おばけのあいことば

私と二人の兄と一人のおばけの話。

おばけのあいことば#1

 これは私が小学生の頃の話。
 私には二人の兄がいる。上の兄は理央、下の兄は結衣。理央は私より六つ年上で結衣は三つ年上。私が小学一年生の時、理央は六年生で結衣は三年生だった。
 そしてもう一人、実の兄とは違うのだけれど、私には兄がいた。
 名前は「狐子」。目の周りに赤い模様がある、糸目で、笑うと目尻の下がるかわいらしい兄だ。
 彼は人間ではない。所謂「オバケ」と呼ばれる存在らしい。僕は狐のオバケだよ、と、彼は笑った。
 「狐子」と初めて出会ったのは理央だった。私がまだ幼いころに屋根裏部屋の片づけをしていた時に出会ったという。
 どうして屋根裏部屋にいたの、と聞くと、古い箱の中に閉じ込められて出られなくなってしまったので百年ほどふて寝をしていたそうだ。
 それから「狐子」は理央や私たちのことを守るオバケとなった。
 しかし大人は彼のことを見ることができない。だからこれは私たち兄弟の秘密となった。
 「狐子」は人間の姿をしているときもあれば、狐の姿に戻るときもある。狐の姿のまま、ふわふわした九つのしっぽをゆらゆらと左右に揺らしながらベランダで昼寝をしている姿は愛らしかった。
 彼の好きな食べ物は意外にもにぼし。油揚げじゃないの?と聞くと、あれは苦手だ、と言っていた。私は初めて油揚げの苦手な狐と出会った。
 仲良く過ごしていたある日、彼は私たち兄弟に言った。それは私が小学一年生の夏の終わり。夏休みの宿題が全部終わったからみんなでアイスを食べようと言っていた時だった。
 「狐子」は静かに笑いながら語るように「僕はね、子どもが好きなんだ。みんなみたいな素直でかわいい子供が大好きだ。……でもね、一つ覚えていて欲しい。」と言って私たちを見回した。「狐子」の大きな手が私の頭をゆっくりと撫でる。蝉の声がとても遠くに聞こえるくらい、それくらい子供部屋はひっそりと、ここだけ切り離されたみたいだった。
 「狐子」は続けた。
「僕はいずれみんなの元から離れなくちゃいけない。だけど忘れないで、僕はずっと君たちの事が大好きだから。」
 いつもと雰囲気の違う「狐子」に怖がった結衣は理央の服の裾を握りしめながら、「狐子、どこかに行っちゃうの?」と聞いた。「狐子」の膝に座っていた私は彼のことを見上げると彼は困ったように目尻を下げて首を横に振る。
「どこにも行かないよ。」
 そう言った「狐子」の声があまりにも寂しそうで、私は彼の着物にしがみついてワンワン泣いた。それにつられるように結衣も理央にしがみついて泣いた。理央だけはただ真っ直ぐ「狐子」のことを見つめて奥歯をかみしめていた。
 彼の言う「どこにも行かないよ」の意味はまだ分からなかったけど、小さいながらに何かを感じ取ってしまったのだろう。そのときの言葉の意味が分かっていたのはきっと理央だけだった。
 五分くらい泣き続けると「狐子」はそうだ、と私たちに提案した。
「合言葉を作っておこう。何かあったらこの合言葉を言って、僕のことを思い出して。そうしたら必ず会いに来るから。」
 覚えてね、と「狐子」はその薄い唇から合言葉を紡ぎだした。
「〝はじめちょろちょろなかぱっぱ〟……これを三回言ってからトントントンと自分の胸を叩いて、それから目を閉じて僕のことを思い出す。いい?」
 今思うと不思議な合言葉だった。「狐子」は一体どこでその合言葉を覚えてきたんだろうと思うと少し面白い。
結衣と私は忘れないように何度も何度も合言葉を口にした。
 だけど理央だけは笑いもせず、泣きもせず、合言葉を口にもせず、ただジッと「狐子」のことを見つめていた。まるで「狐子」の顔を忘れないように、と目に焼き付けているようだった。
 それから季節が過ぎて理央は中学生になった。
 ある日、理央が「狐子」を避けていることに気が付いた。挨拶をしても無視、声をかけても無視、やがては同じ部屋にいるのに「狐子」がいないように振る舞った。
 見るに見かねた結衣が理央に怒る。「どうして兄ちゃんは狐子を無視するの?」そういった時、「狐子」が慌てたように結衣の言葉を遮った。すると理央はビックリしたように目を見開いて、それから、ポタリポタリと涙を流した。
 今度はこっちがビックリする番だった。理央の泣いた顔など今まで一度も見たことのない私たちはどうしていいかわからなかった。理央はいつも兄として私たちに優しくしてくれていたし、喧嘩だって殆どしたことがない。いつも理央は悪いことをすると叱ってくれた。それくらいだった。
