですか、先輩、そんなに息切らして」
「お父様から電話があって……急いで学園に来いって……いうから」
 まさか走ってきたのか?
 その服とブーツで?
 てか先輩の家と学園でどれだけ距離があると思ってんすか?
「まぁそれは置いといて。喜んでくださいよ先輩。先輩の停学は撤回になりそうです」
「え……どうして?」
「沢城さんのアイデアで署名集めたんです」
「そんな、でも……」
 指をもじもじさせながらうつむく先輩。そんな先輩に沢城さんがこう言った。
「ほら、お礼とお詫びに、ね。それに――」
 沢城さんは手を差し出して、
「私達、友達じゃない」
 少しはにかんで笑った。
 先輩はおどおどしながらも沢城さんの手に自分の手を重ね、
「ありがとう」
 はにかんで笑った。
 沢城さん達は家が逆方向だというので、俺たちは坂のふもとのバス停の辺りで別れた。隣にいる御雷先輩は、沢城さん達の背中が見えなくなるまで手を振っていた。その顔は本当に嬉しそうで、見ているこっちまでなんだかほんわかした気持ちになってくる。
「そういえば」
 先輩は肩まで上げていた手を下ろすと、俺に向き直った。
「仙石さんにお礼、言ってませんでしたわね」
 そうだっけ?
 でも、
「署名集めようって言い出したのは沢城さんだし、俺は何もしてないですよ」
「でも、仙石さんがいなかったら話もまとまらなかったでしょう。沢城さんをうちに連れてきてくださったのも仙石さんですし、不良の鉄パイプから私を守ってくださったのも仙石さんですわ」
 先輩はそう言うと、自分の胸の辺りで両手を合わせる。
「ちょっとこれを見てくださる?」
 はぁ、なんでしょうか。
 俺は言われた通りに合わせた手に視線を落とす。
「目を閉じてくださる?」
 言われるまま目を閉じる。すると――
 おでこにとても柔らかい感触がした。ここんとこ何度か味わったこの感触は……
「せせせせ、せんぱい、何をするんですか!」
「感謝なさい。わたくしの唇はお高くてよ?」
「じょ、冗談はやめてくださいよ。俺も男なんですから、本気になっちゃったらどうすんですか!」
 俺は紅潮した顔を先輩から背け、手のひらを突き出してばたばたと左右に振る。
 すると先輩は、
「冗談ではありませんわ。本気になっていただけないのでしたら――」
 なんだか悲しそうな声に、俺は横目で先輩を盗み見る。すると先輩はゴシックドレスの襟元を指で引っ張って、
「ここで契っても……よろしくてよ?」
 ちぎる……?
 何を……?
 必死に自我を保とうと目いっぱい顔を背ける。だが悲しいかな、目の前の先輩の開いた胸元に目がめがメガ――あぶっ!
 突如後頭部に激痛が走り、俺はアスファルトに沈む。
 薄れ行く意識の中で、やたら心配そうに俺の名前を叫ぶ先輩の声と、やたら不機嫌そうな瓜田の顔が、かおが……かゆ……うま……

第五章

 昨夜から降りだした雨は深夜のうちに本降りになり、今朝にはすでに弱くなっていた。登校時間帯に雨脚が弱るのはありがたい。
俺は身嗜みを整えると、後頭部をさすりながら家を出た。ちなみに瓜田は日直なのですでに家を出ていた。
 普段と変わらぬいつもの通り道。なのに俺の心は軽く沈んでいた。
 何でかって?
 ここんとこ俺の周囲の一部の女の子の様子がおかしいからに他ならない。
 天野も織姫も御雷先輩も、なんだって俺みたいな男にき、き……キスなんかしたんだ。それも付き合ってくれと告白されたわけでもない。
 いや、御雷先輩に至ってはもっと過激なことを言われたんだが。
 あれか?
 今一部で流行ってるとかいうキスフレってやつか?
 はっ、まさか。あの真面目な天野や最近までイタリアにいた織姫にタカピー(死語)な御雷先輩がそんな浮ついたことをするはずがない。だったらあれはみんな本気……
 俺は周囲の目も気にせず頭を抱えて悶える。
 でもほんとにみんな本気だったら、俺は……
 その瞬間、俺の脳裏にひとりの女の子の顔が浮かんだ。垂れ目にアホ毛で小生意気な奴の顔が。
 何でだ?
 俺は瓜田が好き……なのか?
 俺はまた頭を抱えて悶絶する。
 そんなことはない。ただ毎日顔を合わせるから印象に残りやすくなってるだけだ。
 そう必死に自分に言い訳する。
 だいたい瓜田との好感度を上げるイベントなんて……風邪ひいたときぐらいじゃないか。だいたいあいつは天使だぞ、人間じゃないんだ。どこぞのぶっ飛んだギャルゲじゃあるまいし、そんなぶっ飛んだフラグが立つわけない。
 じゃあ、天野か織姫か御雷先輩と……?
 でもそんなこと考えられない。
「……。さっさと学園にいこう。学生の本分は勉学だ」
 無理矢理気分を入れ替えて俺は足を踏み出す。すると目の前に誰かが倒れていた。
 小さな体躯と腰で結った白く長い髪。いや、銀髪か?
 おばあさん、って感じでもないな。
 白いブラウスに朱色のスカート。肩からは小さなポシェットを提げ、近くにはこの人物のものらしいつばの大きい白い帽子が落ちている。
 察するに小さな女の子だ。幼稚園……いや、小学校低学年くらいだろうか。でも今の今までこんなとこに人なんていなかったぞ?
 なんて冷静に分析してる場合じゃない。
 俺は駆け寄り小さな肩を抱き抱え上体を起こす。その顔はやはりおばあさんではなく、女の子だった。
 ぐったりとしているが息はある。しかしわかるのは『生きている』ということだけ。どこの具合が悪いのか、素人が判断していいことはない。ここは救急車を呼ぶべきか。いや、ここからなら駅裏の病院へ走ったほうが早く着く。
 俺は女の子を背中に背負い、ダッシュで駆けだ――そうとしたとき。負ぶった女の子のお腹の辺りから、腹の虫が大きな声で鳴いた。そして、
「腹減った。」
 ……え?
「腹減った。」

 そして。
 俺は一時限目をサボタージュして、極彩色のシンボルキャラクターが微妙にトラウマなハンバーガー屋にいた。こんな時間に学生服で女の子を連れ添って歩いていると、微妙に周囲の視線が痛い気がする。
 女の子はラッキーセット(を三セット)、俺はアイスティーを頼んだ。もちろん俺の金で。まぁ子供に出させるわけにはいかないよな。
 そんなことを考えているうちに、目の前の女の子はあっという間に三セットを食べ終え、光過敏性ショック事件の容疑者達のミニフィギュアで遊んでいた。その様子はなかなかに愛らしく、よくよく見れば、女の子もかなり可愛らしい顔立ちをしている。大人になったらさぞ美人になるだろう。想像すると口元が緩むのが自分でもわかった。
 って俺は何をやってるんだ。こんなちっちゃな女の子を見つめてニヤけてるなんて、下手をしなくても変態だぞ。
 そんな俺の視線に気付いたのか、女の子は遊ぶのを止め、
「はい。」
 黄色い電気ネズミのミニフィギュアをひとつ俺に差し出した。
 物欲しそうに見えたのだろうか。まぁ変態とみなされるよりはいいだろう。
「ありがとう」
 素直に礼を言うことにした。すると女の子は……って、俺この子の名前聞いてねぇや。
「ねぇ、お嬢ちゃん、お嬢ちゃんの名前はなんていうの?」
 今更な質問。できるだけやんわりと言ったつもりなのだが、女の子は眉尻を吊り上げ俺を睨んだ。そして、
「人に名前を訊くときは自分から。相手が淑女なら紳士から。常識。」
「…………」
「…………。」
 なんだこいつ。
 いや、言ってることは正しいのだろうが、初対面の年上に飯おごってもらってから言うセリフか?
 口調もなんだか大人ぶってるし。
 まぁそんなことを言っても始まらない。俺は大人なんだ、そうなんだ。
「そうだね、ごめんね。俺は仙石。きみの名前は?」
「稲生。」
「いなり?」
「そう。」
「下の名前は?」
「ない。」
「お嬢……稲生ちゃん、あんなところで何してたの?」
「行き倒れてた。」
「稲生ちゃんのおうちはどこかな?」
「ない。」
「お父さんとお母さんは?」
「いない。」
「学校は?」
「いってない。」
「迷子になったの?」
「違う。」
「だったらおうちまで送るよ。おうちがないって嘘でしょ?」
「嘘じゃない。昔は沢山あった。けど今はない。」
「…………」
 名前のない女の子が保護者も連れずに迷子でもなく学校にもいかず今は帰る家がない。ってことは……
 家出少女かよ。
 思わず溜め息が出る。正直厄介な子を見つけてしまったなぁ。でもあの状況で見捨てて行くわけにもいかなかったし。
 しょうがない、警察にあずけよう。ここに放っぽって行くわけにもいかないけど、宛てもなく家や両親を探すこともできない。
 悲しいけどこれ、現状なのよね。
 俺は稲生ちゃんと自分のトレーを重ねると、
「お巡りさんのところに行こう。そうすれば家も両親も探してくれるよ」
 そう言って席を立ち、トレーの上のハンバーガーの包装紙と紙コップを捨てる。
「さ、行こうか。……あれ?」
 俺たちが座っていた席にはフィギュアを残し、稲生ちゃんの姿は消えていた。思わず店内を見渡す。だが稲生ちゃんの姿は見つけられない。サイズ的に小さいから、なんてことはないだろう。急いで店を出て周辺を走り回る。だが、稲生ちゃんを見付けることはできなかった。
 なんだってんだ、一体――

「仙石、どうしたよ、こんな時間に」
 早瀬が言う。
 結局あの後駅周辺を走り回ったのだが稲生ちゃんは見つからず、諦めて学校に辿り着いたのは昼休みが終わった頃だった。
「うん、まぁ、ちょっとな」
 俺は鞄から、稲生ちゃんにもらった黄色い電気ネズミのフィギュアと、稲生ちゃんが残していったフィギュアを出して机に並べる。
「なんだそれ。そんな子供向けのフィギュア集める趣味なんてあったっけ」
「いや、これは――」
 そこに数学の北村が入ってきた。早瀬との会話はそこで途切れ、授業が始まる。だがいつも以上に授業に身が入らない。
 変なところで出会った変な少女、稲生ちゃん。家出にしろ迷子にしろ、たったひとりで何ができるのか。今朝だって、俺が見付けなきゃどうなっていたことだろうか。
 けどあれだけ探し回って見付けられなかったんだ。すでに電車で違う街に行ったか、お巡りさんに保護されたかしたんだろう。そういうことにしてもう忘れてしまおう。
 そう思い至り、俺は終鈴とともに校門を潜った。
 でも俺は、もう一度稲生ちゃんに会いたかった。
 すると――
「仙石。」
 この声は……振り返るとそこには今朝出会った少女が――稲生ちゃんが立っていた。
「腹減った。」
 俺は溜め息を吐く。これが厄介な女の子にまた会ってしまったゲンナリ感から来たものなのか、女の子の無事を確認した安堵感から来たものなのかはわからなかった。だが稲生ちゃんの顔を見て、俺の頬は自然と緩んだ。
「しょうがないな。何食べたい?」

