マネー・ドール -人生の午後-(第二部)

リフォーム

「ここがね、よくわかんないの」
「これは、この図を書いたら分かり易いですよ」
 俺はさっきからずっと、応接のソファに座って、真純と山内の会話を聞いている。
目の前には新聞が広がってるけど、そんなもん、読んでるわけない。
「なるほどぉ。山内くん、すごい!」

 真純が俺の事務所で働くようになって、二か月が経った。
 来月、真純は簿記検定を受けるらしく、猛勉強中。山内はつきっきりで、真純に教えている。
仕事しろよ! と言いたいけど、残念ながら真純が来てからというもの、ヤロウ共のやる気はガンガン上がり、新規の客もなぜか増えつつある。
 特に山内は、真純とセットでクライアント先を回ってるから、いや、これは不本意なんだけど、いつの間にか真純の教育係は山内になっているから、仕方ない。
俺の仕事に付き合わすわけにはいかないしなぁ……そう、一緒にいるから、そりゃこのコンビは最強で、ああ、全く……真純、コーヒー淹れてくれる? なんて所長室に呼んで、よからぬことをするつもりだったのに!
「あー、もう、難しいよぉ。試験までもう時間ないのに、どうしよう」
「三級は大丈夫だと思いますよ。さあ、もうちょっと、やりましょうか」
「うん、頑張る」
 電卓を一生懸命叩く真純の横顔を、山内がキザに眺めてる。
 あれから真純は髪を短く切って、ちょっと明るめの、ショートボブ。耳には、『両想い記念』に、俺のタイピンとペアで買った、ダイヤのイヤリングが光る。
長い髪もよかったけど、なんか、子供っぽくなって、カワイイ系に路線変更したって感じかな。
着る服も、オフィスカジュアルとか言うのか? 今日はVネックの白いニットに、紺色のちょっと短いフレアスカート。スーツより、女っぽくて、俺は好き。そして、ふん、ヤロウ共も。

 季節は秋に移って、随分涼しくなった。朝晩はちょっと寒いくらいで、あの夜からもうすぐ一年なんだなぁ。また寒くなるのか。真純の嫌いな冬がやってくる。でも、寒くなると、ずっと俺にくっついてくれるし、俺にとっては結構いい季節だったりする。
 俺たちは順調にラブラブ夫婦街道を突っ走ていて、ここのところ、真純も、ずいぶん落ち着いていて、泣いたり、動揺したりすることも少なくなった。
やっぱり、愛の力は偉大だなあ。

「何点?」
「七十八点ですね」
「やった! 合格?」
「はい、よく頑張りました」
あっ! 真純の頭をポンポンした! おい! 触るな!
 後ろからじっとり見る俺に気がついて、真純が俺の隣に座った。慌てて新聞を読むフリをする俺に、解答用紙を広げる。
「所長、見て」
「へえ、すごいじゃん。やっぱ真純は頭いいんだ」
「山内先生のおかげよ」
山内は勝ち誇ったように笑って、真純のスカートから伸びる、白い太ももに視線を落とした。
 ふう……真純、お前さ、男には下心ってもんがあるんだよ。そういうの、全く気にしてないよな……
「コーヒーでも淹れようかな」
「俺のは、部屋に持って来て」
「はーい」
 ヤロウ共、しばらく、俺の部屋は出入り禁止だからな!

「失礼しまーす、所長」
「もう、そんな呼び方」
「だって、会社だもん」
「この部屋はいいの」
真純がコーヒーをテーブルに置いて、ガマンも限界。ぎゅっと抱きしめると、恥ずかしそうに俯く。
「もう、また……」
「約束通り、ブラインドつけたじゃん」
 外から丸見えの窓には、真純の要望で、ホームセンターで買ったブラインドをつけたけど、真純はダサいって気に入らないみたいだ。ブラインドなんか、どうでもいいだろう。
「キスしよ」
「ダメだって……」
 ダメって言われて引き下がるわけもなく、思う存分、真純の唇を味わいました。
「口紅、ついてる」
「とって」
ティッシュで拭うと、確かに真純の口紅の色。こういうの見ると、キスしたんだなって実感する。
「なあ、山内と、イチャイチャしすぎじゃない?」
「勉強、教えてもらってるだけじゃん」
「俺が教えてあげるよ」
「絶対、勉強にならないもん」
あ、ばれてた?
「山内のこと、好きなの?」
 俺の言葉に、真純は涙目で爆笑している。
「そんなわけないじゃん!」
「そんな可笑しい?」
「だって……」
本気で言ったのに……
「山内は真純のこと好きだよ」
「はいはい」
「マジメに言ってるのに」
「怒ってるの?」
ヤキモチ妬いてるの!
「もっかいキス」
 キスしながら、おっぱいを触って、山内がエロい目で見てた太ももの間に手を滑り込ませて……ああ、もう、ダメ。ガマンできない。
「真純……しよっか……」
「もう、ダメに決まってるでしょ!」
「いいじゃん」
 思いっきりイチャイチャしてると、ノックと同時に、藤木が入ってきた。
「失礼……します……」
「おい! 勝手に入んなよ!」
「す、すみません……」
 藤木は真純のちょっと乱れたスカートの裾に、顔を赤らめた。
「で、何?」
「あ、あの、真純さんに、お客様です」
「私に? 誰だろう」
「田山さんという方です」
 た、田山? なんで田山が!
「田山くん? わあ、久しぶり! すぐに行きます」
真純は口紅を塗り直して、浮かれた様子で出て行った。
「ちょっと、俺も行くって」

 二か月ぶりに見た田山は、かなりのイメチェン! サラリーマンというより、新進のデザイナーって感じになっていた。
「ひさしぶりだね! ねえ、なんか、感じ変わったね」
「部長も……じゃなくって、真純さんも、髪、似合ってます。長い髪より、俺は今のスタイルの方が好きだな。真純さんの可愛らしさが、引き立ってますね」
 出た……山内がここにも……そうか、山内のことがどうしても好きになれないのは、言動がコイツに似てるからか……
「やあ、田山くん。久しぶりだね」
 田山は俺の顔を見て、あからさまに不機嫌な顔をした。
「ご無沙汰しております、佐倉さん」
「どうしたの、なんかモデルみたいなカッコして」
「佐倉さんは相変わらず、リッチなスタイルですね。士業って感じがします」
 俺の嫌味を真っ向勝負で受けとめて、明らかな嫌味を投げ返し、田山は名刺を出した。
「先月、こちらに移ったんです。そのご挨拶に」
「そう、それは、わざわざご丁寧に」
「仕事、どう? 慣れた?」
 真純は名刺を見て、ちょっと、上司の顔をした。
「格好はついてきました。デザインも、ちょっとやらせてもらえてるんです」
「そう、よかったね!」
「真純、知ってたの?」
「うん、メッセージくれてたから」
 メッセージ! うう、俺はああいうの、ホントに苦手だ……
「なんだか今の田山くん、私の知ってる田山くんじゃないみたい」
「そうですか?」
「うん、とってもかっこいい!」
 か、か、か、かっこいい! そんなこと、俺の前で堂々と……
「ねえ、そう思わない? スーツより、こういう感じの方が似合ってるよね?」
俺に聞くな!
田山はニヤっと笑って、俺の事務所を見渡した。
「しかし、ずいぶん、……レトロな事務所ですね」
「そうなの。あ、いいことおもいついちゃった! ねえ、田山くんのところでリフォームしてもらおうよ!」
はあ? なんで!
「ね、いいでしょ?」
 真純の上目遣い……カワイイ……
「うーん……まあ、そうだな……」
「オフィスデザインにも力を入れているんです。ご要望の通り、仕上げますよ。ぜひ、お任せください」
「そうだよねえ。慶太、いいよね?」
 確かに、『中村タクシー』を見て、ちょっと考えないと、とは思ってたからなあ。
「まあ、見積もり、出してよ」
「はい、ありがとうございます」
「田山くん、よろしくね!」
「では、後日、改めて打ち合わせに参ります」
「楽しみだね」
「また一緒に仕事ができると思うと、嬉しいです」
 田山は、本心から、そう言ってるようだった。
こいつ、マジでまだ、真純のこと好きなんだなあ。真純はどうなんだろう。田山のこと、どう思ってるんだろう。今はもう、上司と部下って関係じゃないし……
 
 二人の会話を聞きながら、俺はちょっと、田山が羨ましくなった。
 俺の知らない十年間の真純を、田山は知っている。いったい、真純はどんな上司だったんだろう。

「所長、お電話です」
 若干居心地が悪くなっていた俺は、相田の呼び出しに、素直に席を立った。
「じゃあ、田山くん、俺はこれで。がんばりなよ、新しい所でも」
「はい。またお伺いします。よろしくお願いします」
 田山は立ち上がって、『美しいお辞儀』をした。なるほど、真純の教育かな。
 
 俺が席を立った後も、しばらく二人は笑顔で話していて、時々聞こえる笑い声に、俺はかなりの嫉妬心を滾らせて、不機嫌極まりない。
「おい、また間違ってるじゃないか! しっかりしろよ、藤木!」
 珍しく山内が声を荒げている。そうか、山内も機嫌が悪いのか!
 三十分ほどして、やっと田山が立ち上がって、俺の方へ歩いてきた。なんか、ほんとにモデルみたいだな。カッコつけやがって。
「では、佐倉さん、失礼します」
「ああ、見積もり、頼むね」
「はい。よろしくお願いします」
 田山は他の奴らにも軽く挨拶して、真純が、送ってくるね、と腕を組んで出て行くのを、山内が能面のような顔で見送っていた。
「どなたですか」
「あれ? 真純の元部下。独立したんだってよ」
「なんの会社ですか」
「店舗デザイン? かなんか。うちのリフォーム頼めって、真純が。またちょくちょく来るよ、あいつ」
「来るんですか……また」
 山内、一時休戦するか?

 窓の外を見ると、車の前でまだ二人は楽しそうに話していて、田山が真純の髪を触ったり、左手の傷痕を撫でたり。あいつ、堂々と!
「ちょっと、馴れ馴れしくないですか」
「そうなんだよ、あいつ、昔っから馴れ馴れしいんだよ」
 俺達はいつの間にか、窓辺に並んで、二人を見ている。

 何を話してるんだろう……あっ、田山の指が真純の耳に……あのイヤリングを触ってる! 触るな! 俺の真純に触るな!
 真純はくすぐったそうに笑って、田山の新たに加わったオシャレアイテム、顎のヒゲを触りはじめた。チクチクするね、とか言ってるんだろうなぁ。
 隣の山内は今にも爆発しそうで、手がわなわなと震えている。
「おいおい……マジか!」
 山内の声に、窓の外を見ると、田山が真純をハグしてるじゃないか!
 本気か! 本気で奪う気か! 田山、本気かよ!
 田山はちらりと俺たちの方を見て、軽く笑顔で会釈して、車に乗った。くそっ、見てること知ってて……なんて奴だ!

 田山の車に手を振って、真純が手をこすりながら、事務所に帰ってきた。
「あー、寒かった。外、寒いよ」
「真純、ちょっと」
「何?」
 俺は真純の手を引いて、所長室に入った。確かに、真純の手が冷たい。いや、気温とかどうでもよくって。
「来週、社長さんと一緒に来るって」
「そんなこと、どうでもいい」
「よくないもん」
真純はちょっとムッとした。でも、それどころじゃない。
「田山の気持ち、わかってるだろ?」
「もう、前のことだもん。今は仕事のことしか考えられないんだって。今のお仕事ね、すごく楽しいみたい」
真純よ、そんなわけないだろう。下心、見え見えだったじゃないか!
「じゃあなんでさ、その、ハグしたりするんだよ。なんか、髪とか耳とかにもべたべた触って……」
「やだ、見てたの?」
「見えたんだよ!」
「そんなの、昔からだもん。田山くん、帰国子女なの。誰にでもするよ」
昔から! 昔から、田山はああやって、真純にべたべた触ってたのか!
「そんなことよりさ、リフォームのイメージ考えないと。あー、楽しみ!」
そんなこと……ほんとに、真純は……無邪気というか、小悪魔というか……
「キス」
「もう、また?」
「また」
抱きしめた真純からは、なんとなく、田山の匂いがする。
「田山のこと、好きじゃないよね?」
「またそんなこと。ねえ、さっきは山内くんのこと言ってたけど、どうしたの?」
「それは……その、真純が、他の男と、仲良くするから、その……」
ヤキモチ妬いてるんだよ!
「変なの」
真純はクスクス笑って、俺の唇に、チュッてキスをくれた。
「そろそろ帰るね」
ああ、もう四時か。一応、真純の定時は四時ってことになってる。
「うん。今日は早く帰るよ」
「何か食べたいもの、ある?」
「うーん、そうだなぁ。なんか、あったかいもの。シチューとか」
「じゃあ、シチューね。お買い物して帰らないと」
「駅まで送ろうか?」
「いい。ちょっとは運動しないと、太っちゃう。ここに来て、ちょっと太ったのよ。だって、みんなケーキとかしょっちゅうもらって来てくれるでしよ?」
真純、それはね、みんな、お前のために買って来てるんだよ。
 でも、確かに、ちょっとふっくらしたかな? 前が痩せすぎだったのかもしれないけど。
「じゃあ、お先に失礼します、所長」
「また、そんな言い方」
「お疲れさまでした」
「気をつけてね」

 しばらくして、トレンチコートを着た真純が、寒そうに歩いていくのが見えた。
 こうやって遠目で見ても、真純はカワイイなぁ。四十一には見えないよな。どう見ても、三十代前半。山内や田山より、年下に見えるもん。藤木と同じくらいに見える。
あ、今度、マフラー買ってやろう。手袋もいるかな。なんか、コートも欲しいとか言ってたなあ。オソロイで揃えちゃおっかな。
 あーあ、もう見えなくなった。はあ、なんだかつまんないな。俺ももう帰ろうかな……
と、デスクの書類の山を見て、ため息しかでない。真純のためだ、頑張ろうか!

 仕事に集中し始めたころ、携帯が鳴った。
 誰だよ、やっとのって来たのに。
「ご依頼いただいておりました、検査の件で、お電話いたしました」
あっ! すっかり忘れてた。
「結果、出たんですか?」
「はい。どうしましょう。原則では、お越しいただくんですが」
「取りに伺います。今日でもいいですか?」
「準備しておきますので、六時以降にお願いします」
「わかりました」

 そう、俺は、先日の事件の後、杉本に頼んで、DNA検査を依頼した。もちろん、真純との関係で。
真純には話していないから、結果がどうであれ、真純が知ることはない。俺と杉本の、自己満足ってわけだ。
まあ、杉本は間違いないって言うんだから、間違いないんだろう。

 今となっては、どっちでもよくなりつつあるけど、やっぱり、はっきりさせておきたい。
 正直に言うと、真純はまだ、気持ちが揺れている。
俺には見せないようにしているけど、時々、昔の荷物を見ていることを、俺は知っている。
あの荷物……捨ててしまったほうがいいのかな。
このことがはっきりしたら、荷物のこと、ちゃんと話してみよう。

 焦っちゃいけない。今が大事な時だ。真純の気持ち、揺らすようなことは、絶対にしちゃいけない。

 やっと真純が、真純らしくなってきたんだから。


 病院には六時すぎに着いた。医者は淡々と、無機質に、結果の説明をする。
「杉本将吾さんと佐倉真純さんに血縁関係がある可能性は、六%です」
「六……あの、それは……」
「血縁関係は、ありません」
 嘘だろ……絶対、兄妹だって、いったじゃん! 杉本!
「あの、何かの間違いじゃ……」
「ご希望であれば、他の機関をご紹介しますよ」
 ちらりと俺を見て、淡々と言った。
「いえ……わかりました。ありがとうございました……」
 
 検査データを受け取って、打ちひしがれた気分で車に乗った。
 マジかよ……こんなことなら、検査なんてするんじゃなかった……
 杉本になんて言えばいいんだ。もし、もう兄妹じゃないって言ったら、どうなるんだろう。
いや、別に変わらないかもしれない。だって、あの事件で、杉本も真純を忘れるって、宣言したしな。聡子さんを大切にするって。
 もう仕事をする気にもならない。今日はこのまま家に帰ろうか。

 キッチンでは、フワフワしたフリースのワンピースを着た真純がシチューを作っていた。いい匂い……腹減った。
「おかえり。もうちょっとだよ。ビール、飲む?」
「いや、いい。呼び出しあるかもしれないし」
ああ、なんか、夫婦って感じ! 家着のスエットは……あれ? これいつから着てる? ちょっと、臭うな……えーと、新しいスエットは……どこだっけ? ああ、あった、ここだ。もう、ごちゃごちゃしてて、何がどこにあるのやら……
俺の部屋も、森崎さんに掃除してもらいたいけど、一回断ってるし、なんか頼みにくくて、早十六年。

「美味しいね」
「今日はね、ちょっといいお肉使ったんだよ」
「へえ、そうなんだ」
口元に運ぶスプーンに、ちょっと口紅がついてる。ああ、俺はそのスプーンになりたいよ……
「田山くんから、電話あってね」
「え?  田山?  なんで?」
なんか、むかつく。なんだよ田山。
「もう、リフォームのことだよ」
「ああ、そうか」
「田山くんがデザインしたいっていうんだけど、いい?」
「うん、いいよ」
っていうか、どうでもいい。
「全部デザインするのは初めてなんだって。だからね、料金も安くしますって」
「ふうん」
俺の気のない返事に、真純はおもしろくなさそうにテレビをつけた。
「なんか、あった?」
「別に」
あったと言えば、あったけど……これは完全に、墓穴を掘るってやつだよな……
「ご機嫌ななめね」
「そんなことないよ」
「だって、事務所でも変なことばっかり言うし」
「変なこと?」
「山内くんのこととか」
なんだよ。せっかく早く帰ったのに、山内とか田山とか、うんざりだよ!
「お前がイチャイチャするからだろ!」
あ、しまった……つい……
「ごちそうさま」
 真純は早々に食べ終わって、席を立って、ソファに行ってしまった。どうやら、機嫌を損ねてしまったようだ。
「真純、ごめん」
返事がない。マジで、怒ってるじゃん。背中を向けて、ソファの上で三角座りをしてる。
「ごめん、大きな声出して……」
「しらない」
「ごめん。ほんとに、反省してる」
「慶太なんて、嫌い」
そんな……せっかく早く帰ってきたのに……俺が悪い。百%、悪い。
「そんなこと、言うなよ……」
 慌てて、真純の背中を抱きしめると、クスクス笑い出した。
「なんだよ……」
「ビックリした?」
芝居かよ……
「うん。ほんとに怒ったのかと思った」
「ねえ、もしかして、ヤキモチやいてるの?」
「そ、そうだよ……」
「そっか。ごめんね」
「だって、山内と楽しそうだから……田山のことも、かっこいいとか……言うしさ……」
 もじもじする俺を、真純は、ちょっとびっくりした目で見ている。
「ヤキモチとか、やいてくれるなんて思ってなかった」
「真純のこと、ひとりじめしたいんだよ」
 でも、真純は、気まずそうに、言葉を続けた。
「山内くんね、妹さんをなくしてるんだって」
「え? そうなんだ、知らなかった」
「私といるとね、その妹さんといるみたいに思えるって。私、年上なのにね、変なの」
そうか……そういうことなんだ。てっきり、エロ心しかないと思ってたけど。
「私もね、山内くん、年下だけど、お兄さんみたいなの。しっかりしてるし、頭もいいし。つい甘えちゃうの」
甘えちゃう……俺にだけ甘えてほしいのに……
「まあ、ほどほどにしてくれよ。じゃないと、俺、ガマンできなくなっちゃう」
 真純はキャハハと笑って、振り返って、キスをした。お互いに、さっき食べたシチューの味がする。
「慶太しか、好きじゃないもん」
「うん、俺も真純しか好きじゃない」
「リフォームのこと、一緒に考えて」
「正直に言うとさ、わかんないんだよ、インテリアは。わかるだろ? 俺のセンスのなさ……」
「まあ、そうね……」
「真純に任せるから」
「一緒に考えたいの。前に言ったでしょ? 二人で話し合って決めたことないって」
「ああ、そうだったね」
「だからね、今回は、慶太と一緒にしたいの。慶太のがんばって大きくした会社だから、ね?」
真純……そんなに、一生懸命、考えてくれてるんだ……
「わかった。二人で考えよう」
 真純は、嬉しそうに笑った。屈託なく、その時の真純は、本当に、嬉しそうだった。

 そして俺は、猛烈に後悔していた。
勝手に真純のサンプルを出して、勝手に検査したこと。ちゃんと、話し合うべきだったのに……
「片付け、しちゃうね」
「森崎さんさ、毎日来てもらおうよ」
「なんで?」
「そしたら、毎日おいとけるじゃん、食器とかさ」
「そういうわけには、いかないよ」
「真純も大変だろ? 仕事から帰って、ご飯つくってさ」
「普通だよ、それが。私なんて、恵まれてるほう」
そうなんだ……世の中の女性は、大変なんだなぁ。そういや昔、森崎さんが来るってなったとき、ケンカしたなあ。
「手伝うよ」
「ほんと? ありがとう。じゃ、テーブルの上、片付けて、これで拭いて」
こんなことでいいなら、俺にもできるな。
「ねえ、これ、どこに片付けるの?」
「それは、そこの戸棚だけど、どこでもいいよ。わかれば」
これで、子供なんていたら、みんなでこういうことするのかな。なんか、家族って感じじゃん!

「ふう、終わった」
「じゃあ、風呂入ろう」
「一緒に?」
「当たり前じゃん。もうさ、今日一日、俺がどんなにガマンしてたか……」
「もう、エッチなことばっか考えてるんだね!」
「そうだよ。夫婦だからいいじゃん。先入ってるから、早くね」
 
 俺達の最近のお気に入りは、バスタブでの映画鑑賞。今夜は真純の好きなプリティウーマンをチョイス。もう何回目?
「シャンパンとイチゴ、食べてみたいなあ」
「今度買って来るよ。でも今はハウスものしかないから、あんまりだよ、イチゴは」
「もう、そういうことじゃないの!」
どういうことなんだよ。全然わかんねえ。
「このオーナーが優しいよね」
真純は何度見ても、同じ箇所で泣いている。
俺からすると、ジュリアロバーツのエロい体しか目に入らないんだけど。

壁をよじ登ったリチャードギアとジュリアロバーツのキスシーンを見て、俺も真純とキスシーンをして、ああ、のぼせた。やっぱり映画フルで見るのは長い。
「もうあがろうよ」

 ここんとこ、ずっと遅くなってたから、久しぶりの真純とのベッド。
ああ、やっぱり真純の体は最高! あれ? ちょっとまた、オッパイにボリュームが……太ったからか? いい感じ!
「オッパイ、おっきくなった?」
「そう? 太っただけだよ」
 思う存分愛し合って、いつもみたいに、すぐ寝ちゃうかなって思ったけど、今夜の真純は、何か言いたそう。
 なんか、心配ごとかな? ああ、リフォームのことか。
「リフォームのこと、俺も考えるからね」
「うん……」
違うのかな? なんだろう。他に心当たりは……簿記試験か。
「一生懸命勉強してるんだし、大丈夫だよ」
「何が?」
「簿記試験、心配なんだろ?」
あれ? どうもこれも違ったみたいだ。
うーん、俺って、どうして真純の気持ちがわかんないんだろう。
「心配ごとなら、なんでも話してよ」
 そう言うと、真純はうん、って頷いた。ああ、そうか、こうやって素直に聞けばいいんだ。別に、ずばっと当てる必要、ないんだ。
「……心配ごとってわけじゃないの」
真純はそう言って、枕元のスマホをとった。
「みりちゃんから、メールがきたの。無事、赤ちゃん生まれたみたい」
「へえ! そうなんだ。よかったねえ」
画面には、おばさんになったみりちゃんと、子供たちと、ダンナさんと、小さな赤ちゃんが写っている。
「みりちゃん、同い年なの」
あ……もしかして……
 俺は、スマホを枕元に置いて、真純を抱き寄せた。
「俺たちも、考えよっか」
俺の言葉に、真純はほっとしたみたいに笑った。
「赤ちゃん、生んでもいいかな……」
「いいにきまってんじゃん」

 妊娠。出産。育児。
結婚したら、当たり前のことだと思ってた。
大人になったら、結婚して、子供ができて、親父になって、その子に子供ができて、じいちゃんになる。
 当たり前じゃなかった。こんなに当たり前だと思ってたことが、こんなに難しいことだって、思わなかった。

「赤ちゃん、欲しいの」
「俺も欲しいな」
「あんまり時間ないよって、みりちゃんに言われちゃった」
そうだよな……若く見えても、真純も、四十一。『機能的』に、制限は、あるよな……
「でも、焦ってもね。こういうことは、授かりものだからさ」
「そうだね。赤ちゃんが来たいって、思ってくれるように、仲良くしなくちゃ」
真純は、にっこり笑った。
「私達も、リフォーム、ね」
リフォームか……夫婦としての、リフォーム。
「明日から、ますます、がんばっちゃお」
クスクス笑う真純の唇にキスをすると、俺の胸に丸まって、安心した子供みたいに、目を閉じた。
「おやすみ」

 子供かあ。ついに俺も、パパか!
十六年前に買ったあのベビーシューズ。
懐かしいな……あの時は本気で……つらかった。でも、もう過去のことだ。リフォーム。何もかも新しくすればいい。
 そのためには、もっとしっかり稼がないとな! それが、男ってもんだ。

 妊活を開始して一週間。まあ、妊活っていっても、アレを取っただけで、別に何もかわらないんだけど。
 でも、俺にはあのことが、ずっと引っかかってる。あの、検査のこと……
 それはまだ、車のダッシュボードに入ったまま。もう捨ててしまおうか。杉本には、うまく検査できなかったとかごまかして……いや、ダメだ。俺の悪い癖だな。面倒なことから、すぐ逃げちまう。ちゃんと、話そう。

「こんにちは、サクラコンサルタントオフィスですけど……」
 中村タクシーに行くと、聡子さんじゃなくて、知らない事務員さんが出てきた。
「タクシーチケット、十万円分、お願いします。それと、杉本さん、いらっしゃいますか?」
 受付でよそよそしく喋る俺の声を聞いて、中村が奥から出てきてくれた。

