解池の龍

解池の龍

2015.4.8完結。
※暗いです
※捏造してます

1

 そよ風は、塩の味がした。
 広い池に沿って白の山脈が連なり、陽の光を浴びてはきらきらと瞬いている。まるで白銀の龍が臥せっているようだと、長生は思った。
「ここは、変わらないね」
横に佇む若い男が言った。齢十七、八といったところだろうか。髭の生え揃わぬ顔は、あどけなさを残している。黒く丸い目で、塩池を見つめていた。
「でもそう見えるだけで、本当はすっかり変わっているんだ」
「いきなり何をおっしゃいますか、旦那様」
長生は子供の頃からこの男に仕えているが、彼の言動にはいつも驚かされていた。
 青年は、朝廷から認められた塩業者の長子であった。先日父親が亡くなり、その後を継いだばかりである。
「君も、変わってしまうという事だよ。このまま田舎に籠もって終わる器じゃあない」
「捨て子の我を、大旦那様に拾って頂いた恩は一生忘れませぬ。大旦那様のご遺命通り、若旦那様を支えお護りする事こそが、我が喜びであります」
「それは本心かな?」
その時。一陣の突風が、二人の間を通り抜けていった。
「見たよ。君が密かに武術の鍛錬に明け暮れる姿を」
「それは旦那様の用心棒として当然の事」
「違う。君の武は僕を護る為にあるのではない」
 主人に断言されては、否定も肯定も出来ない。長生は押し黙ってしまった。
 そんな彼を見て、主人はからからと笑った。
「なにも遠慮する事は無いのだよ、長生。生まれた時から定められていた事だ。父上がよく、赤子の君を拾い上げた時の話をしていたろう。この目で見てみたかったなあ。そもそも僕はまだ生まれていないけれども」
またこの話かと、長生は苛立って主人を睨みつけた。伸ばしはじめた鬚が、風に揺れる。
「君が泣き声を上げると、日照りの続く村にたちまち雨が降った。龍神様は天に背いて、雨を降らしてくださったのだ。その龍神様の生まれ変わりが、君だ」
「そのような作り話を、信じてらっしゃるのですか?」
「いいや。でも、真実に変わる事もあろう。各地でじきに騒乱が起きる。その時、君は兵をまとめて天子様の為に剣を振るえばいい。君の武ならば、きっと出世の道を拓いていけるよ」
 主人の言う通り、世は乱れ始めていた。人々は貧困に苦しみ、奸臣どもは互いに争っている。帝の威光は色褪せ、落日の時が迫っていた。
 この時世に雄飛するは、長生のような名も無き男だろう。日の光を背に浴びる従者の姿を、青年は眩しげに見上げた。
「僕は君を、只の従者として見た事は一度もないよ。友のように、そして実の兄のように思ってきた。兵も馬も、僕が用意しよう。兄を支えぬ弟が何処に居ようか」
「おやめください。大旦那様亡き今、あなたを独りにする訳には参りません」
「僕のせいにして、己から逃げてはいけないよ」
 主人の諌めは、長生の本心を突いていた。
 諦めていた。所詮は卑しい身の上。この胸の内に滾る野心を見せて、愚か者と謗られるのが、長生には恐かった。
 しかし、主人だけは彼を真っ直ぐに見ていた。
「見てみたいな。大きな軍馬に跨って、多くの兵を従えて、君が堂々と凱旋する姿を。その時僕は叫ぶんだ。 “あれは長生だ。立派になったものだろう” ってね」
主人には、長生の未来の姿が目に見えるようだった。その鬚も今より豊かなものとなって、優雅に靡くのであろう。
 風は止み、水面の波が止まった。塩池は銅鏡よりも鮮やかに、空を映す。
 白と青の世界。移りゆく時の狭間に、二人だけが取り残されていた。
 しかし、長生は行かねばならない。
「お行きなさい」
 主人は、雲が長くたなびく空を指差した。

