火のクニの詩(六)霊峰の獣
蒼い毛並みを靡かせて、霊峰の尾根を一匹の獣が歩んで行く。
大きな獣であった。地に蠢く化生のものたちは、みな彼のために道を開け、我先にと岩影の闇へと姿を隠した。
獣は深い傷を負っていた。滴る血は月明かりのかかる道に、点々と暗い跡をつけて、獣の後を追っていく。荒く、熱い彼の息が白い煙となって夜闇に立ち上る様は、雄々しくもあり、同時に、むせかえるような生臭さを漂わせていた。
岩肌の礫はみな、剣のごとく尖っていた。水底の石はここでは、春の夜に見る夢の姿に過ぎなかった。それはこの土地において、最も儚く遠い、冷たくも安らかな夢であった。
獣は美しい四肢を滑らかに運び、それらの石を避けて進んだ。彼の金色の瞳はただ一点、遥か遠方にそびえる、白銀の頂に据えられていた。
もし人が彼の姿を一目でも見たならば、その魂は、瞬く間に貪り尽くされてしまうだろう。獣はそれほどまでに美しかった。真正面からその瞳を覗き込んだ人の魂は、まず、形ある世には戻られぬ。獣の爪が己の身体に食い込み、赤く、熱く迸る己の血飛沫を見、活きた肉から上る、湿った蒸気が、ほうと顔に吹きかかり、彼の冴えた牙が、深々と胸に突き刺さり、腑が引き裂かれ、遂には、冷えた肉塊へと成り果てるまで、その人は獣の瞳から目を逸らすことができない。魅入られた魂は永遠に、金色に焦がれ、狂おしく、彷徨い続けるのだ。
金色の獣は、彼の目指す頂によってのみ、その命を落とす。
頂の獣、それは時に凶暴な、猛り狂った巨人であり、時に冷たく、残酷極まりない、深淵な氷河の割れ目である。頂の獣は大地すべてを震わす雄叫びをあげて、怒気漲る腕で、相手を殴りつける。そうして叩きつけた相手を断じて許すことはなく、彼は徹底的に、その身体を押し潰し、すべてを打ち砕く。
彼もまた、凄まじく、美しい。
金色の獣はふと天を仰ぎ、高く、長く吠えた。その声は連峰中にこだました。
頂の獣、白銀の巨人は、低い唸り声をあげた。
ひりつくような凍て風が蒼い毛並みを撫でた。
火のクニの詩(六)霊峰の獣