「いつもありがとう。助かってるよ」
 例の昭和な応接室。中村、俺の事務所はもうすぐ、オシャレになるぜ。
「聡子さん、休みなの?」
「さとちゃん? ああ、実はな……四人目」
「四人目? あ……妊娠ってこと?」
「そういうこと」
なんだよ。杉本め、やるなぁ。
「つわりが酷いらしくて、休みがちでさ。まあ、高齢出産だからなあ」
「聡子さんって、何歳?」
「えーと、一つ下だから、四十?」
「四十でも、生めるんだよなあ」
「そりゃお前、妊娠できれば、生めるだろうよ」
「真純も大丈夫だよな?」
「お、なに、子供、考えてるの?」
「仕事辞めたし、そろそろいいかなって思って」
「まだいけると思うけど、四十超えての初産はきついぞ。さとちゃんは四人目だからさ」
「なんか、違うの?」
「違うらしいよ。それにさあ、考えてみろよ。四十一で生んだ子がハタチになるころには六十一だぜ? お前んとこは金あるからいいけどさ、俺なんてとても無理だ。子供って、すっげー金かかるんだよ」
ふうん……そうなんだ……悪いけど、金の心配は、あんまりないんだよな。それより、真純の体だなぁ。
中村の愚痴をうわの空で聞いていると、杉本が入ってきた。
「じゃ、ちょっと無線してくるわ」
 相変わらず、空気が読める中村。いいやつだ、ほんとに。

「久しぶりだな」
電話で何度か話したけど、会うのはあの事件ぶりだ。
「聡子さん、オメデタらしいじゃん。おめでとう」
「予定はなかったんやけどな」
杉本は照れくさそうに笑った。
「真純、元気か」
「ああ。キズも治って、元気にしてるよ」
「そうか、ならよかった」
「検査の結果、出たんだよ」
「ああ……」
封筒を渡すと、杉本は中の書類を見て、ため息をついた。
「他人ってことか」
「そういうことだな」
「真純は? このこと、知っとるんか」
「いや、検査のこと自体、話してない」
「なら、なんもなかったことにしよう」
「杉本……」
「兄妹かもしれん、でええんや」
杉本は、その運命が小さな文字でかかれた、薄い紙切れに火をつけた。
「あ……」
紙切れは炎をあげて、灰皿の上で、燃えてなくなった。
「聡子がな、気にしてるんや。真純が、傷ついたままやないかって。連絡してもらえんかな」
「真純も、聡子さんにちゃんと会って謝りたいって、ずっと言ってるよ」
「そうか……」
「妊娠したって聞いたら、きっと喜ぶよ」
 だけど、杉本は俯いたまま、定まらない視線で、俺を見た。
「なあ、佐倉。あの日な……真純とは、その、途中というか……」
「真純から聞いたよ」
「子供から、電話がかかってこなんだら、どうなってたかわからん……」
「過ぎたことだから……もう、正直、忘れたいんだ」
「そうか……すまん」
 杉本は、自分の心の整理がついていないようだった。真純への気持ちではなく、聡子さんや子供たちを裏切った自分が許せないんだろう。
「じゃ、そろそろ行くわ。悪かったな、仕事中に」
「ああ、またな」

 事務所では相変わらず、山内と真純がくっついて、勉強会をしている。
ほんとに、妹感情だけか? どうも、エロ心が見えるんだけどなあ。
でも、そのピンクの唇とか、ふわふわのオッパイとか、細い太ももとかに触れるのは世界で俺だけだからな。お前らは妄想でもしとけ。
「うん、なかなか、いい感じですね。多分、大丈夫ですよ」
「ほんと? 受かったらなんかお礼しなきゃ。何か、欲しいものある?」
「そうですね、じゃあ……」
山内は真純の耳元で何か言ってる。いちいち、キザなんだよ!
「えっ? もう、やだ、山内くん!」
な、何? 何て言ったんだ?
山内と真純は二人でクスクス笑って、俺は不機嫌極まりない。
「おい、相田、コーヒー!」
「あっ、はい!」
「さっさとやれ、バカ!」
「す、すみません!」
相田、お前は全く悪くないんだけどな……
「もう、またバカなんて言ってる。ダメだよ、そんなこと言ったら」
「うるさい! ここは俺の会社だ!」
「うるさいって何? 大声でうるさいのは所長でしょ」
「な、なんだよ!」
真純はむくれて、立ち上がった。
「相田くん、コーヒー、私が淹れるよ」
「あー、もういらない!」
「はあ? もう、バッカみたい。なんなの?」
久しぶりに出た! 真純の、バッカみたい。これを言う時は、ほんとに怒ってる時だ。
ぷんぷんしてる真純を、山内が優しくなだめる。
「まあまあ、真純さん、所長はここのところ忙しくて、お疲れなんですよ」
「そうなの? そんな風には全然見えないけど!」
真純はそう言い放って、コーヒーを淹れに行った。
「夫婦喧嘩は家でお願いしますよ」
山内は呆れ顔で、デスクに戻り、キーボードを叩き始めた。
ちっ! おもしろくねえ!
「俺のコーヒーは部屋に持って来て!」
「飲むんじゃない、結局! なんなのよ、もう!」
台所から真純の声が聞こえた。
 くそっ! 山内と藤木がクスクス笑ってる。お前ら、減給!

 デスクに座ってみても、仕事をする気にはならない。検査のことばかり気になって、うわの空だ。本当に、真純に言わなくていいんだろうか。いや、言うべきじゃないんだろうか。でも、あの紙切れは燃えてしまったし、杉本が言わない限り、あれは俺たちの記憶の中にしかない。
「失礼します」
仏頂面の真純がコーヒーを持ってきて、テーブルに、ガチャンと置いた。
「どうぞ」
「真純……あの……」
「何?」
「さっきは、その、ごめん」
「謝るのは私じゃなくて、相田くんでしょ?」
「ああ、そうか……」
「何か失敗したのならともかく、意味もなくあんなこと言うなんて」
 真純は、立派な上司だったんだろうな。努力したんだろうなぁ。だって、下の奴らは、甘い顔すればすぐつけあがるし、厳しくすれば拗ねちまうし、何人辞めたか……あんなに、部下に慕われて、なのに、あんな形で辞めさせられて……真純の、あの悔し泣きを思い出すと、やりきれないな。
「後で、謝っとく」
「みんなね、慶太のこと尊敬してるって」
「そんなわけないだろ」
「どうしてそう思うの?」
「俺が部下なら、俺みたいな上司は嫌いだから」
「じゃあ、好きになるような上司になればいいじゃん」
え……そんな風に、考えたことなかったな……
「企画の仕事はね、頭の中がお花畑じゃないとできないのよ。とんでもないこと考えてね、私も新人のころはよく笑われたわ。そんなことできるわけないって。でも、できるわけないことをするのが企画なのよ。できるはずのことをしてても、意味がない。それをいかに実現化するか、それがね、企画。私自信もね、そうやって、自分をつくってきたの」
 そうか。そうやって、自分もプロモーションしてきたんだ。都会の、いい女になるために、理想を追いかけて、一つ一つ、自分をつくりあげて、変えてきた。
「でもね……なんだか、いつの間にか、疲れちゃってた」
「充実してたんじゃないの?」
「確かにね、充実はしてた。仕事もうまくいって、部下の子も慕ってくれて、でも、なんか違うなって、思うようになってた。慶太と結婚して、セレブ生活を送れるようになって、自分のなりたかった自分になれたはずだった」
 真純はちょっと寂しげに、小さなため息をついた。
「……今の生活、不満?」
 そう言った俺に、ふと顔を上げて、にっこりと笑った。
「そんなわけないじゃん。とっても幸せよ」
 だけど、それは、きっと、本心じゃない。真純は、別の人生を、探している。俺とじゃなくて……
「ああ、そうだ。聡子さん、妊娠したんだって」
「そうなんだ! 私達も、がんばらないとね」
 
 俺は、真純の顔を、もう見れなかった。ブラインドの向こうに見える景色を、ぼんやりと見る視線の先には、きっと……いるんだよな……あいつが……
さっき会った杉本だってそうだ。
この二人はまだ……お互いを探し続けている。

「明日から、打ち合わせに入るよ」
「打ち合わせ? ああ、リフォームか。何時から?」
「えーと、明日は十四時から。予定、いい?」
「明日は特に何もなかったから、大丈夫だよ」

 また焦ってしまった。大丈夫。俺達は夫婦なんだから。
こうやって、同じ時間を過ごして、同じことを考えて、同じことをしていれば、いつかきっと、真純は俺だけを見てくれるようになる。
真純だって、努力してるんだ。見守って、受けとめてやらないと。

「じゃ、伝票処理して、帰るね」
真純はすっかり、簡単な伝票処理はできるようになってて、さすがだと思う。仕事、できるんだな、ホントに。
さて、俺も仕事するか。早く帰って……妊活妊活。


 翌日から、リフォームの打ち合わせが始まった。
田山は何枚かのデザインを持ってきて、俺達の前に広げる。
はっきり言って、俺の感性では、とてもついていけない。隣で真純が一生懸命俺に何か言ってるけど、ごめん、まったくわからん!
「コンサルタント事務所ですから、誠実で、清潔感のある、ハイクラスなイメージがいいと思うんです」
……どんなイメージだよ。
「そうねえ。でも、それじゃあ、ありきたりじゃない? 普通の改装工事で間に合うわね。せっかくデザインするんだから、もっと斬新で、イメージを打ち破るようなプランにしたいわ」
厳しいダメ出し……でも、真純も自信があるから、言えるんだ。そして、田山がそれに応えられるから。
「なるほど。なら……これは、うちの事務所で以前デザインした、美容院なんですが、どうでしょう。『リビング』をイメージしてるんです。ゆったりとした空間で、落ち着いて施術を行えるように」
「うん、いいわね。どうしてもこういう事務所はギスギスした感じになりやすいけど、本当はもっと、じっくりクライエントと話ができないといけないと思うのよ。お互い、腰を落ち着けて話し合えるような空間が理想なんだけど、ねえ、どう、慶太?」
お、俺にふるな!
「そ、そうだね。うちは政治家先生もいらっしゃるから、仕事の話だけじゃなくて、世間話をすることも多いから……落ち着いていただけるような空間が、いいかな……」
自信ない……恥ずかしいこと、言ってないよな……
「わかりました。イメージに合致するプランを、もう一度あげて参ります」
田山は手帳に、細かい文字で、真剣にメモを取っている。
「いや、あの、あくまでさっきのはイメージというか……」
「クライエントのイメージ通りに仕上げるのが、私の仕事ですから。お任せください」
自信満々の顔で、俺をじっと見る田山。へえ、こいつ、ほんとに仕事できるんだ。
「では、今日はこれで。軽く実測して帰りたいんですけど、よろしいですか?」
「ああ、いいよ。誰か手伝わそうか?」
「いえ、大丈夫です。では、プランニングができましたら、また連絡させていただきます」
 俺が席を立った後も、真純は田山に、上司の顔で、何か言っている。時折聞こえる単語を拾うと、個性がない、とか、デザイン性が足りないとか。
厳しい顔に、厳しい口調。でも、なんだか、俺の知らない真純を見た気がする。ビジネスマンの真純。企画マンとして、華々しく働いていた、キャリアウーマンの真純。

「相変わらず田山くんて、マジメなのよね。デザイナーなんだから、もうちょっと柔軟な発想が必要よねえ」
 デスクでぶつぶつ言う真純を見て、ふと思った。
 真純は、今、こうやって俺の事務所で、会計の仕事をしていることをどう思っているんだろう。つまらなく、ないんだろうか。はっきり言って、こんな仕事、地味で、面白くないだろう。
「まあまあ。真純はもう、彼の上司じゃないんだから」
「あっ、そうだった。私ったらつい……」
「仕事、戻りたいんじゃないの?」
「前の仕事? まさか。もう売上や部下の責任に追われるような仕事はうんざりよ」
そう笑ったけど……でも、さっきの真純、なんだか、イキイキしてたよ。

 もしかして俺、お前の自由、奪ってる?

家族の時間

 駅前では、新しいスポーツジムのクーポン券を配っていた。
 ホットヨガのスタジオがあるんだ……興味はあるんだけど、私、体かたいし……でも、一回行ってみよっかな。ほんとに、太ってきたし、これ以上はヤバイかもしんない。
 時計を見ると、まだ五時前。今日は慶太も遅いみたいだし、思った時に行ってみないと、もう、絶対行かないよね。
 何がいるんだろう。えーと、Tシャツと、スエットでいいのかな? ヨガウエアとかないし。配ってる人に聞いてみよう。
「あの、すみません……」
振り向いたのは、若いお兄さん。二十代前半かな? スポーツマンって感じ。
「行ってみたいんですけど、ウエアはどんなものを……」
「ありがとうございます! 普通のTシャツにパンツで大丈夫ですよ。汗をすごくかくので、吸収しやすいものがいいです。あと、タオルと、お水です。スタジオでレンタルもしてますので、手ぶらできていただいても大丈夫です」
 へえ、レンタルとかあるんだ。でも、他の人が着たウエアを着るのはちょっとね。
「体、かたいんですけど、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。初心者用のプログラムは、誰でもこなせるようになってますから」
お兄さんの笑顔、すごく爽やか。おばさんは、この笑顔に惹かれて入会しちゃうのね!
「そうなんだ。じゃあ、頑張ってみます」
「お待ちしております!」
 こういうことができるのも、時間とお金に余裕があるからよね。慶太に感謝しなきゃ。

 あれ? 森崎さんがまだいるみたい。随分遅いのね、今日は。
 それに……玄関には、小さな靴が一足。
「ただいまー。誰か来てるの?」
「ああ、奥様! よかった、どうしようかと思ってたんです。お電話したんですけど……」
あっ、またマナーモードのまま……忘れてた。
「ごめんなさい。気がつかなかったわ。どうしたの?」
「それが……」
 リビングには、えっ? なんで? えーと、お姉ちゃんのほうだから、凛ちゃん。
「四時前くらいに来られて、ずっと待ってらしたんです……」
「そう……」
「お知り合いのお嬢さんですか?」
「え、ええ、友達のお嬢さんよ。お世話かけたわね、ありがとう。延長、つけといてくださいね

「凛ちゃん、よね?」
「はい……」
「どうしたの? おばさん、びっくりしちゃったわ」
テーブルに出された紅茶とクッキーは手付かずで、凛ちゃんは俯いて今にも泣き出しそう。
「一人で来たの?」
足元にはピンク色のランドセル。最近は、赤じゃないのね。
「ママは、知ってらっしゃるの?」
 凛ちゃんは、黙ったまま、横に首を振った。
「きっと、心配なさってるわ。おばさんが連絡しましょうね」
「……ママ、いなくなったの……」
「えっ? いなくなった?」
「パパとママ、すごくケンカして……ママ、そのまま、いなくなって……もう、三日、連絡もないの……」
 彼女はそう言って、泣き出してしまった。
「たいへん……パパは? どうしてるの?」
「……パパなんて、もう、知らない」
「凛ちゃん……」
「お兄ちゃんと私で、一生懸命探してるのに、パパは知らん顔なの! そのうち帰ってくるって、知らん顔して!」
そんな……将吾、あなたらしくないわ……
「おばさんから、パパにママをちゃんと探すように言ってほしいの」
凛ちゃんは、真っ赤なほっぺたを涙で濡らして、私に訴えた。

 その顔は聡子さんに似ていて、でも、私にはまったく似ていない。

「わかったわ。おばさんから、話してみる。だから、もう泣かないで。お紅茶より、ジュースがいいかしら?」
「うん」
 涙を拭ったほっぺたは、柔らかくて、すべすべで……かわいい顔。きれいな顔。
九歳の私は……どんな顔だったかな。もう、忘れちゃった。

「あっ、トトロだ」
 プレイヤーの横のDVDを見て、凛ちゃんはやっと笑ってくれた。
「私も、トトロ好きよ。一緒に見ましょうか」
 凛ちゃんがトトロに夢中になったところで、私は部屋へ。慶太に相談してみよう。どうしたらいいのか、私にはわかんない。それに……私に、あの二人の間に入ることはできない。

「ちょっと、たいへんなの」
「どうしたの! 何!」
もう、声が大きい……電話が壊れそう。
「あのね、凛ちゃんが来てるの」
「凛ちゃん? 誰?」
「将吾の、上のお姉ちゃんよ」
「ああ、あの子か! え? うちにいるの?」
「そうなの。私がいない間に来たらしくて……」
「なんで?」
「それがね……聡子さん、家出したみたいで……」
「ええ! 家出!」
「うん……もう三日、連絡もないんだって。なのにね、将吾が探そうとしないって、凛ちゃんが泣いてるの……私から探すように言って欲しいって、言いに来たのよ」
「マジかよ……」
「ねえ、聡子さん、お腹に赤ちゃんいるのよね……大丈夫かな……」
「そうだな。中村に聞いてみるよ、何か知ってるかもしれない」
「うん……私からは、ちょっと……言いにくいから……」
「また、連絡する。とりあえず、凛ちゃんはうちにいさせてあげて」

 リビングに戻ると、凛ちゃんがティッシュにクッキーを包んでいた。
「このクッキー、持って帰っていい?」
「いいわよ。どうして?」
「碧に持って帰ってあげるの」
「まあ、優しいのね。それなら、まだあるから、碧ちゃんの分はそれを持って帰ればいいわ」
「うん」
「今、おじさんに連絡してもらってるからね」
「慶太おじさん?」
「そうよ」
「ママね、おじさんのこと、いっつもイケメンだって言ってるよ」
「まあ、そうなの?」
「タイプなんだって」
凛ちゃんは、クスクス笑った。
「パパと全然ちがうよね」
「そうねえ」
 さすが、女の子ね。こんなことも話せるようになるんだ。
「ねえ、どうやってここまで来たの?」
「暑中見舞いの住所見て、電車で来たの」
「住所だけで? スゴイね」
「ネットで調べたらすぐわかったよ」
ああ、ネット……なるほど。
「学校にパソコンがあるから、それで調べたの」
「へえ、学校にパソコンがあるんだ!」
「うん。授業もあるよ」
「授業? パソコンの時間?」
「知らないの?」
「初めて知った」
そうなんだ。そりゃそうよね。パソコン使えないと、仕事にもありつけないもん。
 凛ちゃんは最近の学校事情をいろいろ教えてくれて、私はもうビックリすることばかりで、ジェネレーションギャップ。ついていけるかしら。
「あ、おじさんから電話だ。ちょっと待っててね……もしもし? どうだった?」
「……今から、杉本が迎えに来るから」
「将吾が?」
「聡子さん、中村の家にいるらしいんだよ」
「ああ、そうなの……元気なの?」
「まあ、元気は元気らしい。でも……」
「何?」
「流産したんだって。そのことで、杉本とケンカになったらしい」
「そんな……たいへんじゃない。いたわってあげないと」
「夫婦のことだからな……とにかく、杉本が来たら、えーと、凛ちゃん、よろしくな」
 流産……そんな悲しいことがあったなんて……でも、どうしてこんなことに……

「もう少ししたら、パパが迎えにいらっしゃるから」
「パパ、ここに来るの? ねえ、ちゃんとパパに話してくれるでしょ?」
「そうね、話してみる」
 不安な顔。不安な目。
 そうだよね……母親が三日も家を空けたら、不安だよね……私はそんなこと、日常だったけど……

「ご飯とか、どうしてるの? ママがいないと、たいへんでしょ?」
「パパが作ってくれたり、お弁当買ったりしてるよ」
「パパ、夜勤とかあるんじゃないの? その時はどうしてるの?」
「三人でいるの」
「子供だけで?」
「うん。お兄ちゃんがいるから、大丈夫だよ」
「でも、やっぱり子供だけでいるなんて、危険よ」
「だって、ママがいないから……」
 子供だけで夜を過ごすなんて、寂しいに決まってるじゃない! 将吾、あなたもそれ、わかってるでしょ? 聡子さんも、いくらケンカしたからって、子供をほったらかしにするなんて……
 無性にイライラしてきた。将吾が来たら一言いってやらないと、気が済まない! 

 将吾が来るまで、私と凛ちゃんは、いろんな話をした。
学校の話、流行の話、お友達の話、家族の話。
楽しそうに、凛ちゃんは、私に話してくれた。私にはなかった子供時代の思い出を、なんだかもらった気がする。
 子供って、こんなに可愛いんだ。私も……やっぱり、赤ちゃん、欲しいな。

「インターホン、鳴ったね。パパが来たのかな?」

 あれから、初めて会う将吾は、少しやつれたように見える。
「凛が、世話かけたみたいで」
「それはいいんだけど……ちょっと、入って」
 でも、将吾は凛ちゃんを見て、声を荒げた。
「凛! ダメやろ! 勝手にこんなことして! さ、帰るぞ!」
将吾の大きな手が、力任せに凜ちゃんの細い腕を引っ張った。
「やだ! パパなんか嫌い!」
「凛!」
「パパが悪いんだもん! パパがママを叩いたから、ママいなくなったんでしょ!」
え? 叩いた?
「子供の言うことやない! 早よ立て!」
「イヤって言ってるもん! ママが帰ってくるまでここにいるもん!」
「ええ加減にせんか!」
 大声で怒鳴る将吾の声に、私は息をのんだ。そして……
『バチッ』
 鈍い音が、リビングに響いた。

 嘘……嘘よね……私、夢を見てるのよね……悪い夢を……これはきっと、私の子供時代の夢よね……

「泣くな!」
 でも、はっきりと聞こえた。怒鳴る将吾の声。
 そこに蹲っているのは、私じゃなくて……

「泣くなゆうとるやろ!」
「ごめんなさい……パパ……ごめんなさい……」

 もう一度、将吾の手が、凛ちゃんに向かった時、私は無意識に、その手を止めていた。
「やめて」
「お前には関係ない! 離せ!」
 将吾は私の手を振りほどいて、凜ちゃんの首元を掴んだ。
「子供相手になんてことするの!」
 私は必死に、将吾を突き放した。渾身の力で、将吾の大きな体から、凛ちゃんを守った。
「殴らないで!」
 母親の殴るあの手の感触が、私の頬に蘇る。ずきずきと、頬が痛む。
 そんなはずないのに、まるで、今、殴られたみたいに……痛い……痛いよ……

「凛ちゃんはあずかるわ。もう帰って」
「真純……」
「平気で手を上げるような親のところには返せない!」
「こ、これは、うちの問題や」
「違うわ! 凛ちゃんは悪くないでしょ! なのに、なぜ殴るの! 親の勝手でしょ! そんな親は絶対に許さない!」
「うるさい、どけ!」
「どかないわ! 将吾、どうして? あなたも辛かったでしょ? 子供のころ、辛かったでしょ!」
 大声でやり合う私達の横で、凛ちゃんが泣いている。
 いけない……傷つけてしまう……
「凛ちゃん、大丈夫? ちょっと、おばさんの部屋にいましょうか。パパとお話しするわ」
 腫れた頬に冷たいタオルを当ててあげると、凛ちゃんは、ありがとう、って小さな声で言った。
「凛が悪いの……」
「悪くないのよ。凛ちゃんは全然悪くないの。悪いのは、パパよ」

 凛ちゃんを部屋に残し、リビングでは、呆然と、将吾が立ちすくんでいた。
「座って」
「真純、これは……」
「座って」
 信じられない……あんなに、私達は、身勝手な親に苦しめられたのに……いいパパだって、思ってたのに……
「ああやって、いつも?」
将吾は、つらそうに、頷いた。
「つい、手が出てしまう……」
「どうして……」
「かわいいんや、子供は……聡子も……大事やのに……こうなった時に、自分を抑えられん……」
 将吾は、自分の右手を左手で抑える。微かに震えている右手に、涙が落ちていく。
「聡子さんと、何があったの? まさか……私のことで……?」
「いや……そうやない。聡子、妊娠しとったんや。ずっと体調が悪くて……でも、ちょうど夜勤のヤツが辞めてもうて、俺もシフトがきつなって、なかなか家におれんで……結局、流産してしもうたんや。聡子がそれでちょっと、荒れて、俺も、受けとめれんで、つい……」
「どうして、探してあげないの?」
「中村のとこにおるってのはわかっとったし、しばらくは、このままの方がいいと思って……」
「子供たちはママがいなくなって動揺してるわ。夜も子供たちだけでいるっていうし……ねえ、聡子さん、迎えに行ってあげて」
 でも、将吾はため息をついて、首を横に振った。
「真純……殴ってしまうんや……」
「思い出して。辛かったあの頃のこと、痛くて、悲しくて、もう死にたいくらい辛かったこと……」
「わかっとるけど……もう、どうしたらええか……」
 なんだか、変。将吾、何か隠してる? ねえ、将吾……まさか……
「まさか、聡子さん、ケガしてるの?」
 目の前に座る彼は、今まで初めて見たくらい、深く項垂れて、微かに頷いた。
「俺も疲れてて……つい……いつもなら、なんも言わんのに、あの時は、聡子が……聡子が、言い返してきて……気がついたら……そんなに殴るつもりはなかったんや……信じてくれ……」
 胃から上がってきたものを飲み込んで、吐き気を抑えて、何を言えばいいかわからなくて……でも……しっかりしなきゃ。凛ちゃんのためにも、しっかりしなきゃ……
「出て行ったのは、ケンカじゃなくて……ケガを見せないためね?」
「そうや……子供らは中村の家にも行ったらしいけど、聡子も会える状態やなくて……」
「そんなに……酷いの?」
「顔がな……アザが……」
「なんてこと……ねえ、どうして? 私にはそんなことしなかったじゃない」
「……お前とおる時は、それだけでな……満たされとった……」
「今は、満たされてないの?」
「……どっかで、違う人生があったんやないかと思う……」
私も、ずっと同じこと考えてた……でも……違うのよ、将吾……
「そんなの、ないのよ」
「真純……なんで……なんで、佐倉やったんや……なんで、俺やなかったんや……」
「将吾……凛ちゃんに、聞こえるわ……」

 将吾は、泣いている。初めて見る、将吾の涙……ごめんなさい……私……私には……どうすることもできない……

「子供たちは、ケガのこと知らないのね?」
「涼だけは、なんとなく気がついとる。多分、俺が聡子を殴るところ見とったんやろ……」
「聡子さんとは、話したの?」
「ああ、聡子は、ケガがひいたら、家に帰るゆうとる。でも、それまでは……」
「どれくらいかかりそうなの?」
「そうやな……アザがましになるのは、あと一週間か……」
「子供たちだけで夜も過ごしてるんでしょう? そんなのダメよ。どうにかならないの?」
「人が足りんでな……今は夜も乗らんと……中村は、夜はええゆうてくれとるけど、こんなに世話になっとるし、俺のせいで他の人間がもっとキツなんのは……涼だけやったら、事務所に連れて行って、仮眠室に寝かせとけるけど、凛と碧はそういうわけにはいかんから……」
「それなら、うちに来ればいいわ」
「いや、それは……」
「涼くんは男の子だし、パパの方がいいと思うの。女の子二人なら、うちでも大丈夫だから」
「真純、そんな迷惑はかけられん。まだ学校もあるし」
「学校なら、朝私が送って行くわ。夕方は、家に迎えに行く。それなら安心でしょ?」
「そんな……無理やろ」
「大丈夫よ。ねえ、将吾、しばらく離れて考えてみて。自分が何をしたのか、どんなに聡子さんが傷ついたか。……暴力は、許せないの。たとえあなたでも、許せない」
「……佐倉は、ええんか」
「滅多にいないから、大丈夫よ」
「そうなんか?」
「二十四時間仕事してるようなもんよ。夜中でも、呼び出しがあれば出て行くし。三、四日帰って来ないこともしょっちゅう。でも、一緒に仕事してみてね、慶太の仕事がなんとなくわかって……理解はしてるわ」
「じゃあ、甘えてええか……」
「ええ、ちゃんと頭冷やして、迎えにきてあげてね」

 凛ちゃんはずっと泣いていたみたいで、目が真っ赤に腫れている。
「凛、しばらく、おばさんとこおるか?」
その言葉に、目が不安でいっぱいになる。
「パパもどっか行くの?」
「そうやない。夜、子供らだけになるのはな、パパも心配なんや。だからママが帰ってくるまで、おばさんとこで、碧とおってくれるか」
「お兄ちゃんは?」
「兄ちゃんは、パパの会社に連れて行く」
「じゃあ凛も行くもん!」
 凛ちゃん……さっき、嫌いって泣いて、あんなにぶたれたのに……
「女の子はあかんのや」
「ねえ、凛ちゃん、パパにはお仕事の合間にここに来てもらうから。ね、碧ちゃんと一緒に来てくれない? おばさんもね、いつも一人だから、寂しいの」
「おじさんは?」
「おじさんね、お仕事ばっかりしてるから、ほとんどお家にいないの」
「パパもね、いないよ」
「そうね、寂しいよね」
「パパ、ほんとに来てくれる?」
「約束するけ。ゆびきりしよう」
 二人はゆびきりげんまんをして、ぎゅっと抱き合った。
「じゃあ、荷物用意して、碧も連れて来るわ。今日も夜勤なんや」
「うん。夕飯用意するから、よかったらみんなで食べて。ねえ、凛ちゃん、何が食べたい?」
「うーんと……ハンバーグ!」
「よし、ハンバーグね。おばさん、結構得意なんだよ」
「ママもね、ハンバーグだけは美味しいんだよ」
「だけ?」
「ママね、あんまりお料理上手じゃないの」
へえ、そうなんだ……意外。
「ほら、凛行くぞ。ランドセル持って」

 手をつないで出て行く二人。
 親子、なんだ。やっぱり、将吾はいいパパなんだ……
 私、母親に手なんてつないでもらったことない。あの人の手の感触は、痛い、だけ。殴られた、だけ。

 ああ、いけない。買い物行かなきゃ。えーと、何人分? 五人か。しかも中学生の男の子……どれくらい作ればいいのかな。でもまあ、足りないよりは多い方がいいよね。多目に作るか!

