火のクニの詩(二)田の神
田の神
田んぼの底に静かに眠る泥と、その上の透き通った水。その水面を、足の長い軽そうな虫がスイと泳いでいく。そうして幾重にも広がった波紋は、まだ水を張ったばかりの水田に映り込んだ青空を、ゆらゆらと危うげに揺らした。
静けさと、鋭い日差しと、波の停止する瞬間が、ぴったりと重なっていく。そんな時、見る者はいつしかこの世ならぬ夢幻の狭間へと誘われている。そして田んぼの神サマはあなたの目の前に現れる。
「神サマ」という呼び名は、この辺りでの習わしである。あなたの属するムラでは昔から、このようなものに出会う人が少なからずいた。その人たちは代々それを「神サマ」と名付けて、存在を語り継いできた。
今、それを見た者は驚いて、目を見張った。彼の眼には、それは身なりのいい禅僧の姿に映っていた。
「神サマ」は日を背負い、目深に編み笠を被っている。その下からのぞく肌は透けるように白く、頬には、まだほんのりと幼さの残る赤みが差していた。真一文字に結ばれた紅色の唇は、梅花のように鮮やかで、妖しげだった。
男は水際にしゃがんだまま、向かいの畦に立つ神サマをじっと見つめていた。何気なく水面を見やると、そこに映っているはずの僧の姿は、どこにも見えなかった。ただ大きな入道雲と青空だけが、ひっそりと映り込んでいる。
遥かにそびえる山脈の周りを、鳶がのんびりと漂っていた。すぐ足元の水中では、黒いおたまじゃくしが、尾を小刻みに揺らして泳いでいく。
神サマがつと、顔を上げる。
同時に白蛇が、悠々と水面を横切っていく。
ふと男が我に返った時、彼は、元のままの田の傍にしゃがんでいた。
段々と騒がしくなっていく春風が彼と、森と、田を撫でていく。先程と全く同じ位置からまた、細い足の虫がスイと移動した。
男は家へ帰って、母と妹、それから生まれたばかりの弟に、このことを語った。今年は豊作だろうと、家の者はみな喜んだ。
語られ、継がれ、思われ。田の神は今日もどこかの日の下、畔の途中に、立っている。
田は、秋にはいっぱいの金色の稲穂に包まれた。
火のクニの詩(二)田の神