火のクニの詩(四)都参り
『都参り』
ここは古のカラスが飛ぶ森。もう里の人間が忘れてしまった古い時代のカラスが、今も好き好きに飛び交っている。深い森林と決して晴れることのない霧に包まれたそこは、さる王族の墓とも、黄泉へと続く大穴の在り処とも言われていた。
そんな森から最も近く、都より遠く離れたさるムラに、甚だ好奇心の強い一人の若者が住んでいた。若者はムラでの暮らしにすっかり飽きていて、ある日、伝承のカラスに会おうと、古の森へ発つことを決意した。
ムラの人々は散々に彼を引きとめたが、若者は頑として聞かなかった。彼には知恵も力もあり、何より、彼は森が自分を拒むはずがないと、絶対の自信を持っていた。
若者は自らの血肉で持って拓いてきた土地を、心の底から敬い、信じきっていた。あまりにも強く信頼するがために、語る若者の目は輝き、やがてどんな明かりをも、太陽の明かりすらも、反射するようになってしまっていた。
ムラ人たちは結局、彼の説得を諦め、若者は森へと旅立つこととなった。せめて森の畏き霊に失礼のないよう、ムラ人たちは土地に古くから伝わる一等いい上下と太刀とを、彼に餞別として施した。
若者は森にて、やはり霧に惑うた。
森に住む獣は数多く、また来し方の知れぬ様々な物の怪が、昼夜問わず跋扈していた。若者は太刀をふるって三日三晩を彷徨ったが、やがて力尽きて、大きな杉の根元に蹲った。
そうして疲れ果てた若者が半ば眠りこけていると、そのうちどこからか、男とも女ともつかない、奇怪な声が聞こえてきた。
「そこのお方、立派なお侍さま」
若者は声を聞いて、弱り切った心身を奮い立たせて太刀の柄に手をかけた。だが、見渡してみても、声の主の姿はどこにも見られなかった。
「何の用だ」
若者は虚空へ向かって問いかけた。
物の怪はそれに対し、畏まった様子で答えを述べた。
「不躾けな訪問をどうかお許しくださいませ。私はさる大臣の使いで、この先の墓所に眠っている者です。あなたさまのお召しになっている都の装束があまりにも懐かしく、つい参上致した次第でございます」
若者は物の怪が自分の着物を「都の装束」と呼んだのを訝しんだが、あえて何も言わなかった。下手に答えて、自分が士族ではないと悟られるのは危険だと考えた。
物の怪は続けて、こう言った。
「あなたさまは王の元へ参ったのでしょう? よろしければ、私が案内いたします。どうぞ上をご覧になってください。そこに、私がいますので」
見ると若者の上の空を、一羽の小ぶりなカラスが旋回していた。しなやかな、青みがかった黒い翼を持ったカラスで、緩やかな速度で曇天を回り続けている。若者はそれを見ながら、光る目を悲しげに細くした。
「ああ……お前は、古のカラスであったか。ならば、招待はありがたいが、俺はお前の主の元へは辿り着けそうもない。もう動けないのだ」
「どうぞご心配なく。楽な道を存じております」
若者は躊躇った。誘いを受けるには、彼はあまりにも疲れ過ぎていた。これ以上森の奥まで立ち入れば、足も太刀も折れて、ムラへは帰れなくなるかもしれぬ。
だが若者は、古いカラスの示す道の先を、見ずにはいられなかった。何か強い力が、彼の魂を激しく掻き乱し、揺さぶっているようだった。
「わかった、行こう」
若者の返事を聞くなり、カラスは木の陰に姿を消した。
それから間もなくして、立ち込める霧の中から、高貴な身なりの坊主が静々とした足取りで歩んで来た。坊主は若者の前までやって来ると、
「参りましょう」
と手を揃え、厳かに出発を促した。艶めかしい中性的な笑みが、その顔にうっすらと浮かんでいた。
森は深くなるにつれて、次第に暗さを増していった。若者は時々暗闇の中で何かが蠢いているのを感じたが、息を殺して、それらを見ないよう注意した。
途中、太刀が青白く光り出した。横目でわかるほどに刀身が鞘を透けて輝いており、遂にたまらなくなった若者が目を落とすと、鞘の切っ先に、小さな鬼が付いているのが見えた。鬼は若者と目が合うと、血走った大きな眼をひん剥き、凄まじい金切声を上げて走り去っていった。
やがて地面が湿り始め、ぬかるんできた。どこかに沢が走っているらしく、滔々と水音が聞こえていた。
ぴちゃぴちゃと微かな音を立てて、何かが若者の足元を駆けずり回っていた。若者は一度視線を落としたが、それらが緑色の鼠のように見えたということしかわからなかった。
坊主の辿る道は山道とは思えないほどに、平坦な道だった。わずかに傾斜してはいるものの、路上には岩も礫もなく、細々とした道は延々と、鬱蒼とした木々の中を深々と貫いていた。
霧はいつの間にか薄くなり、代わりに、濃密な宵の闇が辺りを包みこんでいった。
ほどなくして、道の先に、血の如き赤い明かりを灯した大きな寺院の門と、そこへと続く、急な石階段が現れた。
よく見れば階段の両脇には、坊主と同じ服を着た石像がたくさん並んでいた。それらの像の手にはそれぞれ、火の点いた小さな手燭が握られていた。