 すっかり馴染みになったお肉屋さんに行くと、もう合挽きミンチが終わりだって。
「合挽き、終わっちゃった?」
「合挽き? 珍しいね。引いてあげるよ」
「じゃあ、八百」
「八百?」
「うん、お客さんなの。八、二にしてもらおうかな」
「はいよ」
マスターはもう終わりだからって、ちょっとおまけしてくれた。お、重い……お肉がこんなに重いなんて、初めて!
 家に帰って、ハンバーグを作っていると、携帯が鳴った。もう、誰? 手がベタベタなのに。
 無視しようかと思ったけど……相手は聡子さん。ちょっと緊張して、電話にでると、いつも通り、優しい声が聞こえた。

「真純さん? ご無沙汰してます」
聡子さんとも、あれきりで、私は思わず、言葉に詰まってしまう。
「あの、このたびはご迷惑かけて……」
「そんな……あの、聡子さん、大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。ちょっとね、目の周りにアザができててね。子供たちには見せられないから……でも余計に心配させてしまって、ほんとに……」
聡子さん、やっぱり、子供たちをほったらかしにしてたわけじゃないんだ! よかった……
「凛と碧のこと、よろしくお願いします。あの、お手伝いさせてね。お客さん扱いしないで、家事でもなんでもさせてね」
「いいのよ、そんなの」
「ワガママ言ったりしたら、叱ってね。特に凛は口が達者だから……」
聡子さん、心配なのね。
「ほんとに、ごめんなさいね……」
「……私のほうこそ……ちゃんと謝らずで……」
「ああ、もうそんなこと忘れてたわ」
聡子さんは、電話の向こうで笑った。
「食費とか、ちゃんとしてくださいね」
 ……お母さんなんだ……なんか、すごいんだ……
「ねえ、アレルギーとかある?」
「ないない、そんなデリケートには育ってないから。好き嫌いなんて、気にしないで。贅沢言わせないようにしてね」
「うん。ねえ、聡子さん……余計なことかもしれないけど、凛ちゃん、心配してるわ。電話だけでも、してあげてくれない?」
「……そうね。今夜、また電話していいかしら」
「ええ、もちろん。あの……あるんでしょう? その……」
「将吾のことね。……昔からよ。気が立つとね、抑えられないみたい」
「結婚する前から?」
「ええ」
「そんな、酷いわ……今日も、凛ちゃんをね……」
「殴ったんでしょう? さっき、電話で言ってたわ」
「普段からなの?」
「いつもってわけじゃないわ。私もね、悪いのよ。子供たちも聞き分けが……」
「聡子さん、それは違うわ。本当に悪いことをしたなら、それは仕方ないかもしれない。でも、少なくとも、今日は違ったわ。あれは、将吾の身勝手よ。そんなことしてるなんて、私……知らなくて……」
「あなたのことは、殴ったことないの?」
「……うん……だから、ショックで……」
「そう……」
「できることがあれば……何かしたいの。聡子さん、力になれないかしら」
「ありがとう。もう充分にしてもらってるわ。慶太さんにも、よろしく伝えて」
「うん……」
「じゃあ、また夜、電話します。子供たちのこと、よろしくお願いします」

 電話を切ると、もう七時前になっていた。早く作らないと、そろそろ来ちゃうよね。
 やっと下ごしらえが終わったころに、将吾が子供たちを連れてきた。凛ちゃんと碧ちゃんは無邪気にソファで遊んで、涼くんは緊張してるのか、黙ってテレビの前に座ってる。
 将吾は荷物を運んだり、子供たちに静かに! って怒鳴ったり。なんだか……家族って感じ……

「お待たせ! できたよ!」
このテーブルの椅子が埋まるなんて、初めて。四人掛けだから、私はキッチンスツールで。
「わあ、すごーい!」
「すっごくキレイ! お店みたいだね!」
「味もお店みたいだったらいいんだけど。さ、食べて、冷めちゃう」
いただきまーす、ってみんなで言って、子供たちがハンバーグを一口食。どう? 美味しい?
「わあ、おいしい!」
「うん、おいしい!」
女の子二人は顔を見合わせて笑ってくれた。
「ほんと? よかった! ねえ、涼くんは?どう?」
「あ、美味しいっす」
「そう! よかったあ。いっぱい食べてね!」
 最初はかたまってた涼くんも、段々表情が緩んで、碧ちゃんの口を拭いたりしてる。へえ、お兄ちゃんなんだ、やっぱり。
「ほら、碧、こぼしとる。凛、拭いてやって」
「はーい。もう、碧、こぼさないで」
「涼くん、ご飯おかわりは?」
「あ、お願いします」
 こんなに賑やかなテーブルは初めてで、嬉しくって、子供たちのおいしそうに食べてくれる顔を眺めるだけで、もうお腹いっぱい。

 そして、隣で、将吾が、私の作った料理を食べている。
二十一年ぶりね……ねえ、将吾、昔はこうしてご飯、食べたね、二人で……
「うまいな、相変わらず」
「そ、そう? よかった」
「真純の飯、何年ぶりかな」

 目の前に広がる光景は、ねえ、もしかしたら、私達の未来だったかもしれないね。こうやって、子供たちと、あなたと、テーブルを囲んで……

「二十一年ね」
「もう、そんなに経つんやなあ」
 いけない……また私は……わかってる。
 この子たちは、将吾と聡子さんの子供たち。私達の未来は……今の私達。

「あれ? 今、玄関のドア、開いたよね?」
 リビングのドアを開けると、慶太が立っていた。
「慶太! どうしたの? 今日は遅くなるって……」
「ああ、そうだったんだけどね。お、みんな来てるじゃん、こんばんは!」
「あ、イケメンのおじさんだ!」
 碧ちゃんの口をふさいで、慌てて凛ちゃんが、こんばんは、って言った。
「何? イケメン? 俺のこと?」
「もう、碧、変なこと言わないの!」
 デレデレ嬉しそうね、慶太。
「佐倉、迷惑かけて……」
「いいって、気にすんなよ。あれ、ハンバーグ? 俺のもある?」
「あるけど……食べて来るって言ってたじゃん」
「気が変わったの。あー、腹減ったー! 着替えてくるわ」
慶太はいつもより、かるーく、頬にキスして、部屋へ行った。
「もう、勝手なんだから。いつもそうなの。家で食べるって言って食べてきたり。なんなのかしら」
「ママとおんなじこと言ってるー!」
碧ちゃんが言った。
「そうなの? どこも一緒なのね」
女の子二人は、やっぱり顔を見合わせて、にっこり笑った。
かわいいね……そうね、こんな子供たちがいたら……裏切れないよね、将吾……

「できた?」
 キッチンに立つ私の背中を抱きしめる慶太。涼くんがちょっと恥ずかしそうに見て、姉妹は顔を見合わせて笑ってる。
「もう、みんなの前だよ」
「あっ、そうか。いつもの癖で」
 慶太は冷蔵庫からビールを出して、私の座ってたキッチンスツールに座った。
「杉本、お前も飲むだろ?」
「いや、これから夜勤なんや」
「そうか、そりゃ飲めないな。……真純、お前は?」
「いらない」
「なんだよ、俺一人かよ……なんか申し訳ないなぁ」
 ブシュって、ビールを開けて、おいしそうねえ。私も、もうちょっとお酒が強かったら、一緒に飲めるのに。
「涼くん、久しぶりだね。背、伸びたねえ!」
「あ、はい」
 テーブルの上はごちゃごちゃしてて、もうどれが誰のお皿かもわかんない。女の子二人は、オカズのケンカを始めて、涼くんがうるさいって怒ってる。
「うるさいやろ、悪いなぁ」
「賑やかでいいじゃん。毎日こんな感じなの?」
「いつもはもっとうるさいです」
 涼くんがそう言うと、うるさくないもん! て二人がまた騒いで……あー、なんか楽しい!
 慶太も、なんだか優しい顔して、楽しそう。
「ねえ、ごちそうさましていい? テレビ見たい」
「ええけど、凛、碧、食器片付けな」
「はーい」
 二人はキッチンまで食器を持って来て、どこに置くの? て聞いた。
「ありがとう。そこ、置いといて」
「おばさん」
碧ちゃんが小声で言って、手を引っ張った。口元に耳を寄せると、ハンバーグの匂いがして、手もちょっとベタベタしてる。
「なあに?」
「ママのハンバーグよりおいしかった」
「まあ、嬉しい!」
 二人はソファへ行って、今度はチャンネル争い開始。
「ごちそうさまでした」
「あら、涼くん、もういいの? まだあるよ?」
「はい、お腹いっぱいです」
涼くんも流しに食器を置いて、ソファへ行って、チャンネル争いに参加。
 テーブルでは慶太と将吾が微妙な空気で座っていた。なるほど、涼くんは空気読んだのね。気つかわせちゃって……
「お待たせ」
「やっときた。いただきます!」
「どう?」
「うん、美味い」
「そう、よかった」
「仕事、忙しかったんじゃないんか?」
「予定がね、キャンセルになったんだ。政治家先生ってのは、ほんと勝手だから」
「あなたもね」
「俺は勝手にされてるだけだって」
将吾は、私達の会話を聞いて、笑った。
「仲ええなあ」
「そ、ラブラブなの、俺達」
「佐倉、ほんまに、ありがとうな」
 でも、慶太はちょっと俯いて、小声で言った。
「杉本、お前は男っぷりもいいし、体もでかいし、優しいし、ほんとにな、凄えヤツだと思うんだよ。それに比べて、俺は女々しいし、性格悪いし、人望ないし……」
「そんなことないやろ」
「でもな……俺は殴らないよ」
 慶太……
「過去に一回だけ、あったなあ、真純……」
「そんなことも、あったわね」
「今でも、後悔してる。あの時の、真純の腫れた顔とか、今でも、思い出すんだ。なんて、バカなことしたのか……」
 慶太は、チラリと子供たちを見て、微笑んだ。
「かわいいなあ」
「そうね、かわいいね」

 私達には、許されなかったこと、それは……子供。
 偽りの夫婦だった私達には、許されなかった。

「杉本、男はな、強いんだよ、物理的に。女や子供より、物理的にな、強いんだよ。そんな相手に、物理的な強さを見せて、何があるんだ? 勝つに決まってんだよ。こんなひ弱な俺でさえ、真純には勝てるよ、腕力なら。腕力だけならな」
「……情けないな、俺は……」
「ああ、情けねえよ、杉本。お前はそんな情けねえヤツじゃないだろう。そんなことしなくても、お前は強いんだよ。涼くんに、俺みたいになれって、言えるか? 凛ちゃんと碧ちゃんに、パパみたいな男選べって、胸張って言えるか? 聡子さんにさ、お前と一緒になったこと、後悔させない自信あるか?」
 慶太はポテトサラダを食べながら、普通に言った。
 普通の会話してるみたいに、普通に言った。
 グレーのスエットスーツは、もうヨレヨレで、そのヨレヨレの首元から覗くカルティエのネックレスと、バッチリ決めた髪型がアンバランスで、言ってることと、言い方もアンバランスで、なんだか、それが逆に、将吾の胸に、すんなり届く気がした。
「自分でも、わかっとるんや……」
「わかってるなら、やめろ。やめないなら、わかってない」
「佐倉……俺は……」
「やめないなら、うちで引き取るよ、あの子たち」
慶太は軽く言ったけど、目は真剣で、きっと、本気で言ったんだと思う。

「聡子さんのこと、自由にしてやれよ」

 慶太の言葉に、私達は、何も言えなかった。
 私も将吾も、何の罪もない、あの人を、傷つけている。
 聡子さんのすべてを、奪っている。

「……そろそろ、行くわ」
時計は九時過ぎ。こんな時間から、仕事なんだ……
「何時から?」
「十時や。涼、行くぞ」
「ああ、そうだ。これ、夜食に食べて」
 私は作っておいたおにぎりを渡した。
「わざわざ……ありがとうな」
 昔はよく、こうやって夜食作って、工場に持って行ったっけ。あの頃も、忙しかったよね、将吾。私のために、一生懸命、仕事してくれてたね……でもね……
 ……寂しかったな……しょっちゅう、一人で……

「じゃあ、凛、碧、パパ行くからな。ええ子にしとけよ」
 玄関で、碧ちゃんが将吾に抱きついて、つられて凛ちゃんも抱きついて……
 不安よね……ママも、パパもいなくなるんだもんね……
「パパ、絶対お迎え来るよね?」
「約束したやろ? ちゃんとええ子にして、おばさんとおじさんの言うこと聞いて、手伝いせないけんで」
「パパ……」
将吾は二人を抱きしめて、ほっぺたにキスをした。
「そしたら、よろしくお願いします。なんかあったら、すぐ連絡くれな」
「ああ。責任もって、あずかるよ。涼くん、ほんとに会社でいいのか? ここにいてもいいんだよ?」
「いえ、大丈夫です。あの、妹たちのこと、よろしくお願いします」
 涼くんはぺこって頭を下げた。
 その姿に、私は涙が出そうなくらいせつなくて、思わず、涼くんをぎゅって抱きしめた。
「困ったことがあったら、いつでもここにおいでね」

 二人を見送ると、彼女たちは急に静かになった。不安な顔で、くっついて、ソファに座ってる。
 本当に、よかったのかしら……ここに来て、よけいに不安になったんじゃ……
「布団、出さなきゃな。押入れにあったよなあ?」
「ああ、うん。多分。でも、乾燥機かけないとダメね。どこに敷こうかしら」
「そうだなあ。じゃあ、三人で寝室で寝なよ」
「慶太は?」
「俺は真純の部屋で寝る。二人だけで寝かせるのは、お互い不安だろ?」
「うん……」
「どうかした?」
「うん、なんか、これでよかったのかなって……」
「あずかって?」
「よけいなことしたかなって……」
「子供だけで夜を過ごさすのもよくないし……離したほうがいいんだよ、少し。中村の話じゃ、聡子さんが流産してから、酷くなってたらしいから。俺もなるべく、早く帰って来るからさ。……でも、掛け布団と毛布は、ださないとな。おーい、ちょっと来てー」
 慶太は娘ちゃん二人に、声をかけた。
「布団出すの、手伝ってよ」
「うん」
「あ、先に言うけど、おじさんの部屋、超汚いから」
「えー! イケメンなのに?」
「そ、イケメンでも部屋はブサメン」
 二人はきゃっきゃって笑って、慶太について行った。
 ふうん、意外に、子供扱うの、うまいんだ。

 洗い物をしてる間も、三人はきゃっきゃっ楽しそうで、なんだか、本当にパパになったみたい。
私も、なんだかそんな気になって、お風呂入りなさーい、なんて言っちゃった。
「お風呂、二人で入れる?」
「入れるよ! 凛はね、髪も自分で洗えるんだよ」
「碧も洗えるもん」
「そうか、すごいじゃん。じゃあ、二人で入れるね。シャワーの使い方、教えてあげるね。パジャマとか、ある?」
「持ってきたよ」
「こっちだよ、着替え、持って来て」
 バスルームから、娘ちゃんたちの声が聞こえる。
「わあー! ひろーい! キレイなお風呂!」
「そう? これがね、シャワー。ここを押すと、お湯が出るからね。それから、これがシャンプーで、これが……リンスかな? で、これが、ボディソープ」
「わかった!」
「洗濯物は、ここに入れてね。じゃあ、ごゆっくり」
 バスルームからは、二人のはしゃぐ声がずっと響いてる。
「あー、なんか疲れた」
「そう? 結構楽しそうに見えるよ?」
「あ、ばれた? かわいいなぁ。女の子はかわいいよな。周りでもさ、娘のほうがかわいいっていうんだよ。なんかわかった気がするよ」
 慶太は今まで見たことない優しい笑顔で、ビールを飲んだ。
「しかしさ、あんなかわいい子に手を上げるなんて、俺は杉本がわかんねえよ」
 
 ……私……怖い……もしかしたら、私も……殴ってしまうかもしれない。

 どうやって叱ればいいかわからない。
 どうやって可愛がればいいのかわからない。

 どうやって母親になればいいのか……私の知ってる母親は、あの、母親だけ……

「おじさーん、もうあがっていい?」
お風呂から凛ちゃんの声が聞こえた。
「ちゃんとあったまった?」
「うん。もう熱い」
「じゃあ、あがっていいよ」
 慶太は嬉しそうに、ドライヤーかけないとって、部屋からドライヤーを持ってきた。
「髪乾かそう。風邪ひくから」
「凛が先!」
「碧が先だもん!」
「ちょっと、じゃあ、ジャンケン。ジャンケンして。勝った方からね」
 結局、碧ちゃんが勝って、凛ちゃんはつまらなさそうにイスに座ってる。
「凛ちゃん、お水飲む? 喉かわかない?」
「飲む! ねえ、おばさん家のシャンプー、すっごくいい匂いするね」
「そうかしら」
「おばさんもおじさんも、いい匂いする」
 慶太はちょっと、香水キツイのよね。前々から思ってたけど。加齢臭、気にしてるのかしら。
「おじさんは、なんかちょっと、匂いすぎだと思わない?」
「うーん、わかんない」
 そりゃそうか。

 ああ、やっと終わった。さすがに五人分の片付けは大変ね。聡子さん、毎日、大変だろうなあ。
「凛ちゃん、おいで!」
 慶太は嬉しそうに、凛ちゃんの髪にドライヤーをあてて、時々碧ちゃんの話を耳元で聞いて、笑ってる。
「さあ、乾いた。もう寝ようか、十時半だ」
「うん。ねえ、どこで寝るの?」
「こっちだよ」
 寝室のベッドを見て、予想通り、大はしゃぎしてる。
「おっきなベッド!」
「お布団フワフワだね!」
「あー、ちょっと、跳ばないで。ホコリが……」
「おじさんもここで寝るの?」
「寝てもいいの?」
「碧がおじさんの隣だもん!」
「凛も隣がいい!」
「えー? じゃあ……おじさんが真ん中? まいったなあ」
「ねえ、本読んで」
「本? なんかあったかな……会計の本でもいい?」
いいわけないじゃん!
「かいけい? 何それ。碧ね、持ってきたの。毎晩ね、寝る時、パパかママが本読んでくれるんだよ」
 あ、そういえば、聡子さんから電話ないよね。どうしたのかしら。
「そ、じゃあ、読んだら、もう寝るんだよ」
「はーい」
 本を読む慶太の声は優しくて、直に娘ちゃん達の声は聞こえなくなった。

「寝た寝た」
「おつかれさま」
「あれ? まだ風呂入ってなかったの?」
「うん……あのね、実は今日、夕方に聡子さんから電話があったの。それで私、声だけでも聞かせてあげてって、お願いしたんだけど……まだかかってこないの……何かあったのかしら。かけてみていいかな」
 慶太の顔から笑みが消えて、新しいビールを開ける音が、ブシュッて響いた。
「慶太?」
「俺が言ったんだよ」
「え? 何を?」
「電話しないでくれって」
「どうして? 声だけでも聞けば安心するわ、きっと」
「声を聞けば、ガマンできなくなる。あれでも、子供たちはギリギリなんだよ。必死でガマンしてる」
「でも……」
「聡子さん、かなり酷いらしいんだよ」
「……将吾はアザがあるだけだって……」
「そんなわけないだろう。あの杉本に、力任せに気を失うまで殴られたんだ。肋骨と、顎、鼻、頬骨の骨折、全治二ヶ月だって」
「気を失う……? そんな……なんでそんなことに……信じられない……」
「病院にも行ってなかったらしい。どうしたのか聞かれるから、行けないって。だから、今日、松永さんの知り合いの整形外科で診てもらったんだ。明日手術して、しばらく入院だ」
「それで、早かったの?」
「まあな。でも、杉本もどうしたのか……」
「前々から、暴力はあったって……」
「聡子さんにはな。前に勤めてた会社が倒産した時に、杉本、かなり辛い目にあったらしいんだよ。その頃から……涼くんに手を出し初めて、徐々に凛ちゃんや碧ちゃんにも……でも、そんなことは言い訳にはならない。どうにかして、杉本を止めてやらないと」
「慶太……どうして? そんなに……」
「杉本は、友達だからな」
友達……慶太、将吾のこと、そんな風に言ってくれるんだ……でも……
「……将吾の暴力は、私のせいかもしれない……」
「真純の? なんで」
「将吾、私には一度も手をあげたことなんてなかったの。だから、私、本当に信じられなくて……でも、将吾……それは、満たされてたからだって……泣いたの……」
 慶太は、私の肩を優しく抱いてくれた。
「私のせいなのよ……私のせいで……また、傷つく人が……」
「たとえそうでも、言い訳にはならない。杉本のやってることは、間違ってる」
「……うん……」
「とりあえずは、凛ちゃんと碧ちゃんが寂しい思いをしないように、してやらないとな」
 
 私は、自分のあの行為が、とてつもなく、怖くなった。
 一歩間違えば……中村くんが止めてくれなかったら私……
「全部、奪うところだった……私……なんて……最低……」
「聡子さんがね、真純が傷ついたままじゃないかって、心配してたらしいんだ。落ち着いたら、会いに行きなよ。きっと、安心する」
「会えないよ……許されちゃいけないわ……私のしたことは……絶対に許されない……」
 慶太の指が、私の涙を拭ってくれる。こんなに優しい慶太。こんなに大切にしてくれる人、慶太以外に、きっといない……
「あの家族が元通りに暮らせるように、俺たちは友達として、できる限りのことをしようよ」

 私を抱きしめた慶太の顔は、なんだかいつもよりずっと大人っぽくて、落ち着いていて、まるで違う人みたいで、ちょっと、ドキっとした。

「キス、して」
 いつもと同じ唇なのにね、なんだか、ドキドキしちゃう。
「続きがしたくなった」
 もう。やっぱり、いつもの慶太じゃん。
「ダメだよ。凜ちゃんたちがいるんだから」
「えー、でもさ、じゃあどうすんだよ」
「何が?」
「子供のいる夫婦は、しないの?」
「それは……」
ほんとだ。どうするんだろう。
「そんなこと言ってたら、一人っ子ばっかになるよ」
「とにかく、今日はダメ。私、これから勉強するの」
「つまんないのー。じゃ、風呂入ってくるわ」
 