 そんな兄が、今、目の前で声を殺して泣いているのだ。まだぶかぶかな学ランの袖で目元をぬぐいながら、学生かばんを足元に落として。
どうしていいかわからない私たちはつられるように泣いた。結衣はごめんなさいと繰り返しながら理央に抱きついて、私はそんな二人を見て悲しそうな顔をする「狐子」を見て、泣いた。
 仕事場から顔を出した母親がビックリしてなだめに来るまでの五分間、私たちはずっと泣いていた。
 それから理央の前で、「狐子」の話をすることはなくなった。子供ながらに「してはいけないんだ」と思った。
 それから数年、今度は結衣が「狐子」を無視するようになった。「狐子」はただ悲しそうに結衣の背中を見つめるだけだった。
 必然的に「狐子」は私の隣にいることが多くなった。自分の部屋でコソコソと「狐子」と話す時間が、私はとても好きだった。
 二人の兄の事、学校の事、好きな男の子の事、宿題の事、クラブ活動の事。いろんなことを話すと「狐子」はそっかそっかと頭を撫でてくれる。逆に「狐子」は私が小さい頃の覚えていない話をしてくれる。毎日がとても楽しくてこれからずっと「狐子」が傍にいるんだと、そう、思っていた。
 でも、小学校を卒業した日、「狐子」は私の前からいなくなった。何も言わずに、まるでスイッチをオフにしたように、彼はいなくなった。
 私は家じゅう探して回った。ずいぶん小さくなったランドセルとボロボロの手提げかばんを持って、町中探して回った。
 それでも「狐子」は見つからなかった。
 泣きながら家に帰ると二人の兄が待っていた。泣きじゃくっている私を見た二人は口々に「どうしたの。」と言った。
 私は隠しもせずに言う。
「狐子が、どこかに行っちゃった。」
 すると理央と結衣は抱きしめて頭を撫でてくれた。当時思春期だった私は二人の兄に抱きしめられていることがとても恥ずかしかった。やめてと何度も言ったが二人は黙って私の事を抱きしめていた。
 しばらくして理央が小さくあの合言葉を口にした。結衣と私が驚いて理央を見ると「忘れてないよ」と照れたように笑う。
 そうして、理央は言った。
「狐子は、居なくなったんじゃない。俺たちが狐子の事が見えなくなったんだよ。オバケは、大人になると見えなくなるんだ。だから狐子が見えなくなるっていうのは立派な大人になるってこと。だから泣いちゃダメ。」
 私たちの中で一番最初に「狐子」が見えなくなったのは理央だった。あの日、みんなで泣いたあの日、理央はもう二度と「狐子」の姿を見ることができないと自覚した。
 次は結衣だった。最初こそ戸惑ったが理央が説明してくれたのだという。
 どうして教えてくれなかったのかと聞くと、「お前はきっと狐子に会えなくなるくらいなら大人になれなくていいって言い出すから」と言われてしまった。否定ができなかったことが悔しかった。
「よし、全員大人になったことだしジュースで乾杯しよう!」
 というわけでコップにただジュースを注いだだけの小さなパーティが開かれた。コップは、もちろん四つだ。
 二人の兄が口々におめでとう、と言ってくれた。カチンとコップをぶつけると綺麗な高い音がした。
「はじめちょろちょろなかぱっぱ、」
 理央が目を閉じて合言葉を言う。
 続けて結衣も、
「はじめちょろちょろなかぱっぱ、」
 そういった。
 だから私も続けて、
「はじめちょろちょろなかぱっぱ、」
 三回言い終えると、トントントンと胸をノックする。
 部屋は不思議と静かで、いつも聞こえる子供たちの声も聞こえない。
 すると、誰もコップを持っていないのにグラスのぶつかる高い音がした。
 驚いて目を開けるとそこには、空になったコップが一つ。そして、閉められていた窓が開いていた。
「おめでとう。」
 聞きなれたもう一人の兄の声がして思わず振り返る。そこには誰もいなかったけれど、大きな掌が頭を撫でる感覚がした。
「ありがとう。」
 泣いてはダメだと言われても、勝手に出てくるのだから仕方ない。
 何度も何度もありがとうを繰り返して泣いた。理央も結衣も泣いていた。そしてきっと、狐子も泣いていたと思う。

おばけのあいことば

某TRPGの設定を元に作り上げた短編小説です。

おばけのあいことば

私と二人の兄はおばけが見える。そのおばけは私たち兄弟の兄であり友達であり家族だ。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-04-14

CC BY-ND
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