火のクニの詩(三)鶴の里にて
鶴の里にて
朝日が差して、集落の屋根の雪が解けると、雨樋からの雪解け水がひたひたと地面を打った。
戸口から外に出た童は、一面真っ白に広がる雪原を目の当たりにした。彼は、母親を探すために出てきたのだった。いつもこの時刻は、家の敷地か、もしくは祖父母の小屋のどこかにいるはずだが、今朝はなぜか、どこにも母の気配が感じられなかった。
サクサクと少し解けた雪を踏んで、童は鏡のように平らな、鮮烈に輝く白い田に沿って歩いて行く。しばらくすると、不安に耐えかねてか、駆け足になった。
「おかあ!」
童の呼びかけは空しく山間にこだまする。
まき割りの仕事に出ていた隣家の男だけが、わずかに振り向いた。
「おかあ! どこ!」
童の問いに、答えはない。童は知らなかったが、彼の母は昨晩、鶴になって飛んで行ってしまったからだった。
童は母屋で寝ているはずの父に、この事態を知らせようかと悩んだ。教えたところで、あの牛のように怠惰な身体が何か目新しい動作をするとは思えなかったが、それでも、今の自分よりかは頼りになるかもしれないと考えた。
童は踵を返して、母屋へと向かった。
「おとう!」
そう叫んで走る童を、隣家の親父がだるそうな目つきで見やる。その目にはどこか、鬼火じみた暗い灯が揺れていた。
童は沈黙に閉ざされた祖父母の小屋の横を抜け、母屋へと戻ってきた。暗い土間は冷たく冷えて、あたかも、井戸の底に作られた見知らぬ家のようだった。
「おとう!」
呼びながら童は転がるようにして家へあがり、父の寝ている間へと走った。だが、呼びかけに返事はなく、童は結局、黙って父の部屋の引き戸に手をかけた。
そうして童は哀れにも、それを目の当たりにした。
暗闇に目が慣れるまで時間がかかった。表の雪の明るさが、余計に童をそうさせた。
「おとう……」
やっとのことで、童は目の前のものに向かって呟いた。
童が昨晩まで「おとう」と呼んでいたものは、一条の光も差さない暗闇の中で、身じろぎもしなかった。
横たわった分厚い肉塊は目だけを爛々と光らせ、童を見ていた。床に付着した大量の血液と汚物にまみれたその様子から、幼子は彼がもう尋常ではないことを瞬時に悟った。
童は恐れて怯え、しばらく息を呑んでその場に立ち尽くしていた。
その間に小さな雪崩れの音が聞こえて、軒から雪の落ちたことが知れる。
やがて童はおずおずと、それに近寄っていった。
そうして、おとうだった頬に、本当に近くまで寄った時、童はその乾いた唇が微かに震えるのを見た。聞こえはしなかったが、童は気を張って耳を澄ました。
「おとう、何?」
「……」
たちまちそれは身体をピンとのけ反らせて、こと切れた。
童は父親の身体が冷たくなっていくのを、ずっと傍らで見守っていた。元々ムラの人間は年中凍えていたが、それはいつもよりも、もっと冷たく、固くなっていった。
童は無性に悲しくなって、涙を流した。
涙の乾かぬまま、とぼとぼと屋外へ出ると、日はすでに高くまで昇っていた。
童は再びサクサクとむなしい音を立てて歩いて、歩いて、どこへ向かうとも知れず、道に沿って進んだ。その様子を隣家の親父が、先程と同じ目でぼんやりと眺めていた。
日の光も雪原も、森林も、親父も、童の行方を知らない。
彼はこのムラでまた生きていったのか、それとも去ったのか。あるいは道祖神に拾われて、虚ろへと帰ってしまったのかもしれない。
火のクニの詩(三)鶴の里にて