 試験は来週の日曜日に迫ってて、山内くんは、もう大丈夫って言うけど、やっぱり不安。苦手なとこ、やっとかないと。
 あー、わかんない。これ、ほんとに苦手。
「何悩んでんの?」
「ああ、もうあがったの?」
「うん。わかんないとこあるの?」
「ここが、苦手なの。何回も教えてもらったのに……」
「どれどれ。ああ、これはね、もっと単純に考えるんだよ」
慶太のやり方で解くと……あれ? すっごい簡単!
「山内くんと違う」
「教え方が下手なんだよ、あいつは。真面目に考えすぎ。試験なんてものは、コツなんだよ。コツさえつかめば、知識なんかなくても受かるんだよ」
「そうなの?」
「そ、俺はそうやって、今に至る。ちなみに、次の問題は……こうやるんだよ」
へえ、慶太って、ほんとに……できるんだ、簿記。薄々、疑ってたりして。
「簡単!」
「やっぱり俺が最初から教えればよかったなぁ」
「すごーい、慶太、ほんとに会計士なんだね!」
「おいおい、知らなかったの?」
「ちょっと……疑ってた」
「酷いなあ。これでも結構優秀なんだよ?」
「うん、初めて信じた」
「なんだよ! あ、そうだ、ねえ、聞きたいんだけどさ」
「何?」
「この前さ、山内が合格したらとかいう話でさ……なんて言ったの? なんか、コソコソしてたじゃん」
「ああ、あれ? 言っていいのかなあ」
「俺に聞かれたらマズイようなことか!」
「もう、怒んないで。内緒だよ。今度ね、一緒にカフェに行って、ケーキ食べて、お兄ちゃんって呼んで欲しいって」
「は? プレイかよ!」
「プレイとか言わないの」
「あいつ、ほんとは変態なんじゃないか?」
「純粋に、妹さんが可愛かったのよ」
「妹って、何で死んだの?」
「事故らしいけど、詳しくは……ご両親も亡くなられたみたい。小学校の時だったとか」
「え? あいつ、事務所に来た頃、親の葬式だとかなんとか言って休んでたような気がするなあ。ずる休みか!」
「親戚のお宅に養子に出されたんだって」
「ああ、そういうことか」
「ねえ、私って妹キャラなのかしら」
「確かに、そうかも! なあ、俺のことも、お兄ちゃんって呼んでみてよ」
「ええ? なんで?」
「いいから、呼んでみて。お兄ちゃんって」
なんか、キモ……ニタニタしちゃって。仕方ないなあ。
「お兄ちゃん」
「真純、なんだよ。なんでもお兄ちゃんに言ってみなよ」
これこそ、プレイじゃん!
「お風呂入って来るね」
「お兄ちゃんが洗ってあげようか? そのおっぱいとか、おしりとか……」
なにこれ。マジできもい。鼻の下のばしちゃって、何が嬉しいのか……
「自分で洗えるからいい」
付き合ってられないわ。ほんとにもう、バッカみたい。変態はあなたでしょ。さっきと同じ人とは思えないけど……

 そういうところが、好きなのかも。

 お風呂からあがると、慶太がソファで居眠りしてる。ビールの缶が三本ほど空いてて、飲みすぎじゃないの?
「慶太、こんなとこで寝たら風邪ひくよ」
「うーん、真純……お兄ちゃんはな……」
まだ言ってる。
「私の部屋で寝るの?」
「うん……」
 なんとか慶太を私のベッドに寝かせて、私は寝室へ。娘ちゃん達はよく眠ってて、私は端っこに入った。
「おやすみなさい……」
小声で囁くと、隣の碧ちゃんが、私に抱きついて、ママって、寝言を言った。
 寂しいんだ……寂しいよね……不安だよね……
 
 でも、もしかしたら、私が本当に、奪ってしまっていたかもしれない……この子たちから、大切なママを……
 ごめんなさい。おばさん、できる限りのこと、するからね……
 
「おはよう! みんな起きて!」
うるさい……なにごと?
「慶太……早くない?」
「だって、学校まで三十分はかかるだろ? もう起きないと」
そっか……八時前には出ないといけないから……って、まだ六時じゃん!
 慶太はすでに着替えていて、髪型もバッチリ。血圧高いのかしら。なんて早起きなの……
「凜、碧! 朝だよ!」
 慶太ったら、すっかりパパ気分ね。
 二人は目をこすりながら、渋々起きて、うふふ、かわいい! フラフラしながら、顔を洗いに行った。
「朝は俺が送って行くから」
なら、私はまだ寝てていかしら……眠い……
「真純も起きて」
「はーい」

 テーブルにはトーストと、ヨーグルトと、ミルクとオレンジジュース。
「食パン、あった?」
「朝買ってきたんだよ。昨日予約してたから」
えっ! 朝、わざわざ?
「焼きたてのパンはうまいからな!」
し、信じられない……いったい、何時に起きたのかしら……
「真純も食べるだろ?」
「私はコーヒーだけで……」
「ダメだなぁ。俺なんて、五キロほど走ってきたから、腹ペコだぜ?」
 五キロ! 朝からこのテンションの高さ……アドレナリンの塊ね……

 娘ちゃん達は、色違いのトレーナーに、ジーンズをはいて、テーブルに座った。
「いただきまーす」
「いっぱい食べなよ」
「おじさんが作ったの?」
「そ、朝はね、おじさんの担当なの。おばさん、お寝坊だからさ」
二人は顔を見合わせて笑ってる。もう、よけいなこと言わないで!
「おいしい、パン!」
「そうだろ? ここの店はね、材料にこだわっててね……」
そんな話、子供にしてもわかるわけないじゃん。
「朝ごはん、ちゃんと毎日食べるの?」
「うん、食べるよ。でも、いっつもね、パパはいないの」
「そうなんだ」
「夜勤の日は帰ってこないし、そうじゃない日は寝てるし」
「夕飯は?」
「パパはあんまりいない」
 ……もしかして……
「ねえ、パパ、優しい?」
「うん。でも……あんまりいないから……」
 凜ちゃんは寂しそうに言った。ヨーグルトをすくう手が止まって、俯いてる。
「パパは忙しいんだよ。みんなのために、一生懸命働いてるんだ」
「ママもそう言うけど、やっぱり寂しそうなの」
「ねえ、パパは、昔からそうなの?」
「うん。でも、お仕事変わる前のほうが、もっといなかったって、お兄ちゃんが言ってた」
「パパのこと、どう思う?」
 黙ってしまった凛ちゃんの代わりに、碧ちゃんが言った。
「……大好きだけど、時々、嫌い」
「どうして?」
「だってね、パパね……」
「碧、パパの悪口言っちゃいけないんだよ。ママに怒られるよ」
 俯く二人を見て、慶太が私の手をそっと握って、微かに首を横に振った。
「そろそろ、行こうか。忘れ物ない?」
 二人がランドセルを取りに行くと、慶太が言った。
「今は、そんなこと聞くな」
「だって、もしかしたら、将吾、あの子たちに……」
「体にアザはなかったし、無茶なことはしてないはずだ。今回のことも、今までなかったことらしいから、日常化してるとは考えにくい」
「でも、私、見たのよ。目の前で、凜ちゃんとのこと……」
「そのために離したんだ。知り合いに、専門のカウンセラーがいる。相談してみるから、焦るんじゃない」
 二人がリビングに戻って来ると、慶太は笑顔になって、手をつないだ。
「忘れものないかな? あっ、おじさん、ネクタイしてないや!」
 おどける慶太に、二人はちょっと笑って……
 不安にさせないように、慶太もちゃんと考えてるんだ……なのに私ったら、ダメね、ほんとに……
「おばさん、いってきます!」
「うん、五時までには迎えにいくから、お家で待っててね」
「はーい」
「いってらっしゃい! 気をつけてね!」

 三人を見送って、テーブルの片付けを始めたけど、どうしても、気になって手に付かない。

 あの子達は、父親の愛情に飢えてる。だから、慶太にあんなに懐くのよ……

 ねえ、将吾、違うよね……『虐待』なんて……してないよね……


***

 あの子たちが、うちに来て二週間。
最初は戸惑うことも多かったけど、もうすっかり慣れちゃった。
彼女たちも、ずいぶん落ち着いてきて、明るくなって、お風呂も一緒に入ったりして、まるで……本当のママになったみたいで、毎日がとっても楽しいの。
 でも、将吾は仕事の都合って言って、時々電話してくるだけ。涼くんが部活帰りに寄ってくれて、一緒にご飯食べるんだけど、とっても寂しそうにするの、子供たち……きっと、それがわかってるから、将吾も来ないんだね……よけいに寂しくなっちゃうから……
 やっぱり、いいパパなんだ。虐待なんて、してないよね。
 だって、私、施設にあの人が来るたびに、死にたいくらいつらかったもの。保護されるたびに、安心して、二度と家に帰りたくないって、いつも思ってたもん。
 きっと、寂しいんだね、この子たち。パパに一緒にいて欲しいんだ。でも、仕事で家を空けるパパが、寂しいんだ……だからきっと、わがままになっちゃう。だから将吾も、うまくいかなくって、焦っちゃう。
 そうだよね……私たち、ちゃんと……親に愛されてこなかったもの。怒鳴られるか、殴られるか、ほったらかしか。親のことなんて、愛してないんだもん……わかんないよね……わかんないんだよ……
 でも……いいわけ。それは大人の勝手ないいわけで、子供たちには、関係ないんだよ……将吾、わかってるんだよね。きっと、あなたも、わかってるよね……

「真純さん?」
 ああ、いけない。打ち合わせ中だったんだ。
「ごめんなさい。ぼーっとしちゃってた。えーと、どこまでいったっけ?」
「アイテムの選定です。それから、クロスなんですけどね……」
 事務所の改装の打ち合わせはだいぶ進んで、デザインも決まったし、あとは細々したアイテムの設定だけ。
 うん? 凛ちゃんから電話? え? 今、何時!
「ごめんなさい、おばさん、ちょっとお仕事してて……すぐに行くね」
 気がつくと、もう五時前。急がなきゃ! 
「ごめん、田山くん。もう出なきゃいけないの」
「お約束ですか? では、また後日改めて。カタログ、もう少し持ってきますね」
 しまった……今日、車じゃなかったんだ! 朝、ガソリンがなかったから……どうしよう。慶太もいないし、こんな時に限って、車、出払ってるじゃん!
「ねえ、田山くん。この後、予定ある?」
「いえ、特に。この打ち合わせで終わりです」
「じゃあ、悪いんだけど、送ってもらえない?」
「かまいませんよ。どちらまで?」

 将吾のマンションにつくと、五時半になってた。もうあたりは真っ暗で、不安にさせちゃったかな……
「ここからどうやって帰るんですか?」
「まあ、電車か何かで……」
「それなら、お送りしますよ」
「ああ、助かるわ。お友達のお嬢さんをあずかってるの。その子たちを連れて帰るんだけど、いい?」
「もちろんです」

 結局、今日はなんだか疲れちゃったし、四人で途中で見つけたファミレスで夕食を済ませることに。
娘ちゃん二人は、慶太とはタイプの違う、モデル系イケメン田山くんに大喜びで、田山くんも、なんだか嬉しそう。へえ、意外に、子供好きなんだ!

 四人でご飯を食べてると、カメラを持った人が、私たちのテーブルに。
「お食事中、申し訳ありません。タウン誌の取材なんですが、『素敵なファミリー』っていう特集をするんです。もしよろしければ、取材、させていただけませんか? とても素敵なご家族なので」
 ええっ! 家族じゃないし! でも、この田山くんと夫婦に見えてるってこと? それに、私、ママに見えてるってこと? にやけちゃうんじゃん!
「ごめんなさい。私たち、家族じゃないんです。この子たちはお友達のお嬢さんで……彼も……お友達なんです」
「ああ、そうなんですか。それは失礼しました。でも、とてもお似合いですね。本当のご家族のようですよ。では、失礼します」
 やだあ。田山くんとお似合いだなんて……五つも年下なのに!
「なんか、ごめんね。私とお似合いだなんて、ねえ」
「いえ、嬉しいです。夫婦に間違われるなんて、光栄ですよ」
 クールに微笑む田山くんに、二人は顔を見合わせて……
「ねえ、たやまくんは、おばさんのこと、好きなの?」
「ちょっと、凛ちゃん! そんなこと……」
「あはは、子供はごまかせないなあ。たやまくんね、おばさんに憧れてるんだ。ファンってことかな」
「ファンだって!」
「そう、ファンなんだ。でも、慶太おじさんには、内緒だよ」
 田山くんはそう笑ったけど……今でも、私のこと……想ってくれてるのかな……

 マンションまで送ってもらって、コーヒーでもって、少し上がってもらうことに。子供たちもいるし、別に、いいよね?
「初めておじゃましますね」
「ああ、そうだねえ。誰にも来てもらったことないかも」
 田山くんは、リビングを見て、さすがですね、って言ってくれた。
 コーヒーを淹れている間、田山くんは、二人におねだりされて、似顔絵を描いてる。
わあ! さすがうまいんだ! 美大出だもんねえ。こんなにうまいのに……絵の世界って、難しいんだね……
「上手ねえ」
「人物画は基本ですから。俺は風景のほうが得意でした」
 二人は、リビングで宿題を始めて、私たちはダイニングでコーヒーを。なんだか不思議な感じ。こんな風に、田山くんと、この部屋にいるなんて。
「家具……ないんですね。あの会社の……」
「そうねえ。ベッドだけかな、買ったの」
「企画した家具、使ってないんですね」
 そう。自分が企画した家具、一つも使ってない。あんなに一生懸命作ったのにね……自分が使いたいって思うものは、一つもなかった。
「売れるものを、作ってたわね、私」
「それが仕事ですから」
 彼はそう言って、ダイニングテーブルを撫でて、いい木ですね、と言った。
「野島くん、どうしたんだろう、あれから。気になってるの」
「復職したらしいですけどね、結局、すぐ辞めたみたいです。……あれから、あの部署も変わってしまって、ほとんど辞めたか、異動しました。もうバラバラで、今は昔の、ただの企画部に戻ってるんじゃないかな」
「そう……最後まで、責任持てなかったこと、心残りなの」
「いいんですよ、そんなこと。野島も、部長に謝りたいって、言ってたみたいです。あいつもね、憧れてたんですよ、本当に」
「私に?」
「みんなそうだったんじゃないかな。あの頃いたやつらは、みんな佐倉部長に憧れてた。……俺もですけどね」
 そうなんだ……そうだよね……憧れられたくて、そうしてたんだもん。みんなに憧れてほしくて、私は、『佐倉部長』をやってた。

 自己満足。それしか……なかったのかもしれない。

「田山くんの人生を、くるわせたんじゃないかと思ってるの。キミは、デザイン志望だったのにね……」
「確かにね。でも、あの十年は、後悔してません。俺、才能なかったんですよ。自分でもわかってました。最初に就職したデザイン事務所が潰れて、他のデザイナーはすぐに就職先が決まったのに、俺はデザイナーとしての仕事は決まらなかった。正直に言うと、あの会社も、すぐに辞めるつもりだったんです。デザインの仕事が決まるまでの腰掛のつもりでした」
 田山くんは、子供たちの似顔絵を描いた紙の裏に、私の顔を描いてくれた。
「……似てる」
「何度も描きました。目を閉じてても描けますよ」
 田山くん……
「あの十年があったから、今の俺があるんです。こうやって、佐倉さんの事務所のデザインをさせてもらえるのも、部長に鍛えてもらった俺がいるからです。感謝しています」
 そう微笑んだ彼の顔は、本当に晴れやかだった。
「俺は、すべてに意味があると思っています」
「意味?」
「どんなにつまらないことに思えても、どんなにつらいことでも、悲しいことでも、意味があるって。それを乗り越えた時、きっと、新しい自分になれるって。だから、俺は、後悔しません。そう教えてくれたのは、佐倉部長、あなたですよ」
 挫折した田山くん。よく覚えてる。彼が入社した頃、挨拶もしないし、投げやりで、いい加減で……やる気がないなら帰れって、怒鳴ったこともあったっけ……
「真純さんも、新しい真純さんになったじゃないですか。今の真純さん、本当に別人みたいですよ。自然で、本当に……きれいです」
「田山くんの、おかげだよ」
 私の言葉に、彼は少し俯いて、光栄です、と呟いた。
「真純さん、よかったら、一緒に仕事しませんか。真純さんのプランを見て、社長がぜひって言ってるんです。まあ、男二人ですからね、女性の視点というか、感性がほしいんですよ」
 ありがとう、田山くん。でもね、私……インテリアが好きってわけじゃないの。それにね……
「今は、慶太と一緒に仕事したいの」
「そうですか。俺からすると、とてももったいないんですけどね。じゃあ、気が変わったら、いつでも声かけてください」
 そろそろ、と言って彼は立ち上がって、宿題をする二人のところにバイバイをしに行った。

「おばさん、駐車場まで送ってくるね」
 部屋を出て、エレベーターで、二人きり。ちょっと、ドキドキする。
「かわいい子たちですね」
「いろいろ、事情があってね……」
「真純さんと、同じ目をしています」
「どういうこと?」
「……寂しそうです」
 彼はそう言って、私を、抱きしめた。
「そんな目をするから、俺、真純さんのこと、忘れられないんですよ」
「……ダメだよ」
 重なりかけた唇は、そのまま、すみません、と呟いた。
 エレベーターのドアが開いて、私たちは、黙って車まで歩いた。静まり返った駐車場に、彼の革靴と、私のヒールの音が響く。
「田山くん」
「なんですか」
 こんなこと、聞いて……ごめんなさい。でも私、わからないの。
「どうして、忘れられないの?」
「男ってね、未練がましいんですよ。一度好きになった女のこと、ずっと思い出すんです。自分が一番好きな所を見ると、気持ちが蘇ってしまう。それがたとえ、過去であっても……たとえ、別人でも」
「寂しい私が好きだったの?」
「そうかもしれませんね。俺が守ってあげないとって、俺だけが理解してるって、そう思ってました」
 寂しい私……それは……
「では、打ち合わせの日程、また連絡します。ごちそうさまでした」
 田山くんは、ビジネスに、クールに言って、白いプリウスは、テールランプを残して、スロープを降りて行った。

 きっと、そうなのね……
 将吾が、聡子さんに暴力を振るってしまうのは……子供たちに暴力を振るってしまうのは……

 私と同じ目で、あなたを見るからなのね……

***

 無事、簿記検定は合格。約束の『お兄ちゃんデート』の帰り、山内くんが、寄りたい場所があるって。
「お時間、よろしいですか?」
 時間はまだ二時。
「うん、大丈夫だよ」

 幹線道路を抜けて、郊外を抜けて、着いた場所は、病院。海の見える、静かな場所。
 明るい廊下を通って、ドアを開けた部屋は個室で、大きな窓があって、とても明るい。
 ベッドに座っていたのは、私より、少し年上か、同じくらいの、痩せた女の人。誰だろう。……もしかして、恋人?

「あら、けんちゃん。こんな時間にめずらしいわね」
「具合、どう?」
山内くんは、いつになく優しい顔で、彼女に言った。
「このところ、調子がいいの……そちらは、もしかして?」
「佐倉真純さん。真純さん、姉です」
「お姉さま? まあ、はじめまして。佐倉です。山内くんには、とてもお世話になっています」
「姉の、知美です。お噂は、賢治から、かねがね」
「ちょっと、ねえさん。すみません。真純さんの、ファンなんですよ、姉」
「ファン?」
「美人で、頭が良くて、仕事ができて、優しい人だって、そう紹介したら、会いたいってしつこいから……すみません、勝手に」
 山内くんは、てれくさそうに言って、洗濯してくる、と出て行った。

「ごめんなさいねえ、まさか、本当にお呼びするなんて……」
「いいえ、お会いできて嬉しいです。でも、なんだか恥ずかしいわ。がっかりされたんじゃないかしら」
「とんでもない。想像以上に、素敵な方で、びっくりしちゃった」
 知美さんは、痩せてるけど、とてもきれいな人で、山内くんと仲良い姉弟なんだろうなって、ちょっと、羨ましい。
「お体、どうされたんですか?」
「昔からね、心臓が弱くて。赤ちゃんの時から、出たり入ったりよ」
 優しく微笑んだ知美さんは、とても気さくで明るくて、私達は、すっかり打ち解けて、昔からの友達みたい。

「この病院もね、けんちゃんが選んでくれたの。たぶん、結構かかってると思うの。二十四時間看護だし、設備もいいし……あの子、私のために、独身でいるのかと思うとね……」
 そう……なんだ……
 慶太は、山内くんは報酬しか興味ないやつだって言ってたけど、きっとお姉さんのために、一生懸命、働いてるんだ……
「もう、いいのにね。私なんて、どうせ長くないんだから」
「そんなこと……」
「学校なんて、半分も行ってないの。ずっと休んでるから、当然友達もいないでしょう。毎年ね、クラスの子達が、千羽鶴をくれるの。先生が言うんでしょうね。早く元気になってねって、担任の先生が持ってきてくれるけど……厄介な生徒なんだろうなって、子供心に思ったわ」
 部屋の片隅に、色褪せた千羽鶴が、何個も吊るしてある。
「何度も大きな手術をしてね。海外にも行ったわ。ディズニーランドにも行ったことないのに、海外には何度も行った。ただ、手術するために。幸か不幸か、うちは裕福でね。両親は、私を少しでも長生きさせようと、お金も、時間も、労力も、惜しまなかった。……でもね……」
 知美さんが、何を言いたいのか、わかる気がした。

 意味。

 生きている、意味。
 私も、そうだった。私も、全然違うけど、生きてる意味が、ずっとわからなかった。

「羨ましいわ、真純さんが。ご主人も、素敵な方なんでしょう? 私なんて……恋もしたことないのよ。きっと、恋もせずに、死んでいくのね」
 くらべることじゃないけれど、知美さんの言う通り、私は、幸せ。
 つらい時代もあったけど、今は……
「ごめんなさい、変なこと言って」
「ううん。ねえ、知美さん、お友達になってくれる?」
「ええ、喜んで。嬉しいわ。私ね、友達、全然いないのよ」
「私も、いないの。似た者同士ね」
 二人で笑った。
 本当に、私と知美さんは、全く違う人生を生きてきたけど、なぜか、私達は、同じだった。

「お邪魔ですか?」
 山内くんが、遠慮しながら戻ってきて、乾いた洗濯物を、小さなキャビネットに片付けた。
「はしゃぎすぎだよ、ねえさん。真純さん、そろそろ、帰りましょうか」
「あら、もう? せっかく真純さんと楽しくお話ししてたのに」
「私も、もっとお話ししたいんだけど、ちょっと時間があるの……今度は、お菓子、持ってきていいかしら? ねえ、ゆっくり、お茶しましょ」
「そうね、けんちゃんがいると、内緒の話ができないもの」
 知美さんは、私達をフロントまで見送ってくれて、名残惜しそうに、手を振った。

「ありがとうございました。真純さんの話をするとね、喜ぶんですよ。きっと、自分を真純さんに重ねて、真純さんになった気分になるんでしょうね」
 そう言った山内くんの目には、少し……涙。
「知美さん、お悪いの?」
「今は落ち着いてます。続けて両親が亡くなって、面倒をみれなくなって、あの病院に入れたんですけど……面会に来る人もいないし、寂しいんですよ。僕が近くで看れるなら、退院させたいんですけど……なかなかね」

 ……山内くん、キミ、もしかして……

「山内くん、養子さん、なんだよね?」
「ええ。姉とは、遠い、血縁です」
「まちがってたら、ごめんなさい。山内くん、知美さんのこと……」
「正直に言います。姉弟なんですけどね……ずっと、姉しかみえませんでした。優しくて、美人で、家族を亡くした僕のこと、本当の家族のように迎えてくれて、かわいがってくれました。でも、姉は、僕のことを弟としか……しかたないんですけどね」
そうかな……私には、知美さんも……
「伝えないの?」
「そんなことをしたら、姉は僕に甘えられなくなります。いいんですよ、このままで。弟として、姉を支えられたら、それで僕は、幸せです」

 幸せ……山内くんは、それで、幸せなんだ……

 幸せって、なんなんだろう。
 私、幸せなの?
 本当に、幸せなの? 山内くんみたいに、そんな顔で、幸せですって……私、言えない。
 
 幸せって、私は幸せって……思い込んでる。言い聞かせてる?

「こんにちは。ケーキ、買ってきちゃった」
 私の顔を見て、知美さんは、にっこり、微笑んでくれた。
「素敵なカップね!」
「お気に入りなの。もう、二十年以上使ってるのよ」
 持ってきたリバティのティーセットに、ケーキと紅茶を淹れて、私達は、窓の外の海を見ながら、いろんな話をした。

「中学一年か、二年の頃ね。けんちゃんがうちに来たの。私ねえ、その時、思ったの。ああ、私、もうすぐ死ぬんだなって」
「どうして?」
「私は遅くにできた子でね。父は会社をやってたんだけど、私がこんな体だから、もう、結婚も諦めてたんでしょう。後継が欲しかったんだと思う。見切りをつけられたって、思ったわ。でも、しかたないよね。本当に、いつ死んでもおかしくないんだから」
 知美さんは、紅茶を一口飲んで、ふっと笑った。
「それなのに、私ったら、しぶとく生きちゃって。両親は、とっても私に優しかった。私の言うことは、なんでもきいてくれた。ワガママを言っても、何を言っても、怒らなかった。この子は可哀想な子だから、この子は長くないんだからって、いつも、そう言われてる気がしてた」
 お金があれば、あの生活から抜け出せると思ってたけど……そうじゃなかった。お金があっても……私……
「けんちゃんはね、両親の期待に必死で応えようとしてた。遊びもせずに、毎日毎日勉強して、東大にいって……だけどね……結局、後継にはしなかった」
「何か、あったの?」
「私にね、縁談が来たの。その頃は、私の体もずいぶん良くなってて、入院することもなくなってた。取引先の社長の息子さんで、俗に言う、政略結婚ってやつ。恋も愛も知らないのに、私は形だけの結婚をして、療養って名目で、田舎の別荘に閉じ込められて。夫の顔なんて、お見合いと、結婚式に見たくらいよ。結局ね、子供も生めない私は、両親が亡くなった時に離婚されて、会社は乗っ取られて……全く、何のために生きてるのかしらね。自分の無力さに、笑っちゃった」

 知美さんも、ずっと、空白だった。
 でも、私は、恋をした。将吾と愛し合って、今は慶太という、夫もいる。

 意味。きっと、空白が……田山くんの言ってた、意味。
 新しい自分になるための、意味だった。

「私より、けんちゃんがかわいそうでね……けんちゃん、両親の言うなりに、頑張ってきたのに……あの子、まだ、独身でしょう? 私のためなのよ、きっと。優しい子だから、私に気を使って、恋人もつくらないのよ。病院のことも、生活のことも、ずっとみてくれてる。私なんて、もう死んだほうが……」
「そんなこと、言わないで」

 こんなの、悲しすぎる。
 知美さんも、山内くんも、何も悪くないじゃない。私みたいに、誰かを傷つけたわけでもなく、裏切ったわけでもなく……どうして? この二人が、幸せになるの、邪魔しているの、何?