 そして俺達は鳥のマークのファミレスにやってきた。
「なんでも頼んでいいよ」
 また行き倒れられても敵わんからな。
 すると運ばれてきたのはリブステーキ、パスタにラザニア、ドリア、サラダにパフェにケーキにプリン。あの、前言撤回していいですか?
 稲生ちゃんはそれらをぺろっと平らげると、追加で超ジャンボパフェ(三五○○円)を注文した。まだ食べるのか……
 そして超ジャンボパフェが運ばれてくると、稲生ちゃんは俺にスプーンを差し出した。
「いらないの?」
「違う。」
 そう言ってぐいと俺にスプーンのお尻を突きつける。どうやら俺にも食べろということらしい。
「じゃ、遠慮なく」
 まぁ遠慮してもしなくても全部俺が払うんだけどな。
 俺はスプーンを受け取り、バニラアイスを掬う。
「仙石。」
 顔を上げる。すると稲生ちゃんは半分に切られたシュークリームを乗せたスプーンを俺の前に差し出す。まさか……
「あーんしろ。」
 いや、それはちょっと……
「しないのか。なら泣くぞ。わめくぞ。暴れるぞ。」
 脅しかよ……かといってそんな恥ずかしいこと、こんな衆人環視の公の場でできるわけがない。
「いや、あのさ、稲生ちゃん。俺あんまりそういうのは……」
 と言った瞬間。稲生ちゃんの顔はくしゃくしゃに歪み――
「食べてくれないとやーだー! お兄ちゃんがいじわるするのー!」
 泣いてわめいて暴れだしやがった。その様子に、店内の視線が俺ひとりに差し向けられる。
「待て待て待て待て、わかった、食べる、食べるから、ね?」
「じゃあ、はい。」
 なんだこの身の変わり様は……
 大丈夫、ぱくっとひと口やるだけだ。きっと周りからは歳の離れた兄妹か親戚に見えてるはずだ。なにも恥ずかしいことなんて……ことなんて!
 あむっ。
 俺は自分の心に発破をかけ、大きく口を開いてシュークリームを頬張る。
「うまいか?」
 正直恥ずかしすぎて味がわからん。俺は眉間にしわを寄せながらシュークリームを咀嚼する。
 すると稲生ちゃんが、
「じゃあほら、仙石。」
 そう言って口を開ける。
 まさか、俺にもあーんしろっていうのか。
「早く。」
 恥ずかしい……恥ずかしいがあーんしてもらうよりははるかにマシだ。
 俺はチョコアイスの塊を掬い、目の前の稲生ちゃんへ手を伸ばす。そして――
 はむっ。
 大きく口を開けてチョコアイスを頬張る稲生ちゃん。
 その仕草がなんか可愛い。これはこれで楽しいかも……
「稲生ちゃん、もうひと口」
 生クリームを掬って稲生ちゃんの口元に突きつける。稲生ちゃんは口の中にまだチョコアイスが入っているのに、口を開けて生クリームにかぶりつく。
 もぐもぐと咀嚼する稲生ちゃんの頬がハムスターみたいに膨らむ。うわ、楽しいな、これ。
「はい、稲生ちゃん」
 今度はシュークリームの片割れ。
「まだあるよ」
 クッキー。
「ほら」
 シリアル。
「はい」
 パチパチキャンディー。
「もういっちょ」
 ゼリービーンズ。
「からの」
 パフェグラスの最下層のコーヒーゼリー。
 稲生ちゃんの頬はこれでもかというくらいにパンパンに膨らんだ。やっべ、超面白い。
 しかしこの超ジャンボパフェのほとんどが稲生ちゃんの口の中だ。さすがに食べさせすぎたか。
 俺は少しばかり良心の呵責を覚え、未だにもぐもぐと咀嚼している稲生ちゃんに声をかけた。
「ごめん、大丈夫? 飲み込まなくていいから、トイレに行こうか?」
 そう言って稲生ちゃんを促そうとした瞬間。
 稲生ちゃんは口の中でミックスされカオスと化した超ジャンボパフェを一気に噴き出し、立ち上がろうと前のめりになっていた俺の顔面にぶちまけた。
「自業自得。」
 稲生ちゃんは冷たくそう言い放つと、ウェイトレスを呼んで新たに超ジャンボパフェを注文した。顔面からクリームだかアイスだかをぼたぼたと垂れさせたまま硬直している俺に、ウェイトレスが恐る恐るといった面持ちで、
「あの……おしぼり、お持ちしましょうか?」
 俺は縦にも横にも首を振ることができなかった。

 ファミレスを後にした俺たちは駅を目指していた。
「ねぇ、本当に帰る家はないの?」
「ないことはない。」
 どっちだよ。
「じゃぁそこまで送るから。もう遅いし女の子の一人歩きは危ないから、もう帰ろう。ね?」
「帰れない。」
 稲生ちゃんは悲しげな表情を浮かべると、小さく言った。
「信心あらば我(あれ)そこにあり。信心なくば我そこにあること適わず。」
 なんか難しい哲学的なことを言い出したが、どういう意味だ?
「稲生ちゃん、それって……」
 振り返るとそこには、稲生ちゃんの姿はなかった。
「稲生……ちゃん?」
 呼びかけてみたが返事はない。一体どこに……?

「てなことがあったんだよ」
 俺は家の食卓で瓜田に事のあらましを話した。
「それで仙石しゃんはその稲生ちゃんを置いて帰ってきたんでしゅか?」
 いや、随分と探したんだよ。近くの公園も小学校の敷地内も、子供が行きそうな場所をしらみつぶしに。駅前の交番でも迷子を保護してないか訊いたんだが、稲生ちゃんらしき人物は保護されてないと言う。
「ずいぶん入れ込んでるんでしゅね。仙石しゃんは幼女趣味だったでしゅか」
 ずいぶんな言われようだな。心なしか機嫌も悪そうだ。
「まあいいでしゅ。仙石しゃんがどこで誰と何してようとウリウリには関係ないでしゅから」
 俺は昨日御雷先輩と喋ってたときにお前によく似た人物に後頭部をど突かれて意識を失ったような気がするんだが、あれは白昼夢だったのか?
 まぁそんなことは置いといて。
 心配だ。一応交番では似たような特徴の子が保護されたら連絡をくれと言ってあるが、心配だ。
 だって不思議な女の子だから。
突然俺の前に現れて、気付いたらその姿は消えている。まるで幽霊……ってことはないだろうが。神隠し、とか?
 それにしたって年齢(そういえば歳は訊いてなかったな)に見合わない最後のあの哲学的な台詞。

『信心あらば我そこにあり。信心なくば我そこにあること適わず。』

 その晩、俺は一睡もできなかった。


 翌日。
 天気は晴れ。
 俺は学校をサボり、朝から市内を周ることにした。兎にも角にも稲生ちゃんが気になってしようがない。こんな心理状態じゃ授業なんて受けられない。全部右から左だ。
 この街にいるならいる、いないならいない。
 そんな確証が欲しかった。
 公園、小学校、病院、商店街、交番、ショッピングモール、図書館、コンビニ、河原。
 思いつく限りの場所を見に走り回った。
 だが稲生ちゃんの姿を見つけられないまま時間だけが過ぎて行き、いつのまにか太陽は稜線の向こうに消えようとしていた。
「ってことは、もういないんだな」
 俺は誰ともなしにつぶやいた。
 稲生ちゃんという家出少女はもうこの街にはいない。今日一日を費やして得た答えに、俺はがっくりと肩を落とした。
 たった一日。それも朝と夕方しかなかった俺と稲生ちゃんの時間。ほんのわずかな時間だったけど、俺は稲生ちゃんといて楽しかった。そして稲生ちゃんがいない今、なんだか心に穴が空いたような寂しさを覚える。
 瓜田の言う通りだな。ずいぶん入れ込んだもんだ。
 背中を猫のように曲げながら帰路に就く。口から吐いて出るのは溜め息ばかりだ。
 稲生ちゃんはもうこの街にはいない。
 今朝俺が欲しがった確証がそこにあった。だがそれは俺の欲しかった答えではなかったらしい。際限なくこぼれる溜め息がそれを証明していた。
 東に長く伸びる影と歩く。とぼとぼと、とぼとぼと。しかし東に伸びる影は、日没とともにその姿を消した。いよいよ俺はひとりぼっちになってしまった。
『~♪』
 するとどこからか鼻歌が聴こえた。
 俺は立ち止まり鼻歌の聴こえた方へ目を遣る。切り立った岩肌に、頂上へ伸びる細く勾配の急な階段が目に入った。耳を澄ますと、階段の上のほうから鼻歌は聴こえていた。
 確かこの先は古びた小さな社だったな。何年か前に老朽化が激しいとかで近くの神社に合祀されて、その後は立ち入り禁止になったって話だったけど。
 階段の入り口には南京錠のかかったフェンスと「立ち入り禁止」と書かれた――風化して文字は消えかかっていたが――看板が貼り付けられている。
 だがこの階段の奥に誰かがいるのは確かだ。不思議と俺は階段の向こうが気になり、そこにいる誰かに会いたくなった。
 フェンスを乗り越え段の高さがちぐはぐな、実に上りづらい階段を早足で上る。そして最上段に足をかけると、そこには記憶通り、古びてぼろぼろになってしまった鳥居と社があった。そしてその社の前の縁石に、銀髪につばの大きい白い帽子をかぶった、朱色のスカートを穿いた小さな女の子がひとり、目を閉じ木の折れ枝をタクト代わりにして気持ちよさそうに鼻歌を奏でていた。
「稲生……ちゃん?」
 俺は恐る恐る声をかける。
 すると女の子は返事をする代わりに、こう言った。
「信心あらば我そこにあり。と言った。」
 その姿も声も上から口調も、俺の知っている稲生ちゃんであった。
「ずっとここにいたの?」
 稲生ちゃんは俺に向き直りもせず空を見つめながら、
「違う。」
「じゃあどこにいたの? 俺、今日ずっと稲生ちゃんのこと探してたんだよ」
 稲生ちゃんは目を瞑り、
「信心なくば我そこにあること適わず。仙石は我がいないと思っていた。だから我は存在しなかった。だが今は違う。今、仙石は我がいると信じた。だからここに存在している。」
「存在……?」
「元来神とはそういうもの。数多の人々の信心から存在する。崇められることで信仰を得、神力を以って人々の祈りに応える。」
 そう言うと稲生ちゃんは立ち上がり、帽子を脱ぐ。稲生ちゃんが目を瞑ると、突然旋風が起こり、木っ端を巻き上げて稲生ちゃんを包む。そして旋風がおさまると、そこには巫女服を着た銀髪の女性が現れた。だがその女性は人ではなかった。頭にけもの耳がぴょこんと生えていた。
「稲生……ちゃん……?」
「稲生大明神。人々が我を呼ぶときの名だ。覚えておけ。」
 いなりだいみょうじん……ってじゃあ、
「キツネの神様……?」
 俺のその言葉に稲生ちゃん……稲生明神様は口元をほころばせ、
「それもよかろう。」
 そう言った。そして、
「仙石、己(うぬ)にはたらふく飯を喰わせてもらった。己の信心で顕現もできた。望みを言え。叶えてやろう。」
「望み?」
「不服か?」
 いや、急に言われても……何も出てこないな。
「今は……特にないよ」
「何でもいい。電気ネズミの人形がほしい、腹いっぱい喰いたい。」
 それはあんたの望みだろ。
「本当にないんだ。今の生活でそこそこ満足できてるから」
 俺のその答えに、稲生明神はまた口元をほころばせる。
「欲のない男だ。ならば叶えてほしい望みができたら我を呼べ。己が信じれば我はそこに存在する。忘れるな。」
「うん。そうさせてもらうよ」
 俺は右手を差し出す。稲生明神も右手を差し出し、俺たちは固い握手を交わした。
「我は行く。達者で暮らせ。」
 稲荷明神は眩い光を放つと、キツネの姿に変化して星空に向かって飛び立って行った。俺はそれを見送ると、踵を返し階段へ向かう。
 すると背後から、女の子の声が聞こえた。
『神無月には呼ぶな。忙しい。』
 なんじゃそりゃ。