2

 それから程なくしての事だった。
 邸の前を囲む兵士達に、主人は訝りながら尋ねた。
「一体何事ですか?」
「そなたは塩を密売し、儲けた金で賊を養った。よって謀反の罪により引っ捕える」
役人は罪状を述べると、彼に縄をかけた。
「待ってください、誤解で御座います。正直に申し上げますと、塩を貧しい村人に分け与えた事は御座います。しかしそれは、私金から買い取らせて頂いたもの。お代はちゃんとお役人様にお支払いしております。決して、天子様の物である塩を密売はしておりません。ましてや賊と通じるなど、天に誓ってしておりません」
「ふん、言い訳は無用。連れて行け」
役人が片手を上げると、兵士達は主人を乱暴に引っ張っていった。
 その時、大男が行く手を阻んだ。
「旦那様を離せ。離さねば、ここで斬り捨てる」
男は偃月刀を地面に立て、眼前の兵士達を睨んだ。
「そのような立派な得物を携えて、将軍ごっこか? 戦に出たこともないくせに」
「笑わしてくれる。木偶の坊が」
兵士達はどっと笑い声を上げた。大男の眉は吊りあがり、目は血走る。握りしめた偃月刀の柄が、今にも折れそうだった。
「長生、やめなさい。ここで揉め事を起こしては、本当の罪人になってしまう。僕は何もやましい事はしていないのだから、身の潔白を証明してすぐ戻って来られる。だから、そこをどいてくれ」
主人は至極穏やかな口調で、目の前の男を諌めた。
 このまま見過ごせば、彼は冷たい独房に放り込まれる。棒で何度も叩かれて、その背には痛々しい傷が刻まれるであろう。体の強くない主人にとって、どれ程の苦痛か。
 悩む長生に、主人は言った。
「僕は逃げないよ」
その顔は、笑みを湛えていた。大丈夫だと、長生に言い聞かせるように。この様な状況で、どうして穏やかでいられるのか。長生には分からなかった。
 長生は渋々武器を捨て、降伏の意を示した。兵士達はすぐさま彼に縄をかける。
「お前も事情を知っておろう。全て吐くまで解放はせぬから、心しておけ」
「お役人様、長生は無関係です。どうか彼だけはお許しください」
主人は跪き、何度も頭を地に打ちつけて懇願した。
「駄目だ。二人とも連れて行け」
役人の一声で、主人と長生は牢獄へと連れて行かれた。

3

 どれ程の日が巡っただろうか。
 長生は横たわったまま、虚ろな目で格子の先を見つめた。隣の独房には、彼の主人が痛々しげな姿で項垂れている。
 打撲の痛みが、ゆっくりと全身を蝕んでいく。空腹と喉の渇きは限界にまで達し、彼は立ち上がる気力さえ湧かなかった。
 役人達は、主人や長生の主張に耳を貸さなかった。罪を認めない限り、この地獄は続くのだろう。しかし認める事は、不名誉の死を意味していた。
「すまない」
主人がぽつりと呟き、すすり泣いた。
 主人の泣き顔を見たのは、長生にとって初めての事だった。父の死にさえ涙を見せなかったのに。
「獄卒は僕を哀れんで言ったんだ。“可哀想に。お前は呂熊に嵌められたんだ” と」
呂熊は地主であった。土地代で儲けるばかりか、高い利子で金を貸すなど手広く商売をし、私腹を肥やしていた。彼はよく賄いを要求してきた。だが、長生の主人は頑なに渡さなかった。
「呂熊が根回しして、僕達を牢獄に追いやったんだ。あいつは遂に僕の邸も、財も、塩池も、みんな自分のものにしてしまった。塩を密売しているが、お役人様は見て見ぬ振りをしているらしい。父上から、あいつの機嫌を損ねてはいけないと言われていたけれど、僕は屈したくなかった」
爪を剥がされた手で、主人は涙を拭った。
「だって、おかしいじゃないか。貧しい民は腹を空かせて痩せ細っているのに、あいつだけが腹に贅肉を溜め込んでいるなんて。あいつに贈る金があるなら、僕はその金で飢えた民に腹一杯食わせてやりたい」
そう、世の中はおかしい。良民は虐げられ、悪人だけが良い思いをする。若くて純粋な主人は、世の不条理を黙って受け入れられる程大人ではなかった。
「悔しいよ。君まで巻き込んでしまって。祖先に顔向けなどできやしない」
「旦那様は正しい事をしたのです。何を恥ず事がありましょう。旦那様と共に死ねるのであれば、本望です」
「逝くなら、独りで逝くさ」
主人は、天井の隙間から覗く空を仰ぎ見た。淡い雲が一筋、流れていく。
 何処からか、鳥の羽ばたきが聞こえた。
 大きな影が過ぎったかと思うと、天から羽根が一枚、ひらと主人の足元に舞い降りた。
「長生、僕の最期の頼みを聞いてくれないか?」