 そうね、きっと……優しさ……お互いを思いやるあまりに……二人は……

「恋、してみたかった」
「今からでも、できるよ」
「誰と? 私なんて……」
「山内くんと、本当の姉弟じゃないのよね?」
私の言葉に、知美さんは、ドキッとしたように、目をそらした。
「知美さんのこと、大切に思ってるよ、彼」
「優しい子なのよ」
「そうね、優しいわ、山内くん」
 気が、ついているのね。知美さんは、山内くんの気持ちに、気がついてる。
 そして、知美さんも、自分の気持ちに、気がついてる。
「恋、してるじゃない」
「真純さん、私……どうしたらいいか、わからないの。けんちゃんは……私のこと……どう思ってるのか……」
「知美さんと、同じ気持ちじゃないかしら」
「おばさんなのに、そんな、いまさら……おかしいよ、そんなの……」
「ねえ、恋に年齢なんて、関係ないんじゃない? 私もね、夫と……ラブラブなの。年甲斐もなく、恋、してる」

 慶太に、恋。
 そうね、私、慶太に恋してる。慶太のこと、好きだもん。 

「けんちゃん、本当に恋人いないの?」
「いないみたいよ」

***

 今日は、日曜日。十二月に入って、すっかり寒くなった。
「五時くらいまでには帰ってくるから、待っててね。何かあったら、すぐに電話してね」
 はーい、と二人は言って、ホットカーペットの上でゴロゴロしてる。

 冬物の上着を取りに行くって言ったけど、本当は……

 病室には、顔と、体に包帯を巻いた、聡子さんが眠っている。
 ひどい怪我だったんだ……こんなことに、なるなんて……きっと、私のせいなのよね……私の……
 よく眠ってるし、わざわざ起こすのもね。また、来ればいいかな……
 お花を置いて、病室を出ると、そこには、将吾がいた。

「真純……来てくれたんか」
「うん。でも、眠ってたから……」
「ちょっと、ええか」

 私達は、近くの喫茶店へ。コーヒーを注文して、将吾は、重く、口を開く。
「子供ら、どうしとる」
「元気にしてるわ。でも……やっぱり、寂しいのよ。ふとした時に、悲しい顔をするの。私や慶太に、気を使ってるのね……あんなに小さいのにね……」
 俯く将吾は、ずいぶん、痩せていた。
 なんだか白髪も増えて、目元にもシワが増えた気がする。
「カウンセリング、受けてるの?」
「仕事が忙しくてな……なかなか……」
 仕事……大切なことだけど……将吾、それだけじゃあ、ないのよ……あなたにとって一番大切なものは、お金なんかじゃ、買えないんだよ……

「大怪我やった」
「そうね……」
「覚えてないんや……なんも、覚えてない」
「お酒を?」
「少しな……でも、酒のせいやない……聡子を見てるとな……どうしても、お前のことを、思い出してしまう。喧嘩した時は、よけいに、お前の顔が……よぎるんや」
 将吾の、左手の指輪。私の、左手の指輪。
 私達には、私達のパートナーがいて、私達は、他人。他人でなきゃ、いけない。
「あの日……お前の家にいった日からな……俺は、お前のことを思い出してしもうた。昔、聡子とつきあい始めた時みたいにな、お前のことを……」
「私のせいね……」
「真純……俺は……どうしたらええ」

 どうしたら……どうしたらいいの? 私達、どうしたら……
 私は、どうしたら……
 
 どうすればいいのかは、わからない。
 でも、選んじゃいけない答えだけは……わかってる。

「どう、したいの?」
「わからん……もう、わからんのや……」
「私達……兄妹、なのよね?」
 それが、最後だった。
 最後の、いいわけ。
 私達が、最悪の道を選ばないための、最後のいいわけだった。

「違う」
「違う? でも、あの人も、可能性はあるって……」
 私の言葉に、将吾ははっとしたように、口を噤む。
「そうやな……」
「どういうことなの? ねえ、将吾、何かあるの?」
 何かある。将吾は、何か、私に隠してる。
「兄妹じゃ、ないの?」
「……検査を……」
「検査? 検査って何? ねえ、何なの?」
 顔を上げた将吾は、何かを決意したように、私に向き直った。そして、強い目で、私を見る。
「DNA検査で、俺らは他人やって、確定した」
「DNA検査? 何なのそれ! そんなこと知らないわ!」
思わず荒げた声に、ちらちらと、周りの人が見る。
「たぶん、佐倉も必死やったんや。必死で、お前をつなぎとめようとしてた。でも……」
「ちょっと待って。なんのことなの? なんでそこに慶太がでてくるわけ?」
「……検査を、してくれと頼まれてな」
「いつ?」
「あの、あの時や……お前が、聡子を……いや、俺と、部屋で……あいつ、その前からな、俺のことを、お前が思い出して、つらい顔をするのが、見てられんって、そう言うとった。だから、兄妹ってことが、本当に証明されたら、それで、真純も、俺のことを忘れられると思ったんやろう。それに、俺も……俺らのことを、離せると、思ったんやろう……」 
 そんなこと……知らなかった。慶太が勝手に、そんなこと……

「あいつは悪くない。悪いのは……」
「私ね」
「真純……俺は……お前がほんまにな……好きやったんや……でも、佐倉もな……」
 
 もう、このままじゃ、いられない。
 
 私が選ぶのは……選ばなきゃいけないのは……
 そして、将吾が選ばなきゃいけないのは……

「将吾、私のこと、好き?」
「……好きや。真純、やっぱり、俺にはお前しかおらん」
「じゃあ、私を選んで。何もかも捨てて、私を、選んで。ねえ、覚悟があるんでしょう? 私を選ぶってことは、どういうことか、わかってるよね?」

 将吾。
 将吾……違うでしょう?
 あなた、私のことなんてね、本当はもう、好きじゃないんだよ。
 
 私達は、あの頃の私達の、幻を見てるだけ。
 私も、あなたも、ね。

「来て」
 
 私は、将吾を連れて、聡子さんの病室へ戻った。聡子さんは、目を覚ましていて、私と将吾の姿に、ふと、俯いた。

「将吾、聡子さんに話して。私を選ぶって、聡子さんに言って。早く言ってよ。何もかも捨てるんでしょう? この人のことも、子供たちも、何もかも捨てて、私を選ぶんでしょう?」
「真純……お前……」
「早く言いなさいよ。ねえ、早く! はっきり、偽物のお前なんかもういらないって、本物の真純を選ぶって、言いなさいよ!」

 ねえ、言えないでしょう? 将吾……あなたはね、愛してるのよ……聡子さんのこと。子供たちのこと……もうね、私のことなんて……

「将吾……いいのよ」
 何も言えないまま、呆然と立ちすくむ将吾に、聡子さんは、優しく言った。
「真純さんのこと、ずっと待ってたんだから……いいのよ。もう、いいのよ……私、充分、幸せだったから……」
 
 聡子さんは、泣きもせず、ただ、微笑んで、でも、寂しい顔で、悲しい目で、ただ……

 その顔は、昔の、私。
 虐待され、いじめられ、孤独で、寂しさに打ちひしがれていた、あの頃の、私。

 将吾……あなたが好きな私はね、もういないの。
 寂しい顔をした、門田真純はね、もう、いなんだよ。あなたが守りたかった、あなたが守ってくれた、門田真純は、今はもう、佐倉真純になって、何の不自由もなく、きれいな顔で、暮らしているわ。もう、あなたに守られなくてもね……いいのよ……
 わかっているんでしょう? 本当は、わかってるんでしょう?

「お前が……お前がそんなやから……お前がそんなやから、俺は、俺は、真純を追いかけてしまうんや! そんな顔、そんな寂しい顔するから、昔の真純みたいな顔で、そんな目で俺を見るから……聡子……聡子……俺は……」

 将吾は、私を通り過ぎて、その、包帯の顔を、大きな手で、そっと覆った。
「聡子、お前を、愛してるんや……真純に似たお前やなくて、聡子、お前を……愛しとる」
「将吾、本当に?」
 彼は頷いて、私に、涙の滲んだ、赤い目を向けた。
「真純……すまん……」
「……バッカみたい……早く、子供たち、迎えに来てよね……もう疲れちゃった」
 
 これで、いいんだよね。

 ドアが、閉まった。
 きっと、もう、これで、あの二人は、ううん、あの家族は、本当に、幸せになる。

 これで……将吾、私……少しは、罪滅ぼし、できたかな……

 そして、慶太……私、あなたのこと、本当に苦しめてたね……本当に、傷つけてたね……
 私……こんな私……もう、あなたに、愛される資格、ないよね……

 広いリビング。大きなテーブル。
 そうだったね。このテーブル、赤ちゃんが生まれたらって、家族が増えたらって、大きなテーブルを選んだよね。このマンションも、そうだった。新しい家族を迎えて、新しい生活を始めるために、ここに来たんだよね。
 それなのにね……
 私じゃなかったら、きっと、慶太はいいパパになって、子供もたくさんいて、楽しい家庭を築けてた。本当は、幸せに……幸せな二十年を、送ってた。思い出のいっぱいある、二十年。
 私が、あなたの人生を、変えてしまった。
 こんな冷たい人生に、してしまった……

「おばさん、おかえりなさい」
「ただいま。宿題、終わった?」
「うん、終わったよ。ねえ、今日の夕食、何?」
「ロールキャベツにしようかな。お手伝い、してくれる?」

 こんなに可愛い子供たち。いいな、かわいいな……きっと、一生懸命だったから、聡子さんには、こんなかわいい子供たちがいるんだよね。

「あー、碧、キャベツやぶっちゃった!」
「だって……むずかしいんだもん……」
「大丈夫よ。こうやってね、小さい葉っぱを重ねて……」

 もうすぐ、お別れ。この子たちともね、もうすぐ……喜ばなきゃいけないのにね、おばさん、ちょっと、寂しいんだ。あなたたちと過ごした、たった一ヶ月だけどね、とってもね、楽しかった。
 本当なら、慶太、こんな風に……

 ずっと、自分のことしか考えてなかった。
 自分が幸せなのか、自分がこれでよかったのか、そればかり、考えていた。
 慶太も、将吾も、聡子さんも、田山くんも、山内くんも、みんな、自分よりも、誰かのことを考えてる。自分の幸せよりも、誰かのこと、愛する、誰かのこと。
 
 もし、将吾が私と一緒にいたら、将吾はどんな人生だったんだろう。
 もし、聡子さんが将吾と出会わなかったら、聡子さんはどんな人生だったんだろう。

 もし、慶太が私と出会わなかったら、慶太は……幸せ、だったのかな……

 もし、私がいなければ、私が、生まれてこなければ、みんな、どんな人生だったの?

「真純? 電気もつけずに、どうしたんだよ」
 灯、つけないで……
「……どうしたんだよ、泣いてるのか? 何かあったのか?」
 こないで……そばに、こないで……
「何があったんだよ」
 慶太、私、もう、あなたと一緒にいるのが……
「どうして……離婚しなかったの?」
「なんだよ、急に……」
「どうして、私だったの? ねえ、どうして? 私なんて……捨てて欲しかった……愛して欲しくなかった! あなたがいなかったら、私、私……誰も、傷つけなかったのに……私がいなかったら、誰も傷つかなかったのに……」
 
 あの夜みたいに、私はソファに座ってる。ソファに座って、見もしないテレビの光を受けて、慶太の顔を見ずに、泣いている。

 でも、今は違う。
 慶太は、私を優しく抱きしめて、耳元で、言った。

「さっき、杉本から電話があったよ。金曜日に、迎えに来るって」
「聡子さん、退院するの?」
「ああ、自宅療養に切り替えるって。杉本も、しばらくは夜勤をなくしてもらうそうだ。子供たちにも、ちゃんと聡子さんのことを話して、また一から、やり直したいって」
「そう……いなくなっちゃうんだね……あの子たち……」
「あと、一週間あるよ。金曜日は、ちょっと早いけど、クリスマス会しようか」
「もうクリスマスかあ。そうね、何、しようかな」
「そりゃ、当然、ローストビーフだろう!」

 慶太はそう笑って、寝室で眠る子供たちの寝顔にそっとキスをした。
「寂しくなるなあ」

 金曜日。
 私たちは、みんなでクリスマス会をした。中村くんと、まだ包帯のとれない聡子さんも来てくれて、みんなでワイワイと、ご飯を食べて、ケーキを食べて……
「これは、俺と真純から子供たちにプレゼントね」
 涼くんにはグローブ、女の子二人には、お揃いのコート。子供たちは、気に入ってくれたみたい。
 早速コートを着て、荷物を持って……帰っちゃうんだ。もう、帰っちゃうんだね。
 泣かないって決めてたのに、ダメね、私……涙が止まらない……
「また……遊びに来てね……おばさん、待ってるからね……」
「おばさん、凛、おばさんのこと、大好き」
「碧も大好き」
 あったかくて、柔らかい子供たち。抱きしめた手が離せなくて、慶太が、おじさんは? って。
「おじさんのことも好きだよ、おばさんの次に!」
「なんだよ、まあ、いっか!」

 みんなで笑って、中村くんの車を見送って、なんだか、ガランとしちゃったね。
 久しぶりの、二人で入るベッド。なんだか、あの子たちの匂いがする。テーブルも、ソファも、お風呂も、トイレも、なんだかね、あの子たちの匂いがするね。

「こんなに静かだったんだなあ」
「そうね、ずっとこうだったのにね」

 お風呂上がりの慶太。セットしてない髪、意外と長いよね。
「真純……俺さ、お前に言わなきゃいけないことがあるんだ」
「なに?」
「俺……勝手にな……検査したんだ。DNA検査……杉本との関係を、調べたくて……ごめんな……」
「兄妹じゃ、なかったんだよね」
「知ってたのか?」
「将吾から聞いたわ」
「検査ではっきりすれば、お前も、俺のことだけを見てくれるんじゃないかって思って……」
 慶太……そんなことしなくても、私ね……慶太のこと、好きなんだよ。
「どうして、私だったの?」
「わからない。今でも、本当に、わからないんだ。正直に言えばね、真純のこと、田舎くさくて、ださくて、暗くて、バカにしてた。最初は、カラダだった。でもな……俺さ、たぶん、初恋だったんだよ、真純が。いろんな子とつきあったり、遊んだりしてたけど、こいつが欲しいって、そんな風に強く思った子は、真純だけだった。どうしてかな。わかんないけどね、ただ、好きだったんだろうな。でも、俺はね、それが、恋ってやつだと思うんだ。ただ、好き。条件も理由も、何も関係なく、ただ、好きになる。それがね、恋なんじゃないかな」
 恋……それが、恋……
「真純が、俺じゃなくて、俺の条件を選んだことは、わかってた。だって、俺が杉本に勝てたのはそれだけだったからさ。俺なんて、なんの取り柄もない、ただの、金持ちのドラ息子。俺が真純を幸せにできる方法は、それだけ、だろ?」
 慶太は、ちょっと寂しげな目をして、私の、手を握った。
 その手は、あったかい手。細い手。きれいな手。
「納得してくれた?」
「もし……私じゃなかったら、もっと幸せになってたと思う?」
「思わない。俺は、真純とじゃないと、幸せになれないから」

 もう、いいじゃない。
 もう、いいんだよね。

 これが、私達の人生。これが、私達の生き方。私達が、私達の、選んだ人。

 間違ってない。間違いなんてない。だって、こうしか、ならなかったんだもん。こうなることが、私達の、運命だったんだもん。

「私のこと、好き?」
「好きだよ、真純。大好き」

 将吾には、聡子さんがいる。
 私には、慶太がいる。

 私と将吾は、一緒にはなれなかった。そういう、運命だった。
 だって、あなたは聡子さんと、私は慶太と、一緒になる運命だったんだもん。

 愛されていい? ねえ、慶太……私、あなたに、愛されてていいよね。
 私、あなたのこと、ずっと愛してて、いいよね。
 こんな私だけど、慶太、あなたの奥さんで、ずっと、いてもいいよね。

「慶太、あのね……私、怖いの」
「何が怖いの?」
「……母親に、どうやってなればいいか、わからないの」
 慶太……ごめんなさい。私やっぱり、ママにはなれないの。あなたを、パパに、できないの。
 でも、慶太は、私の肩を抱き寄せて、ふふっ、と笑った。
「そうだなあ。俺もガキだし、到底親父になれる気がしないなあ」

 ありがとう、慶太。
 これも、運命、なんだよね。
 私たちは、二人きりの家族。子供がいなくたって、私たちは、家族。

「妊活終了! でも、俺はじいさんになってもエッチはするからな!」
 は? なんの宣言?
「おっぱい、たれちゃうかもよ? それでもいいの?」
「たれないように、毎日マッサージしてあげる」
 またニタニタしちゃって。
「今日は久しぶりだから、朝までがんばるぞー!」
「あっ、もう……いきなりそんなこと……」

 でも、私もちょっと……今夜は……朝まで、起きちゃうかも!



 年が明けて、リフォームも終わって、サクラコンサルタントオフィスも、新しい門出を迎えた。
 気合の入る私たちに、もう一つ、新しい門出!

「まじか、お前!」
慶太の声に、みんなが顔を上げた。
「所長、声が大きいです」
「いや、だって、お前……オンナいたんじゃん!」
「僕は別に、もてないわけじゃありませんから」

 わーわー騒ぐ慶太に背中を向けて、山内くんは、私に、ちょっと目配せした。
 そう、あれからね、山内くんと、知美さんね……
「真純さんの、おかげです」
「そんなことないよ。でも、よかったね。おめでとう」
こっそり笑う私達に、慶太が……
「あー! またお前ら! コソコソするなって! 山内、お前、早速浮気か!」
「もう、所長、うるさい!」
「だって……仲良くするから……」

 山内くんは、事務所の近くに引っ越しをして、そこには、知美さんも。
 姉弟、としてじゃなくって、恋人として。ううん、もうすぐ、夫婦になるんだって!
 近くなら、何かあってもすぐに戻れるし、私も、力になれるね。

「山内。まあ、おめでとうな」
「ありがとうございます」
「嫁さん、食わせていくんだから、もっと働けよ」
「報酬、よろしくお願いします」
「ふん、稼いできてから言えって」
なんて言ってるけど、嬉しそうね、慶太。
「それと、お前、外回り、いいわ」
「どうしてですか」
「お、お前は、その、暗いんだよ。藤木に行かせるから、お前は中で、しっかりやってくれ。あー、まあ、その、なんだ。すぐ、帰れんだろ、内勤なら」
「所長……ありがとうございます」
 優しいんだ、慶太。
 こういうところが、一番好きなのかも。
 素直じゃなくって、意地っ張りで、でも、ほんとは、とっても優しい。
「相田、そもそもお前がつかえないのが悪い!」
「えっ、ここで僕ですか……そんなぁ、山内さん、勉強、教えてくださいよ……」
「授業料、高いけど、いい?」
 みんな、笑ってる。山内くんも、藤木くんも、相田くんも、慶太も、私も。愛想とか、そんなんじゃなくって、心のそこから、本当にね、嬉しいの。

「この度、結婚することになりました。妻は療養中で、看護が必要な身です。ご迷惑をかけることもあると思いますが、よろしくお願いします」

 みんなで、微笑んで、拍手して、おめでとうって。
「じゃあ、真純、山内の代わりに俺と、外回りデートしよう!」
もう。慶太ったら。
「デートじゃないでしょ!」

 山内くん、幸せそう。
とっても、とっても、幸せそう。
結婚のこと、一番に私に伝えてくれた知美さんも、とっても幸せそうだった。

 幸せって、決まったものだと思ってた。
お金とか、地位とか、名誉とか、家族とか、目に見える、形になったもの。
私は、ずっと、それを追いかけた。
前の職場でも、いい部署を、いい上司で、作り上げた。
 だから、だったんだよね。
だから、あっさり、壊れちゃった。だって、作りものだったんだもん。
この事務所みたいに、自然に繋がった関係は、きっと、永遠に壊れない。
山内くんと知美さんも、永遠に、壊れない。
将吾と聡子さんと子供たちも、永遠に、家族。

 私……
 私は?
 私と慶太は?

 永遠に、壊れない?

 ねえ、慶太。
あなたは、本当に、幸せなの?
あなたは、今のあなたは、本当の、慶太なの?

 私達は、本当の、私達なの?







 

別離

 リフォームから、一年が経った。
 俺達は相変わらず、ラブラブ夫婦街道一直線……なはずだったけど、どうやらちょっと、様子が変わっている。

 俺の事務所のリフォームは、来る客、来る客に好評で、口コミで田山はいろんな会社でリフォームを手掛けまくって、いつの間にか、ビジネス誌や専門誌にあのイヤミなキザな顔が載るようになっていた。
 おまけに、イケメンデザイナーとか、そんなフレコミがついちまって、俺のほうが断然イケメンなのに、テレビやら女性誌なんかにも出没するようになって……
 ああ、気に入らねえ! 俺のおかげなのに、あいつは、真純に(だけ)愛想よく、しつこく、一緒に仕事しませんか、と事務所に現れて、まあ、真純もそのたびに断ってるんだけど、どこからか、料理のコラムの話を持ってきて、結局、真純もその仕事は喜んで引き受けてしまった。
 ……それだけなら、よかったんだけど……
 ファッション雑誌が真純の美貌を見逃すわけはなく、いつの間にか、読者モデルなんて始めてしまった。当然、あっという間に人気が出てしまって、あちこちの雑誌に登場して、俺も、ちょっと……鼻高々。
 だって、やっぱり、うれしいじゃん。自分の嫁さんがこんなにイケてて、女から羨望の眼差しで見られてるなんて。
 でも、料理の仕事と、モデルの仕事と、事務所の仕事をかけもちしてるもんだから、かなり忙しくて、事務所にはあんまり顔を出せなくて、家に帰っても、ゆっくりいちゃいちゃする時間がなくなってしまった。 
 まるで、空白の俺達の時のようになっちまってて、でも、顔を見たら、お互いキスしたり、ラブラブできるから、あの頃みたいに、冷たい生活じゃないんだけど。
 しょうがないか。俺も真純も、仕事なんだから。ちょっとくらい会えなくっても、ガマンガマン。事務所も、くやしいけど、田山と山内のおかげで、儲かってるし……

 しかしまあ、今日の客は、うれしくない客だ。
 コーヒーを置いて出て行く相田に、わざとらしい笑顔で、そいつは、ありがとうございまーす、いただきまーす、と言った。
 俺はこういうテンションのやつが、どうも嫌いだ。
 だけど……仕事だからな……

「いやあ、オシャレなオフィスですねえ!」
「ありがとうございます。去年、改装したんですよ」
「そうですかぁ。ところで真純ちゃん、元気?」
目の前の三好は、馴れ馴れしく、タメ口で聞きやがる。
「ええ、元気ですよ。ここで働いてましてね。今日は外回りで、夕方まで戻らないかなあ」
「そうかそうか、顔見たかったんじゃけどなぁ。なんやら、モデルみたいなことしとんさるんでしょう。いやあ、あんだけべっぴんじゃったらねえ」
その広島弁も、わざとらしい。イラつくなあ。さっさと帰れ。
「ところで、今日はどうされたんですか? 東京まで、お仕事ですか?」
「いや、実はですね。知事選に出ることが決まりまして」
こんなやつが知事か……世も末だな。
「それはおめでとうございます。ご健闘を」
「ありがとう。それで、ちょっと準備に手間どってましてねえ」
「ほう、なんでしょう。資金ですか?」
「いや、まあ、それはなんとかね」
金じゃないとすると……だいたい、予想はつくな。
「お恥ずかしながら、この歳まで、独身でしてね。まあ、なんというか……」
女の清算か。情けねえやつ。ああ、もしかして……真純のお母さんのことか?
「これを機に、結婚しようかとね」
えっ! それって、もしかして……
「先生とは、義理の親子ってことになりますなあ」
うわ……それが目的かよ……
「そうですか。おめでとうございます。全く存じませんで」
「真純と、純子は、相変わらずですか」
お前に真純なんて、呼ぶ資格ねえよ!
 俺はもう、イライラの絶頂で、これ以上、この最低なおっさんと話すことはできそうにない。下手すりゃ、殴ってしまいそうだ。
「三好先生、過去について、私は何も言う気はありません。ただ、あなたは真純を傷つけた。それだけは、やはり許せない」
だけど、三好は俺を挑発的に見て、にやり、と笑いやがった。
「わかってないなあ」
「何がですか」
「私はあの子を、無理矢理乱暴したわけじゃない」
はあ? 何言ってんだ、こいつ!
「ちゃんと、代金は支払ったんですよ」
「代金って……なんですか」
「おや、ご存知ないんですか。純子はねえ、客をとってたんですよ。でも、まあ、なんというか、世の中には、『大人の女』に興味のない男もいるんですよ。わかるでしょう?」
……吐きそうだ……
「それなのに、あのチンピラの息子。まったく、いいとばっちりだ」
三好は、鼻で笑って、タバコをふかした。くっせえ煙が俺を襲う。
「私もあれで懲りてね。でも、最近の子供は、発育がいいというか、なんというか……十八だと言って、蓋を開けたら十五、十六だ、なんてねえ。いやはや、困ったことですよ」
「……それで?」
「私の公約は、青少年教育の改革と、女性のポジティブアクションの推進なんです」
 短くなったタバコを灰皿に押し付けて、鞄の中から、風呂敷包を出した。
「いくらかかっても構わない。私の公約が守られるよう、協力してください」
風呂敷の中には、札束が、十冊。
「不足の請求書は、ここへ」
「お断りすると言ったら、どうなりますか」
無駄な質問だな。
「そうですねえ。佐倉代議士の義理の娘は、援交をしていた、なんて噂がたちますねえ」
くそっ……
「代金はお支払いします。それから、先生。親戚の好で、応援、お願いしますよ。ああ、そうだ。真純に、スピーチお願いしようかなあ。あの子も、すっかり有名人なんでしょ?」
三好はニヤニヤと笑って、立ち上がった。
「では、ケイタクン。よろしくね。オトウサマにも、よろしく」
灰皿には、あの男が吸っていた、汚らしい吸い殻が潰れている。
「なんだよ!」
 なんてことだ……まさか……こんなことに……もし真純に知れたら、また傷つけることになってしまう……

 ぼんやり、目の前の風呂敷と、メモと、汚い吸殻を眺めていると、ドアの向こうから、真純と山内の声が聞こえた。

「ただいまぁ。あー、寒かった! ねえ、お客様?」
「いいえ、もう帰られました」
「そう。失礼しまーす」
 しまった……片付けるタイミングが……
 気が付いた時にはもう、ドアが開いていた。

「これ、頼まれてた書類」
「ああ、ありがとう」
真純は、テーブルの上の札束と、三好が残していったメモを、じっと見た。
「これ……あの人よね……」
「か、会計のことで、相談に来たんだよ」
「このお金、何?」
「ちょっとややこしいから、割増料金」
俺は軽く笑ったけど、真純の視線はかたまったまま。
「……そう……」
真純はそう呟いて、背中を向けた。
「真純、違うんだ」
「何が違うの?」
「……その……結婚、するそうだ……お母さんと……」
「関係ない」
 声が震えている。
 そうだよな……自分を傷つけた男が父親になるなんて……でも……本当のことなんか、言えない。
 まさか、実の母親が、娘を男に売っていたなんて、そんな残酷なこと……言えるわけない……
「知事に立候補するから、協力してほしいって。お父さんに、なるわけだしさ……」
「……そうね」
そう言い残して、真純は部屋を出て行った。
 ダメだ……また真純を傷つけてしまった……でも、今回は、こうするしか……