「で」
 家に帰ると、瓜田が機嫌悪そうに食卓に着いていた。晩御飯のおかずにラップをして。
「今の今までずっと女の子探してたんでしゅか」
 はい。
「まったく。朝ごはんもお弁当も無駄になっちゃったじゃないでしゅか。出掛けるなら出掛けるって言ってから家を出てくだしゃい」
 すみませんでした。
「それで、その女の子は見つかったんでしゅか?」
「うん。もう家に帰ったよ」
「本当にお人好しでしゅ」
 なぁ、瓜田よ。なんでそんなに怒ってるんだ?
「怒ってないでしゅ。呆れてるんでしゅ」
 瓜田はぶっきらぼうにそう言うとさっさと食事を済ませ、着替えを持って風呂場へと向かった。
「覗いたら殺しましゅよ」
 だからなんで怒ってんだよ。

第六章

 気がつけばもう五月も半分が過ぎ、太陽がやる気を起こし始めてきた。気温が最高潮まで上がる午後、俺は誰もいない教室で制服のネクタイを緩め袖をまくり、下敷きで顔を扇いでいた。
 今朝も瓜田は俺より早く家を出て、俺より早く帰って行った。それでも朝飯と弁当はリビングのテーブルに置いてあった。嫌われたといった雰囲気でもなさそうだ。
 前に校内では瓜田と距離を置こうと言ったは言ったが、ここまで徹底的にやることもないだろう。嫌でも家で顔を合わせるんだし。
 何よりなんであいつが怒ってるのかがわからん。そりゃ稲生ちゃんの件では授業をサボったり連絡もしないで家を空けた。けどそこまで怒るようなことじゃないだろうに。御雷先輩の件ではなんで殴られたのかもわからない。署名活動には賛同して手伝ってくれたのにだ。
 天使に限らず女っつーもんはわからないことだらけだ。
そんなことを考えていると、教室の後ろ側の扉が開いた。
「遅れてごめん」
 軽く息を弾ませながら謝辞を告げたのは天野である。
「いや、大丈夫。行こうか」
 自分でも何が大丈夫なのかはわからないが、とりあえずそう言っておく。
「会議遅れて大丈夫かな?」
「クラス委員と掛け持ちなんだから仕方ないよ」
 天野が遅れたのはクラス委員会議のためだ。しかし俺にはそんな用事はなく、ただ単にひとりで新歓コンパ会議に出る気にならなかったから教室でだらけていただけ。つまりはサボりである。最近サボり癖が付いてしまったな。
 ま、それはいいとして。
 会議室の扉をノックする。そして控えめに扉を開け、頭を下げつつ空いている席に座る。ホワイトボードには何種類かの競技の候補が書かれており、その内のひとつに『自転車流鏑馬』の文字があった。それを含めた数種類の競技の内容、実現性、費用対効果等などを協議している最中だった。
 といいつつも、俺達がいない間にいくつかの競技の可否は決裁されており、今は自転車流鏑馬を協議中だった。
『自転車で流鏑馬ですか。面白そうではあるけど、一般生徒には弓は扱えないよね』
 やはり俺と天野が行き詰まった部分が問題だった。
『だよね。弓道部だけが有利だったらみんな納得しないだろうし』
『じゃあ流鏑馬は却下の方向で』
 委員のひとりのその言葉に天野がうつむく。
 気持ちはわかる。ふたりして調べて考えたんだ。俺だって多少なり悲しみがわいてくる。このままじゃ俺と天野が過ごした時間までもが無駄になってしまう。そんな気がした。
 その時、校庭から大音量で歓声が響いてきた。ふと目を遣ると、数人の男女が一人の金髪の女の子を囲んで拍手していた。
 その円の中心にいるのは織姫だった。
 織姫の向こうはるか一○○メートルに目を遣ると、机が一脚と空のペットボトル6本が散らばっていた。あいつ、あの距離から撃ったのか?
 織姫は愛用のマテバをくるくるっと回し、音もなくヒップホルスターに仕舞う。
 いや、素直にすごいんだが、学園にモデルガン持ってくるなっつーのに。全く。
 ……モデルガン……?


 その日の帰り道、天野はやたら上機嫌だった。華麗なステップで鼻歌まで口ずさんでいる。そんなに流鏑馬が決まったのが嬉しいのだろうか。
「ご機嫌だな」
「そう?」
 天野はにっこりと笑って答える。
 ま、かく言う俺も内心ちょっと嬉しかったりするのだが。
「ねえ、仙石君」
 天野はピタッと動きを止めると、俺の顔色を窺うような感じで上目遣いで伺ってきた。
「ちょっと、寄り道してもいいかな?」
 天野の先導に従って、俺たちは学園近くの河川敷にやってきた。俺の通学路から外れたそこは、菜の花が黄色く咲き誇り、クローバーの緑がそれにアクセントを加えた、春の終わりを全く感じさせない景色が広がっていた。
「わたし、ここの景色が気に入ってこの学園を志望したの」
 俺は学園のある方角を向く。なるほど、あの高台の上からならここを一望できる。意識してこの河原を見たことはなかったが、これだけ菜の花が咲いていればいい景観だろう。
「そうして入った学園で仙石君と出会ったの。覚えてる? 一年のとき、坂のふもとでわたしの靴の靴紐が切れて、それを仙石君がハンカチで留めてくれたの」
「そういえば……あれって天野だったっけ?」
 ころっと忘れていたが、思い当たる節はある。
 俺がそう答えると、天野はなぜか優しい笑みを浮かべた。
「忘れちゃうところが仙石君らしいね」
 いや、特別大したことじゃないから記憶に残らなかっただけで。
「仙石君は優しいから特別じゃないって言えるんだよ。でもわたしには特別だった」
 そう言うと天野は俺に向き直り、真剣な顔をして、
「わたしは仙石君が好き。ずっと、あの日からずっと仙石君が好きだった」
 …………
 思わず素っ頓狂な奇声をあげてしまうところだった。いや、よく耐えた。俺の声帯。
 いやしかし、天野はなんつった?
 仙石君が好き?
 仙石って誰だ?
 うちの学園にそんな名前の奴いたっけ?
 なんて現実逃避してる場合じゃない。俺は今、女の子に告白されている。俺の短い人生でこんなの初めてだ。
 いや、御雷先輩に似たようなことを言われた気がするが……
「ふふっ」
 不意に天野が笑い声を漏らす。そんなに俺の取り乱した姿が滑稽だったろうか。
「やっぱり気付いてなかった。そういうところも仙石君らしいよ」
 俺ってそういうキャラなんだろうか。
 でも天野、俺……
「わたしが伝えたかっただけ。返事は今はいいから」
 そう言って天野は駆けて行った。一度も振り返ることなく。
「天野……」
 俺は遠い西の稜線を仰ぐ。
 天野の好意は嬉しい。嬉しいはずなのに、胸がもやもやする。

 玄関の扉のノブを回す。
 だが引いても押しても扉は開かない。
 俺は鞄からキーケースを取り出し、鍵を開け玄関を潜る。
「ただいま」
 玄関に鍵が掛かってたんだ。誰もいるはずのない家に俺の声が空しく響く。
 ――ん?
 瓜田は俺より先に帰ったはずだ。なのになぜ鍵が掛かっている?
 俺は階段を駆け上がり今や瓜田の専用部屋になった元空き部屋の扉のノブに手を掛ける。思い切って扉を開けようとしたのだが、居候とはいえここは仮にも女の子の部屋。勝手に開けていいものだろうか。
 俺は数秒迷った挙げ句、ドアノブから手を離し、扉をノックする。
 だがやはり返事はない。
 俺の部屋からもリビングからもキッチンからも客間からも、瓜田の舌足らずな返事は聞こえない。
 瓜田がいない。
 たったそれだけのことが、なぜか俺の心を不安にさせる。
 なんで?
 どうして?
 事故にでも遭ったのか?
 それとも何かの事件に巻き込まれた?
 そんなマイナススパイラルに陥りそうになったそのとき、インターホンが鳴った。俺は玄関へ走り、勢いよく扉を開ける。そこにいたのは――
「びっくりしたぁ、どないしてん、仙ちゃん?」
 織姫だった。
「いや、なんでもない。それよりどうした、なんか用か?」
 俺は平静を装い織姫に問う。
「なんか用かやあらへんで。仙ちゃんがモデルガン貸してほしい言うからこうして持ってきてん」
 そう言いながら織姫はトートバッグを掲げる。
 そういえば、放課後そんなことを言ったような気がする。
「そうだったな。悪いな、わざわざ」
「いや、うちはええねんけど……」
 織姫は不審そうな表情で俺の顔を覗き込み、
「どないしてん、元気あらへんやん」
 心配そうに言った。
 俺は精一杯に無理矢理笑顔を作って、
「いや、何も。なんでも――」
 なんでもないと言おうとしたとき。俺の首筋に織姫の細い腕が絡まり、頬ずりするように織姫が顔を寄せて、言った。
「なんがあったんかしらんけど……寂しいなら慰めたんで」
 はぁ?
 慰めるって……どっちの意味だ?
「エッチしよ言うてんの。うちとじゃイヤか?」
 いや、イヤとかじゃなくてさ、そういうのはもっと段階を踏んで……じゃなくて好きな人とすることだし、な?
「うちは仙ちゃんが好きや。仙ちゃんになら……全部あげるよ」
「織姫……」
 しばしの沈黙の後、俺は織姫の肩を押し戻し、織姫の瞳を真っ直ぐ見据えて、
「ありがとう。――でも、俺には考えられないよ、そういうの」
「仙ちゃん……」
 織姫はもの惜しそうに、でも素直に離れてくれた。そして溜め息をひとつ吐くと、
「仙ちゃんはそういう人やからな」
 まったくもう、とでも言いたそうな表情で笑った。そして、
「でもそんな仙ちゃんが、うちはずっと好きやってんで。覚えといてな」
 そう言うと織姫は荷物を俺に押し付け、西日に向かって歩いて行った。一度だけ俺に振り返り、手を振って。

 一日にふたりの女の子に告白されてしまった。
 いや、なんとなくはわかってたんだ。キスされたときから、いつかは答えを出さないといけないって。ことこうなると御雷先輩の言動も、告白と捉えたほうがいいだろう。
 けど……俺は……

 玄関の前に腰を下ろしてどれくらいか。俺は時の経つのも忘れて、ただただ地面を見詰めていた。
 天野、織姫、御雷先輩。
 三人とも俺にはもったいないくらい可愛くて美人で、何より俺のことを好いてくれている。普通の男ならまずこの申し出を断る者はいないだろうし、俺にも三人の申し出を断る理由はない。理由はないのだが……
 目を閉じ頭を抱えうつむく。
 そうすると、ひとりの女の子の顔が脳裏をよぎる。
 俺より早く帰ったくせに、一体どこ行きやがったんだ。だんだん心配よりも苛立ちが鎌首をもたげてきた。居候の分際で家主より帰りが遅いなんてふざけやがって。帰ってきたらみっちり説教してやる。今日は晩飯抜きだ。
 どんどんと積もるいらいらに任せそんなことを考えていると、頭上から舌足らずな声が聞こえた。
「何してるでしゅか、仙石しゃん」
 顔を上げる。
 そこには見慣れた制服のアホ毛がスーパーの買い物かごを提げて立っていた。
「こんな時間に玄関で何してるでしゅか?」
 辺りを見回す。
 いつの間にか太陽はすっかり山の向こうに沈み、景色はとっぷりと闇に染まっていた。
「こんなところで寝てたらまた風邪ひきましゅよ」
 俺、寝てたのか?
 全く覚えていないが……とりあえず、
「お前こそ、どこで何してたんだよ」
「ウリウリは買い物でしゅ」
「こんな時間までか」
「お醤油が安かったからちょっと遠くのミックスバリュまで行ってたんでしゅ。テーブルに手紙書いて置いといたのに、読まなかったんでしゅか?」
 そんなもん……あったかな?
 でも――
「心配……したんだぞ」
「え?」
「なんでもない。ほら、中入れ。お茶淹れてやっから」
 俺は瓜田から買い物かごを引っ手繰ると、背中を押して無理矢理中へ押し込んだ。
「で、今日の晩飯は?」
「エビチリでしゅ」
 ……醤油関係ねぇじゃねぇか……