案内人の坊主は階段の前で若者の方へ振り返ると、うやうやしく一礼した。そうして最後に一度だけ、相手の目を盗むように覗き込み、瞬く間に、霞となって消え失せた。
そして若者の周囲には、何もいなくなった。
否、おびただしい数の化生の気配は漂っていたが、それらは張り巡らされた強い妖しげな磁場の下、どこかに抑えられているようだった。
残された若者は恐れながらも、寺院を仰ぎ見た。そこには自分が知っていると思っていた世界とは完全に異なった世界が、重く、粛然と鎮められていた。
鬼神の彫像が二体、門の両側に備えられた格子の向こうに立っている。それらは薄明かりの中に錆びた巨体を晒しながら、微動だにしなかった。
若者は視線を足元に落とし、そっと石段の一段目へと足を掛けた。そして重い身体をじっくり持ち上げて、山門へと向かっていった。
汗と泥で汚れた若者の姿を、傍らの風化した坊主の像が虚ろに眺めている。
若者は鬼神像を行き過ぎて、門をくぐり、そこで、足を止めた。
そこには天も底も見えない、厖大な暗闇が広がっていた。
すべてが、漆黒の中へと流れ込んでいくようだった。その渦の中を、あの坊主が変化していたのと同じ姿の、小さなカラスが飛び交っていた。よくは見えないが、彼らは何かを啄んでいる様子だであった。
カラスたちから抜け落ちた羽根はそのまま闇へと溶けて、いつの間にか、カラス自体も闇の清流へと消えていった。同時に、流れの淀みから、カラスは次々と生まれ出ていた。
若者は動揺した。かろうじて足元の地面だけが、己の所在を伝えてくれているのだと信じようとしていた。彼は冷たい汗を流しながら、一歩退いて、後ろを振り向いた。
だが、そこには、ずっと下まで続く、遥かな石階段だけが延々と伸びていた。
階段の脇を埋め尽くす坊主とその火ばかりが変わらず、ちらちらと危うげに揺れ続けている。彼らは森も大地も呑みこみ、どこまでも果てしなく闇を埋め尽くしていた。
若者はその場に座り込み、途方に暮れた。
じわじわと暗闇が、若者の周囲を浸食しつつあった。それは霧よりも、夜よりも圧倒的な力で、確実に、光を蝕み、押し寄せてきた。若者は我が身が黒に包まれる最後に、カラスらの啄むものへと、目を凝らした。
ああ、と、闇の中で若者は呟いた。
それは、「王」だった。
カラス共の主たる王の昏い眼は、その時、同じように若者を映していた。
そして若者はその瞳の奥に、古に刻まれた時を見出した。
遠い遠い時代、太古代よりも遥か以前、この地には、王と臣下らの都があった。
王は初め一人ですべてを統べていたが、やがて沸き立つ混沌より王子が産まれ、その領地を彼らに分け与えることとした。
音を貰うもの。
影を貰うもの。
生を貰うもの。
無を貰うもの。
たくさんの王子がいた中で、ある王子は、光を頂いた。
光の王子の育んだ国は、豊かだった。
光は彼の国の隅々にまで満ち、その子らは、王子のもたらす光をこよなく愛した。彼らの子らもまた、父らと同じぐらい、あるいはもっと深く、光を愛した。
そして国の土地には、数多の光の子らが芽吹いた。
子らは光を食べて営み、光の下で紡がれる彼らの生は、鮮烈で、並ぶものなく美しかった。
王子は己の国に大層満足し、そこに暮らすことを決めた。
王子は子らとなることは出来なかったが、彼らの中を飛び交う一条の光として、己の国の中に在り続けた。
若者は、初めて知った。
なぜ、あのカラスが自分を迎え入れたのか。己の着物がなぜ「都の装束」と呼ばれたのか。自分たちの正体は、最初から、王家の使いにはわかっていたのだ。自分たちは、光の都の、光の子であったのだ。
ひたひたに満ちた暗闇の中で、若者はムラに残してきた畑を思った。
陽光に照らされた朝の水田をうっとりと思い出し、さらに、夕暮れの木漏れ日が差し込む、自らの家の土間を思った。行き交う子供たちや、女たち。仕事を終えた、仲間たち。竈から吹き上がる湯気。沢をキラキラと跳ねる、たくさんの白い光の粒。
その傍らにはいつも、闇があったことを若者は思った。
それは時に仄かな闇であり、時に深い闇であり、いつでも、どこにでも、様々な色合いの闇が光の傍らに存在していた。
闇は光の、慈しみ深き父であった。
若者は悟り、すべての根源たる混沌を、受け入れた。
瞬間、彼の全身は波打つように震え出し、闇はその振動に答えて、広く丸い波紋を一気に走らせた。
…………。
ここは古のカラスが飛ぶ森。もう里の人間が忘れてしまった古い時代のカラスが、今も好き好きに飛び交っている。深い森林と決して晴れることのない霧に包まれたそこは、さる王族の墓とも、黄泉へと続く大穴の在り処とも言われていた。
だが、男は知っていた。
暗闇の祭壇が、そこにあることを。
彼はあれから、長い旅路を終えてムラへと帰ってきた。そこで彼は何の変哲もない暮らしを続けながら、時々、目を瞑って祈っている。
穏やかな、光と闇にに満ちた日々。
淡々とした、だが鮮やかな陽光との営みが、今日も彼と、その子らを守っている。
火のクニの詩(四)都参り