「真純さん! どうしたんですか!」
 山内の声に慌てて出て行くと、キッチンスペースで震えて蹲る真純がいた。
「真純! 大丈夫か!」
「ごめんなさい……ちょっと……目眩がしたの……大丈夫だから……」
どうしよう……また……
「立てるか?」
でも、真純は俺の手を取らなかった。顔を背けて、ただ、ガタガタと震えて、俯いている。
「真純さん、こちらへ」
 山内は、うろたえる相田と藤木の視線から守るように、ジャケットをかけて、新しくできた休憩室に、真純を連れて行った。
 窓の外から見える真純は、泣いている。山内が隣で一生懸命なだめて、俺の顔をちらりと見て、静かに首を横に振った。

 山内だけには、真純のことを話している。気持ちが揺れること、動揺すること……自分を見失ってしまうこと。
なんだかんだ言って、山内は信頼できるし、一緒に外回りしている時も、ずっと注意してくれていた。
相田と藤木も、なんとなくわかっていて、二人とも、何も言わず、デスクに戻っていく。
「部屋にいるから、山内に来るように言ってくれ」

 久しぶりに安定剤を飲ませて、真純は休憩室のソファで眠っている。
「何があったんですか」
さっきまで三好が座っていた場所で、山内は重く口を開いた。
どうしよう……山内には話してもいいだろうか……
「実は……さっき来た客な……」
 俺は、山内に全てを話した。真純も山内を信頼してるし、今は俺が何を言っても……

「最初に、聞いたでしょう。所長の仕事は理解しているのかと」
そうだった……
「なぜ、ちゃんと話さなかったんですか」
「……知られたくなかったんだ……」
山内は、呆れた顔で、俺を見た。
「それでよく、ここに呼びましたね」
「まさかこんなことになるなんて、思わなかったんだよ」
 俺たちはただ、俯いて、あの札束を見ている。
 金……こんな金……捨ててしまいたい……
「話すべきです。ちゃんと」
「なんて言うんだよ……こんな残酷なこと……言えねえよ……」
「下手に取り繕うほうが、彼女を傷つけることになりますよ。そして、依頼は断るべきです」
「そんなことして、真純のことが本当に噂になったら……」
「真実なんですか?」
「違うに決まってんだろ!」
「何が怖いんですか。ご自分の経歴に傷がつくことですか? それとも、事務所の評判ですか? お父さんの名誉ですか?」

 ……何も言えなかった。
 俺はいったい、何を守ろうとしているんだろう。

「真純が傷つくから……」
「もう傷ついてますよ。これ以上、傷を深めたくないなら、決断してください」
 山内は俺に無言の圧力をかけて、今夜はうちに来てもらいましょうか、と言った。
 真純と山内の嫁さんは仲が良くて、しょっちゅうお茶だランチだと、遊びに行っている。真純が友達と出て行くことなんて、今までなかったし、正直、俺はかなり安心していた。もうすっかり、落ち着いたんだと、油断していたのかもしれない。
 うじうじ悩んでいる俺に、山内はイライラした様子で、鳴った内線電話を乱暴にとった。スピーカーから、気まずそうな藤木の声が聞こえてくる。
「真純さんにお客様なんですが……」
「今は無理だ。帰ってもらえ」
「それが……あっ、あの……ちょっと……」
ドアが開いて……はあ、またこんな時にややこしい奴が!
「ご無沙汰しております」
 山内の顔が、みるみる不機嫌になって、負けずに田山も、むっとしている。
「では、私は失礼します」
 山内は聞こえそうなくらい、顔面で舌打ちをして、部屋を出て行った。

「真純、ちょっと体調がね」
「さっき、休憩室でお会いしました」
「なんで!」
「電話をしたら、休憩室にいるというので」
田山は、何もかも知っている様子で、憎々しい目で俺を見る。
「で、今日は何?」
「海外に行くことになりまして」
「海外? どこ」
「イタリアです。新しい商業施設の建設計画がありましてね、日本人のプロデューサーを募集していて、めでたく採用されたんです」
なんだよ、すげえじゃねえか。
「デザイナーより、どうやらプロデューサーのほうが向いているようなので、この際、勉強のつもりで行こうかと。まあ、こちらの事務所のデザインさせていただいた結果ですから、お礼は言わせていただこうと思いまして、寄らせていただきました」
「そう……がんばって。どれくらい行くの」
「二年か、三年か。もしかしたら、向こうに移住して、日本と行ったり来たりかって、感じです」
 イタリアか……こいつも、遠くへ行っちゃうんだ……それはそれで、ちょっと寂しいな。
「幸せになったと思ったのにな」
「誰が?」
「真純さんです。あんなに泣いて……心配だ」
 相変わらず挑発的なヤツ!
「何か、言ってたか……」
「まったくね、俺には彼女の気持ちがさっぱりわかりませんよ。あなたのどこがいいのか、俺には理解できない」
「なんて……」
「慶太は悪くない、の一点張りです」
真純……
「佐倉さん、いい加減にしていただかないと、俺、本当に奪いますよ。俺は彼女のためなら全て投げだせます。何もかも失っても構わない。だけどね、彼女はあなたをなぜか愛している。彼女を傷つけることだけはしたくないから、俺はそうしないだけで、なのにあなたは……もう少し、真純さんを大切にしてください」
 なんだよ……俺だって精一杯やってんだよ……俺の何が悪いんだよ……
「何もかも失うって、仕事とか、なくなってもいいってことか?」
「そうですね。それで失うような仕事はいらないです」
 バカバカしい。独身だからそんなこと言えるんだよ。嫁さん食わせていくことほど、大変なことはねえんだよ!
「俺は真純のために働いてるんだ。お前にとやかく言われる筋合いはない」
「そうですか。せいぜい、がんばって働いてください。そして、金のために、真純さんを傷つけてください」
 田山はそう言って、俺を睨みつけて、俺もヤツを睨みつけた。
 ふん、と言って、田山は立ち上がり、ドアがバタンと音を立てて、猛スピードでプリウスは出て行った。

 でも……
 休憩室では、少し落ち着いた様子の真純が、ココアを飲んでいた。
「大丈夫?」
「うん。ごめんね」
「断るから」
「いいの。慶太のお仕事だもん」
真純はにっこり笑った。メイクは随分落ちてしまって、目も腫れている。
「理解してるつもりよ」
 そうだよ……だって、真純を幸せにしたいから。
 こうやって、不条理なことに手を染めて、薄汚れた金を集めている。俺だって、俺だって……こんなこと、好きでやってるわけじゃねえんだよ!
「今日は遅くなるから……山内の家に行くか?」
「ううん、お家に帰る」
真純は少し笑って、バッグからメイクポーチを取ってきて、と言った。
「私のこと、気にしないで。ビジネスに私情はタブーよね」
メイクを直し終わった真純は、キャリアウーマンの顔で、そう言った。

「どうしたの、浮かない顔して」
 親父の事務所の帰り、松永さんが運転席で、俺の顔をちらりと見た。
 松永さんの車は、昔、俺が散財を繰り返したあのセルシオで、もう二十年以上乗ってるのか……すげえなぁ。
「ちょっと、面倒な案件が……」
ああ、もしかして、松永さんなら、あいつのこと知ってるかな。
「三好って、知ってますか。今は広島で県議やってるんですけど、昔、親父の事務所にいたらしいんですよ」
「三好……ああ、覚えてるよ。なかなか、やり手だったなあ。大学が東京で、五年ほどうちで事務をやって、広島に帰ってからあっさり通った。しばらくはちょくちょく、うちに来てたけど、もう何年も顔見てないな」
「次の地方選で、知事に出るそうです」
「へえ、そう。やり手だったけど……素行がちょっと悪くてね。実質、クビだったんだ。三好くんが、どうかしたの」
 どうしよう……松永さんには……言うべきだよな……だって、親戚になるわけだし……
「真純のお母さんと結婚するらしいんです」
 松永さんは、予想通り、表情を曇らせた。
「児童買春の過去があるようで……清算したいと……」
「いくら持ってきたの」
「十本です」
「受け取ったの?」
「真純のことを……その……噂にするって……だから俺、断れなくて……」
「まさか、真純ちゃんの過去のこと? その相手が?」
「……真純のお母さん、金を……」
俺の言葉を遮るように、路肩に寄って松永さんは急ブレーキを踏んだ。
「なんてことをしたんだ! 君らしくない!」
「すみません……でも、どうしても……俺……真純が傷ついたら……真純も、完全な一般人ってわけじゃないし、どうしたらいいか……」
「断るべきだった」
「……そうですよね……」
松永さんは舌打ちをして、深いため息をついた。
「たかられるぞ、これからも。先生にご迷惑がかかることになる。それより、真純ちゃんが心配だ」
「どうしたらいいですか」
「……最悪、離婚だな」
そんな……
「先生は、反対だった。君たちの結婚に」
「わかってます」
「僕は君を見誤ったようだ」
松永さんは、冷たい目で俺を見た。まるで、親父や兄貴のように……俺は、ついに松永さんにまで、見放されたのか……
「一度受け取ってしまったものは、もう仕方がない。なんとしてでも、当選させるんだ」
 情けないな、俺は……この歳になってもまだ、松永さんにケツ拭いてもらわなきゃいけない。

 家に帰ると、真純が何か作っていた。新しいレシピの試作らしい。
「美味しい?」
「うん、美味しいよ」
「じゃあ、これで完成ね」
 何もなかったように、真純はにっこり笑って、写真を撮って、後片付けを始めた。
「もう一誌、コーナーを持たないかって言われたの」
「料理の?」
「ヘルシー料理。メタボの旦那さん向けのコーナーだって。そんなの気にしたことないし、もう手一杯だし、断っちゃった」
 俺の事務所で事務を始めた頃に比べて、なんだか、真純は本当のモデルみたいに綺麗になって、昔、カタログに載ってた頃みたいに、垢抜け度が半端ない。
 やっぱり、真純はこうなんだ。セレブで、都会で、やっぱり、それが真純に似合ってる。そのためには、俺もがんばらないとな。それに、俺も真純に似合うダンナじゃないと。
「事務所の仕事、辞めてもいいよ」
「……中途半端よね……迷惑かけてる?」
「そうじゃないよ。真純には、やっぱりあんな地味な仕事より、モデルとかの方が似合ってるからさ」
「そうかな……」
「キラキラして、俺は好きだよ、今の真純のほうが」
 褒めたつもりだったけど、真純は、ちょっと寂しい目をして、お風呂に入る、と言った。

 時々、そんな目をする。
 何が不満なのか、わからない。聞いても、満足してるって。
 でも、それはたぶん嘘で、真純はきっと、何か隠してる。何かはわからないけど……俺はまだ、やっぱり真純がわからない。
 たぶん、こんな俺が……不満なんだろうな……
 ダメだなあ、俺って。真純の気持ち、なんでわかんないんだろう。

 三好の一件では、松永さんに、随分手をやかせてしまった。気乗りはしないけど、なんとか依頼を全うして、票集めのために、広島へ入った。
 久しぶりに見たお母さんは、正直、びっくりするほど綺麗になっていて、真純には言えないけど……よく似た笑顔で俺達を出迎えてくれた。

「ご結婚おめでとうございます」
「おめでとうやなんか、恥ずかしだけえ。真純、あんばいしとる?」
「ええ、元気ですよ」
 あれから、何度か金の催促があったけど、真純は金は送らないと聞かず、こっそり俺が送金していた。
 三好と松永さんは応援演説のことで、二人で話し込んでいる。はあ、ほんとに、迷惑かけてるな、俺……
「慶太さん、ちょっと、ええかね」
「なんでしょうか」
お母さんは、デスクの引き出しから、書類を一枚、出した。
「これは……」
「真純とは、縁を切ろうおもてねえ」
 絶縁状。
「あの三好ゆうのはね、早い話、地主のドラ息子なんじゃ。そやから、こないして地元で偉そうな顔できる。知っとるやろ、あんな男、金しか能のない、クズみたいな人間じゃ」
 まさか……じゃあ、この結婚は……
「世間ゆうもんは、狭いもんじゃ。まさか、あんたのお父さんのところにおったやなんてねえ」
「脅されたんですか」
「まあ、私も、ええ暮らしができるんやったら、それでかまわんから」
お母さんは、タバコをふかして、寂しげな目をした。その目は……真純とよく似ていた。
「必死じゃった。生きるためになあ。……あの子には……悪かったおもとる」
「真純に、そう言ってやってください」
「今さら、何を言うても、あの子は聞かんじゃろ。私に似て、ガンコやけ」
 お母さんの指には、ダイヤが光っていて、手首にはシャネルの時計が動いている。
「親子の縁を切ることくらいしか、もうしてやれることはないけえ」
 必死だったんだろう。だけど……間違ってましたね、お母さん。
 母親として、人として、あなたは間違ってました。
「弁護士を介しましょう。プロに任せたほうがいい」
「よろしく」
「お母さん、ひとつ、聞いてもいいですか」
「なにかね」
「真純のこと、可愛くなかったんですか」
その質問に、お母さんは、ふっと笑った。
「あの子はねえ、可愛くない子やった。怒鳴られても、殴られても、何されても、泣かんのや。子供らしくない、子供やった。じいっとな、何も言わんと、平気な顔して……よう、殴った……」
 最後の言葉を呟いて、彼女は、自分の右手を握りしめた。
「……三好に金をもうたことだけは……真純に言わんでください」
「勝手ですね」

 俺は、悲しかった。想像以上に、真純の過去が、悲しく、俺にのしかかった。こんな風にしか、結末を迎えられないこの親子。
 真純も、お母さんも、俺は……悲しいよ……真純……
「真純のこと、よろしくお願いします」
 そう言って、お母さんは、俺に頭を下げた。
 その瞬間から、真純にはもう、本当に、俺しかいなくなってしまった。

 東京への帰り、松永さんが、兄貴が次の選挙で、国政に出ると教えてくれた。真純に、広報活動をしてほしいと言っているらしい。
「真純に聞いてみます」
 俺の返事に、松永さんは、怪訝な顔をした。なぜかはわからないけど、松永さんは、それからずっと、機嫌が悪くなった。

 わからない。俺の何が悪いのか、何が間違ってるのか。
 じゃあ、どうすればいいんだよ。精一杯やってるんだよ。真純のこと、大切にしてる。愛してる。真純のために、俺、頑張ってる。
 だけど、違うと言う。田山も、山内も、松永さんも……何が違うんだよ。真純の思うようにさせてやってるし、不自由なくさせてる。これ以上、俺にどうしろって言うんだよ。
 なあ、真純。お前はどうすれば、その寂しい目をしなくなる? 教えてくれよ。俺、その通りにするから。

 お前が本当の笑顔で笑えるように、俺、なんでもするから。

***

「専属で、モデルしないかって」
「へえ、すごいじゃん。いいんじゃない?」
「……受けたほうがいい?」
「真純がしたいようにすればいいよ」
「うん……考えてみる」

 また、その目……なんだよ……何が不満なんだよ!

「何が気にいらないんだよ」
「別に……そんなことないよ」
「気にいらないから、そんな顔するんだろ? はっきり言えよ。何がそんなに気にいらないんだよ! 何が不満なんだよ!」
 あ……また……やってしまった……
 真純は黙ったまま、部屋に入っていった。
 ここのところ、こういうことが多くなった。このままじゃ、ほんとに……あの頃の俺たちに戻ってしまう……

「真純、ごめん。つい……入っていいかな」
 ドアを開けると、真純はベッドにうつ伏せて、泣いていた。
「ごめん……怒鳴ったりして……」
「慶太は、私と一緒にいたくないの?」
 え……
「そんなわけないよ。どうして?」
「だって……雑誌とかの仕事してたら、事務所に行く時間減っちゃうし……」
「いや、真純はその、事務仕事より、楽しいかなと思って……料理も、楽しそうだから……」
「お料理の仕事は楽しいけど、モデルとか、したくないの。全然楽しくないのに……」
「じゃあ、どうして断らないの。断ればいいじゃん」
「だって……慶太……そのほうが好きだって……」
 泣いている真純は、随分痩せていた。抱きしめると、折れそうなくらい、痩せている。
 何度も一緒に風呂に入ってるのに、何度もセックスしてるのに、またこんなに痩せてしまっていたことに、全然、気がついていなかった。
 俺は結局、真純の何も見えていない。やっぱり、見た目しか、見ていない。
 自由にしろって言いながら、俺はやっぱり、真純を縛り付けてる。
「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ。なんていうか……」
 なんていうか、なんなんだ。
 自信が……ないんだよ、俺……
「モデルのお仕事、もう辞めてもいい? なんだか、いつも誰かに見られてるみたいで……変な手紙とか来るし……」
「変な手紙?」
真純はクロゼットの中から、紙袋を出して来た。中には手紙とか、メールのプリントアウトしたものが詰め込まれていて、ほとんど、ファンレターだったけど……
「なんだよ、これ!」
アイコラで体を加工した画像とか、卑猥な文言とか、誹謗中傷とか、見るに耐えないものある。
「訴えてやる!」
「いいの。そんなの、当たり前だって……有名税だから、気にしなくていいって……」
「どうして言わなかったんだ」
「雑誌とか出てるの、喜んでくれてたから……」
 そうだな……そうやって、華やかな真純が……華やかな妻が、俺のステイタスのひとつで……また俺は、お前をアイテムにしてしまってた。
「お兄様の応援は、がんばるから」
「いいよ、そんなの。あんな奴のために、がんばることない」
 松永さんは、わかってたんだ。俺が、そう真純に聞けば、真純は、イエスとしか言えないことを。真純が、喜んでこの仕事をしてないことを……

 俺が何も、わかってないことを。

「会計の仕事ね、難しいけど、好きなの。企画の仕事してたときも、原価計算とか企画書書いてるのが好きだったし、広報よりも、楽しかった。自分で答えを出せるお仕事のほうが、好きなのかな」
「地味な仕事だから、つまらないんじゃないかと思ってたよ」
「そんなことないよ。ただ、難しいの。みんなに教えてもらわないと、できないことたくさんあるし、足引っ張ってるかなって……役に立ててないんじゃないかって……おまけに雑誌の仕事して、中途半端になってしまって、迷惑じゃないかって……」
「充分、戦力だよ。モデル、本格的にやるなら、他に誰か雇わないとって思ってたから。真純の穴、埋めるためにさ。それくらい、真純は事務所にとって大きくなってるよ」
「本当? 私、慶太の役に立ててる?」
「当たり前じゃん。正直、こんなに仕事できるとは、思ってなかったよ。相田より、よほど戦力だ」
 真純は、嬉しそうに笑った。屈託無く、本当に嬉しそうに……
「税理士、勉強しよっかな」
「俺が教えてあげる。そしたら、一発合格だ」
「相田くんにも教えてあげなよ」
「ヤロウに教えるほど、俺はヒマじゃないの」
 俺は真純の涙を拭って、変態の手紙の入った紙袋を丸めた。
「捨てとくね。兄貴の件も、断っとく」
「いいの?」
「いいんだよ。他にいくらでも、いるから。そもそもあんな奴が国会議員になったら、この国も終わりだよ」
 兄貴は、ずっと、真純をバカにしていた。真純の素性を知って、ずっとバカにして、蔑んで来たくせに……
 俺が守ってやらないといけないのに、俺が追い詰めてどうすんだ。
「でも、お料理のお仕事だけはしてもいい? すごく、楽しいの」
「構わないよ。真純が負担に思ってないなら、がんばりなよ。俺も試食がんばるから」
「試食がんばるって、何!」
 俺たちは、笑った。
 真純の目はもう、寂しそうじゃなくって、新しいレシピを見せてくれるその目は、本当に楽しそうで、なんとなく、わかった気がする。

 真純のこと、なんとなく……やっと、わかり始めた。
 真純は、求められたいんだ。誰かに……俺に、求められたい。

「メタボメニューもね、やっぱり、やろっかな」
「あれ? 今、俺の腹見た?」
 クスクス笑って、かわいいな。やっぱり、笑ってる真純が好きだ。こうやって、無理な笑顔じゃなくって、作り笑顔じゃない、自然な笑顔が、一番好き。

 大切なもの。なんとなく、俺、わかってきた気がするよ、真純。

「一緒に、仕事しよう。がんばってくれよ」
「はい、所長。がんばります」

 まもなく、真純はモデルの仕事は辞めて、料理コーナーも、コラムだけになって、真純の顔は、もうどこにも出なくなった。
 また落ち着いた生活に戻って、相変わらず、真純は山内と仲良くして、俺はちょっと、いや、かなりイライラして、時折、田山がテレビやら雑誌で見せるドヤ顔にまたイライラして、くだらないお偉いさん方のミッションを金のためにクリアして、そのたびに落ち込むけど、家に帰って、真純の笑顔を見て、真純の飯を食って、真純の最高のカラダを抱けば、全部吹っ飛んじまう。

 吹っ飛んじまうはずだったけど……

 その夜にかかってきた松永さんからの電話は、そんな俺の毎日を、そんな俺の幸せを、あっけなく、壊してしまう。

「慶太くん、すぐに来てくれ」
 いつも冷静な松永さんが、珍しく、動揺していた。
 何があったのか、急いで親父の事務所へ行くと、兄貴と松永さんが、待ち構えていた。
「慶太! 遅いじゃないか!」
「仕事してたんだよ。なんかあったの?」
青い顔で震える兄貴の代わりに、松永さんが言った。
「特捜が入るらしい」
「特捜? いきなり? 松永さん、ガセじゃないですか? そんな情報、俺のところにもありませんよ」
でも、松永さんは、ため息をついた。
「リークがあったらしい」
「リーク? なんの?……処理は、間違いありませんよ」
 ちょっと、と言って、松永さんは、俺を連れて、秘書室のドアを開けた。
「僕がいけなかった」
「どういうことですか」
「悠太くんがね……献金を……」
「献金? いつですか」
「三か月前にね、僕も知らなかった」
 やっぱり、兄貴はバカだ。なんてことをしてくれたんだ。金の扱い方も知らないくせに、何やってんだ。
「いくらですか?」
「五千」
「五千万!」
「ごまかしようもない」
「まさか……トラップ、ですか?」
「たぶんね。やられたよ」
「方法はあるでしょう。考えます」
「いや……もう、無理だ。慶太くん、今から、僕の言う帳簿を作れるかい?」
その言葉に、俺は、息をのんだ。
「ダメです。そんなこと、ダメです」
「いいんだ。これで、悠太くんも、先生も、君も……全てうまくいく」
被る気だ。松永さんは、全部……
「親父は、なんて?」
「……先生は、僕に任せてくださった」
なんで、笑うんだよ……松永さん、それ、あなたに責任押し付けてるだけですよ!
「便宜は払ってもらえる手筈だ。起訴まで持ち込むだけの証拠はないし、もしそうなったとしても、先生のお力で、すぐに釈放だ。心配しなくていい」
「そんなの、アテになりませんよ! 松永さん、俺がなんとか……」
 だけど……松永さんは、声を荒げた。初めだった。そんな声を荒げた松永さんを見るのは……
「君になど、どうにもできる問題じゃない! 僕の指示に従いなさい!」
 悔しいけど、俺にはもう……俺の力じゃもう……どうしようもない。

「真純、今夜は、帰れそうにない」
「あら、お仕事?」
「ああ。明日まで、かかるから」
「さしいれ、持って行こうか? 松永さんもご一緒でしょ?」
「大丈夫だ……なあ、真純……」
「なあに?」
「俺のこと、愛してるか?」
「……どうしたの?」
「こたえてくれ。これから何があっても、俺を愛してくれるか?」
電話の向こうの真純は、少し黙って、愛してる、と言った。
「ありがとう。俺も、愛してる」
 電話をきって、俺は、パソコンに向かった。キーボードをたたく指に、涙が落ちる。
 こんなこと……こんなこと、俺は……
 これが、俺の……仕事だったのか……
 罪を罪でなくす、罪を誰かに被せる、それが、俺の、仕事。

 出来上がった帳簿を見て、松永さんは、さすがだね、と微笑んだ。
 褒めてなんか、欲しくない。
 こんなもの、作りたくない。
 青い顔の兄貴に、もう何も心配いらない、と松永さんは言った。
「絶対か! 絶対、大丈夫なんだろうな! おい、慶太、お前、絶対だろうな!」
「知るか」

 松永さんは、俺たちにホテルを手配してくれていた。マスコミがきっと、押し寄せるから、と。真純ちゃんが心配だから、と。
「ねえ、何があったの? どうして、ホテルに泊まるの?」
「いいから用意しろ!」
 つい、イライラして、怒鳴ってしまう。真純には何の罪もないし、真純に怒鳴るなんて、間違ってる。
 俺たちは無言のまま、ホテルに入った。
 真純はずっと黙ったままで、俺はずっと、パソコンに向かっていて、どうにかできないのか、こんな方法しかないのか、焦るばかりで、ベッドにぼんやり座ってテレビを見る真純にまたイライラしている。
「うるさい、テレビ消せ」
「ねえ、どうしたの? 何があったのか、私にも話してよ」
「うるさいっつてんだろ! お前には関係ないんだよ!」
 ……しまった……また……
 真純は下唇を噛んで、泣きそうな顔をして、部屋を出て行った。
「くそっ!」
 どうしようもないくらい、俺は、何もできない。どうしようもないくらい、俺は、ガキ。どうしようもないくらい、俺は、バカ。

 一時間、二時間しても、真純は帰って来ない。
 電話をかけても、部屋の中で鳴るだけで、ホテルの中のカフェやレストランを探したけど、見つからない。

 ……どこ行ったんだよ……

 夜、十時を過ぎた頃、部屋のチャイムが鳴った。レンズを覗くと、そこには、松永さんと、真純がいる。
「真純! どこ行ってたんだ!」
顔を上げた真純の目は、真っ赤で、肩をひくひくと震わせて、松永さんの背中に隠れるように、俺の目を避けた。
「じゃあ、真純ちゃん。何も、心配いらないからね。しばらく、不自由をさせるけど、許しておくれ」
松永さんの言葉に、真純は何も言わず、俺を少し睨んで、俺を通り過ぎて、ベッドにもぐりこんだ。
「ちゃんと話してあげないと、ダメじゃないか」
「すみません……でした」
「それじゃあ、おやすみ」
 松永さんはいつもの通り、優しい笑顔で、そう言った。
 間違いなく、逮捕される。
 なのに、松永さんは、恐怖も、迷いも、悲しみも、そんなもの、何もない顔をしている。
「どうして、そんなに冷静なんですか」
「これが僕の仕事だから。先生のお役に立てるなら、それでいいんだ」
辺りをうかがうように、小声で続ける。
「君も、心配しなくていいからね」
 俺はその言葉に、涙を堪え切れない。
 そんな情けない俺の肩を、ぽん、とたたいて、松永さんは、背中を向けた。
 その背中は、どこなく誇らしげで、松永さんは、嘘偽りなく、親父の役に立つことが使命なんだと、告げていた。

「真純……ごめん」
その、ごめん、は、いろんなことを、含んでいる。
「松永さん、どうなるの」
毛布の中で、鼻声が聞こえる。
「……たぶん、逮捕される」
「どうすることもできないの?」
「これが……最善の方法なんだよ。松永さんは、親父や、兄貴や、俺や……真純を、守ってくれてる」
 むくりと起き上がって、真純は、真っ赤な目で、俺を見た。
「これが、慶太の仕事だって……だから、慶太を責めないでって……」
「松永さんが、そう言ったの?」
黙って頷く真純を、俺は、きつく、抱きしめた。ぎゅっと、強く、強く。
「許してくれ。これが俺の仕事で、俺はこうして、金を稼いでる。今までも……これからも……」
「私の、ためなのよね」

 幸せにしたいんだ。
 俺は、ただ、真純を幸せにしたい。
 俺には、この方法しか、わからない。
 この方法しか、できない。
 俺だけじゃ、お前をつなぎとめることが、できない。
 金という、アイテムがなきゃ、俺、お前のこと……お前も、金のない俺なんて、意味ないだろう? 金のない俺なら、杉本や田山を選ぶだろう?