「そうそう、新歓コンパの内容が固まったんだ」
 俺はエビチリを屠(ほふ)りながら瓜田に言う。今のだけじゃない。瓜田が調理しているときも、いただきますをしてからもずっと、俺は自分でもびっくりするくらい弁舌を振るっていた。そして瓜田もいやな顔ひとつせず相槌を打ちながら、俺の他愛ない話に耳を傾けてくれていた。
 食事を終えると瓜田は食器を重ね、席を立つ。しかし俺はそれを制して、
「いいよ、俺がやるから」
 瓜田は豆鉄砲を喰らったハトみたいな顔をして、
「あ、ありがとう」
 と言った。
「そうだ、コーヒーとお茶とどっちがいい?」
 すると瓜田は俺から目を反らして、
「仙石しゃん……」
 重みのある声で、
「なんで、そんなに優しいんでしゅか」
 優しいのだろうか?
 いや、違う。これは――
「このごろあんまり話してなかっただろ。だからさ――」
 俺はキッチンで急須に茶っ葉を入れながら答えた。
「なんか嬉しいんだ。瓜田がいてくれて」
 急須に急速沸騰器から下ろして十秒経ったお湯を注ぐ。すると、
「……ごめんなしゃい……」
 蚊の鳴くような声で瓜田が謝る。
 何がごめんなさいなんだ?
「ウリウリが仙石しゃんを避けてたんでしゅ。仙石しゃんは悪くないのに……」
 俺はお盆から急須と湯呑みをテーブルに降ろすと、そっと瓜田の頭に手を乗せる。
「いいんだ。今、瓜田がここにいてくれることが嬉しいんだ」
 我がことながらかなりクサいセリフに赤面しそうになる。それでも俺は目を反らさず、瓜田の顔を見詰め続ける。すると瓜田は目をぎゅっと瞑り、頬を耳をうなじを紅潮させる。そして薄っすらと目を開けると俺の手を取り、自分の頬に宛がう。
「……あったかいでしゅ」
 そう言った瓜田の表情はとても柔らかく、まるで慈愛に満ちた天使のような――いや、実際に天使なんだが――笑顔だった。
 その表情を見たとき、俺の胸の中で何かが跳ねた。
 すると急激に胸を圧迫されるような苦しさを覚え、息もできないほど心臓がバクバクと早鐘を打つ。
 こないだ瓜田を看病したあのときと同じだ。
 これは……もしかして……
「仙石しゃん……?」
 名を呼ばれ我に返る。
「い、いや、なんでもない。ほら、お茶冷めるぞ」
 瓜田の肩を押して椅子に座らせる。
 心臓はまだバクバク言っている。
 もし。
 もしもだ。
 このまま瓜田を後ろから抱きしめたら。
 俺の心も決まるのだろうか。
 ――ん?
 心が決まる?
 どんな風に?
 俺は瓜田が……好き……なのか?
 俺は瓜田の向かいの席に腰を下ろす。
「なぁ、瓜田」
 瓜田は湯飲みを置く。『なんでしゅか』と問う瓜田に俺は、
「明日さ、土曜だろ。よかったら一緒に……動物園行かないか?」


 そして翌日。
 空はどこまでも青く高く、雲ひとつない快晴。
 俺はクローゼットからお気に入りのワイシャツにベストを着て、階下のリビングへ降りる。瓜田も同じ屋根の下に住んでいるのだから、待ち合わせは当然このリビングだ。
 冷蔵庫から牛乳パックを取り出しコップに注ぐ。そしてコップに口を付けようとしたとき。廊下へ続くドアが開いた。
 そして入ってきたのは、白いプリーツキャミソールに青いデニムのホットパンツ、というのだろうか、とにかく肩、胸元、脚と、細くすらっと伸びた女の子特有のスタイルを強調した、ひとことで言えばとにかく可愛らしい服を纏った瓜田。
 普段着とも制服とも、最初に会ったときに見た天使服(ラファエルさんも同じような服装であったから、恐らく天界での普段着なのだろう)とは全く異なる印象で、なんというか……とにかく可愛い。それ以外に言葉が見付からない。
 あまりの可愛さに見惚れていると、
「そんなに見られたら……恥ずかしいでしゅ」
 頬を染めた瓜田がしきりにパンツの裾を下に引っ張る。
 そんなもじもじした仕草も非常に可愛らしく、瓜田の言葉は俺の耳を右から左へ通り過ぎて行く。
「仙石……しゃん?」
 気付くと瓜田が俺の顔を覗き込んでいた。
「ん、あ、ああ。いや、なんでもない……」
「そう……でしゅか……」
 俺たちはお互いに視線を外しうつむく。
 そんな非建設的な時間がどれくらいか経った頃。俺はこの空気に耐えかね、
「い、行こうか」
 瓜田を促し家を出た。
 駅への道。
 駅のホーム。
 電車の中。
 降車した駅。
 駅から動物園。
 その間、俺達の間に会話らしい会話はなかった。
 瓜田はうちに住んでいる。通う学園も同じ。距離を置こうと言い出すまではふたりで登校していた。だから瓜田と並んで歩くことは何度もあった。
 なのにいざ二人きり、行き先も学園じゃないとなると、なぜこうも硬くなってしまうのか。
 きっと俺も瓜田も、これがデートだと意識しているからだろう。道すがらお互いを何度もちらちらと盗み見ては、目が合いそうになると慌てて視線を逸らす。
 そんなギクシャクした、それでいてどこか胸が高鳴るような空気が、思いの外心地良かった。
 そして俺達は目的地の動物園へやってきた。
「チケット買ってくるからちょっと待ってて」
 瓜田にそう言うと、俺は微妙に混んでいるチケット売り場の列に並んだ。そして瓜田を待たせること数分。俺はふたり分のチケットを持って瓜田の元へ戻った。
「じゃあ行こうか」
「はい」
 ふたりしてゲートを潜る。
 最初に俺達を迎えてくれたのは、この動物園の一番の売りのコアラ。しかしコアラは薄明薄暮性の動物で、一日のほとんどを眠って過ごす生き物だ。だから当然この時間帯はこんなふうに――
「……動かないでしゅね」
「……動かないな」
「ユーカリでお腹こわしたんでしゅかね?」
「いや、それはない」

 土曜ということもあり動物園はそこそこ人で溢れている。俺達は人並みに押されコアラが目覚めるまで留まることができず、名残惜しくもブースを後にした。そのまま順繰りに歩くとペンギンのブースがあった。この暑い中でも元気なもので、飼育員の投げるサンマだかイワシだかを丸呑みしている。それを見ながら瓜田が、
「ペンギンしゃん、この暑いなか平気なんでしゅか? 北極や南極に住んでるんでしゅよね」
「ああ、あいつらはフンボルトペンギンっていってな、南米の比較的暖かいとこに生息してるんだ。だから暑さには強いんだよ」
「温泉ペンギンってやつでしゅね」
「いや、それ違う」

 その隣のブースではシロクマがいかにも暑いといった様子でのんびりと泳いでいた。考えてみたらこのシロクマこそ寒冷地、むしろ極寒の地の住人だ。流氷に乗って北海道辺りに漂着することがあるからって、そのまま北海道で生きていける訳ではなかろう。ましてここは本州の東海地区だ。暑さもひとしおだろう。ご苦労なこって。
「あ、奥に引っ込んで行きましたよ?」
「奥は冷房効いてるからな」
「現代っ子でしゅね」
「一度文明の利器の味を知ったら元の生活には戻れないからな」

 次はベニイロフラミンゴ。
「あの体色維持すんのに桜海老とか赤い餌喰わすんだもんな」
「天使もにんじん食べ続けると翼が赤くなるんでしゅよ」
「マジで?」
「嘘でしゅよ」

 インドサイ。
「角硬そうでしゅね」
「あの角は骨じゃなくて皮膚が硬質化したやつなんだってな」
「あの角が伸びて頭に刺さると……」
「それはバビルサ。あとあいつは角じゃなくて牙な」

 カンガルー。
「ふんふふっふふーふふん、ふんふふっふふーふふん」
「何それ?」
「ニ二世紀の猫型ロボの歌でしゅ」

 アジアゾウ。
「インドゾウより体が小さいんだな」
「インドもアジアでしゅよ?」
「俺に言われても……」

 類人猿舎。
「この子達もあと何万年かしたらヒトみたいに進化するんでしゅかね」
「天使の言うことじゃないよな」

 チャップマンシマウマ。
「独裁者の?」
「違うな」

 メンフクロウ。
「リンゴの断面みたいな顔でしゅね」
「女の子ならハート型って言えよ」

 ――――

 一通り見て周ったところ瓜田がどうしても観たいと言うので、俺達は隣接する植物園に入った。そこには四季折々、世界各国の草花が咲き乱れ、心地良い非日常を演出していた。
 入るなり瓜田は温室に向かい、お世辞にも可愛らしいとは言えないような赤紫色の花の前で腰を下ろす。
 プレートを見る。そこには『アリストロキア・ギガンテア』とあった。
「かわいそうでしゅよね……」
 小さな声で瓜田がつぶやく。
「形がいびつだとか毒性があるとかって避けられて。一所懸命咲いてるのに」
 確かにプレートには腎毒性があると書いてある。だが観賞する分には問題はないらしい。
「でも毒性があるってもこいつだけじゃないだろう。トリカブトやヒガンバナにスイセンだって、身近な花にもけっこうあるぞ?」
「そうでしゅよね。でもみんな同じ花でしゅ。形や香りが違っても、みんな一所懸命咲いてるんでしゅ」
 悲しそうな表情で瓜田はアリストロキアを見つめる。
 その表情を見て、俺はいつか見た夢を思い出した。ひとりの女の子を囃す子供たち。その輪の真ん中に居た女の子は、垂れ目にアホ毛で――背中に小さい翼が生えていた。
「瓜田、お前……」
 そう呼び掛けると瓜田は立ち上がり、
「お腹空いたでしゅ。お昼ごはん、食べに行くでしゅ」
 やや赤みがかった潤んだ瞳で笑った。

 動物園を後にした俺達は、繁華街の豚カツ屋に入った。女の子に豚カツは少々重いかと思ったのだが、瓜田の強い要望で店を決めた。『この街に来たら豚カツでしゅ』と言った瓜田の瞳はすっかり乾いていた。

 食事を済ませ店を出る。陽はまだ十二分に高く、俺はこのまま帰宅することに消極的だった。
 しかし隣を歩く瓜田の手を取ることもできず、足は駅に向かって歩を進める。
 そして駅への道。
 駅のホーム。
 電車の中。
 降車した駅。
 次第に俺たちの間から会話はなくなり、けどそこには行きに感じていた心地よい雰囲気はどこにもなく、ただただ重い沈黙が横たわっているだけだった。
「仙石しゃん」
 不意に声をかけられ、隣に瓜田がいないことに気付く。振り返ると瓜田がどこか寂しそうな表情で、
「ウリウリは晩ご飯の買い物してくるでしゅ。仙石しゃんは先に帰っててくだしゃい」
 瓜田の力ない笑みに俺は声をかけることもできず、ただただ小さくなる背中を見送ることしかできなかった。
 帰る場所は一緒だというのに。

