僕の頭の中のクジラ
いつの頃からかははっきりとは分らない。僕は僕の頭の中でマッコウクジラを飼い始めた。
夜、寝ている間にそのクジラは漆黒の闇が支配する深海千メートルまで潜り、巨大なダイオウイカを何匹も捕食し、その巨大な体躯を維持するために食い尽くす。
僕は目覚めると、そのダイオウイカが胃の中で消化されずに残っていたりする感触を味わうのだ。
しかし、時が経つにつれて、全長二十メートル、体重五十トンのその身体がいとおしく思えてくるから不思議だ。
現実には、その巨体を飼うことなど不可能に違いないけれど、夢の中では、そいつを飼いならし、まるで僕の一部のように扱うことなどなんら不可能なことではない。
それよりもあの青く透明な大海原を自由に泳ぎ回るその姿こそが、この地球(ほし)の孤独を象徴しているように思えてならない。
この銀河系と言う宇宙に我々人類は全くの孤独なのかもしれないという思いは日々募るばかりだ。
真空の中の絶対的な孤独を僕は頭の中に飼っている。マッコウクジラという姿を介して僕は僕の孤独に埋没する。
「何考えてるの……?」
ユミは相変わらず勃起しない僕のペニスを舐め続けている。
「孤独だよ、絶対零度の孤独……」
「あはは、何それ、あなたの売れない小説の題名かなにか?」
「深海に潜ってゆくマッコウクジラの気持ちさ」
「そんな余計なこと考えてるからここいつまでたってもフニャフニャなんだね」
ユミはそう言うと諦めたように服を着始めた。
「マッコウクジラってさ五年に一度しか出産しないんだってさ」
「あなたと同じじゃない、半年に一度しか勃起しないくせに」
捨て台詞とともにユミは出ていった。確か臨床検査技師養成の専門学校に行ってるって言ってたっけ・・・。
千メートルの真っ暗な深海で今日も僕の頭の中でマッコウクジラは、食うか食われるかのダイオウイカと生死を賭けた戦いに明け暮れていた。
その巨大な頭部はダイオウイカの反撃に合い、ズタズタに引き裂かれ、幾筋もの深い傷跡に覆われていた。
僕はその孤独な戦いの行く末を、巨大な頭部とは裏腹な余りにも小さな眼球で見続けていた。マッコウクジラの瞳には、この地球(ほし)
の未来永劫の姿がくっきりと刻み込まれていた。
深夜のコンビニのバイトが終わり、八月の生温い風の中を自転車をこぐ。
二十六時の人気のない街で、自分の吐く息だけが追いかけてくる。
時折タクシーのヘッドライトが顔面を殴る。眠りたい、どうせ、すぐには寝付けないくせに、頭の中を睡眠への欲求だけが空回りする。
結局、いつものように、ポツンとそこだけが僕を手招きしてるように、ガストの灯りの点った駐車場に自転車を置き、自動ドアをくぐる。
薄暗い店内、今日はカップルが多い。やけに静かだ。
音のないスクリーンではマトリックスが場違いの派手なアクションの最中だった。
案内を待たず、いつもの席を目指す。
喫煙者は都会のゴミのように片隅に追いやられる運命だ。
しばらくして、いつもの女の子が僕の席にやってきた。
「ご注文はお済みですか?」
見上げるとかた通りの愛想笑いを無理に作り、僕の返事を待つ。
「コーヒーとそれから……」
「……それからいつものやつね」
「そう、いつものね」
去ってゆく彼女の後ろ姿は疲れた老婆のように哀しげだ。
同じ日常を、繰り返すのは簡単でしかも安全だ。
大学を出ても就職もせず、ブラブラしている僕に
両親は、とっくに愛想をつかした。
できのいい息子だったはずなのにね、でもね、
平凡な公務員の父とそれに輪をかけた凡人の専業主婦の母親の間にできた一人息子なんて、
その他大勢の中の一人でしかないんだよ。
僕もついさっきまで錯覚してたけれどね、自分は選ばれた人間であって、その他大勢の中の一人なんかじゃないんだって。
大衆と呼ばれるブタには絶対染まらない。迎合なんかするものか……。
自分の才能は、必ず何かを僕にもたらしてくれるはずだ。
僕の黄金の心は、何ものにも染まらない。
小説を書いてはあらゆる賞という賞に応募した。
結果は全て落選、僕は中学の現国の先生を恨んだ。
先生、君は他の生徒とはどこか違うねえ、文才あるよ、作文中々良く書けてる。小説でも書いてみたらどうかな。
なんて簡単に煽てに乗って大学も文学部選んで、学生時代に書いた処女作はどっかの出版社の新人文学賞に輝き、
二作目でとびっきりの純文学書いて芥川賞、五作目辺りで直木賞なんて青写真描いてたっていうのに、今はこのザマです。
先が見えた人生ほどつまらないものはない。二十五で僕はすでに屍だ。
リーマンの悲哀は父の背中で十分だ。6畳一間1DKが今の僕の総てだよ、親父。
なんとか生きてるし、これからもなんとか生きてゆくさ。
少なくともこんな時間にここにいる人々の中では、僕も劣等感を抱かずに、安堵のため息すら隠す必要などない。
居心地がいい。誰もかれもがここでは、平等なのだ。
言葉を交わす必要などない、この今日と明日の狭間で共有する空間だけが真実だ。
みんな無言で繋がっていることを、確認している。
孤独は友人だけれど、独りじゃあまりにも哀しく、虚しい。
一年先も分からない混沌の中で僕らはもがいている。周りには何もかもが横たわっているけれど、欲しいものは決して手にいれることはできない。
転がっているのは、効かない薬ばかり。お座なりの愛もここでは真実だ。
誰も本物など求めていない。朝を迎えるまでの数時間、それだけでいい。
ここにいる全ての人の安息の地、そして約束の場所……。
僕の頭の中のクジラ