********

 半刻程した後、獄卒がやって来て主人に言った。
「呂殿がお前を引き取りたいそうだ。さあ、出ろ」
 いよいよ死ぬのだなと、主人は思った。呂熊は直接手を下す為、彼を引き取りに来たのだ。
「やめろ! あいつに旦那様を渡すな」
長生にも、主人の釈放が何を意味するのか分かっていた。血相を変えて、獄卒に吼えつく。
しかし、格子に囲まれ両腕を縄で縛られている長生には、どうする事も出来なかった。
「旦那様!」
去りゆく背中に、長生は叫び続けた。痛みが走っても構わずに、何度も格子に身体を打ち付ける。格子は揺れはするが、いくら長生でも壊す事は出来なかった。
 主人は一度も振り返らなかった。長生の顔を見れば、別れが悲しくなるからだ。

 龍の化身よ。君は乱世を翔けるのだ。
 主人はそう願いながら、最期へと続く道を見据えた。

4

 長生にも、最期の時が訪れた。
「おい、一人で大丈夫か? 手伝おうか」
彼を外へと連れて行く獄卒に、同僚が声をかけた。
「心配ない。こいつは図体がでかいだけの役立たずさ。それに、すっかり弱っている。ほら、虫の息だ」
獄卒は長生を見上げて笑った。長生は彼の言葉に怒りもせず、ただ力なく項垂れるばかり。この様子では子どもでもこいつを始末出来るだろうと、同僚も納得して見送った。
 ひとけの無い雑木林の前で、長生は地面に膝をついた。眼前には赤黒い染みの残る大きな石。そこに無理やり頭を寝かされた。今までにもここで、表沙汰には出来ない処刑が行われて来たのだろう。血生臭い匂いが、鼻にこびりつく。
 刃物の切っ先が、彼のうなじに当てられた。
 空には暗雲がたち込め、ごろごろと不機嫌そうに喉を鳴らす。木々は怯えてざわめいた。雨が降る前にさっさと終わらせよう。そんな事を思いながら、獄卒は剣を振り上げた。
 長生は目を閉じて、もう居ない主人を思う。
 旦那様と共に、楽しい夢を見ました。
 この微睡みの中で、共に眠りとう御座います。

 オ行キナサイ。
 オ生キナサイ。

 声が聞こえて、長生は開眼した。
 その時だった。目前の木に、稲妻が落ちた。木は真っ二つに裂け、大地を揺るがす轟音が響く。獄卒は驚いて、剣を地面に落としてしまった。
 今だ。長生は獄卒を突き飛ばす。よろめく隙に縛られたままの手で剣を拾うと、彼の胸に突き刺した。
 獄卒は唸りながら斃れた。雷鳴が消え去らぬ内に起こった、一瞬の出来事であった。
 人を殺めたのは、これが初めてだった。
 糸がふつりと切れた感覚に戸惑いながら、長生は血の滴る剣を見つめた。
 もう、後戻りは出来ない。
 ならば、行けるところまで行こう。

 天から、雨が降り注いだ。暖かな雨で、心地が良い。
 長生は己を縛る縄を剣で斬ると、ある場所を目指した。
 どうしても、討たねばならぬ者がいた。

********

 呂熊は、己の邸で寛いでいた。妾の柔らかな太腿の上に頭を乗せ、ぼんやりと外を眺める。急に降り出した季節外れの雨を、鬱陶しく思った。
 表が騒がしくなり、どうしたのだろうと、呂熊は気怠げに起き上がった。
 きゃあ。妾は突如叫んで呂熊にしがみついた。是非もない。血まみれになった大男が、剣を片手に入ってきたのだから。
「呂熊よ、旦那様は何処か」
大男は這いずるような声で吼えた。男の顔に見覚えがあった呂熊は、はっと息を呑んだ。
「お前まさか、あの小僧の用心棒か?」
馬鹿な。始末を頼んだ筈なのに。手先の震えが止まらない。
「お、お前の主人はもう屠って捨てたよ。ほら、池の近くに川があるだろう、骸はあそこに捨てた」
「捨てただと?」
大男はくわと血走った目を見開き、呂熊の襟を掴んで引き寄せる。隣にいた妾は、甲高い悲鳴をあげて逃げていった。
「ケダモノめ! お前だけは決して許して置けぬ。死して後も、地獄で苦しむがいい」
「何を偉そうに、ケダモノはお前の方だろう。長生といったか。親の居ぬお前は、狗も同然よ」
呂熊は怯えながらも長生を蔑んだ目で睨んだ。彼にとっては、長生など親が付けた名さえも持たぬ獣に過ぎないのだ。
「長生は死んだ」
彼は、呂熊の喉元に剣の切っ先を当てた。
「我が名は関羽(GuanYu)。字を雲長(YunChang)。憶えておけ、お前を屠ったのはこの名だと」
「その名は」呂熊は言いかけたが、剣がその喉を抉ったので、それ以上言葉を続ける事は能わなかった。