第七章

 五月の陽気はすでに過去のものとなり、上がり続ける湿度と気温が俺の精神を蝕みだした六月。じとじとと降る小雨の中、俺は稲荷揚げを片手に、古びた社へ向かう階段を上っていた。
 階段を上りきると、俺は大きな声である人の名前を呼ぶ。
「供物持参とは信心者だな、仙石。」
 空の上から声が聞こえたかと思うと目の前で旋風が巻き上がり――白い帽子に白いブラウス、朱色のスカートの少女が現れた。
「久しぶり、稲生ちゃん」
 稲生ちゃんは俺の手からビニール袋を引っ手繰ると、稲荷揚げの袋を乱暴に開け、もしゃもしゃと頬張った。そしてその全てを平らげると俺に向き直り、
「願い事が決まったか。」
「いや……そうじゃなくて」
 俺はここ二ヶ月ばかりの俺を取り巻く女性関係についてを稲生ちゃんに話した。
 話し終えると、稲生ちゃんは凍てつくような視線で俺を射貫き、
「自慢しに来たのか。」
 やっぱそう聞こえるよな。でも俺にとっては大問題なのだ。
「そんなもの、好みの者の申し出を受ければよかろう。それとも目移りして選べぬか。」
「そういうことじゃないんだ」
 俺は生まれてこの方、誰にも話したことのない俺自身の生い立ちを稲生ちゃんに話した。俺が話をしている間、稲生ちゃんは相槌ひとつも打つことなく、ただただ黙って話を聞いてくれた。そして話し終える頃には、俺の目尻からは大粒の涙が溢れていた。
 俺の話が終わると稲生ちゃんは背中を丸めた俺の前に立ち、
「辛かったのだな。今はうんと泣け。」
 俺の頭を優しく抱きかかえた。

 雨はいつの間にか上がり、分厚い雲の隙間から夕日が街を照らし出す。何分、いや、何十分経っただろうか。稲生ちゃんはずっと、俺を抱きしめてくれていた。
 そして俺の嗚咽が治まると、
「もう平気か。」
「うん、ありがとう……」
 稲生ちゃんが腕を解く。そして俺を真っ直ぐに見詰め、問う。
「仙石、今は、幸せか。」
 俺は赤くなった目を掌でごしごし擦り、
「言ったろ。今の生活でそこそこ満足できてるって」
 今出来るだけの精一杯の笑みで答えた。

「どこいってたんでしゅか、仙石しゃん」
 稲生ちゃんと別れ家に帰り着くと、キッチンの奥から瓜田が顔も見せずに尋ねてきた。
「うん、いや……ちょっと、な」
「夜遊びも程々にするでしゅ」
 夜遊びって、まだそんな時間じゃないだろ。
 と思いつつテーブルの上に目を遣ると、エビチリがふたり分、ラップを被せて置かれていた。
「待っててくれたのか?」
「…………」
 器に手を遣る。エビチリはすっかり冷め切ってしまって、ラップの内側には露が付いていた。
「ひとりで食べてもおいしくないでしゅ」
「――ごめん」
「ウリウリは――やっぱり、要らない子なんでしゅか……?」
 瓜田の肩が、まるで雨に濡れた捨て猫みたいに震えている。
「どうしたんだよ、急に」
 ただ事ではない瓜田の様子に驚き、瓜田に近付き震える肩に手を遣ると、
「触らないでくだしゃい!」
 尋常じゃない剣幕で叫ぶ瓜田に突き飛ばされ、俺は食器棚に背中をぶつける。その拍子に扉のガラスが割れ、数枚の食器がずり落ち床に砕け散る。
「家にもいない! 学園にもいない! ごはんも食べない! せっかくデートしても手も繋いでくれない!」
「うり、た……?」
「ウリウリは天野しゃんみたいに頭よくないし、織姫ちゃんみたいに愛嬌もないし、御雷先輩みたいにお嬢様でもないでしゅ。でも、でも……でもっ!」
 瓜田の声が震え出し、やがてそこに嗚咽が混じる。
 そんな風に思ってたのか……
「瓜田……」
 瓜田はゆっくりと俺に向き直ると、溢れる涙を拭いもせずに、
「もう、ウリウリに優しくしないでくだしゃい……」
 無理矢理に笑って言った。
 瓜田はそのまま走り去り、家を出て行った。俺は瓜田の涙に動揺し、追いかけるということすら思い付かなかった。


 翌日。
 街は再び雨に見舞われた。雨足は時間が経つに連れ強くなり、授業が終わる頃には大雨警報が発令されるほどまでになった。
「――くん、仙石君?」
「えっ?」
 不意に名を呼ばれ我に返る。いや、目の前の天野の表情から察すると、実際にはずっと呼ばれ続けていたのかもしれない。そんなことにも気付かないほど、俺は放心しきっていたのか。
「どうしたの、ぼうっとして。何かあったの?」
「いや、全然。何も。それで、何か用?」
 天野はもう、というような表情で、
「これから新歓レクリエーションの会議だよ。忘れてた?」
「ああ、そうだっけ。じゃあ行こう――」
 椅子から腰を上げる。しかし俺は何もする気が起きず、また椅子に腰を下ろす。
「仙石君?」
「ごめん、天野。俺、やっぱ調子悪いわ。明日プリント渡してくれ」
「大丈夫? 保健室行こうか?」
 俺は力ない笑みを浮かべ、そこまでしなくていいよと手を振る。天野は終始心配そうな表情で、『気をつけて帰ってね』と言って教室を出て行った。
 天野を見送った後も、俺は再び腰を上げる気力もなく――
それから時計の短針が一周した頃、俺は誰ともなしにつぶやいた。
「――帰るか」

 この日、瓜田の席は一日中空いたままだった。

 気付けば自宅の玄関だった。どこをどう通って帰ってきたのかも覚えていない。
 足元を見る。そこに瓜田の靴は無かった。

 明かりも点けずに自室の床に座り込む。
 依然として何もやる気が起きず、濡れた制服を着替えることすらできない。やがて姿勢を維持する力もなくなり、重力に引かれるまま横になる。雨は止むことを知らないようで、バタバタと窓ガラスを叩き続ける。
 他方の俺の精神はどんどんと落ち込み続け、気付いたら時計の短針が真上を指していた。
 どうやら両親も帰ってきてないようで、階下も静まり返っている。無論、瓜田の声も聞こえない。
 もう寝よう。寝てしまおう。
 そう思い至り、俺は瞼を閉じた。
 ――そういえば、独りで家にいるのも久しぶりな気がする。


 何か鳴ってる。ああ、インターホンか。両親は――いないのか。
 瞼を開く。窓の外は薄暗く、朝とも夕方ともわからない。時間は――五時半。これまた朝とも夕方ともわからない。
「ふぁ……くしゅ」
 くしゃみが。そうか、濡れたまま寝たから。……そうだ、来客。
 俺は鼻をすすりながら玄関へ向かう。
「はい、どちらさんで?」
 扉を開けた先にいたのは制服姿の天野だった。
 天野は心配そうな表情で、
「仙石君、起きてていいの?」
「ん、ああ。両親、出てるから。それで……何?」
「何って……仙石君、今日休んだから。これ、昨日の新歓レクリエーションの会議資料」
 休んだ、ってことは……もう夕方なのか。
 俺の呆け様がよほど心配なのか、天野の表情がさらに曇る。
「本当に大丈夫? 病院行った?」
 俺は昨日と同じ力ない笑顔を浮かべ、大丈夫と手を振る。
「じゃあ、悩み事?」
 え?
「やっぱり。最近休むこと多かったから、何かあったのかなって」
 鋭いな。
「わたしでよかったら、話聞くよ?」

「お茶とコーヒー、どっちがいい?」
「じゃあ、コーヒーで」
 天野をリビングに通し、俺はキッチンに向かう。キッチンには、砕けた食器の破片やガラスやらが散らかっていた。簡単に破片を片付けると急速沸騰器の電源を入れ、ふたり分のコーヒーを用意する。
「お待たせ」
 天野は『ありがとう』と言ってカップを受け取る。そして二口コーヒーをすすると、
「瓜田さんのことでしょ?」
 あまりにも的確に核心を突いた言葉に、俺はコーヒーを気管支に詰まらせむせ返る。
「な……なんでわかるの?」
 俺の問いに天野はなんだか難しい笑みを浮かべ、
「女の子はね、好きな人のことなら何でもわかるんだよ」
 そんなもん、なのか?
「冗談。カマかけてみただけ。織姫ちゃんか御雷先輩か迷ったけどね」
 そか。なんにせよバレてしまったなら仕方ないし、天野ならここでの話を言いふらしたりはしないだろう。
 
「そう、そんなことが……」
 俺は天野に瓜田とのことを話した。
 天野はすっかり冷めてしまったコーヒーをすする。
「瓜田さん、なんか雰囲気変わってるなって思ってたけど……天使ってほんとにいたんだ」
「信じるのか?」
「仙石君が信じた人なら、わたしも信じるよ。でも――」
 天野はカップを置き、目を伏せて言った。
「ちょっと、妬けちゃうな――」
「天野――?」
 その時、不意にインターホンが鳴った。俺は天野に一言断り玄関へ向かう。その間もインターホンは荒々しく鳴り響く。
 騒々しいやっちゃな。一体誰だよ、こんな時に。
「はい?」
「仙石さん……いらっしゃいましたのね……」
 そこにいたのは御雷先輩だった。そしてなぜか異様に息を切らしている。南方氏のセンチュリーが見えないということは、走ってきたのか? あの距離を?
「御雷先輩……どうしたんですか、一体? てべっ!?」
な、なんでいきなりビンタ?
 御雷流渾身のビンタを喰らった俺は三メートルほど吹き飛ばされ、無様にぬかるみに身を沈める。
「仙石君、大丈夫!?」
 いつの間にか玄関へ顔を出していた天野に抱き起こされる。
「御雷先輩、何を――」
「天野さんは黙ってらして! あなた、瓜田さんに何したの!?」
 何って……
「何もしてませんよ……」
「嘘おっしゃい! じゃあこの手紙はなんですの!?」
 手紙?
 御雷先輩は握り締めてくしゃくしゃになってしまった手紙を俺に突き出す。読め、ということらしい。俺は突き出された手紙を受け取り、天野とふたり視線を落とす。

 みかずちせんぱいへ
 ウリウリじゃ仙石しゃんの相手はつとまりましぇん
 仙石しゃんにはもっと
 みかずちせんぱいのような大人の女性がにあうとおもいましゅ
 どうかウリウリにかわって
 すえながく仙石しゃんをかわいがってあげてくだしゃい

 ……なんだこれは……はっ!?
 気付くと隣で手紙を覗いていた天野が、ジトっとした目で俺を睨んでいた。御雷先輩に至っては言わずもがなで、俺の首根っこを引っ掴み往復ビンタである。
「瓜田さんを弄んだ挙句ゴミクズのように捨てて! わたくしだけでは治まらず天野さんまで毒牙にかけようとして! このケダモノ! 性犯罪者! 色情魔!」
 どう解釈すればそんな発想になるんだろうか……
「ちょ、せんぱ、おち、落ち着いて、いませ、説明しますから、ね、ね?」
 天野もそんな目で見てないで止めてくれ……

「瓜田さんが天使、ですか?」
 俺はさっき天野にした話を丸々繰り返し、やっとのことで往復ビンタから解放される。だが御雷先輩の眼光は収まることなく俺を射貫いている。
「それで?」
「それで、って?」
「仙石さんと瓜田さんの間に何があったかは理解しましたわ。その上で、仙石さんはどうしたいのですか?」
 どうって、俺は……
「仙石っ!」
 その時、玄関先に織姫がやってきた。息を切らせ。くしゃくしゃになった手紙を握り締めて。肩をぶるぶる震わせて。
「織姫、落ち着け。言いたいことはわかるが、それは誤解だ。とりあえず話を聞こう、な?」
 そして肩から懸けていた八九式を構えると、
「――この変態精子脳があああぁぁぁ!」