 俺達は、ただ、泣いた。
 きつく抱きしめあって、ただ、泣くことしかできなかった。

「松永さんの車、あの車だった」
「セルシオだろ?」
「懐かしいね……昔、あの車で……買い物、行ったね……」
 当時のことを、真純が話すのは、初めてだったかもしれない。

 薄い、金とカラダの関係だったあの頃。俺達が、傷つけあったあの頃。
冷たい時間だけが過ぎていた、もう遠い……昔。

「家出した時ね……」
「あの時?」
「本当は、松永さんの家にいたの」
初耳だった。
「松永さん、私の顔を見ても、何も聞かなかった。何も言わず、ただ、ここにいればいいよって。……離婚、したいって言った。もう、別れたいって」
「そう……だよね……」
「あのことが原因じゃないわ。私ね、ずっと、嘘をついたことがつらくて……だから、待ってたの。慶太が、離婚しようって、言ってくれる日を。ずっとね……だから、仕事にうちこんで、家事もしなくなって、慶太と……セックスも、会話すら……できなかったの。逃げてたの、私、慶太から。私……慶太とね……向き合えなかった」

 俺と、同じだった。
 俺もずっと、真純から、逃げていた。
 真純は俺といることが怖くて、俺は真純を失うことが怖かった。
 俺達は、ずっと、すれ違っていた。

「だけど、慶太、メールくれたでしょ? 話し合おうって、戻ってきてくれって。嬉しかった。嬉しかったけど、素直になれなくて、松永さんにね、鍵をつけたいって、言ったの。叱られたわ。そんなことしたら、ますます離れてしまうよって。でもね……負けたくなかったの。バカみたいね、私。慶太にね、ずっと、負けたくなかったの。勝つとか負けるとか、夫婦なのにね。……わからなかったの。将吾は、力づくで、私を愛してくれた。だから、私はただ、将吾に愛されてればよかった。何もしなくて良かったの。かれは、私のこと、全部、受けとめてくれてたから。でも、慶太は……努力しなきゃ、いけなかった。変わらなきゃ、あなたには、愛してもらえなかった。変われば、それで愛してもらえると思ったのに、あなたは……私だけを愛してくれなくて……きっと、私なんて、遊びだって……そう思わないと、私……」
「俺は、金だけだと思ってた」
「そうしないと、私ね……」
「バカだったってことだな、俺たち。ガキだったんだ」
「そうね。ガキ、だったのね」
 握った手は、あったかくて、真純の顔は、化粧が落ちて、俺達は、やっぱり四十路のおっさんとおばさんで……オトナに、なっていた。
「ずっと、考えてたことがあるの」
「何?」
「松永さん、一緒に、暮らしてもらえないかしら」
「真純……」
「私、親なんていないも同然でしょ? だから本当にね、松永さんのこと、お父さんみたいに思ってるの。こんなことになって、松永さんも、これから大変でしょう? 体のことも心配だし、なにより、たくさんお世話になったの。恩返し、したいの」
 嬉しかった。真純が松永さんのことをそんな風に考えてくれてたなんて。
 俺にとっても、松永さんは親父以上に親父的存在で、反対する理由なんて、何もない。
「そうだね。話してみるよ」

 いつの間にか、俺達は、本当の夫婦になっていた。

 会社のこと、子供のこと、松永さんのこと。二人で話し合って、二人で答えを出して、これからのことを、二人で決める。今だけじゃなくて、ずっと、未来のことまで、二人で。だって、ずっと未来まで、二人でいるんだから。
 俺達は、夫婦。
 今日も明日も、ずっと、ずっと。

 ずっと。永遠に。
 俺は、真純と、永遠に、夫婦で……いるはずだった。

 面会室に現れた松永さんは、意外に、穏やかな顔をしていた。
 あれから、松永さんは政治献金法違反で逮捕されて、ほぼ、起訴が決定した。
 兄貴も、親父も……俺も……何も、ない。
 俺たち、佐倉家も、佐倉事務所も、サクラコンサルタントオフィスも、何もなかったかのように、変わらずに……

「来てくれたんだ」
 松永さんは、そう言って、優しく微笑んだ。
「松永さん……俺、絶対、松永さんを無罪にしてみせます。どうにかして、俺……保釈金、用意します。保釈要求をしました。松永さん、やっぱり俺……こんなこと……嫌です。許せないんです」
 でも、松永さんは、何も言わず、俺の顔をじっと見た。
「大きくなったねえ、慶太くん」
「大きくって……もう、四十三ですよ、俺」
「はは、そうか。もう、おっさんだなあ」
 物心着いた頃には、もう当たり前のように、俺たち兄弟に、松永さんはいた。親父なんかより、ずっと長い時間、松永さんと過ごしてきた。
「真純ちゃん、元気かい?」
「はい。真純も、心配しています。今日も本当は、来たがってたんですけど、接見の制限があるから……ああ、ちょっと遅くなりましたけど、バレンタインデーにって、真純の手作りのチョコと、プレゼント、持ってきました。後で、受け取ってください」
 松永さんは、ありがとう、と言って、しばらく俯いて、顔を上げた。
「今だから言うけどね」
「……はい」
「僕は、君が可愛かった。やんちゃで、わがままで、素直じゃなくて。随分、君には手をやかされけど、僕は君が可愛かった。先生は、品行方正な悠太くんを可愛がっていたけど、僕にすれば、慶太くんのほうが、よほど可愛かったんだよ」
「色々……すみませんでした」
「君が、真純ちゃんと一緒に暮らし始めた頃、君は僕に言った。その子と結婚するつもりだと。まあね、いつもの言い逃れだってことくらいわかってたけど、それでも僕は嬉しかったんだよ。プレイボーイの君に、そんな嘘をついてまで、一緒にいたいと思う、女の子ができたってことがね」
「……あの頃は、俺もまだガキで……」
「今でもガキじゃないか」
 松永さんは、ははっ、と笑った。
 今でも、ガキか……なんか、情けねえな、やっぱ、俺。
「真純ちゃんもね、あんなに必死にお芝居して」
「芝居?」
「初めて会った時、真純ちゃん、必死だった。君と一緒にいたいんだなって、わかったよ」
 そんな……あの頃の真純は……
「君たちは、随分長い間、お互いを理解できなかったようだけどね。でも、お互い好きあってるってことは、よくわかったよ」
「わかってたんですか……俺たちのこと……」
「僕は君が生まれる前から、君を見てるんだよ。でもねえ、僕は驚いたんだ。そのうち、離婚したいだなんだと泣きついてくるかと思ったけど、君はずっとそれだけは言わなかった。ひたすら、真純ちゃんのこと、待ってあげてたね」
「俺……真純のこと、好きなんです」
「そうだろうねえ。そうじゃないとねえ。でも今は、どうやら、ラブラブみたいだね。何があったか知らないけど、君も真純ちゃんも、幸せそうだ」
 松永さん……あなたは……なんでもわかるんですね……俺と真純のこと、本当に、理解してくれてるんですね……
「あの、松永さん。俺たち、話し合ったんです。……もし、松永さんがご迷惑でなければ……俺たちと一緒に、暮らしませんか。俺たち、松永さんのこと、本当の父親だと思ってるんです。だから……」
「ありがとう。でも、僕はまだそんなに耄碌してないよ。まあ、そうだね。あと十年もして、僕がまだ生きていて、先生のお役には立てない、老害じじい、になっていたら、そうさせてもらおうかな」
「まだ、親父の下で、働く気ですか」
「それが僕の使命だから」
「裏切られたんですよ!」
「裏切られてなんか、ないんだよ」
「松永さん……」
「心残りといえば……君たちの子供の顔が見たかったなあ。君たちのことは、息子と娘みたいに思ってたから。孫の顔が見たかった、かな」
「心残りなんて、言わないでください! 俺が絶対に、絶対に無罪にしてみせます!」
「その気待ちだけで、充分だよ」
「どうしてなんですか……どうして、何もかも背負うんですか!」
 俺の言葉に、松永さんは、ふと微笑んで、微かに、首を横に振った。
「そろそろ、時間切れだ。じゃあね、慶太くん。真純ちゃんに、よろしくね。チョコレート、いただくよ。僕は意外に、甘いものが好きなんだ」
「松永さん!」
「真純ちゃんと、仲良くね」
「明日も来ます! 絶対に、絶対に諦めません!」
 立ち上がった松永さんは、俺の目をじっと見た。
「慶太くん」
「なんですか」

「恥じない生き方をしなさい。生まれ変わっても、また、この人生を生きたいと思う生き方を、しなさい」

 松永さんは、少し寂しそうに笑って、背中を向けて、ドアを出て行った。
 恥じない生き方? なんだよそれ……松永さん、あなたは、あなたのこの人生を、また生きたいと思うんですか? 松永さん……あなたは……こんな終わり方、しちゃいけないんだ!
 明日、俺は、松永さんにそう言ってやるつもりだった。最後までたたかおうって、こんな裏切り、許しちゃいけないって。俺も一緒にたたかうって。
 また、明日……俺、来ますよ。何回でも、俺の人生をかけて、俺の知識と経験と、全てをかけて、あなたを、無罪にしてみせますから!

 でも、それは、松永さんの最後の言葉で、俺は、俺たちはもう、二度と、松永さんに会うことも、松永さんを助けることも、松永さんに頼ることも……できなくなった。

「どうして……」
 喪服の真純は、遺影の前で、ずっと泣いていて、ずっと化粧もしていない。
 松永さんは、俺との面会の夜、首を吊った。留置所の暗い、寒い部屋で、たった一人で、ワイシャツをロープにして、死んでいた。
 足には、真純が、留置場は寒いからと選んだ、ふわふわの靴下を履いて、小さな書机には、空になったチョコレートの箱だけが置いてあって、他には、何もなかった。

 遺書も、何もない。手紙も、何も。松永さんは、何も言わず、俺たちを、置いていってしまった。

 生涯独身だった松永さんの葬儀は、ひっそりとしていて、親父も兄貴も、お袋も、誰も来なかった。事務所の人間も、誰一人、来なかった。あんなに長い間、松永さんに頼りっきりで、あんなに松永さんに尽くしてもらったのに、誰も、松永さんを見送りには来なかった。誰も、松永さんに礼を言いには、来なかった。
 俺は喪主をさせてもらい、最後の恩返しを、させてもらった。

「こんなことって、許されるのか……」
 俺は、悲しみなんかを遥かに超えて、親父や兄貴や、その取り巻きに対して、異常な怒りを覚えていた。生まれて初めてだった。俺がこんなに怒りを感じたのは、生まれて初めてだった。
 だから、実家に乗り込み、親父に言ってやった。覚悟しておけ、と。俺は全部知っている、と。だって俺が佐倉代議士の、会計をやってるんだから。

 松永さんの葬儀が終わり、引き取り手のない遺骨の前で、俺は決めた。
「告発する」
「告発?」
「親父と、兄貴を」
「……そんなことしたら、慶太も……」
「許せないんだ。松永さんを殺したのは、親父達だ」
 恥じない生き方。
 俺はずっと、いい加減で、ナンパで、四十三になってもまだガキで、親父と同じような人間達から、薄汚い金を巻き上げている。
 きっと、松永さんと同じような人がいたはずだ。何も言わず、使命だとかなんだとか言って、去っていった人が……俺が全部晴らしてみせる。松永さんの無念も、俺が消してしまった人達も、全部。
「松永さんに、恩返ししたい」
「……それが、恩返しになるの?」
「俺はずっと、自分が恥ずかしかった。こんな情けない、くだらない俺のままで、終わりたくない」
 真純は黙って、泣いている。きっと、次に言う、俺の言葉をわかっている。
「真純は、関係ないんだ」
「イヤ。私も慶太とたたかうわ」
「これは、俺の……ケジメだから」
「……別れるって、こと?」
「少し、時間が欲しい」
 
 松永さんの無念を晴らすために、全部失っても構わない。
 逮捕されても、世間から抹殺されても、俺は構わない。でも……真純を一人にすることだけは、できない。真純を離すことは、どうしてもできない。

 真純をホテルに送り、俺は家へ戻った。家の電話には留守電とFAXが満タンで、確認せずに、全部、消去した。

 どうすればいいんだろう。……杉本……俺は、どうすればいい? 真純のことをどうすればいい? お前なら、どうする? お前なら……一人には、できないよな……

 一人きりのベッドで、俺はこれからのことをずっと考えている。時間が、過ぎているのか、過ぎていないのか、わからないくらい、ずっと考えていた。
 携帯の音に我に返り、時計を見ると、夜中の一時を過ぎていた。
「慶太?」
「どうした?」
 電話の向こうの真純は、泣いている。
「……寂しいの……」
消えてしまいそうな声で、真純は……
「慶太……一人は、寂しいの……」
 抱きしめたい。今すぐ、真純の所に行って、抱きしめてやりたい。震えている。寒いって、震えて、寂しいって、泣いて、俺を、真純は待っている。
「会いたいの……」
俺だって、俺だって会いたいよ! お前に、今すぐ……
「大丈夫だから。真純、何も心配しなくていい」
「私もお家に帰る」
「ダメだ」
「どうして? どうしてダメなの?」
「こっちにはまだ……マスコミがいるから」
「一人にしないで……」
「一人じゃないよ。ちゃんと俺はここにいるから」
「慶太……」
「じゃあ、切るぞ。早く寝るんだ」

 俺は、震える指で、通話終了、を押した。すぐに真純からまたかかってきて、でも、俺はもう取らなかった。
 やっぱり、俺は真純を一人にはできない。
 真純を……誰かに託そう。真純を大切に思ってくれている、誰かに。真純のことを理解してくれる、誰かに。

 真純が、信頼できて、安心できる……あいつ……あいつしか、いない。


 今日は、随分、暖かい。
 三月なのに、陽射しが少し強くて、風はまだ少し冷たいけど、俺はマフラーを外して、ベンチに座っていた。遠いあの日、杉本が座っていたベンチに、俺は座っている。……あいつを待っている。
 目の前で、ちびっこ達が遊んでいて、その周りには、若いお母さん達が、おしゃべりしている。
 もしかしたら、真純もあんな風に、おしゃべりしていたかもしれない。
 もう、戻れないって、わかっているけど、やっぱり俺は、真純を幸せにできなかったことを、普通の幸せを与えてやれなかったことを、後悔している。
 なのに、俺はこんな決断しかできない。それなら最初から、真純を離しておけばよかった。でも、離せなかった。杉本のように、俺は、真純を一人にすることが、できなかった。ずっと、二十三年間、ずっと。
 真純は、一人では生きられない。誰かに愛され、誰かに支えられていないと、真純は、生きられない女だ。一人になれば、きっと真純は消えてしまう。
 だから、俺も杉本も、真純を、離せなかった。

「久しぶりだね」
「どうも」
 日本とイタリアを行ったりきたりしている田山は、すっかりイタリア人化していて、もはや日本人とは思えないほどの、優男ぶりだ。
 田山は俺の隣に座り、なんですか、とぶっきらぼうに言った。
「ニュース、見た?」
「ええ、まあ。大変、でしたね」
「あの死んだ秘書って人はね、俺の恩人なんだ」
「そうですか」
「俺の悪行も全部被ってくれて、こんな俺を、唯一見捨てずにいてくれた」
 田山は、何も言わず、俯いている。
「離婚、しようと思う」
「……無駄な、正義感ですね」
 わかっている。田山は、俺の考えていることを、しようとしていることを、俺が、今から言うことを。
 なぜなんだ。なぜ、お前はわかるんだ。お前は、真純のことも、全部わかっている。恋人で、夫の俺は、何もわからなかったのに、なぜ、お前は……
「次は、いつ行くの」
「こちらでの仕事が一通り終わったので、しばらく向こうに住もうと思っています。今週の金曜日に、発つ予定です」
「移住、するのか?」
「プロジェクトは五年計画なんです。その間に、向こうで仕事ができるようになれば、そのつもりです」
 イタリア……遠いな……でも、いっそのこと、そのほうがいいのかもしれない。
 誰も真純のことを知らない所で、こいつと二人で、新しい生活を始めたほうが……。
「連れて行って、やってくれないか」
「……構いませんよ」
「ありがとう」
 俺は、カバンから、札束が三つ入った、封筒を出した。
「旅費と、当面の費用にあててくれ」
 でも、田山は、それをちらりと見て、不機嫌に、吐き捨てるように、言った。
「気に入らないな」
「もちろん、これからのことは、責任を持つ。これは、当面の……」
「だから、わからないんですよ」
「え……」
「そんなものに頼っているから、大切なことがわからないんです。見えないんですよ」
 田山は、クールに、でも、強く、言った。
「あなたは何もわかっていない」
「真純を巻き込むことはできないんだ。もう、この生活もさせてやれなくなる。真純を不幸にはしたくない」
「真純さんにとっての不幸が何か、考えたことがありますか」
真純にとっての、不幸……それは……
「そうですね、こんな人の妻でいることは、不幸でしかありませんね」
そうだ……俺といること自体が、もう不幸なんだよ……
「真純を……愛してるんだよな」
「いいえ、愛しては、いません」
「そうか……」
「でも、許されるなら、俺は真純さんを、愛します。あなたよりもずっと、俺は、真純さんを愛します。あなたよりも、幸せにします」
 田山は、真剣だった。あの時の俺のように、その場逃れの返事じゃなくて、本気で、俺に向かい合っている。
「真純を、幸せにしてやってくれ」
 あの日、杉本はこうやって、俺に頭を下げた。恥も外聞もなく、いい加減に、大切な恋人を奪った俺に、涙を流しながら、頭を下げた。
「……ふざけるな……」
「だから、金のことは、俺が責任を……」
 田山はため息をついて、立ち上がって、俺の胸ぐらを掴んで……
「最低だな!」
 四十三の、高そうなスーツを着たおっさんは、モデルみたいな格好の三十八のおっさんに、殴り飛ばされていた。遊んでいたちびっ子が、俺の周りに来て、おじさん、大丈夫? と聞いてくれて、慌ててお母さん達が、ちびっ子を引きずって行った。
 目の前の田山は、人なんて殴ったことがないんだろう。俺を殴った右手を痛そうに庇っている。
「前々から最低の奴だと、思ってたけど、ここまで最低だったとはな!」
「ああ、俺は最低だよ! 最低の男なんだ! だから、だから……真純を……」
 砂まみれの俺は、また泣いていた。今日は泣かないと決めていたのに、俺はまた、泣いている。地面に座り込んで、田山の足元で、情けねえな、俺は、本当に……
「こんな最低な情けない男に、真純は縛られてたら、ダメなんだよ」
「ほんとに、何もわかってないんだな、あんたは」
「わかってるよ、俺が、真純を、幸せにしてやれないことくらい」
「……幸せにしますよ。あなたより、ずっと」
「金は……」
「真純さんと、話し合ってください。俺は受け取らない」
 俺は立ち上がって、砂を払って、指輪を抜いた。
「これ、捨ててくれないか……自分じゃ、無理だから……」
「わかりました」
田山はクールに言って、それを、ジャケットのポケットに入れた。
「では」
「頼むな、真純のこと。あの、あいつさ、寒がりなんだよ。イタリアって、あったかいよな? それと、あいつ、一人だと、ちゃんと飯食わないから。できるだけ、一緒に食べてやってくれ。それから……」

 真純……真純……俺……真純……お前のこと……

「……朝が、弱いんだよ……起こして、やってくれな……寝るときは、寂しがるから……手を……手を、つないで……」
「わかりました」
田山はそう言って、俺にハンカチを出してくれた。
「……返していただなくて、結構ですから」
……鼻水、拭いたから?
「愛して、やってくれ」
「はい」
「好きって、何度でも言ってやってくれ」
 その言葉に、田山は、ふっと、笑った。
「頼むな……」
「佐倉さんも、お元気で」
 俺は、右手を出した。田山は、ちょっと、その手を見て、俺の右手を握って、俺達は、軽く、握手をした。
 そのまま田山は何も言わず、プリウスに乗って、クラクションも鳴らさずに、いなくなった。だから俺も、お母さん達の視線に耐えられなくなって、ベンツに乗った。

 ホテルに戻ると、真純はぼんやり、ソファに座って、外を眺めていた。ここ数日で、随分、痩せた気がする。
「話がある」
 俺は真純とベッドに座った。真純は俺の左手を見て、聞きたくない、と言った。
「どうしても、許せないんだ」
真純は俯いて、泣いている。
「わかって欲しい」
「……私も、一緒に……」
「ダメだ。なあ、真純。俺は、お前を巻き込みたくないんだ。だからもう、俺たちは、夫婦でいちゃいけないんだ」
「ずっと夫婦でいようって、約束したじゃん!」
 そうだったな……約束、したよな……だから俺は、いつもの逃げ口上をする。
「……もう、重いんだよ」
「重い?」
「お前は、重いんだよ」
「嫌いって、こと?」
「そうだよ。お前みたいな女、重いんだよ。俺はさ、知ってるだろ? ナンパで、いい加減で、軽い男なんだ。約束なんて、簡単にやぶれるんだよ」
 また、俺は真純を傷つけている。絶対に傷つけないって、誓ったのに。また俺は……
「嘘だもん! 慶太はナンパだけど、私のこと、そんな風に思ってないもん!」
 あっさり俺の逃げ口上は無効になって、でも……ナンパは認めるのか……
「金曜に、田山くんがイタリアへ発つ。しばらく、向こうに住むそうだ」
「そう……」
「一緒に行くんだ」
「行かない」
「行くんだ」
「行かない! 慶太のそばにいる!」
 真純は、俺にしがみついた。
 柔らかい体。甘い匂い。
 そんなこと、しないでくれ。俺の決意が、鈍るじゃないか。
「これからのことは、田山くんに頼んであるから」
「勝手なことしないで!」
「真純、頼む。わかってくれ。頼むから、俺と……離婚してくれ」
 俺は、離婚届を出した。俺のサインと捺印を見て、真純は、黙ってそれを、握りしめた。
「具体的なことは、弁護士に任せてある。お前は何も心配しなくていい。これからも、今まで通り暮らせるから」
「慶太は、それでいいの?」
「いいんだ。……もっと早く、やっぱりこうするべきだった」
「私のこと、もう、好きじゃないの?」
「……好きじゃ、ない……わけないだろう! 好きだよ。愛してる。でも、もう、俺はお前を、幸せにできない。できないんだよ……だから……別れるんだ」
「愛してるのに?」
「愛してるから」
「……わかった……」
 真純は、もう消えそうな声で呟いて、最後にキスして、と言った。
 俺は真純を強く抱きしめて、最後のキスをした。軽いキスじゃなくて、甘い、濃厚な、ディープキス。
 真純の唇。最後の唇。

 真純の……味……

「田山くんと、幸せにな」
「……イタリアって、あったかいのかな」
「それも、頼んである。寒がりだからって」
「そう。ありがとう」
「見送りは、いかないから」
「うん」
「何かあったら、ここに電話して」
 弁護士の名刺をテーブルに置いたけど、真純は、それは見ずに、俺の顔を、じっと見た。
「その怪我、どうしたの?」
鏡で見ると、田山に殴られたほっぺたが、赤く腫れていた。
「転んだんだ」
「気をつけてね、もう若くないんだから」
「ああ。じゃあ、真純……元気でな」
 真純はもう、何も言わなかった。何も言わず、ベッドに入り、毛布を被った。

「さよなら」

 返事は、なかった。
 だから俺は、毛布越しに、軽くキスをして、部屋を出た。

 泣いていたんだろう。真純は、泣いていた。きっと、寂しがる。今夜も一人で、寂しがる。でももう、今夜からは寂しいって、電話はかかってこない。
 俺は……なんて、卑劣な男なんだろう……やっぱり俺は、逃げている。杉本に真純を返せなくなった俺は、田山という、杉本の分身みたいな男に真純を押し付けて、俺のとるべき責任も償いも全部、田山に押し付けて、俺は、俺だけの自己満足のためだけに……

 一番大切なもの。田山が言った、大切なこと。
 それは、なんなんだろう。俺にはわからない。何が大切で、何が大切じゃなくて、ただ、俺は、真純が不幸にならなければそれでいい。
 真純が、何不自由なく、笑って、綺麗で、オシャレで、いい女でいてくれたら、それでいい。それが真純の幸せだから。それができない俺はもう、真純といる資格は、ないんだ。
 ダッシュボートには、プリティウーマンのサントラ盤。ジュリアロバーツは、富豪のリチャードギアと別れた。俺には理解できない。せっかく金持ちになれるのに、それを望んでいたくせに、なぜか、別れを選ぶ。なぜなんだろう。わからない。
 でも、真純は泣いていた。何度見ても、泣いていた。真純には、わかるんだろうか。ジュリアロバーツの気持ちが。金を捨て、元の貧乏生活を選んだジュリアロバーツの気持ちが、わかっていたんだろうか。

 墓のない松永さんの遺骨は、まだ寺にある。初七日ができなかった俺は、住職に頼んで法会をしてもらい、これからのことを、聞いてもらった。
「あなたの志は、故人にきっと届くでしょう」
「間違っていますか、私は」
「間違いなど、ないのです。己が、信ずる道を進めばよいのです」
「はい」
「ただし、そこに、迷いがなければ。そこに、憂いがなければ」
 迷い。憂い。……あの時の松永さんの背中……迷いも、何も……なかった……
「ありがとうございました。落ち着いたら、松永さんの遺骨を引き取りたいと思っています」
「さぞ、お喜びでしょう」
「それまで、よろしくお願いします」
 立ち上がりかけた俺に、住職は、ふと、呟いた。
「一切皆苦」
「すべてが苦しみって、ことですか?」
「文字通り読めば、そうですね。でも、すべて、苦しみですか? あなたの人生は、すべて、苦しみでしたか?」
 いや、そうじゃない。つらいこともあったけど、でも、幸せもあった。何より、真純と出会えて、真純と分かり合えて、真純と本当の夫婦になれたことは……
「人生は、いつもうまくいくとは限らないものです」
「はい」
「うまくいかないことは、うまくいかない運命であり、それを受け入れることができた時、人は、新しい道に進めるのです」
 うまくいかないことは、うまくいかない運命……
「それは、諦める、ということではありません。次に進むための、過程なのです。それが、苦、なのです」
「でも……俺は罪をおかしています。そのせいで、傷ついた人たちが……」
「佐倉さん。いつも、正義が正しいとは、限らないのですよ。何が正義で、何が悪なのか、それは、いま、なのです」
 俺は、その住職の言葉の意味が、さっぱりわからなかった。
 正義は正義で、悪は悪じゃないのか。
 いま、って、なんなんだ。善悪は、善悪で、今も昔も未来も、一緒だろう。

「悔いることもまた、人生です。生きているから、悔い、恥じるのです。それも、あなたの人生なんですよ」

 おととい入れたばかりのガソリンが、もうなくなっている。なんて燃費が悪いんだ。いちいちガソリンスタンドに行くのも、本当にめんどくさい。
 住宅街に入ると、ベランダに洗濯物が干してある。うちは洗濯物は干せない。乾燥機か、クリーニング。太陽で乾いた洗濯物なんて、もう何年も着ていない。ああやって、太陽に晒せば、乾燥機もクリーニングもいらないのに。

 本当に大切なもの。
 真純、俺達は、見失っていたか? いや、見失っていたのは……この俺か……
 でも、真純、俺は、やっぱり、俺の正義を、貫こうと思う。
 それで、皆が不幸になって、松永さんが……喜ぶのか?
 松永さんは、なぜ、死んだんだろう。なぜ、何もかもを背負って……松永さんはそんなに弱い人じゃない。追い詰められて、逃げるような、俺みたいな弱い人間じゃない。

 なぜですか、松永さん。俺、わかんないんですよ。なぜ、俺と真純を置いて、いってしまったんですか。これから、やっと、恩返しができたのに。
 松永さん。
 俺はどうすればいいんですか。教えてください。
 松永さん……俺はこれから、どうやって生きて行けばいいんですか……恥じない生き方って、どんな生き方なんですか。また生きたいと思える人生って、どんな人生なんですか。
 そして……俺は本当に、真純を離してしまって、いいんですか。俺、本当に、真純を愛してるんです。でも……

 真純の幸せって、なんなんだろう。真純の不幸って、なんなんだろう。わからない。
 松永さん、なぜ真純は、あなたのことをあんなに信頼してたんですか。
 なあ、杉本、教えてくれよ。真純は、貧乏が嫌なんだよな? 金持ちになりたかったんだよな? 
 田山、なんでお前はそんな自信満々に、幸せにできる、なんて言えるんだよ。お前は、そんなに稼ぐ自信があるのか? 真純を何不自由なく、真純が欲しがるものを、なんでも買ってやれるのか?