5

“僕の最期の頼みを聞いてくれないか?”

 降りしきる雨の中、関羽は川に入って主人を探した。雨で増水した川の水位は、彼の胸にまで達していた。濁流に何度も足を取られそうになりながら、関羽は水中を手探った。
「旦那様」
主人を呼ぶ声は、雨音に掻き消されてしまう。川の流れは激しさを増し、関羽はとうとう岩にしがみついたまま動けなくなってしまった。この早い流れでは、主人の骸は既に遠くへと流されてしまっただろう。
 足を滑らせながらやっとの事で岸に上がった関羽は、仰向けに倒れた。
 亡骸を、弔う事さえ出来ぬのか。彼は悔しさに顔を歪ませた。
 横を向けば霧の向こうに塩の山脈。真っ白だった筈の塩は、泥水を吸ってどす黒く穢れていた。色褪せた、つまらない世界。
 あの日旦那様と眺めた世界は、何色だったか。もう思い出せない。

 変わらぬと思っていた世界も、すっかり変わってしまいましたね。
 我はあなたを喪い、変わってしまいました。
 ですが、変わらぬものも御座います。
 あなたは、我と共に永遠に生き続けるのです。

“僕の名を、名乗ってくれ。君は家族も同然。僕の代わりに、関の姓を守り伝えていって欲しい。せめてこの名だけでも、僕の居ない未来に連れて行ってはくれないか”

 御意。
 あなたの名を、天下に轟かせてみせます。
 百年先も、千年先も、この名は燦然と輝き続けるでしょう。
 関羽は立ち上がると、天に叫んだ。
「天よ、よく聞け! 我こそは関羽。今に見ておれ。その高みへ、昇りつめてやるぞ」
それに呼応するかのように、大きな稲光が、空を焼いた。


********

 数年後。
 彼の世界に、色が戻った。
 白い月の抜け殻は、亡霊のように空に浮かんでいた。花びらが舞い上がり、薄紅の雨が降り注ぐ。
 甘いそよ風に誘われ、蜜蜂がぶんぶんと飛び回っていた。それを払いのけながら、関羽は馬を進める。
 手には偃月刀。豊かな鬚は日の下に輝いた。纏う鎧は粗末で、従う兵も少ないが、その威厳はまるで一国の大将のようだ。
 前方には義兄弟(きょうだい)の背中が見える。同じ時に死のうと誓い、大いなる志を立てた。
 見送る人々の歓声は、地を震わせる程に大きかった。必ずや期待に応えてみせよう。関羽は小さく頷いた。

“あれは長生だ。立派になったものだろう”

 懐かしいあの声。
 関羽は驚いて振り向くが、そこには桃の木が一本、佇んでいるだけであった。

「おぅい、兄貴」
遠くで張飛が、彼を呼ぶ。
「行きましょう」
劉備が、微笑みかけた。
 これから、彼等と共に生きていく。そう決めたのだ。
 関羽は桃の木を一瞥すると、前を向いて歩み出した。

 行って参ります。

解池の龍

故郷を追われた関羽はならず者で、その名はとっさに付けた偽名という話もあります。
そこから妄想して、「関羽」という名に、意味を持たせようとしました。
その為、もうひとりの「関羽」を登場させました。

「解池の龍神伝説」
「悪徳商人呂熊を義憤に駆られて斬った」
という逸話も参考にしました。

※歴史を考察する目的で作られた話ではありません。
 史実の人物とは一切関係ありません。

解池の龍

故郷から出奔した関羽。 故郷で何があったのかを、捏造してみました。 作中で関羽は「長生」と呼ばれています。 ※注意※ 暗いです。 オリジナルキャラクターが出てきます。長生の主人。

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2015-03-27

Derivative work
二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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