「はぁ? ウリやんが家出?」
 俺は三度、事のあらましを説明する。
「でぇ?」
「で、って……なんだよ?」
「なんだよやあれへんわ、どないすんねん」
 どないするって、瓜田がどこ行ったかもわかんないんだ。どうしようもないだろ。
「ええんか、それで?」
 え?
「そんなわだかまり抱えたまま別れていいの?」
 天野――
「それが誤解だっていうのなら、ちゃんとお話されたほうがよろしいでしょう?」
 先輩――
「それとも、そんなすれ違いで終わってまう程度の関係やったんか?」
 織姫――
「ね? 瓜田さんを探そ」
「わたくしもお手伝いいたしますわ」
「うちにとってもウリやんは友達やからな」
 みんな……
「ありがとう……」
「しかし探す言うてもどこから探そかいな」
「そうですわね……セオリーから言えば実家から、かしら」
「っていうことは天界? でもどうやって行けば……」
 天界、か。確かに行ってみる価値はあるだろうが……
「飛行機、じゃ無理よね」
 飛行機ねぇ。……飛行機?
 ……あ。
「どないしてん?」
「行けるかも。飛行機で」

「これが……飛行艇、ですの?」
 俺たちは自宅の庭先に移動した。その庭の生垣の隅に、黒っぽく焼け焦げたようなよくわからないもの――そう、瓜田がここにやってきた朝に降ってきた隕石が鎮座していた。
「確かに人ひとり入れそうな大きさだけど……」
「瓜田がこれが飛行艇って言ったんだ」
「でも、窓とかハッチみたいなもんもあらへんで?」
 確かに。見た目は本当に隕石みたいな感じで、乗り込み口みたいなものはない。でも、瓜田の言ったことが本当なら……
 俺は何かスイッチ的なものを探そうと、飛行艇に手を宛てがう。すると表面の焦げが剥がれ落ち、下地が垣間見えた。
「車のボディみたいな質感やな。もしかして……」
 俺たちは顔を見合わせ頷く。そして物置から洗剤とモップ、紙やすりに研磨剤を引っ張り出し、一心不乱に飛行艇の表面を磨き上げる。
 そして作業開始から小一時間ほど経った頃。飛行艇表面の焦げはすっかり削げ落ちて、真っ白で艶っぽい地肌がほぼ全面に現れた。
「本当に漫画の飛行艇みたい」
 天野が言う。
 俺はパネルラインに沿ってじっくりと表面を見て回る。そして球の真下、地面との接点ギリギリのところの焦げを剥がすと、『CAUTION』と書かれた透明の板を見付けた。
 俺はハンマーで透明の板を割る。するとその奥に、黄色と黒のストライプに塗られたレバーがあった。
「仙石さん、それ、もしかして」
「うん」
 俺は濡れた地面に腹這いになり腕を伸ばし、渾身の力でレバーを引っ張る。そしてカシャンという手応えを感じると、パネルラインから白い煙が吹き出した。
「開いた……?」
「けど……」
 確かにハッチは開いた。だがそのハッチは丁度真下に位置していて……
「これじゃ乗られへんやん……」
 落胆した空気が蔓延する。でも……でも。
 俺はバールを引っ掴むと地面に突き刺し、体重を乗せてなんとか飛行艇を転がそうとする。
「俺は……俺は瓜田に……会わなきゃなんないんだっ!」
 しかし飛行艇は予想以上に重く、雨で滑りやすくなった地面に足を取られ俺は尻餅をつく。それでも俺は立ち上がり、またバールを地面に突き刺し、体重を掛ける。
「仙石さん」
 俺の手に御雷先輩の手が重なる。
「先輩……」
 すると織姫と天野が頷き合い、二人も俺の手に自分の手を重ねる。
「瓜田さんに……会いに、行くんでしょ?」
「やったら、こんなところで……立ち止まっとるわけにも、いかんやろ……!」
「織姫……天野……」
「もうちょっと、ですわ……あとは一気に……!」
『せぇー……のっ!』
 ごろん。
『ぅわっ!?』
 飛行艇が勢いよく回転し、俺たちは勢い余って地面になだれ込む。
「動いた……」
 飛行艇のハッチが大きく開き、薄らとウェルカムランプが点灯しているのが見えた。
「みんな、大丈夫?」
 隣を見る。御雷先輩は泥まみれ、天野は腰を押さえ、織姫に至っては俺の肘の下敷きになっていた。
「わ、悪い、織姫! みんなも!」
「うちらのことはええから……げほっ」
「早くお乗りになって」
「瓜田さんの所に」
 みんな……
「ありがとう!」
 俺は目頭が熱くなるのを感じながら飛行艇に飛び乗る。ご丁寧にも飛行艇にはナビが付いていた。俺はタッチパネルをいじり、航行記録を呼び出す。瓜田の言った通りなら、きっとこの中に目的地があるはずだ。
「天界、通関所……?」
 とにかく今は天界へ向かわないと始まらない。天界にさえ行ければ、きっと手がかりもあるはずだ。
 目的地を天界通関所にセットする。すると飛行艇ががたがたと揺れ、一気に十何メートルも上空に跳ね上がる。
「飛んだ……」
「飛びました……」
「飛んだっ!」
 俺はハッチから身を乗り出し、眼下の三人に叫ぶ。
「みんな、ありがとう! 行ってくる!」
 ハッチを閉じると飛行艇は一気に加速し、雲を抜け――やがて眼下に青い地球が見えた。

第八章

 ズコン!
 バコン!
 バキバキッ!
 ――プシュー……
「いっつつつ……着陸は自動操縦じゃねぇのかよ……」
 バコンとハッチを蹴り飛ばし、俺は飛行艇のシートから這い出る。
「しっかし思ってた以上に近代的……いや、近未来的だな、天界ってのは」
 幾重にも列なる高層ビルにチューブ状の路線を走る列車、空飛ぶ車にしっかり整備された景観緑、スクランブル交差点を行き交う翼の生えた人たち。まるでふた昔前の漫画雑誌の未来予想図そのまんまの景色に、俺は少しだけがっかりする。
 なんていうか、もっと超自然的なイメージだったんだが。
 しかし今はそんなことより瓜田の手がかりを捜すのが先だ。しかし通関所ってことは、入国審査みたいなもんが必要なんだろうか。どこで申請すれば……
 などと考えていると、おあつらえ向きに俺の周りに人が集まってきた。丁度いい、この人たちに訊いてみるか。
「あのー、すみません――って……え?」
 集まってきた人たちは俺に対して敵意を剥き出しにしていた。なんでそんなことがわかったかって?
 だって彼らは俺に機関銃を向けているのだから。
『両手を頭の後ろで組みうつ伏せになれ。貴様の行為は入国審査法第一六条二項に違反、及び第一七条三項に抵触している。身柄の確保、取り調べの後に裁判に掛けるものとする。尚、この勧告に従わない場合は、この場で射殺する権限を我々は保有している。繰り返す。両手を後ろで組みうつ伏せになれ』
 天使が射殺とか言ったらまずいだろう……
 しかしここは従わねばなるまい。俺は両手を頭の後ろで組みうつ伏せになる。そしてそのまま手錠をかけられ連行されるのであった。

「地上人が天界になんの用だ? あの飛行艇はどこで手に入れた?」
「俺は瓜田……ウリエルを探しに。飛行艇はウリエルがうちに乗り捨てていったものを拝借して……」
「嘘を言うな!」
 取調官が机をどんと叩く。
「四大天使のウリエル様がどうして貴様ごとき小僧と関係があろうか! いいか、ここでの発言はすべて記録され裁判で使われる。よくよく考えて喋ったほうがいいぞ」
 考えるもなにも俺は嘘など言ってない。随分高圧的な奴だな、こいつ。なんか腹立つ。
「なんだ、その目は。貴様、自分の立場がわかっていないようだな。貴様ごとき小僧なぞ、わしの一声で即死刑にもできるのだぞ?」
「てめぇ、いい加減に――」
『失礼します』
 不意に別の男が取調室に入ってきた。男はなんだか落ち着かないといった様子で取調官に言う。
『長官、ご客人が面会したいと……』
「今は取り調べ中だ、後にしろ!」
『それが、その……』
 男が申し訳なさそうに後ろを見る。そして男が道を開けると、背後からひとりの女性が進み出た。
「長官殿、不穏当な発言はご自身のお立場も悪くすることになりかねませんよ?」
「あ――」
「ら、ラファエル様……?」
「ふふっ。お久しぶりです、仙石さん」
 ラファエルさんは鈴を振るような声で、にこっと微笑んだ。
「ラファエル様、この小僧をご存知で……?」
「小僧ではありません。この方は――そうですね、私の未来の弟でしょうか」
 にっこりと何を言うとるんだ、この人は。
「し……しかし、こいつは不法入国者であってですね」
「刑事処罰法九四条第六項。暴力、或は脅迫及び威圧誘導によって得た発言は証拠としてこれを認めない。第七項、暴力、或は脅迫及び威圧誘導をもって発言を得た取調官は刑法第一四条に定める脅迫罪としてこれを罰する。ご存知でしょう?」
「むぐ……」
「さて、私に免じてその方を引き渡していただくか、使命を全うして長い裁判の結果を待つか‥…どうなさいますか?」

「助かりました、ラファエルさん」
 俺はラファエルさんに従って、堂々と通関所を出て街を歩いていた。
「いえ、こちらこそ、着いた早々不機嫌な思いをさせてしまって」
 ほんと助かった。あのままあいつに取り調べられてたら殴り飛ばすところだった。しかしひと口に天使といっても、あんな悪党染みた奴までいるなんて。
「私たち天使も決して完全ではありません。仙石さんはルシファーをご存知ですか?」
「背徳の堕天使、ですね」
 ラファエルさんは申し訳なさそうに笑って言った。
「ええ。そのルシファーを始め、過去にも多くの天使が神に背き地上に降り、多くの悪事を働きました。天使も人と同じく完全な存在ではないのです。ですから先程の長官のことも、多目に見てあげてくださいませんか」
 まぁ……こうやってラファエルさんのおかげでなんとかなったんだし、奴は奴なりに使命感からやったことなのだろう。実害もなかったわけだし、忘れよう。
「それから――ウリエルのことも多目に見てあげてください」
 ウリエル……そうだ、俺は――
「ラファエルさん、俺――」
「まだ時間はありますね。少し、お話しましょうか」

 ラファエルさんに促され、俺たちはこの辺りでは一番景色が良いという高台の公園にやってきた。俺はラファエルさんから預かったパッキーでオレンジジュースを二本買い、芝生から景色を見下ろすラファエルさんの隣に腰掛けた。見下ろす先には区画整備された街並みが広がり、その先には真っ白な雲海。さらにその先には青い地球が一望でき、なるほど、本当に眺めが良い。
 ラファエルさんは『ありがとう』と言ってオレンジジュースとパッキーを受け取ると、ぽつぽつと語りだした。
「ウリエルと私たち兄妹は【神の御前に立つ四天使】として生まれました。ウリエルはその末妹になります。仙石さんもその辺りの事情はご存知でしょう」
 俺は無言で先を促す。
「私たちはそれぞれ大天使、熾天使、智天使などと呼ばれ、それぞれに人々の信仰を集めました。ですが、それがまずかったのです。人々の間に広まった行き過ぎた天使信仰を驚異と感じた一部の聖職者が、ミカエル、ガブリエル、そして私以外の天使を堕天使としてしまいました。そしてその中には、ウリエルも含まれました。さらに悪いことに、コンプレックスである小さな翼をからかわれるいじめに遭ったこともあり、彼女はひどく落ち込み、自分の殻に閉じ籠もるようになってしまいました」
 俺の脳裏でいつか見た夢の情景がリプレイされる。
「彼女にとって天使、そして天使の象徴である翼は重荷でしかなくなってしまったのです。そこで私たち兄妹は協議を重ね、神に進言しました。ウリエルは『人間として』幸せになるのが良いのではないか、と。そして彼女を幸せにしてくださる――いえ、きっと双方とも幸せになれる相手として、不躾とは思いましたが仙石さん、あなたを選んだのです」
 ラファエルさんはそこで口を閉じた。そして一陣の風が流れ、彼女の綺麗な髪を撫でる。
「どうして俺なんですか」
「あなたがそういう方だからです」
「そのことと、俺の乗り越えるべき試練というのはどう関係あるんですか」
「もう察しがついているのでしょう?」
 ラファエルさんのその言葉で、俺の中で決意が固まる。
「ウリエルはどこですか」