 わからない。
 真純、ごめん。俺、まだ、わかんねえよ。また、逃げたよな、俺……真純……ごめんな……


 そして、金曜日になった。
 あれから、真純とはもう会っていない。電話も、メールも、していない。
 俺は燃費の悪いベンツに乗って、普通に仕事をして、一人きりの部屋は、その間に、普通に森崎さんが掃除をしてくれている。
 
「昼、行ってきます」
 藤木と相田が、そういって、出て行った。山内はデスクで、嫁さんの作った弁当を広げている。

 十二時十五分。
 真純の飛行機の出発の時間だ。
 空には飛行機がひっきりなしに飛んでいる。どれかに真純は乗っている。田山と、新しい場所へ、新しい生活へ、真純は、飛び立って行った。

「真純さんの飛行機、無事離陸したみたいですね」
「そうか」
「……本当に、これでよかったんですか」

 これでいい。もう、これでいいんだ。

 さよなら、真純。幸せにな。

「いいんだ」
「そうですか」
 山内はパソコンの画面から目を離し、弁当を食べ始めた。

「山内、お前に、話がある」

 そして俺は、告発の準備を始める。
 恥じない生き方をするために、俺はこの生き方を、選ぶ。
 
 でも、もう俺は、この人生を二度と生きない。
 こんな悲しい結末なら、俺は、この俺の人生を、もう二度と、選ばない。

人生の午後

 空港には、田山くんがいる。まるで、あの時みたいに、広島駅で、将吾が待っていた、あの時みたいに、田山くんは、私の姿を見て、手を振った。
「遅くなって、ごめんなさい」
「いいえ。行きましょうか」
 田山くんは、スーツケースのキャスターのロックを外して、歩き始めた。でも、私は……
「……田山くん……」
「はい」
「行けない」
 私の言葉に、田山くんは、何も言わず、少し目を閉じて、はい、と微笑んだ。
「チケット、キャンセルしておきますね」
「ごめんなさい」
「佐倉部長は、憧れでした」
「……うん」
「でも、今、俺の前にいるのは、憧れていた佐倉部長ではありません」
「そう、だよね……」
「……一人の女性です。佐倉真純っていう、一人の、女性です」
 田山くんは、ジャケットのポケットから、何かを、私の左手に握らせた。
「あずかったものです」
 これは……慶太のマリッジリング……
「本気で愛してしまう前に、忘れさせてください」
「田山くん……私……」
「言ったでしょう。佐倉さんには、敵わないって」
 搭乗のアナウンスが流れ始めた。
「じゃあ、行きますね。長い間、お世話になりました」
 田山くんは、いつものようにクールにそう言って、一礼して、ゲートへ向かった。
 ……お礼を言うのは、私の方だよ……
「田山くん!……ありがとう……ありがとう!」
 聞こえたか、どうかはわからない。もう、振り返ることなく、田山くんは、人の波の中へ消えて行った。
 
 さよなら、田山くん。本当に……ありがとう。キミがいなかったら、私……今の私は、いないんだよ……

 午後十二時十五分。
 乗るはずだった飛行機は、定刻に離陸して、田山くんを見送って……慶太、やっぱり、私ね、お家に帰りたいな。あなたがいる、私たちがずっと過ごしてきた、あの部屋に……

 誰もいないリビングは、変わらず、きれいに掃除されていたけど、冷え切っていて、まるであの頃に戻ってしまったみたい。
 午後三時半。お買い物でもいこうかな。冷蔵庫の中のものは、もうたぶん、処分されちゃってるよね。
 何を作ろう。寒いし……きっと、慶太なら、こう言うよね。
 寒いから、あったかいもの、って。で、私はこう言うの。じゃあ、シチューね、って。

 ひと月ぶりのスーパーも、お肉屋さんも、何も変わっていない。当たり前よね。私も、何も変わっていないもん。松永さんのおかげで、私も、何も変わっていない。
「バラ肉、五百、おねがい」
「おや、奥さん、久しぶり! シチューかい?」
「うん、こんなに寒い日は、やっぱりシチューよね」

 午後九時。お腹すいたなあ。慶太、まだ帰ってこないのかな。
 あ、鍵が開いた! びっくりするかな? それとも、怒られちゃうかな。でもいいの。私の選択は、きっと、間違ってない。
 
 私ね、あなたとしかね、生きられないの。あなたがいない人生なんてね、もう、意味ないんだ。

「おかえりなさい」
「どう……して?」
「何が?」
「だって、今日……」
「今日? シチューだよ。寒いから、あったかいものがいいでしょ?」
「そっか……シチューか……シチュー……」
 慶太ったら、ナキムシね。また泣いてる。
「もう、早く。お腹すいてるの、私」
「そう……そう……俺も……腹減ってる……」
って、私も……涙が、止まらない……
「待ってたんだからね」
「……そっか……遅く、なってごめんな……真純……ただいま……ただいま……」
 慶太のトレンチコートは冷たくて、でも、慶太の体はあったかくて、私たちは、私たちを確かめ合った。
「さあ、ご飯、食べようよ」
「そうだね。着替えてくるよ」

 私たちは、二人でシチューを食べて、二人でお風呂に入って、二人でベッドに入る。
 すっかり当たり前になっていたことが、当たり前じゃなかった。
 慶太、私、あなたと離れてみてね、わかったんだ。
 
 私ね、私の幸せはね……私の本当に欲しかったものはね……

「田山くんと、行かなかったんだね」
「うん」
「……よかったのか?」
「うん」
「真純、俺は……」
「私ね、考えたの」
 この生活に、未練があるわけじゃない。お金に、未練なんて、もうないんだ。でもね、あなたがしようとしていること、私は……
「松永さんは、望んでないと思う」
 慶太は黙ってる。俯いて、黙ってる。
「松永さんは、命をかけて、お父様や、慶太や……私を守ってくれたんだよ」
「だけど……」
「慶太の気持ちはわかるの。私だって、松永さんは本当のお父様だと思ってる。悔しいの。本当に悔しい。でも……だから、松永さんの気持ちに、報わなきゃ、いけないと思うの」
「真純……」
「今の生活を失うことに、躊躇も未練もないの。でもね……松永さんが、せっかく守ってくれたものを……無駄にはしたくない」
 慶太は、つらそうに、目を閉じた。
 本当に、つらいよね……だって、松永さんは、私たちにとって、本当に、大切で、信頼できる、たった一人の『オトナ』だったんだから。
「松永さんは、私たちに、教えてくれたんだと思う。私たちがしてきたこと、私たちの生き方、そして、これから私たちが生きるべき道、私たちが失ってしまったものの大きさ……松永さんは、命をかけて、私たちに、本当の人生の意味を、教えてくれたんじゃないかって、思うの」
「恥じない生き方をしろって……もう一度生きたいを思う人生を生きろって……そう言われたんだ。このままじゃあ、俺……やっぱり、恥ずかしいんだよ。こんないい加減な、誰かを傷つけてばかりいた俺の生き方、もう終わりにしたいんだよ」
 隣で俯く慶太の顔は、初めて見る顔だった。
 こんなに真剣に、悲しみにくれた、慶太の顔は、初めてだった。
「慶太がそうするなら、私も一緒にそうするわ」
「つらい思いをすることになる。お前だけは傷つけたくないんだ」
「ねえ、慶太。私ね……あなたのこと、傷つけてばっかりだった。それなのに、あなたは私のこと、ずっと大切にしてくれてた。わかっているのに、それでも私、またあなたを裏切るようなことを、何度もしてしまって……本当にごめんなさい」
「そんなこと、もういいんだ。俺はお前が隣で笑っててくれればそれで……」
 慶太は、ふと顔を上げて、私の顔を、じっと見つめた。
「それで……いいんだ」
「私も、同じだよ。私も、慶太の隣にいられれば、それでいいの。ずっと二人でね、こうやって、いられればそれで、幸せなの」
「金がなくてもか? 贅沢できなくてもか? 貧乏になってもいいのか? ブランドのバッグも、ダイヤのネックレスも、買えなくなってもか?」
「うん、いいの。慶太さえいてくれたら、それでいいの」
「真純……こんな俺で、いいのか?」
「そんな慶太がいいの」
 チェストの上の、松永さんは、黒いフレームの中で、ずっと優しい目で見つめてくれている。ずっと、変わらずに、私たちを、ずっと……
「それが……正しい選択なのかな……」
「正しくは、ないのかもしれない。何が正しいのかなんて、わかんない。ただ、私は……松永さんに報いたいの。松永さんの想いを、大切にしたいの」

 翌朝、目が覚めると、慶太はもういなくて、リビングに行くと、ソファで、コーヒーを飲んでいた。
「おはよう、慶太」
「おはよう、真純。コーヒー、飲む?」
「うん」
 慶太の淹れてくれたコーヒー。久しぶりね。やっぱり、味はよくわからないけど、こうやって二人で飲むと、やっぱりおいしいね。

「告発は、しない」
「うん」
「でも……仕事は、やめる。廃業して、山内に渡す」
「うん」
「いいのか?」
「うん」
「ここを、出て行くことになるよ」
「構わないわ」
 慶太のサインだけが入った離婚届。こんなの、もう、絶対見たくないの。
「これ、捨てていい?」
「真純……俺はもう……贅沢、させてやれないよ……」
「いいって昨日言ったじゃん。それにね……なんだかこの生活も、疲れちゃった」
 それは、正直な気持ちだった。私はもう、このセレブ生活に、疲れていた。着飾って、愛想を振りまいて……上辺だけの、この生活。
「……そうか……」
 丸めた離婚届は、ゴミ箱に吸い込まれるように入って、カサって微かな音がした。
「それから、これ」
 田山くんから返してもらったマリッジリング。
「ずっと夫婦でいようって、約束したじゃん」
「そう、だったね」
 慶太は、ふっと笑って、私の肩を抱きよせた。その腕は、細くて、華奢で、香水の匂い。
「真純、愛してるよ」
「私も、愛してる」
 私たちは、キスをする。あのホテルの部屋でしたキスは、とっても悲しかったけど、今のキスはね……慶太、幸せなの。

「もう離さないでね」
「ああ、もう、絶対、離さない。離さないからな、真純……」

 なんだか、ふわふわと、体が軽くなった。
 重い荷物を下ろしたみたいに、寒い外から帰って、熱いお風呂に入ったみたいに、疲れきった体を、ふかふかのベッドに投げ出したみたいに……
 なんだか、ねえ、慶太……私たちは……疲れちゃったね……
 オッサンとオバサンだから、なんだかもう、疲れちゃったよね……

 慶太、私たち……急ぎ過ぎていたね……

「これからどうしよっか。ハローワークにでも行く?」
 冗談半分で言ったけど、慶太は、少し、考えて……
「あのさ……」
「なに?」
「やっぱ、恥ずかしいからいい」
「もう、気になるじゃん。言ってよ」
「笑わない?」
「うん。笑わない」
 慶太は、私の手をぎゅっと握って、ちょっと恥ずかしそうに、耳元で言った。

「……えっ? ほんとに?」
「じいさんとばあさんになってもね、できるかなって……やっぱ、ガキかな、俺」
「ううん、そんなことない! そうね、それなら、二人でずっと一緒にいられるね」


 松永さんの四十九日を済ませて、私たちは、お墓をたてて、やっと松永さんに、ゆっくりしてもらうことができた。
 
 それから、慶太は事務所を廃業して、権利は全部、山内くんに渡して、藤木くんも相田くんも、そのまま山内くんと一緒に仕事してる。
 山内会計事務所は、サクラコンサルタントオフィスよりも評判が良くて、あっという間に従業員も増えて、慶太ったら、ちょっと悔しそう。うーん、そうね。やっぱり、会計って、ほら、見た目、もあるから……

 そして、私たちは、都心のタワーマンションも、ベンツとBMWも処分して、少しだけ、老後のお金を確保して、後は全部、新しい生活のために。
 
 私たちの、新しい、人生のために。


「いらっしゃいませ」
 開店して、一ヶ月。やっと、お客さんも落ち着いてきた。
「遅くなってごめんな。これ、開店祝いや」
「なんだ、気使うなよ。さ、座って」
「へえ、なかなかいい店じゃん」
「だろ? 全部、真純のセンスだけど」

 私たちは、都心を離れて、郊外に引っ越して、山内会計事務所の近くで、小さなカフェレストランを始めた。
 私が料理を作って、慶太がお酒を出して……接客して。
 昼間は、工場や現場の職人さん達が、がっつりランチを食べてくれる。知美さんが体調のいい時はお手伝いに来てくれて、山内会計事務所のみんなも時々来てくれて、慶太はちょっとエラそうにしたりして。
 お昼を過ぎると、近所のママ軍団が現れて、お茶会開始。もうライバルじゃなくなったし、お友達も、少しできたかな。新米ママや、若い女の子達のミニお料理教室みたいな感じになって、楽しいの。
 夕方になると、学生さんがきて、勉強会という名の、慶太のナンパ教室になってる。もう、若い子に変なこと、教えないでよね! 
 夜は若いビジネスマンとか、カップルさん達が来てくれて、カウンターでデートしたり。ちょっと、うらやましいんだ。

「おすすめはね、ローストビーフ」
 今日は、中村くんと、将吾が来てくれたの。
「じゃあ、それにしよう」
 二人は、美味しいって食べてくれて、予想通り、三人は、テーブルで飲み始めてる。
「で、佐倉は何やってるわけ?」
「え? 俺? 俺はその……接客担当だよ」
「ほんまか? どうみても……真純しか働いとらん」
「そうだなぁ。お前、はっきり言って、ヒモじゃん!」
「おい! って……否めないかも……」
 なんて言ってるけど、資金繰りも、経営も、お金のことは、は全部慶太がやってくれてる。食材選びも、全部慶太。私は、ただ、好きな料理を作ってるだけ。
 それに、やっぱりイケメンだから、慶太目当ての奥様たちもいたりして。私はちょっと……チクチクするんだけど!
「真純もおいでよ。一緒に飲もうぜ」
「ダメだよ。私も飲んじゃったら、誰が運転するのよ?」
「しっかりした嫁さんがおって、佐倉は幸せやなあ」
「そ、俺、すっげー幸せなの。真純、愛してるよ!」
もう……なんなの? って、ちょっと、嬉しいじゃん。
「でも、なんか、雰囲気変わったなあ、お前」
「そうか?」
「セレブ感抜けて、昔のナンパな感じに戻ったな!」
「そ、そんなことないよ! 俺、今は、マジメだし!」
 うん? 何? 何、焦ってんの?
 中村くんと将吾は、焦る慶太に大笑いして、もう、なんか……楽しいんだ、私。
 
 結局、三人は閉店まで飲んでて、私が運転して、家まで送ることに。
「あれ! この車! あのセルシオか!」
「そ、懐かしいだろ? やっぱ国産は乗りやすいわ」
 そうなの。松永さんがずっと大切に乗っていたセルシオはね、私たちのいろんな思い出が詰まった車だから、形見分けで、譲ってもらったの。
「普段はあれなんだけどね。今日は特別に乗せてやるよ」
 仕事用の車は、買い出しもし易いように、軽ワゴン。なんだか……軽トラに戻ったみたい。
 昔、将吾と別れた日、あんな車、二度と乗らないって思ったっけ……あの頃は本当に、私、どうかしてた。お金と見栄しか、見えてなかった。

 中村くんを送って、慶太はいつのまにか、後部座席で寝ちゃってて、助手席には、将吾が、タバコを吸ってる。

「真純」
「うん?」
「ローストビーフ、うまかった」
「そう、よかった。今度は、家族みんなで来てね」
「ああ、そうやな。凛も碧も、会いたがっとる」
「みんな、元気?」
「元気や。涼は野球で高校行ってな。がんばっとるよ」
「そうなんだ! 甲子園出たら、応援いかなきゃね」
そっか……よかったね、将吾。ほんとに、パパになって、幸せだね。
「聡子さんは?」
「ああ、元気や」
「……仲良く、してるの?」
「しとるよ。もう……手もあげとらん」
「聡子さんと、お友達になりたいの」
「聡子もそないゆうとった。今度、一緒に店に行くよ。」
 そのまま会話は途切れて、私たちは無言のまま、将吾のマンションに到着した。
「ありがとうな」
「ううん。またね」
 降り際に、将吾が私の手を握った。
「幸せか?」
 将吾、私ね……今、ほんとにね……
「うん、幸せだよ」
「そうか。そんだらええ」
 将吾は、優しく笑って、ドアを開けた。
「俺も、幸せや」
 きっとそれは、本心で、私はやっと、その言葉を素直に受け止めた。
「おやすみなさい」
「おやすみ。気、つけてな」
 将吾はドアを閉めて、マンションのゲートへ入って行った。一度だけ、ふと振り返って、手を振って、そしてもう、将吾の背中は見えなくなった。
「バイバイ、将吾」
 私はそう呟いて、セルシオのエンジンをかけた。

 さよなら。私の初恋。私の……思い出……

 涙はもう、出なかった。
 出なかったけど、少しだけ胸が、痛かった。キュッて、締め付けられるように、ね。ほんの少しだけ。……これくらいなら、いいよね。

「真純」
「わっ。なんだ、起きてたの?」
「……コンビニ寄って」
「は?」
「トイレ……漏れそう……」
もう! 何それ! ……でも……
「はいはい。ガマンしてよ」
 慶太、ありがとう。やっぱりね、私、あなたが好き。そんなね、あなたが大好きなの。
「早く……ヤバイ……」
「ええ? もう……」
 運良くコンビニに遭遇して、慶太は必死で走って行った。
「間に合ったのかしら」
 そういえば、昔……こんなこと、あったよね。まだ、私が将吾の部屋で暮らしてた頃……ねえ、あの時、慶太……ほんとに、隣の部屋で寝ていたの? もしかして……
 しばらくして、コンビニの袋を持った慶太が、ふらふら歩いてきた。もう、よっぱらいのおじさんじゃん!
「あー、あぶなかった」
「何買ったの?」
「肉まん。はい、どうぞ」
 慶太は運転する私の代わりに、肉まんを二つに割って、カラシをつけてくれた。私たちは、ホカホカの肉まんを食べて、美味しいねって、笑って、家路につく。

「あのさあ、真純」
「何?」
「コンビニで……手、洗うの忘れてた」
ええ! さっき、さっき、私の肉まん……
「もう! 最低!」
「いいじゃん、夫婦なんだからさ」
「もう……お腹痛くなったら、慶太のせいだからね!」

 ねえ、慶太。私たち、やっと、やっとね、本当の夫婦に、なれたよね。
 慶太……ずっと、ずーっと、私たちは……愛し合っていようね。

「はい、着きました」
 新居は、小さな中古の一戸建てで、裏庭があって、そこにはハーブとか、トマトとか、小さな家庭菜園。休みの日には、二人でお野菜の世話をして、お店の食器とか、ディスプレイとか見に行ったり、美味しいお店を探しに行ったり。
 私の胸元にはもう、ダイヤのティファニーはないけれど、慶太の左手にも、ロレックスはないけれど、二人の、左の薬指には、カルティエの……カルティエとか関係なくて、二人の、マリッジリング。
 ねえ、それだけで、本当は、充分だったんだよね。

 カーステレオの時刻表示は、午前零時半。すっかり、遅くなっちゃった。
 私たちは、二人でお風呂に入って、二人でベッドに入って、二人で愛し合って……

 幸せ……ねえ、慶太、私ね、幸せって言うの。誰に聞かれてもね、ええ、幸せですって。
 だってね、だってこんなにね、愛されてるんだもん。愛してるんだもん。愛している人と、こうやって、一緒にいられるんだもん。
 あなたさえいれば、私は幸せなの。あなたは? あなたも、幸せ? 私がいれば、それで幸せ?

「真純がいれば、もう何も、いらないんだ、俺」
「うん。私も。慶太さえいれば、もう、何もいらないの」
「幸せだね、俺たち」
「幸せね、私たち」

 まちがっていたのかもしれない。
 私たちは、まちがったことをしていた。誰かを傷つけてしまった。何かを見失っていた。
 考えると、私たちの人生は後悔ばかりで、でも、もう、あの時には戻れない。時間は、絶対に後戻りしない。だから、私たちは、前に進まなきゃいけない。
 過去を後悔しながら、償いをしながら、前を向いて、上を向いて、二度と同じまちがいをしないように、私たちは、そうやってオトナになって、生きていく。
 私たちは、生まれて二十年で出会って、そして、二十年間傷つけあって、次の二十年目を二人で歩き出した。この二十年が終わって、また次の二十年が始まる頃、私たちはどうしてるかな。そして、その二十年が終わる頃、私たちは……きっと永遠に、本当に夫婦でいられるんだよね。
 今の私たちは、どこにいるんだろう。もし人生が一日だとしたら、今、何時くらいなんだろう。
 私ね、思うの。あの田山くんの飛行機を見送ったとき、私たちの新しい二十年が始まったんじゃないかって。
 午後十二時十五分。
 きっと、その時間に、今、私たちはいる。南の空に輝く太陽は、これからゆっくり地平線に沈んでいく。沈んでいく太陽を止めることなんて、誰もできない。できないけど、その太陽を笑顔で見送ることはできるよね。沈む夕陽が、悲しく見えるのか、美しく見えるのか。
 ねえ、慶太。私たちは、二人で、美しい夕陽を、見送れるよね。一緒に、美しい夕陽を見て、美しい星空を見て、ずっと一緒に、時計の針が夜中の零時をさすまで、ずっと一緒に。
 
「あ、田山くんからメッセージ」
「ええ? こんな時間にか? 非常識だ!」
「時差があるんだもん。仕方ないよ。へえ、来月、日本に帰って来るって。お店にお邪魔したいって。いいでしょ?」
「ふん。別にいいけど! 割引はしないからな!」
 すっかり有名人になっちゃった田山くん。時々、テレビとかで見るけど、今の彼、とっても素敵。キラキラして、とってもね、かっこいいの。
「いや、サインくらい飾ってやってもいいかな……写真も、撮ってやろう」
 もう、慶太ったら。ゲンキンなんだから!

「あ、朝市だっけ、明日。正確には、今日だけど」
「ああ、そうだそうだ。忘れてたな」

 時間は午前三時。
 また明日も、一緒ね、慶太。
「おやすみ、慶太。ちゃんと起こしてね」
「わかってるよ。おやすみ、真純」

 あったかい手、あったかい唇……あったかい、私たち。

 明日も、明後日も、ずっと、ずっとね、慶太……一緒に、いようね。

 愛してる、慶太。


〈完〉

マネー・ドール -人生の午後-(第二部)

マネー・ドール -人生の午後-(第二部)

  • 小説
  • 長編
  • 青年向け
更新日
登録日
2015-04-17

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. リフォーム
  2. 家族の時間
  3. 別離
  4. 人生の午後