「エレバンの直上か……まさかエデンの園が別次元に存在してたとはな」
 ラファエルさんに教えてもらった座標を飛行艇のナビに打ち込む。するとモニター上に『お気に入り』という文字が表示された。
「ウリエルのお気にの場所、か。さすが姉妹、よくご存知で」
 飛行艇のハッチが閉じる。ゴゴゴゴゴっと機体が震え、強い加速Gを伴って一気に飛翔する。
 待ってろウリエル。今行くからな。


『目的地周辺デス。ナビヲ終了シマス。操縦オ疲レ様デシタ』
 天界を離れて数十分。思いの外早く目的地に着いた。
 ハッチを開けて外を見遣る。そこには頭上にも眼下にもどこまでも青い空が広がり、その丁度真ん中に広大な河を抱いた緑の大地が、盃に盃を伏せて重ねたように山の頂を上下それぞれの空に向けて鎮座している。
 天界と地上との接合点に位置するこの境界異次元空間には、恐らく上下の概念がないのだろう。
 俺は操縦桿を動かし、ウリエルの姿を探す。
 山の頂。
 川の畔。
 森の木の陰。
そして一際高い山の裏手に、空中に浮かぶ中世ヨーロッパの城塞を模したような建物が見えた。そしてその下側――その建物もやはり上下シンメトリーになっていた――の煙突の先に、誰かが膝を抱えちょこんと座っていた。
 目を凝らさなくてもわかる。俺はその人影に向かって柁を切る。
 すると近付いてくる轟音に気付いたのだろう、その人物は目を丸くしてつぶやいた。
「仙石……しゃん?」
 ウリエルは小さい翼を羽ばたかせ、ぴょこんと煙突から飛び降りる。
「待てよ!」
 俺は柁を切り追いかける。
「待ちましぇん! 来ないでくだしゃい!」
「話を聞けって!」
「聞きましぇん! もういいんでしゅ、放っといてくだしゃい!」
「放っとけるわけないだろ!」
「もう優しくしないでくだしゃい! 仙石しゃんは優しいから! だからウリウリは勘違いしたんでしゅ!」
「違うっ! そうじゃない!」
「仙石しゃんはみんなに優しいだけなんでしゅ!」
「だから違うって言ってんだろ!」
「違わないでしゅ!」
「っのバカ野郎!」
 俺はハッチの枠に足を掛け身を乗り出し――
「ウリエルっ!」
「っ!?」
 ――助走もなしにウリエルに向かって飛び出した。
「好きだ!」
「仙石しゃん!?」
 俺の手とウリエルの手が重なる。俺は華奢な手をぐっと引き寄せ、小さな体を胸に掻き抱く。
「好きだ、ウリエル!」
 ウリエルは胸の中で目を丸くする。そしてその整った顔をくしゃくしゃにして、声をあげて泣き出した。
「仙石しゃんのバカ! 落ちてぺったんこになったらどうしゅるんでしゅか!」
「大丈夫だよ。境界異次元に上下の概念はないんだから」
「バカバカ! そうやってわけわかんない事言って!」
「ああ……」
「バカバカバカ! もっと早く名前で呼んでくれたら、好きだって言ってくれたら!」
「そうだな……」
「こんな苦しい思いもしなかったのに!」
「……悪かった……」
 ウリエルを抱く腕に力を込める。するとそれに応えるように、ウリエルも俺の胸元を握り締めた。
「ウリウリは仙石しゃんが好きでしゅ! 女心にうとくても、理屈こねでも、家にいなくても学園にいなくても一緒にごはん食べてくれなくてもデートで気の利いたこと言ってくれなくても名前で呼んでくれなくても好きって言ってくれなくても! それでも仙石しゃんが好きなんでしゅ! 仙石しゃんじゃなきゃイヤなんでしゅ!」
「ありがとう……」
「仙石しゃんはウリウリでいいんでしゅか? ウリウリも仙石しゃんと同じくらいバカでしゅ。天野しゃんみたいに頭良くないし、織姫ちゃんみたいに愛嬌もないし、御雷先輩みたいにお嬢様でもないでしゅよ?」
「お前と一緒だよ。お前じゃなきゃイヤなんだ」
「しぇんごくしゃん……うわああぁぁぁぁん――!」
 それから俺たちは泣き止むまで――いや、泣き止んでからもずっと、お互いを抱きしめあっていた――

「――実はさ」
 やがて俺たちは境界異次元の中心、人々がエデンと呼ぶ場所に降り立ち、安らかな光景を肩を並べて眺めていた。
「今の両親、本当の親じゃないんだ」
「……本当のパパママは?」
「知らない。物心ついた時から今の両親だったんだけどさ、ある日たまたま福祉施設との契約書を見ちゃったんだ。それ以来愛情ってもんがわかんなくなっちまった。両親はずっと、今でも優しい良い人たちなんだけどさ。もしかしたら、そんな人たちもいつか俺を捨てていなくなるんじゃないか。そう思ったら、必要以上に人と付き合うのが怖くなった。だからそれから今まで、誰も好きになれなかったんだ」
「……今でも、そう思いましゅか?」
「いや。お前のおかげで、本当の愛情が何なのかってわかった気がする」
「仙石しゃん――」
 そう。
 きっとこのことに気付くことが、俺の人生を懸けた試練だったんじゃないだろうか。
 本当の愛情。
 そのことに気付かないまま人生を送っていたら、ウリエルが最初に俺に言った通り、俺は死んでいただろう。
 天野や織姫や御雷先輩の気持ちに応えられず、ウリエルをこんなにまで苦しめて。それでも誰も選べずに傷付けて、そのことに俺自身も苦しんで。そんな精神的に死んだ人生を送っていたかもしれない。
 でも俺はそれに気付けた。いや、ウリエルが気付かせてくれた。
多少人より気付くのが遅かったかもしれない。けどそうじゃなかったら、俺はラファエルさんたちの目に留まることなく、ウリエルとも出会わないままで……その場合も、俺はやはり死んでいただろう。
 今まで辛いと思っていた生い立ちも人を好きになれなかった心も、その全てが今、ウリエルと出会うための下地だったとしたら……
 そう思うと、そんな経験も無駄ではなかったように思える。
「行こうか」
 俺は立ち上がり、ウリエルに手を差し出す。ウリエルは恥じらいながらも俺の手を取り、
「はい……でしゅ」
 はにかんで笑った。
「帰ったら、みんなに謝んないとな」
「そうでしゅね――ねえ、仙石しゃん……」
「なんだ?」
「その……お願いがあるでしゅ……」
「なんだよ、言ってみ」
「もう一回……名前、呼んでほしいでしゅ……」
 もじもじしながら目を逸らすウリエル。首まで真っ赤にしちゃって……
 俺はウリエルの頭をやさしく撫でながら、
「好きだよ、ウリエル」
「――――!」
 言った途端に、花が咲くように笑って腕に絡みつくウリエル。単純なやっちゃ。ま、そこもいいんだけど。
「なぁ、ウリエル」
「なんでしゅか?」
「新歓コンパの後夜祭でさ、キャンプファイヤーやるんだ」
「はい」
「そこでさ、一緒に――踊らないか?」
「ウリウリで、いいんでしゅか?」
「言ったろ。お前じゃなきゃイヤなんだ」
「仙石しゃん……」
「帰ろう。俺たちの家に」
「はい――」


「で――何してんの、お前ら?」
 瓜田を伴って家に帰ると、リビングがまるでパーティーでも催そうかというくらいに飾り立てられていた。
「何って、パーティーやん。見てのとおり」
 しれっと言ってのける織姫。
「パーティーってなんだよ、なんでうちで……」
「だってウリやんのお帰りパーティーやん、どこでやるつもりやねん?」
 お帰りパーティー?
 そんなもん、ウリエルを連れて帰ってくるかもわかってなかったのにか?
「仙石さんなら絶対に連れて帰ってくると信じていましたから。ほら、できましてよ。瓜田さん……ではございませんでしたわね。ウリエルさんこちらに」
 ルンルンな先輩に連行されるウリエル。その瞳にはクエスチョンマークがびっしり浮かんでいた。
「さーて仙ちゃん、こっちもオシャレの準備しよか」
 おい、待て。
 なんでそう指をわきわきしながら近付いてくる?
 そしてなんだ、その半笑いの目は……
「だーいじょーぶだーいじょーぶ、痛いことせえへんから」
「おい、天野、なんとかしてくれ!」
「ごめんね、こっちはケーキの準備で手一杯だから」
 なんで天野まで半笑いなんだよ!
「ちょ、マジ待てって! 天野もケーキとかいいから! ちょ、ちょっと、マジで――うわあああぁぁぁん!」

「これ……」
 姿見の前に立つウリウリの胸に、御雷先輩が白いドレスを宛てる。
「お母様がわたくしの大切なときのためにって遺してくださったの。でも残念ですがわたくしにはもう小さくて。大丈夫ですのよ、一度も着てませんから」
 そう言いながら楽しそうに、まるで妹のお世話をするみたいに、ドレスの細部の寸法を合わせて行く。
「ダメでしゅよ、そんな大事なもの」
「よろしいのよ。わたくしよりウリエルさんの方がお似合いですから。さ、直りましてよ。着てみてくださいな」
 服を脱ぐ。
 すると先輩はウリウリの背後に回り、物珍しそうに背中を見詰める。
「あ、それは……」
「これが天使の羽、ですのね。初めて見ましたわ……触ってもよろしいかしら?」
「は……はい、でしゅ」
 先輩はそっと、宝物を扱うようにウリウリの翼を撫でる。そして呟くように、
「綺麗……」
「う……ウリウリのはそんな……綺麗なものじゃないでしゅ」
「どうして?」
「ウリウリのはみんなよりちっちゃくて……それで……よく、いじめられたんでしゅ……」
「――そう、でしたの。ごめんなさい。でも……」
「?」
「とっても綺麗で可愛らしくてよ?」
 先輩……
 ウリウリの頬を熱いものが滴る。
「ウリエルさん……?」
「ごめんなしゃい……ウリウリは、先輩の気持ちを知ってて……」
 先輩はこんなに美人でいい人なのに、ウリウリは、ウリウリは……
 溢れる涙を止めようと必死に目尻を拭う。先輩はそんなウリウリの涙を拭い、優しくウリウリの頭を抱く。
「バカね、そんなこと」
「でも、ウリウリは卑怯でしゅ……先輩はずっと仙石しゃんのことを想ってたのに、ウリウリは横から入って、それで、それで……」
「それは違いますわ」
「え?」
 先輩はそれはとても優しく、ウリウリの髪を撫でながら言った。
「仙石さんがあなたを選んだのですわ。わたくしはわたくしで想いの丈を仙石さんに伝えました。きっとあのふたりもそうしたでしょう。仙石さんはそれを知って、きちんと考えてくださった上で、あなたを選んだのです。決してあなたが奪ったとか横取ったとか、そんなことではありませんわ。それに――」
 先輩はそこで一度言葉を区切り、
「あなたみたいに可愛らしい方、わたくしが男の子でもきっと放っておきませんわ」
 この上なく可愛らしく笑って言った。
 そして跪き、ウリウリの目線に自分の目線を合わせると、
「でも、あなたが仙石さんの恋人として不甲斐無いことをなさったら……わたくしが仙石さんを頂いちゃいますから。覚悟なさい?」
「しえんぱい……」
もう涙を拭うのも忘れ、ただ先輩の胸で嗚咽をあげ続けた。

「なんだよ、この格好。まるで結婚式じゃねえか」
「まあまあ。でも似合ってるよ、仙石君」
 似合ってるったって……こんな白いタキシード、一体どっから持ってきて……
「ほんまになぁ、馬子にも衣装とはよう言うたもんやなぁ」
 お前、それ褒めてないだろ……
「っかしなんでタキシードなんだよ?」
 俺のもっともな疑問に、織姫と天野は向かい合って頷く。
「そら、なぁ?」
「仙石君、奥手だから。既成事実作っちゃえばいいかなって」
 にこやかに笑って言うことじゃないだろ、それ。
「それに……うちらの分もちゃんとウリやんのこと幸せにしたってくれな困るしな」
 織姫……
「わたしたちのためにも……ね」
 天野……
「ありがとう……俺、絶対ウリエルを幸せにするから」
「ってさ。どないする、ウリやん?」
「えっ?」
 二人の振り返る先を見遣ると、そこには御雷先輩と――ウェディングドレス姿のウリエルがいた。ウリエルは顔を真っ赤にしてうつむいている。
 やばい……めちゃめちゃ可愛い……
「ほらほらウリやん、そんな固まっとらんで」
「仙石君も腹が据わったみたいだし」
「お返事してさしあげなさいな」
 なんだろう。三人のノリがオバハン染みてきてるのは気のせいだろうか。いや、今はそれよりも。
 俺はそっとウリエルに歩み寄り、ウェディンググローブの上から小さな手を取る。
「仙石しゃん……?」
「ウリエル……きっと……いや、絶対に幸せにするから」
「――はい……絶対でしゅよ?」
「ああ」

 この日、俺たちは初めて、唇を交わした。


 パーティーが終わり、俺とウリエルは後片付けに追われていた。ちなみにあの三人は、
「これ以上邪魔したら悪いでな」
「そうだね」
「馬に蹴られる前に退散いたしましょう」
 と、やりたい放題言いたい放題で帰って行った。なんつーか、気を遣ってなのか楽しんでっただけなのか。
「仙石しゃん、キッチンは終わりましたよ」
「ありがとう。悪いけど窓のパウダースプレー、拭いちゃってくれるか?」
「了解でしゅ」
 窓ワイパーを片手に窓際へ向かうウリエル。
 なんかいいなぁ、こういうの。ふたり暮らしみたいで。いや、いかんいかん。今は片付けが先だ。
 モールを外しくす玉を外し、どっから調達したのかシャンゼリアを外し、リビングはようやく普段の表情を取り戻した。すると、
「仙石しゃん!」
 窓際からウリエルの呼ぶ声が聞こえた。
「空! 空見てくだしゃい!」
 あれは……
「庭にいこう」
 俺はウリエルの手を取って庭へ向かう。そしてふたりで夜空を見上げる。
「綺麗……」
「六月のうしかい座流星群だ……こんなにたくさん降るなんて」
 04年以来だな、この規模は。
「ねえ、仙石しゃん……ウリウリ、決めました」


「なあ、ウリエル。本当に行くのか?」
 ウリエルは黙って頷く。
「言ったろ? 俺が幸せにするって。ずっとここにいていいんだぞ? 毎日カツ丼と中華だって俺は全然かまわないんだぞ?」
 ウリエルは黙って首を振る。
「ダメ……なのか……?」
「ウリウリが決めたんでしゅ。ウリウリはもっと、仙石しゃんに相応しい女性になるって」
「ウリエル……」
 気が付くと、俺の目尻から涙が溢れ出していた。それはウリエルも同じようで、でもウリエルは嗚咽を漏らすこともなく、涙をこぼしながらも必死で笑顔を浮かべていた。
 だったら……もう俺に言えることは何もない。
「お料理もお洗濯もお裁縫ももっともっと頑張って、もっともっと仙石しゃんのお役に立てるようになってくるでしゅ。カツと中華以外も練習してくるでしゅ。だから――待っていてくだしゃい」
「――待たないよ」
「え?」
「迎えに行くから。エデンの園に」
「仙石しゃん……」
「だから……準備が出来たら、星を降らせてくれ。どこにいてもわかるように、でっかい流星群を」
「はい……絶対に!」
 大粒の涙をこぼしながら、それでも笑顔を絶やさずに、手を繋ぎ、俺たちは二回目のキスをした。
 そしてウリエルは翼を開く。
「ウリウリがいなくても、ちゃんと朝起きるでしゅよ?」
「ああ」
 ウリエルが羽ばたくと――
「寝る前に歯も磨くでしゅよ」
「ああ」
 次第に繋いだ手が離れて行き――
「朝ごはんもちゃんと食べて」
「ああ」
 やがて指が解れ――
「仙石しゃん……」
「ウリエル……」
 ウリエルは笑顔のまま、青い空の彼方へ飛んで行った。

エピローグ

 ウリエルがうちを去ってそろそろ二ヶ月。
 天野、織姫、御雷先輩の三人に三人とも、俺の前では一切ウリエルの話題を挙げることはなかった。俺としてはそこまで気を遣ってくれなくてもいいのだが、まあ、厚意からしてくれてることなんだろうから言わないでおく。
 そして気付くと新歓コンパの開催日も間近となっていた。今、委員たちはその準備に追われていた。しかし俺は……
「仙石君、今日は?」
「ごめん、バイト」
 俺は天野に振り返らずひらひらと手を振る。
 心の中で悪いと思いつつも、どうにもやる気が起きなかった。かといって暇つぶしに始めたバイトも身が入らず、俺はただ淡々と日々を過ごしていた。

「いらしゃいませー」
 客を見ずにただ機械的に、淡々とマニュアル通りの接客。
「ありざしたー」
 いや、マニュアル通りじゃないな。明らかにやる気がない店員だ。俺が客ならこんな店絶対来ない。
「んもーぉ仙石ちゃん、ちゃんとマニュアル通りに愛想よくしてくれなきゃ困るじゃない」
「佐伯店長……」
 やたら甲高いオネェ口調を発しながら近付いてくる。佐伯は器用に中指と薬指を畳みながら、
「仙石ちゃんさぁ、顔が良いんだからそんな無愛想じゃなくて笑って仕事してよぉ」
「いえ、これ、生まれつきなんで」
「そぉんな連れないこと言わないでさぁ」
 本気ウゼえな、こいつ。仕事もそろそろ飽きてきたし、辞め時かもな。
 俺は店長を置き去りに、表のゴミ箱清掃に向かう。
「でも辞めてもやることないしな……」
 俺は誰ともなしにつぶやく。すると、
「仙石君、辞めちゃうの?」
 不意に背後から話しかけられ振り向くと、そこにはバイト仲間の岩狭(いわさ)が立っていた。岩狭は新品のゴミ袋を俺に差し出す。
「ああ、ありがとう」
 ゴミ袋を受け取る。しばらく沈黙してみたのだが、岩狭がここを動く気配はなかった。それでも粘ってみたのだが、根負けしたのは俺の方だった。
「うん。もう飽きたから……」
 岩狭は下唇に人差し指を当て、なにやら思案に暮れている。そして唇に当てていた人差し指をピンっと弾くと、
「そっか。じゃああたしも辞めちゃお」
 けろっと言ってのけた。なんのためにバイトしてたんだ? 俺が言うのもなんだが。
「そういうの、よくないと思うよ」
 俺は足でゴミ箱を戻す。自分でも乱暴だとは思うが、やる気が出ないので仕方ない。
「だって仙石君がいないと張り合いないし。ね、辞めたらふたりでどこか行こうよ。動物園とか」
 動物園、か。
 なんか、ウリエルと行ったのが随分昔みたいに感じるな。
「ごめん、やめとくよ」
「もしかして動物嫌い? お肉食べられないとか?」
 なんでそうなる?
 俺は面倒臭さ全開で深い溜め息を吐く。だがそんな嫌味が通じる岩狭ではなかった。
「じゃあプールに行こ? あたしこの夏どこにも行ってないからウズウズしちゃって。せっかく可愛い水着も買ったのに。ね、そうしよ?」
 可愛い水着か。若干惹かれる気もしないではないが。
「あのさ……」
 もうこの際はっきり言ってやるしかない。
 そう思い振り返ると、岩狭は夜空を見上げてうっとりしていた。なんとまあ自由な奴。
「綺麗……ねえ仙石君、ほら、すごい数の流れ星!」
 流れ星……?
 ああ、今の時期ならペルセウス座流星群か。
 俺も釣られて夜空を見上げる。確かに綺麗だな。
 ――ん?
 この時期のこの時間、ペルセウス座はおおよそ北東の方角に見える。だが流星はペルセウス座とは明らかに真逆の方角から降ってきていた。
「ねえ、これってペルセウス座流星群ってやつだよね?」
 違う。これは……
「え?」
 俺は立ち上がりバイトの制服を脱ぎ捨てる。そして、
「ごめん岩狭。俺、動物園もプールも行けないから!」
 コンビニを後に俺は駆け出す。その足取りは驚く程軽く、さらに頬が緩んでいるのが自分でも分かった。
「ちょぉっとー、二人とも何してるのぉ? って、仙石ちゃんは?」
「動物園もプールも行けないって」
「なぁにぃ、それ?」
「……ねえ?」

 
 俺は走る。
 信号をすっ飛ばし自転車を追い抜いて上り坂さえもものともせずにひたすら走る。
 その間も流星は止むことなく降り続ける。
 自己新記録のタイムで自宅に駆け戻り、その勢いのまま俺は庭に回る。そして庭先に不自然に敷かれたブルーシートを引っペがし、その下に隠した飛行艇のボディを乱暴に蹴りつけハッチを開ける。
 シートに埋もり呼吸を整え、イグニッションキーを回す。
 だがなかなかエンジンがかからない。二ヶ月放置していたのだ。原付でもバッテリーが弱くなっていてもおかしくない。
 なんて理性的な考えができるはずもなく、俺はイグニッションキーを回しては戻し、戻しては回しを繰り返す。
「こいつ……このっ、動け、ポンコツ!」
 大体何で天界製の飛行艇が石油燃料仕様なんだよ。そっちの科学力はもっと高水準なんじゃないのか?
「いい加減……動けよっ!」
 コンソールを思いっきりぶん殴る。すると、どるんどるんと鈍い音を上げてエンジンが始動した。
 俺はエンジンの灯が消えないようにアクセルを調整しながらナビを起動させる。やがてアイドリングが安定し、機体がぶわっと浮き上がる。
 そして流星群に紛れ、俺は夜空を駆け抜ける。


 飛行艇の操縦にも慣れたもので、俺は物音一つ立てずエデンの園の湖畔に降り立つ。園は薄らともやに包まれていた。
 俺は彼女の姿を探し求め、湖を周る。そして薄もやの向こうに、天使服を着てちんまい翼を生やした、アホ毛の女の子を見付けた。
 息を整え呼吸を正し、俺は女の子に声をかける。すると女の子は振り返り、
「仙石しゃん……会いたかったでしゅ……」
 真っ直ぐに俺の胸に飛び込んでくるウリエル。
 俺はその華奢な身体を受け止め、強く強く抱きしめた。
「俺も……会いたかった」
「仙石しゃん、ちょっと痛いでしゅよ……」
 そう言いながらも俺の胸元を強く握り締めるウリエル。
「ごめん、でも、止まらないんだ」
「仙石しゃん……バカでしゅね。ウリウリはもう、どこにも行きましぇんよ」
「……本当に?」
「本当でしゅ。ずっと仙石しゃんの傍にいるでしゅ」
 腕に込めた力を抜くと、ウリエルは顎を上げ目を閉じる。俺はその薄ピンク色の唇に自分の唇を近付け目を閉じる。
 そんな俺たちを祝福するかのように、空から流星が降り続けていた――

星降るエデンでつかまえて

星降るエデンでつかまえて

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  • 長編
  • 青春
  • 恋愛
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-20

Copyrighted
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  1. プロローグ
  2. 第一章
  3. 第二章
  4. 第三章
  5. 第四章
  6. 第五章
  7. 第六章
  8. 第七章
  9. 第八章
  10. エピローグ